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1/31/2007 怪しい広辞苑86「第四版105ページ・居合」 僕の思いこみではないと思うのだが。第四版105ページ「居合」の説明。 「片膝を立てて、すばやく刀を抜きはなって敵を斬り倒す技。」とあるが、立居合というものがあるので、これでは正しい説明とはいえない。 広辞苑の説明には驚かされることが多いが、これもその一つだ。次の版では改めるべきだが、クレームはないのだろうか。居合の修行者たちは広辞苑などで「居合」を調べるはずもないので、間違いが知られていないだけなのだろうか。それとも、やはり広辞苑第三版のヘパリンの作用の逆説明の時のように利用者のクレームなどには対応しないで無視し続け、次の版でちゃっかりと訂正するというのだろうか。 全日本剣道連盟が制定している居合の形は二〇〇六年度現在で12本ある。そのうち1本目から4本目までが座位から始まる技で、5本目から12本目までが立位から始まる技だ。座位からの4種類の技は確かに片膝を立てるが、立位から始まる技で片膝を立てるものなどはない。古流には、座位から斬り始め、その後に立って斬るという一連の技があったり、座位から片膝を立てずに斬る技があったりとさまざまだが、居合を普及するための基本的な技のまとまりとしての制定居合12本のうち片膝を立てて斬るのは3分の1に過ぎない。 もっとも制定居合が12本になったのは広辞苑第四版が出版された後だから、出版当時は5分の2に過ぎないということになる。いずれにしても普及版の制定居合だけで考えると、片膝立てて斬る技というのは半分以下だ。 また、「居合抜(いあいぬき)ともいい、後には大道芸化する。」とあるが、大道芸化した代物を「居合」と区別して「居合抜」というのではなかったか。これについては、どうだろう。 辞書で「居合」と「居合抜」との混同がなされ、混同を是正するような説明もなされていない。全日本剣道連盟には、武道としての「居合」と大道芸化した「居合抜」との区別を明確化するという方針はないのだろうか。それとも、そうしたこだわりは別にどうでもいいことなのだろうか。これが単なる個人的なこだわりに過ぎないものであってほしいと思う。 待てよ。「居合道」という見出し自体が広辞苑第四版にないではないか。なんでも「~道」と言いたがるこの日本にあって「居合道」という見出しを掲げないというのは、「居合」を単なる抜刀術と見なし、武道として「~道」という名称に敢えてしないという編集方針でもあるのだろうか。たとえ項目になくても、説明中に「居合道」という言葉が用いられていないのはどうにも解せない。 ところで、東京だったか大阪だったか忘れたけれど、相当の修行を積んだ人と思われる人を見かけたことがある。立っているだけ、歩いているだけで、穏やかな表情であるにもかかわらず威圧感があり、妙な動きをすれば真っ二つに斬られてしまうに違いないと思ったことがある。どこにも隙がないのだ。居合の技もすばらしく、あのように斬りつけられたらどうにもこうにも対処のしようがないに違いないというようなものだった。そうしたものを感じたのは、後にも先にもその人一人しかいない。もっとも、僕の大会経験がほんのわずかしかないので、そうした人にお会いする機会が少なかったというだけのことなのだけれ ど……。 ★ホームページに戻る 突然思い出したこと74「いあいおうあういえお」 東国原英夫という人物がいる。知事になったが、この知事は長く続くのではないかと思う。長く続くが、県政が軌道に乗ったときには、みずから退く道を選ぶような気がする。しかし、退いても何らかの形で彼の姿は見え隠れしながらある一定の影響力を日本国民に対して持ち続けると予想する。 予想の根拠は名前にある。宮崎県知事の名前を見たとき、画数によらない姓名判断方法を突然思い出したのだ。母音だけで名前を書くと、「いあいおうあういえお」となる。これは五つの母音を全て含んでいる名前だ。実はこうした名前はそんなに多くはない。そして、五つの母音を全て含む名前には力がある。長期にわたって活躍する力だ。 例えば、「せいしょうなごん」「とくがわいえやす」「とくがわひでただ」「とくがわいえみつ」「とくがわいえつな」「とくがわいえつぐ」「とくがわよしむね」「とくがわいえしげ」「とくがわいえはる」「とくがわいえなり」「とくがわいえよし」「とくがわいえさだ」「とくがわいえもち」「とくがわけいき(よしのぶ)」「かのうえいとく」「よしだしげる」「なかそねやすひろ」「むしゃのこうじさねあつ」「むろうさいせい」「かねこみつはる」「なかのしげはる」「しばたれんざぶろう」「まいけるじゃくそん」「みくにれんたろう」「うめみやたつお」「いのうえやすし」「いのうえひさし」「さいごうてるひこ」「のはらしんのすけ」「いけはたしんのすけ」「まつだせいこ」「やまぐちももえ」「あむろなみえ」「まつもとれいじ」「なかむらせいのすけ」「ほりえたかふみ」「よこみねさくら」「えはらひろゆき」「ますぞえよういち」「もときだいすけ」「わたせつねひこ」「いしづかひでひこ」「めぐみとしあき」「まつもとせいちょう」「なかむらせいのすけ」……。各将軍の評価はさまざまだが、将軍になれたということだけでよしとしてよいように思う。 彼がここに名を連ねることができるかどうかは、仕事ぶりにもよるが、ポイントは周囲から名を何と呼ばれるかにかかっている。「ひがしこくばるひでお」と周囲の者や県民に呼ばせないと名前による力は出ない。「ひがし」と省略してはいけない。ここを誤ると、いつの間にか存在が危うくなってしまう。それどころか「そのまんまひがし」などと呼ばせていては、知恵と慎みを欠く行動に走り、勇み足のために失脚する運となる。 同様に、「ほりえたかふみ」が復活するためには、「ほりえもん」と周囲の者に呼ばせてはいけない。 姓名判断というものは馬鹿にならないものだ。なぜならそれは統計の結果をもとにしているからだ。より当たる確率の高い方法が見つかれば、それに従って名前から運を判断する。理由などはどうでもよい。結果がより正しければそれでよい。理由は後で考えて矛盾がないようにつけていけばよい。 さて、相次ぐ宮崎県の高病原性鳥インフルエンザの発生は不幸なことだが、知事にとっては、腕の見せどころ、注目される舞台を与えられたことになる。ひどければひどいほど知事の奮闘むなしく悪しき結果を迎えても、それなりに評価される。下手に小規模な被害ならば、対応の悪さを指摘されてしまうが、徹底的に大きな被害に対しては、伝説さえもが生まれるものだ。 新知事に警戒していた議会も知事対策どころではなく、一致団結して対処しなくてはならない状況に置かれている。これも下手に知事の欠点を暴こうとするなら、県民からの総スカンを食うことになるのは間違いない。ここは一つ、試練を与えられたと考え、知事との良好な関係を模索しながら全国から注目を浴びていることを意識しつつ、県政の改革にゆるやかな手法で着手していこうという気運を育てていこうという姿勢を持つようにした方がよい。 人間関係のしがらみとお金のからんだ政治というものには、そんな甘い考えは現実的ではないという人もいるだろう。確かに従来ならその通りだろう。しかし、もう時代は日々変化していくというのは常識だ。思いのほかに進んでいる部分があり、それを過小評価しているのが現状だととらえているほうが現実的である場合が多いのではないか。 インフルエンザならぬいつしか吹き始めた風。それは人々が触れることのできないような不可思議な力を持っていると思った方がよい。彼もそうした風にのって歩き始めたのだ。 ★ホームページに戻る 1/30/2007 日々雑感160「無知な未払い親」給食費払わない親がいる。22億円だ。毎年このぐらい払わないのか。給食の質が落とされたり、給食従業員が減給になったりといろいろするのだろう。しかし、問題は未納だけではない。未納をよしとする親に子どもが育てられているということ自体が大問題だ。 これらの親が若い頃はちょうど校内暴力とかの時代だったわけだから、この未払い問題は当然の所業かもしれない。大人になって経済にまで影響を与えているというわけだ。 こんな親は給食費を払わないだけではなく、当然のような顔をして他の悪影響を子どもと学校に与えているに違いない。非常識な親を相手にする教師は誠に気の毒だ。しかし、国力を衰退させる原因をなくすという意気込みで対決してほしい。正面から攻撃すると、たぶん開き直るだけだから、搦め手から各個撃破で攻めるしかないだろう。いろいろな手を使って払わせよう。しかし、こんなことを教師がやっていてはいけない。自治体に取り立て課をつくって、取り立てに秀でた人たちを集め、払わせるのがいいだろう。取り立て課というネーミングが不適切なら、未納未払い金回収課とでもしよう。 商売をしている人たちに聞くと、万引きの方法を子どもに教えて物盗りをさせる親も多いと聞く。調べてみるとそういう世代らしい。少年少女の犯罪発生数のグラフはだいだい25年周期でピークを迎えているように読み取れる。およそ25年周期ということは、親が子、子が孫へと伝えていく家庭教育方針のようなものがきっとあるのだろうと仮説を立てたくなる。 自分たち以外のさまざまな世代から白い目で見られているという自覚がないからこそ改まらないのだろう。自分の所業の結果が自分にマイナスに働いても、おそらく他人のせいや社会のせいにし、みずからを改めないというタイプが多いのではないかと想像する。おそらく被害妄想や的はずれの権利意識がたぶん脳みその中心で渦巻いているはずだ。自らを省みるタイプなら最初から未払いなどしない。 彼らの発言の根底には、ひと昔もふた昔も前のいわゆる教育評論家と自称する無責任な人々(今は恥ずかしくてテレビにも顔を見せることもないようだ)の発言に代表されるような発想があるように見受けられる。実に哀れだ。少なくともその子どもたちを救わねばならない。教育改革を掲げる政治家たちは自分の票田が枯れることを顧みずに、この問題に取り組まないと、この国自体がさらにお粗末な物になっていく。ことは給食費を払わないということだけではないのだ。 美しい国の醜い親たち。これを変えるのは不可能に近いかもしれない。しかし、これからは「無銭飲食を子どもにさせている親は他に何を子どもにさせているか。」という見方で観察を続け、それ相当の処置をしていかねば正義というものが成り立たないだろう。無知であるがゆえに未払いを続けるというように善意に解釈してもよいが、逆に「なんだ22億か。仲間が多いんだなあ。やっぱり自分は正しいんだ。」と考えるタイプが多いはずだから、始末が悪い。 学校では、子どもに対して「払うべきものは払う」という教育をやってもらうしかない。特に小学校でだ。しかし、一事が万事、お金に限らず「どの年代にどんなことを考えるべきか、なすべきか」ということをいちいち教え込む必要があるだろう。ここで、情けない世の中になったものだと言ってはいけない。「情けない世代がちょうど親になる時期だ」と表現しないと、ただでさえ欠乏している親の自覚がますますなくなるからだ。こうなると同じ世代でもきちんとしている親がかわいそうだ。同世代にも悪影響を与えてはばからないのも特徴なのだろう。 とにかくまずは一年間で22億円を税金でカバーしているのだから、もっと攻撃しなければならない。文字どおり税金泥棒というやつだからだ。さらに無銭飲食。このことは政治家のお金に関わるスキャンダルを薄めてしまうという効果もあるから、非常にまずいことだという認識を国民全体がもたなければならない。 1/27/2007 心の断片77「応援歌」「応援歌」 走るぞ走る車が走る これぞ日本の国力だ 歩くぞ歩く大人が歩く これぞ日本の底力 歴史をつくることもなく 子どもを育てることもなく ただただ働き ただただ遊ぶ 考えなしの人生を 覚悟も持たずうかれゆく 最後の一花最後の命 それでも走る それでも歩く 生きるぞ生きるぞ 明日しかないのだ 日本の男 日本の女 怪しい広辞苑85「第四版104ページ・安禄山」 説明不足だと思う。第四版104ページ「安禄山」の3~5行目の説明。 「宰相揚国忠と権力を争い、七五五年、反乱を起し洛陽を攻略、長安にせまり、大燕皇帝と自称したが、子の慶緒に殺された。(七〇五 七五七)」とあるが、これでは安禄山が単独で反乱を起こしたような印象を受ける。もちろん安禄山は節度使だから大きな軍事力を持っているが、ここで「史思明」の記述がないのは非常に不自然だ。また、「安史の乱」という語が含まれていないもの不自然だ。 権力がなければ国は乱れる。乱れた国は滅びたり、滅ぼされたりする。滅んだ国の人々は隷属状態に陥るか、殲滅の憂き目に遭うのだ。そんな時代はとうの昔のことなどと安穏な言葉を無邪気に口にできるのは、世界で数千万人、日本でも三百万人とも四百万人とも言われている第二次世界大戦の屍のうえに築きあげられた微妙な国際社会のバランスがあるからこそだ。しかし、これとてもいつ崩れ去るか分からない。 いつになったら殺し合いが終わるのかと思うのだが、単なる政治的な国盗りから、ただやられたからやり返すという泥沼のような紛争まである。しかし、どちらにしてもある個人のちょっとした思いつきや軽はずみな行動が原因となっているのではないか。個人で軍隊を動かせるという種類の権力は、赤子に毒針を持たせるようなものだ。自分や周囲の者を必ず傷つけることになる。 怪しい広辞苑84「第四版103ページ・暗発芽種子」 不思議な感じを受ける。第四版103ページ「暗発芽種子」の1,2行目の説明。 「発芽に暗黒が必要な種子。」とあるが、「暗黒が必要」という表現は、僕の個人的な現代日本語の感覚からすると少し不思議な感じがする表現だ。 それは「暗黒」の対義語を文字のうえから単純に考えると、「明白」になってしまうというところからくる違和感なのかもしれない。普通の利用者が持っている一般的な言語感覚からすると、ここは「暗黒」ではなく、「暗所」だろうと思う。「暗闇」という表現ならぎりぎり受け入れられるかもしれない。「暗黒大陸アフリカ」「暗黒の宇宙」などという決まり文句があまりにも強烈な印象であるために、「暗黒」という言葉に対して、僕が特別の意味合いを感じてしまっているのが原因かもしれない。「暗黒」というと何か広大なものを感じてしまうのだ。だから、発芽というレベルの説明にはマッチしない表現だと受け取ってしまうのだと思う。これは僕だけではないように思う。専門的には「暗黒」が一般的なのかもしれないが、やはり一般人にとっては一般的な表現ではないように思われる。 それにしても、「暗黒が必要」というのはどういうことなのだろうか。発芽に光を必要としないということなのか、それとも発芽に光が邪魔だということなのか、それとも発芽に暗黒が持っている何かの力が必要なのかが不明瞭な説明だ。 この説明では、小学生の多く、中学生の一部の子どもたちは「暗黒というものがあって、それの何かが種子に働きかけて発芽させている」のではないかと感じ取ってしまうおそれがあるのではないかと思う。 1/25/2007 突然思い出したこと73「情熱と座禅」情熱というものがある。これだけで解決できるものも意外と多い。しかし、情熱には無理と無駄がつきものだ。これは経験によって少なくなってくる。ゴールが見えていてそれに向かって手順を踏んでいくようになる。すると、仕事から作業に近くなる。一見すると頭がフル回転しているようでも、実は頭を使わずに体と口が動いているだけなのだ。 踏ん張って格闘する姿には情熱を感じる。スマートに処理する姿は心強いが冷たく感じる。大事なのは、情熱を支えている凛としたスマートさを表現すること、またはスマートさの内側にもえたぎる情熱を表現することだろう。もちろんないものは表現できないのだが。 そうした二重構造、三重構造が人間性の奥深さを感じさせる。それは魅力を示すと同時に、表面がほころびたときに、その下からにじみ出てくる異色の第二の表面、次にはさらに手ごわい第三の表面・・・・・・これらが陰となり陽となり、しなやかでしたたかな生き方を実現する。そのうち第一の表面も自然治癒していき、さらにバージョンアップしていくのだから始末が悪い。 千手観音の姿はできるだけ多くの人に慈悲の心を差し伸べる姿だと教えてもらったことがあるが、千手阿修羅というものがあるとするなら無敵の姿だ。千の作戦があればまず大丈夫だ。組み合わせを考えれば、膨大な種類になる。こうなると見透かされることがない。裏をかかれることもない。予防も対応も事後も、すべて主導権を握って正義を貫くことができる。 問題はその正義だ。情熱によって実現した正義が、じつは正義でない場合が後でわかることがある。これは不幸なことだ。正義を常に疑いつつ、情熱を傾ける姿勢が要求されるが、そうすると今度は迷いを生じるようになる。さて、どうしたものか。 たとえば、座禅というものがある。大きなことをしようとするとき、相談者を得られないとき、座禅を組んでとらわれぬ心で物事を見つめるようにするとよいだろう。しかし、「座禅などというものをする暇などない!」というパターン化した判断を自動的にしてしまう人も意外と多い。矮小化した人生を送る人の典型的な発言で、誠に痛々しい。 座るのは方法にすぎない。だから、目的と理解していれば、日常生活を通して座禅同様の効果を得ることも可能だろう。ただし、急にはそこへたどり着けないかもしれない。段階としては、暇がなければまず「静かに立つことを要求されるもの」にかかわること、次に「立ったり座ったりの動きをもつもの」にかかわること、次に「日常の所作、発する言葉」を禅の心で行うこと、最後には「日常生活」自体を修行の場とすることができるだろう。 こうして心を練り、しかる後に心が無となる。そこで人さまざまの悟りが生まれる。その悟りは、それぞれが必要とするものだから、間違いない。悟るというのは、こだわりの心がなくなって無となり、必要なことがすっきりと分かるということだと思う。文字どおり心が無になるのは死んだときだけだ。 心を練ろうと思っても、浮かんでは消え浮かんでは消える無限の幻のようなものばかりが邪魔をして、どうしてよいのやら皆目見当がつかない。そのうち同じものばかりが頭に浮かんでくるので、ああ、これが僕のこだわりなのだなとわかることもある。しかし、そこから無になるのは難しい。しかし、無になるというのは、忘れるということではなく、結局はあらゆる意味をそこから汲み取って、多面的多角的にとらえることだろうと思う。ただし、それは外部記憶装置であるノートやハードディスクなどに書き留めないと、あやふやになり、そのうちぼうっとなり、その状態が無の状態だと勘違いしてしまうことがあるかもしれない。情熱を傾けるにしても、座禅にしても、よき指導者がいなければ本当に危ういと思う。 1/24/2007 心の断片76「死人告白」「死人告白」 死ぬことは 重大なことなのに 死ぬことは ごくありふれたことだ 死ぬだけでも ひどく苦しいのに 死ぬための薬は きまって毒ばかりだ 死ぬことで やっと無になるのに 死ぬことで 評価が定まり反論すら不可能だ 死ぬことで すべてを終わらせても 死ぬことで また何かが始まる どうせ死んでしまうのだから 自分の生き様を いかに生きるかを考えよう ・・・・・・その方がさわやかだ 1/22/2007 変な疑問57「忍びの剣」 忍びの剣とはどういうものだろうか。 忍びだから、目立たずに忍んでいるのが正常な状態だ。だから、剣を使うのは最後の手段としてだろう。忍びの訓練も、剣術の達人をめざすものではなく、謀略、諜報の技術が中心だったはずだ。 映画の場合は、謀略では子ども向けの映像になりにくい。観客を呼ぶための忍者映画が成立するためにはアクションが必要だから、さまざまな体術を披露したり、忍具を駆使しなければならない。しかし、実際にはそんな派手なことはしなかったはずだ。何しろ忍びなのだから。訓練したのも正統派の剣術ではなく、暗殺剣だろう。 しかし、任務が破綻した場合には、剣術の巧みな者を相手にしなければならぬこともあろう。通常なら、他殺させる、自殺においこむ、病殺する、毒殺する等、さまざまな手段を講じることができるだろうが、正体を知られるという失態は緊急事態であるから策を立てる暇はないからだ。 また、緊急事態になるということは、相手が腕に覚えがあるからこそだ。相手が腕に自信のない者なら、逆に利用したり、陥れたりする策を講じてくるはずで、どのみち暫くは緊急事態にはなりにくい。忍びとしてもその間に正体がばれていることを察知する可能性があり、化かし合いが始まる。 ともあれ、忍びはあらゆる状況に対応できるように訓練されているはずだから、急襲されるという緊急事態にも備えているはずだ。日用品に武器が仕込まれていたり、日用品が強化されていて、武器として使用するに耐えられるように加工してあったり、日用品のまま武器に使用する方法が考えてあったりと、常日頃の心掛けがなされているはずだ。日用品だからこそ身近にあり、意外性もあって有効に武器として使えるのだと思う。 ①杖をその中に金属棒を仕込んだ造りにしておけば、一撃で相手を倒せる武器となる。それを使って日頃は足の不自由な者を装っていれば、なお怪しまれない。また、不自由な足どりの真似は脚を鍛えることにもなる。 相手が日本刀なら、身をかわしながら転がりつつ、強化した杖で脛を打てば一撃で勝負がつき、次の一手で命を奪うことができる。ただし、脚を中心に攻撃する特殊な流派や抜刀術の中には脛を防御する技があるので注意が必要だろう。しかし、残念ながらそれも対日本刀の技の範囲をこえないので、杖に対してはあまり有効ではない。脛を狙うのが無理な体勢なら、膝の両側のうちどちらか、あるいは、足の甲を打てばよい。直接骨を打つ感じになり、そのまま戦闘不能になる。 ただし、足の甲は袴等に隠れて位置が分からない場合があるから、隠しきれない膝の側面を狙うのが間違いないと思う。 ②暖房器具は火鉢だろうから、火箸も武器に仕立てやすい。鉄製のものをつながずに一本一本にしておけば、2本の武器になる。相手が一人なら、僅かな時間差をつけて投げつければ、最初の一本はかわしても、次の一本で殺傷できる。間合いが切羽詰まっていれば、一本を投げながら、もう一本で突きにいくことになる。至近距離から自分の目の高さから相手の目を狙えば、そうそう簡単に打ち落としたり、かわしたりできるものではない。 相手が二人なら狭い廊下等に導いて攻撃のバリエーションを貧弱にさせることが必要だろう。もちろん導いたその先には、かねてより準備しておいた逃走経路が確保されていなくてはならない。 ③火鉢の灰は目くらましとなる。逃走ルートを台所経由にしておけば、包丁が有効な武器となる。枕も工夫すれば、撒き菱や短剣、手裏剣などの隠し場所とすることができそうだ。書籍なども投擲用、または防刃用に準備したものを身近に置いておける。灰をまいてすぐに危険物を投擲するのだ。 ④風呂場はどうにも危険だが、髻の中に隠し武器を仕込んで備えておくか、濡れ手拭いが瞬時に武器として使用できるように手元にしかるべき状態で置いておく習慣を身につけておくのだろう。軽石に見せかけて置いてあった石の塊を濡れ手拭いにはさんでメリケンサックのように使うとか、成形した石を手拭いで拳にまくとか、椅子や桶などはすぐ盾代わりに使ったり、投げつけられるような位置に最低三つは置いておきたい。 湯船につかると何も手元になく、無防備だ。しかし、椅子に腰掛けて入ったり、桶を浮かせて入ったり、その中に投げつけることのできる物を入れておいたりすれば、それを利用してまだ助かりようがあろうというものだ。やはりそれと分からぬように木刀など、錆びない武器をさりげなく隠しておくのがよいだろう。 さて、いざ逃げられぬとなった場合、しのびは闘うか、自決するか、道連れにするかの選択を迫られる。闘うときは取り押さえられぬように闘わねばならない。自決を阻止されるおそれもあるからだ。 相手が腕に覚えのある人物が相手なら、奇襲を掛けられるということも加えて圧倒的に忍びが不利だ。そこで、どうにも逃走できない場合を想定して、忍びもいろいろと作戦を考えて有利に立ち回われるように考えているはずだ。 闇を利用する方法と光を利用する方法が考えられる。劇の暗転では、予め闇に目を慣らした者がさっと出てきて舞台装置を作り替える。観客は目が慣れていないので、その動きがよく分からず、従って、幕を閉める必要がない。より暗転の効果を出そうと思えば、暗転の前に照明を強くしておけばよい。逆に暗転中の動きを敢えて観客に見せようという場合には、照明を少し暗くして観客の目を暗さに慣らしておく必要がある。 従って、夜の照明は強くしておき、自分は常に片目を闇に慣らしておく。急襲を受ければ、照明を消し、闇に慣らしておいた方の片目を開け、それで闘う。できれば、瞬間に燃え上がってすぐ消える行灯のようなものを開発しておき、相手に光の目くらましをくらわすとともに闇に陥れるという手順を踏んで攻撃を加えるとよい。閃光弾のようなものだ。たとえそれが一瞬のことでも相手の動きが止まれば、勝負は付くものだ。 こう考えていくと、忍びは、用意周到、かつ、いざとなったらなりふり構わぬという行動を取らざるを得ない状況にいるのだから、剣にこだわらずにさまざまな武器を使う。華麗な技なども必要ではない。姿勢が崩れようが、卑怯なまねをしようが、何でも周りの物を利用して勝機を得るしかない。忍んでいるところを急襲されるのだから、もともと試合のように正々堂々とは闘えないのが本来だ。 忍びは、嫌われない、気づかれない、武器を使わないという、ないない尽くしの術が基本になければならないと思う。暗殺も、堕落させたり、自信を失わせたり、社会的信頼を失墜させたりという手段が無効であった場合にやむを得ず行うというものであるかもしれない。 逆に、剣の稽古ばかりしている忍びがいるとしたら、最終兵器として育てられているとしか思われない。それは人格を磨く剣道からは最も遠いところにある実に悲しい道具としての穢れた剣だと思う。だが、その合理主義を悲しい美しさとして僕は感じるのだ。それはいったいどうしてだろう。 1/21/2007 心の断片75「僕の道」「僕の道」 かつてこの道は僕の大切な道だった 今はどうだ 郵便ポストは古び 店の看板は五色に鮮やかだ やけに黒いアスファルトで道は高くなり 少し傾いたガードレールに合わない 僕の足どりは軽いけど 別組成の空気に不用意な挨拶は禁物 さわやかに通り過ぎよう 今は誰もいないのだ 夕暮れて空ばかりが広く はるか鉄塔のうえに寒き星々があがる 校舎をなでゆく青雲は戻らぬ覚悟の勢いだ すれ違う車に若い僕の声をきく 肩をすくめがんばれよと応える 怪しい広辞苑83「第四版101ページ・アンタッチャブル」 うーん。よくわからない。第四版101ページ「アンタッチャブル」の説明の2行目。 「アメリカの連邦捜査局員。」とある。ということは、FBI捜査官のことなのか?映画やテレビドラマで「アンタッチャブル」というのがあったけれど、あれはFBIではなかったような気がする。 カポネを挙げようとしたのがアンタッチャブルというチームで、禁酒法時代のお話のはずだ。この説明だと、現在のアメリカの連邦捜査局員まで全てアンタッチャブルと呼ばれていることになるが,、果たしてそうなのか?それとも「捜査局員」と「捜査官」とは別のものなのか? とにかく広辞苑第四版の「アメリカの連邦捜査局員。」という説明だけだと、僕の場合は現行のFBIの捜査官しかイメージできない。広辞苑は説明が短すぎて大きな誤解を与えているものが多いような気がしてならない。だから、これもそうかなと思ってしまう。次の版では何とかしてほしい。 怪しい広辞苑82「第四版100ページ・安全教育」 法律の古いデータはよくないと思う。説明もやや不自然のような気がする。第四版100ページ「安全教育」の説明。 「交通事故・火災・公害などの災害から守ることを目的とする教育。近年、学校では健康教育計画の一環として組織的に実施。日本学校安全会法がある。」とあるが、この第四版が出版されたのは1991年11月15日だ。 「日本学校安全会法」などというものは昭和30年代の代物だ。そのほんの十数年前には日本のお父さんたちが鉄砲撃ったり、高射砲を撃ったりしていた時代だ。 1991年には、既に「学校安全会」なるものは存在せず、その4,5年程前に「日本体育・学校健康センター」が「学校健康会」から業務を引き継いで「日本体育・学校健康センター法」に基づいて活動をしているのだから、ここはとうの昔になくなった法律名を紹介するのではなく、発行当時に有効な法律名を記すべきだと思う。そもそも二つも前の団体の拠り所となる法律を掲げてどうしようというのだろう。それどころか、もしかすると三つ前の団体かもしれないというぐらいに古いのだ。ここまでくると悪い意味での懐古趣味と言われても言い逃れはできないだろう。どうしても「日本学校安全会法」という言葉を説明に入れたいのなら、「ある」ではなく「あった」と過去の言い方にするか、あるいは、法律の変遷を全部記すのがよいだろう。 全体の説明の構成として、全部の説明の最後の文に唐突に「○○法がある。」などととってつけたような記述を加えるという不自然な書きぶりについては、ここでは深くは触れないでおく。 次に、「交通事故・火災・公害など」という説明はどうだろうかと思う。「犯罪・事故・公害・自然災害など」とした方がよりいっそう危機の種類を網羅していてよいように思う。ただし、最近の子どもは大人のせいで遊び方が下手になっているので、これらに敢えて「遊び」を加え、遊びに潜むリスクを減らす教育をした方がいいかもしれない。変化に富む自然の中で遊ぶことで、身を守ったり、仲間を助けたりする習慣を身につけていけるという贅沢な環境にいる子どもなど現代日本にはいなくなってしまったに違いない。 もしかすると、部屋の中でテレビゲームに夢中になっていれば子どもは安全だという感覚を親が持っているかもしれない。まさか。でも、そうした子どもが親になる頃にはどうなるか分からない。 また、「災害から守ることを目的とする教育」というのもどうだろうかと思う。この説明の中ではただ「守る」とだけ言っているので、「身を守る」のか、「子どもを守る」のか、「子ども自身が自分の身を守る」のか、それとも「従業員の身を守る」のか不明だという印象を与えてしまう表現だ。もっと別の言い方にして一般的な説明にするとよいだろう。 とにかく「安全教育」の項目は他の項目の説明と比較すると、かなり違和感を感じる。これは僕だけだろうか。 1/20/2007 日々雑感159「ゆたんぽ」生まれて初めて湯たんぽを使った。 電気行火よりよい。電気行火よりもじんわりと効く、ゆっくりゆっくりちょうどよく冷めていく。 仕事も寝るときも湯たんぽが心地よい。この心地よさは電気製品にはない品の良さがある。 これが幸せの本来の姿ではないかと思う。ないものねだりが不幸の始まりかなとよく思う。 それにしても、どうしてこれまで湯たんぽを使わなかったのだろう。今のは橙色のプラスチック製で見るからにぽかぽかした感じなのに対して、昔のはブリキ製の薄青い銀色でなんともひんやりした感じだったということもあるのだろうか。でも、本当はあのデザインにあるのだ。 幼い頃、地獄絵か何かで見たのだろう。あばら骨を恐ろしく浮き立たせた薄気味の悪い餓鬼のイメージだ。 それがどうだ。橙色になり、プラスチックになっただけで玩具のように感じるのだ。身近において使うのだから、親しみのある玩具の雰囲気を漂わせるものの方が人の警戒心を解きやすい。これはいくつか応用ができそうだ。 ①警察官に対する市民感情をもっとよくするには、警棒をピンク色にするとか、パトカーのドアに大きなキティーちゃんマークを貼るとかすればよい。ただし、それは警察官が今よりももっと重装備になって強力な武器を持つようになったときとか、警察力が強大になったときに限る。アンバランスのようだが、一種のバランスだ。逆にあまりにも厳めしく恐ろしげな格好をしている警察官を配備している場合は、本当は警察力が危機的な状況にあることを示しているのかもしれない。こけおどしというわけだ。つまり、警察はかわいくなればなるほど怖いと了解しておくべきなのかもしれない。でも、市民に親しまれる警察なのだ。 ②軍隊も同様に恐ろしい力を持つほどかわいくしなければならないだろう。美人女性兵士が増えているなどという軍隊は、極めて危険な軍隊だということだ。もしかすると、彼女たちの口紅を引く同じ指のわずかな動きで屈強な数百数千の敵国兵士が瞬時に死に至る可能性があるということなのだ。個々の肉体的攻撃力は筋力や運動神経においてほとんどの場合が男に劣るのは確かだが、攻撃を受けたときの死亡率は女の方が少ないと思う。これはデータが残るほどに女性兵士の戦闘記録が少ないので分かっていないことだと思うけれど、交通事故や飛行機墜落事故での生存率は女性の方が男性を上まわっている。また、男性よりも痛みによく耐えると思う。男性は攻めるとき強く、女性は守るとき強いというのが特徴かもしれない。この女性に最高の攻撃力をもつ兵器を装備させるとともに機動力を持たせ、男性が瞬間的な判断を下す役回りになることの障害を排除できたら、恐ろしい軍隊ができあがるに違いない。また、敵兵に対する女性兵士による拷問などがあったら、極めて陰惨なものになりそうで、たいへん恐ろしい。でも、見た目は美人女性兵士だからよく親しまれ、市民権をたやすく得てしまう。 ③色とか形で工夫しにくい場合は、ネーミングでカバーする。ただのアイスキャンデーならあまり売れなかったかもしれないけれど、ガリガリ君などと名前を付けると急に親しみを感じてしまい、ついなんとかしてあげたくなって買ってしまう。買ってあげないとガリガリのままやせ衰えて死んでしまいそうなのだ。もちろんがりがりかじってガリガリ君をもっとがりがりにするのは僕たちなのだが、そのときには口の中でがりがりと音を立てるガリガリ君を冷たいキャンディーとしか感じない。これは僕だけかな。でも、一般的に「~くん」などとついた商品は親しまれて売れ行きがよいような感じがする。 ④「いじめ」は平仮名であるうえにネーミングが子どもっぽいというイメージがあって、逆に深刻な問題になるまで放置されやすいというマイナス効果があるから、漢字の熟語で表現して重い問題であるということを印象づけるように変えるべきだった。たとえば、「人格否定行為」のように表現すればいい。この言い方をきつすぎるという人は本格的にいじめられたことのない人、つまり、いじめる側かその取り巻き、もしくは最大のいじめの原因である傍観者の群れにいつも上手に紛れこんでいた人だけだろう。 マスコミが「いじめ」という言葉を無頓着にも「定着させる働き」をしてしまったために、問題を扱う姿勢に知らず知らずのうちに不適切な感覚が働くようになってしまったと思う。「表現の責任」をもつマスコミは言い方を変える働きをしなければならなかったのに、子どもの言葉や学校の言葉をそのまま使ってしまったという怠慢がある。やはり「いじめ」というと身近すぎて起きても仕方ない当たり前のことのような感じ、または幼い子たちがやる一過性のもののような感じを与えてしまうので、まずいネーミングだと思う。 ネーミングといえば、ゆたんぽの話に戻すけれど、電気行火より、ゆたんぽの方が数倍心地よさそうな感じがする。言葉というものは恐ろしいものだ。商品名などもよほど会議を重ねて決定していくのだろう。しかし、一歩間違うと、すばらしい商品でも、名前のために売れ行きが悪いものも出てくるに違いない。 人間の名前も重要だ。流行や親の勝手な思いを前面に出した名前の付け方はまずい結果を生んでいるような気がする。 結果から導いて統計的に判断していく現在の姓名判断のあり方ではなく、大人になる前の生の姿を観察して名前との関係をじっくり考える必要がありそうだ。その方が同じ統計という手法を使っても、当たる確率が高くなるだろうと思う。また、子どもの時点で判断するのだから、そこから人生を矯正できる余地がまだ少しあるということになる。 現在の姓名判断のように大人になってからのものでは、それでどうすればよいというのはもう手遅れのような気がする。これでは当たった外れたの世界で終わってしまいそうなのだ。未成年に対して有効な教育的に使える姓名判断でなければ意味がなかろう。 さて、この世にはどんな姓名判断の仕方があるのだろうか。 画数などという時代によって変化してしまうものではなく、発音が与える印象というもので判断するものでないと駄目なような気がする。どうしてもゆたんぽの方が電気行火よりもあたたかい感じがするからだ。 1/19/2007 心の断片74「僕の幸せ」「僕の幸せ」 ひろがり すぼまり むすぼれて 僕の視線は 曲がった飴細工の切れ端だ ああ どこに行けばいいのだ なにを言えばいい ここで人を幸せにして 自分が幸せになって それで満足したか 満足でないのはやはり幸せではないからだ そもそも幸せというやつを知らないから いつまでもたどりつけないのだろう でも それはきっと大事なことなのだ たぶんそれは僕たち愚か者の いってみれば知恵のようなものだ 1/17/2007 怪しい広辞苑81「第四版99ページ・アンジッヒ」 少し不思議な感じ。第四版99ページ「アンジッヒ」の説明の一行目。 「現象から独立なそれ自らの存在(自体と訳す)。」とあるが、「独立な」という表現は僕の感覚からすると、少し不思議な感じがするが、どうなのだろう。 ここは「独立した」とするのが日本語として自然な言い方のように思う。もちろん「独立した」の「た」は過去や完了の意味ではなく、状態を言い表す「た」だ。 「独立な」というと、まるで「独立だ」という形容動詞があるかのような使い方だ。しかし、「独立だ」という形容動詞というのは果たしてあるのだろうか。懐かしい橋本文法によれば、「独立だ」は「独立」という名詞に「だ」という断定の助動詞が接続したものだということになるはずだ。 「健康だ」「立派だ」「変だ」「粋だ」というような形容動詞と呼ばれる言葉が、一つの状態を説明しているのに対して、「独立だ」というのは、一つの状態を説明している日本語としてはまだ完成されていないような感じを受ける。だから、「独立な」という言葉に少し不思議な感じを抱いてしまうのだ。 日常会話の中では僕も「独立な」ふうの言い回しをしているようなところもあるが、書き言葉の中ではそうしたものを出さないように自然に控えているような気がする。いずれは「独立な」というような表現も一般化されていき、「健康だ」の仲間入りをするのだろうが、もう少し時を待たねばならないと思う。 こうした少し不自然だと感じられる言葉も、話し言葉という言葉がもまれる場で、充分に口の筋肉と鼓膜の震えになじんでから、次第に市民権を得ていくのだろう。何でも少しずつ少しずつ変えていけば、結果の奇妙さにあまり気づかれることもないように思う。 少しずつといえば、国の舵取りも少しずつ少しずつ行えば問題が起きにくい。しかし、気づいたときにはもう大きく曲がっていて元の進路に戻れないところまで来ているというのが歴史なのだろう。過去を振り返るのは迷路を図面のうえで上空より眺めおろして進むべき道を確定するようなものだから比較的容易だ。しかし、実際には迷路のように入り組んだ半透明の壁の中をなりゆきや思い切りで進んでいくしかないのだ。 僕たちは、歴史という過去から学ぶことはできても、歴史をまさに作り出している今の判断を訂正することができるほど生やさしくはない道を歩んでいる。そういう生やさしくはない「今」という修羅場を生き抜くのだから、人間という生き方はなかなかスリルがあるとも言えるし、根性がいるとも言える。どうせなら、まさにアンジッヒからどう展開していくかの妙味を刹那刹那に味わう心のゆとりをもつべきだろうとも思う。 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑80「第四版99ページ・暗殺教団」 これは単なる説明不足ではないかもしれない。第四版99ページ「暗殺教団」の説明。 ただ「アサッシン派のこと。」とあるだけだ。たった9文字ではどうにもこうにも説明不足だと、誰もがまず指摘するだろう。 「派」の元になる宗教名が記載されていないのが問題だ。確かに「イスラム教アサッシン派のこと。」とすると、語弊がある。暗殺教団と現代のイスラム過激派のあり方が同調して、イスラム教という宗教に対する偏見を生みかねないからだ。 ここは「中世十字軍時代、イスラム教の異端宗派とされた伝説的な集団。」としてはどうだろうか。およその時間と空間を説明し、その所属を明記し、しかも異端であるということを付け加える必要があると思うのだ。そうしないと、過度に一般化されて解釈されやすく、偏見を生む原因となってしまうからだ。 このように宗教というデリケートな領域に関わる説明を9文字で済ませるというのは、どうしても納得がいかない。考えようによっては、イスラム教という言葉を隠蔽したことによる逆効果狙い、且つ言い逃れの余地を残した計算づくの悪意と受け取られても仕方がないような説明にも見えてくる。 「暗殺教団」といういかにも怪しげで興味をそそる言葉であるがゆえに、ここはぜひ言葉をもっと費やして説明してほしいと願うばかりだ。 ところで、人の幸せを追求する宗教であるにもかかわらず、どの宗教にも過激派が存在するのはどうしてだろう。人間というのは本当に因果な存在だ。 1/14/2007 怪しい広辞苑79「第四版96ページ・泡吹虫」 生物の大きさにはいろいろあるだろうけれど。第四版96ページ「泡吹虫」の2行目。 「成虫は体長約5ミリメートル。」とあるが、僕が見た泡吹虫の成虫は少なくとも10ミリメートルはあった。 いろいろな大きさのアワフキムシがいるのだろうか。それとも栄養満点の汁をすったのだろうか。あるいはアワフキムシに似た別の昆虫だったのだろうか。 小さな卵から生まれた後、みずから作った泡の中で育っていくのだから、それが5ミリメートルぐらいになることもあるだろう。でも、それは幼虫だ。成虫はもっと大きい。 大辞林第三版に「体長は普通7~14ミリメートル」と説明されていることに加え、僕自身の昆虫体験から、たぶん広辞苑が約5ミリメートルと書いたのは特別小さな種類の泡吹虫ではないかと思うのだが、どうだろう。 しかし、アワフキムシについては、僕の昔の昆虫体験の方が特別である可能性もある。小さい頃に限られているうえに、観察の範囲も自分が育った地域に限られているからだ。また、大辞林第三版のデータは、最近のアワフキムシが大型化していることを示しているのかもしれない。もしそうだとすると、広辞苑第四版が出版された十五年前の時点では、アワフキムシの成虫の体長のデータは正しかったかもしれないということになる。 ところで、広辞苑第四版のように成虫の体長が約5ミリメートルほどで姿が案外似ている昆虫に、ヨコバイがいる。ツマグロヨコバイなどは子どもの頃、自宅や自宅付近でよく見かけたものだ。 このヨコバイとアワフキムシの成虫の逃げ方は、なぜかとてもよく似ている。同じカメムシの仲間だからだろうか。一瞬のうちに弾けて視界から消え去るのだ。しかし、カメムシがそんな動きをするのは見たことがない。これはカメムシが彼らに比べて大きすぎるからだろう。 それにしても、あれはいったいどういう動きをしているのだろう。肉眼では観察不可能だ。トビムシみたいに跳ぶための器官があるのだろうか。それらしき物を見た覚えはない。もしかすると体をコメツキムシのように一瞬のうちに曲げて弾けるのだろうか。しかし、コメツキムシは仰向けにされたときだけバチンと音を立てて跳ねるのだから向きが反対だ。それとも脚を垂直に瞬間的に伸ばして跳ぶのだろうか。 そんなことはどうでもいいという人もいるだろうけれど、昆虫も含めた動物の逃げ方というのは実に生きていくうえで参考になるものだ。もちろん結果的にではあるけれど、自然界には体を張って人間にいろいろなことを教えてくれる生き物がいるということを忘れてはいけない。これを忘れると、硬直したつまらない生き方しかできなくなってしまうおそれがある。 アワフキムシの泡もそうだ。これは逃げ方というだけでなく、泡の作り方や泡のつくりだす世界を突きとめていくなかで、人間が生きていくうえでのさまざまなアイデアを得ることができるものだと思う。 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑78「第四版96ページ・阿波丸事件」 阿波丸事件の謎。第四版96ページ「阿波丸事件」の説明。広辞苑第六版ではどうなっているのだろう。 日本人にとって忘れることができない事件の説明に使われた語句が「広辞苑第四版」と「大辞林第三版」とでは異なる。双方とも、この国の代表的な辞書なのだから何とかしてほしい。 広辞苑第四版では「太平洋戦争で連合国側から安全を保証されていた救恤品輸送船の阿波丸が一九四五年四月一日台湾海峡で米潜水艦に撃沈され、乗船客二千人以上が死亡した事件。米政府は違法性を認めたが、四九年日本は損害賠償請求権を放棄。」 大辞林第三版では、「第二次大戦中の一九四五年(昭和二〇)四月。連合国軍から安全を保障されて、連合国軍捕虜への救済品を輸送する任務を終え帰航中の日本船阿波丸が、台湾沖でアメリカ潜水艦により撃沈された事件。アメリカ政府はその違法性を認めたが、四九年日本政府は損害賠償請求権を放棄した。」 ちなみにネットの大辞泉では、「 第二次大戦末期の昭和20年(1945)4月、連合国軍の安全の保障下に、日本占領地域の捕虜・抑留者への救済品輸送に当たっていた阿波丸が、帰路に台湾海峡で米国の潜水艦に撃沈された事件。」とある。 犠牲者が飛び抜けて多いことと事件自体の謎の多さ、そして、事件後の奇妙な展開において世界の海難事故の中では群を抜いている「阿波丸事件」 だが、ここは辞書の怪しさだけに絞って次の点を指摘しておくにとどめよう。 広辞苑第四版では「安全を保証されて」とある。それに対して大辞林第三版では「安全を保障されて」とある。中学校の国語のテストに出てきそうな問題だ。多数決だと、大辞泉も入れて、二対一で広辞苑の負けとなる。 「保証」は「うけあう」ことで、「保障」は「まもる」ことだから、「安全をうけあう」ということができる状態なら、広辞苑の勝ちなのだが、どうだろう。 戦争中なのだから、安全であることを前提とし、それを保証するなどということはできないのではないという立場からは、保障が正しいということになる。これが現実的な感覚だろうと僕は思う。もし、保証なら、どう保証してくれたのだろう。保証したのに撃沈されたのだから、保証書に相当する者があったかどうか分からないけれど、それに対する手当がなされなくてはいけない。それはいっさいなかったのだから、結果としては保証されていなかったことになる。しかし、意思の上で保証したと言い張るかもしれない。もしそうなら、ずいぶんと無責任な保証だ。何とかしようと思ったけれど、事情でやめたということに他ならない。アメリカの本性というよりも、戦勝国の特権とでも言った方が通りがよさそうだ。保証だとするとこういう事になってしまう。 一方、保障ならどうか。守るのだから、当然安全が犯されるということが前提だ。安全が犯されるのを守るということだ。この場合は何によって守るのか。阿波丸を攻撃してはならないという連絡の徹底と、監視だ。恐らく連絡の徹底はなされたはずだ。 しかし、命令をどれだけの重きをもって受け取るかは受け手による。さらに、それがどれだけ実行されるかというのは、また別の問題となってくる。戦争中なのだから、何が起こるか分からない。こうなると、安全を保障しようというという感覚の方が、保証という楽観的な感覚よりも道理のようにも思われる。 当時の通訳または翻訳担当者、あるいは記述責任者が日本語に直すとき、保障と書くべきところを間違えて保証と書いてしまった。あるいは、その逆のことが起こった。そこで連合国側と日本側に意識の差が生まれたなどということがもしあったと想像すると少し怖くなってくる。 連合国側の捕虜のための任務を終えた後の撃沈なので、計画的撃沈なのか。日本側が、阿波丸で任務を終えた後、便乗乗船と便乗輸送をするのは当然想定されたことで、これが戦局を長引かせる事につながると考えるのが自然だからだ。 もちろん事故だったとの見解もある。ドラマ化されたみたいだけれど見ていないので、書籍を探して読んでみようと思う。謎は謎のまま残るだろうけれど、それだけ推理する余地があるということで、ぼけ防止につながりそうだ。 ★ホームページに戻る 1/13/2007 突然思い出したこと72「お勉強」 かつて子どもは多くのことを生活の中から学んでいた。それが明治以降、わずかな数の教科に絞られてしまった。でも、まだ家庭や地域社会から多くのことを学んでいた。だから、それらの教科を学び加えていくことに大きな意味があった。家庭や地域社会での生活から学んでいたことに根拠を与えたことによって知恵に深まりがもたらされ、そこから学べないことに触れることで知識と行動に広がりの可能性をもたらしてきたのだと思う。 しかし、教科の学習成績をよくしようと、教科の学習が苦手な子どもも教科の学習に絞って努力を傾けるようにしむけられてしまった。これが学習における勉強だ。学習の内容そのものが基礎的で、下手をすると扱いようでは面白くない。そこで、競争させることでやる気を出させるという方法も取り入れられることになる。受験制度自体もそうした仕組みだろう。 当然、成績が上がるのをよしとする。しかし、いくら成績が上がったといっても所詮は教科で習う内容をどこまで理解し、応用できるかということを測定した結果にすぎない。つまり、学校で出す成績は、結局は試験の出来具合にすぎないということだ。 こうした試験に備えるための努力を通して、もし、鍛えられているものがあるとすれば、忍耐力、集中力、持久力の類だろう。もし、生み出されているものがあるとすれば、同じ目的や課題を背負っているということによって生じた仲間意識の類だろう。これ以外にもあるだろうけれど、残念ながら今は思いつかない。 考えてみると、試験勉強というものは、ずいぶんと特殊な学習だ。一般的な学習では、およそ試験に出そうにないことでも興味や必要があれば調べたり考えたりして、自分の意見を持ったり、感想を持ったり、行動を起こしたりするものだ。だから、どこまでも面白く、苦労がそのまま楽しい。しかし、これが専門的になると、研究の域に入ってしまう。 もしかすると、入学試験のあり方を変えると、通常の試験のあり方も変わり、普段の勉強の方法も変わるかもしれない。そうすれば、学生たちの取り組みも変わっていくだろう。 入学試験はペーパーテストや作文、面接などが基本だが、それに加えて ①受験会場で授業。座席位置の不公平をなくすため、受験生は個々に渡されたモニターで一度だけ視聴。 ②その授業で得たものと疑問をできるだけたくさん書く。 ③得たものと疑問を元にして、何をどのように追究すべきかを作文する。 ④その授業からひらめいたものやアイデアをできるだけたくさん書く。 これらを課し、得点化するというのはどうだろう。一部の受験者が対象となるようにすれば、採点の負担も少なかろう。さて、いったいどんな受験勉強をするのだろうか。 そんなことよりも受験問題といえば少子化だ。伝統とか陣容とかの看板力をあてにできない学校はどうするのだろう。 少子化といえば、団塊の世代からお年玉をもらう少子化世代の集金量はかなりのものだ。しかし、彼ら自体に集金力があるわけではない。この辺りの勘違いをなくしておかないと、集金力にみあわない支出をするおそれもある。 痛い目に遭うのもお勉強といえばお勉強なのだが。 |
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