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    4/28/2009

    心の断片171「意味などない」

    「意味などない」

    豊富な肉に無限の美
    年輪のように隠された
    その輝きはまばゆい
    肥満を嘆く意味などない

    はかない絆も永久の喜び
    別れては恋しい人
    失っては大事な人
    不幸を嘆く意味などない

    妄想の波に真理の光
    大海に秘められた黄金は
    それでも希望だ
    蒙昧を嘆く意味などない

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    4/19/2009

    心の断片170「夜歩き」

    「夜歩き」

    月明かりの路地裏
    電線が空に消えるころ
    覚えのない流血が
    僕の心を正気に戻す
    この街は
    古代色のつぶやきと透明の涙
    奇妙な夜鳥の慌て鳴き

    月明かりの路地裏
    歌声が道にもれるころ
    あやしげな希望のことばに
    君のこころは浮かれだす
    この街は
    幻色の約束と空騒ぎの電飾
    決して死なないオルゴール

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    4/18/2009

    恐怖シリーズ134「レコードと筆」

     <矢立はなかなかいい。 画像クリックで説明画面へ>
     レコード盤。この二十年全く見かけることがなくなった。マニア向けにどこかでまだ生産されていると聞く。
     それにしても、音を記録して再生するという発想をよく得たものだ。それを受けて、ある程度実用化するまでにこぎ着けたエジソンはやはり恐るべき人物だ。しかし、後続の者たちは、その発想を出発点としてアイデアを積み重ね、夢を実現させる道をたどる努力をしなくてはならないので、ありがた迷惑だとも言える。なにしろわき出てくる発想は増え続ける。もっとも、いずれどこかで見限られるということがあるはずで、払ってきた努力がそのために無になってしまう可能性もある。
     最初に発想した者、その発想を公にした者がいなければ、その発想を実現する者たち、それを造る者たち、売る者たち、買う者たちも出現しない。
     さまざまなものが生み出されていく過程でいろいろな人物がかかわっているということの素晴らしさと恐ろしさが、夢を形にするということの素晴らしさと恐ろしさだ。要は夢の内容だ。その時にはたわいない夢物語でも、時の力で多くの人が関わって実現してしまうということも現実としてある。時代の回転軸付近に位置している社会への影響力の大きい人は、おいそれと与太話に花を咲かすことができないということだ。
     さて、録音再生という発想はどのようにして得られたものなのだろうか。声真似をするという発想でもなければ、耳で聞いて頭に記憶しておくという発想でもない。肉体ではなく、物に託すという発想の飛躍はどうしても尋常なものとは思われない。
     もしかすると、オルゴールのようなものを見ているうちにもやもやと生まれてきたものかもしれない。もやもやとうまれたか、ぴんときたかは分からないが、エジソンの円筒形タイプの録音機器はオルゴールのピンと弾かれる振動部品の関係を逆転したもののようにも思われる。してみると、ことは単純だ。音を発生する機械のオルゴールに対して、録音する機械は部品の働きを逆にすればよいという単純な思いつきになる。
     もちろん、アイデアを形にし、実用化するまでには多くのハードルを乗り越えなくてはならず、大変な苦労が必要だ。途中で気持ちが挫折するかもしれない。途中で開発資金がなくなるかもしれない……。文字どおり命がけでなければできない。開発できたとしても採算が合わねば、その技術は日の目を見ることもなく消えていくしかない。こんなことに命をかける変人は圧倒的に男性が多い。そばで支えてくれる女性がいる場合はなおのこと安心して気合いを入れることができるからかえって始末が悪いこともある。良くも悪くも人の世は、この偉大なる変人たちによって大きく変貌してきたのは間違いない。
     ところで、突然レコード盤を頭に思い浮かべてしまったかのはなぜか。これは書道のトレーニング中に筆がレコード針に見えてしまったからだ。そんな太い針はないのだが、先が尖っているのだから、ぼんやりとしていればそう見えても仕方あるまい。そのうちに、臨書するのはレコード針が音声を再生するようなものなのかもしれないと頬杖ついてあれこれ思いにふけってしまったのだ。
     少し大袈裟な話に聞こえるかもしれないが、手本に似せて頭の中でイメージしたものを筆の運びで再現しようとするのは、書家の息づかい、姿勢を通して、書家の思い、精神、生きた世の中の様子までを再現しようとする試みなのではないかという妄想にとらわれ始めた。この妄想は果たしてただの妄想であろうか。
     そうしたつかみ所のないものは、どこまで再現できるものなのだろう。明確につかめるものだけをつかもうと努力するのもよいけれど、世の中にはつかみ所のないものも合わせて世の中だから仕方ない。つかめるつかめないは別として、つかもうと努力することが人間性を失わない訓練となっているはずだ。
     さて、レコード盤と違って紙には溝はない。その代わりに目に見えない溝を頭に描きつつ筆を運ぶ。同じ字でも書家によって随分と書きぶりが異なる。時代によっては書体までが異なる。同じ書体でもやはり書家によって書きぶりが異なる。
     書家の目に映った世界、書家の肌をふるわせた音、書家のこころを動かした事件……そうしたさまざまなものが寄り集まって書家というものを形成し、書に声ならぬ声を結実させていくのかもしれない。そのように、書家という存在の仕方や声ならぬ声が運筆となって表現されるとしたら、それを再現することを意識しての臨書は、書道のトレーニングではなく、書道の稽古と言わなければならないだろう。
     これは、美しく文字を書くためや、手本となる文字を忠実に再現するための筆の操法を身につけるトレーニングではなく、過去の人物の内面とその内面を形成した環境を深く考えるという作業としての稽古でなければ、取り組む価値は半減するということを意味することになる。筆というレコード針で、大昔の書家と同じような腕や指の働きを再現することにより、書家の生き様や生きてきた世の中の雰囲気を追体験できるとしたらかなり面白いジャンルだといえる。もちろん、面白さの裏には同じだけの恐ろしさもある。そもそも、その面白さに何の意味があるかを分かっているかいないかという問題がクリアできているかという基本的なハードルを越えていなくてはならない。ただ面白いと感じているだけでは趣味の世界の入り口にとどまるレベルにいるに過ぎない。
     また、別の恐ろしさもある。目や息を使い、文字ばかりではなく、文章の内容に込めた思い、願い、心の姿勢までも再現する覚悟で文字を書かねば同じような字を書くことは難しい。しかし、この稽古を極めていけば、書家の亡霊が出現すると思うのだ。
     亡霊は語り出すに違いない。その語りをどの耳で聞けばよいのだろう。どんな顔で聴けばよいのだろう。この恐怖を味わうところまで僕の人間性は高められていないので、かえって助かっているだけであるように思う。しかし、少なくともどんな気分でその文字を書いていたかということだけは、伝わってくるような気がする。
     この「気分」だとか「気がする」というところが大事だ。気のせいだとも言われるだろうが、その「気」のせいで、あるいは「気」のおかげで、僕たちは自分なりの人生を歩いているのは間違いない。
     ただ、その気分は言葉で表しにくい。これは音楽の曲と似たようなところがあるが、曲の方が気分を直接に表現しているように感じる。そこへ歌詞をのせて、表現すべき「気」をさらに明確化していく。書はどうだろう。曲と歌詞の関係は、書と文章の関係と似ているかもしれない。
     しかし、気分よりも深いところにある精神的なものには、いくら掘り下げてもおよそ手が届かない。これは自分の修業不足だ。もっとも、文字の意味や文章の意味が、気分よりも深いところにあるものへ理解を邪魔をしている可能性は高い。
     忠実にそうした精神的なものが再現されたとしたらどうだろう。また、再現し損ねたとしたらどうだろう。やはりどちらも恐ろしいように思う。ここはひとつ無難なところで習字として割り切り、点画を美しく書くためのトレーニングというとらえでたしなんだ方が結局はよいような気もする。
     あるいは、書道として割り切り、自分自身の精神修養と芸術性の追求を目的とするのも無難だろう。そうすれば、亡霊に取り憑かれることもないような気もする。
     もっとも、書家の人生観やその一生を詳しく調べぬいた後に覚悟を決め、墨をすりながら供養する気持ちを高めておくことぐらいは最低必要だろう。臨書をする覚悟というものは意外と厄介なものだ。しかし、何事も予防が第一だから仕方がない。
     つまり、何の構えもなく書と向き合って臨書に及べば、目と手からのわずかな刺激で自分の中にあるどのような魔が目覚めるか分からないということだ。大昔、書に封じ込めらた怨念、情動、精神的な屈折、そうしたものに共鳴しやすい人もいれば、感性が薄くて感じにくい人もいるだろうから、影響力は一様ではないが、用心をするに越したことはない。

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    4/3/2009

    怪しい広辞苑176「第四版189ページ・いろこ」

    <鱗が飛び散らない鱗取り 画像クリックで説明画面へ>
     広辞苑第四版189ページ「いろこ」の一行目。「魚のうろこ。」とあるので、「いろこ」イコール「うろこ」なのだと誰もが思うだろう。ところが、「うろこ」は「うろこ」でも「魚のうろこ」のことを特に「いろこ」とよぶのだという読み取りをする人が出てこないとも限らない。つまり、爬虫類の「うろこ」は「いろこ」と呼ばないという読み取りだ。 そんなひねくれた読み取りをする人など相手にしていられないという声も聞こえてきそうだが、敢えて特殊な例を挙げて難癖をつけようとしているわけではない。日常生活で無数の判断をして必要な理解をしていかねばならない人生においては、オートマチックな取捨選択とオートマチックな判断に頼ることがままあるために、そうした理解をしてはならないところでも不用意に「自分にとっては当たり前の判断癖と理解癖」をつい発揮してしまう場合があるということをおそれているだけだ。
     そもそもオートマチックな瞬間的理解というものは、その速度においては優れているものの、「了解の仕方」や「了解した内容」に対する確認が欠落しているという致命的な欠点がある。もちろん、経験を重ねることによってその欠点はカバーされていくことになるのだが、かえって融通の利かない頭というものを育て上げてしまうという危険性もある。
     学生は他のことも勉強しなければならないので、日本語の単語の意味調べなどはオートマチックな「瞬間的理解」で済ませていくにちがいない。学習は研究と異なり、まず信じるということを土台としているからなおのことだ。
     辞書の説明が数行でなされていることは、多くのことを学ぶ必要がある学生にとっては、深みにはまらずにすむため、また短時間で覚えられるために便利ではあるのだけれど、その使用単語数の少なさがオートマチックな瞬間的理解をどうしてもひきおこしてしまうように思う。さらに、「辞書を信じる」「活字を信じる」という学習者にとっては当然の心理もその傾向に拍車をかけているはずだ。
     特に辞書の説明文言にあっては、充分に検討された適切な説明内容になっていないと、収録語数の多い立派な辞書であればあるほど説明に費やされる語数が減る可能性が高いので、結局は罪作りなものとなってしまうように思う。
     ところで、同260ページ「うろこ」の一行目には、(古くは「いろこ」)と説明されている。これが本当なら、189ページの内容と考え合わせると、かつて「うろこ」といえば「魚のうろこ」のことだけを指し示していることになり、爬虫類の「うろこ」については全く別の語で言い表されるか、あるいは「○○のうろこ」というように連体修飾語を前に置くことによって言い表されるかのどちらかにならねばならない。
     もし、これが間違っているのなら、広辞苑第四版の「いろこ」の説明は、「魚のうろこ」とするよりも、「魚等のうろこ」または「魚類や爬虫類のうろこ」などとしなければならないはずだ。似たようなものじゃないか、そんなことどうでもよいことじゃないかと一瞬思わないでもないが、その積み重ねを長年続けているうちに言葉そのものに対する感覚が鈍っていくのは間違いない。
     言葉に対する感覚の鈍りというものは、大きな間違いを起こす土台となっていたり、生きる姿勢や人柄にまで影響を与えていたりするから恐ろしいものだと心得るべきだと思う。
     さて、「うろこ」の説明で「古くは」と説明されても、それがどういうことかは分からない。もっとも、これは単なる辞書なのだから仕方ない。
     しかし、一口に「古くは」と言われても明治時代なのか江戸時代なのかもっと昔なのか実に曖昧だ。また、「いろこ」の発音が次第に「うろこ」に変化していくのか、それとも「いろこ」とは別に存在する似た言葉の「うろこ」とが、ただその似ているという単純な理由でいつの間にか入れ替わってしまったのか、あるいは「いろこ」と「うろこ」の両方あったものの、まずは「いろこ」を使用する古い勢力の資料に記録された後に、その勢力が衰えて死語となり、その結果として別勢力が使用していた「うろこ」に日の目が当たるようになったのか、それとも別の理由があったのかが皆目わからない。
     この辺りが説明不足であるために、「ことばなんていいかげんなものだ」という意識が学生の心の中に芽吹いてしまう原因となっていったら非常に残念だ。そんなことを感じる学生などほとんどいないという意見もあるかもしれないが、感じなければ感じないほどに恐ろしい。自覚のないものについては自己を振り返っても本来チェックされるべきところがチェックされるべきものとして意識されないのだ。
     また、そんなことを感じる学生がどれだけいるかといっても調べるのは難しい。しかし、かつて少なくとも一人はいたということだけは確かだ。
     ただの辞書なのだから、たとえ本当のところが分からなくとも、「いろこ」や「うろこ」の用例を挙げて出典を示せばよい。これだけで語形の変遷やその背景にあるものに思いを巡らせる学生が増えるに違いない。辞書ならこれで充分だろうと思う。逆に、意味や使われ方を確認するだけの辞書では物足りないと思わせる辞書でなければならないということも言えるだろう。広辞苑はそうした辞書になり得る辞書なのだから、説明のあり方を研究し続けてほしい。

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