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29-12-2007

恐怖シリーズ102「正当化」

 働き蟻のうち3割程度の蟻しか働いてはいないという。これは、人間の脳が少ししか働いていない理由と同じだろうか。
 働き者ばかりを集めて一 つの集団にすれば、全員働き者の集団ができるかというと、そうはならない。一部の者が怠け出すようになる。逆に、怠け者ばかり集めて一つの集団にすれば、 全員怠け者の集団ができるかというと、そうはならない。怠け者集団のなかにもそれなりの働き者が出現し、一部の者はやはり怠け続ける。このようなことが実 際に確かめられれば面白い。
 確かめるなかで、作業の種類別、作業能力別の怠け率を出せば、これを応用した効果的な人事が実現しそうだ。どの部署にどのような怠け方をする人物をどの程度配当すれば、仕事の効率を総合的に伸ばしていけるかという相談は現実味を帯びている。
  全員が働き者であり続けるのも、全員が怠け者であり続けるのも不自然なことのように思う。一つの集団にいろいろな色合いができるというのは自然なことで、 純粋なものの方がよく考えてみると特殊だ。道端の石ころを見ても、いろいろな種類が混じっている。その中の一つの石ころを見ても、いろいろの鉱物が混じっ ている。
 そうした混じったものの中の一部を人間が利用しようとして取り出す。そのように人為的に集められたものは実に不自然だということにな る。しかし、不自然なだけに特殊な力を発揮することが期待できる。例えば、薬というのはそういうものだろう。人間の場合は、特殊な力をもった人が、ある純 粋な環境のなかである割合で生まれ出で、特殊な状況のなかで特殊な力を発揮するのだろうか。
 怖いのはその逆の人間がある割合で登場するのではな いかということだ。何かあることを目的に個人や社会が目標を立てて努力をし、財政を費やす。それ自体は何ら悪いことではないが、薬を作りつつ、そのことに よって同時に毒を作りつつあるという状況を招いて、その毒が許容範囲を超える状況を招くものならば、その目標は悪い目標となってしまう。目標のレベルを下 げるか、それができなければ、最初からその目的を持たないことだ。
 本当はよくない目的というものがあるはずだ。普通、目標は100%正しいという仮定で動いている僕たちだが、目的についてそれ自体を分析して調整するこ とを怠れば、どんな集団でも長くは続かないだろうと思う。目標を持つことはよいことだが、それゆえに目的まで正当化されてしまうという恐れがある。この錯 覚は目的が正しいために起こる目標の正当化とともに実に恐ろしい。
 どの国も工業国になって豊かになろうなどという目的で施策を打てばどういうことになるか。どの親も子どもを医者にして豊かな 生活や社会的地位を得ようという目的で働きかけたらどういうことになるか。どの陸上競技のチームも世界記録を塗りかえる目的で練習したらどういうことにな るか。しかも、決してあきらめるなという応援つきなのだ。
 さて、誰もが正しい目的として疑わない世界平和はどうだろう。自国の平和すら危ない国 ばかりだ。僕たちは何か錯覚を起こしているのではないだろうか。もちろん、世界平和を目指す道を探るというのは正しいことなのだが、それ以前に何かをたく さん錯覚しているためになかなか探りきれないのではないだろうか。
 働かない働き蟻は、何か緊急事態が起こると働いていた働き蟻に合流して働き出すらしい。

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心の断片115「回覧板」

「回覧板」

迷える者 みなこぞれ
言葉紡ぎて絡み合え
飢える者 みなこぞれ
互いの肉塊貪りつくせ
悩める者 みなこぞれ
時なく暇なく死ぬまで働け
貧しき者 みなこぞれ
神を見つけて跪け
怪しき者 みなこぞれ
真の孤独を食らい合え
悲しき者 みなこぞれ
うすき涙を競い合え
忙しき者 みなこぞれ
あわれ命を請い願え
危うき者 みなこぞれ
いつわりあざむき裁かれよ
ゆゆしき者 みなこぞれ
互いの正体暴き合え


19-12-2007

怪しい広辞苑116「第四版138ページ・伊勢瓶子」

 広辞苑第四版138ページ「伊勢瓶子」の説明はこれでよいのだろうか。伊勢産の瓶子。酢を入れるのに用いたという。平家一「ー(伊勢平氏とかける)はすがめ(酢がめ・眇)なりけり」 
 確かに平家物語には忠盛をからかう「いせへいしはすがめなりけり」という言葉が出てくる。広辞苑に書かれているように「酢がめ」なのかもしれないが、一方で「素がめ」なのかもしれないという疑いがわいてくる。
  「すがめ」を広辞苑では疑いもなく「酢がめ」と書いているが、どこにその根拠があるのだろうか。「酢がめ」か「素がめ」かどちらか分からないのが本当ではないだろうか。もちろん、「すがめ」は掛詞で、「忠盛は眇だ」ということを言って忠盛を怒らせたいのだから、「酢がめ」だろうが「素がめ」だろうが、そんなことはどちらでもかまわない。貴族的嫌みという話の流れを考えると、やはり「酢がめ」なのかもしれない。
 つまり、酒宴の席だから、「田舎者の平氏は酒の味など分かるまい。うまい酒も味わうこともなくただ飲むだけだろう。だったら、古くなって酢になった酒でも飲んでおけ。そこにいる平氏は酢がめのようなもんだぞ。わっはっはあ。」という感じなのだろうとも思う。しかし、これでは広辞苑の説明とは大きく違ってしまうので、見当違いかもしれない。
 普通の感じ方というものはどういうものだろう。たとえば、平仮名表記にしてある場合は、「酢がめ」でもあり「素がめ」でもある「すがめ」という表現だと考えるの方が自然だと思う。つまり、「素がめ」だから「酢がめ」にしか用いられないという了解の仕方だ。これは広辞苑風だが、広辞苑では「素がめ」という言葉は出てこない。
 では、実際にはどのように表記されているのだろうか。
①酢瓶……岩波書店「天草本平家物語」新村出 序並閲 亀井高孝翻字 1927(天草本)
②酢瓶……岩波書店「平家物語上・下」高木市之助 古典文学大系 1959(龍谷大学本)
③酢瓶……角川書店「平家物語」佐藤謙三(流布本)
④醯瓶……伝嵯峨本「平家物語」古活字版☆
⑤すがめ…思文閣出版「平家物語」 影印本(龍谷大学本)
⑥すがめ…笠間書院「高野本平家物語」市古貞次編 影印本 1973(高野本)
⑦すがめ…名著刊行会「平家物語長門本」黒川真道校 1974 (長門本)
⑧すがめ…国会図書館本「平家物語」
⑨すがめ…京都本「平家物語」
⑩すがめ…城一本「平家物語」古活字版 1628☆
⑪すかめ…「平家物語」古活字版 1624☆
⑫スカメ…屋代本「平家物語」室町時代写☆
⑬すかみ…「平家物語」古活字版 1626☆
 便利な世の中になった。④⑩⑪⑫⑬は大学図書館にある貴重な本でも、写真画像で読むことができた。数年後にはほとんどが電子化するに違いない。わざわざ出かけなくてもよい。触るだけで体がかゆくなるようなこともない。のぞきに来る人もいない。しかし、くにゃくにゃした変体仮名が読みづらいのはどうしようもない。しかも写真なので語句の検索ができない。
 しかし、人の手が入ってないということは、それだけ昔のままの姿を目にすることができるということだ。活字にしたり、コンピュータ入力する時点で、思いが入る可能性がある。
 ①から⑬までを眺めると、少なくともこの中には「素がめ」などはない。しかし、「醯瓶」となっている古い本は「伝嵯峨本」と言われているものだけだ。その他の古い本は一つの片仮名表記を覗いて全て平仮名表記だ。もちろん「醯」は「酢」のことだ。
 意地悪な見方をすれば、漢字表記されている例があるということを頼りに、多くの本で見られる「すがめ」は漢字で書けば「酢瓶」なのだろうと決めたという作業をしたということだ。
 しかし、たった13例だけを見て、あれこれ言うのは乱暴なことだ。ただ、⑬が「すかみ」となっているのは、酢瓶とか素瓶などというものと、眇というものを掛けようという意識はなくなっているように思う。
 また、②と⑤は同じ龍谷大学本を底本としているが、現代人用には岩波書店から「酢瓶」として提示され、昔の影印本では「すがめ」となっている。龍谷大学本にも何種類かあって表記の食い違いがあるのだろうか。
 ともかく、1959年に岩波書店で出した「平家物語」で「酢瓶」となっていたので、同じ出版社の広辞苑も「酢がめ」にしたということなのだろうか。そんなことはあるはずないと思うのだが、一応1955年の広辞苑初版を見なくてはいけなくなった。
 僕も13例中5例しか現物の文字の写真を見ていないので、5例中1例は「酢瓶」3例は「平仮名」1例は「片仮名」としか言えない。「平仮名」であることが多いのは、もしかすると掛詞だからという理由からかもしれないとは感じる。
 そもそも、平家物語の基礎知識など少しもないので、どういう研究がなされていて、それがどのように辞書に反映されているかなどということは知るよしもない。
 無知というのは恐ろしいものだ。分からないことは調べなくてはいけない。調べるということは実に時間がかかるものだ。だから、時間つぶしにはよい。しかし、つぶしてよい時間などそうそうあるものではない。ここが人生苦しいところだ。そこで辞書に頼ったり、耳学問に頼ることになる。しかし、頼るべきものは、どの程度頼れるかを確認しなければならない。そのためには調べなくてはならない。この堂々巡りは本当に恐ろしい。
 とにかく、こうしたことは暇な人々に任せておき、僕たちは日々の仕事に精を出せばよいということだ。

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<平家よりの本 画像クリックで説明画面へ>
15-12-2007

怪しい広辞苑115「第四版137ページ・伊勢代参」

 広辞苑第四版137ページ「伊勢代参」の説明が少し不自然に感じるのはどうしてだろう。
 「代表して伊勢神宮に参詣すること。特に、江戸時代、正月七日に将軍の代わりに参拝した使をいう。」とあるが、この説明だと「代参」が「代理参拝」のことか、それとも「代表参拝」のことかが曖昧だ。広辞苑第六版ではどうなっているのだろう。
 つまり、一文目の説明が「代表参拝」なのに、次に「特に」と続けているのにもかかわらず、二文目の説明では「代理参拝」を挙げているという「ねじれた説明」が、利用者の首をかしげさせてしまうのだ。
  また、一文目では「参詣」、二文目では「参拝」という語句を選んでいるのはどういう訳だろう。同じ語句を使うことを嫌う文学的な趣味なのか。それとも訳 あって敢えて使い分けたのだろうか。もしかすると、「使」という言葉があるから、その中に「詣でる」という意味が込められているということなのだろうか。
  説明の頭に「代表して」とあるが、いきなりそこから説明が始まるのも変更してほしい。「代表する」という言葉は「何を」という言葉をその前に述べることを 必要とする言葉だ。それが省略されてしまうと、唐突な感じがするのだ。ここでは「講を」とか、「信仰仲間を」とかいう語句を前に置けば、自然な感じがする ように思う。どうしても「代表」という言葉から始めたいのなら、「代表で」というように動詞をやめて名詞を使えば、「何を」よりも「何の」という言葉の要 求の方が弱いように感じるので、どうしても省略するというのなら、「代表で」で始めた方がいくらか自然な日本語になると思うのだが、考えすぎだろうか。
  さて、「代参」はもともとは「代表参拝」なのだろうか、それとも「代理参拝」なのだろうか。信仰が広まり、遠方から旅立つということになれば、昔は多くの 旅費がかかるので、講をつくってみんなでお金を出し合って代表に参拝してもらうということになるから、「代表参拝」となるらしい。このように、「代表参 拝」には経済的事情がある。
 裏を返せば、泊を伴わない近隣地区からの参拝には旅費が多くかからないため、基本的には「代表参拝」はないというこ とになる。その代わり、身体や年齢、日程等の都合で本人が動けない場合には、ごく自然に「代理参拝」ということになる。このように、「代理参拝」には個人的 な事情がある。
 こうしてみると、信仰が遠く広まって参詣するのに泊を伴うようになる前の段階、つまり「代表参拝」が始まる前の段階でも「代理参拝」はあり得ることだとすぐわかる。すなわち、「代参」とは、もともと「代理参拝」のことだということ になる。
 もちろん、それは現象としての「代理参拝」であって、言葉としての「代理参拝」はなかったかもしれない。もしかすると、「代表参拝」を意味する「代参」という言葉が普及してから、「代理参拝」という現象について初めて「代参」と表現したということかもしれない。どういう経緯があったにせよ、結果と して「代参」の意味は二通りになっていったということだ。
 広辞苑は少なくとも第五版まで、意味を古 い順に記載していく体裁をとっている。このことと、この「伊勢代参」の説明とが妙にちぐはぐになっている印象を受ける。説明の一文目に「代表して」とあり、二文目に「代わりに」とあるから、説明の順番が逆のように感じてし まうのだ。
 ただ、二文目は「特に」で始まるから、この順番になるのは仕方ない。残された方法は一つ。一文目の前にもう一つ「伊勢神宮に代理で参拝すること。」というような文を書き、次に「または、講を」とか「または、信仰仲間を」とかいう語句を現在の二文目につなげば、説明の流れの不自然さも幾分か解消すると思うのだが、どうだろう。
 第六版ではどのようになっているのだろうか。やはり購入するしかないのかもしれない。

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14-12-2007

変な疑問81「にせものとまがいもの」

 「にせもの」と「まがいもの」は同じものだが違う。
 「にせもの」は「偽物」とか「贋物」とか書くが、「にせもの」の「にせ」は「似せる」の連用形が名詞の働きをしているもののように見える。本物に似せる努力が「にせもの」にはにじみ出ていなくてはいけない。似せたのは、それを製作した者だ。だから、「にせもの」は作り手の立場で表現したものだと言える。この言葉からは、製作者の健気さや心意気、本物ではない悲しさや打算、そしてしたたかな工夫が読み取れる。
 「まがいもの」の方は「紛い物」と書くが、「まがいもの」の「まがい」は「まがう」の連用形が名詞の働きをしているもののように見える。「けんかまがいのプレイ」の「まがい」は、喧嘩と競技との区別がつきにくい状態のことだ。「詐欺まがいの行為」の「まがい」も、「詐欺」と「ある行為」との区別がつきにくい状態のことだ。
 つまり、「まがいもの」は「にせもの」と違って、本物と見分けのつきにくい状態を中心に表現したものだ。その仕上がり状態が話題の中心だ。「まがう」者、見分けがつきにくいのは、その「まがいもの」に直面した評価する立場にある者だから、買い手の立場で表現したものだとも言える。この言葉からは、評価者にありがちな見下しや優越感、陥れられそうになったことをいまいましく思う気持ち、まがいものだと見切った安堵感、もし本物だったらどうしようという不安感が読み取れる。
 本物ではないから、どちらも同じようにうら寂しく、「にせもの」と呼ばれたり、「まがいもの」と呼ばたりして裏街道を歩くようなイメージもある。
 しかし、「にせもの、まがいもの」と「本物」との境界線は曖昧だ。ときには本物を凌駕する。本物が「オリジナル」としての価値しか持たない場合も多い。
 人間とて、ほとんどが「にせもの、まがいもの」だ。だからといってその存在を否定されはしない。おそらく、何が本物だか分からないほどに複雑な事情になっているからだと思う。それはひとつの救いだとも言える。
 人間の場合は、「ものまね」とか「まねもの」とかいう言葉を考えた方がよさそうだ。どちらにしても、「まねられる」ということは、価値を認められているということだ。そして「まねる」ということは、相手の価値を認めているということだ。これについては、人間らしく美しい行為だと言う人もいるだろう。
 しかし、考え方や行動ではなく、お金がからんでくると、やはり著作権だの特許権だのと見苦しい戦いをすることになる。これは必要な戦いだからやめるわけにはいかない。これについては、人間らしくいやらしい行為だと言う人もいるに違いない。
 それはともかく、「真似する人から、真似される人となれ。」と祖父に言われたことがある。そうしているうちに本物になれることもあるということだろう。
 ただ、「にせものまがい」ということがあるかもしれない。あくまでも「ほんもの」なのだろうが、価値のない本物ということになるので、これはこれで非常に悲しく感じる。こういう人にはなりたくないものだ。しかし、得てして「こうはなりたくない」と思ったようになっていってしまうことも多いように思う。
 僕はどんな「にせものまがい」になってしまうのだろうか。

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変な疑問80「強い指と弱い指」

 足の握力はどのぐらいあるだろうか。握力というのは手の場合でもそうであるように指を曲げる力のことだ。
 測定したわけではないが、僕の場合は親指を折り曲げるのが最も強い力を出せる。次が中指、そして小指。人差し指と薬指はほとんど力が出せない。試しに手の指も確認してみると、やはり同じ順序で力が出せなくなっていく。
 力が出ない指が一本置きにある。そこで、親指、人差し指と中指、薬指と小指という3つのグループに分けると、力の出具合がそれぞれのグループで同じぐらいの力になるように感じる。
 では、足の指の場合はどうだろう。動かし方を見ると、親指とその他の指という2グループのように見える。しかし、強い指と強い指に挟まれた形で弱い指があるというのは、それはそれでバランスのとれた構成であるように思う。
 感覚と実際に測定したものとは食い違うはずだけれど、実生活ではいちいち測定しながら体を動かしているわけではない。感覚というものは、数値化されたものと比べるといい加減なもののように思われるけれど、実はそうではない。理論はあくまで理論であって、最大限の力にすぎない。実際には力というものは加減されて出されている。
 結局はバランスよく力を出しているかどうかが重要なポイントとなる。バランスよくというのは、同じ力の大きさということではなく、力を加えるものの形やかたさやもっている場所や向きやこれから動かそうとする位置など、いろいろな条件の上に立って、力を出すタイミングや力の強さや力を抜くタイミングが最適なものであるということだ。
 特に人間の場合は道具を使うから、その場合のこうした微妙な作業を瞬時にこなしていくには、やはり強い力を出せる指の横に弱い力の指を添えておくのが合理的であるように思うが、本当のところはどうなのだろうか。
 おかまの方が小指を立てるのは、力強い手の働きを崩し、繊細な動きに見せるための本能的な手法なのだろうか。また、二本の指で物をつかむには、親指と薬指がより繊細な動きになるということになろうか。
 つかむということに関しては親指を使わざるを得ない。問題は親指の相手を何指にするかということだ。小指では中の3本が目立って無様に見える。相手が人差し指では、不測の事態に応じることができない。相手が中指だと、しっかりつかめるとともに、不測の事態に他の指がフォローしやすい。相手が薬指だとやや危うさが出てくるものの、それが繊細で慎重な動きにつながることになる。
 こうして改めて注目してみると、普段当たり前に使っていた指がそれぞれにいとおしく思われてくるのは面白い。


13-12-2007

変な疑問79「偶然と必然」

 偶然と必然が協働して今があることは間違いないと思う。
 しかし、一口に協働といっても、いろいろありそうだ。空間的に偶然で時間的に必然。時間的に偶然で空間的に必然。両方とも偶然で、両方とも必然。偶然が必然を呼び込み、必然が偶然を呼び込む。偶然に集まったものの中からの必然的な選択。必然的に集まったものの中からの偶然の選択。……。
 ところで、「必然的に」とは言うが、「偶然的に」とは言わずに「偶然に」と言う。必然を拒み、偶然であることを願う心があるからだろうか。

12-12-2007

変な疑問78「ご命日占い」

 死亡日占い。世の中に誕生日占いというものはあるが、「死亡日占い」というものはあまり聞いたことがない。死亡日というと、事務的に感じられて、お亡くなりになった方に失礼なような気がするので、「ご命日占い」ということにしよう。
 これは、どんな内容の占いになるのだろう。来世がどうなるかという占いになるかもしれない。遺族がどうなるかという占いになるかもしれない。いつご臨終となるかという占いになるかもしれない。
 来世がどうなるかという占いだとするとどうか。死ぬ間際の人にとっては、地獄行きか天国行きか、それとも現世をさまよい続けるのかというところが気になる。しかし、本当はその他にも行き先はあるかもしれない。そうなると不安でおちおち死ぬことができない。
 つまり、「ご命日占い」は、死後の行き先がご臨終の日時によって決まるという考え方に基づいてなされる占いになるわけだ。ご臨終予定日から、来世がどうなるかという占い結果を出す。その結果が気に入らなければ、ご臨終の日を調整すべく、延命したり、早めたりの処置を医者に依頼することになる。
 次に、遺族がどうなるかという占いだとするとどうなるか。家族の誰がいつご臨終を迎えるかによって遺族の運勢がどうなるかを占うものになるだろう。これは大変だ。家族の意見がまとまらないと、どこまで延命するかが決定しない。もしかすると、占い結果によってはご臨終予定日を早められてしまうかもしれない。これは家族とはいえ他人の思惑が入るので、そら恐ろしい。
 いつご臨終となるかという占いだとするとどうなるか。これは気に入る日になるまで占い続けるだけだろうと思う。仏滅がよいか、大安がよいかなどと考える人もいるかもしれないが、誕生日前日になれば切りがよいと考える人もいるだろう。結果によってはショックのあまり、占い結果よりも死期が早まる場合も出てくるだろう。それは、占いパラドックスとでも呼べばいいのだろうか。
<これに相当する死亡日占いはこの世では作成不可能だ 画像クリックで説明画面へ>

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08-12-2007

恐怖シリーズ101「ボタン」

 体験が少ないと過ちを犯しやすい。体験が少ないと心が育たない。体験が少ないとつまらない人間になりやすい。体験が少ないと不幸になる。それは体験を知恵の種、つまり経験に変換する回数も少なくなるからだろう。
 餅つきを体験したことがある人は体験したことがない人よりも、体験から自然に学んだことが知恵となっているので賢いということだ。また、自然にではなく、学ぼうという意識が働いていれば、知恵として学べるものの数を多くできるはずだ。
  餅つきをする。回数をこなしているうちに、たまたま上手に餅がつける。周囲の人々が褒めたり、自己満足することができる。そうした中で、より上手に餅がつ けるように工夫するようになる。自分の体験をもとに自分の頭で考え、他人の声をアドバイスとして聞くことができるから、餅つきの技術が向上し、身について いく。
 このように技術を身につける過程で、餅つきという行動のイメージが体に染みこみ、必要に応じた形で定着し、必要に応じてそれが生活に応用されるようになる。つまり、餅つきという特定のイメージによる発想が生まれるようになる。
  たとえば、ある人は技術を習得する過程で、餅をつく前に杵でよくこねることが重要だと悟ったとする。同時期に、日常生活では子どもの教育に関わる問題を抱 え始めていたとする。すると、餅つきがうまくいかなかったことと家庭教育がうまくいかないことが自然に頭の中で重ね合わされ、問題解決の糸口を見つけるこ とになるかもしれない。
 彼の頭の中ではおそらくこんな事が起こる。「蒸した餅米を杵でこねるのが不十分だと、がんばって杵でついても餅米は飛び 散るだけで、うまくつけない。」という記憶やイメージが漂っている。「うまくいかない子育ての悩み」が場面場面の記憶やイメージとして漂っている。それが 「うまくいかない」というキーワードかイメージによって互いが引き寄せられて「子どもも一緒かもしれない。」と重ね合わせてひらめく。「杵でよくこねてお くのが、家庭教育かもしれない。すると、学校教育は杵でつくことだろう。形を整えて食べられるように料理するのが社会教育かもしれない。」となぞらえるこ とで、彼が餅つきで工夫したことを自分の子どもの教育問題を解決するためのヒントにしようと思いついて、実際に試みるのだ。
 彼が餅つきで工夫したことが次のようなことだったとする。「まんべんなく丁寧に力強くこねること」「いきなりがんばって力を入れてこね始めても、すぐ疲れてしまうこと」「熱いうちにこね始めないと作業がたいへんなこと」
  すると、頭の中で次のように変換される。「いろいろな知識を早く教えようとしても偏ってしまう。親や友達との遊びや生活の中から、仲良くすること、競争す ること、自戒すると、自分でルールをつくること、話し合うこと、約束を守ること、あきらめないこと、その他たくさんのことをまんべんなく知識として、また 知恵として身につくように何遍も何遍も多彩な体験を積ませよう。」「一度にがんばっても駄目だから、身につけるべきことをよく観察して、その部分から少し ずつ身につけていくべきことを合理的な順番でやらせていけば、ストレスも最小限度にとどめることができるだろう。」「後手に回ると、矯正することから始め なくてはならないので、無理や無駄が生じる。タイミングを見るということが大事なのだろう。」これが第一段階の知恵となる。
 ここから彼は、自分の子どもの教育問題を解決するために第一段階の知恵に基づく具体的な手段を考える。成功と失敗の中から、第二段階の知恵が生まれる。こうして次第に方法が研ぎ澄まされていく。
 もちろん、餅つきだけからではなく、他の体験も、子育てのための知恵となるようなものとして仕立て上げていき、最後には子育てセンスを獲得するに至る。こういう寸法だ。
 餅つきを体験したことがないと、これと似た発想は他の経験から学んだことによって導き出されてこなければならない。つまり、経験の種類が少なければ少ないほど、解決のための発想や工夫の糸口がつかめなくなる確率が高くなるということだ。
 ボタン一つでモチができる機械によって、餅つきという学習の場は完全に奪われた形になっている。それどころか、スーパーマーケットでついたモチを売っているから、金を払えば手に入る。しかも、餅つきをしている親の姿から学べる機会も子どもから奪い去っている。
  餅つきは一つの例にすぎない。生活全般がそうなりつつあるから、少なくとも日本に住んでいる人間は、現在のところ人間の姿をしているだけの生き物になりさ がる道をひたすらに走っているという可能性が極めて高い。面倒な手作業を外国に依頼するという経済事情は、さらにこれに拍車をかける。
 人間とい う容れ物だけが歩いている街を想像してしまう。もちろん空っぽではない。容れ物の中には空気が入っている。そして、食べ物も入っている。容れ物自体には知 識も詰まっている。働きもする。お金を稼ぎもする。人を幸せにも不幸にもする。それはそれでよいのだが、残念ながらそれだけなのだ。
 しかし、行き着くところはそうかもしれないが、実際には世の中というところにあって行き着くということはほとんどない。どこかで揺り戻しが来ることが多いように思う。もっとも、元に戻ることもほとんどない。
  体験が少ないと、書物に頼る。体験が少ないと、友達に頼る。体験が少ないと、世間に頼る。頼らないよりもいいかもしれないが、残念ながら一面的で責任がな い。自分で得たものではないから、身についているものではない。だから、うまくいかない。そして、うまくいかないと、臆面もなく書物や友達や社会のせいに するという情けない状態になる。最後は問題解決を放棄する。つまり、程度が低くて品のないお坊ちゃんやお嬢ちゃんの大人が増えていくということだ。
  ボタンスイッチは、お膳立ての象徴だ。ボタンさえ押せば、頭や体を使わなくても、決まった仕事がきちんとできるようにお膳立てされている。このボタンが増 えれば増えるほどこの傾向は強くなるだろう。最後は、ボタンを押しても何も事が起こらないと、腹立たしく思って壊してしまうか、クレームをつけ始める。た ぶん、電源を入れてないのにだ。 
 こうしたとんでもない「もの」になっているということには、自分では気づかないはずだ。鏡を見れば人間の姿を しているから自分では人間だと思ってしまうからだ。また、類は友を呼ぶから、周囲には似た傾向の人間ばかりが集まり、小集団内多数決という面白い現象に よって、何かが確立してしまう。
 残念ながら僕自身にもこうした現象は起こっているに違いない。でも、それは自覚することができない。自覚させられても、きっと理屈をこねて否定してしまうに違いない。実に恐ろしいことだ。
 そのうちにユビキタス世界になると、ボタンすらなくなるかもしれない。「指来す」と表現すると、これはまた意味深長な言葉となりそうだ。とにかく、お膳 立て社会はサービス社会の延長線上にあるから、サービスというものの現在の考え方を少し変えないと、とてもまずいことになりそうな予感がする。
 しかし、成り行きというものがある。そうそう簡単に方向は変わらない。心配していたことがどんどん現実になっていくのを手をこまねいて見ていなくてはいけない。これは恐ろしいというよりも、悲しく辛いことだ。
05-12-2007

日々雑感220「人は面白い」

 人に生まれたということは本当にありがたいことだ思う。しかし、このように思った以上は、人に生まれたことを恨んでいる人もいるということを意識しなければいけないということだ。
 僕が人に生まれたことをありがたいと思うのは、他の動植物よりも比較的自由な存在だからだ。この一点に尽きる。この価値を認められない人は、人に生まれたことをずいぶんと迷惑なことだと感じることが多いかもしれない。
 さて、死んでしまうのは動植物とて同じだから考えなくてもよいことにする。死にたくないというのなら、生まれる存在になってはいけないということだ。こうなると、鉱物になるしかない。しかし、鉱物にもいろいろな事が起こる。風化して崩れたり、熱で溶けたり、圧力がかかったりと、なかなか大変だ。生きることもなく、死ぬこともないという誠にふんぎりのつかない恐ろしい道を無限に歩んでいくしかない。
 では、人として生きるということはどういうことだろう。勉強しなくてはいけない。体を鍛えるために運動しなくてはいけない。仕事をしなくてはいけない。子どもを産まねばならない。そして、家族を養わなくてはいけない。
 こう考えると誰だって人として生きることを何か重荷のように感じてしまう。うまくいかなければ人をやめたくなってしまうことだってあるだろう。もちろん、そうした優しい人を敗残者というひどい言い方で罵る不心得者は、人としての価値がまだ相当に低いので、あまり相手にしない方がよいかもしれない。
 それはともかく、勉強しなくてはならないということについてはどうだろう。言葉を操り、言葉で記録し続ける「人」であるからこそ自分以外のたくさんの他人の成果を学ぶことができる。これは当たり前にやっていることだが、よく考えてみると、すごいことだ。実に贅沢なことだといってよい。動物なら自分で体験しなければならないのだ。これは恐ろしい。失敗して食われてしまうかもしれないのだ。
 つぎに、運動についてはどうだろう。人であるからこそいろいろな運動が可能だ。やはり実に贅沢なことだ。走りたければマラソンほど走ればよい。動物はあれほど走ることはない。泳ぎたければクロールでも平泳ぎでも何でもよい。好みのままだ。しかし、魚には魚泳ぎしかできない。また、飛びたければ、空を飛んでもよい。しかも、飛行機の中で寝たり食べたり、遊んだりすることすら可能だ。一方、鳥は飛ぶことで精一杯のように見える。
 だが、それだけではやはり面白くない。勝負をかけるて争うようになる。本当の戦いが、尖って固いものを武器にするのと逆に、丸くて比較的やわらかいいボールを使ったゲームを発明するようになってくる。これなら、どこの部族と対決しても基本的に死ななくてもよい。
 動物が勝負すればただではすまないことがある。丈夫な皮だけ見ると一見傷は浅そうでも、その下の筋肉はずたずたになっているかもしれないのだ。人間は戦争をするが、傷ついた兵士は医者の手当てを受ける。動物は誰も治してくれない。野垂れ死ぬか、自分で自分の身を守るのが基本だ。福祉のシステムを動物に望むのはほぼ無理で、仲間の死に対するその非情さは自然の掟という呼ばれ方をすることが多い。しかし、これを非情だと思うのは人だけであって、動物の方は極めて自然にそうした流れを受け入れているように思う。
 仕事についてはどうだろう。動物なら既に仕事は決まっている。食料を確保すること、群れや己を外敵や環境の変化から守ることだ。それに比べて人の仕事は実に多彩だ。数えきれぬほどの仕事の種類がある。これはとても贅沢なことだ。しかも、雇ってくれるかどうかは別として、自分で職種を選ぶことができる。これは素敵なことだ。
 子どもを産まねばならないのはどうだう。女性しか子どもを産まない。栄養状態が良い悪いにかかわらず女性は女性だ。しかし、あまりに状態が悪いと女性でありながら子供を産めないようになる。しかし、途中で自然に性転換することは人間の場合はない。人工的に性転換して戸籍上の性別まで変えたとしても、実際には子どもを産めるようになるわけではない。しかし、そのようなことは人間でなければ行わない。倫理的にどう判断されるかは別として、性別を曲がりなりにも変えるというこれほど自由なことが他にあるとは思えない。グレーゾーンをみずから作り出すということは、神への挑戦だ。神に挑戦して勝てるはずはないのに挑戦するという勇気は無謀ではあるけれども、魅力的だ。たとえ天罰を受けるにしても、それを承知だというのだから人というのは実に見上げたものだ。
 家族を養うというのはどうだろう。雌と交尾してすぐに食べられてしまう動物もいれば、卵を産んで死ぬ動物もいる。ただベストポジションに卵を産むだけもの、自らの体温で卵をかえすもの、自らの体内で卵から胎児を育てるもの、本当にさまざまいる。しかし、人のように長い年月、親のすねをかじって生きる動物は他にいるだろうか。その長い間にさまざまな可能性を探りながら生きていく。こんな恵まれた動物はいない。この人という育ちにくい動物の利点を生かして十分に知恵をつけていくという作戦は今のところ功を奏しているように見える。その反面どろどろとした人間関係を長い間に築き上げてしまい、悩みも大きなものになる。そのために自殺してしまう人もいる。これは大変なことだが、その裏返しで他の動物にないすばらしい活動を行うようになる。うまくいけばとんでもなくすばらしい人生を送ることができる。こうした当たり外れは他の動物にあるだろうか。おそらくはない。
 大きなチャンスを生まれながらにしてもっている動物。これが人だ。そう考えると、苦しい人生も何となく楽しく思えてくる。また、転がっているチャンスも多い。どこにでもあるのに、それを見つけにくいのは、おそらくチャンスの顔というものが、およそチャンスらしくない顔をしているからに違いない。皆が皆チャンスをものにして、夢を実現してしまうと、いろいろと矛盾が起こるからだ。心がけのよい者にチャンスは巡るということにしておくと、ほどほどに夢の実現数を減らせることができるので、社会の帳尻が合ってくるのだろうと思う。また、その方が見かけの価値が上がり、満足度も高まるというものだ。
 人として生まれたからにはこのようにして「人は面白い」と信じるようにした方が無難だろうと思う。
02-12-2007

心の断片114「再会の日」

「再会の日」

見よ 14年経っても変わらぬ
体で覚えた技の切れ
此処に彼処に手を入れた
そのあとのままに
今日まできたというのか

僕の命のあかしがここにある
人の姿となって此処に立つ
次の動きが分かる
どこまで変わるか分かる

言葉を選ぶこともなく
伝わることの心地よさ
空白の年月は文字どおり空白で
全てが昨日のように
今日にそのままつながっているらしい

髪 まなこ 口もと 肩 背すじ
腰 膝 ふくらはぎ 両かかと
両手両足 精密に組み上げたマシンだ

もう
明日を語るな
命を語るな
この刹那の躍動に全神経を注ぎ込め
01-12-2007

幻想4「不完全犯罪」

 前世で人をあやめたが、結果として完全犯罪となってしまったために、償いをせずに来てしまった。そういう加害妄想が僕にはある。断片的な記憶も実に生々しく、多くを語ることはできない。
 誰も知らない犯罪。もしかすると、前世ではなく、現世での出来事かもしれない。それほどに生々しく記憶にある。ただし、忘れ去ろうという強力な意思の力で、断片的なものになってはいるが、罪の意識、懺悔の気持ちは少しも減衰していないように感じられる。
 自分の過去を調べよう。連絡の取れなくなった親しい人はいないか。御宮入りになった殺人事件の資料を集めよう。自分に関わりのありそうな要件はないだろうか。
 あまりに具体的な罪の意識、その罪悪感は意識できる罪悪感のうちで最も映像に結びついているものだ。明らかに遺体を埋めている。土に埋もれていく手や足、土くれの一粒一粒までが鮮明なのだ。
 前世であれば、事件が発覚する前に自分も死んだのであろうか。現世であれば、自分の記憶をねじ曲げているのだろうか。
 だから、僕には人生いかに生きるべきかとか、人生とはなんぞやとかいう思いは一切ない。実にさわやかなものだ。生きることはあがなうこと、それ以外にはない。そのために生まれたと感じる。単純だが、これは美しい生き方かもしれない。美しい生き方とは、このように殺意や罪やそうした最も醜いものから生まれくるものなのだろう。
 今日の今日まで告発されることもないまま、罪の意識がある。これは完全犯罪ではない。不完全犯罪だ。本当の完全犯罪というものは罪の意識がないことにあるのではないか。罪の意識がある以上、申し訳ない、償いたいという気持ちがわく。永遠のしっぺ返しだ。そんなものを受けるようでは完全犯罪とは言い難い。ただ捕まっていないというだけにすぎない。
 ともあれ、こうした幻想が、本当に幻想であればいいのにと常に思う。前世であれ、現世であれ、捨てられた記憶をこれ以上発掘して確かめようなどという勇気などもうありはしないのだ。

恐怖シリーズ109「豊かで自由な人々」

 ドライバーを回すとき右に回せばビスがしまる。しまるといっても穴を開けていくのだから力が必要だ。これは右利きの人にとっては合理的な回転方向だ。日本には左利きグッズの店は見かけないが、左利きの多い国でも、左利き用のねじはないだろう。もちろん、ドライバーにも左右の別はない。ねじに二通りの回転があると不便だからだ。抜こうとして締める力を加えかねない。
 右利き、左利きの別による不便を解消するよりも、ねじに左右の別を作らないというのが合理的な判断ということになる。
 ところが、合理的といっても、作業の高さによっては、この右回転のねじ切りが不合理となる。垂直面に対して直角にビスをねじ込む場合、ある一定の高さ以上では、親指がドライバーと垂直になるように鷲づかみに取っ手を握るため左回転の閉め方の方が力が入れやすくなる。そのため左手に持ち替え、左手の鷲づかみで右回転を続けると、強くしめることができる。もちろん、右利きの人であっても、個人差があるから、左手の鷲づかみの右回転よりも、右手の鷲づかみの左回転の方が強い人もいるので、自分で試してみるしかない。
 鷲づかみに握り替えるのは、腕の骨と、指の骨の作る角度が大きくなるにつれて、手首の回転角度に制限を受けるようになるのをからだ。また、手首をそらす力よりも、手首を内側に曲げる力の方が大きいからだ。そもそも、普通は親指をドライバーの軸と平行にして指で握って回すから、ドライバーを握る握力は、指先の握力となるが、鷲づかみにしたときは手の持っている握力を最大限に生かせる。さらに、手首をそらしてドライバーを回すときには親指に大きな負担がかかるが、内側に曲げてドライバーを回すときには、同じ負担を掌や親指以外の4本指が担当することも大きい。そらす回転角度よりも、内側に曲げる回転角度の方がやや大きいことも有利だ。
 ねじ込むにしても、外すにしても、両手を使えばさらに強力にドライバーを回せる。左右の手で同時にドライバーの取っ手を握って回すのもよいが、どちらかの掌でドライバーのお尻に圧力をかけながら、もう一方の手で鷲づかみにして回すと、外すときにはビスとドライバーが強く密着するので外しやすく、逆にねじ込むときにはビスが板等に穴を開けながら突き進む力を補助することになるので、効果的な両手の使い方になる。
 このように、一口に合理的といっても、道具と人間の双方に事情というものがあるから、合理性を保つには限界がある。服のオーダーメイドのようなことをしていては間尺に合わない。既製品のサイズと自分の肉体のずれを多少は目をつぶっていくという合理的な合理性が要る。この合理的な合理性が許せなくなったときに、人は工具ならば特殊工具を作りはじめる。
 さて、人の世ではどうだろう。さまざまな特殊工具が必要な人間が増えているような気配はないだろうか。社会でよりよい生活を送るためにはみんなが共通に持っているもので組み上げていき、共通のものでそれが運営されていくというような部分、つまり、人間の社会基盤となるものが厚くなければならない。
 しかし、ゆえあって服であればその種類の多さを豊かさと感じるようになった。そして、ゆえあってその多くの種類の服から気に入ったものを自分の都合で選択できることを自由と感じるようになった。
 豊かさを求め、自由を求め、いつの間にか特殊化が進んで戻ることが難しくなった結果、そうした基盤が薄く割れやすくなっていくというような愚行を少しずつ少しずつ、従って知らず知らずのうちに犯してはいないだろうか。
 孤独、怒り、焦り、不信……。この世の中の不幸のほとんどはそこに根があるように思われてならない。厚過ぎもせず、薄過ぎもせず、必要に応じて揺れ動く柔軟性のあるものが、社会基盤に対応するものとして僕たちの中になければ、到底幸福感など得られようはずがない。
 豊かであることにこだわること、自由であることにこだわること。それらの基準など、もともと確固たるものではなく、どこかの誰かが何かの都合で決めたものだ。だから、こだわるというところに既に過ちがある。
 豊かさや自由をある程度手にしているから、そのように言えると言われても仕方ない。しかし、実のところは、形程度に手に入れたものが、いかに貧しく不自由極まりないものであったかを思い知らされている人が多いのではないだろうか。
 「僕は、やはり右に回すとしまるねじがいい。」「もうそんな時代じゃないでしょう。」「では、僕は、左に回すとしまるねじにしてみよう。」「それはいいですねえ。」「それなら、僕は、二度と緩むことのないねじにしてみよう。」「それもいいんじゃないですか。」「そうか。僕は、抜けろと言葉で命じると自然に抜けるねじを作ろう。」「それは、夢があっていいじゃないですか。」
 人類は核爆弾で滅ぶ前に、自らの言葉で滅ぶ可能性がある。核爆弾は瞬間だが、言葉はじわりじわりと効いてくる。誠に隠微で恐ろしい。