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24-02-2007

日々雑感166「加害妄想」

 僕は時折自然を見つめることにしている。どこを見ても自然には違いないが、いわゆる自然、木々とか空とか川などだ。
 たぶん犯罪は人ばかり見つめているから起きるのだと思う。だから、防犯上、僕は自然を見つめる。これは被害妄想ならぬ、加害妄想なのかもしれないが、ともかく、自分だけの力で自分をコントロールするのは難しいと感じている。では、どうしていったらよいのだろう。
 自動車にエンジンとタイヤがある以上、ブレーキとハンドルが必要だ。同様に、僕の心にも同じものが必要だというわけだ。ブレーキや、ハンドルは道路状況や交通状況やそれを知らせてくれる道路標識や道路標示に促されて働く。同様に、僕も周りの様子やそれを知らせてくれるいくつかのサインを探しながらブレーキを踏んだり、ハンドルを回したりする。
 ところが、ブレーキやハンドルが壊れることがあるように、僕の心にも壊れるときがやってくる。これを遅らせたり、急に壊れたりしないようにメンテナンスが必要になる。
 メンテナンスは症状が出る前に行うものだ。つまり、何でもないときに手を入れることが必要になってくる。メンテナンスは修理と違って継続させなければ意味がない。しかし、何でもないのに何かをするというのだから、長続きさせるのは難しい。簡単にできることで、長続きすることをもってメンテナンスとしなければならない。
 「みる」というのは簡単なことで、しかも心への影響は絶大だ。しかし、「きく」のもいい。見ることよりも刺激が強くないかもしれないが、じんわりとした刺激で心に残る。
 「百聞は一見にしかず」という言葉があるが、もっというと「百見は一行にしかず」さらに「百行は一考にしかず」だ。「おこなう」には見たり聞いたりしなければならない。また、安全を考えたり、スケジュールを考えたりしなければならないから、いろいろ複雑な刺激を与えられる。(久しぶりに考えながら歩くか、考えてから歩くか、歩いてから考えるかという国民性の違いの話を思い出した。)
 行動を起こすということの快感、行動が終結したときの達成感は、何にもまして心のメンテナンスとなるのではないかと思う。刑務所内で作業療法的に作業をするよりも、何か単なる作業ではなく、「作業を含む仕事」や「芸術活動」を積極的にさせた方がよいように思う。同じ事の繰り返しは、心を静かにさせるけれども、エンジンがアイドリングをしている状態を保っているだけなのではないだろうか。これでは訓練としては中途半端のように思われる。刑務所が再教育という教育施設としての性格も持たされている以上、おとなしくして集中して作業しているだけの訓練では不足なのではなかろうか。
 刑務所にまだ入らないで塀のこちらに住んでいる僕は、自宅や勤務先の仕事や活動が自己訓練や心のメンテナンスとしての意味を持っているのだという意識をもってなされるように心掛けていかねばならない。自然を見つめるなどという呑気な方法だけでは、焼け石に水だからだ。誰でもどんどんと何かが蓄積して臨界点を超えたときには何を起こすかわからない。自分のことながら、自分自身を信用してはいけないと考えている。たとえ犯罪ではなくとも、加害者になってはならないのだ。
 もっとも組織の中で動いている間は、組織のためにならないことだけに気をつければよい。年を経て、組織から放り出されたときが怖い。これまで眠っていたものが、覚醒し、とんでもないことを始めるかもしれないからだ。それが、経済的なブレーキや肉体の老化というブレーキがコントロールし得ない何かであれば、方向を間違えぬようにアドバイスする役目の者がそばにいないと危険だ。また、エネルギーの噴出先は予め用意しておかねばならない。
 やはり日々の何でもない生活の中に今後のあらゆる種が知らず知らずに蒔かれていると了解した方がよさそうだ。人間という生き方は、実に面倒だ。本当に不憫極まりない。

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変な疑問59「黄色人種の僕」

 「黒人、白人」という言い方はあるけれど、「黄人」という言い方がないのはどうしてだろう。「黄色人種」とはよく言うが、「黒色人種、白色人種」という言い方をあまりしないのはどうしてだろう。
 「黒色人種、白色人種」と言う代わりに「黒人、白人」と呼んで簡略化しているというのが答えだろう。その方が発音しやすいということもあり、簡略化が慣例化したのだろうと思う。だが、それではどうして「黄色人種」と言う代わりに「黄人」という言い方をしないのだろう。ここに一つ我々の意識の中にある「ある種の怪しさ」が臭ってくる。その怪しさについて、思いついた順に並べてみると、
①他の二語が滑らかに発音しにくい語であるのに対して、「黄色人種」という語はもとから滑らかに発音できるので、敢えて簡略化する必要がない。(ここには怪しさはあまり感じられない)
②「黒人、白人」という簡略化した言い方の中に蔑視(別視であってほしい)する態度が表現されているので、「黄人」という簡略化した言い方は自分たちには使わない。(もしそうならかなり怪しいぞ)

③我々自身が黄色人種だから、日常会話では、敢えて「黄色人種」とか「黄人」などという客観的な言い方をせず、単に「我々」と表現するから、「黄人」という言い方をする必要がほとんどない。(これは少々苦しかったかな)
④改まった場での会話でも、「黒人、白人」という言葉を使うことが憚られるという意識があり、こうした簡略化はしない。それに対応して、「黄人」ではなく、「黄色人種」または「我々黄色人種」または「我々」という言い方にせざるを得ないので、「黄色人種」を簡略化した言い方が発生しなかった。(これはどうだろう)
⑤「黄人」という字面から「奇人」が連想されるので、イメージが悪い。(苦し紛れを白状するしかない)
⑥「黄人」だと、「こうじん」か「おうじん」という二通りの読みができるので、これを嫌った。(自然なことかもしれない)
⑦「黄色人種」を「こうしょくじんしゅ」とは言わないのは、「好色人種」という言葉のイメージがタブーだから、自動的に「おうしょくじんしゅ」という読みを選択しているからだろう。また、ここから「おうじん」という簡略化した言葉が出てくる可能性があるが、「応神」という言葉がイメージされ、何となくおそれおおいという意識が働いて、その言葉の出現をブロックしている。(少々うがちすぎたかな)
と、七種類しか浮かんでこない。うーん。後三つ・・・・・・。我が家では失格だ。
 逆に、黒色人種や白色人種の間では、理由はどうあれ、このような言葉の区別があるのだろうか。また、黄色人種の中でこういう言い方の区別をしているのは日本人だけなのだろうか。それとも、もしかして僕の周囲の人々だけなのだろうか。

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怪しい広辞苑94「第四版113ページ・家元」

 どうしてこういう言い方を選ぶのだろう。第四版113ページ「家元」の説明。
 「芸道で、その流祖の正統を伝える地位にある家・人。宗家(そうけ)。」とあるが、広辞苑第四版にあっては「芸道」は不適切かもしれない。なぜなら、「芸道」を広辞苑第四版で調べると「技芸や芸能の道」とあり、次にその「技芸」を調べると、「美術工芸など、芸術方面にかかわる技術」とあるからだ。つまり、ここまで利用者が調べる中に武道や武術という言葉が出てこないのだ。まずいことに、ここから先を調べる人など普通ならまずいない。だから、不都合が起こる。
 現代日本人で、「芸術」とか「芸能」とかいわれて「武道や武術」を思い浮かべる人は少ないと思う。確かに「武芸」という言葉はある。しかし、あえてその言葉を示し、さて、どのジャンルに入るでしょうかと選択肢を用意して問うたとき、初めて「ああ、武芸は、芸術や芸能の部類なのかもしれないな」と思うぐらいだ。確かにスポーツ、武道、芸術は漫画とともにNDCの7に分類されるけれど、それは世界の物事を10に分類するというまだ荒技の段階での話だ。
 因みに、広辞苑第四版で「芸能」を調べてみると、「①体得し、体現できる芸。身につけた芸の能力。②技術と技能。詩歌・音楽・絵画・工芸・書道・生花・茶道などの汎称。④芸事(げいごと)に同じ。」とある。ここにいたって初めて①の意味に武芸や武道や武術の意味をかろうじてかぎつけることができる。家元を調べて、ここまで辞書を引き続ける人は、時間がもったいないので、普通はいないだろうし、①のような一般的な説明に、武芸や武道や武術の説明を見出す人も、最初からその気がある人を除いては、普通にはいない。
 しかし、実際には「芸道」が現代日本人にとって日常の言葉ではなくなっているので、「家元」を調べたときに、次いでこの「芸道」の意味を調べる利用者が出てくる可能性は高くなっていくだろう。そして、先に書いたように、広辞苑第四版では「芸道」の意味は、「武道や武術」が排除されているといっても差し支えないようなものになっている。だから、日本語を正しく理解しようとするまじめな利用者ほどよく調べ、最終的に「武道や武術の世界に家元はいないんだ」という間違った認識を持つことになってしまう可能性が高い。これは非常にまずい。
 そこで、「家元」の説明では、「芸道で、その流祖」という代わりに「芸能や武道などの流祖」のような言い方にして、誤解を招かないようにしなければならないと思うのだ。武道の宗家も出版社のためというよりも利用者のためにクレームをつけた方がよいように思う。

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怪しい広辞苑93「第四版112ページ・家鼠」

 例によって説明不足なのだろうと思うけれど、僕の思いこみなのだろうか。第四版112ページ「家鼠」の説明。
 「人家にすむネズミの総称。ドブネズミ、クマネズミ、ハツカネズミなど。」とあるが、奴らは人家の中だけにすんでいるわけではないから、ここの説明は「人家にすむ」ではなく、「人家やその近くにすむ」としないと不自然だ。
 新築するまで、僕の家にはドブネズミとクマネズミがいたからよくわかる。奴らは外からやってくるのだ。家の中にもすむが、家の外にもすんでいる。ドブネズミはどちらかというと家の外にいる方が多いかもしれない。逆にクマネズミは家の中にいる方が多いような気がする。これは約15年間にわたってネズミの出入りを観察してきた経験でわかる。もっとも、個人的な経験だから、一般的ではないかもしれない。
 おそらく、人家のガードが厳しくなると、ドブネズミは下水溝にすむ。クマネズミは天井裏以外にどこにすんでいるのかわからなかったが、ドブネズミは下水溝から人家に侵入して台所の餌をあさる。クマネズミが電線のうえを数匹で列を作って(当たり前)時速4㎞ほどで移動し、最後は家の中に移動するのを夕方に観察したことも何度かある。もしかすると、電柱または電信柱を登り、電線づたいに天井裏へ侵入するのだろうか。太いドブネズミにはできない芸当だろうが、クマネズミにとっては朝飯前かもしれない。高いところでも少し足がかりがあればそこにジャンプして次の目標に移動することもできるのだ。これは、クマネズミ一匹を相手に闘った経験が二度あるから言えることだ。やつを家具を壊さずに木刀でしとめるという困難な課題を解決するには少なくとも小一時間はかかる。さらに生け捕るには二時間ほどはかかる。就寝中に反撃を食らうわけにはいかないから、生半可な処置は禁物なのだ。
 天井裏の運動会は、雌を追う雄によって行われる騒動だが、総二階なら天井裏が二倍あるわけで、クマネズミのすむ場所は、土地事情が悪くなるに従って増えていく可能性が高いはずだ。そうなると、屋外よりも家屋内の方が多いのではないかとも思う。天井裏にトラップを仕掛ける家はあまりないはずだから、ドブネズミよりもやや安全だとは言えるだろう。
 しかし、一般的には、結局家の中は、ネズミ取りや毒餌があって決して奴らのすみかとしては快適ではないと思うのだ。だから、人家の近くのどこかに巣を作り、そこを拠点にして家の中に食物をあさりにいくというライフスタイルの方が奴らにとっては都合がよいのではないだろうか。夜に家屋内で見かけるので、家ネズミというのだろうが、だからといっていつも家の中にすんでいるとは限らないと思う。
 ドブネズミは何でも食べる。ネズミとりは粘着タイプのものよりも籠形のものがよい。なぜなら、トラップにかかった仲間を奴らは食いに来るからだ。新鮮な仲間の肉によって俄然元気が出てしまう。繁殖力にも勢いが付くというものだ。 
 こうした共食いの様子を我が家では子どもがよく観察していた。十センチも二十センチも体腔内から引き伸ばされた腸をくわえたネズ君とか、頭のない不思議な姿のネズ君とか、基本的には教育上好ましいのだが、情操教育上は極めて好ましくない図を生々しく見ていたので、「人間に生まれてよかったね、共食いするあさましいネズミから人間に生まれ変わるのは難しいだろうね。おまえたちはどんな立派なことをして何から人間に生まれかわることができたの?」などと言うしかなかった。ずいぶんと不適切かつ古くさいことを言ったものだ。
 とにかく奴らは家に来るので、当然家ネズミと言ってもよい。しかし、やはり安心して子供を産めるのは、倉庫の隅とか、家の近くのどこかだ。倉庫は家の近くで風雨をしのげるので、ネズミには都合がよい。排水溝もそうだ。家につながっているし、人間も猫も来ない。人家はどちらかというとえさ箱、食堂にすぎないということだ。ただし、田舎の大きな和風建築なら、家屋内にすんでいる可能性が高いかもしれない。侵入口も多いし、人の来ない場所も多いからだ。また、都会の家よりも食べ物の貯蔵も多いように思う。
 ところで、ネズミのようにたくましい動物に対しては、動物愛護協会は何も言わないのだろうか。トラップや毒餌などが問題になっていないところをみると、どうやら大丈夫のようだ。しかし、ミッキーやミニーが「僕たちの仲間をいじめないでね」と訴えたらどうなるのだろう。世界中でネズミ擁護の嵐が吹き荒れるかもしれない。たぶんこれはディズニワールドのタブーに違いない。

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23-02-2007

日々雑感165「社会性の欠如」

  社会性の欠如ということが、特に犯罪者に対して言われることがある。しかし、これは程度問題であって、犯罪者に限らず、あらゆる人がいろいろな程度に社会性が欠けていると考えた方が現実的だろう。この社会性というものはいったい何だろう。一口に社会性と言ってもいろいろな側面があるだろうし、その側面ごとにいろいろな見方をすることができるに違いない。
 社会性というものは、もちろん一つの意味で了解されていることなのだが、それぞれの社会ごとにさまざまな形で存在するものであるように思われる。かろうじて共通していることは、二人以上の複数の人間が所属しているある社会のなかで、快適に生きていくのに必要な約束事をいかに生み出したり、その約束事をいかに守ったりするか、その姿勢が問われるということだ。
 その特定の社会のなかで共通する約束事を守ることによって一人一人が互いに生きていくことの心地よさを追求することは、その社会が一つの組織としてまとまるための重要な原動力となるに違いない。しかし、不幸にして不適応を起こした人々は、再教育されて適切な社会性を身につけるか、他の社会に組み込まれるか、新天地で新しい社会を築きあげるしかない。さもないと深刻な不適応に陥って、本人にとっても社会にとっても取り返しのつかないことになる虞がある。
 こうした不適応が起こるのは、約束事を覚えられなかったり、約束事を忘れてしまったり、約束事を理解し損なっていたり、約束事を応用して行動できなかったりと、それらのいろいろな理由で周囲から不適切な対応をされることが大きな原因となっている場合が多い。その結果、自分は他人と違うのだと考え、だから相容れないのだと自己診断し、合理化しようとすることがままある。その結果、行動が改善されにくくなり、最後には社会性が備わっていないという不名誉な評価を与えられてしまうことになりがちだ。
 不適応を起こす別の原因としては、強すぎる個性がある。しかし、強すぎる個性も、時代の申し子のような形で活躍する場が多く与えられる場合と、逆に早く生まれすぎた人間として時代に会わず、つまはじきにされる場合とがある。
 前者は英雄で、後者は曲者とされる。しかし、ゆとりある社会、ゆとりある時代ならば、時代の要請がなく、英雄とはなれなくても、珍重されるという道が残されている場合もある。もちろん多くの場合は排除され、受容されにくいのが現実だ。
 現代はどうだろう。やや曲者が目立ち、逆に個性的なものが目立たなくなっているような気がしないだろうか。曲者は、生き抜くために個性的な者のふりをすることもある。逆に、個性的な者が周囲の無理解や偏見によって曲者のレッテルを貼られ、不遇の生涯を送ることもある。それもこれもひとえに巡り会わせというものだろう。
 こうした世の中で十人十色の人々が一緒に暮らすのだから、自然と不即不離の姿勢が身についてくる。もしかすると、この不即不離という姿勢が人生の極意なのかもしれないと思わされるほどだ。
 さて、こうした不即不離の生き方を支える社会の動きとして、グループ化がある。出身地別、卒業学校別、性別、職業別、趣味別などだ。こうしたグループを次々と発明していくことによって、摩擦や衝突を避けつつ、しかも支えあう者同士という意味での不即不離の社会を僕たちは形作っていくことになる。こうした社会はきわめて特殊化されているといえる。
 特に職業や趣味によって特殊化されていき、不即不離の処世術によって、深入りはしないことになっている。だから、視野が狭くなっていくばかりではなく、事なかれ主義が蔓延していくことになる。しかし、見えている部分こそが全体であるという感覚しかもてないので、視野狭窄の事実には自らの力だけでは気づきにくい。また、適切な価値分析を行わないグループにあっては、社会的地位を保つためには事なかれ主義こそが上手で賢い生き方だという感覚に陥りやすく、活動内容を意図的計画的に点検しなければ改善が図られることもない。
 こうした「セレクトされ、グループ化して特殊化した人間の集まり」が互いに不即不離の関係をもち合って、相互扶助的に、棲み分けしながら活動していくという形式がごく普通に見られる一般的なものなので、本来は「特殊化された社会」と呼称されるべきところを、語弊を恐れず「一般社会」と言い習わしているのだと思う。
 このような社会をよりよく生きていくための条件として最低限必要な力と言えば、「観察力、思考力、調整力、行動力」だろう。これらの資質を高める教育を受けてきた者が、本当の意味で社会性を身につけてきた者といってよいのではないかと思う。そつのない言葉遣いや挨拶、表面的なマナーを身につけていることを社会性があることだなどと勘違いしてはいけない。もちろんそうしたものは「お互いが快適に生きていくための資質」だが、「社会をよりよくしていこうという資質」とは違う。社会性にもいくつかのレベルがあるということだ。
 前者は「約束事を守る」というレベルで、後者は「約束事を生み出す」というレベルだ。後者は、社会を改善していこうという意思のもとになされる行為だ。社会を改善していくためには、「見つめ、考え、適切な行動を選択する」という重要で基礎的なトレーニングがまずは個人のレベルで積まれ、そうした個人が組織的に動き出さないと果たせない。
 こうしたトレーニングを含む活動を通して後者の「社会性」の芽を育てていくのは家庭の責任だが、まず、前者の「社会性」を身につけさせる責任が肝心要の家庭で果たされていないことが多い。どちらの「社会性」もその不足を補う形で学校教育の場でそれが付け焼刃的に訓練されることになる。しかし、所詮は付け焼刃だ。教科書的な頭での理解になりがちだ。これは学校の限界というよりも、最初からそういう機能を持った機関であったはずだ。
 その反面、社会性を実際に身につける実践は家庭が主導する一般生活においてなされるはずだ。学校で基礎的なものを理解したうえで、それをもとにして一般生活において実践をつみ、身につけていくのだ。このように社会性を身につけていくための中心となる活動は家庭教育の場だ。学習と一緒で、学校で理解し、家庭学習で身につけていくというスタイルが普通だろう。学校は最も応援すべき公的機関だろうが、何においてもそうであるように、お門違いの期待をかけるのは間違っていよう。
 一日で考えると、世話をする時間は学校の先生よりも短いけれど、就学年齢前からつきあい始め、長年続く事を考えれば、トータルで考えると、当然親の影響力の方が大きい。両親二人に一人二人の子どもというスタイルの方が目が届き、生存権まで握られているのだから、強い指導力を発揮できるに決まっているのだ。
 では、どうしたらよいのだろう。まずは冒険だ。子どものころに冒険を通してこのトレーニングを行うのが理想だろう。冒険する機会を設ければ、さまざまな知恵と力を発揮し、勇気をもって事にあたらざるを得ない。つまり、「観察力、思考力、調整力、行動力」を駆使しなければならない。こうしたものが土台にない社会性など、繰り返しになるが、所詮は処世術の類にすぎない。それは最低のステップであって、目指すべきレベルではない。個人的にうまく生きていくための社会性は当然大事なのだが、ここで話題にしている社会性というのは社会をよりよくしていこうという意思とその意思に裏打ちされた行動力の確かさだ。 
 ある程度真剣な「両親いっしょの冒険体験」が手始めになされるのがよいと思う。片親の子は無視かという声は甘んじて受ける気持ちがないとだめだ。地域でも学校でもなく、あくまでも家族で企画しないと駄目だ。家庭の教育力の低下が学校教育を混乱させていると言われているが、低下しているからこそ、こうした企画を家庭単位で行う運動が進められていくように「風潮」をつくる必要がある。風潮づくりはマスコミの得意芸だから協力してもらえばよい。
 次にお父さんだけによる「お父さん主導の冒険体験」が必要だろうと思う。シングルマザーは無視かという声も甘んじて受けたほうがよい。何か事を起こそうとするたびに何か批判されることにもう少し鈍感にならないと、流れを変化させるなどということはできず、次第に泥沼に沈んでいくような運命を辿らねばならなくなる。声高な批判など、事情を理解する力がないからこそできる所業であると心得ていたほうが精神衛生上もよいに違いない。赤子に教えるように懇切丁寧に教えてあげれば、ほぼ伝わるものだ。そもそも批判の全てを跳ね返す必要などない。もちろんこれもマスコミがお得意だから協力してもらえばよい。
 ところで、冒険といっても、孤島に行く必要などさらさらない。ましてやジャングルに行く必要もない。徒歩旅行でも、山登りでも十分だ。ただし、パートナーは家族でないといけない。極論を言えば、家族に不足があればそのために婚姻関係を結べばよい。婚姻関係とはそもそもそのためにあったはずではなかったか。
 「○○冒険教室」などというイベントまがいの企画や、「わくわく冒険ランド」的な遊び場では意味がない。足を地につけた地道で家族的・家庭的・家系的なものでないといけないような気がする。所詮、他人では責任が持てないと思う。また、繰り返しになるが、そもそも婚姻関係を結ぶことや家族の存在というのはこのトレーニングのためにあるといっても言い過ぎではないと思うのだ。人づくりの土台が家系・家庭・家族の中になければ、正常な社会など成り立ちはしない。正常な社会というのは不必要な無駄がない社会のことだ。人づくりができていないためにどれだけ社会が無駄な時間と無駄な力といらぬ資金を費やしていることか。想像するだに恐ろしい。
 冒険体験の欠如や偽冒険体験が、人生の冒険も怖じ気づいてできない人間を育てたり、逆に、知恵のない無謀な人間を育てたりするように思えてならない。実験したことはないが、実感するのだ。どうにもこうにも冒険体験の欠如が現代人の不幸の中核にあるような気がしてならない。こうして人生を充実させられなかったり、破綻させてしまったりする人間が多くなればなるほど、世の中に悪がはびこる条件が整っていく。犯罪者が増えるのだ。夢がもてない人間が増えるからだ。夢のない世の中はひたすら荒れていく運命をたどるしかないことは、誰でも容易に想像できる。
 社会性が欠如している、または欠如している状態に近い人間が引き起こす犯罪をなくすために、小さな子どもを持つお父さんは特にがんばってほしいと思う。いつまでも大義名分の下、仕事に逃げていては、目先はよくとも、肝心の次世代が育たないのだ。何としても、元も子もないということになってしまうことだけは避けたいのだ。

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19-02-2007

心の断片82「木陰道」

「木陰道」

二年が経つ
二年は長い
二年は取り戻せない

歩いた方に進んでいくから
歩かない方には進めない
結局一本の道がひらかれる
つまらないといえば つまらない
おもしろいといえば おもしろい

ただ さわやかに
桜色に 微笑んでいたいだけなのに
モクレンの牙がビロードの純情を引き裂き
若者たちは冬の太陽に輝いてまぶしい

また闘えというのだろうか
木陰道もここから途切れている

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18-02-2007

怪しい広辞苑92「第四版112ページ・家言」

 訛っているのかもしれない。第四版112ページ「家言」の用例。
 万二〇「吾妹子(わぎもこ)が-持ぢて来る人も無し」とあるが、この「持ぢて」はどうして「持ちて」ではないのだろう。タイプミスも考えにくい。この「ぢ」と「ち」の違いは何だろうか。
 万葉仮名ではどうだろう。HPでみると国歌大観に4353「伊倍加是波 比尓々々布氣等 和伎母古賀 伊倍其登母遅弖 久流比等母奈之」とある。「家風は日に日に吹けど我妹子が家言持ちて来る人も無し」という防人の歌だそうだ。この「母遅弖」のところが広辞苑第四版では「持ぢて」になっている。しかし、「遅」は「ち」としか読めないと思う。この「家言」の用例としては、普通に「持ちて」としてはいけないのだろうか。ここでは、「吾」と「我」の違いなどは無視しておこう。
 八世紀あたりの日本語がどうなのか、東国地方の言葉の訛りがどうなのか、僕には皆目わからない。今の東北地方の訛りのように濁音化する訛り方なら「持ぢて」という言い方もあるかもしれない。しかし、「遅」を敢えて「ぢ」と読むのは現代一般人の僕にはわからない。どういう研究成果のもとにこのような読み方をするに至ったのかを知ることは意味があると思う。
 ところで、岩波書店の新日本古典文学大系ではどうなっているのだろうか。広辞苑と同じ出版社なのだから、同じように「持ぢて」となっているはずだが、どうなのだろう。万一異なっていたら、出版社としての良識を疑われることになる可能性が高いから、配慮はなされているはずだ。
 しかし、旧の日本古典文学大系すら残念ながら僕の手元にはない。今年まで万葉集などに興味はなかったからだ。そもそも古典になど興味はなかったのだ。しかし、広辞苑を読むうちに古典を引用した用例が目に付くようになり、多少の興味はもつようになった。辞書を読む効用とでもいうのだろうか、多方面に興味が持てるようになると、それらが次第につながりを持ってくるような気がする。
 それはともかく、いちいち図書館で探さねばならないのかと思うと、うんざりする。もっとも、少し嫌なことやうんざりすることほど進んで行い、逆に楽しいことにしていかなければならない。また、そのようにするために工夫すること自体にも喜びを感じることができるかもしれない。どのみち頼まれてやっていることではないから疲れたら休めばよい。
 もともと僕自身にとっては「ち」だろうが「ぢ」だろうが、どうでもいいことだ。しかし、売るからにはそれなりの責任がある。その責任が果たされているかどうかが利用者によって検閲されるようでなければ健全な出版活動は維持できないはずだ。特に古典文学の場合は、一般的な読み方と異なる場合に限らず、いくつかある写本のうちどれを採用し、その読み方はどの出版物を採用したのか、そしてなぜそれらを採用したのかを辞書のどこかに明記しなければいけないと思う。
 研究は日々進んでいる。それらを少しでも反映してほしい。利用者のニーズに応えるという怠惰な方針とは無縁の、利用者の足下に燈明をともすような基礎資料の一つとして進化し続けてほしい。そうなって初めて最高峰という宣伝文句にふさわしい教育的価値のある辞書となるのだと思う。

 後日談。図書館で岩波書店「新日本古典文学大系」(2003年発行)を調べた。4353の歌は「持ちて」だった。もしかすると、広辞苑第五版(1998年発行)の時点で「持ちて」に変更している可能性もある。我が家には書籍版がないので電子辞書版の広辞苑第五版(新機種を2006年購入)で調べてみた。・・・・・・。「持ぢて」だった。もう、どうにかしてよ。

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怪しい広辞苑91「第四版111ページ・家蚊」

 例によって大ざっぱな説明。第四版111ページ「家蚊」の説明。
 「イエカ属のカの総称。夏、家屋内に来襲し、雌は夜間吸血する。アカイエカ・コガタアカイエカ・チカイエカなど。」とあるが、これでいいのだろうか。
 まず、この説明では、雄も雌も「家屋内に来襲する」ように受け取れるが、それでよいかどうかという問題がある。次にアカイエカとコガタアカイエカは「夏」に来襲するかもしれないが、チカイエカは別ではないかという問題がある。
 アカイエカやコガタアカイエカは一般的な自然の中で生活しているはずだから、雌は血を吸いに家屋内に来るかもしれないけれど、雄との交尾は屋外のはずで、普通は外で待ちかまえているはずだ。あくまでも「はず」だ。屋内でアカイエカやコガタアカイエカが交尾しているところを僕自身はまだ見たことがない。個人的な経験ではそうだ。
 また、チカイエカは地下家蚊のはずで、薄暗い地下にたまった水にボウフラとして生きていたはずだ。冷たく涼しい安定した人工的な環境に生きる運命を持っているはずだから、夏だろうと冬だろうと関係ないはずだ。必要に応じてその環境から出撃して血を吸い、またもどって子作りに励めばよいはずだ。
 三者とも屋内に来るのではあるけれど、どこから来るかが違うと思う。少なくとも「アカイエカ・コガタアカイエカ」と「チカイエカ」の両者は区別して説明しないといけないのではないかと思う。
 ところで、「来襲」とある。「ゴジラの来襲」とか「敵機来襲」とか「台風の来襲」とかを思わせるので、少し大仰な言い方のようにも感じないこともないが、プーンとかキューンとか嫌な羽音を立てて急襲する蚊にあっては「敵機来襲」という感じで実にふさわしい表現だと思う。

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17-02-2007

突然思い出したこと78「魔神」

 ハイクオリティウエットティッシュには魔神が宿っている。少なくとも12の魔神たちがトーテムポールのように屹立している。
 円筒形の容器の模様がロールシャッハテストの絵のようになっているのだが、その対称軸に魔神が立っているのだ。見れば見るほどにたくさんの魔神が浮かんでくる。
 あまりに個性的な顔立ち、いでたちなので、それぞれ名前を付けてストーリーを施せば、絵から抜け出て活躍しそうなぐらいだ。
 こうした何でもないところに魔神までも見て取る性質を持っているのだから、僕たちは知らない間に、ありもしないものを見ている可能性がある。魔神などのように怪しいものだと感じられるものならばいいのだが、普通のものとして何かが見えてしまっている場合には、全くチェックが入らない。これは恐怖だ。
 それが見えているだけならよいのだが、そこから何かを感じ取って、行動に影響を与えている可能性はゼロではない。そうなると実害や実益が出てくるから、これは目の錯覚や想像の世界のことだと言い切って処理を終了してはいけない問題になってくる。しかし、あるものなのか、ないものなのかを区別することは、意図的に調べなければできない。また、そのように調べたとしても、いつも全て正しく区別できるわけではない。調べるということはある方法を使って判断するということだから、方法が間違っていたり、使い方が間違っていたり、判断が間違っていたりするかもしれないからだ。
 どうしてだろうと首をひねることについては、調べられるから、明らかになる可能性もあるけれど、それほどでもないことには何の調査も入らない。しかし、それほどでもないことが遠因となって大きな事故や大きなトラブルを引き起こすこともあるのだ。
 また、形ばかりではなく、文字も同じだ。書いてない文字が見えてしまったり、文字の順番が入れ替わってしまったりして、別の単語になってしまうことは、ありがちなことだ。音声でも同様で、聞き間違いなどはどうしても出てくる。これが軍隊の戦闘中の命令で起こると、恐ろしい結果を生み出す。じっくりと振り返ったり、調整したりするなどという暇もなく結果が出てしまうことがあるからだ。どこかの国では指揮官のくしゃみが一斉射撃の命令の言葉に聞こえてしまい、市民相手に取り返しのつかないことになったという笑えないこともあったらしい。
 命令する語句は聞き間違えようのない表現でいつも同じでないといけない。また、一瞬の遅れが作戦の失敗となることもあるから、短い言葉でないといけないだろう。
 もし、同じ兵力で、同じ能力の指揮官、そして同じ状況に置かれていたら、この言葉の違いによる伝達速度の差が勝敗を決める要素になるかもしれない。日本語で状況を捉え、日本語で判断し、日本語で伝えた場合と、他国語でそうした場合とでは、時間に差が起こるのだ。通常の命令にはそれが配慮されているかもしれないが、戦況が乱れれば、通常会話で指令がなされることが増えるはずだ。そうした場合、同音衝突が頻繁に起こる日本語、さらに文末決定の日本語では不利になる可能性がある。
 神は日本語にそうした意味での平和要素を与えたのかもしれない。細かな情報を与えてから判断を下すという民主主義的な言葉だ。民主主義的だから間尺に合わない。つまり、速さと力ある表現を追究する場合には、比較的劣る場合が多いのではないかと疑ってもあながち間違いではないのかもしれない。しかし、逆に考えると、表現の質やバリエーションの豊かさを追究する場合には案外適しているかもしれない。何しろ語順を変幻自在に変えるという芸当をいとも簡単にやってのける。しかし、このことによって起こる微妙な心のあり方の違いを表現しきれるか、また、くみ取れるかということは別問題で、言語生活のあり方を規定するその地域の文化や、個人差によるものが大きいはずだ。
 それにしても、表現している間に、なきものをさまざまに感じる余地を与える日本語の性質は、僕たちの生活にどのような影響を与えているのだろう。
①結論の選択肢をさまざまに与えておいて最後に決定するのはよいが、断末魔にあっては肝心なことがわからぬままに事切れる可能性がある。
②表現している間に、自分の間違いに気づくことができたり、徐々に変化する周囲の空気を配慮することができるので、結論を途中で変更したり、曖昧な言い方にしたり、必要に応じて自然に変えることがたやすいので、トラブルを回避することが比較的容易だ。
 後、八項目挙げないと家訓に反するが、今日はもう時間切れだ。時間制限はつまらないが疲れなくていい。それにタイピングが速くなるから一石二鳥だ。

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日々雑感164「ないことの強さ」

ないということは実に強い。
 金がない。物がない。武器がない。失うものがない。これは強力だ。下手に持っていると実に弱い。極端な弱小国や働かざる者はない物が多いので実に強力だ。
 まず、要求されることがない。要求するばかりだ。何もできぬ赤ちゃんなどはいい例だ。しかし、成長するに従ってさまざまに親が要求してくる。また、自分で闘わなくてもよい。守ってもらうばかりだ。戦後そこへ活路を見いだすしかなかった当時の日本がいい例だ。しかし、成長するに従ってさまざまにアメリカが要求してくる。また、支援する必要もない。支援されるばかりだ。今回のエネルギー支援を見事獲得した北朝鮮がいい例だ。しかし、成長するに従って誰が何を要求するようになるのだろうか。要求される価値のあるものをこれから北朝鮮は生み出さないといけない。支援がそのためになされないと、支援ではなくただの寄付になる。
 このように「ないこと」はある意味で確かに強いことかもしれないが、やはり悲しいことのだ。力が強いのではなく、立場が強いだけだからだ。しかも、その立場の強さは、甘えの強さに過ぎないからだ。また、相手任せであり、自分の足で歩んでいるふりをしているだけだからだ。
 もちろん、「ない」ということだけだと本当は弱くて苦しい。しかし、そこに何とか生きようとする強い気持ちがあるからこそ、ないことがこの上なく強力な武器となるようにことを運んでいく知恵が自然に出てくるのだ。これは弱者の知恵だ。
 逆に、「ある」ということは実に苦しい。まず、ないものへ分け与えなければならない。また、失う不安、維持する努力、奪われる恐怖、こうしたものを全てを抱え込まねばならない。だから、これを何とか解決するように努力する。そこでは大人の知恵が必要とされる。なかなかに厄介な作業を背負い込むことになるのだが、個人でも国家でもそういう知恵を働かせるものが大人と言われる資格を持つのだと思う。
 「あること」はこのようにある意味で確かに苦しいのかもしれないが、それはやはり誇りに思ってよいことなのだ。力が弱いのではなく、配慮する側の立場にあるということだからだ。自分の意思で、自分の足で歩んでいるのだという実感、つまり大人であるという実感を持つことができるからだ。国家や民族の誇りとか、誇り高き生き方とか、そういう「誇り」は、こうした実感に裏打ちされたものでない以上、単なる「言葉による癒し」以外の何ものでもなかろう。

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15-02-2007

心の断片81「ゴーレム」

「ゴーレム」

僕の前には小動物がたくさんいる
あなを掘ってもぐる奴
高みに登ってほえる奴
縦横無尽に駆ける奴
この小動物たちはいったい何者なのだろう
餌にとびつく奴
僕にとびつく奴
退化した牙と進化した四肢ではいずり回っている
昨日も今日も
割れた植木鉢の土くれから
統制を失ったゴーレムのようにわきだしてくる

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13-02-2007

怪しい広辞苑90「第四版111ページ・言ふ様」

 いったい出典はどれだろう。第四版111ページ「言ふ様」の用例中の表記。
 竹取「かぐや姫の-『親のの給ふことを・・・』」とあるから、出典は「竹取物語」に決まっているが、問題はどの竹取物語かということだ。
 一般的には「のたまふ」は「宣ふ」か「曰ふ」だ。しかし、他の辞書に説明されているように「宣り給ふ」の略だとすれば、「宣給ふ」でもよいだろう。これを広辞苑第四版のごとく「の給ふ」というように「の」と平仮名書きにするのが一般的なのだろうか。それとも、「宣る」(のる)が、常用漢字の音訓表に載っていないという理由だけで、単純に平仮名に書き換えたのだろうか。しかし、古典を大事にする広辞苑がそんなことをするだろうか。おそらく「の給ふ」というような書き方をしているテキストがあってそれに従っているはずだ。だとすれば、それはどういう筋のテキストだろう。国文学専門のやつに聞けばいいのかもしれないが、この場合は広辞苑第四版の執筆者の内の誰かに聞くのが筋だろう。ただし、この部分の執筆は第四版ではない。第三版も同じ説明なので、もしかすると初版のものかもしれない。これは辞書にあってはありがちなことだけれど、以前の版のデータをそのまま引き継いでいるだけなのだ。だから、本当の執筆者はもうお亡くなりになっているかもしれない。
 ところで、ネットは便利なものだ。菊池研究室というHPで紹介されている「竹とり物語」のテキストを写真で撮ったものが掲載されていたので見てみた。さすがに古い。変体仮名で読みづらい。それでも星新一訳の「竹取物語」昭和62年発行角川文庫がなぜか本棚にあったので、それを頼りに読んでいくと、何とか読める。
 先の文庫本「竹取物語」の付録に原文がついていて、「のたまふ」のところはなんと「宣給ふ」とある。これは三谷栄一校訂と書いてあるからしっかりしたものだと思う。すると、「宣給ふ」が一般的な書き方なのだろうと思ってしまう。
 先のHPにあった「竹とり物語」の場合はどうだろう。解説を読むと、正保版本系のテキストで奈良本と書いてある。正保は江戸時代前期あたりの年号だから、作られてからずいぶんたった後のテキストだ。これを見ると「のたまふ」の多くは「乃多万不」を変体仮名にしたもので書かれている。ただし、「たまふ」という場合は「給ふ」となっていて、漢字表記されている。しかし、「のたまひし」という部分では「乃給飛之」の「乃」「飛」「之」を変体仮名にしたもので「の給ひし」と読める。ただし、語の形からもわかるように、これは広辞苑第四版の引用部分とはちがう部分だ。
 「高島藩主諏訪家伝来 竹取物語絵巻」というのがネットにあった。これは江戸時代前期のものと書いてあり、奈良本だが、絵巻になっている。テキストの写真と活字が一緒になっているので見やすい。これで三者三様の原文があるということがわかった。微妙にテキストが食い違っている。しかし、広辞苑第四版で引用している部分の「のたまふ」は、このテキストでも「於也乃ゝ多万不事」を変体仮名にしたものだ。ただし、活字化したものはなぜかテキストと食い違い「おやのゝ給ふ事」となっている。「多万」と見えるところが、「給」となっているのだ。不思議だ。しかし、広辞苑第四版に引用されている部分と、このテキストの同じ部分を活字化した結果が一致する。ただ、「の」が踊り字になっているところが異なる。
 「たまふ」という単語もそのテキストでは「給ふ」と活字化されているから、「のたまふ」と比較してみると、「のたまふ」の一部分としての「の」「たま」「ふ」の「たま」と、「たまふ」という単語の一部分としての「たま」「ふ」の「たま」とは、テキストの写真で見る限りは、文字の見た目が全く異なる。それにもかかわらず、そのHPのテキストに対応して付けられている活字は「のたまふ」の「たま」のところを一字で「給」としてしまっているのだ。ここの部分は本当に不思議だ。
 しかし、「のたまひしにたがはましかば」という部分については、このテキストでは今の文字を使うと、「の給ひしに」と書いてある。当然、そこは「の給ひしに」と活字化されている。やはり僕の目がおかしいのだろうか。広辞苑第四版の引用部分の中の「のたまふ」の「たま」のところがどうしてもこのテキストでは「給」ではなく、「多」と「万」の変体仮名のつながりに見えるのだ。
 もともとテキストにはいろいろあって、「宣給ふ」「のたまふ」「の給ふ」などと書かれている。だが、少なくともネットにあるさまざまのHPのさまざまなテキストの写真で僕が見た範囲に限っていうと、今のところ広辞苑第四版に引用された「かぐや姫の言ふ様『親のの給ふことを・・・』」の部分については、「の給ふ」ではなく、別の表記になっているということだ。次に
HPだからタイプミスもあるかもしれないが、ネットでヒットしたものについて列記してみる。
①角川文庫「竹取物語」では「親の宣給ふ事を」
②高島藩主諏訪家伝来竹取物語絵巻の写真では「おやのゝたまふ事を」、同HPの活字では「おやのゝ給ふ事を」
③ 竹とり物語(近世中期写)上下2巻2冊支子文庫913/タ-1/3-1/2では「おやののたまふ事を」
④松阪大学FTPでは「親のの給ことを」
古谷知新 校訂『竹取物語・伊勢物語・土佐日記・枕艸子・落窪物語・狹衣物語』(國民文庫 同刊行會 1910.9.11、再  版 1911.4.10)では「親ののたまふことを
Tokyo: Iwanami shoten, 1929では「親の宣うことを」
⑦小学館新編日本古典文学全集・竹取物語では「親ののたまふことを」
⑧国語の先生の為のテキストファイル集・古文編では「親の宣ふことを」
⑨群書類従
竹とりの翁物語では「親のたまふ事を」
⑩古本竹取物語〈新井信之旧蔵『竹取物語』校訂本文 〉「おやののたまふ事を」本文改訂はで赤字として表記する。仮名遣い・当て字を改めたときも赤色で表記する。
このように10個何とか探してみたけれど、まだ広辞苑第四版と同じテキストが見つからない。ネットでは僕にとってはここまでが限界だ。あとは図書館で地道に探すという無駄骨を折るか、それとも合理的に岩波書店に手紙を出すかだ。もっとも後者は以前のように梨の礫だろうから出さない。でも、僕は岩波書店のために頑張って底本を探し出そうと思う。

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12-02-2007

怪しい広辞苑89「第四版111ページ・言ふ方無し」

 これまでこうしたことはなかったと思うのだが、気づかなかっただけかもしれない。第四版111ページ「言ふ方無し」(いうかたなし)の用例。
 「ご覧じだに送らぬおぼつかなさを、いふかたなくおぼさる」とあるが、これまでの用例の示し方が見出し語の部分を「-」で表していたことから考えると、この部分は編集方針が異なるということが言える。
 どんなに短い言葉でも、広辞苑第四版では、ここまで用例中の見出し語については「-」で表していた。活用する語尾は「-」の次に「・」を打ち、その後に続けられていた。1ページ目からもう一度確認するのはたいへんなので、確認しないが、同じ111ページの「言ふ許り無し」についても、やはり用例中に「-」を使わずに示している。これ以後の他のページにもこのような不統一があるかもしれない。この不統一をどうでもよいことのように考える人は、おそらく周囲の人々の手を煩わせていることにいつまでも気づかない太平楽の人物だろう。
 この部分においては確かに不都合はないが、大きな問題を含んでいる。編集方針の不統一だ。この不統一がこの用例の示し方だけのものであると決めつけるのは楽観的すぎる。目に見えるものであるから、そのつもりで見た場合には、気づくことができる。しかし、編集方針というのは、表示の仕方だけに限ったものではなく、辞書の目的、内容、姿にかかわるものだ。もっと言えば、出版社の、その底に流れる哲学にかかわるものから生じているものだ。哲学なき人の所業は、亡霊のように揺れ動き、拘泥し、道ならぬ道を果てしなく歩むことになる。
 広辞苑は長年出版されているので、編集者や執筆者が変更しているはずだ。これを統括するのはたいへんだが、それが編纂の基礎というものだろう。辞書だから以前のデータをそのまま使う部分も出てくる。それらに加える部分も出てくる。このとき、そうした更新によって生じた不整合を解消する作業が要る。これは、項目を増やすときにも起こるし、減らすときにも起こる。また、一つの項目内の説明のレベルでも、その増減による他の項目の説明への影響も生じる。これを多くの執筆者がどう判断するかということはほぼ不可能だから、編集者の作業となる。その作業の結果また執筆者たちに原稿を返して書き直してもらう作業が必要なはずだ。
 これらの重要な作業が版を重ねるたびにうまくいっていない可能性があることを、この「言ふ方無し」の用例の示し方とそれ以外の項目の用例の示し方との間にある不統一から見て取れる。出版社はこのように疑われてしまうのを甘んじて受け入れるしかないと思う。版を重ねるごとに不協和音が増大し、たまに利用する一般的な利用者にはいいかもしれないが、頻繁に使う利用者(愛読者)からは、そっぽを向かれることになっていくだろう。少なくとも僕は子どもに渡していたお古の第三版は使用禁止にし、代わりに大辞林の第三版を進呈した。また、大辞林の第三版に載っていない項目や載っていても電子辞書版の広辞苑第五版と比較し、疑問点があれば、口頭で質問させることにしている。
 手元にある広辞苑第三版と四版はこのシリーズを書く目的で利用しよう。とにかく一日15分だけ時間を割いて「読む」という作業に当たれば何の無理もない。ブログ書き込みに15分かけるとして、計30分の読み書きのトレーニングということだ。それ以上は仕事や生活の邪魔になるだけだ。

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11-02-2007

日々雑感163「格差社会」

漫画とアニメの登場人物の表情のパターンは、どちらが多いか。普通に考えると動きのあるアニメの方がより現実の人物の表情に近いはずだ。また、変化していく過程が目で見てとれるので、表情の種類は変化している分だけ多いとも言える。
 しかし、アニメの作成も仕事である以上、そしてそれが作品である以上、予算の制限、時間の制限、表現内容の制限、表現技術の制限などがあり、それらをクリアーすることにエネルギーが費やされるため、かえって表情のパターンが思いの他少ないことがある。初期のアニメ、鉄腕アトムの表情などはロボットだから仕方ないのかもしれないが、口の形だけが変化していることが多いように見える。それに対して、最近のアニメ、特に劇場版は多くの時間をかけて制作するためか、表情が豊かだ。しかし、表情が豊かだということはパターン化されていないということでもある。より現実に近く、それだけに厄介だとも言える。
 問題は、顔の表情を読み取る力を身につける時期に、漫画やアニメなど、絵本の絵よりもより現実に近く、しかもパターン化されたものを刺激として与え続けるとどういう弊害があるかということだ。現実から明らかに遠く、マイナスの影響力の少ないものから並べてみよう。作品の内容や質、登場人物のキャラクターにもよるので一概に言えず、異論も出るだろうが、仮に次のように並べてみる。
①挿絵の表情②絵本の絵の表情③ゲームの動画の表情④漫画の表情⑤アニメの表情⑥劇場版アニメの表情
 役者演ずるテレビドラマや舞台演劇は人間が行うものなので、本来は問題ないのだが、下手な役者だとまずい結果も想像できる。しかし、一定の刺激として与え続けられる可能性はほぼないはずだ。
 これらの表情を見続けることは、時期によっては、適当な刺激となり、プラスの効果があるかもしれないが、時期を外したり、一定の刺激ばかりを与え続ければ、表情を読み取る能力を停滞させるマイナスの効果を生み出しかねないのではないかと心配する。
 また、停滞ばかりでなく、パターン化した単純な読み取り能力の強化により、現実の生活においては「誤解による被害妄想」「心を読み取れないことによる対人不安や対人恐怖」などを生み出す可能性がありはしないだろうかと心配をする。
 また、こうした理解の過程で起こる諸問題だけでなく、表現に関する諸問題も引き起こされるだろうと思う。パターン化されて受け入れやすく、また身につけやすくなった表情は、自分の顔でまた再現しやすいものとなっていく。その表情の裏にある心があとで育っていくこともある。器が先で、その器にあった中身が選択されやすくなってくるのだ。形を手に入れて眠りから覚めるものの存在に注意を払わねばならない。
 格差社会というのは経済的なものだけではない。心の格差もまた大きくなっているのを見逃しているほど日本人は愚かではないだろう。しかし、その変化に手をこまねいているのはいったい何に遠慮しているからなのだろうか。 

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<放置すれば格差社会が普通だと思う 画像クリックで説明画面へ>

突然思い出したこと77「虫に愛を」

 複眼はどうして複眼になるのだろう。人間も二つあるから複眼と言えないこともない。二つの目で見ているのに一つの画像だから、よくある昆虫の目で見た世界なんていういっぱい画像が並んでいるのは怪しい。人間みたいに一つのものは一つに見えていないと合理的であるとは言えない。
 人間の目が二つですんでいるのは、焦点を合わせる機能が一つ一つの目にあるからかもしれない。昆虫の複眼はどうにも固定されている感じだから、微妙に焦点の合い方が複眼を構成する単位的な目ごとにちがうのかもしれない。焦点の合った画像の情報を与えてくれた部分の神経が刺激され、それが脳で処理されているとするなら、レンズ選択視とも言える見方だ。
 虫の中には単眼のついているやつもいるけれど、複眼だけでは不足なのか。単眼があるということは何かの働きがあるのか、それとも半分痕跡器官のようなものなのだろうか。学校では明るさを感じていると習った覚えがあるけれど、単眼がそのような複眼の補助的機能を果たしてもっているのか、それとも別々の機能を持っているのかはわからない。そんなことを調べるにはどうすればいいのだろう。何にしても相手が小さくてやりにくそうだ。
 ただ、虫けらのように殺すという言葉があるように、調べるために何匹殺すことになってもあまり咎められないだろう。たぶん動物愛護協会の方々は虫なんか眼中にないだろうから。
 それどころか、昆虫は動物ではないと言いきった人に出会ったことがある。では、植物なのですか尋ねると、虫は虫だと言い返してきた。虫はたくさんいるし、表情の変化がなく、かわいげがないから別の存在にしておきたいのだろうか。人間の好きな温もりやふわふわ感もないけれど、それなりにかわいいではないか。しかし、メカニカルで、妖怪チックだからだろうか、いろいろな理由で主に女性から毛嫌いされているのは確かだ。かわいげのない生き物は愛護もしにくいということなのだろう。しかし、この感覚を基点に、かわいくなければ生きている資格がないなどという考えにたどりつく不届き者が出てくるおそれはある。
 虫けらのような存在にももっと愛を注いでもらいたいものだ。人間のごとき新参者でもない。これだけ地球に順応し、繁栄しているのだから、もしかすると地球にぴったりの基本的な住人(住虫かも)だと言ってもいいのではないだろうか。

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10-02-2007

変な疑問58「ヴァルダロの恋人たち」

 五千年から六千年前の抱き合った若い男女の化石。「ヴァルダロの恋人たち」と呼ばれているイタリア北部のマントバで発掘された二人がいる。
 男性は背骨に、女性は頭部側面に矢の跡があるらしい。処刑されたのなら正面に矢の跡がつくから、処刑は考えにくい。おそわれてまず女性が射殺され、それをかばう男性が背に矢を受けて死んだかもしれない。女性は頭部側面に矢を受けているから、逃げる途中で振り返るところに当たったかもしれない。襲撃者を振り返ったか、残る男性を振り返ったかわからない。まず男性が逃げるときに背に矢を受け、その絶叫に振り向いた女性の頭部側面に矢が当たったかもしれない。
 どちらの想像も、女性が先に逃げて(あるいは逃げるように促され)男性が後を追う形だ。こういう想像の仕方をする僕は、映画の影響を受け、男性がまず女性を逃がすというパターンを刷り込まれている可能性がある。
 果たしてどのような状況だったのだろう。男女とも同じ方向を向いて並んで歩いていたとする。側面から襲うというのは考えにくい。矢を放つ場合、横に移動する的に的中させるのは困難だ。正面か背後からがよいが、本当の正面では逃げられてしまう。背後ではやり過ごす必要があるので、やはり襲撃ポイントが制限される。好ましいのは標的から見て斜め前方に身を隠しておき、その物陰から射るのがよい。さらに、標的が複数なら、射手も複数必要となるので、打ち合わせ等、計画が練られている可能性がある。
 また、弓を用いたということは棍棒や石器を用いなかったということで、その理由が何であるかも推理する必要がありそうだ。この二人、あるいは二人のうち一人が棍棒や石器などで武装していた可能性もある。
 頭部に当てるというのは20m以内の近距離で射られたか、かなりの弓の名手が30mか40m程度の中距離から射た可能性が高い。歯の摩耗程度から若い男女と推測されているが、若い男女の権力者ということは考えにくいので、権力の座を狙った暗殺は考えにくい。また、二人とも矢の傷があるから、誤射によるものでもないだろう。また、埋葬されているらしいということから、単に他の部族に襲撃されて無惨に放置されたのでもなさそうだ。また、この二人の仲を許さぬものが殺したのなら、この向かい合った埋葬の仕方はそれ以外の者たちによるものだろう。
 射殺の動機は何だろう。二人が罪を犯した。嫉妬。怨恨。犯罪に巻き込まれた。紛争に巻き込まれた。生け贄となった。ゲーム・・・何だろう。もしかすると、二人は別々の理由で殺されたのかもしれない。
 日本にいる限り、火葬されてしまうので化石にはなれそうにない。いっそのこと電磁冷凍してもらうか。さて、向かい合ってくれる相手は誰にしよう。

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心の断片80「幸福」

「幸福」

気まぐれに生きてきたからといって
気まぐれに死んでもいいわけではない
人間なんて人間が思うほどにたいしたものじゃないけれど
神仏が思うほどに愚かでもない
思い 考え
働き うごめき
笑って 泣く
これを愚かと言うならそれでもよい
気まぐれと努力が奇跡をよぶ世界では
こうした平凡を幸福と呼んでいる

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突然思い出したこと76「非常時の備え」

①通電が疑われるものには触れてはいけない。検電器がないにもかかわらず、どうしても触らねばならないときは、掌側で触ってはいけない。
②缶詰は缶切りがなくても開けられる。
③必要に応じて乾飯(ほしいい)を作って備蓄しておく。口伝あり。15年前のものを食したが、味にも問題はなかった。また、野菜を粉末にしたものを固め、乾燥させて丸薬状にしておく。今はサプリメントの中に適当なものがあるから便利だ。緊急時はこれと、乾飯で充分。
④ベルトは本革で実用的なものを選ぶ。また、それよりやや細めのものも用意し、ベルトを2重に巻く。二本のベルトは連結して長く使えるように穴に金具を通す形式のものにする。やや細めのものを内側に巻き、必要に応じて外側の太めのベルトを外して、さまざまな用途に用いる。口伝あり。
⑤髪や体を洗うのには米のとぎ汁でよい。
⑥食らい合わねば死ぬとき、身内を食らうのは抵抗があるから、互いに交換し合う。死して後は、塩で処理するなどして腐敗を防がねばならない。そのためにも塩の保存が重要となる。
⑦棒とロープとナイフと鉈と工具セットと日本手拭いとタオル、筆記用具、通信用具、身分証明書類はまとめておく。
⑧肉体の強化、食あたり水あたりのための胃腸薬。

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<中途半端な備えはなきに等しい 画像クリックで説明画面へ>
08-02-2007

怪しい広辞苑88「第四版106ページ・いいえ」

 これでいいのだろうか。第四版106ページ「いいえ」の見出し語の漢字。
 「いいえ【否】《感》そうではない。いな。いや。」とあるが、これでよいのだろうか。広辞苑の場合は見出し語の読みを平仮名で書き、その次の【 】の中に漢字仮名交じりで見出し語を表記することになっている。残念ながら「否」と書いて「いいえ」とよむ例をまだ僕は知らない。さまざまな資料にあまり触れていないせいだろうとは思う。
 「いいえ」の見出し語の読みの後には、【否】という「漢字表記」が付けられているのに対し、「いえ」の場合は見出し語の読みの後に何の「漢字表記」も続けられていない。つまり、「いえ」という見出し語の次に《感》という品詞名を示す略語が続き、その後に説明が続く。この「いえ」は「いいえ」と同じ働きをしている感動詞だと思うのだが、「いいえ」の説明の中には「いえ」が書かれていない。「いいえ」の説明の中には、ただ「いな」と「いや」があるばかりなのだ。それに対して、「いえ」の説明には「いいえ」と「いや」が書かれている。
 「いいえ、ちがいます。」「いえ、ちがいます。」のように、打ち消しの感動詞として同じように使えるので、「いいえ」は「いえ」の長音化しただけのものかもしれないと思う。長音化することで、語気が強くなり、きっぱりと言い切る言い方が強調されるように感じる。
 もし長音化しただけのものだとすると、同じ「否」という漢字をあててもよいのではないかということになってしまう。すると、「否(いいえ)、ちがいます。」とか「否(いえ)、ちがいます。」とかいう書き方ができることになる。こうなると、漢字表記をした場合には、「いいえ」と読むべきなのか、「いえ」と読むべきなのか、読み仮名をふらない以上、区別が付かなくなる。まさか広辞苑は漢字表記の有無でその区別をつけようというのだろうか。それは考えにくい。
 いろいろな仮定を前提として想像しているだけでは仕方ないので、不都合のない道を選択するという現実的な考え方に従うことにし、ここは双方とも平仮名表記にして、問題の回避をするのがいいと思う。
 また、「いえ」の説明の中に「いいえ」と「いや」が挙げられているので、「いいえ」の説明にも「いな」と「いや」に加えて「いえ」を書き添えたほうがよいかもしれない。
 さて、「否」を広辞苑のように「いいえ」と読むのは、どの程度一般的なのだろう。もちろん常用漢字の音訓表にはないのだが。

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<辞書は進化しなくてはならない 画像クリックで説明画面へ>
07-02-2007

突然思い出したこと75「ごはん」

 飯(いい)という言い方を今の日本人はしない。かろうじて、古典の授業などで「かれいい(かれい)」「ほしいい(ほしい)」が紹介されたり、まれに「飯田(いいだ)」などのように地名に残っていたりするばかりだ。タコの「いいだこ」などもそうだろう。どうしてこんなことを突然思い出したのかというと、広辞苑第四版を読んでいたからだ。広辞苑は怪しい説明が多いということがわかってきたが、それを読むこと自体には意義がある。忘れていた言葉を思い出させてくれるからだ。
 「いい」という言葉がどういう成り立ちの言葉か知らないが、訓読みだろう。音読みなら「はん」だ。この訓読みは廃れていく傾向がないだろうか。あるいは、新しいものに対応しきれないということはないだろうか。
 訓読みばかりを組み合わせて表現すると、「自動車」のように音読みで短く表現できるところを「(牛や馬などに引かれて動くのではなく)みずからの力で動く車」などとなり、長くなりがちだ。これは極端な言い換えだが、こうした間尺に合わない感じが日本人には厭われるのかもしれない。造語は音読みで短く表現しようというのが一般的な傾向だ。でも、重ねて長く説明するのでなければ、訓読みの方が身近な感じがして優しい。例えば「行動」という音読み言葉より、「行い」という訓読み言葉の方が何となく日常的で身近な感じがし、「行動」という音読みの方が改まった感じで堅苦しいものを感じるのだ。
 これに対して、音読みという中国式発音よりもいっそう遠い感じを表現するのは欧米諸国の言葉だ。この遠くの存在というイメージを応用して、なかなか手が届かぬという高級感や、舶来物に象徴されるような新しさを表現するときに使用される。これがいわゆるカタカナ語だ。それより上の効果を狙えば、アルファベット表記にすることだ。あるいは専門用語を敢えて使う場合もある。わかりにくくすることで、特別な感じ、高級感、ありがたさなどを表現しようという心が見えてしまうので、これは少々考えた方がよい。
 さて、「ごはん」は「御飯」だ。丁寧な言葉にするための接頭語がついているが、要は「飯(はん)」だから音読みだ。毎日三回はお目にかかり、あまりにも身近なものに感じられるから、音読みの言葉ではあるけれども、「ごはん」を訓読みのように感じている人も多いのではないかと想像する。これに対して、もともと訓読みの言葉なら、「めし」がある。握ってあれば「にぎりめし」だ。「めし」は粗暴な言葉のように思われるかもしれないが、「めしあがれ」の「めし」と兄弟だ。「おめしもの」とは従兄弟ぐらいの関係かもしれない。「神にめされる」の「めされる」とは遠い親戚だろうか。
 「ごはん」は米を炊いたものだ。炊かなければ、所謂「ごはん粒」とはならず、ただの「米粒」だ。また、「めし」と同じように「ごはん」も食事自体のことを言い表している。米を炊いたものが主食だから、食事の象徴ということでそのようになったのだろう。だから、パンと牛乳ですませても「朝ごはんを食べる」と言う。
 将来米離れが進んでパン食だけになると、長い間には「ごはん」ではなく「ごぱん」と言うようになるかもしれない。可能性はゼロではない。「しっかり朝御パンを食べていますか?」これを少しおかしいと思った人々が「ごはん」「ごぱん」が紛らわしいので、「しっかり朝飯(あさめし)を食べていますか?」と言おう運動をする。その中で「飯(いい)」も人々の口に上るようになるかもしれない。こうなる可能性はゼロに近いが、ゼロではないだろう。

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