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10/29/2007 恐怖シリーズ104「繰り返すもの」 ……トイレキレイトイレキレイトイレキレイ……。無限に続く数直線のように言葉を並べる。逆から読んでも「トイレ綺麗」という語句になる。トイレ用ウェットティッシュの類の包装ビニールに印刷されたコピーに「トイレキレイ」という言葉を見つけて眺めているうちに頭の中でなぜか連続して「回文」になったものだ。 これは一巻きにつないでループさせられるから、これが文字どおりの回文だ。しかし、通常は回文を表記する場合は、「わたしまけましたわ」のように、つなげないで一文だけを提示する。この場合、「私負けましたわ」を逆から読んでも「私負けましたわ」になると説明する。そこに言葉の面白さを感じたり、文を作成するときの苦労を想像したり、文の内容のセンスの良さや滑稽さに感動したりする。 しかし、一文以上をつないでループさせられるから回文だというのは言葉足らずだ。どちら向きに読んでも同じ文でなければならない。もっとも、一文の真ん中を中心にぐるりと回してひっくり返しても同じ文になるという意味合いなら、一文以上をリンクさせてループさせるという余計なことをしなくても文字どおり「回文」というわけだ。 さて、一文以上をつないでいき、それをループさせた場合は、「わたしまけましたわ」ではなく、ときには「わたしまけました」が連続する単位となるように見えることもある。これは、回文を一文以上つなげてループさせたときに、前文の最後の「わ」が、後続の文頭の「わ」となっているために、回文として最初に提示された一文の最終音節が欠けた形の文の連続としてループが成立しているように見えるだけの話だ。 もちろん、文末の一音節が偶然に一音節の終助詞であったために、それを省略しても一文として成立するという事情がそこにはある。このように、読み方によっては2種類の文が見て取れるということになる。 これに対して、「いらくいらんがんらいくらい」はどうか。幾文かつなぎ、ループさせると、「イラク・イラン、元来暗い」だけが連続する単位となる。文末の一音節は形容詞の一部分だから省略することができない。必ず文末と文頭の「い」を重ね読みして文を成立させていくことになる。そのために「わたしまけましたわ」の場合とは異なり、一種類の読み方が連続しているようにしか見えない。 「トイレ綺麗」の場合はどうか。これは一文では逆側から読めない。「私負けましたわ」のように「トイレ綺麗と」とすると、文としてのしまりがなくなる。これは「私負けました」の場合と同じだと考えればよい。ただ、「私負けましたわ」のような形がとれないので、一種類の読み方しかできない。本当は「綺麗トイレ」という言い方もあるが、少し語呂が悪いので勝手に却下した。しかし、やはり「綺麗トイレ」という読みの可能性を十分に残しているというところに問題がある。途中から読み始めると幾分意味合いが変わってくるというパターンもあるということだ。 こうしたことから、一文だけの表記で逆側からでも同じ文として読めた「わたしまけましたわ」のような従来は回文と呼んでいたものを、仮に「上下対称文」とか「左右対称文」というような言葉で呼び、「わたしまけました」や「といれきれい」のような一文以上を連続させてループしたときに初めて逆からでも読めるものを「回文」という言葉で呼んで区別する必要があるのではないかという考えが提出されてもおかしくはない。 しかし、言葉遊びという軽い扱いのため、新しい用語を作ったり、定義を変えたりというような混乱を招くことをするのは愚行だと判断したり、わざわざ面倒で無駄に思われそうな区別をすることもなかろうという判断が働いたりすることになる。 ところで、読む向きはともかくとして、読み方によって2種類、3種類の読み方ができるものと1種類の読み方しかできないものがあるということは、思わぬところで大きな問題を抱えることにはならないだろうか。 言葉遊びなら、その問題自体が面白さの一つとしてみることもできるかもしれない。上下逆に見ると別の絵になるだまし絵のようなものも、逆さに読むと意味が逆になるという意味で「逆文」という名称を与えたい。また、「逆」にこだわらず、「別」でもよい。逆から読むと全くの「別文」になるというわけだ。さらに、普通に読んだ後、そのまま逆に読むと、逆に読んだ文が、最初に読んだ文の続きの文になっているという「折り返し文」などというものも創作できるかもしれない。 しかし、遊びは必ず実生活と関係がある。実生活の中で重要な意味を持っているもののうち、言葉のような線的特質を持ったもの、あるいは繰り返しパターンに意味を持たされているものの中には、潜在的にこうした不確定な要素を問題として抱えているおそれがあると警戒してもよいのではないか。 「わたしまけましたわ」と「わたしまけました」は、たまたまほんの少し違った意味を持つ似たもの同士だ。しかし、似ているということは少し異なるということだ。ときには次のように大きく異なる場合もある。 それは、だまし絵のように逆さに見ると、全く違う絵になるということに象徴される恐怖だ。幾文かつなげたときに逆向きに読む読まないは別として、一文字ずらして読んだときに全く逆の意味を持つ文として読み取れることがある。多少なりとも心構えがないと、どのような判断ミスを引き起こすかわからない。 たとえば、「たべるな」の「な」という助詞は一音節で「たべる」を禁止してしまう。すると、「薪をくべる」というときの「くべる」を使った「なるべくくべるな」という回文をつなげると、「……なるべくくべるなるべくくべるな……」となり、「なるべくくべる」と「なるべくくべるな」という全く逆の意味の両方が読み取れてしまう。 現代日本語の文ならば、句読点がつけられているので、誤解は生じない。しかし、音声には句読点のような目に見えるような明確な切れ目がなく、しかも発生の仕方や抑揚のつけ方や速度や音量などで曖昧になりがちだ。特に緊急時には、連呼して言葉がつながったり、緊急時の騒音や雑音や怒号の中で声が途切れたり、そうした音に負けないように大声で叫んだりするために、ますます分かりづらくなる。とても伝わりにくい状況の場合は頭から疑いを持って聞くので問題は起こりにくいが、逆に中途半端に伝わってしまった場合は、独り合点してしまい、たとえ不本意なものが伝わっても疑いもしない。 このような、逆の意味が繰り返し伝えられるという恐怖に加え、正反対の意味がタイミング悪く連続するという恐怖も忘れてはならない。 逆にたどるのはもちろんのこと、裏から見たり、上下逆さにして見たり、「トイレ綺麗」「綺麗トイレ」のように区切りを大きく変えて途中から見たり……。既にあるものをいろいろに動かしたり、ずらしてみたりすると、別のものが見えて来るという面白さと恐ろしさ。 読みを逆にたどるとか裏から見るなどということは、実際の日常生活ではあり得ないではないかという人もいるかもしれない。しかし、平仮名や片仮名が多い文で、昔風の書き方ならばあり得る。横書きの場合は縦書きの一行一文字という発想で、右から左へ向かって書くことになるから、今風の横書きとは向きが逆になってしまうからだ。また、今風の横書きであっても自動車の左右の側面に書かれる文字は、昔風の右向きや今風の左向きという大原則から離れ、車両が前進するプロントの方が書き始め、リアに向かって横書きするという場合とそうでない場合とがある。このときには混乱が起こることになる。左右の側面を同時に見るという機会は走行中ならばほとんどないからだ。 ただし、点字だったら、ごく普通に上下逆さにした点字独特の「横書き上下倒立文」なるものができあがってしまうように思う。また、裏表逆の「裏文」なるものもできるかもしれない。また、その二つの組み合わせもありそうだ。これらが意図的である場合は遊びやいたずらとなるから、それはその中で処理されることだからよい。しかし、偶然にそうなってしまった場合は、伝える方も受け取る方も無防備であるから危険だ。 しかし、点字の凹凸が裏表で逆になることはなく、2行目があれば、上下を間違えることはないので、結局は紙上のお遊びということになろう。点字ワープロのソフトをいじれば簡単にできそうだろうから、既に遊びになっているかもしれない。そう考えると、点字が一行、比較的少ない文字で書かれている場合がもっとも危険だということになる。 アフファベットのいくつかも上下逆にしても同じものがあったり、別の文字になったりするものもあるから、点字と似たようなことが起こるかもしれない。「LION」を上下逆にすると「NO.17」に見えるのは有名な話だが、「NOW」なら「MON」で月曜日に見える。「P」は向きによって「d」「b」「q」になる。「O」「H」「I」「S」「X」「Z」も使える。実際、表示が「ON」なのか「NO」なのかで一瞬とまどい、困ったことがある。文ならば判読できても、単独で用いられると判断しづらいから恐ろしい。 ところが、いつも文字のように手頃であるとは限らない。手をくだしにくいような大きなものや小さなもの、手の届かない遠くにあるものであったり、もともと目に見えないものだったらどうだろう。もしかすると、ものではない場合もあるかもしれない。これらが何であれ、人間が手を下しにくく、コントロールが難しいものとしてとらえられているはずだ。 「繰り返すもの、線的なもの、ループしているもの、コントロールが難しいもの……」こうしたキーワードからいろいろの恐怖を見つけ出すことができるかもしれない。逆の意味になるだけなら対処できそうだが、常に逆の意味になるとは限らない。たとえ対処できなくとも、心構えを作っておくことで被害を最小限にとどめることができるかもしれない。 「無限軌道」ならコントロールでき、大きな力を発揮している。「ベルトコンベアー」「チェーン」「発電機」なども全て人が造ったものであるがゆえに設計段階から人間のコントロール下にあり、単純な働きだが、大きな力を発揮している。 「地球規模の二酸化炭素の循環」は規模が大きすぎて人間のコントロール下にない。二酸化炭素の排出量を削減しましょうという程度の手しか打てない。飽くまでも地球という星の命という長い時の流れの中で見ていくことだ。 「人間の血液の循環」は人間が設計したものではないけれど、大規模ではないので、環境を変えたり、薬物を使ったり、手術をしたりして、コントロール下におこうとすることすることはできる。 設計と言えば、人の体の設計図といってよいDNAはどうだろう。循環はしないが、線的であり、複写したり、体を作っていくのだから、繰り返すものだ。しかし、研究が進み、理解が得られれば、次第に手を下せるようになり、コントロール下におくことができるかもしれない。しかし、下手に手を下して中途半端な読み取りのミスが起こり、中途半端な結果が出たら怖いというブレーキはいつでも持っていてほしい。 コントロール下にあることの恐ろしさは、コントロールを失うことにある。繰り返すものに手を下すとき、どれほどの覚悟が要るだろうか。繰り返しに好ましくない変調を来すことは想像に難くない。ましてや言葉遊びではないのだから、弄ぶことは禁物だ。しかし、弄ばないと、分からないことが多い。だからといって、分からぬままに手を下すのも禁物だ。 覚悟というものは個人的なものだ。組織という「みんな」の世界になると、責任の割り勘現象が起きて、覚悟があまり必要ではなくなる。覚悟がなくなると、倫理的なハードルが低くなり、ブレーキが弱くなる。しかし、それは一つの推進力と見なされることになる。もしかすると破綻に向かっているのかもしれないが、「赤信号みんなで渡れば怖くない」というわけだ。これで実害はともかく、恐怖感だけは解決できるのだが……。 10/24/2007 突然思い出したこと103「ケミカルガーデン」 珊瑚礁の危機と地球温暖化についての特集を新聞で見た。たいへんなことだと思いつつ、ケミカルガーデンの実験を突然思い出した。 小学生のとき理科クラブの実験でケミカルガーデンを作ったときの不思議さと美しさに心を動かされた記憶が、珊瑚のカラー写真を見て鮮明に蘇った。このように昔のことをはっきりと思い出すというのは老化現象なのだろうか。 その鮮明さへの疑いもある。部分的な欠落や曖昧さに全く気づけなくなったために鮮明だと感じているだけのことなのかもしれない。鮮明とはいえ、数秒程度の 記憶の断片的な集まりだ。 試験管立てに六本の試験管を立てたこと。希釈前の水ガラスがずっしり重たくビーカーの中でゆらりと揺れたこと。ガラス棒の先についた水ガラスが震えたこと。数ミリ程度の大きさに砕いた銅や鉄やマ ンガンなどの化合物が試験管の底で小さく跳ねたこと。その日の夜、お風呂に入る直前に、覚えた6種類の物質名を父親に報告したこと。翌日、僕たちだけの花 園が教室で紹介されて見せ物になり、穢れてしまったように感じたこと。この上なく美しいコバルト色の枝に心を奪われながら、黒板の右上に書かれた先生の解 説をぼんやり見ていたこと。 クラブだから毎週一回あったはずなのに、覚えているのはケミカルガーデンを作ったことだけだ。とても実用的とは思われない実験だという感想を持ち、いろいろの疑問がわき起こったからだろう。 枝が伸びるという現象を解説されても、「ああ、そうなのか。それで?」と思ってしまう。それよりも、花 は美しく人を喜ばせ、蜜は甘く虫を引き寄せるが、このニセ水中植物はなぜ美しく、人の目を引きつけるのだろうという疑問で頭がいっぱいになってしまう。偽 物でも造花はやはり美しい。もしかすると、美しいということに対する買いかぶりがあったのではないだろうか等々……。そんなことも鮮明に思い出されてしま う。 だが、いったい何のために記憶が呼び起こされるのだろう。何の役に立つのだろう。珊瑚礁の写真を新聞で見て、そこからケミカルガーデンの実 験の記憶が蘇ったのだが、そのことが何に役だったのだろうか。ただ単に、似たもの同士が記憶の中でグループにされていて、覚えやすいように、また、思い出 しやすいようにできていることの証明の一つになっているという意味だけしかないのかもしれない。そして、やや関連があるためにときどき間違えられて検索さ れたり、関連がなくても関連させた方がよいものがひらめきによって結合されていっしょに検索されたりするということを示しているだけなのかもしれない。 こうなると、思い出す技術に二通りあることになる。基本的な「忘れていたことを思い出すための技術」と、発展的な「より多くの関連した記憶や別の思い出す べきことを列挙する技術」だ。これを高めるためのトレーニングは高齢者ほど有利になる。頭の中に材料がたくさん蓄積されているからだ。もちろん、それがど の程度秩序立てられているかという問題がある。しかし、その問題はトレーニングによって明らかになり、改善されるのではないかと思う。 さて、どのようなトレーニング方法があるのだろうか。 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑111「広辞苑第六版」 広辞苑第6版が来年1月11日に出版されるそうだ。めでたいことだが、どれほど改訂されているかが心配だ。 広辞苑第4版から第5版にかけてなされた変更の中には不適切なものがあった。また、さらに改善すべきものや改善した方が好ましいものも多々あった。広辞苑第6版が出版される前に第4版の怪しいところをチェックし終えて参考にしてもらおうと思ったが、2か月後では間に合いそうにない。 もっとも、広辞苑第4版が出版される前に、第3版の誤りを指摘したときに全く出版社からの反応がなかったということもあって、連絡を出版社だけに直接とるのはやめているので、別段〆切があるわけではない。今後も、ネットでこの「怪しい広辞苑」を拾い読みした人が自分で判断してもらえばよいという程度に考えている。 この「怪しい広辞苑」では、広辞苑第4版の134ページまでの中で100項目以上の指摘をしてきた。その中には「明らかな間違い」から「表現を変えた方がよいもの」までいくつかのレベルがある。平成20年1月11日に発行される第6版では、それらがどのように改訂されているかを確認したい。 ごく普通の多くの利用者が有効に使える辞書を目指すなら、ごく普通の利用者の声を参考にするのがよいと思う。その指摘が的はずれであっても、記述内容がどう受け取られる可能性があるかという参考にはなるはずだ。大辞林第3版よりも優れた最高峰の辞書となってもらいたいので、がんばってほしい。そうなれば、大辞林第4版の内容もよりいっそう充実するに違いない。 今後の作業は次の通り。①これまで指摘してきた事柄を第6版で確認する。変更されていれば、その是非を考える。②第4版、第5版、第6版を比較し、途中で不採用となった語句の有無を確認する。もし不採用の語句があれば、新採用の語句と比較し、その是非を考える。③第4版を引き続き利用する人も多いと思われるので、135ページ以降も折に触れて目を通し、辞書を必要とするごく普通の人がどう受け取ってしまうかということを主に書き綴っていく。また、説明が奇妙であったり、言葉が足らずであった場合には、できるだけなされるべき説明を提案していく。たまにある間違いには正しい説明を示す。 それにしても1月11日に発行予定されるということを「怪しい広辞苑111」に書くというのはどういう因縁であろう。 ★ホームページに戻る 10/20/2007 心の断片107「怪物の森」「怪物の森」 雨の中一日濡れている 時はよどみ くぐもり 飲まず食わず 疲れることも忘れ 指は冷たく うち捨てられたごみのように固まり 雨の中一日濡れている 夕闇は後ろから 僕の両の目を覆い 勤め帰りの人々がざくざくと 虚ろなまなざしを揺らす 泥とネットと灰色の足場 イドの怪物たち ここは不毛の作業現場だ 日々雑感215「元号の有効利用」 世界で元号というものを使用している国はほとんどないが、日本では元号を使用している。元号に対する批判もあるだろうが、おそらく利点を挙げるという作業を怠っているからではないだろうか。 マイナス面の2倍ほど利点があれば、これを世界に紹介し、うらやましがらせるのも面白い。もし、マイナス面の方が多くても、独自とは言いがたいが、特徴ある 文化の一端として位置づけ、無理なく自然に使用されなくなるまで、使い続ければよい。何しろ西暦もちゃっかりと使用しているのだから何も不都合は生じないはずだ。 2007年であって、しかも平成19年ということに象徴される二重性。何でもむやみに取り入れ、何でもむやみに工夫し、何でもむやみにやってみる。漢字 を使ったり、カタカナを作ったり、平仮名を作ったり、ローマ字表記を取り入れたりするだけでなく、一度始めたものは賢く同居させていく。「むやみ」とはいってもしたたかに計算していることが表に出ないだけの話であって、その無邪気さをぬぐい去るのは賢いとは言い難い。 いろいろな物事を見つめる中で思うのだが、こうした日本という伝統的な文化はつくづく便利な文化だと思い知らされる。少し言い過ぎかもしれないが、自由この上ない文化といってもよいかもしれない。もちろん、表面的で受け入れられやすいごまかしの自由によって、そのよき自由の伝統が食い荒らされないよう賢く物事を判断し続けている限りでの話だが。 こうした日本人がもっている精神的な傾向に対しては、 節操がないという批判や自己批判があるかもしれない。果たして、節操のなさを気にしているなどという余裕がなかったのか、また余裕を敢えて求めなかったの か、あるいは日本人の器が大きかったのか、また器をあえて大きくしなければならなかったのか。もとより答えは一つに絞られないが、それが生きていくための 知恵であったろうとは思うのだ。それぞれの国がそれぞれの知恵でここまでやってきた。それをどうのこうのと批判するのは、内政干渉と同類の姿勢であるか ら、実害を受けていない限りは無意味なことだ。ただ単に世間話としては面白いから、日本国内の県民性分析のように、国民性分析のようなものもあってもよい と思う。 国民性と言えば、中でも青いキリンの話が有名だ。こんな話だったように記憶している。「ある産油国の大富豪が言った。青いキリンを見つ けたら大金をあげましょう。これを聞いたアメリカ人は、軍隊を世界中に派遣して青いキリンを探しまくった。イギリス人は、さてどうしたものか、そもそも青 いキリンはどこにいるのだろうと議論し始めた。ドイツ人は、青いキリンに関する資料を図書館などで探し始めた。日本人は、研究に研究を積んで、キリンの品 種改良を重ねた。中国人は青いペンキを買いに行った。」言い得て妙だが、フランス人はどうしたのだろう。他の国々の人はどうなのだろう。最初から声をかけ てもらえなかったのか。聞いても相手にしなかったのか。全国版を作れば面白そうだ。 さて、元号のマイナス面とは何だろうか。……たくさんありそうだ。しかたないから、プラス面を挙げ、その裏返しがマイナス面だということにしよう。そのほうが前向きの気持ちになれそうだ。そもそもマイナス面の2倍プラス面を挙げるということ自体に無理がある。 さて、それでは何をプラス面としよう。 ① 水に流す文化を育み、明るくさわやかな国民性となる。それは、歴史の中で生まれ続けるマイナス遺産を元号が変わるときに、前の元号の時代のことだとして、 時効ではないが、区切りをつけてしまうという免罪符的な機能をもつためだと思う。無責任とも言えるが、いつまでも重荷を負い、魂の傷を引きずって生きてい くよりもましだろう。 ②目標を立てやすくなる。けじめをつけやすくなる。心機一転する機会を与えられる。必要な意識改革を促す。それは、現在の元号が人間の死を区切りとしているので、終末感が強く、逆に新しい元号によってより強い仕切り直しの心的エネルギーを得ることができるからだと思う。 ③時代の区切りをつけやすくなる。永遠に続くものなどないという現実的な世界観を持つことができる。 ④元号のマイナス面を掲げ、現行の天皇制を批判をするときの材料とすることができる。 ⑤元号制のプラス面を掲げ、現行の天皇制を擁護するときの材料とすることができる。 ⑥西暦のような数字ではなく、言葉であるため、願いや意味がくみ取れるので、より豊かな時代感覚を持つことができる。 ⑦キリスト誕生を根拠とする西暦に対して違和感をもつ人々にとっては都合がよい。 ⑧「西暦2010年は平成何年だったっけ」という換算が必要なので、ぼけ防止のトレーニングとなる。もちろん和暦を捨てた明治以降の元号を西暦に変換する程度が無難だろう。 ⑨西暦が区切りの根拠をつけにくい数字の蓄積であるのに対して、明治から元号の年数の平均は約40年になり、会社の寿命、ビルの寿命に近いので、人々の生活感に近い時代の移り変わりとすることができる。 ⑩外国では珍しいので、少し自慢げに話せたり、豆知識を提供できる。 まだまだありそうだが、こうしてみると、必ずしもプラス面の裏返しがマイナス面とは言い切れないということがよくわかる。 ★ホームページに戻る 10/15/2007 突然思い出したこと102「妖精」 妖精と友達になれたら楽しいだろうなと思う。そうした妖精は体が小さくなくてはいけない。小さいというだけでかわいいではないか。そんな妖精を、「難しい本を捨て、この家も捨てて、飛んで行きたいな机の前の窓から。寂しい夜には空の彼方からティンカーベルみたいな女の子が来ないかなあ。みんな出かけないか。すばらしい冒険旅行へ。僕だけじゃないよね、こんなに寂しいのは。」という
歌詞を聴いて、突然思い出した。 どんなにかわいい妖精でも、異常に巨大であればかわいくない。毛髪一本しか視界に入らない程の大きさであれば、 顔を見ることもできず、付き合っていけない。太陽ほどの大きさならば、随分と遠く離れていなくては妖精とは分からないから、これも付き合いづらい。人間の 数倍の大きさならば、不気味でなじめない。 人間の大人ほどであれば、人間と区別がつきにくいうえに、かえって付き合わねばならぬという強迫観念が生まれやすくなる。しかも同時に防衛本能や攻撃本能が働きやすく、心休まる存在ではなくなる。 人間の子どもほどであれば、かわいいとは思っても、もしかすると無償の愛を傾けている自分の子どもとすり替わるかもしれないという不安を抱き、警戒する気持ちが生じるかもしれない。 しかし、いくら小さければよいといっても、虫眼鏡や顕微鏡でないと表情が読み取れないような大きさであれば、はやり付き合っていけない。 こうしてみると、落ち着くところはポケットサイズだ。つまり、てのひらサイズの妖精だ。このサイズなら、いつも一緒にいられる。すぐに他人の目から逃れることができるからだ。また、このさいずなら、小動物のようなかわいさを大きさだけから感じることができる。 通常はポケットに隠れていてくれれば、緊急時にあっては、ターゲットにされている自分とは別の存在として、別行動を起こして助けてくれるかもしれないという期待感が持てる。さらに、ゲゲゲの鬼太郎と目玉のオヤジの関係に近い関係が結べるかもしれないという期待感もある。 日常生活にあっても、特別な力によって、さまざまな困難を乗り越えるために使ってくれるかもしれないという期待感もある。 また、人間ではないので、人間関係のようなどろどろした感情を持たなくてもすみそうだという安心感もある。 これは飽くまでも自分が望む妖精像であって、実際にはいろいろな種類のいろいろな大きさの妖精がいる。しかし、まだ見たことはない。見ていてもそれと気づかずにいるだけかもしれない。また、いたとしても、最初から見えない存在なのかもしれない。 妖精というのは、日本では妖怪だろう。しかし、妖精に対する一般的なイメージは、小さな美しい女性の姿で宙を舞うというものだ。妖怪に対する一般的なイメージは、おどろおどろしい姿で禍々しいものだ。 花の精、木の精、水の精などというと、美しく純粋な妖精で輝いているように想像する。しかし、塗り壁とか子泣き爺とかいうと、名前から泥臭く、影を感じさせる。また、妖精にはあまり生活感がなく、妖怪には屈折した因縁を感じる。 どうして、このような妖精やら妖怪を想像する必要があったのだろうか。もったいないお化けや一つ目小僧、あかなめ、カッパなどは、子どものしつけのために 用いられた。ものが化けた妖怪はものを大切にしなくてはいけないという教えに恐怖感の味付けをするためのものだ。だから、この場合はポケットサイズではい けない。もしポケットサイズなら、何か呪いの言葉や特別の悪魔的な力をちらつかせているはずだ。 あかなめは、風呂場にこびりついた垢を歯で削り 取ったナメクジの仕業を妖怪のせいにしたものだろうと思う。カッパは淵の底で渦を巻いて人を引き込む水流だろうと思う。塗り壁は、虐待の末に殺してしまっ た子を壁に塗り込めたのが、地震か火事で発見されたものだろう。では、一つ目小僧は?単眼症の新生児を埋め隠したのを野犬が掘り返したものだろうか。単眼 症の場合は目の上に鼻があり、それが額の角に見えるので、一角単眼の怪物の子どもとして見られただろう。しかし、妖怪一つ目小僧は目の上に角があるように は伝えられていない。これはどうしてだろうか。もしかすると、単眼症の子どもではなく、別のものかもしれない。 たとえば、誰かの顔に自分の顔を近づけてみ る。額と額がくっつくほどに接近すると、相手の目が一つ目に見える。そんなことはしないというかもしれないが、かわいがろうとして顔を近づけてあやす赤ちゃんの目は一つ目に見える。二つあった目が一つになってしまう面白さ。赤ちゃんには大受けだろう。「一つ目小僧~。」と言いながらあやす姿を残している地方はどこかにないだろうか。 あるいは、隙間から覗かれるときは、それは普通一つ目だろう。地方によっては、夜更けに一つ目小僧が悪い子はいないかと言って家々を覗いてまわるという話を子どもにして、いつまでも起きている子どもをしつけるための脅しにもしている。 もし、額に一本の角を持つ一つ目小僧の伝説が残っている地方があれば、それは悲しいかな単眼症の子どもがモデルとなっているはずだ。普通ではない形に生まれた子の悲劇は想像を絶する。もしかすると、美しすぎる子どもも似たようなものかもしれない。どちらにしてもいじめられるのだ。単眼症の子どもは命が短く、表に出されないだろうから、いじめはほとんどないかもしれない。 だが、美しすぎる子ども、かわいすぎる子どもは、だからといって隠して育てられるわけでもなく、薄命とは言われつつも、実際にはそうではない。美人としての命は短いというほどの意味かもしれない。いじめられなくとも、美しさかわいさゆえに波瀾万丈の人生を歩むことになるおそれもある。 やはり、美しすぎたりかわいすぎたりするのは妖精に任せておいた方がよさそうだ。人は人並みが無難だということだ。しかし、人並みであるがゆえに美を追求し、人並みであるがゆえに特殊な能力を追求することもある。それはけなげでいとおしい姿だ。 10/14/2007 恐怖シリーズ103「変わらないこと」 「いいスタートだ。」が、「イースター島だ。」に聞こえたり、「かなり熱いの食べた。」が、「カナリアついに食べた。」に聞こえたり、「そういえば、ちょっと臭わない?」が、「総入れ歯、ちょっと臭わない?」と聞こえたり、「だいぶ使った。」が、「大仏買った。」と聞こえたりするのは、どういうときか。 こうした聞き違いは、ぼんやりしていて頭が働いておらず、状況とは関係なく、聞こえたままに感じてしまう状態のときが多いように思う。あるいは逆に、ある特定ことで頭がいっぱいの状態のときにも多いように感じる。 前者は、聞こえた印象に合うようにランダムに意味を拾ってくるので、奇妙な文となることもあるが、偶然にまともな文となることもある。後者は、ある特定の分野に関する語彙を選択的に拾ってくるので、聞きたい内容に近い文を頭の中で組み上げることが多い。 しかし、どちらも聞き取り内容の決定を、そのときの頭の中の状態に依存しているから、自分を取り巻く状況や発言者を取り巻く状況から得る情報に乏しく、現実に対応していない理解をしてしまうため、錯覚という評価を下されることになる。 発音が明瞭でないときには、こうした錯覚はさらに起こりやすくなるだろう。大型車の警告で「バックします!」というアナウンスがあるが、エンジン音や町の 騒音も手伝って「ガッツ石松!」に聞こえる。状況から考えて「ガッツ石松!」という聞き取りは不自然なのだが、ガッツ石松の面白さを期待していたり、逆に 必要以上にけぎらいしているという聞き取り側の個人的な状況があれば、ガッツ石松氏の登場を願う気持ちや意識的に拒む気持ちから「バックします!」を 「ガッツ石松!」と聞き取る可能性が高くなることが予想できる。 しかし、「バックします!」のような聞き違えが冗談ですませられるのに対して、重大な聞き違えもある。また、聞き違えているわけではないのに、別の意味で理解している場合もある。この誤解は普通はコミュニケーションを重ねるうちになくなっていくものだ。 しかし、自分も周囲も長期間気づかずに誤解が相も変わらず生き残っている場合もある。これは恐ろしい。特に日常生活であまり頻繁に使用しない言葉や似た言葉が他にある場合には、その傾向が特に強いように思う。 さて、頻繁に使用しない言葉にはどのようなものがあるか。第一に、口にするのがはばかられる言葉。例えば、隠語などの非社会的、反社会的な言葉、差別に関 係する言葉、性的なものを表す言葉など。第二に、いわゆる難しい言葉。専門用語、中途半端に馴染みのある外来語など。第三に、誤解されやすい言 葉。単語や文の構成が似た言葉、意味が似ている言葉、アルファベットの頭文字表現や長い漢字熟語の省略表現などのような省略した言葉などだ。 この誤解が確認されるのは、言語環境が変わり、コミュニケーションに不都合が起こったときだ。異なる言語環境の中で比較がなされ、錯覚を自覚することが 容易となるので、誤解もなくなっていくことが期待される。しかし、小さな世界に閉じこもっていると、言語環境が変わらず、この誤解が誤解のまま終わること になる。まずいことに、こうしたことも含めて大きな世界に出なくては刺激が不足するために進歩しないという自覚を持っていても、お釈迦様の掌の中に留まっ ている場合がほとんどなのではないだろうか。 昔はそれであまり支障はなかったのだろうが、今の世の中はそうはいかない。小さな世界の中にいるま までネットでコミュニケーションに近いものが成立したり、経済活動がなされたりする。冗談ですむレベルの錯覚ばかりとは限らない。また、誤解の連鎖もある。恐怖 の言語環境が次第に整えられつつあるというのだろうか。 少なくとも単語の意味で少しでも怪しいと思われるものがあったら、すぐに辞書で確認するのが個人でできる誤解をなくすための基本的な予防法だ。しかし、悲しいことに言葉は時代とともに増加していくから、過去よりも未来の方が誤解も多くなる。誠に始末が悪い。多くの言葉を学習することにも困難がある。 では、どの辞書を使えば、よりよいのか。広辞苑第五版を改訂して、広辞苑第六版を出版すれば、広辞苑がよいかもしれないが、今の ままでは問題が多いので、出版までに何年もかかるだろう。 もし、第六版を出版する気持ちがないのなら、それは罪なことだ。広辞苑第三 版以降なら、まだ多くの家庭に残って使用されているからだ。早く改訂してより正しいものを提供するのが出版社の責任であろう。そのためにこれまで改訂し続けてきた のではなかったのか。 確かに改訂しなくても、罰はないだろう。そうした罪に罰が与えられたという例はまだ聞いたことがない。調べたわけではないが、法律もないかもしれない。罰があるとすれば広辞苑離れという現象だけで十分だと思う。しかし、そんな仕打ちを岩波書店が受けるのは他社以外に誰も望んではいないのだ。誰より僕がいちばん望んでいない。 もっとも岩波書店が広辞苑を捨てたというなら話は別だ。別の会社が頑張ればよいだけの話だ。しかし、温水器や暖房器具を自主回収している誠実な企業もあることを忘れてはいけない。命に関わ る問題ではないからそんな必要はないと思っているのだろうか。いや、岩波書店がそんなことを思うはずがない。辞書にとって語句の意味の説明は命 そのものだ。そして、言葉はこの国の文化、この国の命の部分に近いところにある。これを取り扱う出版社だから決してそのようなことはないはずだ。 そういえば、広辞苑第三版には人の命に関わる誤記があることを忘れないでほしい。第四版以降を購入していない利用者には正誤表を配ってほしいが、そのためには他の誤記や不適切な説明の訂正も付け加えてほしい。もちろん利用者登録などはないのだから無理な話だ。 その前に、どこを訂正すればよいかを把握しているかどうかという問題がある。専門家やアルバイトに頼むお金がないのなら、僕が引き続きボランティアで利用者なりの素人手直しをしてもよいと考えている。広辞苑のためだから頑張ろうという人間が最低一人ここにいるというわけだ。もちろん権威など僕には微塵もないので、記述内容を採用したり、指摘事項を参考にしない方が無難だ。ただし、利用者がどう思っているかは理解してもらえると思う。利用者を無視した辞書など何の価値もないのだから、広辞苑第六版には期待している。 10/13/2007 恐怖シリーズ102「二つの終わり」 約半年で年度末を迎える。しかし、なぜ四月が年度の始まりなのだろう。 年の始めの月を一月とするのは当然だ。しかし、何をもって年の始めとするかという問題がある。逆に、日本人が四月を年度のスタートとしたということから、当時の日本人が「年」をどうとらえているのかというものの見方を読み取れるはずだ。 一年間のうちに二つの終わりを迎える。年末と年度末。年末は生活の区切り、年度末は仕事の区切りとも見える。しかし、本来、生活の区切りが仕事の区切りであったのではないかと思う。これがずれたということは、かつてこの世界は大きな変革を経験したということを意味するのではないだろうか。 しかし、大きな変革を経験したか、しなかったというのは、終わりが二つあるか、あるいは一つしかないかということから単純に判断するのは難しい。どんな種類の大きな変革がどのタイミングでどれだけ時間をかけて起こったかという問題があるからだ。 ところで、二つの終わりを迎えるということの便利さと不便さがある。これを考えるために、年末と年度末が一致している国をさがして歴史を調べる必要がありそうだ。そこには、一つの終わりしか迎えないことの便利さと不便さがあるに違いない。すると、この国にあっては分かりにくい「二つの終わりを迎えるということの便利さと不便さ」が明確になりそうだ。 ただし、便利さと不便さは、自覚の問題なので、日本人が、年末と年度末とが一致している国に行って感じたり考えたりしたことを記述したり、その国の人が日本に来て感じたり考えたりしたことを記述したりするという基礎的な資料を多く集めなくてはいけない。 こんなことは、一見して無駄な努力と思われるので、誰もやらないに違いない。しかし、戦争をせずに勝つとか、勝たずとも有利な立場に立つなどということを考えると、あらゆることを利用しなくてはならないと思う。血も力であったが、「知は力なり」だ。 本来はその国のために整えられた社会制度や昔ながらの習慣を逆手にとって、弱体化したという新しい意味づけが行えるように外交のしかたを工夫して、自国がイニシアティブを取るようにし向けていくというのは、時間がかかるけれども、現実的な攻撃だ。 この攻撃を自覚することがなければ、自国を守ることもできない。武器弾薬を整えても、作戦を考えても、こうした戦略が乏しければ虚しい努力、張り子の虎となってしまう。こんなことを考えていると、どうにも恐ろしくなってくる。 10/4/2007 変な疑問72「指三本」 今、人間の指は五本ある。それぞれがそれぞれに働き、協力し合っている仲間だ。しかし、親指と人差し指はそろえにくい。人差し指と中指はそろえやすい。しかし、中指と薬指はそろえにくい。薬指と小指はそろえやすい。これはどうしてだろう。 今になって思えば、教室が一階だったので、小学校の1年生か2年生のときだ。画用紙の中ほどに人間の形に切り抜いた別の画用紙をはりつけて影遊びをした。人間の形の紙のちょうどおへそ辺りだけに糊をつけ、四角い画用紙に固定するのだ。そして、手足や頭は軽くカールさせておく。これを空にかざす。紙人形が取り付けられた面を太陽の方に向ける。すると、人形の影が画用紙に落ちて、それを四角い画用紙側から見ることができる。画用紙を少し傾けると、人形の手足や頭の影の形が変わり、まるで影の人形が踊っているように見える。これが楽しいのだ。 自分が思ったように影を操ろうとしても、幼いということもあり、なかなか思うようにいかず、まるで影が自分の意思を持っているかのように感じたものだ。小さな妖怪を自分のペットにしたように思われて、いつまでもいつまでも影と戯れていたものだ。実際には5分か10分ほどの時間でも、大人になってから思い出すと、それが「いつまでもいつまでも」と感じられるというのは面白い。 そのうち自分の手の指に気づく。親指が画用紙の地球側、人差し指と中指はその親指に対応するように画用紙の太陽側にあり、画用紙の左右の端をつまんでいた。薬指と小指は画用紙には接触しておらず、仲良くはね上がった形となっていた。どうしてこんな持ち方なのだろうと自分の指ばかりを見ていた。 お父さんは一人で会社にいくから紙の壁の外。壁の中には、お母さんはお兄さんの面倒を見て、妹は赤ちゃんの面倒を見ている。家族は三つのチームなんだと納得した。変な小学生だがしかたない。 漢字の練習をしているとき、やっぱり手の指が気になって指ばかり見ていた。影人形のときと同じで3つのチームができている。家に帰ってこのチームを壊してやろうと思った。変な小学生だがしかたない。 お父さんとお母さんは当然同じチームのはずだ。お兄さんと妹は子どもというチームのはずだ。赤ちゃんは何もできない話せない。つまり、ひとりぼっちのはずだ。だがこのチームはうまくいかなかった。指を動かしてチームの再編成を試みると、肘から先がとても気持ち悪い緊張感におそわれた。子ども心にも自分の考えが破綻したショックを受けた。 最初のチーム分けが自然だったということだ。そう思った瞬間から、僕は三つ指人間になった。正確には指3チーム人間だ。昔は指は3本だったのではないかと思っていたころもある。指三本といえば妖怪人間ベムというアニメがあった。今は変身する前はいろいろなことに配慮して5本指に描かれている。だが、変身するとやはり3本指になる。 ジャンケンで親指と人差し指でチョキ(ピー)を表現する人がいるが、とても不自然だ。拳の形を維持するために意外とエネルギーを必要とする。しかし、もともとチームである人差し指と中指で表現するチョキ(ピー)は実に自然で拳の形を維持するためのエネルギーなどほとんど必要としない。やはり指同士にも動かす場合には相性があるのだ。 中国武術で片手で刀を操る場合、刀をもたない方の手の指は人差し指と中指をそろえて伸ばし、後の三本は握る。おそらく刀を握って重くなった半身を逆の半身でコントロールするために必要な肘の張りをこの指の握りによって生じる緊張感を利用して生み出そうとする工夫だと思われるが、相手に対して刀を持たない方の手の先が尖っているように見せてプレッシャーをかけるという意味もあろう。このときも3チームが協力している。 それにしてもどうして親指は短くて太いのだろう。長さは小指と同じだ。この太さや長さもでたらめに決まったものではないはずだ。ただ親指旗の4本と向かい合って力を出さなければならないから太くなったという単純な理由かもしれない。しかし、それだけではなかろうと思うのだ。 日々雑感214「楽しい会話」 いつも思うことがある。会話をしていて、高めることのできる相手、深めることのできる相手、広げることのできる相手、楽しい気持ちになれる相手、勇気を与えてくれる相手を探さなくてはならないということだ。 全て一人で兼ね備えている人もいれば、いくつかを兼ね備えている人もいる。もちろんどれにも当てはまらない人もいる。誰彼敬遠する必要はない。たくさんの話し相手がいれば、下手な鉄砲でも数打つうちには当たるもので、どれもカバーすることができる。ただ、実際には日常生活の中では、そう多くの人と話し相手となるわけではない。また、多くの人と話すような時間も確保できない。 従って、少なくとも自分が相手にとってどんな会話の相手かということを少し振り返ってみる時間を個人個人がそれぞれに持とうとしているかどうかというところに問題の鍵がある。 まず、高める相手となっているか。高めるということは、話題が発展し、最低一つ上のランクに上がることだ。たとえば、「死刑制度に反対か賛成か」という話題から、「どういう制度なら死刑よりも効果的か考えよう」あるいは「死刑制度に反対か賛成かで討論会を開こう」などという話題にランクアップすることだ。 次に、深める相手となっているか。深めるということは、話題がより詳しく明確になるということだ。たとえば、「死刑制度に反対か賛成か」という話題から、「現在の死刑制度はどのような歴史的背景から生まれたものか」あるいは「死刑制度に反対する者はどのような根拠で反対しているか」などというように、話題を次々と細分化し、正しく理解していく方向に向けていくことだ。 そして、広げる相手となっているか。広げるということは、その話題に関連することが話題とされるということだ。たとえば、「死刑制度に反対か賛成か」という話題から、「外国の死刑制度はどのようになっているか」あるいは「日本の死刑制度は外国からどのように評価されているか」というように、話題を多面的にとらえたうえで、それぞれの面に多角的に切り込み、物事の本質に迫っていくことだ。 この三つの方向でバランスよく話せる人と話をしていると、楽しい気持ちになってくる。そういう相手が多く得られると、勇気もわいてくる。会話の前と、会話の後とでは一皮むけたようにリフレッシュし、企画が頭をもたげてくるからだ。 会話をするという点については、なんとかしてそういう人になりたいものだ。 10/1/2007 怪しい広辞苑110「iモード向けサービスがもたらしているもの」 iモード向けサービスの広辞苑第五版がある。これが何をもたらしているか。考えるだに恐ろしい。携帯電話を辞書として利用するのは若者に多いという調査結果が数日前に報道された。 だが、広辞苑第五版についてはまだほとんど内容確認をしていないにもかかわらず、広辞苑第四版よりも説明が不適切になっている部分をいくつか確認している。広辞苑第四版や第五版を修正した広辞苑第六版を発行したうえで、iモードでのサービスを提供するのが広辞苑の将来のためにもよかったのだが既に遅い。 広辞苑第六版が出版されればよいのだが、いまだに第五版が使われっぱなしだ。いや、実際には第四版や中には第三版を利用している家庭だって多くある。あまり使われないうえに内容が信頼されているので、親から子へと引き継がれていくのだ。 広辞苑第六版の出版はリスクが高いという判断は正しい。CD-ROM版を出し、電子辞書に載せ、ワープロソフトと連携させ、そして携帯電話での利用。このように、高める方向を一旦停止し、広げる方向にエネルギーを費やすのも正しい。その間に広辞苑第六版を編集するという年月を確保するという展開も正しい。 このように全て正しいのに、困ったことが一つある。それはiモードを使って広辞苑を使わせるターゲットが若者であるということだ。 若者は知っている日本語を駆使して仲間同士のおしゃべりは完璧にこなす。しかし、若者はまだ十分な日本語を話せるわけではない。生きている年月が少ないせいもあるが、生活が仲間同士にほぼ限られていると特殊な状況に置かれているからだ。そうした学生が社会人になったときに語彙の拡大を迫られる。おそらくここで辞書が必要とされる。学生の時にあまり使わなかった広辞苑のほこりを払うのだ。 結果として、iモードでのサービス開始は広辞苑第六版を完成してからがよかったということになる。しかし、企業には企業の事情があり、計画がある。ただ、このサービスがもたらしているものをどういう観点でどう評価したのかは知りたく思う。 構成不足と校正不足、つぎはぎ編集による不統一。長い年月を経たり、検討不足のために不適切な説明や間違った説明などがかなり目立つ広辞苑。ライバルとなる辞書は広辞苑の影響を大きく受けつつも適切な説明にしようという努力がうかがわれる。だが、広辞苑には負けてほしくないのだ。売れることによる恩恵は何もないのに広辞苑に対する僕の思い入れはもしかすると岩波書店よりも深いかもしれない。 最初は随分と失礼な出版社だと思っていたが、「怪しい広辞苑」をここに綴りながら広辞苑を丹念に読んでいくと、いろいろな人々がどういう思いで原稿を書いたのかがなんとなく感じ取れるようになってきて、出版社はさておき、広辞苑がかわいく思われてきた。これは愛情に近いものだ。そうなると、今後は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の反対で、出版社に対する不信感は和らいでくる可能性がある。しかし、愛するものに対しては手厳しくするのが道理だ。 さて、このサービスは月額100円で安いのかもしれないが、学生はおそらくそんなサービスは使っていないような気がする。これが一つの救いだ。しかし、若者でない年齢層の広辞苑信奉者は利用している可能性はある。若者でなければ不適切な説明に疑問を持ってくれる可能性もあるから、これも救いの一つだとカウントしたい。 まだまだ広辞苑はステータスを上げる要素として認められている。その名前にほとんど揺らぎはない。しかし、ほころびが表面化しないうちに何としても名実ともに辞書の最高峰になってほしいと心から祈りたい。そのために第六版はある。 |
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