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27-04-2008 心の断片130「模様ばかり」「模様ばかり」 どうして俺はここまで生きてきた 何をして 何をしなかったか どこに何の記録がある 名簿や台帳に残っている 名前やら役割 だが それは自分じゃない どうして俺はここまで生きてきた 何を話し 何を話さなかったか どこに何の記録がある 手帳や日記に書きこんだ 無数の言葉 だが それは自分じゃない どうして俺はここまで生きてきた 誰といて 誰といなかったか どこに何の記録がある 記憶や映像におさめられた いつも同じ姿 だが それは自分じゃない 26-04-2008 突然思い出したこと107「風が吹けば桶屋が儲かる」 「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉を突然思い出した。同時に、この言葉を随分と使っていなかったことに気づいた。使っていないということは、使わないように仕向けられていた可能性もある。もしかすると、そうした怪しさを感じて、突然思い出したのかもしれない。もちろん、そろそろ使わないと自分の中で死語になってしまうという危機感が思い出させたという可能性もある。 これは落語ネタにもなっていることわざの類で、妙な話の流れの面白さや、意外な結末になる可能性はゼロではないという面白さを感じることができる。 ただ、風が吹いても砂埃はあまりたたない。だから、桶屋が儲かるところまでは話が進んでいかないのが普通だ。妙な話は想像の中だけで進んでいく。風、砂埃、視覚障害者の増加、三味線弾きの増加、三味線に使う猫皮の需要の増加、猫の減少、ネズミの増加、ネズミによる桶の被害の増加、桶屋の繁盛。どう見ても無理矢理に進めた話の展開だ。 現実の世の中では、このようにトントン拍子に話が進む場合と、知らない間に話が立ち消えてしまう場合とがある。世の中には、前者になるか後者になるかの分岐点もたくさんある。だから、実際には話の方向がうやむやになり、総合的に見れば、物事同士が自動的に譲り合いながらバランスがとれて、それが世の中の仕組みのように見えることになる。 しかし、そこへ何らかの力が働いたときには、邪魔なものが一切取り除かれ、単純に話が進展していく可能性もゼロではない。ただし、無理矢理に線を引いた話の展開だから、必ずしわ寄せがきて、揺れ戻しも大きく働くことになるというのが大方のところだ。世の中は常に流転しながら、世の中であり続けようとするということだ。 さて、全国的に強い風が長期間吹いたときには、桶屋が儲かる可能性は俄然高くなってくる。目が不自由となった者が三味線弾きになれば経済的な補助が得られるという法律があれば、なおのこと桶屋が儲かる可能性が高くなる。さらに、三味線の耐用年数を短くする悪徳業者がはびこったり、何らかの理由で猫の皮は輸入禁止になったりと、いろいろな条件が重なっていけば、笑い話としての 「風が吹けば桶屋が儲かる」話も、現実味を少しずつ帯びてくる。もっとも、今どき、桶など買う人はほとんどいない。また、医療は進んでおり、三味線弾きの数は少なく、猫もあまりネズミなど捕らない。そろそろ別の言葉を考えていった方がいいのだが、日本人の記憶の中からこの言葉を消し去るには、まだ少し時間がかかる。 さて、問題は儲かる話というところにある。儲けるには、強い意志が必要だ。地道に稼ぐのとはわけが違う。何らかの作戦を巧みに実行して勝ちとるものだ。だから、儲かる話ではなく、儲ける話と言った方がよい。「風が吹けば桶屋が儲かる」式の展開は儲かる話ではなく、儲ける話として展開させていくという手もある。 これを実現させるためには、いろいろな布石を世の中に打っておき、あとは弾みとして何かにほんの少しの変化を与えてやればよい。すると、面白いように人々の動きが計画通りに動くことがある。人々が動けばお金も動く。もくろみ通りというやつだ。 頭がよければ、その布石すら他人が喜んでやるように仕向けることもできるだろう。もっと頭がよければ、既にあるものを布石化させていくのかもしれない。そのためには、物事を見る目、先を見る目というものを鍛えておかねばならない。そうした力を身につけておくことは、縁の下の力持ちで終わらないためには、どうしても必要なことだが、実際には難しい。多くの人がそのようにもくろめば、争いも起こる。騙したり騙されたりと嫌な世の中になる。これは自然にそうなるのだから、悪いことではない。ただ、嫌なだけだ。世の中に何らかの甘い期待を抱いている者が「世の中というものは厳しいものだ」という所以だ。 何はともあれ、一見して突拍子もないような話の展開に見えるものも、実は長年にわたって準備されてきたものである可能性が意外に高いということだ。知らぬが仏というわけだ。 ★ホームページに戻る 25-04-2008 心の断片129「春の山里」「春の山里」 あわれ数万人の命 ここに消え 田畑のみがこともなげ 川を挟んで並び 聞こえるぞ 雄叫びが まぶしいぞ 血潮吹く者たち 何を思い 何を背負って ここに死ぬるか いかに生きても 短き世 この命 何に捧げて 人の世とするか 21-04-2008 心の断片128「さわやかな人生」「さわやかな人生」 金も 命も 名誉も要らぬ そんな 志だけで動いている人間を 誰が止められようか 何も怖いものがないから ただ事を進めるだけだ 自分だけを信じて動くから 裏切られることもない 志のために鍛え抜いた体で できるところまでを成し遂げる ただそれだけのことだ 成し遂げられねばそれまでで どうということはない いつしか別の人間が 遺志を継ぐならそれもよい 命をとりにくるものには 命をかけてこれと向かえばよい 命が惜しいからではなく 志を果たす用があるからだ 志半ばで殺されても仕方ない 志を果たすために命をかけるのだから 無念もない 未練もない たださわやかに 進んでいく そんなやつを誰がいったい止められようか 20-04-2008 怪しい広辞苑151「第四版159ページ・一齣」 広辞苑第四版159ページ「一齣(いっせき)」の説明。 「一くぎり。一節。一段落。いっく。」とあるが、どうにも説明不足に感じられる。 おそらく最初の「一くぎり」は「一齣」の訓読みだろうと思う。この「齣」という漢字は、日常生活ではほとんど使わない字なので、「訓読みは、ひとくぎり。」として、「一齣」の訓読みという紹介で、全てを平仮名にして書く方がよいのではないか。ただし、「ひとくぎり」が訓読みとしてふさわしくないというのなら、話は別だ。 また、なぜ「一節」や「一段落」「いっく」が全て漢字、あるいは全て平仮名であるのに対して、「一くぎり」だけが漢字仮名交じりの中途半端な表記にされているかということも不思議だ。利用者にその意味が伝わるようにしなければならないと思う。 次に続く「一節」「一段落」は、「一齣」の説明としての語句だろうが、「いっく」は説明ではないように思う。これは広辞苑第四版を一字一句全て一ページ目から順に読んでいる人でないと非常に気づきにくい。実は、「いっく」は広辞苑第四版では155ページに既に掲げられている。「一齣(いっく)」の見出し語というわけだ。広辞苑第四版155ページの方の「一齣」の説明に使われている言葉を借りれば「イッセキの慣用読み」ということだ。 そこで、「一節」「一段落」という意味の説明に続けて「いっく」と書くのではなく、「慣用読みは、いっく」、あるいは「いっくは、慣用読み」などとして区別するのがよいと思う。 このような読みも意味も十把一絡げにしてしまう広辞苑の説明に対して奇妙な感じを持つのは僕だけではないだろう。それとも、読みと意味の区別ぐらい分からないでどうするんだというのだろうか。まさか広辞苑を隅から隅まで読んでいれば分かるはずのことだとでも言うのだろうか。 また、読みと意味を区別するだけでなく、意味の説明である「一節」「一段落」を最初に書き、それに続けて「ひとくぎり」や「いっく」などの別の読みをそれぞれ別の読みとして説明すべきであろうという説明の順番の問題がある。どうしても順番がシャッフルされているように思えてならないのだが、編集上の方針があるのなら仕方ない。 ちなみに、「ひと」を使った一単語のみの説明を広辞苑第四版155ページの「一齣」から159ページの終わりまでの間から抜き出してみよう。もちろん「一つ」は除外する。 一齣(いっく)…一くぎり(一文目) 一間…ひとま(二文目) 一行…ひとならび(一文目) 一刻…ひととき(一文目) 一粲…ひとわらい(二文目) 一式…ひとそろい(二文目) 一色…ひといろ(三文目) 一種…ひといろ、ひとくさ(二、三文目) 一周…ひとめぐり(二文目) 一蹴…ひとけり(二文目) 一緒…ひとまとめの意(一文目) 一睡…ひとねむり(二文目) 一声…ひとこえ(一文目) 一夕…ひと晩(一文目) 一齣(いっせき)…一くぎり(一文目) 一戦…ひと勝負(二文目) 一線…ひとすじ(二文目) 一双…ひとそろい(一文目) 一層…ひと重ね(一文目) 一層…ひときわ(二文目) 一束…ひとたば(二文目) 一足…一組(二文目) 一息…ひといき(一文目) 一帯…ひとつづき(一文目) 一袋…ひと袋(一文目) 一旦…ひとたび(一文目) これはいったいどういうことなのだろう。一足が一組となっているのは例外的なことに見える。「ひと晩」「ひと勝負」「ひと重ね」「ひと袋」に至っては、「一」を敢えて平仮名にしようとしているとしか思われない。その中でどうひいき目に見ても「一くぎり」だけが異色だ。どうして「ひと」をここだけ漢字にするのだろうか。このようにした根拠があるはずだから、それが利用者に伝わらないと説明不足ということになると思うのだ。 ところで、「一齣」は「ひとこま」とも読む。広辞苑第四版では「ひとこま」の説明に「一区切り」という言葉を選んでいる。やはり「ひと」を漢字にして説明しようとする姿勢はここでも変わらない。謎だ。 これらのことを全編通して改善し、いろいろな面で分かりやすくしていくことから始めていけば、名実ともに最高峰の辞書となっていくかもしれない。第六版で改善されていなければ、ぜひ第七版では改善していってほしい。日常生活ではどうでもよいことでも、辞書にあってはどうでもよいことではすまされないことが多くあるに違いないという心構えを持って編集していくことが大事だと思うのだ。 ★ホームページに戻る 恐怖シリーズ106「教えること」 教えるということは、深く関わったり浅く関わったりしながら人間関係をつくっていき、事を一緒に成していくということであるように思われる。 事は何でもよい。誰も見向きもしないような些細なことから、だいそれた事をと言われるようなことまで、さまざまであるのがよいだろう。 そのためには、ハードルを上げたり、下げたと見せかけたりすることが、お互いに楽しめるまでの人間関係になっていなくてはならない。その人間関係をつくる手だてが、自分の言葉や互いの言葉同士の響き合いの中から生みだされていくのが理想だ。 実際には、他人の言葉をおおいに活用することが多くはなろうが、真に心を動かすのは自分の心の底から噴出した魂の言葉だ。それは出そうと思って出した人工的なものではない。あとでそうだと気づく誠の言葉だ。しかし、その言葉に酔うのは愚かしいことだから、自分の回りに小さな宇宙をつくらぬように、心がけねばならない。 教える期間が終わるときには、飛び立つのをほんの少しだけ後押ししてやる言葉を示すのが良心的だと思う。輝かしい雄飛のために、雌伏のときをどれだけ有意義に苦労させることに専念させたかが問われる。くれぐれも根拠のない自信や奇妙な自尊心を持たせてしまう愚を犯さぬことが大事だ。 こうしたかかわり合いを通しながら、教える方の意図とはまた別に、自ら必要とするものを選択的に学んでいくことも忘れてはならない。そのように自ら学んだと意識されることの方が、その後の生き方に大きな影響を与え、生きるための力に変わっていくことが多いように思う。 特に、何気ない会話の中で使われた言葉も意外と記憶に残り、長い年月をかけて理解され、さまざまな了解や見識となり、理想的に生きていく力の土台を少しずつ少しずつ、ときには劇的に強化していくことに注目すべきだろう。要は、さまざまな会話が発生する事態を上手に生みだし続けることが重要だということだ。 言葉は言葉としてだけ記憶に残るのではなく、その時の気持ちや状況や情景とともに記憶に残っていく。引き出しにはられたラベルのようなものだ。引き出しの中は、一部が強調されたり、省略されたりしながら、引き出しに収まりやすい形になっているが、別の記憶からの刺激で都合のよいように復元していく。 都合のよいように復元するというのは、矛盾した言い方だが、使えそうなものを使えそうな形にして使ってみようとすることだ。こうしたものを、現実に対応したり、現実を変えたりするために手を変え品を変えてタイミングよく繰り出せるかどうかで頭の良さの評価が決まってくる。 タイミングよく繰り出せるかどうかという問題には、性格が大きく関係している。まよったり、おそれたり、なまけたり、うたがったり、うろたえたりしていては事は成せない。まよいがちな人にはどのような言葉をかけておけばよいか。おそれなくてもよいものに対しておそれがちな人にはどのような言葉をかけておけばよいか。なまけがちな人とうろたえがちな人が一緒にいるときにはどのような言葉をかけておけばよいか。 こうした判断は難しいが、体で覚えることは案外とたやすい。その代わり失敗を恐れないことだ。その結果、働きかけが豊富となれば、あとは本人の問題となる。本人に目的意識さえあれば、自分の必要に合わせて、さまざまな言葉を組み合わせたり、変形させたりしていくことが可能となるからだ。それがどの程度できるかが人間的な賢さというものだろう。 一見、無責任なようだが、修業時代に一生かけて解凍していく宝の山の広い土台を築きあげていけるかどうかで人生が決まるように思う。狭い土台では残念ながら事を成せるような器にはならない。 ところで、「これが自分ですから」と、自分を低レベルで肯定し、変わろうとしない人は臆病で怠慢な人だから、周囲への迷惑が甚だしい。このように、理想とする自分というものを持っていない人は、吸収力がないうえに、その力不足を合理化してしまい、改善しようとしないから、常に目がとろんとしている。自分というものに対しては肯定的でも否定的でもいけないのだが、こうしたことが理解されてないのは、単に知恵がないだけの話だから、知恵をつけてやればよい。 しかし、それに対しては相当に本人の自尊心が邪魔をするので、かなりお膳立てをして遠回しに根気よく間違いのないようにしていかねばならない。これが育てるということの一部だと意識できれば、嫌な気持ちにはならない。たとえそれが無駄な努力に終わっても、それを見ていた人々に与えるものは大きい。転んでもただでは起きないという精神が教えるということには必要だ。全てをプラスに変えてしまう意気込みが世界を変えていくというのは、決して大げさな話ではなかろうと思う。継続することによって、小さな世界がねずみ算式に広がりを見せ、大きな流れとなるのはよくあることだ。 ただし、全くの他人に対して肉親以上の働きかけをする世の中の先生や先輩、時には同僚が、教えているうちに相手に同化していくということがあるのではないかという疑いは拭い去れない。理解しようとすると、同化の危機に陥るのだ。それは自覚することが難しい。しかし、相手や相手を取り巻く状況を理解しなければ、かけていく言葉を選べないという大問題がある。 教えるということはこのように厄介で恐ろしい。それ相当の鍛えられた精神が自分の中にない限り、決して手を染めることがあってはならないもののように思われる。 怪しい広辞苑150「第四版159ページ・一石二鳥」 広辞苑第四版159ページ「一石」の「一石二鳥」を表す一連の英単語。 (to kill two birds with one stone)と元になった西洋のことわざが括弧内に示されているが、これでよいのだろうか。文の最初の単語の最初の一文字は大文字で書き、文末にはピリオドを打つのではなかったか。よくは分からないが、これはことわざや慣用句の類でも同じなのではないだろうか。 しかし、一文の中で使用される語句としては、このような示し方の方がよいのかもしれない。「一石二鳥」以外の語句については、広辞苑はどのように英語で書き表しているのだろう。 僕の記憶が正しければ、少なくとも、広辞苑第四版の1ページから159ページまでには、このように日本語の見出し語に対する英語を括弧書きで示したものはなかったと思うが、160ページ以降はよく見ないと分からない。 常識的にはどうなのだろうか。やはり、学生のためには、最初の単語の一文字目を大文字で書き、文末にはピリオドを打つという示し方がよいのではないかと思うのだが、それではまずいだろうか。 ★ホームページに戻る 16-04-2008 日々雑感225「神に近い存在」 一本の棒状の苗木でも、時期さえ来れば、植えて10日も経たないうちに花が咲く。桜の花の健気さ律儀さを改めて感じた。ボールペン程度の太さの苗であるにもかかわらず、そのような生命現象を見せてくれるということは、非常にありがたいことのように思われる。 しかし、人間で言えば生まれたての赤ちゃんが身ごもろうとしているというわけだ。どうも植物というやつは融通がききすぎる。土がやせていれば小さくなり、肥えていれば大きくなる。ちぎってやればがんばって芽を出し、乾燥すればサボテンのように変身する。 きっとそれは奴らが根を張るぐらいしか動きがとれないことに由来するのだろう。動物なら餌を探してかなり居場所を変える。それに対して、やつら移動できない種族は自分を変えることに専念する。 全ては生きるためだ。あのような体のどこにそんな能力を秘めているのだろうか。脳はない。だから、考えている訳ではない。膨大な遺伝情報の中から必要なものが自然にピックアップされていき、自分を構成し直していくのだろうか。 人間も動かないと自分が変形する。ただし、太っていくだけだから、とても生きるためだとは言い難い。「動かざる者生きるべからず」というのだろうか。動物が動物であるための制裁措置ということなのかもしれない。逆に、植物の奴らを動かしてやると枯れていく。天命に従わぬものは滅びるというわけだ。 さて、天命に従っているがゆえに滅びない奴らは誰だろう。もしかすると、それは最も神に近い祝福された存在なのかもしれない。 15-04-2008 心の断片127「この星で」「この星で」 どこまでもいわしのようなやつがいる どこまでもいわしだから どうにもならない どこまでもさんまのようなやつがいる どこまでもさんまだから どうにもならない せっかくみんなこの地球にたどりついたのだから いわしでも さんまでもない にんげんとしてくろうしてみないかといっているのだ いわしはいわしに さんまはさんまに まかせておけばよいではないか 心の断片126「午後の訪問」「午後の訪問」 いくつもの記憶がでたらめに結ぼれて なんだかおかしな気分 割れ窓のほこりは 木もれ日のようなやるせない空気を かろうじて縁取っている 廃屋の崩れ天井 裂けた暗幕 鴉の歩く音だけが 唯一 現実だ 誰一人いない長い廊下に ささやきや喧噪 ため息や底抜けの笑い声が 幾度も幾度も再生されては消えていく この宇宙で僕は いったい何をしているのだろう 13-04-2008 怪しい広辞苑149「第四版157ページ・一週」 広辞苑第四版157ページ「一週」の説明。 「日曜日から土曜日までの七日間」とあるが、これはどうだろうか。これに従えば、「土日休み」ではなく、順番から言って「日土休み」という表現となる。しかし、実際には「土日休み」と言ったり、週末と言えば「土日」のことだという了解が日本では一般的だろう。 国によってどの曜日から一週間が始まるかが違うということを小学校の授業で教えてもらって驚いたのを思い出した。どの国が何曜日から始まるのかということは多種多様なので、ここには挙げない。 日本では、月曜日から日曜日までの七日間という感覚が一般的ではないだろうか。土日が休みの企業がどれだけあるか分からないが、土曜が半日だとしても、その半日と日曜日の一日のまとまりが週末の休みというとらえが分かりやすい。事をなすのにそれがひとまとまりであった方が感覚的には都合がよい。仮に土曜日が週末だとすると、一連の休日の中で区切りができ、「週の終わりになすこと」と「週の最初になすこと」との二種類があるという意識になってしまい、多忙感が生じると想像するからだ。 しかし、そうした感覚も文化によって大きく異なるはずだから、自分の感覚が普通だと思ってはいけない。まず、自分を疑うことが大事だということを忘れてはならない。 ところで、広辞苑で一週を「日曜日から土曜日」としたのはどういう考えに基づいてのことだろう。七曜制の歴史を考証してそうしたのか。世界の国々の様子を見て大勢を占めるものにしたのか。それとも、今後そのように統一すべきだろうというということなのか。 もっとも、その次の説明で、「或る曜日から七日間」とあるから、それで全てを説明していることになるのだろう。しかし、一番目に掲げた説明の言葉足らずは否めない。そこに「西欧では」とか「欧米では」とか「キリスト教圏では」とか「イスラム教圏では」とか、何か言葉がないといけないのではないだろうか。そして、次の説明で「日本では」とか「何世紀以降の日本では」とか言葉を添えればよい。「一週」などという単語の場合、このような情報が提供できなければ、辞書で引いてもらった意味がないのではないだろうか。 怪しい広辞苑148「第四版157ページ・一朱」 広辞苑第四版157ページ「一朱」の説明。 一朱金の説明では「一六個で小判一両に換える。」とあり、「一朱銀」の説明では「一六個で金一両と換える。」とある。この微妙な表現の違いは何だろう。 両替するときに、一朱金と一朱銀とでは何か違う手続きが必要なのだろうかと読み取れる説明だ。果たしてそうかもしれない。あまりにも当時の貨幣に関する知識がないので、分からない。「小判一両」と「金一両」の違いは何だろう。そうしたことが分かるような説明であってほしい。もし、違いがなければ、表現は統一して要らぬ混乱や憶測を呼び起こさぬように配慮してもらいたいものだ。 広辞苑第六版でこの微妙な表現の違いに変化がなかったり、その違いの説明がなければ、ぜひ第七版では改善してほしい。 怪しい広辞苑147「第四版157ページ・一私人」 広辞苑第四版157ページ「一私人」の見出し語の読み。 見出し語が「いつしじん【一私人】」とある。これは「いちしじん」という読みや「いっしじん」という読みではなかったか。広辞苑のように「いつしじん」というのは不自然であるような気がしてならない。 この「一私人」の類義語として「一個人」という語があるが、その読みは「いっこじん」だ。それにならうわけではないが、ここは「いっしじん」という読みであるべきだと思うのだがどうだろう。 もちろん、これは単に「いつしじん」という日本語を僕が聞いたことがないという理由で言っているに過ぎない。つまり、「一私人」に対して、「いっしじん」とか「いちしじん」とか言う読み方は聞くのだが、「いつしじん」という読みをまだ聞いたことがないということだけが根拠になっている。 しかし、実際に大辞林第三版と大辞泉で調べてみると、「いっしじん」となっている。僕の当てずっぽうでもなさそうだ。どちらが正しいのか。どちらも正しいのか。そのような難しいことは僕には分からない。執筆者同士で討論してほしい。 広辞苑編集部は、次のように言うかもしれない。『この「つ」は古い書き方で大きく書いてあるけれど、実際には小さく「っ」と書いたときのように読みます。』それなら他もそうしてほしい。いつも言うように不統一が一番混乱を招くのだ。利用者は混乱を避けたり、混乱を解決するるために辞書を利用するのだから、何とかしてほしい。広辞苑第六版で改善されていなければ、ぜひ第七版では読み仮名を変えていただくか、そうでなければ「つ」が「つ」である説明を加えてほしいものだ。 ちなみに、「公け」は「け」が付いている。これは「一個人」のところで指摘したことと同じだ。 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑146「第四版157ページ・一矢」 広辞苑第四版157ページ「一矢」(いっし)の「一矢を報いる」の説明。 「相手から受けた攻撃・非難に対して反撃し、反駁(はんばく)を加える。」とあるが、この説明では言葉不足で誤解を招き、誤った使用が広がるおそれが高いと思われる。即刻適切な説明に変え、誤使用を防がねばならないのではないだろうか。 あくまでも「一矢を報いる」に過ぎないという感覚が、広辞苑の説明からは読み取れない。ほんの少しだが反撃することができたという意味合いはどこにいってしまったのだろう。「一矢」という表現は、慰み程度だが、少しでも反撃できたということではなかったのか。これは僕の思い込みかもしれないので、他の辞書ではどのような説明になっているかを調べてみよう。 大辞林第三版「相手の攻撃に反論や反撃を加えて、わずかでも仕返しをする。」 大辞泉「敵の攻撃に対して、矢を射返す。転じて、自分に向けられた攻撃・非難などに対して、大勢は変えられないまでも、反撃・反論する。」 こうして三つの辞書を比較すれば、一目瞭然だ。この三者でランキングすれば、大辞泉が一位、大辞林が2位、広辞苑は論外だ。 いったい広辞苑の編集部は版を重ねるということの意味をわかっているのだろうかと疑いたくなる。過去においては最高峰の辞書だったかもしれないが、進歩が見られない。新しい版が出るまでに何年もの研究期間があったはずだ。「学ばざるもの教えるべからず」と思うのだがどうだろう。 編集に携わる人たちの意識を変えるものは何だろう。売れ行きだろうか。それとも利用者の声だろうか。このままではわが愛する広辞苑が時代に取り残されてしまう。広辞苑第六版で改善されていないとすれば、第七版で何とかしてもらいたいものだ。 怪しい広辞苑145「第四版156ページ・一個人」 広辞苑第四版156ページ「一個人」の説明の一行目から二行目にかけて。 「公けの資格を離れた一私人」とあるが、どうだろう。通常は「おおやけ」という場合は、「公」と漢字一字で書くのだが、広辞苑では「け」を送り仮名として付けている。 ちなみに、「おおやけ」を広辞苑第四版で引いてみると、見出し語「公」が見つかる。ところが、説明を読んでいくと、「公け」という語句が出てくる。見出し語には「公」を採用しながらも、説明には、必ず「け」を付けて、「公け」とするという方針なのだろうか。そうした方針にはどのような意味があるのだろうか。その了見を知りたいところだが、今の段階では不勉強で皆目分からない。 おそらく何らかの理由があるのだろうが、利用者には一切分からない。分からないにもかかわらず、そうした二重の情報を提供される。これは広辞苑という辞書に対する不信感につながるので、即刻改めた方がよい。広辞苑第六版ではどうなっているのだろうか。訳の分かっていない人たちが利用するのが辞書なのだから、そうしたことを配慮した上での説明でなければならないはずだが、その配慮を怠っているように見える。 もし、第六版で見出し語「公」の説明に「公け」が使用されていることについての理由が分かる説明が付け加えられていなかったり、表記の統一が図られていなかったりであれば、第七版で改めてもらえばよい。しかし、その間、数年間は利用者の不信感が高まることになってしまう。よい知恵を出して頑張ってもらいたい。 怪しい広辞苑144「第四版156ページ・一刻」 広辞苑第四版156ページ「一刻」の説明の4行目から5行目にかけて。 傾城買四十八手「手めへのやうな-を云ふものはねへ」とあるが、本当にそうか。見出し語が「一刻」なので「-」の部分には「一刻」が入り、「手めへのやうな一刻を云ふものはねへ」ということになるわけだが、果たしてどうなのだろう。 山東京伝という人物については江戸時代の戯作家という事以外、僕はよく知らない。しかし、ネットで探せば、わざわざ図書館に足を運ばなくても資料が電子化されているものはその作品を閲覧できる。写真だからホームページの文章のようにいい加減なことがない。実物そのものだ。 ただし、もれなくどのページも写真に撮られているかどうかは確認しなくてはいけない。また、大きさはスケールがある場合には分かるが、匂いとか、手触りというような表現しにくいものは分からない。重さなどは示されていてもよさそうなものだが、大事なことではないと判断されているようで、記載されてはいない。 さて、「傾城買四十八手」については5つのデータを拾うことができた。そのうちの一冊は蔦屋が出版していることが分かっている。5つのテキストは全て版が違い、字形が微妙に異なっている。同じ版でもスリはじめの物と刷り終わりの物とでは線の太さがわずかにちがってくるだろうから、そうしたこともあって版が違うと見えるのかもしれないが、明らかに「とめ・はね」などの形に最初から違いがあるテキストもある。 しかし、少なくとも真の手の段の「手めへのやうな一刻を云ふものはねへ」の部分はすべて同一の文字組みとなっている。 ところが、よく見ると、広辞苑のように「一刻」は使用されておらず、5つのテキスト全てが「一ッ国」となっている。また、「云ふものは」も「云ものハ」となっている。これはいったいどういう了見だろう。 ただし、「一刻者」の説明の中には、「一国者」という語が紹介されている。しかし、それだからといって、「一刻」という見出し語の説明に変形させた用例を載せてよいという理由にはならないと思う。別の文をさがして用例としていくべきだろう。それとも「傾城買四十八手」が有名なので、どうしてもそこから引用したかったのだろうか。もしそうなら本末転倒だ。 広辞苑編集担当者は次のように説明をするかもしれない。 <「一ッ国」というのは現代では使用しない表記だ。だから、「一刻」とするのが妥当だという判断を下した。また、「云」の送り仮名が現代人の感覚と異なるので、混乱を避け「ふ」を加えた。何か不都合でも?> 広辞苑は原典や古き日本の言葉も大事にしている良心的な辞書ではなかったのだろうか。古語も多く収録し、用例も豊富であるからこそ、僕は広辞苑ファンだったのだ。しかし、その用例が手を加えられているものだとしたら、だまされたような気持ちに誰でもがなるはずだ。 また、広辞苑の説明で使用されている送りがなの付け方は随分と現代人の感覚と異なる付け方だ。どちらかというと学生向きではない。なぜなら、国語のテストでは失点する可能性が高いからだ。さて、「云」に送り仮名の「ふ」をつけたことにはどのような説明をするのだろう。 何かの都合で「一ッ国」を「一刻」として理解させるようにしたり、「云ものハ」を「云ふものは」に変えてしまったりするのは、編集方針なのだろうか。説明内容はよりよいものにしていくことは出版社や執筆者の使命のはずだが、原典をも編集する場合があるというのが方針だと仮定するなら、他の部分ではどうかという確認が必要だろう。全編通してその方針が貫かれているかどうかが問題となる。編集方針にぶれがあれば、要らぬ混乱を招くだけだからだ。逆に、そうした方針がないとすれば、統一性がないということでやはり問題となる。また、そうした方針があれば明記すべきではないかという問題もある。 ちなみに、広辞苑第四版の編集方針には次のような項目がある。 「四、国語項目の解説に当たっては、つとめて古典から文例を引用し、また、現代語の作例を 多く掲げ、語の用法を実地に示した。また、仮名遣いや発音を定めるに当たっては、古辞書・訓点本の類に照らして正確を期した。」 とにかく辞書にあっては不統一というものがあってはいけない。広辞苑第6版はどのような方針で編まれたのだろうか。 12-04-2008 心の断片125「行きつ戻りつ」「行きつ戻りつ」 鉄条網の向こう タンポポがまた咲く あわれミツバチ 行きつ戻りつ命を運ぶ 風は涼しく 額にそよいでは凪ぎ 今日の日も知らず 一時の幸せを味わう はるか異国の浜 寄せくる波がまたもどる うかれ旅人 行きつ戻りつ命を運ぶ 髪は緑に深く 悲しみの肩覆い いつ果てるともなし 闇の小波に船出する 敵地奥深くに残り ひとり夜寒さにまたふるえる 天に迷い星 行きつ戻りつ命を運ぶ 蒼々と月影 遠く山野をてらし あす朽ち果てん 頼りの刃に研ぎ入れる 行きつ戻りつ 時は過ぎ 行きつ戻りつ 世は朽ちて 行きつ戻りつ 人生きる 人は神の捨て子たち ゆえに愛され救われる 行きつ戻りつ滅ぶまで 10-04-2008 心の断片124「狼たちは走る」 「狼たちは走る」 赤い狼やっつけろ 赤い狼やっつけろ 赤いたてがみなびかせて 黒い狼食いに来る 黒い狼すぐにげろ 黒い狼すぐにげろ 黒い鼻先突き出して 白い牙みな食いしばる 09-04-2008 日々雑感224「オリンピックは成功させよう」 鈍色の空の下、聖火が走る。その火を消そうとする者たちがいる。それは間違った抗議行動だ。ただの暴力に極めて近い。 もし抗議行動を起こすとしたら、聖火を消そうとしたり、その走りを妨害しようとするのでは効果があまり期待できないので、別の行動を考えるのが得策だろう。それでないと、抗議行動に対する非難の風が吹き始め、逆効果にならないとも限らない。 抗議行動のレベルとして最も低いのは、今回のように直接手を下す方法だ。次のレベルは権威をおとしめる方法だ。例えば、本物の聖火よりももっと立派な造りのトーチを持って一緒に走る。その偽聖火ランナーをたくさん走らせるという方法や本物の聖火ランナーよりももっと有名な人を偽聖火ランナーとして近くを走らせるという幼稚な方法も考えられる。 バラエティー番組化させる目的で、巨大トーチ、漫画っぽいトーチ、色っぽいトーチなどを用意する輩が出てくるかもしれない。持ち物だけでなく、服装も着ぐるみを着てショー化させるところまでいけば、応援活動という顔をした抗議行動になる可能性もあるが、それなりの演出が必要で、練習も必要になる。誰にも受け容れられる行為であることを前提としつつ行う抗議であるから、テクニックが要る。そういうものであれば、抗議行動としてややレベルが高いと言えるかもしれない。 このように神聖な聖火や主催国を茶化すというのは、非常にいやらしい方法だが、実力行使を図るよりもましかもしれない。 しかし、ハイレベルのセンスと光る知性がそこに感じられなければ、抗議活動自体が次第に受け容れられないものになってくるはずだ。ハイレベルのセンスと光る知性がなければ、ただ笑いものになるだけだ。しかも、自己満足で終わってしまうため、抗議行動の効果はマイナスになってしまう。これではむなしいだろう。 あくまでも抗議活動というのはスマートでなければならない。感動的で心にしみいるものでもよい。聖火を消してバスで運ぶような事態に追い込んでしまえば、抗議行動の時間を短くしてしまい、話題とはなっても、抗議行動の効果が減少してしまうので、頭のよいやり方とは思われない。 最もレベルの高い抗議行動は、チベットと中国の目を同時に覚まさせ、互いに正しい方向に歩みより始めるきっかけを作るような抗議行動だ。非難の言葉だけではそれは実現できない。それは、誰がどういうときに何を示して何を伝えるかということにかかっている。これができなければ、世界に知性はないといってよい。 いつもは多弁な知識人たちが、ここで沈黙して様子見をしたり、誰でも言えるようなことを言ってすまし顔をしていたりしては、知識人としての名が廃るだろう。まさか、知識人にあるのは知識だけだというわけではないだろう。売名行為でもいいから、僕たちにはできない活動をして、少し衝撃を与えてくれてもよいのではないだろうか。 ともかくオリンピックは成功させなくてはいけない。会期中に事が起これば、それを見ている子どもたちへの悪影響は計り知れない。未来を担う子どもたちの何億という視線を浴びているということを意識して双方対応すれば間違いはないと思う。そんなに現実は甘くはないが、敢えてこのように単純に考えないと、らちがあかないのではないかと思ってしまうのだ。 07-04-2008 突然思い出したこと106「不善を為す」 「小人閑居して不善を為す」ということばを突然思い出した。しかし、「小人閑居して不善を為す」とはよく言ったものだ。暇になるとどんな悪さをしでかすか分からない。だから、多忙をきわめていた方がよいと思う。 暇になるといろいろな考えがわいて出てきて、それを実行することができるから、よかれと思ってやったことが裏目に出て、それが不善を為したこととなる場合も多い。妄想を現実にしようとして無理をしたときには特にそうだ。妄想は妄想で終わらせておけば罪はなかったはずなのに。 神は人に二つの安全装置を与えた。一つは「多忙」、もう一つは「貧乏」だ。貧乏暇無しというわけだ。 この二つがほどよくブレーキとなって、誤った道に踏み込まないようになっていたのだが、「協力」とか「努力」とかいう聞こえのよいアクセルによって、次第に「多忙」と「貧乏」が解消されていってしまった。すると、ピンからキリまでいる人の所業は、理想の現実化から、妄想の現実化まで、かなりバリエーションのあるものとなっていく。困った世界の出現だ。 |
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