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10/26/2008 怪しい広辞苑シリーズ169「第四版44ページ・阿修羅」広辞苑第四版44ページ「阿修羅」のイラストは、これでよいのだろうか。 どう見ても、広辞苑第四版44ページの阿修羅のイラストは、興福寺の阿修羅像のイラストだ。興福寺のものであるということは当然のことなのだろうか。だから、説明がないのだろうか。しかし、それは不親切というものだろう。知らないから調べているのだ。 その説明不足は常のことだから百歩譲ったにせよ、イラスト自体が実物といろいろな点で異なっていることについては、そう簡単に許されるものではなかろう。イラストは視覚に訴えて、ある一定の印象を強く与えてしまうものであるからだ。 なぜ、実物と違うように描いたのだろうか。そこで、実物とイラストとではどのように異なるのかを確かめてきた。広辞苑の編集では、一度版をつくったイラストについての再確認というものは行っていないのだろうか。 そういえば、古典文学大系の挿絵のミスは訂正してくれただろうか。新シリーズのものは目を通してないので分からない。お金を払っているのだから、こんなことは出版社が責任をもってやってくれないと困る。 個人の文章は誤りが多くて当たり前だが、出版社というお金を取るところがかかわる文章には誤りがあってはならない。もし、誤りが発見されたら、直ちにそれを広報しなくてはならない。ガス給湯器の不具合等で人が死ぬおそれがあるときだけ広報すればよいというものではないと思うがどうだろう。 施設設備の安全、食の安全が問われているが、知の安全が問われていないのはどういうわけだろう。隠し通そうなどと思わないことだ。さて、ここまでに幾つかのイラストの不具合を指摘してきたが、広辞苑第六版ではイラストの改善が図られているだろうか。もし改善していないのなら、第七版ではお願いだから改善してほしい。 ①頭(髪型) 正面を向いている頭の「髪の分け目」が九筋見えるはずなのに、十筋も描かれている。ただ筋がたくさんあると思って数えずに描いたのだろうか。 中央の筋目は真っ直ぐに入れ、左右四本ずつの筋目は湾曲させて描かねばならないはずだ。しかし、こともあろうに分け目の筋が全部途中で途切れている。髪型というものは顔の印象を決めていくのに重要な要素となるのだが、これでは全く異なる髪型の印象になってしまい、阿修羅像のイメージがかなり損なわれている。この一点だけでも、広辞苑のこのイラストは大変な失敗を犯しているとしか言いようがない。仏像に限らず、像というものは頭部や顔が命だという認識が果たしてあるのだろうか。 ②顔(鼻) 大事な頭部の中でも顔の表情は特に重要だ。しかし、正面を向いた顔の鼻筋が現物では顔の中央にかなりくっきりと鼻筋が通った印象で表現されているのに、なぜかかなり左側にずらして表現されているのはなぜだろう。 広辞苑のイラストでは、何と向かって左側の眉頭から始まって下に向かってまっすぐに鼻筋が描かれている。どうしてこのようなまるで漫画のような描き方になってしまったのだろう。 ③顔(額) 額の形は随分と人相を左右する。狭いか広いか、弧を描くか四角かで人柄までが表現される。ところが、広辞苑に掲載されている阿修羅のイラストの額と実物とは形がかなり異なる。なぜ、このように丸い額の印象にしてしまったのだろう。そのためにイラストの顔はかなり真ん丸になってしまっている。実物の阿修羅像の額は丸みを帯びた長方形に近い。 顔の表情をイラストで再現することは難しいかもしれないが、額のラインならば実物と同じように描けるはずだ。額の形がこのように間違っているために、興福寺の阿修羅が興福寺の阿修羅ではなくなってしまった。これはどこのお寺の阿修羅像なのだろうかという疑問が生まれてくる。 ④首 正面を向いた姿には鎖骨のくぼみのような線が描かれているが、それは現物にもある程度認められるものなので、敢えて少し強調して描いたといえばそれまでだ。しかし、首の付け根から胸にかけては素肌であるはずなのに、くぼみのすぐ下の丸首シャツの襟のようなくっきりとした線は、現物にはないものなので、絶対に描かれてはいけない線だ。それを敢えて描き込んだということは、何か意味があるのだろうか。 もしかすると色の違いをこの線で表現したのかもしれないが、そんなものを線で描いてしまっては、誤解を生むというものだ。 ⑤左右の頭(髪型) 向かって左についている頭の「頭髪の分け目」が三筋見えるはずなのに、二筋しか描かれていない。それに対して、向かって右についている頭部の「頭髪の分け目」は、実物どおり三筋だ。広辞苑のイラストはどうして左右についた頭部の髪型を描き分けたのだろうか。 まさかとは思うが、実物を見て描いたのではなく、写真を見て描いたのだろうか。写真を写すときには照明が重要な役割を果たす。その照明の当たる角度によっては、髪の分け目の筋が見えにくくなる場合がある。それでこのように描いたのかもしれない。 このイラストを見る限りでは、左右についた頭部の髪型がそれぞれ異なるということになってしまう。また、正面の頭部と同じように髪型の描き方が「頭髪の分け目」の筋を途中までしか引かない描き方であるために、実物と印象が違ってしまう。イラストというものはこの程度の描き方でよしとされるものなのだろうか。 ⑥肩 肩の線がイラストでは描かれている。特に向かって左の肩の線が丸みを帯びて描かれている。しかし、実物にはそのような丸みを帯びた肩の線などを描くべきような部分は少しもない。 何と広辞苑は、ないはずの肩のラインを描き入れたことによって、阿修羅像の特徴であるところの六本腕の生え方を変えてしまったのだ。 もし、どうしても描きたいのなら、イラストのような丸い肩ではなく、実物から受ける印象に近い、もう少し細く肩が横に張ったようなラインを描くべきだろう。目の錯覚かもしれないが、向かって左の肩は実物に近いかもしれない。だから、中段の腕の「左右の肩付近」の肉のつき方が異なって見えて、奇妙なアンバランスを感じるようになってしまっている。 ⑦腕 中段の腕の位置がずれている。向かって左の中段の腕はもう少し上がっていなくてはならない。逆に、向かって右の中段の腕はもう少し下がっていなくてはならない。 これがずれているために、広辞苑のイラストでは、向かって左の「中段の腕」の拳が、向かって左の「上段の肘」よりも拳半分ほど左にはみ出しているように見える。これによってすばらしい腕のバランスが崩れ、だらしなく並んでいるような印象となってしまった。実物の凛とした姿は、六本の腕の細さと真っ直ぐさ、そして角度によってみごとに構成されたものだ。 これが左右対称だったら死んだ姿となり、左右対称が崩れすぎていたら気持ち悪い姿となる。この大事な腕はもっと正確にイラストにしてほしい。 ⑧脇 広辞苑のイラストでは脇に肉がつきすぎていて、興福寺の阿修羅像から受ける若々しいスリムな印象が全く感じられない。これは腕についても言えることだ。 ⑨合掌 合掌した掌が広辞苑のイラストでは面で合わさっているが、実物はほとんど接触していない。これが何を意味しているかは分からないが、特徴的だ。 また、その合掌した位置が向かって右にずれているはずなのに、イラストでは体の中央になっている。実物は正面の顔の向かって右側の目の位置まで合掌がずれていなくてはならない。 だから、よく見ると広辞苑のイラストでは脇のあき方が左右対称なのに対して、実物は脇と腕のなす三角形の角度が左右対称にはなっていない。こうしたいろいろなずれが上手に組み立てられているからこそ美しく生き生きとした姿となっている。イラストだからおよそのことが分かればよいという了見ではなかろうが、大変残念なことだ。 ⑩衣裳(上) 向かって左の肩からおへその上あたりまで垂れている布が、広辞苑のイラストでは二本の長さが異なる紐のように描かれているが、実物は、布が三本に見える。 イラストは布の断面がNの字が流れた形になっているように見える。しかし、実物は布の断面がWの字以上になって流れた形になっているように見える。だから、三本に見えるのだ。小さなイラストだからといって手を抜いてはいけない。大きく描いて縮小すればよいだけのことだ。 ⑪衣裳(下) 広辞苑のイラストでは、丸いような形をした模様が七つと半分描かれている。しかし、実物では、向かって右側の腰の辺りに、向かって左側の腰の辺りにある半分隠れたような模様が、やはり半分ほどの描かれているように見えた。これはしっかり見ないと分からないが、あったように思う。 また、股の下あたりに丸いような形をした模様が半分ほど描かれていなければならないはずだが、これも省略されてしまっている。 両膝あたりの模様の位置関係が、イラストでは逆になっている。実物の丸い模様はどれも向かって右側の方が少しずつ上にずれている。しかし、イラストの模様の位置は下から二番目のものだけが、向かって右側の模様の方が案外と大きく下の方にずれて描かれている。これはいったいどういうことなのだろうか。 ⑫装飾品 肩の布と首飾りとの関係など、首飾りは細かく言えばいろいろとある。しかし、それに目をつぶったとしても、どうしても目をつぶってはおられないところがある。 それは、首飾りの向かって左側の端だ。ここに実物なら丸い飾りと房のようなものがついているはずだ。面積で言えば鼻の面積ほどはある。これを省略するのなら、首飾りの下の方に幾つかついている丸い装飾品などは真っ先に省略しなくてはならないはずだ。 ★ホームページに戻る 10/18/2008 心の断片154「おしえ」「おしえ」 入道雲が襲ってくるぞ トンネル抜けて沢に下り 小枝重なる天幕のなか 息を凝らして 目を閉じろ 鴉のむれが襲ってくるぞ 白樺林池のそば 朽ちた民家の屋根裏のなか 箒の銃で 追い払え 人間どもが襲ってくるぞ ふれるなかれみるなかれ 息をひそめて岩のなか 伝え伝えし 命を守れ ★ホームページに戻る 10/17/2008 幻想6「てのひらの虹」 てのひらに小さな虹がたつ。困ったとき、追いつめられたとき、握りしめていた拳から力を抜いてみる。そっと顔の前でこわばった指を開くと、小さな虹が美しく見えるのだ。 誰にも見えないようなので、あえて隠すこともなく。だからといって、人に話すわけでもないから、怪しまれることもない。ちょうど扇を七割ほど開いたような見事な虹だ。 とても小さく、ハツカネズミの頭ほどの大きさだ。小さな頃は誰にでも見えるものだと思っていたのだが、小学生にもなれば、次第に尋常なものではないと自覚し始めた。 この虹の光は何にも似ていないが、オパールの輝きに近いように感じることもある。このような美しい光は本物の虹では無理だ。どうあっても空に架かる虹と比べるというなら、その光をてのひらの上にぐっと凝縮したものだといったらよいだろうか。 ちょうど手相で言えば、頭脳線と生命線の根もとあたりだ。だから、てのひらと言っても、随分と左寄りで位置のバランスが悪い。 てのひらから立ち上る水蒸気がてのひらの上でとどまり、小さな水滴になって光を屈折させるのだろうかと思ったこともある。しかし、いつも左手ばかりに出るというのだから、それも考えにくい。だいいち夜でも見えるのだ。 ただひたすらに、困ったときや追いつめられたときに浮かび上がる虹だ。それなのに現状を変えてくれるような魔力は持っていない。不思議アイテムなどではないのだ。単に症状として出たものに過ぎないのかもしれない。それとも、まだ自分が扱い方を知らない未知のパワーの片鱗なのであろうか。いずれにしてもいつか知らぬ間に消えてしまうのだから、頼りないものであることには間違いない。 たとえこれがタイミングよく見える都合のよい幻視だとしても、本物の虹とどこがかわろう。どちらも事態は一向に好転せず、自力でがんばるしかないのだ。 ★ホームページに戻る 10/13/2008 日々雑感238「因果な天使」<天使だと思う 画像クリックで説明画面へ> 理不尽なこと、奇妙な慣わし、不思議な言動はなぜか一様に堂々としている。これはどうしたわけだろう。堂々としているだけに傍から見ると面白いのだが、実際には甚だ迷惑なものだ。 これら不条理な言動や事柄の数々にも、それ相当の背景があるのは間違いなく、その背景も当の本人にとっては当然のもの、あって当たり前、普段は意識しないが空気のようになくてはならないものであるはずだ。 だから、たとえ他人にとっては不条理ではあっても、やはり当人やその集団や組織にとっては不条理ではない可能性が高い。それで、堂々としているのだろうが、思っているだけの段階から実際に行動に出てしまったり、内々の社会から異なる社会でそれを出してしまうと、嫌が応にもお互いに都合の悪い結果が出てしまう。 その結果に本人自身や集団や組織自体が驚くのを待っていたのでは、周囲が迷惑だというものだ。もしかすると、周囲に迷惑をかけながらも、自分たちこそが被害者だと思っているのかもしれない。 そうした言動や事柄の背景をつかめば、この不条理を不条理として認めさせ、解消することにつながるかもしれない。反社会的、非社会的なものとして表面化しているものだけをターゲットにしているのは、効率を考えれば適切な対応とは言えないだろう。 適切な対応は、消火の要領と同じだ。派手にのたうち回る炎の動きに目を奪われ、炎に向かって水をかけていては火は消せない。昔から燃えているもの自体に向かって水をかけなければ火は消えないことになっている。僕たちは炎に水をかける愚行を犯してはいないか。炎どころか驚きの余り煙に向かってひたすら水をかけていることはないだろうか。それでは消火も防火も不可能だ。 ところで、いろいろな原因があって人間はいろいろな結果を出す。よい結果ばかりではない。文字どおり因果な存在だが、その不幸の後ろにある背景というものは、原因とは別のものだ。また、きっかけと原因とを混同してもいけない。恐らくきっかけというのは、罪な背景を背にして因果な天使が肩に舞い降りることだと思う。 火事の原因はたばこの火の不始末。そのきっかけは遅刻しそうになって慌てていたことだ。背景には、空気の異常乾燥、低血圧で朝が弱いこと等々。 そもそも背景となるものにはどのようなものがあるのだろうか。よく考えてみれば、いろいろな背景がありそうだ。例えば、①宗教的②思想的③歴史的④政治的⑤経済的⑥軍事的等々のように大ざっぱな分類もできそうだ。 ①宗教的背景の事情 宗教的背景については、その起源が相当に時代をさかのぼることになるが故に、人の心の問題であるとは言っても、現実との乖離が進んでいる部分がどうしても生じる。そうした自己のねじれによって、現実との親和性が保ちにくいことがある。そのため、社会の水面下にそれとなく漂うだけであったり、逆に社会の表舞台で支配力をもってその存在を誇示したりする例も多い。 前者は、自己内に必然的に生じていくねじれに対する自罰的自覚があり、それを昇華させた、あるいは堕落させた結果だろう。堕落した結果としては、葬式宗教団体としての脱宗教化、文化財管理運営団体としての宗教文化の創造ならぬ切り売り行為、営利団体化としての集金システム化などがあるだろう。 後者は、自己内に必然的に生じていくねじれに対する他罰的自覚があり、それを対抗システムとしての国家までをも含む団体の形成や組織内に向けての規律厳格化にエネルギーを費やした結果だろう。 これらに親子関係、派閥間闘争などが絡んでくるから、生臭くなってくる。つまりは、宗教的背景といっても、純粋に宗教的なものだけではないと心得るべきだ。こうした純粋ではない宗教的背景の裏には、さらに経済的背景がある。この経済的背景というものは、どの背景の裏にも影法師のように存在する基本的な背景だ。 ②思想的背景の事情 思想的背景についても、恐らく基本的な事情は宗教的な背景と同様だろう。○○主義と自覚した途端に、思想が思想のための思想となっていく運命も同時に背負わなければならない。そのために、志ある思想家はその思想体系を修正し続けなくてはならない。そうした自己否定は思想家にとっては不名誉な作業であると思うのだが、完成度を高めると慰めつつ、その思想が廃れてついには形骸化してしまうか、作業者である自分が死ぬまで続けることになる。 現実が変貌していくのに追いつけないお粗末な思想も、宗教の場合と同じで、二つの道が用意されている。しかし、堕落するにも昇華するにも、宗教と異なり、生活密着型ではないので、身の振りどころを見つけることが難しい。そのため、自己破綻をし始めたとき、自己維持のために蓄積してきたエネルギーが一部の者たちの手によって他者へ向けられることもあろう。他者が強大であれば自己破壊という愚かな道を選択したことになり、他者が弱小であれば蹂躙するという不始末をするということになる。 また、難解な思想になればなるほど、誤解や曲解が生まれやすく、それを指摘できる者の数が少なくなるので、危うい道を歩む可能性もある。 しかし、思想が背景にある不条理な言動や事柄は、その思想を学ぶことによって理解することができる。したがって、その不都合に対して対応することができる。 対象となる者が、どのテキストのどこをどう誤解したか、また師事していた場合には、どの部分を強く感じ取り、どんな人脈を受け継いだかを知ることが大切なことになる。 ③歴史的背景の事情 旧家というものがあって、それだけで人々の人望を集めていることがある。恐らく、代々長く続いている家であることが、とりもなおさず次のようなことを意味するという共通理解がなされているからだろう。 つまり、その地で一時代を築きあげたという尊敬を受けているということ、この地に継続的に繁栄し続けてきた社会的な力や人脈がそれ相当にあるということ、長い年月の間にいろいろな家が恩を受けているということ、他の家とのトラブルやその種を抱えていないということ、仮にトラブルがあったり、その種を抱えていたりしても許されているということ、家系に遺伝的な問題がないということ、問題のある行動をとる者がないということ、等々。 しかし、本当はマイナス面も同じほどあるのではないだろうか。旧家による理不尽な采配や奇妙な習慣、不必要な周囲の遠慮などはこれにあたるものだろう。 さて、歴史というものは、勢力争いの記録と思われているふしがある。それは狭義の歴史だが、鮮烈な衝撃を与えてくれるのは歴史の中でも間違いなく勢力争いだ。もう、日々勢力争いをしている。しかし、過去の話なので気楽なのだ。目の前で血が流れるわけでもなく、自分の命が危なくなるわけでもないから、実に面白い。 しかし、歴史を探り、その闇に想像の翼を広げているうちに、現時点での勢力争いのことを忘れてしまいそうになることがある。これは歴史の面白さに浸ることによって現実を見失うということになるから、歴史を学ぶ目的からすれば本末転倒と言える。 しかし、そのような歴史マニアを意図的に増やしていけば、善人面しながら世の中をひっくり返そうとしたり、国民の目を盗んでいろいろな勢力が暗躍したりする目論見が暴露される確率はその分だけ低くなる。一種の目隠し効果だ。 さて、歴史的背景を考える必要があると考えるのは、今の理屈や感覚では理解しがたい現象を目の前にして、それを解決しなければならないという立場に立たされたときだ。その歴史的背景が地域限定のものであれば、関係者には理解されていても、第三者には通常は理解されない。 逆に、その地域では当然のこととして受けいれられていたものであるがゆえに、地域住民自体がその歴史的背景を自覚していないことがある。その時には第三者として歴史を眺めてきた者によってその不自然さが伝えられることになる。 日本の気候に合わない珍妙な建築物群や洋装、不可解なレディーファーストの名残、大阪の笑いと東京の笑いの違いなどはこれにあたるものだろう。 ④から⑥についても、①から③までと同様に、様々な不条理の裏にある背景となっているものだ。しかし、困ったことに、このように了解することによって、「だから、仕方ないじゃないか。そのような背景があるのだから。」と開き直りとも受け取れる捨てぜりふを叩きつける傾向も生まれてしまうことになる。 これは、犯罪者の生育歴を調べて、「だから、この犯罪が起きたんだ。この人のせいじゃない。」という論理の飛躍を許す道をつけてしまう類の過ちを犯すもとになりかねない。 「原子爆弾の開発が可能だったのは神が許可してくれたからだ。そもそもこの宇宙にウラン235を用意しておいてくれたのは神ではないか。それを扱えるようになった民族は神の祝福を受けているのだ。逆に、そうしたものを扱えない民族は神から見捨てられた者たちであるのだから、滅んでよいのだ。」「酒が飲める人と飲めない人がいるのは遺伝子のせいだ。私が酒を飲めないのはきっとそのせいだ。だから、私はあなたが注いでくれた酒を飲む必要はないんじゃないか。そもそも酒の席に同席したことだけでも評価してもらいたいものだ。」「麻薬を製造販売するのは、ほかに産業がないからだ。それ以外の産業が根づかないのは先進国のせいであって、この国のせいじゃない。だから、麻薬を作り続けるのは仕方ないじゃないか。」「世の中が悪いので、俺も悪くなった。だから、世の中に代償を払わせるのは当然だ。俺を裁いて罰するなら、世の中も裁いて罰せよ。」等々。 単なる集団や組織による不条理な動きは不気味だが、こうした個人による不条理な言動は悲惨な感じを受ける。しかし、これらの言葉が実際に口にされたときには、結果はどうあれ、その倫理的でない論理を指摘して過ちを自覚させたり、彼が置かれた状況を変えるべく対策をとることができる。 ところが、こうしたことも、思ってはいても実際に口に出すことなどほとんどないという場合や、恐らくは内言にさえもなっていない場合もあるから始末が悪い。 そのようなものが思いとしてあったり、当然のこととして無意識の中にあったりするからこそ、それに基づいた不条理な言動をとるのだが、特に言動のスタートポイントが意識されていない場合には、すぐに反省することができない。 必要なのは内省して、自分の心の中に言動のスタートポイントがどのように設定されているのかを内観することだ。言い換えれば、自分自身も気づいていない思いや了解に気づくことだ。これによって初めて反省できる条件がそろう。 ちなみに、倫理というものがあって、人の道を外れてはいけないということになっている。すると今度は人の道とは何かということが問題になってくる。 ところが、倫理観も世代や時代で変わっていくように思う。それは様々な背景が増え、言動や生き方の選択肢が広がったということと、人の寿命が延びたので、生き方や言動を選択する世代の数が多くなったことによる。いつの世でも変わらぬものと思っていた人の道も、いつかは変わっていくことを自覚する機会が増えたということだ。 さて、現代の日本人は高学歴の者が多いので、専門的知識を中途半端に身につけている可能性が高い。これは見識の縦割り乱発だ。これがうまく組まれている場合にはその知見を生かすことができるだろうが、実際にはたとえ仕事であっても、最初から都合よく人々が組み上げられているわけではない。相互扶助のように助け合っているから何とかしのげるというのが現状だろう。 しかし、相互に競争するように仕向けられている場合は悲惨だ。チームワークで得られるべきものを個人でひねり出さねばならない状況に追い込まれる場合もある。 ほとんどの人間が農民だったころはまだ全人的な能力で対応できるので、心身ともに比較的健康的だ。しかし、複雑な社会になってしまった結果、一人一人が細分化されてしまった。細分化された分だけ自分を生かす道も狭い。 それだけに、自分の歩むべき道から外れている感じをもっている者の割合が増えている可能性が高い。疎外感が生まれ始める。それどころか、ニートで引きこもりのように最初からお手上げ状態で、歩むべき道自体に立つことさえできない者が増えている。社会から切り離され、常識が常識ではない状態になっていく。さらに、人間として成長する機会を失っていく。人間にもなれず、動物にも戻れない中途半端な存在のまま、世の中への逆恨みを抱き続けるのだろうか。 働かざる者、働けぬ者、働かせてもらえぬ者、働いているつもりの者、働いてはいるが不満のある者、働いているだけの者、働いて満足感を味わっていると思いこんでいる者……。様々の者が幽霊のように、あるいは悪鬼のように暮らしている。毎日毎日を、悲しみや苦しみが変形した笑顔で一点を見つめて暮らしている。 街を歩くと、歩く姿に活気を感じてごまかされてしまうが、電車に乗ると手足の動きが取り払われてしまうので、一人一人からにじみ出てくるものが何となく伝わってくるように感じる。不条理の言動の奥に、ばらばらになった一人一人のうめきが呪いのように伝わってくるように思われてならないのだ。 電車は座席を減らしてはならぬ。あれは座っているから暴れないだけだ。暴れるには一度立たねばならぬ。そこにワンクッションあるから、辛うじて暴れないだけだ。座席指定はよい。それだけ余分にお金を払う余裕がある者は最初から暴れない可能性が高い。 しかし、一般車両の座席はゆったりさせてはならない。あれは微妙に肩が触れあう距離だから警戒することに優先順位があり、それで辛うじて暴れないだけだ。体格が向上し、肩と肩の距離が狭まると、事態は変わるかもしれない。 満員電車は満員電車でいい。暴れようにも体が動かない。しかし、そこから解放されてホームに出たときがもっとも危ないタイミングとなる。気をつけよう。誰かがいらついて、手で人を殴るかもしれない。しかし、それは遠い昔、地球のどこかで誰かが直立歩行を始めたからではない。 電車に乗るとき、聞こえてくるもの。本人が自覚しているかどうかは別として、次のように聞こえてくる。 俺の時間をかえせ 俺の青春をかえせ 俺の俺という意味をかえせ …… 無理なんだね では 俺は俺という意味を探す旅に出よう 誰かの青春をいただき 永遠の時間とともに流れよう 幸福の天使たちが世界中にあふれているはずなのに、どうしたことだろう。残念ながら実は僕もまだ見たことがない。ただ妖精が天使のふりをして僕の肩に座っている。でも、いつもにこっと笑うだけで何をするというわけでもないのだ。こいつは妖精が天使のふりをしていると見せかけている天使なのだろうか。光の羽ばたきが黄金色に時々鋭い。こいつは因果な天使に違いない。またわずかに微笑んで不条理の小さな手紙を僕に少し差し出して見せている。 ★ホームページに戻る 10/11/2008 突然思い出したこと120「茶箪笥のカミソリ」 カミソリの刃が一枚。茶箪笥の小さな引き戸の奥。白い蝋紙に薄く包まれ、随分と無造作に置いてあった。 丸椅子の上に立った幼子は好奇の心でそっと中のものをめくるように取り出す。見たことのない冷たい光だ。弄ぶうちに手が血に染まる。この赤いものはなんだろう。掌に薄く切り込まれた傷。そこからにじみ出てくるもの。それが体内を流れる血だとも知らないのだ。 「これなあに?」 「血だよ。」 「血ってなあに?」 「ほら、それが血だよ。」 手をこすり合わせると、赤茶けた生乾きの血はぽろぽろとロンパースの上に落ちた。痛いとも痒いともつかぬ不思議な手の感覚に、指を広げたり握ったりして暫くじっと眺めている。思えば掌自体をこんなにじっと見つめたことがない。 指紋のことや掌紋のこと、カミソリが刃物といって体を傷つけるもの。なにより血という大事なものが体の中を流れていて、たくさん流れ出ると死ぬということ。いろいろなことを知った。 そんな大事な命の仲間である血というものが、いとも簡単に体の外に出てしまうことの不思議さと理不尽さを長い時間考え続けなくてはならなくなったのだ。こうした種類の不幸があることを初めて知った。 命について誰も手を差し伸べてくれない世界のあることを体感した子のつぶやきなどどこに届くというものでもない。ひたすらに受けいれて、心を配る必要のある恐怖が、幼子の心のしかるべきところに備わり、その分だけ大人になったということを後で知るのみだ。 ★ホームページに戻る 変な疑問96「意味と無意味」 祭りの意味も分からずに楽しむことの意味と無意味。嘆きの意味も分からずにともに涙することの意味と無意味。騒ぎの意味も分からずに野次馬になることの意味と無意味。罰すべきものを罰しないことの意味と無意味。 調べずして意味が分からないことを述べることの意味と無意味。自分が死ぬために他人を殺すことの意味と無意味。こんな宇宙に人間を生み出したことの意味と無意味。 語り尽くせぬことを語ろうとすることの意味と無意味。 ★ホームページに戻る 心の断片153「貧乏学生」「貧乏学生」 廊下急げば こうるさい 僕はここだと 鳴る小銭 小腹がすけば 生協の おばちゃんくれる あまり飯 木枯らし吹けば 図書館の 本にまぎれて ひきこもり 夕立くれば まな板に 雨水走る 台所 米がなければ 学友の いもを半かけ 冬の道 ひもじくなれば 構内の 一人皆食う 根たんぽぽ 後に入れば 砂砂利の 少な腰湯の 他人風呂 夜中になれば 窓を開け となりのラジオ きく身分 下着たまれば ポリバケツ 丑三つ時の 洗濯板 嵐が吹けば 合羽来て 資材置き場に ある厠 朝が明ければ 枕元 誰が届けた 野菜箱 休みになれば 人恋し 転がり込んでも 二人連れ 二人が去れば 一人いて そっと数える 空の星 10/5/2008 心の断片152「下宿道」「下宿道」 霧雨の 裏道をゆく すがすがし 誰ひとり 声かけるなし 話すものなし 道すがら 垣間見るもの 心地よし 一点も われとつながる ものもなければ ひたすらに 花をくだきて 野の小径 あてもなく 行きつ戻りつ 今日も日暮れる |
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