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5/20/2008 怪しい広辞苑153「第四版159ページ・一銭切」 広辞苑第四版159ページ「一銭切」の説明。 「戦国時代に行われた刑。たとえ一銭でも盗んだものは規律を保つため斬罪に処したからとも、切り口の形の類似からとも、また、一銭ものこさず財産を没収したからともいうが実態不明。」あるが、紹介された三つの説はどれもおかしなものばかりだ。これは広辞苑のせいばかりでもなさそうだが、怪しい説明はやはりよした方がよい。 最初の「一銭でも盗んだら斬罪に処したから」というのは変な説だ。「あやつは100両盗みおった。絶対に一銭切にしてくれるわ。」ということになるわけで、これを聞けばすぐにその罰の名称がおかしいと気づく。また、一銭盗んだやつと、1000両盗んだやつが同じ斬罪だというのも解せない。どうせなら大金を盗もうという気持ちになる。さらに、刑の差別化ができないので、遺族に不公平感が募り、それが為政者にいつかは跳ね返っていく可能性があることも考えると、ますます現実的な刑のあり方ではないように思われてくる。 次の「切り口の形の類似から」というのも変な説だ。第一、広辞苑第四版には、「何の切り口か」という説明がない。そのために、たいへん曖昧な説明になってしまっている。仮に首の切り口のことだとしても、確かに形は似ているものの、一銭硬貨とは大きさが桁違いで、「一銭切」というには程遠い。また、平らな円柱形をしていなければならないのに、首の切り口の形ばかりが似ているだけで、平らな一銭硬貨とは似ても似つかない。それに人一人を殺せば、その処理が面倒だ。戦国時代だから人の命が軽かったのだと言われても、面倒なことはやはり面倒で、そうしたことは避けたいという気持ちはあったはずだ。辻斬りとは違い、刑罰で斬り殺す以上、費用もかかる上に、後始末をしなくてはならないということだ。 最後の「一銭ものこさず財産を没収したから」というのは実に珍妙な説のように聞こえる。それゆえ広辞苑も三番目に記したのかもしれない。これは、一銭も残さないのだから全部没収ということのはずだ。それなら、財産没収ということを言えばよいだけのことだ。「一銭」というものを出すこと自体が「のこらない」はずのものを「一銭」と表現しているのだから、これも非常に不自然な表現だと思うのだ。 そこで、もしかすると次のような身の毛もよだつ恐ろしい刑なのかもしれないと想像してみた。 そもそも一銭の直径は二センチから三センチの間だ。これは人の親指の直径に似ている。この親指をスライスすればどうか。大きさといい、真ん中に骨の通った空洞ができ、まさしく一銭硬貨のようではないか。これなら死なないから処理の手間も費用も要らないというわけだ。もちろん、親指だけでなく、ほかの指にもこの刑を及ぼすのに異論をはさむ者はいないだろう。 また、盗んだお金に応じてスライスの回数を増やせば刑の差別化も実現する。特に盗んだ金額の分だけ一銭刻みにするというものなら、脅しの効果も抜群であったろうと思うのだ。こう考えると、刑に差別をつけることができるので、実に合理的な刑であるように感じる。そのスライスした指は被害者にでも献上すればよいではないか。身をもって刑に服するとはこのことだろう。 ところで、どうして戦国時代にだけ「一銭切」が執行されたのかという疑問を解く鍵は、一銭の厚みほどに指を少しずつスライスしていくというその残酷性にあるように思う。 止血しやすく、痛みは大きく、刑の量を合理的に算出できるが、その残酷性は高く、一瞬で執行が終了する斬首が安楽死であるのと対照的だ。しかも、一日に一銭分ずつというようにスライスする間隔を調整できるため、拷問のように嫌な苦痛を与え続けることが可能だ。 しかも、指をスライスしていくということは弓も刀も操作できなくなるということで、戦国時代にあっては命は取らないが命取りの刑ということになり、二度と乱暴狼藉は起こせなくなるということになる。しかも、どの労働にも従事しがたい身体障害者にされてしまうのだから非常に辛いことになる。逆に、命を取ってほしかったという気持ちになるかもしれない。 つまり、斬首が人道的であるのに対して、こうした「一銭切」ならば非人道的な処罰になりやすいという欠点があるともいえる。 その上、斬首によって殺されてしまえば大人物でない限り日々忘れられてしまうが、こうした「一銭切」であるならば、生き恥をさらしつつ、人々に刑を与えた側の意向を強く示していける。さらし首なら位置が固定しているので、近寄らねば気にもとめられず、いつかは朽ちていくので期限付きの効果しかない。しかし、「一銭切」がこうしたものであるならば、命ある限り刑の結果が宣伝され続けるという絶大な効果が期待できる。また、刑を受けた者が命までは取られなかったという了解の仕方をしてくれ、恩を感じてくれる可能性がないわけではない。 このように反省して更生する機会を与えられたという意味では、斬首よりも人道的だと言えるのかもしれない。 いくら想像しても始まらないが、記録では誰が誰にどういう罪状でこの刑を言い渡したことになっているかを追究していけば、「一銭切」の実態も少しは明らかになってくるのではないかと思うのだが、どうだろう。 「一銭斬」ではなく、「一銭切」であるのも気になる。これは刀ではなく、もっと別のもの、例えば「のみ」とか「のこぎり」のようなもので行うということの証拠であろうか。 ★ホームページに戻る 5/18/2008 恐怖シリーズ109「対応不能」 物がたくさんあるのは怖い。おそらくそれはその多さに対応できないと感じているからだろう。 しかし、たくさんすぎると怖くなくなる。これは観念しているということだろうか。それとも、ある一定以上の多さになると、それ以上に多さを実感できないからだろうか。もしかすると、たくさんすぎて気づかないのかもしれない。 物が速く動くのも怖い。それもその速さに対応できないと感じているからだろう。 しかし、速すぎると怖くなくなる。これもやはり観念しているということだろうか。それとも、ある一定以上の速さになると、それ以上に速さを実感できないからだろうか。もしかすると、速すぎて気づかないのかもしれない。 ただし、慣れということがある。同じ多さでも、また同じ速さでも、慣れてくると多く感じられなかったり、速く感じられなかったりする。これは感覚を調整して、慌てずに処理できるように錯覚が起こっているだけだと解釈した方がよい。慣れたからといって、現実が変化したわけではない。 そのような錯覚によって対応が円滑に行われるようにする必要があったということは、慣れる前の状態のままでは対応に無理があったということの証拠だ。幸か不幸か、慣れるに従って恐怖感はなくなり、平気で行動できるようになる。その結果、どうしてあんな無理をしたのかと思われるような事故が起こることもある。自動車事故も運転に慣れたころが危ないとよく聞く。 この慣れによって対応しきれない領域については、努力して慣らすことになる。当然、その「慣らし」にも限度がある。その先は気合いということになる。一か八かの勝負の世界だ。そこでは敗者は消え去る。敗者が多ければ多いほど、勝者の輝きは強くなり、伝説となる。 さて、恐怖の要因である「たくさん」且つ「はやい」ものといえば、どのようなものがあるだろう。 ①都会の駅の構内を歩く人間 これはあまり数が多くなると渋滞して滑稽な動きとなるが、適度に多いと接触しそうな距離を高速ですり抜けるような動きになって怖い。これは自分も同じ方向で動けば怖くない。ただし、行きたい方向に行けるとは限らないので困る。 ②頸動脈を斬ったときに出る血液 これは量に限りがあるので、怖いと思う時間が短いので大丈夫だ。血だと思うからたくさんだと感じるが、ホースから出る水と比較すれば日常的な量だ。従って、そのように感じるように心の調整をすればよい。また、斬られたのが自分であれば意識が遠のくから怖くない。ただし、怖くなくても死んでしまえば元も子もないので困る。 ③決壊しそうな河川の流れや高潮、津波の類 これは手の施しようがないので怖い。一秒でも早くその場から離れ、高い土地に行くしかない。そもそも最初から高い土地に住めばよい。ただし、高い土地といっても崖崩れ災害に遭うようなところでは困る。 ④襲ってくる蜂の大群 これも一匹ずつ戦えば勝つが、大群だと対応できないので怖い。しかし、縄跳びがあれば二重飛びか三重跳びをし続けるとバリアをはったような状態になるので少し大丈夫だ。跳びながら前進し、安全地帯に入り込むしかない。ただし、日常の訓練を相当必要とするので、その備えがない場合は困る。 ⑤武道家やボクサーの技の類 短時間にたくさんのパンチを繰り出すので怖い。しかし、所詮は腕の長さよりも離れていれば、技が決まることはない。もちろん踏み込みもあるので、踏み込む歩幅の長さを合わせた距離以上を維持すれば大丈夫だ。また、技をかける前に何らかの方法で居すくませたり、むかってこさせたりして、そこへ技を決めに急速接近するのが常套手段だから、その手に乗らないように冷静さを保って逃げればよい。ただし、同じ土俵に立つようにプライドを刺激したり、条件を示したりするなど、合法的に仕組んでくるので困る。 その他「たくさん」かつ「はやい」ものはたくさんあるが、普段から作戦を考えて備えておくしかない。「備えあれば憂いなし」ということだ。これは、十分な備えがあれば助かるという意味ではない。あくまでも憂いがなくなるだけだから覚悟だけはしておいたほうがよさそうだ。 結果はどうあれ、対応不能のまま最悪の状況に陥ることだけは避けるように知恵を磨いておくことが大事だということだろう。ただ、夜空の星が多すぎて怖いというのは手の打ちようがない。環境がよいということだから感謝しておこう。感謝してしまえば怖いことではなくなるというわけだ。 日々雑感227「豊かな心は面白い」 面白いという気持ちは、「たくさん」ということと「進む」ということと関係が深い。いろいろな物やいろいろな様子がたくさんあればあるほど面白く、少なければ少ないほど面白くない。 たくさんあれば、組み合わせも多くなり、自分の予想通りのものを見つけたり、予想外の組み合わせを発見したりする面白さにあふれる。 少なければ少ないなりに楽しめるのだが、やがては飽きてしまうことが多い。ただ、自分の手製の小さな世界をそこに創って心を遊ばせるということはできるので、侮れない。 子どものブロック遊びは、たくさんのブロックがあればあるほど「たくさん」の物がつくれたり、大きなものがつくれたりする。そうした大道具、小道具を操って物語を「進め」ていけるので面白い。また、手がけるほどに上手になり、作品も単純なものから、本人も二度と組み立てられないような複雑な作品へ、「進ん」でいくのも面白い。 ただ、ブロックの数に限りのある貧しい家の子どもは、単純な形しかつくれない。しかし、いろいろに見立てて心を遊ばせることはできる。貧しいために友達からもらったブロックが五つしかないという子どもも、それを縦につないで、「如意棒、剣、ビル、望遠鏡、マイクロフォン、鉛筆、物差し、縦笛、横笛、蛇、注射器、特急列車……」などと見立てて満足する。貧しくとも、心は豊かというわけだ。 豊かな心というのは、いろいろな心のことだが、そのいろいろな心の一つ一つが深く、高く、広くなくては豊かな心とは言わない。深く、高く、広いのだから、心の豊かさというものは容易に数値化される可能性をもっている。 たとえば、豊かな心の中でも、事に当たって「多く」の解釈をし、「適切なもの」を時と場合によって「いくつか選択」するための心の場合は、単純に数値化できそうだ。頭から、心の問題を数値化するのはいけないというような思い込みをしている人もいるが、数値化して傾向をつかみ、病院や学校で、治療や指導をするために用いられる場合には問題はないだろうと思う。数値化の方法については、数値の利用結果の具合を見て修正していけばよい。 大人のコレクションも、たくさん集めれば集めるほど「たくさん」の分類ができて面白い。たくさんの分類ができると、どうしても品数が不足する分類も出てくる。すると、それを充実させていくという方針が立てられ、コレクション活動が一段と効率よく「進む」ようになる。また、集めて分類する過程で、どこにも分類できない新しい物が見つかったために、新しい分類項目を立てることになったり、新しい事実が発見されて、単なるコレクションから資料的価値が生まれ、話が歴史や文化の問題に「進展」していったりするのも面白い。 ただ、コレクションは、資金面で制限を受けるものなので、収集品の限られた物品数の中で、どこまで深く味わえるかという個人芸のごとき味わい方をする傾向をもつようになる。個人芸といっても流通に乗って売買がなされるものに対して行われるものだ。従って、マニアがつくる世界の中でだけに認められた価値であっても、お金が絡むから、そうした意味ではそこそこに社会性を持ったものとしてして評されることになる。 もちろんこのような遊びや趣味だけでなく、仕事、スポーツ、学問、恋愛でも面白いというという気持ちが関係することについてはおよそ同じだと思う。 しかし、面白いだけでは本当は面白くないという問題がある。面白いだけではやがてつまらなくなり、むなしくなり、活動は知らぬ間に停止していく傾向にある。そこで、何を面白いと感じるかを変え、別の価値を感じ取って別の話として再出発させたり、どこかで「進み」の度合いを抑制し、活動が停止するまでの時間を稼いだり、何かとつなげることで「進む」方向を変えたりしていくという努力を試みていくことになる。 こうすることで、別の面白さをつかんで世界を広げたり、多面的に多角的に深く理解していって、物事に対する見識や自分の生活を高めたり、幅を広げたりすることができる。このように面白さを持続させるための「さばき」をスマートにこなした結果としての分別を持った人間を「大人」と呼ぶようにしたい。大人になればなるほど味のある言動を取ることができるということだ。ただ単に素早い行動、賢い行動がとれるだけの「できる人」は頼もしくはあっても、こちらの心を豊かにはしてくれない。感謝の気持ちや尊敬の気持ちを抱くことはあっても、自身の心が満足ができないから、結局は何か物足りないという気持ちに支配されてしまう。 「大人」の人格に成長していくことは、まだ人格が未熟な幼少の頃から心がけていさえすれば、実はそう難しいことではない。肉親であるかどうかは別として、心がけるように仕向ける親の存在がただただあればよいように見受けられる。自分の子どもは、自分のコピーでも、自分のロボットでもない。その仕向けを感じ取って自らの道をきりひらくものだろうと思う。これができないと、「子ども」の人格のまま成長してしまうことになる。「子ども」として完成されていくのは、芋虫が蛹にならないまま大きくて立派な芋虫になっていくのに似ている。 さて、「大人」になるように仕向ける方法とは、親と子どもの会話の中で生まれてくる絶妙な世界の広がり方に子どもを歓喜させることに尽きる。これには、会話の作法が重要だ。作法の中には礼儀も含まれているが、もちろんそれは作法の中核ではない。作法の中核にあるのは、会話の意義、会話の効果、会話の手法などの基本的な心構えと技能だろう。 安直に大人の社会の仕組みを知識として教えたり、大人の考え方を紹介したりすることも会話の中ではあるだろうが、それは必要なときに行うべきことだ。 では、どうしたらよいのだろうか。たとえば、日常の会話の中で、「それはいつやるのかな。」と時間の世界を意識させたり、他の行動予定との折り合いを考えさせたりする間を与えるのも一つの手かもしれない。また、「どんな味が混じった味なのかなあ。」と感覚を思考の対象にさせて、それも一つの世界だと意識させたり、漫然と受け容れて、単においしいという一言で切り捨てるのではなく、調理のために味から逆算するような分析する間を与えるのも面白いかもしれない。 人間に対してすばらしいとか醜いとかは思わないが、人間ほど面白いものはない。こう思うのは僕が人間だからだろうか。 5/13/2008 突然思い出したこと109「人生論」 お茶を飲んでいたら、「人生論」という言葉を突然思い出した。 その昔、大人たちが小難しそうな顔をして「人生なんたらかんたら……」というから、よほど難しく、何やら高尚で神聖なものだと思っていた。しかし、その時は大人の使っている漢語が分からなかっただけのことだった。 大人になってみれば別段どうということはなく、人生とは人それぞれが歩む実にありきたりのもので、人が生きている期間に何をしていたかということだった。それ以外の何ものでもないのに、よりよく生きたいとか、みんなに愛されるように生きたいとか、損をしないようにうまく立ち回りたいとか、これら余計な欲を丸出しにして考えるから難しいものになってしまうとしか思えない。 それを恥ずかしく思うからか、少し高尚に「何のために生きるのか」「いかに生きるべきか」などという打算的な色彩のない疑問を掲げて、自らこれに答えようとする無自覚の言葉遊びに陥る人もまだ案外といるようだ。もし、表面的にではなく、心底その疑問について悩むのならば誠に愚かなことのように思われる。こうした種類の疑問については適度に悩んでそこそこの解決をし、適度に賢く愚かしいのがよいように思う。このように哲学がかったことを何人かで追究するのは、思考トレーニングとしては面白いからだ。十分な結論を早々に出してしまい、いいところでトレーニングを終わらせてはならない。 しかし、そうしたトレーニングもせずして、具体的に人の生き様を規定する言い継がれてきた言葉をだけを幟旗のように押し立てて人生論の代わりにする人がいる。こうした人物を甚だ怪しく感じてしまうのは、僕だけだろうか。 「人に迷惑をかけるような生き方をしてはいけない」という人もいる。しかし、迷惑をかけていない人などついぞ見かけたことがない。迷惑をかけまいとして生きている人は案外見かける。しかし、残念なことに実際には迷惑をたくさんかけているのにもかかわらず、自分は人に迷惑をかけていないと信じ込んでいるとしか見えない人も多い。大事なのは、迷惑をかけまいという心遣いができているかどうかということだ。「迷惑」なのだから、もともと他人が判断することだ。迷惑をかけてないかどうかなどという自己評価を決してしないことだ。 「自分は人に恨まれるようなことはしていない」という人もいる。だから、おまえも人に恨まれるようなことをしてはいけないというのだろう。しかし、あからさまに恨み言を本人に対して言っていないだけのことだ。それは、言わないのが大人だからだ。大人はお互い様だと考えるゆえに、あえて恨みを直接相手にぶつけない。だから、本人は気づかない。逆に、自分で気づくのが大人だともいえる。しかし、世の中、大人ばかりではない。従って、自分は人に恨まれていないなどという非現実的なことを考えないことだ。大事なのは、お節介にならぬ程度にそれとなく人に喜ばれることをすることだ。 「人様に後ろ指を指されるような生き方をしてはならない」と説教までする人もいる。しかし、これも残念なことに現実的には全員が後ろ指を指されている。だから、たとえ後ろ指を指されていることに気づいても落ち込む必要は全くない。大事なのは、後ろ指を指さないということと、後ろ指を指している人に後ろ指を指されているよと、気分よく悟らせることだ。 ところで、僕にとっての人生論がそうであるように、神聖なるものが急速に消滅し始めている。世の中に情報があふれるにつれ、神聖なる物が次々と姿を消すだけでなく、こともあろうに滑稽な存在にまでおとしめられていく傾向にないだろうか。滑稽であれば、より多くの人々に曲がりなりにも受け容れられやすくなるという利点があるからだろうか。 いつの間にか僕たちの脳は、難解なものをじっくり解明して味わうよりも、瞬間的で反射的で滑稽で面白いものを感じ取る方を選び始めているように思う。玄妙で味わい深いものより、浅くて手軽なものを。時間をかけるより、インスタントに。このように方向付けられているのを今さら否定する人もいないだろう。 これはワンカットが数秒のテレビ番組や映画などを見続けるという訓練の成果かもしれない。短時間にたくさんの情報を与えてイメージをふくらませる手法は、半ば強制的なので努力を要さない。このような反応の仕方、物事に対する姿勢を定着させるための訓練を無意識に毎日行っている人に自分がなってしまっているようで何だか怖い。 もちろん、この反動もあるはずだ。 僕の場合、それは何だろう。夜空の星をじっと眺めることだろうか。もちろん、どの星の名前が何なのか分からない。逆に、それでますます神秘的に感じる。神秘的なものは少し角度を変えてとらえると、もう一頑張りで神聖なものとして感じ取ることができる。もっともこれは遠望訓練なので、それを一旦忘れなければならないという面倒はある。 5/12/2008 怪しい広辞苑152「第四版159ページ・五瀬命」 広辞苑第四版159ページ「五瀬命」の説明の二行目。 「神武天皇の兄。天皇と共に東征、」とあるが、誤解を招く説明ではないだろうか。確か東征後に天皇に即位したはずだから「五瀬命」は「天皇」である弟といっしょに東征することはない。 従って、「天皇と共に東征」という説明では誤解が生じる。これでは「五瀬命の弟」が「天皇」という立場で東征をしたことになってしまい、おかしなことになる。 さらに、「五瀬命」は東征中に命を落とすのだから、「神武天皇の兄」という説明もおかしくなる。なぜなら「五瀬命」が存命中に弟は即位していないからだ。 ここは、「神倭伊波礼琵古命」などの天皇となる前の名を使って「○○(後の神武天皇)の兄。○○と共に東征、」としたらよいかもしれない。さて、第六版ではどうなっているのだろうか。 神武天皇自体がもともと架空の人物だからどうでもよいという人もいるかもしれないが、本当に神武天皇が架空の人物かどうかはわからない。また、突然に天皇家の人々が人造人間のように登場するわけはない。学問的な見解はひとまず置いておき、当然のことながら祖先はいて、行状はどうあれ、神武に相当する人物もいたかもしれないと考えるのが自然であるように思う。 130歳近い年齢は眉唾だが、2世代、3世代にわたってやり遂げたことを端折り、一人の人物の業績としてまとめてしまうことはあり得ることだ。例えば、自分の家系のことを考えても、あるところから分からなくなる。記憶では対応できないので、記録を見る。その記録が不十分ならば、それ以前のことは何らかの資料をもとにしたり、現実をさかのぼって物語を作ることになる。これも極めて自然なことだ。 しかし、大事なことは、神武天皇という名前が伝えられているという事実からは何が分かるかということ、また、神武天皇という名前が人々の人生にどんな影響を与えたか、そして今与え続けているかということだ。 5/11/2008 突然思い出したこと108「三人寄れば文殊の知恵」 お茶を飲んでいたら、なぜか「三人寄れば文殊の知恵」という言葉を突然思い出した。 「三人寄れば文殊の知恵」ときれい事をいっても、三人寄れば二人が自然と結託し、あとの一人をいじめるのが常だ。もちろんいじめる側にいじめている自覚はない。いじめられる者も他の一人といつしか結託し、残りの一人をいじめるから、これを繰り返すうちに何がなんだか分からなくなり、これが人間関係なのさという誤った了解をすることになる。 敵か味方かコウモリ、あるいは無関係。人間関係にはこの四種類しかない。実に単純なものだが、信じるという名の「信じ込み」や、愛(合い)という名の「合わせ」や、恋(乞い)という名の「おねだり」がからんでくるので、何か事をなそうとすれば、人間関係は難しいという錯覚に陥る。 ここで愛を「合い」ともじったのは、「愛」が音読みであるのに対し、「合い」は訓読みだから、結構不自然な手口だといえる。しかし、「恋」は訓読みだから、「乞い」ともじったのは、「愛」ほど不自然ではなさそうだ。 さて、「三人寄れば文殊の知恵」とはいっても、逆に言えば人間の知恵の無さを言っているものだ。話し合わねば知恵が出ないのだ。しかも、込み入った問題を解決するには、二人とか四人とかではうまくいかない。一人を除く奇数人数の一番最小の三人でなければならない。 三人なら多数決ができる。内容はどうあれ、結論を出せるから、それはそれで一つの知恵となる。四人では二対二になって結論を出せなくなるおそれがある。五人では意見がいろいろ出されるという点では三人に勝るが、三対二では、二対一よりも、不採用グループの中に不満感が残る。これが二対一対一対一となった場合などは、一つの結論を出したとしても、二対三の二が採用されてようなものなので、相当の不満感が残る。 こうしたことが理由でトリオというグループはよくあるパターンとなるのではないだろうか。しかも、グループ内いじめもメンバーを変えながら適度に行える。四人ならば二名二名に分裂しやすいかもしれないが、やがてそれも三人三人となっていくように思う。実際にはどうだろうか。 鼎がそうであるように三点で支えれば物は安定する。四本脚の椅子を作ってみると分かるが、実に調整が難しい。それに対して三本脚の椅子はほとんど調整が要らない。三本なら、そのままで安定するのだ。もちろん、正しく水平に座板を支えるかどうかは別にしてだ。 恐怖シリーズ108「世界平和」 「世界平和」とは何とむなしく美しい言葉だろう。一つの星に人口が多すぎるというのが諸悪の根源だと言う人もいる。しかし、たとえ地球最後の二人になっても喧嘩は絶えないのではないか。そう思うのは僕一人だけではないだろう。 「人類皆兄弟」という人もいるが、兄弟喧嘩が絶えたためしはない。「兄弟は他人の始まり」ともいう。人類皆兄弟なら、人類皆他人ということになりそうだ。 とは言え、本当は他人同士の方が都合がよいのかもしれない。もちろん他人行儀とは意味が違うが、完全な他人だからこそ尽くす礼というものがある。これをもって接すれば平和実現にとっては都合がよかろう。ただし、平和が実現するに従って、完全な他人から、不完全な他人へと関係が変わってくる。この中途半端さがいけない。 中途半端に兄弟だと「礼」が中途半端に不足する。最後は喧嘩が絶えないという悲劇も起こりかねない。子ども同士の喧嘩ならたんこぶ作って、親に叱られ、そして泣いて終わりだ。しかし、大人のつくる組織同士となるとそうはいかない。国という組織になれば、喧嘩も大がかりとなり、死体の山が築かれ、叱る親もいない。しかも、泣いたからといってそう簡単には終わらない。また、終わったとしても絶対にもとの関係には戻れないというおまけがつく。そして、この不幸は歴史に深く刻まれ、その刻みに足をかけて人々は次の時代を作っていくしかないので、不幸の連鎖も起こりかねない。 現状を見る限り、おそらく世間がいうところの世界平和など永遠に来ない。僕たちに命があり、愛があり、ものを食い、ものを言う存在である以上、所謂平和などあり得ない。だからこそ「世界平和」という言葉は尊い言葉であり続けると解釈した方がよいのかもしれない。 尊い言葉であれば、皆が「世界平和」という言葉を日常的に使えばよいかもしれない。お経効果だ。ありがたい言葉は、文字どおり「有り難い」言葉だが、しかし、「有り得ない」ではない。偉い人が口にするよりも、その方がまず自分の身の回りの生活に平和をもたらさなければという気持ちが芽生えようというものだ。世界中の人がそのようにしていけば、もしかすると、いつかは「世界平和」が訪れるかもしれないという淡い期待もないわけではない。 しかし、世界に平和が訪れる前の段階で、国家同士が「世界平和」を唱えるという段階に達するはずだ。残念ながら、それが原因でまた大規模な戦争が起きる可能性も高いように感じる。「世界」とはいっても、まずは「(自分が関係している)世界」でしかないからだ。また、国連という仕組み自体にも、その能力の限界があるように、寿命もあるのではないかというおそれがある。 このように「世界平和」への道は、平和という目的に反して恐ろしい運命を抱えているように思えてならない。その運命を回避することは不可能ではないが、極めて難しいように思う。だから、「世界平和」を唱える者に対して、何を腑抜けたことを言う理想家だなどと侮ってはならない。字面とは随分異なる過激な要素を含んでいることを知りながら唱えているはずだととらえて、まずは大した人物だと評すべきだろう。その後、「世界平和」のためにどのような行動を計画的、組織的に取っているかを観察すれば、受け狙いのお調子者か、口だけの腰抜けかどうかは確認できる。 ただし、行動するといっても、個人の行動の波が条件が調って拡大したとき、実際には各々の「世界」の「世界平和」の旗印同士がぶつかるところまでいくには、長い年月がかかる。長い年月がかかるがゆえに、人々はその大きな変化に気づかない。身を置いている時代の意味をつかみきれないのだ。一人の寿命をスケールとした範囲の中で判断できる小さな変化には反応できても、世代を超える長い年月を掛けた大きな変化というものをとらえる感覚というものがそなわっていないのだ。 こうした無感覚によって、いつの間にか人類どころか地球上の生物すべてが絶滅するかもしれない一大事を起こす準備だけは、意図するしないにかかわらず、世の中の仕組みの中で整えられていく。このようなことは愚かしいことだが、行動するということは、それがどこまで波紋を広げるかということによって、思惑とは別の重大な結果を生みだしてしまうかもしれないという賭のような要素も同時に抱え込むことなのだと思う。 では、どうすればよいのだろう。まずは時代に巻きを入れることになるような行動は慎むべきだろう。適度に 争いがあちこちで起こりつつ、それを解決しつつ、解決に向かわぬうちに世代が交代していき、何となくバランスを保ちつつ、みんなで苦悩し、生きる形を変えながら生き抜い ていくのが「(現実的で悲しい)世界平和」なのかもしれない。 もともと、この星では食物連鎖という地獄のようなシステム(あるいは共に生きる美しい図式)の中でだけ生命という奇妙な現象が保たれている。その原理は国家間にも働いているように見える。だから、それを破壊しようとする所謂「世界平和」実現への道、つまり全ての生き物が人間になったり、全ての生き物が魚になったりするような道には大きなリスクがあるように僕は感じてしまうのかもしれない。 自分でもおかしいと思うのだが、「世界平和」というものは、僕にとっては理想でありながらも、感覚的にはこのように何故だか何か危険な香りのする恐ろしいものの一つになっている。 5/10/2008 日々雑感226「救いの仕組み」 緩やかで弱いつながり。緩やかで強いつながり。固くてもろいつながり。固くて丈夫なつながり。見かけはつながっているつながり。見かけはつながっていないが実はつながっているつながり。相性の悪い無理で不自然なつながり。相性が悪くても運命的なつながり。相性のよい合理的で自然なつながり。相性がよくても不都合なつながり。かつて一つのものだと思われていたような二つ以上のものの緊密なつながり。一見無関係であるかのように見える淡くて恣意的なつながり。めまぐるしく相手が変わることで安定するつながり。相手が変わらないことで安定するつながり。このようなつながりようがいろいろに変化するつながり。その他いろいろと物事にはつながりようがあって面白い。 人と人とのつながり。人と物とのつながり。物と物とのつながり。つながる相手もいろいろでつながりようとの組み合わせもたくさんになるから、またまた面白い。とらえ方と考え方を変えてみると、そのたくさんの組み合わせもまたいろいろになって面白い。 つながることで生まれるものもあれば、離れることで生まれるものもある。これも面白い。 誰がつなげたか。誰がつなげなかったか。誰が離したか。誰が離さなかったか。何がつなげたか。何がつなげなかったか。何が離したか。何が離さなかったか。これも面白い。 目の前にある難しい物事も、こうしたことの組み合わせで奇妙なほど単純に説明できそうだ。総括的に説明できなくても、断片的にいくつかの説明することができれば、取り敢えずはよい。もちろん、それだけでは何も解決しないが、たとえ解決しなくても、説明できるということで半分解決したような気持ちになれる。これは精神衛生上たいへん好ましい。 面白いという気持ちになることも、半分解決したような気持ちになることも、正気を保つために巧みに仕組まれたものだろうから、とりあえずは、ありがたく面白がったり、半分解決したような気持ちになっておくのがよいだろう。 いくら拙くとも説明するということは言葉を使うということだから、文字にして記録できる。これで 冷静になってから、内容を振り返り、新たな手法を検討したり、論理的な矛盾や堂々巡りを防いだりできるようになる。他人に見せることもできるから、多くの意見も集め ることができる。 このようにして難しい局面を比較的正しく乗り切る条件を整えていくことができるようになるから、単に精神衛生上好ましいというレベルではなく、「生きていく力」そのものとなっていく。 常に何かを面白がり、どうして面白いのかを考えてみる。これは金のかからぬ趣味にもなりそうだ。 5/6/2008 恐怖シリーズ107「番組」 「生活が苦しい?ほら、あんなに海外旅行に行ってるじゃないか。国民が苦しいって言うのは口癖だよ。」と政治家に思わせていないか。 ゴールデンウィークは今年も来た。僕にはあまり縁がないが、それでも無いよりはいい。テレビを見てみた。クイズ番組が多い。クイズ番組もいいけれど、番組が悪い。奇妙な言い方かもしれないが、前者の番組は、企画としての番組という意味で、後者の番組は企画の組み合わせや割合という意味での番組だ。 この国をどうしていけばいいのかという差し迫ったものを感じさせないものばかりが多い。つまり、娯楽番組が多すぎるのだ。視聴者のニーズに合わせてしまうとそうなるとは思うが、ただ単にニーズに合わせていては方向をますます見失う。 この国に必要なのは、高い見識と、深い洞察力と、幅広い視野をもったオピニオンリーダーであって、当たり障りのない適当な感想を述べたり、誰にでもできそうな示唆を与えたりするコメンテーターではない。確たる人が確たることを述べるマスコミのあり方を築きあげていかねば、近いうちにこの国が滅ぶのは間違いない。論客と言われる政治家に頼らざるを得ないのなら、彼らだけでもよいから十分に時間を与えて論じていただかなくてはいけない。それでないと、無知蒙昧の僕たちはぼんやりと時を過ごしてしまうおそれがあるのだ。 5/3/2008 変な疑問88「物真似」 九官鳥やオウム、百舌やカケスはなぜ鳴き真似をするのだろう。鳴き真似でおびき寄せて殺戮するか、相手と同じ鳴き声を真似て仲間と思わせる。相手より強い鳥の鳴き声を真似て撃退する。積極的に身を守るか。こうした技が必要だということは、元来弱い存在だということだろう。強ければ、そのような技を必要としないからだ。 どの程度意図的に真似をしているのだろう。雨風の音、葉ずれの音や雷の音を真似するだろうか。どの音を真似るかをどのように選択しているのだろうか。真似方が下手だと自己評価したときにははやり上手になるように練習をするのだろうか。真似ることで自分の鳴き声は下手にならないのだろうか。生まれてからどのくらいで真似できるようになるのだろうか。 人間にも物真似がある。芸人の物真似ではなく、一般人の一般生活における一般的な物真似だ。向上心から真似る。依存しているから真似る。他に資料がないから真似る。創造力がないから真似る。仲間になりたいから真似る。あこがれるから真似る。 政治家がどの党に所属しているかを話し方から判断できそうだ。街中の主婦、若者などもどのグループに所属しているかをファッションや話題や話し方、歩き方から判断できそうに思われるときがある。近くにいると似てくるのだ。 似るということは、関係があるということで、関係が良好であればあるほど似る傾向が強いように思う。これは似ているものを残そうとするDNAの本質なのだろうか。 しかし、うっかりすると、自分と似ていないものをやっつけようとすることが正当化されてしまうことになりかねない。あまりにも似ていないものは逆に珍重されるかもしれないが、中途半端に似ている場合には、必要以上に敵意を持って排除される可能性すらあるのではないだろうか。 あれは別物だからとあきらめさせるか。あれはにせ物だからなんとかしなくてはと決意させるか。その瀬戸際をうまく切り抜けながら上手に生きていくには、どうしたらよいのだろう。 「僕は、○○ファンです。」「わたしは、○○主義なの。」などと宣言して、大勢の中の一人だということを強調するのもよいだろう。本当はそうでなくても話題を合わせるため術としてだ。すこし悲しいけれど、それは弱い立場にある者としての宿命なのだろうか。それをわかっていて言うか、無意識に言っているかでも悲しさの色合いが違う。 「この映画みた?」「みた、みた。」「今度は何みよう。」「これどう?」「そんなの興味あるの?」「ない、ない。」「このコーヒーあの店の方がおいしいよ。」「じゃあ、今度一緒にいかない?」「いく、いく。」 オウム返しではないが、うるさい九官鳥に見えてきてならない。 |
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