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1/30/2008 怪しい広辞苑132「第四版144ページ・板目」 広辞苑第四版144ページ「板目」のイラスト。これは検討してほしい。 ここにはイラストが二つ示されている。上のイラストは「板目」のイラストなのに、下のイラストが「木口面」のイラストになっているのがまずい点だ。 おそらくイラストを描いた担当者は、「板目の板」を表現したいために、上に「板目の板」の「正面図」、下に「板目の板」の「平面図」を描くというスタイルの投影図を示したのだと思う。こうして、立体的な「板」のありようをイメージしてもらうとともに、「板目の板」の木口面の特徴も知ってほしかったのだろう。 しかし、残念ながら、ここでは「板目の板」ではなく、「板目」を図示してほしいところなのだ。従って、下の「木口面」のイラストはいらない。逆に、この「板目」ならぬ「木口面」のイラストがあることによって、「板目」の意味を勘違いする利用者が生まれる可能性すらある。あくまでも「板目」は上のイラストが示しているものだけだからだ。 まずいことに、その「板目」ならぬ「木口面」の下に〔板目2〕という説明が記されている。つまり、「板目」のイラストと、「板目」という説明の文字の間に、「木口面」のイラストが差し込まれている格好になっているのだ。これは説明あり方としてはまずい。 もし、どうしても「板目」ならぬ「板目の板」をイメージさせる複数のイラストによって「板目」を説明したいのならば、上のイラストに対しては「板目」という説明を記し、下のイラストに対しては「板目の板の木口」あるいは「板目の板の木口面」とするのが誤解を招かぬ説明となろう。 もし、これがイラストの説明としては長いというのなら、「板目板の木口」とするしかない。このようにイラストごとの説明を付けたうえで〔板目2〕と記せばよい。 このように説明を記していけば、木口面でどのような板取をすると、「板目模様」の「板」となるのかが明らかになる。 ところで、「木口」に「こぐち」と読み仮名を付ける必要があるかどうかについては検討の余地があるだろう。読み仮名を付ければ確かに年少者には分かりやすくなる。しかし、ただ読み仮名だけで分厚い辞書になっていっても困る。半世紀という歴史をもつ辞書だけに、編集部の判断というものにはなかなか難しいものがありそうだ。広辞苑第七版ではどこに向かっていくのだろう。 ★ホームページに戻る 1/29/2008 怪しい広辞苑131「第四版144ページ・痛み・傷み」 例によって紛らわしい。広辞苑第四版144ページ「痛み・傷み」の見出し語の書きぶり。広辞苑第六版ではどうなっているのだろう。 「痛み」と「傷み」は、同じ「いたみ」だから、きっともともとは同じなのかもしれない。しかし、実際の生活では意味合いに応じた使い分けをしている。この意味合いの違いを漢字の使い分けによって区別できるかどうかというのは、学校のテストでもお馴染みの問題だ。こうした現実を無視して、毎度毎度、二種類の表記を見出し語に同居させるのはどういう了見なのだろうか。まさかとは思うが、いろいろな説があるから玉虫色の処理をしたというのではあるまい。 結局のところ学習者は広辞苑を調べても漢字の使い分けを解決できない。分厚い広辞苑だから調べるのにかかる時間もかかる。にもかかわらず、厚い辞書を一生懸命に探したのに問題が解決しないのだ。 このストレスと失望感は国語の勉強嫌いをつくるに違いない。それでも学習意欲のある者は、調べやすい普通の国語辞典を愛用するようになる。これは火を見るよりも明らかだ。利用者のニーズに応えるのがまず第一歩だったはずだ。そういうことは普通の国語辞典で調べてくれないかという声も聞こえそうだ。果たしてこれでよいのだろうか。広辞苑はどのような道を歩もうとしているのか。 つまるところ、広辞苑という辞書は誰のために編集されているのだろうという素朴な疑問を持つに至る。こう思うのは僕だけだろうか。それに日本を代表する辞書が間違い探しなどの格好のターゲットとなるのはよろしくないことだと思う。しかし、販売され続ける以上、不都合だと思われるところは指摘し続けなければならない。これは悲しいことだ。その指摘が的はずれであるのなら、それを指摘する人が出てくればよい。これはうれしいことだ。 こうした作業を積み重ねないと、いつの間にかこの国の言葉がいい加減なものになってしまう。ここは一つ専門家に立ち上がってほしい。各分野の専門家だけではない。一般人のたわごとはどこまで行ってもたわごとにすぎないのだから。だが、本当に必要なのは辞書の専門家だ。 ★ホームページに戻る 1/28/2008 怪しい広辞苑130「第四版143ページ・板付け釘」 広辞苑第四版143ページ「板付け釘」の説明の2行目。 「長さ五、六分の釘」とあるが、どうだろう。そろそろ尺貫法表記にもきりをつけるか、教育的にメートル法表記も併記するか考えた方がよいのではないだろうか。 1966年に尺貫法を公に使用することが禁止されてから既に40年以上経つ。もちろん生活に根拠のある尺貫法の方が合理的だったのだが、時代の流れだから仕方ない。国民的辞書として名だたる広辞苑は時代をリードしていかなければならないと思う。 ここは現時点では「長さ20ミリメートル弱の釘」とするのが妥当だろう。あるいは、「長さ五、六分(20ミリメートル弱)の釘」とすれば親切だ。後20年もすれば、尺貫法になじめない人ばかりの世の中になる。そのころには広辞苑第8版が出版されるだろうから、そこでは「長さ20ミリメートル弱(尺貫法で五、六分)の釘」と逆転させて表記するのがより教育的でよいかもしれない。 さて、「一寸五分ほどのびた。」という文を見ただけでは、「ちょっと五分ほど会議が延長した。」のか、「一寸五分という長さだけ枝が伸びた。」のかがわからない。「一寸」が「ちょっと」なら、副詞であるから平仮名書きにすればよいだけの話だが、「5分」を「ごふん」と読むか、「ごぶ」と読むかは、平仮名書きにするのは一般的ではないので、前後の文を見ない限りは判別不能だ。しかし、後に「ちょうどよく切るべきだ。」とつないであっても、どちらで読んでいいのかこの場合は結局分からない。これは特別な例だが、思わぬところで勘違いが生じかねない。 ところで、尺貫法という文化を失うことに対しては、なぜかまだ抵抗がある。「百貫でぶ」という言葉は既に死語だが、そんな差別用語に対してもなぜか郷愁を感じる僕は人間が古いのだろうか。百貫は文字どおり百貫なら375キログラムだから、小錦より約も100キログラム重いということになり、通常ではあり得ない体重だ。極限の肥満だ。 したがって、「百貫でぶ」よりも自分は体重が軽いのだということで、肥満を苦にしている者は自分自身で慰めるための言葉としてありがたい存在であったはずだ。しかも、周囲の人々から「百貫でぶ」とからかわれても、実際にはその三分の一もない。明らかに自分は「百貫でぶ」ではないと断言できるほど、あまりにかけ離れた数字であるため、これもまた一種の合理化で、憤慨しながらも実は癒しとなっていたはずなのだ。この言葉が失われたことによる精神的なストレスというものはどれだけのものがあろうか。ただ単に「でぶ」と言われたら、自分の体重をたとえ5キログラム減らしても平均体重より重ければ、その努力のかいもなく確かに「でぶ」に間違いないとうちのめされるのだ。いくらきりがいいからと言って、「100キロでぶ」というものの言いようは、現実的で攻撃的だ。 つまるところ、時代の流れのなかで「百貫でぶ」というあり得ない肥満を仮想することによって得られるメリットはもう失われてしまったということだ。 ★ホームページに戻る 1/27/2008 怪しい広辞苑129「第四版143ページ・平題箭(いたつき)」 広辞苑第四版143ページ「平題箭」(いたつき)の説明。 「的前(まとまえ)の練習用の鏃(やじり)。」とあるが、これでよいだろうか。見出し語は「平題箭」とある。「箭」は「矢」だから、「平題」を装着した「箭」という意味であると思う。もちろん「いたつき」は「鏃」の仲間だが、「いたつき」を装着した矢のことも「いたつき」という。つまり、「いたつきをつけた矢」を省略したというわけだ。 しかし、説明には「練習用の鏃」とある。これでは都合が悪かろう。この説明を生かすなら、見出し語を「平題箭」ではなく、「平題」とすべきだろう。しかも、「平題」としたうえで、「平題を付けた矢のこともいう。平題箭(いたつき)。」と説明を付け加えるのがよいと思うが、どうだろう。 「いたつき」は板の的を突くための矢尻だ。板なら割らねばならない。板に刺されば矢を抜くのが大変だ。抜くときに折れるかもしれない。矢尻の先端が鋭く尖っていれば刺さってしまい、後始末が大変だ。稽古にならない。板が厚ければ矢への衝撃が強くて矢が傷んだり、跳ね返って危険だ。そうなるとやはり板を割らねばならない。必然的に矢尻の先を平にすることになるが、弾道を安定させるためにはある程度は尖っていなければならない。 イラストを見ると3種類の矢尻が描かれている。右端のものは肉厚で竹の本体の直径よりも矢尻の直径の方がかなり多くなっている。これは木製か角製だろうと思われる。金属なら竹の本体にかぶせる部分の直径を減らして薄くすることができる。その薄くしたものが中央と左端の矢尻だろう。 刃物ではない「いたつき」であるとはいえ、この三つの矢尻のイラストを見た感じでは、右端が巻き藁用、中央が近的用、左端が遠的用のように思われる。近的競技が主流であるため、中央のタイプが一般的に「いたつき」と呼ばれている矢尻だと思う。近的競技は的紙を射抜くのだが、その時の音も中央のタイプのものの方が平らに近くてよい音が出るように思う。 右端のものは羽のついていない棒矢の矢尻に似ている。棒矢というのは、巻き藁を至近距離から射て、的前に立つための稽古をするときに使用するものだ。弾道を安定させる回転を与える必要がないので、羽を付けないのが普通だ。この巻き藁を射るときに、中央の「いたつき」を使えば、藁がすぐに中に突き込まれて傷んでしまう。ひどくなれば刺さらなくなるか、跳ね返る恐れもある。至近距離なので危ない。そもそもこの場合は的とは言わない。従って、右端のものは巻き藁用ではないかもしれない。 中央のものは先端が小さく突起している。しかし、その後は比較的平らになっている。最初の小突起で板に刺さって位置が決定した直後に平らな部分が衝撃を与えるために板が割れやすくなると思われる。弓具店で売っている矢尻と称するものはほとんどがこのタイプだ。しかし、それで流鏑馬のように板の的を割るという稽古をする訳ではない。直径一尺二寸の丸い木製の枠に新聞紙をはり、その上に印刷された的紙をはって約28m先に置いて狙うのだ。このとき枠のつなぎ目に刺さることもあるが、大方は的紙を貫通した後、土に刺さるか、的から外れて直接土に刺さることになる。 左端のものは遠的ようにも見える。遠的の的は大きいのだが、畳のようなものだ。これに対して中央の「いたつけ」を使っても刺さるが、右端のように大きくないものがよいだろう。中央のように小突起を持つ必要もなく、畳のような固い的に刺さった場合に後で抜きやすいような左端のような「いたつき」が適当であるように思う。 こうしたことは稽古をしたものでないと判断がつかない。従って、三つのタイプを掲げた以上は、それぞれどういうときに使うものであるかを記す必要があると思うのだが、どうだろう。そんな説明は不要だというのならば、最初から中央のイラスト一つでよい。 それにしても、「平題」というのはどうして「平頭」ではないのだろう。「題」と「頭」は似ているが、何かいわれがあるのだろうか。まさか矢「尻」だから「頭」では困るというのではあるまい。 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑128「第四版140ページ・依存効果」 広辞苑第四版140ページ「依存効果」の述語分類。 述語分類については、広辞苑第四版の凡例15ページ「述語の分類」において「専門学術用語には、その分野を明らかにするため、必要に応じて、解説の冒頭に〔 〕でかこんでその語の分類略語を表示した。」とある。 大学の教養課程で、近年お亡くなりになったガルブレイスの代表作「ゆたかな社会」を紹介されたことを思い出した。だから、「依存効果」は経済学の学術用語だと思っていた。どうして〔経〕という分類略語が見出し語の後に記されていないのだろう。「必要に応じて」とあるから、必要ではなかったのだろうか。しかし、どうして必要ではないと判断したのだろう。 さて、広辞苑第四版による「依存効果」に分類略語が付けられていない理由は次の五つのうちどれなのか。 ①経済学の学術用語としてではなく、既に一般語として浸透していると判断し、分類略語を付けなかった。 ②主流ではない経済学の用語に過ぎず、流行語の類であるため、分類略語を付けなかった。 ③大企業が消費者の心を操作するというイメージの悪い解説を学術用語として認めるのをはばかり、分類略語を付けなかった。 ④有名なガルブレイスの学術用語であることが明白であるため、敢えて学術用語であることを示す必要がないと判断し、分類略語を付けなかった。 ⑤単に分類略語を付け忘れた。 ガルブレイスは極めて有名な経済学者ではあるけれど、いわゆる経済学者たちとは毛色が違うように思う。わかりやすく素人受けする。しかし、素人が分かりやすいということはとても大事なことだ。これをやれない学者は一流ではない。 大辞林第三版には載っていない「依存効果」に対する広辞苑第四版の説明は次のとおり。 「現代社会における消費者の欲望が自律的ではなく、企業の働きかけによって喚起される現象」とある。消費者の欲望が生産者の欲望に依存しているというこの断定的な説明の内容なら〔経〕をつけてもよさそうなものだが、どうだろう。 因みに、「デモンストレーション効果」の方には〔経〕という分類略語が付けられていた。「デモンストレーション効果」に対する広辞苑第四版の説明は次のとおり。「各人の消費性向が周囲の人びとの消費水準に依存する現象。」とある。これはこれで「依存効果」の説明だ。 ともあれ広辞苑第四版では「依存効果」と「デモンストレーション効果」の二項目を掲げている。消費者の欲望が何に依存するかが「企業」と「周囲の消費者」の二種類挙げられていることになるため、依存のあり方をそれだけ幅広く説明している立場を取っていることになる。ただし、「依存効果」については学術用語として認めていない姿勢を取っている。これはなぜだろう。学術用語として既に否定されている言葉ならば、その旨を記すべきだろうと思うのだ。 これに対して大辞林第三版では「デモンストレーション効果」の方しか掲げられていないため、「企業」による働きかけが無視されてしまっている。ガルブレイスの「依存効果」を認めない経済学の立場からすれば、それでよいのかもしれないが、市民感覚としては両方を感じ取ることができる。これを無視しても問題ない理由がどこかで説明されていればよいのだが、それはどうもなさそうだ。辞書で全て解決しようと思ってはならないということだろう。 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑127「第四版140ページ・石上寺」 広辞苑第四版140ページ「石上寺」(いそのかみでら)の説明の5行目。 「僧正遍昭・素性が住んだところという。」とあるが、これでよいだろうか。 遍昭は僧正だが、素性は僧正ではなかったはずだ。この説明だと、素性までが僧正であったかのように読み誤る可能性がある。 ここは「僧正遍昭・素性法師が住んだところという。」といようにして「素性」が「素性法師」と一般的に呼ばれているということを示した方がよいのではないか。「遍昭」にだけ肩書きをつけるのはバランスが悪かろう。「素性」が僧正でないことなど常識だと言われそうだが、この常識を身につけていくためにこそ辞書を利用するというレベルの年代が利用者のほとんどを占めているということを忘れているようでは、逆にその利用者無視の姿勢を咎められることになろう。 また、「素性」には「そせい」という読み仮名を付けた方がよいかもしれない。中途半端な学力の中高生が「すじょう」と読んでしまう可能性はゼロではなかろう。かえって小学生なら素直に「そせい」と読んでくれるかもしれない。 普通なら「石上寺」などの項目を小中高生が調べることはないのだろうが、調べ学習の時間が昔よりも増えている以上は、中途半端な学力の利用者が広辞苑をありがく思って利用する可能性も昔より増えているはずだ。そんなに労力のいることではないので、第七版までに改善してほしい。 ところで、よかれあしかれ至れり尽くせりでなければ、現代日本での商品価値は低い。広辞苑の商品価値を何とかして上げたいので、取り敢えずは第五版のチェックは省略して、第六版を綿密にチェックしていかねばならないかもしれない。このペースだと、広辞苑第六版のチェック終了は、広辞苑第七版が出版された後になるかもしれないからだ。何せたった一人の作業、しかも気まぐれに読んでいるので、時間がかかる。 こんなチェックはつまらぬ滅私奉公のようにも見える。しかし、たとえ広辞苑が絶版となっても、誰かに利用され続けている限りは続けようと思う。多少なりとも利用者の参考となればよい。その他、ブログの話題の種が尽きないという利点もある。このようにして長くネットに置いておけば、誰かが僕の浅見を訂正してくれる可能性も少しずつ増えてくるに違いない。 岩波書店は広辞苑を進化させたというが、進化には年月と労力が必要だ。本当に進化させるためには、一部の専門家に任せるのではなく、利用者である国民みんなが意見を出して広辞苑を育てるのがよいだろう。そうすれば、使いやすくて分かりやすい真に日本を代表する国民の辞書ができあがっていくだろうと思う。利用者が増えれば増えるほど、出版社に対するこうした支援は今後ますます重要な意味を持ってくるように思われる。 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑126「第四版140ページ・イソロイシン」 広辞苑第四版140ページ「イソロイシン」の説明。 「必須アミノ酸の一。」とだけあるが、本当にこれだけの説明でよいのだろうか。他の必須アミノ酸の説明もこれと同じなら仕方ないとも言えるが、それではお粗末すぎる。 必須アミノ酸の説明を相互に比較すると、その説明不足がよく分かる。「イソロイシン」はその中でも群を抜いて説明不足だ。これにはどのような理由があるのだろう。とにかく利用者はここで首をかしげることになる。 確かに広辞苑第四版の後記には「一語一語に的確簡明な定義を与え」という文言がある。文字どおり「的確簡明」なのかもしれない。しかし、「ヒスチジン」以外の必須アミノ酸の説明に「必須アミノ酸の一」という説明を等しく加えている以上、他との区別をするために、その機能や性質をどうしても加えなければ、どのような理由があろうとも、「定義を与え」たということにはならないと思われるのだが、どうだろう。 また、その他にも「蛋白質の構成成分」「蛋白質の成分をなす」「ほとんど全ての蛋白質に含まれる」などのように表記の揺れがあるため、こともあろうに利用者はそこにどのような意味合いの違いがあるのかを考えて判断することを迫られる。考えさせられても、情報不足のために結局は腑に落ちないので、それが広辞苑利用者にとって大きなストレスとなる。 ところで、「ヒスチジン」が、広辞苑では必須アミノ酸としての扱いがなされていないというのはどういうことだろうか。広辞苑第四版を新たに出版する1991年時点では、とうの昔に必須アミノ酸として扱われていたと思われるのだが、これは僕の勘違いだろうか。 ①イソロイシン…………必須アミノ酸の一。 ②トリプトファン………芳香族アミノ酸の一。必須アミノ酸として、生体内でインドール・セロトニン・ニコチン酸などの生成に関与し、生理上重要な物質。 ③トレオニン……………必須アミノ酸の一。蛋白質の構成成分。スレオニン。 ④バリン…………………必須アミノ酸の一。蛋白質に多く含まれ、TCA回路に関与する。 ⑤ヒスチジン……………蛋白質を構成するアミノ酸の一つ。塩基性を示す。 ⑥フェニルアラニン……芳香族アミノ酸の一つ。卵白などの蛋白質に含まれ、生体内では代謝経路のなかでチロシンに変る。必須アミノ酸の一つ。 ⑦メチオニン……………必須アミノ酸の一。硫黄を含み、蛋白質の成分をなす。 ⑧リシン…………………必須アミノ酸の一。ほとんどの蛋白質の成分で、特にヒストン(核蛋白質)・アルブミン・筋肉蛋白質に多い。食物に添加して栄養価を高めるのに用いられる。リジン。ライシン。 ⑨ロイシン………………必須アミノ酸の一。ほとんど全ての蛋白質に含まれる。 ★ホームページに戻る 1/26/2008 怪しい広辞苑125「第四版140ページ・磯蜷(イソニナ)」 広辞苑第四版140ページ「磯蜷」の説明の4行目。「……の磯に普通。」とある。これはどういう意味であろうか。 広辞苑の説明では、「……の磯に普通にすむ。」なのか、「……の磯に普通はすむ。」なのかが分からない。前者と後者とではまるで意味が違ってくる。前者は「……の磯に通常見られるありふれた貝。」という意味合いで、後者は「……の磯に平常時はいるが、(特別な時期には)いないときもある。」という意味合いになる。これでは困る。ともかく、「普通。」のあとに十数文字分の余白があるのだから、妙な省略をする必要もなかろう。 いる場所だけでなく、食べられるかどうかも大事なことだが、これも記述がなくて不明確だ。また、イラストがないので、形のイメージがわかない。 そこで、広辞苑第四版の主な貝の仲間の説明を探して、「どこにいるか」「食用か」「イラスト」というポイントでみると、次のように不統一であることがわかる。これは第六版ではどのように改善されているのだろうか。 つまり、主な貝の中では「イソニナ」の説明だけが例外で、「普通。」で終わるという中途半端な説明だということだ。「サザエ」の説明の「日本近海に多く」というのは誤解が生じないのでよいが、「イソニナ」の説明が「普通。」で終わってしまうのだけは、どうにも釈然としないのだ。 「どこにいるか」についての説明も、貝によって「分布」「産す」「産する」「すむ」「消息」などと異様にバリエーションがあり、不統一だ。ただし、何が何でも単純に統一してほしいというのではない。ニュアンスの違いがあれば、説明で分かるようにしてほしい。もしかすると、微妙な意味の違いを読み取ってくれという構えなのだろうか。しかし、説明が命の辞書がそれでは困る。仮に意味合いが違うなら、それと分かるようなものの言い方にする必要があると思う。 「食用か」という点については、それよりも「美味」という説明があることについて違和感を覚える。「アサリ」は美味で、「アワビ」は記述なしというのは、異論のある人もいるのではないだろうか。およそ「美味」などというのは、感覚的なものだから、流行もあり、説明に入れるにはあまり向かない言葉のように思われる。ただし、広辞苑の版を重ねるごとに、「美味」と感じている貝についての調査を行い、記述を更新していくようにすれば、人の嗜好の変化の記録となり、それはそれで面白いかもしれない。 「サザエ」の壺焼き、「ウバガイ」(ホッキガイ)の天ぷらなど、調理方法の記述も見られるが、「キサゴ」は「どこにいるか」「食用か」のどちらとも記述がない。キサゴの仲間の「ナガラミ」は広辞苑には載っていないが、サザエやウバガイと同様に美味だと思うのは、僕だけだろうか。 「イラスト」の有無については、イラストを載せる基準が分からない。「スイジガイ」(水字貝)のような奇妙な形の貝については載せるのは当然だろうが、「サクラガイ」のように一般的な形の二枚貝のイラストを載せるのはどうだろう。小さくて桜色がかわいいサクラガイも、広辞苑の白黒のイラストで見るかぎりは、実物とは程遠いイメージで、逆効果のように思われてならない。 もし、イラストを載せる基準がないのならば、ここで一つ提案したい。第一に形に特徴がある貝。第二に食用にしている貝。これらの貝のイラストを載せるのが妥当ではないか。いろいろな意見があって収拾がつかないのなら、全てにイラストを載せるようにすればよい。第六版で一万語程収録語彙を増やしたのだから、ものはついでというものだ。広辞苑第七版は何とかしてほしい。 アサリ……肉は美味。 砂泥中にすみ、 アワビ……岩礁にすむ。 肉は食用 アコヤガイ……内湾で養殖され、 アカガイ……内湾・内海などの、水深10mくらいの砂泥底に分布。 アカニシ……暖かい浅海の砂泥底にすむ 肉は食用 イソニナ……磯に普通。 イタボガキ……内湾・内海の砂礫底に消息。 肉は美味。 イタヤガイ……肉は食用とし、貝柱は乾物 日本全国に分布。 イラスト ウバガイ……寒海の砂泥底に生息。肉は生やてんぷらなどで食べ、またひものとする カラスガイ……淡水生で、池沼の泥に半ば潜ってすむ。 カキ……肉は栄養に富み美味。全国に分布し カワニナ……河湖に消息 キサゴ……イラスト クロチョウガイ……暖海に産する。 サザエ……肉は壺焼きなどにし、 日本近海に多く 海藻を食う イラスト サクラガイ……内湾に産し、 イラスト サルボウガイ……海産 イラスト シジミガイ……淡水または汽水産。肉は食用。 シャコガイ……肉は食用。熱帯珊瑚礁を中心に七種、うち、わが国には五種が分布 イラスト シロチョウガイ……熱帯西太平洋に分布 スイジガイ……暖海に産する イラスト タイラギ……浅海泥底中にすむ 貝柱は大きくて美味 イラスト ツメタガイ……潮間帯の砂の中にすみ、二枚貝の殻に穴を開けて肉を食う イラスト ツキヒガイ……浅海の海底にすみ、貝柱は食用 イラスト トリガイ……内湾に多く産し、 食用として賞味。 トコブシ……日本全国に分布し浅海の岩石下などに産して 食用とする イラスト ドブガイ……水深1~2メートルの泥の多い池や沼にすむ イラスト ハマグリ……砂泥中に産し、 肉は食用。 ハイガイ……三~四年間養殖して食用とする 沿岸の泥深い浅海に多い イラスト バカガイ……浅海に広く分布し、 食用。 イラスト バイ……沿海に産し 肉は食用となる イラスト ホラガイ……ヒトデ類を食べる 沿海に広く分布 肉は食用。 イラスト ホタテガイ……寒海の砂底に多産。 貝柱を賞味 イラスト ホシダカラガイ……分布も広く、 暖海に産する イラスト マテガイ……浅海に産し、 砂泥に深く垂直に潜ってすむ。 美味。 ミルクイガイ……内湾浅海に広く産し、 食用。 ムラサキイガイ……いたるところの内湾にみられる。 食用。 モノアラガイ……池や湖沼にすみ イラスト レイシガイ……岩礁に分布 イラスト ワスレガイ……浅海の砂底に産。 (その他、省略分は確認せず) ★ホームページに戻る 1/21/2008 怪しい広辞苑124「第六版の改訂の実際」 今回の広辞苑第六版の「芦屋」の説明が大間違いだったという記事を見た。半世紀も放置されていたということで驚きの事実とされているらしいが、別に驚くことはない。他にも大量にあるからだ。間違いだけでなく、不適切な部分の多さが問題だ。これを正しくしていかねば困る。 広辞苑第三版の発行当初、「ヘパリン」の大間違いを丁寧な書面で岩波書店に指摘した後、何の音沙汰もないため、第四版でも同じ大間違いをすると思いきや、訂正がされていた。書面では次の出版まで時間がかかり被害者が出るため、ネットで即時的に広く世間に指摘部分を考えてもらおうと、これまで広辞苑第四版を不定期に140ページまで読み進めてきた。 その間100箇所以上の不適切な箇所と誤りを指摘しながらも、素人というのは恐ろしいもので、「芦屋」の間違いにも気づかなかった。当然だ。ほとんどのことに素人だからだ。それよりも、これまで半世紀も間違いが訂正されなかったということの方が当然のことかもしれない。 第一に、ほとんど誰も利用しない見出し語を載せているということ。第二に、この辞書は国語辞書の最高峰だと自画自賛していること。第三に、版を改めるたびに全ての説明を専門家に見直してもらっていると言っていること。第四に、間違いや不適切だという指摘を受けても無視するということ。これらが広辞苑の体質としてあるというのがその理由だ。広辞苑の体質というよりも、岩波書店や広辞苑編集部の体質だ。これは間違いない。 振り返ってみると、広辞苑第四版の間違いや怪しい箇所や不適切なところを1ページ目から順に読み進めながら、ここまで来たが、自分の読み方にも随分とむらがある。字が小さいので、少し読むと飽きてしまって何週間も何か月も読まなくなる。また、一つ一つの表現にひっかかりを覚えて、他の資料で確認するときもあれば、何となく読み進めていってしまうときもある。 今回の「芦屋」の指摘については、じっくり読んでいても僕は気づかなかったはずだ。人それぞれ一定の知識しかなく、それを土台として違和感を感じた所については何か引っかかりを感じて読み返すことになる。すると、おかしさが次第に浮き彫りとなってくる。ここまできて漸く説明の不適切さや間違いを文章化できる。そうした幾つかの段階を経なければならないということだ。その途中で面倒になったり、訳が分からなくなれば、文章化まで進まない。 さて、説明の一つ一つを見直しているという広辞苑のうたい文句は既に嘘だと分かっている。なぜなら、一般人の僕に140ページ読まれただけで、随分と指摘すべき箇所が出てきている。その見方が正しかろうが、正しくなかろうが、指摘を受けること自体が既に辞書としてまずい。 広辞苑をずっと使い続けていきたい僕は広辞苑のためにボランティアでこれからも読み続けようと思う気持ちを強くした。このように思ういろいろな人が増えれば、たくさんの指摘がなされ、岩波書店としては、それを取捨選択して正しいものだけを選べばよいという状態にしてあげなければならない。 そうして広辞苑が理想的な辞書に次第に近づいていくように支援していかねば、いつか廃れてしまうに違いない。だから、特に専門家たちには遠慮なく指摘していってほしい。大御所の名が書き連ねてあっても大丈夫。匿名で指摘すればよい。ボランティア精神が大事だ。 第六版を買っても、広辞苑第四版をやはり見直していこう。第六版を買わない人も多いからだ。それにどのように説明が改善されているか改訂の実際が分かるからだ。 ★ホームページに戻る 1/20/2008 怪しい広辞苑123「第四版140ページ・磯笛」 広辞苑第四版140ページ「磯笛」の説明。 「海女が水中での作業を終え浮上したとき鋭く吸う息。口笛のように聞こえる。」とあるが、どうだろう。 「浮上したとき鋭く吸う息」とあるが、これは「浮上したとき鋭く吐く息」または「浮上したときに行う呼吸を整えるための息づかい」などのようにした方がよいのではないだろうか。 息を詰めた苦しい作業の直後には、酸素を素早く供給しなければ、体力の回復が遅れ、作業量の低下につながる。素人考えだが、これを解消するには、まず海面に顔が出たらすぐに大きく息を吸う必要がある。次に、大きく開いた口から吐くのではなく、狭い口から吐くのがよいように思う。狭い口から鋭く吐くようにすると、肺の中の空気に圧力がかかり、酸素が強制的に供給されるのではないかと思うからだ。逆に、大きく開いた口から吐けば、呼吸が整うどころか、かえって荒くなってしまう。 しかし、こうも考えられる。海面に浮上してすぐに大きく息を吸ってしまうと、急な変化が肺に起こって、ダメージが大きくなる。しかも、水中眼鏡をしていて鼻で呼吸できないから、口呼吸になって余計な苦しさがある。そこで、口呼吸であっても鼻呼吸のような効果を生み出すために、鼻の穴二つ分ほどに口を開けて空気を吸うようにする。これは口を大きく開けて吸うよりも抵抗があるが、そのために呼吸が整えられ、息が荒くなるのを防ぐとともに、鼻呼吸のように湿度を与えられたのどや肺に優しい空気を得ることができるはずだ。 しかし、呼吸を整えるのには、常識的には吸う息と吐く息の両方でコントロールをかけなければならない。だから、吸う息と吐く息の両方だと考えるのがよいのではないだろうか。 両方と考えた場合でも、実際にはそのどちらで音が出るかは分からない。実際にやってみると、出そうと思えば、どちらでも口笛の音を出せるからだ。調査したわけではないから想像になるが、吸う息か吐く息かのどちらか片方で音を出す人もいれば、両方で音を出す人もいるのではないだろうか。やはり「吸う」にこだわらず、「呼吸」とか「息づかい」という言葉を使った説明の方がよいように思われてくる。 また、「海女」とあるが、「海士」もいるから、これを無視してはならないように思うが、どうだろう。「海女」は磯笛を吹くが、「海士」は吹かないのだろうかということになってしまう。「磯笛」は、余裕の口笛ではなく、苦しい呼吸を整えるためになされるためのものであるはずだから、男女の差はないように思う。海士の人数が少なく、一般的には女性の仕事であるため、「海女」という言葉で代表させたのだろうか。 ところで、「磯笛」は呼吸を整えるだけのものだろうか。そうした生理的な問題を解決するための働き以外に「安全確認機能」と「人間関係確認機能」があるのではないかと想像する。 「安全確認機能」を持つと想像するのは、「磯笛」の音が「無事に元気で仕事をしているよ。」という合図になっていると考えるからだ。海に潜るという危険な仕事だから、お互いに合図を出して、その無事を確認し合い、確認できぬ場合には、捜索を開始することになる。音も人によって高さや大きさや音色が微妙に違うはずで、仲間ならこれを聞き分けられると思う。また、波で声はかき消されても、高音の「磯笛」は耳に届くだろうから、このことも都合がよい。 事故に遭って浮上できない仲間がいるかどうかを判断するだけでなく、仲間がどの程度体力を消耗しているか、体調はどうかなども、この「磯笛」の鳴りようで判断できるなら、事故の予防にもなるだろう。 「人間関係確認機能」は、「私はベテランよ。」「私の方が先輩よ。」「私の方が仕事ができるよ。」「私の磯笛はなかなかいい音だろう。」ということを宣言して、人間関係を実地で確認する働きだ。もともと、こんなことは言葉で表現したら全くの噴飯ものだ。しかし、「磯笛」であれば遠回しのかわいい主張ということにしてくれるかもしれない。それでも、先輩を差し置いて自分が大きな磯笛を美しく鳴らしているのは挑戦的な態度として評価されるのではないかと予想する。 ★ホームページに戻る 1/16/2008 怪しい広辞苑122「第四版139ページ・磯貝」 広辞苑第四版139ページ「磯貝」の説明の2行目と3行目。 2行目に『「磯貝の」を「かた(片)」の序詞とする』とあるのは、これでよいのだろうか。また、3行目に「水くくる珠にまじれる磯貝の片恋にのみ年は経につつ」とあるが、この「珠にまじれる」というのは、どうなのだろう。 「磯貝の」だけを序詞とするのはどうなのだろうかという疑問。そして、「珠」は「玉」でなくてよいのだろうかという疑問。この二つがどうにも気になるのだが、思い過ごしだろうか。 序詞が5音であるのは珍しいように思う。序詞は「何々のように」という修飾の表現だと昔習った。「磯貝の」が序詞だとすると、その前に書いてある「水くくる珠にまじれる」というのは、この歌のなかでいったいどんな働きをしている部分だと言えばよいのだろう。 明らかに「磯貝の」を修飾しているから、「水くくる珠にまじれる磯貝の」をひとまとまりと考えて、上の句が序詞となっているとする方が、広辞苑のように「磯貝の」を序詞とするよりも自然であるように思うのだが、素人考えの間違いだろうか。序詞は枕詞と違って5音以上の言葉のまとまりであったはずだ。 こう考えると、「磯辺の石にまじって海の水をかぶっている磯貝のように」というような意味合いとなり、上の句自体が序詞として不自然ではない意味にとれてくる。 原文はネットで見る限り「水泳玉尓接有礒貝之獨戀耳<年>者經管」のようだ。<年>は「羊」という字であるから括弧付きのようだが、成立した当時の昔の手書きの万葉集をどれも見たことがないので分からない。 また、ここの説明の3行目では「珠」とある。原文では「玉」と書いてあるのに、広辞苑の説明では、敢えて「珠」としたのはどういう理由からだろうか。調べが浅いせいで、これについては『異本に「珠」とある』などというような記述をまだ見つけることができない。 また、原文では「接有」とある。これを「まじれる」としたのもどうしてだろう。平凡に考えると「接して、そこに有る」と読み取れるので、「磯辺の石にぴったりくっついている」という意味のように思われてくる。しかし、「万葉集古義」には「まじれる」とある。「くっついている」というのは、やはり間違った解釈なのだろうか。 これは短歌だから五七五七七にはめ込む作業が必要だ。確かに、この「まじれる」という四音を選び、「たまにまじれる」という七音に仕上げると美しくはなる。 「獨戀」は「独恋」だから、「片思いの恋」であるのは問題ないだろう。すると、「磯貝」は何の貝かということになる。昔から鮑の片思いという。巻き貝であっても変形して鮑のようになった貝は二枚貝の片方の貝殻に見えるので、相手と寄り添えない片思いの恋を言い表している。 この鮑なら実際にぴったりと岩や石にくっついているから、原文の「接有」のイメージと合う。ただし、鮑は海の底の岩や石にいる。このぴったりくっついている様子を目で見るのは通常は海女だけだ。すると、これは海女が詠んだ歌なのだろうか。こう見ると、最初の「水泳」という二文字が生きてくる。このように考えて歌を解釈するとどうなるのだろうか。 「海に潜って石にぴったりくっついている鮑をとるのが苦しくて難しいように、この片思いの恋も苦しく、あなたを見つけるのも難しい。そうこうしているうちに時ばかりが経ってしまったよ。」とでもなるのだろうか。 さて、原文では「水泳」とあるが、それは海女の行為なのか、鮑の行為なのかという問題もありそうだ。 「水泳」が海女の行為だとすると、先に記したような意味になる。しかし、「水泳」が鮑の行為だと考えて歌を解釈するとどうなるのだろうか。 「ある時は海の中をはい回ったり、ある時は岩や石にしっかりくっついていたりする鮑のように、ある時は独り恋の思いに突き動かされて右往左往したり、ある時は潮の流れに揺れ動く玉の石のごとくはかなきものにさえすがって耐え忍んでいたりするうちに、無駄に年月ばかりが経ってしまったよ。」とでもなるのだろうか。 ところで、「水泳」の部分を一般的には「みずくくる」と読ませるようだが、異訓に「みなそこの」ともあるらしい。「みなそこ」は「水底」だから、鮑であるということを意識しての読みだろう。これに対して、「みずくくる」と読ませるということは、鮑の片思いとはよく言われることだけれども、実は海女の歌ではないぞ、そして鮑の歌でもないぞという主張のようにも感じられる。 では、海女の歌でも、鮑の歌でもないということは何の歌になるのだろう。何のことはない。海女ではない者が、知識としてもっている海底の鮑の様子を思い浮かべて詠んだ歌になるというただそれだけのことだろう。 逆に、実際に見たものを歌っているとすれば、海女の歌でない限り、鮑ではない可能性が極めて高くなる。 海に潜らなくても磯辺で見ることのできるもので、片側にしか貝殻がないように見えるものは、ヒザラガイの仲間だろうと思う。ヒザラガイやカサガイの仲間ならしっかりと石にくっついている。これは「接有」のイメージにぴったりだ。その上、海水に浸かれば動き出す。これは「水泳」のイメージだ。こうなると、最初の「水泳玉尓接有」という部分はヒザラガイやカサガイの仲間の生態を説明したものとなってくる。 磯辺の石なら波に洗われて玉になっているものも多い。そう考えると、文学的ではないかもしれないが、上の句は「海水のなかで動き回ったり、波に洗われて玉のようになった石にぴったりくっついていたりするヒザラガイやカサガイのように」という意味合いになる。この場合は、水の中で活動していたのは海女ではなく貝ということになり、水底の景色ではなく、磯の景色となる。これを恋の歌に仕立て上げるにはどのようにすればよいだろうか。 「潮が満ちてきて貝が動き始めるように、あなたに誘われるかのように浮かれてしまい、あなたを追う日もあるけれど、潮が引いて貝が玉の石にしがみついて誰もはがせないように、気持ちが引いて殻に閉じこもり、じっと物思いにふける日もある。こんな独りよがりの片思いを続けて年月ばかりが経っていってしまうのは、なんともせつないものだなあ。」とでもなるのだろうか。 また、「水泳」の主が「玉」である場合はどうだろう。「磯の波が玉のようになった石に当たり泳いでいるように見える。その石にしっかりとはりついているヒザラガイやカサガイのように」という意味合いの上の句になるのだろうか。これは当たる波にもそしらぬ顔で石にしがみついているヒザラガイやカサガイの様子が目に浮かぶ。ここからは、周囲の抵抗があり、孤軍奮闘する片思いの人物が見えてくる。 一方、広辞苑のように、磯貝を鮑やヒザラガイやカサガイではなく、磯辺に打ち上げられた二枚貝の片割れとする見方も当然できる。この場合は、「接有」を「ぴったりくっついている」という意味ではなく、「まじれる」と考えることになる。これは「人と交わる」ことを「人と接する」とも言い表すことがあるところから、原文から訓読する段階においては、「接有」を「まじれる」とするのは無難な読みであるように感じる。 身の失せたただの貝殻なので、海水に洗われるだけ洗われ、ひたすらに摩滅していくだけだ。片思いの片割れがあてもなく海水にさすらい、揺らめいているのは、見ていて確かにせつない。 ★ホームページに戻る 1/14/2008 怪しい広辞苑121「第四版139ページ・居候」 広辞苑第四版139ページ「居候」の「居候三杯目にはそっと出し」の説明。 「居候が万事遠慮がちなことをいう。」とあるが、本当だろうか。万事遠慮がちならば、2杯目のお代わりを遠慮して、一杯で終わらせるはずだ。しかも、空の茶碗を「そっと出」される方ははなはだ腹立たしく思われる。どうせならさわやかに普通に出してもらった方がすっきりする。そっと出すぐらいなら遠慮しておけと思うのが人情だということを「居候」なる身分の者は理解しないのだろうという揶揄だと思うのだが、どうだろう。 遠慮して行動を起こさないのが紳士なら、遠慮するふりをして行動をちゃっかり起こすというのは紳士的ではない。ここで述べられている居候は後者だが、居候している間にそういう根性を身につけていってしまうのだろうか。それとも、もともとそういう素質を持った者だから居候ができるのか。おそらく両方であろうが、居候を決め込まれた者は、随分と見込まれてしまったものだ。 自分の行動が、かえっていやらしさを前面に出してしまっているのに気づかないのも、居候という人種の傾向なのかもしれない。追い出したいのだが、それでは世間の外聞というものがあるということを気にしている家主の足もとを見透かしたような振る舞いは、まさしく厄介者その者だ。 世間では、広辞苑のような解釈をしていることが多いかもしれないが、ここは「居候が遠慮がちに無遠慮な振る舞いをすることを揶揄していう。」という説明も加えておいた方がよいかもしれない。これは蛇足だろうか。 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑120「第四版138ページ・磯粟餅」 広辞苑第四版138ページ「磯粟餅」の説明の2行目。 磯粟餅といってもお菓子ではない。磯にいる軟体動物だ。どうやらおいしいらしい。しかし、「体長約三センチメートル」とあるが、本当だろうか。これまでに広辞苑に出てきた動物の体長は他の資料と比べると大きな違いがある。このイソアワモチもそうかもしれない。 果たして、大辞林では「体長五センチ前後」とある。大辞泉では「体長約5センチメートル」とある。ネットで見る各地のさまざまな観察記録等を見ても、体長は5センチメートルから10センチメートルの範囲の間が多い。 平らな生物なので、見た目の面積比で考えるのがよいだろう。体長が3センチと5センチとでは、9対25となり、実に3倍弱の誤差が出る。これはどうしたものだろう。 そもそも3センチといえば一円玉の1.5倍しかない。10センチといえば大人の掌ぐらいだ。実際に捕らえて測った訳でもないので、何とも言えないが、辞書に載せる場合は、平均的な大きさを選ぶべきだろう。もし、暖かい海とそうでない海とで体長に差が出るのなら、その旨記すべきだろう。 仮に、大型のタイプと小型のタイプがいるとするなら、その両方のそれぞれの平均を記すべきだと思う。双方を平均したもの記すと、存在するはずのない中型のタイプの体長となってしまうからだ。広辞苑や大辞泉や大辞林はどのようにしてのイソアワモチの体長を算出したのだろうか。 イソアワモチの場合はどういう体長のものがどの程度の地域にどのぐらい分布しているのか分からないが、絶滅危惧種らしいので、調査するにしても注意が必要だ。また、おいしいからといって食べてしまうのも暫くはやめておいた方がよさそうだ。 ところで、背中のぼつぼつに目があり、背眼と呼ぶそうだが、上手に人間に応用すれば交通事故に遭いにくい生き物になれるかもしれない。 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑119「第四版138ページ・已然形」 広辞苑第四版138ページ「已然形」の説明の1行目と5行目。 1行目には、「動詞・形容詞・助動詞の活用形の」とある。しかし、学生にとって一般的に理解されている「形容動詞」を説明から抜くにはそれなりの説明が必要だ。なぜなら、「已然形」などという言葉は、文法の参考書を持たない学生か、持っていても手近な辞書を利用してすまそうとする学生が、授業内容を忘れた頃に調べる単語だからだ。学生は中学生、高校生が中心だろう。彼らは学校文法を習っている。つまり、この説明を読むのは、新村氏が考えている文法とは異なる橋本氏のまとめた文法体系を理解しようとしている利用者なのだ。ここに問題がある。 大学生の中には、日本語の文法体系がまだまとまっておらず、中高生にも理解されやすい暫定的な文法を勉強してきたにすぎないということを知る者もいるので、「已然形」に対する広辞苑の説明を読んだときに「あれ、形容動詞が抜けている。ああ、このことだな。」と理解することもあろう。また、一般人は、最初から「已然形」などという単語を辞書で調べる必要がないから、広辞苑のこの説明を読む機会がない。従って、これらの場合には問題が起こらない。 ただし、自分の子どもに質問されたり、教えなくてはならないということはあろう。実はこの場合に不都合が起こる可能性がある。家では広辞苑で親が確認して、正しく教えてあげたつもりになっていたのに、学校のテストでは間違ってしまうというかもしれないのだ。 つまり、日本語文法の説にどのような違いがあるかを十分に学校で説明がなされていない場合、広辞苑が新村氏の説をふまえて「已然形」の説明をしつつ、新村氏にとっての異説である学校文法の説明を加えていないという説明の不備があったときには、親と子と教師の関係のどこかにおかしな空気が流れ始めるきっかけを作ってしまう可能性が出てくるということだ。 ここは、「形容動詞を認める文法体系においては、形容動詞も含める。」という一文を説明の2行目辺りに挿入するか、「用言と助動詞の活用形の」などのような言い方の説明に差し替え、利用者が無用の混乱をしなくてもよいように配慮するのがよいだろう。 さて、5行目の説明の不都合は、表現上の問題だ。2行目から3行目にかけての「確定の条件を表し」という説明の仕方になっているのに対して、5行目では「仮定の意味を表し」という説明の仕方になっているので、説明の不統一感を利用者に与えてしまっている。これ自体は些細なことだけれども、そこには見逃してはならない編集姿勢の問題という大きな問題を垣間見ることができる。 ここは先の表現にならって「仮定の条件を表し」とするのがよいのだろうが、「条件」とした場合と「意味」とした場合の違いがあるのならば、それを説明のなかで分かるようにしなければ不親切というものだろう。もし、違いがなければ、敢えて表現を不統一にする理由がなければならない。それが何であるかということも問題だ。 日常生活では全く問題ないことが、言葉を扱う辞書であるからこそ問題になってしまう。一般の人は調べない単語だとか、学校のテストで間違うとかいうような表面的なことではなく、辞書たるべきものとしてのあり方の問題という重要な問題を利用者に示している典型的な例だと思う。広辞苑第六版がこれまでと同じような編集方針で編まれているのならば、第七版ではぜひ検討してほしい。 ★ホームページに戻る 1/13/2008 怪しい広辞苑118「第四版138ページ・伊勢の二柱」 広辞苑第四版138ページ「伊勢の二柱」の説明。「伊勢神宮の内宮と外宮。」という説明がなされている。これはいったいどういうことなのだろうか。 「柱」といえば、神を数える単位だ。内宮には天照大神を、外宮には豊受大神をおまつりしているのが伊勢神宮のはずだ。これを広辞苑のような説明の仕方をすると「柱」の意味が歪み、建築物を数える単位としてとらえられてしまうことになる。 ここは「伊勢神宮の内宮におまつりしてある天照大神と、同じく外宮におまつりしてある豊受大神の二柱の神のこと」などのような説明をしておかねばならないところではないかと思う。これが説明として長いというのならば、単に二柱の神の名前を列挙するだけでもよい。 もっとも、「内宮、外宮」という呼び方の方が、直接に神の名前をいうよりも簡単であることと、建物の名前で呼んだ方が、遠回しの表現となって、親しみや尊敬の気持ちを表現できるというメリットがあるため、広辞苑のように「二柱」に対して「内宮と外宮」という説明をするのは誤りではないのかもしれない。 しかし、意味がよく分からないために利用するのが辞書だ。広辞苑が辞書である以上は、伊勢神宮の事情がよく分からない人が誤解をしないような説明をしなければならない。果たして第六版ではどのようになっているのだろう。 もし、記述内容を変更するなら、少なくともCD-ROM版では利用者登録をすることを義務づけ、メールで小改訂という名目で知らせればよいと思うのだが、どうだろう。もしかすると、辞書なのだからやはり正誤表まがいのことはできないというかもしれない。しかし、百科事典で追加事項が取得できるというのを売りにしているものがあったように記憶している。それをまねするのが何かの法に触れないのなら、がんばってほしい。 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑117「第四版136ページ・イスラム」 広辞苑第四版を138ページまで読み進めていたが、ふと136ページを見ると、「イスラム」の中の「イスラム暦」の説明の3行目から4行目にかけて「九月はラマダン(断食)」と書いてあるのが目に入った。これは明らかに奇妙な説明だ。 これは「九月はラマダン(断食月)」の誤りだと思う。「ラマダン」を「断食」のことだと勘違いしている人が案外多いのは、広辞苑第四版のこの説明も影響しているのではないだろうか。今度出版された広辞苑第六版ではどのように説明されているのだろうかと心配になってきた。 別の訂正の仕方としては「九月はラマダン」として「(断食)」を省略するか、「九月は断食月(ラマダン)」、あるいは次の12月の記述「一二月は巡礼の月」という表現にあわせて、「九月は断食の月」とするのもよいだろう。理想的な訂正の仕方としては、『九月は「断食の月」(ラマダン)』などがよいと思う。 とにかく辞書は言葉の誤解をなくすのが目的なのだから、このように誤解を生む可能性がかなり高い説明は即刻訂正してほしい。しかし、広辞苑第六版でこの説明が改善されていないと、また10年間ほどこのままの説明でいくことになりはしないだろうか。もし、訂正されていないのならば、少なくとも電子辞書版などでは訂正していってほしい。 広辞苑は本当に岩波書店のうたい文句通りに第一線の専門家が執筆しているのだろうか、というような疑問を持たれないように努力していただきたいと切に願う。広辞苑ファンとしてはもう悲しい思いをしたくないのだ。 ★ホームページに戻る 1/12/2008 心の断片117「最後の違和感」「最後の違和感」 時計回りに一周してもとに戻ると でも それは違う世界だった 皆僕の知らない何かを知っていた 見たことのない表情で会話し 僕と違うところで微笑んだ いつものチャイムが鳴ると それでも同じ方向に向かって 同じ足どりで歩いていく だが それは後ろ姿だけの話だ それでは僕も木っ端微塵になって 冷蔵庫の古いペットボトルのなか 紅茶キノコのように培養されようではないか 異文化のコロニーで生きていくには 自ら変身するのが心地よいというものだ 何ものでもないものに 1/10/2008 日々雑感221「善良な悪魔は休まない」 言葉という善良な悪魔に魂を委ねたがゆえに勝ちとった不完全な自由という恐怖の荒野に僕たちは置かれている。その天国のような地獄から容易には脱出できないでいる僕たちに歌というやつは一時の安息を与えてくれるかのようだ。 言葉が精神の自由な飛躍や過ちを加速するためのアクセルだとするなら、歌はハンドルやブレーキだ。これがないと危なくて仕方がない。 ときどき歌を聴いたり、歌ったりしよう。そうすれば言語感覚が麻痺して、幾ばくかの自由が手に入る。言葉の裏をかかれたら、少しうれしくなってほほえみも戻る。思考の袋小路にゆったり腰掛けて、悠然と辺りを見回すこともできる。あるいは、不確かな思いを少々変形してでも定着させ、無理矢理にでも納得することもできる。 心のリハビリ、景気づけ、癒し……。心にパワーを取り戻すのが歌だ。他人の言葉だということが大事だ。多くの人に受けいれられるように計算された言葉の運びが心地よい。ときどきはブレーキをかけてこの心の休憩所で一時を過ごし、力を蓄えたり、方向を見定めたりすべきだろう。世界を開拓するばかりがよいのではないと思うのだ。 ★ホームページに戻る 1/7/2008 変な疑問83「目には目を」 ハムラビ法典に「目には目を」とあるらしい。ここだけ読み取ると、合理的な刑罰のようだが、合理的ではないように思われてしまう。 例えば、右手を切り落とされた者が訴えて、相手の右手を切り落とすということは一度しかできない。再び他の者の右手を切り落としたために訴えられても、もう既に切り落とされるべき右腕は存在しないからだ。目は二つしかないから、三つ目の目からは困る。歯が一本もない老人が、若者の歯を折ったら、その老人はどの歯を折られるのだろう。 「目には目を、歯には歯を」というが、このように限度がある。これをどのように解消しているのかを知りたく思うのだ。 腕をへし折れば、同じように腕をへし折られる。しかし、また誰かの腕の同じ場所をへし折ったときにはどうしよう。腕が癒えるのを待てば、またへし折ることができる。しかし、一度骨折したところは丈夫になっていることが多いので、処刑には注意を要する。いろいろな場所を何度も折られているうちに前身の骨格が次第に強固になっていくかもしれない。しかし、腕が存在する以上は、「目には目を、歯には歯を」という方針を貫くことができる。 腕を切り落とす犯罪の時にはどうか。罪を重ねれば、切り落とす腕がなくなる。両腕はないが、何らかの方法で誰かの腕を切り落とせたときに、困ることが起こる。こうしたときには、罪を犯したときに腕の代わりをしたもの、例えば足を使って誰かの腕を切り落とせば、その足を切り落とすということがあったかもしれない。 どうにも自分では罪を犯すことが身体的に不可能になったとき、代理人によって罪を犯すことができるが、その時には代理人が切り落とした部分と同じ部分が代理人から切り落とされることになるのだろうか。代理人が誤って命を奪ってしまった場合には、まだ依頼人が生きていることから、その依頼人の命を奪うことになろう。しかし、そのときに代理人はどのように罰せられるのだろう。依頼人と同様に命を奪われるのだろうか。 「4000年前のハムラビ法典だが、現代法もこれに学ぶべきことが多い」と、中学校の社会の授業で聞いたことを思い出した。ここはひとつ「ハムラビ法典」を読んでみるとしよう。 ★ホームページに戻る 1/4/2008 変な疑問82「ごみ箱」 ごみ箱はいつの世からあるのだろう。ウィンドウズのデスクトップに「ごみ箱」というフォルダがあったのを見て感心してから早12年が経つが、実際の「ごみ箱」は大昔からある。 その大昔とはいつごろだろう。現代のテレビドラマや映画で「ごみ箱」が小道具として備えられているのは、刑事ものや学園ものが中心だ。昭和、大正、明治の時代が舞台のテレビドラマや映画にも「ごみ箱」が大写しにされることはある。 時代劇といえば、そのほとんどが大河ドラマでもないかぎり、江戸時代が舞台だ。他の時代に比べて長いということと、史料が多く残っているということと、現在の日本文化の源流の多くが江戸時代を基点としているために理解されやすいということと、武士の時代とは言いながら、庶民のエネルギーが大きくなってきた時代だということで、親しみやすいということが理由だろう。 ところが、その江戸時代の「ごみ箱」がテレビドラマや映画のなかで登場してこないのだ。ドラマにあっては、人間描写が主であって、それに付随して「ごみ」を描写することなどほとんどないからだろう。また、文字どおり「ごみ」なのだから、捨てられてしまうものであるから、それがよほど事件の証拠となるなど、ストーリーの展開に重要な物でないかぎり、描写する必要はないのだろう。逆に、そのような「ごみ箱へごみを捨てる」などという無駄な描写をしてしまえば、そこに何か意味があるのだろうかと、視聴者がもともと意味のない行為に意味を見出そうと無駄な努力をしてしまうことになる。 これは結果として、テレビドラマや映画の作品を鑑賞するということに対して集中力を欠くことにつながるので、制作者としては無駄なものというよりも邪魔なものということになる。だから、たとえ「ごみ箱」があったとしてもそれを小道具として用意することはほとんどないといってよいと思う。 「ごみ箱」というのは、そもそもそうした存在なのだろう。テレビドラマや映画では必ず一般的な意味での事件か犯罪事件が起こる。事件なくして、人々の心を動かすストーリーは台本として書けないのだ。そうした事件に「ごみ箱」などはどうしても関係してこないのだ。「ごみ箱」などというものは、環境問題を扱うニュースで時折顔を出したり、珍しい形のごみ箱ということでごくまれに紹介される以外には滅多なことでは話題にならないものなのだ。 だから、僕たちは江戸時代の「ごみ箱」をテレビドラマや映画で見たことがないのだろう。ましてやそれ以前のごみ箱など知るよしもない。かろうじて狩猟採集時代の遺物である「貝塚」が「ごみ箱」といえば「ごみ箱」なのだろう。 江戸時代だとしても江戸下町の長屋住まいの庶民あたりは、「貝塚」のようにみんなで共同に捨てたものだろうが、庶民でなくとも似たり寄ったりだろう。しかし、共同ごみ捨て場のようなところに行く前の段階、つまり、家屋の中で一時的にゴミを捨てる「ごみ箱」はあったはずなのだ。 ところが、「ごみ箱」にはまだ低い地位しか与えられていないから、芸術品や工芸品として時を経てまで保護されつつ残るという可能性が極めて少ない。民俗資料館であっても「ごみ箱」が展示されているかどうかというと、実際に確かめてはないのだが、誠に怪しいかぎりだ。 もっとも、大名の娘の嫁入り道具あたりにはリストアップされていた可能性はある。しかし、それはあったとしても、恥をかかないようなたいそう立派な物であるはずだから、一般人の使用していた物とはかけ離れている可能性が極めて高い。 そもそも大昔はどのような「ごみ」を出していたかというと、「生ごみ」や「紙類」や「金属類」だろう。「生ごみ」は台所に少々ためる所はあっても、部屋の「ごみ箱」には入れないはずだ。「紙類」は紙屑屋さんが取りに来るのだろうが、紙類が一般家庭からどの程度「ごみ」として出たか疑問だ。「金属類」もほとんどないだろう。日常品に使ってある金属類も破損すれば鋳掛屋さんで修理してもらうので、ほぼごみとしては出なかったのではないかと思う。 鋳掛屋さんというのは懐かしい言葉だ。傘の「ほね」などが折れたら、今の人はおそらく捨ててしまうだろうが、祖母が近所にある鋳掛屋さんに壊れた傘をなおしてもらってくるといって出かけていったのを玄関先で見送った思い出がある。 それはともかく、江戸時代あたりは、最初からあまりいろいろな「ごみ」が出なかったか、ある程度出ても何とかリサイクルしてしまった可能性がある。そうだとすると、屋内の「ごみ箱」の量自体が少ないということになる。しかも、それが「ごみ」と一緒に捨てられるようなものであれば、発見はますます困難だ。 大きなごみに小さなごみを入れていき、一緒に捨てるというのは、狭い下宿生活では常識だった。例えばティッシュの空き箱にごみを捨てていき、箱ごと捨ててしまえば、見た目はティッシュの箱で目障りでない上に、中の「ごみ」も目立たないから便利だ。思えば、ほとんど生ゴミしか出ない生活だったから、江戸時代の人々もそうであろうと想像したのだ。 すると、「屋内のごみ箱」をイメージして「ごみ箱」と最初に言ったが、「共同のごみ箱」はどのような歴史を経てきたのだろうという疑問の方が追究する意味があるのかもしれない。 ★ホームページに戻る |
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