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2/28/2009 怪しい広辞苑171「第四版184ページ・イラク」広辞苑第四版184ページ「イラク」の六行目。一行目から五行目までの説明はともかくとして六行目の「人口一七六五万(一九八八)。首都バクダード。」とあるが、これでよいのか。 説明中に「首都バグダード」とあれば、当然「バグダード」を同じ広辞苑でまずは探すのが学生というものだ。しかし、広辞苑第四版の2047ページ「バグダード」の説明には「人口一九八万四千(一九七〇)。」とある。恐ろしく不統一だ。国の人口が一九八八年の統計であるのに、首都の人口が一九七〇年の統計だ。この十八年のずれは何を意味するのだろうと考えるのが通常の感覚を持った人間だ。 国土が中国並みに広く、しかも首都が辺境の地にあって国家の手が届かずに統計がとれないというのだろうか。広辞苑も十年しないうちに版を新しくしているではないか。十八年もあれば最低二回は改訂しているはずだ。一九九一年発行の広辞苑第四版だから、「イラク」の方は約二十年前の統計、「バグダード」の方は約四十年前の統計ということになる。今は二〇〇九年だから、恐ろしく昔の統計になるが、それは第五版、第六版と購入し続けなかったこちらの責任だ。 しかし、どうして国家と首都の人口を同じ年の統計にしないのだろうか。しかも十八年のずれという大きなずれがあるのは何か意図的なものがあるとしか思われない。もしそうでなければ、ただの怠慢な編集結果ということになってしまう。果たして広辞苑第六版ではいつの統計になっているのだろうか。もし、不統一のままなら、広辞苑第七版ではこうした不統一をなくして日本一の辞書を目指してほしい。 ところで、「いらくいらんがんらいくらい」とはよく言った回文だが誰が考えたのだろう。イランとイラクの何が暗いのかについて、どのような説明ができるか面白そうだが、元来そうしたところを辞書に求めることはできないので、自分で考えるしかない。その自分で考える契機をほどよく与えてくれる辞書が素晴らしい辞書だと思う。そう意味では広辞苑は他に類を見ない優れた辞書だろう。 ★ホームページに戻る 心の断片168「花見」 「花見」 おまえはなぜに美しい 大事にされるためよ なぜ大事にされたい 生き延びるためよ なぜ生き延びたい あなたもそうでしょ 死にたくないからよ なぜ死にたくないのか 生きて子供を増やしたいの なぜ増やしたいのか この星を花で埋め尽くすためよ それはなぜだ ほかの生き物もみんな同じだわ それはなぜだ 宿命ね それはなぜだ この星が丸いからに決まってるじゃない 2/27/2009 心の断片167「がいこつ部隊」 「がいこつ部隊」 花はくれない 葉はみどり 骸骨ならべて どっこいしょ 蔦のあしあと 雨のみち 骸骨ならして よっこらしょ ほらほら 骨の行列だ 肉をさがして がくがく歩け ひゅるひゅる風を おこして歩け ★ホームページに戻る 2/23/2009 恐怖シリーズ133「主旋律」主旋律を歌えないことによって生じるフラストレーション。 男性であれば誰でも学生時代の音楽の授業で経験することだ。中学高校時代で味わうことになるのだが、これは誰の何にどんな影響を与えているだろうか。多感な時期だけに恐ろしい。 ところで、多感である理由は何か。そもそも多感とは何か。多感にも二とおりの意味があるように思う。いろいろなことに対して感じやすいという多感と、少しのことに対しても感じやすいという多感だ。多感といっても、感性が豊かであるとは限らない。どちらかといえば、多感な時期を経ることによって感性が豊かになっていくように見える。鋭い感性が磨かれていく過程はその先だ。 一見、子供の感性が鋭いように感じられるのは、語彙不足であるがゆえに特異な表現となってしまったものを、大人が大人流の解釈をしてしまうことによって「この子の感性はなんて鋭いのだ!」と思ってしまうことに原因があるように思う。 また、子供の感性が豊かであるように感じられるのは、大人であれば既に日常生活の中で解決している事柄に関する物事に対しても子供にとってはそれがまだ新鮮な刺激であるため、他意もなく自然と目を向けただけであるのに大人の方で自分が忘れていたことやあきらめていたこと、あるいは自分に必要でないと判断していたことを敢えて指摘されたような気持ちになって「この子の感性はなんて豊かなのだ!」と思ってしまうことに原因があるよう思う。 だから、子供の感性を大事にするということを間違って解釈してしまうと、大変なことになる。せっかくの素晴らしい子供の感性の開花を事前に摘み取っておきながら、この感性が大人になるにしたがって失われるのが実に惜しいと平気で放言するようになる。 大人というものは子供を育てるときに立派な双葉になることを目標にして育てているのではないはずだ。子供の感性が失われていくのは、生活の必要に応じて大人の感性が育っていくからだろう。大人としての感性が育たないようにしていくには、大人の世話を常に受けている子供の状況に人々を押し込めておくことが必要だ。あらゆるサポートやサービスを充実させていくことによってそれは実現可能だろう。 当然、子供のままの感性がとめどなく育っていっては大人社会を生きていくには不都合が多い。それゆえ、子供の未熟な感性から大人の感性に進展させていくための訓練が国家や地域社会や家庭で行われたり、自己の行き詰まりや自分を取り巻く環境の中で起こった事件を契機として自己研修に励んだりしなくてはならない。特に、通過儀礼のシステムがほころびてきた現代日本社会では、自己責任による自己研鑽が必要とされているが、世の中の古い仕組みはそれを支える力を持たず、新しい仕組みの基本的発想にはありながらも有効な実現手段があまりとられていないように見えるのが残念だ。 しかし一日中、大人の感性だけで生きてけば、大人は大人であることに疲れてしまう。そこで、心のどこかに子供の感性を残しておき、タイミングよくそれを発動することによってリフレッシュを図る。そうした原初的な感性に戻るということは、疲れを癒すだけでなく、活力を得たり、新しいアイデアを得たりすることにつながる。疲弊した現代文学が万葉集に回帰することによってエネルギーを得るのと似ているかもしれない。 このような子供と大人の感性のボーダーにいる時期にあっては多感にならざるを得ないだろう。成長とともに次第に生き方の勝手が違ってくるから、何にどう対処してよいか分からないのだ。だから、アンテナを高く張り、感度を高めずにはいられないに違いない。自分を取り巻く世界が広がるのに合わせたそうした対策が、物事に過剰に反応したり、そのことによって逆に無関心な分野ができてしまったりする。 一度かかわると視野が狭くなってしまうのは、こうしたことが原因となっている可能性がある。恋に陥りやすいのも同一の原因だろう。「もうあなたしか目に入らない」という視野狭窄で過剰反応の世界だ。これは同時に情報の遮断効果をもたらし、恋が成就することを助けているように見える。ところが、恋愛結婚後はさまざまな社会との関わりを持たざるを得ない時期を通ることによって幅広い視野を持ち始める。 このときにまでに、いかに大人として成長しているかが問題となる。その成果如何によっては、婚姻関係を継続させるなかで互いに成長を続ける二人となるか、離婚によるリセット効果を期待して振り出しに戻り、自分を見つめ直すという段階に立ちもどるかという二つの道の間のどの辺りを歩むことになるが左右されることになる。 特に青少年の時期、なかでも中高生の時期にさまざまな体験を積んで、大人としての感性へと脱皮していくための契機としたり、脱皮のためのエネルギーとしたりすることはとても大事なことだ。視野の狭さによる関心事や無関心事のアンバランスが、社会生活の中で半強制的にさまざまな体験を積む中で次第に順当なバランスを取り始めるからだ。その種の体験を体当たりで積もうとしないパワーのない若者が、味のある実力者としての個性的な老人になれるはずがない。 一見、個性的な若者も化けの皮をはがせば実は個性的なのではなく、幼虫のまま成虫化したモンスターである可能性もある。個性的であることは、節度を持っていることが最低条件であるはずだが、これが欠落している者に対しても個性的という評価を下して珍しがる風潮が案外とある。その事自体には面白みがあってよいのだけれど、結局は珍重されて利用されたり面白がられたりするだけで使い捨てにされるおそれがあるからかわいそうだ。しかし、珍しがられることが案外と本人にとって心地よい場合があり、それはそれで小さな幸福だといってよいのかもしれない。 では、一つ一つの体験が大きな意味を持つはずの学生時代のなかで、音楽の授業の主旋律を歌えないという体験がもたらす効果にはどのような恐ろしさが秘められているのだろうか。そして、誰の何にどんな影響を与えているのだろうか。例によって十項目掲げてみたい。 ①メインから外れていても、外れた者同士の気が合っていれば大丈夫だという感覚が育っていくおそれがある。 ②メインから外れていることに居心地よさを感じてしまうおそれがある。 ③音程を上げるのが生理的、音楽的に自然であるのに、反対に下げたり同じ音程を維持したりしなければならないという違和感をうまく処理できないことがある。このときのストレスが積み重なったことによって起こるフラストレーションや、他のストレスの非社会的、反社会的発散の契機となったりするおそれがある。 ④主旋律に引きずられる男性に対して、女性が自分たちの能力の方が高いと思いこみ、必要な努力を怠る心の隙を持ってしまうおそれがある。 ⑤主旋律を歌う開放感を味わえない男性は、得体の知れぬ不満感を内に秘めていくようになるだけでなく、女性が男性よりも優遇されているような感覚をもってしまうおそれがある。 ⑥主旋律を歌う開放感を味わえない男性は、得体の知れぬ不満感を内に秘めていくようになるだけでなく、女性であれば開放的に歌えるのにという願望から、女性化する道を模索するようになるおそれがある。 ⑦主旋律を歌う開放感を味わえない男性は、得体の知れぬ不満感を内に秘めていくようになるだけでなく、女性に対して軽い恨みを持つようになるおそれがある。 ⑧男女の区別なく主旋律しか歌わなかった児童の時代に戻りたいという気持ちが知らず知らずのうちに育ってきて、男性の幼稚化が始まるおそれがある。 ⑨男性の方が女性の主旋律に合わせてくれるだろうという甘えの気持ちや依頼心が知らず知らずのうちに育ってきて、女性の幼稚化が始まるおそれがある。 ⑩広汎性発達障害は男性に多いということらしいが、聞こえる音程と自分が出すべき音程との整理がつかず、どうしてよいか分からなくなってパニックを起こすおそれがある。 何しろ多感な時期なのだから、ここに挙げたような大袈裟なことは無視してよいなどと口が裂けても言えないことを肝に銘じておく必要がある。 これをどのように解消すればよいのだろうか。⑩は別として、解消のための手だては一つしかないように思う。自分たちが歌った歌を美しい歌として客観的に聴くことだ。録音して男性と女性のパートが絶妙に絡んでハーモニーを創り出す音の美を体験することだ。これは歌っている間には体験できないものだ。この男性と女性の協同作業が美しければ美しいほどマイナス効果も美しいプラスの効果となっていくだろう。 意外と簡単な方法で恐怖が解決することもあるものだ。ただし、不幸なことは全てが歌唱指導担当者の腕にかかっているということだ。 ★ホームページに戻る 2/19/2009 恐怖シリーズ132「揺れる心」 手の大きさを錯覚することがある。 最も正確な比べ方に近いのは、物差しなどの基準になるものをあてがってお互いの手の大きさを測定することだ。しかし、手のどこからどこまでを測るのかを決め、測り始めと測り終わりの場所を同じにしないと、正しくは比べられない。測る場所のずれから生じる誤差と、物差しなどを読み取るときの誤差の分だけはずれることになるが、これは仕方がないことなのだろう。 次に正しく比べられそうなのは、お互いに手の平を合わせて側面から見て大小を判定することだ。これは基準となる合わせはじめの場所がずれていたり、どちらかの手の平が少し反っているなど、お互いに真っ直ぐになって合わさっていなかったりすると、合わせ面が曲がっていることによって誤差が生じ、それが手の微妙な大きさの違いよりも上まわると大小の判定を誤る場合がある。 また、合わせ面が少し曲がることによって目の錯覚が生じ、長さが違って見えることもある。同じ大きさのバナナも並べ方で長さが違って見えるのもこの目の錯覚による。 あるいは、自分の右手と相手の左手、自分の左手と相手の右手を比べることになるという不都合もある。これは左右の手のどちらかが年齢を重ねるにしたがって生活経験の違いを反映し、幾分大きくなったり萎縮したりしている可能性もわずかながらあるということによる不都合だ。肉体的に同じ経験を積んでいるのなら、左利きの人と右利きの人の組み合わせがよい。利き手同士、利き手でない同士を比べることになるからだ。 ただ、これは物差しなどの器具を使うよりもスキンシップが生まれるので、そちらの方を目的にした方がよさそうだ。 次に正しく比べられそうなのは、お互いに体の向きを同じ方向に向けて横に並び、指先の方向と手の平の方向を同じ方向にし、左に位置するものの左手と右に位置するものの左手を左右に平行に並べた状態で目視による大小の判定をすることだ。 左右に並んでいるので比べやすいが、目で見た印象で判定することになるため、手の甲の色の違いや肉付きによって手自体の大きさを錯覚する場合がある。 最も比べにくいのは、お互いに体を向かい合わせにして比べることだ。この場合は、目の錯覚というよりも、手の構造上の問題で自分の手の方が小さく見えてしまうことになる。自分の左右の手はおよそ大きさが同じはずなので、片方は自分から外に指先を向け、もう片方は手首の関節に少し無理があるが、自分の方に指先を向けて横に並べてみると、前者の方が小さく見える事に気づく。左右逆にして比べても、やはり自分に指先を向けた手の方が大きく見える。 よく手のつくりを観察すれば、その理由が分かる。手の甲側の指の付け根の関節から手の平の指の股にかけて約45度の傾斜があるからだ。自分の手の甲を見たときに目の位置と手の位置とで作る角度も約45度なので、視線とこの傾斜が一致してほとんど目に入らなくなる。これに対して自分の方に指先が向いている相手の手の甲を見たときには、この傾斜部分がほぼ視線と直角になって目に入るため、その実寸が目にはいり、その分だけ手が大きく見えるというわけだ。 このことから同じような手の大きさの相手と向かい合うときには、互いに相手の手の方が大きく見えるため、体が向かい合うことによる以上に、いっそう防衛本能や攻撃本能が働きやすくなると予想する。腕や手がこちらに向かって突き出された格好になり、攻撃や防御の姿ともなるものだから、その手が自分の手よりも大きく感じられるという錯覚が自然と心に大きな影響を与えてしまう可能性がある。 逆に、横に同じ向きで寄り添う場合は、横にいるという親近感、そして横にいることを互いに許したという暗黙の了解、視線の回避などに加え、手の大きさが同じ程度であるということによる安堵感が生まれやすくなると予想する。 この中間にある互いの体の向きが直角に交わる並び方からは、適度の緊張感と適度の安堵感が交錯したバランスのとれた心理状態になると予想する。要らぬ敵対心や根拠のない親近感という極端な状態から解放される並び方であろうと思う。 ただし、これらのいろいろな効果は、互いに手が見えていることが必要だ。立って手の向きが下を向いてしまったり、ポケットに手を突っ込んでいたり、腕組みをしたりして手を隠していてはいけない。 しかし、たとえ手が見えていなくてもこれまでの感覚がよみがえって、似たような心理状態が生まれるということはあるだろう。ある人の前に立つと緊張するとか油断するというのも、現実の感覚によるものではなく、過去の強烈な印象の記憶によるものである場合がある。自分を相手に意識的に印象づけようと思ったら、手や指が相手によく見えるようにし、比較的大きなジェスチャーでころあいよく、身体表現をするのがよいだろう。 本当のところはどうか分からないが、案外こんなつまらないことで心というものは揺れ動いてしまっているのかもしれない。そうと考えると、非常に恐ろしい。確固たる自分というものの存在が危ういものであるように思われてしまうからだ。突き詰めて考えていくと、周りのさまざまな刺激に必要以上に神経質になってしまいそうで仕方ない。これもやはり恐ろしいことだ。 ただ、さまざまな刺激があるので平均化してしまっているということもあろうかと思う。その証拠といえそうなのは、ある特定のものが気になり出すとほかのものが目に入らなくなり、特定の気分がわき起こってくるということがある。これは誰もが経験していることだろう。それならば、気を散らせばよいという話になるだけだから、ことは単純だ。ただし、いくら単純でも、それが簡単であるとは限らない。 ★ホームページに戻る 2/17/2009 恐怖シリーズ131「感性の鈍磨」かつて愚民政策という言葉があったけれど、既に定着したので、単に政策といってよいのかもしれない。これによって、結果として国が滅ぶ。 では、本来の政策はどうだろうか。過去十年で何かうまくいった政策が一つでもあるだろうか。過去二十年でも、三十年でもよい。成功例というものは果たしてあるのだろうか。 しかし、本当にこの国を潰そうと思ったら、愚民政策だなどと悠長なことばかりを言っていてはいけない。同時に政府工作を進めるのがよいだろう。もっとも、工作する必要があまりないところにこの国の不幸がある。 かつて未来学と称するものが、日本の将来は薔薇色だと結論づけたことがあった。確かにおよそ予想された結論になったが、薔薇と聞いて、花はしおれて枯れるのにどうして浮かれるのかと不思議に思った国民もいたはずだ。しかし大方は、単純に自分たちの将来を喜んだ国民の方が多かったように思う。 未来学なのだから、その薔薇色の日本の先にある暗黒の日本についても示さねばならなかったと思うのだ。しかし、それは紹介されることはなかった。きれいに咲いた花がその後どうなるかは子供でも知っているからだ。 さて次に、薔薇色の時期に何をしておくべきかを未来学は示していただろうか。おそらくは示していたのだろうが、そんな夢のないことを取りあげることはないという判断をメディアがしていたとすれば、それは罪なことだ。あり得ない話だが、気づいていなかったというのなら最低だ。そこを指摘するのがメディアの責任、いや本来の仕事というものだろう。逆に、気づいていたとしたなら最悪だ。 もちろん、良心的なメディアというものがないわけではない。しかし、国民の印象に残せなかったとしたら、既にその時点で失格だ言われても仕方がない。 実際に、賢い政府と賢いメディアに国民が飢えていることは確かだ。しかし、失礼で大人げないと言われるのが嫌だから誰も何も言わず、ただひたすらに黙々とがんばっている。そうした意味では、この国の国民は非常に素晴らしいといえる。普通の国なら、とっくの昔に国がひっくり返っているはずの状態だ。 おそらく、ものには限度というものがあるはずだが、そのように感じる心が鈍くなってしまっているのだろう。何によって鈍くなってしまっているかは言うまでもない。 ★ホームページに戻る 2/16/2009 恐怖シリーズ130「共有化」共有すること。 物を共有するということは折り合いをつけるということが必要なので、人間関係を作るうえで有効な方法だ。たとえば、相手の状況をはかるということ、相手の気持ちをはかるということ、自分の要求が正しいかどうかということを自己診断するということ、自分の要求を正しく伝えるということ、折り合いがつかないときに発生する問題を解決する知恵を働かせるということ、我慢するということ、恩を感じるということ、恩を売るということ、説得するという努力をするということ、大きな気持ちで相手を受けいれるということ、約束を守るということ、相手を信じるということ、仲間意識を持って人と接すること、節度ある言動をとるということ、過失を償うこと……。 このように、物を共有することによって、人間関係が発生し、これを維持するために、人間の心が成長し、その心によって生き方に深みが出てくるということは否定できない。つまり、短期的には不便であるけれど、結果として合理的なことだということになる。 何より経済的に助かる。共有するものの維持費の節約ができたり、保管場所がその分有効に利用できる。これで無駄が省かれる。 ただし、何をどのように共有化しているかということに問題がある。これを間違えていると、逆に無駄が多くなってしまう。頻繁に使うものを共有化していては、合理的な利用ができない。また、一つのものを三者が共有することで最高の時間的効率と最低の支出を実現できる場合、五者で共有することによって、たとえ購入時に最低の支出を実現したとしても、時間的効率の悪さとそれを支出に換算したときの差し引きがマイナスになる場合がある。できるだけ多くの者で共有することがそのままよい結果を生み出すことになるとは限らないということだ。 しかし、これはあくまでも物品を共有する場合だ。情報を共有する場合は話が別だ。ところで、この情報が電子的に共有化される場合と、紙媒体で共有化される場合とでは、また話が異なってくる。 恐ろしいことに、ここで共倒れということを考えなければならない。さまざまな共倒れの力が寄り集まると、本当に全てのものが倒れることがある。それを見込んで上手に共有化を図らないと、効率だけを考えた姿になってしまう。リスクから目を背ける結果であるから、さぞかし格好のよいものになるはずだ。 どこか不細工なところを作っておかねば危ない。もちろん、本当の不細工ではなく、計算しつくした不細工だ。 ★ホームページに戻る 2/14/2009 心の断片166「あの高み」 「あの高み」 あの高みに登ろう 四方から風の吹く あの高みに登ったら 希望に歓喜 きらめくまばゆい花びらたちが 僕の両手に集まるぞ あの窪みに隠れよう 全てを受けいれる あの窪みに隠れたら 因縁やら悩み 執拗にからむ根のうねりも 絶対僕をさがせない ★ホームページに戻る 心の断片165「ドアの向こう」 「ドアの向こう」 聞き慣れた足音 軽やかに衣ずれ ドアしめる細ゆび だが 香りが違う 眉は同じなのに ほほえみが違う まなざしはやわらかいのに 息づかいが不自然だ 聞き捨てならぬ 異国のつぶやき 用途不明の小道具たちを 巧みに操る その慣れた手つきは何だ 勘弁してくれ その仕草は どこで仕入れた どうにも ただこの俺だけが 変われないのか 変わってしまったのか ドアの向こうとこちらで 毎日何かが起こっている ★ホームページに戻る 2/8/2009 変な疑問100「ちっちきちい」いろいろな言葉があるが、時々意味がよく分からない言葉に出くわす。 「こんこんちき」「ちっききちい」「てやんでえ」「おっぺけぺえ」……。お世辞にもきれいな言葉とは言えないが、罵倒する場面で使用することが多いのだから仕方がない。 罵倒するのだから、一音一音を大切にし、丁寧に発音していては様にならない。しかも、自分の気持ちを明確に相手に叩きつける内容やリズムをもった言葉でなくてはならない。 しかし、そう都合よくこうした言葉があるとは思われない。普段は普通の言葉が、罵倒した場合に様になる発音、内容、リズムを備えた言葉となっていくように、語形の変化が進んでいくことになるはずだ。 語形の変化は次の条件を満たす方向で進行していくのだろうと思う。これらを罵倒するための言葉の基本的な姿だと言い切ってよいかどうか分からないが、当たらずといえども遠からずといったところだろう。 ①短い単語でなければならない。 長い単語であると一息で言い切るのに困難で、短く強く発音する必要がある罵倒の言葉には不向きだ。また、長い単語であると、発音中に罵倒のための言葉であ ると悟った相手に別の言葉で妨げられる可能性が高い。また、長い単語であると、発音している間に仏心が生じて手心を加える機会が生まれてしまう可能性がな いとは言い切れない。 吐き捨てるような短い単語であれば、一息で言い切りやすく、その分強く息を使うことができるので語勢を強くすることが容易 だ。短い単語で相手を否定すれば、労力をかけて長い説明をした相手に疲労感を与えることもできる。何より罵倒する場合、長い単語特有の弱点がなくなる。 ②発音しやすい音の組み合わせでなければならない。 相手を罵倒するのに途中でよどんだりつまずいたりして、言い直したり、言い間違えたり、聞き間違えられたりしては様にならず、格好がつかない。「もうろく じじい!」と罵倒しても、言いよどんだ結果、聞き間違えられて、「いや、もう七時ですよ」とか「まだ五時ですよ」などととぼけられてしまうのと同じことに なりかねない。こうなると周囲の失笑を買うばかりで場の空気が変わってしまい、罵倒した方が不利になる可能性が高くなるだけだ。 また、スムーズ に発音できなければ、その分だけ相手を圧倒する力がなくなり、効果的に罵倒することが困難になる。どもりながら「ころされ、た、たい、いか!」というレベ ルのつまずきになると、「殺された鯛、烏賊」などと聞き間違えられて、やはり全く格好がつかなくなる。笑いをこらえるので精一杯になってしまう。 これらは極端な例だが、もっと軽いレベルのよどみやつまずきによるわずかな格好のつかなさであっても、短時間のうちに度重なることになれば、罵倒する側にとっては命取りとなる。 早口言葉は発音しにくいように発音の組み合わせがつくられていから、早口言葉とは逆の性質を持った発音の組み合わせをさぐるのがよい。つまり、口の形の変化が小さい発音の組み合わせになっている言葉、また、つまずく可能性が低く、よどみのないリズムのある言葉が罵倒するには適しているということになる。 ③強く発音できる音の組み合わせでなければならない。 母音の種類によってこれは異なるだろう。 「ア段」の発音は大きな声で発音することが容易であるために大声で罵倒するには適している。「あほ!」はア段、「ばか!」「たわけ!」などはダブルのア段だ。 「イ段」の発音は「ア段」ほど大きな声で発音できないが、鋭く発音することが容易であるためにいらいら感たっぷりの鋭く切り込むような罵倒の仕方には適している。「シッ!(Shit)」はイ段、「君!」などはダブルのイ段だ。 「ウ段」の発音は優しくこもった発音になるので、それだけでは相手を罵倒するには不向きであるように思う。しかし、つぶやくように、そして吐き捨てるよう に発音することで罵倒する言い方になる。「ふぬけ!」「くず!」などはダブルのウ段だ。少々陰険な感じがするが、そうした罵倒の仕方もあるだろう。 「エ段」の発音は鋭く力強い発音をすることが容易であるため罵倒するのに適している。何を言っているんだと瞬時に分析して強く聞き返すときの「ええ?!」はダブルのエ段だ。「ふぬけ!」「たわけ!」のように、最後に位置して語気を強くする効果もあるから、この二語は強力な罵倒力をもっていると言えるだろう。 「しね!」という語も同様だ。「てめー!」などというのはダブルのエ段が強調されているから強烈な罵倒力をもっているが、母音だけでなく子音に目を向けると、「しね」のSNと「てめー」のTMでは、内容はさておいても、その発音のえぐるような鋭さの点で「しね」に軍配が上がってしまう。内容を含めて考えれば、なおのこと「しね!」が優勢だ。「てめー!」というのは相手を指し示しただけで、「なんだ?」と切り返されてしまう余地を残している。それは敢えて残してくれた余地である場合もあるから、俺にそれを言わせるつもりかというメッセージを酌み取れば「なんだ?」とは言えない。情けをかけてくれているのに無視すれば実力行使を受けることになる。 「しね」と言われなくても生き物は当然死ぬのだからどうということはない。言った本人が数秒後に死ぬことすらあり得るのだから、言われて気に病む人は自分は死なないという思い込みが強いのだろう。しかし、この国の人の命が軽くなったからこそ、人の口に上りやすくなった言葉だろうとは思う。これはこれで問題だ。また、「しね」と言われてショックを受け、自殺したり、いじめられていると強く感じる人もいる。大事に育てられ、褒められて大きくなった人が、「しね」と言われたらそうなるだろう。虐げられ罵倒されながらも明るく元気に雑草のように育たざるを得なかった人は、「しね」と言われてもどこ吹く風だ。小さいときから一寸先は闇の世だと承知しているから、「しね」と言われても、「言われなくても人間いつ死ぬかわかんねえのにいったいどんな太平楽だ。はあ?今おまえさんに死んでもらってもいいんだぜ」ってなもんだ。 「てやんでえ!」は「何言ってやがるんだ!」という否定の姿勢を表明して罵倒したものだろう。「見当外れのことを言ってんじゃねえよ」「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ」というわけだ。ダブルのエ段で、ア段との二段構成だ。吐き捨てる感じが強く出て強い言葉になっているが、江戸っ子以外が使用すると不似合いだという感覚があるから、出身地限定の「条件付き罵倒語」だと言ってよいだろう。 「てやんでえ」といえば「べらんめえ」だ。これは「べらぼうめ」がエ段の二段構成になったものだろう。リズムは「てやんでえ」と同じだ。とんでもないとか普通じゃないとか馬鹿者といったような意味だが、これも出身地限定の「条件付き罵倒語」だと言ってよいだろう。 「オ段」は強く深く発音をすることが容易であるために適している。「こら!」は「これは(いったい何だ)!」の「これは」かもしれない。「これは」→「こ りゃ」→「こら」というわけだ。だとすれば、限定された対象や行動を指して、その責任や判断自体を深く追及する(「こ」のオ段)姿勢でやや離れた場所から大きな声(「ら」のア段)で罵倒することによって制止するのに適している。「もう!」という語は表記上はオ段とウ段だが、発音上はオ段の強調だ。「もう、(いいかげんにしてよ)!」ということだろう。オ段によって深く思いがこもる。「このー!」はダブルのオ段だ。かなり深く思いがこもる。「このやろう!」ともなれば、二つのオ段と一つのオ段の強調だから深い恨みがこめられた強烈な罵倒力をもっていることになる。 このように、ア段からオ段までの一つ一つの発音がそれぞれに積み上げられ、一つの単語なり、語句なりに組み上がったとき、その全体としての発音の並びが、その場に合った効果的な罵倒の仕方として適切であるかどうかについて、今後詳しく検討しなくてはならない。 もちろん、これは言葉の話し手が言い慣れているかどうか、また、聞き手が聞き慣れているかどうかということによっても罵倒する力は変化してしまう。このように瞬間のできごとである発音の問題は把握しにくい事柄だが、確実に人に影響を与えて死に至らしめることもある。事は重大だ。 ④強烈な印象を相手に与えなければならない。 リズムが印象を際だたせる。普通の言葉のリズムと同じでは強烈な印象を相手に与えることができない。心を安定化させる作業の調子を狂わせるようなリズムでなければ、相手にストレスを与えることなどできない。しかし、あまりにも日常的な言葉のリズムからかけ離れたリズムでは笑いを引き起こすことにもなりかねない。さらにかけ離れれば、言葉としては把握してもらえなくなる恐れすらある。おそらく、普通の言葉のリズムから少し離れたところにあるリズムで攻めることでより高い罵倒力をもつのではないだろうかと思うのだ。 このように考えてみると、「こんこんちき!」が、「こんちきしょう」→「こんちくしょう」→「この畜生」→「この畜生野郎」→「この人間として認められない野郎」だとすれば、「この」から「お」を脱落させて「こん」という撥音にしたうえで二度重ねるという念の入りようで強調するとともに、「ちき」のダブルのイ段で鋭く切り込んで指摘するという仕組みになっている。 「ちく」となるべきところが「ちき」に変形しているのはイ段の効果を期待してのものだろう。全体がオ段とイ段の二段構成になっている。これが五段構成だとばらばら感が生じて発音による罵倒する力が分散し、結果として平均化してしまうので、安定感を与える言葉に成り下がってしまうことになるだろう。おそらく三段構成辺りから罵倒力は急速に衰えていくのではないかと考える。 「ちっちきちい」はどうだろう。片仮名で書けば「チッチキチー」と表記するのだろうが、結局は「ちき」がメインで最初の促音と最後の長音は言葉全体のリズムを作って罵倒する力をブースターのように追加しているようなものだろう。これは「こんこんちき」の「ちき」と同じで「ちくしょう」の「ちく」だと思う。「畜生と同じだ」「人間じゃない」「畜生にも劣る奴」という罵倒の意味合いがくんでとれる。 「おっぺけぺえ」はどうだろう。一般的には意味のない囃子詞として説明されているようだが、囃子詞が意味のない言葉などという暴論がまかり通っているのに驚く。意味という言葉の意味をどうとらえているのだろうか心配になってくる。もしかすると、囃子詞自体を調子を出して盛り上げるためのものとか、おまけのようなものとしてしかとらえていないのではないかというおそれもある。 囃子詞がメインテーマとなっている場合も十分にある。その証拠に最も印象的なリズムを与えれていたり、繰り返しが何度もなされたりしている。この囃子詞の中に情念の種や骨組みを組み込まない手はないだろう。囃子詞は「はやす」のだから「無から有を生み出す」「種を芽生えさせる」などのような意味合いをもっているように思う。歌は魂に訴えかけるものであるから、特に囃子詞は心の中にある何かの種にエネルギーを与えて揺る動かして芽吹かせるというものである可能性が高いように思う。 「おっぺけぺ節」は維新政府への不満を表現したものだから、だめ出しの歌だ。「だめ」は「ぺけ」なのかもしれないということだ。「政府は何やってるんだ。駄目だなあ。」だとすれば警察につかまるかもしれないが、「おっぺけぺえ、おっぺけぺえ、おっぺけぺっぽ、ぺっぽっぽう」などとふざけた囃子詞にしてしまえば駄目出しの連発をしながら、これは面白おかしい単なる囃子詞ですと逃げることができる。確かに最後の「ぺっぽっぽう」などは調子を出すための単なるお調子言葉で、囃子詞化に一役買かっているように見えるが、ここにも何か仕掛けがあるかもしれないと疑ってかかるのが面白そうだ。 これはオ段とエ段の二段構成になっている。「ぺ」ははき出す音で、唾棄すべき政府だと言っているように思われる。「ぺ」だけだと「ぺけ」が前面に出てしまうので、パ行仲間の「ぽ」を追加しているようにも見える。また、結果としてパ行の連発となって頭にこびりついて離れないような作品に仕上げているところが実に巧みだ。「おっ」が「おっかさん」の「おっ」と同じで丁寧な言い方を実現する接頭語の「お」であれば、これも「ぺけ」を前面に出すことを避け、ダブルのエ段の効果をうまくくるむとともに、調子のよいリズムを作る働きをしているように見える。 さて、誰を罵倒する言葉かという問題がある。相手を罵倒するのはもちろんのこと、何もできない自分を罵倒する場合もあるのではないかと思う。強力な相手に対して手も足も出せない自分を罵倒するのだ。あるいは、そうした仲間を罵倒し、逆に鼓舞するということもあるだろう。 「対応できない」というのがキーワードかもしれない。さまざまな局面に対応できない政府。そうした政府に対応できない仲間。そんな仲間に対応できない自分。「人間としてなすべき事をせよ。それができていないじゃないか。」でも、自分もどうしたらよいか本当は分からない。この行き詰まり感が「ちっちきちい」とか「おっぺけぺえ」とかいう一見意味のない言葉として口に出る。そういう時代があったのではないかと想像する。はっきり言うにははばかられる。はっきりとした考えが自分にもない。しかし、思いだけはある。こうしたときに言葉ならぬ言葉が生まれ出てくるのかもしれない。 これらが、決まり文句として定着すれば、表現したときに共感を得られることもあり、表現したこと自体の満足感にそれが加わった一定の満足感が得られる。しかし、それは言うべきことを言わなくても、また思いつかなくても、決まり文句の流行から後れさえしなければよいという流れを生み出しかねない。悔しさやおさめきれない気持ちを決まり文句で表現することで、満足感を得たり、伝えた気になったりしてしまうのは非生産的であり、自己処理的であり、人間としてはあまりにも悲しい。 一応伝えながらも 実際には内容は伝わらず、その情念しか伝わらないのだ。これを自覚したとき、なおいっそうむなしい気持ちになっていくに違いない。その場のストレス解消にはなっても、現実を動かすための言葉ではないのでむなしいのだ。そのむなしさを解消するために、人々はある特定の言葉を唱和したり、繰り返したりするようになるのだろう。しかし、そうしたスローガンのようなものも、その時には勇ましかったり頼もしかったりするが、結局は犬の遠吠えになってしまう。 今日の新聞に、首相の発言に対する社説があり、「いかがなものか」という決まり文句で執筆者の思いが示されていた。だが、これはもう止めた方がよいだろう。「いかがなものか」という決まり文句を使うのは相手からすれば願ったり叶ったりのやさしい言葉だ。「別にいいんじゃないですか」という決まり文句を返せばよいだけだからだ。 「いかがなものか」というのは、何かでまぶしたような不明確な「ちっちきちい」のように聞こえてしまう人もいるのだ。そうではないと執筆者が弁明したところで、読み手がそう受け取る場合もある。どう受け取られるかを計算しての文章であるはずだから、そこにどういう計算があったかも読み取らねばならない。 しかし、縦にしても横にしても、この「いかがなものか」という表現は、明言しない政治家の言葉としては似つかわしいが、ずばり問題に切り込む社説の言葉ではないように思われる。本当は「こうあるべきではないか、そうしないとこうなるからだ。」などと明確に説くべきだ。言外に臭わせる婉曲的な表現をすることによって、品のよい文章にまとめたかったということなのかもしれないが、いかがなものか。 社説なのだから、婉曲表現などは取り払い、明確に述べるところに美的センスが輝くような力のある文章にしていけばよい。それだけの筆力を持っている方が担当していらっしゃるはずだ。読者もそれを望んでいる。文章から力を得たいのだ。生きる勇気としたいのだ。 これはもやもやした世の中に、言葉だけでもすかっとしたいという気持ちを多少なりとも酌んではもらえまいかという祈りだ。購読料にそれが含まれていないというのなら話は別だが、どうだろう。 ★ホームページに戻る 2/2/2009 心の断片164「誰もいない砦」 「誰もいない砦」 自己嫌悪の反復 最後の砦の自分が 何をしている これでは自分が かわいそうじゃないか 飴をあげよう 蜜をあげよう 甘くとろけて なくなってしまえばいい 最後の砦の自分が 身を粉にして がんばっているじゃないか 自己嫌悪の反復 誰もいない砦を 空っぽの砦を だから 見殺しにしてしまえというのか 自己嫌悪の反復 ★ホームページに戻る |
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