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31-05-2007

日々雑感189「ぶっちゃけ話」


 「ぶっちゃけ」という言葉が非常に苦になるのはどうしてだろう。僕はこれを連発する人を信用したことがない。もっと上手に話せないものだろうか。特に営業マンの「ぶっちゃけ話」にはぶっちゃけ閉口する。
 そんなにぶっちゃけていいの?ぶっちゃけるということで、そこから先の世界を閉ざしているのが、どうしても苦になるのだ。ぶっちゃけたうえにぶっちゃけるということはないという防衛線でしかないと思われていることに気づかずに営業トークを重ねるのは実にマイナスだ。
 説明が不快感をもたらすようでは、営業が成立していないのだが、消費者はものによっては必要に迫られて契約することも多い。それを勘違いして営業成果とすると、間違った評価を生み出す。この不幸は連鎖を呼ぶ。
 押しの強いトーク、なんでもないようだけど印象に残るトーク。やり手風の営業マンより、大丈夫かなと思うような営業マンの方が断然成績がよい場合がよくある。自然体で知らぬ間に同調してしまうようなおとなしめの営業は、人柄によって成立しているのだが、これを訓練によって身につけるというのは至難の業だろうと思う。かろうじて、年の功というものがそれに近いものをもたらす。もっとも、年の功といわれるまで長続きするということは、もとから営業センスがあったのかもしれない。
 知らない間といえば、知らない間に消える人がいる。数十年前は「人間蒸発」ということがあったようだが、いくぶん北朝鮮の拉致も含まれていたのだろうと思う。拉致以外の人々はいったいどこに消えていくのだろう。
 「ぶっちゃけ」が言葉癖になっている人は、すぐあきらめてしまったり、熟慮するのが不得手だったり、人の信用を得られなかったりして、つかんだ立場を失い、いつのまにかその世界から消えていくのではないかと心配する。どうでもよいことなのだが、一応心配しておくのが親切というものだろうと思うのだ。この手の親切なら迷惑をかけないし、責任もない。

日々雑感188「厄介な心」


 生き物を食う。これはどこまで耐えられるのか。生鮮度ではなく、形だ。この形というのはくせ者だと思う。ただの見た目なのに、大きな意味を持っている。
 卵の段階なら、どんな生き物の卵でも食べられる。ただしつるんと丸ければの話だ。一部を除いて普通卵は丸い。無駄のない単純な球形だ。
 魚はどうか。丸ごと焼かれて出されても、何ら抵抗感はない。無駄のない紡錘形だ。目玉が焼かれていても、この球形という形によって抵抗感ほとんどない。
 鳥はどうか。丸ごと焼かれて出されると、少し抵抗感がある。羽があったり、足があったり、嘴があったり、なかなかに複雑な形だ。肉だけを切りとり、唐揚げにされて丸くなれば、抵抗感はなくなる。
 豚はどうか。これを丸ごと焼いて出されると、丸焼き料理が少ない日本人には少し抵抗感がある。足が四本突き出ていたり、鼻が突き出ていたり、耳が突き出ていたり、尻尾が突き出ていたりと、これもなかなかに複雑な形だ。牛も同じだが、牛の丸焼きはそうそうお目にかかれるものではない。
 ところで、目はどうか。どれも眼球が眼球として球形に見えたなら、大きさによる抵抗感はあっても、卵と同じでまだ違和感は少ないはずだ。しかし、薄目を開けていたらどうか。何か生々しくて、かなり抵抗感をもってしまう。そこに表情を見て取るからだ。それは心の存在を暗示する。これが動物をともすると擬人化して見てしまう原因となる。これは人の心癖。
 目とは不思議なものだ。魚の場合は開きでない限り目が一つしか見えない。ヒラメやカレイなら両眼同時に見える。これらを比べると、同じ魚類でもやはり一つしか目が見えない方が抵抗感が少ない。両目に人間の表情を見て取った瞬間、急に半開きの口が何かもの言いたげに感じられ、食べることに抵抗感を持ってしまうのだ。
 逆に、目だけの料理はどう感じるか。目玉料理等はあまりきかない。蚊の目玉の団子というのは中華料理の高級料理だということで、小学校の時に作り方をきいたことがある程度だ。しかし、目玉料理というとどうしてもゲテモノ料理に分類されてしまう。目は心の窓というのにだ。内臓なのに内臓らしくない崇高(?)な働きをしていると、変にひいきして見ているからかもしれない。つまり、そんな目を敢て料理してしまうという料理する側の残酷さを感じて、それに抵抗感を抱くのかもしれない。目は肉に対して圧倒的に分量が少ない。それなのにどうして食べる必要があるのかという発想も、その抵抗感に拍車をかけているような気がする。
 しかし、僕たちにはかろうじて目玉焼きという卵料理がある。名前はすごいが、丸くてつるんとした卵だから抵抗感がないのかもしれない。もしかすると、実際に目玉を食べていた料理のなれの果て、つまり、代用食かもしれないと考えると、その紆余曲折が面白そうだ。
 さて、結局、僕たちにとって最も自然な料理は、原形をとどめぬほどに切り刻んだ(例えばさいころ状に規則正しくきったり、ボール状に丸めたりした)肉だ。逆に最も不自然な料理は、虫を代表とする体の複雑な者たちだ。足が六本の昆虫とか、無数の足のムカデとかだ。この体の見た目の複雑さは、見る者の神経を逆なでするに充分だ。特に細くて折れそうで、薄くて軟らかくてもろい生き物には、触れることを拒否するほどの強い抵抗感をもってしまう。たぶん、こうしたことから昆虫料理や幼虫料理で原形をとどめているものは食べるのにかなり抵抗感を持ってしまうように思う。どうしても見た目が心に揺さぶりをかける。本当に食べて大丈夫なのかと。
 複雑な形であればあるほど、それは料理の手が加わっていないということを暗示している。形のないスープ状のものなら、味さえよければ何でも抵抗なく食すことができるに違いない。手が加わっていればいるほど、人間の口に合うように努力が為されているという希望を持つのだろうか。鶏の卵を生で飲むときでさえ、割ったそのままよりも、ぐるぐるかき混ぜてスープ状にしたもののほうが心理的に飲みやすい。
 このように心というものはいろいろなものを感じるので厄介だ。この厄介なものが必要とされて生じたには、それなりの大きな理由があるはずだ。制御装置と考えれば、厄介という言葉も理解されそうだが、厄介なものの対極には果たして何が用意されているのだろう。
29-05-2007

変な疑問63「本来簡単なこと」


 役割を終えたら存在しなくてよい。だから、存在し続けたいのに役割がないと辛い。役割を果たすためにエネルギーを費やしたのに、全く見当違いの役目を果たしてしまったときには虚しい。役割を果たすためにさまざまな用意したのに、別の誰かの働きによって、自分の用意が不要となったときには、その用意は何か別の目的で役立たせないと、自分の存在が不安定になる。その用意を空転させている人や、その用意を怒りの感情に変換する人もいる。
 役割のために存在している。役立たずという評価がもっとも辛い評価となる。本当に役立たずなら別の場での評価を求めればよい。連携が悪くて役立たずになっているのなら、その連携を改善すればよい。事実無根のことならば、役立っていることを主張すればよい。
 自分の役割がどういう価値を持っているのかを知らないと、まともな自己評価すらできずに不安になる。目的が曖昧なので、適切な目標も持てない。
 自殺者の傾向はどうなっているのだろう。独身が多いか、妻帯者が多いか、妻子持ちが多いか。第一次産業従事者が多いか、第二次産業従事者が多いか、第三次産業従事者が多いか。
 「俺がやらずに誰がやる。今やらずにいつやる。」師匠がいつも口にしていた言葉だ。生きるということはこのように簡単なことなのだと思う。それを難しくしているのは、何なのだろう。
28-05-2007

突然思い出したこと86「言葉の功罪」


 人間というのはつきあうのに疲れる生き物だということを突然思い出した。第一に、ものを考えるという厄介なことをすることがある。第二に、たいした用事もないのに遠方に高速移動をすることがある。第三に、この場にはいないのにここにいるかのごとくしゃべることがある。第四に、言葉を弄して巧妙な嘘をつくことがある。第五に、その嘘に自分自身気づいていないことがある。第六に、そんな人間というものにつきあう僕も、まずいことに人間なのだ。
 人間から言葉を奪えば、かなりさわやかな生活を送ることができるのではないか。バベルの塔の神話が本当なら、通訳は神をも恐れぬ所業ということになるが、言葉がなくなれば、神のご加護を得られるのかもしれない。
 言葉がなくなれば、その代わりに何かを習得する必要があるかもしれないが、言語習得に費やす時間と労力をそれに充てればよい。
 手話や身振りは言葉と一緒だから、言葉とともになくなる。ボディーランゲージはランゲージだが、言葉ではないから、なくならない。
 言葉がなくなると、観察力が鋭くなる。目の力が必要だ。相手と文字どおり正面から向き合うようになる。情報量が極端に少なくなるから、単純な生活になる。
 言葉による文化はなくなるので、ほとんどの文化がなくなるだろう。文字がないから、本もなくなるが、絵だけの絵本は残るだろう。音楽も歌詞がないから、音曲か、鼻歌やスキャットとなる。マニュアルがなくなるので、マニュアルを必要とする機械が作られなくなったり、マニュアルを必要とする行為が不可能となったりし、作られる機械が限定されたり、行えないサービスも増えたりするので、人間の活動が大きく縮小されることになる。
 学校も、体育、音楽、美術、技術家庭とだけが教科となり、見よう見まね手取り足取りの学習方法で教師と学生のふれあいが濃厚になるから、相互の信頼関係が深まる。習い事も、口伝がないので、長期間の修行期間が必要となる。
 当然、文字に変換した知識やデータの蓄積ができなくなり、共有化も図れないので、学術の低レベル化が一気に加速する。文字による書類もなくなるので、顔見知り集団の中のふれあい集団だけで事が進められる。本人証明も、サインや印鑑ならぬ指紋押捺になる。
 こうして極めて小さな事業しかできなくなり、行動範囲も狭くなるので、二酸化炭素の排出量は極端に下がることになる。
 これに反して、言葉があると、一大事業が可能となり、行動範囲も広くなるので、二酸化炭素の排出量は上昇するようになる。
 さらに、それぞれの言葉の垣根が取り払われるようになると、情報量は極端に増え、破局に向かってひた走ることになる。数十年して、化石燃料が採掘しつくされて消費されると、地球温暖化がストップするはずだから、それまで持ちこたえればよい。逆に言うと持ちこたえることのできた者たちの世界が始まるということだ。
 今度のノアの箱船はいったい何なのだろう。海底都市だろうか、それとも空中都市だろうか。それはともかく、生き残った彼らの差し当たっての役割は、二酸化炭素の処理だ。いろいろな形でためておき、今度は作為的に放出すればよい。第三次ノアの箱船計画だ。第二次ノアの箱船計画はかの国々で図らずも(?)推進されている。言葉の垣根を強引に取り払っている国と、その必要のない国の二国だ。
 言葉がなくなると、いやみ、一言居士、罵詈雑言、うわさ話、口げんか、やじり、不幸の手紙、文字の落書き、その他の心ない一言などが、一掃されるから、随分とさわやかな世界となるに違いない。しかし、口げんかですんでいたものが、暴力沙汰になる可能性が高くなるおそれはある。
 しかし、気をつけないとすぐに暴力沙汰になることがあることを前提に生活していると、自然に周囲に気配りをしたり、態度に気をつけたりと、優しい気持ちを持たざるを得ず、紳士的な人間が増えるとは思う。法律があまりあてにならなくなるので、めんどうな問題を起こさないようにするという教訓も紳士淑女化に拍車をかける。
 また、言葉がなくなると、同時に優しい言葉かけや気の利いた言葉、やる気の出てくる言葉もなくなるので、その恩恵にはあずかれない。また、スローガンがないので、一致団結しにくい。格言もないので、自分の生活体験のなかから積極的に学習しようという姿勢を持たざるを得ない。その結果、独自の小文化があちこちに生まれることになるだろう。成文化された法律がなくなるので、不文律と目には目を歯には歯をの罰則で行動がコントロールされる世の中になるだろうと思う。論理よりも情緒が基軸となって世界が動くようになる。
 このように独自の小文化、情緒を基軸とした社会といえば、多少聞こえはよいが、実際には言葉がないと、自分の内面を詳しく他人に説明できないという時期があってカウンセリングのない社会になってしまうので、過渡期は苦しむ人が多く出ると思う。しかし、三世代も経れば、言葉を失うことで次第に複雑な心をもてなくなっていく者たちばかりになる可能性も高いから、問題意識には上らない風潮や文化が形作られているかもしれない。
 ところで、もしかすると、現在も言葉が既になくなりはじめているかもしれない。かつては微妙な違いを言葉に表現することで、それぞれの細やかな部分を別々のものとして味わった り、きちんと区別して感じ取り、豊かな言語生活を送っていた可能性が高い。色の名前一つにしても、僕たちは果たして何色言えるだろうか。十把一絡げにして、赤、赤っぽい、 青、青っぽい等のように表現してはいないか。
 道具は最終的に、その道具がなくなることを最終目的としていると思うが、どうだろう。仕方なし道具を作って対処しているが、本当は道具などなくてすめばより便利だ。そこで、なくてすむようになるための一過程として、道具が進歩していく状況が生まれているという了解の仕方をする。言葉も道具としての側面があるので、いずれはなくなっていくのを目的として、華麗に進歩してきたととらえると面白いかもしれない。
 言葉の功罪はもっと明らかにされてもよいと思うが、どうだろう。まず、マスコミの舌禍のことを考えれば、まず、マスコミがその問題をとりあげることが大事だと思う。
25-05-2007

心の断片94「ざんざぶり」

「ざんざぶり」

石畳ごろごろ歩く
有象無象の仮の宿
店舗の椅子の行儀よき

劇場の裏道暗く
今日は楽しきざんざぶり
人なく夢なくざんざぶり

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24-05-2007

日々雑感187「到着時間別人間」


 到着時間というのは人間性を表す。それは一つの能力といってもよいのではないかと思う。到着時間をコントロールして新たな人間関係を作れば、新しい世界が開けるはずだ。
 到着時間を観察していると、1時間前に来て、近くの喫茶店やロビーで過ごす人がいる。また、30分前の人、15分前の人、10分前の人、5分前の人、ぎりぎりの人、少し遅れる人、到着しても遅いからといって現れない人、最初から来ない人などに分かれるような気がする。
 1時間以上前に来る人は滅多にいない。1時間前に来る人は何が不安なのだろうか。場に臨むのに既に自分の場を作ろうとしているかのようだ。自分のペースを構築するために速く到着し、30分前に来た人を自分の空気のなかで泳がせ、一つの場を作る。場は会話であったり、空間の占拠であったりする。ポジションの獲得だ。30分前という中途半端な到着をした人は、先住民に挨拶をしなくてはいけないし、迎合する必要がある。しかし、その後で到着する15分前の人と板挟みになって、先住民の軽い奪い合いとなるが、「前々の力関係」で雲行きがかわってくる。そこへ登場する10分前の人は手洗いに行ったり、軽い挨拶をしたりと比較的枠の外で冷静にその成り行きを観察し、それを尻目に自分のポジションをさっさと作って素早く納まりをつける。5分前の人はいかにも事務的で、用を済ませばよいのだから挨拶も会釈程度で会話はなく、先の人々のような人間関係の進展はない。ぎりぎりの人はほぼ部外者で相手にされず、少し遅れてくる人は迷惑がられ、それ以外は論外だ。
 これを繰り返しているうちに他人と接するときの接点箇所の多様さは失われ、固定していく。それが人間に対する関心の差や出会いの活用力の差や幸福感の差や対人態度の傾向となり、人生観構築プロセスにも影響を及ぼすようになる。
 新たな自分を発見しようとしたり、新たな世界を開拓しようとしたり、新たな気持ちになって生きることに取り組み直そうとするときは、この到着時間をコントロールするのがよいだろう。

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23-05-2007

日々雑感186「手のこと」


 今日は近隣都市の公共施設に閉じこめられた。時間が来ると当然閉ざされるのだが、駐車場まで鎖が張ってあって出られない。こうなるとわくわくしてしまうのだが、残念なことに鎖の支柱を7本ばかり外したら、簡単に脱出できてしまった。もちろん僕がいけないのだが、車が残っているのだから、対応するのが筋というものだろう。脱出した後は元に戻しておいたが、手が汚れた。手が汚れるのは嫌ではないが、ハンドルが汚れる。ハンドルが汚れると、微妙にすべりが違ってくるので嫌なのだ。
 別に神経質なわけではない。昨日はシリコンで汚れた手で運転したら、手を洗ったはずなのに、どうやらシリコンコーティングされたようで、つるつるになり、そこへ少し油まじりの駐車場の支柱の汚れを上塗りした感じになったから、ハンドルが気になっただけだ。
 思うに手というものは、随分と酷使されるものだ。手を見れば、その人となり、職種、人生が読み取れる。手相見とはいうが、掌の線だけを見るのではなく、手全体が叫んでいる声なき声を聴く力もっていないと、教科書通りの判断しかできないのではないだろうか。既に、手相を見てもらおうという段階で、そうした人種だというふるいにかけた判断ができるのだから、占い結果の話し方の方向は最初から決まっているとは思うが、やはり占い師の能力の一つとして、全体から得た情報をうまく使って判断するという力が必要なのだろうと思う。
 二十数年前の漫才ブーム時、「THE MANZAI」でだと思うが、ツービートのたけしが手相見に将来を占ってもらうという企画があった。三角覆面の有名占い師曰く、「漫才だけの世界で終わる人物ではない。世界にはばたく人物だ。」「例えば映画監督として世界に名を知られる人となるだろう。」・・・・・・なぜかその通りになった。たけしが占い師の暗示にかかったのか、その言葉に一念発起したのか、既に動きがあって、それを密かに知られていたのか、本当に占ったのかは分からないが、もし本当なら興味深い。
 さて、僕の手を見て、占い師はどう判断するのだろう。改めて見つめると、傷跡やたこが昔を思い出させてくれる。これは自分一人の心にしまっておこう。もとより他人に見せるものでもなかろう。
 傷跡といえば、小学校の時、学習塾で鉛筆で刺された跡もまだ掌に残っている。父親がカミソリで芯を取り出そうと、僕の掌をずたずたに切ったのを覚えている。ずたずたといっても数センチを数本だ。
 祖父からは、どうして掌で攻撃を受けとめたのかと叱られた。もし、手首に刺さったら、動脈出血で大事に至るから、そういうときは掌を自分の方に向けて攻撃をさばかねばならないというわけだ。とっさの喧嘩でそんな知恵が働くようなら、もっと違う対応をしているというものだ。全く踏んだり蹴ったりだ。
 指輪やネイルアートが手そのものから視線を外すための小道具だとしたら、使ってみよう。しかし、男がすると違和感があるので、少し上等の時計をしたり、拳の握り方を工夫したり、ポケットに手を突っ込んだり、逆に素早く動かしたりして、巧妙に隠すことを考えることにしようか。たばこは、火をつける動作、たばこ本体、そして煙によってかなり手をごまかすことができそうだが、医療費を圧迫する病気にかからぬためにも吸ってはならない。とにかく、自分の書棚と手は他人に見せない方がよいと思っている。僕が敢えて手を見せるのは、心を開いているというサインだ。心を開いてどうするという人がいるかもしれないが、野暮な質問だ。傘と一緒で、ただ閉じたり開いたりするのが面白いというだけのことだ。
 ハタラケドハタラケドワガクラシラクニナラザリジットテヲミル・・・・・・彼は運のない自分の手相を見つめていたのかもしれないが、どうなのだろう。
21-05-2007

突然思い出したこと85「心霊写真」


 心霊写真はどうして顔や手ばかりなのだろう。かかととかお尻とか背中とか耳とかはないのだろうか。それとも発見できないだけなのだろうか。
 いつも僕たちはどこを見て人と感じて生きているのだろう。専ら人の顔と手ではないか。心霊写真と同じだ。顔と手以外は服なのだ。服だけの心霊写真も見たことがない。肉体で普段目にしているのは心霊写真と同じ顔と手だけなのだ。これは何か因縁があるのだろうか。そもそも霊なのにどうして服を着ているのだろうという疑問もある。もしかすると服の霊でもあるのだろうか。
 ある種の宗教、というより文化では、女性は顔を布で隠していなければならない。こうした文化を持つ地区で撮影される心霊写真は何が写るのだろう。手だけなのだろうか。それとも顔を隠している布なのだろうか。それともやはり素顔なのだろうか。
 逆に裸族はどうだろう。体中のいろいろなところが心霊写真に写るかもしれない。生前から服を着ていないのだから、やはり服を着ている姿では写るはずはないと思うが、どうだろう。服を見たことがない裸族などはどうだろう。それでも服を着た姿で心霊写真に写っていたら、それはあの世の服に違いない。果たしてあの世の服は誰がつくっているのだろうか。
 さて、目だけの心霊写真は怖いが、鼻の穴だけとか、耳とか、性器とかなどの心霊写真があったとしたら、気持ちの問題だが、ある程度愉快な気持ちになることができる。
 それでも、写るはずのないものが写ってしまうのだから、怖い感じがする。場所はもちろんのこと、シャッター速度とか、明るさとか、時間帯とか、いろいろな条件は特定のものがあるのだろうか。できたら写ってほしくないので、そうした条件がそろわないようにして避けたいと思う。人が撮ったものをただ見るだけならよいが、自分の撮った写真には写っていてほしくはないのだ。
 地球温暖化で納涼番組も年々増え続けると思うから、他にも心霊写真について思い浮かんだことをメモし、番組で話題になるかどうかチェックするのも面白そうだ。
①レントゲン撮影の心霊写真があるかどうかということが気になる。霊の骨が写っているかもしれない。そうすれば死因がわかって、誰の霊かが明確にされる可能性が出てくる。
②原始人の心霊写真の話を聞いたことがないので、霊にも写る賞味期限のようなものがあるのではないかと思う。もし、そうした霊自体の写りやすい期間というのがなければ、年々霊が蓄積し、心霊写真が撮れる確率が増えていくということになる。後、一万年もすれば、生きている人よりも、霊の方がたくさん写るようになるかもしれない。
③霊の影はあるのだろうか。写真に写るということは光を反射しているということなので、影を作るはずだ。その影を写した心霊写真はあるのだろうか。フラッシュ撮影などでは特に影が出やすいと思うのだが、どうだろう。
④指紋がわかるような接写モードの心霊写真はあるのだろうか。そうすれば何とか頑張って個人を特定できる可能性が出てくる。
⑤全方向から心霊写真をとる企画はあるのだろうか。レンズを内側に向け、数メートルの半径でカメラを回転させ、霊を全方向から写すことができれば、これまで見ることのできなかった霊の背後をとらえることができるかもしれない。霊はいつもレンズ方向を向いているから、全方向顔ばかりかもしれないが、霊に負けないように高速回転させれば、何とか霊の後頭部も撮影できるに違いない。
⑥霊が協力し、生きている人間にも有効な程度の物理的な力を持つことができるようになるなら、連続殺人の犯人の犯行を阻止してほしい。しかし、それができていないように思われるのは、協力できない状態にあるか、もともと協力できないものなのか、霊自体が存在しないか、あるいは霊の数が不足しているかだ。犯人に対する恨みは強く、この世に残って犯人を強く呪うと思われるのだが、あまり効率よく霊同士が協力し合っているようには思われない。未解決事件が多いからだ。もっとも、警察に捕まることを霊は望んでいない可能性がある。可能な限りの惨い結果をもたらして、原形をとどめない犯人が発見されていないだけなのかもしれない。
 特に霊の個人情報を集める方法を多く考え出し、誰であるかを早期に特定できるようになれば、犯人逮捕につながると思う。また、誰であるかが特定されることによって、成仏を容易に支援することができるかもしれない。僕にはその力はないけれど、力不足の霊能力者も情報の力で成仏させることが可能になっていく時代がくるかもしれないと思う。

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20-05-2007

突然思い出したこと84「デスクトップ占い」

 デスクトップの有様でデスクトップ占いを作ってみようかと思ったが着手していないことを突然思い出した。その能力がないからだが、占う方法を考えるだけでも面白そうだ。
 とにかく忙しいときほど、関係のないことを思い出したり、やりたくなる。逃げ出したいのはやまやまだが、逃げるのは癪に障る。そこで、逃避へのブレーキが必要となる。関係のないことへ逃避しないように興味関心を技術のない分野へ向けることが初期のブレーキとなる。テクノプロレタリアート(造語)の知恵ということにしよう。酒やギャンブルでは損失が大きいから近寄らぬことだ。
 さて、背景や貼り付けているものにはどのようなものがあるだろう。動物、植物、鉱物、風景、天体、建築物、家族、スポーツ選手、芸能人、アニメキャラクター、イラスト、自分、仲間、食物、道具、書物、文章、絵画、模様、カレンダー、予定表、背景無し。それらの組み合わせもあるから、かなり複雑に占い結果を出せそうだ。また、推移も考察することで、本人の変化や願望、環境の変化や未来を占うことができそうだ。アイコンの整列のさせ方、色遣い、画像の並べ方、後進の頻度やタイミングなども占いの材料となりそうだ。
 デスクトップは、勤め先の上司や同僚、後輩、家族では子どもや配偶者に見られることがある。誰を意識して、誰を意識していないかのチェックも必要だ。
 デスクトップを占いに使用するだけでなく、デスクトップセラピー、デスクトップ式セルフコントロールなど、実用的に利用する方法も占いを基礎として確立することができそうだ。
 もちろん従来の生年月日の要素を取り入れたバージョンも作っておかねば市民権を得にくいかもしれない。かなり面倒だが面白そうだ。

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突然思い出したこと83「厳罰化だなんて」


 「厳罰化しても、根本的な問題は何も解決されません」というのが得意文句の人がいる。敢えて言わなくても当然のことだ。それを声を大にして言うから奇妙に感じるのだ。問題は、後に続く言葉を言うかどうかであるのに、それを言わない。ここに語弊が生じるもとがある。
 状況が悪化したら、まず現実的な厳罰化を考えるのが道理というものだ。「厳罰化」が一方的に否定されるような語弊のある表現を公共の電波に流してはいけないと思うのだがどうだろう。しかも、番組最後にイタチのように放つからいけない。せっかくの正義感が、タチが悪い発言によって帳消しになってしまう。なぜ、最初から厳罰化をテーマにした論議のプロセスを報道しないのだろう。
 まともな論議のプロセスを示さないという報道姿勢は疑問だ。もっとも、人材がそろわず、そうしたものを示せないのかもしれないが、幼い子どもへの悪影響を考えると恐ろしい。公共の電波を使う者は、不特定多数の視聴者を相手にしているのだということを決して忘れてはいけない。お手本となるような論議を示す責任があることも忘れてはいけないのだ。
 それらが忘れられたとき、日本の言語環境はさらに悪化し、子どもの人格形成に支障を来すことになる。どういう大人が満ちあふれるのかは論を待たない。話し合いができず、言い合いとなるばかりで、解決の糸口を探る態度に欠けている大人が既に増えているような気がするのは、気のせいか。主張するのはよいが、主張しているだけなので滑稽なのだが、本人はそれがなぜか得意げなのだ。しかし、知識の披露はできるが、問題解決の知恵が欠如しているということを青少年に簡単に見破られてしまう。これではますますひどい国になってしまう。僕は憂国の人ではなかったのに、近頃は本当に憂いをもってこの国を見るようになってしまった。
 さて、ここは少なくとも、「厳罰化によって、ある程度の被害者数を減らすことは期待できるでしょう。しかし、厳罰化だけでは、根本的な問題は何も解決されません。根本的な問題は・・・・・・です。ここを・・・・・・することで解決を図るのが急務でしょう。」とか、「厳罰化しても、犯罪はなかなかなくなりません。しかし、罰金刑や懲役刑での利益を被害者救済や防犯に積極的に充てることで、一定の効果を上げられるよう、行政に期待します。」とか言って終わるようにしてほしい。報道責任というのは、報道するかしないかというレベルだけの問題ではないはずだ。
 ところで、厳罰化して困る人などいるのだろうか。
19-05-2007

日々雑感185「義理人情」

 義理と人情が薄れた世の中だから、「義理人情」と連続して表記すると、一つの意味として大きくとらえられてしまうおそれがある。
 大人は別として、「義理人情」というと、後半部分の「人情」が語句の意味合いを決定し、ある種の人情を意味するのだろうと勘違いして受け取ってしまうおそれがある。また、義理人情に厚いという言い方から、義理と人情は仲間の言葉だと感じてしまい、似たような意味だという錯覚を持ってしまう恐れもあるから、「義理・人情」「義理と人情」「義理や人情」等とできるだけ分けて書く方がよいと思う。もっと分かりやすく「義理vs人情」と書いた方がよいかもしれない。
 義理を重んじるか、人情を重んじるかで、行動が正反対になることがよくある。このバランス感覚はいつどうやって培われるのだろう。まず、何歳頃から義理と人情の板挟み体験をし始めるのかというところから見極めるのが第一歩だ。

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18-05-2007

日々雑感184「心眼」


 わずかな割合のものが、珍しさゆえに注目され、その割合を伸ばすことがある。やや伸びた割合によって得た市民権によって、その亜流や形だけ似せたものが出現し、見かけの割合がまた一段と伸びる場合がある。特定の割合を超えると、その数の力によって、質的な価値によらない何らかの変化が社会構造に現れ始める。
 注目するのは誰だ。割合を増やしたいのは誰だ。そうすることで得たものを得た後に放置するのは誰だ。操られる者は哀れだ。操られまいとして操られる者は滑稽だ。
 目を開いてじっと見つめると、実に面白いものがたくさん見えてくるものだ。数秒で画面が切り替わるテレビ番組の編集によって、かなり衰えてしまった見つめる力が少しずつ回復するようにしよう。
 絵画を見つめよう。自らベルトコンベアー化した展覧会鑑賞者から、一点集中型の本来の鑑賞を試みよう。速読によって要旨だけをつかむことに慣れた脳から、文章を眺める読みを試みよう。そうして、日常生活の姿勢を変えて、脳に本来の自由を与えよう。
 絵をみることは絵を見ることではなく、本を読むことは本を読むことではないという単純な理屈で、その個人にとっては全てが新しい価値で輝き始める。こうなると、操られることがない。心眼を得るということは、おそらくこういうことだろうと思う。
13-05-2007

変な疑問62「子育てに手作り個人紙芝居」


 紙芝居というのは、大勢を相手にすることを前提に作られているから、紙面が大きい。大きいといっても平均的な大きさの絵本を広げた大きさよりも少し小さいかもしれない。しかし、絵本と違って字が書いてないから、絵本のときに若干受けていた構図の制約というものが少ない。
 また、絵を抜く動きを利用して、登場人物を歩かせたり、絵を抜くときの速さやその変化で場面転換の意味や時間の流れを表現したりできる。絵を半分隠したり、画面を広げたりするために途中で止めたり、次の絵との組み合わせで幅広い世界を繰り広げることができる。
 基本的には演ずる者の右手で右方向に真っ直ぐ抜くのだろうが、構図や話の展開の都合である紙面を左手で左方向へ抜くということもあるかもしれない。
 絵本は子どもを膝にのせて同方向から一緒に読んでやるのが普通のスタイルではないかと思う。小さな子は、まるで自分が読んでいるような感覚になる。これは本を読む習慣を身につける上で、重要な体験になると思う。
 これに対して、紙芝居は、確実に相対して読まれる。これも鑑賞するという態度を身につける上で、重要な体験になると思う。演ずる者が子どもの表情を確認しながら行えるというのも特徴だろう。表情の変化を上手に解釈して演じ方を適切なものに変化させていくということも可能だ。
 この絵本と紙芝居の中間に位置するのが、絵本の読み聞かせなのだろうか。絵本を手に持ち、子どもに相対して演ずるのだ。これはどういう効果があるのだろうか。紙芝居は自分で読むのに適していない。字が全く違う絵の後ろに書いてあるからだ。一方、絵本には演じ手がいない。では、絵本の読み聞かせには何が欠けているのだろう。
 さて、ここでひとつ新感覚グッズ「個人紙芝居」というものを考えてみてはどうか。大勢を相手にすることを前提としている紙芝居を、個人用にしてみるのだ。
 まず、画面を小さくすることだ。名刺サイズぐらいがよいだろう。掌サイズの小型ゲーム機感覚だ。画面に対して操作する手が大きいので、画面に指がかからないよう、画面の左右に余白を十センチ程度とって、そこを持つのがよいだろう。すると、前面に見える8本の指が紙芝居の舞台の役割をする感じになるだろう。
 しかし、余白があるがゆえに、紙を抜くときの演出には制限が生じる。逆に、余白に何か仕掛けの絵や台詞などの文字を入れておけば、最初は指で隠れていて見えないものが、タイミングよくそちらの手を離したり、指をずらしたりすることによって、時間差で見せることができるということができるようになる。
 画面が小さい上に、相手が一人だからかなりお互いに集中することになるはずだ。自分だけに演じられているという満足感は、不特定多数の視聴者を相手にしているテレビを見ているときの空疎感に慣れてしまっている現代人には新しい幸福感の提供となるだろう。
 ささやいたり怒鳴ったり、息づかいを感じたり、手で肩をつかまれたり、頭をなでられたり、そうした肉声や肉体を満喫できるのは、個人紙芝居しか実現できないのではないだろうか。
 現在の子どもたちは、ゲームに相手をしてもらう時間が多く、肝心の親とのつながりが偏っているように見える。また、子どもに対する親の接し方を見ていてもどうにも腑に落ちないことが多くなってきている。テレビに育てられた親がテレビゲームで育っている子どもを傍観したり、からまわりしているという景色だ。・・・・・・国が滅ぶのは外力によってではない。
 最近は、今の親に子育てを任せるわけにはいかないとか、集団教育の学校に任せてはいられないとか、そうした暴論を平気で述べるレベルの低い評論家たち(評論家試験があるわけでもない。従って、評論家資格というものを取得している人も存在しない。)がいなくなってきた。そのかわりというわけではないだろうが、政治家が子育てに口を出すようになった。つまり、そこまで子育てが地に落ちたということだ。三歳の子どもに万引きをさせていた親がやっと逮捕された。驚きのニュースとして伝えられている。しかし、そうしたことはずいぶん前からある。また、万引きならまだいいほうだ。そうしたさまざまな驚きの実態を世間が知らないでいるだけだ。
 「子育てに干渉する政府は世間の実態を知らない」という新聞の論評があった。一応上手な文章で書かれているから説得力はあるのだけれど、実態を知った上でなおかつ干渉せざるを得ないという本当の実態をつかんでいない。そうした印象を強く受けてしまったのは、僕の読解力が発展途上だからかもしれない。
 執筆者は、意図的にそうした論調を作ってカウンターをあてるという姿勢で書いたのだろうが、新聞の方が世間知らずだという感想を持たれないように書くのがよいだろう。例によって紙面の都合という文字数制限がそうさせているのかもしれない。
 新聞社も、ひととおりの「批判」より、継続的に「批評」を掲載していかないと、僕たちのオピニオンリーダーにはなり得ない。それには文字を費やさねばならない。紙面に都合をつけるべきだろう。
 また、予想と似たり寄ったりのことが書いてあり、それに安心するという積み重ねを、僕たち購読者にさせてはいけない。安心する一方、逆に不安になるのだ。
 少しでも滅びの時期を遅らせるための努力をひとりひとりがする。そうした気持ちにさせる記事が日々掲載されるようになれば、いつか世の中は改善されていくだろう。
 こうした楽観論を持たざるを得ないのが少し悲しいが、改善していくための努力や工夫は面白い。
10-05-2007

日々雑感183「新聞」


 新聞記者というのは、かつて僕がなりたかった職業の一つだが、今となってはあまり魅力がない。それどころか、逆になったといってもよい。新聞記者は嫌だが、新聞を読むのは好きだ。だからといって、新聞記事の内容や文章が好きなわけではない。
 それはともかく、新聞にもいろいろな種類があって、いろいろな役割を果たしている。
 全国紙は全国をカバーしているので、心が寒くなる事件、事故ばかりがどうしても並ぶ。また、読む必要のない記事も多くなる。しかし、それを何とか改善しようとして、逆に質を落としているように感じるのは僕の思い過ごしだろうか。
 地方紙や業界紙などは、必要な情報が満載され、使える新聞になっている。それは地方紙や業界紙などの編集者が偉いのではなく、地方紙や業界紙であるがゆえのことだ。その上にあぐらをかいている姿勢が気に入らないという読者もいることを忘れてはいけない。
 特に、新聞業界のスキャンダルは表沙汰にならないから、腐敗の根は深いことが想像される。自覚の有無は別として、腐敗していることを前提として、信頼回復に全力を挙げてほしい。新聞というのは、僕たちが生活していく上で、本当はもっと大変重要な役割を持っているからだ。
 全国紙はさておき、地方紙や業界紙などには、全国紙にはない香りが 漂ってくる。僕はこの香りのそれぞれが日本を再生していく重要な鍵だと思っている。うまく説明できないが、大事にしたいものだ。編集者の意識の高さを思う存分、自由に表現してほ しい。ひからびた報道精神から、豊かな創造の原動力となるエネルギーへの転身を完成させてほしい。
 今の全国紙には高い見識や上品な鋭さが欠落している。そして、決定的に洞察力に欠けている。といっても五紙全部をいつも読んでいるわけではないから、一個人の偏見だと言われても仕方ない。では、おまえにそれがあるのかと言われても、ないと言うだけだ。一般人にそんなものを求める方が間違っている。そんなものがあれば最初から新聞などは必要ないのだ。一般人が求めている全国紙の魅力というのは、高い見識、上品な鋭さ、そして洞察力、この三つだと思う。NIEということを言うのならなおのこと重責を負うことになる。
 まず、新人記者の教育から始めてほしい。将来、新聞社のレベルがこの国民の堕落の原因の一つとならないようにと祈っている。
 

変な疑問61「お得なグループ」


 医療器具は拷問器具に似ている。歯牙検査用の先が二センチほど曲がった太い針は、それ一本あればどんな屈強な男でも必ず白状させることができる拷問器具だ。おそらく我慢のできる痛さだ。下手に我慢できるだけに長時間責められる。責め疲れることもない。血もほとんど出ない。だから罪の意識も軽く、長続きする。別に白状しなくてもいいんだよと優しい声をかけながら責めれば、責められる方も励まされ、長持ちする。しかし、拷問は人権侵害にあたるので行ってはならない。器具は使用目的外に使うものではないのだ。
 また、器具でなくてもくどいのはいけない。一年三百六十五日、毎日人間ドッグの検査攻撃。一年三百六十五日、毎日栄養ドリンクだけで暮らす等々。
 さて、拷問が人権侵害で禁じられているのに、それと同じことが企業相手や国相手に行われることがある。個人に対してはいけないことも、グループに対しては許されるということなのか。こういう感覚は興味深い。また、個人がやると重大犯罪なのに、グループがやると仕事として受け取られ、社会的に認められることもある。こういう感覚も興味深い。その底にあるものは何だろう。
 あの太い針でがりがりやられるのが一人だけだとかわいそうだということになる。しかし、全員がりがりやられれば、自分が最も長時間がりがりやられたと自慢げに話すことになる。集団旅行でイビキのために一人寝られないと悲惨な思いを抱くが、グループで起きていれば、イビキを鑑賞して楽しむという心の余裕さえ生まれる。
 グループになった方が有利だという意識をもつように僕たちの感覚が働くように仕組まれているのだろうか。
08-05-2007

心の断片93「扉がある」

「扉がある」

普通の扉がある
いくつもの鍵があり
僕はそれを持っている
盗んだり掘り出したり
もらったり買ったり
自分で削りだしたり
でも
きっと辛い思いをして手に入れた

気まぐれな扉がある
いくつものチャンスがあり
僕はそれをのがさない
招き入れたり
閉ざされたり
きまぐれだけど
必ず交互にやってくる
でも
自分でこじ開けるときほど楽しいときはない
 
勿体つけた華やかな扉がある
それは扉だけのときがある
そのむこうに何もないのだ
何もないのに何かを感じる人もいる
感じた人だけノックすればよい
誰か返事をしてくれるかもしれない
でも
だからといって開けてくれるとは限らない

扉は僕を飽きさせない
僕も扉を休ませない


07-05-2007

心の断片92「ベルト地帯」

「ベルト地帯」

瓦礫の山のひび割れる
ほとほと困りし地神ども
のらりくらりとあふれだし
ゆらりふらりとたちのぼり
黒く淡くたなびきわたる

コノムラニナニオシタ
コノカワニナニナガシタ
タハタワドコジャ
ヒトワドコジャ
ヤシロワドコジャ

のろわれよ のろわれよ
どこまでもがさつなコンクリート
ぶきみなプラスチック
ののしりあう貧しい声
もうそれしかここにはないのだ


05-05-2007

突然思い出したこと82「裏表」


 表裏(ひょうり)、裏表(うらおもて)のように、順序を変えると、音読み、訓読みの違いがある熟語がある。理由はわからないから教えない。何かの都合をつけたに違いないのだが。
 それよりも、手の裏と、足の裏の関係から、いかに都合よく言葉が使われているかを考えてみると面白いのではないかとと思う。
 さて、手の裏とはどちらだろう。感情線とか頭脳線とかの手相を見ることができるのは、表だろうか裏だろうか。足にも感情線や頭脳線や生命線に相当するものがあるはずだが、不勉強のせいか、いまだかつてそんな話は聞いたことがない。
 足の裏とは土踏まずがある方だが、そうなると手の裏は手相を見る方ということになる。この裏が働いているのだ。手はものをつかみ、足は体を支えて歩く。裏は懸命に働いているのに、表は一見して遊んでいる。別に遊んでいるように見えているだけで、文字どおり表裏一体となって働いているのだが、働いて汚れるのは裏だ。
 しかし、手の裏を見せてと100人に声をかけた場合、いったい何人が「てのひら」を見せるだろうか。また、何人が「てのこう」を見せるだろうか。そして、一瞬とまどう人はどれぐらいいるのだろうか。
 おそらく、「手の裏」という言葉を聞くと、「てのひら」とは別のものだと思って、「てのこう」を見せる人がいるだろう。また、足の裏から連想して「てのひら」を見せる人もいるだろうと思う。
 そういえば、裏表ジャンケンというのがあった。三すくみのジャンケンではなく、手の裏表を出してグループを作るためのジャンケンだ。同じ種類が多い方が勝ちという勝負の付け方もできる。相手が多いとき、普通の三すくみのジャンケンではあいこが多くなって決まりにくいから、この手の裏表を使って行うジャンケンが登場することになる。今となってはどちらが表だったか思い出せない。

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04-05-2007

突然思い出したこと81「年功序列」


 年功序列という古い言葉を突然思い出した。弊害のある旧式のシステムで、実力主義とか能力主義とかいう類の名目のもとに消えていったはずのものだ。
 能力があっても実力を発揮できなかった人間は、それを他人のせいや体制のせいにするに決まっているから、あまり好ましくない。能力がなくても、他人の能力を使って成果を上げるというのは、それも成果を上げることには違いないから、実力があると認められる。こうなると、人が悪くなる。
 狡いこと、責任を押しつけること、嘘をつくこと、飾りたてること、弱いものを助けないこと、巧みにとりいること、こうした自分のことだけを考えるという姿勢から生まれるマイナス面もたくさんもっていないとけない。こうした日常を送る親に育てられた子どもは、親がいくら隠していてもにじみ出てくる人間性を吸収していく。
 三代続けば純粋の自己中心的な人間ができあがる。世の中縦走した人間で満ちあふれれば、今とは違う秩序の付け方で世の中が回るようになる。
 とは言っても、これは「つなぎ」の世代だ。時代と時代の狭間に生じる矛盾を乗り越えるため、さまざまなひずみを個人レベルで背負ってくれるありがたい存在だ。迷惑な人々には違いない。しかし、新しい世代を生み出すためにはどうしても必要な汚れ役なのだ。
 さて、実力主義や能力主義が浸透する前に、実力至上主義や能力至上主義に意味合いを変えてしまいそうな現在、果たしてそれらが本来の役割を果たせず、不発で終わるのではないかという不安がある。役割を全うする前に弊害が生じ、対処する知恵もつけないまま、実力主義、能力主義の次に来るものを迎えるのは、いかがなものだろう。
 こうした時期、年功序列というシステムをさまざまな時代の流れをくぐるなかで編み出していった古人の知恵を思わずにはいられない。年功序列のマイナス面を拡大したのはどんな状況なのだろうか。プラス面を成長させなかったのは誰なのか。このシンプルなシステムを運用し損ねた罪は大きい。汚れたたらいの水を赤子とともに捨てる愚行をおかしてはならない。
 残念ながらそのことに気づかない世界にいる人たちがたくさんいる。「世界」というのは恐ろしいもので、物の見方を規定するから、不自由なのだ。言い換えれば、その世界で自由に活動するには、その不自由さを前提として受け入れなければならない。活動に成果ありという自覚を持ったとき、成果に価値を認めたことになり、その価値を生み出した不自由さを否定する意味がなくなる。つまり、不自由などないという感覚になる。
 だから、「世界」のなかで人は成果を求めて命を削るのだろう。人間は常に自由でありたいからだ。そんなかりそめの自由であっても僕たちには貴重なものだからだ。
 外れた場所にいればいるほど、自分の立つ「世界」のことを知り、先が読める。岡目八目という言葉がある。さて、どこに位置するのがよいのやら一概には言えないが、それを自分で決定するか他人が決定するかで、人生の味わい方が変わってしまうだろう。
 決定される前に自ら決定すべく先手先手で行動するという方法をとるのもよい。また、決定された後に、そこで扱うべき問題をはるか上まわる問題を解決すべき提案をし、かかわる者全てを巻き込んで動くという手もある。どちらも面白い。もちろん、どちらも捨て身でかかることにかわりはない。その捨て身の緊張感が面白さのもとだ。
 年功序列は、時間という誰も否定できないものを根拠として用いたところにポイントがある。今求められている福祉型のシステムだ。しかも、金があまりかからない。もちろん福祉型だから経済的に余裕のあるときのシステムだ。余裕といってもそこそこの余裕だ。それがピンチになると福祉型のシステムは休止する。あくまでも休止であって廃止であってはならない。そこを間違えると、打開力を発揮することはできても、維持力が乏しいために、結果として混迷の時代を迎えることになる。
 当然、単純な年功序列は弊害が大きい。しかし、現代人ならもう少し知恵を付け加えよう。いつの時代の現代人もそうしてきたのだから。
 その努力を怠ると、年功序列の要素が失われていき、結果として老いも若きも苦悩を個人で抱えることになる。個人にのしかかるプレッシャーが高まるからだ。そして、年配の者や仲間から愛されたり、癒されたりする経験が乏しくなるからだ。
 誰もがプレッシャーをはじき返す力を持っているわけではない。乗り越えられぬ人々がある程度増えると社会も病みはじめるはずだ。
 もしかすると、年功序列社会の典型、学校での学年をとりそろえたクラブ活動のようなものにヒントが隠されているかもしれない。