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    10/30/2006

    心の断片57「相棒」

    「相棒」

    僕のペンはへこたれない
    僕の車はなやまない
    僕のラジオはつかれない
    僕のバイクはおちこまない
    僕の背骨はまがらない
    僕の机はあきらめない
    僕のシャツはひるまない
    僕のメガネはやすまない



    10/29/2006

    怪しい広辞苑31「第四版43ページ・アシドーシス」

     この説明で本当にいいのだろうか。第四版43ページ「アシドーシス」の説明。「酸血症に同じ。」とあるが、本当にこれでいいのだろうか。
     アシドーシスというのはH+が増えたり、OH-が減ったりしてpHのバランスが崩れていくことのはずで、その結果、酸血症になるのではなかったか。だから、アシドーシスを起こしても、その時点で酸血症という診断名がつくものではないと思う。ここは「血液が酸性の傾向を持つようになっていく過程。その結果酸血症に陥ることが多い。」というぐらいにしたほうがいいのだろうと思うが、どうだろう。実際の医療現場ではどうなのだろう。
     僕は医療従事者ではないから分からないけれど、原因と結果がいつの間にか同一名称となっていくという現象があるかもしれないので、広辞苑の説明で今はよいのかもしれない。
     また、そんなありそうにない変な現象ではなく、ただ単に中国語が日本語に膨大に含まれていることが原因で起こった現象だとも想像する。一口に言うと、音読みの弱点がもとになって起こった現象ではないかということだ。
     中国語には四声があるから、単純に考えると日本語に取り入れられた発音が起こす同音衝突の四分の一しか支障は来さない。しかし、日本語には基本的には四声はないので、同音衝突が単純に考えて四倍生じることになる。
     さらに、中国語から日本語に発音が音読みとして取り入れられたとき、kとかg、chとかtとか、その他子音の別があまりなくなり、随分単純化してしまったので、実際には単純化した分だけ四倍のそのまた何倍も同音衝突を起こしている可能性がある。
     つまり、「酸血症」は「酸欠症」と全く発音が同じになってしまうという不都合が起きるのを防ぐためにとられた策が、「酸血症」をその原因である「アシドーシス」と言い換えることだったのではないかということを想像するのだ。
     「酸欠症を改善しようと思ったら、逆に酸血症になってしまった。」というような会話や、その他の混乱を避けるために意図的に言い換えたのが、その方が都合がよいということになり、次第に言い習わされるようになっていったのかもしれないと思うのだが、どうだろう。
     しかし、原因と結果が同じ名称になっていくという例などというものは本当にあるのだろうか。このように思いついた自分自身の頭もかなり怪しい。ただ、忌み言葉的にどちらかを隠すという目的で、意図的に片方を言わず、残りの言葉で遠回しに言うというやり方をするということはあるかもしれない。
     また、患者なんかには知られたくないとか、深刻に受け止めてほしくないとか、書き留めるのに感じだと時間がかかって業務に支障を来すとか、さまざまな医療現場特有の事情で、一般人にはわかりにくく、かつ書きやすいカタカナの言葉の方を選ぶということがあるかもしれない。

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    心の断片56「道あるく」

    「道あるく」

    ネオンの揺れる宵の口
    場末酒場のこみちゆく
    口裂け三日月おぼろ月
    妖怪どもの隠れ宿
    血肉骨まで刻まれて
    灼熱地獄の蓋が開く
    辻占少女の髪揺れて
    最後の言葉書き漏らす
    雑踏離れてあしおとの
    むなしく消える石畳
    来る日も来る日も
    日は落ちる
    流れ着くまで流れゆく


    10/28/2006

    怪しい広辞苑30「第四版42ページ・脚高蜘蛛」

     間違いではないけれど、言葉足らずでやはりよくないと思う。第四版42ページ「脚高蜘蛛」の説明。
     「大形のクモ。体長約二.五センチメートル、」とある。確かにその程度の大きさなのだが、説明がそれだけだと非常にまずい。体長約2.5センチメートルと説明するだけでは、全体像が二.五センチメートルとイメージされてしまうのだ。大形という説明もあるから、それで変だなと、広辞苑独特の説明不足に気づけばよい。でも、いろいろな利用者がいるはずだ。確かに、「どうして2.5センチメートルで大形なのだろう」と疑問を持ってクモ図鑑などを調べ、「なんだ。頭と胴体を合わせた長さだったのか」と確認する人もいるかもしれない。しかし、その一方で、「1円玉より少し大きめの蜘蛛なんだな」と勘違いしてしまう人や、「アシダカグモは漢字でどう書くのか広辞苑で調べてみたけれど、これまでアシダカグモと思っていた蜘蛛は脚高蜘蛛じゃなかったんだ。あいつは10センチメートルはあるからなあ」と間違った了解をする人なども絶対にいるはずだ。これは広辞苑の説明不足が原因だ。
     広辞苑独特の説明不足など、普通は利用者には気づかれない。なぜなら、辞書というものが、分からない意味の言葉を調べるものだからだ。分からないから、説明不足かどうかも分からない。多少変だなと思うことはあっても、辞書に書いてあるのだから正しいだろうと思ってしまうのだ。また、広辞苑で調べたよと言えば、言われた方もそれではそうなのかなと思ってしまう。
     実際に脚高蜘蛛の成虫を見て、2.5センチメートルだという人はどれだけいるだろう。どう見ても一般的な感覚では約10センチメートルだ。子どもの掌くらいはある。名前自体が脚高だ。脚も入れてクモなのだ。2.5センチメートルのクモに驚いたと言えば笑われる。でも、10センチメートルのクモに驚いたと言えば、そうだろうよと思う。あの八方に広がった脚が人間には気持ち悪いのだ。脚がたくさんだったり、なかったりと虫はいろいろの姿をしている。これが人間の神経を逆なでするらしい。だからといって虫が人間そっくりだったら、これはこれでまた気持ち悪いのだ。
     話題を戻して「体長」の話。人間だって体長といえば頭から胴体だけの長さではないだろう。クモだって脚の長さを入れてあげたい。でも、もしかすると、クモの場合は脚の長さを入れないで「体長」というのが専門家の考えなのかもしれない。しかし、利用者は専門家ではなく、一般人なのだ。これを考慮しない説明は、利用者を無視した編集方針だと言われても仕方ない。
     ここはやはり「体長約二.五センチメートル。脚も含めると約十センチメートルになる脚の長い大形のクモ。」というような説明にしてほしい。そうでないと、小学生などまず勘違いするはずだ。まさか「小学生など広辞苑を使わないから、これでいい」と考えて説明を省略しているわけでもないだろうが、このままの説明では困るのだ。
     気持ち悪かろうが、かわいかろうが、こうした小動物にいちばん興味を持っているのは小学生以下の幼い子どものはずだ。確かに小学生は分厚い広辞苑には縁遠い。しかし、彼らの代わりに親が調べ、「2.5センチメートルか。では、こいつは脚高蜘蛛だと思ったけど、どうも違うらしい。では何だろう。えい、面倒だ。子どもにはただの大きな蜘蛛だと言っておこう」等となりかねない。子どもは、ただ大きい蜘蛛だと了解し、固有の名前があることを知らずに過ごしてしまう。
     脚高蜘蛛は家の中に出るいちばん大きな虫だ。しかも、動きといい姿といい、周りの大人の反応といい、非常に衝撃的だ。ゴキブリの比ではない。ゴキブリを食べて生きている奴だから、ゴキブリ以上に動きは俊敏で、しかも大きい。子どもにはどういう形で蜘蛛が刷り込まれていくのだろうか。それは成長する過程でどういう行動に関係してくるのだろうか。
     ゴキブリもチャバネゴキブリというように、少し詳しい名前を知っていたりすると、少しだけ客観的に眺めることができるようになる。少なくとも、「これはチャバネゴキブリではないぞ。では何ゴキブリだろう?」という知的好奇心が頭をもたげるようになって、恐怖心や気持ち悪さから解放される。
     また、名前をきっかけにいろいろ生態を調べるチャンスも巡ってくる。相手を知れば知るほど親近感を抱いたり、正しい扱いを覚えるようになってくる。恐怖感もそれに従って減少していく。これは、人間に対しても、集団に対しても、国に対しても同じだと思うのだ。「知れば知るほど恐ろしい」ということもあるが、その場合は知り方が中途半端であることが多い。
     この言い方からは、まだ信心が足りませんなあという言い方が連想されるので嫌な感じがするけれど、「信じるということ」と「知るということ」は全く逆向きの努力だ。
     さて、ここで大きな蜘蛛という了解しかしなかった子どもは、大きな衝撃としてしか頭に残らないので、不必要な恐怖感や不必要な気持ち悪さがずっと残る。これを払拭しようといろいろなことを無意識にするようになるかもしれない。また別のものにすり替わる場合もあるだろう。たとえば、人間に対しても同じような感覚を持つようになるかもしれないのだ。いじめの問題の奥底にはこうしたものが横たわっている可能性がある。もしかすると、いじめの土台になっているかもしれない。
     きちんと相手を知ろうとしない、みんなで騒ぐ、みんなでやっつける。僕は心配しすぎなのだろうか。

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    10/27/2006

    怪しい広辞苑29「第四版42ページ・悪し様(あしざま)」

     これはどうなのだろう。第四版42ページ「悪し様」の説明。
     「悪意をもって見るさま」とだけあるが、僕の感覚では「悪い様子。悪意に基づいて解釈された様子。」とした方が誤解が少なくて良いような気がする。
     「悪意をもって見るさま」とすると、「見る」を中心となる語として受け取ってしまい、「見る」様子のあり方だと感じてしまう学生がいるかもしれない。ここでは「さま」が中心となる語として受け取られなければならないのだが、別の読み取りがなされる可能性が少しでもあるのは問題だ。辞書ならなおのこと配慮したいところだ。
     どうしても、従来の表現を生かしたいのなら、「悪意をもって見たさま」というように一文字かえればよい。
     最初に「悪い様子」と書いたが、この意味の「悪し様」の用例は、本当にないのだろうか。「悪し様」という言葉の中には、常に悪意が働いているのか。用例がないのなら、僕の感覚は誤っており、「悪い様子」という説明だけを削除しなければならないが、どうだろう。
     さて、「悪し様」という語がある一方で、「善様」(よざま)という語がある。第四版で調べると、その説明は「よいさま。よいよう。」となっている。なんだ、それでは「悪し様」の説明も「わるいさま。わるいよう。」とすれば、簡単ではないか。しかし、第四版が敢えてそうしなかったということは、両者は対義語ではなく、ただ字面が反対の対照的な語ということなのかもしれない。しかし、それにしては「善様」の説明の末尾に「←→悪し様」とある。「→悪し様」ではないのだ。これはどういうことなのだろう。
     また、「←→」のマークは、普通は両者の説明の末尾にこれが使われて、相互に相手の語を示し合っているはずだ。しかし、このケースでは片方にしか付いていない。これもどういうことだろう。
     凡例を見ると、「←→」は「対語・反義語」と説明されている。同じ場所に書かれていて、しかも、中点で並べられているのだから、その二つの語は基本的は意味は同じだが、最終的には別々の意味を持っていると受け取ってよいだろう。全く同じ意味なら、より一般的な語を一つ書けばよい。逆に、全く違う意味なら、別の記号を与えられるはずだ。
     では、第四版の対語の説明ではどうだろう。「意味の上で互いに反対の関係にある語。「上」と「下」、「積極」と「消極」の類。対義語。反対語。反意語。アントニム。←→同義語・シノニム」となっている。同じく反義語は「ある語の正反対の意味の語。「長」に対する「短」の類。反意語。アントニム。」となっている。
     はてな?変に混乱しているような気がする。おそらく「対語」は、「対になる語。つまり、対照的な語。「白」と「黒」、「西洋」と「東洋」の類。→反対語」とでもしておく方がよい語で、「反義語」は、「意味が正反対の語。つまり、対義語。「需要」と「供給」、「創造」と「模倣」の類。→反対語」とでもしておく方がよい語なのではないだろうか。
     もっとも、どの点で意味が反対かによって「創造」と「破壊」というペアになったりするだろうから、例をどう挙げるかは少し考えて、混乱を防ぐ必要があるだろう。
     とにかくすっきりしない。どの辞書でも、こういうストレスが辞書引き嫌いの学生を増やしている可能性はないか。それがひいては勉強嫌いにつながっていく可能性は大きいと思われるので注意してほしい。また、本人もそれに気づかないから、やる気が出ないだの、面倒くさいだのと表現するしかない。そして、周囲の大人をおろおろさせるか、口うるさくさせるかだけだ。
     「明解国語辞典」というのはそういう分かりやすさを売りにしている辞書だろうか。僕は広辞苑しか持っていないのでわからない。書店でいろいろ比較してみると、「例解新国語辞典」が中学生用だが分かりやすい。広辞苑も第六版を出すときは「学生版広辞苑」とか「明解広辞苑」とかいう書名にできるような内容のものになっていれば、かなり売れるのではないかと思っている。

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    <反対語を知って理解を深める 画像クリックで説明画面へ>

    10/26/2006

    心の断片55「山ごもり」

    「山ごもり」

    山ごもり
     今生きる
       存在だけが喜びだ

    空見る
     海見る
      日を仰ぐ
       波と風と
    めまぐるしい雲の行列
    ・・・・・・

    山ごもり
     汗と息だけが
      紛れもない自分

    こい願わず
     あい支えることなく 
      一人を生きる・・・・・・

    起きる
     歩く
      食べる
       寝る
    無駄のない時間と
     おびただしい発見

    ・・・・・・容赦なき夜も
    小さなかがり火と
     記憶の断片と
      掌の土の感触が
       砕けた心をあたため
    名も知れぬ星々は
     今も僕をどこかへ
      連れさろうとしている

    10/22/2006

    心の断片54「9月の雨宿り」

    「9月の雨宿り」

    歩く
    したしたと降りつけて
    雨が冷たい

    僕は両手を失ったことに気づかない蝋人形だ

    石ころや小さな草が濡れて色づく

    さて この星のしきたりだ
    雨宿りをしよう

    日々雑感146「禍福はあざなえる縄のごとし」

      「禍福はあざなえる縄のごとし」とはよくいったものだが、これと似たことばに「楽あれば苦あり 苦あれば楽あり」「人間万事塞翁が馬」「災い転じて福となす」等がある。それぞれどこか違う感じがするので、順番にABCDとして考えてみよう。
     Aはあざなえる縄というのだから、禍福は、それらがより合わさって一つの縄のようになっていくというイメージだ。縄だから、禍と福のどちらかの量が特に多いということではなく、そこそこにバランスがとれているものだということを示している。さらに、縄が同じ素材で寄り合わされているということから、同じように禍も福ももともとは同じものでもともとは区別がないものだということも示している。また、縄という言葉からは、連続性、柔軟性、自在、丈夫、多目的、可燃性、切れる等々、さまざまなイメージを与えられるので、人生の神秘や教訓をそれぞれのイメージから自由に引き出して、自分に必要な教訓を二次的に作り出しやすいことわざになっていると思う。
     Bは文字どおり、「楽」ばかりが続くわけではないということと、「苦」ばかりが続くわけではないということだ。一生という大きなスケールで考えると、「楽」の時期が長ければよいが、その分、年を取ってから、初めて「苦」の時期を迎えたとき、果たして肉体的精神的に耐えられるかどうかが問題になってくる。この場合は、長い「楽」の時期のたくさんの思い出が支えてくれるかもしれない。また、年を取ってから、改めて「苦」時期を迎えたときは、かつての「苦」の時期の経験によって得られた「苦」を和らげる知恵を試すことができるかもしれない。
     逆に人生が短いと、「楽」だけの人生、「苦」だけの人生を送る者が出てくることがあり、同じ短い人生ながら不公平だと感じることがある。しかし、これは仕方ないことだ。若くして他界すれば、人生の辛酸をなめずにすんだねと解釈して、よしとしなければならない。また、苦しい人生を救うために、神様が早く召されたのねと考えて、よしとしなければならない。
     長生きしている間に「楽」と「苦」の量は次第に平均化されてくるのが普通だ。この点では、Aの縄の例えからのバランスのイメージと結果的にはほぼ共通するものが導き出される。しかし、縄は通常およそ同じ太さであるから、あまり波瀾万丈のイメージを表現するのには向いていない。
     さて、Aよりも短期間のスケールでも無理なく使えるのがBだ。例えば一日、一時間、一分間とごく短いスケールで見ても、このことわざを自然な漢字で使うことができる。縄のイメージの一つである継続性というイメージの縛りがBにはないからだ。
     また、Aと異なり、Bは選択的に使えるように二つの文に分かれているので、必要な方を選んで使うということもできる。そのことによって、相手の状況に合ったことばをかけることができから、Bの方が達観したようなAの表現よりも、説得力を持たせやすい。
     逆に、Bは一対の文になっているので、「楽」の時期には、「苦」の時期を迎えるための心構えや準備をしておこうとか、「苦」の時期には、「楽」を正しく受け入れる心構えや準備をしておこうというように、いつでも状況に応じた準備が必要だというバランスの良い教えの響きを感じさせることができる。
     Cはどうか。Bとはどうも違う感じを受ける。塞翁はすべてを受け入れている。禍福があっても、それを苦楽とは評価しないという生き方を示している。あるいは苦楽があっても、それを禍福とは評価しないという生き方を示している。「塞」とは国境近くの辺境の地のことであるらしい。それなりにいろいろなことがある場所だ。
     歴史的に中央や他の勢力からいじめられて苦境に陥ることが多いはずのそこの住人たちは、こうした超然としたすべてを受け入れる人生を選ぶか、地の利を生かして商売等の道でしたたかに生きるか、逆にやけを起こして無軌道な人生を送るか、そこを嫌って移住するかのどれかを選ぶことになる。
     やけを起こしそうになったら、Dを思い出して唱えてほしい。こういう積極性がないと現状を打破できない。ただし、その積極性は周囲への配慮あっての積極性でないといけない。それがないと、災いが災いを呼ぶことになる。
     暴力や暴力を背景とした行為は災いだけを呼ぶ。しかし、軍事力の誇示で周囲への配慮を無視する国もある。かの地は地理的に塞翁の住む条件を満たしているように見える。風水ではないが、「地」のもつ必然を無視してはいけない。国ならば、地理と歴史に応じた身の処し方がある。地球のすべての国が、力を誇示するのではなく、誠実に歩んでいくための知恵を出し合う国になってほしい。誇示で孤児になる憂き目をみるのではしゃれにならないのだ。
     まず夢から覚める必要がある。本来、大人は自分で起きるものだが、無理なときには目覚まし時計を自分で鳴らす。他人の目覚ましではうっとうしい上にタイミングがずれているので、起きる気にはなれない。北の元将校が南からラジオ放送で真実を訴え続けているという。これも目覚ましの一つにはなると思う。身内の声なら耳も傾けるだろう。
     「政治の失敗 国際社会からの孤立 深刻な国民の困窮 国民の不満の増大 政府による国際社会への責任転嫁 国際社会に対する国民の世論の高まり 世論を背景に軍の勢いがつく」これは大昔からあるパターンで、この流れを変えることは難しい。
     僕は国際情勢に疎いのでよく分からないが、かの地でもきっかけとなる政治の失敗があったのではないだろうか。報道では大規模な洪水の話が流されたことがある。もし、それがこれまで繰り返されたものでなければ、その被害が大規模であるということから考えても、国が絡んでいる大規模な政策の結果だという疑いが出てくる。この大不満を処理するには、もっと大きな不満に目を向けさせるか、責任転嫁をするか、力で押さえつけるかしかないだろう。大失敗が超弩級であれば、その全部を使うしかない。
     民主主義国家なら総辞職で選挙となり、リセットできるが、そういう便利な装置のない国では、ひたすら現状を解釈し直して、他人のせいにしなければならない。これがへりくつの始まりだろう。一旦ついた嘘は止めることができない。核実験など許すことはできないが、もしかすると同情すべき所もあるかもしれない。でも、それを言ったらどの国でも同情すべき所があるかもしれないわけで、結局は同情すべき事は差し引いて考え、許せないことだけに目を向けていかねばならないのは確かだろう。
     罪を憎んで人を憎まずというなら、客観的な罪だけに焦点を当て、その人の生育歴や環境などを考慮する必要などいっさいないはずだ。そうではないというなら、罪には相手があるのだから、被害を受けた人の生育歴や環境も考慮しなくてはならないはずだ。
     国にもそれが当てはまると思うが、どうだろう。

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    10/21/2006

    怪しい広辞苑28「第四版40ページ・味」

     こんな説明で今はいいのだろうか。第四版40ページ「味」の1行目。
     「飲食物が舌の味覚神経に触れたときに起こる感覚」とあるが、疑問が二つある。
     一つめは「飲食物」に限定したのはどうしてかという疑問だ。二つめは、「味覚神経に触れた時に」というのは、舌を怪我して神経がむき出しになったときにしかあり得ないのではないかという疑問だ。
     「飲食物」に限定したのはどうしてだろう。血液は一般的には飲食物ではないけれど、我々は小さな怪我をしたときに往々にしてその味をみる。また、食べてよい物かどうかを確かめるのが、もともとの味覚の役目だったはずで、なめてみるまではそれが「飲食物としてよいもの」か、それとも「飲食物として不適当なもの」かは分からないのが基本だ。その後、経験をとおして、あるいは情報提供者、あるいは物の提供者を信じるということによって、「飲食物」として認めていくのだ。次に、甘いものがほしいとか、酸っぱいものがほしいとか、体に必要なものを選ぶための役割を果たすはずだ。次に味を味わうという娯楽の要素が入ってきて、楽しむための役割を果たすようになると思うのだが、どうだろう。
     従って、「飲食物」と限定するのは、「飲食物」として適切かどうか、また「飲食物」自体なのかどうかを、味によって確かめるという「味」という感覚が持っている基本的な役目を無視した説明になってしまうので、改めるようにした方がよいと思う。
     「飲食物が舌の味覚神経に触れた時に」というのは、少し怖いと思う。神経が舌の上にむき出しになっているかのような錯覚を学生に与えている。この説明では、むき出しになった味覚神経に味の刺激の元になっている物質が直接触れるとしか読み取れない。本当にそうなのだろうか。
     刺激は必ず、刺激を受ける細胞に作用するのではなかったか、刺激を受けた細胞の状態が変化して、それが神経に刺激を与えるのではなかったか。昔、学校ではそう習ったような気がするがどうなのだろう。むき出しになった神経が舌の表面にあるとは信じがたいが、広辞苑第四版では、そのようにしか読み取れないのだが、僕の勘違いだろうか。

    突然思い出したこと61「新聞記者」

    訳の分からない座談会に急に呼ばれたことがある。解散後に「日本の○○は○○が高いのですよ」とささやきに来る。つまらないことをいう記者だ。「○○が高いからこそ問題があるんじゃないですか?」と切り返すしか時間がなかった。
     なぜ会の中で議論しようとしないのだろう。同じ土俵で意見を述べることのできる立場にあったはずなのに。でも、振り返ってみると自分にも思い当たることがたくさんある。会を混乱させないようにと配慮したり、多くの人がいる前で話すことではないなと思ったり、自分の考えに自信が持てなかったりして、敢えて発言しないということがある。
     これはどういう事なのだろう。つまりは会には時間制限があるということなのだ。その中で遣り繰りしなくてはならないのだ。延長戦ということも考えられるが、それは内輪の会議なら可能だが、寄せ集めのチームではそれはままならない。寄せ集めのチームは形ばかりの会議であることが多かったから、それはそれで会議をしたということ自体が評価されるのかもしれない。
     しかし、事をなすには継続的に昼夜関係なく動かねばかなわない。運命共同体のようなチームになっていかないと、壁を突き崩していくことなどできはしないのだ。誰かが犠牲になって、他が尻込みするというのは、ありがちなことだが、どこまで尻込みして止まるか、あるいは逆に、どこまで結束を高めるかがチームの評価となろう。
     乱暴な言い方だが、個々のチームの成果はどうでもよい。そのチームで結果を出せなければ、別のチームを組んだり、別の方法をとり、最終的にこちらが思うような流れをつくるだけだ。
     そういえば昔、新聞記者になろうと思っていた時期があった。しかし、歴史を学ぶ中で、新聞社の戦争責任が問われていないことに気づいた。調べれば調べるほど、ねじ曲げ作用がある団体だとその時期は考えていた。新聞記事になる時点までに、どれだけの個人の思いや考えが抹殺されるのだろうという想像をするだけで、嫌悪感が走った。想像の中で、それを跳ね返す力など、到底僕にはないと思った。その団体に所属した時点で己はなく、ただ編集方針に従わねばならないのだという想像がふくらんでいったのだ。そのうち、自分の方が変形してすり寄る形を取るのだと決めつけた。
     正義感が今よりも強かったので、新聞社に対する偏見を持ってしまったのだろう。そのときから、新聞記者に対する偏見まで持ってしまっていたに違いない。危ない、危ない。突然思い出してよかった。どんな団体に所属しようが同じ事なのだが、そのときはそう思ったんだろうなあ。でも、偏見だけは自覚しないと、それが土台となっていろいろな感情や思いや考えを抱くようになるから、自己チェックは突然思い出したようにするのではなく、頻繁に行いたいものだ。
    10/20/2006

    怪しい広辞苑27「第四版36ページ・朝妻船(その二)」

     これはどちらでもいいかもしれないけれど、学生が利用することを考えると、意外と問題があるのではないかと思うが、どうだろう。第四版36ページ「朝妻船」の9行目。
     「一蝶が罪せられた」とあるが、「罪せられた」という表現は学生にとっては一般的ではない。だから、「罪せられた」をうっかり「罪きせられた」と読み違える者もいるかもしれない。それどころか、「罪せられた」は「罰せられた」の間違いではないだろうかと広辞苑に不信感を抱く者もいるかもしれない。さらに、利用者の漢字習得段階が低いと、「罪せられた」を「ばっせられた」と誤読した上に、「罪」という漢字を「ばつ」と読むのだと覚えてしまうかもしれないのだ。僕は心配性なのだろうか。
     普通は人が道具を選ぶ。しかし、逆に道具が人を選ぶ場合もある。広辞苑の場合は、格の高い辞書をめざした結果、後者になってはいないか。勉強熱心な中学生がより詳しく調べようと思って利用する場合だってあるのだ。その他、教育熱心な親なら、岩波の広辞苑だから間違いないと使用を勧める可能性もある。
     しかし、この朝妻船の説明を見る限り、小中学生には薦められないのだ。辞書は一定の編集方針に基づいて他の書物よりも厳然と編纂されているはずだから、残念ながら一事が万事ということになる。
     このように考える親もいて、広辞苑を買わない家もあるだろうが、普通はノーチェックだ。なぜかというと岩波書店に信用があるからだ。そして、「広辞苑によれば・・・」と引用する利用者が後を絶たず、広辞苑が一定の評価を得ているからだ。
     常に好ましい方向へ傾くように努力を続けてほしい。そうしないと、現代の各種マスメディアと同じようにマイナスの効果をばらまきながらプライドだけは高いというお粗末さを臆面もなく演じ続けることになる。偽マスメディアの跳梁跋扈に、僕は出版業界、特に辞書部門に最後の砦を見いだしているのだが、どうだろう。既に担当者の心が偽マスメディア病に汚染されていなければの話だが。
     学生の物の見方や考え方まで影響を与えているのは実は辞書だと僕は思っている。学生にとって辞書は拠り所で、ノーマークだからだ。編集者はこの点に十分注意をして辞書づくりをしてほしい。
     では、一般人になってあまり辞書を利用しなくなってからは、何によって物の見方や考え方が形成されていくのだろうか。読書だろうか。カリスマ的存在の発言だろうか。友人の何気ない一言だろうか。それとも、言葉ではなく、フィルターなしの、心に直接訴えかける形に翻訳された計算づくの映像の連続提示だろうか。

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    10/19/2006

    心の断片53「目玉のおやじはクジラの声をきく」

    「目玉のおやじはクジラの声をきく」

    目玉のおやじは怒っているのか笑っているのか分からない
    目は心の窓と言うけれど
    目だけだと分からないのだ
    大きく見開かれた目を前にして
    僕が対処できないでいるのは
    たぶんどう対応すべきか方針がつかめないからだろう
    そんな目玉のおやじをみんな二匹ずつ飼っている
    だから僕にもいる
    ということであいこだ
    無理に目に見えない感情をかってに想像するのは
    未熟者の僕には危険行為だ
    ああ、そうだ
    女の子は目玉のおふくろか
    どちらにしてもあいつらには脳はないのだ
    純粋に光だけを感じるのだ
    そうか
    極端に純粋だから触れがたいのか
    後ろに隠した脳のせいにして
    いつも自分は純粋で
    汚れがないのだ
    そうだ
    目が見開かれるのは
    後ろの脳が
    あいつらを押し出して
    自分が顔を出そうとしているのかもしれない
    いつもあいつらは
    頭蓋骨にほぼ格納されている
    だから臆病なのだが
    半格納だから変に大胆なのだ
    罰が当たって
    これを守るまぶたはあまりにうすく柔らかく
    信頼性に乏しい
    まぶたの方も目をそんなに真剣に守るつもりはない
    光を入れない程度の守りだ
    お義理なのだ
    でも
    まぶたを閉じると
    根拠のない安心感を得ることができる
    そういえば
    まぶたのない昆虫などは目を細めることはできない
    どうやって光量を調節しているのだろう
    首をかしげて光の角度を変えたりするのか
    目玉の中に光が入らないようにする仕組みがあるのか
    それがなければいつもものが見えていることになる
    それはそれで面白い
    光を嫌って奥目になっている昆虫はいない
    どいつもこいつも出目だ
    できるだけいろいろな方向から光を入れたいらしい
    それほどに見る力は弱いのだろうか
    それともそれほどにたくさん見る必要があるのだろうか。
    単眼からいつ複眼になったのか知らないが
    眼圧が高いのか低いのか知らないが
    あいつらの目は変だ
    昆虫版目玉のおやじは
    人間から見ると気持ち悪いに違いない
    複眼だから妖怪百目という感じだが
    涙腺はあるのか
    決定的にないのは皺だ
    人間としては心を感じるためのチェック項目が少ないので
    それで不気味なのか
    サングラスの人物が怪しく感じられるのもそのせいだろうか
    これを回避して少し市民権を得るために
    暴力団はサングラスに穴を開けて
    瞳だけでも見せてほしい
    正面からしか見えないけれど

    逆にどの方向からも目が見えそうなのは草食動物だろう
    馬は出目じゃないけど目が左右に離れていろいろな方向から光がはいる
    光を受けたときは光に包まれているように感じるかもしれない
    これは幸福感につながりそうだ
    しかし同時にそれは闇にも包まれる目だ
    これは異様な恐怖感だろう
    臆病にもなろうというものだ
    競争馬のブラインドは前しか見えないようにつける
    猛スピードだと自分の目が回るからか
    隣の馬が気になるからか
    ところで
    クジラはもっと目が離れてる
    どうやって前を見ているのかなあ
    泳ぐときに左右にくねるのか
    右にくねったときは左目で前を見て
    左にくねったときは右目で前を見る
    そんな不便な
    鳴き声を出してるからその反射で分かるのかもしれない
    でも 
    どこでなくのだろう
    声帯を震わせるにしては変な声だ
    何かすべすべしたものをこすりつけているような音に聞こえるが
    どうやって出しているのだろう
    それは人間にもできるのだろうか

    10/17/2006

    怪しい広辞苑26「第四版36ページ・朝妻船(その一)」

     これは何とかしてもらいたい。第四版36ページ「朝妻船」の7行目。 
     ここはさらりと読み流せば何の問題もないが、書かれた説明の内容を理解しようとすると、利用者が困惑するおそれがあるのではないだろうか。
     そこには「将軍綱吉の所業を諷したものとして一蝶が罪せられたことから名高くなり、」とある。英一蝶の「朝妻船」という絵の説明をしようとしているのだが、その「所業」がいかなる「所業」なのかが示されていない。
     中高大学生が「将軍綱吉」と聞いた瞬間に頭に思い浮かべるのは何か。「生類憐れみの令」をまず最初に思い浮かべるのが普通だ。「幕府からいろいろな制約を次々にかけられた庶民はどんな気持ちでそれを受け止めていたのだろうか?」とか「敢えて豪華絢爛の元禄時代にこうした施策を嫌がられながらも打っていったことの背景には何があるのだろうか?」などとさまざまに追究すべきことが出てくるうえに、これにまつわるいろいろのエピソードがおもしろおかしく後世に書き残されているため、たぶん詳しく教えられていると思う。
     だから、この「所業」という言葉の内容が、「生類憐れみの令」に関することだという固定した見方によって読み解かれていくことになる可能性が高い。しかし、そうすると、説明が理解しにくくなるのだ。
     説明は、英一蝶が描いた朝妻船に乗った白拍子の絵が、将軍を風刺したものとして英一蝶が罪せられたことから名高くなったとしているが、どうして「生類憐れみの令」を風刺することと白拍子の乗った「朝妻船」とが関係するのだろうという不思議な感覚に陥り、困惑していく。
     この朝妻船では密かに釣りが行われていて、それを咎められたのではないかと想像する者もいるだろう。ここの説明では「烏帽子・水干姿の白拍子」と書かれているから、「烏帽子」の「烏」はカラスで鳥類だということが咎められたのではないかと無理矢理に動物と結びつけようとする者もいるかもしれない。だが、どうしても咎められる理由が想像つかない。結局よく分からずに終わってしまう。
     考えてみると、よく知られた「生類憐れみの令」を、敢えて意味の幅の広い表現である「所業」と表現するのは、あまりに婉曲的な表現で、妙にわざとらしく不自然だ。それで、利用者は、英一蝶なる絵師から風刺される「所業」とはいったい何なのだろうと頭をひねってしまうのだ。
     仕方なく「英一蝶」を広辞苑第四版で調べる。すると、「幕府の忌諱に触れ三宅島に遠島、赦免後、英一蝶と改名」とある。ここで初めて「生類憐れみの令」=「所業」ではないと分かる。また、当時は多賀朝潮と呼ばれていた彼の一枚の絵が「幕府の忌諱に触れる」ほどの意味を持っていたということが分かる。しかも、島流しだ。広辞苑を読みものとしている利用者にとっては何やら因縁が深そうで面白そうだが、調べるという利用者である学生にとっては、こうした説明ではとても困るのだ。幕府のどんな「忌諱」に触れたのかが少しも分からないからだ。

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    10/16/2006

    心の断片52「不安効果」

    「不安効果」

    人間という生き方しかできない不自由な僕がいる
    不自由だから目的は決まっている
    そして手段も決まっている
    結末も決まっている
    だから安心していていいのだ

    だが どうしてだろう
    ゆらゆらと迷っているのは僕のこころが弱いからか
    こんなに迷ってばかりで不安なのはおかしくはないか
    迷うことの意味は何か
    不安に思うことの効果は何か

    警告発令 点検確認 加速装置 安全装置・・・・・・
    なんだ 迷いも不安も案外忙しいじゃないか
    10/15/2006

    日々雑感145「よみがえれプロ野球」


     ドラゴンズのリーグ優勝で沸くのはいつまでか。2リーグ制がなくなるという話が持ち上がったのは、球団経営に行き詰まり、11チームになるのではないかという頃だった。しかし、楽天のプロ野球参入で12チームが維持され、2リーグ制を解かなくてもよくなった。客離れの危機を一応払ったということで、それなりの成果を得たと了解している。
     テレビのプロ野球番組を僕は見ないことにしている。理由は放送時間が長いからだ。見始めれば、勝負事だから、途中で中断するのが嫌になる。最後はどちらかが勝つのだからと言われても、それは人情として了解できるものではない。それなら最初から見なければよい。もともと好き好んでみるほどのものでもないと思っている。これは他のスポーツに対しても同じだ。では、スポーツ嫌いかというとそうではない。スポーツは自分でやるから面白いのであって、観戦してもプロの技に深く感心するだけで、後は何もない。努力しても熱狂するファンになかなかなれない僕は淡泊なのかもしれない。
     プロ野球を馬鹿にするのかとお叱りを受けるかもしれない。そんなことはない。熱狂しすぎるファンに対してどうしてあのように熱狂的になれるのだろうと疑問に思うことはあっても、プロ野球選手や監督、そして野球というスポーツに対して何も疑問に思うことはない。それどころかその道の一流である人々に対して尊敬すらしている。このことから、監督の采配に文句を言ったり、評論家のように選手を云々するファンよりも、よほどたちは悪くないだろうと思っている。
     それどころか野球人気のかげりに対していくつかの提言をしたいと思っているほどだ。僕はどのチームのファンでもない。挨拶代わりにどこのファンとか聞かれると、どうしてそんなこと聞くのだろうと思ってしまう。最下位のチームを応援するタイプとだけ答えるようにしている。怪訝な顔をされてしまうのだが、本当なのだから仕方ない。しかし、たまたま誰かが見ている放送につきあっているときだけ、最下位チームであれば、応援するだけの話で、積極的にチャンネルを合わせて見るというのではない。
     確かに、同じチームのファンかそのライバルのファンかどちらかが明らかになれば、それを手がかりに話題をつくることができる。こう考えると、「おたく、野球はどこのファン?」というのは挨拶の文句としては効果的な言葉だと言える。「どこファン?」と言えばプロ野球の話に決まっているじゃないかと言わんばかりの態度の人には、ちょっぴりいたずらでサッカーチームやアイスホッケーチーム、たまには相撲部屋の名前を挙げることもある。プロ野球ファンもいいけれどスポーツファンとなってほしい。それでないとプロスポーツはファンの取り合いで早かれ遅かれ潰れてしまう。今一スポーツファンとして、プロ野球のためにいくつかの提言ができたらいいと思う。

     ①「ボールも選手の一人と考え、目立つようにバックの色をかえる。」
     サッカー人気が出たのはボールが大きくて見やすいせいもあると思うけれど、野球のボールを大きくするわけにはいかない。しかも、ドーム球場の天井の色は白だ。そこへ白球が飛んでいくのだ。大げさに言えば保護色だ。ドーム球場に行ったことがないので、本当のことは分からないが、少なくともテレビで見ると誠に飛んだボールが見にくい。しかも観客がバックになってまた見にくい。観客の服の色を同じにするわけにはいかないので、せめてドームの天井を青空色にしたらどうだろう。しかし、色を付けるとそれだけ重くなって問題が起こるかもしれないから、テレビ放送だけでもCGでドームの色を白球が目立つようにだけ変えるのもいい。

     ②「選手の活躍を生き生きと表現するため、カメラワークを工夫する。」
     歌手の人気が高いのはどうしてだろう。ライブに行ったこともないのでわからないが、冷静に歌手の映っている画面を見ると、とても不自然な動きをしていることに気づく。不自然だが、歌手が生き生きと躍動しているように見える。この動きに視聴者は反応するはずだ。人間は外界の情報をほとんど目から得ているらしいから、カメラワークを駆使しないのは怠慢だと思う。歌手とは違ったスポーツの技のすごさや絶妙さをクローズアップするカメラワークがあるはずだ。そのためにはカメラ台数を増やさないといけない。広い球場に選手が散らばっているからだ。でも、そのぐらいの投資はしないと、放送する価値がなくなる。もっと言えば、せっかく選手が切磋琢磨して身につけた技をクローズアップして見せないのは失礼だとも思う。魅力を水増しして伝えるのではなく、隠れていた魅力をしっかり映す努力をすれば、少なくともテレビを見ていた人は感動してファンになっていくはずだ。

     ③「野球への導入手段として、子どもには訳の分からない解説に図説を加える。」
     幼い子どもに訴えかけるものがなければ、未来のファンを育てることができない。そのためには、言葉による解説に加え、図説もすべきだ。ボールがどう打たれ、誰がどうカバーに入ったのか。今投げたピッチャーのボールはどう変化したか。これらをアニメーションで示せば分かりやすい。
     中継放送では無理なので、15分遅れで放送するなどして工夫し、時間を稼げばよい。それがだめなら、僅かな時間の隙間を使って画面上に解説すべきビデオを流し、その画面上に即時的に図説していく。そういう技術はあるのではないだろうか。なければ開発すればいい。ただ、それができる解説者や対応できるアナウンサーが育っていないと駄目だが。育ってもらうしかない。人気が出るかでないかは、解説者やアナウンサーによるところが大きいのだ。かつてのプロレスリングの黄金時代は解説者やアナウンサーによるところが大きかったはずだ。
     そうしないと、打ったか打たないか、ボールをキャッチしたかしなかったか、点が入ったか入らなかったかという、実に単純な楽しみ方になってしまう。せいぜい選手の体調やこれまでの記録を解説者がかいつまんで話すのを聞いて参考にするだけだ。子どもにしてみればそれはつまらない話かもしれないのだ。それよりも水平方向と垂直方向の画面が用意され、ピッチャーのボールの動きを示せば、あんなに変化したのによく打てたなとか、あの選手はあの手の球筋に弱いのかとか、子どもでも判断できる。
     幼い子でも、テレビゲームなどでそうした情報を組み合わせて総合的に出来事を判断するトレーニングは積まれている。かえってそうした情報が示されないと不満足感を持ってしまうということがあるように思う。
     先の冬季オリンピックでカーリングの人気が出てきたのは解説者がわかりやすく説明したことと、真上から見た映したり、選手の表情を映したりと、よいカメラワークをしていたからだと思うのだ。

     ④「たとえばチームの応援歌をもっと流す。」
     なければ作ったらいい。勝った試合には、球場のファンが一斉に大合唱するという風潮をつくる。負け試合なら負けたチームの支払いで希望者に残念タオル等を配る。応援歌を有名歌手に歌ってもらいCDを出す。しかも毎年応援歌を出す。そうするとその歌手の口からも野球の話題が出るようになり、その歌手のファンの中から野球ファンも生まれる。これには歌手側にリスクが発生するため、○○ファンだと常に公言している歌手に依頼するのが無難だろう。とにかくいろいろな関わりを野球に持たせて、総合的なバックアップ体制を取るということだ。

     ⑤「野球の面白さを伝える。」
     個人にばかりカメラを向けている。全体の動きを総合的に見せないと野球の面白さの一部分しか伝えられないのではないだろうか。どの球技にも共通して言えることだが、特に野球は、成功しそうだけれども失敗することにある。また、逆に、失敗しそうだけれども成功させてしまうところにある。両方面白いのだ。これを伝えるにはカメラワークと関係があるが、選手全員が一望できる角度で映すタイミングを逃してはならない。それは、打者によって守備位置を移動する瞬間と、打った瞬間、誰がどこへどう動くかという瞬間だ。この場面とクローズアップをうまく組まないと面白さは伝わらないだろう。しかもクローズアップも一画面でなく同時に選手の表情の大写しやボールを持った選手がどう判断したかが分かるようなカットを入れていくべきだろう。中継放送でそれを要求されたら、ある程度の見せ方のパターンをソフト化して映像の構成をコンピュータ制御にしたり、選手の体に小型発信器をつけて、それをカメラが自動的に追うようなシステムとかが必要になるかもしれない。選手が特定の動きをしたらクローズアップも自動的になされるのだ。

     ⑥「プロ野球選手はいいなあと思わせる。」
     大相撲では、勝負がつくと、蹲踞した力士に行司から手渡されるものがある。力士は手刀で三回きって頂戴する。子ども心に、勝った人にはご褒美があるんだなあ、いいなあと思った。これをプロ野球でやる。別に蹲踞しなくてもいい。チームの勝負がついた後でなくても、ゲーム中でもいい。ファインプレーには報奨金やプレゼントを渡す台が設けられていて、そこでおおっぴらに渡すのを映したり、10秒インタビューをしたりする。出すお金は毎年の契約金を割り引いて捻出し、、場内を沸かせたプレーをたくさんした者がそれを回収できるという仕組みだ。誰がそれを評価するかは、評価グループを作っておいて、瞬時に判断する。それが難しければ、大相撲のように懸賞金制度を導入する。「○○ピッチャー対○○打者について懸賞が出ています」というアナウンスが流れると、大相撲だと旗が何本も出てくるが、野球だから何を出そう。懸賞を出す団体名や個人名の入った大きな看板を取り付けたカートを外野席前に走らせるとか、電光掲示板に示すとかいろいろ考えればよい。それが多ければ多いほど名勝負を期待することになって当事者でもないのにわくわく感を味わうことができる。もらった懸賞金は一部を自分のものにし、後はお裾分けするようにしてもいいし、独り占めしてもいいが、日本では前者のようにするのが無難だろう。

     なかなか⑩まで行かないなあ。認知症になりつつあるのかもしれない。

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    怪しい広辞苑25「第四版34ページ・麻」

     小さな事だけれど、発展途上の学生が利用する辞書なのだから、何とかしてほしい。第四版34ページ「麻」の項目の7行目。
     突然、説明の終わりに「お。」と書かれている。何のことだか分からない。前文の流れから考えても何のつながりもない。結局、「お」の項目を調べてみると、「麻の古名」と説明されている。これではおそらく忙しい学生たちから、間尺に合わない辞書だと評価されるに決まっている。それでCD-ROMにしたというわけではないのだろうが、それでもその便利さに慣れてしまえば、やはり手間だと感じるようになるのだ。
     ここは一つ「古名は、お。」とでもしておいてほしい。辞書は利用者に評価されるものだ。その評価は、「調べたい言葉が載っている」「内容が信頼できる」「説明がわかりやすい」という三つの観点で判断されているはずだ。こうした評価を広辞苑は誰たちから得て、改版の資料としているのだろうか。ブランドにあぐらをかいていると、即座に裸の王様になってしまう。資料がなければ、このブログでもいいから参考にしてほしい。もっとも、このブログを担当者が発見する可能性は極めて少ないのだが。
     要はサービス精神を失ってはならないという基本姿勢を失ってほしくないのだ。広辞苑ファンはどんなサービスを期待しているか編集担当者はわかっているはずだ。でも、それが現段階ではできない状況にあると考えたい。でも、できなければ、サービス精神がないと判断されるに決まっているのだ。
     さて、当然の事ながら、サービスには「しなくてはならないサービス」と「した方がいいサービス」と「しない方がいいサービス」と「してはならないサービス」がある。さらに、それらが無料サービスか有料サービスかに分かれる。
     これをどう具体化して取り組んでいこうとしているかが、経営姿勢として問われることになる。
     今度他社が発売する辞書の表紙には、注文期間限定だが、名前を入れることができる。これは「した方がいいサービス」だ。贈り物とするには適している。物がついてくる雑誌で、創刊号だけが異様に安く設定されているものがよくある。これは、販売戦略として「しなくてはならないサービス」だ。もちろん次の号から最後の号までの価格に減額分を割り振れば、朝三暮四ではないが、くいつきがいいだけ出版社の得になる。
     日頃の行いでも、これを当てはめて考えることができる。家庭では、子どもの世話や家族サービスがそうだ。家族サービスなどは、どこかに連れて行って遊ばせてもらうことだと間違った了解をしている人々もマスメディアの単純な繰り返しによってかなりつくられた。職場では、上司、同僚、後輩へのサービス。お客へのサービス。近所へのサービス。無関係な人へのサービス。たくさんある。
     いずれにしても一定の見識をもって動くことが、誤解や失敗を避けるこつなのだろう。しかし、実際には面倒なので、感覚的に「おかしいか、おかしくないか」「損なのか、得なのか」で判断している。誤解されたら、解けばよい。失敗したら、よりよい形で成功させればよい。こういうのを現実主義というのかもしれないが、それはそれで大事なことだと思う。
    10/14/2006

    怪しい広辞苑24「第四版33ページ・亜高山帯」

     これはまずいのではないか。第四版33ページ「亜高山帯」の3~4行目。
     「標高は場所により異なるが、本州中部ではほぼ千七百~二千五百メートルの間」とあるが、結局これは他地区を無視している。その区分なら例として全部挙げてもいいはずだ。
     どうして本州中部を例に挙げたのだろう。そもそも、本州中部とはどこだろう。本州の中部地方のことなのか、それとも本州の中央に位置する山岳地帯のことなのか、それとも本州のちょうど中部にある関東地方のことなのか。学生はここで分からなくなるのだ。例えば、あっさりと中部地方と書けば迷わないはずだ。
     また、単純に標高を書いてもらっても困る。また、「亜高山帯」はもともと標高の問題ではなく、植物の分布の問題なのだから、標高の範囲を先に書いて説明するよりも、植物名を先に書いて、もっとたくさん植物名を例をとして挙げた方がありがたい。
     また、「針葉樹を主とし」と説明してあるが、「針葉樹林帯」とは書いてないのはどうしてだろう。例によって「→植物帯(表)」と書いてあるので、指示に従って引いてみると、その表には「針葉樹林帯」の下に括弧書き「亜高山帯」と記されていた。しかし、表のタイトルは「植物帯(本州中部太平洋岸の垂直分布)」だ。本州中部だけでなく、太平洋岸という限定がなされていたことがこの表にいたって初めて分かる。
     これでは困るのだ。暇な人ならば、あるいは探求心が強い人ならば、そこまで引いて読むだろう。しかし、理由はともかく忙しいのが常の学生は途中で妥協するものだ。そういう種族を相手にした辞書だということを意識して編集してほしいのだ。
     そもそも、「亜高山帯」は植物の分布位置の名称なのだから、「平均気温」によって、つまり地域によって「亜高山帯」の標高の範囲は変わるはずだと普通は考えるだろう。しかし、この「平均気温」は緯度、海流の温度、風向き、湿度とかに関係あるに違いないから、利用者は自分の地区でいうと、どの程度の標高がそうなのだろうと、全く見当をつけることができない。それに、第四版には平均気温の項目はない。地区別か地区の代表都市別に平均気温が示された表がついているのを期待したが、ない。たぶん、平均気温は変動するからだろう。こう考えれば良心的だと解釈できる。
     学生などは、本州中部太平洋岸と言われてもイメージできないのだ。学生は旅行などあまりしないのだ。たとえしても関東地方、とくに東京周辺なのだ。先に書いたように本州の中部を文字通り中部と考えれば関東地方の北部になる。中部地方ということになると、また根本的に場所が違う。それに太平洋岸といわれても、太平洋岸のいったいどこに二千メートルを上まわる山があるのだろう。太平洋岸は平野部なのだ。もしかすると、これは太平洋側という意味だろうか。
     もっと言うと、ここ100年で摂氏一度という温暖化のペースだから、この広辞苑の植物帯の表がいつのものであるかが問題となる。しかし、なぜか明記されていないので、非常に曖昧な資料となってしまっている。もし、2,30年前の資料なら、加速度的に地球温暖化が進んでいるとして、およそ摂氏0.6度くらいは平均気温が上昇しているはずだから、100メートル標高が上がるごとに約摂氏0.65度ほど気温が下がるとして、約100メートルほどはこの表の数値にプラスしないといけなくなる。
     こうしてみると、先程は平均気温の表を載せないのは良心的だと解釈したが、同じ考えでいくと、植物帯の標高の表を載せたのは良心的でないということになってしまう。
     さて、第四版の植物帯の表はいつの資料なのだろうか。心配なのは、第六版だ。来年第六版がそろそろ出るとして、1991年より16年も経っていることになる。これで、第四版と同じ表ならば、確実に不適切な古い資料となるはずだ。温暖化の歯止めはかかっていないのだから、確実に進行している。きっと第六版では植物帯全部の標高の範囲を変えてくれるだろう。もし、変更がなければ、日本の植物は同じ場所に執着し、生活範囲を変えないという保守的な姿勢をもっているということになるだろう。
     では、どのように編集すればいいのだろうか。ベストは、「亜高山帯」の項目では、先に説明を針葉樹林帯だの何だのと明記し、次に植物名をたくさん挙げる。そして、最後に「平均気温が摂氏○○度の場合、標高○○~○○メートルの間、例えば○○地区や○○地区」とすることだ。さらに「平均気温」を項目にして、地区と気温の一覧表を載せるのも忘れてはならないだろう。

    変な疑問48「失われた・わ」

     女性の話しことばの末尾にあった「わ」とか「かしら」とか「よ」・・・・・・。そして、たくさんあったその類の助詞は、どこへ消えたのだろう。一時期「わ」プラス「よ」で「わよ」などという過剰な助詞のつかい方をする現象まであったのに・・・・・・。
     これらの終助詞によって、微妙な意思を端的に表現することができるばかりでなく、人間関係の確認やその形成を支援することができたはずだ。それは、その終助詞自体と、終助詞の発音具合で表現されるものだ。
     それにもかかわらず、どうして女性の話しことばからこれらの終助詞が失われてきたのだろう。いくつかの原因があるはずだ。
     「おかまことば」として、男性が女性らしさを演出する場合にやや意識的に使うから、ますます気持ち悪い言葉としての印象を強めている感じもする。消えていくのも、別の印象を持たれるのも、言葉や言葉の扱いは変化していくから、流れとしてはこのままでいいのだろうが、理解の努力だけ怠らないのがよいだろう。必要に応じ、再評価して広く示すのも意味があるかもしれない。これには言葉の専門家に頑張ってもらいたい。また、彼らだけではなく、その成果を何らかの活動に応用する専門家も必要だ。我々一般人の豆知識的な欲求を満足させるためだけに彼らはいるわけではないはずだ。
     これを悪あがきという。しかし、悪あがきは必要に応じて行うべきで、概してあきらめない方がよい。さまざまな悪あがきがより合わさってこれまで「変化」してきた我々だ。もちろん思い通りに変化するわけではなく、明らかな必然と偶然の顔をした必然と本当の偶然によって変化していく。どう変化するかということはどうでもよい。良かれ、あしかれ逐次変化することが大事で、その中に変わらざるものを見つけて大切にしていくのがたどるべき道だ。変に踏ん張っていると大変なことになる。これは言葉だけの話ではない。
     それにしても、女性の話しことばにおいて、かの終助詞はどうして消えていったのだろう。

     ①「相手を意識した終助詞を脱落させた表現が示され、それも表現の一つとして受け入れられた時期があったから」

     たとえば、映画やテレビの登場人物の独り言。独り言だから相手はいない。普通なら聞くことのできない相手を意識しない発言が公開された状態だ。相手を意識しないので終助詞はつけられない可能性が高い。女性の自己表現の手段の一つとして、これらの終助詞を落とす。これが実際に発話され、女性の表現方法の一つとして次第に広がって一般化する。
     これが世代を重ねて最初にこの表現を受け入れたときの意識は再現されず、表現だけが伝わっていく。やがて意思によって表現を選択し、場面によって使い分けるのではなく、最初からその表現しか習慣的に使っていないという状況になっていく。つまり、終助詞をつけないのが、普通の話し方だという意識だ。もしかすると「かしら」なんてつけるほうが気持ち悪いという感覚だってあるのではないだろうか。これは、男性が「ぜ」をつけるのが気持ち悪いということからの類推だ。
     女性が自己主張する世の中だから、ちょうどよい方法を手に入れたのだろう。しかし、それはかつては独り言の言い方に近い。だから、人間関係形成上、いろいろな問題が生じてきても別に不思議はない。また、女性はその卓越したコミュニケーション能力によってこれまで、家庭や地域社会を支えてきた歴史があるから、言葉遣いの変化によって、家庭内がうまくいかないとか地域がばらばらになるとかの症状を引き起こすきっかけになる可能性もゼロではないだろう。
     この女性が自己主張する世の中は、疑似平和が終了する時点で、一旦終了する。ものが言えなくなるのだ。つべこべ言うなら、いっしょに銃を持てとか、独身や子どもを産まないなら、いっしょに銃を持て、いまに敵が上陸するぞとかいう決まり文句に沈黙するのだ。それでも女性はこう言えばよい。「戦うのが男の仕事でしょ」「私を愛しているのなら命を捨てて戦って」これで身の安全が一時的に確保される。男は単純に「そうだ。俺がやらなきゃ誰がやる」と考えて立ち上がるからだ。今はへなちょこでも、有事には男がそうなると女性はよく知っている。こうした命にかかわることの打算はとても醜いので、いろいろに美化される装置が開発されている。男女に限らず、どちらかがもの言えなくなる社会やもの申し過ぎる社会ははろくでもない社会だということは異論のないところだろう。
     疑似平和の国では、表面的には男性が男性の役割を果たしていないため、男性の立場が弱くてへなちょこだ。結果として女性が自己を主張する世の中となった。女性が強くなったというのは比較の問題で、本当には強くなったのではない。これを勘違いすると、これからの女性は自分の磨き方を間違えてしまう。
     戦後女性が強くなったと言うが、反動が怖い。奇跡的に61年もの間、戦後が続いているからだ。世の中は反動を繰り返してレベルアップしていくのだから、来るべき反動がうまく反動するように男女とも賢く準備しておこう。ただ、自分が生きている間は関係ないという思いがあるので、意識は低いはずだ。真の自称女性解放者はここにてこ入れするはずだ。
     今、北朝鮮の核実験で危機意識が高まりつつある。互いに核兵器を持ちながらも、通常兵器による戦闘が起こるかもしれない。アメリカが何らかの原因で無力化したとき、日本はどうするのだろう。もし本土が戦場となる可能性が出てきたとき、男女はどのように協力して戦うのだろうか。おおかたの男性は死に、わずかの手勢がゲリラ戦を行うことになることだってあるかもしれない。簡単な誘導装置でミサイルなどは一斉に要所要所に的中するのだ。別に核ミサイルである必要はない。新しいパトリオットでも、その接近を感知したミサイルが急に弾頭を分散する仕組みにしたら対処できない。いつ何が無力化するか分からないのだ。
     未婚率が高い上に、少子化なので、子どもを育てる必要のない女性も多い。そうなると、危機が高まっていくにつれ、女性も徴兵するというという案が出る時代が来るかもしれない。そのために、武器も軽量化したり、サイズダウンするだろう。困ったことにこれは日本の得意分野だ。 

     ②「微妙な意思を表現する必要がなくなったから」

     相手の気持ちを思いやったり、考えたりする手間をかけていては間尺に合わない世の中になって、必要最低の指示や、返答をすれば済んでしまう日常生活や労働生活になった。
     しかし、これまで人間は相手に指示することばだけでなく、相手に考えさせたり、相手の力を引き出したりするための言葉を使ってきた。これが他の動物やロボットにまねのできない人間らしいところであったと思う。この人間らしさが、逆に気持ち悪いと感じられるのかもしれない。これは「人のことはほっといてくれ」という感覚による。それは「人のことなんかかまってられるか」という感覚と同根だ。つまり、自由でありたいという気持ちが元だ。この自由が、実は不自由だということに気づくのにまだまだ年月がかかるだろう。短くて曖昧な言葉は一人歩きするから恐ろしい。

     ③「微妙な意思を持つことができなくなくなったから」

     仕事が細分化され、がさつで傍若無人な女性が増えた。だから、終助詞なんかいらないというより、不要で邪魔になった。勘違いならよいが、仕事が細分化されればされるほど、子どものまま大人になったような人が、これから男女問わず増えていくような気がする。縦割り横割りのモザイクのような小さな世界の中で生きている自分に気づくのは不可能に近い。本当の意味での、いやこれまで人々が体験してきたようなある意味面倒だが、刺激的な人生を体験することなく、単純な人生を歩む人が多くなる。単純なので、擬似的な人生刺激を求める。それは祭りだったり、イベントだったり、不自然な交際だったりする。あるいは病的に刺激だけを求める。どのようにしても、いつもだから現代人は不満なのだ。
     農村に移住する人々がいる。意図的に暮らせば、一から十まで自分で事をなす必要がある面倒さを克服するところに満足を得る。全人的な力を発揮する機会を与えられて脳もさわやかに活動し始める。それでも足りないところは相互扶助だ。これには思いやりと感謝の気持ちで心が満たされ、尊敬と学びの気持ちが養われ、敬虔な人格が磨かれる。しかし、そうしたチャンスを得られるのはごく一部の人々だ。しかも、都会に住んでいる人たちが生み出して維持しているものに結局は依存している部分がなくなるわけではない。

     ④「男女の差をなくそうという流れがあるから」

     女性が男性と同等に渡り合わねば男女の平等というものを手に入れられないと考えなくてはならない時期が変動の初期段階にはあるはずだ。その段階を過ぎてもその考えが残存しているのが現状ではないだろうか。それで言葉遣いも男性並みにしなくては同等に渡り合えないという意識がまだ残っている可能性がある。つまり、その段階では女性に余裕がなかったのだと思う。余裕がないので攻撃的になる。男性から生意気な女だと思われて相手にされないか、つぶされる。
     既に次の段階に入っている女性も最近はよく見かけるだけに残念だ。男性の意識改革をしようと思ったら、女性が女性の言葉で語る余裕を持たなければならないと思うのだ。男女の差をなくすというのは、男性の女性化や女性の男性化によって実現されるものではないことは、今なら小さな子でも分かっている。
     ところが、言葉遣いは一つの意思表示として簡単に変えることができる。安易であるためにつぶやくところから始まって、共通の言葉遣いを持つ人を探して、その会話の中で熟成し、それを聞いて育つ後輩に広がる。この流れはとまらない。政治家をの話し方をよく聞き分けると、政党ごとに特徴がある。気のせいか顔つきまで政党顔があるような気がしてくる。それはともかく、話し方というのは乗り移るのだ。
     さて、男女差をなくすという流れで、より分かりやすい改革には、賃金格差をなくすという問題が生活に直結するものとして取り上げられることがある。しかし、賃金格差をなくすなら、同等の仕事を与えなくてはならない。それに耐えられる女性もいるが耐えられない女性もいるのだ。仕事で生み出した価値や辛さ危険度に応じて賃金が支払われれば、性差ではなく、個人差の問題となる。
     だが、仕事というものはどういう文化をもっている社会であるか、またどういう責任を持っている社会か、そして、どういう技術力にある社会か、どんな資源を持っている社会か等々いろいろな条件によって労働の種類が異なる。それによって男女の向き不向きの仕事がどれだけの割合であるかも違う。ある社会では女性には耐えられない重労働でも、ある社会ではボタン一つでできる軽作業なのだ。社会の差によって賃金格差は出る。日本で働く外国人は多い。国に帰ればプール付きの豪邸を建てることが夢だ。日本人なら単なる夢だが、彼らにとっては実現可能な夢なのだ。
     また、結婚して退職してしまう可能性の高い女性に男性と同じ仕事を任せていられないという現状もあるだろう。その仕事によっては労働力から考えて、当然、賃金格差に大きく表れることもある。勤務時間だけでは語れないのが仕事というものだ。生み出した価値数値化し、労働時間で割って、労働評価をするしかないのだろうか。それを賃金に反映させるのは面倒で困難なことだ。でも、それが可能なら職場なら平等感が生まれるだろう。

     ⑤「女性がスポーツで鍛えられるという体験をする機会が増えたから」

     スポーツの世界で、これらの終助詞は一掃される。男性言葉でないとスポーツにならない。ゲームにならない。勝負にならない。勝つか負けるかの世界で、「かしら」はないだろう。
     鍛えられる中で男言葉をたたきつけられ、みずから男言葉を発する。当然のことだ。スポーツは闘争なのだ。男の世界に入ったからには、必然的に男言葉となる。正確に言えば、闘争の世界に入ったからには、それに適した言葉遣いになるということだ。50年前、100年前に比べて、若い頃にスポーツを経験する女性は非常に多い。そうした女性が母となり、子どもに語ったり、しかったりする言葉は、もはやかつての女性の言葉遣いとは異なるものだろう。そうして育てられた子どもが大人になって今の世の中で生きていて、子どもを育てているというわけだ。
     後、五つ理由を考えないと⑩にならないけれど、少し疲れた。

     ⑥「人々が本を読まなくなったから」

     小説等の登場人物が女性の場合、挿絵でもない限り、目には見えないので、言葉遣いによって女性であることを示すということはあっただろうと想像する。印象的なせりふは、読者によって書き言葉や話し言葉を通して反芻され、自分の言葉として身についていくこともあったはずだ。人々が本を読まなくなったり、逆に登場人物の女性が男性的であったりすると、「かしら」等はなくなるだろう。主人公が男性的な活躍をするお話というのはよくあることだ。活動と言葉遣いがフィットしないのは、特別な効果をねらっていない限り、都合が悪い。
     後、四つ理由を考えないと⑩にならないけれど、少し休憩だ。
     
     言葉遣いから、問題が広がって僕には結局よく分からない。どれかの理由が少しずつ当てはまっているのかもしれない。でも、言葉遣いが人の内面を反映するものであることはもちろんのこと、生活環境という土台やマスコミの影響などによってさまざまな変化を見せるのだろうなということぐらいは見当は付く。
     もしそうなら、逆にいくつかの特定の言葉遣いをある順番でタイミングよく、厳選されたしかるべき人物たちを通してマスコミで流せば、比較的ピンポイントの年齢層で横へ広がり、目的に従ったその人々のある意識を改革することが可能かもしれないとかんがえると、面白い。僕たちを納得させるには、繰り返しがもっとも効果的だからだ。

    心の断片51「いまさらに知る」

    「いまさらに知る」

    九月の朝は悲しくて
    朝明け雲の彩りをみる
    遠く近くにひなひなと
    ひよどりの群れ 木々に宿る
    あてなく歩く街どおり
    この日一日 ただ過ごせば
    知る顔 知る声 よみがえり
    かえらぬ日々を いまさらに知る





    10/13/2006

    怪しい広辞苑23「第四版33ページ・赤穂義士」

     これはどうなのだろうか。第四版33ページ「赤穂義士」6行目と11行目。
     この項目は丁寧に赤穂義士の名前が列挙されている。何順なのかはよく分からない。ところで、この中の「富森助右衛門」とあるのは本当か。確か「富」は「冨」とよく間違われるから字だから怪しい。また、「岡島八十右衛門」の「島」は「嶋」の可能性もあるし、「嶌」の可能性もある。これらはもともと怪しい字なのだ。
     人の名前は、その人を表す大事なものだ。それどころか、死んでしまえば、その人そのもののようにも思われる。だから、これをおろそかにしてはいけない。
     そこで、赤穂市の総務部秘書広報課のホームページを見た。悲しい的中だ。「富」は「冨」で、「島」は「嶋」だった。例によって一つの資料で物事を判断してはいけないから、今回たくさん調べた。といってもホームページだから瞬時にだ。
     「赤穂義士資料館」というホームページの館長宛にメールを送って子細を聞いた。どうも、「富森」は墓に刻まれた文字で、「冨森」は直筆の記録による。「岡島」も「岡嶋」と記された直筆の記録があるようだ。
     一応本家本元の赤穂市のホームページは赤穂市の郷土研究家たちの目に触れているだろうと思う。天下に広く知られた赤穂義士の名前の表記が不適切なら、すぐにクレームがつけられるだろうと思う。さて、果たしてどうだろうか。
     もっともホームページといってもさまざまあり、広辞苑と同じ表記のものも多いから、何とも言えないが、赤穂市の見解を取り敢えず尊重するのが妥当かと思う。しかし、これもホームページの管理者と話をしたわけではないので、怪しいと言えばこれも怪しいと言える。
     本人の直筆が残っているというが、それが本当に本人によるものかと言えば、そうではないかもしれない。だから、お寺に名簿が残っていれば、それと照合した方がよりよいだろう。
     墓に刻まれている文字というのも、それが本当の字かどうかも確かめなくてはいけない。なにしろ僕の家のお墓も新しくする前は名前の字が完全に間違っていたぐらいだ。だから、点があるかないかなど、どうということのない軽い誤差だという思いが実は少しある。
     それにしても広辞苑は、この項目の説明のために、何を資料としたのだろうか。子孫や赤穂市から何もクレームをつけられていないのだろうか。広辞苑が正しいか、赤穂市が正しいかは別として、個人の遺志の一つとして名前は断じて直筆の表記に従うべきだと思う。理由は説明を待たない。
     ここはぜひ岩波書店、あるいは岩波書店にお願いされた担当者はよく調べていただいて第六版には解決していただきたいと思う。