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    11/28/2006

    怪しい広辞苑58「第四版70ページ・尼子十勇士」

     うーん。第四版70ページ「尼子十勇士」の説明。
     一つ前の項目が「尼子勝久」で、その説明に「尼子氏を再興したが、」とあり、「一五五三 一五七八」とあれば、実在の人物でいつ生まれて何をし、いつ死んだかが分かる。
     しかし、次の「尼子十勇士」の項目で、その説明に「尼子氏の復興に努めた」とあれば、やはり実在の人物と思うのが人情だ。名前は次の通りだ。「山中鹿之助・秋宅庵之介・横道兵庫之介・早川鮎之介・尤道理之介・寺本生死之介・植田早苗之介・深田泥之介・藪中荊之介・小倉鼠之介」うーん。どう見ても適当に付けた名前だ。
     この名前から明らかに実在の人物ではないということがわかってしまうから、敢えて「架空の人物」という説明をしなかったのだろうか。それとも、実在の人物の物語上の名前であると仮定した場合、実在の人物の名前より有名になっているため、敢えて物語上の名前を列記したのか。それとも、実在の人物なのだが、その本名を何らかの理由で公にすることができなかったので、このような名前で伝えようとしたのか。それとも、ちょうど10人とはきりのいい話だから、一部の実在の人物に架空の人物を加えて合計10人にしたのか。
     それにしても実在の人物がいたとして、その業績はともかく名前をどうしてこうしたのだろうか。武勇の誉れ高き10人の立派な武士を語るのに鼠之介とか、泥之介とはいったいどういうことなのだ。まさか本当にそのような名前だったのか。どうみても全部だじゃれ風のふざけたネーミングにしか思えない。少なくとも僕には、おもしろおかしく語るため、あるいは親しみを持たせるためのものとしか思えない。お家再興という忠義心の強い剛の者というイメージが湧いてこない。どういうことなのだろう。敗者ゆえに、勝者から書き換えられた名前なのだろうか。
     もし実在の人物の子孫がいたら、この名前で辞書に載せられるのは実に不名誉なことと思われるのだが、どうだろう。本当に尤道理之介だよ!これはいったいどういう感覚なのだろう。
     ともあれ、実在の人物の「尼子勝久」の項目で「尼子氏を再興したが、」とし、そのすぐ後に、この「尼子十勇士」が「尼子氏の復興に努めた」とあれば、すごく不自然な名前が実在の人物の名前に見えてきてしまい、尼子氏というのは、本当に奇妙な名前の人が頑張ったんだなと思う人がいるかもしれない。ご丁寧に、続く2項目はきちんと生没年が記されている尼子経久と尼子晴久だ。尼子十勇士が全くの作り話だとは思わない。モデルがあったとは想像する。あくまでも問題は説明の仕方だ。
     ここはひとつ「実在の人物も含まれているが、諸説ある」とか、「実在の人物が誰であるかは、諸説ある」とかしたほうがよいように思うが、どうだろう。あまりにも名前が不自然なので、頭から本名ではないと決めてかかってしまったが。どうしてもそう思ってしまう名前なのだ。僕は歴史に疎いのでよく分からないが、よく調べて、どう説明するのが最も好ましいのか、利用者がどういうイメージを持つかということを計算して、適切な言葉を選んでほしい。全員「介」とか「助」が名前の最後にあるという不自然さが苦になる人は、そこから追究の作業をするが、そうでない人もいるからだ。
     これも、お家の復興、再興を「介助」するという洒落のようで、どうにもなんとかしてほしいという気持ちになってしまう。元の名前はもう調べがつかないのだろうか。
     怪しいものは怪しいものと、そのように分かるように書くのがたぶん作法だと思う。でも、今のままだと説明不足で、非常に怪しい項目になってしまっている。こう感じるのは僕だけだろうか。とにかく早川鮎之介だよ!

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    怪しい広辞苑57「第四版69ページ・甘える」

     これは脱字だと思う。第四版69ページ「甘える」の3行目。
     「恥かしく思う」とあるが、僕は学校で「恥ずかしく思う」と習った。つまり、「はずかしい」を漢字で書くときには、送りがなを「ずかしい」とするように習って以来、いまだかつて変更を聞いていない。もしかすると許容されている送り方なのだろうか。
     どうも許容されている書き方ではないらしい。ただの脱字のようだ。第四版で「はずかしい」を調べると、「恥ずかしい」となっている。どうして「甘える」の項目の説明のときだけ「恥かしく」と「ず」を落としてしまったのだろうか。もしかすると、昔は「恥かしい」と書いていたのかもしれない。その訂正し忘れということかもしれない。その「昔」というのがいつの頃か分からない。怪しいことだ。

    11/27/2006

    怪しい広辞苑56「第四版66ページ・油虫」

    <アブラムシよけ植物 画像クリックで説明画面へ>
     説明不足だと思う。第四版66ページ「油虫」の説明。
     「一般に小形で、」とあるが、イラストのスペースで文字のスペースが削られているとはいえ、11行も費やしているのに、体長が書かれていないのはどうしてだろう。油虫=アリマキだが、その説明部分だ。アリマキと言えば、5㎜以下の小さなやつで植物にたくさんくっついているやつだ。ご存じのとおり「数㎜」だ。だったらそう書けばよい。
     しかも、イラストが2㎝四方の面積をとって書いてあるので、「油虫」が異様に拡大されて描かれていることになる。もちろん倍率もスケールも書いてない。しかも、全体の雰囲気は「ゴキブリ」をも思わせる仕上がりだ。これではいろいろな勘違いが起こるだろう。「小形」という曖昧な表現では、この大きなイラストが、あだとなる。
     さて、文に数字がないと、一般的に誤解をされやすい。「明日午後おうかがいます」と言われても、午後は長い。「午後2時ぐらい」をイメージする職種の人もいれば、「午後6時ぐらい」イメージする職種の人もいるだろう。
     こちらが分単位秒単位で動いているかもしれないという配慮は微塵もない。数字を入れても、「明日午後3時過ぎにおうかがいます」と言われてもやはり困る。せめて「明日午後3時から3時半の間におうかがいます」ぐらいにしてほしいものだ。いちばんよいのは「明日午後3時10分頃おうかがいします」だ。「頃」をつけても「10分」ちょうどに顔を出すのがよい。
     地域、職種、年齢によって常識が違うので、数字で合わせないと信用問題になる。しかし、感情は数字で表せないので、気持ちはこちらで勝手にくみ取るということになる。この勝手というのが配慮の本質だ。
     「今、8怒りですぞ」「こちらは5怒りだから貴方の方が3怒り大きいのですね。でも、2分前はこちらが9怒りだったのですよ」等というわけにはいかない。血圧の変化などで怒りを数値化したものを胸のパネルに表示してお互い相手に伝わるようにすると面白い。昔のラブテスターみたいに使ってもよい。ただ、変化が分かるようにグラフ化して表示されるとよいだろう。もちろんグラフ表示モード、数表示による逐次表示モード、ブラインドモード、ユーモア大げさモード、血圧別ミュージックモードなど、各種のモードにチェンジできる。相手と同じモードに合わせるのが新しい礼儀となる。
     しかし、一般社会では「知らぬが仏」ということもあるから、これは余計な情報かもしれない。しかし、ある種の訓練には有効だろう。どういう場合どのような人がどのような言葉にどう反応するかということを経験で知るにはかなりの期間がかかり、犠牲者も出る。なかなか不適切な言葉をかけていることになかなか気づかない。適切だと思いこむような反応すら示すこともあるだろう。少なくともカウンセラーやカウンセリングを行う職種に就く人、あるいは苦情処理に対応する人には不可欠な訓練となるはずだ。 

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    11/26/2006

    怪しい広辞苑55「第四版64ページ・アフタ」

     これは説明の語句が難しい。第四版64ページ「アフタ」の説明。
     専門的でわかりにくい。もちろん詳しいので、一つ一つの言葉をまた調べれば、立派な説明になる。
     しかし、利用するのは我々一般人や学生だ。ここはひとつ説明の最初か、最後に「口内炎」という三文字を付記してほしい。これでおそらくほとんどの日本人が「アフタ」を理解する。辞書は日常的な言葉で説明するのが最もよい。
     説明というのは本当に難しいものだ。相手が目の前にいればまだよい。辞書の場合はそれが見えない。だから、いろいろに分かりやすく説明する努力をしてほしい。それには、利用者の声を聞くことが大事だ。また、辞書を一般人用、学生用、中高生用、小学生用と分けるのが理想だ。すべて作ってほしいなどとは言わない。ターゲット名を辞書名につけるだけだ。例えば「広辞苑第六版(一般人)」とかだ。そうすればあまり分厚くならないかもしれない。「広辞苑第六版(大文字)」これは老眼対策で字が大きくしてある。「広辞苑第六版(小学生)」これはイラストが多くしてある。他にもいっぱい考えられる。市場調査をして売り出せば必ず売れるはずだ。特に「広辞苑第六版(大学受験対策版)」などは贈答品として喜ばれるだろう。大文字版は贈答品には不向きだが、他のものは入学祝い、入社祝いにも贈るような風潮さえ作れば、売り上げの安定化にもつながると思う。

    怪しい広辞苑54「第四版64ページ・アブサン」

     説明不足だと思う。第四版64ページ「アブサン」の説明。
     「ニガヨモギを主な香味料としたリキュール。アルコール分約七〇パーセントの緑色の洋酒。」とだけある。
     アブサンは昨年2005年に解禁になったところだから、実に90年近く禁断の酒として地下で密造酒や偽物が細々と取引されていたことになる。幻覚症状を起こす成分があることが製造販売禁止の原因だ。
     アブサンを数十年前に一度だけ飲んだことがある。バーテンダーのおじさんが「珍しいのいかが」と言うので「おごりなら」と言うと、深緑の液体が底に注がれた小ぶりのグラスをマジックのように出した。素早いのか優雅なのかわからない動きをするものだ。「これが本物」と言われたので、たぶん偽物だと思う。目の前で割ってくれたのだが、牛乳のようになってしまったので少々驚いた。これが伝説のアブサンかとなぜか感心しながら、臭いに癖はあるもののおいしく飲んでしまった。結局おごりだったから偽物だろうけれど、僕にお金がないことも分かっているので、かわいそうに思ってとっておきの「本物」をおごってくれたのかもしれない。今となってはどの街だったかどの店だったのかも覚えていないが、狭くて薄暗い店の壁中に酒が並んでいて記憶の中でその苦みとともに幻想的な風景になっている。
     第四版は、まだアブサンが解禁になっていない時期の辞書だから、「依存性が強い」とか「合法的な酒ではない」とかを付記しないといけないのではないか。また、禁止や解禁は別としても、「水で割ると白濁する」という大きな特徴を記載すべきだと思う。
     アブサンと言えば野球漫画「あぶさん」を思い出す。最近、野球漫画を読んでないなあ。暇になったら第一話からじっくり読んでみてもいいと思っている。「あぶさん」はほんの数話、不連続に読んだことがあるだけだ。でも、第一話から読めるかな?漫画喫茶に行けば一話からそろっているかもしれないなあ。

    恐怖シリーズ93「見えないもの・聞こえないもの」

     夢ではない。夜、目を閉じると見える。内視現象なのか。昨日は数学のテキストだと思う。文字が見たこともない文字で印刷されているけれど、計算スペースが確保してあることや、文字の書かれ具合から、中学1,2年生程度の数学の問題集と解説をあわせた参考書のような体裁のテキストなのだ。見る角度も変えられる。やはり夢なのか。でも、起きあがっても見えているから夢ではない。
     使われている文字は「7」の左右逆の形、「キ」の左右逆の形、「D」を左に90度回転して、底辺となった線の左半分を抜いた形、スラッシュの中程に短い横線のはいる形。スラッシュの2本連続と3本連続の形。その他たくさんの文字があるが覚えていない。あとは二等辺三角形に近い形の底辺を弦とする円。線分の一端から放射状に長短合わせて5~6本ぐらいの線が突き出されている形。文章だけで図形のないものも多い。左ページに2列4段、計8つの問題が書いてある。
     明らかに見開きの左ページに問題。右ページに解説という体裁だ。これを左前方、やや上方から見ている。よく見ようと努力すると見える位置が変わり、文字も明確に見えてくる。紙質まで手に取るように分かる。また、テキストが開かれているので、その左ページと右ページの山なり具合も見える。右ページはほぼ平らで、左ページは少し山なりになっている。
     これは何なのだろう。このテキスト以外に見えるものはないし、見ようとも思わなかった。数学のテキストではないかもしれないが、僕の印象としては限りなくそれに近い。活字のフォントはシンプルで飾り気がない。
     昔お経のように漢字に似た文字がびっしり並んだものをよく見たが、あれはたぶん夢だ。でも、今回のは初めてで、しかも夢ではない。部屋は暗いが寝てからではなく、布団に入る前に見たのだ。目を閉じでも最初はぼうっと明るく、そのうち映像が見えてくるのだ。それで目を開けるのだが、ぼうっとした明るさはまだ暗闇に残っていた。
     心理状態が視覚によってとらえられたのか、ただの目の錯覚か。大きな疑問だ。錯覚にしてはリアルすぎるが、そうしたものもあるかもしれない。生きているといろいろと面白いことがあるものだ。
     僕は幽霊は見えないが、妻は見えるらしい。そこで今年のクリスマスプレゼントは「ばけたん」にした。お化け探知機だ。2000円弱だからユーモア商品に過ぎないと思うけれども、これから行動をともにし、見えたと言ったときに「ばけたん」を操作する。反応があれば、妻を認めることにする。逆に「ばけたん」が反応したときに見回してもらう。発見できたら、「ばけたん」が有効な探知機であると認めてもらう。
     幽霊かどうかの判定は、目がそうよくないので、本来は遠くの人の顔ははっきり分からないのだが、なぜか幽霊の顔ははっきりと分かるそうだ。あとは体が服ごと透けていて向こうの景色も見えるということ。急に見えなくなること。これらのことから判断して幽霊か普通の人かを判定しているという。血だらけの幽霊は見たことがなく、普通の日常生活をしているらしい。また、恐怖感も何も感じさせないという。全くはてなだ。世の中には大病を患ったり、深刻な事故で大怪我をしたりすると、それ以後、見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるということがあるらしい。そうしたことから声だけが聞こえる人といっしょに働いていたことがあるそうで、妻「あら、○○さん。あそこにだれかすわってなかったっけ。」友達「いたと思うよ。話し声がしてたから・・・・・」もちろん誰もいないのだ。この二人の会話が成立してしまうところが恐ろしい。他の人たちは大いに気味悪がったということだ。 
    11/25/2006

    怪しい広辞苑53「第四版64ページ・あばよ」

     諸説ある場合は、諸説ありと記すか、代表的なものを二つ以上記載した方がいい。第四版64ページ「あばよ」の説明。
     「(さあらばよ)からか」とあるが、これだけを挙げておくのは利用者が欲求不満になる。しかも「からか」とくるので、がっかりする。何とか工夫してほしい。言葉が売りの辞書なのだから、利用者の要求に応える書き方をしないと捨てられるおそれがある。語源は面白いけれど、自信なさ過ぎの説明ではかえって説明しない方がいい。
     しかし、「あばよ」に「さあらばよ」という説があるとは迂闊にも気づかなかった。「あんばいよう」は高校の授業で話題になったので、随分古い。「あはばや」はラジオだったかで聴いたような気がする。調べれば他にもまだあるかもしれない。
     「あんばいよう」は、体の按配に気を遣ってね、つまり、「ごきげんよう」といっしょだ。「お達者で」もいっしょの気持ちだ。「あはばや」はまた古い言い方だが、「またあいたいね」ということだから、シーユーアゲイン、中国語の「再見」と同じだ。「じゃあまたね」もいっしょの気持ちだ。「あんばいよう」と「あわばや」の二つの言葉の底には基本的にあたたかい気持ちが流れている。僕は「あばよ」という言葉の響きにもその底に温かい気持ちが流れていると感じるのだが、どうだろう。
     ところが、広辞苑に掲げられた「さあらばよ」は、「さらば」となったり、「さようなら」になったりするというのであれば、何となくしっくりするが、「あばよ」の語源だと言われると、本当かなと思ってしまう。「さあらばよ」が耳慣れないので、時代劇でお馴染みの「さらば」を口に出して何度か言ってみた。これが気のせいかどうしても冷たいのだ。もうあえないのだ。「さ」の「s」が僕の心にしっかりと厳しい一線を引くような感じがする。もちろんこれば僕の個人的な感覚にすぎないのだが、そうしたものは一応大切にしたいと思う。
     語源がどうあれ、どういう社会でどういう人々がどういうつもりで使ったかは次第に変化していって、最初の言葉が持っていた感覚的なものは消滅して、言葉も次々と新しい世代を作っていくから、とにかくこれを記録していかねばならない。それは辞書の役目のはずだ。
     従って、現時点で諸説あるなら、「(さあらばよ、あんばいよう、あはばや等諸説ある)」としてほしい。僕はもっとも簡単に気づきそうな「さあらばよ」に気づかなかったので、授業やラジオ(?)で聴いた2つの説しか知らなかった。それがどうしたと言われれば、取り敢えずは「2つの説が3つになった」と答えるしかない。
     ところで、世の中には「それがどうした」「それがなんだ」を最終兵器のごとき決まり文句として、相手にものを言わせないようにしようという消極的な作戦しかもたない人種がいる。それで相手が黙るのは、言えないのではなく、ただ呆れているからだということに自分自身が気づかないことを前提にしている恥ずかしい作戦だということをいちいち説明しないといけないのが面倒だ。つまり、こちらとしては精神修養になる。修養に励んでいる途中なのだから、途中でやめてもいいし、続けてもいい。
     さらに、「それがどうした」と言われれば、「説が増えたので、検討して妥当なものを決める努力をする」と答えるか、「説が増えたのでますます混乱して分からなくなった」と答えるしかない。また、さらに「それがどうした」と問われたら、「僕の研究課題とした」と答えるか、「分からなくなったというのが、どうしたの答えだよ」と再確認するしかない。どこまで「それがどうした」と聞かれてもきちんと答えればよい。答えに時間がかかれば、答えられるまでつきあってもらえばよい。このように、相手を利用して、自分の進むべき道や自分の状況や曖昧な考えを明らかにしていくことができる。
     しかし、そういう地道な用が済んだら、文字どおり用済みだ。もう邪魔だから「さらば」と言ってお引き取り願おう。間違っても「じゃあまた」と言ってはいけない。もしかすると「じゃまだ」と聞き違えられるおそれがあるからだ。それでもちょっと気が引けるから「あばよ」と言おうか。しかし、これも言葉が人を選ぶ。やはり「さようなら」が無難だろう。

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    日々雑感149「危うい人々」

    さてさて、人はいつも危うい。いつ死んでも不思議ではない。だからこそ、なんとか命のバトンをつなごうともがく。このもがきを人生という。
     もがくために仕事やら何やら雑用が多い。そのうえ、他の動物と比べ、人の日常生活はかなり高等な作業が増えた。最近は普通に暮らしていけるだけでも本当はとても立派なことだと感心されてもいいような時代なのかもしれないと思うことがよくある。
     一方、人は頑張りすぎなのか、行き詰まりを感じたり、生きる意味を見失ったりして、今この瞬間にも命を絶つ人が多くいる。WHOの2001年の統計では、自殺死亡者が百万人、他殺死亡者が自殺の半数、戦争死亡者が他殺の半数だ。不謹慎のそしりを免れないが、この比率は実に興味深い。命知らずの自殺願望者が日本にも年間約三万人いる。死を覚悟している人たちなのだから、どうせ捨てる命だ残される家族や友人たちのために少しでも有効利用してほしいといったらお叱りを受けるだろうか。でも、現況はそれほどのものだということを知ってほしい。
     世界平和のために戦って死ぬとか、国や会社のために働き続けて過労死するとか、臓器移植のドナーとなってから、明日をも知れぬ命で病気と闘っている幼子や家族を守らねばならぬ一心で働き続けている親たちを優先して、彼らの手術日まで待って病院内で自殺するとか、考えてもいいのではないか。そうしたことを真剣に考えれば考えるほど、「やはり自分の命を生き続けよう、どうせ最後は死ぬのだから」という気持ちになり、自殺を踏みとどまるチャンスも生まれてくる。経験者が言うのだから間違いない。
     これはたまたま僕が若者であったとき、たの人と同様にそうだったということに過ぎない。つまり、多くの若者は日常的な感覚として自殺を考えるのが普通だと思うのだ。もちろん日常的に自殺を考えているということではなく、普通の感覚で自殺を考えるということだ。若者は若者自身が思っているほど、自分の命などあまり大事になんか思ってはいない。いつ死んでもいいくらいに思っている。しかし、大人になるにつれ、命を失うのが怖くなる。生きていることの本当の危うさと死ぬことの実際を知るようになるからだ。だから、幼子は命ということすら分からない。本能的に生きようとするだけで、死について客観的にとらえようとすることはない。死を口にしても、死を絵に描いても、それはただ感じたことを知っていることばと、知っている形で表現しているだけだ。大人が考えるようには考えていない。大人の立場からすると、幼子がそのように感じているとは考えるのは、心情としてそぐわないときがあるかもしれないが、感覚としては虫が死んでしまうのと同じレベルであろう。しかし、幼子は大人を見て学習し、次第に感情までが大人レベルになっていく。これは見事なものだ。
     それはさておき、飢え死にしそうなとき、危ない思いをしたとき、若者も人である以上、やはり命を惜しく思うものだ。こうした経験によって、幼子が幼子の段階で周囲の大人から学習することで死に対するイメージを作っていったように、若者は若者の段階で死に対する考え方を築き上げていく。若者は行動的であるにもかかわらず、経験不足による思慮不足が避けられない。結果として危険な思いをすることが多い。だからこそ、死についてよく学ぶことができるのだ。
     当然、そうした経験を積む中で本当に死んでしまう若者も多い。しかし、若者全体の割合からすれば、全く死を学ばない若者がとても少ないように、本当に死んでしまう若者もとても少ない。若者の命には、これから輝くはずの命だけに惜しいと思う気持ちが働く。それで、割合としては少ないかもしれないが、敢えて「多い」ということばを使いたいのだ。
     若者が命を落とすのは、事故が多い。交通事故がその最たるものだ。この点、自動車保険の不担保の条件としての年齢区分はよく計算されている。26歳未満不担保というのは、祖父母がお亡くなりになる年齢だ。つまり、死人を実際に見る初体験をすませているということだ。この年齢を過ぎるまでは事故が多いということなのだ。命知らずのお年頃をすぎ、ちょうど運転になれて小さな事故も起こし終わって慎重になる時期を迎える。そして、結婚による精神的な安定も得て、事故が減る。そういう見込みなのだ。
     危うい人々に近寄らないことが巻き添えを食わないこつだ。しかし、周囲の者は危うい人々には寄り添ってやらねばという本能のような心情が働くようにできている。それが魅力だと勘違いして受け止められたり、その人の価値であるかのごとく感じられたりするのは、やはり命自体がもっている不思議な力なのだろう。

    心の断片64「寝覚め」

    「寝覚め」

    口ずさんだ歌も忘れ
    僕は日陰で疲れている
    遠く小さな太陽は
    少し離れたところをあたため
    そしらぬ顔で通っていく
    着心地の悪い作業着で
    時々足を組みかえるけれど
    水筒やペンチ
    針金の束とばらばらなネジ釘
    どうにも修復できない
    僕の失敗の惨状

    このドーム型の亜空間で
    手製の塔を建てようとする僕
    すべて無理矢理の
    打算なしの
    気持ちだけの
    そうしたあやまち

    遠く幼子の遊ぶ声でいつも目覚める
    ここは僕のいったいどこなんだろう

    怪しい広辞苑52「第四版61ページ・アナトキシン」

     これは脱字だろうか。第四版61ページ「アナトキシン」の1,2行目。
     「ホルムアルデヒド(ホルマリン)を加え、」とあるが、やはり「ホルムアルデヒド」と「ホルマリン」は使い分けた方がいいように思う。「ホルムアルデヒド」のほうは気体だからだ。しかし、中学生が見たら、この書き方だと「ホルムアルデヒド」=「ホルマリン」として記憶してしまう。もちろん、それぞれを辞書で引いたり、本で調べたりすればよいのだが、100%の学生がそうするとは限らない。
     説明のスペースとしては、まだ20字近く余裕があるから、ここは「ホルムアルデヒド水溶液(ホルマリン)を加え、」とするのがよいと思う。しかし、何を使うのかは辞書で分かっても、どう製造するかの実際を知っているわけではないので、何とも言えない。
     ちなみに、「アナトキシン」は「トキソイド」のことだと別の辞書に書いてあったので、広辞苑第四版で「トキソイド」を調べてみると、「ホルマリンを加え、」とだけ書いてあり、「ホルムアルデヒド」は記されていない。ここは双方同じ言い方にすべきだと思う。それよりもどちらか片方に説明をしっかり書き、もう片方は別称の項目名だけを→の次に書くという、これまでどおりのやり方に従えばいいと思うのだが、なぜか「アナトキシン」については「トキソイド」と説明がダブって記されている。これは無駄だ。
     また、「アナトキシン」は毒蛇にかまれた時に使っていたTV番組を見た覚えがあるので、これも「ジフテリア・破傷風などの予防注射や治療に」ではなく、ここへ「蛇の毒」も書き加えてほしい。
     さらに、どうも「アナトキシン」という海藻「アオコ」の神経毒があるという話なので、混乱を避けるためにこれももう一つの意味として記載した方がよいと思う。
     
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    11/23/2006

    心の断片63「明日」

    「明日」

    この雨やめば明日になる
    明日にならない日などない
    折れ曲がるのは誰
    ひび割れるのは誰
    立ちつくしことばなくすのは誰
    ただ生きて生きて
    明日を迎えた者はみな勝ちだ
    泣くも笑うも勝手だが
    この聖なるスタートラインを汚すやつだけは 生かしておけない

    怪しい広辞苑51「第四版61ページ・足末」

     「足末」は「あなすえ」と読むが、用例はこれでよいか。第四版61ページ「足末」の二,三行目の引用。
     「足末」の用例として、「押磐尊(おしわのみこと)の御-僕(やつこ)らま」とある。「-」のところには、項目の「足末」が入ることを示しているので、「押磐尊(おしわのみこと)の御足末僕(やつこ)らま」となる。これでいいのだろうか。
     出典は「顕宗紀」と記されているので、広辞苑第四版と同じ出版社の日本古典文学大系の日本書紀をみると、「御足末」の部分が「御裔」となっている。もちろん「足末」の意味の②では、「子孫、後裔(こうえい)」と説明されているから、意味としては当然間違いないのだが、これでよいのだろうか。
     もちろん別の本では「御足末」と表記されているものがあってそれを採用したということだろう。もしそうでなければ、用例として引用する時に「押磐尊(おしわのみこと)の御裔(みあなすえ)僕(やつこ)らま」とするのが好ましいと思う。その場合、項目の部分を【足末・裔】と併記しておくのがいい。併記してないということは、「御裔」は「みすえ」と読しかよまないということなのだろうか。しかし、それではこの「足末」の項目の出典とするのはふさわしくないということになる。御裔と書いてあったり、御足末と書いてあったりと、二種類のテキストがあるのだろうが、同じ出版社なのだから、底本は統一してほしい。
     また、第四版では、項目の読みである「あなすえ」を「あな-すえ」と表記している。しかし、そうすると、「足末」という漢字から判断して、「足」を「あな」と読み、「末」を「すえ」と読むのだなという了解の仕方をしてしまいがちになる。「足」を「あな」と読むことはないが、「あ」と読むことはあるから、ここは「あ-な-すえ」とすべきかと思うが、どうだろう。意味は「足の末」、末裔という意味を表すのには不自然ではない。すると、「大きなまなこ」の「な」と同じ「な」で、「の」の意味だろう。やはり、「あな-すえ」とはしないで、「あ-な-すえ」としたほうが、語構成を正確に示していると思われる。
     語構成の表示は言葉の本来の意味を知って、新しい言葉の使い方を模索するための素養をもつために必要だと思う。言い表したくても言い表せないことがあるのは不幸なことだ。語構成の作法をたしなんで、新しいことに対する新しい語句の対応を試みるというのは、変化の激しいこれからの世の中では大事なことになってくると思う。外来語に頼るのもよいが、依存してはいけない。思うところを自由に表現するためのすべを少しでも身につけないと、擬音語や擬態語に逃げ、言葉に対する姿勢が幼稚化するおそれもある。あくまでも綱渡りのような歩き方をしていると心がけるべきだ。重大な結末を招くもとは、間違いなくほんのわずかな油断だ。
     「みる」「たい」「も」「ない」つまり、「見たくもない」→「みとうもない」→「みっともない」となっていくのを知るだけでも、他の言葉を見つめる目が変わるはずだ。この語構成を意識する習慣をつける補助として、広辞苑の「-」のマークは重要だと思う。だから、なくさないでほしい。というより、再検討してほしい。
     しかし、これを意識しすぎると、勘違いと思いこみによって混乱が生じる場合もあるから、適度の精度で行うという方針を作って処理していくのがよい。利用するのはあくまでも我々一般人や学生だからだ。

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    突然思い出したこと64「水の飲み方」

     <怖くて読めそうにない本だ 画像クリックで説明画面へ>
     水などは普通にがぶがぶ飲めばよい。しかし、これがお茶やジュースだとがぶがぶ飲むのは下品になる。
     そもそも水を飲むというのはキャンプ場か食堂で出されるかだ。キャンプ場の場合は、アウトドアーなのだから、がぶがぶごくごくと飲むのがふさわしい飲み方だ。食堂で注文前に出される水は口をしめらす程度だ。なぜなら、がぶがぶ飲んでしまうと、食事に影響が出るからだ。また、がぶがぶのんでしまうと、食事中や食後に水を飲みたくなった場合に、また注いでもらわなくてはならないほどに残量が少なくなるから、せめて半分ぐらいは残しておこうということになり、結果としては少しずつ飲むことになる。人を呼んで注いでもらうのが面倒なのだ。しかし、暑い日ならばごくごくぐらいには飲んでもおかしくない。それにあたりでは別の客が既にぱくぱくと食事をしている。水をごくごく飲むぐらいは何も不自然ではない。
     お茶やジュースは、水と違って一つの製品だ。作った人がいる以上、敬意を払う必要がある。水と違って、いただきますという気持ちでありがたく飲む必要がある。つまり、それなりの心構えで飲むから、がぶがぶと飲むことにはならない。しかし、幼い子はそうしたことを意識していないから、がぶがぶと、あるいはごくごくと飲むだろう。
     もちろん、お茶やジュースには味が付いているから、それを味わうためには、がぶがぶごくごくと飲むわけにはいかず、少しずつ飲むことになる。また、お茶やジュースは熱かったり、冷たかったりするので、がぶがぶごくごく飲めず、結果として少しずつ飲むことになるとも言える。
     さて、唯一不自然な水として講演会の水がある。慣れていれば適度に間を作って話すから水など不要だが、ライトに照らされたり、緊張したりすると水がほしくなる人もいる。
     この飲み方が難しい。まず、飲むタイミングをどう作るかだ。次に、聴衆者に断って飲むか、話しながら飲むか、黙って飲むか、水を話題にしながら飲むかの選択だ。次に、片手で飲むか、両手を使って飲むかの選択だ。次に、正面を向いたまま飲むか、横を向いて飲むか、後ろを向いて飲むかの選択だ。後ろなど向かないのが普通だが、パソコン操作やホワイトボードに向かう時などのタイミングとしてはないわけではないだろう。
     残念ながらどのような選択肢を選んでも不作法に見えるのはなぜだろう。それは、水はたった一人だけに用意されたもので、そのたった一人に千人の人々が注目しているという不幸による。しかも自分で注ぐから手酌酒みたいで、それだけで不作法に見える。なみなみ注ぐのも遠慮がないように見えるし、なみなみと注ぐまでの少しの時間が長い時間に感じられるということで、遠慮がちに一口分だけ注いでしまうと、さらなる不幸が待っている。「ファイト一発」みたいに天を仰いで、鼻の穴を聴衆者に見せないと飲めないし、それをはばかって頭を垂直に保てば、どっちを向いてもコップが尖った犬の口のように見えるので、みっともなくなる。これはおじさんがやったとしても、どう見てもみっともないものだ。そんなへまはしなくても、飲むタイミングは難しいだろう。
     やはりトーク番組でも目の前の飲み物に手を出す人はいない。もしかすると、こうした飲み物は、「話は口が渇くまで長時間やらないでね」という意味が込められているかもしれない。聴衆者と講師が一体化していれば、口など渇かない。渇いたのが苦になるのは、話が面白くなくて、聴衆者の反応が悪いからだ。水を飲んでもいいけれど、それは少々みっともないでしょう。目の前の水を飲みたくなった時が、切り上げ時ですよ。こんな意味があるのかもしれない。もちろん水を用意する側は講師への配慮として行っているのだが、配慮の形としてだけ見るべきだろう。何も本当に飲むことはない。
     しかし、生理的にどうしても口が渇いて、話しづらくなることもあるだろう。奥の手を10種類考えることにしよう。①目の前の水を、酢だと想像すると、自然に唾液が出て渇きが癒される。②頭の中で直径5センチぐらいの塩まみれのやわらかい梅干しを想像すると、自然に唾液が出てきて渇きが癒される。③舌の先を犬歯のあたりで小さくかむと、自然に唾液が出てきて渇きが癒される。④舌の先で上の歯茎の裏を左右に往復させたり、歯茎の裏からのどの方に向けてなめ上げたりすると、自然に唾液が出てきて渇きが癒される。⑤唾液の出るつぼを押す。(そんなのあるかな?)⑥ハンカチに塩を仕込んでおいて、顔の汗を拭くと見せかけてなめる。残念6種類しか思いつかない。あとは、「想像」プラス「肉体刺激」の複合技を単独技に加えれば、何とか10種類はクリアーできる。

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    怪しい広辞苑50「第四版61ページ・彼方」

     これは僕の勘違いかもしれない。第四版61ページ「彼方」(あなた)の3、4行目。
     「規準とする時からむこう。特に、以前。」とあるが、ある時を基点としてそれ以前というのだから、規範としての色彩の濃い言葉である「規準」ではなく、「基準」の方がよいように思われるが、どうだろう。
     それはさておき、用例として、源 蓬生「-の年頃は」と、源氏物語の一節を挙げている。末摘花のその後の話だ。末摘花自身よりも、この巻はその周囲の人物の行動が面白い。文学は、ある状況の中で、ある人物がどういう思いを抱いてどう行動し、どういう影響を周囲に与えながら人生を歩んでいくかが語られていないと面白くない。さらに、面白く感じさせるのは、自分がその場に同席しているかのように感じさせる筆力だ。源氏物語と比べると、どの現代文学もこの点においては、かすんでしまうように思う時がある。これは、僕の単純な思い入れのせいかもしれない。といっても強く興味を持っているわけでもないので、源氏物語を最後まで熟読したことなどない。残念ながらあまり根拠のない思い入れというわけだ。
     ただ、源氏物語は、基本的にはただの個人が、執念深く綴り続けた作品のように感じられる。そもそもどうして源氏物語のようなものを書こうと思ったのか分からない。しかし、書いている姿を想像すると、なぜか僕はそら恐ろしくなる。各巻から、後の世に語り継がれる人になりたい、誰にも負けたくないという気持ちが強く伝わってくる。また、そうした執念がないとまず書けるものではないと思う。巻ごとに世に出していったのであろうか。もし、そうなら、出した以上は後で辻褄を合わせるために書き換えるわけにもいかないから、予め計算しておかねばならず、たいへんだったにちがいない。書き損じは残っていないのだろうか。おそらく周囲の評判に聞き耳を立てながら、もっといい物語が書けるのよ、真似できる人などいるはずないよね、いてほしくないのよ、と言わんばかりに筆を進める紫式部が目に浮かぶ。変と言えば変だ。
     さてさて、紫式部が源氏物語と引き替えに手にしたものは何だったのだろうか。ただの名声か?ありふれた自己満足か?それとも作品を介しての人脈だろうか?それもこれも謎、彼方の世界だ。
    11/21/2006

    怪しい広辞苑49「第四版61ページ・穴施行」

     説明不足だと思う。第四版61ページ「穴施行」の説明。
     「餌の少ない寒中、獣への施しとして、狐・狸などの穴に食物を置いてやること。」とあるが、なぜこんな事をするのか理由が書いてない。
     狐も狸も雑食で人里近いところにすんでいるから、餌が少ないと、人の物に手を出す可能性がある。そこで、荒らされないように、被害が出ないように穴施行をするのかもしれない。また、狐も狸もノネズミを捕るから、農林業を営む土地としては狐狸様というわけで、感謝の意を込めて穴施行をするのかもしれない。
     しかし、想像に過ぎない。説明の3行目は、まだ20文字程度余白があるのだから、「・・・・・・のため、」という簡単な説明をつけてもらえないだろうか。それでないと穴施行の意味が分からない。
     つまり、心がわからないのだ。知識ばかりで心が分からないと、意味のない知識になってしまう。このあたりが本末転倒にならないように心がけないといけないのは辞書も同じだと思う。
     ただ、穴施行にお菓子などを使えば病気のもとになる。腹が減れば何でも食べるだろうが、スナック菓子のようなものは体によくない。野生動物まで人間のように虫歯や糖尿病にしてはいけない。彼らには基本的に病院はないのだ。ここは「食物」と書いてあるが、具体的な食べ物の名前にしてほしい。その方が狐や狸の食性や穴施行の実態がわかってよい。

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    怪しい広辞苑48「第四版60ページ・アドレナリン」

     説明不足だと思う。第四版60ページ「アドレナリン」の説明。
     一項目について9行の説明だから、広辞苑としてはかなり言葉を費やして説明しているので分かりやすい。しかし、「交感神経」と「インシュリン」という言葉が説明の中にないのはなぜだろう。
     そのものだけの説明では本当の説明にはならない。辞書の説明も名詞の説明にあっては、分かる範囲で5W1Hを記述することが大事だ。これによって周辺との関係が分かり、その関係においてそのものをとらえることができる。
    11/19/2006

    怪しい広辞苑47「第四版58ページ・アドオン方式」

     経済というものもよく分からないので、教えてほしい。第四版58ページ「アドオン方式」の6行目。
     「実質金利は表面金利より高くなる。」とあるが、この場合は、本当に「実質金利」でいいのだろうか。
     「実質金利」という以上は「実質」なのだから、物価の変化をも反映していないといけないのではないだろうか。もちろん経済学上の定義はあろうが、「実質」も「金利」も特別の語句ではないために、利用者は常識の範囲で「実質金利」の意味をイメージすることになる。
     アドオン方式は、いわゆる借金返済の方式だから、物価の変動は一応無視されているはずだ。そもそもアドオン方式なのだから、完納するまでの期間に返済される分のマイナスを無視しているわけで、貸し手有利なものだけど、インフレ傾向が返済期間中に強まると、返済額に物価を反映させないと、逆に貸し手が不利になる。つまり、「実質金利」でないと不利になるはずだ。
     しかし、広辞苑第四版は「アドオン方式」の説明で「実質金利より表面金利が高くなる」と表現しているから、アドオン方式というのは物価の変化も反映した計算をするのかと思うと、それがどうもそうではない。説明の中で、返済する金額の計算式を「元金に利率と期間を掛けて利息額を計算し、この金利額と元金との合計額」と書いてあるから、この期間の物価の変動は計算に入れていないことになる。
     そうすると、実質とは言いながら、実質ではなくなってしまう。語句から受けるイメージとは違ってしまうのだ。
     お金のことだから、きちんと説明してほしい。経済の問題に限りなく全く無知の世慣れぬ者か、学生が使うことが多いのだから、よく分かるように説明を加えるておくのがよいと思う。どう説明すれば明確なイメージを持てるか、その代案は今ところないが、「実質金利」ではなく、「物価の変動を無視した上での実質的な金利」とでもすればいいのだろうか。どうなのだろうか。よくわからない。

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    心の断片62「二人」

    「二人」

    自分を見つめる自分
    その自分を見つめる自分
    またその自分を見つめる自分ときりがない
    これはきりがないのではない
    見つめる自分と見つめられる自分があるだけだ
    そのように二人いる
    だから、永遠にひとりぼっちにはなれないということだ

    恐怖シリーズ92「吸血鬼」

     ドラキュラ。有名な吸血鬼だ。歴史に出てくるドラキュラ公は血なまぐさく、敵兵を串刺しにして道沿いにさらした。伝説のドラキュラは吸血鬼で人の血を吸い、吸われた者は吸血鬼となる。
     子ども心に対策はあるのだから大丈夫だなんて思っていた。木の杭、銀の弾、太陽光線、ニンニク。銀玉鉄砲なんかはしばらく大事に引き出しに入れておいたものだ。餃子を食べた日の夜は何か安心感があったし、杭とまではいかないが、爪楊枝や割り箸なども心強く思われた。
     ねずみ算式にドラキュラが増え、全人類が吸血鬼になってしまったらどうするのだろうと、心配したことがある。保健の授業で太陽が苦手なら、風邪を引きやすいかもしれないとか、脚気になるんじゃないかとか思ったりしたこともある。
     血液型によっては襲われやすい人がいるかもしれない。蚊に刺されやすい人はO型だと言うけれど本当だろうか。僕はA型だから少しは安心だ。
     首筋に歯を立てるなら、こちらは無抵抗に近くないといけない。相手に心を許しているか、寝ているか、ダメージを受けて動けないときにおそわれたら血を吸われてしまう。それ以外なら何とか抵抗できそうだ。最も避けたいのは金縛り状態のときだ。これは恐怖だ。
     処女の血が好きなら、僕は男だからターゲットではない。これでまた少し安心。処女でなくなる年齢が低年齢化するのは吸血鬼たいさくかもしれない。
     みずから血を捧げる給血期に僕はおそわれる。献血だ。ところで、古くなって要らなくなった血はどうしているのだろう。医療廃棄物?生ゴミ?回り回って何かの生き物に食われているかもしれない。その生き物の肉が自分の口に入ればリサイクルしているということで、それもいいだろう。
     そもそもどの程度捨てているのか知りたいものだ。自分の肉体がむなしく捨てられているのは虚しく寂しいものだ。ミニ戒名でもつけて弔ってやりたい。弔うと言えば、僕の左目も弔ってやりたい。目といってもレンズだけだけど。
     レンズだけの幽霊が出るかもしれない。小さくてわかりにくいが、光が屈折しているだろうから、注意深く見れば発見できるかもしれない。
     
     

    心の断片61「花」

    「花」

    野の花にまさる
    生け花なく
    生け花にまさる
    野の花なし
    花は花
    いのちのかたち