Perfil de どこにいるの?さわやかな日々にFotosBlogListas Herramientas Ayuda
29-11-2007

恐怖シリーズ108「頭の使い方」

 真似すること。それは自分の頭を使わないということだ。
 しかし、何をどの程度真似するかということについては考えなくてはいけない。ところが、お決まりの真似パターンがあれば、何も頭を使わなくてよくなる。これは恐ろしいことだ。
  頭を使わないと頭の働きが悪くなるに違いない。でも、頭を使わないでできることがあれば、頭を使わずにすませ、その分だけ別のことに頭を使うようにすれば よいように思う。しかし、これは偏った頭の使い方になりそうで恐ろしい。しかも、限度を超えると何か危険なことが起こりそうで恐ろしい。
 日常生活については、何も考えずにいろいろと物事を処理できるにこしたことはない。つまり、体は働いているが、頭は働いていない状況が好ましいのかもしれない。
  第一、疲れ方が違う。いちいち考えて物事を処理していたら、時間も労力も無駄になってしまう。つまり、スマートさがなくなってしまうのだ。洗練された仕 草、緻密な動作、軽快な身のこなしなどは反復練習によって成り立っている。反復している間に頭の中に一連のプログラムが組まれていき、オートマチックに処 理がなされていくようになる。考えることなどは次第になくなってくる。
 下手に考えてしまうと、タイミングがずれたり、迷ったり、かえって間違ったりしてしまう。日常生活ではじっくり考えて行動するなどという悠長なことなどやっていられない。1日は24時間単位でサイクルし、しかもそのうち三分の一は意識不明と同様の状態だ。
  それに対して、仕事については職種にもよるが、敢えて考え抜いた方がよいことが多いように思われる。日常生活とは異なり、揺れ動く状況の中で最適な何かを 選択し続けなくてはならないからだ。そうした作業を必要としない仕事に携わる人は、機械に取って代わられる恐れがあるから、自ら付加価値をつけていく道を 歩むようになっていくだろう。
 仕事にはマニュアルかそれに準じた口伝のようなものがあるわけだが、肝心な問題解決の場面にあっては、実際にはマ ニュアルどおりにいかないということが多い。自然に会議が増えることになる。その会議で、確認事項を決定するのも、よりよい方法を選択するのも、アイデア を創出するのも、結局は、変化しうる状況の中でそれらがもつ価値を判断するということであって、十分に頭を使って判断しなくてはならない。
 とこ ろが、何も考えていないと、仕事であっても、知らない間に周囲の真似をしていることがある。もっとも、真似しなくてはいけないときにはその方が都合がよい。ごく自然に同調 すればよいのだ。同調するのは楽しい。それは全体の一部になれるからだ。平等感につつまれ、所属感に満足することになる。ただし、この場合の何も考えてい ないというのは、本当に何も考えていないことを意味する。
 一方、同調しないのは異端であって、何かがおかしいと判断されていくことになる。異端の行動をとるものには何か考えがあって同調できないか、気質的か器質的に同調できないかだ。
  しかし、もう一つの「何も考えていない」がある。これは機械のように何も考えていないということだ。自動的に動いたり、ひらめいたりするのだ。この場合 は、知らない間に周囲の真似をしているというのではなく、考えることなく、ただ状況に忠実に反応しているということになる。ただし、同じような訓練を受け てきた者が近くにいて同時に反応した場合には、はたから見ると、まるで同調しているかのように観察されるだろう。
 確かに、考えている間は主体的であり、周囲に流されることがないということは言える。でも、真似すべき時にはどうか。同調するための情報を得るのに時間がかかり、ことによると手遅れとなることもあり得る。
 日常生活がそうであるように、仕事においても頭を使わないで物事を成し遂げることができるということは、物の見方や解決方法が自分のものになっているということだ。体が反射的に動くことがあるように、頭が反射的にひらめくようになったということだ。
  これは無の境地とも言えるものかもしれない。工夫に工夫を重ね、努力に努力を重ね、悩みに悩んだ結果、たどりついた境地だ。全ての方法が身についているの で、敢えて何も考えることがないという意味だ。不測の事態に見舞われても、だから驚かない、焦らない、恐れない。あらゆる作戦が頭脳にインプットされてい ると同時に、体もオートマチックに動ける状態になるまでトレーニングが積まれているという状態だ。そうした状態では、最も適切な選択肢がひらめきとしてピックアップ される。
 しかし、このように反射的なものの中には、センスと呼んでもらえるものもあれば、クセと呼ばれてしまうものもある。それはかまわない方がよい。軌道修正することなど困難だ。大事なのは、それをどのように自覚しているかどうかということだ。
 どちらにしても、センスやクセの段階で終わってしまえば何も形をなさず、面白がられたり、感心されたりするだけで、ほとんど意味のないものになってしまう。 行動の第一歩を踏み出さねば、価値は生まれず、たいした評価もなされない。
  たいした評価もなされないから、他人へ影響を与えることができない。他人へ影響を与えることができないとなると、今度は自分という人間の評価の方が下がってい くことになる。その結果、いろいろな代償行為にはしるようになる。
 代償行為の中で頭を使うようになるので、ぼけ防止にはなるだろう。しか し、それゆえにそのレベルに安住することになって、なかなかそこから脱出できない人々も出てくる可能性がある。
 頭の使い方というのは考えるだけで恐ろしい。
27-11-2007

変な疑問77「湯たんぽの形」

   
 冬がやってくる。足が冷えるということで寝られないということはないが、去年は湯たんぽを使ってみた。心地よい。

 ところで、波打つあの蛇腹風デザインにはどのような意味があるのだろう。
①外力に耐えるため……寝ている間、湯たんぽの上に足が乗ったり、蹴られたりするので、自動車のボディーと同じように曲げをいれて丈夫にする必要がある。
②敷き布団の上で滑りにくくするため……寝ている間、少し脚が当たっただけで位置が変わってしまい、ベストポジションを維持できなくなってしまうので、自動車のタイヤの溝と同じようにして、滑りにくくする必要がある。
③十分な表面積を確保するため……お湯の熱が効率よく周囲に伝わるようにするため、自動車の空冷エンジンのフィンと同じようにして、放熱する表面積を十分に確保する必要がある。
④安全性を高めるため……湯たんぽにお湯を入れたり、布袋等に入れたりするとき、手が滑って怪我をする可能性があるので、自動車のハンドルと同じようにして、蛇腹の溝で滑りにくくする必要がある。
⑤形を維持するため……お湯を中途半端に入れた場合、冷えていくと圧力が低くなり、変形しやすくなるので、蛇腹のような形でアーチをつくって丈夫な構造にする必要がある。
⑥ほどよい刺激とするため……熱い部分が広く皮膚に当たると、刺激が強かったり、やけどする危険性もあるので、蛇腹の盛り上がったところだけが、足の裏などに部分的に当たるようにして、ほどよい刺激にする必要がある。
⑦最後まで熱を利用するため……湯たんぽが次第に冷えてきたとき、直接足の裏を当てて最後の熱まで利用したいので、熱をもらう面積を増やすため、足の指が蛇腹の溝に少し入り込む程度にくぼんでいる必要がある。
⑧ツボを刺激するため……湯たんぽとしてではなく、湯を入れず枕として使うとき、よりリラックスできるように、蛇腹の筋が首筋のツボを刺激する程度に出っ張っている必要がある。
 ⑨と⑩は残念ながら思いつかない。
 それにしても、こうして湯たんぽを見ていると、妙な想像が働いてくる。たとえば、もしかすると湯たんぽはお湯を入れる仕掛けをもった人形であったのではなかろうかというような……。
 寒い夜に抱いて寝る抱き人形だ。現在の湯たんぽの形は頭も手足も取り去った後の仕掛けだけだと考える。すると、あの蛇腹風の形状があばら骨のように見えてくる。
 しかし、あばら骨の浮き出た抱き人形など薄気味悪い。やはり、手足を取り去って、足もとに置くようになってから浮き出てきたものだとするのが普通の想像の仕方だろう。布団の中の僕はさながら餓鬼を踏みつける仁王像というわけだ。
 さて、本当に湯たんぽの本来の姿というものなどあるものなのだろうか。トタンやプラスチックのなかった時代はどうだろう。陶製や木製のものだろうか。すると、ますます人形めいてくる。
 擬人化するというのは楽しいものだ。ディズニーワールドの動物の擬人化にはどのような意味があるのか分からないが、日本人は物を擬人化する。商品名に「……君」などとつけたりするのを見るにつけ、現代日本人は寂しいんだろうなあと思ってしまう。

  <「ネコ型」と「てのひらサイズ」こんなかわいい湯たんぽなら夏でも飾っておけそう 画像クリックで説明画面へ>

日々雑感219「星の名前」

 そろそろ地球人も、「地球」などという「泥団子」みたいな名前をやめたらよい。地星というのはどうだろう。でも、水っぽいから、水星かな。そうすると水星の呼び方も変えないといけない。それは面倒だ。では、海星といったらどうか。しかし、海王星の子分みたいな感じがするのでやめよう。人住み星はどうか。しかし、それはあまりにもおこがましいので、生物星がいいかもしれない。でも、「なまものぼし」と読みまちがえる子どもが出てきそうだ。では、青星はどうか。しかし、生活していて、青色だという実感はない。青いのは空の方だ。雷星ではどうか。雷はずいぶんと発生しているように思う。……。
 星の名前を考えるのはなかなか難しい。
26-11-2007

変な疑問76「寝言」

 失語症や失声症の人は寝言なら話せるのだろうか。ストレス等が原因で失声症になるのだから、睡眠中はリラックスしているため、寝言で発語できるかもしれない。失語症のように脳に障害がある場合は寝言も無理かもしれないが、もしかすると別ルートで発語できるかもしれない。
 こうしたときに、その寝言に対してどのような返事をしていくかを配慮することによって、症状が改善するかもしれない。ストレスの原因を除去するのが基本だろうが、いろいろと試みてよいことはたくさんあるだろうと思う。もちろん本人の許可が必要だろう。
 ところで、薬を使ったり、力を加えたり、切除したり、機械とつないだりというようなことには決まりがあるのだろうが、そうした医療行為以外の医療行為にはどのような制限があるのだろうか。
 寝言に返事をしてはいけないということを少年時代に母から聞いたことがある。それはいったい何を根拠にしているのだろうか。ただの言い伝えなのだろうか。それとも個人的な経験なのだろうか。
 ところで、寝言には、明確な言語として発語される場合と、言語にならない意味不明の発語である場合とがある。もちろん、最初は明確でも途中から何を言っているのか分からなくなる場合もある。それはどうしてだろう。
 明確な言語として発語される場合でも、長いセンテンスにはならない。これはどうしてだろう。また、寝言に返事をして会話することも、ある程度可能な場合がある。これは聞こえているということだから、自分の寝言も聞こえているはずだ。自分の寝言を聞いて、それに寝言を続けることができるだろうか。こうした寝言思考を記録できたら面白そうだ。
 目覚まし時計のベルで起きるのだから、やはり寝ていても音が聞こえているはずだ。それでは、音楽を聴かせていたらどうだろう。それに合わせて寝言で歌うかもしれない。
 ところで、寝タイプというのはあるだろうか。指がキーボードを叩くのだ。でも、これはどのキーを叩いているかの見極めが難しそうだ。
 本当の意味での寝たばこはあるだろうか。寝ていて突然たばこを取り出し火をつける。真の寝たばこはずいぶんと恐ろしい。

★ホームページに戻る
25-11-2007

恐怖シリーズ107「島国」

 子泣き爺という妖怪がいる。モデルは赤ちゃん返りしたお爺さんだろうか。泣いてどんどん重くなるというが、確かにお爺さんが赤ちゃんのようになってだだを こねて泣き出して動かなくなったら、さぞ重かろう。世間の荒波を孤立無援で乗り切ってきた男のなれの果てがこれだとすると、悲しくもあるが、いとおしくもある。
  砂かけ婆という妖怪がいる。モデルは迷惑お婆さんだろうか。大きな音を立てたり、わめいたりするお婆さんは、時々テレビでも話題になる。近所の迷惑をかえ りみずに、自分の都合だけで腹を立て、周囲に攻撃的になるのは女性に多いのだろうか。自分を責めればあまりにも惨めなことが分かっているがゆえに、筋違い だとは知りつつ、責任転嫁をすることに長けていった自分にも、きっと腹を立てているに違いない。だから、石を投げつけるのではなく、砂をかけるのだ。
  妖怪扱いすれば、人扱いしなくてもすむ。人扱いするからこそ、周囲は悲しくなる。明るくさわやかに過ごすには、妖怪扱いして、仕方ないなあと笑って受け入 れるのが賢いというのだろう。 日本人はかくも優しくあたたかい。でも、それはなぜだろう。優しくあたたかくならざるを得なかった厳しく過酷な状況をくぐり抜けて きたということだろうか。
 つい最近まで、多くの国では血で血を洗うような内戦を繰り返してきた。内戦が一段落すると別の戦いを始めた。
 そのスタイルは、島国タイプと半島タイプと内陸タイプに分かれるのではないかと思う。
島国はその過程で小さなステップを踏まない。内陸の国は接する国が数か国だけれども、島国は海を隔てているものの海の向こうには数多くの国がある。また、島国は内陸の国と違ってその接する国に同胞はいない。そして、相手は選び放題だ。
  しかし、一方では、島国は檻に閉じこめられているネズミだとも言える。小さな船の中にいるネズミと言ってもいい。さて、そのネズミにはどのような運命が課 せられているか。決して外へは逃げられない過酷な運命をたどる。相哀れんだり、八方美人になったりして凌ぐことを専らとするに違いない。英国も島国だが、 英国には新大陸があったので、日本とは条件が異なるので、また少し違う運命を課せられていたに違いない。
 ともあれ、海軍を持つ前は、そうしたネ ズミにすぎなかったはずの日本だったと思う。日本人の根底の一つにある優しさやあたたかさが、そうした地理的な条件に根ざしているものだとするのは、見当 外れだろうか。もし見当外れでなければ、その笑顔の後ろにある歪んだものが、何やらとても恐ろしく思われる。

変な疑問75「一人称」

 中国語かと思ったら、日本語だった。テレビのニュース番組のインタビューで田舎のおばあさんが話しているのを聞いてそう思ってしまったのだ。音量が低く、おばあさんが早口だったこともあり、内容は分からない。すぐに場面も変わってしまったので、どこの地域の何のインタビューかも分からない。
 音量が低かったため、発音は分からず、イントネーションだけが分かったのだが、とても日本語だとは思われなかった。おばあさんの顔を見て、日本人かもしれないと思ってよく聞いてみると、最後は日本語として聞き取れた。
 この中で、不思議に思われたのが、「わし」という言葉だ。言葉の流れの中で、おばあさんが自分のことを「わし」と言っている部分は、どうにも耳には「我是」なのだ。どの地域のおばあさんなのだろう。
 言うまでもなく、「我是……」といえば、「wo shi……」だ。「wo」は第三声で、「shi」は軽声となる。このイントネーションは中国語のままだ。不思議だ。
 「わし」という一人称は、平仮名で書くと「わし」だが、あのおばあさんの「わし」は、無理矢理に片仮名にすると、「ウオシ」だ。正確に書こうとすると、「ウォシ」になる。
 画面から消えたおばあさんの「ウォシ」を繰り返し頭の中で再現しているうちに、特に第三声を意識して発音すると、「ウワヌシ」というように「ヌ」という発音が幻聴のように聞こえてくる。これは単純化すると、「オヌシ」とか「ワヌシ」とか聞こえる。このようにないはずの発音が、前後の発音やイントネーションの関係で、幻聴のように聞こえるてくるような現象は何と呼ばれているのだろうか。
 ところで、「オヌシ」と言えば、「御主」という漢字を当てがわれている「おぬし」がある。「ワヌシ」と言えば、「和主」という漢字を当てがわれている「わぬし」がある。「和主」は「吾主」とも書く。
 「御主」と「和主」は二人称として使われている。しかし、「和主」のもう一つの表記である「吾主」の「吾」はどうにも一人称の「吾」だ。
 この一人称と二人称の混同は何だろう。時代劇で「おのれ!」と言って斬りかかる侍は、なぜ「おのれ」という自分を指し示す言葉を、相手に投げかけるのであろう。小さな男の子に、「これは僕のかな?」と言うとき「僕」はその男の子のことだ。これはなぜだろう。
 「自分のことは自分でやれ」という言葉を相手に投げかけることにヒントがある。これは相手に対して言っている「自分」だから、「自分」は「相手」のこととなる。従って、単語としての「自分」は一人称だが、この文脈の中での「自分」は「相手」のことだから二人称的に使用されたということになる。この「二人称的自分」が一人歩きをして、二人称としての「自分」が成立していくことになるのだろう。
 これと同様のことが起こった結果、「吾主」「和主」「御主」が二人称になったという可能性はないだろうか。つまり、たいへん乱暴だが、これら二人称の前身は「我(是)」という中国語の一人称だったかもしれないという想像をしてしまったのだ。かろうじて「吾」がその名残を示しているというわけだ。もっとも、今どき「わぬし」などという日本語を操る人はいるはずもない。
 しかし、待て。あのインタビューされていたおばあさんの地区ではわからない。どのような地区にどのような日本語の古い形が残されていて、それが日本語と中国語の関係を解きほぐす材料になるやもしれぬ。
 想像はさておき、日本語のように一人称や二人称にたくさんの言い方がある言語はいったいどのような文化をもっている人々によって紡ぎ出されたというのだろうか。

★ホームページに戻る
24-11-2007

心の断片113「恋のプロフィール」

「恋のプロフィール」

恋は「来い」
恋しい人よここへ来い
だから二人は離ればなれがよい

恋は「濃い」
二人で過ごす時は濃い
だから二人は知らぬ同士がよい

恋は「請い」
請い求めたらきりもなく
やがて目覚めて別の恋
だから二人はわがまま同士がよい

若者は
愛しい人に巡り会う
その確率を高めよう
動き 話し 試し合う
来い 濃い 請い
それが恋

だから
恋はこみあげるもの
恋は応えるもの
恋は求めるもの

そして うつろにかがやくもの





23-11-2007

幻想3「ただ者ではない」

 ただ者ではない。そうした者にまだ会えたことがない。ただ者でない者は、おそらく10㎞先からその存在が分かる。街が揺らぐ、人が走る、犬の遠吠えが前夜から始まる。
 ただ者でない者は、歴史や世界の裏表を越えたところに君臨している。存在が言葉で、言葉は光だ。ただ者でない者は、僕たちとかかわりを持っていない。かかわりを持っていないのに、ただならぬかかわりを持っている。
 ただ者ではない。そうした者の姿も声もまだ聞いたことがない。神ではないが、人間や生き物を越えた者。そうした者が確かにいる。確かにいると感じるが、まだ会えたことはない。
 ただの幻想なのだが、このように感じる自分が何となく怖い。

心の断片112「あいさつ」

「あいさつ」

どんな道を歩いてきた
これまで何を見てきた
小さな野望と希望の区別もなく
ただひたすらに
生きることに疲れはしないか

ポケットにコインはあるか
手帳にメモはあるか
自分の目や手で確かめることもなく
今という時を
どうして胸で受けとめられるものか

心の断片111「今日から」

「今日から」

もう泣かなくてよい
うずくまらなくてよい
怒りも忍耐も
もう必要ではない

ただ立ちあがればよい
声を上げればよい
築き上げてきたものを
堂々と冷ややかに推し進めればよい

人生甘くはないぞと言う者へ
世の中厳しいぞと言う者へ
思い通りになりえぬものを
思い通りにしていくのが
ただ面白いだけだと言ってやれ

21-11-2007

日々雑感218「御破算」

 思いつくことは誰でもできる。しかし、実現することは誰にでもできるというものではない。頭の中では0.1秒で思いついても、実現するには10年、20 年かかることがざらにある。一生かかってもできないことも多く、普通は後生に道を譲ることになる。これを悔しく思い、譲ることなく、その道が費えることす らある。それゆえ、言わぬことがある。これも広い意味での不言実行だろう。
 どのような意味合いでの不言実行も、まるで不意打ちのように大なり小なり周囲に混乱を招くことがある。また、責任回避の道を残しているようでずるく、嫌らしさを感じることもある。その反面、立派だと感じさせられることもある。
  言えば調整も協力できることも出てくるから具合がよいことが多い。しかし、言わないことによって、結果として連絡不徹底となり、よしにつけ、あしきにつ け、その行動の後始末をしなくてはならぬ人が必ず出てくる。こうしたことを、たぶん「不言実行」の人は知らないで一生を過ごすのだろう。
 たとえ実行に至るまでの判断が間違っていなくても、長期的に見ると実行しない方がよいことは意外と多い。協議、議論することを避けた結果、迷惑という名のひとりよがりの善行が、大手を振ってまかり通ることになる。
 民主主義とはまず話し合うことからスタートするものであったはずだが、この基本がないがしろにされても、善行であることが多いため、帳消しになってしまうのだ。これはよろしくない。
  言わないのだから、責任はなく、途中でやめても何か言われる筋合いはないという気持ちがどこかに働いてはいないか。実際に、うまく実行できたときにだけ誰 かに認められれば、褒めてもらえる。そういう甘い体験を過去に経験しているのだろうか。だが、その気まぐれにより、途中でやめられて困る人が想像以上にい ることを、たぶん「不言実行」の人は知らないで一生を過ごすのだろう。
 気まぐれどころか、忘れてしまうことさえある。これは言わないことによってフォローが受けられないことがあるからだろうか。言わないことによる気軽さからだろうか。
 また、実行すれば言わなくても分かってくれるという甘えがあることは勘違いされるもとだ。本当の趣旨が周囲に理解されず、そのために勘違いして嫌な思いをする人がいるということも、たぶん「不言実行」の人は知らないで一生を過ごすのだろう。
 確かに、何度か不言実行を重ねているうちに、そのうちの幾つかが認められて褒められたり、評価が高くなったりする。しかし、そのことを待っているのではないかという下種の勘ぐりが働かざるをえないような状況のときには、どうしても嫌らしさを感じる。
 認められることを待っていないと周囲が判断できる状況である場合には、逆に立派な態度だと評価されることになる。そのようにいろいろに感じている人がいることを、たぶん「不言実行」の人は知らないで一生を過ごすのだろう。
 このように、不言実行の人は、実行の人であるがゆえに偉い人であるにもかかわらず、お気楽な人であることから逃れにくい。
  次に困るのは、実行した後で言う人だ。先に言ってくれたらどんなによいか。善意でやってくれたのだから、やり直してくれとも言えない。やらなくてもよかっ たのにとも言えない。そうと分かっていて、後で言うということはどういう了見なのだろうか。事後報告でよいというのは、そもそも誰が決めるべきことなのか を、もしかすると分かっていないのかもしれない。
 やむにやまれぬ事情があって事後報告とせざるを得ない場合もあるが、そうでない場合は、恩着せがましく思われたり、迷惑であったりすることもあるということを、たぶんそうした「半・不言実行」の人は一生知らずに過ごす。
 このように、美徳と思われがちな「不言実行」も時と場合によっては困ったことになる。従って、最も罪なのは、その時と場合をわきまえていると思いこんでいるということだろう。
 自由自在に生きるには、美徳の定説に由来する固定した見方を一度御破算にしてみるのが最も効率がよいかもしれない。


18-11-2007

心の断片110「ちから」

「ちから」

やむにやまれぬ力で結ばれた
おさまりはついたが気まぐれに別の力が働き始めた
やむにやまれぬ力で引き裂かれた
おさまりはついたが美しい傷跡が残った

やむにやまれぬものではなかったはずが
やむにやまれぬものとなったのは
いったいどういうわけなのだろう




日々雑感217「自殺は実に厄介で面倒だ」

 自殺にはいろいろある。どうせ生き物は死ぬのだから、僕は自殺はしないだろうと思う。
 自殺しなくとも、体細胞はどんどん死んでいる。皮膚や爪や毛やその他いろいろなものが、体から失われていく。これらは再生するが、脳細胞はどんどん死滅していき、再び増えることはないという。
 しかし、記憶というものは残りやすい。もちろん消滅することもあるが、突然思い出されることもある。しかも間違って記憶されることすらあるので、実に曖昧なものだが、これに従って人は行動を決めているのだから、危ういことこの上ない。
  それはともかく、このように生きるということは死ぬことを繰り返し、生まれ変わることを繰り返していることのようにみえる。たとえ体全体が死んでも、子どもを残していれば、そこへ生まれ 変わっているともいえる。
 人間の場合は、子どもを生んでから生き残っている期間が長すぎるので、勘違いしている場合が多いけれど、子どもが生まれたらそれ で用済みの親が自然界にはたくさんいる。この場合は、命をバトンタッチしたぞという実感が強いだろうが、魚や虫にそのような感情が芽生えるものかどうかは分からない。
 さて、人間の場合はバトンをどこへやってしまったのだろ うか。子どもを生んで育てる前に自殺する者がいる。
 自殺予防は記憶をなくすことだろうと思う。本来の記憶をなくして新しく用意された記憶を学習 すればよい。そうしないと、それまでにかかった労力や費用が自殺によって無駄になってしまう。これは親の命の無駄遣いということだ。自殺は自分の命だけで はなく、親の命を無にし、自分が生んで育てるはずであった未来の子どもたちの命を絶つことになる。自殺の罪と言うのはそういうところにあるのだと思う。
  自分が死ぬほどつらくても、自分の子どもが少しでも幸せになれば、自分の命の役割を果たしたことになるはずだ。だから、自殺はいけない。自分の子どもが自 分のために不幸せになっていっても最後まで望みを捨てずに努力することが美しい生き方であり、誇れる生き方であると思う。
 しかし、どうしても自殺したい人がいる。自殺にもルールやマナーがあると思う。さて、どのようなものだろうか考えてみる。
①葬式代は自分で用意し、業者との打ち合わせも済ませておくなど、段取りをつけておくこと。
②社会に貢献するため、できるだけ過労死を選ぶこと。
③扶養者がいる場合には自殺をしないこと。
④遺体の後始末等で処理する人が吐き気を催すような自殺方法をとらないこと。
⑤他人を巻き込んで怪我をさせたり命を奪ったりする可能性があるような自殺方法をとらないこと。
⑥遺言状をととのえ、残された関係者にトラブルが起きないように細心の注意を払うこと。
⑦捜索や遺体回収に費用がかからないように配慮すること。
⑧内臓の移植手術、入手困難な血液等を待ち望んでいる人がたくさんいるので、最低限ドナー登録をしておくだけでなく、予め生存中に移植用としてできる限り内臓を使ってもらうこと。
⑨自殺報道によって後追い自殺やつられて自殺するものもいるので、報道されぬような地味な自殺にすること。
⑩命にかかわる仕事やボランティアを社会のために派手に行って報道を促し、生きているものに感動を与えつつ、命を失うこと。
 これらは、本当に自殺を考えている人からすれば、ふざけるなという感想を持つ人と確かにそのとおりだという感想を持つ人に分かれる。
 しかし、毎年3万人近い人が自殺する社会になっているのだから、これを減らすことを考えなければ国家の大きな損失、つまり未来の国民一人一人から恨みを買う行為として自殺が位置づけられることになっていくのだ。
  自殺希望者に、内臓が手に入らぬまま無念に死んでいく人たちの懊悩が聞こえるだろうか。家族のため、世の中のために歯をくいしばってもやり遂げねばならな いことが山ほど残っているのに、死んでいかざるを得ない人たちがいったいどれだけいるかを自分で一度調べてみればよい。もし、あの世というものがあって、 そこで会えば死ぬまで責められるに違いない。もう死んでいるのだから、死ぬまでと言うのはおかしい。生まれるまでと言えばよいのだろうか。
 で は、生まれ変わるという考えがない宗教を信じている人はどうなるのだろう。天国に行こうが地獄に行こうが、そういう人たちがたくさんいて自殺者たちは責め られ続けるということなのだろうか。天国で責められるということはないはずだから、結局自殺者は地獄におちるということなのだろうか。
 あるかどうか分からないあの世のことよりも、支える価値のない社会だからこそ、変えていかねばならないという切実な現実をどうにかするためには、みんなに生き続けていてもらわねばならないのだ。抜け駆けは許されない。
 しかし、病気を苦に自殺する、事故の後遺症を苦に自殺する、いじめを苦に自殺する、抗議のために自殺する、何か不安があって衝動的に自殺するなど、いろいろな原因が自殺にはある。
  これは本人でないとわからない。自殺を考えたことのない人などいないと予想するが、どうだろう。他人には何でもないことが本人には大問題であり、死を考え るということもある。しかし、他人には何でもないようなことで命を捨てることのばからしさに次第に気づいていき、考え方を変えることになる。
 と ころで、自殺権という言葉はあるべきものなのだろうか。もし、あるべきものなら、生き物である以上、子どもを産んで育て上げて後にやっと得るものでなけれ ば基本的に認められないものとすべきだろう。義務を果たしてこその権利だが、①から⑩までのルールやマナーの中で義務とした方がよい項目がいくつかありそ うな気がする。
 自殺幇助の問題や自殺の強要についての問題もある。命というものが軽く扱われているのだ。いつからどういうわけで命が軽く扱われるようになったのだろうか。心当たりはたくさんがあるが、たぶんものすごい勢いで否定する人たちがいるにちがいない。

★ホームページに戻る

<こんな自殺もあった 画像クリックで説明画面へ>

変な疑問74「差別用語としての気違い」

 「気違い」という言葉は死語になった。その理由は精神に変調を来した人に対する差別用語として認定されたからだ。
 しかし、精神障害者という言い方よりも、気違いの方が優しい言い方ではないだろうか。何しろ精神に「障害」があるというのではなく、気が「違っていること」と言っているのだ。
 「みんな違って、みんないい。」という考え方が最もよいとされているのではなかったか。「障害」などとはもってのほかだとは思わないか。ただ、みんなと「気」が違っているだけなのに、それが差別だとはおかしいではないか。
 違っているのがそんなにおかしいのか。考え方や反応の仕方が違っているのはいけないことなのだろうか。それを「障害」というのは差別ではないだろうか。
 もっとも、「障害」という言葉を使わないと治療する理由がないので、そのように言う必要があるのだろう。ただ「違っている」だけでは治療する必要は認められないのだと思う。
 このように屁理屈を言う人はどこかにいないだろうか。しかし、よく考えてみると、あながち屁理屈でもないようにも思う。
 そういえば「釣りキチ三平」という漫画があった。これは釣り気違い三平ということだろう。これは比喩的に用いられているということと、「気違い」ではなく「キチ」と省略されているから、認められた言い方となっているのだろう。厳密に言えば、差別用語である「気違い」を想起させるから、禁止されるべき表現になるといわれても仕方ない。しかし、語感としての「キチ」は「吉」や「機知」に通ずることもあるから、プラスのイメージも持ちやすいとは言えそうだ。
 さて、障害のある人に対して「気違い」というのは、思いやりの気持ちからだったに相違ないと思うのだが、「気違い」という語句の成り立ちが忘れられ、「キチガイ」という一つの言葉として意識されたとき、「狂人」というイメージを表現するようになってしまったのだろうか。
 もしそうなら、「気違い」は差別用語にされても仕方がない。しかし、そうすると、「精神障害者」という屈辱的な表現がよしとされることになっていく。「痴呆症」は「認知症」と言い換えられるようになったが、「精神障害者」という言い方ははどうだろう。個人的には受け入れがたいのだ。そのように感じる感性などは多数決で踏みにじられることはわかっている。だが、どうにも認めがたいのだ。
 しかし、やはり言葉である以上は、個人の感覚が優先されるものではない。そうしたものが価値を持ったものとして公に評価されるのは、詩人などの文学者に限定されてしまう。
 こうしたことから、 この「精神障害者」を「気違い」にもどすのは現段階の一般的な人々の意識のあり方では不可能だ。差別する言い方に戻すという意識しか持てない人がほとんどだろう。僕自身も「気違い」では嫌だなと思うところもある。
 他の言い方はないものだろうか。よくある手だが、英語に直して、アルファベットの頭文字にするのが、日本人にとってはよいかもしれない。
 逆に、諸外国で日本語に直してこうした問題を解決しているところもあるかもしれない。さて、実際にはどうだろう。
<時代の流れで差別用語も変化するはず 画像クリックで説明画面へ>
16-11-2007

恐怖シリーズ106「覚悟というもの」

 「肉を切らせて骨を断つ」とはよく聞かれる言葉だが、「骨を断たせて命をとる」という言葉はあるだろうか。そういう覚悟が相手にあれば、実に恐ろしい。相手の方が一枚上だったというわけだ。
 では、その上はあるだろうか。「骨を断たせて命を取る」という覚悟よりも一枚上であることは難しいように思われる。だが、「命を取らせて恨みを買わす」ということはあるかもしれない。自分は死ぬまでの一時の苦しみ、相手は生涯の苦しみというわけだ。これは心底恐ろしい。
 「命を取らせて思いを通す」ということもあるかもしれない。自分の命を捨てても自分の思いを通すなら、それで本望だというわけだ。これは美しくも恐ろしい。
 ところで、肉を切れば出血し、筋肉や腱が使い物にならなくなり、ほぼ戦闘不能になる。骨の場合は、戦闘不能が確定したといってよい重大なことが身体に起こる。しかし、この両者が相手同士であるからこそ「肉を切らせて骨を断つ」という道理が成立するのであって、通常は必ず補助する者がいるゆえに、この道理は成立しない。
 実際には、その補助する者がどのタイミングでどのように助勢するかということによって勝敗が決まる。勝敗ということだけに注目すると、つまるところ助太刀の多さと技術の高さとチームワークの高さの問題にすぎない。
 勝負がついたとしても、両者とも重傷を負うことになるのは免れない。重傷の程度が違うということだけで、本当に勝ったと言えるのだろうか。誰もこの二人に関わらねば、最悪の場合、二人とものたれ死ぬ可能性がある。勝負がついても自己満足にすぎないということだ。結局は両者とも人生を失うおそれが十分にある。
 覚悟としては「命を取らせて思いを通す」が最大のように見える。確かに侍の覚悟としては価値を見いだせそうな気もする。その立場から見れば、何も失わずに思いを通そうとする姿勢は無様で腑抜けで最も醜く映るに違いない。
 しかし、何も失わずに思いを通すということは、最も合理的なことであろう。銃弾に日本刀で立ち向かう侍は、最高の死に方であると思っているかもしれない。「貴様らにこんな死に方ができるか。できはしまい。」というわけだ。だが、銃弾を放つ方は、どうしてあのような犬死にを選ぶのであろうかと不気味に思うに違いない。「死んで花実が咲くものか」ということだ。
 ところで、日本刀は銃弾に勝てるのかという実験がある。もちろん人間の命のやりとりということではなく、日本刀と銃弾の強度の問題だ。
 「銃弾VS日本刀」とか「日本刀VSマシンガン」というタイトルでYOUTUBEに流れている。ピストルと日本刀では、ピストルの弾丸は真っ二つに割れ、刃こぼれ一つなかった。秒速約900mで速射されるマシンガンでは、同じ場所を極めて短時間に連続で撃たれるためか、6発までは弾丸を斬りながらも、7発目で折れた。
 実験を見る限りでは、うまく斬れば弾丸は二つに斬られて飛ぶ方向が変わるため、半身になって構えていれば弾丸は当たらない。日本刀は特別なものではなく一般的な100万円以下のもののようだ。実戦ではもちろん弾丸を日本刀で斬るのは至難の業だ。
 祖父の言葉を思い出す。「日本刀は体の近く中心に構えよ。手裏剣の類はそれで弾き返せる。」そんな馬鹿なと思ったが、「体の中心で受けるようにすれば必ず刀に当たる。」と言うのだ。それは体の中心に刀を構えているからだろうが、攻撃する方も体の中心を狙うのが基本だということを考えると、あながちでたらめでもないような気がする。怖いのは初心者だ。狙ったところに当たらない……。覚悟を決めてもむなしい。これは最高の恐怖かもしれない。

★ホームページに戻る

15-11-2007

恐怖シリーズ105「鈍感」

 折り紙の世界は面白い。一枚の紙がどんなものにでも姿を変える。どんなものにでもというのは少し大げさかもしれない。でも、折り紙にしても面白くないものは、折り紙から見捨てられる。
 そうした題材でも、ときおり折り紙にしてみようと挑戦する人もいるだろうが、形に面白さや驚きがなければ、たとえうまくできても折り方が広まることはない。
 複雑な作品は、折っているうちに工夫が重ねられていった結果なので、もしかすると本人でも再現することができない可能性がある。その原因としては、もったいなくて作品を元の紙一枚にに戻さないということがある。二度と同じものを同じように折れないかもしれないという恐怖感があるのだ。
 複雑で精巧なものほどそうだ。再現できないのだから折り方が広まるはずがない。そのうち折った本人も折り方を忘れてしまう。忘れるほどに複雑な過程を経て折り上げられるのだ。
 こうしたことは、折り紙の世界以外にもあるに違いない。失われた技術、失われた作品を出さないために、僕たちは記録をする。楽譜にしたり、設計図にしたり、文章にしたり、写真に撮ったり……。でも、それにも限界がある。
 方法である以上は、限界があるのは仕方がない。だが、その記録されることのない玄妙なる部分をともすれば無視したり、気づかなかったりしていることはないだろうか。近頃、このようにして失われていくものに対して鈍感なることに恐怖を覚える。
 それが昂ずれば、大きな影響が思いもよらなかったところに現れることだってあるかもしれない。それはともかく、がんばっているのにうまくいかないとか、不思議だなと思うことの原因になっていることは十分にあるのではないかと思う。
 では、なぜ鈍感になるのかということが問題となる。対象となる物が多くありすぎること、物事を考える時間が少なくなっていること、他に敏感にならなければならないことがたくさんあること……。いろいろこれにも原因がありそうだ。誠に恐ろしいかぎりだ。
14-11-2007

怪しい広辞苑114「第四版136ページ・泉城」

 広辞苑第四版136ページ「泉城」は「泉城」でよいのだろうか。
 その説明としては、松尾芭蕉が「奥の細道」に「和泉が城」と書かれている奥州藤原氏の泉三郎忠衡の城であるとの説明が書かれている。また、説明の最後には、「和泉城」と付記されている。
 しかし、一緒にいたはずの曽良の随行日記では「泉城」と書かれている。徒然草の「和泉が城」は、正式には「泉城」なのだろうか。広辞苑第六版ではどうなっているのだろう。
 この国では学校で「奥の細道」を必ず学習し、平泉の段を読むはずだ。だから、誰もが親しんでいる頭の中の情景には「和泉が城」がある。では、現在の住所はどうだろうか。住所には平泉町泉ヶ城と「泉ヶ城」が使われれている。
 しかし、広辞苑第四版では、現在の住所にも使用されている表記を採用するわけでもなく、江戸時代の有名な紀行文の表記を採用するわけでもなく、結果として、隠密活動をしていたともいわれている河合曽良の表記を採用したことになる。そして、おまけの説明として「和泉城」と芭蕉に近い表記が付録としてつけられている。
 確かに、より客観的で正確な表記を求めるのなら、曽良の表記の方が信頼性は高いかもしれない。だが、どうにも古典の基礎を学習した学生は松尾芭蕉の表記を中心として考えるに違いない。だから、きっと学生は不思議な感覚を持つことだろう。俳聖芭蕉ではなく、随行者の表記が採用されているのは俄には納得がいかないと思うのだ。
 逆説的だが、学習というのはこのように色眼鏡をかけることでもあるのだろうか。こんなことはどうでもよいことかもしれないが、現在も住所に使われているのだからこだわりを持つべきだろう。
 もちろん「泉城」と表記して「いずみがじょう」と読むことだってあるかもしれない。しかし、広辞苑第四版ではどのように見ても「いずみじょう」としか読みがふられていない。表記の問題もさることながら、読みまでもが「奥の細道」や現住所とは異なるのだ。
 世の中に「金山さん」と「金山さん」がいる。前者は「かなやまさん」で、後者は「かねやまさん」だ。お互いに自分はこう読むと言って、区別しあっている。名前というものはそういうものだ。地名や城名でも同じことだ。
 「いずみじょう」が正しくても、古典を暗唱させられて「いずみがじょう」が頭にこびりついている僕たちには不自然に思ってしまう。この辺りをきちんと説明してないのは好ましくないと思う。「いずみがじょう」とも読むが、正式には「いずみじょう」というと書いてくれたらよいのだ。そうでないと、利用者の頭には、はてなマークがいっぱいになってしまう。
 因みに、その他の「泉城」は、栃木県矢板市にある安土桃山時代の岡本氏の「泉城」、塩谷町にある室町時代の泉氏の「泉城」、福島県いわき市にある江戸時代の内藤氏の「泉城」、千葉県柏市にある鎌倉時代の相馬氏の「泉城」、茨城県龍ヶ崎市にある室町時代の東条氏の「泉城」がある。また、「泉ヶ城」は、埼玉県飯能市にある鎌倉自体の青木氏といわれている「泉ヶ城」がある。その他にもまだありそうだ。
 こうした地域の人たちからは、不採用についての多少の不満も出そうだが、電子辞書版があるとはいえ、どこかで切らなくてはいけないだろうから仕方ないだろう。とはいえ「同名の城は日本各地にある」というほどの説明ならあった方がいいのだろうか。

★ホームページに戻る

<DSおそるべし 画像クリックで説明画面へ>

心の断片109「月夜に遊ぶ」

「月夜に遊ぶ」

捨て身であることの軽やかさ
捨て身であることの美しさ
捨て身であることの甘い感触

遠く高く星は輝いているが
僕のところには来られまい
僕も行けないが
それでおあいこだね

月と雲がでんぐり返しで
のぞいている
すべてから解き放たれた魂と
その魂から解き放たれた存在を


12-11-2007

心の断片108「縁側で」

「縁側で」

組み上げたものをいつくしむ
ほころびを繕う
見まもり
心を砕くことの
苦しみでもない
喜びでもない
ただ何となく懐かしいあたたかな思い

昼さがりのそよ風を
ゆるい衣服に受けて
季節はずれの夏の縁側
古いうちわの小さなきずの由来を思い起こし
色あせた朝顔の絵柄をたどたどと指でなぞる

日常の狂気と
人間くさい仕草と
あふれる言葉のむなしさと
すべての醜く貧しい精神の大合唱よ
すこしは疲れて
滅びていてくれないか
11-11-2007

怪しい広辞苑113「第四版135ページ・伊豆豆」

 広辞苑第四版135ページ「伊豆豆」の説明はもう少し必要だと思われる。
 説明が「ソラマメの方言」の7文字だけでは困る。しかし、「伊豆豆」という言葉は聞いたことがなかったので、興味はわく。「ソラマメの方言」という説明 を読んで、最初に思うのは「どこの地方の方言なのだろう?」ということだ。後6文字分はその行に余白があるのだから教えてほしいところだ。最高峰の辞書と いうのなら、もう少し利用者の知識欲を満足させてほしいのだ。
 「伊豆豆」だから、伊豆地方の方言なのだろうかと単純に思うのだが、本当だろうか。自分の地方の豆に敢えて地方名をつけて呼ぶのは不自然だからだ。
  もし、伊豆地方の方言だとしたら、その名称は他の地方に向けて発せられる名称だろう。宣伝用だ。特に上等のソラマメがたくさんとれるので、他の地方に向け て発送するということだ。他の地方のソラマメとはひと味違うよという自信があるわけだ。逆に、マイナスの評価を得ていたという可能性もある。これは伊豆豆 だから質が悪いというわけだ。

 伊豆地 方を中心とした近辺の地方を含めて伊豆豆という方言が残っていたら、やはり伊豆地方の方言だという可能性がある。近辺の地方では、自分の地方でとれるソラ マメと区別する必要があったのかもしれない。たとえば、「これは伊豆豆だから買うな。」とか、「これは伊豆豆だからひと味違うよ。」とか言うためだ。
  もしかすると、いろいろな地方の特産物が集まる江戸内だけで使われる「他の地方のソラマメと区別するための用語」だったかもしれない。すると、頭に他の地 方名が付いているソラマメがなくてはいけなくなる。もし、そうした豆がなければ、伊豆豆だけが特別な取り扱いを受けるソラマメだったということになる。も しそうなら、どういう理由で区別する必要があったのだろう。
 このようなことを利用者に考えさせて、知的冒険を促すというのが広辞苑の常套手段なのかもしれない。
 しかし、使われていた地方名を書かないというのは、まさか一般的な方言として存在する言葉だというのだろうか。そもそも一般的に使われている方言というものがあるのだろうか。もしあるとすれば、特別の力が働いた結果だとしか僕には考えられない。
 たとえば、テレビや映画など、特にテレビのコマーシャルや番組内の決まり文句のように多くの国民に繰り返し聞かせた結果だ。たとえば、これによって新種のように一 般的な関西弁のようなものが断片的に定着する可能性がある。また、いろいろな地方のタレントが出演するので、どこの地方の言葉かわからないまま一般的な方 言として受け入れていく傾向もある。
  しかし、この半世紀の間に「伊豆豆」のコマーシャルが流れたであろうか。流れてはいないと思う。すると、どこかの時代でソラマメのブランドとして伊豆豆が かなり全国に浸透していた時代が長い間あったということなのだろうか。もちろん全国でなくとも、京や江戸や大阪などの大都会で流通していたとしても、それ だけで文献に残りやすくなるだろう。そうだとすると、昔の大都会で使われていた方言という少し奇妙な出自の方言になる。
 因みにネットだけでソラマメの方言を検索してみると、次のようなものが見受けられたので、勝手にコメントをつけておいた。

1沖縄
・トーマーミー(トーは唐だろうか。マーミーは豆だろう。)
2奄美(鹿児島県)
・トーマミー(中国は目と鼻の先だから唐豆だろうか。)
・フーマムィ(マムィは豆だろうが、フーは何だろう。)
・カアマミィ(トーマミーがもし唐豆なら、カアは「から」が訛ったものかもしれない。マミーはもちろん豆だろう。)
・キャーマミ(キャーはカアがさらに訛ったもののように思う。マミはもちろん豆だろう。)
・サラマミ(マミは豆に違いなかろうが、サラとは何だろう。カラがハラになることはありそうだが、果たしてサラになるものなのだ ろうか。そうなると、ソラマメのソラがサラになったと考えるのがよさそう。)
・タチィワキ(これは「たてわき」かもしれない。「帯刀」というわけだ。刀に形が似ていると言えばナタマメのほうだが、ナタマメには刀豆という言い方があるらしい。「ナタ」は鉈だから、刀のようなものだ。刀といっても日本刀というよりも青竜刀に近い形だ。中国由来の豆だから、青竜刀でよいのかもしれない。文字の読みからいうと、「刀豆」と言えば「とうまめ」だから、唐豆との混同があったかもしれない。ナタマメの方がソラマメよりもかなり大形なので、混同しないと思うのだが、成長の過程では同じような大きさのときもあるだろうから、実が成熟する前に食べることもある豆類には、こうした混同があったのかもしれない。)
・トーマミー(トーは唐かもしれない。マミーは豆だろう。)
*奄美には島が多い分、多くの言い方がある。
3天草(熊本県)
・トンマメ(トンはトーだろうか。すると唐豆と同じか。)
4九州
・トウマメ(九州全域で使用しているということなのだろうが、本当だろうか。沖縄のトーマーミーに似ている。)
5讃岐(香川県)
・ドンガラ豆(トン豆の「トン」に語呂合わせで「から」をつけ、それが濁音化したものなのか。)
6四国
・四月豆(四月に食べるのがおいしいからだろうか。これは旧暦かもしれない。)
7下津井(岡山県)
・アオマメ(青いからアオマメなのだろうが、若い豆はたいてい青い。他の豆を何と呼んでいるかを知りたくなる。)
・テンジクマメ(テンジクは天竺でインドのことだろうが、果たしてインドをイメージしていたかどうかは分からない。昔の日本人の現実のインド人に対するイメージは極めて薄く、仏教的な感覚で中国経由の天竺というほどの感覚だろうと思う。まだ三国一の花嫁という言い方をしていた時代に  違いない。とにかく唐経由の豆ということだろう。)
・カタマメ(カタはカラの訛りかもしれない。空はカラとも読むから、空豆をカラマメと読んだものかもしれない。)
8広島
・ソラズ(大豆のように、豆は「ず」と読むから、「ソラズ」は空豆の字を当てられ、空豆の別読みということになる。)
・オタフクマメ(確かにお多福の顔の作りに豆の形が似ているといえば似ている。)
9山陰
・ナツマメ(夏に食べるからだろうが、ずいぶんと単純なネーミングだ。)
10和歌山
・トマメ(「とうまめ」の「とう」が「と」になっただけのように思う。)
11十津川(奈良県)
・ナツマメ(やはり夏に食べるからだと思う。)
12奈良
・ヤマトマメ(この地は大和といい、この地で多く作られたという。多く作られて近辺の地方に行きわたれば、大和から来た豆だと近辺の地方から呼ばれることになり、出す方も大和豆だと言うようになるだろう。こうしたことが伊豆に果たしてあったのだろうか。)
13畿内
・ヤマトマメ
14紀伊半島
・ヤマトマメ
15関西
・ヤマトマメ
16伊勢(三重県)
・ガンマメ(雁豆と書く。なぜ、雁なのだろう。)
17阿児(三重県)
・トーマメ(九州の「とうまめ」とたぶん同じだろう。)
18西美濃西部(岐阜県)
・トマメ(和歌山県の「とまめ」とたぶん同じだろう。)
19関(岐阜県)
・ドウマメ(やはり「とうまめ」なのだろうが、なぜ「と」が濁ったのだろう。「どう」は豆の中国読みdouの第四声かもしれない。特に第四声だと「d」と「t」の発音の違いがつきにくい日本人も多いかもしれない。それはともかく、これでは豆豆となってしまう。ただし、だいず豆という言い方をする以上、漢字で書けば大豆豆となってしまう。文字レベルではなく、音声レベルで言葉が躍動している世界ではそれでよいのかもしれない。)
20庄内(愛知県)
・ケッツマメ(津軽と同じだろう。どうして津軽の言い方が庄内の言い方と  同じなのだろうか。流通経路の関係か。庄内出身地のものが津軽で広めたのか。ある地方の言葉が、周囲に広がっていったが、「けつ=おしり」という意味が食品にはふさわしくないと考えたせいか、次第に別の言葉に変わっていったとしたとき、なぜかこの最低二地区では使い続けていたということか。もしそうなら、下品というよりかわいいという感覚が最低この二地区にはあったのだろう。)
21三河(愛知県)
・トーマメ(九州や三重県の阿児とたぶん同じだろう。)
22遠州(静岡県)
・ガンマメ(伊勢の雁豆とたぶん同じだろう。)
23蒲原(静岡県)
・バクマメ(なぜ、ばく豆なのだろうか。まさかばくばくたべるほどにおいしいから?)
24駿河・伊豆(静岡県)
・五月豆(この地方では四月ではなく、旬がずれて五月がおいしいのだろうか。これも旧暦だろうか。)
25神奈川
・ナツマメ(夏が食べどきだからか。)
・冬豆(冬が撒きどきらしい。しかし、夏豆という言い方も同時に使うのは変だと思う。)
26川越(埼玉県)
・蚕豆(蚕の繭の形に豆が似ていたり、サヤの形が幼虫の姿に似ているかららしい。食べる時期も蚕の時期がおいしいということなのだが。)
27南蒲原(新潟県)
・サヌキマメ(これは讃岐豆だろうが、どうして新潟県で讃岐なのか。伊豆豆もこのように伊豆地方以外の方言かもしれない。讃岐でどんがら豆というのは、新潟とつながりがなかった時代のものなのだろうか。それとも、「どんがら」という俗っぽい名称は採用せず、讃岐豆という出産地を明確にした正式名称の方が採用されたのだろうか。それとも讃岐出身の人々が懐かしんで残した名称なのだろうか。)
28千葉
・雪割豆(茨城は「ゆかーりまめ」と少し訛っているので、千葉の訛り方と比べたい。)
29茨城
・ユカーリマメ(千葉と同じで雪割豆だろう。)
30鹿角(秋田県)
・ケチマメ(これは津軽のけっつ豆と同じで「おしり」の形をした豆ということかもしれない。)
31津軽(青森県)
・ドンズマメ、ケッツマメ(「どんず」も「けっつ」も「おしり」だ。確かにソラマメはよく見るとお尻に似ている。庄内のけっつまめと同じ言い方が遠く離れたこの地方にもあるのはなぜだろう。)

  これらは個人のホームページで述べられたことであるので、調査規模が限られてしまい、思い込みが先にある可能性がある。実際には、統計的に意味のある方法 で調査をしないと、本当のところは分からない。今はインターネットでアンケートも可能だから、年齢や性別や使用場面など、詳しいことまで短期間で情報が得 られるので、専門家はやっているはずだがどうだろう。
 それよりも、方言の調査結果から方言の問題以上の驚きの結果を紡ぎ出すことができるかどうかが問題だ。要は専門 的な分析力と専門の対極にある一般知識の豊富さで決まる。果たして成果は上がっているのだろうか。方言が消えつつある現状では難しいかもしれない。
 それにしても、伊豆地方のソラマメの方言について、ネット上に「伊豆豆」が出てこないのはなぜだろう。もちろん検索不足が原因だろうが、その近辺の地方にも「伊豆豆」が出てこない。しかし、そのことこそが、伊豆豆の正体を現しているような気がする。一般には広がらない使われ方をしていたか、伊豆豆が何らかの理由で抹殺されたかだ。
 さて、方言といっても、「単に発音が訛ったもの」「古語を保存しているもの」「単なる 別称」などといろいろあるように思う。「伊豆豆」の場合は、「単なる別称」だ。しかし、他の方言と違って、「大和豆」や「讃岐豆」のように地方名が入って いる。これはひとつのブランドであった可能性が高い。「唐」も地方と言えば地方だが、時代が古く、既にブランドというよりも豆の種類の名称という段階に位 置づけられたものとしてある。
 別称と言えば、ネットの植物図鑑では「のらまめ」「蚕豆」「てんまめ」が紹介されている。地方限定の言い方だと方 言として扱われることになるだろう。しかし、別称ということになれば、特定の地方ではなく、一定以上の複数の地方というような広範囲で使われていなければ ならないだろう。または、広範囲でなくとも、扱いが違えば別称も生じるだろう。
 たとえば、「のらまめ」は野良豆と考えると、一般的な名称だ。しかし、「蚕豆」を音読みして「さんとう」とすると、生薬名になるようだ。これには「さんず」という読み方もあるが、「豆」を「とう」と読むか「ず」とよむかは、文字どおり読みの問題で、漢音なら「とう」呉音なら「ず」ということだ。しかし、ピンインでは第四声の「dou」だから、平仮名書きでは「どう」とか「どぅ」になる。中国名は外国語だから、商品名や学術用語などとして、別格の品物とした扱うときには利用された可能性は高い。
 「てんまめ」は天草のような「とんまめ」から来ているかもしれない。しかし、「てん」を「天」だ徒考えると、「空」が見えてくる。「空」は「から」という読みもあるから「からっぽ」に通じて農作物の名称としては確かに縁起が悪い。それより天を目指して実がなくソラマメということで「天豆」としたほうが縁起がよい。また、ソラマメは豆板醤のように辛いものにも使うが、餡として甘いものにも加工される。甘いものということなら、「てん」が「甜」かもしれない。
 こうして、辞書の説明不足のために、素人があれこれ苦労して想像しなければならない。そういう意味で困るのだ。
 伊豆豆に話は戻るが、「いず」という地名に「豆」という字を用いたのは、理由のあることだろうか。「あたみ」の井津が語源だという説がある。「井」からは温泉、「津」は港で、伊豆のイメージに一致し、生活感覚のレベルのネーミングだ。しかし、当て字という方法があるので、漢字で語源を考えるのは要注意だろう。
 地名は地形に因むことが多いという。そのため、伊豆の語源は、海に「いずる」半島だから「いず」だという説明がある。これは伊豆半島のように大きなものなら生活感覚から出た言葉ではなくて、日本地図レベルの見方をする立場の者が決めた言葉のように思われる。
 どんな説明があったにしても、「いず」という言葉を地名に選んだのには理由があるはずだ。そして、「伊豆」という漢字を当てたのにも理由があるはずだ。説明の正しさを云々するのもよいが、水掛け論に陥り、無駄な労力となることが多い。分業の世の中だから、そんなことは専門家に任せておけばよい。だが、無関心なのは分業の世の中にあってはお粗末なことなので、僕たちとしてはその結果を評価したり、自分なりに別の理由を想像したりするのがよい。世界を広げたり、物の見方を学べるので、自分の守備範囲の活動に役立てることができる。無関係のように見えることを上手に役立てるということが生活力というものだろう。語源を豆知識として終わらせるか、そこからつながりのあるものを開拓して実生活に役立てるか。これが人間の能力の差というものだろうと思う。
 そうした差をなくすように働きかける指導が家庭や学校や社会でなされないといけないのだが、果たして実態はどうなのだろう。こんな危機感をもたせてくれた広辞苑の説明不足はやはり効果的な説明だったということだろうか。しかし、せっかくの休日が半日吹っ飛んでしまった。だが、転んでもただでは起きないよ。

★ホームページに戻る