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    12/28/2008

    心の断片161「小さな部屋の宝の山」

    「小さな部屋の宝の山」

    便利な装置をみつけたぞ
    ここにもあるぞ
    そこにもある
    作った奴は知らないけれど
    便利だぞ
    もう手放せないのに
    直せない
    手作りだから
    買えもしない
    これより便利な装置はない
    ほかにはないから
    替えがない
    ああ
    胸がきゅんとなる
    宝の山だ

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    12/25/2008

    恐怖シリーズ125「些細なことの放置」

     最近疲れというものを知るようになった。そろそろお年頃ということだろう。
     さて、心身ともに疲れるというということもあれば、どちらか片方だけ疲れるということもある。どちらか片方とはいっても、最終的には心身ともに疲れていくのだが、心の疲れが先か、体の疲れが先かという問題もある。
     これは「卵が先か、鶏が先か。」の問題と似ている。一応、後者の問題については「卵が先」だという答えになっているが、もちろん、ただただ前者と後者とでは「Aが先か、Bが先か。」という言い方だけが似ているにすぎない。
     「卵が先か、鶏が先か。」という問題は、「受精卵が先か、大人が先か。」と言いかえれば、遺伝子は成人してから変わることがないなどと日常生活では確認することが難しそうなことを云々しなくとも、迷わず答えを導き出せたに違いない。
      受精卵は一人の大人からもたらされたものではなく、性を異にする二人の大人から同時にもたらされたものだからだ。この大人二人とこれから育つ一人の大人と を比べてはならない。受精した瞬間にこの世に新しい生命の出発が始まる。その瞬間以前には単なる卵子と単なる精子しか存在せず、受精卵である所謂その卵の 存在はなかったという理屈だ。
     さて、「心の疲れが先か、体の疲れが先か。」という問題については、「病は気から」という言葉や、逆に「気は病から」という言葉などが思い浮かぶ。
     もちろん、「病は気から」という言い回しが一般的なのだが、経験上は「気は病から」ということもあると、ほとんどの大人は了解している。だから、要は両方を使い分けるようにすればよいというだけの話だ。
     ただ、現在は「病は気から」という片方だけの言い方が案外と幅をきかせているので、まるでもう片方が間違った言葉であるかのように評価されてしまうことがある。その点についてはやめてもらうように宣伝する必要はありそうだ。
      この宣伝を怠ると、伝統的なその評価だけを真に受け、正しいか正しくないかということだけを問うようになり、その結論をもって話を終了させてしまう確率が 高くなるおそれが出てくる。そうなれば、その先の世界を広げるには、もう一つ別の努力を追加しなければならなくなる。不経済な話だ。これは一手間余分にか けるということで、そういうことはたとえ些細なことではあっても見過ごしてはいけない。積もり積もって恐ろしい結果を招く。
     また、「病は気か ら」と「気は病から」の両方の言い回しが可能だという前提を作っておかないと、どうにも物の見方や考え方が狭くなってしまう人が出てくる可能性もある。細 かなそうした思考停止の機会は少しでも摘み取っておかねばならない。そうした類のものは五万とあるのだから、放置しておけば最終的に一つの障害となってし まう。特にそうしたことについて実際の経験が不足している若い世代には、頭だけで考える傾向があるため、ありがちな傾向となる。これは不幸なことだ。
     ただ、若い世代であれば、言語を急速に習得する過程にあるから、それはそれとして触れる機会さえあれば、幅広く柔軟に受けいれることも可能だ。教育の質の高さを期待するところだ。
     やわらかい働きをする頭脳が今はどうしても必要な時期だと思う。もっとも、鉄の意志を同時に持たねば意味はないので、知識を詰め込むことと同時に育てていってもらいたいものだと思う。

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    <病気には気という字が最初けどね 画像クリックで説明画面へ>
    12/23/2008

    日々雑感240「洞察」

     洞察力が鈍くなってくると、想像したり調べたりして得た多くの材料を目の前に並べてから判断することが多くなるように思う。しかし、迷って時間がかかり、間尺に合わなくなる場合も出てくる。その結果、焦りが生まれ、それが原因となって失敗を招くこともある。そもそも判断の材料となるもの自体が偏りをもって集められる場合もあるから、油断できない。
     一個人としても、洞察力が鈍る前に、こうした種類の判断が素早くできる訓練が積まれていればよいが、そう都合よくはいかない。しかし、洞察力と素早い判断力とのバランスはどうしても必要なもののように思われる。双方バランスよく組み合わされていることこそが優れた行動力の根拠となるはずだ。
     このバランスが崩れるとどうなるか。おそらく、他人に自分の行動の根拠を説得力を持って伝えることができないために、思いつきで行動していると勘違いされたり、自分にこれといった方針がないために、優柔不断で話にならない奴だと思われたりするだろう。
     では、どうすればよいのだろう。集めた材料から判断するのは複数の人間による方がよいが、洞察するのはあくまでも個人だ。だとすれば、個人の優れた洞察と、その洞察による判断材料や企画を複数の人間で検討し合い、どう行動するのかを決断するというスタイルをとればよい。
     仕事の面ではそうした起案や会議を経て企画が成立し、実行されていくのだろうが、日々の生活やその積み重ねである人生においては何について洞察することになるのだろう。まさか、人生そのものについての洞察を行えばよいのだろうか。
     思えば、これまで人生について考えたことなどないではないか。目の前の物、自分の体、生活上の諸問題、仕事上の諸問題だけに心が向けられていただけで、人間が生きることの意味など考える余地がなかったように思う。 
     考えはしないものの人生を実際に歩んできているのだから恐ろしい。伝記などを読んでその人の人生を考えることはできるが、自分の人生を考えることは難しいように思う。今が充実していればよいと単純に考えていればよいのだろうか。それとも、人生の終わりにゆっくり振り返って思い出を確かめるだけでよいと淡く考えていればよいのだろうか。あるいは、夢を実現するために努力していればよいと甘く考えていればよいのだろうか。
     今さらながら、ふと自分が生き物であることの不思議さを感じてしまう。 この不思議という感覚が、もしかすると洞察力の反対側にいて、心のある種のバランスを保っているのかもしれない。

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    心の断片160「遠くへ」

    「遠くへ」

    はるか遠くへ行けなくなった
    かつて行けたところへ
    行けなくなった

    どこまでも続く道のせいで
    もう誰かがいて
    暮らしている
    だから
    はるか遠くへ行けなくなった

    手あかのついた土地など
    僕にはいらない
    あこがれの
    はるかかなたの
    どうにも行けそうにない
    どこか遠いところは
    あたたかな緑の風が
    ふいていなけれならない

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    12/22/2008

    日々雑感239「寅さん」

     正月が近い。正月に映画を見るというのは、いつの頃から始まったことなのだろうか。きっと正月という月がまだめでたいと思われていた時代のことに違いない。
     とにかく正月はめでたいのだから、たとえば六人家族で一緒に楽しもうと思えば、それほど遠出をするわけでもなく、それほど大出費にもならないところで、しかも、ちょっと贅沢感を味わえるということで映画館に行くという選択をするのだろう。
     当然、年が越せるかどうかという文句が庶民のなかで囁かれるような時代ではその選択はあり得ない。つまり、我々庶民のなかで正月映画という感覚がまさに文字どおり成立していた時代というのは、まだ映画が日常的な娯楽ではない時代であると同時に、それでもまだ身近な娯楽の部類に入っていた時代だったということだ。
     正月映画といえば「男はつらいよ」だが、今年で四十周年になる。四十年前といえば、この国の経済成長は著しく、高度経済成長期の半ばにあった頃だ。
     この辺りからこの国の感覚が狂ってきたように思う。贅沢品の日常化が進んでいくのだ。その日常化が進むと、贅沢品が贅沢品ではなくなり、さらなる贅沢品を求めることとなった。贅沢品に飽きると、贅沢食に走り、次は贅沢服飾、そして贅沢空間、贅沢な気分へと続く。そんな気分のために財産が損なわれていってもよしとする感覚は国を滅ぼしていくのに十分な感覚の狂いだ。
     そうしたことが文化的で豊かな生活だとまことしやかに喧伝されたのは、いったい誰の陰謀だったのだろう。もしかすると陰謀意識はないかもしれない。視野狭窄の偽文化人のたわごとをさも有り難げに無邪気に模倣していただけなのかもしれない。または、戦時中の「贅沢は敵だ」というスローガンに対する遅ればせながらの単なる反動だったのかもしれない。
     その手に乗った国民やそのような反動に身を任せた国民は、やはり自らを愚民におとしめてしまったことになる。愚民政策という言葉があるが、これは政策ではない。もっとも、その無策によって国民を守れなかったのだから、間接的な愚民政策なのかもしれない。では、何と言えばよいのだろう。愚民論調とでも言えばよいのだろうか。
     この論調を阻止できなかった新聞やラジオやテレビ関係者は責任重大だ。先の戦争に引き続いて再び大罪を犯してしまったということだろう。体質というものはそう簡単に変わるものではない。このままだと、この国が再生力を失うまで、何の悪意もなく、おそらく正義や愛を標榜しながら、国民を見殺しにしていくおそれがある。
     一方、健全な新聞やラジオやテレビは批判されることによってのみ実現される。これは政治家が批判されることによってのみ健全さを保つのと同じ原理だ。正しく適切に批判したり批判を受けたりするということは、民主主義の原点で、これに例外はないと思う。
     ところで、「男はつらいよ」の寅さんは、純粋で善意の塊のように描かれている。しかし、だからこそ「つらい」のだ。今の新聞やラジオやテレビにつらさが無いわけはないが、何がどう「つらい」のかが問題だ。これを吐露することから始めたらどうだろうか。

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    12/21/2008

    恐怖シリーズ124「ことば」

     言葉で物事を考えると、どうしても論理的になってしまう。これは言葉を記述するときには、文章という紐のような形で示されるため、自ら順序よく振り返ることができるからだろう。その紐によって積み重ねられていく過程のどの部分に不備があるかを確認することは比較的容易だ。
     だから、納得のいくように何度も修正をかけることができる。しかも、その文章が多くの人の目に触れるようにすれば、論理的な破綻、矛盾や飛躍、さらに誤字脱字までもなくなるように指摘を受けられる。したがって、時間をかけた分だけ改善することができる。こうして言葉で物事を考えた過程や結論は、文章化することで次第に論理的になっていくように運命づけられている。
     これに対して、話し言葉の場合は、発音どおり「はなされ」て、散って消えてしまう。印象深いところにばかり気がとどまってしまい、他の部分はかすんでしまう。また、正しく反復することが記憶力の関係で比較的困難であるために、知っている言葉や覚えやすい言葉、そして聞きたい言葉だけが微妙に連結していきやすい。そのため、話された言葉自体は論理的な展開をもっていなくても、話が話として何の矛盾もなく十分に通じていくこともあれば、話し手の意図とは微妙に異なる意味合いを汲み取ってしまったり、全く逆の意図を汲み取ってしまったりすることもある。
     敗戦を告げる昭和天皇の玉音放送を聞いて、敗戦の事実を知って絶望した国民にまじり、勝利に向かって一致団結せよというメッセージだと受け取った国民もいたというのは、その典型的な例だ。
     また、一文単位のイントネーションが、いつも聞き慣れている叱られ言葉のイントネーションと似ていれば、内容が全く別のものであっても叱られているような気持ちになるというようなことも起こってくる。内容は正しく受け取って納得しつつも、そこに割り切れない感情がわき起こったとすれば、その時には自覚されていないそうしたものが原因となっている可能性を疑ってよいかもしれない。
     これは言葉だけの問題ではない。季節や時間帯、場所や周囲の人員、自分の心身の状態とも関係がある。相手をよく見て話せというのは、相手自身ののことだけはなく、そうしたものに取り巻かれている相手のことをよく考慮して話せということなのだろう。言語を操るということは、文法を熟知し、言葉が豊富であるだけでは十分ではないということだ。
     そのため、表現する方と理解する方の双方(表現しながらも理解しつつ、理解しながらも表現しつつある双方)とも、そうした意味で言語を操ることに優れていなければ、気持ちばかりは十分に伝わったとしても、論理的であるかどうかは検証不十分となり、その是非が上手く判断されなくなってしまったり、逆に論理的であることが伝わった上で、その是非が確かなものだと判断されたとしても、気持ちが上手く伝わらなくて、不適切な結論を導くことになってしまったりするおそれがある。
     残念なことに、言語を操る能力の優劣と、話し手と聞き手の立場による四種類の組み合わせが生まれる。しかも、話し手と聞き手は立場が交互に入れ替わる。
     言語を操る能力の優れた者の方が、この立場の入れ替わりを上手に使って会話を成立させていく責任を持っている。しかし、その責任を不道徳に果たせば、言いくるめたり、ごまかしたりということになってしまう。
     こうした不道徳は、書き言葉よりも話し言葉においてなされやすい。話し言葉の方が、その情熱や勢いや調子のよいフレーズ、果ては顔の表情や手指の仕草などによって、たとえ内容が論理的に間違っていても、話し手の意図する方向へ聞き手の気持ちを導いていく力を持っているからだ。
     この力は、対個人だけではなく、集会やマスメディアを通じても多くの人を同じ方向に引っ張る力においても発揮される。
     特にライブである集会では、ざわめきやどよめき、囁かれたり叫ばれたりする言葉など、周囲の反応という大きな要素が加わり、個人個人がもっている独自の立場による独自の批判力は影をひそめ、全体の雰囲気に流されるかのように、論理よりも気持ちから動かされてしまう場合があるということだ。
     音声を伝えるマスメディアによるコマーシャルや宣伝は、衝撃と飛躍と繰り返しとによって全体の雰囲気の欠如と反応時間の不足を補っている。視点を一点に集中し、範囲を狭くすることによって、特殊な論理を無理に成立させたり、一見論理的な言葉の並びをもたせることによって生じる疑似的な説得力を漂わせるのは、もはや常套手段となっている。また、言葉によらない表現手段によって気持ちや心に直接訴えていく力も第二の説得力となっていく。
     当然のことながら、音声を伝えるマスメディアによるコマーシャルや宣伝では質問はおろか反論や討論の機会も与えられていない。そのこと自体がまやかしの説得力を裏で支える力となっている。
     話し言葉で聞くことの意味と怖さはそこにある。必要なのは、それらがもっている衝撃と飛躍が道徳的であるかどうかを検証することだ。それには繰り返しを逆利用して批判の機会を得るという姿勢をもつしかない。それを怠れば、多くの人々が話し手の意図する一つの方向へ引っ張られていくことになる。 
     書き言葉の場合は、場の雰囲気や話し手の語調や身振り手振りなどに惑わされず、読む人によって十分に時間をかけた分析が行われやすい。そのため、人を一つの方向へ引っ張る力は、読み手の分析力の程度に依存するか、一定の分析力を持った人を多くの人々が尊敬する気持ちの強弱の程度に依存するかして、発揮されるものであるように思う。
     文字を伝えるマスメディアによって流された知識や情報は、前に戻って確認したり、長時間とどまって思索したり、比較したり、調査したりすることが、時間的に許されているため、個人的な努力に依存するものの、深く理解されることによって正しく評価されることが期待できる。これを文字を伝えるマスメディアにのせることによって、漸く個人間にある理解度の差をなくしていくきっかけだけが作られることになる。
     このように、こうしたさまざまな文章を冷静に深く読むことによって、多くの人に自身の考えが築きあげられていく機会が増えれば、質問や反論や討論の準備が調ってくる。これが実行されることによって、論理的な矛盾や無理、論理の飛躍などが相互に是正されていくことになる。
     ところが、論理的であるということが、人間の言葉、つまり言語に依存しつつ論理的であるという場合には少々不具合がある。
     言語に限りがあることによって生ずる不具合に対しては、新しく造語した言葉を使用したり、対象となる物事を多面的多角的に論じたりすることで多少の抵抗を試みることができる。また、言語に種類があることによって生じる不具合に対しては、共通語を徹底した上で各個の言語が自然消滅するまで待つという気の遠くなるような方法をとることで多少の抵抗を試みることができる。
     しかし、言語にすがって物事を考える以上、「言語の論理」的展開傾向に逆らうことは困難だ。言語の論理は、とりもなおさず言語を使う動物である人間のための論理だ。だから、人間である以上、それに対して異を唱えようなどという発想はない。空気のように当たり前のものだからだ。
     実は異を唱えてもらえないところにこそ危うさがある。
     言語とともに自ら築きあげてきた論理の世界のなかで暮らしている以上、言語によって物事をきちんと考えて活動していさえすれば、結果はどうあれ「論理的に」「正しい」判断をして活動しているということになる。
     しかし、もし、まだその世界に所属していないものや、その世界に所属していないものについての情報であった場合には、それがたとえ実際の世界を揺り動かすような事実や指摘であったとしても、目には見えても心にとまらないか、耳には入っても理解できないか、理解できても理解する価値がないと判断してしまうかして、最初から思考の対象にすらならないおそれがある。
     言語というもので築きあげられた閉塞しながらも展開していく種類の論理。そして、その論理に拘束されつつ、つまり論理の上で矛盾が生じないように進展しつつある世界。これらにはいつも恐怖を覚える。その偏って進展していく世界が、現実の世界とどれだけ仲よく手を結んでいられるかという将来の問題があるからだ。
     しかも、この問題と関連して別の恐怖も生まれる。考えれば考えるほど、論ずれば論ずるほど、ある着地点に向かってきわめて性急に物事を運ぶことになってしまうという恐怖と、逆にいつまでたっても方向が見つからずにさまよっているばかりになってしまうという恐怖だ。
     人の世には混迷と滅びといういう二種類の着地点しかないのかもしれないが、この世自体にはもともと着地点などあるはずもない。しかし、人間が練りに練った考えは、常に高みにある着地点を目指さざるを得ない状況に追い込まれていく。その考えは執念となっていつまでも残り続け、時が来たれば、必ず実行され、人の世の着地点やその付近に着地することになる。構えと覚悟があれば、人の行動というものは曲がりなりにも良かれ悪しかれ成就してしまうものだ。
     それは空漠として果てのないこの世に、奇妙な歪みを生み出すことになる。別段どんな歪みが起ころうと構いはしない。そのために人類も含めて生物が絶滅したとしても、困る者などどこにもいない。絶滅してしまえば困る者など存在し得ないからだ。
     絶滅しても、この星ならそのうちまた生命が生えることがあるかもしれない。神様がその価値在りと思し召されたらそのようになるのだろう。それならそれでよい。
     また、生命が一度絶えたらもう生えないというものなら、別の星でまた生命が生えるのを待てばよい。待てど暮らせどその気配がないということもあろうが、それならそれでよい。よく考えてみれば、生命が生えるのを待っているといっても、生物が絶滅した後の話であるから、そんな復活を待っている者など、やはり存在し得ない。
     これは極端な話だが、なかなか実際にはそうはならない。個々の人間や社会にも寿命があって、いろいろな芽が出ても、ほどよく立ち消えていくからだ。もっとも、論理によらず、事故によってこうなることは十分にあるから油断はならない。誠に飽きることのないスリリングな世の中だ。
     さて、こうした極端な話も身近な話とつながっているので、身近な話に戻そう。
     社会生活や家庭生活などの日常生活を送る上で、論理的に事を進展させていくことは、人の幸福をある程度は保障するものだ。しかし、「状況」が変わってしまったり、その論理があまりに人間臭さをもったものであったりすれば、その論理が破綻してしまうこともある。そうなると、はかない幸福感などたちどころに消えてしまうことになる。
     不幸だと感じている間はとにもかくにも忍耐力が必要だ。また、こうすればこうなるはずだ。だからそのように願うという希望をもつことも必要だ。全くもって我々人間という生き物は面倒な生き物だ。
     しかし、言語によって生み出される幸福感というものは、まるで言い訳のように創出できる。消されても消されても、それ以上に生み出せばバランスがとれるもののように感じる。だから、この言語を捨てるわけにはいかない。実に厄介だ。
     言語によらず、感情のままに生きることの魅力をふと思うことがある。感情のままに生きるというのは、わがままに生きるといういうことでもなければ、感情をぶつけ合って醜く生きるということでもない。純な感情のままに、さわやかな気持ちのままに、無垢な心のままに生きるということだ。
     そんなできもしないことをつらつら考えたり憧れたりすることができるのも、取りも直さず言語のおかげなのだから誠に世話がない。

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    12/12/2008

    突然思い出したこと123「水たまり」

     美しい水たまりはどこにいったのだろう。小さな小石で縁取られた箱庭のような水たまりの中を白い雲が形を変えながら流れ行く。太陽がまぶしくもその姿をさらして輝く。神々しい天空のできごとを逐一映し出す神秘、水たまりよ。
     子供らはフェルト刺繍のような色とりどりのゴム長靴でその神聖な領域を無邪気に侵していく。よせばよいのに玩具のような傘で無闇にかき回し、ただの沼地にしてしまう。
     子供は純粋で正直だが、自分の欲望や気持ちに純粋で正直なだけだ。だから、子供は愛らしく、だから、子供は恐ろしい。
     大人がみんな自分勝手で嘘つきなのは、おそらく元をただせば子供だったころの名残なのだろう。それにしても、大人がみんな寂しく、過去ばかり話したがるのは、子供のころを懐かしんでいるだけではあるまい。もっと子供のように堂々と自分勝手でありたいがため、子供のように嘘を軽く笑顔で許してもらいたいがためであるように思われてならない。
     僕は今さら子供に戻ろうとも思わないし、さらに大人になろうとも思わない。人間嫌いではないのだが、できることなら、あの美しい水たまりにあやかりたく思うのだ。

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    12/11/2008

    心の断片159「冬の断片 五首」

    「冬の断片 五首」

    襟を立て繁華街ゆく
    かたき道
    前行く人の携帯光る

    悲しみの光は青く
    美しく
    寒き小窓にきら輝くよ

    枯れ銀杏
    細き枝々手を伸ばし
    夕日に映える
    天まだ高し

    遠吠えの
    犬は寂しく寝つきたり
    願う祈りの叶うことなし

    星つつく
    疲れ知らずの妖精も
    配達人の足音をきく

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    12/7/2008

    変な疑問97「たくさんの言語」

     「言語はなぜたくさんあるの?」と疑問に思ったことを突然思い出した。中学生の頃、地図帳でインドの言語分布地図を見たときにおかしいと思ったとき以来だ。神の怒りに触れたからだという授業の脱線話もいっしょに思い出した。
     日本語しか話されていない日本の方が珍しいと思うのだが、当時は一つの国なのにどうしてたくさんの言語があるのだろうと、不思議に思ったのだ。
     一つの国のなかでいくつもの言語があるのは、日本人から見ると不便に思われるが、不便であると思うだけでなく、本当はその不便以上の何らかの支障があるのだろうと考えて、その事情を調べなくてはならない。もしくは、その不便以上の何らかの利便性が他にあるのだろうと考えて、その事情を調べなくてはならない。
     しかし、そんな余裕があるはずもなく、授業は進んでいく。学校で学んだら、後は自分で追究しようということが当たり前のことになっていなければ、いくら授業の時間を増やしても足りないだろう。
     とにかく、長い年月を経てはいるが、突然思い出したことについて、あれこれ考えてみるのも面白いかもしれない。調べる時間はなくとも、想像やら空想やらしている間に、凝り固まった脳がほぐれてくるかもしれない。

    ①地球には言語が随分とたくさんあるが、たくさんあった方が都合がよいのだろうか。
     地球のいろいろな場所で、いろいろな生活をしているうちに必要となったいろいろな考え方を、それぞれ独自に自分たちに都合のよいように表現することこそが自然な言語の姿だ。したがって、この疑問に対しては、地球の言語は一つではない方が自然だという考え方をする人がいるかもしれない。
     しかし、いろいろな生活をしているといっても、異なる言語を操る必要があるほどに、いろいろな生活があるわけではなかろう。地球に言語が一つしかなくても、異なる環境で異なる文化を築きあげていきながら生きていくことは可能だと思う。必要な単語を付加し、不必要な単語を使用しないだけで生きていくには充分に間に合う。それどころか、通訳や翻訳は不要となり、分からない単語を相手から教えてもらうだけでよくなるから、かえって、現状よりも都合がよい。
     そうであるにもかかわらず、現在のように数多くの言語になっていったのは、一種のなりゆきのような気がしてくる。この場合の「なりゆき」というのは、いい加減という意味合いが中心ではなく、無目的の合理性といったようなもので秩序立てられた現状のことだ。それには地形的な枠や地理的な条件、政治的な力関係が働き続けているはずだ。
     結局のところ、言語の数は世界中で数千語あるらしい。実に曖昧だが、別の言語として二つに分けてカウントするか、それとも一つの言語としてカウントするかという点で判断が困難なものがありはしないか。こうした類のものを数えるのはどうにも難しいように思う。
     ただ、数千語といっても、少数民族の言語も含んでいるから、主な言語としては世界の国々の数が約二百として、それ以下の数字になるという見当はつく。
     たとえそれが百語であれ、二百語であれ、それだけの種類の言語があるということは、地球規模で歩み始めていかなくてはならない僕たちにとっては大きな問題だ。日本や英語圏でのできごとだけを耳にしているような状態では地球どころか人間というもの語ることさえ難しいような気がする。
     話されたり書かれたりした言葉を通訳してもらったり翻訳してもらったりということがあったにしても、大筋が伝わるだけで細やかな含みなどはうまく伝わらない可能性が残っている。同じ言語を話す人同士でも、また家族同士でさえも、なかなか真意が伝わっていかないのが実情だ。
     悲しいことに、通訳が必要でありながら、その第三者がいること自体が邪魔になる場合もある。第三者の存在は、どうしても人間関係を表面的なものにしてしまうだろう。また、通訳や翻訳の力量によっては、あるいは対話時間が少なければ少ないほど、言葉としては通じているものの、極端なケースでは逆の気持ちが伝わる可能性もゼロではない。
     これを避けるために、自分自身が外国語を理解して話せるように努力すればよいということになる。しかし、学ぶ言語の種類や学ぶ環境、そして学び方によっては、マスターするまでに大きな労力と時間、そしてお金がかかってしまう。僕たち一般人は、いくら努力しても二か国語(自国語も含めて)をマスターすることで精一杯だというのが実情だろう。生きていくために他にもやることがたくさんあるからだ。
     意地悪い言い方をすれば、二か国語をマスターするのに費やした労力と時間の分だけ、他人に劣ることになってしまう。もちろん、その間に他人が語学以外の何かに懸命に取り組んでいたとしての話だが……。
     自分が二か国語の言葉を習得しているのと同時期に、他人も同じように二か国語を習得するのに時間と労力を費やしていれば、お互い様なのでほぼ問題はないかもしれないが、皆が皆そうではない。しかも、似た言葉を習得すればそれでよい人と、全く異なる言葉を習得しなくてはならない人とでは随分と労力や時間に差が出てしまう。
     この点について考えていくと、この世にたくさんの言語があることによって、都合がよくなることなどなさそうに思われてくる。しかし、実際にたくさんの言語がある以上は、何か都合のよいことを見つけるか、作り上げるしかないだろう。そうでもしなければ、あまりにも滑稽ではないか。

    ②地球の言語がたくさんあることによる不平等はなくせるか。
     個人対個人ではお互いに学びあって理解し合おうということにもなるが、民族対民族では、どちらかが相手の言語を学んで仲よくしようとしようという流れが起きやすい。国単位で組織的に学ぶことになるので、組織と組織との上下関係が一方方向の学びを生み出すのだ。
     大抵は、世界の代表的な先進国で使われている言語、また、比較的使用人口が多く、比較的容易に学べる言語が選ばれて学ばれることになるのが道理だ。総合的に見れば、効率がよいからだ。
     しかし、他言語を学ばねばならない人間と、学ばなくてもよい人間がいるということは、どうにも不平等のように思われる。他言語を学ぶということは大きな労力が要るからだ。その総時間数やテキスト代辞書代などの総費用もたいへんなものだ。「損して得取れ」とはいうが、たとえば英語を習得できなかった人の人口と費やした時間をかければ、膨大なものとなる。少なくともその分だけは、生まれつき英語を話せるようになる環境にいる人と比較して、大きな損失分になることは間違いない。たとえ習得したとしても、実生活で活用して利益を得る機会がなければ、これもまた大きな損失となるのだ。もちろん、総合的に見て結果としては得なのだろうが、どうも感覚的には腑に落ちないところがある。
     逆に、そうした世界規模で話されている共通語としての側面をもった言語、たとえば英語などを自国語とは別に身につけていれば、政治や経済の方面でおおいに役立てることができ、国力を高めることにつながっていく。しかし、だからといって不平等でなくなるわけではない。
     確かに、バイリンガル以上であれば、目的と場に応じて、どれか都合のよい言語を選択して使用することが可能だ。だから、その分だけ豊かな言語生活を送れることになる。
     これに対して、世界の共通語と化した英語などを生まれながらにして親から学べる状況にある呑気なモノリンガルや、世界から孤立した言語の日本語などを親から学ぶしかなかった国際的に瀬戸際のモノリンガルは、バイリンガル以上の人がもっているであろうと期待される物事のとらえ方の広さや考え方の幅広さという意味での豊かさで勝負をするよりも、自国語を駆使して一つの言語による生活文化の質の高さの向上を図ったり、歴史の真実を追究したりすることによる深さの豊かさで勝負をすることを中心に考えていった方がよいように思う。
     しかし、わざわざバイリンガル以上の力をもたなくても、モノリンガルばかりであるにもかかわらず、それでことが足りるような国づくりをしたり、国際的影響力を政治経済面でもったり、特異な文化を売りにして儲けることや言い訳にして有利に立ち回ることを推し進めたり、様々な分野でこまめに国際的水準をはるかに超える技術を確立させたりしていれば、それはそれでモノリンガルの国としてすばらしい生き様をしていると胸をはっても構わないと思う。
     そうしたたゆまぬ努力を必要とすることなく、歴史的遺産のごとく最初からモノリンガルですませられるという身分にある人々は、あえて少数民族の言語を身につけて文化の保護や経済支援等にあたるようなボランティア活動をするぐらいのことをしなければ、必要に迫られてバイリンガルになるための努力を必要としなくてはならない人々やモノリンガルで無理して突出しようと努力しなくてはならない人々に対して申し訳が立たないというものだ。
     もちろん、それらの人々の全員がそうした殊勝な心がけで生きていける状況にはない。だから、少なくとも地球人として、かけはなれて異なる文化の言語も多少は学ばねばならないという決まりを作ってもらい、その学習を通して異なる文化についての理解を深める機会を作ってもらうぐらいの配慮はしてもよいのではないかと思う。そうすればモノリンガルですませられることによる傲慢な姿勢もいくらか改善されるかもしれない。
     これ以外に言語習得の負担を平等化する道は、第二言語としてエスペラントを採用することを世界中に義務づけるしかないように思うが、やはり無謀というものだろう。
     これらの道は最初から閉ざされているように思われる。現時点で第二言語を必要としない大国が首を縦に振るとは思えないからだ。これはずるいのではなく、至極当然なことだ。第二言語を習得する時間があったら、大国が大国たらんための科学技術獲得のための教育等に充てるに決まっている。この言語的優位をどうして手放すことがあろうか。どう考えても不平等はなくせそうにない。

    ③言語がたくさんあること自体にプラス面はあるのだろうか。
     今と違って効率のよい通信手段や効率のよい交通手段がなかった時代では、人間が地球に広がっていく過程で住みついていった地域ごとにいろいろな言語が花開いていったのは当然といえば当然だ。
     しかし、その後、数千種類になるまで、ひたすら多くの言語が生まれていったことはとても面白い。取りあえず幾つかの言語が生まれ、それぞれが幾つかの言語を派生していくというスタイルで増えていったのだろうと想像されるが、よくも増え続けたものだ。何か必要があって増えるべくして増えたと考えるべきか、それともなりゆきで増えてしまったと考えるべきか、その両方か。
     そうした過去の動きにはいろいろ意見や学説もあるのだろうが、陸地がほとんど国境によって分割されるまでに人間の行動範囲がある程度地球にいきわたりつつ固定されている状況では、民族の移動に伴う言語の増加も既にピークを越えて、現在では少しずつ増えたり減ったりしていると考えるのが常識的な判断であるように思う。
     大きな流れが仮にそうであったとしても、言語が生まれたごく初期にはどのようなことが起こっていたのだろうか。初期の段階特有の何か特別の動きがあったかもしれないと考えると面白そうだ。 
     人間が言語を操り始めた初期の段階では、地球上に二種類、三種類の言語しかなかった時代が必ずあるはずだ。人間がまだアフリカあたりの一地区に住んでいたころ、言語が発生し始めたと仮定する。いきなり文法を考え出し、それに基づいて単語を増やしていくというのは考えにくい。単語を増やしていく間につなげ方が決まっていって、それが文法となっていくと考えた方が自然だ。
     この文法が発生するまでに試行錯誤の時間がかかるはずで、試行錯誤のなかで幾つかの流派ができると考えるのが自然だ。どのつなげ方が合理的かということではなく、「感覚的」、かつ「暗黙の了解」、かつ「なし崩し的に」というと変かもしれないが、ファッションのように広がっていく感じではなかったろうか。どのように単語をつなげると立派に聞こえるか、そして伝わりやすかったかという実質的なことが主な決定条件となるはずだ。
     流行廃りもあったに違いない。しかし、次第に主な幾つかの流派に絞られてくる。これはある程度の生活領域の広さを必要とする。ある一定以下の広さであれば、一つの文法に統一され、ある一定以上の広さであれば、幾つかの文法に分かれていく。こうした地理的な条件に生活様式の違いによる社会構造の違いが加わって、生活領域の拡大に伴って言語の分離が始まると考えたらどうだろう。
     一つの言語が話される地域が広がっていくなかでも方言が発生する。長い間には、それが別の言語のように聞こえるほどに変化する可能性も十分にある。省略の仕方や比喩の仕方、イントネーションの変化などは地区ごとに進化する。同じ文法をもつ言語でも、単語を増やす段階で地域が離れていれば、テレビもラジオもないのだから、同一のものを全く別の言い方になる。
     それでも、人間がまだあまり地球に広がっていない時代には、違う文法や違う単語をもついろいろな流派の言語を操る者同士が、比較的近くに住んでいたはずで、生活領域が接するところがある段階では、自然にバイリンガルが発生していくはずだと考えるのは不自然だろうか。
     やがてそのバイリンガルが多く住んでいる地域が独立して歴史を歩むようになることがあったかもしれない。その中で新しい言語が育まれていく可能性を疑ってもよいかもしれない。大抵はどちらかの言語がもう片方の言語を駆逐してしまうように思うが、駆逐された言語を母語としていた集団が母語風の他言語を話しているうちに、言語の数が一つ増えるもとをつくっているというわけだ。
     これは逆に、人間が地球のあちこちに広がってから各地で独自に言語を育てていったと考えるのはどうだろう。言語学的な難しいことは分からないが、直感的にそれは少し考えにくいことのように思う。
     人間が地球のあちこちに広がるためには社会が必要で、その社会を維持し、生きるための技術を身につけるとともに伝達していくにはどうしても言語が必要だと思うからだ。その土地の風土で生きるための技術を身につけて力が蓄えられると勢力が広げられていく。すると、ある地点から周囲に広がるためにスタート地点から民族が地理的に分離していく。分離しつつも集団で生きていくためには前提として社会というものが形成されている必要がある。当然異なる土地での生き方に合った社会になっていく。図書館や学校、会社のある現在と違って長い歴史のなかで生まれた知恵や技術が個人的、かつ容易に手にはいるわけではなく、社会に依存しつつ自らの努力で身につけていかねばならないからだ。
     これが幾つかの民族に分かれるはじめだと考えるとすっきりする。それと同時に、これが生きるためのすべである言語が分岐するはじめとなるように思う。
     こうして考えていくと、民族の分離が起こった後にどの民族にも言語が発生していくというのは、かえって不思議な感じがする。やはり、そうなる前に民族の力を支える社会とその社会を維持するための言語が必要だと思うのだ。
     分かれて住み始めた土地では独自の生き方を強いられるだろうが、文法や単語は異なっても、言語をもつ能力だけは引き継がれていき、生き方を伝えていくということだ。その間、他の民族とぶつかって他の民族の言語を吸収したり、他の民族を避けて別の土地の風土で生きるための技術を身についていかざるを得なくなって、文化的に隔絶され、交流がまれとなり、次第に他の民族の言語とは独立したような独自の言語の姿を見せるようになることもあるだろう。
     このように、他言語を用いる民族や部族を征服した場合には、自分の言語を共通語にしてしまおうという動きも出てくるはずだ。共通語とするだけでなく、母語の使用禁止令を打ち出す可能性も高い。すると、言語の数が一つ減ることになる。
     ただし、この場合、どの程度徹底して共通語としての自分たちの言語を押しつけて浸透させたかということが問題になる。自分たちの言語を浸透させるには、征服した自分たちと征服された者たちの人口比や文化の高さの違いが障害となる可能性がある。これを打ち砕くには、彼らの団結をどれだけ分断し、彼らの誇りをいかにおとしめていくかにかかっている。
     しかし、その作業にも労力が要る。また、人間のやることだからどうしても徹底を欠くことになる。ここにまた、言語が融合したり、混合したりする機会が生まれる。こうなると、自分たちの言語を押しつけようとしても、言語の数が減るのではなく、逆に増えてしまう原因を作ることにもなりかねない。
     言語数がきわめて少ない時代では、人間のこうした所業によるダイナミックな言語地図の変動が見られたことだろうが、今となっては国境という枠、文化圏という枠などに歴史の厚みが加わり、言語数の変動が比較的安定している時期を迎えているという状態に見える。
     このように改めて考えてみると、自分があまりにも言語について分かっていないことを実感する。たとえば、現在使われている言語の数が数千語としても、これまでにどのぐらいの数の「のべ言語数」があったのだろうかということになると、もう調べようがない。
     今のところ文字だけがその言語が存在していた証拠となる。文字が残っていなければ化石が残っていないのと同じで、存在を証明できない。もちろん、今後は音声データの収録も試みられるのかもしれないが、それをどういう方針で誰がどの費用を使ってどのような方法でやるかという現実問題になると、はなはだ心もとない。
     そもそも、「のべ言語数」を確かめる意義など今のところほとんどない。しかし、さすがに現時点の言語数すら不明確だというのは、言語というものについて語ろうととする際、あまりにも実態をとらえていないということになってしまう。もっとも、そのようなお粗末な状態が現状だということを語ればいいのかもしれない。
     動植物の種類もその数は本当には分からないが、それでも不都合はない。もっとも、新種を発見すれば、それはそれで大きな評価を得られるのと同じで、未発見の言語を発見して研究すれば、大きな評価を得られるはずだ。だからといって、そのために未開の地へ探検に出かける人もなかなかいないと思う。
     動植物の新種を発見すれば、そこから新薬を作ったり、生命の謎が解ける可能性もある。そうした宝探しなら巨万の富を得る確率はゼロではないが、未発見の言語を発見しても、それほど得することはない。万一、発見したとしても、その後に研究をしなくてはならないのだ。とても一人の人間の寿命には合わない仕事だ。得られるのは名誉、名声だけだろう。
     ただ、一つの物事に対して、いろいろな民族がいろいろな言い方を発明してきたということだけは確かだ。つまり、今後どんな物事に遭遇しようと、いとも簡単に表現しきってしまうという頼もしさを感じる。逆に、このような言語の性質が原因でたくさんの言語ができてしまったことも確かだろう。
     原因はどうあれ、たくさんの言語があるということについては、まず次の二つのことが言える。
     一つはプラス面。たくさんの言語がある分だけ、総和としてではあるけれど、この地球の至るところで世代をこえて文化のバトンタッチをしながら、種類が豊富という意味での豊かな文化を築いていける。
     それは、異なる言語間の生活交流が薄くなるために、一つの言語を使用するグループに内向きの力が働いて、その内部で文化が育まれるようになるからだ。そのおかげで、文化の種類が豊富な地球という星になる。
     もちろん、現代は情報の伝達や交通機関の発達により、国境などの境界線を越えて短期間のうちに文化が広がるということもある。すると、広がった先でいろいろに変形することもあるので、ますます文化の種類が豊富になっていく可能性が高い。後はどのような形でその地に根付いていくかという問題はある。
     しかし、文化の種類が一時的にでも増えていくという単純なことだけでも充分にプラスだろう。文化的に短命であっては影響力が少ないという人もいるかもしれないが、それでも種々雑多な方が、その内のどれかが状況に適合している確率が高く、文化として進展し、生き延びていく可能性が高いからだ。
     ところで、たくさんある文化の中には、言語という暗号で守られているがゆえに、他言語使用者から不当な評価をされてつぶされることなく育まれていった文化や実際より高く評価されて保護されている文化もある。逆に、不当な評価をされてつぶされり、差別されたりしている文化もあるかもしれない。
     しかし、だからといってこれがたった一つの地球語だったら面白くも何ともない。他言語を操る他民族に好奇心も感じなければ、他民族や他言語に対して感じる神秘性も失われてしまう。他言語を習得するという適度な困難は、人を夢中にさせる効果があるが、それがないのはつまらない。これは不幸なことだ。ただし、孤立した言語を話す民族にとって他言語をマスターするのは苦痛だ。もっとも、それを克服した人には必要以上の尊敬を得られるから努力のし甲斐はある。
     次にマイナス面。今後、様々な言語を使用する全ての民族同士が、共生という形でまとまって進んでいかねばならないということになると、意思疎通の面で不都合が目立ってしまうということは否定しようがない。
     ところで、これとは別に、生の声と著作物等の文字との間にあるギャップが問題となる。他言語を話す者からすれば、その言語による生の声はまれに断片的に伝わってくる情報で、その言語による著作物等の文字は選択的に翻訳されて伝わってくる情報となる。
     著作物となる時点で既に選択的かつ意図的に表現されたものだ。また、翻訳するというということは労力を要することだから、その労力に見合ったものが認められなければ翻訳されることもない。しかも、その情報には、著作者個人の意見や翻訳者の思い込みも含まれている可能性がある。伝言ゲームの恐怖はある程度覚悟しておいた方がよい。
     こうしてみると、文字を配列していくことで表現された情報というものはかなり選択的なもので、しかも人の目を通して解釈されたものだとしかいえない。逆にそれだけ精選されて理解しやすくされた耳よりの情報だとも言える。しかし、そうした情報というものは、ある一定以上の量が収集されなければ、受け手の都合のよいような利用の仕方は難しいのではないだろうか。それ以前に、情報の質的な評価をすることも難しいという問題もある。これを解消するには、大きな労力を必要とする。
     一方、生の声は紛れもない実際の直接の情報である可能性が高いが、その言語を学習していない他言語の使用者にとっては暗号以外の何ものでもなく、内容を確認することも意見を述べることもできない。
     僕たちが他言語に接するとき、まず翻訳された言語を表している文字に接するのが普通だ。たとえ、翻訳されていなくとも、大方は印刷されており、自分自身が翻訳する時間的な余裕を与えてくれる。
     しかし、生の声に対しては聞き取ったり質問し合ったりする時間的な余裕がお互いにない。これが心の余裕のなさにつながってしまう。これを避けるには、通訳の手を借りるか、あるいは、自分か相手かの最低どちらかが通訳並みの力を持つしかない。
     通訳をたてるということは予定の行為の中であるからこそできることなので、その生の声を出す話し手も通訳も、こちらが予定のなかで意図的に選択する余裕はある。
     しかし、一口に通訳とか翻訳といっても、生の声しか通訳できない者と、文字しか翻訳できない者と、翻訳された文字しか読めない者との間にある理解度の差によってできる伝達不良の溝はなかなか埋めることはできないだろう。
     このように言語の種類が多いことにプラスとマイナスの両面があったとしても、必ずしもプラス面だけが出ればよいというものでもない。プラス面、マイナス面のどちらであっても、どちらか一方に偏ることの不都合は大きい。プラス面といってもマイナスの要素を含んでおり、マイナス面といってもプラスの要素も含んでいるからだ。
     国際問題の多くは、この言語の種類の多さというものを基盤としているように思う。国際問題というものは、その目標が美しく簡潔な言葉で掲げられるだけのことはあって、実際には、汚く、複雑で、板挟み、袋小路に迷い込んでいるものばかりだ。
     もしかすると、かえって同じ言語を使っていないということが、不幸中の幸いというケースがあるかもしれない。異なる言語、異なる文化をもった人たちなのだからという、あきらめや覚悟がもてるからだ。そのあきらめや覚悟をもっていればこそ、国際問題を解決する仕事に意気を感じ、挫折することもなく積極的に問題解決にあたることができようというものだ。
     その政治的活動がたとえ破滅に向かうものであっても甘んじて受けいれ、「所詮人間というものは……」とか、「さて、真理とは……」とか、敢えて呪文の類を唱えてみるのも面白かろう。これは自暴自棄になっているわけでもなければ、他人事のように無関心を決め込んでいるわけでもない。ただただ、困っている人のために、最後まで何かできることをしてみようという空っぽの心のなせるわざだ。

    ④言語というものは、どのようにして数えるものなのだろうか。
     日本語も他の言語と同じく、地域ごとの共通語である方言と標準語との集合体で、通常はこれを一つの言語と見なして数えることになっている。
     しかし、鹿児島の方言と青森の方言との差を知っている日本人の尺度から見れば、方言ほどの違いもないと感じてしまうような言語でも、地続きの外国で使われていれば、それを二つの言語として数えることもあるかもしれない。
     もし、そうしたケースがあるのなら、おそらく、愛国心とか所謂歴史とかいうものが関係してくるはずだ。言語学や歴史学の成果に従うよりも、互いの国の人々が主張するように、別々の言語だと認めておくのがおさまりがよいように思う。おさまりがよいといっても、主張をただ受けいれるだけの妥協ではない。真実ではないかもしれないが、それよりも話す者の意識が異なるという事実に重きを置きたいと思うのだ。
     ただ単に「我々は○○とは違う言葉を話している」では困るが、「学問的には○○と同じ言語かもしれないが、我々は○○とは異なる言語を話している」という了解をしてもらっていていいのではないかと思う。意地になっているだけだと評価されてしまうだろうが、その意地が大事なのだということを心にとめておく必要がある。
     たとえば、「自分は○○国の国民だ」、あるいは「○○民族の一人だ」という類の「所属しているということに対する誇り」を生きる力の土台にしている人々だっている。つまり、「あいつらとは違う言葉を話しているのだ」とか、「あいつらとは違う文化を持っているのだ」という意識を強く持つことによって、それを精神的なバックボーンとしている人々だっているのだ。
     そうすれば、亡命して非国民とならない限り、あるいは死んで他民族に生まれ変わらない限り、たとえ経済的に苦しくても、あるいは弱い立場に立たされていても、そのおかげで胸を張って生きていける。それどころか、あらゆる困難にも耐えていけるのだ。
     だから、いくら言語が似かよっているからといって、そのことだけで一つの言語として隣のライバル国とまとめられてカウントされてしまうことには、民族として、あるいは国民としての誇りを傷つけられたように感じ、強い不満感をもつに違いない。
     つまり、自分たちが話している言語を積極的に他と区別し、自分たちだけのものとして守ろうとする心理が強く働かざるをえない状況にある人々がいるということだ。そうした人々は、いざという時には、たとえ自分の命を落とすことになっても、民族や国の誇りをかけて戦うという道を選択をする可能性が高いのではなかろうか。
     逆に、アイヌ語のように全く日本語とは異なる言語だけしか話せない人々が、ある程度の勢力を持っていながらも弱い立場に立たされていた時代には、その言語を話していることや風俗や習慣自体が差別の理由になるという理不尽な図式が作り上げられていくことにより、ますます勢力を弱めていくということがあるように思う。
     しかも、力尽くで日本語の勢力下におかれていくという動きが出てくると、子供の将来を考え、アイヌ語が親から子へ伝わらなくなっていく傾向が強まると思われる。そして、最後にはアイヌ語という一つの言語が消滅していくことになる。
     つまり、アイヌ人と和人との抗争が和人の有利な状態で終わりをつげた後に訪れたであろう、アイヌ語を自ら積極的に使用しないようにしようという心理がどこかで働き始めた時期や、そうした心理とアイヌ語やアイヌ文化を守ろうとする心理とが拮抗する時期を経て、今日のように言語や文化を保護される時期を迎えているのではないかと思う。
     妥協を積み重ねて生き延びるか、抵抗して殲滅させられるか。この二者択一を迫られたのが、アイヌ人ではなく、和人であったとすれば、果たしてどうしたであろうか。誇りを捨てた形で生き残る道を選ぶことが果たしてできるだろうか。もし、本当の誇りとは何かを知っていれば、勇気をもって同化しながらも、アイヌ人たることに努力を怠らず、本当の誇り、つまり魂をアイヌ人のように伝えていくに違いない。
     しかし、アイヌ語のように保護された言語を生きた言語としてカウントしてよいのだろうか。また、誰一人として実生活に使用しなくなったとしても、講座を開いて復活させて維持していこうという現在のような努力が続いているような状態であれば、それは一つの言語としてカウントしてよいのだろうか。これは実に際どい問題だと思う。

    ⑤言語の滅びの線引きにはどのような問題があるのだろうか。
     アイヌ語のように、ある民族がその民族としての勢力を弱め、その言語も消滅していく過程に入っているような場合には、いったいどの時点で消滅したと見なしたらよいのだろうか。
     親がその言語を使用言語としていても、何らかの理由でその子供が話さなくなった場合には、子供にとってはただの理解言語となってしまう。その孫に至っては、よほど興味をもって勉強しない限り、辛うじて部分的に理解できるだけの言語となるか、全く理解できない言語となっていくはずだ。
     例えば、何らかの理由で母国が失われ、国民の全てが異国で異国民と接触して暮らす移民となった後、二世、三世と世代が変わっていったとき、特に三世ともなれば、特別に学習しない限りは母国語を話せなくなるように思う。
     そこに、その数十年の間のどのラインを境として言語が消滅したと言えるのかという問題が起こる。移住先の言語と移民の言語との相性や移民の人数の多少、移民の地位が、大きく言語の運命に影響を与える。だから、それぞれの移住先ごとに消滅の仕方があり、消滅の時期も一様ではなくなるだろう。
     おそらく、その言語にかかわる幾つかのグループで最後まで母国語を何らかの形で保存しながら残っていたグループ内における「言語活動」の消滅を確認して、初めてその言語が消滅したということになるのだろう。しかし、それでも何に対して、どんな基準をあてがって消滅と見なすのかという問題は残る。
     また、一口に言語活動とは言っても、他者とのコミュニケーションだけでなく、独り言、内言なども言語活動に含まれるだろうから、少し話はややこしい感じになるかもしれない。しかし、すべての言語活動がなされていることが必要だとするのか、一種類だけでも残っていれば十分だとするのかは決め事としてただ決めるだけのことのように思う。
     こんなことを厳密に規定しても、たいした意味はないということだ。しかし、レッドデータブックにでも載るような言語を保護する活動をすれば、どこかから補助金が出るというような話が出てこないとも限らない。金が絡めば話は別だ。否が応でも厳密に線引きをして補助の対象かどうかを明確にしなけばならなくなるに決まっている。
     では、言語の滅びの線引きにはどのような問題があるのだろう。
     第一に、個人個人の言語習得率の問題がある。
     言語の滅びの線引きもそれを考慮したものでなければならない。いくらその言語を話すといっても、幼稚園程度の言語習得率であれば、その言語の十分な使い手として認めるわけにはいかない。十分に話せない者しか生き残っていなければ、その言語は滅んだと言ってもよいという考えが出てきてもおかしくはない。言語の滅びの線引きをする場合、そのあたりをどう判断していくかという問題がある。
     言語の滅びの線引きは、一般成人が習得しているはずの言語習得率を基準としなければならないと考えるのがよいだろう。義務教育レベルでは不十分だ。少なくとも働き盛りの中年程度の言語習得率を基準としたいものだ。その言語を使用する最後の生き残りの人物の言語習得率がその基準以下ならば、その言語は滅んだとするのだ。
     しかし、このように考えた場合には、その最後の生き残りの人物の努力によっては、あるいは年齢を重ねれば、その言語が復活したと見なされることもあり得ることになる。また、その人物や支援団体の並々ならぬ努力によって、その言語を使用する人物が増える可能性すらある。
     これは是非もないことだが、言語が一旦滅んで復活するまでに数十年もの年月がかかることも出てくるというわけだ。
     そうなると、最後の人物がたとえ失語症になったり、精神に異常を来して同じことしか言えなくなったりしても、治療の成果が出る可能性がゼロでない以上は、その言語が滅んだと決めつけない方がよいということになる。つまり、死亡するまでは要観察ということだ。
     第二に、バイリンガルの言語習得率の問題がある。
     モノリンガルが死に絶え、その後一定期間はバイリンガルが生き残っているという状況は結構ありがちなものではないかと思う。しかし、この場合、バイリンガル、特にバイリンガル以上の者については、その習得しているどの言語も、簡単な日常会話程度というレベルでとどまっている可能性があるので、確認しなくてはならない。
     辞書を使っても、やや難しい内容の本を読むのが困難であったり、その言語を話してきた人々が築きあげてきた文化に慣れ親しんでいないがゆえの誤解をしたり、討論に不自由があったりするならば、いくら買い物や様々な手続き、友達との楽しい会話、旅行などの日常的な生活をその言語によって実現していたとしても、豊かな社会生活や豊かな精神生活が送れるかどうかという基準で見ていく場合には、いくらバイリンガル以上であっても、やはりそれは不都合のある言語習得率にとどまっていると評価しないわけにはいかなくなる。簡単な日常会話ができるという程度では、常識的に判断して、その言語を十分に使いこなしていると認めるわけにはいかない。
     特に、母国語も他国語も同じように怪しい段階にあるバイリンガル以上にも注目しなくてはならない。結果として「二兎を追う者は一兎をも得ず」の状態になってしまった人々だ。こうした人々が話す言語は、一般的に成人が習得しているべき言語の水準に達していない可能性を見極める必要がある。その結果次第では、その言語の十分な話者としては認められないと思う。
     そういう人たちしかその言語を話す者がいなくなった時点で、その言語はもう滅びたと見てよいという立場もあってよいはずだ。
     逆に、この世の人々の全てがその言語のモノリンガルになったという状況が生まれた場合は、話が別だ。既に、十分不十分を問わず、全ての人々が使用しているという時点で、その言語が滅びているとは言えなくなる。一人一人が、たとえ現時点で水準以下の言語習得率であっても、その時点での平均的な水準に達していると判断しないと、滅んだ言語を使用しているという矛盾が起こってしまう。
     第三に、その言語が生活力として機能しているかどうかという問題がある。
     その個人の言語習得率が相当に低いために、豊かな社会生活や豊かな精神生活が送れないのはもちろんのこと、そのために生活上の問題を起こしたり、それを解決する力が低かったりするということがある。これでは言語の能力が生活力としての十分に機能していないというになる。
     ただし、その個人の言語習得率が相当に高い場合でも、たまたま刺激のない生活環境にあったために、豊かな社会生活や豊かな精神生活が送れなかったということや、たまたま恵まれた生活環境にあったために、解決すべき生活上の問題に遭遇していなかったり、若さゆえに人生経験が不足していたりして、生活上の問題を解決する力が低いと判断されてしまうこともあるだろう。
     そのどちらであっても問題であることには変わりない。言語習得率は高くても、問題解決に必要な語彙が少なかったり、使い慣れていなかったり、コミュニケーション力が不十分であったりしたために、持てる言語力が生活力として機能する状態にまでに活性化されないということからだ。この場合、使用言語として十分に運用される程に習得されてはいないと判断されるため、たとえ理解言語としては十分にクリアしていると見なされるレベルにあったとしても、その言語は滅びの線引きの内側にすえられてしまうおそれがある。
     これは、その人物が言語を下手に使用しているために、その人物にとって言語が不利に働いている状態だ。どの使用者からもそうした使われ方しかされないようになってくれば、その言語には既に力はないと判断し、滅んだとしても差し支えないという見方だが、これは不自然な見方だろうか。
     つまり、この個人内の言語習得率がある一定以下の値の人々の人口が、その言語を使用言語とするグループのなかで、ある一定の割合以上になった場合には、それをそのまま滅びのラインとするというようにしてもよいかもしれない。
     この言語習得率は、公的にしかるべく定められた方法で、客観的に測定されるものでなくてはならないと思う。
     たとえば、言語の滅びの判定専用の国語能力検定のようなものを新たに設ければよい。その是非はともかくも、この検定によって基準が決められた後には、同じ方法によって継続して検定し続けて統計を重ねていけば、言語の滅びのラインを定めていくことができるに違いない。これは滅びが近づいているということを警告するための基準ともなろう。
     個人レベルでの言語の滅びの線引きについても考えていかねばならないが、同時に、このようにグループのレベルでの言語の滅びの線引きも考えていかねばならないように思う。ここでは「言語の消滅」という生か死かという二者択一の表現よりも、「死に体となった言語」という表現の方が適当だろう。これは生死のグレーゾーンを示したものだ。
     こうした「グループ内の言語習得者率」は、通常は百%ではない。言葉を話せない生まれたばかりの子供や言語障害を持つ人や言葉を忘れている高齢者もいるからだ。厳しく考えていけば、義務教育を受けつつある子供たちも言語習得者として認めてはいけないのかもしれない。  
     もちろん、習得しつつあるという意味では習得者なのだが、そういう意味ではほとんど全ての人々が日々習得しているため、赤ちゃんも含めて多くの人々が言語習得者ということになってしまう。ここでいう習得とは、習得中や習得完了を意味しているのではなく、一応の習得終了という意味だ。
     このグループ内の言語取得者率のイエローゾーンやレッドゾーンは、統計的に暫定的に決めるものか、既に決められているものなのかは分からない。
     分からないといえば、個人内の言語の習得率がどのように表現されるのかも分からない。しかし、まさか個人が理解したり使用したりする語彙数を総語彙数で割った数値だけではないはずだ。文章の表現力や理解力や鑑賞力、会話力、説明力、説得力などという数値化しにくいものが問われなくてはならない。そうでなければ、達人の域に達した言語習得者に近いものとして、大型辞書を挙げなくてはならなくなってしまう。
     数値化しにくいのを曲げて数値化するためには、やはり言語能力テストを実施するしかない。しかし、これには意欲の面や対策時間の限界なども絡んでくるので、十分な配慮をする必要がありそうだ。
     こう考えてくると、全くどうでもよいこととして放置しておくのが現実的だと思われてくる。

    ⑥他の「言語の滅び」の線引きの候補にはどのようなものが挙げられるか。
    ・「その言語を使用言語とする者の最後の生き残り」が息を引き取った時点で、その言語が消滅したと見なしてはどうか。
    ・「理解言語としているその言語を、記憶だけを頼りにして少しばかり使うことができる者たちの最後の生き残り」が息を引き取った時点で、その言語が消滅したと見なしてはどうか。
    ・「理解言語としているその言語を、記憶や残された言語資料を頼りに少しばかり使うことができる者たちの最後の生き残り」が息を引き取った時点で、その言語が消滅したと見なしてはどうだろう。
    ・言語の実態が分からなくなり、たとえば「日本語」というような言語名だけが残った時点で、その言語が消滅したと見なしてはどうか。しかし、その消滅を防ぐために、その言語体系に関する資料や膨大な文章や翻訳や音声の記録などを記録として残しておけば、それらの資料が残っている限りは消滅したとは言えなくなってしまう。半永久的に滅びないという存在になり、ゾンビ言語と呼ばれるようになるかもしれない。
     ところで、ある人の死をもって、その言語が消滅したと見なすというのは問題がありそうだ。一人でも死ぬ前に上手に冷凍しておけば、消滅言語となったのではなく、休眠言語と呼んでもよいものに移行しただけということになり、冷凍解凍システムが壊れない限りは、全人類滅亡後に蘇って最後の使用者となりうる。
     すると、冷凍されている間は消滅していないということになる。そうした場合には、冷凍中にシステムが壊れた時点で、その言語が消滅したということにもなる。
     はてさて、どこで滅びの線を引けば、すっきりとするのだろうか。実際にはどうでもよいことではあるけれども、自分の寿命が気になるのと同じで、どうでもよいことがかえって気になることもある。

    ⑦新発見の言語は果たしてうまく保護できるのだろうか。
     新発見の民族や部族が使用している新発見の言語の場合には、言語の種類を増やすとほぼ同時に減らすことになりかねない。たとえば、次のような筋書きに近い現実は容易に起こり得ると思う。
     発見者たちは新発見の民族や部族との平和的な接触に失敗し、命のやりとりをする戦いにまで発展してしまった。新発見の民族は生きて捕虜となることを恥じてか、自決するものがほとんどだった。
     しかし、最後の一人が瀕死の重傷を負ってはいるものの危うく命を落とす前に救助された。手厚い看護のせいもあって、辛うじて意識が戻ることがあり、その時には少しばかり話すことができた。発見者たちは、その言葉が聞き慣れぬものだと気づいて慌てて記録を取り始めるが、ほとんどがうわごとに近いものであるために、意味を確認できないまま一か月が経ってしまった。残念なことに容態が急変し、そのまま帰らぬ人となった。一か月分の言葉の記録は残っている。言語学者が分析した結果、それは新発見の言語だと判定されたというようなケースだ。
     言語の種類の数を数えるときに、少なくとも、これをプラスマイナスゼロとしてカウントしないわけにはいかない。言語学者は、記録の都合上、このような新発見の言語にも名をつけ、資料とともに保管しておくことになるからだ。

    ⑧言語の使用者数と言語の滅びにはどんな関係があるだろうか。
     言語別の使用者の数は、いろいろな意味で大きな意味を持っているように思う。
     あまりに使用者の数が多いと、言語の分裂が起きやすくなるように思う。中国語のように使用者の数があまりにも多いと、地域差が出やすく、同じ漢字を使っていても、その発音が大幅に異なるというようなことが、当たり前のように起こってくる。中国人同士でも共通語としての北京語を使えなければ、通訳が要るほどに異なるという。すると、これを中国語という一つの言語としてカウントしてよいかという問題も出てくる。
     もしかすると、言語ごとに使用者の上限とか、使用地域と使用人数との適切な関係とかいうようなものがあるかもしれない。無人島は無人島でも、無人島の有様によっては漂流者を受け入れる人数が多い無人島もあれば、少ない無人島もある。これと似たような関係があるように思うのだが、どうなのだろう。
     また、大勢の人に使われると、様々な姿を派生させやすくなる性質を持った言語もあるかもしれない。また、少人数の人に使われていても、いろいろに姿を変えやすい性質の言語もあるかもしれない。
     さて、使用者が少なくなっていくと、ある一定のラインから急激に少なくなり、また別のラインから少なくなり方が緩やかになって、最後は消滅に向かってまた減少が加速するというような大きく見て二段階の動きを見せるのではないかと思う。 
     ある一定のラインからその言語の使用者が急激に少なくなり始めるのは、あることをきっかけとして別の言語への乗り換え組の出現が流行したり、強制されたりすると思うからだ。次にその急激な減少が緩やかになるのは、乗り換え組の多さに反発する人々が残っているからと見ていきたい。そして、乗り換え組に入り損ねていた者が、遅ればせながら少しずつ乗り換えていく組が出現し続けると思うからだ。そして、時が経っていくと次第に乗り換えを行わないグループの寿命が尽きていくため、急速にその言語を使用する人が減少していくというわけだ。
     ところで、使用者があまりにも多い中国語とは逆に、使用者の数があまりにも少ないと、好むと好まざるとにかかわらず、国際的には暗号としての色彩が濃くなっていくかもしれない。バスク語などは孤立した言語である上に使用者が少ないから、暗号のようになる要素がある。こうなると希少価値ゆえに消滅しないかもしれない。
     あるいは、孤立した言語を使う者にとっては、国際的に共通語としていくべき言語を習得し難いために、その言語に飲み込まれることなく、消滅しないという道を約束されているのかもしれない。
     通常はそうした言語を母国語として持つ場合には、将来のことを考え、幼少より英語などの国際的に広く使われている言語や隣国間で比較的共通語として使われている言語などを習得するのが習慣となっている可能性があるが、結局は無駄骨を折る率が高いと予想される言語もあるということだ。「それなら母国語を守ろう」という力が強く働き、消滅しないというわけだ。
     消滅している消滅していないにかかわらず、宗教的な儀式やかけ声、ことわざや子どもたちの遊びの用語、あるいは学術用語などのように、特定の場面だけで使うようになって、一つの言語の体系を示すことなく、単語や決まり文句、比喩表現などのような姿で、その言語の断片のみが辛うじて伝わっているという場合もある。当然のことながら、その言語の使用者から指摘されて初めて気づくことが多いはずだ。
     藤村由加の著作に、「だるまさんがころんだ」の「ころんだ」は日本語でなく、その昔、朝鮮半島で使われていた「コロオンダ」という言葉だという説が述べられていた。「コロオンダ」とは「やってくる」という意味だそうだ。これが本当なら、似た発音の言葉というものは、別の言語の中に似ているがゆえに潜り込んで曲がりなりにも生き延びているということになる。なるほど、「やってくる」という意味なら「だるまさんがころんだ」のゲーム進行と合致しているから不自然さはない。
     「ころんだ」と「コロオンダ」は発音が似ていても意味は逆に近い。現代語や他国語間でも、こうした類のことがとても深刻な誤解を生み出す原因にならないとも限らない。これらは時限爆弾のように意味が明らかとなって、人々を驚かす可能性がある。子供の遊びに封じ込められている場合はまだよいかもしれないが、慣用句やことわざ、決まり文句などに紛れ込んでいる場合には、何か恐ろしい感じがする。曲がった意味で了解されてしまっているまま問題にされないで、時が経っていくことほど恐ろしいことはない。
     言語の使用者が減るということは、誤解をただすチャンスも減るということになる。これはゆゆしきことだ。このことがその言語を使用する人々が作っている集団の力を弱め、最終的にはこの世から葬り去ることで、その言語の息の根を止めないとも限らない。
     こうした言葉の問題だけでなく、奇妙な連鎖がいくつもあって、その流れを止められずにいるのが我々の現実ではないかと思うが、どうだろう。 

    ⑨通訳と翻訳の問題にはどのようなものがあるだろうか。
     使用者が少なく、使用地域も極端に狭い特殊な言語となると、相手一人と会話するのに、間に何人もの通訳担当者を並べてリレー式に通訳するという笑い話のような光景が現実のものとなる。他人にとっては笑い話であっても、当事者たちにとっては、伝言ゲームのように意味が全く別のものになってしまうというおそれがあるので、微妙な問題についての討論などはかなり慎重にならざるを得ない。事は深刻だ。
     しかし、隔絶された地域の住民であるために、そうした討論を必要とする問題が極めて起こりにくいという点に辛うじて救いがある。
     このように、介在する必要がある通訳担当者の数が多ければ多いほど、逆に喧嘩が起こる確率が小さいといえるのかもしれない。しかし、その数が多ければ多いほど、通訳担当者たち自身の利害にかかわる話し合いである確率が増えたり、通訳上の勘違いや悪意が働いたりする確率も増えたりするはずだから、事は単純ではない。そもそも通訳担当者が多ければ多いほど、会話に時間がかかるために不利益なことが多い。
     しかし、言葉が通じないために起こるトラブルよりも、下手に言葉が通じるために起こるトラブルの方が、誤解や嘘などに対する観察者や監視者がいないため、その被害がより深刻なものになる可能性が高くなる場合もあるように思う。
     逆に、介在する必要がある通訳担当者が多ければ多いほど、より多くの証人がいるということになるので、通訳担当者がどちらの息もかかっていない第三者であるという前提があれば、より安全であるように思う。もちろん、そんな前提など実際にはあろうはずがない。

    ⑩言語の種類の数が減るのはどのようなときだろうか。
     母国語とする人の数や、生活や仕事の必要上やむをえず使用言語として使っている人の数が、まるでガン細胞のように増殖していく場合には、接触した言語が消滅し、言語の種類の数が減ることがあるだろう。
     他の言語を侵略していくように見えるその言語は、周囲の他言語の使用者から見れば、非常に危険視されるはずだ。その増殖がとどまることなく続き、営々と培ってきた伝統的な言語が廃れることによって、その文化までもが変質させられてしまうように感じるからだ。また、その言語を習得するために多大なエネルギーを費やしてしまうようにも感じるからだ。
     ただし、この増殖がゆっくりと時間をかけて幾世代にもまたがって進んでいけば危機感は持たれずにすむだろう。
     増殖が急速に進む場合には、政策として有無を言わさず行われる場合と、経済活動上の必要に迫られて行われる場合と、文化へのあこがれから好んで行われる場合とがある。当然、この場合には危機感を持つ人が多く出現する。
     人生の長さと比較して短期間に変化するものは大きな変化としてとらえられるが、長期間にわたるもっと大きな変化に対しては鈍感になってしまう。これは恐ろしいことだ。
     さて、この現象を成立させる条件としては、周囲に似た言語が多く、学びやすい状態に置かれている言語であるということ、地理的政治的に異国間の交流がしやすいということ、その言語を使用する国々が歴史的な勢いの中枢にあるということなどが挙げられるだろう。
     
    ⑪言語の種類の数が減るのをくいとめるのにどのようなことがなされているだろうか。
     言語の種類の数が減るのをくいとめるために努力が払われることはまだない。しかし、消滅の危機にある言語を保存しようとする努力は払われている。
     たとへば、存続が危ぶまれているアイヌ語などは、希少価値のある言語として保護しなくてはならないと思われている。使用者が比較的少ないということ、孤立した言語であるという条件だけで保護される要件が満たされるのだ。
     ラジオ講座はラジオ講座でも、ヨーロッパ先進諸国の言語を日本人が学ぶのとは異なり、保護を目的としたアイヌ語ラジオ講座が実際に開かれていることには注目したい。
     野生生物の絶滅危惧種が指定されて保護される動きがある。同様に、一定数以上の使用者が一定面積の中にいないと、言語も急速に消滅するおそれがある。
     しかし、保護に向けての力を大きく働かせるには、保護に向けての熱意と政治の力をもってして始めて可能となる。法的な根拠がなければ予算もつかないので、法整備も必要だ。事はそう簡単なことではない。長年の努力のうえに漸く実現することだ。
     一方、ラテン語のように学術的な面で部分的に使用されているような言語もある。これは一般的に広く言語活動が行われているわけではないので、地球規模で見れば、死語ということになるだろう。しかし、無下に死語としてカウントしてよいのかどうかは、部分的にでも使われている以上は検討すべきかもしれない。少なくとも、死語という表現だけでも検討した方がよいように思う。
     ラテン語は化石のように残っているので、これを保護する動きはほとんどないように思う。既に今ある言語に大きな影響を与え、幾つかの単語も残っている。これらは無意識のうちに利用されている。もう保護するレベルにはない状態だということだ。
     こうして言語は生き物のように生まれたり、消えたり、飲み込んだり、飲み込まれたり、あるいは、生きた化石のように残っていたり、化石のように発見されたり、また人知れず跡形もなく消えたりする。

    ⑫全世界の人口から考えて、言語の種類はどの程度あればちょうどよいのだろうか。
     今このときにも地球の人口は爆発的に増えているから、長期的に見て、今後どのような言語の分裂や融合、そしてつぶし合いが起こるかは予測できない。ちょうど良い言語の数になるまで、その変動が続くのだろう。
     遠い将来は、一つの言語になるに違いないが、それでも話者の数が一定以上多く、それによって社会の構造がどのようなものになるかによって、方言を含めて変形が起こる力はとどまらない。これを阻止する目的で下からの言語統一運動が始まったり、上からの統一言語教育などがなされるだろう。
     そもそも、単一の言語となる過程で、言語統一運動が各地で起こったり、統一言語教育などが施されるはずだ。その経緯で様々な問題が発生するはずだが、想像するだに恐ろしい。
     とにもかくにも、現時点で数千語あるという数の多さは異常だ。そのために翻訳や通訳という強引で因果な作業を必要とするということが大きなマイナスとなっている。また、全ての言語が全ての人々のために通訳されたり、翻訳されたりするわけではない。一つの言語が、数種類の言語に通訳されたり、翻訳されたりすればよい方ではないだろうか。
     こうしてみると、言語の種類がどの程度あればちょうどよいのかなどと問うこと自体が無意味に思われてくる。
     この際、人口と言語の種類の関係とか、この星における適正な言語数とかを云々するよりも、その言語の数の多さを、いかに利点として働くようにしていくかを考えた方が幾分幸せな気持ちになれそうだ。少し挙げてみよう。

    その1「支え合う」
     ある言語の使用者たちが、その言語を土台とする文化や行為によって自滅の道をたどるとしても、他言語によるスペアーたちがいくらでもいるという、いわば選手層が厚いという利点がある。どれかが倒れてもどれかが隆盛するという単純で見かけだけの支え合いだが、人類の存続ということに重点を置けば、重要なことだと思う。

    その2「補い合う」
     自国の言葉で表現できないことを、外国語を用いて表現することができるという利点がある。また、自国の言葉で表現することを憚るがゆえに、あえて外国語を用いて表現することができるという利点がある。この効果は短期間で薄くなっていくかもしれないが、たくさんの外国語があるので、代わりを見つけやすいという利点もある。

    その3「刺激し合う」
     言語が異なることによって発想が異なったり、感性が異なったりすることをお互いに自覚できるようになるという利点がある。これによって文化的に停滞している部分に刺激を与えることができる。刺激するだけでなく、融合して、新しいものを生み出すきっかけにもなる。文化に変化が起これば、それに伴って新しい科学技術に焦点が当てられて研究が進む可能性が生まれる。

    その4「抑え合う」
     一言語が突出して多くの人口によって使用されるようになると、その言語使用者が無自覚のうちに一定の方向に突き進むおそれがある。そのためにその人々の社会が自滅したり、その社会に深くかかわる別の社会が滅んでいく可能性も高まる。これを防ぐ形でいろいろな種類の言語を使用する者たちが、突出した使用者たちが当然とすることの感覚が絶対的ではないものだと示していくことに代表されるような、文化的抵抗勢力となり得るという利点がある。

    その5「比べ合う」
     言語研究にデータの多さが寄与するというプラス面がある。もし一つの言語しかなかったら、言語を研究するのに非常に苦労するはずだ。似たものと思われるものや全く異なると思われるものとを比べて相違点や共通点を確認していくところから出発するのが常套手段というものだろう。言語の種類が少なければ少ないほど、博物学的データが貧困になるため、研究を深めていくことが難しいということだ。その逆に言語の種類の数が多ければ多いほど、言語研究には有利となるという利点がある。

    ⑬たくさんの言語というものをどのようにとらえたらよいのだろうか。
     たくさんある言語の中には親子関係にあるような言語や兄弟関係にあるような言語もあるだろう。そうしたものを明確にしながら歴史を眺めなおしたり、疎遠な関係だと思っていた人々に親近感をもったりするだけでもよいと思う。逆に、全く異なるように見える言語を操る外国人には、好奇心をもって接し、言葉について語り合うなかから、あらゆる面で清濁あわせて学び取り合えばよい。 
     植物にもいろいろな植物があるように、また、動物にもいろいろな動物がいるように、言語の多様性というものも、安易なグローバル化や中途半端に計画的なグローバル化に対して警告を与えるだけでなく、人間が人間であることを維持していくために、もともと重要な役割を果たしてきたものであるに違いないと思いたい。それが人間の豊かな可能性を温存しておくためのシステムであったとしても、また、たとえそれが人間自身への足かせであったとしてもだ。
     これに抵抗して一つの言語に統一しようと努力することは、神をも恐れぬ行為であるということになる。バベルの塔の再建、それに対する神の鉄槌などというものの想定だ。この想定は、一つの言語に統一された人間は、偏った動きに総動員され、滅びてしまうというおそれを土台にしている。バベルの塔の伝説に、神は人間のために鉄槌を下し、人間を人間として保存するために互いに通じ合わない言語を話すようにしてしまったという解釈をしてみた。
     現状はどうだろう、インターネットで即時的に研究結果が世界中に流れ、翻訳ソフトはそれが共有されることを容易にしている。これは目に見えないバベルの塔を築きあげていることに等しい。目に見えないから神には見つからないだろうと思いたい。

    ⑭神はどの言語を使用するのだろうか。
     「初めに言葉ありき」が文字どおり本当なら、神は言語の使用者ではなくて、神は言葉そのもの、存在の意思、つまり宇宙のつくりということになるのだろうか。しかし、言語には記号的な側面があることから考えてみると、「初めに言葉ありき」の「言葉」には記号的な側面を考えることができないことから、この「言葉」は言語ではないということになりそうだ。 
     すると、神はどの言語を使用するのだろうかという問い自体が間違っていたことになる。こんな「言葉」を人間の言語で語られた言葉と等質のものとしてとらえてはいけない。最初からあったものだということを信じれば、行為として語りかけてくるものではなく、おそらくは解釈されるだけの存在なのだろうと思う。つまり、神から語りかけてくるタイプのメッセージというものはないということだ。  
     解釈だということになると、神の声は聞こえてくるものではなく、自分が聞きたいもの、自分が必要なものだということになる。そうだとすれば、神の声が自分の使用している言語として感じられることには大きく肯ける。
     逆に、未発見の言語で聞こえてくるものならば、神に相当するもの、もしくは神と見なせるものからのメッセージである可能性がある。しかし、未発見の言語なので、解釈ができない。しかし、やはり自分が使用している言語によって勝手に都合のよいように解釈するということはできる。
     このように最初から順番に考えていくと、人間があらゆるものに対して自分勝手であったり、幸不幸の格差が大きかったり、人格や性格の格差が大きかったりするのは、言語を獲得してからが特にひどくなってきてはいないだろうかと考えてしまう。その言語に何千種類もあるのだから、言語別のひどさというものがありはしないかと心配してしまう。
     もし、そういうことがあるとすれば、これを逆手にとり、深く考えるときには○○語で考え、芸術をたしなむときには○○語でたしなみ、行動を起こして活動するときには○○語で行うというような使い分けをすればよいということになるかもしれない。
     最終的にそうした使い分けをするために、現在何千種類もの言語が使用されて選択的に集約されている最中だと解釈すると面白いかもしれない。馬鹿馬鹿しい空想だが、何もアクションを起こさなくてよいのだから無駄な資源やエネルギーを費やす愚を犯すこともない。そうなったら面白いだろうななどとお気楽に空想していればよいのだ。
     とにかく、どんな空想であれ、空想というものは疲れた心身をリラックスさせてくれるものだ。ああ、これで随分とリラックスできた。

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    12/6/2008

    幻想7「体」

     赤ちゃんや相撲取りなんかぷくぷくしていないと危険だ。太っているのは身を守るためと考え、これからは安全体形と呼ぼう。逆に、危険なことはかっこいい。だから、スリムなのは危険体形と呼ぼう。
     航空機墜落事故での性別生存率は女性の方が高い。これは、皮下脂肪が男性より多いということと、体が男性より柔軟だからだろう。これは他の動物ではどうだろうか。猿はどうだろう。犬や猫はどうだろう。鳥はどうだろう。魚はどうだろう。貝はどうだろう。虫はどうだろう。
     鳥は飛ばなくてはならないから、軽さと空気の抵抗が少ない体形が命だ。魚は泳がなくてはならないから、水の抵抗の少ない体形が命だ。貝は殻があるから、はみ出ない限りは大丈夫そうだ。虫は細い足で体を支えなくてはならないから、体の小ささが命だ。確かに、肥満体型の虫は見たことがない。しかし、昆虫の幼虫はもともと肥満体型に見える。そのどれも芋虫のような丸々とした体形は足が多くて短く、体で体を支えているかのごときスタイルだ。
     飛ばなくてもよい人間、普通は泳がなくてもよい人間、殻を持たなくてもよい人間、他の動物と比べて足が長くて太い人間。いざとなれば四つんばいになってでも生活できる人間。動けなくなっても仲間が助けてくれる人間。
     どうも安全体形になるべく生まれついているようだ。個々の体形をいろいろな数値で表現し、「○○体型」と類別する趣味は実に人間的で面白いが、これに美的価値基準まであてがってしまうのは、さらに人間的で悲しい。
     その結果、僕たちは少しでも格好よくなるために涙ぐましい努力をしなくてはならない道をたどるように自ら仕組んでしまっているのかもしれない。これは異性にもてることを目標にすえることで盤石のシステムに仕立て上げられているように見える。
     危険なことをさらりとやってのければ、ポテンシャルの高さを宣伝することになり、人目を引いて人気が高まる。かつて、食料を得るための猟や他の部族との攻防などが危険な努力ということになるが、子孫繁栄が目的なら、こうした猟に秀でたものや命を守ってくれる者が異性にもてるのは当然だ。
     現代のように皆が皆生活のための猟をするわけではなく、直接命のやりとりを生活のなかでするわけでもない時代では、できたら避けて通りたい危険なことを敢えてやってくれるのだから、代わりにやってくれたという感覚で褒め称えてくれることもあろう。あるいは、敢えて危険なことをすることは愚かであると批判することもあろう。
     時折何を勘違いしたか、危険なことをする格好よい人の真似をする人が現れることがある。それがどうにもみっともないのは、どんなにそれが危険なことであっても、そしてどんなに上手くそれをこなしても、それが真似に過ぎないからだろう。
     たとえば、格好いいアクション大スターと同じ顔に整形し、仕草やせりふを上手に物真似したり、危険なアクションをこなしたりする人間が目の前に現れたとする。彼がどんなに「どうだ。」と言わんばかりにこちらを見たとき、その憧れる気持ちやなりきるための努力は十分に認めつつも、心ならずもくすくすと笑ってしまうに違いないと思うのだ。
     このように、人間特有の「危険体形を追求するという性情」は、「危険な物事につい魅力を感じてしまうという喜劇的な性情」と深く関係しているように感じる。
     怖いもの見たさ、火事の野次馬、賭け事、武器、格闘技、車の高速運転、女性の際どい服装等々もそうだ。一歩間違えばどれも危ないことだ。
     これらのはらはらどきどきしてしまう危うさに、未だ手に入らぬ幻想の危険体形の危うさとが共鳴し合った形になって、仮の満足が得られることがある。時々であるならともかく、それを日々追求し続けるなら、たとえ社会的に認められていようと、その人間は浅ましくも救いがたい、愚かしい人間だといえそうだ。
     しかし、その愚かしさは魅力ある愚かしさだ。こうした魅力には底なしの誘惑が伴う。だから、事のなりゆきに引きずり込まれる前に危険なかおりを察知して回避する人も多い。しかし、人間関係の築きあげかた次第では、その関係に目を覆われて、危険回避のチャンスを逸してしまう場合もある。これでは関係者は道連れとなってしまう。
     一度道連れになってしまうと、滅びる前に足抜けするのはともに困難だ。たとえ、道連れとまでは言えない関係でも、一抜けたと言えない状況になってしまうことなど、日常茶飯事ではないか。みんな仲間でいっしょにダイエットなどというのは、一週間で破綻する方が笑い話となり、かえって幸せというものだろう。

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