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さわやかな日々にがんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。 11/26/2009 心の断片220「手榴弾」 「手榴弾」 あの日 校庭に埋めた手榴弾は どこへいったのだろう 土を蹴って追い払った猫は どこへいったのだろう 見せ物小屋の美少女 静かに狂った青年は どこへいったのだろう 毒々しい煙を吐いた煙突 講堂の屋根瓦 水たまりに浮かぶ虹色は どこへいったのだろう あの日 資材置き場の迷路で眺めた雲 みんなみんな どこへいってしまったのだろう ★ホームページに戻る 11/23/2009 恐怖シリーズ147「滅び」 腹が減るから食い物をあさる。食い物をあさるのは時間の不経済だから、あさらなくてもよいように保存を試みる。食い物を保存しておくと味が落ちるから、味付けを試みる。味付けをすると食べ物の差別化が生じるから、交換をして好みを満足させることを試みる。好みが満足させられると偏食が起こるから、さらによりよい食べ方を試みたり、よりよい食べ物をさがしてあさったりする。 寂しいから相手をさがす。相手をさがすのは時間の不経済だから、さがさなくてもよいようにコミュニケーションをとって関係を広げてつながりをつけておく。関係に進展がないまま時が経つと魅力が薄らいでくるから、適度にお金や物や言葉や真心を投げかける。投げかけるとさまざまな反応が返ってくるから、よりよき反応をした相手を選んで一歩踏み込んだ関係を築き上げる。その相手との人間関係にのめり込むと世界が狭くなるから、さらによりよい付き合い方を工夫したり、よりよい相手を探したりする。 不都合があるから都合のよい理解の仕方を考える。その都度一つ一つ考えるのは時間の不経済だから、そうしなくてもよいように情報を記録として積み重ねておき、適当なときに検索できるようにしておく。情報を放置したままにしておくと死蔵することになるから、適度に検索をかけて情報をスタンバイさせる。スタンバイさせている間にさまざまな趣旨に基づいて情報を組み合わせたり、交換したりしながら、よりよい扱い方をし、都合のよい理解の仕方を試みる。その理解の仕方で新しい発想を得られるようになるとほかのものが見えなくなったり、合わないものを無視したりする不都合が生まれるから、さらによりよい理解の仕方を考えたり、よりよい情報を求めたりする。 こうしたワンパターンを愚直に守って歩んできた者にもいつか必ずスランプは訪れる。しかし、どのようなスランプであっても、最後には世代交代という自然の摂理によって強制的に解消されていく。しかし、個人においては解消される問題であっても、ヒトの社会においてはそうはならない。ことばを得て記録手段をもったヒトの社会は長い年月生きている生命体に似ているからだ。 ヒトの歩みを眺めてみると、青年期をこえて既に壮年期に入っている感がある。血の気の多い時代から、問題を抱えながらもやや大人になってきたヒトの姿が浮かび上がってくる。しかし、いつまでも壮年期であり続けることはできない。段階をふんで新しいステージに立たされることは間違いない。己の中で滅んでいくものに向き合っていく時期だ。もちろん、その先には種の滅びという虚無の壁がある。いつかはヒトもこの世の中で用済みになるときがくる。もちろん、人の一定数以上がこの星から出てしまえば、それは新しい世の中の出現を意味する。この星から出たヒトの場合は用済みどころかその逆になる。 一方、この地球にへばりついて生きていくしかないヒトの場合はどのようなことがいえるだろうか。用済みになって滅んでしまう前に、新型爆弾で自らを滅ぼすことが可能だ。そうした自殺手段を持っているということは、ヒトが己の運命を自ら決定することができる自立した生命体として成長したという見方もできないわけではない。 しかし、自滅する以外にヒトとして何をなせばよいのだろう。人としてなすことはたくさんある。ありすぎて寿命が足りないほどだ。しかし、ヒトとしては何をなせばよいのだろう。最初に述べた地道な繰り返し、繰り返すことに意味のある、自己目的化した生命活動しかないのだろうか。 結局のところ、他の動物同様、ヒトは壁に突きあたったときに自己崩壊するしか脳のない生き物なのだろうか。もしかすると現代人の総体が紆余曲折の千鳥足であるのは、突きあたって自己崩壊することを回避するための最後の手段、牛歩戦術を本能的にとっているということなのだろうか。 絶滅種がどのように滅んだか、絶滅危惧種がどのように滅びから逃れようと抵抗しているのか。ヒトには当てはまらないかもしれないが、参考にはなる。仮にヒトが滅んだとしても、また、ついでに地球上の全生物が滅んだとしても、それがヒトの本来の役割なのかもしれない。やはり僕たちヒト自身が、この星の生命活動に滅びもたらす仕組みの一つなのだろうか。確かに準備は整っている。究極の繁栄が達成されたとき、そのスイッチが入るというわけだ。 しかし、それは新たな出発を意味するだけのことなのかもしれない。たとえ新たな出発が起こらなかったとしても、それは元に戻ったというだけの話で、この星から生命活動が一切なくなったとしても、よく考えてみればどうということはない。 このように、最近は滅びというものを心の奥底で受け入れてしまっているような気がする。これはとても恐ろしいことだ。もしかしたら年をとってきたことと関係があるのかもしれない。 ★ホームページに戻る 変な疑問110「ヒル」 ヒルという生き物がいる。ずいぶんと嫌われている。音を立てずに忍び寄るからだ。血を吸うからだ。そしてなかなか離れないからだ。しかし、何より見た目だ。 音を立てないのは仕方ない。音を立てたら獲物が逃げてしまうからだ。もしギチギチと凶悪な鳴き声をあげながら襲ってこようものなら、絶滅させる勢いで人間がヒル狩りに立ち上がるに違いない。ヒルが自己防衛のためにおとなしく黙っているのだと考えるのがヒルに対する相当の対応だと思う。 血を吸うのも仕方ない。人間はどうか。血を飲むだけにとどめて相手を生かしておくなどという慈悲など持ち合わせていないではないか。殺さないのは乳を搾取するウシやヤギぐらいだろう。さまざまな生き物の皮を剥ぎ、肉を切り裂き、骨を断ち、内臓を切り刻むではないか。塩をすり込み火で焼くに至っては悪魔の所業にも劣らない。そうした生き物が血だけ吸って生きているヒルのことをとやかく言うのはおかしいではないか。 なかなか離れないのも仕方ない。いつ食事ができるかわからないのだ。簡単に退散する余裕などないのだ。文字どおり命がかかっている必死の生き様が人間の目にどのように映ろうと、ヒルはお感じないかもしれないが、この必死の生き様を非難する資格を誰が持っているというのか。 見た目も仕方ない。人間に好まれようと生まれたわけではない。必要に応じて設計変更を余儀なくされ、姿が変化してきた末路だ。いや、時の流れの傑作だ。生き物はすべてそうだ。人間はこうした自然の営みまでをも否定しようというのだろうか。ハンサムなヒルや不細工なヒルというのもおかしいが、そうしたレベルではなく、ヒルであるという存在のレベルで否定されるのでは、この世に生を受けた者、親を受け継いだ生き物としては身も蓋もないではないか。 もちろん、山でヒルに出会ったら踏みつぶし、血を吸っていたらライターで炙る。それは自然な対決行為だ。しかし、それはそれとして、生きている者同士、その意味で戦友だ。ヒルの方に心がなければ、対決しながらも人間の方で思いやりの心をもつべきだと思うのだ。思いやりで語弊があるなら、尊敬だ。同じ星で同じ時代を生きる者同士が、励まし合ったり尊敬し合ったりするということは、そんなにおかしいことではないだろう。 かつて蛭医者という人々が蛭を使って医療行為を行っていた時代がある。血が止まらなくなるのを利用した医療行為だが、彼らはヘパリンのようなものを出して吸血の役に立てているらしい。ヘパリンといえば広辞苑第三版を思い出すが、広辞苑第三版どおりの説明ならば、ヒルは血を吸うことが不可能となり、絶滅どころか最初から存在しない生き物だったことになる。 とにかく医療にも役立つ生き物なのだから、もう少し見直すべきだと思う。しかし、ペットにしようとは思わない。生理的にやはり気持ち悪いからだ。ペットは基本的には毛がふさふさしていなくてはならない。その毛を撫でていると血圧が下がるという話もある。逆にぬるぬるしたヒルが取り付くと血圧はあがるかもしれない。では、低血圧の治療に役立つかもしれない。まさか。 このように、ヒルの立場に立てば人間の不当な扱いを非難することができるが、冷静に考えて人間の立場に立つと、とても戦友だなんて思えない。敵そのものだ。それは、最も残忍な捕食者である人間のプライドをこっそり傷つけていくからかもしれない。 献血車で400ミリリットルも血を提供するのだから、血を取られること自体にそんなに抵抗があるわけではない。やはりあの見た目がいけない。もし、ティンカーベルみたいな小さな女の子がすてきな笑顔でやってきて、ウインクしながら「吸ってもいいかしら。ウフフッ。」と甘えたら、きっと「いいよ。明日も来てね。」と答えるに違いない。たとえかまれて痛くてもだ。 ヒルの見た目をもっとよいものにできないものだろうか。毛を増やしても毛虫に近くなるだけだ。やはり足や尻尾がなくてはいけないだろう。義足や義眼は何とかならないか。かわいい声で鳴くことができればさらによい。そうだ。日本のロボット技術でヒルを救ってやろう。手のひらサイズの手乗りタイプがよいだろう。見目麗しく……。ヒル……。ヒルコ。蛭子。神話では、骨すらない体のととのわぬヒルコは葦船で流された。流されたといえば、……手塚治虫の「どろろ」の百鬼丸ではないか。百鬼丸は川に流されたのち、医師に拾われたという設定だ。義手義足を取り付けられ、義眼も入れてもらい、人の形となった。 実際に流れてくる水死体はぶくぶくに膨れあがってただの肉の塊のようになるから、まるで相撲取りの土左衛門のようだということで、土左衛門と呼ばれることがある。また、海で上がる水死体は「えびすさま」という。漁船などはこれを引きあげると縁起がよいということになっていたらしい。魚がついばみに寄ってくるからだろうが、同業者である可能性が高いということもあるだろう。自分もそうなる可能性も高いから、手厚く葬るということがこの縁起担ぎの土台としてあったのだろう。「えびすさま」は恵比寿大黒のえびすで、釣り竿をもって鯛を抱えている。だが、流れてきた蛭子(えびす)様、つまり水死体が真の姿なのかもしれないと思うと、何か不思議な感じがする。もともと神様なのだから不思議であって当然なのだが……。 それにしてもヒルはかつて何を食べていたのだろう。最初から血なのだろうか。血でなければ、いったいいつから血を吸うようになったのだろう。変な疑問はいつも僕の頭を悩ませてやまない。 ★ホームページに戻る 11/22/2009 心の断片219「夜の記憶」 「夜の記憶」 三日月の夜は 人歩く 後ろ姿は群青の ふたりひとりと 月の夜 風吹く夜は 家の中 明かり火鉢に よりそいて 両手ならべて かざす影 雨降る夜は 窓の外 道行く人は 急ぎ足 かすかに残る 息づかい 最後の夜は 胸の内 慣れ親しんだ 天井の ひとつひとつの 節模様 ★ホームページに戻る 11/21/2009 恐怖シリーズ146「骨密度」 骨密度測定装置が来たので測ってみた。数値が悪い。今日から牛乳を飲もう。小魚もしっかり食べよう。瞬時に決意して実行しはじめたということは、数字にはそれだけの力があるということだ。 数字というものは恐ろしいもので、言葉よりも力をもっている。しかし、数字だけでははたらかない。言葉の効果をより強力にするという意味で力をもっていると考えた方がよい。 言葉には言葉自体の魔力と活字の魔力があるが、数字には加えて明確さというものがある。この明確さによる説得力と取り扱いのよさが武器だ。 しかし、その数字が算出されるに至った過程と計算の過程を、数字そのものが覆い隠してしまうことがある。数字がいつの間にか言葉を駆逐してしまうのだ。これによって数字の不当な魔力が成立する環境が整う。危うき数字の一人歩き、不可解な取り扱い、そうしたことが容易に行われてしまうのだ。 言葉と数字のバランスを崩さぬようにしないと、どうしようもなく気持ちの悪い世界が出現することになりそうだ。既に僕は骨密度の測定値にずいぶんと踊らされている。いろいろな数値の組み合わせで人をどうにでもコントロールできそうな感じもする。もっとも、数字自体が別段悪いわけではない。濡れ衣だけは着せないようにしよう。 特に基準となる数値は怪しい。それが基準であるという証拠が乏しかったり、逆にもっともらしかったりすると、もう危険だ。ほんの少し基準値を変えるだけで世の中のお金の流れが大きく変わってしまうからだ。この基準値という数字の裏にあるものを見抜く目が育ってしまうのは、基準値を定める側としては非常に困ることになる。これが育たないようにするもっともらしい理屈や仕組みを探していくと、いろいろと面白いものが出てくるに違いない。 例えば、有識者会議というものにつきあたったら、いの一番に注目し、その会議がお飾りになっていないか、構成員に偏りはないか、誰が選出し、誰が辞退したかを調べるべきだろう。しかし、その時間と労力は誰も与えてくれないのだ。暗闇の中を他人の目で誘導されていることに恐怖を感じなくてもすむのは、恐らく僕たちのほとんどが同じ境遇に置かれているせいだろう。目の前にマンホールが口を開けていても、見えていても認識できない状態であることは間違いないと思うのだ。これほど恐ろしいことがあろうか。 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑206「第四版227ページ・鷽替(うそかえ)」 広辞苑第四版227ページ「鷽替」の説明。これは大阪に対する偏見によるものであろうか。それとも単なる記述漏れであろうか。 「太宰府・大阪・東京亀戸(かめいど)などの天満宮で、参詣人が木製の鷽を互いに交換し、神主から別のを受ける神事。」に続く説明だが、第三文目に「太宰府は正月七日夜の酉(とり)の刻に行う。」とあり、第四文目の「亀戸は正月二五日。」で終わってしまう。 つまり、大阪の日程が省略されているのだ。これはどうしたことだろう。省略する正当な理由は見あたらない。これでは、広辞苑は大阪を軽く扱っているのではないかと勘ぐる人がでないとも限らない。広辞苑第六版ではどのように説明されているのだろうか。もし、改善されていなければ、大阪に対する広辞苑編集者の態度は決定的なものだと思われても仕方ないだろう。 辞書は一出版社が発行するものだが、その内容の性質上、公のものだ。公のものは平等さを欠いてはならない。広辞苑がますます最高峰のものとなるためには、このことを忘れてはなるまい。 さて、鷽替の心とは何だろう。鷽をとりかえる。嘘を誠に取り替える。自分のついてきた嘘を誠に替えよう。自分の希望が実現しますように。こうした現世利益の思想による願いだろうが、天神として恐れられた時期の菅原道真を抜きにしてはいけないだろう。菅原道真を陥れた嘘を誠に取り替え、身の潔白を証明したいという怨念のようなものは、いつの時代にもあり、次第に凝り固まって増殖し続けているのかもしれないのだ。 まことに嘘の多い世の中だ。この星の人口が増えれば増えるほど、嘘は多くなるのは確かなことだ。政治的に抹殺され、寿命をも縮めることになった道真公の怒りがまたもや今の異常気象や伝染病を引き起こしていると感じている人々がいてもおかしくはない。そのような伝説的な解釈をして、この世を正そうとする動きが生まれるのならば、因果関係は認められないものの、それは大事な人間的な反応だ。 この重要性を否定すれば、人々はますます不幸を呼び込んでしまうことになるだろう。その結果、強い人は苦虫を潰したような顔をして不満や皮肉を言うばかりの人となり、弱い人は正しくない世間の中で心を疲弊させてしまう。 もちろん、鷽替神事を単純に面白がっているというレベルの人々が多いだろう。しかし、身に降りかかった火の粉を嘘にしてしまおうと真剣に参加する人もいるかもしれない。どちらにしても菅原道真の怒りに象徴されるところの「怒り」について思いをはせる人々が増えなければ、神事の本当の目的が達成されたとは言えないだろう。 ★ホームページに戻る 11/19/2009 心の断片218「一緒に」 「一緒に」 同じ時代に生きていることを喜ぼう 同じ星に生きていることを喜ぼう 同じ言葉を話し 同じ空気を吸い 同じ大地に立ち 同じことを学び 同じことを悩み 同じことをして 同じように死んでいくことを喜ぼう この同族の うねりの中に かき抱かれ 身を委ねたことをなぜ悔いるのか 一緒に生きることの恥ずかしさ 一緒に生きることの辛さ 一緒に生きることのおもしろさ そうした諸々の一緒を 一つ一つブレーキに仕立て上げねば ひとり暴走してしまうではないか この世を破壊してしまうではないか ★ホームページに戻る 11/17/2009 心の断片217「わが逃走のスペクトラム」 「わが逃走のスペクトラム」 溝が深まったら 橋を渡せばよい 渡せなければ 溝のこちらを素敵にすればよい こちらを素敵にしておいて 溝の縁に壁を拵えよう そうしておいてさっさと別のところへ 逃走すればよい 壁にぶつかったら 迂回すればよい 迂回できなければ 穴をあければよい あけられなければ 乗り越えればよい それが駄目なら 壁のこちらに溝を掘ろう そして溝の縁に壁を拵えよう 同じだけの壁を拵えたら さっさと別のところへ また逃走すればよい あらゆるところに逃走し この世を溝と壁の迷宮に 仕立て上げればよい 迷い込んだ者たちとの 無限の出会いと 無限の可能性を楽しめばよい 逃走が創造で 創造が逃走 無節操な生き方よ だが 人生のなんたるかは どうでもよいような つまらぬことだった そのつまらぬ大事さとは別個の 次の段階の真実をまだ これっぽちも確かめられぬまま 擬似関係に埋もれた己と その己を絡め取った世の中の 化けの皮を 一枚一枚 ピンセットでそろそろと剥がしてゆく 恐怖とやりきれなさ この緊張感がたまらないのは いったいどうしてだ ★ホームページに戻る 11/15/2009 心の断片216「捨てたもの」 「捨てたもの」 気がつけば この道を かけていた 誰もいない道を 何も疑わず かけてきた 自分の足音から 逃げるように かけてかけて 知らないうちに 積み上げてきたものは 振り返ることもなく ひとつひとつ いろいろな理由をつけて 捨ててきたものに違いない それをひとつひとつ もとへ返してやろうというのだ もとどおりにはならないが それなしに 新しい道など許されるはずがない ★ホームページに戻る 11/14/2009 怪しい広辞苑205「第四版224ページ・薄手火蛾」 広辞苑第四版224ページ「薄手火蛾」(うすたびが)の説明。「日本本土のほか、シベリア南東部にも分布」とあるが、それはどういうことなのだろうか。 そもそも「日本本土」というのはどこを指すのだろうか。沖縄も一九七二年に本土復帰をしたのだから本土だ。しかし、南東部とはいえ、シベリアのような寒いところにも分布するような種類の蛾が、温暖な沖縄にも生息できるものなのだろうか。できるかもしれないが、実際に観察されているのだろうか。よそから運ばれてきて仕方なく生きていたやつはいるかもしれないが、現在の地形になってから敢えて海を自分で渡ってくるほどの蛾でもないように直感的に思う。地理的に沖縄での観察は難しいのではないだろうか。 確かに、「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」という安西冬衛の有名な一行詩があるが、作者がその蝶を追って本当に海峡を渡ったことを確認したとは思えない。しかし、幅が数キロメートルしかない韃靼海峡だから、季節を感じて移動する蝶ならば、海峡を渡って移動できるはずだ。蛾も同じではないかと思うのだ。 しかし、沖縄の場合はこの詩のように非常に狭い海峡を挟んで大陸が近くにあるわけではない。また、ウスタビガの成虫は口が退化しているので、羽化してからの命は一週間程度と短いらしい。だから、大陸や九州から沖縄に渡ってくるということはやはり難しいように思うのだ。 さて、「日本本土」と表現したのにはどのようなわけがあるのだろう。「日本」や「日本全土」ではなく、「日本本土」と表現したからには、それなりの言い換えた理由があるはずだ。 この部分が「日本」や「日本全土」ならば、一九七二年以降は沖縄も再びその中に含まれることになるので、沖縄にウスタビガがいても説明としておかしくはない。しかし、その場合、ウスタビガが沖縄にいなければ、「日本」や「日本全土」とするのは、説明としておかしい。 しかし、「日本全土」ではなく、「日本本土」と表現した以上、「日本本土」が「日本」や「日本全土」とは別の意味であることを表しているはずだ。なぜなら国語の辞書は、そうした言葉遣いに最高の注意深さをはらうものだからだ。 では、「日本本土」とはどういう意味なのだろうか。「日本の離島を除く日本」「日本の離島を除く日本全土」という意味なのだろうか。それとも、もっと別の意味なのだろうか。「本土日本」という言い方ならば、外国に対する「日本」、あるいは外国に対する「日本全土」、つまり「本国日本」という意味合いをかぎとることができそうだが、「日本本土」という場合にはどうなのだろう。 「日本本土」とすると、日本のどこか、例えば新潟県だけに生息していても、そうした言い方が成立するような気がする。つまり、「本土」ということばが「外国」に対するものとして感じられるのだ。すると、国レベルでのいるいないという問題になり、その国の一部にでも生息していればよいということになる。 一方、「日本全土」とすると、日本の各地で生息しているという状況を表現することになる。つまり、国レベルではなく、国内レベルでどのように生息しているかということを表現するものになってくる。それは、日本のどの地域にでも生息しているという意味だ。 どちらにしても、一九九一年発行の広辞苑第四版では、「一九七二年に本土復帰を果たした沖縄」を当然のことながら日本の本土の一部であるという了解のもとに説明を表現していくはずだ。 実際のウスタビガの生息地がどうあろうが、以上のように考えていくと、広辞苑第四版の「日本本土のほか、シベリア南東部にも分布」という説明は次のうちどれかの意味になっていくように思う。さて、どんなものだろうか。ただ僕が日本語を正しく理解していないというだけのことなのかもしれないが。 ①「ウスタビガは、離島を除く日本全土に分布しているほか、シベリア南東部にも分布」 これは「本土と離島」を合わせて「日本全土」であるという解釈を前提として「日本本土」を言い換えたものだ。 ②「ウスタビガは、沖縄を除く日本全土に分布しているほか、シベリア南東部にも分布」 これは広辞苑第四版が沖縄返還前の広辞苑の記述を更新し忘れていたと仮定した場合のものだ。 ③「ウスタビガは日本のほか、シベリア南東部にも分布」 これは広辞苑第四版が単に「日本全土」を「日本本土」と単に誤植していた場合のものだ。 試しにネット上でウスタビガの生息地をいろいろと検索してみた。残念ながら、沖縄にウスタビガが生息しているという記事をいまだ発見できない。広辞苑第六版ではどのように表現されているのだろう。 それにしても広辞苑第四版の「日本本土」というのは果たしてどういう意味なのだろうか。あまり本土ということばを使ったことがないので、おそらく僕が知らないだけなのかもしれないが、「全土」と「本土」をどのように使い分けているかが明確でない人は僕だけではないだろう。つまり、僕のようにつまらぬ混乱に陥る利用者がほかにもたくさんいるだろうということが心配される。 ところで、ほかの蝶や蛾の生息地はどのように広辞苑第四版で表現されているのだろう。思いつくままあたってみると以下のとおりだ。分布が明記されていないものが多い。また、「ウスタビガ」の説明にあるような「日本本土」という表現で分布を説明しているものは、現在のところまだ見つからない。「シャチホコガ」と「ルリタテハ」の説明では「日本全土」だ。この「日本全土」ということばの意味はよくわかるが、いつまでも「ウスタビガ」の説明に出てくる「日本本土」ということばの意味はよくわからない。これがどうしても同義だとは思われないのだ。 「シャチホコガ」は「日本全土・朝鮮・中国・シベリア・ヨーロッパなどに広く分布。」 「ルリタテハ」は「日本全土、朝鮮・中国から南アジアにかけて広く分布。」 「ヨナグニサン」は「南アジア・中国南部にかけ広く分布、わが国では石垣島・西表島・与那国島に局産。」 「アオスジアゲハ」は「南日本に普通。」 「オオムラサキ」は「北海道から九州まで分布し、」 「オオミズアオ」は「東アジアに広く分布。」 「カラスアゲハ」は「東アジアに広く分布。」 「シジミチョウ」は「全世界に分布。」 「ギフチョウ」は「本州特産種…ヒメギフチョウは北海道・本州に分布。」 「スズメガ」「セセリチョウ」「モンキチョウ」「モンシロチョウ」「メイガ」「ジャノメチョウ」「キアゲハ」「アゲハチョウ」「チャドクガ」「ミノガ」「イラガ」は分布に関する記述なし。 「シャクガ」「ミズジチョウ」に至っては見出し語なし。 僕の聞き覚えのない蝶・蛾の仲間については調べてないので不明だ。ちなみに、見出し語になかった「ミスジチョウ」は僕がいちばん好きな蝶だ。あわただしい「モンシロチョウ」は見ていて楽しくはあるが落ち着かない。それに対して、はばたいては滑空する「ミスジチョウ」は何か人間的でいとおしく思われるのだ。いや待て、滑空してから慌てて羽ばたくのかもしれない。飛び立つときはもちろんはばたくのだが、飛んでいるうちに、前者か後者か自分でだんだん順番がわからなくなってことは間違いないと思うのだが、どうだろう。 ★ホームページに戻る |
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