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    4/30/2007

    日々雑感182「責任の分割」

     安物のシステムをあわてて導入すると、愚かな結果を招くことが多い。十分(充分のこと)検討して仕様を決めなくてはいけないし、導入前には仮に稼働して問題を解決しておかないといけない。いつからどういうチームでどれだけ時間をかけてどんなことを検討してきたか具体物を明らかに示す必要もあるだろう。
     市販のソフトをパソコンに入れる感覚で導入すると、非常に迷惑な話になるということだ。クレームをつけてもそれに応える技術がなければ悲惨なことになりかねない。たとえ十分(充分のこと)準備をしても最初はうまくいかないのだ。
     まさかパンフレットや業者の簡単な営業トークだけを比較して決めるわけにもいかない。車を選ぶのとは訳が違うのだ。ましてや「仕様書を示して入札」などという高いリスクを覚悟で導入する無謀な行為は許されるはずもない。
     しかし、こうしたことは意外と起こるのだ。そのとき、責任をとるべき者は既に違う部署に行ってしまっているに違いない。実に便利な仕組みだ。責任の分割という古典的な手口だ。手口がある以上、問題は起こり続ける。

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    変な疑問60「親の本能」


     このスペースは、このまま使えなくなるかと思ったが、自動的に復帰した。どうして突然使えなくなるのだろうか。表スペースは途切れることなく使えているのに、この裏スペースはこれまで3度使えなくなっている。しかも使えない状態が何日も続く。バックアップは取るようにしているものの、少し不安になる。
     やはりこれまで書いてきたものを編集しよう。できるだけ誤りがなく、矛盾の少ない文章にして、まとめるようにしよう。そこから派生する思いつきも記録していき、網の目のようにつながりを持たせよう。
     どうしてこのような徒労とも思われることをしようとするか。それはぼけ防止ということもあるけれど、来年の4月23日、本の日に2冊限定で装丁し、子どもに渡そうと思っているからだ。そもそもうがった見方で書いた文章だから、偏りがある。批判力のある年齢でないと渡せない。ちょうどよい頃合いだ。
     しかし、自分の子ども用に編集するとなると、大編集だ。今53万文字だから、40万文字ぐらいに引き締めなくては読んでもらえないだろう。しかも、イラストを入れたり写真を入れたりしなくてはいけない。その上、内容も言葉遣いも手を加えなくてはいけない。こうなると、原形をとどめないほどに偏りがなくなってしまう。しかし、それでは面白くない。親というのはたいへんなものだ。まず装丁用の紙や布などの素材を集めなくてはいけない。
     遺伝子だけでは渡せなかったものを意味があるなしにかかわらずとにもかくにも渡そうとする。これも本能なのだろうか。
    4/22/2007

    日々雑感181「消費者はわがままなものだ」


     宮崎県知事と定例記者会見の場にいた記者のやりとりをテレビで見て、ジャーナリズムの失墜があるとすれば、彼ら記者たちの意識が発端になるのだろうと確信した。もちろん編集されているものを視聴しているのだから、その限りではだ。
     記者たちの発言は、記者自身があとで聞いてみるとよいのではないだろうか。いったいいつの時代のジャーナリスト(?)なのだろう。彼らの宮崎県知事に対する発言の土台となっている意識は小さな子どもたちにも伝わってしまった。
     おそらく彼らが進化しないのは、自分たち発言が世にさらされることがなかったからであろう。世間の目の洗礼を受けないという不幸が彼らの存在を醜いものとして決定的に印象づけてしまった。このことにすら気づかないとは思うが。
     東国原知事というのは実にうまい。長年芸能界でもまれていただけのことはある。計算づくで記者たちの本性を世に知らしめた。しかも、彼らの手法をそのまま使ってだ。記者というのはまだそうした手練手管に慣れていないせいで実に無防備に素顔をさらしてしまった。滑稽だ。
     今後は間接的にコントロールされていくだろう。批判告発する側から逆の立場に立たされたときの挫折感を自分でごまかすためには、愚劣なすり替えと、無責任な隠遁しか道が残されていない。
     立場でものを言えているだけなのに、いつの間にか正義の実践者、民主主義の守り神であるかのように自分を勘違いしてしまうのだ。結局、宮崎県でも同じだったということだ。もう少し、さらされているということに気づいた方がよいだろう。しかし、意識改革を進めてもらうにあたっては、暫くは気づいていただかない方が都合がよいとも言える。
     さて、この件についての各新聞社のとりあげ方がまた面白い。典型的な断章取義だ。これを言うと紙面の関係等でとか要点を的確に伝えるためとか言い訳をするのが常套手段だ。何を報道し、何を報道しないかは編集する側の委ねられているということを明確に示している。これは宮崎県知事の定例記者会見で記者自体が述べていることだ。
     宮崎県知事が定例記者会見に対して否定的な意見を「まくしたてた」と表現している各社のネット記事にある。しかし、まくし立てているという印象はほとんどなく、どちらかといえば宮崎県知事に対して「稚拙な質問」だと言っている記者の方がまくし立てている印象だったのだが、それがすり替えられてしまっている。また、知事の定例記者会見を毎日している山形県の例を挙げている。おそらくそのことが逆効果をまねくということには言われても気づかないだろう。まあ、かろうじて一年生記者ならわかるだろう。
     新聞にも何とか教授の談話などとして、定例記者会見は必要だと載せている。記者会見のビデオなり何なりを見ての発言とは思えないコメントもある。その大学の権威を落とすようなコメントがなされたら、掲載するのを控えるのが新聞社の良心というものだろう。
     昔からだったがまだそうなのかという悲しい気持ちになる。しっかりしてほしい。まず、記者はいろいろな世界の人とつきあうことから始めよう。もちろん記者としてつきあうなら意味がない。
     報道機関に所属しているということに何か特別な名誉みたいなものを感じていたり、普通ならあり得ないのだけれど、何年か経つと芽生えてくるある種の特権意識を後生大事にもっていたり、社会正義を守るためという神聖で知的で世の中のためになる世界にいるという意識をもっていたりすると、足をすくわれてまた過去の過ちを繰り返すことになる。自分が所属するものに対する批判力が弱まるからだ。
     記者の発言が恥ずかしいのは、批判の仕方が小中学生レベルだからだ。もちろん用語だけは小中学生ではないけれど。創造的批判の姿勢がかけらもないことは仕方ないが、相手の神経を逆なでする言葉を選んでいるのが稚拙な手法だった。
     普段ならもっと知的な発言をするのだろうが、定例記者会見を否定する気持ちはないという知事の発言に上手に話を続けられなかった。これが日本の記者のレベルだと思われたら困る。外国には報道しない方がいいかもしれない。日本のレベルが全てにおいて低いと見られると、いろいろな面で足もとを見られるようになるからだ。これ以上は困る。
     報道するかしないか、あるいはどこまで報道するか、そしてどのように報道するか、そしていつまで報道するかはメディアが決めるそうだから、その姿勢が観察できる絶好の機会だ。
     それはともかく、処方箋としていちばんいいのは、研修ではなく、本番として記者がまずカメラを向けられることだ。そして、質問を受ける機会を設けることだ。そうしないと本当の追及などできるはずがない。決まり文句で責めることしかできないレベルから早く脱却しよう。まず、記者会見を文字どおり側面から映すのがよい。知事と記者たちの横顔が同時に映るようにだ。まさか記者会見自体を側面から報道するのを規制しはしないだろう。これが拒まれるならたいへん面白い。
     宮崎県は県民の目を覆うジャーナリズムを変革するモデル地区として存在し続けるのがよい。もっとも東国原知事が任期を終えたら元の木阿弥だろうけれど。それでも県民の気持ちを逆なでし、愚弄した記者たちの責任は重い。もしかすると記者も選挙で選ばれるべきなのかもしれない。従来の選挙だとお金がかかるので、別のやり方、例えば一般人が記者の資質を評価するような制度の導入だ。
     ジャーナリズムが貧弱だといろいろな社会問題が拡大したり、隠蔽されたりする。ダイオキシン報道しかり、アスベスト報道しかり。新しい考えを導入しないとどんな組織でもそうだが衰弱していく。記者の発言に垣間見る大きな問題点をみんなで話し合った方がよい。
     記者にはどこかに単に記す者という負い目がある。窮すればやらせもする。著作権をないがしろにする場合もある。直接行動する立場にないから、書くか書かないかで勝負する。書く内容でどれだけ勝負することができるかが問題だが、個人で発行する新聞ではないから限度がある。そうなると、世間受けする批判に流れやすい。これなら誰でも書ける。
     記者でなければ書けない記事を書いてほしい。僕たちが普通には読まない難しい本も読んだり、記者ならでは経験しえない体験も積んだりして、偏らないような勉強をしてほしい。しかし、偏らないと特徴は出ないかもしれないので、別の問題が生じるかもしれない。ただし、ネタ本がすぐにわかってしまうようでは一般人の僕たちとしては格調に欠けるという感覚を持ってしまうので、何とか企業全体として努力してほしい。個人的にはそういうところに購読料を払っていたいのだ。消費者とは実にわがままなものだ。

    4/21/2007

    日々雑感180「機能低下」

     最近、頭の働きが悪くなっている。記憶力は、ほぼゼロに近い。負け惜しみかもしれないが、記録の習慣が身についてきた。
     理解力は、上手な説明なら瞬時に理解できるが、下手な説明だと理解できなくなっていた。しかし、逆にコミュニケーション力がついてきた。とは言っても単に質問するようになったというだけのことだけれど。
     表現力については、言語表現のパターン化と幼稚化が進んでいる。これは、自分のスタイルを獲得しつつあるのだと苦し紛れに考えるようにした。
     悲しいことに、思考力は、かなり衰えてきた。ほぼ静止状態ではないか。これも性急さがなくなったということにしておこう。
     創造力も同様だ。貧弱になっている。もう新しいものを享受するばかりだ。そのかわり、選択眼が鋭くなってきたような気がする。
     人間というのは年齢によってこのように変化していくから、結果として個々の能力にバリエーションが生まれやすい。これは生物としてかなり有利なことかもしれない。人をさまざまに組み合わせることによって、集団にいろいろな機能を持たせることができる。これによって対応の幅の広さを確保できる。長生きをする生き物ならではの特典だろう。 
     このように考えると、頭の働きが悪くなっていくのもよいのかもしれない。きっと別の力が補償されてくる。体が動かなくなっても言葉がある。植物人間になっても、周りの人々を結びつける要となる。開き直りと言われるかもしれないが、そのことによって客観視できるので、新たなものを手にすることができるという利点がある。
     さて、命がなくなったらどうなるのだろう。命がなくなったら無になるのではなく、たぶん全てになるのだろうなあ。

    4/20/2007

    日々雑感179「出会わせる」

    何でも組み合わせると、新しい感覚のものができあがる。単純な発想法だ。しかし、よく考えてみると、いくつかのパターンがありそうだ。
     「香水+消しゴム」「カメラ+電話」「ピンセット+ハエたたき」「スキャナー+プリンター+コピー」「鉢巻き+懐中電灯」のように、単純に接合した形。十徳ナイフのようなものだ。これを「組み合わせの連結型」と呼ぶことにしよう。ときどき所謂街の発明家がテレビで紹介されたときに見せる代物だ。弱点は、多機能を追求すれば追求するほど大がかりなものになり、取り回しが不便になってしまうことだ。これを解消するための小型化の技術には目を見張るものがある。
     「二階建ての家+乗り合いバス」「折りたたみ地図+太陽電池パネル」「扇風機+ハロゲンランプ」「ブック+ゲーム」のように、融合した形。あるものが別のあるものの形や性質を真似たり、取り入れたりして新しいものができるということだ。これはそのまま「組み合わせの融合型」と呼ぼう。
     「馬車-馬+発動機」「灯火-炎+フィラメント」「日本刀-刀身+竹」「懐炉-懐炉灰+鉄粉等」「作業-筋肉+モーター」「料理-肉+野菜」「殺虫剤スプレー-殺虫剤+サラダオイル」のように、一部分を他のものに置き換えて組み合わせた形。これを「組み合わせの置換型」と呼ぼう。これは単に置き換えればいい場合もあるけれど、ほとんどの場合は置き換えるものを新しく開発しなければならない。これはたいへんなことだ。
     最後に、組み合わせによって、この世になかった全く新しい考え方に基づくものが創造された形。こうしたものもあるはずだ。これを「組み合わせの創造型」と呼ぼう。さて、これにはどのようなものがあるだろうか。
     さて、いずれにしてもひらめきと知恵と努力がなければ、これらは実現できない絵に描いた餅だ。ひらめいても実現するのは至難の業だ。ましてやそれを商売にして、しかも成功させるとなると、並大抵のことではない。チャレンジした方々には本当に頭の下がる思いがする。
     まずは、物と物、物と者、者と者を組んで、出会わせることだ。結果はどうあれ、何かが変わることは確かだ。
    4/16/2007

    日々雑感178「幸・不幸」

    この世で得られる刺激にたいしたものはない。すぐに慣れてしまうから、なおさらだ。
     何が刺激的か聞いてみると、ろくな答えは返ってこない。ほとんど無意味なものばかりだ。世の中で認められていない刺激も同様だ。慣れてしまえば何でもない。
     だからといって、虚無的になっているわけではない。面白いとは思っても、すごいとは思えなくなっているだけだ。面白いとは思うのだから、感覚が鈍磨しているわけではない。だから、救いの道も少しは残されている。
     どこからが刺激になるのか。どこからが破滅になるのか。そんなことを考えているようでは、目が内側だけを向いているみっともない妖怪になってしまう。
     人間の幸せは人間として生きることだ。ああだこうだと言いながら、人間らしく不幸になるもよし、人間らしく幸福になるもよし。どちらにしてもよいことにはかわりない。
    4/15/2007

    怪しい広辞苑106「第四版130ページ・石車」

     どうなのだろうか。第四版130ページ「石車」の説明。
     「大石を運ぶ車で、重量に堪えさせるため車体を低くし、四輪としたもの。修羅(しゅら)。」とあるが、ここは「修羅」を「修羅車」とした方がよいだろう。修羅といえばそり状の運搬用具であることが一般に広まっている上に、広辞苑第四版の「修羅」の説明でも、『大石や木材などをのせて運ぶ、そり状の道具。「-船」「-車」』 とある。
     そり状のものも、車タイプも両方まとめて修羅というのだけれども、第四版の説明の仕方でいくと、「石車」の方の説明では、「修羅」とするよりも、「修羅車」としておいた方がよさそうだ。そうでないと、「四輪タイプのものが修羅である」というとらえ方になってしまうからだ。 ここで「修羅車」としておけば、「修羅」を調べた利用者が混乱することもなくなるだだろう。
     学習者の混沌としたイメージをさわやかにするのが辞書の役目だから、広辞苑第六版ではそのようにしていくとよい。小さなことのようだけれど、まずは小さなことが大事なことだ。小事も文字どおり大事につながっているからだ。

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    怪しい広辞苑105「第四版130ページ・石川郎女」

     例によって不統一のように見える不親切。第四版130ページ「石川郎女」の説明の5行目。
     「日並皇子(ひなみしのみこ)が歌を贈った」とあるが、同じく広辞苑第四版723ページの「草壁皇子」を見出し語とする説明では、「日並知皇子(ひなめしのみこ)ともいう。」とある。
     「日並皇子」と「日並知皇子」、「ひなみし」と「ひなめし」。二箇所で不統一がある。「日並皇子」は万葉集ふうで、「日並知皇子」は日本書紀ふうだ。発音についてはよくわからない。表記の異同によって、読み慣わし方もかわるのかもしれない。
     そもそも一般人にとって一般的な「草壁皇子」という呼び名を無視して「日並・・・・・・」とだけするのはどうか。辞書としては改善してほしいところだ。辞書は一般人のレベルに一度降りて、後に一歩高みに導くものでなくてはいけないと思うからだ。
     万葉集では「日並皇子」と表記しているのだから、やはりこの「石川郎女」を見出し語とする説明の中では「日並皇子」とすべきだろう。そして、「草壁皇子」という人物の説明の方は正史とされる日本書紀に載っている「日並知皇子」という呼び方を示すべきだろう。ただし、このままでは利用者に対して不親切となる。ここで払われるべき親切というものに利用者はお金を払っていると編集者は考えてほしい。辞書を利用しようとした時点で、この親切を必要としているレベルに僕たちはあるということを知ってほしいのだ。
     「石川郎女」の説明では「日並皇子(ひなみしのみこ)(草壁皇子)が歌を贈った。」と「(草壁皇子)」を加えておいてもらいたいのだが、できぬ相談だろうか。学校で「草壁皇子」は習っても、「日並皇子」は習わないからだ。同様に、「草壁皇子」の説明でもなにがしかの工夫をするのがよいだろう。
     さて、「日並皇子」でも「日並知皇子」でも「草壁皇子」でも、僕たちにはそんなことは本来どうでもよいことだ。しかし、それぞれ書物によって呼び方が違うのは、彼をどうとらえているかという執筆者の姿勢が異なるからだ。その姿勢の違いを誰かがどこかで明確にしなければいけない。
     とらえ方の違いというのは、考え方の違いということだ。考え方の違いは行動の違いに直結していく。こうなると、いつかはどうでもよいことではなくなっていく可能性が高い。もしかするとゆゆしきことに既になっているのかもしれない。
    4/14/2007

    怪しい広辞苑104「第四版130ページ・石川啄木」

     これは仕方ないことなのか。第四版130ページ「石川啄木」の見出し語。
     「石川啄木」の「啄」は「啄」に中央部分に一画を施してなければならない。一般的な活字の中にないから仕方ないのかもしれない。しかし、このままでは間違った名前になってしまう。もちろんペンネームだが、姓名判断でも画数が一つ違えば全く違った結果が出る。
     それはともかく、いろいろな意味で名の知れた、そして教科書に載る人物である以上は、新たに活字を起こして、正しく表記するのが出版社に求められる当然の企業努力なのではないかと思う。
     ペンネームというのは作家にとってはそれ相当の重みがあるのだ。ましてや不動の評価を与えられている作家に対して、そのペンネームに用いられた文字が一般的な活字の体系にないからといって、間に合わせですますというのは、誰がどう考えても間違っている。ましてや広辞苑は辞書なのだ。どう考えても「啄」より一画多いペンネームとしての本当の表記を試みるのが正しいと思う。

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    突然思い出したこと80「医師会」

    「怪しい広辞苑」を書こうと思って、久しぶりに広辞苑第四版を読んでいたら、129ページに「医師会」という見出し語があって、「医師の職業団体。全国的なものとしては社団法人日本医師会があり、別に日本歯科医師会がある。」と説明されていた。
     ここで突然「歯科医師会」の「司会」は「しかいしかいしかい」となることを思い出した。司会者が「四家井さん」「鹿井さん」「四海さん」の可能性もある。それぞれ日本に数十件ぐらいしかない名前だから、「しかいしかいしかいのしかいです。」となる可能性は低いけれど、ゼロではない。
     しかし、さずがに「もう歯科医師会司会鹿井しか医師会にはいない。」となる可能性は限りなくゼロに近いだろう。全く無駄なことを思い出してしまった。
    4/11/2007

    日々雑感177「人の一生」

    人の一生とは何なのだろうと思う。
     よくわからない。たぶん、答えがたくさんあるからわからないのだろう。あるいは、たかが個人の一生という単位でとらえるからわからないのかもしれない。もしかすると、自分の一生がまだ終わっていないから判断できないのかもしれない。もちろん、一生が終わったときには判断することもできないのだが・・・・・・。だから、そのときには他人に判断してもらうしかない。
     実際の人の一生を観察するのは困難だ。小動物なら早く死ぬから、その観察から自分の一生を類推できる。書物に書かれた登場人物(実在か架空かは問わない)の一生もそれなりの観察対象だ。これらとこれまでの自分の生きてきた足跡の記憶を総合して、人の一生というものを頭に思い描くという作業をするのが精一杯だ。
     だから、他人の一生は結局は本当にはわからないかもしれない。しかし、自分の半生はそれなりにわかる。わかるといっても、自分なりの了解でわかっているだけだが、それは仕方がない。もとより他人から自分の生き方などを評価されたいとは思わない。
     しかし、矛盾するようだが、気持ちのうえでは、自分は他人を評価したがっているように思う。おそらくみんなそうではないだろうかと想像する。「あいつはこういう人間だ。」「こいつの生き方には我慢がならない。」等々、口には出さないけれど思っている節がある。これは面白いことだと思う。他人に攻撃的で、自分には手厚い評価をする。そのようにする必要がどこにあるのだろう。「自分がかわいいに決まっている。」と言われればそれまでかもしれない。実際にそうなのだけれど、では、どうしてそうなのかと思ってしまうのだ。攻撃は最大の防御と言うから、残念ながらそういうことなのかもしれない。
     その一方、身内や親しい者、愛する者であるからこそ、逆に厳しい評価をすることもある。また、それとは別に、誰かの手前、身内や親しい者、愛するものに対して必要以上に手厳しくする場合もある。こうなると、評価というのは、観点だの尺度だの方法だのと言いながら、最後には胸先三寸というたいへん人間的なものが、意識するしないにかかわらず作用しているのではないかと疑われることになる。それがもっともらしい姿をしているか、目新しい姿をしているか、わかりやすい姿をしているかの違いがあるだけではないかと言われても仕方ないような現状があるのではないだろうか。
     さて、「人の一生とは」という問いに、「難しい問題だ。」とか「その答えを見つけることが生きることだ。」などとごまかしてはいられない場合もある。よく知られた徳川家康の遺訓として伝わっている言葉の中に「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。いそぐべからず、不自由を常と思えば不足なし、こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ、勝つ事ばかり知りて、まくること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり。」とある。
     何だといわれると答えにくかった人の一生も、このように、どうすべきだとか、どうあるべきかという記述にすると、実にうまく答えられる。自分流、あるいは家として伝えるべき教訓、家訓として代々語り継いでいけばよい。
     教訓というと何やら堅苦しく、押しつけがましく思われて敬遠されがちなのは、それを生かすすべを知らず、その恩恵にあずかっていない者たちによる低い評価が、そのまま一般化してしまったせいもある。
     また、教訓が、ステレオタイプの言葉として受け止められるというレベルでの理解のされ方にとどまる場合も多い。そうしたものを旧態依然としたものと十把一絡げにし、取り敢えず否定することによって新しいものを探ろうというレベルの時期、つまり発展途上のマイナス面の性根が働く場合も多い。
     つまり、その言葉がなぜ語られたかというところまで頭が回らないか、頭を回すことができないか、頭を回す意味がないと短絡的に判断してしまうかというハードルが、言葉として語られた教訓にはつきものなのだ。
     結局は、教訓に対する偏見をなくすことが豊かに生きる第一歩かもしれない。先人の後悔と血と汗と涙から生まれた者である可能性が高いからだ。今を生きる僕たちは、新しい教訓を受け入れられやすい形で残すように仕組んでいくのが仕事なのかもしれない。そうか、これが人の一生なのかもしれない。
     
    4/9/2007

    心の断片91「再開」

    「再開」
     
    ジグソーパズルのように
    ばらばらな記憶が
    桜吹雪とともに
    小さな螺旋を描く

    面影
    仕草
    言葉癖

    ぼんやりしたイメージの
    無意味な反復も
    無数のキーワードに
    たちまち輝き蘇る

    悪さ
    いたずら
    こぼれる笑顔

    ああ やはり人は無邪気でなければ・・・・・・
    どうにもこうにも大人には
    そうしたダイヤモンドが不可欠だ

    過去に確かな足跡を残した者
    人の未来を輝かせる者は
    今を懸命に生きる魅力的な
    この者たちでなければならない



    4/7/2007

    日々雑感176「不便な動物」

    環境を手に入れること。環境が整わねば為しえぬことが多い。初期の環境と与えられた環境と勝ちとった環境と、次第に整えて事を為す。人はそのために膨大な努力を払う。誠に不便な動物だ。
     環境から得られるもの。自分が環境に与えるもの。それは物や事ばかりではない。年を重ね、自分と環境が調和すると、およそ自由自在の存在となり、迷い、悩みは最小限になる。やはり、人はそのために生きている。誠に厄介で遠回りで不便な動物だ。
     環境が異なると、見るもの聞くものが違うため、見方や聞き方が違ってくる。見方や聞き方が違ってくると考え方も違ってくる。考え方が違ってくると、何が大切で、何が大切でないかが違ってくる。だから、人は認め合う努力を必要とする不便な存在になっている。この不便さを解消するため、言葉を操ることになる。議論し、理解し、納得し、認め合うという手続きを踏んで仲良くしないと、生きていけない動物になってしまった。本当にどうしようもなく不便な動物だ。
     自然環境、人的環境、物的環境だけでなく、それらが織りなす「きまりごと」も一つの環境としてとらえてもよい。「きまりごと」には、どうでもよいことを便宜的に統一するためのものと、例えばモラルに基づいて、そうあるべきことを明確化したものとがある。どちらがどのように多い環境に僕は生きているのだろうか。
     ところで、「きまりごと」といえば、「きまりました」とはよく言われるが、「きめました」とはあまり言わない。後者はあまりに自分勝手な発言に聞こえるからだろう。しかし、前者は、決めた責任の所在をぼかすような逃げの表現にも聞こえる。理屈に従って自然にそう決まったのだから、従いなさいとも聞こえる。後者には覚悟が感じられる。決めたのだから、実行する。私が決めたのだから何かあれば私に言ってきなさいと聞こえるのだ。
     普通、公的なことについては「きまりました」と言い、自分自身のことについては「きめました」と言うのが作法だ。これを逆になることはほとんどないだろうが、余程特殊な状況ではあり得るだろう。どのような状況だろうか、想像すると面白い。
     何しても、環境を手に入れたり、議論したり、きまりを作ったり、いろいろと人間は忙しい。どうにもこうにも不便極まりない動物になってしまったものだ。不便を「ふびん」と読みたくなるほどだ。
    4/6/2007

    心の断片90「神の領域」

    「神の領域」

    人知を越えた現象が
    ここかしこに湧きいずる

    常の生活営む者は
    知らず知らずに暮らしゆく
    常にこだわり極める者は
    知るもわからず説くばかり
    てらいへつらいうごめく者は
    知るがごとくの振る舞い上手
    うれい怒りて悲しむ者は
    知るいとまもなく心を潰す

    神の領域とともにあり ともに生きる
    己と己でないもの
    不思議と不思議でないもの
    この綾織りの世界に
    驚き喜び こうべをたれる

    4/4/2007

    心の断片89「風化の街」

    「風化の街」


    秘して語らず

    風にこおどり
    細く鳴く

    正体不明の
    黒き岩石群

    薄黄金に輝く
    ディスクカッターが
    その血脈を暴き出す街




    4/2/2007

    心の断片88「貫通力」

     新しい年度の始まりだ。新しいチームで事を為す。新しい会話。新しい表情。新しい発見。
     全ての歯車が新しい音を立て、これまでと違った方向へ僕を運んでいく。新しい困難は、新しい努力を欲して、僕たちを新しい生き物にしてくれる。
     怒濤のごとく迫り来る課題を高みからさばいていこう。描き、書き分け、分断し、各個撃破、泥にまみれた後は、さわやかな日だったと言えるまで全知全能を傾けよう。
     血を流そう。汗を流そう。そのために肉体はある。ぼろぼろになる前に修復しよう。そのために知恵はある。先に関わり、構想は誰よりも大きく深く、恐ろしき覚悟の片鱗を目に宿そう。そのために顔を外にさらしている。
     よく食べ、よく眠り、よく話し、力を一点に集中。そうした貫通力を心意気としよう。そのために生きている。
    4/1/2007

    日々雑感175「役者の目」

    「オセロー」の平幹二郎は健在だった。「俊寛」「リチャード三世」「オイディプス王」等を見てきたが、力強い演技は変わらない。七十半ばのはずだが、センテンスの長いシェイクスピアの台詞を充分にこなしながら、苦悩するオセローを見事に演じきっていた。
     思うに役者は目が命だ。沈黙の演技、目と息づかい、浮き出る血管までが計算されているはずだが、どうにも目は生来のものに左右されてしまう。訓練によって自在に心を表現することはできるようになるのだろうが、土台となるものは変えられない。
     黒目と白目の比率と目の間隔だ。黒目と白目の比率は、コンタクトで調整できるようになった。しかし、目の間隔は変えられない。間隔が広ければ広いほど魚や草食動物に近い印象を与えることになる。また、間隔が広ければ広いほど、観客席に対して直角に顔を向けて演技する場面で、目を観客に見せることのできる立ち位置の範囲が広くなる。
     照明を落とした観客席はステージから見づらい。しかし、観客の方は照明を受けて輝く役者の目を強烈に見ることになる。目が弱い役者は、眉毛の補助を必要とする。この形を逐次変えて目の演技力を補助することになると思う。表情の筋肉が衰えないようにどのような訓練をしているのだろう。
     表情といえば、能面だ。作り物だから微妙なかしげ方、手のかざし方などで喜怒哀楽を表現しなくてはならない。これが生身の役者の表情にも応用されているのかもしれない。筋肉の衰えは、能面の扱いの応用でカバーできるというわけだ。
     根本的に目は大きくないといけない。目が大きいといえば仲代達也が印象的だが、ここ五年はステージを見逃している。実力者がどんどん年を取り、いつかはいなくなる。団塊の世代が大量に退職することが話題になっているが、団塊の世代がこの世から消滅するときには、各界の著名人が一気にいなくなるという現象が起こる。日本の元気がなくなるときだ。少し待てば団塊世代のジュニアが元気を取り戻してくれるかもしれないが、同じ団塊でも第二次世界大戦後に生まれた第一期の団塊とは質が違うように見受けられる。
     元気が出ないときは、目を見開いて、表情を豊かにするというところから始めよう。どんな気持ちの時に自分がどんな表情をしているか鏡で観察してみよう。大人である僕たちは役者でなければならないときが多い。一人でいろいろな役割をする必要があるからだ。役割を完遂するということは役者にならなければならないということだ。
     目は心の窓というが、それは一面的なものの言いだ。その逆の作用も同時にしていることを忘れてはいけない。役者に学ばねばならない。どういう姿を、どういう目を相手に見せているかをまず知らねばならない。
     生きるということは実にいろいろなことをやる必要がある。面倒だと言えば面倒だが、やるべきことがあるということはきっと幸福で面白いことであるはずだ。ただ、為すべき事を怠れば、こんなに苦しいこともないだろう。
      

    心の断片87「罪滅ぼし」

    「罪滅ぼし」

    この手で何をした
    この五本の指で何をした

    巡り巡りて人の不幸を作り出す
    恐ろしい所業にこの手を染めていないか

    正義の顔で無実を決め込み
    この一日
    その同じ手で
    いつもの茶碗と箸を使っていないか

    目の届かぬところ
    責任のないところで
    何かが起こる

    罪滅ぼしなどできはせぬのだ