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    11/30/2008

    突然思い出したこと122「助詞」

    <これは読んでみたい…かな 画像クリックで説明画面へ>  
     日本語には「助詞」という訳の分からないものがあることを突然思い出した。特に文末の「終助詞」というものが不思議だった。
     「もう駄目だわ。」の「わ」、「もう駄目だね。」の「ね」、「もう駄目だぞ。」の「ぞ」、「もう駄目だよ。」の「よ」、「もう駄目だもの(もん)。」の「もの(もん)」などだ。方言に見られるような「もう駄目だが。」の「が」、「もう駄目だに。」の「に」、「もう駄目だど。」の「ど」などもある。
     これらがどのような機能を持っているかは研究されているようだが、どうしてそんな言い方になったのか、果たして研究されているのだろうか。
     「もう駄目だわ。」の「わ」は何だろう。似た表現に「もう駄目だわい。」があるので、「わい」の「い」が脱落して「わ」になったのだというのだろうか。「わい」は、「わたし(自分)」という意味の「わし」が語源らしいが、それが本当なら「わしはもう駄目だ。」の主語が文末に来て、「もう駄目だわし。」、それが「もう駄目だわい。」となり、「もう駄目だわ。」となるということなのだろうか。「わいはもうあかんわい。」というと「わい」がダブってくるということになる。「わしはもう駄目だわ。」という表現が妙にくどいのもその成果もしれない。
     「もう駄目だわ。」は主に自分や自分に関わるものが駄目になったということを伝える表現だ。だから、「わ」が「わし」を語源とするというのは意味の上では合っている。こうなると、「もう駄目だわえ。」などという時代がかった表現も、「わえ」は「われ」の「r」が脱落したものだと説明できそうになる。
     このように一人称が文末に来る倒置法の結果が、言い慣れることによって省略されたり、変形したりするのは、もしかすると日本語で主語が省略されるということと関係がありそうな気がしてくる。省略されたのではなく、倒置法によって本来あるべき場所から移動したのではないかということだ。
     すると、この一人称は移動した後に当然の主語であるから省略されてしまったり、変形しながら文末の語調を決定していく機能をもたされてしまったりして元の位置に戻れなくなったかわいそうな単語ということになる。旅先で変身し、故郷に戻れなくなったやつというわけか。
     まさか、「もう駄目だよ。」の「よ」は「余」なのか。「余は満足じゃ。」が「満足じゃよ。」となるのか。この「余」という一人称も「儂」とか「我」とかと同じ運命をたどったと考えると面白い。
     さらに、「儂」は「のう」とか「どう」という音読みをもつから、「もう駄目だのう。」とか、「もう駄目だど(う)。」、音読みといえば、「我」は「が」だから、「もう駄目だが。」となったのだったら、おもしろさを越えて奇妙だ。「我」の北京語は「わ」に近い発音だから、これも奇妙だ。
     想像をたくましくすると、「もう駄目だに。」の「に」が、「」なら中国語の二人称だ。確かに「もう駄目だに。」という表現は、自分の状態を表現しているのではなく、相手や相手に関わるものの状態を評価したか、自分や自分に関わるものの状態を客観視して評価して、表現したものだ。すると、これも奇妙に符合する。「もう駄目だね。」の「ね」は、使われ方に二人称のにおいがするから、「に」の変形かもしれないなどと想像していくと確かに暇つぶしになる。
     生活自体は決して暇ではないのだが、脳の働いてない部分は脳の働きづめの部分よりも暇だということだ。その暇な部分を少し刺激してやると、ひらめく力が少し復元してくるのではないかという淡い期待を持っている。正しくなくともよい、思いつきでもよい、根拠がなくともよい、頭を自由に使える訓練となればそれでよいということだ。
     今度は、どうして倒置法にしたのかということを想像していくと面白そうだ。また、「わし」が「わい」になるなら、「わい」の「w」が脱落して「あい」になるのもそれほど変ではないという柔軟な感覚を持てば、日本語の一人称と英語の一人称が音声の段階では一致してしまう。見かけ上、それだけが関係ありそうな顔をしているだけなのだが、歴史の流れのなかで言語の接触がなくても、何らかの必然で結果として似てしまったのかもしれないと考えると、その飛躍感が何か楽しくなってくる。
     そういう気持ちになってから、「日本語の起源は?」というような小さな問題から、「言語とはいったい何か?」とかいう中くらいの問題へ、そして「人間の秘密」という大問題に至るまでの種々の問題を解き明かそうとした先人の業績を正式にたどり始めればよい。そのうちに誰がどこで壁にぶつかっているかが分かり始めると、また楽しくなってくる。
     そうこうしているうちに、ふと何気なく思いついたことが、思考停止している部分に思わぬ光を当てていくことになるかもしれないのだ。「待てば海路の日和あり」というわけだ。逆に、焦って間に合わせの作業を重ねているばかりでは、ろくなことにならない。そうした厳しい追究は専門家に任せておけばよい。僕たち一般人は、時折その業績を味わったり、勝手な意見を述べたりして楽しめばよいのだ。

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    11/25/2008

    心の断片158「儀式」

    「儀式」

    刹那刹那で
    奇妙なこだわりが
    判断を狂わせ

    断片的イメージが
    不適切に結合し
    心のあり方を左右している

    これは愚かなことだ
    だから僕たちは
    そのひとつひとつを
    形にして
    滅ぼしていかねばならない

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    11/23/2008

    変な疑問98「国旗デザインの影響」

     国のシンボルである国旗のデザインはその国の人々にどのような印象を与え、どのような影響を与えているのだろうか。また、その国以外の人々にはどのような印象を与え、その国にどのような影響が返ってくるのだろうか。
     
    「日章旗」の場合
    デザイン…太陽
    特徴①…寄せ書きができる。
    特徴②…縦横裏どちらから見てもデザインの破綻が起きない。
    特徴③…幼い子でも描きやすい。
    印象①…真っ赤に燃える夕日(たそがれ)
    印象②…ごはんの上の梅干し(倹約)
    印象③…包帯からにじみ出た血(マゾ)
    ★デザインが与える印象や効果
     日出ずるところの国なのだから勢いのある朝日のイメージのはずだ。しかし、赤い太陽なのでどうしても夕日を思い浮かべてしまう。
     ただし、掲揚するときには朝日、降納するときは夕日、掲げられているときには天に輝く太陽として受けいれやすく、自然の動きに従った合理的なデザインとして評価できる。
     そこから自然体の姿勢をもった国という印象を与える可能性がある。周囲の国に対して自然体で接する国という印象だ。悪く言えば、己がなく、大勢に従う風潮。しかし、国は丸く一つにまとまっている。全ての方向に顔を向けている丸だが、そこは白地であって何もない。逆に言えば全てを受けいれる。
     「白地に赤く日の丸染めて」という歌詞があるが、白地は無色を示したものかもしれない。赤い日の丸だけを旗とするのは難しい。そこで、やむをえず白地の長方形の布にのせて竿に掲げるようにしたと考えられないか。これまで旗だと思っていた長方形の白布が急に台布に見えてきた。出征兵士への寄せ書きをするとき、無意識に赤い丸を避けたのも分かるような気がしてきた。
     ところで、反日感情の表現として日本の国旗を燃やすということが他国であるが、日本人は全く意に介しない。それはなぜだろう。
     法制化された後も日の丸を国旗として認めていない人が多いということだろうか。戦争責任を国民が感じているがゆえに、日の丸を国旗とすることを後ろめたく思う気持ちがあるということだ。それも理由としてはあるだろう。
     しかし、それは戦争責任をあまり感じていない若者には当てはまらない。単にそうした世代に育てられ、国とか国旗とか国家とかいうものに対する他国のような感覚を持たされていないというだけの話だ。
     ただ、今後他国と同じような感覚を国民が持つようになる時代がやってきても、この無反応は変わらないような気がする。それは、デザインが真っ赤に燃える太陽だからだ。いくら反日感情によって日の丸を燃やされても、本来の姿を強調するだけだ。どちらかと言えば、国旗を燃やされるとなぜかうれしくて元気が出てくるような気がするのも、国に対する無関心というよりも、このデザインが最も美しく見えるのが実際に燃えているときだからではないだろうか。戦争中は「一億総火の玉」という表現がなされた。日本人は燃えて消えてしまうことに美を感じてしまうところがあるのかもしれない。その感性をついたコピーだろう。もっとも、全員玉砕して死んでしまえば、最後は火の玉となって恨めしく出てくるしかない。
     他国から見ればマゾ的な手法で日本人は元気を出すということだ。こうした目で見つめると、いろいろ納得することが出てきはしないか。何とも恐ろしい国民だ。
     この国で他国がテロを行うには、アメリカを相手にするよりも相当の覚悟をもっていないといけない。今は腑抜けでも、一度燃え上がると不条理なマゾ的攻撃を全滅するまでやめないはずだ。なにしろつい先程まで軍隊に対して女子どもが竹槍ででも対抗しようという近代国家だったのだから。血というものはそんなに短期間で変わるものではない。だからこそ、がんばって自ら腑抜けになろうと努力している珍しい国だ。もしかすると、勝敗にこだわらぬ無敵の魂を失っている者など一人もいないのかもしれない。
     斜めになっていても勢いが下り坂だなどという感覚を持てない。裏返っていてもこちらを向いているという感覚しか持てない。幼い子でも簡単に描ける。しかも、一秒以下で描ける。こんな小さなことが、国に対する無関心さと無神経さにつながり、それが日本人の恐ろしい魂を育てているような気がする。これは心配しすぎだろうか。日本人が倹約し始めたことがきっかけとなって何かが起こりそうな感じがする。
     朝日の勢い、夕日の黄昏れなどは関係ない。誰も否定できない大自然の源である太陽。光だ。そこには平和や大地や産業の象徴もない。この原初的なデザインの国旗は国民にフレキシブルに生きよと言っている。なりふり構わず生きよと言っている。だからこそ、日本人は礼儀正しくなければならない。そして、伝統を重んじなければならない。そういう努力を怠ったとき、枷が軽くなり、太陽は暴走するのだ。

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    11/12/2008

    心の断片157「いいわけ」

    「いいわけ」

    失うのが怖いから手に入れない
    手に入れたが最後
    この手で壊さなくてはならないからだ

    壊すのが怖いから近寄らない
    近寄るのが怖いから眺めている
    眺めているのが怖いから見ぬふりをする
    見ぬふりをするのが怖いから外に出ない
    外に出るのが怖いから用事を作らない
    用事ができるのが怖いからしゃべらない
    しゃべるのが怖いから微笑んでいる
    微笑んでばかりいるのが怖いから相づちを打つ
    相づちを打ってばかりいるのが怖いからよそを向く
    よそを向いてばかりいるのが怖いから人の目を見る
    人の目を見てばかりいるのが怖いから話しかける
    話しかけてばかりいるのが怖いから相手を変える
    相手を変えてばかりいるのが怖いから友達になる
    友達に捨てられるのが怖いから一人でいる
    一人でいるのが怖いから独り言を言う
    独り言ばかり言っているのが怖いから本を読む
    本を読んでばかりいるのが怖いから行動する
    行動の結果が怖いから今だけを楽しむ
    今だけを楽しんでいるのが怖いから何も考えない
    何も考えないでいるのが怖いから歌口ずさむ
    歌口ずさめば怖くない 
    もう何も怖くない臆病者の言い訳

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    11/8/2008

    突然思い出したこと121「大道芸人」

     大道芸というものがある。大道芸人は屋外で芸をする。懐かしくも遠い記憶だ。
     幼い頃、がまの油売りを見たことがあるが、あれも大道芸なのだろうか。日本刀で自分の腕に傷をつけ、がまの油で瞬間的に直すのだ。今考えてみるとそんなことは不可能だ。
     研がれた日本刀で、本来の日本刀の操作で切られたなら、腕は落ちている。腕の切り口にがまの油を塗って、さあ治りましたということならすばらしいが、それでは切り口をハムのようにスライスしながら、がまの油売りを続けなくてはならない。次第に腕は短くなり、完全な片腕になってしまうので、後継者に座を受け渡さなくてはならなくなる。
     できるだけ薄くスライスして、何回もがまの油売りをすることができる者が立派ながまの油売りとなる。最初は五ミリの厚さでしか切れないかもしれないが、熟練するにつれ、一ミリスライスが可能となり、限度はあるものの加速度的に残回数が増えることになる。当然、腕の長い人の方が長い分だけ有利になるのだが、神業的にかさぶただけを切り落として骨肉を切らないこともできるようになるに違いない。ただし、かさぶたができた後、そして落ちる前の微妙なポイントで、がまの油売りをしなくてはならない。これはかなり頻繁だ。頻繁にできるということはかなり商売向きに進化した技だということになる。しかし、もちろん、こんな油売りは最初からいるはずはない。
     部分的に刃をつけた模造刀に赤い着色料をつけておき、それを腕の平らな面にあてがって引けば傷のように見えるから、それをがまの油で拭き取って、きれいに元通りにしているとしか考えられない。
     本当に切っている強者のがまの油売りがいたとしよう。しかし、そのがまの油にどんなに優れた止血効果があったとしても、縫わねばならぬ深さの傷は、やはり治せないはずだ。赤い線はついても血がたらたら流れ出るパフォーマンスはまだ見たことがないので、流れ出る血は止まらないということだろう。
     もちろん、度重なる怪我でプロレスラーの額が割れやすくなって、血が出やすいようになっているように、がまの油売りも位置をよく見定めて血が出やすくなった部分に添って何度も切っているのかもしれない。しかし、僕が見たがまの油売りの腕は白くつるんとしてしていて何の傷跡もなかった。白い腕はもしかすると、赤い傷跡を目立たせるためのものかもしれない。黒く日焼けしていたらかなり長く深く切ったことにしないとならないだろう。それでは大出血しなければならなくなる。これはパフォーマンス上、非常にまずいに違いない。
     すると、がまの油売りは腕を日焼けしないように注意して生活しているに違いない。夏でも長袖の男は、ひょっとするとがまの油売りであるかもしれない。こう考えると多少は世の中面白く見えてくる。逆に冬でも半袖の男は何をしているのかと想像してみるのも面白い。
     ところで、雨降りでもかまわない大道芸があれば、祭り主催者としては心強い。また、大通りや大きな公園がない地区では、小道芸を探さねばならない。小道芸なるものなど聞いたこともないが、屋内ではふさわしくなく、しかも狭いところが似合っている芸というものがあれば助かるだろう。
     雨降りでも構わない大道芸にはどのようなものが考えられるだろう。水に溶けやすい衣裳を着て、雨に振られればその衣裳が溶けてなくなり、その下に着ていた水に強い衣裳が現れるというのはどうだろう。その衣裳を脱ぐと、その下にはまた水に溶けやすい別の衣裳が現れるという寸法だ。軒下とか店舗内で見ている客に、溶けてこびりついている衣裳をホースの水で吹き飛ばす役をやってもらえば盛り上がること間違いなしだ。新しいタイプのストリップというわけだ。
     また、高熱を発する衣裳を身につけてパフォーマンスをすれば、衣裳に雨が触れた瞬間に蒸発して煙のように見えるから面白いだろう。全身では危険なので、掌だけとか、お尻だけとか、部分的に見せたところに雨が当たって蒸気を出すという形にした方がよいだろう。これは晴れても肩こりのひどい観客の肩を温めて気持ちよくさせたりできるから人気が出るかもしれない。
     小道芸などという言葉はないが、ストリートマジックのなかには小道芸に近いものもあるだろう。これも幼い頃、ストリートマジックのおじさんからインチキねたを何度か買ったことがある。あれは何だったのだろう。唾をつけると血のように赤くなる薬とか、写真がいろいろに変わるインチキ写真とか、マジックではないけれど日光写真機とか……。落ちている小枝で進入禁止のラインをひいて、その周りに子どもたちを集めるのだ。

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    11/2/2008

    心の断片156「懺悔の迷路」

    「懺悔の迷路」

    この迷路は肉だ
    迷路なのに一本道の
    粉ミルクの味がする泥濘の階段だ
    むっとする体温のような湿気が
    透明のタオルとなって
    僕の顔をがんじがらめに包み込む
    だが 辛抱しろ もう少しでたどり着く

    禁断の扉は
    なぜか目眩ととも立ちはだかり
    いつも少しばかり開いている
    唾棄すべき悪の限りと
    忌まわしい運命を
    骨の小箱に封じ込め
    幾夜も幾夜も
    僕はこの行き止まりの迷路の奥に
    供えてみせるのだ

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    11/1/2008

    心の断片155「小径ゆく」

    「小径ゆく」

    今日は桜の若葉が萌える
    小さくみどりに命が光る
    ひらめく銀の裏葉草
    風知り 人知り 時を知り
    夢に小走り 小径ゆく
    今日は桜の若葉が萌える
    小さくみどりに命が光る

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