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    3/31/2007

    日々雑感174「スマートな生き方」

     あちこちぶつかりながら生きる。すらりとスマートに生きる。普通はこの中間を歩んでいく。
     中にはあちこちぶつかってばかりいる人や常にスマートに生きる人もいるにはいるが、極めてまれだ。
     あちこちぶつかるのは、自分の主張が強すぎたり、人間関係が不器用だったり、周りのサポートが充実していなかったり、先を見抜く力がなく、予め準備を整えておくことができなかったり、障害を回避することができなかったりたりするからだ。逆ならば、よりスマートに生きることができるということだ。
     あちこちぶつかって不器用に生きることによるプラスの側面はないだろうか。人情が厚くなるとか、負けん気が強くなるとか、打たれ強くなるとか、いろいろありそうだ。プラスの側面はもちろん何にでもある。だから、あちこちぶつかりながら生きることを全面的には肯定せず、あくまでもよりスマートに生きることを目指すべきだが、これがなかなかできない。自分だけではなく、周りの人々も自分の生き方に大きく関係しているからだ。
     この周りの人々を変えるためには、別の土地に行くか、別のグループに所属するかして、新しい世界に飛び込むしかない。入学する、就職する、結婚する等々、いろいろ方法はある。しかし、最近はこれらのうちのいくつかの方法は困難なものになっている。
     自分の生き方をレベルアップするにはいくつかのトラップに気をつけないといけない。もっとも陥りやすいトラップは、何かを得たときにそれがレベルアップした証だと思いこんでしまうことだ。家を建てたとする。快適な家が手に入ったことで満足し、そのこと自体が生き方のレベルアップだと思いこんでしまうことがある。また、地位と名誉を得たとする。周囲に集まる人々とその態度が変わり、そのこと自体が生き方のレベルアップだと思いこんでしまうこともある。
     他人のためにスマートに生きることを目指さない限り、結局は手段ばかりを身につけているだけで、実は何も為していないと自己評価するのがよいだろう。いつもそうした健康的な不満足感をもちながら生きていけば、明るく精力的に、しかも適度の幸福感を得ながら生きていくことができるのだろうと思う。
     自分の力不足によって、あるいは命の限界によって自分がなしえないことは、自分の子どもや後輩や部下に託せばよい。そうなると、託すに足る人材を育てることが生きることのもうひとつの課題となる。大事なことは、うまく託せない場合も多いということへの対策だ。
     これはもう記録を残すばかりだ。文書で残したり、資料で残したりすることになるだろう。最もまずいのはお金で残すことかもしれない。何に使われるかわかったものではない。下手をすると、借金を残すことになるかもしれない。
     何かの間違いでお金を残すことができるようになった場合は、基金の形で残すのがよいだろう。寄付の形を取り、条例をつくって運用管理すれば、ある目的にしか使われないということになる。まあ、僕には宝くじしかあてはないけれど、それを買うこともほとんどない。

    3/30/2007

    日々雑感173「デノミ」

    年度末だ。年度末は忙しい。年度末が二年ごとに来ればいいのにと思う。三年に一回でもいい。三年間で一年なら、小学校は二年生で終わり、中学校と高等学校は、一年ずつで終わりだ。でも、同じ学年なのに成長の差が大きい。そこで、中学前期、中学中期、中学後期とする。中学一年生が、中学前期生というように名前が変わっただけだ。だが、ポイントは、現在の3種類の年齢が、それが同じ年齢のグループになるということだ。
     現在、60歳の人は20歳になる。これはたいへんなことだ。一年が36か月あると考えればよい。20歳と29か月になりましたなどと言うわけだ。
     誕生日のお祝いのケーキの売れ行きが、現在の三分の一に減る。正月のお年玉も現在の三分の一に減る。ただし、金額が三倍になる可能性はある。
     予算が現在の三年分になるので、流用が効くようになり、無駄のない使い方が可能になったり、高額の物を購入しやすくなったりする。おなじみの年度末に向けての無駄な道路の掘り返し工事も現在でいうところの三年に一回に減る。
     先輩と後輩の関係が年齢だけで語りにくくなる。同年齢意識によって、今よりも縦関係が強く、しかも規模の大きい集団がまとまりあがる。この集団の力によって社会が改革されやすくなる。現在は力が分割され、無力化されている状態だと言っていいのかもしれない。
     こうした年齢のデノミネーションによるいろいろの効果を考えると面白そうだ。当然弊害もあるだろうが、そういうときは月計算モードを必要に応じて導入し、都合をつけるようにできるかもしれない。
     これを小手先の改革と考えるのは世の中を甘く見ている証拠だ。確かに一見小手先の改革のように見える。しかし、制度を変えると、意識も変わるものだ。もちろん意識だから、変わるのには時間がかかる。新三年ぐらいだろうか。つまり、現在の九年ぐらい。ざっと10年というところだろうか。
     これがなかなかに恐ろしい。それと気づかれぬように我々の意識をコントロールするには、この一見小手先の改革のような小さなてこ入れの絶妙な積み重ねによるのがもっとも効果的な方法なのだ。
    3/28/2007

    怪しい広辞苑103「第四版126ページ・いさ」

     やはり余白がある以上は一首丸ごと示してほしい。第四版126ページ「いさ」の用例の示し方。
     「人は-心も知らず」とだけ示しているが、せっかくその後に20文字ほど余白があるので、「ふるさとは花ぞ昔の香に匂ひける」と続けてほしい。広辞苑は、用例としての短歌を部分的に示す場合と、全部示す場合がある。だから、用例としての短歌の示し方は不統一にしておくというのが広辞苑の流儀らしい。
     古今和歌集の貫之のこの短歌は百人一首にもとられている。だから、大人にとっては馴染みの深いものだ。余白がある以上は、古くからの日本の文化に新しく接する中高生にも、その典型を丸ごと示す機会を増やすのが、文化事業の一角を担う出版社としての任務ではなかろうかと思うのだ。これを大げさだと言ってはいけない。それ以外に広辞苑という編集方針をもった辞書に何がなせるのか。
     以前にも書いたが、この三十一文字の世界をさらに分断するのはいけないと思う。辞書が短歌を用例として掲げるのはいいアイデアだ。それは短い語句の連続であるのにもかかわらず、一つのまとまったイメージの世界を作っているからだ。しかし、こうした有効な手段もさらに分断されてしまっては元も子もなくなってしまう。
     例の説明不足はさておいて、広辞苑の古典の用例が今ひとつぴんと来ないとよく言われているのは、利用者の基礎学力の問題と、それを無視した用例の挙げ方にある。
     そのうちに広辞苑第六版も出版されるだろう。第六版では、何とかこれまでの反省を生かし、説明を的確なものに変えることはもちろんのこと、用例についても古典作品、特に短歌からとる場合には分断しないということを実現してもらいたいものだと思う。利用者の細かなニーズに合わせて改善を積み重ねていこうとする姿勢を示していくからこそ信頼される辞書として扱われるのであって、決してこれまでの販売実績やネームバリューによって信頼されているのではないと知ってほしい。

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    3/27/2007

    恐怖シリーズ96「検査」

     善悪で判断して行動するのか。損得で判断して行動するのか。面白いか面白くないかで判断して行動するのか。可能か不可能かで判断して行動するのか。面倒か面倒でないかで判断して行動するのか。
     自分はいったいどんな人間なのだろう。これを調べるために、まずそれぞれの判断基準をそれとなくあぶり出すような具体的な質問事項をたくさん作り、それぞれが各判断基準のポイントとして集計されるようにしておく。次に、それらの質問事項をランダムに並べて質問する。これを統計処理して自分という人間のプロフィールを作ることができるかもしれない。もちろん大勢の人のデータも集めなくてはならない。
     プロフィールの各典型間の相性やスランプ脱出対策、恋愛のポイント等々、心理テストもどきに何らかの判定イメージを作っておき、コメントも丁寧に付け加えたものができあがれば面白そうだ。
     ああ、僕は面白いか面白くないかで判断して行動する傾向が強いかもしれない。何のためにやるのかとか、それでどうするのだということなどにはさらさら興味がないという感じが自分でする。
     何が面白そうなのか説明しなさいと言われても、漠然と面白そうだと思うだけなので、説明がしにくい。でも、きっと何か新しいものを求めているのだと思う。似たものがあれば、なんだつまらないと感じることが多いからだ。誰でもそうだとは思うが、その傾向が強いか弱いかは人によって少しずつ違うだろうと思う。
     ただ、行動するときの判断手順のパターンや行動の完遂度などからプロフィールの典型が作れるのではないかと思っただけだ。
     具体的な質問事項は、自分自身がおかれている状況が明らかに説明されたものでなくてはいけないだろう。非常に疲れているときとか、隣で○○をしている人がいるときとか、そうした状況の中でもっとも自分の行動に近いものを選択肢から選ばせる。これをたくさんやれば傾向が出るはずだ。
     でも、面倒なので僕はやらない。そもそも知識と経験がないので作成できない。もし、できたとしても何の得にもならないからやらない。つまり、自分の与えられた仕事と当面やりたいことが優先するだけの単純な人間だ。
     そもそもプロフィールがわかったからといって何の役に立つのだろう。行動を予測するのか。グループを組織するときの参考にするのか。陥りやすい過ちを教えてあげるのか。
     怪しげな結果しか出ないものなら、もとより遊び感覚だから罪がない。また、占いの延長程度でも罪が少ないと思う。しかし、信頼性の高いテストになればなるほど、結果の運用が難しくなりそうだ。クレペリン検査などはかなり精度が上がっているのではないかと思う。誰が管理し、誰がどう運用するのだろう。その昔、クレペリン検査のあと、一人だけロールシャッハテストを受けさせられた自分としては、莫大なデータをもとにして精度を上げている検査が恐ろしい。
    3/25/2007

    心の断片86「酔うて夜道によこたわる」

    「酔うて夜道によこたわる」

    ひとり
    息白く
    人ならぬ足音 道刻む
    ナイフの襟立てる無慈悲悪辣の人

    金網
    つながれ犬
    息あらく 神がかり
    眼光炯々裂かれた耳に遠吠えの風

    ここはあたたかいぞ
    あたたかいぞ おまえたち

    夜道
    形の違う膝
    厚みの違う舌で
    母なる星に抱かれる  かすか無数の鼓動

    3/22/2007

    日々雑感172「死骸の街」

    土の道を歩かなくなってからどれだけの年月が流れたか。靴の下で並びを変える小石の弾ける音や微妙な路面の凹凸に足を自然に合わせて歩む心地よさを長い間忘れていた。
     どこの誰だかわからない人々の群れのなかで、常時にこにこしていられるのは、心に病を持つ者か、恋に陥って周りが見えなくなった者だけだろう。
     正気の人間は無表情の鉄仮面をかぶり、たぶん同類の人々の交差する無意味な大通りをいかにも意味ありげに闊歩するすべを身につけなければならない。土の道はその無意味から正気の人間を解放してくれるはずだ。
     だが、悩ませるのは無意味な大通りばかりではない。この頑強に見えるコンクリートの柱や壁面も少し前までは風に舞い散る頼りないセメントの粉末だった。人間はこの動物の死骸に命の水を加え、建造物を拵える道を選んだが、今はその冷気に心も凍りつき、思考までもが硬直していく。
     死骸の建物の立ち並ぶ街はどこまでも死骸の街だ。死骸の街だから綺麗に飾らねばならぬ。飾って足りぬところは、音楽で空間を満たせばよい。なお足りなければ、香りで空間を満たすことだ。そうでもしなければ、死後硬直を起こした人間が暮らすにはあまりにも殺伐として哀れだ。
     もとより満たされ得ぬ構造の街だ。だから、活気に満ちあふれるしかない宿命を負っている。この強迫的な活気に耐えられない者は立ち去ればよい。感性の鈍磨した者の多さがこの街の安定感を支えている。
     安定と不安定の狭間で生きる者もいる。砕かれた夢の残骸を拾い集めて芸術にする者たち、理想世界をさがして心の迷路に迷い込む者たち、神の御業の跡を指なぞるために骨身を削る者たち、けちな人生の達人になって内心喜んでいる者たち・・・・・・。いろいろの人生を許容しない限り、この街は支えを失い、崩れていく。ゆえに、死骸の街は常に人々に飢えている。死んでいるくせに飢えているのだ。
     こうしたさまざまな人々の見え透いた現実と評価の欺瞞にもいい加減慣れてくると、いつの間にか嘲笑という安物の盾を顔面に取り付けた小市民をかぎ分けられるようになる。しかし、そうした人々の群れのなかでは、知らず知らずのうちに自分も道を見失いがちになる。 
     気がつくと窓の外を眺めるようになっていたら、紛れもなく前ぶれだ。「一週間に一度、土の道を30分以上は歩くこと。もし、歩いた先々で気が向いたら人に声を掛けること。」これを僕の予防薬としよう。しかし、不経済なことに土の道は車を走らさねばたどり着けない特別な存在になってしまった。それどころか声を掛けるべき肝心の人間がいないではないか。いるのは有象無象の通行人か、車という堅いからに包まれた同類ばかりだ。
     確実に死骸の街は広がりつつある。
    3/19/2007

    心の断片85「悪の触覚」

    「悪の触覚」

    寝覚め鳥おののき
    無垢のこころの断片が
    極彩色によじれあい
    頭蓋骨の中を
    ぞめぞめと響きわたる

     何か悪いことしたいよう
    こんなに善人なのだから
    少しは何か悪いことをしてもいいだろ
     何か悪いことしたいよう
    自ら悪をなさずして
    悪の何を知り得よう
    悪を知らずして
    悪の何を咎めるのか
     何か悪いことしたいよう

    寝覚め鳥しなだれ
    僕は息絶える
    心臓と肺臓と血管とが
    棒杭のごとき血糊の一筆書きを繰り返す
    この内なるのめのめとした感触
    執拗に突き上げる衝動感
    そうだ
    この無限の目眩だけが頼りだ
    3/18/2007

    日々雑感171「知恵と心」

    食事において、食べ物を残す知恵は必要だが、食べ物を残さない心を失ってはいけない。この知恵と心のバランスが崩れると、飽食の時代をよい形で終わらせることができない。
     食べ物を残す知恵が働かねば、肥満を招き、生活習慣病を引き起こし、医療費を圧迫するので、国民生活が貧しくなる土台を作ることになる。しかし、食べ物を残す知恵が、食べ物を粗末にする心を育てる方向に働くというおそれがある。
     食事において食べ物を残すとき、何をどう残すかが問題だ。嫌いなものを残すのは論外。何をどう残すというよりも、バランスのよい食事を取った結果、残るものが自然に出てきたというのが理想だろう。
     しかし、作った人の手前もある。また、お金を払った手前もある。こうした情というものによって健康が損なわれるというのは非常に口惜しいことだが、ある程度は仕方のないことだろうと思う。
     心は目的で、知恵は方法であってほしい。この二つが正常にはたらいてこそ、無駄な食材の浪費を防ぐことができる。つまり、無意味な殺生を防ぐことができる。これは罪深き人間が少しでも救われる道だろうと思う。
     知恵と心の問題は食事ばかりではない。知恵ばかり働かせていると、心を見失い、道を外れることがある。これでは知恵を働かせた意味がなくなる。
     こうした元も子もなくなるような愚行は、知恵を頼みにした奢りによって引き起こされる。しかし、決してそのときには自分では愚行だとは思われないのが特徴だ。だからこそ、行動が完結するまで努力してしまう。評価は時間差でなされるから手遅れになることが多い。
     気をつけるべきことは、何かが順調にまわり始めたとき、それは知恵のおかげに違いないから、目的を見直したり、見定め直したりする時期だということを思い起こすことを忘れないことだ。自戒。
    3/17/2007

    心の断片84「つぶやき」

    「つぶやき」

    愚か者は物事に暗きゆえに怒り
    賢き者は知るがゆえに怒る
    愚か者のあきらめは忘却に終わり
    賢き者のあきらめは吐息に包まれている
    賢き愚か者どもは安穏に
    愚かに賢き者どもは心病むばかりだ・・・・・・





    怪しい広辞苑102「第四版119ページ・意気地」

     時代錯誤だと思う。第四版119ページ「意気地」の説明の二行目。
     「自分の思うことを立て通そうとする気象。」とあるが、この「気象」を「気性」の意味で使うとは、明治時代でもあるまいに、どうしたことだろう。百歩譲って、説明内での使用ではなく、古典(?)からの用例として掲げるのはよいとしよう。しかし、勉学中の学生のためにならない。ためにならないどころか害悪となる。同音異義語のテストでは必ず失点することになるからだ。やはり譲ることはできない。怪しい広辞苑ならまだよいが、学生に「間違っている広辞苑」として見られてしまうことだけは避けてほしいのだ。
     ともかく、1991年に発行された辞書が、意味の説明のなかで「気象」を「気性」の意味で用いているようではいけない。中途半端な古典主義からは早く卒業しないといけないのだ。広辞苑第五版ではどうなっているのだろうか。
     用例が古典に求められるものなら、古典に求め、さらに出版当時に評価の定まっている作品等からも用例を探して併記する。また、用例が古典にしか求められない語であれば、古典だけから用例を探して記し、古典には求められない語ならば、出版当時に評価の定まっている作品等から用例を探して記す。こうした編集方針こそがこれからの広辞苑には必要なのではないか。
     そんなことをすればきりがないと言われるかもしれない。しかし、それは間違っている。きりがないのは当たり前で、だからこそ広辞苑は版を重ねて成長していくのだ。きりがないといって逃げるのでは、広辞苑が広辞苑でなくなってしまうということを意味する。新村出氏ならそうおっしゃるだろう。
     また、そんなことをすれば厚みが出て使用上不便になると言われるかもしれない。しかし、CD-ROM版はそのためのものではなかったのか。
     広辞苑第六版は途中の成果のままでもよいから、新しい広辞苑らしさを出してほしい。日本語の規範の確立を目指しつつ、語義の変遷を詳細に示すことを目指しつつ、広く学生や一般人に使いやすい辞書を目指してほしいのだ。これらをそれぞれ目指すことは決して矛盾するものではない。ただ、編集に時間がかかるということだけが問題だ。
     時間はかかるが、出版社内部はともかく、外部の誰もが時間制限などは設けていない。ある程度できあがった時点で版を改めればよいのだ。このようにして進化し続けていくことこそが広辞苑出版社の意気地だと思うのだ。
     ゆめゆめ国語辞典の最高峰などと自称するなかれ。他のライバル辞書をはるかに凌駕するものになるためには、謙虚な姿勢をもたねばならない。この謙虚さをしかるべきところでもたなければ、勘違いの謙虚さによって自己改革のチャンスを逃しかねないのだから恐ろしい。一定の評価を得てしまったものの誇り高くも悲しい宿命を広辞苑も負わねばならないということだ。

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    3/16/2007

    怪しい広辞苑101「第四版115ページ・遺骸」

     細かなことかもしれないが、それを利用者は求めているのだと思っている。第四版114ページ「遺骸」の用例と意味の関係。
     説明には「死骸。なきがら。遺体。」とある。用例は「-を棺に収める」だ。この三語を用例に当てはめてみると、最初の「死骸」だけに強い違和感を覚えるのだが、どうだろう。僕の個人的な感覚にすぎないかもしれないが、どうしても不自然に思われるのだ。
     ちなみに「死骸を棺に収める」「なきがらを棺に収める」「遺体を棺に収める」となる。「なきがら」と「遺体」の場合は、この用例の文によくマッチしている。しかし、「死骸を棺に収める」という文は聞いただけで寒気を覚える。けがわらしささえ感じてしまうのは罰当たりだろうとは思うのだが、これが率直な感想だ。とにかく用例と説明との関係はしっくりしていてほしいのだ。
     ここは、「死骸」を削除して説明するのがよいように思う。もし、どうしても「死骸」という言葉で説明しなければならないのなら、一番目に掲げるのではなく、三番目に置いてほしいのだ。
     欲を言えば、説明されたどの語を使ってもマッチする用例を用意してほしい。こんなことをすれば、都合のよい用例だけを探してくることになってしまうかもしれないけれど・・・・・・。だから、わがままかもしれないが、やはり「死骸」という言葉で遺骸という言葉を説明しないでほしい。
     そもそも言葉を言葉で説明するというのは難しいことなのだろう。一単語を一単語で説明する場合は、特にそうだろう。だから、いくつもの一単語を並べて説明することになる。それらに共通する意味を見いださせて納得させるという方法だ。
     たいていの辞書がそうだが、新しい辞書の可能性はないか。従来の説明に加えて、意味を図式化したらどうだろう。似た意味の言葉を図式化するときは、相互に比較しやすいように、意味の組み立て方、用語などを整えておく必要があるので、面倒だ。
     しかし、全ての言葉の意味を図式化する必要もないので、やりやすいものから試みてもよいことだろう。もちろん仕事じゃだめだ。仕事じゃないから〆切がない。仕事じゃないから採算が合わなくてもよい。仕事じゃないから遠慮が要らない。仕事じゃないからとやかく言われない。仕事じゃないからいつ頓挫しても構わないという捨て身の覚悟が持てる。仕事じゃないから別の仕事の邪魔もはいらない。
     こうしていい仕事よりも数段レベルの高いものになる。しかし、仕事じゃないから貧乏になり、仕事じゃないから独りよがりに陥りやすく、仕事じゃないからきりもなく、仕事じゃないから甘えも入る。結局いい仕事をしつくした人にしかそれはできないように思う。
     自分が遺骸になる前に、何をなすべきかを真剣に考えないと、仕事に逃げたり、仕事から逃げたりしているうちに時だけが過ぎてしまう。いちいち考えないとしっかり生きていくことができないなんて、この人生というものは本当にやっかいなものだ。もちろん厄介であればあるほど面白いとも言えるのだが。

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    3/15/2007

    怪しい広辞苑100「第四版114ページ・医科」

     これは説明不足なのか、それともこれが常識なのかわからない。第四版114ページ「医科」の説明。
     「内科・小児科・外科・眼科・皮膚科・耳鼻咽喉科・産婦人科などの総称。」とあるが、精神科は「など」の中に入っているのだろうか。それとも、歯科のように医科とは別のものなのだろうか。
     体の病だろうが、歯の病だろうが、心の病だろうが、とにかくお医者さんに診てもらうのだ。何の利便性があって医科と歯科を分けたのかわからないが、拠り所とする法律でも違うのだろうか。同じ理由で、精神科も別に括られるのだろうか。それともこの説明のなかでは「など」の中に入れられてしまっているだけなのか。
     体ばかりの病を扱う科ばかりが挙げられていて、肝心の心の病を扱う科が挙げられていないということは、やはりそれなりの理由があると思うが、一般人の僕にはわからない。
     ところで、花形の科というものがあるとすれば、さて、どれだろう。これも時代によって変わってくるものだろうが、話題になりやすいのは外科だろうか。外科医の手にかかると目 に見える形で結果が劇的に目に見える形であらわれるので、テレビでの報道にむいている。そうなると、美容整形外科も花形に近いのかもしれないが、この科の場合は医療ミスが怖い。失敗して死んでしまえば手 遅れでしたということになるのだろうが、美容整形の場合は失敗してもたいていは生きているからたいへんなことになる。こうしたことが予想されるうえに、顔を変えるということが倫理的に今ひとつ抵抗感があり、裏稼業のイメージがまだ残っていて、今ひとつ花形にはなれない要素となっているように思う。
     それはともかく、現在は内科や外科に代表されるようないわゆるお医者さんよりも、精神科医になりたい学生が多いと聞く。心を病む人が多くなっていることも大きな理由だろうけれど、医療ミスを訴えられにくいということがあるからかもしれない。また、菌を運んでくるわけではないから、抗菌グッズ時代の若者感覚には受けがいいのだろうか。薬を飲んだらすぐによくなることは少ないので、患者との長い付き合いが可能となるのも営業上の一つの魅力だと思われているのかもしれない。どのみち僕のかってな想像だからわからないけれど・・・・・・。
     はやりすたりなどで、科ごとのお医者さんの数のバランスが適切でなくなると、名医を捜し回るどころか、将来、医者を捜し回ることになりかねない。それでは困るということを言いたいだけだ。
     果たしてこれからどうなっていくのだろうか。歯科は人気があるが、僕の町にも異様に歯医者さんが多く、お客の取り合いになりはしないだろうかと心配するほどだ。それとは別に、現在は花粉症があるので、耳鼻咽喉科や眼科が流行っている。精神科も昔と違って少し心の病への偏見が薄らいできたので、上り調子になっていくに違いない。おそらく将来は、精神科のお世話になってないということが、逆に無神経の象徴のように思われるところまでいくに違いない。産婦人科は少子化や医療ミス、勤務時間などの問題でなり手が少ない。眼科は平均年齢の上昇と団塊の世代の老齢化で白内障関等の手術がおおいに増えるはずで、これも盛況となるだろう。コンピュータやテレビゲームで近視が進むので、これも助けとなる。アトピーはなくならず、皮膚科も安定しているだろう。
     しかし、最後は少子化でどの科も苦しくなる。そのかわり、少子化の影響で介護士が海外から派遣されるようになれば、女性介護士が増えるはずで、今の日本女性が失った気だてのよさが男性に受け入れられて国際結婚が進めば、もしかすると、産婦人科が上り調子になるかもしれない。外科はロボットと人体との合体で新たな方向に進んでいくので、少子化でも可能性がある。また、自分の細胞から作った部品を縫いつけるということも始まるだろうから、それも助けとなる。そうなると内科はピンチになるかもしれない。
     いろいろと奇妙な想像が尽きない。想像だけは勝手で金がかからない。しかも、ぼけ防止になるかもしれない。
     かつてご老人は数が少なかったゆえ、また、かつては書物も少なく、テレビ、インターネットなどからの情報がなかったがゆえに、経験値の高い老人は尊ばれ、誰もが長寿を祈った。現在は希少価値的存在意義と知恵袋的存在意義とを失い、将来的に老人は数だけが頼りの集団に成り下がっていくと思う。
     そうならぬためには、まずは元気に活動することだ。それが当面の間は、老人の価値の大きな柱となる。その元気な活動が自己満足ためのものでなく、少子化の弊害をカバーするための活動であれば、自らも喜びのある人生を送ることができると思う。
     そのためには、医者のお世話にならねばならない。その医者が、ただ見立て、薬を処方し、単発的な指導をするだけでは、少し頼りない。
     これまでの医療は後手に回っているのが普通だが、病気になる前の健康体を維持する努力を今以上に医者が老人を相手に指南しなければならなくなるだろう。今後は何しろこれから老人が大量に増えるのだ。後手に回っては対応しきれないときが来る。それを少しでも解消するために、今のうちから病院に小講堂を造り、説法ならぬ、病気予防の講話、老人病との付き合い方、老人として喜びのある人生を送るための説法をするのだ。もちろん無料サービスでだ。自前で小講堂が用意できなければ、公民館を借りたらよい。こうした無料サービス活動に精を出せば、製薬会社の接待を受けているよりも心豊かになろうというものだ。
     これは案外、患者の発掘にもつながるかもしれない。信頼されれば、お金を払って健康診断に来てくれるようになるだろう。健康診断の数値のレッドゾーンを変更して脅しをかける形にするも、ずっと心の通い合った付き合いができるというものだ。
    3/13/2007

    日々雑感170「弁当箱の中の地獄」

    弁当箱の中はさながら地獄絵図。密室の惨劇と言えば語弊があるが、密封された無数の怨念の凄まじさを思うにつけ、血も凍り、身の縮み上がる思いがする。
     皮引き剥がされ、血抜かれ、肉切りさいなまれ、油地獄に火炎地獄、熱湯地獄と、ありとあらゆる責め苦の果てに、あるものは串刺し、あるものは塩責め、押し潰されて、暗黒の奈落の底へと沈められる。
     ここで終わらないのが地獄よりも恐ろしい。噛み砕かれ、酸で溶かされ、細胞の一つ一つを破壊され、魂をすすられて、虚無となる。
     残骸は糞便となってすら水責めにあい、噛み砕かれぬものは、うち捨てられて腐り、虫どもにとりつかれて地にかえる。また再び焼かれ、灰となる。
     こうして流転地獄をめぐりゆくのが定めの者たちの怨念を平らかにしよう。魂を慰めるため、色美しく飾ろう。弁当箱には美しい絵を施そう。食卓の皿も、テーブルも清め払い、心をただして食しよう。己の魂を尊いものにしていかねば、彼らの魂は欲得のために費やされたことになるからだ。怨念が怨念として残り、身を滅ぼすことになる。
     行いは己の魂を尊いものにするためのものだ。そして、尊い魂が行いを尊くする。生きていくということはこのようにすばらしいことだ。
     それぞれの生き物にそれぞれの地獄があり、その地獄が上位の生き物を救っている。地獄の頂点に立つ者は人間なのだろうが、人間は人間の社会の中でまた地獄を作って支え合っている。
     こうなると、生き物の存在自体が地獄というシステムを作り上げていて、極楽などどこにもないように思われる。思うに地獄とは現実のありようのことで、極楽とは刹那刹那で感じることができるというほどの現実に対する評価であろう。
     そうだとすれば、地獄をなくすことはできないが、そのありようを納得のいくものに変えていこうとすることはできる。また、極楽はどこを探しても見つからないものだが、よく考えて見つめれば見えてくるものだということになる。そのために心の目を磨くようにすることはできる。
     妙に宗教じみてきたが、宗教とはこうした方向で人々が行動していくようにするための社会教育だと思うのだ。学校で学業を修めた後、社会に出て学んだのが、会社の仕事や人付き合い、社会生活でのマナーだけだったらなんともお粗末な生き方だということになる。宗教というのは信じるものではなく、学ぶものだと思うのだ。
     何教から学んだらよいのかはまだわからないが、仏教国に生まれたためにその文化の中で仏教的な感覚だけは知らぬうちに身につけている可能性もある。どの宗教からも学ぶべきものがなければ、あるいは学ぶ力が自分になければ、宗教以外のものから学べばよい。
     世の中の仕組みを変え、自分の心を磨くために何をしてきたかと自問自答する。仕組みを変えるために選挙で投票した。紙に字を書いて箱に入れただけだ。自分の心を磨くためにこれといって行いを見つめ直したり、あらゆるものから学び取ることもしてこなかった。これをどのように反省しようか。
     聖人君子になることなど一般人が目標にすべきではないが、何か一つ変えてもよいだろう。変わる方が面白いからだ。朝は10分早く起きてみよう。おはようの挨拶は、これまでよりも二割り増しぐらいで大きな声を出してみよう。二つになってしまったが、しばらく様子を見て些細な変化を観察してみよう。これは実に面白そうだ。そんな単純なことで人間関係や自分の心のありようがもし変わったとしたら多少の幸福感が得られるかもしれない。
     こうして弁当箱は僕に幸福感を得るための勇気を与えてくれた。
    3/11/2007

    怪しい広辞苑99「第四版114ページ・イオン」

     これはこれでいいのかもしれない。第四版114ページ「イオン」の説明の5行目。
     「X線や放射線などの作用により」とあるが、「X線と放射線など」という説明だと、誤解を招かないだろうか。
     この説明だと、X線は放射線の仲間ではないというとらえをする子どもが出てくるおそれがある。ここは単に「放射線などの作用により」としておいた方が無難だと思う。
     ちなみに、X線はエックス線と書く方が一般的であるような気がするが、どうだろう。
     言葉の意味には幅があり、使われ方で伸縮する。辞書は言葉の意味がよくわからないからこそ利用するのであるから、それを前提として説明しなければならない。これは辞書を編纂する姿勢の基本中の基本だと思う。
     これが守られないと、たらい回しにあって結局は知りたいところの意味が不明瞭になっていくという迷路に利用者は迷い込む。そればかりは御免蒙りたい。
     ところで、目からエックス線が出て透視してしまうという漫画があったが、目は受ける方で、出す方ではないと思うのだが、いいのだろうか。鉄腕アトムも両目から光を出して暗闇を歩いていた。出すとともに受けるのだろうか。改めて思い出してみると変な話が多い。
    3/10/2007

    怪しい広辞苑98「第四版113ページ・硫黄」

     これはチェック漏れだろうか。第四版113ページ「硫黄」の説明の3行目。
     「黄色の樹脂光沢あるもろい結晶」とあるが、単純に「の」が脱落しているように思う。
     本来は「黄色の樹脂光沢のあるもろい結晶」か、「黄色の樹脂光沢があるもろい結晶」だろう。版を重ねているのだから、こうした脱字はチェックされていなくてはいけないはずだ。それが修正されていないということは、広辞苑の改版は項目を増やしているだけなのかもしれない。既出のものはノーマークというわけだ。
     常に自分を疑わねばならない。もちろん信じるために疑うのだ。疑うことなくして信じることを盲信という。盲信は百害あって一利なしだ。もちろん他人も疑わねばならない。もちろん信じるために疑うのだ。人を疑うということは恥ずかしいことではない。正当で合理的なことだと思う。
     問題は疑い方だと思う。執念深く疑ったり、意地悪く疑ったり、自分の不利益になるのを恐れて疑ったりするのは論外だ。逆に、愛をもって疑うのだ。相手の発展や幸福を願って疑うのだ。
     こうしてお互いの努力によって誤解を減らしていくことが、強い信頼関係を築き上げることになるのだと思う。愛を築きあげるというのはこうした心遣い、気遣いとしての「疑う」力を発揮して、心地よく相手を成長させていくことのことを言うのだろう。
     これと逆なのが、妙に盲信して、挙げ句の果ては裏切られたと嘆き、恨みを抱くことだ。不幸の方程式は昔からそうたいして変わらない。

    怪しい広辞苑97「第四版113ページ・硫黄列島」

     説明不足が戦争の記憶の風化に拍車をかけるように思う。さらに表現の奇妙さ、そして非常識さが目立つ説明。広辞苑第四版113ページ「硫黄列島」の説明の4行目。
     「太平洋戦争の戦跡。」とある。戦争関係の記述がたった八文字だ。映画化されて話題になり、この項目を調べる人が出てくるおそれがあり、非常にまずい。
     戦争については、日本人の忘れやすいという国民性がマイナスにはたらく。国民性は国の文化とともにあるが、そのマイナス部分をカバーするのも文化だ。文化の一端を支える国語辞書もそのマイナス面を補う働きをしなくてはいけない。広辞苑は百科事典ではないが、百科事典の要素を持たせているということが売りだったはずだ。せめて最低限の事実をきちんと説明しなくてはいけない。広辞苑第四版出版当時も戦争の記憶の風化が問題となっていたのだから、もし、それができなければ、説明の仕方を工夫して、「へえ、そうなの。」で終わらないようにする努力が要るはずだ。
     この「太平洋戦争の戦跡」という説明だと、「桶狭間の合戦跡」と大して変わらない響きしか伝わってこない。記憶を生々しく伝えるためにも、少なくとも「一九四五年三月、二万人以上の戦死者を出して米軍に大敗する。」という情報ぐらいは載せるほうがよい。なぜ、敢えて「太平洋戦争の戦跡」などという脳天気な書きぶりをしたのだろうか。しかも、その後に「かつて硫黄を産した。」と続ける無神経さは非常識に値する。
     こうした文章を国民に提供していると、過去の事実に目を閉ざすどころか、過去の事実に気づかぬ人間になっていき、必ず再び過ちを繰り返すことになる。なぜなら、現在何がどう動いているのかさえも気づかぬ人間になっていくからだ。
     確かに「戦跡」の中には、サイパン島やグアム島をはじめ、観光地化されている所も多い。もともと風光明媚な島々で、戦争などは歴史の中では一瞬の悪夢に過ぎないから当然だ。しかし、絶対に忘れてはならない記憶でもあるのだ。
     ちなみに、太平洋戦争は最後の一年ほどでいくつかの軍事拠点をめぐって日米間で激戦が繰り広げられたが、若い人の多くは知らない。僕も若いから調べるしかない。
     島の争奪戦の勝敗がついた日を調べ、順番に記すと、1944年7月9日サイパン島、1994年8月2日テニアン島、1944年8月10日グアム島、11月25日ペリリュー島、1945年3月26日硫黄島となる。そういえば日本も本土が島だった。
     人一人にたった一つの命しかないのに、結局は誰かがそれを国に捧げさせたのだ。それが天皇だったなどという認識の人はさすがに今はいないだろうが、もちろん感覚的にはそうだったから、天皇陛下万歳と言って死んでいった人もいる。
     けれども、実質的にそういう世論を確立させたのは、当時としては広報機能の最たる新聞報道以外には考えられない。新聞というのはオピニオンリーダーとしての自覚を持たないと、ただの太鼓持ちに成り下がるという本質的なリスクを常に持っている。そうした新聞社の責任がまだあまりとりあげられていない。とりあげるのが新聞社自体なのだから仕方ないのかもしれないが、このご時世、全国紙の報道状況を監視していなければ、また愚かな歴史をこの日本にたどらせるためのお膳立てをしでかすおそれがある。糾弾されない立場にいる者たちは決して体質を変えようとしないばかりか、体質改善と称していっそう改悪する場合の方が多いから気をつけた方がよい。
     まず、目くらましの報道、つまり報道すべきをしないで、その空白を話題そらしの記事で埋めるという手法の多用から始まる。この兆候は既に出ているように感じる。黄色信号だ。ただし、もしかすると、企画能力や取材能力、記述能力の問題かもしれないので、断言することは危険だ。
     さて、広辞苑第四版で「サイパン島」を調べてみた。「太平洋戦争中、日米の激戦地」とある。「日米」が付加されているだけ、「硫黄列島」の説明よりも具体的だが、ここで気になるのは「激戦地」という説明だ。
     どうして「硫黄列島」が「戦跡」で「サイパン島」が「激戦地」なのだろう。確かに戦死者数はサイパン島の方が多いようだ。
    広辞苑第四版は、何を以て「サイパン島」の方を「激戦地」と認定したのだろうか。死亡率はどうか、米軍の死亡者はどうか。
     ウィキペディアによれば、「硫黄島」での日本軍の戦死者は20933名中、20129名だ。それに対して、「サイパン島」での日本軍の戦死者は31000名中、21000名だ。戦死率で言えば、圧倒的に「硫黄島」での戦死率の方が高いではないか。また、戦死者の絶対数にしても、当然概数だろうが、20933名と21000名とでは同等だ。
     それにもかかわらず、広辞苑第四版は「硫黄列島」での説明に「戦跡」という表現を選び、「サイパン島」での説明では「激戦地」という表現を選んで区別している。これは、どうにも解せない。辞書であるからには説明ごとの表現にも繊細な心をもって配慮しているはずだから、何らかの区別した意図があるはずなのだ。
     もしかすると、ウィキペディアも広辞苑第四版のように怪しい資料なのだろうか。こうなると、別資料を当たらねばならなくなる。辞書を読むということは、なんて面倒なのだろう。
     もしかすると米軍の被害を考慮したのかもしれない。怪しいか怪しくないかまだ判断がつきかねるウィキぺディアによれば、「硫黄島」における米軍の戦死者は70000名中、6821名だ。それに対して、「サイパン島」における米軍の戦死者は71000名中、3500名だ。
     これも圧倒的に「硫黄島」での戦死率の方が高い。また、戦死者の絶対数にしても、やはり概数だとしても、硫黄島の方が圧倒的に多い。米軍の戦傷者についても、「硫黄島」では、21865名、「サイパン島」では13160名で、これも圧倒的に「硫黄島」での戦傷者の方が多い。
     これらのことは何を意味するのか。広辞苑第四版にあっては、ひどい被害を出した方が「戦跡」で、そうではない戦地のことを「激戦地」というのだ。しかし、これは一般的な言葉のイメージとはあまりにもかけ離れている。僕個人の感覚かもしれないが、「戦跡」よりも「激戦地」の方がひどい状況を思い起こさせる表現に思われる。
     こうした国民的辞書のいい加減な編集態度がどうにも我慢がならない。たいした根拠もないように思われるのに「戦跡」だの「激戦地」などと言い方を変えてみたり、ある戦いには相手国の名前を明記し、ある戦いには相手国の名前を明記しなかったりする。これは、戦地で亡くなった方々に対して極めて失礼なことだ。
     是が非でも、広辞苑第六版ではせめてこれだけでも改めてもらいたい。残された者たちがどんな思いで暮らしているかを想像し、少しは説明内容や表現を配慮するのが良識というものだと思う。
    <硫黄島をどう見る 画像クリックで説明画面へ>

    日々雑感169「はたらく幸福」

    「はたらく」が、仮に「おそらく」「おもえらく」「ていたらく」「すべからく」や「もうさく」「いわく」の仲間のク語法だとしたら、恐ろしい。
     「AKU」を動詞等につけて名詞にする語法がク語法ならば、「はたらく」という動詞は、もしかすると動詞として使う前は、名詞だったかもしれない。もちろん名詞としての用例はないかもしれない。しかし、一足飛びに動詞化して使用するという経歴を持っている可能性もゼロではない。形式を経て納まるべき語の姿に速やかに納まったということだ。それは「はたらく」が持っている意味の本質がどうしても動詞としての使われ方を要求しそうだと思われるからだ。
     「はたらく」の前の語形は、単純に「AKU」をとって「はたる」だ。「はたる」の意味は「取り立てる」「徴収する」「強く求める」だから、なんとなく闇金融の恐ろしい取り立て屋のイメージがつきまとう。時代劇の盗賊が「いそぎばたらき」をするというイメージもある。しかし、「はたる」は現在は一般的な言葉ではないので、僕たちへの影響力は無に近い。
     では、飛躍して「はつる」だったとしたらどうか。「はつる」の意味は「ほつれる」「少しずつ削る」だから、真面目なサラリーマンが少しずつ身をやつして「はて」ていくイメージが寂しく思い出される。この方が、「はたらく」という言葉の側面をよく説明しているような気がする。
     語学的には破綻しているかもしれないけれど、実際に使っている者がもつイメージの方が有効だ。そして、このイメージをコントロールしないと、幸せにはなれない。僕たちの不幸の原点は「ハテしなく続くように思われる人生をハタらいて過ごす」という感覚をもっていることではないかと思うのだ。「はたらけどはたらけどわがくらしらくにならざりじっとてをみる」石川さんの句が心にじんとくるのはこのためだろうと思う。
     そうだ。コントロール(その一)として、「はたらく」のかわりに、「仕事する」にするか。しかし、「仕事」というのはやって当たり前のことで、達成感があってもそれは 仕事のレベルの達成感であって人生のレベルではない。たとえ作業ではなくても「作業」的なイメージがついて回る。得られるのは一時的な達成感だけだ。
     しかたない。コントロール(その二)として、「はたらく」のかわりに、「業を為す」という言葉にするか。この方が消耗感がなく、エネルギーがみなぎる感じがする。自己実現の満足感すら予感させる言葉だ。ただし、「業為し」というように名詞化して使用すると、「業無し」のイメージがついて回るので、逆にまずいかもしれない。
     言葉にはどうしても長い間に手あかが付く。そして、状況変化にたえられず、ほころびて色あせていく。何か別の言葉を早くさがさないと、ニート対策にもならない。「はたらく」にかわるよい言葉はないものか。ニートをもっと格好悪い名前、例えば「穀潰し」とか「人糞製造器」にするという手もあるけれど、人権侵害の言い方なので、許されるものではないだろう。それに正攻法あっての裏技だから、なんとかしてコントロール(その三)を考えるのがよさそうだ。
     どうにもアイデアが出ないなら「はたらく」を使いながら、「傍楽」のようにイメージするよう努力するしかない。しかし、傍の者たちが楽になるのが己にとって喜びであるためには、周囲の者たちへの愛情が前提としてなければならない。そうした周囲の者が多ければ多いほど幸福感に包まれるはずだ。
     この周囲の者というのが家族なのだろう。構成員の多い家庭を持つ人ほど、忙しそうだけれども幸福そうな顔をしているのはそのせいかもしれない。少子化では幸せの空洞化は免れないということか。幸せの代償行為にふける生き方はどう頑張っても虚飾にすぎない。これからは、もっと虚飾感を減らし、これを手に入れることが幸福なのだと感じやすいような提示の仕方をしないと代償行為の一つとしての衝動買いを増やしていけそうにない。もちろん商品だけでなく、消費者の方も改造していかないと片手落ちということもあって、これも残念ながら盛んだ。
     偽家族を増やす方向は既にある。商品名に「~くん」とか人名をつけるのだ。そんな言葉で何となく小さな家族が増えたような気になるのだ。プチ幸福とでもいうようなものを商品名が味わわせてくれる。愛着感が生まれ、それを買うためにはたらくのは苦ではなくなる。しかし、そのためにはたらくほどの高価な物に「~くん」という名前がそぐわないので、幸福追求としてはあまりにプチなので、単独の手法としては成功しているとは言えないかもしれない。

     

    心の断片83「生きること」

    「生きること」

    決して消えない右手の傷は
    誰も教えちゃくれないが
    意外と深い謎の傷
    中途半端な縫い目の不思議

    消えそうで消えない僕の記憶は
    誰のものかもわからない
    うち捨てられて苔むした
    つぎはぎだらけの不自然さ

    もうどこにもない僕の左目は
    何を見つめているのだろう
    ギザギザ縁のうろ残し
    冷たい異国の鉱物を受け入れている
    3/6/2007

    日々雑感168「家訓」

    親の仕事がいつの間にか稼ぐのが目的になっている。そんなことはないだろうか。そうした家の子どもは人間として育たないと思う。稼ぐのは育てるために何かをする元手にするはずだったのに、稼いで食べさせて、教科の勉強やいわゆる情操教育の習い事をさせて、それで育てていると親に思いこませている風潮が子どもを駄目にしていくのだと思う。
     そんなものは枝葉の部分なのに、それが根っこだという思いこみをどうしても親がしてしまうのは、おそらく教育産業の努力の結果だと思う。もちろん枝葉も重要でなければならないものだ。しかし、根っこがないと元も子もないのだ。
     世の中には商業ベースに乗りにくいものがある。それは世間からないがしろにされやすい。しかし、皮肉なことにそうしたものほど大事なものである場合が多いような気がする。こうした時代では親の見識というものが試される。
     しかし、その見識自体が何を拠り所として形成されていくかと言えば、自分の親からの口伝ではなく、やはり教育産業の産物である雑誌や視聴率や購読者の伸び率しか頭にないテレビや新聞などから得た断片的知識にすぎない。それ以外にはないから、もうこれは良い悪いという問題ではなく、仕方がないことだ。
     メディアによって流されるものは、妙に論理的であるから、一定の説得力がある。しかし、断片的であるうえに一般的であったり、あまりに意表を突いてものであったりするので、それを鵜呑みにした人たちの行動には非常に危ういところがある。
     何も拠り所がないのよりもよいには違いない。しかし、その功罪はといえば微妙だ。日本の子どもたちの危うさがここまで至った以上は親からの口伝による現実主義を取らないと、それがどう評価されるものであったとしても、結果は悲しいものになることが多いのではないだろうか。
     親の口伝も怪しいものだが、世代を重ねるうちに洗練され、成文化されたものが家訓として残されていけばよい。時代にそぐわぬものも出てくるかもしれないが、それは取捨選択していけばよい。問題は取捨選択できるほどの量があるかどうかということだ。
     家訓のない家にはいつも迷いや悩みがあり、いらぬトラブルや予期せぬトラブルを招いている。それに追われて人生が終わっていくのは愚かなことだ。もちろんそうしたことに達成感を見いだす人々もいるけれど、見いだせる人はそう多くはないはずだ。
     人は言葉と心を持っている。これをもって、家庭に幸福を招くような采配ができるように親として育っていないといけない。現代の親は果たして何に学んで育つのであろうか。井戸端会議だろうか。子育て雑誌だろうか。自分の親だろうか。家訓だろうか。残念ながら、今は井戸もないし、我が家にはまだ一つの家訓しかない。

    怪しい広辞苑96「第四版113ページ・イエロージャーナリズム」

     ここは説明があまりにも中途半端で大きな誤解を招くため、絶対に説明の仕方を変えなければならない。第四版113ページ「イエロージャーナリズム」の説明。
     「発行部数を増やすために、誇大で興味本位な性記事や私生活暴露記事を売り物にする新聞・雑誌。」とあるが、どこからどう読んでも珍妙な説明だ。
     まずジャーナリズムが新聞と雑誌に限られているような印象を強く与えていることが変だ。変というよりも間違っている。このような偏った見解を示してもらっては迷惑千万だ。
     次に、手口が性記事と私生活暴露記事に限られていることも変だ。また、「発行部数」というよりも「講読部数」の方が適切だろう。発行しても売れなければ意味がないのだ。またそのためのイエロージャーナリズムだったはずだ。
     ここは「発行部数」を「講読部数や視聴率」とし、後半は「誇大で興味本位な事柄や性的内容を含む情報や私生活暴露情報を話題として売り物にする新聞・雑誌やTV・ラジオ報道などのあり方」とするのがよいと思うが、どうだろう。
     このなかでも映像を主とするTVが最もイエロージャーナリズムに陥りやすいと思うのだ。それを差し置いてはいけない。もっとも新聞・雑誌の方が講読部数だから、現金収入額に直接跳ね返ってくる。そうなると、より一層イエロージャーナリズムに陥りやすいとも言える。
     新聞・雑誌は買うという行為が必要なため、スイッチを入れたら流れてくるものとは違い、命がかかっているのだ。定期講読の新聞よりも、雑誌はさらにその傾向が強い。だから、餌食にするものが要る。生け贄のようなものだ。
     我々一般人は飯食にならないように普通の生活、つまり隠れていればよい。しかし、公的なものは隠れようがないので、餌食になりやすい。芸能人も公人に近いものがあるうえに、本質的に話題になりやすい存在なので、最も餌食になりやすい。
     もちろんイエロージャーナリズムよりも、必ずねじ曲げて伝えたり、薄汚い行為によるブラックジャーナリズムのほうが悪質だ。残念ながらそうしたものが日本の全国紙にあるというのが日本人として本当に恥ずかしい。
     全国紙といえば、日本を戦争に導いた中心的な力が全国紙にあったことを忘れてはいけない。そうした体質というものは変わらないのだ。特に新聞社を批判するものがあまりないために、その体質は進化している可能性があるとも言える。
     あれ?イエローとブラックの警戒色?蜂だな。何度でも刺し、相手の命を奪うスズメバチ。「寄らば斬るぞ」ということなのだろうが、最近は「寄らずとも近寄って斬るぞ」の感がある。
     大学の学部に、きちんとしたジャーナリストを育てるための専門学校的なところはどのぐらいあるのか。もしかすると、この国の運命を左右するような人物を輩出する可能性だってある。資料もないのに滅多なことを言うものではないが、もしかすると日本は質の高いジャーナリストの層が薄いのではないだろうかと心配する。

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