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30-05-2009

日々雑感245「骨」

  <骨がたくさんの傘 画像クリックで説明画面へ>
 骨折経験がない幸せな人。いったいどれ程いるのだろう。ギブス姿は中学生に多く見られる。思春期をのりこえれば骨折も一段落するのかもしれない。しかし、高齢者の骨折も見逃せない。
 骨折原因として考えられるものは、スポーツや喧嘩などの無理な身体活動、日常生活の不注意な身体活動、落石や自動車事故に巻き込まれて身体を強打するなど不可抗力による事故、骨密度が低いことや病気などによる強度が不十分となった骨自体の不健康などだろう。どれも心がけさえよければ避けることができそうだ。
 「無理な身体活動」、「不注意な身体活動」、「予測不能の異常な外力」、「骨自体の強度不足」のほかにも骨折原因はあるだろうか。残念ながら一つある。自殺、あるいは自殺未遂による骨折だ。強いて言えば、医療行為による骨折もあるが、これは骨折というよりも切断だ。少々毛色が違うが「骨折り損のくたびれ儲け」という骨折りもある。
 骨といえば、鉄骨。躯体のほとんどが鉄骨の東京タワーのような建築物は骨に少しだけ肉が途中にこびりついたミイラの失敗作のようなものだ。これを美しいと感じる感性の持ち主も多いだろうが、たまたま自分はその感性を持ち合わせていない。
 それに比べてパーフェクトリバティーの大平和記念塔はほどよく肉の付いた建築物でほほえましく感じる。色が白くて骸骨のようにも見えなくもないが、凸凹感がなぜか目に心地よいのだ。
 ところで、雨傘の骨というものは知らない間に折れていることが多い。まるで人の心のようだ。次に使うときに初めて気が付くというのがパターンで、そのときは急いでいるから代えもなく、仕方なくその日は骨折傘を使うはめになるというわけだ。
 誰か痛がる傘を誰か作ってくれないかだろうか。傘の骨のしなりを感知して、そのしなり具合に応じた悲鳴音声が傘の柄から流れるというやつだ。しなり具合①「チョットイタイヨ!」、しなり具合②「イタ!」、しなり具合③「イタ、イタ!」、しなり具合④「イタ、イタ、イタ!」、しなり具合⑤「イターイ!」、しなり具合⑥「オレソー!」、骨折⑦「ピーポー、ピーポー」などと、しなる段階に応じて傘が叫んでくれれば、傘の角度を変えて風当たりを加減したり傘を閉じたりと、骨が折れないように対応することができる。
 骨折予防雨傘は、アイデア商品として一時ブームになるかもしれないが、風の強い雨の日の大通りは悲鳴で満ちあふれることになり、誰の傘が悲鳴を上げているかが分からなくなるということで、バイブレーション機能も付けられたりするが、外国人にその異様さを指摘されて、一気に珍商品として廃れてしまうことになるに違いない。
 傘の骨折率がどれ程か分からないが、高齢者の骨折率は二分の一を超えるらしい。縁の下の力持ち的存在の骨というのは、最初から一種の悲しさを漂わせているが、折れたときの無念の音は衝撃とともに初めての自己主張をして命を絶つ武士のようでむなしい。
 その骨をむき出しにした東京タワーが、血の色に塗られていることもさることながら、なおいっそう悲しい存在に見えて切ないのは僕だけだろうか。

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29-05-2009

心の断片177「捨てられた地球儀」

「捨てられた地球儀」

俺の地球儀を返せ
日に焼けて
ほこりのベール
アメリカ大陸の消えかかった
俺の地球儀を返せ

地名が消えて
国境が消えた
経線緯線の見あたらぬ
やっと地球になってきた
俺の地球儀はどこだ

微生物の跳梁跋扈
汚い俺の地球儀を
汚い生物たちが寄生する
どこまでも本物の地球と
日が暮れるまで見比べていたいのだ

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28-05-2009

日々雑感244「月火水木金土日」

 「月火水木金土日」を読むときに、僕たちはおかしなことをしている。
 「ゲツ、カー、スイ、モク、キン、ドー、ニチ」という読みをして平気な顔をしている。よく考えなくても「ゲツ、カ、スイ、モク、キン、ド、ニチ」が正しい。「火」と「土」は一音節で、他は二音節というところに原因がある。二対五の多数決で二音節が優位となり、一音節の二音節化が促された結果だろう。「長いものには巻かれろ」という生き方が、人生の一論理だけではないようだ。
 もっとも、中国語で読めば話は別だ。ただ、現代中国語では星期一から始まって星期六、そして星期日となる。月曜日から土曜日までは数字で表現されているから、その分だけは少し科学的な香りがするのだが、日曜日だけは「日」で特殊だ。太陽信仰の名残かもしれないが、随分と中途半端なことをしたものだ。
 しかし、この例は、必ずしも少数派が多数派によって駆逐されてしまうわけではないということを示していると解釈してみるのが面白いかもしれない。少数派、多数派という形のバランスをとりながら、少数派の多数派化が成り立っている。
 少数派は、知らぬ間に暴走する多数派にとって、ブレーキの役割を果たしている場合があり、安全弁として大切な存在になっている。同時に押し入れのような役割を果たしている場合がある。つまり、今は全く使わないが、時が来たれば引きずり出して展開するというわけだ。だから、少数派の心構えとして、情報や知識を保管しているだけではなく、常に派としてスタンバイしている状況を保とうとすることが要求されるだろう。
 随分と中途半端なことをしたものだと言ったが、これはもしかすると中国人の深い知恵がそうさせたのかもしれない。科学と宗教との調和だ。調和ということは、必ずしも量的なものがイーブンとなる状態ではなく、互いにその時々の分をわきまえて流動的に主従関係を交代しながら、迫りくる不都合を回避したり解決したりすることが保障される状態を保とうとすることだろう。
 このあたりの理解がないと、少数派がはみ出し者としての位置づけとしかとらえられなくなってしまうおそれがある。I
 このはみ出し者に対しては、はみ出し者としてマイナスのイメージを背負った分だけ、長い物に巻かれない生き方が粋な生き方であるという勲章を手にすることもあるので、はみ出し者になっていたからといって、特に悲観的になることもない。
 たとえば、はみ出し者ははみ出した道を貫くことでしか自分の価値を確立することができないことが多い。我が道を行くということは、そうした開き直りであるから、世の中に直接貢献しようなどという福祉的な仮面は必要ないので、それだけ身軽だ。また、我が道だけを行き、その道を究めれば、究めたという点において評価されるという特典もあるだろう。そればかりではなく、その道を究める過程で現れた副産物が間接的に世の中に貢献していたということもあるだろう。
 長いものに巻かれていれば、すばらしい成果も長いもののものになってしまうという空虚感におそわれるのに対して、少数派であったり、はみ出し者(本当は少数派かもしれない。本来は、多数派でも少数派でもない者のことをいうのが普通だろうと思う。)であれば、たとえスケールの小さい成果であっても、充実感に満ちあふれるだろう。この空虚感を何によって埋めるかで人のレベルの一側面が測定できそうなので、これはこれで利用できるだろう。
 ところで、「月火水木金土日」の字面を見ると、左右対称でよく整っている。一日一日破綻なく生活できそうな予感さえする。月曜日と表記しなくても月の一文字だけをカレンダーに載せても格好がよい。数字ではないので、日日(ひにち)とキャラがかぶらない。英語のように省略して記載するというのも、こだわりのある人では少しストレスかもしれない。それに対して「月火水木金土日」の堂々たる姿はどうだ。たくましくスマートで安定感がある。日本人は胸を張ってこれを使い続けよう。できたら、世界に流行らせるとよいかもしれない。どのような効果があるか面白そうだから考えてみよう。

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23-05-2009

心の断片176「古い写真の哀れな僕」

「古い写真の哀れな僕」

偽りを誠と感じ
誠を侮りと感じ
ありもしないものに哀れ細かく怯え
厳然たる事実には目もくれず
今日も無意味に疲労困憊している
いつしかものごころがついていて
小さな武器を両の手に
血がにじむほど握りしめているのはこの僕だ

明日を闇と感じ
闇を終わりと感じ
まるで占い師のように他人事顔で
明日のことをシミュレーションしている
いつしか大通りのかたすみにいて
人ごみの隙間からこの世の中を
無理に斜めに見つめているのはこの僕だ

 写真の僕はいつも首をかしげ、カメラのフィルムの向こうにある君の目の、網膜の後ろにある大脳の、そのまた後ろの後頭骨の、その後ろに広がる空漠とした世界を、僕も飲み込まれている荒涼とした世界を、君というレンズで美しく眺めようと左眉を上げている。

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17-05-2009

心の断片175「死にかけ人間どこにいる」

「死にかけ人間どこにいる」

朱墨のような夕焼けが
絡む手指を縁取って
宙に浮かぶ魔方陣
神秘の女神の登場だ
星空ドームを紫マント
片膝立てて秘密の言葉を紡ぎ出す

もう猶予はないぞ
狂気の血まみれ犬猫たちが
夜のとばりに見え隠れ
死にかけ人間探し出す
どこだ どこだあ
 どこだ どこだあ

もう猶予はないぞ
呪い呪文で隠しませい
早く女神の懐へ
深く女神の懐へ

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日々雑感244「封印することによって生み出されるもの」

<安全確保のための封印らしい 画像クリックで説明画面へ>
 タブーとは何だろう。特に食べ物のタブーについては頭を悩ませられる。究極のところ、この世は食べることに尽きるからだ。
 仏教、ヒンズー教、イスラム教では、肉食を禁じる。特に、牛肉を禁じたり、豚肉を禁じたりする。理由はさまざまだろう、「神聖なものだから」とか「不浄なものだから」とか誠に勝手だ。宗教自体が勝手なものだから当然といえば当然だ。もちろん、ここで勝手といったのは、自由というほどの意味でだ。語弊はあるが、人間にぴったりの言葉だから使わない手はない。
 宗教が勝手であるのは、人間自体が勝手な生物だから仕方ない。その証拠に思いつくままであるかのように随分と多くの宗教がつくりあげられているではないか。宗教の中でもとりわけ勝手な考え方は、全世界の人々がこの宗教に改宗すれば世の中が平和になるという考え方だ。そのような傾向が強ければ強いほど、その宗教にまとわりついているインチキ臭さも強いように思う。真の宗教ならば、布教活動など行わなくても自然に人々が集まるに違いない。もっとも、それに甘えて何もしない宗教は勝手であるだけでなく怠け者だとも言える。
 本来は、自分が信じる宗教以外の宗教を否定しないという紳士的な態度がなければならないはずだ。もし、その態度がなければ、同様の理由で自分が信じる宗教も否定されることになってしまう。これでは「みんな仲よく幸せに暮らす」という重要な人生の目的を全うすることができない。
 そもそも、世の中に宗教という絶対的なものがあるなどと信じてはいけない。あるのは、ただひたすらに「みんな仲よく幸せに暮らしたい」という人間共通の願いだけだ。この願いを妨げる存在や行為は悪とされる。も し、そうした種類の悪にかかわる宗教があったとしたら、それは邪教だ。もちろん、「みんな」とは全ての人間のことであって、ある特定の宗教を信じる一集団や一国家のことではない。また、当然のことながら、「みんな」のなかに人間に食われる動物は入っていない。
 動物を食いつぶしてしまい、この星の動物が人間と人間が食べたくない動物の二種類しかいなくなったら人間は生きていけなくなる。それでは困るのだ。そうなる前に人間が食べたい動物が絶滅しな いように共に生きていく(?)道を選択するしかない。生かしてその乳を飲ませてもらうか、死肉をくわせてもらうかだ。その死因も病死や老衰では気に入らないらしい。自ら積極的な屠殺を行うほどの度胸はないので、お得意の役割分担で逃れる。所詮、その程度の存在だから、努力して己を磨くということが貴ばれている。
 もっとも、動物に対して必要以上の愛情をもてばベジタリアンになるしかなくなる。あるいは、特定動物を積極的に殺して食べることを自ら黙認 し、それ以外の動物を積極的に殺して食べることを認めないという身勝手さを身にまとうしかなくなる。たとえば、自分たちが頭がよいと認めた動物は食べてはいけないが、自分たちが頭がよいと認めていない動物や頭がよいことを気づいてやれない動物ならば、食べてもよいというような恐ろしいまでの身勝手さだ。
  しかし、動物は食べてはいけないが、植物は食べてもよいというのは随分と乱暴な物の言いように思われてならない。植物愛護の見地というものがあれば、と ても容認できないものだ。動物も植物と合体し、動物同士が食らい合ったり、動物が植物を貪り食ったりしないでもすむ生き物になればよいのかもしれない。どうにかして寄生生活が成立するような工夫はないものだろうか。
 そもそも、あれを食べてはいけない、これを食べてはいけないというのは、人間が比較的裕福になってから出てきた贅沢な了見だ。もし、その裕福さに陰りが出てきた場合には、そのような贅沢なことを言ってはいられなくなる。そうなれば、考え方も自然に変化してくるはずだ。しかし、それが宗教がらみとなると変化しにくいという不幸にみまわれることになる。
 そこで、解釈というものが救いとなる。教えの本当の意味はこれこれですというようなものだ。これによって幾つかの宗派に分かれていく可能性はあるが、それも宗教が生き延びるための都合のよい変化だ。とにかく身勝手であるというのはこのように都合がよく、この都合をつけていくというところが人間の強みだ。これを不道徳として否定すれば、人間の底力というものが衰弱していくに違いない。
 ところで、ヒンズー教やイスラム教の食に関するタブーはうまくできている。牛を食べることができなくても豚を食べることができ、豚を食べることができなくても牛を食べることができる。つまり、肉食を否定していないから料理に困らない。その点、仏教は肉食を否定しているので、精進料理などという器用な料理を開発するに至った。未練なベジタリアンには最適な料理だ。もっとも、戒律を厳しく守る信者から、比較的緩い信者もいるから、そこは割り引いて認識しておかねばならない。
 さて、肉食を封印したことによって、料理の工夫が生み出されたのだが、生み出されたのはもちろんそれだけではない。肉食を封印して菜食となれば、体力が落ち、おとなしくなり、争いごとが減るかも しれない。つまり、ある種の平和を生み出す可能性はある。栄養不足で短命になるかもしれない。そうすれば医療費や介護の問題もある程度は解消される可能性がある。
  もしかすると、肉食封印の裏には人間というものはつまらない者たちだという決めつけがあるのではないかという疑いをもってしまう。つまらない者たちが肉食によって精をつけ、力をもち、長く生きたらどうなるか。害悪ばかりが蔓延することになるではないか。このような単純な発想によるものだとしたら何やら恐ろしい。
 では、肉食も菜食も封印したときにはいったい何が生み出されるのだろう。肉体は滅び、その代わりに精神が究極の高まりをみせるということなのだろうが、宗教上の行為でなければ、それは単なる餓死だ。即身成仏というのは、死なないことを前提とした修行内容でなければ本末転倒であるように思 う。
 それにしても菜食を封印する例がないのはなぜだろう。まさか経済的な理由からだろうか。つまり、肉食は贅沢であるのに対して、菜食は質素だという考え方によるものだからか。
  贅沢は修行の妨げになるだけではなく、宗教仲間内で経済的格差を意識せざるを得なくなるため、一体感が命である宗教の根底を揺るがすものになる可能性があるからではないか。そうしたリスクを一つでも減らすことは指導者の業務だ。肉食を奨励すれば平等になるには無理をしなくては出きないが、菜食を奨励すれば経済的にも優しく、信者たちが平等に取り組めるだろう。また、食べたい肉を我慢することで修行感もわき、自分のステージがワンランク上がる気持ちにもなれるに違いない。
 これに対して菜食を封印すれば肉食ばかりとなり、やはり野菜が食べたくなる。しかし、これは旨いからという味の贅沢をしたいからではなく、肉体が生理的に欲する一種の危険信号を発しているのではないか。もっとも、これは自分で確かめたことだから一般的にどうであるかは確かではない。
 あるいは、我々が動物だから敢えて菜食を封印するということがないのかもしれない。動物同士では抵抗があるが、植物なら縁が遠いから食べても平気だ。食べても平気なものを封印するのは宗教的には意味がないのだ。しかし、動物同士では抵抗があるとはいうものの、主食が肉である人間は多いのだから、本当は、動物を食べるのは平気ではないかという話になる。これについては精肉工場を見学すれば動物を食べるのが少し平気ではなくなるから試してみるとよい。
 犬や猫、牛や豚などを殺して皮を剥ぎ、精肉するという一連の作業を平気で行えるのは、それを職業としているからに過ぎない。小動物の丸焼きには目を背けても、形の整ったスライスハムなら女性でも食いちぎることができるからだ。肉の消費量が増えれば、心なく動物を殺す職業に就く者たちが増える。宗教的な立場から言えば、それは痛ましいことだという解釈をしても決しておかしくはない。植物ならば殺すときに泣き叫ぶ声は 聞こえない。人間と同じ色をした血も流れない。第一こちらを見つめるということがない。
 動物を殺すということの抵抗感が肉食あるいは特定動物の肉を食べることを封印することに関係があるのならば、そのタブーからその分だけ宗教色が褪せてしまうように思う。つまり、自分に近い種の生き物を殺すということに対する生理的な抵抗感の問題だ。魚でも手足が生えていれば、料理するのに抵抗感が生まれるに違いない。さらにその手足が人間に似ていたらきっと包丁をふるえないに違いない。
 つまり、宗教的な理由ではないということの割合が大きくなってしまうように思うのだ。たとえ、直接手を下さなくても、自分が肉を食べるということは、たとえ間接的にではあっても動物を積極的に殺して切り刻んでいるのと同じだ。
 肉食を封印することと特定動物の肉を食べることを封印することは似ているようだが全く異なる考え方に基づくものであるように思うが、どうだろう。
 肉食自体を封印するということは、命そのものに対するとらえ方と考え方によるものだが、特定動物の肉を食べることを封印するということは、その特定動物に対する考え方によるものだ。
  どうしてその特定動物が選ばれたのかはともかく、そもそも食に関してタブーを作ったということにはどのような意味があるのだろうか。生きている以上、食は毎日欠くことのできないものだ。肉食自体を封印している仏教徒とは異なり、ヒンズー教徒やイスラム教徒は、他の教徒が交じる条件にある土地に住んでいる場合は、この肉は何の肉なのかという食についての神経を使うことになる。これが日々続けられることに意味があるに違いない。
 それは、自分が何教徒であるかという自覚をその度にすることになるからだ。食事の度に宗教を意識するということは信仰心を深めるという意味では非常に効果的なことだ。この食事も信じる神のお陰であると意識することが容易になる。非常に巧妙な仕組みだ。もっとも、これは純粋な宗教環境にあってはあり得ないことだ。純粋な宗教環境において、精肉されているものは全て安心して食べられる肉ばかりであるはずだからだ。
 しかし、複数の宗教の勢力範囲が重 なっている場合は、加工食品に使われている肉が宗教上食べて大丈夫なものかどうかについて判断をする必要がある。こうした宗教環境にある場合には、特定動物の肉を食することを封印していることに本来の意味とは別に特別の意味が生じてくる。
 たとえば、その宗教集団への所属を日々確認することになるから、所属意識が強くなる。また、肉を確認するときの徹底の仕方によって自分の信心の深さを確認する。これらの効果によって改宗の可能性を低くするという ことはあるだろう。また、肉の種類が制限されることによって肉食を好む人の数もその分だけ減る可能性があるので、食が贅沢になりすぎないなど、節度ある生 活を保ちやすくなるということもあるだろう。
 また、最も効果的なのは、幼い頃から身につけられた食習慣の関係で、その家庭の子供が同じ宗教を信じるのに抵抗感が少なくなるという点、そして、別の動物の肉を封印している他の宗教を信じない力になる点においてだろう。
 このようにタブーというものはかなり有効に働いている可能性がある。また、宗教がもつ食のタブー以外のタブーにも、さまざまな効果をもたらしているものがありそうだ
 タブーは、宗教上最初から決められている一般的な約束事もあれば、日常生活の中で特定のことをしないという取り決めを行うこともある。個人的な願掛けのために、髭を剃らない、酒を絶つというようなタブーを設定することに代表される行為だ。
 これを破ると願い事が叶わなかったり、不吉なことが起こったりすることになっている。これは気のせいに違いないが、一方で自ら「何かをしないことを決める」ということは、取り決めたことを敢えて自分で破ることにより、最初から叶うはずのなかったことを、あたかも自分が約束を破ったせいにして終えることができる。
 つまり、事が破綻する寸前にやはり無理だなと判断した場合、この保険を利用することになるのだろう。これは神を傷つけないための保険だ。自分が信じる神の評価を下げないための工夫というわけだ。
 これとは別の目的を持ったものと思われるタブーもある。食に関しては、「秋茄子は嫁に食わすな」がそうだ。「茗荷を食べると物忘れがひどくなる」という俗説や迷信の類もあるが、これはタブーというほどのものではない。
 さて、あえて神聖なものや犯してはならない約束事をつくるのは先人の知恵のように思われる。
①ご神体……神聖なるご神体を見てはならない。見ると目がつぶれる。
②女性………生命を宿す神聖な存在。神聖なる女体を見てはならない。
 神や女性を崇拝する気持ちから、神や女性に対する尊敬の気持ち、そして、神や女性に対する憧れの気持ちへ、さらに、神や女性を大切に思う気持ちにまでつながる。この相手を大切に思う気持ちというものが、「愛情」というものの底にある感情だろう。
 人が人であるための基本的な気持ち。崇拝、尊敬、憧れ、愛情といったものを獲得し、維持していくための簡便な方法としてタブーがあるとも言えそうだ。この基本的な気持ちがなければ、感謝の気持ちも芽生えない。感謝の気持ちがなければ、人間性において首をかしげざるを得ないような不遜な輩となり、人間関係をうまく構築することができなくなる。つまり、みんな仲よく一緒に暮らすことができなくなってしまう。
 神や女性に対する感謝の気持ちの減衰を指標として、それが一つの社会の中でみとめられれば、それはひとつの警告として受けとめねばならないだろう。自分という人間が人間であることを否定する傾向がありはしないか、この社会が社会であることを否定する傾向がありはしないかと確認しなければならないということだ。
 タブーとなった経緯や本来の目的、そして現代的な意味合いを把握せずに、あるいはタブーを文字通りに解釈してしまった結果、それを非科学的であると判定し、無視したり否定したりするのは、その弊害を想像すればするほど恐ろしい。タブーなど便宜的な無理やりの取り決めなのだから最初から非科学的に決まっている。それを単純な理屈による安易な判断をし、敢えてタブーを犯し、否定することによって、これまで巧みにはたらいてきたさまざまなタブーの効果が消えてしまうような愚かな事態を招き、人間性の根底を揺るがしていくような状況を生み出してはいないだろうか。
 人の心というものの構造や仕組みは目に見えないが、歴史的な成長過程というものがあったに違いない。その中でタブーという便利なものを経験上発明をしたと考えたらよいのかもしれない。そのタブーをタブーだからという単純な理由で、分析もせずに引き抜いて捨ててしまったら、積み木が崩れるように人の心が音を立てて崩れていくように思われてならない。見えないものであり、すぐに表面化しないので、気づいたときには遅かったということになってしまいがちなのだろうが、この過ちを犯さぬためには歴史から学び続けるしかないように思う。
 タブーによって封印されたものや行為。これは一種のお守りといってもよいのかもしれない。しかし、その封印を隠蔽と勘違いし、鼻高々に解放しようとした愚行によって人の心の構造が揺らいでしまっているという不幸。それを認める勇気どころか、気づくこともない(本人にとっては知らぬが仏状態)不幸。この二重の不幸は救われない不幸だ。
 封印することによって生み出されるものにはどのようなものがあるか。また、知ることの恐ろしさ愚かさはどのようなものなのだろうか。本当の無知と意図的な無知の違いはどのように見分けたらよいのだろうか。
 剣道というものがある。時間と空間に制限を設けて試合をするだけでなく、打突部位も限定して試合をする。攻撃してよい場所をほとんどピンポイントで指定されてしまうのだ。実際に刃物で渡り合ったならば、どこに当たっても相手の攻撃力は衰え、次の攻撃で致命的な傷を与えられる。
 ところが、こうした現実的な刃物の使い方を否定し、致命的な怪我となる部位の内、打つのは面と小手と胴だけに限定し、突くのは突き垂れに限定してしまった。しかも、それが適切な角度で、しかも竹刀の適切な部位で、しかも適切な力で、しかも気合いの入った声で、しかも踏み込み十分で姿勢良く、しかも残心がとれているかどうかで、その攻撃が有効かどうかを判定しまうという過酷なルールを導入している。その部分以外への攻撃を封印したということだ。
 このことにより、相手の動きを読むとか、心を読むとか、先手を打つとか、相手の攻撃を誘うとか、虚々実々の精神的なはたらきを含むさまざまな技術が生み出されることになる。
 もし、この過酷なルールによって通常の攻撃が封印されていなければ、ただ竹刀によるたたき合いになってしまい、剣道とか剣術とかいうものから遠い喧嘩になってしまう。喧嘩では何をしてもよいから、剣道とか剣術とかいう看板を掲げての試合にならなくなってしまう。喧嘩だから試合前の脅しなども効く。これでは話にならない。
 剣道では足への攻撃は反則になっているが、足への攻撃を封印したわけは恐らく足への防具の装着を嫌ったからだろう。薙刀では脚への攻撃も正式に認められている(脛!と声を出さなければならない)ので、脛専用の防具がある。ところが、脛に防具があるということは、袴のすそが邪魔になる。これを処理しなければならない。しかも、そのために足裁きや後ろ足の位置が丸見えになってしまうのを剣道家が嫌ったのではないかと想像する。
 長い柄を合理的に使うことで変幻自在の間合いをつくることが可能なために攻撃的である薙刀の術に比べ、ほとんどが刃物である日本刀は主に足裁きによって距離としての間合いの不自由さを克服しなければならない。これはもしかすると、日本刀というものが防御を得意とする武器だからではないだろうか。そのために刃渡りが長く、柄も短いと考えるのはおかしいだろうか。さらに小刀は刃渡りが短く、柄も短い。ますます防御を得意とする武器だと言えないか。
 もちろん、丸腰の相手を攻撃するときには小刀でも十分な攻撃力をもつ。銃の弾丸は刃渡りが極端に長く、柄も極端に長いと解釈できる。 これは最も攻撃的であることを示しているというように考えられないか。時代劇だと薙刀は女性の武器のような描かれ方をしているが、身体能力に劣る女性でも薙刀を持たせれば、日本刀を持つ屈強な男性と渡り合えるという理屈なのかもしれない。
 「弓折れ矢尽きる」は万策尽きたことを言う。「弓矢取る身」は武士のことを言う。武士は弓矢を封印されたのだろうか。「武士の魂」と言って、封印されなかった刀を異常に大事にしたり、装飾を施したり、切れ味を追究したり、抜き方を究めたりした。実用一辺倒の弓矢に対して、刀は刀身の美しさ、工芸品とも言えるような鍔や鞘も生み出した。
 封印したものか、それとも奪われたものかという問題もあるからややこしいが、いろいろな物が生み出されることは確かだ。逆に、満たされた生活からは何も生まれず、逆に破壊に向かうしかエネルギーの向け所がなくなる。破壊に必要なエネルギーがなければ無気力になり、エネルギーがたまれば破壊に向かうという図式だ。これを承知で破壊や無気力を否定すれば、恐らく病にとりつかれるに違いない。だからといって、破壊や無気力は不幸を生み出す。どうしたらよいのだろう。
 答えは一つ。満たされる一歩手前で控えることだ。その場で進退を繰り返して誤魔化すか、微妙なバランスをとりつつ向上心と夢と希望を失わないように後一歩の課題を創作し続けることだ。知恵さえ絞れば、乗り出す分野を変えたり、別の分野と結びつけたりしていき、常に新鮮な目で世の中を見続けることができるので、決して不可能なことではない。
 注意すべきは若者だ。経験不足で判断力も直観に頼るので、夢や希望を持ちやすく失いやすい。自分で創り上げるだけの支援は大人からもたらされるものだが、それを根拠のないプライドによって拒否する傾向もある。この不具合を本人が解消するという形を取るためには、語られるのではなく、語られたものを自ら見つけて選択するという手続きを踏まねばならない。
 具体的には書物によって自ら奮起することが若者を救うことになるだろう。したがって、読書習慣のない若者は救いがたい。彼らは自らの破壊欲と闘わねばならず、無気力から自己嫌悪に陥らないように怯えねばならない。さもなくば、一般的な書物の替わりとなる刺激的な特殊資料を貪る餓鬼となって、怪しげな集団を作ったり、怪しげな祭りを行ったりする。特殊な刺激に反応することで存在を確かめるしか方法をもたないのは、封印するという余裕を持てない、つまり、もう後のない崖っぷちに自分が立っているということだろう。
 こうなる前の予防策としての封印を大人がしてやるしかないのだが、それは奪われるということと区別がつかずに逃げるか反抗することになりやすい。それは時が解決するということになっていた。しかし、今の時代の回転の速さでは、時を待っているうちに別の問題が次々と起こってしまい、それにいちいち反応しておかしくなるか、いちいち反応しきれなくなって無関心になるかという道をたどることになりやすい。 
 実に不幸な時代だが、若者自身が自分の不幸の構造を知らず、不幸だと感じているだけの状態になっている傾向さえなくせばよいだろう。それはどうすればよいか。大人がない知恵を絞るしかない。その大人の数が減っていくのだから、いよいよ大変な時代だ。しかし、たいへんだからといって嫌な時代ではない。何をしてもうまくいかないのだから、失敗を恐れずに何でもできるという時代だということだろう。

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16-05-2009

心の断片174「雨上がりの企て」

「雨上がりの企て」

末喜妲己の嫉みごと
一人の思いで世が動く

今日は一日スルメのような僕
板きれのようなシャツ
裾すり切れた古ズボン
テレビ枕に身を沈め
 
熱いシャワーで清めたら
世迷い言たよりに
企てを尽きるまで立てよう

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10-05-2009

心の断片173「かくも穏やかな」

「かくも穏やかな」

ピクニックに出かけよう
さわやかな行楽日和は天の恵みだ
ピクニックに出かけよう
バスケットの野菜サンドを平らげて
川のせせらぎ子守歌
やさしい木もれ日に撫でられながら
そよ風にまどろもう
春目覚た小虫たち
この使い古しの肉体を
一時彼らに捧げよう

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心の断片172「思いやり」

「思いやり」

反吐が出そうな
このうんざりの空気に
けじめをつけるのは誰だ
保身の蒙昧の視野狭窄の
己の姿を映す鏡をもたないのは
随分と古典的な知恵だが
いったい誰に教わった
どこまでも意地悪に付き合って
駄目な論理を推し進め
奇想天外の結論に至らせてもよいが
文句の口火は
きっと張本人が切るに違いない
面白いから一緒に首を捻っていよう
貴重な時間の無駄遣いも
何かの肥やしになるはずだ

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06-05-2009

恐怖シリーズ136「笑いの亡骸」

<お笑いとは何だろう 画像クリックで説明画面へ>
 お笑いは救いだが、だからお笑いは恐ろしい。
 お笑いがお笑いのためのお笑いになっていく。それは恐ろしく、そして哀れだ。むなしく、死にたい気持ちになるやつもいるだろうが、そのとばっちりだけは御免こうむる。
 お笑いが何かを隠すために押しつけられていく。それは恐ろしく、そして傲慢だ。お笑いは、お笑いであってはならず、お笑いはお笑いでなくてはならない。そこの了解がないと、生理的な笑いだけが満ちあふれてしまうではないか。
 お笑いは芸人だけに任せてはならず、商売だけで終わってはならない。日常の僕たちの究極の平和な武器でなくてはならない。放逸なこの世の中が何によってもたらされたか、それ自体を笑うことでいろいろな答えが出てこないようならば、それはにせ物のお笑いに違いない。
 お笑い芸人は、そこのところを芸に滲ませいかねば消えていくか、お笑い以外の別の生き残り方をせざるを得なくなる。そうでもしなければ、笑いをとるのではなく、笑われる存在に落ちぶれてしまうだけだ。もう若手ではないのにその場の笑いをとることだけに汲々としているならば、道を考え直した方がよいかもしれない。
 世の中の現象に鋭く切り込んだ笑い、目から鱗が落ちるような笑い。見識を高めたり、物の見方の幅を広げたり、普段見過ごしていたものを深く考えたりするきっかけとなるような要素が笑いの中に仕組まれていないと、何かから逃げるための笑いになってしまったり、何かを隠すための笑いになってしまう。もちろん、そうした笑いを必要とする場合も多いから、否定するわけではない。
 我々庶民の生きる知恵としての笑い、生きる力としての笑い、生きる勇気としての笑いを、そのリーダーであるべき職業芸人が崩してしまうというような不都合でアンバランスな笑いをつくりだすのは避けなくてはならないというだけの話だ。
 「知恵、力、勇気」?突然思い出したのが、往年のアニメ「スーパージェッター」の主題歌だ。「……未来の国からやって来た 知恵と力と勇気の子 進めジェッター 嵐をくだけ 走れ流星 まっしぐら……」彼は確かタイムパトロールの警察官で正義の味方だ。流星号が故障してタイムトラベルできなくなり、20世紀の現代で悪者をこらしめるという勧善懲悪ものだ。パラライザーとか反重力ベルトとか少しだけ時間を止めることができるタイムストッパーなどの小道具をもっている。知恵と力と勇気はこれらによって支えられているのだが、彼の行動が純粋な正義感を土台としていることは間違いない。
 ところで、近頃の日本人から正義感というものが無くなったようなことが言われるけれども、本当にそうなのだろうか。確かに正義感が欠落している人は多い。しかし、昔よりも目につく行動をとるような傾向が出ているだけのことなのかもしれない。
 もしそうだとすると、その原因としては日本国民の幼稚化が考えられる。しかも、みんなで同じように幼稚化することを遠回しに強要するようなタチの悪い幼稚化だ。幼稚化すると、これまで自重していたことが目につく行動として出始める。それは何かから解放された感じに似ているので、そのことを取りたててその行動を肯定する理由とすることも可能だ。
 そうした行動は他の人の目にも入る。それが放送されて不特定多数の人々の目にはいるのだ。そのことが世の中に好ましくない風潮を作り出し、正義感が本格的に欠如した放逸な社会を生み出していくきっかけとなりやすいのではないだろうか。放送というものは元来人の意識を変えて世の中を変えていく機能を持っているのだから、たとえそれがマイナスの方向へ人々を誘うものであっても免れることは難しい。
 最新のTVセットがいかに優秀なものであっても、内容次第ではたちどころに愚劣な存在となってしまう。たとえ海外の優れた内容の番組であっても、制作者の意を酌まない別の意図がはたらいた日本語訳の調子で表現され、独自のナレーションがどのように加えられたかで台無しになってしまう。換骨奪胎というやつだ。
 これを救うのは、やはりその場で勝負のお笑いだ。編集の余地を与えないスピード感がある。また、お笑いに対する認識が低いため、たかがお笑いだからとチェックが甘くなっている利点もある。しかし、お笑いに救いを求めるのは両刃の剣だ。正義感を取り戻し、知恵と力と勇気を創造する笑いか、それとも単に生理的な笑いを追い求めるむなしい笑いか。この国の将来は、もしかするとお笑い芸人の見識にかかっているのかもしれない。それでないと、薬の力で笑ったり、薬の力で気持ちよくなったりするしかない人間性無視の笑いの亡骸だけが横たわることになりかねない。
 メディアにのる彼らは自分たちが思っている以上に人々の心に影響力を持っている。人々にも彼らからの影響力が予想以上のものである可能性が高いのではないだろうか。お互いにその自覚があるかないかは確かめようがないので不明だ。
 視聴者も、ただ笑って健康になろうとか、憂さを晴らそうとか、暇つぶしに見てやろうとか、どの程度面白いか批判しようとか、ただ面白ければそれでいいとかさまざまな目的をもっている。もちろん、それはそれでよいのだが、お笑いブームをきっかけとして、その存在価値がそれだけでは困るということを大人として考えなければならない。七面倒だがこれから起こるであろう大きな不都合を予感するから仕方ない。 
 本来、メディアにのるということは、全国民への影響力というものを好むと好まざるとにかかわらず付与されたということなのだから、覚悟というものがあって笑いを演じているはずだ。だから、有効な視聴を心がけるとするならば、視聴者側も、それを受けとめる覚悟が必要だと思うのだ。それはどのような覚悟であればよいのだろう。それは、演じ手と聴き手によって生み出された気運というものに、それぞれがどう付き合うかという覚悟であるかもしれない。
 芸人も、現実を茶化しているだけでは小さな子供にまで見透かされてしまうことを忘れてはならない。視聴する大人も、そばで見ている子供が憧れるような笑いの受け止め方ができるように成長していなくてはならない。「お笑いなのだからもっと気楽な構えでよいのでは」というささやきも聞こえてきそうだが、演芸場に足を運ぶようなある程度人生経験を積んだ特定の者が少人数で享受するようなレベルの世界ではなくなっていることに早く気づかなければならない。
 通信網情報網が発達した現代は非常に便利なのだが、一方でこうした面倒を引き起こす。生きるということは元来面倒なことで、面倒がなくなるということは死ぬということと同じだ。それを忘れさせてくれているのが祖先から受け継いだ文明やら文化のおかげだ。一般的な動物なら、人間のペットでない限り常に生きるか死ぬかの大問題を抱えているはずだ。何かを便利にしても別のところに面倒が生じるから、それに上手くつきあうしかない。生きるか死ぬかという大問題を抱えるよりはよいだろう。
 さて、笑いの地域差というものはかつて歴然としてあったのだが、現在はどうだろうか。全国ネットのテレビ番組やお笑い芸人の他地区への進出によってかなり撹拌され、地域差が薄らいでいる可能性はある。しかし、いまだ関西と関東とでは「バカ」と「アホ」の受け止め方が反対かもしれない。同じ映画をみる観客を東京と大阪の両方で観察するとよい。かつて全く異なるところで反応して笑いが起こったものについて、どのような変化が起こっているだろうか。また、中間地点の名古屋ではどうだろう。抽出地点を研究して比較し、その変化を長期間にわたって記録すれば、面白い結果が出るかもしれない。昔と違って世の中の動きはめまぐるしいので、研究者一世代で結果が出せるかもしれない。
 そうは言っても、映画や演芸場の観客がどういう一人一人であるのかを正確に把握することは難しい。知識がなければ笑えないところもある。知識があっても繊細な感性がないと笑えないところもある。また、ある自分自身が笑ったことが周囲にどのように評価されるかという、地域文化の違いもある。
 制作者としてはそこをどう計算して笑いをとるかに命をかけることになる。結局は計算できないから水ものになってしまう。日本全国で共通した笑いを求めれば、巧妙な仕掛けをたくさんつくる道を選ぶか、低レベル化への道に走るかのどちらかだろう。あってはならない笑いの幼稚化だ。確かにそれで視聴率はとれるだろうが、将来の日本人の精神構造を危ういものにしていくおそれがある。生物多様性ならぬお笑いの多様性が損なわれることによる精神構造自体への悪影響が心配されるのだ。
 最も恐ろしいことは、当てるためには観客のニーズに合わせるのではなく、観客にお仕着せのニーズを持たせればよいという発想が生まれることだ。これなら外れることはない。費用対効果を考えるならば、総合的にいろいろな分野から手が回るようにして観客の精神構造に特定の下地を作り、そこにフィットする作品を制作するという手法だ。それでも手っ取り早くやりたいのが人情だ。では、どういう下地を作ればよいかという問題になる。
 映画だけでなくお笑いも一緒だが、この点においてかけるお金の桁が違う。お金をあまりかけない代わりに、お笑いの世界では当たりが出るまでにたくさんの芸人を消費することになる。芸人にとってはたまらないシステムだが、そこにお笑いの救いがあるとも言える。
 いつかどこかで見識の高いお笑い芸人が何人も誕生し、自分の魂を汚さず、しかも互いに潰し合わないように頭を使い、不特定多数の視聴者に満遍なく有益なメッセージを発し続ける可能性があるからだ。要は「継続は力なり」だ。映画監督といえば見識ある人々ばかりであるように思うのだが、残念ながら僕たちは日常的に映画作品に接することはなく、メッセージも単発だ。作家や文筆家も同様だ。メッセージを繰り出すという点で残念ながら小回りがきかないということだ。
 みんなが接しやすいものでなくてはならないという大きな課題をクリアしているのはお笑いだ。このお笑い作家に期待をしたい。
 お笑いは救いだが、だからお笑いは恐ろしい。
 お笑いがお笑いのためのお笑いになっていく。それは恐ろしく、そして哀れだ。むなしく、死にたい気持ちになるやつもいるだろうが、そのとばっちりだけは御免こうむる。
 お笑いが何かを隠すために押しつけられていく。それは恐ろしく、そして傲慢だ。お笑いは、お笑いであってはならず、お笑いはお笑いでなくてはならない。そこの了解がないと、生理的な笑いだけが満ちあふれてしまうではないか。

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<昔の笑いと比較すると 画像クリックで説明画面へ>





03-05-2009

恐怖シリーズ135「余分なもの」

<篆書は非常に興味深い書体だ 画像クリックで説明画面へ> 
 元来、余分なものが大事なものになることがある。
 たとえば、漢字の「はらい」や「はね」などは基本的には余分なものであったはずだが、どういう本末転倒が起きたものか、書道の世界では、いかにはらうか、いかにはねるかなどが技法の面で云々される。おそらく、特にはらいやはねの部分で書きぶりの特徴が出やすいからだろう。これは、篆書のようなものなら誰が書いても同じようになることからもわかる。
 重要なのは、その「はらい」や「はね」の特徴が文字の書体としての特徴となるために、文字の構成になくてはならないものとしてとらえられているという事実だ。なくてもよかったものである可能性が極めて高いにもかかわらずだ。それは、それが文字であるがゆえに他の文字との関係において特徴的であろうとする宿命に忠実であろうとしたことにもよるだろう。極端な場合は、本来は「はらい」や「はね」であったものがいつの間にか点画に変化してしまったものもあるかもしれない。
 やはり「はらい」や「はね」などのない篆書やそれ以前の書体の文字がどれも似たような印象の文字に見えてしまうのはおそらくそのせいだろう。もっとも、さらに時代を遡れば、文字も限りなく絵に近いから他の文字との区別は付きやすい。
 しかし、現在の漢字になる過渡期の文字は特に篆書において機械的に空間割りをしているように見え、そのためか無表情で同じ篆書の他の文字同士での比較では区別しにくい。しかし、それが安定感や線の密度の均一さを求められる印章に用いられる所以だろう。他の書体は廃れてもそこに生き延びる場を確保した篆書は、そうした意味では極めて特徴のある書体だとも言える。もっとも、篆書と一口に言っても種類があるからそれぞれに味わうようにすればよい。  
 さて、逆に言えば、「はらい」や「はね」のような点画の末端部分に頼らねば文字の特徴を出しにくいということになる。ある特定の文字の特徴が形として出せるそうした末端部分に、表現したい気持ちやその他の精神的なものを託さねば、鑑賞する者の心に感動をもたらすことは難しいという事情があるのだ。
 なぜなら、線の途中では、どのような特徴を出そうとも、墨の掠れや線の太さの変化以外に示せないからだ。しかし、これでは形の変化のバリエーションが少ない。何しろ自分の特徴を自分で塗りつぶしながら線が書き進められていくのだから仕方ない。これは証拠隠滅をしながら点画の最後の部分で自己表現を試みると表現されても仕方がないような状況だ。もっとも、筆を進めるという証拠隠滅をしながら、穂にかかる力や筆の角度を微妙にコントロールし、いかに終筆を迎えるかの気持ちやものの構えを作ると考えれば、比較的長い線の後には特徴ある終筆を期待することができるとも言える。
 こうした「はらい」や「はね」やその他の終筆を、場合によっては枝葉末節のことといって切り捨てて考えることがある。文字を読むとき、頭の中ではおそらくそのような切り捨て作業が瞬時に行われているはずだ。「はらい」や「はね」などの特徴ある終筆は無視してかからねば、それらの長さや方向が異なることによって、その文字が別の文字に見えてしまうような特殊な感覚の持ち主もいるだろう。彼らはそうなると、文字を読むのが非常に困難になってしまう。読字障害というものがあるが、漢字の場合はどのようなものが障害になって字が読めないか、非常に興味がある。読字障害の症状を和らげる書体というものを考える余地があるかもしれないからだ。
 しかし、その次に考えなくてはならないのは、文字を鑑賞するというレベルでのケアーだ。読むために無視して切り捨てた元来余分なものと思われる部分を、今度は文字の重要な構成部分として積極的に認めるという作業を頭の中でしなくてはならないと思うからだ。
 このように、いろいろと考えるべき所があるので、書道というのは案外と面白いものなのではないかと思う。
 余分なものを大事にする姿勢がなければ始まらなかったものは多そうだ。芸術関係はもとよりそうだが、技術関係も同じだ。ここで話を飛躍させて生き物に目を向けてみるとどうか。
 贅肉は余分なものだが、その余分なもののつき具合で顔の善し悪しが表現されたり、スタイルの善し悪しが表現されたりしている。これは人間が獣のように毛で覆われていないせいか特に大事にされる。人相とか手相とか言い始めると、骨格の問題もあるのだろうけれど、その贅肉によって人間性や生き方まで決まってきてしまうというのだから恐ろしい。
 頭髪は頭髪で、ここまで体毛を減らした人間には既に余分なものだ。将来的にはなくなってしまうものと思われているから、もう余分なものと考えてもいいのだが、その残された頭の体毛の色を変えたり形を変えたりして大事にしているのは、やはり余分なものだからだろう。本当に大事な胃袋や心臓などにはほとんど関心がなく、不調になってきてから漸く心配し始めるほどだ。
 さらに話を飛躍させて、生き物の存在自体に目を向けてみる。生き物は、その存在自体が宇宙にとって余分なものなのではないだろうか。宇宙にとって元来なくてもよいものだという気がするのだ。すると、生き物という存在は生き物でないものに大事にされているものなのかもしれないという気もしてくる。
 生き物でないものとは何だろう。何か怖い感じがする。我々が考えているような生き物とは違うレベルの生き物かもしれないが、全く生き物ではない存在なのかもしれない。ただ怖いだけでなく、面白そうな感じもする。発想の延長というものは、このように有りもしないものを想定するように我々を導く。しかし、頭に浮かんだ有りもしないものも、それはそれで余分なものだ。だから、大事にしなくてはならないと思う。問題は、どのように大事にするかということだ。

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