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31-01-2009

変な疑問99「サウンドオブミュージックの実話度」

<音楽CDはほとんど買ったことがない 画像クリックで説明画面へ>  
 「サウンド・オブ・ミュージック」を間近で観劇する機会があった。数メートル先で歌う、踊る、苦悩する。歌うにつれて目が潤んでいき一筋の涙が流れていく女優。子役の演技も細かいところにまで心が配られていて驚く。
 開演から終演まで感動が持続するのは、これがミュージカルだということもあるだろう。また、ストーリーが複雑ではなく、思考力をあまり必要としないということもあるだろう。長時間ながら息つく暇もないのは観客も疲れるはずなのだが、心を揺り動かされるという心地よさのため、同じ姿勢でいても疲れることがない。ストーリーが分かっていても、どうして再び感動できるのだろうか。人間というものは実に面白くできている。
 それは歌詞が決まっていて変わることがないのに何度も歌えるのと同じことだと思う。極端な場合は、歌う前に、いや、曲名を聞いただけで感動を覚えることがあるかもしれない。これは体験したことのある感動が、よみがえってくるという仕組みだ。
 観客に若い人はほとんどいない。男性もまたほとんどいない。しかし、よく考えてみると、この作品を本当に必要としている人たちというのは、矢面に立っている30代から50代、60代の男性ではないだろうか。壁に突きあたり、己が砕け散り、何より足もとが崩壊していくのを歯を食いしばり、それでも夢を追い、そして家族を守る責務から逃げ出さない「正直で、健気で、がんばり屋のお父さん」が全うに生きていこうとするなら、あまりに苦しい現実がある。
 「現実をよく見てよ。長い物に巻かれなくては生きていけないじゃないか。地球は回る。もう誰にも止められない。朝日が昇り、夕日が沈む。これが繰り返すだけでしょ。」「いや、真実から目を背けてはいけない。真実を求めなくて、何が人生だ。」という意味合いの掛け合い。ゲオルグの両拳に力が入る。
 修道院長が語る「愛、真実、夢、希望、勇気」そんな言葉に歯が浮くようだとかつて感じた時期もあった。しかし、もし今そういう感覚をもっているのなら自分は人間失格だと考えてよいと思った。これら甘い言葉の底に流れている凄まじくも恐ろしい本当の意味をつかむ能力すら欠けているというのでは、粘土の中で呼吸しなくてはいけないような現代をどうやって生き延びていけるのかが心配だということだ。生き延びるというのは死なないということではなく、自分の信じた生き方を全うするということだ。
 「人はパンのみに生きるにあらず」だ。修道女見習いから家庭教師として派遣されたマリアがオーストリア海軍大佐ゲオルグに子供たちのことで詰め寄る場面で頭をよぎった聖書の言葉だ。ゲオルグがナチスに服従を迫られようとするときにも頭をかすめた言葉だ。「真実を求めよ。そのためには命を失うことすら厭わない。」という勇ましい言葉になっていくのを感じた。演劇というのは素晴らしくも危険なものだ。
 帰宅中、「命あっての物種」という言葉が反作用のように浮かんできた。これで上手く中和されたわけだ。会場から一歩外へ踏み出せば、結局は現実が待っているのだ。では、現実逃避をしていたのか。微妙に、だが確実に現実の見方が違っている。
 つまり、この現実にどう戻るかが問題だ。
①全く区別して、完全に元の生活がスタートする
②セリフやそのセリフに宿る魂に感化され、元の生活が完全に変わってしまう
③元の生活のままに戻るでもなく、感化されてすっかり生活が変わってしまうわけでもない
 この中で③は最も中途半端なようだが、最も健康的な現実への戻り方だと思う。これまで語らなかったことを語り、これまで考えなかったことを考えるようになり、これまでしなかったことをしてみるようになる。 
 筋肉が凝りかたまってしまって血の巡りが悪くなるように、心や精神も凝りかたまってしまって心の反応が鈍くなる。これをほぐすのに観劇は適度な刺激となるように思う。しかし、「金と暇」だ。安く手っ取り早いものに目が向きがちになる。そうか、簡単で便利なものに潜んでいる「人間の生き方を汚していく危険性」を意識しなければならないということなのだろう。
 確かに暴力は瞬間に何かを解決してしまうような錯覚を与えてしまう。一発の銃弾は価格も安く、しかも瞬間に命を奪うことができる。マリア、ゲオルグ、子供たち、トラップ一家の亡命を手助けしたマックスはその銃弾に倒れることになる。マックスはナチスに断固抵抗しようとするゲオルグに言った。「マックス、ナチスが来たらおまえならどうする?」「ナチスが来たらウインクすればいいんだよ」
 ナチスはドイツだけのものではない。どの国にいつナチスのような勢力が台頭してくるかわからない。それは国レベルだけでなく、小さな集団、もしかすると一人の心の中にもだ。見分け方は比較的簡単だろう。急速に力を増しているという状況がまず疑わしいからだ。もっとも、急速に力を増したものは、急速に破滅することが多い。だから、気づかない間にいくつもの勢力が消えているのかもしれない。しかし、気づかない間に消えているからこそ恐ろしいは言えないだろうか。もしかすると、毎日生まれているというガン細胞に振る舞いが似ているかもしれない。
 ところで、サウンドオブミュージックからガンに話が移ってしまったが、このマリアの話のいったいどこからどこまでが実話なのだろうか。演劇というものに少し興味がわいてきたが、ただ観劇するしか脳がないというのは寂しいかぎりだ。

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25-01-2009

変な疑問98「出産時の呼吸法」

<あらゆることに呼吸法は関係するからぜひ読んでみたい 画像クリックで説明画面へ>
 「hip hip hurrah」は「ひっ、ひっ、ふらー」とか「ひっ、ひっ、ふれー」とか発音するのだろうが、これを歯を食いしばって発音したり、簡単に発音したりすると「ひっ、ひっ、ふー」に似てくる。
 「ひっ、ひっ、ふー」は出産時の呼吸法だが、もちろん「ひっ、ひっ、ふー」は呼吸法自体ではなく、呼吸法を成立させるための方便としての発音だ。「ぴっ、ぴっ、ぷー」という発音に依存すると、不要な力が体にはいってしまい、呼吸法の目的の一つである体と心のリラックスを作り出すことができなくなるように思う。これが「きっ、きっ、くー」であれば、なおいっそう体に異様な力がはいってしまうだろう。
 「hip hip hurrah」は、馴染みの深い「フレー、フレー」という意味だから、「がんばれ、がんばれ」だ。英語圏の人が出産時の「ひっ、ひっ、ふー」を日本人がやっているのを聞いて、どうして自国語でやらないのだろうと疑問に思うかもしれないが、「がんばれ」では発音時に体に力が入ってしまう。第一、歯を食いしばっていたら、発音できない言葉だ。また、歯を食いしばっていなくても、がんばれなどという複雑な発音は呼吸法には不向きだ。
 自分にがんばれと言っているのか、赤ちゃんにがんばれと言っているのか、その両方なのかは個人個人違うのだろうが、仮に「ひっ、ひっ、ふー」が「ひっ、ひっ、ふらー」ならば、母親は単なる安産の呼吸法としてではなく、「がんばれ、がんばれ(私の赤ちゃん)」という必死の愛情を込めた言葉として発しなければならないように思う。
 諸外国ではどのような言葉で呼吸法を成立させているのだろうか。「ひっ、ひっ、ふー」が「hip hip hurrah」という英語ではなく、諸外国でも似た発音ならば、世界語として諸言語の日常語の中に組み込まれている発音があるかもしれない。もっとも、誰かが確立した呼吸法が世界に伝達されている可能性が高いので、その誰かが日常使用している国語であるかもしれない。
 もしかすると、「hip hip hurrah」の語源こそが出産にあったのかもしれない。「hip」と「hip」の間から赤ちゃんが出てくる。「hurrah」は「万歳」というわけだ。

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<ソフロロジーの最新理論を取り入れと書いてあるのだが、胎教という古くさい言い方で損をしているなあ 画像クリックで説明画面へ>

24-01-2009

心の断片163「観光地」

「観光地」

湖には悲しみが詰まっている
白い雲には憧れが詰まっている
僕の涙には敵意が詰まっている

細い枝を拾い
少し折ってみる
乾いた音に息が苦しくなる
踵の冷えた革靴で
砂利道に足跡をつけていく

断末魔の野鳥がむせびなく
この観光地に
雇われ屋台だけが
風に吹かれているのはなぜだ

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23-01-2009

日々雑感243「自殺予防」

 <こんな本が必要な日本とは 画像クリックで説明画面へ>
 世の中から自殺者がいなくなるようにするには、どのような方法があるのだろうか。例によって十種類の方法を考えてみよう。
①自殺する原因を取り除く。
②自殺する気持ちを催眠術などでなくす。
③自殺したくなくなるような幸せな気持ちになる薬を投与する。
④自殺する気持ちを萎えさせるように、自殺映像を見せたり、自殺現場に立ち会わせる。
⑤自殺したら、法的にも宗教的にも重罪となるようにする。
⑥自殺しないように自殺阻止担当者をつける。
⑦自殺できないように身体を拘束する。
⑧自殺したくなくなるようなすばらしい異性との交流を築きあげる。
⑨自殺願望者を危険な仕事につけて事故死とする。
⑩自殺願望者を前戦に送って戦死とする。
⑪自殺願望者を他殺願望者に提供して他殺とする。
⑫自殺を許可制にする。
 二つ余分に思いついたが、①が最も根本的な解決方法だ。最も根本的な解決方法であるにもかかわらず、最も困難な解決方法だ。だからこそ、自殺に至るとも言える。⑨⑩⑪は最もインチキな解決方法だが、確実に自殺者は減らせる。②③は根本的な解決から目を背けたごまかしの解決方法だが、効果は期待できる。④⑤は脅しなので、幼稚な手段だがインパクトが強く、ある程度の効果は期待できそうだ。⑥⑦は死なせないだけの話で本人の苦悩は尽きず、非生産的でもあるが、確実に自殺者を減らせる。⑧は最も効果がありそうだが、相手が必要なので実現が困難であるということと、人間関係であるために不安定で、破綻したときが恐ろしいので、避けた方がよい方法であるように思う。⑫は条件さえ満たせば自殺を許されるという制度だ。
 自殺許可制は、申請書類、審査費用、自殺許可状の発行にかかる登録費、許可状発行費、自殺許可更新費、死体処理費、葬式の費用、遺言指導料、遺言登録費、自殺マニュアル費等々の諸経費がかかることになるだろう。ただし、内臓については売れるため、内臓類オークション参加費がかかるものの、収入の一部を諸経費に充てることができる。相当の費用を捻出するため、懸命に働くことになるが、その間に自殺へと駆り立てるものが薄らいでくることが期待できる。
 経済的に貧困な者には補助金を出すことになるが、遺族に厳しいローンを組ませる仕組みなので、遺族にならないように周囲の者が自殺願望者に対して自殺を阻止する動きをすることになる。
 さて、この国の自殺率は世界十位前後と高く、しかも安定してしまっている。自殺原因の半分は健康問題、六十歳以上が占める率は約四割弱だから、長寿国であるがゆえに自殺者数が多いということもあるかもしれない。生老病死の全てを背負っているということで、これは非常に不幸なことだ。認知症になってしまうのは嫌だが、こうしてみると何も分からなくなっていくというのは老人の特権なのかもしれない。
 若い人の自殺は、物の見方が狭くなってしまうところにも原因があるように考えられる。もう死ぬしかないという考えにとりつかれてしまうのだ。将来があるわけだから、何とか自殺してしまうのを思いとどまってもらいたい。社会に貢献せずして命を絶つということは、社会的損失でもあるから、本人だけの問題ではない。そうは言っても「そんなこと知るかよ」というぐらいの認識しかもてない状況に陥っているはずだから、説いても仕方なかろう。
 狭くなった視野を広げるにはどうしたらよいのだろう。
①いろいろなところへ旅に出る。
②いろいろな人の話を聞く。
③いろいろな本を読む。
 これは自殺予防としてもよい方法かもしれない。見聞を広めて深く思索する習慣が身についていれば、自分を自殺に追い込んでいくものに対抗する手段を発見するに違いない。また、自分自身を自殺に追い込んでいく道から離脱するための「自己を客観的に見つめる姿勢」「生きる勇気を与えてくれる言葉」「生きる知恵」「困難に耐える精神力」「豊かな発想」などが自分のものになっているに違いない。もしかすると、旅行、会話、読書の機会が減ってきたら要注意だといってもよいのかもしれない。
 これらと矛盾するようだが、「知らぬが仏」「命に代えてもやり遂げる強い使命感」なども自殺を減らすものかもしれない。確かに「極端に知らない状態」や「俺がやらないで誰がやるのかという思い込み」は強力に自殺を予防するように思う。

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 <こんな本は読みたくない>
12-01-2009

心の断片163「戦闘態勢」

「戦闘態勢」

夜通しパイルを打ち込む
遠くからやってくるあの音は
大怪獣の足音だ
闇の中を透明大怪獣が
やってくる
星が揺らめくのはそのせい
地響きで家が揺れるのはそのせい
夜通しパイルを打ち込む
その音に合わせ
密かに大胆に
透明大怪獣がやってくる
ほら電線が切れたり
自動車が転覆したり
街のあちこちで火事がおこるのも
あいつのせいだ
誰も言わないけれど
あいつのせいだ
僕は電子銃を水槽で充電し
戸板の隙間からあいつを
狙いつづけねばならない

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11-01-2009

恐怖シリーズ129「学割はあるのか」

 今年はもしかすると大学生になるかもしれない。しかし、それは時の運。
 お金もかかりそうだ。果たして学割はあるのだろうか。問題は無事卒業できるかだ。一年で挫折するかもしれない。しかし、苦しんでいる人々がいる以上、スキルアップは必要だ。二足のわらじを履くのは難しいことだが、忙しくなればなったで生活のしようも変わっていくだろう。
 さしあたっての仕事もあるから、来年になるかもしれない。もっとも、いろいろなことがあるから、その方針も変わってしまうかもしれない。恐ろしいことに今の自分と将来の自分の両方が見えていないのだ。これでは青少年と同じではないか。仕事に逃げてしまい、自分を確立することすらできなかったようだ。
 これはとても面白いことだ。おそらく仕事から逃げている人たちは、がっちりと自己確立ができているに違いない。決して馬鹿にしているわけではない。あらゆるものから学ぶという姿勢をもたねばこの世の中を渡っていくことはできないと覚悟しているだけのことだ。
 いろいろな生き様から学ばねば、非力な個人などたちどころにすりつぶされてしまう。

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10-01-2009

突然思い出したこと125「磁石の男」

 その男は磁石を引きずって歩いていた。紐をつけた掌ほどもある馬蹄磁石だ。その紐は腰にくくりつけられている。歩いている間に道路に落ちている金物を回収しようというのだろうか。男の二メートルほど後ろを子犬ならぬ馬蹄磁石がからからとひかれていく。
 金物といっても磁石だから主に鉄しか回収できない。そもそも金物を回収したいのなら磁石など使わなくとも見つけたときに手で拾えばよいではないか。
 彼には磁石を使わねばならない理由があるはずだ。手が不自由なのだろうか。いや、両手両腕はしっかりついて動いている。すると、腰が悪くてしゃがめないのだろうか。しかし、どう見ても年格好四十前後の働き盛り。労働者風のなりをしている。しかも、手ぶらだ。
 彼を見たのは一度きりだった。でも、目に焼き付いて忘れられない光景を再現しようと、小学校に入りたての幼い僕は彼の真似をして消しゴム大のおもちゃの磁石に凧糸をつけた。棒磁石を曲げたつくりの小さな磁石はお約束のように赤くペイントされている。
 運動場を駆け回ると、犬ころのように磁石が追ってくる。集まるのは砂鉄ばかりだ。運動場だから当然だ。彼も砂鉄を集めていたのかもしれない。僕は何度かおなじことをして、小さなガラス瓶に砂鉄をためていった。
 時折、瓶の外から磁石をあてがって中の砂鉄を踊らせて遊んだが、いつの間にか瓶ごと無くなってしまった。磁石も小学校を卒業する前に引き出しからどこかへ失せてしまった。あの砂鉄を溶かして固め、何か作っておけばよかったのだろうか。それとも、一生砂鉄を集め続ければよかったのだろうか。
 あのからからという音の記憶とともに何やら奇妙に動く小さな子供の心が今にたぐり寄せられ、自分のことであるのになぜか愛おしく思われるのだ。

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<ちょうどこんな感じで 画像クリックで説明画面へ>
07-01-2009

突然思い出したこと124「性善説と性悪説」

   
 性善説と性悪説という言葉を学校で習ったことを突然思い出した。もちろん、そういう名前の説があるということを習っただけだ。いったいどちらが正しいかさっぱり分からなかったという印象しか残っていない。高校生の倫理社会の教科書に載っていたのだろうか。それとも世界史の教科書に載っていたのだろうか。確認すれば分かることだが、どちらでもよい。そんな言葉がふと頭に浮かんでくるほどに善悪の判断がつかぬ人々による事件が増えている。ここで人間というものをもう一度見つめ直してみないと、自分が人間であるだけに、少し心細いような気がするのだ。
 善悪の判断がつかないというが、これは犯罪者だけに限らないように思う。幼い子供や認知症の方は善悪の判断がついてないことが多い。周囲の者たちが、これはよいことですとか、これはわるいことですとか言うものだから、そうなのかと了解するだけだ。幼い子供は善悪の区別を学習していき、認知症の方はその時だけ了解できたり最初から了解できなかったりするという違いはある。
 認知症でなくても、制度が変わっていくと、昔の制度では許されたことが今の制度では許されなかったりすることに戸惑ったり、挙げ句の果てに勘違いしたり、結局は了解できなかったりすることはよくある。このように社会的な善悪は時の流れで変化していくように思う。紛らわしいことだ。
 これに対して、動物的な善悪があると見てよいのではないかと思う。動物的なという表現が不適切なら、生物的な善悪といってもよいかもしれない。これは人間が生物であり続ける以上は基本的には変わらないものと考えてよいものだと思う。
 社会的な善悪は、その変化の波が人生よりも短かったり、変化の幅も大きかったりすれば、個人個人の判断の混乱を生みやすく、揺るいできた社会をさらに揺るがしていくことになるだろうと思う。また、その変化の波が人生よりも長かったり、変化の幅も狭かったりすれば、より多くの人々がその変化に適応していけるので、安定している社会をさらに安定させていくことになるだろうと思う。
 生物的な善悪は、人間が生物としてどれだけ逸脱しているかという度合いによって変化せざるを得ないもののように思う。生物的な善悪と仮に表現したが、その中には、生物的な善悪はもちろんのこと、動物的な善悪、哺乳類的な善悪、霊長類的な善悪、人間的な善悪などというように階層化した善悪の体系があるかもしれないと想像すると楽しいではないか。
  これに文化的な善悪というものを加味していくと、善悪に顔があれば、何となくその輪郭が見えてくるような気がする。つまり、性善説か、さもなくば性悪説かという突きつけ方をするのではなく、「善悪の構造を確認していく作業を怠らないこと」という取りあえずの結論をくだし、後は「ケースバイケースで判断したことを記録して追究の機会を途絶えさせない努力を続けること」が重要だと心得ることに尽きる。
  こうしてみると、「努力しなければならないという時点で、既に性悪説が正しいと証明できる」という人も出てくるかもしれない。
 確かに、しつけをしなくてはならなかったり教育が必要であったりするということは、性悪説が正しいことの証明のようにも見える。そこで、よいところを伸ばすのが教育だという偏った物の見方をすることによってバランスをとっていくことになるのだろう。
 「人間ってのはなあ、はい上がるのは並大抵じゃねえが、落ちるのは早いぜ。落ちるところまで落ちてはいずりまわって生きてる奴を兄さん見たことあるかい?」就職してすぐの年だったか打ち上げの後、遅くなったのでサウナに泊まった翌朝、大浴場の湯船に一人で浸かっていると、体格のよい入れ墨の男が入ってきて僕に話しかけるのだ。人一人あの世に送って四国から逃げてきたというのだ。
 「ああ、そうですか」となぜか世間話風に受け答える僕を気に入ったのか、こちらに寄ってくる。風呂場だとなぜか怖い人も身近に感じる。向こうも同じだろう。人殺しを自供するなどおかしな話なのだが、あながち嘘でもなさそうな気配だった。和やかでとてもフレンドリーな表情は逆に恐ろしくもあった。
 湯船に浸かって放心すると、本当のことを話してしまうものかもしれない。悪いと知りながら悪いことをするのが人間なのだろう。善悪の判断がつくようになっても悪いことを敢えてする。そして、赤の他人に世間話のごとく悪いことをしたことを語ったり、警察に自首したりする。性善説も性悪説もないように思う。
 悪いことをした人が悪人で、よいことをした人が善人だ。それでよい。悪の面と善の面の二面をもっていて、時と場合によってどちらかが表面化するというのが本当のところかもしれない。後は確率の問題だ。その確率を決定していくのが時の運だったり、人との関係であったりする。これを罰すれば確率が変動していくはずだ。どこの時点でどの程度罰するかによって変動の幅も変わってこよう。
 よいところを伸ばすと全体が伸びるのと同じ理屈で、わるいところを放置しておくと全体が駄目になる。二つの手をかけないと偏りができて、人を不安定にしてしまう。すると、奇妙な方向へ暴走したり、逆に自分が分からなくなったりする。これは不幸なことだ。
 彼の身の上話が始まったので、仕事がありますので失礼しますと言って早々に引き上げたのだが、その後どうなったのだろうか。

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 なので心配 画像クリックで説明画面へ>

05-01-2009

日々雑感242「無駄なもの」


 無人島に流れ着いた人間が生き延びるためにまず何を考えるか。水の確保だ。
 まず水を探す。これはそのまま飲めるとは限らないが、水を手に入れることが最も優先されるに違いない。次に火の確保だ。太陽光を集めるものがあれば何でもよいから利用することになる。燃料も要る。しかし、生木はなかなか燃えない。燃えやすい状態のものからまず集め始めなくてはならない。次に体温の確保だ。そして、食料。安全な寝床。
 衣食住というのは、その順番に重要だということだろう。食ではなく、衣が先なのはまず今を生きる必要があるからで、空腹は水だけで何とか一週間はこらえられる。
 一人ならここまでだが、二人いた場合には役割分担が始まる。しかし、二人なら役割分担とともに共同作業もたくさん必要となる。もちろんお互いに一人か二人かでほぼ平等だ。
 問題は三人になったときだ。一人でできることと二人でないとできないことが分担され始める。こうなると、一人対二人という時間が生じる。不平等感の始まりだ。これを平等にしようとしてお互いに工夫するようになる。これが気持ちの問題を解消するのに無駄なことを始めるもとになる。この人数が数万人、数百万人、数千万人、数十億人とふくらんだときのことを想像すると頭がくらくらしてくる。
 実際に人間の活動というものをそぎ落としていくと、随分と無駄なものが多いと実感する。もちろん、本当は無駄ではないのだが、無駄にしか見えないものが多いのは人数が多いせいで、理解しがたく無駄に見えてしまうものがたくさんあっても仕方がない。この地球の現在の人口を支えるには、たとえ無駄で馬鹿げたことのように見えることでも、当面は敢えて成し遂げていく必要があるものもあるのだと了解した方がよさそうなのだ。
 たとえば、罰当たりな日本人から見ると、宗教国家というのが不思議に見える。異様に自由な日本人から見ると、独裁者の統治する国が不思議に見える。飢える多くの国々の人々から見れば、太った日本人がなぜやせるための苦労が無駄なことに見える。農業国の若者から見れば、日本の若者が勉強で鎬を削っているのが無駄に見える。英語圏の若者から見れば、日本の若者が英語習得に苦しんでいるのが無駄に見える。……枚挙にいとまがない。すべてお互いに現象の背景を詳しく理解していないためだ。
 つまり、合理的ではないという理由だけで、何でも単純に取りやめたり取りやめさせたりするということには問題があるということだ。Aを取りやめたら、進めるべきBやCまでも終了してしまったなどということはよくあることだ。同時に症状が出れば分かりやすいが、ずっと後になってから症状が出ると、もうAを復活させることは不可能な状況になってしまっていて、全体を取りやめざるを得なくなるという憂き目に遭うのだ。
 合理的でないシステムやきまり、合理的でない動きが合った場合にも、よく経緯を調べてから処理しないと、こんなはずではなかったということになるということだ。多少時間はかかっても、できるだけ合理的でない種々のものが作り出す無駄が、社会だけでなく、個人や小グループや自然も含めたできるだけ大きくて緩いシステムの中で自然に消滅するように仕組んでいくことが重要であるように思う。
 人間が歴史を通してさまざまな仕組みをこれだけ作ってきたおかげでこの人口を養っていける。不幸だろうが幸福だろうが、無駄なものはないというのがその時点での正解なのだろう。
 しかし、調和というものがこの自然界の真理の一つなら、どこかでバランスをとりながら揺れているというのが本来の姿なのだろうと思う。すると、無駄なものは一つもないというのは不自然なことで、少しずつ無駄だったり、無駄でなかったりしながら、長期的に平均化してみていったときには無駄なものは「結局は」なかったに等しいという言い方の方が事実に近いのだと思う。
  とにかくリンゴをかじってから知恵がついた人間は、その路線でいくしかない。滅びそうになったりまた栄えたりと、栄枯盛衰を繰り返しながら、動植物や鉱物を踏み台にして、彼らとは違った生き延び方をしていく存在だ。
 ……エデンの園で知恵の実のリンゴをかじったときに歯茎から血が出ていれば、また話は違ったのかもしれない。

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<遠藤周作のものは「ただいま浪人」しか読んだことがない 画像クリックで説明画面へ>
04-01-2009

恐怖シリーズ128「国家の定員」

   
 無駄は省くべきだ。とりわけエネルギー資源については、枯渇という究極の問題を最初から抱えていると同時に、あらゆる無駄の原因ともなるものなので、合理的な使用が進められなくてはならない。
 問題はエネルギー資源の枯渇のスピードと人間の対応のスピードのバランスだ。早い時期から少しずつ再構築して変化していけば対応できるが、遅い時期になってから無理に行った急な変化は、さまざまな社会問題が噴出する原因となるので、その対応にも追われることになり、結局は手遅れになると思う。もっとも、エネルギー資源が枯渇するよりも先に人間がこの星からいなくなるか、ほとんどいなくなるかすれば問題はない。また、今の動物なみの生活に変われば、適正人口にまで減っていくからこれも問題はない。
 エネルギーの問題と人口の問題は切っても切り離せない。人口は、必要以下でも、必要以上でも人間にとっての問題が起こる。この問題を解決しようとするから人間以外のものにしわ寄せがいき、結果として最終的には人間にそれが跳ね返っていく。
 これは土地の面積に対する人口だけの問題ではない。山や川や海や湖や気候などの各要素と人口の問題だ。本当はこれに技術が関係していく。
 こうした問題は政治が関わらねば解決していかない。国の人口の方を軸足にしてさまざまな事柄を判断して営まれていくのが政治の基本だ。もっとも、太平洋戦争時の日本で進められた「産めよ増やせよ」の政策や中国の「一人っ子」の政策もあるが、人口が極端に多かったり、極端に少なかったりするのは国家の存亡にかかわる一大事だから、このような後先考えぬ「背に腹は代えられないという類の政策」を打ち出すこともある。しかし、これはいろいろな問題を将来に宿題として残すことになる。
 だからといって世界規模で純粋に人口を合理化しようとすると、国際機関から各国家ごとに定員が割り当てられてしまいそうな気がしてならない。これは大きな恐怖だ。恐怖ではあるけれど、諸問題の根源には人口問題がある。人口というのは人の命の集積だ。これは諸悪の根源でありながらも命という崇高なものとして扱われる。しかし、不思議なことに一人一人の命はもっと崇高で大事なものとして扱われる。地球レベルで考えるとかなり粗末に考えられ、例えば四十億人程度が余分で無駄な人口だなどと平気で論じられかねない。
 だからこそ、人口問題は手遅れになると分かっていてもほとんど手をつけられてこなかったのかもしれない。問題をどのように解決するかと考えることは大事なことだ。精神的に解決するのか、実質的に解決するのか、短い時間で解決するのか、長い時間をかけて解決するのか、100%解決するのか、ある程度解決するのか。どうするのかで方法が全く変わってくる。その方法の違いによっては、社会の仕組みも人の考え方も生活も異なってくるだろうと思う。
 もっとも困るのは何もしないことで、次に困るのは何かしたときにその記録を残さないということだ。残された者はそれだけが頼りなのだ。六十分で解くペーパーテストとは訳が違う。その答えを指導するのは自分たち自身という大変厳しい状況に置かれているということをいつも忘れるわけにはいかない。厄介な生き物に生まれたものだが、エキサイティングな生き様を約束されていると前向きに考えるのがよさそうだ。

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<この人口論は読みやすいだろうか 画像クリックで説明画面へ>
<移民が増えるということなのかな? 画像クリックで説明画面へ>


怪しい広辞苑170「第四版184ページ・いらっしゃい」

<以下の文章を読んだらこの本の著者は怒るだろうなあ 画像クリックで説明画面へ>
 正月休みは時間に余裕が持てる。盆正月というが、こんな時でないと広辞苑などじっくり読めない。字が小さくて目がしょぼしょぼするけれど、広辞苑のために目に鞭を打っていこうと思う。
 広辞苑第四版184ページ「いらっしゃい」の説明の1行目。
 括弧書きで「(イラッシャルの命令形)」とあるが、これでよいのだろうか。次に「人の訪ねて来たときに挨拶に用いる語。よくいらっしゃったの意。」とあるのだが、この一行目の括弧書き内で「命令形」と説明されているのに、「よくいらっしゃった」という命令の意味を含まない意味が次に示されるのはしっくりこない。素直に読めば誰もがそう思うだろう。どういう理由があれ、説明不足であることには間違いない。疑問を持たせておいて放置するパターンだ。
 自宅等にお客さんが訪ねてきたときに言う「いらっしゃい」には、命令の意味など最初からありはしない。もう来ているのだから、敢えて命令する必要はない。これは、訪ねてきてくれたことに対する労りと感謝の気持ちを表す「いらっしゃい」だ。「遠いところまで本当によく来てくれました」という気持ちが込められている挨拶の言葉だ。だから、「命令形」という括弧内の補説は、それだけの補説ではとても不自然な感じを利用者に与えてしまうことになるだけの中途半端なものになってしまっている。
 もちろん、訪ねてきてくれたお客さんに対して、入室許可等の意味で、玄関先から屋内に「(こちらへ)いらっしゃい」と言うときの「いらっしゃい」には命令の気持ちが含まれている。お客さんに命令とはおかしいが、「いらっしゃる」自体が敬語なのだから、それで不都合はないだろう。もちろん、子どもを招き入れるときにはこれで問題ないが、相手が大人であれば、中には「いらっしゃい」だけでは言葉不足になる賓客もいるはずだ。その場合には、例えば「どうぞこちらへいらっしゃいませ」などのように言葉を添えることになる。このときの「いらっしゃい」は連用形で「ませ」は「ます」の命令形だろう。「ませ」の語が省略された後も、「いらっしゃい」のほうにその命令の意味合いが乗り移った結果、「いらっしゃい」が命令口調になっていったということなのだろう。しかし、いくら命令の意味合いがあるからといって、それで「命令形」だといってよいわけではなかろう。
 こうして考えた場合には、広辞苑第四版の括弧内の補説で「(イラッシャルの命令形)」とするのは不適切だということになってしまう。せめて、「(イラッシャルの命令の言い方)」という言い方にする方が小中学生には悩まずに納得してもらえそうな気がする。
  さて、命令形でなくても命令の言い方というのは、どのようなものがあるだろうか。
 たとえば、「早く行け」の「行け」は「命令形」だが、「早く行った」の「行った」の「行っ」は「連用形」だ。それでも、「早く行った」は過去の言い方だけではなく、命令の言い方としても成り立つ。「さあ、行った、行ったあ!」というわけだ。
 つまり、「連用形」でも、話し手と聞き手と場、そして場を取り巻く状況によっては「命令」の意味合いを持つ場合があるということになる。これは一見して口調や表情や素振りが言葉をサポートして命令の意味合いを生みだしているように見えるが、実際のところは相互扶助のような関係にあるのだろうと思う。
 もしかすると、「早く行った」は、「早く行った(方がよいぞ)」という脅し文句の(方がよいぞ)が省略された姿かもしれない。もっと脅しの言葉とするには、後に(方が身のためだぞ)というものが省略されていることを口調や表情や素振りで示しつつ、「早く行った」叫べばよい。どちらにしても、脅しだから、間接的にではあるが、命令の働きを立派に果たすというわけだ。
 ところが、広辞苑第四版では、説明前の括弧内の補説で「命令形」という言葉を使っているので、括弧外の説明部分でも同様の姿勢で説明を続けるのが普通だと思うのだが、それは残念ながらなされていない。それとも、異なる姿勢で書いているから括弧内に閉じこめたということなのだろうか。
 ここでは、「命令形」が文法用語である以上、少しでも文法的にこの説明のあり方の問題を見ていかねばならなくなる。厄介だ。しかし、十人十色の訳の分からない難しい文法論に触れるのではなく、小学生にも理解しやすい文法的説明、即ち活用形を並べていろいろに想像するだけのことならできるかもしれない。昔懐かし「未然形、連用形、終止形、連体形、仮定形、命令形」という枠組みだけで見ていこうというわけだ。ここで、「未然」と「仮定」と「命令」が意味合いを示しているのだから、「終止形」などは「断定形」とか「基本形」とかにして他も命名方法をどちらかに統一すべきだなどと言い始めると、本当に基本形は今の終止形なのかとか、今の終止形は断定だけの意味合いかなどと話が広く展開しそうで面倒だから、ここでは無視しよう。
 日常会話にはおよそ出てきそうにもない語が出現するが、とりあえず機械的に形式的に並べると、次のようになるのではないか。
「未然形……いらっしゃら(れる)、いらっしゃら(ない)、いらっしゃら(ぬ)、いらっしゃろ(う)」
「連用形……いらっしゃり(ます)、いらっしゃい(ます)、いらっしゃっ(た)」
「終止形……いらっしゃる」
「連体形……いらっしゃる(とき)」
「仮定形……いらっしゃれ(ば)」
「命令形……いらっしゃれ」
 「いらっしゃら(れる)」は過剰な敬語表現のようで、奇妙な感じを受ける。また、「いらっしゃろう」とはおかしな日本語のようにも感じられるけれど、「どこにいらっしゃろうとも……」などと使うことができそうだ。しかし、問題は「命令形」が「いらっしゃれ」になってしまうということにある。どのような力が働いて「いらっしゃれ」が広辞苑第四版に示されたような「いらっしゃい」という語形になるのだろうか。
 ここが不思議なところだが、もし、そのように「いらっしゃれ」から「いらっしゃい」という姿の変化があるのなら、そうした理由だけからも、ここの括弧書きの補説は「(イラッシャルの命令形)」とするのではなく、「(イラッシャルの命令形より)」とすべきだと思うが、どうだろう。
 敬語「いらっしゃる」に対応する普通の言い方は「来る」だと思う。その「命令形」は、変格活用だけに変則的だが、「来い」という語形だ。命令形「いらっしゃれ」が「いらっしゃい」という「い」で終わる形になっていくことと何か関係でもあるのだろうか。
 「来い」は「い」で終わっているが、この「い」が「命令形」をつくる働きをもった「い」だということを学校で習った記憶はない。そして、毎日頻繁に使われている基本的な日常語の「来る」や「する」が、どうして変格活用という「変則的」な活用の仕方になってしまうのかという興味深いところを習った記憶もない。
 しかし、よく考えてみると、「早く死ねい!」とか、「よっく聴けい!」とか、「早く食べい!」とか、「早くせい!」とか、「い」で終わる命令の言い方はたくさんある。この「い」について学校で習わなかったのは、おそらく「早く死ねい!」と「よっく聴けい!」の場合は、「死ね」と「聴け」が既に「命令形」なので、「い」が「命令形」をつくる働きを持ったものだという説明が困難だからだろう。
 では、「死ねい」と「聴けい」の「い」とは何なのだろう。おそらく、「シネー」とか「キケー」という、比較的長めの叫び声の語尾が長音化したものが、「い」という発音に転じたものではないかと思う。
 もともと語尾を伸ばすのは、基本的には遠くの相手に強く声を届かせようとする目的で行われたことであったはずだ。もちろん、目の前にいる相手に対しても、心が遠くにあるようならば、気づかせたり脅したりするために、やはり同じように語尾を伸ばして叫ぶことになるだろう。
 しかし、長くなった語尾をそのまま長くなったまま終わらせることは難しい。たとえ大きな声であっても、聞き方によっては、気持ちが入っていない機械的な調子に聞こえたり、一本調子でしまりなく聞こえたりする。いくら相手に声が届いても、それでは本来の目的であった人を動かすという命令の言い方がもっている強制力が薄らいでしまう。
 これを防ぐために、長くなった語尾のすぐ後へ、短くて切れのよい発音である「い」をそえるという方法をとって語調を引き締めたようにも考えられる。
 ある語の語尾が長音化した後、そのまま「イ」という発音に転じていったものなのか、それとも、「い」という別の発音を付け加えたものなのかはよく分からない。しかし、「い」の前の「死ね」や「聴け」等の単語が長音化した後、その語尾の発音が、「エ」から「イ」に転じる過程で発声が引き締まり、聞く者にインパクトを与える力を持つことになることは経験上明らかだ。「きをつけ」ではなく「きをつけい」となったり、「きをつけろ」ではなく「きをつけろい」となったりするのもそうだろう。
 つまり、論理的な説得力ではなく、論理的に説明するまでもないことを言っているのだぞという気合いを表現する発声方法をとることによって、迫力としての説得力を持つことになる。これは、「これほど強く訴えているのだから正しいはずだ。従うべきだろう。」という心理が聞き手に働いただけなのだが、それが話し手の説得力として評価されることになったわけだ。だから、逆に聞き手によっては、客観的に見て十分に気合いが入った発声ではあっても、少しも心を動かすことがないということも起こり得るだろう。
 かけ声の「えい」も、このような発声上のインパクトと同じ効果を持つ。開放的で力強い「エ」の発音によってうまれた言葉によるパワーを、鋭くて力をためる「イ」によって、精神と肉体に注入するのだ。発声後は精神と肉体に注入されたパワーを呼吸と姿勢によって維持し、パワーが身体の動きとなって発動する機会を読むプロセスに移行する。
 かけ声でなくても、普通の語の語尾がエ段の発音で終わるよりもイ段の発音で終わる方が、肺に息が残り、下っ腹に力が入って終わるから、次の動作や次の言葉を出しやすくすることができるだろう。
 「死ねい」とか「聴けい」とかいう発声の後に、にらみつけたり、身を乗り出したりという姿勢を取るのは、このように言葉とセットになった沈黙のパフォーマンスなのだから、沈黙の効果と言えなくもないが、沈黙だけを言葉と切り離して考えるのは不都合があるように思う。
 また、聞く者がいつまで耳を澄ませて命令を聞いていればよいかという問題も、「い」が命令の終了のよい合図となることで解消する。これは、聞き手が自分の行動に移るタイミングをはかるための合図とすることもできる。
 かけ声の「えい」の効果から逆に考えて、この場合の「い」は「命令形」をつくる別の語としての「い」ではなく、エ段で終わる「命令形」と相性のよい語勢とか語気と説明しておけばよいだろう。
 つまり、「死ねい」や「聴けい」等の場合、相手に声を届かせるために長音化した「命令形」の語感を引き締める「い」は、別の場所から持ってきて取り付けた別単語の「い」ではなく、長音化した語尾の発音が必要に応じて自然に推移したものを敢えて表記したものだと見た方が自然であるような気がするのだが、どうだろう。つまり、「死ねい」も「聴けい」も一つの単語として見ていくべきものではないかということだ。
 しかし、このように「死ねい」や「聴けい」を「命令形」の一形態と見ることができても、標準的な言い方ではないから、活用表の一群から外され、敢えて紹介されるということはない。何しろ活用一覧表の枠はたくさんの用例を示さなくては説得力がないために、一つ一つの枠の幅が非常に狭くなっている。標準的な言い方以外の語形は省略されても仕方ないような状況だ。そのようなことで不適切な紹介をせざるを得ないというのは少々おかしいことかもしれないが、収拾がつかなくなるということもあろうから、どこかで妥協するしかないということなのだろう。
 さて、「いらっしゃい」は、このような「死ねい」や「聴けい」と、「い」について同列のものと見てよいのだろうか。
 「い」の前の発音は、「いらっしゃ」だ。「死ね」や「聴け」と違って「命令形」ではない。これをどう説明しよう。
 たとえば、「いらっしゃる」の標準的な「命令形」である「いらっしゃれ」の「れ(RE)」の「R」が脱落して「エ(E)」が残り、「いらっしゃえ」となったとする。この「いらっしゃえ」の「え」が長音化した後、発音を引き締めて語気を鋭くするために「い」に転じたとすると、「いらっしゃえい」から「いらっしゃい」と表記するにふさわしい発音になっていくように思う。つまり、「しゃ」の「ア」から「エ」、そして「イ」へと三つの母音が重なっていくことになるが、それらが一音に融合していく過程で、結局は真ん中の「え」が省略されたように見える発音の仕方となり、現時点での最終段階である「いらっしゃい」という姿になると思うのだ。
 こうして考えていった場合には、「いらっしゃい」を「(イラッシャルの命令形)」とする広辞苑第四版の括弧内の補説は説明不足ながら適切なものとなる。説明不足の補説というのは勘弁してほしいので、「説明不足ながら適切」な部分は辞書から排除してほしい。
 また、「死ねい」や「聴けい」は、「い」の前が「ね」や「け」のように子音が省略されない姿であるのに対して、「いらっしゃれ」の場合は「れ」の子音を脱落させて「いらっしゃえ」から説明したのだから、この子音の脱落自体を説明する必要もまだ残っている。
 「死ぬ」も「聴く」も「いらっしゃる」も、五段活用の動詞だ。しかし、「死ねい」や「聴けい」は耳にしても、「いらっしゃれい」は耳にしない。「いらっしゃる」の場合は、「いらっしゃりませい」なら、かろうじて受け容れられそうだ。これらは「命令形」に「い」が付いた形ではなく、連用形「いらっしゃり」に助動詞「ます」の命令形が付き、そのうえで「い」が付いた形だ。
 「いらっしゃりませい」のうち、「いらっしゃる」の連用形「いらっしゃり」は発音しづらいために、イ音便となって、「いらっしゃい」となる。そうすれば、聞き慣れた「いらっしゃいませ」だ。これを訴えかける口調にして長音化し、最後を引き締めていけば、「いらっしゃいませい」になりそうだ。
 しかし、いくら「いらっしゃいませ」の「ませ」が「命令形」でも、その「ませ」を省略した「いらっしゃい」が「命令形」に変わるわけではない。文として命令の意味合いがあっても、「いらっしゃい」の部分は連用形だ。
 しかも、これは訪れた人への挨拶の言葉ではない。道行く人に対してお店の客引きが「さあ、そこの社長さん、うちの店にいらっしゃいよ。」「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。」「いらはい、いらはい。」「寄ってらっしゃい。見てらっしゃい。」というのは、「こちらへ、いらっしゃいませよ。」という誘導の言葉で、人を動かす目的を持った言葉だ。つまり、やわらかい命令だ。
 それに対して、お店に入った途端の「いらっしゃいませ」や「いらっしゃいまし」は、「よくいらっしゃいました。」という来店を感謝する気持ちを込めた挨拶である場合もあれば、店先から店内の特定の席等へ誘導するために「こちらへいらっしゃいませ。」という誘導である場合もある。発声するタイミングを区別するのが難しいうえに語形も似ているので、挨拶でも誘導でも、とにかく「いらっしゃいませ」ですますようになったのかもしれない。もちろん、「いらっしゃいまし」が廃れたわけではないが、「いらっしゃいまし」は、どうしても時代がかった言い方のように感じてしまう。
 さて、「い」については、「見る」→「見い」、「食べる」→「食べい」、「する」→「しろい」、「来る」→「来い」ということが言えるかもしれない。このうち「見い」、「食べい」、「しろい」は標準的な言い方ではないせいか、活用一覧表には載せられていない。一方、よく使うからか、「来い」は活用一覧表に載せられている。「来い」という「命令形」は何の気なしに使っているが、よく味わってみると、「しろい」と同じ下品な感じが漂っている言葉のように思う。慣れてしまうということ、疑わないということは恐ろしいことだ。もしかすると、「来る」の「命令形」は「こい」ではなく、「こ」だけかもしれないという疑いを持つのも面白い。「こっち、こ」という言い方はそう不自然ではないように思う。
 因みに、もし、「死ねい」の「ね(NE)」の母音Eが省略されれば、NとIが連続して「に」となり、「シニー」とか「シニィ」という発音になり、「死にい」という表記になるだろう。「聴けい」も同様に「聴きい」となるように思う。標準語ではないが、「死にい」も「聴きい」も許される範囲の命令形なのではないかと思う。
 ただし、「死になさい(ませ)」「聴きなさい(ませ)」の頭だけが残って後が省略された言い方が「シニー」「シニィ」、「キキー」「キキィ」であれば、「命令形」とするのではなく、「命令の言い方」とするのがよいだろう。 
 このように考えてくると、広辞苑第四版のように(イラッシャルの命令形)という補説も語の成り立ちという枠組みの中では納得できる。
 しかし、広辞苑第四版の「いらっしゃい」に対する説明が、「よくいらっしゃったの意」というものなので、ここは(イラッシャルの命令形より)とし、「命令形」の語形から来たものではあるけれど、命令の意味ではないということを示すのが親切というものだろう。
 辞書というものは書籍だから、編集者が利用者のクレームを拒否し続ける限りは、そのまま基本的には一方通行の情報だ。だから、そのぐらいの表現の親切さは必要だろうと思う。たった二文字を追加するだけなのだから、スペースに限度があるというのは言い訳になってしまう。
 確かに、ここは二文字増やすと行が一行増えてしまうが、一文目の「人の訪ねて来たときに挨拶に用いる語。」を「人の訪ねて来たときの挨拶。」とすれば、「より」の二文字は行を増やさずに追加できるはずだ。
 ところで、「早く食べい!」と「早くせい!」の場合の「い」は何だろう。「食べ」と「せ」は「命令形」として認められていない。一般的には「食べよ、食べろ」と「せよ、しろ」が「命令形」として活用一覧表に掲げられている。このうち「食べよ」と「せよ」が、「食べい」と「せい」に対応している。残りの「食べろ」は「食べろい」に、そして「しろ」は「しろい」に対応している。
 「食べろい」と「しろい」は、「命令形」に「い」が付いた形に見える。「死ねい」とか「聴けい」のように、「い」の前がエ段ではないので、「い」の前の語が長音化したものを引き締めた言い方にしたというような説明はしにくい。仕方ないので、「命令形」に接続したがる「い」という語を認定するか、それとも、「死ねい」とか「聴けい」のような語感の影響を受けて、鋭い口調を必要としたときに「食べろい」とか「しろい」という言い方が発生したと苦し紛れの説明を考えるしかなさそうだ。
 さて、「食べよ」と「せよ」の「よ」をいじり回して「い」にするには無理がありそうだ。まさか「よ」は「ぃよ」の「ぃ」が「い」と強調され、「よ」が脱落して「い」だけになったものだとするわけにもいかないだろう。それはいくら何でも無茶な感じがする。
 逆に、最初に「食べい」とか「せい」という「命令形」があって、それに終助詞の「よ」が付いて「食べいよ」となった言い方が、「食べぃよ」となって、「ぃ」が脱落して「食べよ」という言い方になり、それが「命令形」になったと説明するのも不思議な感じがする。
 ここは想像力を発揮して、「早く食べい!」は「早く食べなさいよ!」、「早くせい!」は「早くしなされよ!」から来たものだとするのはどうか。「早く食べなさいよ!」「早くしなされよ!」では、命令の言い方としては言葉が長すぎて、言う方も聞く方もだれてしまう。そこで、できるだけ短く表現しようという気持ちが働いて、「早く食べい」「早くせい」になっていったと説明するのはおかしいだろうか。
 命令の言い方は短く鋭く叫ぶのに都合のよい語形に向かって変形していくという法則があってもいいような気がするが、次に考えられる流れを想像してみた。
「早くお食べなさりませ」→
→「早くお食べなさいませ」(「り」のRの脱落)→
→「早くお食べなさい」(「ませ」の省略)→
→「早くお食べ」(「なさい」の省略)→
→「早く食べえ」(「お」の省略、「食べ」の長音化)→
→「早く食べい」(語尾の引き締め)
となってきたとすれば、回りくどいが面白い。
 これは「食べる」に「なさる」と「ます」がついた流れだから、「食べ」は「命令形」ではなく、「連用形」だ。
 仮にそうだとすると、白洲の上で平伏している容疑者に「面を上げい!」というのも、
「面をお上げなさりませ」→
→「面をお上げなさいませ」(「り」のRが脱落)→
→「面をお上げなさい」 (「ませ」の省略)→
→「面をお上げ」(「なさい」の省略)→
→「面を上げえ」(「お」の省略、「上げ」の長音化)→
→「面を上げい」(語尾の引き締め)
となったものかもしれない。
 もっとも、スタートが「面を上げなされ」なら、
「面を上げなされ」→
→「面を上げ」(「なされ」の省略)→
→「面を上げえ」(「上げ」の長音化)→
→「面を上げい」(語尾の引き締め)
となりそうだ。この「上げい」の「上げ」も「命令形」ではなく、「連用形」だ。省略された「なされ」が「命令形」なので、命令口調や表情で「上げい」を発声する必要があるだろう。
 これに対して、「ゆっくりお休み!」というのは、
「ゆっくりお休みなさりませ」→
→「ゆっくりお休みなさいませ」(「り」のRの脱落)→
→「ゆっくりお休みなさい」(「ませ」の省略)→
→「ゆっくりお休み」(「なさい」の省略)
となりそうだ。
 「お休み」の「み」はイ段で発生が自然に引き締められているせいか、「い」をどこかから持ってきて付けたような形にはならなかったのだろうか。
 これは「お」という接頭語がつくので、丁寧な言い方になっている。普通なら「ゆっくり休め!」というように「休め」という「命令形」を使えばよいところだが、「なさる」という連用形接続の言葉が付く形だから、「お休み」の「休み」は「休む」の「連用形」となる。
 「お休め」という言い方もあるが、これは「(お体を)お休めなさいませ」の「お体」の「お」と、「なさる」と「ます」を省略した「(体を)お休め」であれば、自然な日本語として成立する。つまり、「休める」の「連用形」である「休め」に「お」を付けた言い方だ。
 しかし、「休む」の「命令形」である「休め」に「お」がついて、「お休め」という言い方になることはない。
 この場合、「お」は丁寧語をつくるための接頭語だから、全体として優しい言い方になるはずなのに、次に「休め」という「命令形」で厳しい言い方をもってきてしまうと、「お走れ」や「お行け」のように相性が合わないように感じて具合が悪いのだ。話し手の伝え方の方針がぐらついていて、表現方法と表現内容の不一致による不統一感が漂うために、自然な言葉として成立しないのだろうと思う。
 犬に対して、「お座り」という言い方はあっても、「お座れ」という言い方がないのも、これらと同じ理由からだろう。どうしても「座れ」を使いたければ、「お」をあきらめることだ。
 ところが、自動詞「休む」に対して他動詞「休める」という言葉がすぐに思い浮かべられるのとは異なり、「座る」に対する他動詞はすぐには思い浮かばない。しかし、「据える」という他動詞がある。漢字にこだわる必要はないので、平仮名にして「すわる」「すえる」と並べてみると、何となくそれらしいペアに感じられる。
 「(腰が)すわる」「(腰を)すえる」と言葉を補えば、理解しやすい。そうなると、「(しっかり腰を)おすえ」という言い方でなら、比較的自然な言葉として成立することになる。もちろん、「おすえなさいませ」の「なさる」と「ます」を省略した形なので、「おすえ」は「命令形」ではなく、「連用形」だ。
 さて、「休む」「休める」とは別に「休まる」という自動詞がある。この命令形「休まれ」は、日本語としてまだなじんでいない。ましてや、それに「お」を付けた「お休まれ」などは、あり得ない不思議な言い方になってしまう。
 連用形「休まり」に「なさる」と「ます」を付けた「休まりなさいませ」という命令の言い方も、「ます」を省略した「休まりなさい」という言い方も、また、「お」を付けた「お休まり」という言い方も、使用される状況を想定しにくいために、かなり不自然に感じられる。
 可能動詞「休める」には最初から「命令形」がない。可能の意味を持つ言葉だから、敢えて命令する必要はないということだろう。可能動詞「休める」の連用形「休め」に「お」を付けて「お休め」とするのはあり得ない。
 これに対して、「しずむ」「しずめる」「しずまる」の「しずまる」の命令形「しずまれ」は時代劇では使うので、まだ日本語として不自然でないと感じられる。しかし、「お」を付けた「おしずまれ」という言い方は、やはりあり得ない不思議な言い方になってしまう。また、連用形「しずまり」に「なさる」と「ます」を付けた「しずまりなさいませ」という命令の言い方も、「ます」を省略した「しずまりなさい」という言い方も、また、「お」を付けた「おしずまり」という言い方も、使用される状況を想定しにくいために、かなり不自然に感じられる。
 一方、「消える」という自動詞に対して、「消す」という他動詞がある。「消える」の連用形「消え」と、「消す」の命令形「消せ」、連用形「消し」はそれぞれ異なる姿をしているので、「(どこかに)お消え」と「(早く姿を)お消し」は、もとより「お消せ」という日本語がないということもあり、「休む」の命令形「休め」と「休める」の連用形「休め」が同じ語形となることによる「お休め」の混乱が起きない。
 可能動詞「消せる」も可能動詞「休める」と同様に可能動詞である以上は「命令形」がない。また、それぞれの連用形「消せ」「休め」に「お」を付けた「お消せ」お休め」はあり得ない言葉だ。
 「早く食べい!」が「早く食べなさいよ!」、「早くせい!」が「早くしなされよ!」から来たものだとしたらどうかと考えてきたが、これを丁寧に言うと「早くお食べ!」「早くおし!」となるということだ。もちろん、命令の言い方だが、「食べ」も「し」も「命令形」ではなく、「連用形」だ。これは女性がよく使う言い方で、目下の者に使うときが多い言い方のように思う。
 これは、「食べろ」という「命令形」ではやや粗暴な言い方になるので、「命令形」の使用を、続く言葉の「なさる」または「ます」に押しつけた上で省略するという、言外にほのめかすという婉曲的で少し遠慮のある表現になる。
 これは表情とか口調で、命令の強さの度合いを調節することができるので、近くの男性の存在を配慮しつつ、相手に応じて命令の強さを加減するという、女性ならではの心遣いのある表現として選択されてきたのではないかと思う。 
 性による身分差意識や性別意識が強い地域や時代では、どうしてもこのような男女二種類の命令の言い方が必要だったのかもしれない。同じ言い回しでは男女が対等になってしまうのだ。そこで生じる対立や、その後の勝負の結末がもたらす不都合を未然に回避する形で、「お食べ」や「おし」等のやわらかく一歩引いた形の第二の表現を考えるという大人の判断が働いたということなのだろう。確かに、男性がその場にいなければ、女性の口調も変わる。
 従って、男性の言い方であろうと思われる「食べい」を考えるときには、丁寧の助動詞の「ます」をつけた言い方からスタートするのではなく、やや粗暴に「早く食べなされ」→「早く食べなせえ」→「早く食べ」→「早く食べえ」→「早く食べい」とか、「早く食べろ」→「早く食べえ」→「早く食べい」とかの流れの方がより実際に近いように思う。
 最短の流れでは、「早く食べろ」→「早く食べろい」かもしれないと思う。しかし、「早く食べい」とは少々異なり、「早く食べろい」の方は、男性の言い方というよりも、少々野卑な感じのする命令の言い方に聞こえる。
 「早くせい」も、「早くしなされ」→「早くしなせえ」→「早くし」→「早くしい」という流れでは、いつまでも「早くせい」にならないので、「早くせよ」→「早くせえ」→「早くせい」という流れかもしれない。この場合も「早くしろ」→「早くしろい」という流れが見えてくるが、やはり野卑な感じのする命令の言い方に聞こえる。
 さて、「せよ」→「せえ」→「せい」のときには、「せよ」の「よ」が「せえ」と長音化する前に省略されたような流れになってしまうことの説明が必要だ。通常なら、「行け」→「行けい」、「抜け」→「抜けい」、「逃げろ」→「逃げろい」、「くれ」→「くれい」、「みろ」→「みろい」、「起きろ」→「起きろい」などのように、単純に「命令形」の次にそのまま「い」が付けたされたような形になるからだ。
 「せよ」という「命令形」の「せ」と「よ」との関係が怪しいようにも思う。「せ」と「よ」が最初から別々の語なら、「よ」の省略は、容易であるように思う。このことは「来い」についても言えそうだ。
 このように「命令形」の一部の「よ」は、本当に動詞の一部として認めてよいかどうかを一度疑ってもよいような気がする。例えば、「食べる」の活用を活用表の順番に見ていくと、
「未然形……食べ(させる)、食べ(られる)、食べ(ない)、食べ(ぬ)、食べ(よう)」
「連用形……食べ(ます)、食べ(た)」
「終止形……食べる」
「連体形……食べる(とき)」
「仮定形……食べれ(ば)」
「命令形……食べろ、食べよ」
となる
 こうして改めてじっくり眺めていると、この六つの活用形自体が怪しく思われてくるが、それはさておき、「食べる」の語尾だけ見ていくと、「べ」の次には「る、る、れ、ろ、よ」とラ行でほぼ占められている。
 ここで、命令形にあるヤ行の「よ」だけがなぜラ行に交じっているのかとか、「命令形」だけが後につく言葉もないのに二種類の言い方を掲げているのはなぜか、「食べよ」という「命令形」は、もちろん命令の意味を持っているのだが、果たしてその正体は何なのだろうか。などという単純な疑問が頭をもたげてくる。
 では、もう一つの「する」の活用を活用表の順番に見てみよう、
「未然形……さ(せる)、さ(れる)、し(ない)、し(よう)、せ(ぬ)」
「連用形……し(ます)、し(た)」
「終止形……する」
「連体形……する(とき)」
「仮定形……すれ(ば)」
「命令形……しろ、せよ」
となる。あまりにも一般的な動詞であるのに、これは他の動詞と随分と様子が違う。未然形が三つあるのも気になるが、ここはやはり「命令形」に注目しよう。やはり上一段活用と下一段活用と同じように二つある。これはなぜだろう。
 では、命令の言い方(命令形も含む)の用例を挙げてみよう。
「早くしろ」→普通の命令の言い方として成立
「早くしろい」→引き締めた命令口調の「い」が付け加えられた気迫のこもった言い方として成立
「早くしなされ」→連用形「し」に「なさる」の命令形が続いた形として成立
「早くしなさい」→「早くしなされ」に引き締めた命令口調の「い」が続いて変化した形として成立
「早くしやがれ」→連用形「し」に「やがる」の命令形が続いた形として成立
「早くしろよ」→普通の命令に助詞の「よ」を付けたやわらかい命令の言い方として成立
「早くしぃ」→連用形「し」に続く語の命令形が省略された形として成立
「早くせよ」→普通の命令の言い方として成立
「早くせえ」→長音化した命令の言い方として成立
「早くせえよ」→長音化した命令に助詞の「よ」を付けたやわらかい命令の言い方として成立
「早くせい」→引き締めた命令口調の「い」となった気迫のこもった言い方として成立
「早くせいよ」→引き締めた命令口調に助詞の「よ」を付けたやわらかい命令の言い方として成立
「早くせよい」→引き締まった命令口調の「い」が付いた気迫のこもった言い方だが、日常語としては不自然のため不成立
 どうして、「早くしろい」が成立しても、「早くせよい」は成立しないのだろう。
 「早くしろい」の「しろ」は「する」の命令形だが、同じ「する」の命令形「せよ」と置き換えたのにもかかわらず、「早くせよい」となってしまい、通常の表現としては成立しなくなるのだ。これは、「せよ」という「命令形」が、その成り立ちにおいて純粋には一単語の「命令形」ではないことの証拠であるのかもしれない。
 もちろん、「する」だけではなく、下一段活用、上一段活用の「命令形」が二つあるものについても皆同じことが言える。
 たとえば、上一段活用となる「見る」は、
「未然形……見(させる)、見(られる)、見(ない)、見(ぬ)、見(よう)」
「連用形……見(ます)、見(た)」
「終止形……見る」
「連体形……見る(とき)」
「仮定形……見れ(ば)」
「命令形……見ろ、見よ」
となる。
 「見る」は「たべてみる」「いってみる」「はしってみる」「やってみる」の「みる」のように、見かけは「みる」という動詞だが、別の意味を添える補助動詞として使われることも多い。
 補助動詞としての命令形も「みろ」と「みよ」だ。例によって、「い」という発音に気迫を感じる聞き手や話し手によって、「声を出して言ってみろい!」とか「やれるもんなら、やってみろい!」という会話が成立していく。そのときにどうしても「声に出して言ってみよい!」とか「やれるもんなら、やってみよい!」とはならないのだ。「早くせよい」が不成立であるのと同じだ。
 もしかすると、これは「よ」という口調をやわらげる助詞がかかわっているからかもしれないという疑いが少し出てくる。「だめだよ」の「よ」だ。「だめだ」ではきつい口調になるので、「よ」という助詞を付けて、調子を和らげる働きをしている。「やってみよい」という言い方が成立しないのは、「よ」で優しい雰囲気を出しながらも、「い」で鋭く引き締めるということ自体が矛盾しているからではないか。
 「せよ」とか「見よ」とか「食べよ」とか、世間でも学校でも「命令形」として認められているのだから、その「よ」が「する」とは別の単語だなどと頭のおかしなことを言う方が間違っていると言われそうだが、これは認められているのではなくて、単にそう習ったからというだけのことかもしれない。
 習ったものはほとんど正しいのだろうが、便宜的にそういうことにしておいた方が混乱を招かないという良心的で教育的な配慮のもとに、およそ正しいということを習ってもらっているということも多いのではないかと思う。本当のことを学校で教えないのかという話になるが、本当のことというのはとても理解するのが難しかったり、難しくなくても混乱を招くことだったりすることがある。これを避ける方が賢いというわけだ。もちろん、ここに記したことが正しいか正しくないかは分からない。しかし、全ては疑ってかかった方がよいということだけは確かだ。
 さて、整列したときの号令が「きをつけ!」だが、大声で発声すると「きをつけい!」となりがちだ、また、「休め!」が「休めい!」となりがちであったり、「休め!」が「休めい!」となりがちであったりすること考えると、気合いを入れて叫ぶときには、やはり文法的に考えて、省略したり加えたりする語を詮索するよりも、叫びやすく、聞きやすいという生理的な理由等で語尾が「い」になったと考える方がすっきりしそうだ。ただし、その「い」は前に来る語の語尾の「エ段」の発音を引き締めようとするなどして自然に発生した「い」でなくてはならないと思う。
 日本語の文法というものが現在どういうものとして研究されているか分からない。しかし、敢えて文法的に考えると、号令「きをつけい」の基本的な形は「きをつける」だから、「早く食べい」の基本的な形が「早く食べる」というのと仲間で、「つけろ」の「つけ」という「一見したところ命令形の一部」に似ている語形に「い」が付いた形に見えるが、補助動詞「なさる」や助動詞「ます」などが省略された動詞の「連用形」が長音化した後に、「い」という発音で引き締めたもののように思われる。
 号令が「きをつけなさい」では間延びしてしまう。「気をつけなさいませ」では、間延びするだけでなく、丁寧すぎて命令された感じがしない。「きをつけろい」では、下品の風が吹いてしまう。
 一方、号令「休めい」の基本的な形は「休む」だから、「よっく聴けい」の基本的な形が「よっく聴く」というのと仲間で、一見したところ「休め」「聴け」という「命令形」に「い」が付いた形に見えるが、「命令形」が長音化した後に引き締めた結果生まれた「い」という発声を表記したものだと考えた方が自然な感じがする。
 このように見ていくと煩雑なので、五段活用の動詞の「死ぬ」「聴く」などは、命令形に「い」を付けた言い方があるとか、サ行変格活用、カ行変格活用、上一段活用、下一段活用の動詞の「する」「来る」「見る」「食べる」などは、「せい」「来い」「見い」「食べい」というように、命令形の一部に「い」を付けた言い方があるとか、ただし「しろい」「(来い)」「見ろい」「食べろい」という下品で乱暴な言い方をする場合もあるなどと、いかにも文法的な説明になるように文法上の仲間別に結果だけを付けてまとめることによって逃げを打つという手もある。
 ただし、「いらっしゃる」は五段活用なので、「命令形」に「い」をつけると、「いらっしゃれい」となってしまうので、先に記したように「れい(REI)」のRが脱落した結果、「AEI」と三つの母音が重なったために、中央の「E」が抜け落ちた形となって「いらっしゃい」という形になったという苦しい説明をしなくてはならなくなる。
 しかし、文法的にどのように仲間であろうと、そしてどのように説明のされ方が異なっていようと、僕たちはそのようなことをいちいち考えて言葉を使っているのではない。全く感覚的に使っているというのが本当のところだ。文法的に異なる説明をしなくてはならないものであっても、使われる状況や使うときの気持ちが似ていれば、似たような姿になっていくものだと思う。動植物でもそれは同じらしい。種類が異なる別の生き物でも、環境が同じだと似たような姿の生き物になっていくということはよくあることだ。
 つまり、ここまで挙げてきた例の全ての語の語尾の「い」は前の語の末尾が声をしっかりと届かせるために長音化したときに起こるさまざまな不都合を解消するために必要となった発音を表記したものだというとらえ方をしていってもよいように思うのだがどうだろう。これでは感覚的過ぎて説得力がないかもしれないが、他にどう説明するとしっくりくるのかまだよく分からない。所謂文法的な説明は既に専門家によってさわやかになされているはずだから、もう堂々巡りは終わろう。
 先に、広辞苑第四版の「いらっしゃい」には、(イラッシャルの命令形)とするよりも、(イラッシャルの命令形より)とした方がよいと書いたが、「い」で終わる命令口調の語形を「命令形」として活用一覧表の枠内に入れることとするというのなら話は別だ。その場合には(イラッシャルの命令形)という説明の仕方でも不都合はなくなるかもしれない。
 ただし、括弧書きの補説に続き、命令の言い方の意味を①として書き、「すぐ東京にいらっしゃい。」というような命令の意味で使われている用例を書かねばならない。そして、第二の意味として、「②人の訪ねて来たときに挨拶に用いる語。よくいらっしゃったの意。」と続ければよいだろう。②では、(イラッシャルの連用形)と括弧書きで補説した方がよいかもしれない。「いらっしゃいませ」の「ませ」を省略した形だと考えられるからだ。
 ここでは「ます」の「命令形」の「ませ」が隠されてしまったことになるが、「ます」は連用形接続だから、この補説でよいように思う。しかし、どうしても挨拶の言葉の中に、たとえ省略されているとしても「命令形」が使われているというのは、あくまでもお客様に対する言葉であるから、個人的には気に入らないという人もいるだろう。しかし、だからこそ省略されたと考えてはどうだろうか。
 元来、挨拶は言葉が中心ではない。気持ちやその気持ちを表現した表情や仕草が中心となる。とびきりの笑顔で「いらっしゃい」と短く言うのが礼儀にかなっている。この場合は言葉が付属品となる。歓迎している理由など説明する意味も時間もない。遠方からの客人は一秒でも早く足を洗って畳に座りたいのだ。
 とにかく、一つの見出し語に二つの意味があるのに、ひとくくりで説明することによる混乱を招いているのは広辞苑の失敗だ。広辞苑第六版はどう説明されているか分からないが、もし第四版と同じ説明であるならば、何とか広辞苑第七版ではすっきり説明を①②と分けてほしい。 
 「いらっしゃい」についてここまで堂々巡りをしてきて、今頭に浮かんだのは、「ようこそ」という挨拶だ。人の訪ねてきたときに挨拶に用いる語だから、「いらっしゃい」の仲間だ。しかし、「ようこそ」というのはいかにも中途半端なものの言いだ。「ようこそ」に意味内容があまり感じられないのだ。
 「よう」というのは「よく」のウ音便だから、「おはよう」がウ音便であるのと同じで、挨拶のやわらかさや言いやすさを求めた結果だろう。もちろん、字面は同じ「よう」だが、「おはよう」の「よう」が述語となる形容詞の一部であるのに対して、「ようこそ」の「よう」は一つの単語で副詞だ。「こそ」は係助詞かもしれない。すると、副詞は何を修飾しているのかという問題が起こる。被修飾語が省略されているという一大事が起こっているわけだ。
 これはもしかすると、「ようこそいらっしゃいました」という挨拶の省略された形かもしれない。「よく来てくれた!」という感動の挨拶だ。古い言い方なら「ようこそいらっしゃれ」とか「よくこそきたりけれ」とかいう係り結びの法則が働いて感動を強調している言い方になるかもしれない。仮にそうだとすれば、「いらっしゃれ」は「已然形」ということになる。古い言い方に全て係り結びの関係があるわけではなかろうが、印象的な言葉や普段よく使う言葉の中には保存され、現代の言葉にも受け継がれているに違いない。
 すると、先程まで「いらっしゃい」について、その元の形を「いらっしゃいませ」と想定して「ます」の命令形「ませ」を省略した連用形「いらっしゃい」と考えたり、命令形の「いらっしゃれ」を大きい声で長く発音したものを引き締めるための「い」という発音がついた後に後半の発音が融合して「いらっしゃい」になったと考えたりしてきたが、「已然形」ということだとすると、また話がまた違ってくる。また、古い言い方ということをいうなら、「いらっしゃいまし」という言い方もありそうだ。面倒なことになった。
 訪問者に対する挨拶が「ようこそ」派と「いらっしゃい」派に分かれているわけではないだろうが、使い分けはあったろう。例えば、「ようこそ」は初めて会った人向けの挨拶、「いらっしゃい」は毎度会える人向けの挨拶というような使い分けだ。「ようこそいらっしゃいました」という省略のない挨拶に至っては、随分と改まった感じがするので、初めて会うというだけでなく、非常に大事なお客様向けの挨拶といってよいだろう。
 それにしても、「ようこそ」も「いらっしゃい」も最近はあまり耳にしないのはなぜだろう。訪問するということが少なくなったからだろうか。それとも僕が歓迎される場面が減ったせいだろうか。旅館などに行けば言ってくれるのだろうけれど、専らビジネスホテルやひどいときにはカプセルホテルなのだから期待はできない。
 もっとも、宿泊を要する用事は年に数回しかない。だからといってもちろん暇ではない。まとまった時間がないと難しいが、スケジュールの隙間を見つけて少しでも広辞苑が充実していくように今年も少し努力してみようと思う。

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03-01-2009

心の断片162「どこにいるの」

「どこにいるの」

紙の折り目に
僕がいる
折り目正しく
いるのだけれど
本当はどこにも
いやしない

僕はここだと
つぶやく声も
ノートの端を
やぶる音

色えんぴつで
牢獄かけば
涙にふるえる
黒囚人

野山をかけば
虫取りあみ
小さくかつぎ
こくびかしげる
麦わらぼうず

消して
消してよ
真っ白に
よごれてしまうよ
ちぎれてしまうよ
裏も表も
紙だもの

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恐怖シリーズ127「人間病」

 人間が誕生する以前は、おそらく世界は全て合理的に動いていたはずだ。どこかで上手にバランスをとりながら成り行きに任せていくという無責任で無鉄砲な真面目さだ。それは人間の行動が行動を呼ぶように、そして人間の嘘が嘘を呼ぶのに少し似ている。
 そうした世界にあってはやはり合理的に生きていこうと合理性を追求しようとしても、どうしても人間版の合理性を追求するしかなく、結果として失敗の山を築きあげてしまう。その愚かさから逃れるのは不可能に近いのではなかろうか。
 世の中が正しいと認めることであっても、認めるのが人間である以上、大抵は間違っているのは仕方ない。どうがんばっても周りと自身とを本当に見ることなどできないのだから対策の立てようがない。これは一度人間を止めなければ見えないのかもしれない。実に厄介だ。その時その時で正しいと自分と世の中のみんなが判断したことが正しいのだと腹をくくるしかない。これはこれでやはり無責任で無鉄砲な真面目さだから、その点では合理的な世界と通ずるところがあるといえばあるのかもしれない。
 ともかく、人間が幸福だろうが不幸だろうが関係ない。この世の中(とはいっても「人間社会」と「人間が何らかの形で関わる一部の世界」)の不都合をなくすために力を注ぐだけだ。それを正しいこととしていくしかない。
 これは考えるまでもない単純なことだ。知り得ぬことを知ろうとすることは必要だが、知り得ぬことを知っている必要はないということだ。それが結果として人間を滅ぼす方向へ向かうことだとしても、それで許されることだ。
 人間は人間にこだわりすぎるという人間病にかかっていると考えれば面白いではないか。その人間病を敢えて否定するでもなく、かといって特に肯定するでもなく、それなりにつきあっていくというのが、力を抜いた楽な生き方なのだろうと思う。 
 しかし、それで満足するはずはないのが人間だ。目的を持ち、強い意志を持ちたいのだ。目的に合わないものを排除し、目的にあったものを選択するという行動の積み重ねが夢を叶える。すばらしいことだ。本当はこれで合理的な世界から外れていくことになるのだけれど、大きな喜びを手にすることができる。世の中が褒めてくれる。これがたまらなくうれしいのが人間だ。
 その後のむなしさなどは無視すればよい。どうしてむなしいのかを探ってしまうと、自己嫌悪に陥ってしまう。それは不幸なことだ。次の目的を作って迷うことなく突き進めば、苦悩も喜びとして感じられる感性を身につけることができる。
 ここまでくれば人間の完成だ。人間が人間の光を出して跳ね返ってきた光を人間が受けとめる。それがとりあえずは世界ということになる。これを人間病といってしまっては、変に斜に構えているようで世間体が悪いというのなら、別の言葉をさがせばよい。

恐怖シリーズ126「種々の恐怖」

 会社が生き残るために人を切り捨てている。単純で安易な方法をとるのは、首脳陣が無能である証拠か、会社の傾き方が重篤である証拠だ。だから、そうした会社に就職するのは避けた方がよいと誰もが思うだろう。そう思われてしまうことをこと覚悟してのことか、単に無神経になっているのかは分からないが、人を大事にしない会社だというレッテルをはられることの恐ろしさを後々知ることになるだろう。世の中には反撃とか逆襲ということが必ずあるということを身をもって味わうということだ。
 世の中が大きく変わる契機になるのは間違いない。社会観、人生観、人間観……物の見方や考え方が変わるからだ。切り捨てた者、切り捨てられなかった者、切り捨てられた者。三者三様だ。そして、子供や孫ができる50年後までには、その変革は一段落する。政治家が「チェンジ」とかけ声をかけるのはもちろん意味のあることだが、そのかけ声とは別の力で変革は進んでいくものだ。
 日常的な感覚では幅広く徐々に変わるので、種々の問題に誰も気づかなかったり、棚上げされたりしたまま過ぎていくという恐怖。実のところ自分が何を積み上げているのか、その評価が他人任せの恐怖。他人が関係したために、当初の思惑とは違う形に展開していく恐怖。それもそれも皆善意でやっているという恐怖。これらのことが些末なことがらに振り回されて感じ取りにくいという恐怖。
 これらの恐怖なしに張りつめた毎日を送ることなどできない。毎日が妙に面白く楽しいのは、こうした恐怖を恐怖として感じ取るように努力しているせいかもしれない。これは一種の捨て身なのだろうと思う。

01-01-2009

日々雑感241「縦割り」

  縦割り行政の弊害を語る人は多い。聞けば聞くほど、その弊害には辟易とさせられる。しかし、縦割りの弊害は行政ばかりにあるわけではない。
 家族的な組織を超えているほとんどの組織は、縦割りの弊害を確実に抱えているはずだ。いや、家族も含めて全ての組織がそうかもしれない。それどころか、個人ごとに縦割り、いや個人内すらも縦割りになっているおそれがある。
 実は、この縦割りこそが、人生の妙、人間特有のトラブル、迷いや苦悩、喜び等々の直接の原因や遠因になっているように思われてならない。
 世の中というものは、個人レベル、組織レベルで役割分担することで成り立っているのが普通の姿だ。
しかし、分担する限りは、この縦割りの憂き目をみることから逃れられないように思う。分担なのだから、連携していることが前提のはずだが、実際にはそうはいかない。分担されたままで、放置されているのが現実だろうと思う。かろうじて文書が回ることもあるだろうが、これもおそらく回るだけだろう。しかし、関わる者が一堂に会して会議をすることは不可能に近い。
 個人内の縦割りなどというのも変な話だが、父親として母親として、夫として妻として、息子として娘として、社員として、PTA役員として……。ばらばらに切り刻まれている。しかし、千人もの関係者が会議をするのは不可能としても、一個人なのだから座禅を組むなり滝に打たれるなりしているうちに自分という一個人を取り戻して縦割りを自在に操ることができるような立場を築きあげて、迷いや苦悩を払拭することはできそうだ。
 国家自体も他の国家との間が縦割りになっているから、随分と無駄なことやトラブルが多い。同じようなものをそれぞれの国で開発するという無駄、学生が外国語を膨大な時間をかけて学習するという無駄など、富の配分に関するトラブル、文化の質に違いによるトラブル……枚挙にいとまがない。「共生」などという事が言われるのは、もうさんざんな目にあって嫌気がさしているからだ。
 国家内の構造も、官だの民だの根本のところから既に縦割りになっている。その連携が示されている各界、各部門、各組織自体のパンフレットにある組織図イラストに描かれているような連携なども、こちらの情報不足とむこうの宣伝不足なのだろうが、どうしてもかけ声だけのように見えてしまう。
 しかし、そうした内部事情は、本当の当事者でなければ確認が難しい。もちろん、どこかである程度の連携は図られているに違いないとは思う。しかし、実体はどうあれ、残念ながら、実際に機能して表立った成果が目に見える形で現れているかどうかで評価するしかない。もちろん、目に見えない部分については統計を見るしかない。
 しかし、そうした数字やらグラフやらの客観的な事実だろうと思われる資料も、実感とは往々にして食い違うものだ。「だから、何をどうしようとして今何をしているか」ということが具体的にはなかなか伝わってこない。これをどういうタイミングで誰が誰にどう説明するかということが大事なのだが、果たして大事にされているだろうか。そうでなければ、統計ではあっても、まだ統計資料となっていないということになる。
 連携すべきことが、実際には連絡だけ、あるいは情報交換に終始していたというのでは、たとえその情報によって何らかの益があったとしても、それを連携といってよいだろうか。あくまでも情報提供や特定情報の共有化は連携のためのスタート段階だ。そこから基本方針が変わったり、新しい事業が展開されたりして初めて連携がとれ始めたということになるはずだ。
 もちろん、関係すべきところに精力的につながって連携を図ろうとする動きはどの組織にもあるに違いない。しかし、たとえば、いまだ自分の仕事はともかくとして、他人の仕事を増やすことに躊躇してか、経済的な協力関係をとるという類の域を出るものではなかったり、準備不足であるにもかかわらず評価を求められた結果、一時的な人事対応でお茶を濁すことになってしまったりと、なかなか「ひと、もの、こと」がシステマティックに整備された状態にまでもっていくのは難しいことであるように思う。
 組織同士でも個人同士でも、連携を図るうえで重要なことは、合理的な動きというものをつくりだす総合的な目が必要だということだ。その目の機能を誰が果たせばよいのだろうか。この点に基本的な障害がある可能性もある。どちらがどうリーダーシップをとるかという問題だ。
  宗教などでは、その目の働きが超常的なものに託される。確かにすべて神の思し召しと心得れば、適度な合理化が図られ、精神的な安楽を得て暮らせるというわけだ。しかし、実生活を宗教生活にしてしまいきれない人々には、どうしても迷いや苦悩が生じる。実際に問題を解決するために自分の責任において何か行動を起こさねばならないからだ。そして、皆がそうしようとする以上、一人一人の思惑どおりになることなどほとんどないのが常だからだ。
 こうした自分自身、個人や組織を相手に生きていくためのこうした逃れようのない迷いや苦悩は人間に特有の苦悩だろう。しかし、それにさいなまれ続けていることこそが人間の日常であり、人間としての証であり、しかも、皆に共通した普通のことであるということに若干の救いがある。そうした種類の迷いや苦悩を乗り越えて成就させたからこそ、真の喜びを味わえるというものだ。単なる楽しさをこの喜びに代えることは、残念ながらできない。安直に楽しさばかりを追求し、真の喜びを売るための努力を忘れた結果、不満にまみれてしまっている人に時折会うことがあるが、これも不幸なことだ。
 さて、僕たちは一個の人間でありたいとときどき思うことがある。それは哲学的な欲求による場合もあるが、ただ連携する勇気がないのを認めたくないだけのことであったり、連携する面倒や連携不十分による不都合から逃げ出したいだけのことであったりする。
 本当に自立した一個の人間でありたいと願うなら、「一人一人が肉体的にも精神的にも縦割りになっていることによって生じる迷いや苦悩」を喜んで懐に入れつつ、しかもにっこりしていられる器量をまず手に入れなければならないのではないかと思う。これは主体的に他とつながり合って活動をしていこうとする覚悟のようなものでなくてはならない。それが図太さや無神経さに陥ると人間的に見苦しく、鼻につくようになってしまう。
 こうした器量をもつということは、現実的にはとても難しいことだと思う。気迫もいる。体力もいる。そうしたものを維持していくには、強い目的意識を持ち続けていなければならない。経済力も不可欠だ。そこで、寿命単位で考えると何かの組織に身を寄せようということになる。公に認められた、しかし細切れにされた何らかの役割をその組織の中で地道に果たしていくのだ。お互いがこの社会的地位を擬似的な器量として見なしていくことによって支えあうという寸法だ。
 この社会的地位によってもたらされる仮の迷いや苦悩は、社会的なマニュアルによって比較的容易に解消されていく仕組みになっていることが多い。それで解消できなければ、後は時が解決するという無責任さで逃れてもよいということが、極端に言えば暗黙の了解となっているようなところもある。これによって得られる仮の安楽感によって多くの人が取りあえずは仮に救われていると思う。
 しかし、この社会というシステムの社会的地位を全うすることによって本来の迷いや苦悩から目を背けていることに対する免罪符を得ていると見ることもできるので、当然のことながら、これを潔しとしない人も出てくる。
 そうした人の中には、最初からそうした生き方を選ばず、魂の真剣勝負をする人たちもいれば、一般社会の組織でお勤めという仮の世界を生き抜く行を果たした後、またも趣味の世界という仮の世界に魂を遊ばせるということを嫌い、名実共に第二の人生を歩む人たちもいる。その中には自分の経験を生かして自らコーディネーターとなり、縦割りの壁に穴を開け、個人や組織を合理的につなげていくことに魂を注ぎ込むエネルギッシュな人もいる。
 今後、この国がさらに老人大国となれば、そうした希少価値のある人たちの数も増えるに違いない。そうすれば、組織内部の連携や他組織との連携を実現していく力となるかもしれない。これによって世の中に真の合理化が少しずつでももたらされれば、来たる深刻な少子化社会が惨めな社会にならないですむのではなかろうかと考えるのは、楽観的すぎだろうか。
 高齢者の中には、豊富な経験と高い見識の分だけ燃えるような熱意と豊かなで力強い魂をもっている人がたくさんいるはずなので、今後は縦割り社会の橋渡しとなるような活動をするNPOが立ち上げられていく可能性もあるだろうと思う。……難しいか。