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    10/28/2009

    心の断片215「頼れる仲間」

    「頼れる仲間」

    この靴はいてどこでも行くぞ
    世の中の瓦礫
    死体ではない死体
    生きた地雷をも乗り越えるぞ

    このナイフはどこまでも鋭いぞ
    迫る肉
    楯突く骨
    不屈の心まで削ぎ落とすぞ

    この地図はどこまでもしゃべるぞ
    岩山の目印
    秘密の扉
    隠匿された宝を暴き出すぞ

    このバイクはどこでも走るぞ
    ぬかるむ沼地
    あばれる木々の根の上も
    無理な場所なら好んで走るぞ

    このジャケットは死んでもあきらめないぞ
    丈夫な靴を履き
    大小のナイフを仕込んだら
    地獄の地図をポケットに
    道なき道をどうにも突っ走るぞ

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    日々雑感172「交渉の余地」

     ホールをキャンセルする。キャンセル料の発生だ。全額だから頭が痛い。どうにかならぬかという訴えに交渉の余地を見せてくれる。昔から世の中というものはままならぬものだが、ただままならないだけではなさそうだ。
     世の中はもともとないものだ。人が成り行きに任せてつくった世の中だ。ルールももともとないものだ。必要に応じて継ぎ足し継ぎ足しつくったものだ。すべてが間に合わせだが、その間に合わせで間に合わせなければ生きていけない。ところが、間に合わせであるところに余地がある。
     山のごとく動かないものも、山のごとく動かないものとしてみんなが認めているから山のごとく動かないというだけの話だ。しかし、山を山として認めつつ都合をつけていかねば、山に押しつぶされることになる。押しつぶされるのは本望ではないから、押しつぶされないようにする。
     交渉の力とは、こちらの志が相手にとって予想外の大きさをもっていることだろう。また、小さな段階を丁寧にふんできたという既成の事実の多さや成し遂げられぬ絶望感の大きさだろう。何より大義名分の柱の太さということもあるだろうが、連帯感とか同情とかいう「なさけ」の側面が大きく左右するように思う。
     たとえ違法であろうとも、たとえ異常であろうとも、懸命な姿は必ず人の心を射抜く。射抜かれた心は自身のあらゆる取り決めや傾向を取り払った原初的な状態に戻って反応する。それがたまたま「現行の制度」と「現行制度によって形成された人の心の一部分」とに背かないものである場合もあれば、そうでない場合もあるだろうが、どちらにしても人は支援の手を差しのべる。そうしなくてはならないという心が発動するのだ。
     「なさけ」という意味での人間性の発露だ。これに甘えると別の問題が起こることになっている。だから、「なさけ」をかけられることをよしとしない心意気というものが必要になってくる。バランスをとるためだが、このバランスのとり具合というものが面白いように思う。

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    10/27/2009

    心の断片214「めぐり」

    「めぐり」

    この不条理をどうしよう
    心の痛みをどうしよう

    割に合わぬ我慢に
    意味はない
    八割解決したら
    かわりの誰かが
    味わえばよい
    お互い様の論理
    感謝の方程式だ
    巡りが滞った分の
    不幸せは自己責任
    我慢の範囲だ

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    10/26/2009

    心の断片213「どこにいくの」

    「どこにいくの」

    どこへいくにも
    かわいい靴で
    すてきな速さで
    歩いたね

    麦わら帽子に
    風受けながら
    小さな花を
    見つけては摘む
    いたずらっ子の
    きみがいた

    日暮れても
    尽きない話
    窓辺の子猫
    隣のラジオ
    緩やかな時間
    やわらかな空気
    緩やかな時間

    いつかリボンも
    どこかにしまい
    かかとの音がする
    すきのない靴
    急に大人の
    君がいた

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    10/24/2009

    心の断片212「存在」

    「存在」

    空よりも星多き空
    埋め尽くす埋め尽くす
    山の上 里の上に
    覆いかぶさる天蓋とは
    この永遠の光の
    輝きの大回転
    木々を照らし
    夜の世界をつくる
    幻の時間
    薄紫の大気
    存在とはこのことなりと
    息をのむ

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    突然思い出したこと130「ホームレスハウス」

     段ボールハウスで有名なのはホームレスのハウスだ。ホームレスはハウスレスではなく、あくまでもホームレスだということだ。家族で段ボールハウスに暮らしていれば、ホームレスではなく、ただのハウスレスだ。もちろん、段ボールハウスをハウスとして認めれば、ハウスレスですらない。
     ホームレスとハウスレスでは、ホームレスの方が辛い。だから、ホームレス同士で疑似家族を形成しやすい。これはこれで一つの社会をつくっているので、いろいろな役割が生まれることになる。一般社会から落ちこぼれた社会と見てもよいのかもしれないが、一般社会とホームレス社会は紙一重だ。いつどんな理由で誰がホームレスになるとも限らないということを知らぬが仏の一般社会だ。
     ホームレスハウスを造るには、ざら板、段ボール、ブルーシート、ガムテープ、カッターナイフ、幾種類かの番線、ロープ、角材、コンクリートブロック、ペグ、金槌、鋸などがあればかなり立派な段ボール製ホームレスハウスが造れる。
     多目的に使用する敷き毛布と掛け毛布、懐中電灯、新聞紙、ビニール袋、輪ゴム、折りたたみ式の小さなテーブル、折りたたみ式の椅子、傘、雨合羽、筆記用具、書き込みができるカレンダー、釣り道具、ラジオ、書類入れ、食器、胃腸薬、風邪薬、かゆみ止め、充電器、乾電池、洗面具、手拭い、ティッシュペーパー、偽装金庫……。これらは大きめのリュック二つに入る。これに自転車が加われば、行動範囲も広がり、その分だけ裕福に暮らせる。
     公園には水とトイレがあるから、公園内は無理かもしれないが、その近くに場所を取ることからはじめなくてはならない。
     民家が近いときには警戒心をもたれないように、挨拶や笑顔、掃除を欠かしてはならない。こぎれいな猫や小さな犬をペットにすることによって受け入れられ方が断然違ってくる。動物好きに悪い人はいないという受け入れ方をする人もいるからだ。子供に話しかけてはならない。逆に子供に話しかけられたら、昔話やおとぎ話をしてあげるようにするが、それ以上の人間関係を作らないようにする。さりげなく花を植えるのもよい。
     警察の職務質問を受けるときも曖昧なことは言わない。非社会的、反社会的な思想の持ち主であると判断されるようなことは言わない。面倒見てやらなくてはと思ってもらえるような態度や表情、視線を持たねばならない。写真を撮られるような場合も、背景を配慮することと、太陽でまぶしい表情になるような落ち度がないように気を配る。家族や出身地、ホームレスになった理由などを質問されたときには涙ぐんで言葉を詰まらせるのがよい。
     地域とは不即不離、尊敬すべき一芸や生活態度を持っていることをそれとなく広める。お寺やお墓の掃除などのボランティアもよいかもしれない。こちらからは話しかけないようにし、話しかけられたら、相手がはっとするような蘊蓄のあることばを少しだけ入れて返答するのも好印象を与える。地域の役に立っているということをそれとなく示す行動をひそかに続けることも大事だ。
     公衆電話が近くにあればなおよい。体調が急変した場合などは救急車を自分で呼べる。子供の登下校時には保護者に配慮して姿を見せないことも大事だ。ほこり、排気ガス、粉塵などは肺を病む原因になるから十分注意する必要がある。
     ホームレスになると世間は急に冷たくなったり哀れんだりしてくる。いろいろな実験で明らかにされている。このホームレスレポートを完成させるには、一般社会の正体、善良な市民の正体、人間の正体を知るには、どうしてもホームレス体験が必要になるだろう。かつて老人メイクをした新聞記者が体験した生々しい体験を上まわるレポートができあがるに違いない。彼女は骨折、性的暴力まで受けたが、ホームレス体験では死が待っているかもしれない。心意気のあるものはセキュリティーを確立してから臨むとよい。

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    日々雑感171「教えるわけにはいかない」

     言ってはならぬこと。これを教えるわけにはいかない場合があるのではないか。
     例えば、親が子供に言ってはならぬ普遍的なことばがあるとする。これを教えてしまうと、その親は、言ってはならぬことが何であるかということを、「子供の様子」や「子供と自分との関係の状態」を探りながら子育てをしていくという基本的な作業を怠るようになる。怠らずともその作業が軽いものになってしまう。
     この作業が適切に行われることによって、子供に対する親の勘が形成されたり、子供との絆が深まったりするはずだ。これが失われることになる。大きな損失だ。
     体験しながら失敗を重ねることは、目的意識を持っているという条件さえあれば、非常に重要なことだ。この目的意識がなければ、失敗体験の積み重ねは弊害にしかならない。目的意識さえあれば、失敗体験の積み重ねは、その過程で耐える力、考える力、行動する力を身につけていくことになる。本当の能力を身につけるということは、そういうことだろうと思う。
     しかし、子育てには「無意味な失敗」や「許されない失敗」もある。これを避けるための知識や知恵は教えなくてはならない。無駄の積み重ねを強いるのは、一度しかない人生を歩む僕たち人間にはとても酷なことだからだ。何より子供にとって大きな迷惑だ。
     逆に、人の話を聞くときも、教えてもらわねばならぬことと、教えてもらっては困ることを上手に選り分けていくという作業が必要になるということだろう。仮に、教えてもらっては困る類のことを聞いてしまった場合には、意識的に徹底的に疑って確かめ続けるという作業をすることによって、その弊害を避けたり、軽減したりしなければなるまい。
     子育てにおける親の成長を例に挙げたが、人のやることはすべてこの点については同じだろう。これまで「生きる」ということに対してあまり考えたことがなく、漠然としてよくわからなかったが、実はこうした「単純だが困難なこと」が基軸になっているものなのではないかと思うのだ。これが生きる面白さの一側面になっていることは間違いないだろう。
     いつもつまらなさそうな顔をしている人は、何も知らないか、知らなくていいことを教えてもらってしまったか、とにかくそういうことが多い人ではないかとふんでみると、そのつまらなさを解決してあげられるかもしれない。まあ、余計なお世話だが、親しくなりたい人であれば、それも一つの礼儀だろう。もっとも、そんなつまらない顔をしている人と親しくなりたいということなどはまずないだろうけれど。まずは、自分自身の表情チェックからトレーニング開始だ。

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    日々雑感170「職業柄」

      職業柄、相手を一瞬で見抜かねばならない。タイミングよく途中から一瞬で主導権を奪いつつ、それをさとられてはならない。あらゆる人脈を使って情報を得て、人間も含めてすべてを味方にしなければならない。表舞台に立つことなく、裏でコントロールに徹しなければならない。他業種の企画に関係し、滅私奉公、軽口を装って進言も厭わない。
     「ああ言えばこう言う。こう言えばああ言う。」と「ああ言えばああ言う。こう言えばこう言う。」を駆使することだ。相手の目を見るのではなく、相手の目の奥も見ることだ。相手の目の奥を見つつ、相手の全体も見ることだ。表情の変化を見るのではなく、表情が変化する一瞬も見て取ることだ。相手の思想を理解するのではなく、その思想の背景もつかむことだ。目的の裏にあるものをかぎ出すのではなく、相手も気づかない側面にあるものもあぶり出すことだ。そして何よりも、相手が一切合切滅ぶまで、幸福を祈ることだ。
     こうして並べてみると、どの職業にも共通して必要なことだな。

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    心の断片211「若者難民」

    「若者難民」 

    口笛を聞かない
    鋭く明るく空気を切り裂く
    若者の口笛を聞かない
    澄みわたる空の下
    若者の清らかな
    笑顔を見ない

    無垢の時代を失った
    人間の原点の崩壊
    自己設計の喪失
    何にも増して愚かしい賢さ
    ちぐはぐの階段
    孤独の正体

    見て見ぬふりの
    ただ歪んだ唇からは
    あの澄みわたる口笛も
    清く明るい穏やかな笑顔も
    どうにも生まれることはない

    当世風に扮装しなくてはならない
    当世風に語らねばならない
    自覚症状なき若者難民は目覚めるか
    夕暮れたそがれ木の葉舞う
    点灯し始めた水銀灯
    凍えて誰もいなくなる前に
    そっと小さく吹いてみる僕の口笛

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    10/23/2009

    心の断片210「少年時代」

    「少年時代」

    腐れ人形の手足をとれば
    そこに一つの
    扉が開く
    枯れたすすきを結んでみれば
    そこで一つの
    時代が終わる
    風よ ほうほう
    耳ふさげ
    風よ ふうふう
    頬さすれ

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    10/21/2009

    日々雑感169「還暦までに」

     今日の仕事は久しぶりに午前四時からだ。流観ついでに向かえば、妙なバトルをシミュレーションして憂鬱になることもない。
     思うに、僕たちの睡眠時間は長すぎる。昔は八時間が健康的な睡眠時間と言われていたが、どうも七時間睡眠の方が長生きできるらしい。自殺希望者は寝なければよい。自殺ではおりないタイプの保険金も支給されるかもしれない。そうなると、保険会社も死亡する前の一定期間の睡眠時間を調査するようになるかもしれない。払わない分だけが利益なのだから阿漕なことになるのは仕方ない。
     八時間といえば三分の一日だ。六十年生きていても二十年は寝ていることになるから、意識不明の状態が長すぎる。還暦といっても人生経験は四十年だ。生まれてから十二年間、小学校を卒業するまでは何だかわからない時期だからマイナスしておこう。すると、三十一年の人生だ。
     成人してから、というより大学、大学院卒業してからということになると、たった三十六年間だ。意識がある時間の短いことといったらない。しかも、そのうちの五年間は待ち時間とみて、三十一年間。そのうち移動時間が一日に二時間として三年間。これを差し引いて二十八年間。食事と風呂とトイレを合わせて一日に二時間として三年間。これも差し引いて二十五年間。ものを探す時間やぼんやりしている時間が一日に二時間として、結局は二十二年間しか残らない。テレビ、ラジオ、インターネット、新聞、読書、人の話を聞く時間などの日常的な情報収集時間を一日に二時間として、残りは十九年間になってしまう。
     ここから睡眠時間を少なめの一日六時間として九年間分を引くのだから、何と十年間だ。しかも、一人前になってからの月日となれば、個人差もあるけれども、五年程度ということになろうか。
     もっとも、馬上、枕上、厠上ということがあるから、一概には言えないが、還暦までに人生の有効年数とでも呼ぶべきものが五年間とは意外な人生だ。うかうかとゲームなどを一日に二時間もやっていれば、たったの二年間しか与えられていないということになる。
     しかも、その中にまた成功と失敗がある。甘く見て五分五分だとしても、一年間しかハッピータイムがない。それが偽らざる人生の姿なのだ。
     もう一度生き方について考え直さないといけない。星でも見ながらぼんやりと。というわけにはいかないか。

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    10/20/2009

    日々雑感168「ミズスマシ」

     ミズスマシをラジコン潜水艦で追いかけ回しているうちに、いつの間にか時がたつ。奴らは自由自在だが、複雑なパターンで生きているだけだ。それが生きていることの生きているらしさにつながっている。
     複雑なパターンを相手に生きている僕が対応する。生きている者同士の対決だ。知らぬ間に遊ばれている錯覚を覚える。生きているということは遊んでいるということだと悟る。
     僕たちがしている仕事とは何だろう。遊びの硬直したもの。変な遊び。そうか。決められた遊びだ。複雑なパターンを解きほぐされて、公にさらされた無防備の砦に一人住んでいるような孤独と恐怖のステージだ。
     だから、仕事のエネルギーは熱くなければならない。自分一人ではどうしようもないのだ。それに比べてミズスマシのさわやかさはどうだ。完成された水生昆虫の堂々たる泳ぎは侵しがたい神秘。宇宙の凝縮。

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    心の断片209「新聞広告」

    「新聞広告」

    色とりどりの広告に
    めまい
    目立てばよい
    極彩色の狂気
    聞いたような言葉の羅列が
    ぼくを寸断する
    こころまで
    木っ端微塵のぼくは
    新聞紙に倒れ込むと
    そのまま包まれて
    ダスターシュートを落ちてゆく
    ほこりと寒さ湿気に耐えながら
    僕は新聞広告と仲良くなる算段するのだが
    ぱりぱりとどこまでも薄い広告が
    こよりのように細くよじれて
    僕の耳から鼻からねじ込まれてくる
    物たちの反乱だ
    ドタバタと足音だけが勇ましいわけじゃない
    人間とはちがう
    謙虚な反乱だ
    どこまでも優しく
    どこまでも静かな
    決して終わらない
    誰も知らない反乱だ

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    10/19/2009

    変な疑問109「髑髏マークと内臓マーク」

     髑髏マークは至るところで見かける。死んでも残るのが髑髏だから、そこに魂を感じるのかもしれないが、本当に魂を宿していたのはどちらかと言えば、内臓のはずだ。
     髑髏は格好いいのかもしれない。固く、形が定まっているので、硬派路線にはぴったりだ。特に頭蓋骨の目は黒く描かれてサングラスのようだ。まるでその裏に眼球があってこちらを鋭く見つめているかのような印象を与える。
     これに対して、内臓は格好悪いのかもしれない。軟らかく、形が崩れやすい感じがするので、冗談だが、軟派路線にはぴったりかもしれない。
     髑髏は怖いかもしれないが、内臓は気持ち悪い。だが、どうして気持ち悪いと感じるのだろう。これはさらされて綺麗になるものと、腐ってにおいを発生させるものとの違いからくるものだろう。また、骨は形状もはたらきも単純で理解しやすいが、内臓は形も色もはたらきも得体が知れないというところがあるからかもしれない。
     髑髏のアクセサリーは多いが、心臓ペンダントとか肺臓ネックレス、大脳指輪とか小腸ボタンなどというものはない。眼球も内臓ならば、眼球イヤリングとか眼球ブレスレットがあってもよさそうだが、やはり見つからない。明らかに不公平ではないか。
     ここはひとつ医療関係で使われているような抽象化した内臓マークあたりから進出していくのがよいだろう。まず、目を慣らすことだ。

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    10/18/2009

    心の断片208「はったり大事」

     「はったり」のそのまた裏の「はったり」ぐらいになると、自分でも忘れてしまう。いつの間にか、だからそれが自分自身だ。自分で描いた絵に自分が同化するということはよくあることだ。 
     自分は自分という自信。こうした誰も否定できないことを自信の土台にするという計算高さは自分を守るためのものでもある。
     確かに自分は自分自身だ。そんな細枝のような自信も、繰り返しコピーにコピーを重ね、幻の力を重ね撮りして束ねれば、どうやら人となりとやらを充分に支えるらしい。
     だけど、そうしたうざうざとした小さなはったりやごまかしだからこそ、自分の意志の反映であり続ける。
    いじこましく支えられた大量生産プラモデルでは何の魅力もないかもしれないが、もとの支えが細いのだから、中身がないのは好都合の軽さだ。
     これは世間が認めるものを求めて止まない精一杯のポーズどりだ。がんじがらめの路線のうえの本当はどうしたらよいかわからない不自由な存在だ。進んでいるつもりの立ち往生での背伸び合いだ。だが、こんな暇つぶしの程度の争いでは何の満足がいくものか。
     一度バイクに乗り換えて線路から下りるという手もある。行きたいところへ、真実求めて冒険の旅に出かけないか。道なきところにガソリンスタンドはない。だから、燃料タンクいっぱいのガソリン分の距離限定の旅だ。
     世の中、道だけでできているんじゃない。道を外れたところにものがある。もちろん玉石混淆だ。道に落ちているものや道筋に立ち並んでいるもの。そうした手に入りやすいものは誰かの思惑の産物だ。
     そんなものばかりあさっていれば、勘も狂い、生き方や考え方もねじ曲げられ、頭もおかしくなるというものだ。もっとも道を外れたら、誰も守っちゃくれない。
     帰ってこられるかどうか、神を信じるなら神にきくことだな。神すら信じないということは、他に何を信じるんだい。
     そうだ。信じる者たちと一緒に旅立てばよい。それなら安心だ。そういうことだ。信じるというのもひとつのはったりだったな。道を進むことが目的じゃなくて、道はもとから手段だったはずだ。どの道を通ろうと、どんな道を切りひらこうと、それは好き勝手でよかったはずだ。
     しかし、道にも定員がある。吊り橋に定員があるのと同じだ。すると、好き勝手というわけにはいかなくなる。そうなると、特定の道を進むことが目的となってしまう。まあ、それでも構わない。ただし、本物を見つける旅へのエネルギーは使い果たしてしまわないように気をつけよう。
     そろそろ合理的で謙虚なはったりというものを考えて自分を強化しないといけないな。

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    心の断片207「こころ」

    「こころ」

    この石ころをどうしよう
    てのひらで
    汗ににじんだ
    この石ころをどうしよう

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    日々雑感167「信じることの不都合」

     確かめるべきときに確かめることを怠り、いつまでもただひたすら信じ続けるのは「盲信」だ。これと「信じる」とは別物だから、意識的に区別しなくてはならない。「盲信」の要素が濃ければ濃いほど尊いことだと勘違いされる場合もあるので、よほど注意すべきだ。
     「(妄信的に)あなたを信じている」と敢えて明確に伝えることで、それが脅迫になる場合がそうだ。脅迫なのに信じることは尊いことだという前提によってチャラにしてしまっているのだ。そして、こんなに信じているのに裏切ったと言って恨みをいだくことが多い。もうこうなると、信じることの暴力といってよい。
     これは、じゃんけんで自分はパーを出すよと宣言して、相手にグーを出すように仕向けるのに似ている。そして、相手がグーを出すことを信じてパーを出すのを潔しとする風潮がある。
     確かに結果を恐れないという点では潔いのかもしれない。しかし、それを貴いことだとするのはおかしいだろう。潔いということに関してだけ言えば貴いのかもしれないが、トータルで考えれば、いい迷惑だと評価されるべきものだ。これを混同して、どんな場合でもとにかく信じることは貴いことだと感じてしまうのは、お互いの幸せを考慮しない愚かで思いやりに欠ける者の特徴かもしれない。
     言ってしまった以上、パー的なことをせざるを得なくなる。これは迷いから自分を救うための方法にもなっているのかもしれない。同時に相手を混乱させる方法ともなる。相手が負けたとき、人を信じられないということは哀れなことだねと言って追い打ちをかけることもできる便利なやり口だ。
     相手がチョキ的なことをして対応した場合には、自分は勝負に負けてしまうのだが、最後まで人を信じ切ったという自殺行為が貴いもののように周囲が評価することを期待しているのだろう。慰めをいただく条件づくりをし、そのような雰囲気のなかで他人の口から信じることの貴さということばを引き出せれば大成功だ。ここまで事を運べなければ、単純に人を信じたお人好し、世間知らずということにされてしまい、愚か者のレッテルを貼られてしまう。
     逆に、パー的なことをするよと言われた方は、チョキ的な対応をして勝負に勝ったとしても、結果だけを考える打算的で情のないやつだというマイナスの評価をいただいてしまう。実に迷惑千万だ。
     また、パー的なことをするよと言われて、グー的な対応をすれば、自ら負けに出た愚か者ということにされてしまう。勝負にも負け、評価も落ちるのだから、泣きっ面に蜂だ。本当に迷惑だ。
     さらに、パー的なことをするよと言われて、パー的な対応をすれば、人を信じないのかとか、裏を読みすぎだよと言われることになる。これもたまらない評価だ。
     どうやら、「信じる」ということを迂闊に言わない方がよいようだ。それほどに重いことだと心しておくべきことだったというわけだ。そもそも「信じる」ということに「程度」ということがあるので、ややこしい話になると覚悟しなくてはならない。「そこまでは信じてないぞ。」とか「信じ切っていました。」とか、突然に言われてもお互いに困るはずだ。
     信じる度合いは数値化できないので比べることすらできない。いちいち聞いて、観察して、確かめないと、その程度がつかめない。そうした密着度がなければ成立しないものなのに「信じる」ということを土台にした判断を突きつけられても、面食らうしかないというのが実際のところだろう。「信じる」ということが単なる「思い込み」である場合もある。考えているうちに、その単なる自分勝手な思い込みが「信じる」という尊い行為とすり替わってしまうことさえある。これもまた、愚かしいことだ。
     これらの「信じることの不都合」をわかりあったうえで、「信じる」という大人の行為を発動しなくてはならないこと自体に不都合があるのかもしれない。

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    怪しい広辞苑202「第四版224ページ・薄氷る」

     広辞苑第四版224ページ「薄氷る」の説明の中の漢字。
     説明は「薄く氷る。」とあり、用例が一つ載せられている。これを見出し語として載せるなら、他にも見出し語として載せるべきことばはたくさんありそうだ。
     しかし、問題は説明中の漢字だ。「薄く氷る。」の「氷る」は、残念ながら常用漢字表の音訓表にない。常用漢字は標準だから、絶対に常用漢字表どおりでなければならないという法はない。しかし、利用者の多くは学校で学習する者たちだ。その学校では常用漢字表にしたがって学習を進めることになっているはずだ。つまり、学校のテストでは「氷る」と書くと失点するということだ。
     疑問は、なぜ「凍る」としなかったのかということだ。見出し語の「薄氷る」に合わせたのかもしれないが、それは無用のことだ。利用者のことを考えて、説明においては常用漢字表に基づく表記にしなければ利用者が混乱することになる。
     「薄く凍る。」という説明にしておけば、用例で千載集の和歌が引用されているので、昔は「氷る」という書き方があったのだなと学習することになる。
     これに対して、世の中では「こおる」ということばを常用漢字で書こうとした場合であっても、誤って「氷る」と書いてしまうことが往々にしてある。しかし、広辞苑第四版で「氷る」という漢字の使い方をしているこの説明をみつけたとき、あるいは思い出したときに、やはり「氷る」と書くのが標準的なだと思ってしまうことになる。辞書は標準的なものを示しているという固定観念が利用者にはあるということを忘れてもらっては困る。
     常用漢字についての変更があれば別だが、まだ「凍る」についてはないように思う。学生が利用しても大丈夫なように、漢字の表記については充分に見直してほしい。もちろん、すべてを常用漢字表に基づいて表記してくれと言っているわけではない。そんなことをしたら、これまで培ってきた文字文化が壊れてしまう。説明においては常用漢字を使うという方針にしてほしいというだけだ。
     少なくとも、常用漢字表に「凍る」があって、「氷る」がないという現状では、「凍る」を使ってほしいのだ。「氷る」の方は、見出し語として、そして用例の中で使わなくてはならない。説明はあくまでも「その時の標準」でなされるべきだと思うがどうだろう。

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    10/17/2009

    心の断片206「キーワード」

    「キーワード」

    生きるだの
    死ぬだの
    どうでもいいことを
    真剣に悩む暇などない
    どう生きるだの
    どう死ぬだのと
    どうでもいいことを
    真剣に考える暇などない
    どう生きるべきだの
    どう死ぬべきだのと
    真剣に論ずる暇などない
    何か決めたことに向かって
    ひたすらに
    事をなし続ける
    ただそれだけのことじゃないか
    そのための問題を
    解決していくだけのことじゃないか
    解決しなければ解決するまで
    がんばるしかないじゃないか
    ことごとく失敗しても
    誰かに託せばいいじゃないか
    子供たち未来人にお話ししよう
    祈りのキーワードを伝えよう
    時代をこえて
    いつか実現するための
    見えない起爆剤だ
    千年あとのすごい世界に
    期待しよう
    平安人が夢見たように
    今の世界がやってきたように

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    日々雑感166「信じること、疑うこと」

     自分の目で見たものしか信じないという人がいるけれど、他人からの情報であるからこそ、まずは「信じる」というのが筋だろう。だから、同時に疑う気持ちを同じだけ持っていなくてはならない。
     他人の話だから 当面は「信じる」しかないのだ。つまり、自分の目で確かめたのではないから、「信じる」というレベルで把握せざるを得ないということだ。逆に、その時点で「信じない」とするのは何を根拠にして信じないのだろうかと疑問に思う。
     それはもたらされた情報を情報として受け入れないという姿勢に問題があるだけでなく、情報をもたらした他人を疑うという失礼な行為でしかない。その場で確かめることは困難なので信じるしかないというだけで、だからこそ疑って確かめてみることが重要なことになる。それをその場で表に出したら失礼になるという話だ。
     失礼があったら有力な情報まで今後伝わらなくなってくるという憂き目に遭うだろう。それゆえ情報不足となってしまうことは容易に想像できる。そのせいで、自分が確かめて信じていたものが、実は信じてはいけないものであったと気づくのが遅れることもある。
     まず自分の目や耳、そして感覚を疑うことが大事だ。もちろん、思考パターンもパターンである以上、限定的なはたらきしかしないので、自分の思考パターンが対象に合ったものであるかどうかを疑う必要がある。

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