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25-02-2008

幻想5「未来を変える子ども」

 今、産後の疲れを癒やしている母親はこの地球上に何人いるのだろう。人口爆発と言い、少子化と言い、アンバランスな世の中でも「這えば立て 立てば歩めの親心」は変わらない。
 子育ては忙しい。次から次にわいてくる仕事に似ている。先手先手で余裕の子育てが子どもを安心させる。しかし、仕事と違って経験が生かせない。しかも、子ども自体に先手先手で接すると依頼心が強い人間になって、不平不満を持ちやすくなるから注意が必要だ。
 変な育児書を信じないことも大事だ。外国のものであれば、基盤にある文化が違うのだから、逆効果になる可能性もある。また、多くの人が子育てを経験する関係で、一家言を持っている人も多いのだが、諸条件を分析することもなく、ただ方法と結果だけを単純に結びつけているものが多く、意外とその単純さに説得力を感じてしまうことがあり、全てが信じてしまわれる傾向もある。
 子育てについては諸説紛々だが、つまるところ、どういうときにどんな表情でどんな言葉掛けをするかということが命だと思う。これが子どもに生きる力を与えると信じる。母親は自然に母親の顔となる。言葉も微妙な響きで子どもに心というものを伝える。厳しく育てるには日常のこうしたものが土台になくてはできない。和顔愛語というわけだ。
 厳しく育てるとは、よく考え、よく行動する心を身につけさせることを目的としていなければならない。しかし、それには邪魔がつきものだ。社会の風潮。周囲の思い込み。親と子どもの人間としての能力の限界もそれに含めてもよいかもしれない。
 地球の未来を救う一人の戦士が幻想される。毎日生まれる無数の子どもたちの中から必ず出現するはずだ。その戦士が何と戦うのだろう。病原菌か、悪の集団か、地球侵略者か、それとも人間自身がたどる歴史的運命か。もっとも、地球を救うには人間を滅ぼさねばならないという説もあるから、通常の想像とは逆の働きをするのかもしれない。
 誰が何になるか分からないところが面白いけれど、何になってもよいように無償の愛を注いでいこう。世界中の母と子に花束のプレゼント。
 父親にはこうしたとき何ももらえない。その理由は 僕たちの種族の正体と関係あるのかもしれない。

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23-02-2008

変な疑問84「絶滅危惧種」

 絶滅危惧種に対して手厚く保護しようとするのはなぜだろう。それは「その絶滅危惧種が人間に害を及ぼさないという見込みと、他の生物に及ぼす影響が甚だしくないという見込み」があるからだろう。さらに「その絶滅危惧種が学術的に興味深い珍しい特徴をもっていたり、人間受けする容姿や大きさをもっていたりする」というようないくつかの条件が加われば、一大宣伝が行われたために出現した一部の俄ハンターを除き、人類こぞって保護にあたる。
 この絶滅危惧種の命の重みというものは、付加価値がついたものだ。「他の人知れず絶滅してきた種の最後の一匹」や「その辺りにいる捨て犬や捨て猫の一匹」、そして「ひたすら駆除の対象となるネズミの一匹」と何ら変わらぬ命であるのに、その価値のために評価が不当に高くなってしまっているのはおもしろい。
 また、絶滅危惧種の中にも差があることもおもしろい。絶滅のおそれが同じ程度であるのにも関わらず、保護のされ方が違うことについてはなお一層興味深い。
<植物も消えていく 画像クリックで説明画面へ>
19-02-2008

怪しい広辞苑142「第四版153ページ・一揖」

 広辞苑第四版153ページ「一揖(いちゆう)」の説明。
 「ちょっとおじぎをすること。」とだけあるが、それでよいのだろうか。確かに「揖」も礼には違いないが、礼は礼でもどのような種類の礼であるかが分かるような説明でなくてもよいのだろうか。これを怠ることは、日本の精神文化を風化させていくことになるのではないだろうかという危機感を持つ。広辞苑第六版ではどのようになっているのだろう。
 さて、日常生活で一揖するときは、どのようなときだろうか。
 相手を発見するタイミングが悪く、礼に費やす時間を確保できず、通常の礼がしっかりできないときには、たとえ最敬礼をすべき相手であっても、軽く頭を下げて間に合わせるしかない。それでないと、敬意を表す行動が完結されず、かえって失礼となる感じがするからだ。そうした事態にこちらが追い込まれているということを相手が理解しているということを祈るばかりだが、ことは複雑だ。
 また、遠い位置で相手を発見した場合は、その地点で深々と礼をするのはいかにも間が悪く不自然だ。そこで、発見した時点で一揖し、随分と近づいた後、通常の礼をするのがよいように思う。知らぬ顔をして近づいていき、そこでやっと深々と礼をするのも不自然だ。また、随分遠い地点で深々と礼をした後、一分ほど歩いて接近し、そしらぬ顔で通り過ぎるのはおかしい。一度遠い地点で深々と礼をした後、接近し、再度深々と礼をするも、はなはだ不自然に思われる。
 最もよいのは、相手がこちらに気づかず、こちらは遠くから発見している状態で、接近すべきか、回避するかを判断する時間があり、接近中も相手が気づかず、10mぐらいの地点で相手がこちらに気づいたときに、お会いしてうれしいという歩調で数歩歩いて止まり、深く礼をするというタイミングだ。しかし、現実はそう都合よくはいかない。
 発見するタイミングが悪く、礼に費やす時間が確保できない場合は、どうだろう。言葉をかけ、頭を深く下げている間に、礼を尽くすべき相手がそれにつきあわされる形になり、例えばそのために電車に飛び乗ることになったのでは、当人は礼を尽くして満足できたかもしれないが、相手に対しては失礼極まりないこととなる。飛び乗れたのならばまだよいが、乗り遅れた相手が目の前にたたずんでいるという結果となれば、目も当てられないこととなる。
 ここは略式の礼であるという意味づけをされた「揖」を行うことで礼を尽くすのがよいだろうということになる。また、あまりないことではあるが、自分が礼をしたら相手が迷惑に思うと感じられるときには、人知れずやや離れた位置から一揖するのがよいかもしれない。
 広辞苑第六版ではどのような説明になっているかまだ知らないが、「ちょっとおじきをすること。」と第四版には平仮名で書かれている。これを漢字で書けば、「ちょっとお辞儀をすること。」となる。「お辞儀」というのは、頭を下げることだが、「辞」とは言葉の意味だから、本来は言葉によって相手に敬意を示すという、丁寧な挨拶のことを言うのだろうと思う。
 だから、言葉の本義を大切にする広辞苑にあっては「おじぎ」という言葉を使用せずに、「礼」という言葉を選ぶのがよいと思う。また、礼儀作法の一つなのだから、「ちょっと」という俗語で表現するのではなく、「すこし」とか「軽く」とかいう言葉にするのがよいように思う。すると、「軽く一礼をすること。」という説明がよさそうだということになる。そもそも、「お辞儀」を「おじぎ」と平仮名で書くことが怪しい。まるで、挨拶ではなく、頭を下げるという狭い意味でのお辞儀であることを強調しているかのようだ。もっとも、これは怪しいのではなく、配慮と言うべきなのかもしれない。
 次に、非日常生活で一揖するときは、どのようなときだろうか。
 武道の稽古に臨むとき、まず道場に入るが、このとき揖をする。これは普通に礼をしたり、深々と礼をするのが個人に敬意を表すときであるのに対し、道場全体という広い範囲に対して行うものと考えれば、深く頭を下げれば下げるほど対象がピンポイントとなる感じがしてしまうので、道場全体を視野に入れつつ軽く一礼をするのが道理にかなっているように思われる。一礼と言いつつも、形としては頭を下げて礼の形式なのだが、意識の面では、いわゆるお辞儀とは異なるように思う。
 これから非日常のエリアに入る、あるいは、入らせていただくという「臨む」心が中心にあるように感じる。これまでの日常に区切りをつけ、別世界にはいるための所作として位置づけだ。やや前に体重をかけて少し前傾するのだから、不用意に一歩前進することを抑制した状態だ。これは、自分自身の緊張感をよい意味で高めるための所作であると同時に、モードをチェンジしているということを周囲に示すためのものだ。それはそのまま、それなりの対応をしてよいという合図にもなる。
 また、相手に臨むときにも揖をする。揖も礼のうちだから、お互いに礼をするという言い方や、礼に始まって礼に終わるという言い方が生じるのだろうと思うが、これは誤解を招いていないだろうか。礼は礼でも、相手から目を離さない礼だ。
 深々と礼をするのは、目も伏せ、頭も相手に差し出して、全くの無防備の状態を意識的につくることだ。目を伏せるということは、情報を絶つということで、相手に主導権を譲る形だ。また、目を伏せると同時に、頭という急所、しかも脳天や後頭部を見せるということは、命を相手に委ねる形だ。試合の前にそんな態度を示すのは合理的ではないように思う。
 これに対して「揖」は、頭を軽く下げるとはいえ、相手を見たままだ。主導権を譲るわけではない。命も委ねてはいない。今から命のやりとりの稽古をするのだから、よい意味での緊張感を高めなくてはならない。従って、頭を下げたように見えて、実は頭を下げたのではなく、頭を相手に接近させる所作としての「揖」だと考えた方がよいと思う。
 試合というまた一段階別の世界に突入するのだから、「臨む」心をまたワンランクアップさせる必要があると理解する方が自然ではなかろうか。
 つまり、日常生活から道場へ、道場の日常から試合へと新たな局面に臨むたびに気持ちを引き締めることを目的として「揖」をするのではないかと思うのだ。
 ところで、試合が終わっても礼をする。この礼も、礼は礼でも揖なのではないかと思う。試合から道場の日常へと戻るのだ。それが証拠に手の届かぬ範囲で「礼」をしている。もし、「揖」ではなく、いわゆる礼であるのなら、手の届く範囲の中で目を伏せ、頭を差し出して急所を見せるべきであろう。
 こうしたこともふまえ、「一揖」についてただ単に軽く頭を下げることだと、見た目の部分だけを説明して終わるのではなく、どんな場合にどんな心構えでするものかということも専門家にまとめてもらい、短い言葉で説明すべきであろう。なぜなら、何といっても礼は心の問題だからだ。

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18-02-2008

心の断片118「喪失」

「喪失」

どこかにいくふりをして
どこにもいかない人々の群れよる
無理なデザイン
音と光で調整しただけの
醜悪な街
エネルギッシュな浪費と
形にならぬ知性のとまどいが
靴の音
決まり文句のやりとりとなって
貧しくたち消える
まだ暮らしのあったころ
家々に煙突のあった夕暮れ
犬の遠吠えを背に聴きながら
しっかり自分の足音がわかった帰り道
突き刺す風に微笑んで
どうして幸せだったんだろう
17-02-2008

恐怖シリーズ104「クローン人間」

 クローン人間という言葉に初めて出会ったのは小学校にあがる前だったように思う。漫画雑誌が今のように漫画ばかりでなく、特集がよく組まれていて、漫画よりも数段魅力的な存在として子どもたちを魅了していた時代だ。その特集の中でさまざまな妖怪が簡単な説明とイラストで紹介されていたことがあった。確かゾンビの次にクローン人間が紹介されていたように記憶している。
 ゾンビが、三頭身四つんばい、手足細く、顔はかつてアフリカ原住民が使っていた盾に描かれているような顔で、その輪郭は角の丸められた正方形で描かれていたのに対し、さすがにクローン人間には特徴がなく、記憶がない。ただ、外国人ふうでカウボーイのような風体であったような気がする。それが同じポーズで二人並んで描かれているのだ。古い記憶というものは誠に断片的で静止画像に近い。しかも、視野が狭く、ほとんどがピンポイントだ。
 このようなどうでもよいような事柄に対して、どういう評価がなされたものか分からないが、いまだに記憶として消えないところをみると、何かの役に立っているのだろうか。
 さて、クローン人間が非常に現実的なものになってきた昨今だが、将来的にはなくてはならないものになるだろうと直感する。かつては妖怪並みの扱いだったが、クローン人間に頼らざるを得ない世の中になるように感じるのだ。
 そこに至るまでの過程でいろいろなことが起こるだろう。スポーツ選手が肉体の衰えを補ったり、故障した部分を補修したりするために肉体のパーツをクローン技術で作り出して移植するかもしれない。これは国家が関与することになるだろうから、およそどの国でまず始まるかは想像するに難くない。
 あるいは、優秀選手そのもののクローンを複数造り、チーム編成するということも企てられるかもしれない。もっとも、整形手術で一人一人の顔を変えておく必要があるだろうから、手術可能な年齢に達するまでは、どこかに隔離して育てておく必要がある。いよいよ国家プロジェクトでなければできないというわけだ。
 また、影武者として使われたり、無理な脱出マジックの計画的犠牲者になるという人権問題も起こるだろう。困ったことには、犯罪者を特定するためのDNA鑑定にも信頼性がなくなるに違いない。弁護士が、クローン人間のDNAだと主張する裁判も出てくるだろう。亡くなった家族がクローン人間として蘇るなどということは、もう絵空事ではなくなった。既にビジネスの社会では、ペットを失った傷心の夫婦をクローンペットで癒やすという企画が進行中だ。
 クローン部隊というものがあれば、それを所属させている軍隊はかなり恐ろしい軍隊になりそうだ。殺しても殺しても次から次に同じ顔をした兵士が攻撃してくるのだ。こんな不気味なことはない。しかも、兄弟以上の関係にあるので、仲間を殺した者に対する彼らの怨念はすさまじく、捨て身で攻撃してくる可能性が高い。自分が死んでも、必ず別の自分が敵討ちをしてくれるだろうという意識もあるだろうから、容易に命をかけるということも想像される。
 ただし、上下関係が作りにくいという欠点はあろうと思う。だから、雑兵として働くことになる。そうなった場合、指揮官は彼らに背番号を付けさせる必要があるだろう。
 幾種類かのクローン人間で構成された合唱団は、声の質がほとんど同じであろうから、逆に面白くないかもしれない。しかし、倍音の響きは上手く出せそうだから、クローン人間合唱団用に曲を作り、その独特の魅力を引き出すことはできるだろう。
 おそらく「○○殺人事件」というような小説やテレビドラマは廃れ、「○○クローン事件」というものがはやるようになるだろう。殺人事件の小説には、殺人の手法の解 明やアリバイ崩しに面白みがある。しかし、クローン事件の小説にはそのような面白さを期待することがあまりできないような気がする。ただただ人間社会の 朧なこと、己の輪郭の不確かなこと、不安ばかりが募る重い内容になってしまうのではないか。読み終えても残るそうした感覚がますます人々を憂鬱にしていく に違いない。
 こうしたさまざまな事柄の次に来る、どうしてもクローン人間に頼らざるを得ない人類の将来の事情については、今考えるからこそ恐ろしいのだけれども、その時になってみれば、どうということのない当然の成り行きとして受け容れられるに違いない。
 例えば、現在の自動車事故による死亡者の人数が毎年数千人を超えるという事情を江戸時代の人が知れば、あるいは自殺者が毎年3万人出るという事情を平安時代の人が知れば、それは地獄のような時代だと思うだろう。しかし、現代人は忌まわしくは思っていても、結局は受け容れているというのが現実だ。
 つまり、地獄的なことについては、どうということのない当然の成り行きだという評価を下すことによって納得する努力をしているのだ。僕たちの祖先はこの悲しい作業を営々と続けてきたように思うのだ。
 ところが、クローン人間に対して僕が持つ感情は、死の恐怖ではなく、生の恐怖だ。生がおめでたいことではなく、不気味な恐怖になってしまうということ。これは生き物である僕たちのよって立つべき基盤に対してかけられた大きな揺さぶりだと思う。親から生まれ、家庭で育つという大前提を覆されつつ、同じ顔かたちのものの存在を認めなくてはならないというダブルパンチをどう処理するのだろう。
 もちろん納得するしかないのだが、いったいどのような納得の仕方をしたらよいのだろうか。 遺産相続はどうなるのか。どちらも本人なのか。別人なのか。スペアなのか。戸籍はどうするのか……。ともあれ、生きていくということは憂鬱なことなのだという納得をしなければ心の安定が得られない世の中の到来だけは御免被りたいものだ。

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11-02-2008

怪しい広辞苑141「第四版150ページ・一番」

 広辞苑第四版150ページ「一番駆け」「一番首」と151ページ「一番乗り」「一番槍」の説明。
 これらは、合戦のときの「功名」、つまり「手柄」だ。この「功名」が合戦で最も重要視されるものだということについて異論はあるまい。しかし、広辞苑第四版の説明では、「一番首」については、「……首級」つまり「首」という「物」の説明にとどまり、「一番駆け」については、「……駆け入って戦うこと」つまり「行動」の説明にとどまる。そして、「一番乗り」と「一番槍」については、「第一番に敵陣や敵城に馬を乗り入れること」と「第一番に敵陣に槍を突き入れること」、つまり、「乗り入れる」と「突く」という「行動」の説明と、「また、その人」、つまり、その行動をとった「人」の説明にまで幅が広げられている。さらに、「一番槍」の場合には、後半の説明で「転じて最初に功名をたてること」とあり、そこで初めて「功名」という表現が加えられている。
 このように、それぞれの「功名」の説明の幅の相違も問題だと思われるが、何よりも問題となるのは、説明すべき事柄の順番はどうあれ、その要点が「功名」にあるということを忘れているということだ。
 こともあろうに、「一番槍」以外の説明には「功名」または「手柄」の文字はなく、中でも最も幅広く記述されている「一番槍」の説明でさえ、「転じて」という言葉の後にやっと出てくるという始末だ。
 江戸時代に作られた軍学書などの武士の教養書の類に粗々目を通すと、これらの功名がリストアップされて説明されているものが見受けられる。やはり「一番槍」がトップに記述されており、最も重要な「功名」であったということがうかがわれる。しかし、だからといって他の「功名」の説明の幅を制限するのは不当な扱いではないだろうか。古義を大切にし、そこから新しい使い方までを説明するのが広辞苑の編集方針であったはずだ。
 ここは、それぞれの「功名」の説明の中に「功名」もしくは「手柄」という言葉を使うように表現を工夫すべきところであろう。もっとも、現代におけるそれぞれの「功名」の使われ方や使用頻度が異なるため、それぞれの説明の仕方を変えたと言われるかもしれない。
 しかし、実際には、これらの中で現在最も使用頻度が高いのは「一番乗り」で、「功名」すなわち「手柄」の意味合いも強い。それに対して他は死語に近い。これが現状だ。
 こうした現状が広辞苑の説明の仕方に反映されているとはとても思われないが、それは僕の勘違いだろうか。 この部分が広辞苑第六版で改善されていなければ、何とか広辞苑第七版で改善してほしい。
 武士の心得については、有効に再利用すべき時代がいつかまた来ると思う。武士の心得に限らず、いろいろな「もの見方や考え方」がうかがい知れる語や説明を辞書の形でタイムカプセルのように保存しておくということは重要なことだ。その時には無用でも、長い歴史の中では、いろいろな形で役に立てることのできるものも出てこようというものだ。みだりに捨ててはならない。広辞苑が何とか宝のタイムカプセルになるようにと願っているのだが、それはどの程度難しいことなのだろうか。

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怪しい広辞苑140「第四版150ページ・一暴十寒」

 広辞苑第四版150ページ「一暴十寒(いちばくじっかん)」の説明の4行目。
 「不断の条件が悪ければなんにもならない。」とあるが、この「不断」は「普段」の方がよい。古い時代にはこれでよかったのかもしれないが、現代人が使う辞書だという意識を持ち、「不断」と「普段」とを使い分けるべきだろう。もし、広辞苑第六版で訂正されていなければ、広辞苑第七版で訂正してほしい。このままだと、たまたま目に入った「一暴十寒」の説明を読んだ学生は、国語の同音異義語の書き取りテストで失点してしまう可能性がありそうだ。その点、電子辞書版なら、「一暴十寒」の説明がついでに目に入る可能性が少ないので、取り敢えずは安心かもしれない。
 ところで、この「一暴十寒」の説明の仕方が他と違うのはどうしてだろう。
 動詞などは別として、こうした類の言葉を説明するときの文末は、「~こと。」で終わるか、「~(名詞)。」で終わるものだ。あるいは、「~こともいう。」「~(名詞)ともいう。」という場合などもある。辞書ばかりではなく、ほとんどの説明には、こうしたものの言いようが、その説明に費やされた文のうちのどれかになされているはずだ。
 しかし、広辞苑第四版の「一暴十寒」では、説明に使われている二つの文の文末の両方とも、そのどれでもない。これらの説明的な姿勢を示す言葉がどの文にも使用されていないのだ。内容をストレートに表現するだけで、説明しているという姿勢が感じられない。それはそれでよいのだけれど、やはり表現の形式は統一した方がよいと思われる。
09-02-2008

怪しい広辞苑139「第四版147ページ・一次冷却水」

 広辞苑第四版147ページ「一次冷却水」の説明の2行目から4行目。
 「特に、原子炉の炉心部を通り、核分裂で発生した熱を受け取って、蒸気発生器で二次冷却水に熱を与えたり、タービンを回したりする水。」とあるが、誤解を与えかねない。 最後の部分にいたっては誤解を招く可能性が非常に高い。広辞苑第六版はどうなっているのだろう。もし、改善されていなければ、広辞苑第七版では「タービンを回したりする水」という表現を訂正してもらいたい。このような表現では、原子力発電でありながらもまるで水力発電のように液体の水でタービンを回わして発電していると受け取られても仕方ない。そんなことはないと言われるかもしれないが、そういう学習段階にある者たちが広辞苑利用者であることを忘れては編集方針を問われるというものだ。
 原子力発電では、もちろん蒸気が発電機のタービンを回すのだが、そういうイメージがこの説明からは感じられない。水蒸気も水といえば水だが、この表現では水力発電のように液体の水が発電機のタービンを回している絵しか頭に浮かんでこないところに問題がある。
 さて、「二次冷却水に熱を与えたり」とあるのは、発電機のタービンを回すための蒸気を蒸気発生器で作るためで、これは加圧水型原子炉の仕組みだ。一方、「タービンを回したりする水」とあるのは、冷却水自体が沸騰して蒸気となり、それが直接発電機のタービンを回すということで、これは沸騰水型の原子炉の仕組みだ。つまり、広辞苑第四版の「一次冷却水」の説明のまずさは、二つのタイプの原子炉の一次冷却水の異なる働きを一文にまとめて表現しようとしたことにある。
 この説明を普通に読めば、一つの原子炉に使われている冷却水は二つの働きを持っているのだと解釈してしまう。しかし、「一次冷却水」のことや原子炉には大きく二つのタイプに分かれるということを知っている人、つまり、広辞苑で「一次冷却水」などという言葉を敢えて調べる必要のない人が読めば、次のように読みかえて解釈するだろう。
 「特に、加圧水型原子炉では、蒸気発生器の二次冷却水を蒸気に変えるための熱を核分裂を起こしてい炉心部から運ぶ水。また、沸騰水型原子炉では、炉心部から直接熱を受け取って蒸気となり、発電機のタービンを回す水。」
 だが、敢えて調べる必要のない人など、この説明を読む機会などないので、このように読みかえることもない。たとえ調べて読みかえたとしても意味はない。既に理解していることだからだ。逆に、原子炉のことを知らない人は、読みかえる必要性も感じることもなく、調べたということに満足して、多くの場合はそれで追究が終了する。
 どこまでもむなしい。

怪しい広辞苑138「第四版147ページ・柃(いちさかき)」

 広辞苑第四版147ページ「」(いちさかき)の説明。
 『ヒサカキの異称。「多い」の序詞に用いる。』とあるが、本当だろうか。これは「序詞」ではなく、一般的には「枕詞」として扱われるべき言葉であるように感じるのだが、どうだろう。
 「イチサカキ」は植物で、実が多くつくらしい。従って、「実の多く」という言葉の前に「いちさかき」という言葉が置かれるということだ。用例としては古事記や日本書紀の中に出てくる久米歌がある。その一節に「うはなりがなこはさばいちさかきみのおほけくをこきだひゑね」とある。「新妻がおかずをほしがれば、いちさかきの実が多いように、身がしっかりついたやつをくれてやろう。」というほどの意味となる。
 枕詞の特徴は「用例がたくさんあるということ」と「一句五音であるこということ」で、序詞の特徴は「他に用例がほとんどないこと」と「複数句から成るということ」だと思う。
 さて、「いちさかき」はどちらの特徴を持っていると判断した方がよいのだろう。微妙なところだ。広辞苑第六版ではどうなっているのだろうか。因みに大辞林第三版では「いちさかき」は「枕詞」と説明されていた。

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怪しい広辞苑137「第四版147ページ・一語文」

 広辞苑第四版147ページ「一語文」の説明。
 ここでは「わんわん」「まんま」「ありがとう」「火事」という四つの「一語文」が紹介されているが、これらの文末に句点は要らないのだろうか。結論から言えば、最低限『「火事」』にだけは要る。広辞苑第六版では訂正されているだろうか。
 確かに一般的な印刷文書においては、鉤括弧の前の文末には句点を打たない例を多く見かける。だが、それは省略であって正式な表記方法ではない。学校では必ず文末に句点を打つように指導されているはずだ。それでも、句点を付けないのは、単に紙面のスペースをかせぐとか、面倒であるとかいう、編集上の都合が理由だろう。また、鉤括弧で区切られているから句点を打つ必要はなかろうという理屈をつける場合もある。僕もかつてそうであったからよく分かる。要するに、表現者の一方的な都合によって省略されているだけだ。
 文学作品はもちろんのこと、一般的な文書においても、その一方的な都合については、理解者を無視しているからいけないのではないかということはない。自由に省略し、自分のスタイルとして表現すればよいことだ。
 ところが、辞書の場合はどうか。辞書の表記であるからこそ、その省略には問題があるように思うのだ。
 辞書の場合は、一般図書よりも、小さな字をたくさん並べて説明する必要が多いので、紙面のスペースの確保が重要な課題となることは十分に理解できる。しかし、辞書であるからこそ、省略は避けてほしいのだ。
 辞書は模範的なスタイルを示すべきであって、紙面の都合を優先したり、原則を無視して一般的な句点を省略したスタイルを示したりすべきではないと思う。辞書というものは、学習者が手本としたり、頼りにしたりするものだ。「文」の類の説明だけでも原則に従った表記を示すという方針に変える必要がある。これは辞書というものの存在価値に関わる重要な問題であると思う。
 ところで、かつて僕もそうだったが、「文の最後に鉤括弧があるから、句点は必要ない」という考え方については、どのようなことが言えるだろうか。
 特に「一語文」を説明する場合は、「単語」を鉤括弧付きで示したときと、「一語文」を鉤括弧付きで示したときの区別がそれだけを見たときには全くつかない。たまたま広辞苑第四版では「一語文」だけを紹介しているからよいのだが、たまたま問題がなかったから、それでよいというような姿勢ではいけない。「この場合はよい」という適当な考え方は、特に辞書にあっては不適切な考え方だ。そのような区別を利用者に暗に求めるという甘えは、根本的な言葉の説明書である辞書としては失格の条件だ。
 ここは、前者と区別するため、後者に句点を用いるべきだと思われる。もちろん、文脈から「単語」か「一語文」かは判断されるのだが、全ての人に等しい読解力が備わっている訳ではない。
 つまるところ、辞書の編集部は「辞書はできるだけ多くの人に基本的な読解力を備えてもらうための基礎資料の一つだ」という認識をもっと強くもつ必要があるということだ。
 そんなことを配慮していたら、ますます分厚い辞書となって使い勝手が悪くなると言われるかもしれない。しかし、電子辞書版の広辞苑は学生間にかなり普及している。入学祝いや誕生プレゼントとして、「広辞苑第五版」あるいは「広辞苑第六版」が搭載されているからというそれだけの理由が購入のきっかけとなり、子どもに与えるするケースが多いからだ。ネームバリューというものは誠にありがたいもので、分厚くなるという問題はこれからはもうないといっても言い過ぎではない状況だ。逆に、多くの学生が利用しているということについて、広辞苑の編集部は単純に喜ぶのではなく、責任重大だということを肝に銘じ、襟を正してほしい。そしてまだ責任が果たせていないという自覚を持ってほしいのだ。
 以下に、広辞苑第四版が挙げている「一語文」の例文、『「火事」』を例に挙げ、その不都合を述べておこう。広辞苑第四版のように『「火事」』という表記にすると、「火事」という「単語」なのか、「火事だぞ」という意味の「一語文」なのか、「火事だったのね」という意味の「一語文」なのか、「もしかして火事なの」という意味の「一語文」なのか、これらを全く区別できないという欠点がある。
 もし、これらをそれぞれ「火事」「火事……。」「火事!」「火事?」と表記し分れば、大枠の意味は間違いなく伝えられるはずだ。とにもかくにも意味が適切に伝わらなければ、それは「文」とは言い難い。だから、「火事」という「一語文」の表記は不適切なものだとしか言いようがない。
 いかに習慣として鉤括弧の前の句点を省略することがまかり通っているとしても、特に「一語文」の説明のような場合には、やはり原則に従うのがよいと思う。こうした考え方は間違っているだろうか。
 「一語文」では、言葉が一単語しか使われていない。当然言葉不足なのだが、実際に口に出したときには、その出すタイミングと、相手、特に口調によって、言葉不足の分を十分に補うことができるからこそ成り立っている文だ。従って、表記した場合には、口調が表現されないので、文としてはいかにも不十分なものとなってしまう。そこで、前後の文で、状況説明がなされることになる。つまり、これらとセットで成り立つ文だということになる。
 ところが、辞書ではそれらと無理矢理に切り離された「一語文」だけが例として示されている。紙面の都合ということを言うのならば、前後の文を省略し、その代わりに「。」や「!」や「?」などの記号を付けることだ。これがどうしても嫌ならば、「火事」という表記でもよい。しかし、逆に、その場合には、その「一語文」の前後の状況説明の文を省略してはいけない。これを怠っている広辞苑は辞書としてはたいへんまずい。広辞苑第六版ではどうなっているのだろう。もし、改善されていなければ、広辞苑第七版では必ず訂正していただきたい。
 そもそもこの問題の発端は、鉤括弧の使用法にあると思われる。会話文を括るときにも使えば、文中で強調させる語句やいろいろな意味で注目させる語句を括るときにも使う。さらに、修飾の関係が混み合っている場合、どこからどこまでがどこを修飾しているのかという点で誤解されることのないように、ひとつのまとまりにできる部分を括る場合にも使う。特に複文の場合は、引用された形になっている部分を括る可能性もある。そのときには、見た目は一文としての体裁をとっている部分が、「鉤括弧付きで句点なしの文」というスタイルで姿を現すことになる。括る部分が文そのものであったり、文の体裁をとっている語句であったり、単なる単語や語句であったりするというわけだ。
 この鉤括弧の使用法の多様さは便利でもあり、それが問題ともなる。その問題の一つとして、文を括る場合にも「鉤括弧があるから句点は必要ないだろう」という考えが導き出されてしまう「隙」というものがある。
 では、単語や語句を括る場合は「」ではなく、<>にすればよかったのか。そして、文の体裁をとっている語句について、敢えて括る必要があれば、〔〕を使うようにすると決められていればよかったのか。
 しかし、今となってはあまり記号を多くするのも煩雑であるうえに、新たに誤使用と誤解の問題が生じてくる。また、「過去の文章」と「記号を多くすると決めてからの文章」とが混在するという厄介な状況も生まれる。そして、新教育を受けた者とそうでない者とが何十年にもわたって関わりを持つという誠に面倒な状況も生まれる。既に「学校では句点を付けるという指導を受けた者たちが、一般社会に入ってからは句点を省略する」というねじれがあるのだから、これにまたねじれの要素を加えるのは好ましくない。
 メリットとデメリットとを比較すれば、何も手を加えずに静観し、時々話題にして少しだけ意識してもらうというのがよいという結論になろう。
 結局、世の中は最初が肝心なんだということになる。よく考えてみると、今後どうなるかということの想像力が貧困であるために、後々とんでもないことになっているケースばかりが世の中に満ちあふれている。目先の利益だけを考えたり、これは些細なことだからと呑気に構え、「よきにはからえ」方式でさまざまな決定をし続ける作業は、いつしか「この混迷した世の中を直すには、一度滅びる必要がある」という危険思想が生まれる土壌を作っている作業に等しいのかもしれない。
 思うに、大事なことを決める前の有識者の会議というのは専門家が集まるのだが、かつての有識者であったり、ある意図のもとにセレクトされた有識者であったり、有識者という名の未経験者であったりする。また、その中の力関係もある。最初から答えが出ている場合もある。そこで、想像力豊かな専門外の一般人が参加し、 その意図しない鋭い一言が専門家の見識を根底から覆すという場面がなくてはならないが、そうしたことはない。しかも、会議の回数は決まっている。会議が飾りである場合も問題があるが、取り回し役の問題でもっともらしいあらぬことが強調され、それが歩き始めてしまう場合があるとも限らない。そこに多くの不幸の始まりがあると思われてならない。
08-02-2008

怪しい広辞苑136「第四版146ページ・一円」

 広辞苑第四版146ページ「一円」の説明の4行目。
 「(貨幣の単位)→えん(円)。」とあるが、どうなのだろう。ここは「(通貨の単位)→えん(円)。」とすべきではないかと一瞬思ったのだが、自分自身も広辞苑並みに怪しいから、よくよく考えないといけない。
 そもそも「貨幣」というのは金貨や銀貨などの「硬貨」のことではなかったのだろうか。1万円札を見て、「その貨幣は僕のものだ。」と言うのと、500円玉を見て、「その貨幣は僕のものだ。」と言うのとでは、どちらの方が違和感があるだろう。本当の意味はどうあれ、僕個人の感覚では、前者をとても奇妙な表現だと感じ、後者を随分と古風な表現だと感じる。つまり、双方ともに違和感があるのだが、前者の方により強い違和感を感じるのだ。
 国家の経営がうまくいっていると、金貨や銀貨が「紙幣」と交換できるような信用がうまれ、「硬貨自体の金属としての価値」が「額面の価値」と一致しなくてもよいようになる。そして、「硬貨」の額面としての価値と、「紙幣」の額面の価値とが一致してくると、偽造されにくく、また文字を大きく見やすいように印刷できる大きな面積をもつ「紙幣」の方が、より大きな額面を受け持つようになったのではないかと想像する。
 一円紙幣や10円紙幣は既になく、100円紙幣や500円紙幣も姿を消した。高額紙幣が発行され、「硬貨」の方が補助的な存在として働いているというのが、現在のお「金」のあり方だ。文字どおりの「金」は使っていないけれど、信用を土台とした共通に認め合っている価値があるということだ。しかし、これはよく考えてみると恐ろしいことだ。ただ信用の上に成り立っているのだから危なくて仕方ない。みんなが使っているというただそれだけの理由による信用かもしれないのだ。
 さて、「硬貨」も「紙幣」も同じように、その共通に認め合っている価値を根拠として世の中に流通し、「貨幣経済」を成立させている。このとき、「通貨経済」とか「紙幣経済」とか「硬貨経済」とは表現しない。
 「貨幣経済」というときの「貨幣」には「硬貨」も「紙幣」も含まれている。しかし、「貨幣」といえば、かつて紙幣などのない時代、つまり金貨や銀貨の時代では、今の「硬貨」の形状の「貨幣」を指していう言葉だったはずだ。ところが、現代では、硬貨と紙幣が混在し、広い意味では、「硬貨」と「紙幣」を意味し、狭い意味では「硬貨」を意味するとした方が分かりやすいという事態となっているということなのだろう。
 すると、「円」は広辞苑第四版のように「貨幣の単位」と説明してもよいことになるが、「貨幣」という言葉に歴史的に染みこんでいるかつての「硬貨」のイメージがまだ日本人の頭から(僕だけかもしれないが)抜けきっていないという事情があることを忘れてはいけなない。それよりも、現実的に、金貨や銀貨は貨幣ではあっても通貨ではない。流通していない小判、つまり貨幣に対して、その単位が「円」というのは、とても乱暴な説明のように思われる。
  これを丁寧に説明しようとすれば、同じ働きを持って流通している「貨幣」たち、つまり「硬貨」と「紙幣」とを抱き合わせて、現在「流通している貨幣」、つまり「流通貨幣」ととらえ、これを略した「通貨」いう言葉を使い、その単位が「円」だとする方がよい。
 ところで、「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」(昭和62年)という法律があるが、この「通貨の単位」という言い方と、「貨幣の発行」という言い方に注目したい。ただ、法律は遍く人々の生活に浸透すべきものであるから、そのものの言いようは習慣的なものの言いようとは別で、理屈を考慮した人工的な面があるかもしれない。 しかし、だからこそ、辞書の説明としては参考にすべきところがあるように思うのだ。
 さて、広辞苑第六版ではどうなっているのだろう。もしこのままなら、広辞苑第七版で変更するのがよいだろう。

04-02-2008

怪しい広辞苑135「第四版145ページ・一因」

 広辞苑第四版145ページ「一因」の説明の2行目。「一つの原因」とあるが、①の「唯一の原因」との意味の区別が曖昧となってしまう表現のように感じるが、それは僕だけだろうか。
 ここは「一つの原因」ではなく、「いくつかある原因のうちの一つ」とした方がより的確に意味を表すように思われる。
 しかし、①の意味は仏教用語としての意味であり、とても一般的な言葉とは言えない。従って、このように表現をかえなくても、使用する確率の差によって区別されているという状況にあるから、ほぼ問題はないとも言えそうだ。つまり、一般的に使用している「一因」の意味を「一つの原因」としても、仏教教護の「一因」との混同が実質的に起きないので、ほぼ問題はないとも言えるのではないかということだ。
 しかし、例えば、「バブル崩壊の一因となった。」という言い方をした場合、いくつかある原因のうちの一つとなったという意味合いで「一因」という語を使っているはずだ。従って、「いくつかある原因のうちの一つ」という説明にした方がよい。特に「唯一の原因」という意味の隣に並べるのなら、なおさらのことだ。
 2行目にはまだ12文字の余白があるのだから、説明の文字数を増やすという点については問題はなかろうものを、何か支障でもあるのだろうか。 さて、広辞苑第六版ではどのような説明となっているのだろうか。
03-02-2008

怪しい広辞苑134「第四版144ページ・至り」

 広辞苑第四版144ページ「至り」の説明の5行目の用例の引用。これはどう見ても誤記誤植の類だろうと思ってしまうのだが、どうなのだろう。広辞苑第五版や第六版ではどうなっているかということもあるが、第四版を利用し続ける人々も多いので、ここに指摘しておき、考えていただくことにしよう。
 広辞苑第四版の「至り」の説明の5行目には、「至り」の用例として『源明石「心のー少なからん絵師は、え書き及ぶまじ」』という引用がなされている。「源」とは「源氏物語」の略称で、「明石」は巻の名前だ。明石の風景のすばらしさを表現した部分で、極端に言えば「絵にも描けない美しさ」に近いというわけだ。
 しかし、広辞苑第四版には「え書き及ぶまじ」とある。どうして広辞苑はこのように書いてしまったのだろう。理由を幾つか考えてみることにする。
①岩波書店の日本古典文学大系(新版)の「えかきをよぶまじ」というところを「え描き及ぶまじ」と書きたかったのに、つい「え書き及ぶまじ」と書き間違えてしまった。
②岩波書店の日本古典文学大系(新版)の「えかきをよぶまじ」というところを内容を考えず「書く」と「描く」の書き分けを正しく判断しないまま「え書き及ぶまじ」だと単純に間違えて書いてしまった。
③小学館の新編日本古典文学全集の「描き及ぶまじ」というところをそのまま「描き及ぶまじ」と書きたかったのに、頭の中で「描き」が「えがき」と読み変えられてしまうとともに、キーボードで入力するときになぜか平仮名入力で、「か」の次に濁点のキーを押し忘れ、「えかき」となってしまい、それが漢字変換操作のなかで「え書き」となってしまったのを見落としてしまった。
④尾州家河内本の「えかきをよふまし」というところを「え描き及ぶまじ」と書こうとして、つい「え書き及ぶまじ」と書き間違えてしまった。
⑤尾州家河内本の「えかきをよふまし」というところを内容を考えず「書く」と「描く」の書き分けを正しく判断しないまま「え書き及ぶまじ」だと単純に間違えて書いてしまった。
⑥大島本の「かきおよふまし」というところを「描き及ぶまじ」と書きたかったのに、頭の中で「描き」が「えがき」と読み変えられてしまうとともに、キーボードで入力するときになぜか平仮名入力で、「か」の次に濁点のキーを押し忘れ、「えかき」となってしまい、それが漢字変換操作のなかで「え書き」となってしまったのを見落としてしまった。
 さて、T大学S氏の「注釈」(底本は「大島本源氏物語」…1996角川書店)では、指摘部分を「描き及ぶまじ」としながらも、その注釈として次のように記している。『「え」副詞…「まじ」打消推量の助動詞と呼応して不可能を表す。』これはいったいどういうことだろう。指摘部分やその直前に「え」という副詞は最初からないのに、副詞「え」の注釈が記されているのだ。
 大島本には「え」はない。しかし、河内本には「え」がある。この部分に2種類のテキストがあるということと、「描く(えがく)」と「描く(かく)」という2種類の読みがあるということとが絡んで、いろいろにとらえられたり、間違ったりする可能性があるということだろう。
 そもそも、「描く(えがく)」はもともと「絵がく」なのかもしれないという問題もある。「描く(かく)」という読みが常用漢字の音訓表に載せられていないのはどういう事情があったからか、あるいはどういう事情があるからかという問題もある。
 ただし、何がどうあれ、広辞苑のような「え書き」などという表記は、義務教育レベルでの間違いだということになってしまうのは避けられないことのように思われる。このことは、ただの一般人である僕の勘違いであればよいとも思う。

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02-02-2008

怪しい広辞苑133「第四版144ページ・撓革(いためがわ)」

 広辞苑第四版144ページ「撓革」の説明の3行目。
 「刀剣の鍔(つば)などに使う。」とあるが、本当だろうか。撓革は「いためがわ」と読み、火で炙ったり、叩きしめたりして丈夫にした革だ。なめし革とは違って固い。だからといって、刀剣の鍔として用を足すのだろうか。これは怪しいというよりも興味深い。
 僕がこれまで見てきた真剣や模造刀の類には全て金属製の鍔が使われていた。しかも、ほとんどが鉄製だった。もちろん、まだ見方が足りないのかもしれない。それに対して、革の鍔といえば、残念ながら竹刀や木刀に使われているものしかまだ見たことがないのだ。
  竹刀に金属製の鍔を付けたら、相手と自分の防具、そして相手の竹刀が傷んでしまう可能性があり、自業自得の自分はともかく、稽古相手が嫌がるだろう。やは り実際に打ち合う竹刀の鍔には、現在一般的に使用されているプラスチック製のものが廉価で経済的だろう。しかし、プラスチック製のものは衝撃で割れてしま うことがあるので、高価ではあっても革製のものを好む人もいる。この鍔が撓革でつくられているというわけだ。色は茶色が多い。それゆえか、プラスチック製 の鍔の色も通常は革の色のイメージであろうか茶色のものが一般的だ。
 現代では木刀を使って本当に打ち合う稽古は通常はない。だから、木刀の場合 には金属製のものでもよいかもしれない。しかし、杖道などでは約束の動きであるとはいえ、稽古のなかでは鍔に当たってしまうことがある。樫の棒である杖だ が、木と金属では相性が悪いと思う人もいるに違いない。それを考えると、現在一般的に使用されているプラスチック製の鍔の方がやはり金属製の鍔よりも無難 だろう。もちろん革製の鍔でもよい。
 しかし、広辞苑第四版のように単に「刀剣」と表現してしまうと、真剣しか指し示さない。その真剣に革製の鍔を付けたものは果たして一般的であると言えるだろうか。「そんなもの見たことない」ということになってしまわないだろうか。
 これは刀剣を多く扱う業者によく確認してみたいが、鎌倉時代あたりの刀剣の鍔には革製のものもあったらしい。金属製のものよりも軽いという利点はあったかもしれないが、もちは悪いはずだ。そのため、金属で縁を覆って予め補強しておく覆輪タイプのものもあったらしい。
  これが正しければ、「鎌倉時代という極めて限られた時期の刀剣のうちの一部に撓革(いため革)の鍔が使用されたことがあった。」ということになる。鎌倉 以前をはさんで平安時代以前の鍔は金属製ばかりのようで、室町時代以後も金属製のものばかりのようだ。これも正しければ、実に面白い。鍔の素材のこの移り変わりには、いったいどのような 背景があるのだろう。
 おそらく、革の加工技術の進歩と戦法の変化に伴う剣術の技の変化との関係、そして刀剣自体の変遷との関係がそこにはあるの だろう。しかし、技の進歩がどのようになされてきたのかは、江戸時代のようにいろいろな流派が現れ、文書もある程度残っている時代なら資料に基づいて考察し、再現 することもできるのだろうが、さすがに鎌倉時代のものなどは資料不足で今となっては残念ながらあまりよく分からないのではないだろうか。もちろん、江戸時代の資料といっても技の名称だけで、肝心なことについては実際には口伝であろうと想像する。
  さて、「刀剣の鍔(つば)などに使う。」という広辞苑第四版の説明の言葉不足は、「鎌倉時代では刀剣の鍔(つば)などに使うこともあった。」とするのがよ いのではないかと思う。時代名を特記するのがはばかられるというのならば、「刀剣の鍔(つば)などに使うこともあった。」と過去形にすべきではないだろう か。広辞苑第六版ではどうなっているのだろう。
 遠い昔の一時期、一部の刀剣の使われた革製の鍔。そして、現在は木刀や竹刀に使われることがある革製の鍔。これからはどうなるのだろう。
  時代の流れのなかで、短刀類のうち、鍔に大きな力はかからないと想定されるものや装飾性の高い刀剣類にはそうした革製の鍔のものが再び出現するかもしれな い。しかし、金属製の鍔には、いろいろの細工がなされ、工芸品として人気がある。革製品とは違った重量感や質感がある。なかなか革の鍔が入り込む余地はな い。仮に、凝った細工が革の鍔になされたとしても、土産物ふうに感じられてしまい、クールな刀身とのバランスを保つのが困難であるように思われる。再び革 の鍔が刀剣に使われるようになるまでには、日本の刀剣文化の進展とコレクターの趣味が変わるまでの気の遠くなるような期間が必要だろう。
 現時点 では、広辞苑第四版の「撓革」の説明のように、まるで刀剣一般に使用されているような表現をするのは避けた方がよいと思われる。一般的な文章ではなく、国 語使用者や日本語習得を志す者が拠り所とする辞書の表現だからこそ、そうしたレベルの配慮が必要なのだ。特に日本の文化に馴染みのない者にとっては、日本人が「分かっていて当然のこと」が分からないのだから。
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