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    12/31/2006

    変な疑問51「エックス」

     野球の後攻チームが9回の表で勝利を決した場合、スコアーボードに「X」が書かれる。
     野球経験がゼロに近く、プロ野球も高校野球もとにかく野球放送をほとんど視聴することがない僕は、これをバツだと思っていた。広辞苑第四版を見ると、最初は「α」と書かれていたものが、現在は「X」になったそうだ。広辞苑の活字を見る限りはバツではなく、エックスだ。
     どういう理由で変えたのか。「+α」の「α」が「X」の小文字の「χ」の筆記体が「α」に見えて、日本では「プラスエックス」をいつしか「プラスアルファ」と読むようになったというのを昔何かで読んだことがあるけれど、それと関係があるのだろうか。
     確かにエックスの小文字の「χ」と「α」は似ている。エックスの小文字を書くときに「χ」のようにバツを書く人と、シャネルのマークを左右にずらしたように書く人がいるが、どちらにしても筆記体を肉筆で書くと崩れていき、「α」に近くなる。しかし、広辞苑第四版では、「α」と書いていたのを「X」と改めたと説明している。すると、野球の世界では「α」と書いて「エックス」と読んでいたのだろうか。そんな馬鹿な。「α」と書いていたのならば、「アルファ」だろう。
     やはり常識的に考えて「α」と書いて「アルファ」と読んでいたとする。すると、今度はどのような理由で「エックス」としか読めない「X」に変えたのだろうという疑問がわいてくる。
     野球が国技だというアメリカではどうなのだろう。きちんとした小文字の筆記体のエックスだったのだろうか。それをまたもや(前後関係は分からないけれど)日本人が「+α」のときのように「エックス」を「アルファ」と読み間違えて、実際に書くときに「アルファ」の形に書いてしまったのだろうか。
     それを日本人がなんと読んでいたか知らないが、(たぶん「α」と書いていたのなら「アルファ」と読んでいたのに違いないと思うのだが、)途中で「X」に変更したというのだ。これはアメリカが大文字のエックスで書くようにしたのにならったのかもしれない。きっかけは手書きから電光掲示板になったときに活字になるから、そのときに書体が変わって初めてエックスだったということが日本人に知れたのだなどと想像すると面白い。「えい、面倒だ。右上がりの斜線にしなさい。」と言いたいところだが、それだとそれで終わってしまうので、楽しくない。
     それにしても野球の知識がゼロに近いということを思い知らされた。だから、野球放送が面白くないのかもしれない。解説のまずさだけではなく、自分にも大きな原因があるということだ。これは改善しなくてはいけないことだ。まず自分から身をただす。これを来年の目標にしようと思う。

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    怪しい広辞苑73「第四版92ページ・アルデヒド基」

     変だと思うのは僕が文系だからか。第四版92ページ「アルデヒド基」の説明。
     「化学式-CHO カルボニル基に水素原子が結合した形のもの。」とあるが、この説明だと、「-CHO」=「カルボニル基」だと一瞬誤解される可能性が高い。
     大昔、受験のために「カルボキシル基」だの「カルボニル基」だの覚えるはめになったが、久々にお目にかかった。ここは、「化学式-CHO。カルボニル基に水素原子が結合した形のもの。」というようにぜひ「-CHO」の次に「。」を入れて、「アルデヒド基」がそれなのだと説明してほしい。
     このような不具合も、わずかに勉強するだけですぐに影響のないことになるのだが、一瞬でも誤解させるような書きぶりは辞書である以上は避けてほしいのだ。ただし、学生は広辞苑で化学を勉強するわけではないから、勉強による誤解解消は望めないかもしれない。それにしても、いったい誰がこんな項目を広辞苑を使って調べるのだろうか。そんな疑問もふと浮かんだ。
     「しんだいしゃたのむ」という電報が「しんだ。いしゃたのむ。」なのか「しんだいしゃ、たのむ。」なのか、という笑い話を思い出した。
    12/30/2006

    突然思い出したこと70「俳句・短歌」

    かつて第二芸術と呼ばれたこともあった俳句や短歌。しかし、芸術にも方法による役割分担がある。俳句や短歌に与えられた役割もあるのだ。それをたしなまぬのは表現し損ねてためているか、表現すべきものを感じる感性を衰えさせているか、他の方法で表現して済ませているかだろう。
     表現の形式をどのようにして選ぶか。表現内容の量と質、表現時間の制限という問題は、第一にクリアーしなくてはならない。長大な小説を書くには何年もかかる。時間のゆとりがない場合には不向きだ。紙が貴重品だったころにも制限がある。また、瞬時の思いや感動などはその場で言葉にしないと色褪せてしまう。死に臨んでは、まとまった文章を書く時間のゆとりがない。
     表現するには、表現の方法を選ぶということが必要で、その方法の長所を生かして用いるという考えが大事だ。しかし、なりふり構わずいろいろな方途で表現するということもあろう。いずれにしても作品を通して訴える真剣さが人の心をうつのだ。幻想であれ、奇天烈であれ、反骨であれ、苦悩であれ、審美であれ、芸術とはもともとそうしたものだろう。
     俳句・短歌は呼吸のようなものだ。かつて技巧を凝らした時期もあるが、自然に吐露されたもの、さりげなく語られたもの、そうだよねと共感できるもの、心が和やかになるもの。いずれにしても生活を豊かにするものだ。
     俳句・短歌を折に触れて詠み、それを蓄積していく。仮にこれを危険視する団体があるとする。 どのような団体が想定できるだろうか。
     俳句の場合は日本人に季節感を学習させてしまう。美しいものを美しいと感じる感性を育ててしまう。逆に真に醜いものを見抜く感性を育ててしまう。その他、諧謔趣味、反骨精神、仲間意識をもたせる川柳への橋渡しになる可能性をもっている。
     こうした効果を好ましく思わない団体を探すと面白い。・・・・・・意外といろいろありそうだ。

    日々雑感155「因果な話」

    日本刀には反りがある。七分反りをこえるとものになると、刀身の向きと振りの向きが一致しないと、止め手に若干の回転力を感じる。もちろん技量不足が原因だ。これも柄の拵えが手の内に合う仕上がりになっていれば、合理的な拳の締めによってある程度は気にならないものとなるだろう。
     反りが大きくなると、抜刀の際、柄頭で攻める位置と鞘引きの操作の関係が問題となってくる。常に同じ反りのものを使えばよいのだが、 複数のものを使う場合は、刀から受ける感覚の違いによって、場合によっては怪我につながる誤操作が引き起こされる。何事も適度と節度ということが重要だ。
     包丁にも反りがある。押切する蕎麦包丁のようなものはまっすぐなほうが都合がよい。しかし、厚みのある肉を切ろうと思ったら、肉と刃の作る角度を適切に維持するためには反りが必要になる。単に突き刺すなら尖っているだけでいい。
     まっすぐな人間より、反りのある人間のほうが御しにくい。反り具合がわからないから、反応と行動の予測がつきにくいからだ。魚雷もまっすぐ来るから回避のしようもある。野球の変化球も打ちにくいようにうまれた。だから、送球に変化球を使う愚か者はいない。
     反りが合わないといって分かれる夫婦がいる。元来、人間の反りなどというものは合うはずがないのにだ。それをすり合わせるというところに夫婦の冥利もあろうというものだ。
     子はかすがいという時代は終わり、自分の生き方だけを大事にする幼稚な人生観が大手を振って歩いている。夫婦の反りのすりあわせという基本的な手順を抜いているので、大人に成長できずいるのだ。この子ども大人に不幸にして子どもができても、子ども大人は子どもとのすりあわせができない。本能的には親になろうとしているにもかかわらず、精神的にはまだ子どもの段階なので、どうしても自分の生き方だけを大事にしてしまうのだ。ここに親自体の不幸がある。そのストレスをどう解消しているかで人間性が評価されているというレベルに今はあるのかもしれない。
     離婚率はこれからも上昇する。反りを合わせるというモデルを家庭内で学習することができなかった子どもたちが多くなってきているはずだからだ。また、ゲームで遊ばされる時間が増やされ、仲間で遊ぶ力をつけていく時間が少なくなった子どもたちは反りをあわせる機会を奪われているからだ。結婚する人が減り、離婚する人が増え、ますます子どもが少なくなっていく。
     介護する人が減り、外国では日本人向けに介護者が育成されているという。若い外国の娘が介護者として日本に大勢来る時代は必ず来る。彼らは日本向けに教育されているだけでなく、日本人があるものと一緒に捨ててしまったものを心に持っている。そうなれば、日本の若者が見劣りしてくるのは当然だ。国際結婚が増えてくる。さて、介護者としてくるのは女性だろうか。どんな問題が彼らを送り出す国の中に起こるのか。
     さてさて、因果な話となったが、新しい血が混じり、また一つ日本も再建の道をふやすことができるかもしれない。大きな流れではないけれど、こうした種類の小さな流れがいろいろに絡まることが大事だと思う。
    12/29/2006

    心の断片72「旅程」

    「旅程」

    翼広げて
    風の中ゆく
    頼りなし
    はるか遠方の灯火

    彷徨い辿る
    山路は陰り
    ひざまづく
    君と見まごう銀鈴花



    突然思い出したこと69「場」

    場という言葉がある。何かを説明するには便利な言葉だが、それ自体を説明するのは時間が要る。何が場なのか。何が場を成立させているのか。何のための場なのか。
     さまざまな場がある。人間社会の中で生まれる人間くさい場もあれば、物だけがつくりだす純粋な場もあれば、それらとは別の場もあるに違いない。
     小さい頃、広場という場所があった。何より広いかと言えば、部屋や庭、そして道が作り出している空間より広いということだろう。しかし、広場は野原より狭い。野原より人工的で、部屋や庭、そして道よりも人工的ではない。中には○○広場という名前の公園もあるけれど、公園と広場は区別したい。
     広場は野原より安全だが、庭よりも危険だ。広場と庭の間には公園がある。公園には遊具がある分だけ人工的だが、広場には遊具はなく、想像力と創造力が必要だ。広場が多目的であるのに対して、道は通るという一つの目的のために全員が行動する中で一般化されたルールを守ったり、邪魔をしないという相手に対する配慮を必要とする。広場は多目的だから、目的をみんなで決定する必要がある。それがうまく達成されるためのローカルルールが生まれる。その過程で争いも生じるから調整力などの問題解決能力が必要だ。野原では争いがより危険性を高めるから協力することが必要だ。庭の中では安全が確保されているから、無防備になって自分を解き放ち、心の休息をしなけるばならないので、自分にあった庭を構成するための自己分析力が必要だ。公園は遊具があるので、物に対しての対処を学ぶ必要がある。落ちないためにはどうするか、登るためにはどういう力を働かせたらうまくいくか、体を操ることを必要とする。合理主義の出発点となるだろう。
     子供はそれぞれの場を行きつ戻りつして、適応力をつけていく。何が違うかを感じて、対応の仕方を変化させる力だ。しかし、残念ながら1995年以降、外で遊ぶ子供が消えた。場不足の上ににせの場で奇妙な育ち方をした子供は、見た目は人間だが、昔の人間とは違う人間だと考えたほうが説明するのに都合がよいことが多そうだ。現在問題を起こしている子供たちとは別の問題を根底に抱える青少年がこれから出現してくる。それは、1995年以降に生まれた子供が親になったときに現れる。25年をプラスして2020年以降だろう。十代後半以降にならないと、問題が顕在化しないと考えると、2035年以降ということになる。もっとも、今の大人たちはほとんど死に絶えているから、別の見方をしてもらえるに違いない。場が変わっているのだ。世の中うまくできている。
    12/28/2006

    日々雑感154「耳を傾ける」

    後で分かるということ。「下衆の後知恵」に通ずるものがあるが、そうではなく、体で覚えていたことについて、そのときには知り得なかった理屈や心構えが後で分かってくることがある。
     分かってくると、体で覚えていたことがより確かなものとして身についたり、不足している部分に気づいたり、誤解していたことが修正できたりする。さらに、進化させることも可能だ。稽古というのはそのために繰り返されるのだろう。
     しかし、そのレベルに達するには、それ相当の年月がかかる。続けることの重要性はこんなところにもある。ところが、「まだそんなことをしているのか。よくあきないなあ。」と言われることもある。その言葉に心が揺らぐようでは修行が浅いということなのだろう。聡い人々はよい意味での見切りを見つけ、必要でなくなれば離れる。だから、愚直に続ける人を見てこのように言うのだ。しかし、凡人には続けないと分からないレベルというのがある。どこまでも扉があるのだ。それを一つ一つ開いていくのは何と刺激的であることか。この楽しみを知ってしまうと、分からないことがありがたく思われてくる。
     そうとも知らず、十代の頃はいつも「何か面白いことないかなあ。」などとつぶやいていたものだ。身の回りには実に刺激的なもので満ちあふれているということに気づかなかったのだ。物事を見る物差しを持たず、ただ面白いことを見つけようとしていたということだ。何とも悲しい受け身の生き方をしていたものだ。
     ところで、すべてが刺激的であるからこその疲れや麻痺もある。何に麻痺しているのかなどということも、きっと後で分かるのだろう。全く凡人というのは困ったものだ。これには、先に目を覚ました人の言葉や自分にないものを持っている人の話に耳を傾けることぐらいしか対策がないのかもしれない。いろいろの年代や職業の方とつきあってお話を聞くのは実際の生活では難しいが、ネットならある程度は可能だろう。
     もちろんネットなので、ネット用に制限されたり、編集されたりしたお話になるのだが、それでもたいへんありがたいものだ。

    怪しい広辞苑72「第四版89ページ・在りの遊び」

     なぜだろう。第四版89ページ「在りの遊び」(ありのすさび)の用例。
     広辞苑でが和歌を用例として挙げる場合、短歌で文字数が少なく、且つ、説明スペースに余裕があるにもかかわらず、一首のうちの部分だけを引用することが多い。特に万葉集から引用する場合は文字数が少ないことが多い。
     しかし、短詩形文学の場合は予期せぬ断章取義の弊害が起きないだろうか。短歌一首がつくっている世界を壊してはいけないと思うのだ。しかし、紙面の都合ということもあるので、充分考慮したうえでの省略ならよいのかもしれない。
     ところで、この「在りの遊び」の項目では、古今六帖から短歌が一首丸ごと用例として引用されている。まだ89ページまでしか広辞苑を読んでいないが、一首丸ごと引用されることは少なかった。引用の仕方に揺れがあるのはどうしてだろう。先の考慮によるものであろうか。
     用例として引用された短歌は「ある時は有りの遊びに語らはで恋しきものと別れてぞ知る」だ。
     もしかすると、一首丸ごと引用したのはこの歌に個人的な思い入れがあるのかもしれない。歌の内容は誰もが経験するほろ苦いものだ。あるいは、個人的な思いではなく、広辞苑を利用する学生へのある種のメッセージかもしれない。
     だとすれば、こういう引用の仕方の揺れがもたらす怪しさは人間的で好感が持てるものだ。しかし、短歌の引用の多くが断片的であるがゆえに、説明されるべき項目の語句が引用されている部分の中で他の語句と響き合わず、語句として生き生きと働いていない様子を利用者にさらしていることが多いように思えてならない。それは主観的なことだからどうでもよいことなのだろうか。
     辞書は意味だけ説明すればよいのではなく、利用者の言葉のセンスを磨く働きも持っていないといけない。語句の扱いが計算しつくされた和歌から用例を引用するのは、本来はそういう目的があったからではないのか。どの作品に使われた語句であるかを単純に紹介するだけの短歌の断片的引用のスタイルがほとんどなのは誠にもったいない話だと思う。もちろん第四版89ページまでの話だ。ここから先はどうだろう。
    12/26/2006

    日々雑感153「貧困なる話術」

    どんなに正しい考えも、程度を甚だしくすれば、残念ながら大方は誤った結末を導き出すことになっている。
     食事は大事だというのは正しい。しかし、いくら食事が大事だからといって、朝から晩まで食べ続けていては、必ず病気になる。
     命は大切にしようという考えは正しい。しかし、毎日食している生き物の命まで救おうとすれば、たちまちこちらが飢えてしまう。
     夢が叶えられるように努力するというのは正しい。しかし、いくら夢が叶っても、医者やサッカー選手、弁護士やアイドルばかりになってしまっては、経済が成り立たない。
     国民総大金持ちでも困る。1000万円払うからコップ一杯の水を持ってきてくれだの、1億円払うから靴を真っ直ぐにそろえてくれだのと言いかねない。自分で行うことが少なくなり、誰も働こうとせず、好きなボランティア活動しかしないから、ついには何も処理されず、何も手に入らなくなり、最後は金ばかりがあふれて残る。
     自分が主張が正しいはずなのに、なぜか間違っているという指摘を受けたとき、意図的に自分の主張が相手によって意図的に誇張されている場合がある。これによってどんな主張も正しくないものにされてしまうから恐ろしい。
     これは幼稚な手法ではあるけれど、日常会話の中の一つの話術としては許されるかもしれない。しかし、日常会話ではない場合に、無意識のうちにこの手を使うというレベルに話術が停滞している場合には問題がある。いつかどこかで相手をやりこめた快感がまだ残っているのだろうか。
     知らぬ間にこの類の貧困なる話術に頼っていないかどうかを確かめる必要がある。それには書きためたものを読み返せばよい。自分の文章を読み返すと、貧困なる話術に頼らざるを得ない国語力の衰えを感じる。その衰えは、いくつかの貧困なる話術に頼ることによってもたらされたものでもあろう。これをスタイルだといえばそれまでだろうが、変幻自在の豊富なスタイルを持たない限りはただの書きぐせにすぎない。
    12/25/2006

    日々雑感152「さわやかな風景」

    戦友が集まる。言い古された言葉だが、本当に時が経つのは早い。散り散りになったまま時だけが過ぎていた。とんでもない状況のとんでもない結末の、しかもまるで何もなかったかのごとく今となっては風景だけがさわやかだ。
     押し殺した叫びが運命の絡み合った巨大な構造物にひびを入れるのだ。すべてがすり抜けてゆき、時間の中でさかまいている焦りだけが記憶に残る。泥沼に沈みゆく虚空をつかむ腕を何度見過ごしたか。人殺しではない人殺し。救出ではない救出。解決ではない解決。積み重なる罪と忘却という処理。
     笑い話をいくつか思い出しておこう。知らぬ間にそれは作り話になるかもしれない。それもよかろう。

    心の断片71「ひとりごと」

    「ひとりごと」

    待ってはうれしく
    別れてはかなしく
    どうして
    こんなに心がゆれまどい
    むねがたかなるのだろう

    何もない世界に
    たったふたりでうまれたその思いを
    ずっとずっと忘れることができないからかな
    12/24/2006

    怪しい広辞苑71「第四版86ページ・アラン」

     どうでもよいことかもしれないが。第四版86ページ「アラン」の説明の2~3行目。
     「理性主義の立場から、芸術・道徳・教育など諸般の問題を論じた。」とあるが、この「芸術・道徳・教育」の順番に意味はあるのだろうか。
     もし、説明の順番に意味があるのなら「芸術」が主に語られ、「道徳」がそれに続くもの、「教育」は三番目の関心事であったという解釈をしていいのだろうか。それとも、逆に「芸術」が出発点で、「道徳」が次に語られ、「教育」を最も重要視したという解釈をしていいのだろうか。それとも、著作で有名なものがある順なのだろうか。
     もし、説明の順番に意味がないのなら、一般的な順番にしてほしい。アルファベット順ではないことは確かだ。ここはひとつ、UDCに従って「道徳・教育・芸術」とすれば、一応はすっきりはするだろう。しかし、やはり説明の順番に意味があると考えるのが普通だ。
     説明の3~4行目で著作を紹介しているが、「幸福論」「芸術論集」「わが思想史」という順番だ。著作の示し方はどうも「芸術・道徳・教育」の順番ではないらしい。どうでもいいことかもしれないが、第四版に掲載されていることの多くはどうでもいいことだ。
     次の項目が「有らん限り」で、その次が「アランダム」だ。その次は「阿蘭若」だ。「有らん限り」は、広辞苑を利用するだけの基礎学力がある人ならば、敢えて引かなくても意味を知っているはずだ。「アランダム」や「阿蘭若」にいたってはおそらく死ぬまで一度もお目にかからない言葉だろう。
     さて、それよりアランを読まねばならなくなった。広辞苑を読むということは、実に面倒なことだ。こういうことはかえって暇なときにはあまりにも面倒でやれない。かなり忙しいときこそ一日三〇分程度の時間を削って行う。一週間の平均睡眠時間が二時間を切らなければ大丈夫だ。今は五時間だから余裕はある。だから、今は暇だということだ。つまり、面倒に思う気持ちが先になり、読めそうにないということだ。
     しかも、今はより面倒な広辞苑を読んでいるので、ますます他の本を読むのが面倒な感じがする。こうなると不健全な読書生活をしている感じがしてくる。読んでいる広辞苑の字が小さくて読みにくいうえに、ストーリーのない説明だけなので、読んでいて面白くないのに、読み続けるのも不健康かもしれない。また、どうせ怪しいところを指摘しても、今回は岩波書店に直接言っているわけではないので、第六版に反映はされないだろうから、これから達成感も得られるわけではない。たぶん純粋に子どものためだと思って読み続けているのだろう。しかし、他の辞書を買ってあげればいいではないかとも思う。なんだお金で解決できるじゃないか。お金で解決できることをお金で解決しないということは、ある種の趣味だといえるのかもしれない。

    怪しい広辞苑70「第四版86ページ・あらわれ」

     どうしてだろうか。第四版86ページ「あらわれ」の2行目。
     「感謝のー」とだけある。項目は【現れ・顕れ・表れ】とある。では、「感謝のー」はどの「あらわれ」の用例なのだろうか。
     広辞苑の解釈では、どの「あらわれ」でも「感謝のー」に使えるということなのか。もし、そうでないのなら、まだ余白の14文字分を利用して、残りの二つ分の用例を挙げておくのが親切だ。いや、それでないと辞書を引いた意味がない。もちろん項目に挙げた順番と同じ順番に用例を挙げてくれるとうれしいのだが。

    怪しい広辞苑69「第四版86ページ・あらわす」

     これは早急にどうにかしてほしい。第四版86ページ「あらわす」の項目の4種類の漢字表記の表示の順番。
     【表す・現す・顕す・著す】の順番で示されているが、本当にこれでいいのか。
     ①には「表に出して示す。」②には「言葉などで表現する。」③には「<<著>>書物を書いて世に出す。④には「<<顕>>広く世界に知らせる。」と説明している。この説明の順番が、項目の漢字表記の順番に対応していないと変だとおもうのだが、どうだろう。
     妙なことに①と②の説明には、③と④に示されているような<<>>内に漢字が明記されている説明が省略されている。これはなぜだろう。
     また、ここにある説明に対応するように項目を書き直すと、【現す・表す・著す・顕す】という順番になるはずなのに、そういう順番にしなかったのは、なぜだろう。
     百歩譲って、項目の順番と説明の順番は必ずしも一致させなくてもよいとしよう。すると、③と④のように<<>>内に該当する漢字を書き入れた説明の仕方をするのが利用者を混乱に陥れない唯一の方法となる。しかし、そうすると、該当する漢字表記を示すという説明の仕方を①と②でしていないのが中途半端な処理だということになってしまう。
     ここは素直に項目の順番と説明の順番を同じにした上で、①と②の説明にも③と④と同様に、該当する漢字を<<>>内に入れて示すのがよい。広辞苑利用者が「あらわす」を引くとき、ほとんどの人が4種類の漢字の使い分けを知りたく思って引くに違いないからだ。
     学生はただでさえ迷って広辞苑を引くのだから、それ以上に混乱させてはいけない。いや、①②については漢字表記については逆順のために誤解を招くおそれすら充分にある。早急に何とかしてほしい。
     いや、待て。もしかすると、「表す」と「現す」はどちらでもよいというのが広辞苑の解釈なのだろうか。昔の教育を受けた僕はもう古いのかもしれない。そして、怪しいのは僕の方なのかもしれない。誰か教えてほしい。
     よく見れば、次の次の項目「あらわれる」では、項目の「表れる・顕れる・顕れる」の順番に従って、説明が①②③と対応している。しかも説明中に<<>>を使って該当する漢字表記を説明するというやり方をしていない。だから、順番に説明したとでも言うのだろうか。説明の処理の仕方がどうにも解せない。

    突然思い出したこと68「歪み」

    歪むということ。問題は、どう歪められたのか、あるいはどう歪めたのかということ。さらに、その結果、実際にはどう歪んでしまったのかということ。
     すべてが同じだと互いに区別がつかない。しかし、何らかの拍子に歪んだり、敢えて歪めたりすると形を意識する。その歪み方や歪め方の違いで自分と他との区別ができるようになる。形が変わりにくいものなら、あり方が変わったり、あり方を変えたりする。また、性質が変わったり、性質を変えたりしてみる。いずれにしても歪んだことには変わりない。
     他との区別によって役割分担が容易になる。役割に不都合が生じるときは、再び歪め方を変化させるだけだ。
     役割分担があるからこそ、任すことと任されることが可能となる。役に立たない歪み方は受け入れられないだけだ。
     ただし、いつも自分と比べている近くの存在が同じように少しずつ歪んでいくと、歪んでいくこと自体が分からない。すると、歪んでいても歪んでいないように感じられ、自分の存在意義が希薄だと思うようになることもある。役割分担もしにくいから、チームとしての働きも悪くなる。
     そこで、さらにその共通した歪みを基本として自分なりに少し歪め、他との比較において自分自身の存在を確認できるようにし、取り敢えずは安心しようとする。さらに、よりよく命を全うしようとすれば、無理なく合理的に機能しなければならないから、水平方向の役割分担や垂直方向の役割分担をし、他と協力し合える体制を組み立てていく方向に変化させる必要がある。自分という箱を上手に収めるさらに大きな箱を作り上げるためにだ。
     このたゆまぬ変化が同じく変化を続ける周囲の状況に適合し、合理的な歩みを続けることができる。
     個性というのはこのような特化ともいうべき苦し紛れの成果だ。苦し紛れではあるけれども、努力と譲歩との成果であるという点で尊いものだ。
     しかし、歪みには性格の歪みというものがある。これも何かに都合がいいように目的的に表面だけ歪んだはずが、何を間違ったか不幸なことに人格の中枢まで歪んでしまったのだ。そのために不都合が起きていることに本人が気づいていないのか、変化するエネルギーがないのか、とにかく変化することを忘れてしまったかのようだ。歪みを生かした生き方ができる環境があれば探せばよい。なければみずから作り上げればよい。作れなければ我慢すればよい。我慢できなければ歪みも少しは変化するだろう。変化できなければ破滅すればよい。破滅しなければ周囲が破滅に導くことになる。このように性格の歪みは恐ろしい。ピンからキリまでの体験を豊かに積んで歪まないように予防するしかないだろう。
     歪みといえば、日本女性の髪型は江戸時代の間に随分と歪んだものだ。手間暇かかるだろうにそれが複雑化したのは、ステイタスと関連性でもあったのだろうか。結い方を誰が考案し、流行させたか分からないが、今となっては民族衣装を纏うときに鬘が要るというのだから、誠に奇妙な事をしてくれたものだ。それでも、江戸時代の日本髪を他国で流行させるという可能性を遺産として残してくれているのだからありがたいと考えよう。

    心の断片70「午後の体調」

    「午後の体調」

    ふんばるのは機械仕掛けのかかと
    僕の肌はコンクリートで
    目はまがい物だ
    ボルトのゆるんだ頸椎が支えるのは
    シャーベット状の大脳が注入された
    ざくざくのささくれの頭蓋骨


    12/23/2006

    心の断片69「塔」

    「塔」

    塔がたつ
    高くそびえて何を告げるか

    もう我慢のできぬ瓦を やまのように背負いながら
    どうして塔はたっていられるのだろう

    大工も僧侶も死にはてて
    それでも塔は在らねばならぬ

    組まれた木々と
    亡霊たちの小声・・・・・・

    ここにいる資格など僕にはない




    心の断片68「昼さがり」

    「昼さがり」

    オルゴールの箱を開けたよ
    何もないからの箱だよ
    ゼンマイはかたくて
    動かないけれど
    それでも美しい
    オルゴールの箱だよ

    今日はいつもとちがう
    何もない日だよ
    僕だけの時間が流れて
    少年の日の思い出
    だいだい色に心地よい
    日曜日のあたたかな昼さがり

    12/19/2006

    怪しい広辞苑68「第四版79ページ・綾子」

     これはよくわからないが。第四版79ページ「綾子」の説明。
     綾子とは女性の名前ではなく、「あやっこ」と読むらしい。「(×印のことで、魔除けのしるし)生まれた子を初めて宮参りさせるとき、額に鍋墨か紅かで魔除けとして「×」「犬」「大」などのしるしを書く風習。やすこ。」とある。なんだこれは。
     ほんとうに「×印」なのだろうか。「ばつじるし」とはどういうことなのか。このような否定的な記号を子どもの額に書くというのは、特別な意味を持たせているか、最初から「ばつじるし」ではないものだったかだ。魔除けという目的が確かだと仮定して、少し想像してみよう。
     「×」が「ばつじるし」の場合。子どもは無力で魔に侵略されやすいという考え方があれば、額に「ばつじるし」を書いて、「これは人の子に見えるかもしれないが、人ではないぞ」と主張し、「侵略されやすい存在である幼子」だということを否定することもあろう。
     「×」が「ばつじるし」ではない場合。単なる記号でなければ、漢字かもしれない。漢和辞典をひもとくと、「乂」という字がある。音読みで「ガイ」、訓読みで「おさめる」だ。簡単な字なのに習わない。大辞典は買えないので、旺文社の漢和中辞典を使っているが、広辞苑と一緒で年に一度ほどだ。以下、抜粋。「①かる。草を刈る。②おさめる。おさむ。(治)③すぐれる。(傑)すぐれた才能。また、その人。④こらしめる。【乂安】国が安らかに治まること。【乂寧】世の中が治まって安らかなこと。」とある。
     こうなると、やはり漢字であると考えるのが自然だと感じる。幼子の額に「乂」を書いた理由が普通に理解できる。心身共にまだ不安定な幼子が健康に育ちますように、丈夫に育ちますように、すぐれた人となりますようにと神に祈るためだ。
     さて、「犬」「大」とも書くと広辞苑では説明されているが、この順番で進化したものだろうか。「×」や「乂」がスタートとするなら、特別な事情がない限り、「大」→「犬」の順に複雑化するのが自然ではなかろうか。
     それはともかく、「大」の字を書くことは何の意味があるのか。単純に「乂」に一本付け足せば「大」の字になる。「大」の字を書くことは「大きく育て」という願いを示したものだろう。あるいは、もしかすると、その意味を持たせつつ、「人」という字を「一」という線で消したということを示しているかもしれない。これは先に述べた「これは人の子ではない。だから侵略しても価値はないぞ」という宣伝になる。
     飛躍するが、「大」は「士」の変形かもしれない。「士」は男性器を表している。これに対して女性器はなんとなく「小」で表せそうだ。すると、「大」と「小」という対ができる。そこで、男の子には「大」、女の子には「小」と額に書けば、男子か女子か分からない幼子の性別を明らかにするとともに、性器の形を象徴する漢字の対から出発し、「男は大きく丈夫に育て、女は小柄に美しく育て」という品のよい願いに変調することができる。
     もし、性器の象徴であれば、「男は子どもを産ませる力を持て、女は子どもを産む力を持て、そうなるまで育て、そして子どもを産め。今おまえが子どもであるように。」こんな調子の願いになろうか。まさしく「むすこ」「むすめ」となれだ。「むす」は「苔生す」の「むす」に通じるように感じる。
     生まれて間もない幼子をお宮に連れて行くというのだから、願を掛けるに決まっている。それがどんな調子の願いであれ、親心には違いない。
     さて、「犬」を書くとはどういうことだろう。時代劇で犯罪者が額に「犬」の彫り物をされていたのを、なるほどと感心してみていたものだが、これとイメージがダブってしまい、お宮参りの幼子の額には不釣り合いな文字だと感じてしまう。
     無理矢理に先程の流れを汲んで「人ではない、これは犬なのだぞ、だから侵略しようとすればひどい目に遭うぞ。」という感じで解釈してしまっていいのだろうか。あるいは、「犬」を安産・多産というイメージでとらえ、「犬にあやからせていただきました。そのおかげでお産も無事に終了しました。どうもありがとうございました。このとおり犬という字で飾っておりますよ。」という気持ちを表しているのかもしれない。少なくとも犬帯をしめる風習は、実用的な面を持っていることもあり、広く現代でも見られると思う。
     それにしてもなぜ「綾」というのだろう。確かに「乂」は見た目が綾だ。縄跳びの綾跳びもこんな感じでクロスする。普通見かけない「乂」という漢字を、見た目から綾と呼んだのだろうか。「子」はただの接尾辞だろうと思うが、どうだろう。
     ここは「魔除けとして「×」「犬」「大」などの」でいいのかもしれないが、「魔除けとして「乂」「大」「犬」などの」としてはどうだろうか。漢字ばかりで三つ画数順に並べるのだ。その方が統一性があっていいように思うのだが。

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    12/18/2006

    日々雑感151「小道具は偉い」

    勝負の場で、小道具というものが意外と絶大な力を発揮する場合が多い。すべての流れを小道具ごときが変えるのだ。
     これをポケットからさりげなく出す。出すタイミングが計算され尽くされているだけに、このさりげなさが大事だ。複数の異なる小道具をポケットに入れておけば、必要に応じて選択し、適したものを出せる。こうなるとポケットがいくつかあるスーツがよい。内ポケットも合わせて最低4種類の小道具を備え置おくことができる。
     日常的な小道具としては、紹介したい店の名刺であったり、小さな人形であったり、珍しい筆記用具であったり、小さなメジャー、レーザーポインター、フラッシュメモリーだったりしてもいい。フラッシュメモリーにはあらゆるカテゴリーの最新情報をフォルダーに分けて入れておけるので、自分用、また提供用にと便利だ。ミントの小瓶なども荒れた場の雰囲気を和らげるにはこっそりと使えそうだ。小型カッターナイフ、ポストイットなども身につけておきたい。また、占い手帳のようなもの、お化け探知機のような怪しいものも面白い。チューインガムのようなものもさまざまな用途で使える可能性がある。折りたたみ式日時計なども面白い。100円ショップの薄巻きガムテープと雑誌があればインスタントで飛び道具と接近戦用の簡単な武器が作れるので、重宝する。追いつめられたら闘うしかないのだ。
     舶来物や名の通った会社の商品である必要はない。タイミングを外さず、バランス感覚のある意外性を演出できる物であったり、思考の流れをかえる新しいヒントを得られるような物であればよい。用途以外の使い道ができる物も有利だ。どちらかというと無名の物の方が価値が高く使える。ステイタスシンボルである必要は全くない。一般的に価値ある品物と定評のあるもの以上の使い方ができるものを手に入れようと日頃から心がけていると、案外見つかるものだ。そのためにはホームセンターのようなところをくまなく観察するのも一つの手だが、普段なら入らない種類の店や専門店に足を運ぶのも学ぶことが多い。また、普段なら縁のないさまざまなカタログを手に入れるのもよい。