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31-03-2008

変な疑問85「武技の訓練」

 最近は運動不足でいけない。昔の人はどうしていたのだろう。人口のほとんどは農民だ。農作業はたいへんだから、運動不足にはならないように思う。では、職人はどうだろう。職種によってはかなり偏った身体の使い方をするから、何か他の運動をしてバランスを取っていたかもしれない。
 彼らは仕事を通し てコンスタントに運動しているが、果たして武士はどうだっただろう。有事の際には途方もない運動をすることになるから、平時はそれに備えて訓練を積んでいなければならないはずだ。平時の訓練は自分の心がけ次第だが、訓練の時間が保障されているということは専門の武士ということになる。もっとも、時代や事情によっては、普段は農作業をしていたり、ただの無頼漢であったりするのだろうが、詳しくは知らない。
 それにしても、江戸時代になり、太平の世となったとき、武技はどのように訓練されていったのだろう。少なくとも僕自身は、映画やテレビの時代劇でランニングや腕立て伏せなどのトレーニング風景が描写されたシーンを見たことがない。登場人物の背景として、小さな道場で木刀の稽古が紹介される程度だ。もしかすると、山にこもって修行 する姿の描写ならあったかもしれない。 あまりにも作品の中で紹介されないために、薙刀、弓、槍、杖にいたっては、映画やテレビ番組の主人公の武具としてはふさわしくないという印象すらある。おそらく、その武術が現代社会にどれだけ紹介され、普及しているかということは、どれだけ映像化に適しているかということと関係があるのだろうと思う。
 剣術、柔術、拳法などは映像化に適している。動きのパターンがいくつもあるからだ。従って、弓術は鑑賞に堪えられる作品とはならない。動きのパターンが一つしかないからだ。
 薙刀や槍は相手との距離が弓術の場合よりも近いが、それでもまだ剣術、柔術、拳法よりも遠い。両者を描写しようとすると、どうしても人物が小さくなってしまう。テレビ画面の縦横比には適さない武術だと言える。映画館だとスクリーンの縦横比はテレビ画面よりも横長なので、スケールの大きい攻防の描写が可能となるだろう。これは地表が舞台だからだ。宇宙空間が舞台の映画ならば話は別だろう。特別のスクリーンや鑑賞用の特別眼鏡がいるかもしれない。
 薙刀は、突く、斬る、払うまでに至る多彩な技があるが、獲物が長いために槍と同じく携帯に適さず、ストーリーの展開に大きな制限をかけることになる。その点、西遊記の孫悟空が持つ如意棒は、これらの問題を棒が縮んで耳の中に入るという非現実的な方法で解消することに成功した例だと言える。
 また、現代剣道では、薙刀による脛への攻撃が全く想定されておらず、ほとんど無防備だ。現代剣道の知識しかない作家が、対薙刀の技を上手く表現できないために、やはり映像化は困難だと思う。
 槍術に至っては、防具を付けた演技者による演武を数回見たことがあるだけだが、いかに突くかということが問題で、突いたり引いたりが基本的な動きだ。ポジションをいかに有利にとるか、また、効果的な攻めに長い柄をいかに使うかなどの重要なポイントも、実際に映像化すると、実に地味なものになってしまいそうだ。
 鎖鎌もやや相手から遠い。しかも、相手は日本刀と相場が決まっている。鎖鎌使い同士の技というのはどのようにか進化してきたのだろうか。たまたまだろうが、僕は鎖鎌が日本刀に勝つパターンの演武しか見たことがない。剣術の中に鎖鎌対応の技が残っていれば、鎖鎌が登場することも可能かもしれないが、一対一の竹刀同士の剣道ばかりが普及している現状では、そんなことも望めない。
 杖術は相手との距離は映像化には問題ない。画面に動きの展開が十分に収まる。また、動きも他の武術より多彩で変幻自在であることころは映像化に向いている。これは単純で素朴な武器だからだ。鉄砲なら引き金を引くだけだが、杖となると体さばきと杖の操作に頼るしかない。日本刀のような切れ味もないし、槍のように貫通力もない。弓のように遠くから攻撃もできない。従って、多彩な動きを展開して対応するしかないのだ。
 薙刀や槍のように長くないので、ごく自然に主人公に携帯させることもできる。しかし、日本刀を相手とする技ばかりで、どうしても剣術あっての杖術という図式となってしまい、主人公が得意とする武術としてのカラーをもたせにくい。また、武器自体が素材や造りにおいて日本刀の対極にあり、凡庸で凄味がないという長所が、映像化にあっては短所となるのも痛いところだ。
 このようにして、映像化に向かない武術は、調べられることもなく、研究されることもなく、広まることもなく、もちろん流行することもなく、一部の志ある者たちによってのみ細々と伝承されていくことになる。当然、トレーニング方法も制作スタッフに馴染みがなく、映画やテレビで敢えて紹介されるものではなくなる。こうして記録に残らないまま、忘れ去られていくのだろう。歪められて伝えられるよりはよいという考えもあるが、まずは伝える道を確保することが大事だろう。正す手だてはそれからの努力だ。
 いずれにしても、これらの武術は個人技であって、集団での攻め方を訓練する演習のようなものを必要としない。しかし、白兵戦における武技についてはどれも個人技とはいえ、集団戦では、弓や槍などのように直線的な攻撃力についての訓練は行わねばならないだろう。逆に、剣や薙刀のように、武器を振り回すことによる曲線的な攻撃力は目の前の相手だけに有効なので白兵戦向きだ。もちろん、白兵戦といっても一対一の勝負だけを考えていては全体の勝利にはつなげにくい。白兵戦も集団戦のなかで考えていくべきものであることは明らかだ。
 さて、そうした集団戦での訓練が必要なものは、いったいどこでどのように行っていたのだろう。「何々流」というような、しかるべき軍学書をひもとけば調べがつくかもしれないが、例によって文書に残されるものは、文書として残される条件を満たしたものだけだから、実態を推し量ることはできても、実態そのものを知ることは難しい。それ以前に古文書だから読みにくい。今はネットで閲覧できるようになったかもしれないが、そもそも物自体お目にかかりにくい。お目にかかれても、よくあるように観念的であったり、当たり前のことがもっともらしく書いてあったりと、参考にならない事の方が多いことが予想される。
 集団戦の訓練の資料や個人技の訓練について調べをつけていくといっても、ことは単純ではない。異論はあるかもしれないが、武技には「実戦」「競技」「演武」「護身術」「体操」の五通りのレベルが考えられる。これらについて、それぞれに追究しなければならない。
 しかも、資料を探すといっても、技の名前やおよその方法は分かるだろうが、訓練方法までが記述されているものを探すのは至難の業だと予想する。結局は、現代の技とトレーニング方法から推測するぐらいが関の山かもしれない。
 命を奪ったり、戦闘不能にするための冷酷な殺人技である「実戦」と、その技を競う「競技」と、武術の心と勝ちパターンの様式美を追求する「演武」と、殺人技の体系の一部が日常生活に役立てられる「護身術」と、健康維持のための「体操」だ。この五つの道のどれが選択されていくかは、世の中の流れ、年齢や体調、人生観、生活環境によって決まってくる。
 なお、この他にも、意識的に訓練されるものではないが、生活の一部になっている「体さばき」の要領や「心構え」が考えられる。しかし、「心構え」はもちろんのこと、「体さばき」も生活の一部となっているがゆえに、これらは武技に必要な要件ではあっても、武技そのものとしては扱わないことにする。
 「実戦」にはルールはない。「競技」には判定の必要があるためにルールが設けられる。「競技」によって「実戦」のための武技が練り上げられていく一方、ルールの枠の中で有利になるよう、武技が変質していく。
 逆に、「演武」では、理想の武技が追究されるが、そのために「実戦」的な臨機応変の本能的な武技の流動的な多彩さが衰弱していく。「演武」が「競技」化したときには、武技自体が評価されるのではない。武技の命である対応度が、錬成度をもって推し量られることになるのだ。
 「護身術」にはルールはなく、非常に「実戦」的だが、体系的ではないため、状況が悪化した場合には、対応できなくなる。従って、逃げることを目的としたものでなければならない。
 「体操」としては、全身運動が求められるために、小技が省略されてしまう。しかし、実際には小技は大技のきっかけとなっていることが多いのではないか。一つの流れの一部を切りとってしまうのは武技としての意味合いが半減する。また、技をかけるタイミングとか、間合いとかは無関係となるから、見た目はともかく、本質的なものは失われてしまう。従って、武技のレベルとしては数に入れたが、目的が関節を柔らかくし、運動して汗をかき、血行をよくして健康維持に役立てることにあるので、武技としては見た目だけになってしまったと評価されることになる。
 弓術について言えば、「実戦」でなければ、自分を守る必要はない。逃げも隠れもしないで平然と弓を射ることができる。防具はない。「実戦」では矢を防ぐための鎧が必要だが、「実戦」以外は無防備でよいのだ。「演武」では肌脱ぎさえする。これは心臓に近い方をぬぐのだから、あまりにも無防備だ。年齢によっては寒さが心臓に与える悪影響も無視できな。
 これは正装である紋付き袴の和装が「右前」だから仕方ないとも言える。普通は紋付き袴では戦わないが、「演武」としては武技を高貴な方に披露するのだから、正式な和装の出で立ちで行うことになる。この矛盾が肌脱ぎを生み出したのだろう。
 平時は、襲ってくる人間の代わりに作り物の丸い的に向かって的中率を競う「競技」を行って技術の向上に努めていればよい。「競技」においても的は襲ってこないから、必要なだけ礼儀作法を尽くしつつ、一射一射に魂を込め、その技を理想的に「演武」して披露することができる。そうすれば、完成度の高い美しい武技に感動した者がその武技を身につけようとするから、末永く伝えていくことができる。
 弓術は、攻撃のみの武術であるから「護身術」とはなりにくい。しかし、仮想敵が「死に体」の的であるので、タイミングや間合いを考えることなく、技を身につけるための修業がそのまま「体操」として健康づくりにつながり、人生を充実させることもできる。
 また、武技のレベルとしなかった「体さばき」では、不動心を培うであろう胴づくりを始め、立ち居振る舞い、「心構え」では澄まし、動中の静、静中の動、自己責任、道具の管理や手入れなど、日常生活において失敗がないようにするためのものが身についていく。
 しかし、攻撃されることがない武術なので、マイペースに陥り、傷みを知らず、思いやる気持ちが培われるとは思われない。また、人間が小さくまとまるおそれがないわけではない。
 武具を使う武術では、杖、薙刀、剣、槍の順で臨機応変の動きが必要とされるように思う。様式美は、技の体系が複雑であるほど多く生まれやすいので、臨機応変の動きが必要とされる武術ほど多くなはずだ。「演武」が盛んに行われるかどうかもそれにかかっていると思う。
 これらに対して、弓の場合は、「実戦」的な技がそのまま「演武」となる。「実戦」的な技自体が追究する様式美として成立するのだ。それは相手の動きに応じてこちらが動きを変える必要がないことに起因する。相手の動きによって体勢を変えたり動きを変えれば、肝心の的中率を低くし、貫通力も落ちてしまう。
 各所作についても、「実戦」を重んじれば、簡素なものであればあるほどよいが、たとえ、集中力を高めるための所作などのような必要な所作までを省略するのはよくない。とにかく確実に敵を倒すことのみに特化した方法によって事を運べばよい。所詮はただの殺人だ。所作になど深い意味などもたせない方がよい。相手を倒し、自分が倒されないことに徹することだ。だからといって、乱暴に敵を倒せばよいということではない。クールでなければならないということ。
 乱暴であれば労力をいたずらに消費し、殺せる人数も少なくなってしまう。ここでクールというのは、無駄な労力をかけずに、より多くの人間を殺すため、自分の精神状態や筋力をコントロールしている状態のことだ。ここに武術の合理性の非情さがあるように思う。
 クールに人を殺していくには、道具の特性に対する深い理解、平常心を土台とする研ぎ澄まされた精神、合理的な関節の働きと筋肉のコントロールを可能にする技を身につけていることが必要だ。雨や風や太陽などの自然環境なども味方にできなければならない。これを一人で行うところに弓術の修業の特徴がある。
 しかし、弓術ではなく、弓道という考え方で修行をする場合には、人殺しの技を身につけることを目的としない。技を身につけることは目標であって、目的ではない。目的は人間形成にある。ただし、いかに高邁な理想を掲げても、一歩間違えば、全ては自分の責任だと感じる自虐的な心を育ててしまうおそれもないわけではない。
 ところで、戦では遠くの敵には集団で矢を射かける戦法が一般的に採用されたのではないかと思う。その場合は弾幕のようなものだから、遠くへ飛ばす技を持っていればよい。一人を狙うのではなく、集団を狙うのだから、命中率よりも、速射の能力の方が大事だ。
 しかし、中距離の相手に対しては狙撃を試みることになる。あまりいい加減な命中率だと、遠距離戦で消耗した矢をこちらが外した矢で補充する敵も出てくるだろう。これに対しては、筈が発射時に外れるタイプの矢、つまり、弦に筈が固定されている仕組みにしておけばよい。すぐに相手がこちらの矢を使用するということはできなくなる。もっとも、相手も同様の仕組みの弓を使うようになれば、話は元に戻ってしまう。筈のついた矢でも、筈がついていない矢でも両方発射可能だからだ。
 相手との距離がどのぐらいの時にどういう能力の射手を用いて、どのような攻撃をするかという問題は兵を用いる上で大きな問題だろう。強い弓を引けるが的中率の悪い射手、あまり強くない弓を引くが的中率はそこそこの射手、弱い弓しか引けないが器用に命中させる射手。いろいろいる射手をどう使うかで勝負が決まるかもしれないのだ。
 近距離では、別の問題がある。より正確に狙撃しないと、味方に命中することになる。この近距離は、通常28メートルだろうと思う。弓道場の的までの距離は全国共通で28メートルに決められているというのが根拠だ。射損じても、急げば二の矢を発射できる距離ではないかと想像する。至近距離では二の矢を射る暇はないからだ。刀しか持たない相手がダッシュで距離を詰めてきたときに、二の矢で対応できる距離が経験的に28メートルなのだろう。
 弓を持った相手に対して距離を詰める場合には、最短距離を行けば相手に二の矢を発射させる暇を与えないですむかもしれないが、狙い撃ちされやすい。そこで、相手の準備の様子を見ながら、最短距離を全速力で進むのだが、矢を番え終わったら注意し、弓を引き絞る寸前に進行方向に向かって左へ進路変更しながら突き進むのがよいだろう。弓手が緩んで命中率が下がり、さらに矢を押し込む親指の付け根の力も効きにくいので、命中しても貫通力が弱まる。防具がなければ命も危ないが、ただおとなしく狙撃されるよりは活路を見いだせる。どうにも逃げられない場合はこうすべきだろう。
 ただし、この動きに合わせて射手が上手く膝を折りながら上半身の左右の均衡を崩さずに下半身で対応できる能力を身につけていた場合、つまり、「実戦」のレベルにおいて熟達していれば、折角の突撃も無駄な抵抗となってしま。
 狙撃するといっても、多くの敵がいれば誰かに命中するものだ。だから、じっとしているたった一人の敵、つまり、直径一尺二寸の的だから伏せた人間を前から見た大きさを想定した近的の稽古ばかりをして憂鬱になるのは好ましくないように思う。道場を出て、「実戦」的な狩りをするべきだ。何匹かいる獲物の内のどれかに命中する可能性がある。笑い話には、動物の方も弓が下手な者に狙われた方が怖いとある。どっちへ逃げていいか分からないからだ。ただし、自分のレベルを知らないと、トレーニングとはいえ動物によっては怪我をする。
 さて、戦で人を殺せば武功となるが、太平の世で人を殺しては死罪だ。しかし、人を殺す技術を伝承しなければ武家ではない。「競技」で技に磨きをかけたり、たしなみとして「演武」に深い味が出せるように心がけたり、「護身術」への応用を通して、女性や子どもに武技を教え、武術の文化を維持することに努めねばならない。隠居してからは、武技の中でも全身運動となるものを意識的に取り入れた体力維持のための「体操」を日常生活に組み込んでいた可能性も高い。
 特に弓術の場合は、弓を引いて矢を放つまでの過程で第11胸椎を中心とする内蔵関係の神経を適度に刺激することになるので、内臓の健康、内臓の若さを維持する効果があるという記事を読んだことがある。
 激しい運動よりも長続きする運動であるとともに、普段使わない身体の裏側の筋肉を強化することになり、姿勢を正しく保つ効果があるので、老齢者向きの「体操」としては優れているかもしれない。また、呼吸と動作の関係が緩やかで、その連係が大枠の技を組み立てていることも重要だ。平常心を保ちつつ全身の精妙なコントロールを実現することなくして正しい的中はあり得ないことも、静的な力強さを養うことになり、健康維持に効果があると思う。
 ところで、弓矢による集団戦を考えれば、「一方向からの遠距離射撃をした方がよい場合」「十字砲火のように角度を変えて最低二方向からの遠距離射撃をした方がよい場合」「敵の散開を促すような遠距離射撃をした後、伏せておいた狙撃上手の射手たちによる中距離、近距離からの狙撃をした方がよい場合」等々、地形や敵の陣形や装備などを考慮していろいろの作戦が立てられそうだ。どのような訓練にしろ、弓による集団戦の訓練はかなり広い土地が必要になりそうだ。
 剣術について言えば、戦では弓が強力で主力な武器となるのに対し、弓折れ、矢尽きた後、要は白兵戦の武技だ。集団戦での弓や鉄砲などのような飛び道具よりも、肉体的にも精神的にも訓練が必要だ。「実戦」は、現代剣道のようにはいかない。
 「競技」である現代剣道は、平らな板の上、屋根のある狭い空間で、時間制限のある、一対一の三本勝負、防具に身を固め、ルールに守られて死ぬことはなく、審判がいて、逃げてはならない。「実戦」では、凹凸のある土や砂の上、屋根のない広い空間で、時間制限がなく、敵も味方も大勢の一本勝負で、死に至り、審判はおらず、ルールがないから逃げてもよいのだ。ここまで条件は正反対だが、安易に比べてはならない。しかし、訓練方法は異なるだろうと容易に推測できる。
 「護身術」に剣術がなじまないのは、武器が日本刀だからだ。しかし、柄を使うような剣術の裏技については「護身術」に応用できるものがないわけではない。「体操」としては素振りをしている人も多いだろう。
 剣術といっても現代剣道は反りのない竹刀なので、反りを利用した攻撃は本来なく、それを模倣した技は不自然なものとなる。薙刀の試合で用いるような反りのある刃を模したものを剣道でも取り入れると、剣術に近いものになるかもしれない。これは「実戦」的な「競技」を実現する手段の一つだろう。
 真剣を使った訓練といえば、現代では居合術に限られる。もちろん剣道形で真剣を用いて行うこともあろうが、実際には刃と刃が接触して傷つくことを嫌って模擬刀が使用されることが多いように思う。居合術ばかりが真剣を使うのは、反りのある日本刀をいかに効果的に抜いて、素早く力強く斬ることの訓練を行うからだと思う。竹刀では抜く意味がないのだ。抜いてからどう攻めるかというのが現代剣道で、抜いたとき、あるいは抜く途中で勝負が付いているのが居合術だ。しかし、本来の剣術は、その両方を含んでいるはずだ。
 竹刀と日本刀では、武器が違うのだからトレーニングの方法も異なる。打つのと斬るのとでは動作が異なるから当然だ。竹刀は絶対に肉体に食い込んだり、切り落としたりしないが、日本刀は肉体に食い込んだり、切り落としたりする。だから、攻撃したあとの手足の動きから違ってくる。「競技」や「演武」としてはこの違いを意識しなければ、不都合が起こるが、「体操」としては問題ない。体が動いて血行がよくなればよいのだ。
 薙刀や槍や杖についても同様に述べていけばよいのだが、最も訓練が手軽にできるのは、管理がたやすい杖だ。この杖術の「実戦」的な「競技」が研究されれば、現在は形武道である杖術も新しい時代を迎えることになるだろう。

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29-03-2008

心の断片123「小さな自分」

「小さな自分」

意味の洪水に溺れている
本当は何もないのに
意味を創って苦しんでいる
愚かだけれど
誰も他人を笑えない
意味がないとなぜか不安で
悲しいけれど
自分を表現できない
多くの人に知ってもらうと安心で
一生懸命に宣伝し
意味が伝わると
なぜか価値が生まれたように感じてしまう
愚かだけれど
誰も他人を笑えない
静かに自分を卑下することで
なぜか解脱したように感じてしまう
悲しいけれど
誰も他人を笑えない


心の断片122「抗い」

「抗い」

恐ろしや
砂の流れて光りたる
恐ろしや
虫のそぼ濡れ光りたる

一日はいつも朝から始まり
全てが絶え間なく滅びていく





23-03-2008

恐怖シリーズ105「鵜呑み」

 インターネットを通じて入手できる情報は所詮は人間が入力したものだ。だから、入力ミスがあって当然だ。内容の適不適も切実だ。特に、忙しい社会人や批判力の乏しい学生は鵜呑みにしてしまうおそれがあるから、みんなで修正し合うという姿勢が必要だ。
 日常会話ならば、すぐに問いただして確認することができるが、ホームページではなかなかそうはいかない。良心的なホームページならば、何をどう修正したかなどの具体的な更新履歴や、問い合わせ用のメールアドレスが記載されている。こうした配慮があれば、情報のやりとりが実現し、入力ミスを正しく直せたり、言葉足らずを修正できたり、記述内容を改めたりすることができるので、情報をネット上に置けば置くほど、よりよい資料になっていく。
 これまでさまざまな分野のホームページを閲覧し、入力ミスであることが明らかな比較的無害な入力ミスや、入力ミスであることに気づきにくいために誤解を生じるおそれのある入力ミス、明らかに内容が間違っている文章、内容が間違っていることに気づかれにくいために不都合が生じるおそれがある文章などを指摘してきたが、そうした不具合はなくなることはない。自分も含めて自分自身のミスは気づきにくいものだから、不具合をなくすこと自体は仕方ないとあきらめるしかない。つまり、ひたすらみんなで不都合をなくしていくように努力し続けるしかないということだ。
 困ったことには、ホームページの多くはメールアドレスを記載していないので、問い合わせや指摘をすることができない。しかし、メールができるホームページならば、2、3日以内に返信があり、誤解を解くべく、細かな説明をしてくれたり、こちらの指摘が不適切であることを説明してくれたりする。もちろん、こちらの指摘が正しいときには、お礼の言葉も添えられている。ホームページにしても書籍にしても、遅くとも一週間以内の対応が普通だ。
 しかし、これまでに二つの例外がある。梨の礫というやつだ。一つは、最近の話だ。古田史学の会が古事記の神武東侵の段の久米歌を紹介した部分の不具合だ。末尾に、誤植等はすぐに連絡してくれれば訂正するという事が書かれていたので、メールを出したのだが、何の音沙汰もなく、既に6週間ほど経とうとしている。メールチェックは毎日しなくてはいけないなと自分も反省した。
 僕は内容の不適切な部分などを指摘する能力などはあまりない。しかし、誤植の指摘なら協力することができそうだ。こちらが指摘したとおりに間違いであれば、一刻も早く訂正作業をしていただきたい。
 因みに、神武東侵をテーマとするホームページに紹介されている久米歌が該当する部分だ。漢字仮名交じり文と英訳文とともに次のような平仮名表記の記述がなされている。
「うだの たかぎに しぎなわ はる わが まつや しぎは さわらず いすくはし くぢら さわる こなみが なこはさば たちそばの みの なけくを をこきしひゑね うはなりが なこはさば いちさかきの おおけくを こきだひゑね ええ しやごしや こはいのごふぞ。ああ しやごしや こは あざわらふぞ。」
この中に間違いが少なくとも二箇所はある。もちろん、僕の誤解かもしれない。また、こういうテキストが実際にあり、それを採用しているのかもしれない。
 しかし、素人目に見ても、「なけくを をこきしひゑね」というのは誤りで、正しくは「なけくを こきしひゑね」だろう。これは「を」が余分だ。また、「いちさかきの おおけくを」も誤りで、正しくは「いちさかき みのおおけくを」だろう。これは「み」が脱落している。歌は一言一句が大事だという意識がなさすぎる。意味が全く変わることもあれば、逆の意味になる場合もある。一つの歌に、このように一見して分かるレベルの誤りが二つもあってよいのだろうか。
 英訳部分にも疑問がある。「そば」は「soba」なのに、「いちさかき」の「さかき」の部分が「sasaki」なのはどうしてなのかということだ。英語では「さかき」は「sasaki」だということなのだろうか。それとも英語ではなく、「さかき」を「さかき」とローマ字で書こうとして「ささき」と間違えたのだろうか。それとも外国人の作成した別資料から転載したものなので、掲載した本人は間違えてはいないということで責任はないということなのだろうか。しかし、別資料からの転載であれば、出典が示されているはずだ。しかし、それはない。もし、示し忘れているとしても、転載責任はあろうというものだ。もちろん、単に僕の勉強不足で、このままでよいのかもしれない。
 そもそも出典が記載されていないので、勉強しようにも確認をとることすらできない。英訳を載せるのは悪くはないが、漢字表記と平仮名表記と漢字仮名交じり表記がそろっていないのは腑に落ちない。誰が訳したのかも不明だ。少なくとも、古事記なのだからもともとの漢字表記は外してはならないと思うのだが、どうだろう。
 また、専門家なら一見して分かる出典も、普通の人ではわからないのだから、資料末尾に記載していただけるとありがたい。もしかすると、出典となったテキスト自体に間違いがあるかもしれないのだ。内容すら適切ではない場合もあるから要注意だ。
 しかし、忙しい現代人にとっては批判読みなど至難の業だ。研究者によるホームページは、僕たちから見れば信頼度が高く、より無批判に読むことになる。この無批判に読むということの恐ろしさは最上級の恐怖だ。
 ところで、この久米歌は「いちさかき」の用例を調べていてたどりついたものなので、この歌以外の部分は一切目を通していない。従って、他の記述に不具合があるかどうかは残念ながら全く分からない。
 もう一つの梨の礫は、これまで何度も掲げたが、広辞苑についての不具合に対する手紙だ。第三版の「ヘパリン」の説明が全く逆であるという指摘を二十数年前に文書で提出したが、出版社は全く無視し続けた。第四版でやっと修正したものの、膨大な不適切な説明がある。
 しかし、自分でも曖昧な部分があり、「かもしれない」という言い方になることが多いのが難点だ。そこで、ネット上で「怪しい広辞苑」として見つける度に紹介し、適不適を判断してもらえるようにした。これは、日本人や日本語を学ぶ外国人のために役立つことであり、広辞苑をよりよい辞書にしていくことにつながる努力だ。辞書の内容については最初から無批判になりやすいから、心して見守っていかなければならない。
 しかし、辞書というものは、字が小さくて閉口する。やはり電子辞書を購入し、大きな字で見なくてはいけないのだろうと思う。字が大きければ誤りも見つかりやすいというものだ。
 とにかく表記に誤りが多ければ、内容も怪しいと受け取られても仕方ない。このようなことは、どうしても辞書のイメージダウンに直接つながるので、是非とも避けてほしい。まず、一つ二つ間違いが見つかったぐらいで、「みんなで作り上げていく広辞苑」などと出版社自身が口にするのは慎むことだ。そのように言うのは、実際の広辞苑はそんな呑気なことを言っている状況にはないという自覚を持ち始めたからかもしれないが、うたい文句の文字どおり、専門家によるチェックと書き直しをすることが最優先だ。
14-03-2008

突然思い出したこと105「切腹」

 切腹は孤独だ。しかし、相棒がいないわけではない。介錯人だ。介錯人は切腹をする者から見て、左手に座る。切腹する者に刃を見せないように抜いて立ち上がり、さとられず大きく振りかぶって右足から大きく踏み出しながら頸を切るのが作法だ。この介錯の仕方を突然思い出した。
 僕はこれを何度も稽古した。稽古しているうちに、果たしてこの一太刀で安楽死させることができるのかと不安になったものだ。また、柄に手をかけたとき、こちらを振り向いたらどうしよう、首を落としたとき、その首がくるんと回ってこちらを向いたらどうしよう、何かの間違いで血を吹き出しながら胴がこちらを向いたらどうしよう、そもそも切腹する現代人などどこにもいないのに、どうして介錯の稽古が必要なのかなどと、さまざまなことについていろいろに思った。
 キーワードは安楽死だ。自分で腹を割くのだから相当の苦痛だ。腹を十字に切り裂き、心臓を突き、頸動脈を斬るという一連の動きを、誰もが何のためらいもなく完遂できるものではない。なまじ途中でくじけたら悲惨な最期を迎えることになる。どうしても介錯が必要になる。切腹する者はこの介錯人には絶対の信頼をおきたい。
 しかし、介錯人にもピンからキリまである。介錯については素人の武士が臨時で介錯を務める場合もあろう。プロならばよいが、武士とはいえ介錯の素人では失敗もありえよう。
 また、意地悪な介錯人が首ならぬ手首を切り落として切腹を途中で中断させ、随分と苦しませるということがあるかもしれない。強い恨みを持った者が、いつか切腹するときに恨みを晴らそうと、ながらく介錯人として待ちかまえているというのは可能性としてゼロではない。その滅多にないケースに当てはまった者には安楽死は訪れない。これが発覚すれば介錯人も死罪になるかもしれないが、それは当然覚悟のうえのことだから問題はない。
  介錯について、このように考えていくにつれ、相手に不安を与えないこと、相手の信頼を裏切らないこと、不測の事態が起こっても沈着冷静に判断し、直ちに目的を遂行すること、相手に感謝されること、真摯な態度で人に接し、無心になって奉仕することなどの大切さが理解されてきた。
 つまり、相手を最大限に尊敬し、尊重する気持ちをもって接することの大切さを深く感じるようになっていった。これが、無防備の人間を殺す練習を繰り返しながら思ったことだ。明日は我が身かもしれないという想像力を土台に持つ謙虚な気持ちもあわせて感じることができる。だから、相手を尊敬し、尊重するといっても、媚びたり、調子のよいことばを並べるわけではない。これこそ民主主義の根底にある感覚ではなかったかと思うのだ。
 さて、命のやりとりという生物の基本的な営みの形から大きくかけ離れた「切腹と介錯」という特殊な状況を想定し、それを直視することで、僕たちは人間についていったいどれだけのことを学ぶことができるのだろう。特殊な状況であればあるほど、さまざまなテーマの典型が分かりやすい形で表面化しているはずだ。

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13-03-2008

心の断片121「噴飯ものの集団」

「噴飯ものの集団」

どこから見てもまやかしの
どうにも薄ぺら人間だ
薄ぺらどうしが集まれば
それはそれで厚くなる
自覚症状なしの
いかにも救われぬ集団だ

どこから見てもまやかしの
どうにも薄ぺら人間だ
世界を創って正当化
自分が基準の幸せな
加害者意識ゼロの
鼻つまみ者の集団だ

どこから見てもまやかしの
どうにも薄ぺら人間だ
逆さにしても何も出ない
化け皮だけの存在だ
貧しい情報に包まれた
実におめでたい無防備な集団だ

08-03-2008

心の断片120「ひとりになると」

「ひとりになると」

新築の真白き壁に古机
ブラインドからこぼれる西日と若い声
時ならぬ年中行事に人だけが移りかわる
この違和感を楽しめないのはなぜだろう

永遠無限に目覚めることのない
視野狭窄の美しい魂
己の殻にくるまり 殻と化し
空っぽの一大事を抱えているのはなぜだろう

06-03-2008

心の断片119「小部屋」

「小部屋」

新しい悲しみ
語れぬ思い
今日も小さな頭で
事を運び
いつの間にか
明日を迎えている
大志と行動の隙間を埋める
いくつもの砂粒のような歯車は
まだ僕には難しい
組み合わせのパズル
机の角に指を当て
壁掛け時計を幾度振り向けばよいのだ
04-03-2008

突然思い出したこと104「名誉と礼儀」

 武士の行動原理は、相手を倒し、自分が倒されないことに徹することだ。
 殺伐としているかもしれないが、それが殺人マシーンとしての武士の真の姿であるはずだ。家の名誉を重んじるとか、礼儀を重んじるとか、そんな些末なことを口にすればするほど、武士が武士らしくなくなってくる。
 家の名誉を重んじるのは、実際には手柄を追求するがあまり、無理をして死んでしまうことが多く、なかなか武功を立てるのが難しいということが理由だろう。自分ではなく、先祖の武勲を口にするしか自慢することがないというわけだ。
 また、平和な世の中になって武功を立てる機会自体がなくなってしまったという実情があるからだろう。そうなれば、家柄やどこそこの戦で手柄を立てた誰それの子孫などというような評価がまかり通るようになってくるというわけだ。
 礼儀を重んじるのは、組織の中で目を付けられないための保身術であり、武器を持っている者同士が怪我をせずに生き延びるための知恵であるとしか思われない。
 このように感じるということは悲しいことだろうか。
02-03-2008

日々雑感222「お祝い」

 お祝いに花束をあげるのはどうしてだろう。喜ばれるからか。確かに喜ばれるだろう。
 しかし、お祝いにはもっと別のものをもらえるのがありがたい。お祝いをされた後には、決まって困難な道が待っているからだ。だからこそ、がんばってねとお祝いするのだ。がんばったねでもよいが、本来はこれからのことを心配してもらうのだろう。祝うというのはそういう心配をしてあげる気持ち、つまり将来の無事や発展を祈る気持ちのことだったはずだ。
 だから、その困難を乗り越えるのに役立つものをあげるのが理にかなっていると思うのだ。お祝い金というのは、そういう意味では直接に役に立つものだから喜ばれる。もちろん、直接役に立つものだけでは不十分だ。長期間にわたって効果を持ち続ける「ことば」が大切だ。それは、記憶される性質もっているからだ。金品が、失われたり、壊れたりしていくのに対し、ことばは頭の中に刻み込まれたまま常に同じ輝きと力を持って働くのだ。
 「花」と「ことば」と「金品」がお祝いの必須アイテムということになるが、それには順位性があるということになる。「ことば」「金品」「花」という順番だ。「こころ」「もの」「かざり」ということだ。まず第一に「現実的な祝うこころ」、そして次に「祝う心を託したもの」、最後に「心を癒やし、体裁を整えるかざり」がくる。
 だから、花だけでは困るのだ。うれしいけれど、祝ってもらっている感じはしない。別に花でなくてもよかったんではないかと思うのだ。また、金品だけでも困るのだ。うれしいけれど、義理を果たされただけに感じられたり、現実的すぎて重荷に思われたりするのだ。ことばだけというのは困ることはない。それは、祝うということそのものだからだろう。