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6/30/2007 突然思い出したこと93「極限の努力」 「幸福とは極限の努力を払って勝ちとるものなり」という言葉を突然思い出した。師匠がことあるごとに語ってくださった言葉だ。この後に数行続き、ちょうど色紙に収まるようになっている。その豪快にして精緻な筆跡は生涯忘れることができない。 逆に言えば、簡単に勝ちとったものからは、幸福感を得ることができないということなのだと、これまでは単純に解釈してきた。しかし、「何でもないようなことが幸せだったと思う」という「ロード」の歌詞にあるように、極限の努力を払って勝ちとらずとも幸福というものは味わえるものだとも思う。 これは、いろいろな種類の幸福というものがあるということで、この二つは矛盾しない。それどころか、そのどちらの幸福感も手にしたいのだ。だが、どうしてそのように幸福になろうとするのだろう。幸福と不幸を並べて、さあ、どちらを選びますかと問われたとき、不幸を選択する人はいない。それはなぜなのだろう。なぜ、そうすることが当たり前のことなのだろう。 当たり前のことには必ずメスを入れなくてはいけない。まず、なぜ当たり前なのかが説明されなくてはいけない。「では、君は不幸を選ぶのかね?」という切り返しには、「いいえ」と答える。しかし、だからといって、なぜそれが当たり前なのかが説明されたことにはならないので、言いくるめられたと思ってはいけない。 ★ホームページに戻る 6/29/2007 日々雑感194「楽しい生き方」 何のために生きているのかわからないという若者のつぶやきを聞くことがある。 何のためといって、普通は、繁殖の相手を探して子どもを産むためだろう。つまり、生きること、生活することだ。生きるということは命を全うするということで、それ以外に意味はない。そこに何か意味を見出そうとしても、何も見つからずに悩むのは道理だ。 体を見つめてみよう。生きるための手段そのものだ。繁殖のために生きているということ以外に何があろうか。全く関係のないことだと思われることも、少し考えれば、その一点に向かっているということが直ちに了解されるはずだ。 しかし、生きる目的が何かといって、生ききる以外に意味がないということは、逆に言うと、どんな意味をも持たせることができるということだ。つまり、何のために生きるかと敢えて問われるとき、生きるためだなどという答えは最初から期待されていないということだ。 注意すべき点は、字面では生きる目的を問われているようでも、実際に聞かれているのは、どのように生きるのかという方法だいうことだ。目的ではなく、方法の中にこそ、あるものに対するひたむきな姿勢に生きる美しさや生きるたくましさ等が感じられ、そこに価値を見出しているのが実情だろう。何しろ、目的はただ生ききるという単純にして厄介なことで、それ自体は聖なることかもしれないが、人間の立場で言えば、あまり魅力を感じにくいのだ。 一言で言えば生き様の問題だ。どんな生き様を選択するかは一人一人の考えによる。自由だ。どんな選択肢を自分で整えようとしたか、実際に整えることのできた選択肢はどのようなものか。そして、いかなる方針で何を選択しようとしているか。これが見事に披露されることこそが期待されているのだと思う。 選択肢は人生観によって集め方が違う。また、能力によっても集まり方が違う。何のために生きるのかという問いに答えようとするのも勉強にはなるが、いかに生きるのかという問いに答えられるように、幅広い行動力をもって日々を過ごす方が、若い人にとっては有効なはずだ。豊かな体験が若い人を思慮深くし、行動を美しくする。 このように考えてみると、人間にとって生きる目的というのは、より魅力のある生き方をする人間になるということかもしれない。しかし、魅力ある生き方をする人間というのは、結局、周囲に人を集めることになる。その結果、多くの人材の中から、より適切な伴侶を得ることになり、より適切な関係を結ぶ可能性も高い。詰まるところ、繁殖の相手を得るための努力となっているから、生きる目的との間の矛盾はない。 さて、生きるというのは、若い頃に不安に思うほど難しくない。実際には簡単なことだ。単純で簡単だけれど、もちろん厄介で苦しいことの方が多い。それを必要以上に楽にしようとするから生きることが変に難しく感じられるようになる。実際に難しくても、別に難しくてもかまわない。難しい方が面白いからだ。また、自分の能力も試されるのだから、腕がなるというものだ。 もちろん、難しいといっても、適切に調べ、適切に話し合い、適切に分担し、適切に準備し、適切に励まし合い、適切に感謝することを怠らねば問題はない。生きるということは、たぶんこういう地道なことが中心となって構成されているものなのだろうと思う。だからこそ、スポットライトが当たるようなわずかなチャンスが、貴いこととして感じられるのだろうと思う ただし、「適切」でありさえすれば必ずうまくいくとは限らない。そのうえ、よきにつけあしきにつけ、人生には予測不能という側面がある。だから、必要以上に真剣になってしまうと、辛く苦しくなる。 人生というもの。それについて、眉間に皺寄せ、どこかで聞いたようなせりふを語るのは、聞くだけでもこちらが恥ずかしい思いをする。それはなぜだろう。 人生を軽いのりで語るのはさらに恥ずかしい。ましてや、達観した面持ちで「人生ってそんなもんでしょ」などというのを聞くと、恥ずかしさを通りこしてしまう。そのときには「そんなもんじゃないよ」と言っておこう。「じゃ、どんなもの?」と問われたら、ためらわず「楽しいもの」と答えてあげよう。そして、次のように伝えてみよう。 次はこうしよう、こうして駄目ならああしようと、手をかえ品をかえ、攻めの手をゆるめないという人生が好ましい。そうした心意気をもっているかぎり、溌剌と生きることができるからだ。生きる意味などどのようなものでもよい。溌剌と生きることができたら、どれほど楽しいことだろう。 ★ホームページに戻る 6/26/2007 突然思い出したこと92「支配」支配とは何だろう。単純に漢字の並びで考えてみる。 もしかすると、本当に、支え、配ることなのかもしれない。 サポートとプレゼントだ。これを可能にするのは強い権力だ。不満をコントロールする力がなければならないということだ。なぜなら、サポートとプレゼントは不満の材料となるからだ。 ところで、サポートするには公的な立場をもつものがいなければできない。プレゼントには富と利権をまず集中する必要がある。合理的に分割して再配布することで権威を保つ。権威を認めてもらえるから権力をにぎっていることが許される。 集めるばかりで配らない。そうして、物や金が支えられないだけでなく、心を支えるに足るだけの権威がなくなったとなれば、そこに所属する者たちは、もはや一人一人ががんばっている集団に過ぎない。お互いはただの仲間か、それとも仲間じゃないかだ。 哀れな人々の行進だ。夢という妄想、希望という甘え、自分でも訳の分からない不満。この三つを、自己存在の基盤として認識するしかない人々の哀れで奇妙な行進だ。 何ものにも支配されずに、自分の考えで、自分の足で歩いているのだという自負心だけが原動力だ。その足が向かう先が見えていれば立派だと言えるのだが、いろいろな道しるべにこうも気づかないのはどういう訳なのだろう。 ふと、自分の足跡を振り返ってしまう。 6/23/2007 日々雑感193「折り紙」折り紙がくずかごに捨てられていた。折り紙は紙の発明後どのぐらいしてから生まれたのだろう。折り紙以前は何によって同様のことが為されていたのだろう。折り紙の効用にはどのようなものがあるのだろうか。全く分からない。少なくとも、どのような効用があるかを考えておこう。厄介なものを見てしまったものだ。 幼児期の折り紙。手順を踏まないと折り紙は完成しない。完成したときの喜びは幼児の成長に大きな役割を果たすだろう。物に似せる努力が要る。どの程度似ているか比較し、どこが似ていて、どこが似ていないかを分析し、以前の自分の作品と比べて自分の技量の変化を自己評価するということが小さな頭の中で行われる。 また、モデルとなる一般的な折り方を学ぶとき、どうやってこの形になるのかという興味をもつこと自体が教育を受け止める土台を作ることになるだろう。折る前に折り方を想像したり、折りながらこれまでの技術の応用であることを確認したり、折り終わって鑑賞したりすることも子どもの成長に大きな影響を与えるだろう。 鶴の折り方を学べば、その技術を応用して別の鳥類を表現しようと試みるかもしれない。折る途中でインスピレーションを受け、途中から別の形に変化させ、全く別のものを折りあげるかもしれない。 こうした経験を積むことで、物事が構造的に成り立っていることを体感する。観察力、分析力、構成力と、創意工夫する姿勢、指先の器用さを育てるだけでなく、作品を他人のために思いを込めて折ったり、プレゼントして喜ばれたことをうれしく思ったりすることも心が育っていくうえでは重要なことだろう。 こうした折り紙というものが廃れ、完成品を与えるばかりでは、物は壊すものだとか、壊れるものだとかいう感覚が育つだけだろう。また、自分が完成させたわけではないから、壊れる前の扱いの丁寧さや、壊れたときの悔しさや、壊れた後にもう一度作ろうという気持ちは起きにくい。また、それだけの材料も技術もない。 折り紙なら、壊れやすく、自分の総力を結集したものだから大事にする。折り紙なら、壊れた後にもう一度折ってみようという手軽さがある。もう一度折れば、よりよいものが作り出せることも分かっている。実際に、折るごとに技術は進歩し、アイデアが生まれ、細かな工夫もなされる。当然、深い満足感を得ることになる。やがてオリジナル作品に挑戦することになり、世界を表現するという充実感を得ることもできる。表現しづらいものを完成させたときの喜びはたいへんに大きい。 同じテーマで折るにしても、レベルに応じて折り方が何種類もある。個人的な工夫を加えると、無限とは言わないが、相当のバリエーションが存在する。これも教材として優れたものであることの証だ。こうして少し見直しただけでも、折り紙というものはもっと積極的に取り組ませた方がよいものなのではないかと思われる。 青少年期の折り紙。気持ちを伝える折り紙。言葉のかわりに折り紙に託して気持ちを伝えるということは可能だ。千羽鶴に代表されるが、それ以外にはないのだろうか。なければ、もっと積極的に応用すべきだろう。千羽鶴が病気の人に贈られるならば、千匹亀を長寿のお祝いに贈るということがあってもよい。万匹亀では作るのがたいへんだ。病気の人に送ろうとすると、完成前に病気が治ってしまうおそれがある。万引亀なら、折り終わるまで元気でいてねという意味で扱えば、長寿はかなえられるかもしれない。一日に一匹折れば、還暦の人に折り初めるのがちょうどよい計算になろう。 また、折り紙は工夫次第で恋人に贈るおしゃれなプレゼントにもなる。この場合には非常に高価な紙を使用することになるかもしれない。また、高価でなくとも、最低限美しい紙でなくてはいけないだろう。恋愛感情を表現するのだから、テーマが亀では駄目だ。美しい花だとか、具体物ではなく抽象的なものだとか、相手の好きなものだとか、いろいろ心を砕かねばならない。さらに、言葉を添えたり、プレゼントに添えたりとある程度の演出も必要だ。 青少年はいろいろな顔を持っている。それは、大人がいろいろな顔を持っているのとは違ういろいろさだ。そのためか、その結果か、思春期を迎え、繊細な気持ちをうまく表現できずにトラブルを起こしたり、自分を壊したりする青少年が多いように思う。これに対して、折り紙という作業を通して、まず心を安定させたり、そして自分の気持ちを修復したりすることは可能だろうと思う。集中しないときちんと折ることはできないから、思い悩むことがあっても折っている間は心の揺れが納まる。完成させたとき、心に一服の清涼剤が与えられ、さわやかな気持ちになれる。また、作業を通して、自己の存在感を確認する効果もあると思う。 幼児期に折った折り紙と同じものを折ってみることで、自分のなかで流れてきた時間の流れを意識し、時間の感覚を取り戻す。正常な時間の感覚を取り戻せば、無軌道な行動も納まっていくはずだ。自分は幼児期を経て、青少年になり、そして大人になっていくのだという単純な人生観の土台を自らの手で再確認することは、重要なことだろうと思う。 壮年期の折り紙。イメージしたことを実現するために、見通しを立て、手順を構成し、技術を磨き、実行する。仕事をこなしていく壮年期の人間にとっては、意識的に折り紙を折ることが、新しい発想を得たり、打開策をひらめいたりするきっかけを手にする手軽な方法となる。そんなことあろうはずがないという方もいるかもしれないが、通常の努力や流行の努力を懸命にしているだけではただの人並みで終わる。一見関係のないものからも学んだり、気づかされたりしていかねば一流にはなれない。人と同じ事をしていて優秀な人々と格段の差をつけるには、なりふりなど構ってはいられないのは誰もが認めるところだろう。しかし、いくらなりふり構っていられないとはいえ、合法的でなかったり、合法的でも美しくなかったりすれば、自己満足感は低いものになってしまう。それでは人生面白くない。 もちろん、折り紙でなくてもよいのだが、折り紙は変幻自在で、何らかのものを得やすい。また、いつでもどこでもできるトレーニングだから、不断の努力を可能とする。あらゆる努力に折り紙を加えることの意義を見いだせないようでは、もう勝負は見えている。折り紙にこだわっているわけではない。全く新しい発想、全く新しい手法などを思いつく脳の状態をつくっておかねば生き残れないという危機感がなければ、折り紙だけでなく、数限りなく目の前にある宝の宝庫を見過ごしていても平気な凡庸な働き手になってしまう。あらゆるものからあらゆるものを学ぶ精神が必要となる重要な年代だから、当然折り紙にも目がいくはずだということだ。 実際には、幼児期のように折り紙によって脳の能力の底上げを試みるということではなく、既に頭の中にある混沌とした状態にあるものを、折り紙をきっかけとして具体的な商品イメージとかサービスイメージとか技術的イメージとがが明確化されてくるということが多いのではないだろうか。だから、学ぶというと少し語弊があるかもしれない。 熟年期の折り紙。ぼけ防止としての折り紙だ。孫に教える折り紙だ。次第に衰えてできなくなることが多くなるなかで、折り紙は軽く、経験が物をいうので、比較的取り組みやすい活動だ。指がだめになるまできる。だめになっていく過程でも、紙を大きくすることである程度対応ができる。紙が大きいほど子どもたちには折り方が分かりやすくなるという利点もある。孫や近所の子どもに教えるなかで、自分の存在価値を確認できるというのは重要なポイントだ。 今後の日本は、ある一定期間、老人ばかりの国になる。かつてのように老人が少なく、老人に聞けば老人の知恵で物事が解決するというようなことであれば、希少価値、年の功でありがたがられた存在、尊敬の対象となりえたが、現在はどうだ。老害といわれる始末。老人が多く、子どもの方に希少価値がある。少子化で甘やかされて、低レベルに留まっているにもかかわらず希少価値があるので、その存在が歪んでいる。この歪みをほぐすのが老人の役割となっていくのだろう。世の中でバカ親が注目されているが、そのバカ親を育てた親だから責任がある。バカ親そのものではないから、まだそれなりの分別があろうというものだ。 ただ残念なことに、老人に相談事をしても、世の中の専門化が進んできたなかで生きてきた彼らに、人生の知恵がどれだけ集積されているかが、危ぶまれる。そこで、老人に聞くより、専門機関に頼る傾向も増えている。ところが、専門機関は身内ではないので、結局は冷たい。 このような老人のイメージだが、これからは少し変わっていくかもしれない。かつてより老人は長生きであるうえに元気があるからだ。ただの老人というよりも、複雑化した世の中のなかで何か特別な分野に身を置いて働いてきてたので、それなりのスキルを持っているのではないかと期待する。この老人パワーが発揮されれば、かつてのように一人の尊敬される老人という姿ではなく、組織化され、目的を持って活動するなかで尊敬を受けるという道を与えられた、集団としての老人の姿として世の中で認められていくのではないかと思う。一人の人格者としてはあまり頼りにならないが、集団では相当の活動ができるという点で重んじられるということだ。 こうした老人パワーを上手にコーディネイトするシルバーパワーコーディネーターなるものが出現し、老人集団をうまく動かさないと、少子化が意味する本当の課題をクリアーできないことになる。シルバーパワーの一部門に折り紙部隊を結成し、基本から高度なものまでを、ただ折るという技術を伝達するのではなく、カリキュラムとしてもっている集団として成立させていくとよいのではないかと思う。 もちろん、対象年齢を幼児に限ってはいけない。目的別の全年齢対象だ。 ★ホームページに戻る 6/21/2007 日々雑感192「冷徹な笑み」 日常会話のなかで、DVという言葉を聞いたとき、最初に思い浮かぶのはデジタルビデオで、次にドメスティックバイオレンスだ。ダークバイオレット、ダブルビクトリー等はその後に続く。 この中で深刻なのはドメスティックバイオレンスだ。家庭が壊れ、これまでの人生が壊れ、自己崩壊も起こる。これは、加害者にも被害者にも訪れる恐怖で、被害者にとってはダブルパンチとなる。離婚して慰謝料が取れなければ、トリプルパンチになってしまう。それよりも何よりも、加害者に対する恐怖心で心がずたずたになってしまうという致命傷を負うことになる。ただ、加害者が男性であるとは限らないので、思い込みは禁物だ。 ところで、DVがあまりに深刻なために正常に恐怖を感じるのではなく、自分のことながら笑ってしまうことがあるらしい。恐怖を突き抜けたところにあるその笑いとはいったい何だろう。 絞首台の笑いと呼ばれるものがある。死刑囚が絞首台に立ったときにはどうやら笑うらしい。当の本人が笑うことで、つまり他人を演じることで自分の恐怖感を解消しようという仕組みが働くのだという。昔のテレビ番組でよく悪役が「もはやこれまで」と自決をはかるときにも必ずといってよいほど高笑いをするという演出があったのを思い出す。僕たちの日常にも至る所にこのような絞首台があるのではないだろうか。 この自己防衛は、心を守るだけで、身を守ることにはなっていないように思われる。しかし、このように他人の心をもって自分を見つめることで、心の平安を目指すこと以外に何か得ることはないだろうか。 死刑囚については、死刑執行が決まり事の中で他人によって着々と進められていくばかりだから、もはや事態を変えるようなことは起きない。何とも為すすべがない。だから、純粋に笑うしかない。 しかし、日常経験する恐怖を越えたところにある笑いは、意外と九死に一生を得るチャンスを生み出すきっかけとなるのではないだろうか。そのためにはただ生理現象的に笑うのではなく、意識的に冷徹に笑う必要があるだろう。それが打開策をひらめく第一歩となるのではないかと思うのだ。誰も助けてくれなければ、冷徹な笑みを浮かべた自分に助けてもらえばよい。そう思うだけで百人力を得たのと同じではないか。ただし、これは生死にかかわるピンチや一生を左右するようなピンチを自力で乗り越えたという経験がかつてあるというような条件が必要かもしれない。 それでも駄目なら諦めの笑いという手が残っている。それはもしかすると、命がけの行動をひきおこすかもしれない。これを実現するには、おそらく命がけの行動を起こすにちがいないという雰囲気を周囲に伝える力を持ったあきらめの笑いを折に触れて練習しておくことが大切だ。それは美しく力強く、しかも一点だけを考えている目と、軽く結んで両端をやや上げた凛々しい口もとと、諦めの角度を首のわずかなかしげに表現していかねばならない。これには鏡が必要だと考えがちだが、それは駄目だ。鏡では、表情が左右逆になるだけでなく、目付きが自分を見つめる目になってしまうので、デジカメやビデオカメラを利用するのがよい。これで鏡よりも自分を客観的に観察することができるようになる。 ★ホームページに戻る 6/19/2007 心の断片96「ダブルループ」本当のことだから正しいとは限らない。また、正しくても適切とは限らない。適切だから効果があるとは限らない。効果があっても感謝されるとは限らない。感謝されてもそれが心からありがたがられているとは限らない。心からありがたがられていても好きになってもらえるとは限らない。好きになってもらっても仲良くしてくれるとは限らない。仲良くしてくれても裏切らないとは限らない。裏切らなくても裏切りの気持ちを持っていないとは限らない。 もちろん、裏切りの気持ちを持っていても裏切らないかもしれない。裏切っていても、もしかすると仲良くしてくれているかもしれない。訳あって仲良くしてくれてなくても、本当は好きになってもらえているのかもしれない。好きになってもらえなくても心からありがたがられている可能性もある。心からありがたがられていなくても礼儀としての感謝だけはしてくれるかもしれない。感謝されなくても、効果があればそれでよい。効果がなくても、それが適切な処置であったならば、自分の心の救いにはなるだろう。仮に適切でなくても、正しいことを貫くことは勇気の要ることだ。たとえ正しくなくとも、それが本当のことなら神に対して後ろめたさを感じることはないはずだ。 6/16/2007 突然思い出したこと91「尻込み」「尻込み」という言葉を突然思い出した。何か事を為そうとしたとき、さまざまなことを想定したために、尻込みすることがある。 マイナス面とプラス面の想定があるが、想定のバランスが崩れてしまうのだ。マイナス面に目を向け、それが気になり出すと、尻込みして、事なかれ主義に陥る。これは痛い経験を積んだマイナスの姿勢だ。 こうなったときには誰が責任を取るのだとか、これは誰がどの時間を使ってやるのだとか、果たしてそれだけの労力をかける価値があるのかとか、今やることではないのではないかとか、いろいろな決まり文句をことごとく使い、何もしないようにしておくのが賢いと信じている。 こうした決まり文句は、決まり文句なので最初からその答えを用意しておくことができる。従って、最初の答えでつっこませ、つっこみの言質をとったうえで、本当の答えを示すことも容易だ。たぶん、そういう意味合いではないというような逃げ道を見つけようとしてくるが、どういう意味合いなのか具体的に質問して聞けばよい。今はデータがないので明確には返答できないと言えば、いつ示してくださるかと聞けばよい。最終的に答えてくれなくてもよい。事を為せなかった理由が、ブレーキ役の働き過ぎで、そこに責任が問われるべきだという物的証拠をたくさんそろえることができればよいだけの話だ。一度にやると気づかれるので、外堀を埋めるように、いろいろな側面から断続的に行えばよい。これを組み立てて総合すると、不動の証拠となる。とにかく決まり文句しかない言わないので、どうにでも料理ができる。ただ、それをどこまでやるかは人格と時間と能力の問題というより、本来の目的、つまり誰のためにやるのかということにかかっている。これを間違えると、議論をもてあそぶことになる。これは倫理的な問題だ。 一方、逆の姿勢を身につける人もいて、その人がエンジンとなって世の中は進んでいく。もちろん事なかれ主義のブレーキ役の人も要るのだが、残念ながらブレーキシューとして摩耗していただくしか役回りはない。実際損な役回りなのだから、事なかれ主義の人は大切にしなくてはいけない。このブレーキが効くことによって、舵取りがうまくいくのだから、その意味でも重要だ。 舵取り役はブレーンだ。高性能エンジンもあらぬところで全開になっては、周囲が迷惑千万だ。しかるべきところでしかるべき方向に舵を向けてから爆発的な力を出してもらわないといけない。ここで気をつけなくてはいけないのはブレーンが失敗をエンジンやブレーキのせいにしないことだ。 失敗の責任は、ブレーンにある。その他は自分の働きにしか責任を取る能力がないと設定されていることが多いはずなのだが、得てしてこれが責任転嫁されることが多いのではないか。この責任転嫁の頻度と程度は、集団の成熟度の指標ともなるはずだ。 これは三すくみのジャンケンになるかもしれない。ハンドル、ブレーキ、エンジン。 ハンドルは、エンジンには弱いが、ブレーキには強い。ブレーキは、ハンドルには弱いがエンジンには強い。エンジンは、ブレーキには弱いが、ハンドルには強い。 ブレーキをかければかけるほど、ハンドルは自由に動くから、ハンドルの方が強い。エンジンが回っていても、ブレーキをかければ止まるから、ブレーキの方が強い。ハンドルで向きを変えようとしても、エンジンが勢いよく回っていれば危なくてできないから、エンジンの方が強い。 問題は、どんな手の形にするかだ。これは難しい。手ではうまくいかないかもしれない。たとえ、うまくいっても奇妙なジャンケンになるだろうと思う。 6/14/2007 変な疑問64「世間の正体」打算なき必死の行動。通常冷たい視線を送るはずの世間が、この行動には温かい支援の手を差し伸べる。この得体の知れぬ世間の正体は何だろう。 ①無関係の人々の集合体としての世間……必死の行動に共感した一部の人が他とは無関係に手を差し伸べる。一部の人の支援の行動自体が、無関係の人々の間に幾種類かの関係を生じさせる可能性を持っている状態の世間。個人が関心を持つ状態「ちら見状態」、関心を持って話し合う関係「あの人どうしたの状態」、話し合って行動を勧誘する関係「ちょっと見に行こう状態」、協働関係「せーのーで状態」。 ②烏合の衆としての世間……支援の気持ちの波及の程度にかかわらず、組織的な支援とはならないため、世間の冷たさと、個人の人情のギャップが大きい。そのため、個人の支援の手が実際以上にありがたく感じられる状態の世間。 ③世間様としての世間……成文化された法律、不文律、あるいは一般的な世の中の常識というような規範を遵守している人々のこと。誰にも否定されない状態の世間。 ④顔見知りの小さな社会としての世間……互いに心根や直面する問題が何であるかが理解されていて、最初から何とかしてやりたいという気持ちが向けられている状態の世間。支援の手を差し伸べない者がマイナスの評価を得て、構成員から処分を受けたり、不利益をこうむることになる可能性が高い。 ⑤人間関係をつくっていく場としての世間……渡る世間。人間関係を築き上げながら世間を渡ることは、必死の行動であるから、必死の行動をとる者同士の共感を得た場合には、「渡る世間に鬼はない」状態となる可能性が高い。 あと5種類の世間を思いつかないといけないのだが、今日はここまで。 日々雑感191「僕の物差しは何本?」ある物や事に対するとき、好き嫌いで判断するという物差しを最初に持ってくるのは幼児の段階だ。そこから次第に人間ができあがっていくと、好き嫌いだけの判断以外にも物差しが増えていく。人生経験によって物差しの量も目盛りも違ってくる。 幼児的な判断基準をいつまでも中心に据え続ける人間が増えると、周囲はたいへんなことになるだろう。その結果生じる不具合を人知れず修復している人の数が多いうちはいいけれど、そのうち宗旨替えして「もうやってられねえ」とさじを投げるか、「じゃあ、その方が楽だから、わたしもそうしよう」と仲間になろうとしはじめると、怖い。そうなると、先に言ったもの勝ちになりそうだ。これを勝ちというのはおかしいのだが、本人はそのつもりであることが多いようだ。逆に、一歩遅いと、その人が大人の立場をとらざるを得なくなる可能性が高い。敢えて名乗りを上げ、逆の判断をして対立したり、同じ判断をしたりして、行動を譲らなかったりする人はあまりいないからだ。 誰でも、無用の喧嘩は避けようとする。それを知った上で我先に自分の好き嫌いの判断を横行させるのは、ただ見苦しいだけだ。 紳士的というのは、敢えて大人の立場をとって我慢するというのではなく、真に大人の立場をとって、個人の好き嫌いの判断が時と場合によってわがままに変質してしまうことをユーモアをまじえながらプライドを傷つけないように配慮しつつ諭していくというものだと思い知らされたことがある。別に紳士的でなくてもよいのだが、このような自然体の術を身につけるまでには、自分自身がさまざまな体験をしていなければならないだろう。年とはかく取りたいものだ。 実際には年とともに頑固になったり、わがままになっていく人が多いように思う。もしかすると、そうした人がとても目立つので、実際よりも多いように思われるのかもしれない。誰もが若い頃は、ああはなりたくないと思っている。にもかかわらず、なりたくない人柄になっていってしまうのはなぜだろう。気遣い、心配りをする人々は、神経を使いすぎて、もしかしたら早くお亡くなりになってしまうのだろうか。もし、そうなら少し寂しい話だ。 果たして僕の物差しは何本あるのだろうか?自分の経験だけでは物差し不足になるから、他人の話を聞いたり、本を読んだりして、まずは疑似物差しを手に入れていくことから始めようかと思う。 6/12/2007 恐怖シリーズ97「すねちゃま」何をしてきたかではなく、今何をしているかが問題だという。しかし、年を取れば何をしてきたかが重要になる。何もできない現在、過去のことが心の支えとなるのだ。これはとても大事なことだ。そのためには若い頃に全力で取り組まねばならないとも言えるが、それは本末転倒というものだろう。 ただ若い頃には全力で取り組まないと、力不足ゆえに通用しないというだけの話なのだ。若者のさわやかさというより、あまりに当然のことなので、敢えて言うまでもないことだ。 では、青少年はどうだろう。まだ何もできない現在、未来が心の支えとなるのだ。そのためには、老いる前に全力で取り組めるような場を求めなくてはならない。場には人数制限があり、はみ出すものも多い。第2、第3希望の場で落ち着けば、その場を第1希望の場としてすり替えるのも容易だ。中には、場自体に変革を起こして、第1希望としてふさわしいものにしていくという強者もいる。 しかし、世の中にはどうにも巡り合わせの悪い人間もいる。中途半端に力を持っているために、その力を発揮する場を手に入れることができないのだ。より力のないものが自分にふさわしい場を獲得し、そこで花を咲かせるのを不条理としてとらえ、世の中というものに背を向ける。 いったい何を世の中に期待していたのか分からないが、プライドの強い甘えん坊さんは、いつも何か不満を述べていたり、すねていたりしているのが特徴だ。これを「すねちゃま」と呼ぼう。 そうこうしているうちに人との距離がうまれてくる。人との距離を適切にとるというのはよいのだが、腹を割って話すということも必要だ。 もしかすると、すねちゃまは距離を守りモードに設定しておき、自分を守るのが、人生経験を積んだ者の知恵だと無意識に了解しているのかもしれない。だが、意識としては大きく手を広げて全てを受け入れるという姿勢のつもりでいる。そのあたりをどう自覚しているのだろう。気をつけないと自分もそうなっている可能性がある。少しずつ変化していくので、自分が陳腐化していくことに気づかないのだと思う。これは恐ろしいことだ。 6/10/2007 心の断片95「一日」「一日」 はばたいて つばさおれる ふんばって かたあしおれる なぜとうたがい こころがゆがむ はいずりまわって そらあおぐ のたうちまわって じごくみる ふこうのようで こうふくの いつわりなき みちたりた一日 6/6/2007 突然思い出したこと90「数値化され得る愛国心」何に投資しているか。これで本性が分かる。そして、その投資の無駄の度合いで、未来が少しずつ決まっていく。このように考えていたことを突然思い出した。 ほとんどの家庭では子どもに投資されている。それは子どもが親より若いからだ。つまり、愛されているからだ。どういう愛され方をしているかによって、子どもの未来も少しずつ決まっていく。 国家はどうだろう。子どもたちと子どもたちを育てる機関、そしてこの国の財産である高度な技術の開発の振興にどれだけ投資しているか。つまり、 国内総生産のうちどれだけをさいて、この国の将来に投資をしているかということが問われなければ、あらゆる論議も足もとをすくわれ、あまり意味のないものになってしまう。 投資の変動を確認しなければ、この国の子どもたちの愛され方をつかめない。そして、この国の愛し方をつかめない。愛国心というのはこういう数値で評価できるものだと考えているが、どうだろう。この数値化された愛国心、つまり、この国の将来への投資金額がGDPに占める割合は、よその国と比較してもあまり意味がない。よその国とこの国とでは歴史も文化もお金の使い方の質も違うからだ。ここは、自国内の割合の変動に、社会構造の変動を考慮して、解釈していくしかないだろうと思う。 しかし、他国とのあまりに極端な差はやはり咎められなければならない。未来に投資せずに何に投資しているかを確認しなければ、まともな批判すらできない。適当な評論家の受け売りや昔から言い古された定評があると思われている文句の付け方を披露するではなく、実際のデータを読み取り、政治家や官僚の上をゆく判断をしなければならない。それを最初から無理だといって手をつけないから、現在のような状況になってしまっているといっても、大きな間違いはないと思う。これは無意識に国を駄目にしていく心の構えだ。現在は一人でも多くの人が政治に関心を持たねばならぬという世論があるのだから、一人で難しければグループで為せばよい。 そうしなければ不安で仕方ないという現状が情けないのだが、手遅れになってからのこのこと顔を出して解説するような間抜けにだけはなってはいけないぞと教え込むのが、無料の投資だ。無料のものはまだたくさんある。これを使わずに金銭にばかり目を向けていると「無理だ」とくじける腑抜け人間になってしまう。これでは心寂しくなるばかりだ。 また、奇妙な土俵に乗って、奇妙な負け方をしていると、せっかくの過去の財産を食いつぶしていくことになる。これではある時点で一気に没落する憂き目にあうだろう。栄えた者たちがなぜ没落するかといえば、誰も没落するとは夢にも思っていないからだ。愛国心のかけらでもあれば、悲しい現実に目を向け、声なき声を聴き、声高の声の裏を見逃さず、政治に参加した方がよい。それを阻止する動きが世の中にあれば、かなり古い言葉で語弊のきらいがあるが、売国奴の作戦かもしれない。 既に多くの若者が売国奴まがいの人々の長年の働きかけによって、無軌道、無力化されてきた。普通の若者がその背景によって必要以上に高く評価されることがある。この傾向、つまり何がどのように高く評価されているかによって、蝕まれ方を逆に記録していくことができる。だが、実際に困るのは、売国奴まがいの人々が、売国奴まがいの行動をとっているという自覚をもっていないことだ。こともあろうに、こうした人々が愛国の人を標榜している場合もあるから厄介だ。 無意識の売国行為と意識的な売国行為、これはどう裁かれたらよいのだろう。 6/3/2007 突然思い出したこと89「挨拶の目的」挨拶はとても大事だということを突然思い出した。でも、どうして大事なのか。人間関係を良好にするためだという。そんなことを聞いているのではない。もっといろいろな意味があるはずで、それを現代人は忘れていると考えた方がよい。例によって無理矢理10種類の働きを想定してみよう。 ①点呼のための挨拶……一日の始まりの挨拶は、誰がいるのかいないのかの確認となる。「そういえば、あの人の声を今日は聞いていないぞ。どうしたのだろう。やっぱりいない。では、よびだそうか。」このようにして、いない人へのフォローが始まる。また、役割分担するための基礎情報として、挨拶の有無を記憶する。大勢になれば、名簿にチェックして、記憶の代わりとする。 ②体調確認のための挨拶……挨拶の声の大きさ、声の張り、声を出すタイミングによって体調を確認する。また、表情や顔色をうかがうきっかけとして挨拶を利用する。声を出すことなくのぞき込めば、いろいろな意味を感じ取って、それを特定できないため、不安になったり、不気味さを感じたりする。「元気?」という挨拶もあるが、これは相手と状況を選ぶ挨拶になるので、普通は「おはようございます」という毒にも薬にもならない挨拶が便利なものとして使われる。 ③覚醒のための挨拶……朝の挨拶は、まだぼんやりしている頭を覚醒状態に切り替える刺激として利用される。声自体を聞くという刺激、そして、応答するという作業、特に声を出すときにした腹に力を入れるので、気合いが入ることになる。また、応答することを怠ってはいけないという気持ちが働き、周囲への注意力が増す。 ④体調調整のための挨拶……声を聞く。声を出す。握手する。握手される。抱きつく。抱きつかれる。これらが刺激となって、あるいは体に直接働きかけて、下がり気味の血圧が上がったり、上がり気味の血圧が下がったりする。これで気持ちをさわやかにしたり、エンジンをかけたりする。 ⑤情報獲得のための挨拶……こちらがどの程度の挨拶をすると、相手はどの程度の挨拶がかえしてくるか。潜水艦のソナーのような働きで、相手を知る。これを積み重ねていけば、およその人間関係の距離がつかめる。その距離に応じたつきあいや言葉遣いを用いながら仕事や日常生活を送ればよいことになる。もちろんこれは変動するので、合うごとに挨拶をしてデータを更新しなければいけない。 ⑥話の契機のための挨拶……無言の状態から、いきなり本題にはいると、面食らうのが普通だ。相手に備えがないからだ。これは不意打ちだから、その分ストレスになったり、取りかかっている作業の失敗のきっかけとなったり、最初の部分がうまく聞き取れず、聞き間違いや勘違いのもとになったりする。これを解消するために、「昨日はどうもありがとうございました」という軽い感謝の表明としての挨拶か、「おはようございます」という無色透明の挨拶をして、まず相手がこちらを注目をしたり、気持ちを向けたりという、聞くための準備活動が完了するまでの時間を与えるするようにする必要がある。 ⑦現状表現のための挨拶……手が離せないことを示すには、直接手が離せないと言えばよいのだが、そんな暇すらなかったり、直接言うのが憚られる場合は、挨拶の返し方で理解してもらおうという期待をする。これは甘えの気持ちからだと思うが、甘えを全く否定するのは厳しさを全く肯定するのと同じで間違っている。時と場合と相手、そして頻度によっては甘えに基づく行為をすることもあり得る。 ⑧儀礼のための挨拶……全く形式的な挨拶。挨拶そのものに意味があるのではなく、儀礼のための挨拶をするかしないかということに意味がある。だから、儀礼のための挨拶、つまり儀礼的な挨拶というよりも、挨拶儀礼と言った方が正しいかもしれない。主に公的な挨拶や、自宅まで伺っての挨拶。日常的には、すれ違い様に「よおっ」と声をかけるのがこれだと思う。無視はしていませんよというお印程度の挨拶だ。人間関係の軽い確認のための挨拶ともいえる。 ⑨因縁づくりのための挨拶……無関係の人と因縁をつける(語弊があるかな?)ための挨拶。これなしに話し始めると無礼となる。自分の領域に土足で踏み込まれた感じを与えるからだ。「はじめまして」とか、やはり無色透明の「こんにちは」とかを最初に使えばことは足りる。 ⑩打ち切りのための挨拶……人間関係自体を打ち切る挨拶とその場を打ち切るためだけの挨拶がある。「さらば」「じゃあね」「またね」「失礼します」「さようなら」「お別れね」「ひとまずこれで」「またあいましょう」「二度と顔を見せるな」「今日は楽しかった」さまざまある。次の出会いをどのようにしようかというさまざまな思いがたくさんの言葉を生み出す。 何とか十種類の働きを挙げたが、まだ他にもあるだろう。もともと挨拶という言葉は、相手と問答をして、悟りの度合いを確認するという意味合いの仏教用語だったというのはよく言われることだ。しかし、こうして考えてみると、たくさんの責任を果たさなくてはいけない言葉のグループだと分かる。ただ単に大切だと思っていたけれど、もっと意識的に自分自身の挨拶を見直す必要がありそうだ。少し面倒だが、そのうち無意識のうちにできるようになるだろう。 6/2/2007 突然思い出したこと88「街の観察」この街はどんな街だろう。改めて観察しながら歩いているうちに、「しつけ」とは「する」+「つける」だろうか。こんな疑問を持っていたことを突然思い出した。「飲みつけていない酒をたくさん飲んだために二日酔いで苦しんだ。」というときの「飲みつける」の「つける」だ。 そうだとすると、「しつけ」というのは、「やりつづけていること」つまり、「当然のこととして受け入れて実践していること」ということになるだろう。「しつけ」が悪いということは、「やるべきことのトレーニングができておらず、当然のことのようにやれない。」つまり、言われないと気づかない、言われても実行できない、実行しても心が伴わない。こういうことなのだろう。 心が育つ過程で、しつけを充分にしないと、心が育たないばかりか、当たり前のことができないという致命的な欠陥を子どもに与えることになる。家庭教育ということを、家庭学習、つまり教科の学習のことだと思っている親が随分といるらしいが、詳しいデータは手元にないので、何とも言えないが、街を歩いたり、公共施設を訪れたり、店の中を見たり、電車に乗ったりすれば、今の親が子どもにどんなしつけをしているかがすぐにわかる。 少子化なのできちんと目を配っているかと思えば、眺めているだけとしか思えないような親や、まれにけしかけている親や、根本的に子どもを見ていない親もいる。つまり、しつけなどしていない親が大半で、しつけている場面、つまりトレーニングをしていると思われる場面に出くわすことは、限りなくゼロに近い。これは驚きだ。しつけるのが恥ずかしいという気持ちがあるのか、それとも知識がないのか、気力がないのか、怖いから聞いていないのでわからない。もしかすると、親自身がしつけられた経験がないのかもしれない。親の親、親の親の親の責任は重い。もちろんその中から政治家やら教師やらが選ばれていくのだからことは重大だ。 新聞で教育の二文字を見るたびに、最近虚しくなってしまう。徳育を教科にするより、家庭科の時間を増やして、よき家庭人、良妻賢母ならぬ良親賢親教育をしなければならないのではないかと考えてしまうほどだ。 さて、「しつけ」はともかく、「しきたり」とは、「する」+「くる」+「たり」だろうか。そうだとすれば、「これまでしてきたこと」という意味になる。「しつけ」が個人の問題であるのに対して、「しきたり」は個人を越えたところの問題だ。組織や地域社会のなかで継承されているものだ。「しつけ」が任意であるのに対して、「しきたり」は伝承生を持っている。この中間に存在するものが、これからの世の中を救うものではないかと感じている。それは「家訓」だ。 この「家訓」の消滅によって、個人も地域も救われない状態にあるのではないだろうか。家訓は男性によって守られ、継承されていく男系家族のものだ。女系家族では何だろう。しきたりに近いものだろうか。もし、そうだとすれば、家訓の方が寿命が短く、絶えやすい。継承するには祖父、父親の権威が要るからだ。それが否定される社会となれば、個人の見識の高さや意志の強さに頼るしかないが、これはシステムではないから全体としてはばらつきが大きくなり、それに最低限の教育、つまり画一的な、つまり共通の認識を与えようとすると、大きなエネルギーを費やす必要が生じる。これが現代の学校教育の疲弊の根本原因にになってはいないだろうか。 家庭教育と学校教育が行き届かないと、非常に効率の悪い社会ができあがる。共通項が少ないので、それをまず乗り越えるか、相手を潰すか、いろいろの手続きが必要となるからだ。効率が悪いだけでなく、視野が狭く、度量の小さい人間の量産、自分ばかりがかわいくて、人間自分が一番かわいいじゃないですかと、まるで大人風の結論ででもあるかのように自分の弱さと非を簡単に認めるにもかかわらず、内心は固着しているので、実際にはまるで変えようとしない幼児的粘着質の気質をもった人間が増えるのだ。 これがストレス社会のストレスを加速させているとしたら、不幸なことだ。世界で一番自由で裕福なのに、世界で一番つまらない存在に日本の子どもがなっていくのではないかと心配する。 街の喫茶店では、青い議論を交わす青年も見かけない。そうした体験なしに成熟した議論は実現しないだろう。耳にする話題は女かタレント話ばかり。車の話は減り、かわりにゲームの話がとってかわった感がある。もっとも、内面は別だから、本当のところは分からない。小部屋にこもってネット上で議論を繰り広げているのかもしれない。何とも言えない気分で家に戻る。もしかすると年を取ったということなのだろうか。しかし、年を経てきた分だけ、若者のありようや家族というもののありようを年代で比較することができるということだ。つまり、より客観的な視点から見つめることができるのだと思う。 日々雑感190「教育再生会議メンバーに教育実習を」徳育というものが本当に教科になっていくのだろうか。そんなものを集団教育で行うという発想がくだらないのだが、教育再生会議はどういう深みにはまってしまったのだろうか。 地域と家庭で行われるものを学校に持ち込むと、学校本来の機能が低下するのではないだろうか。全国規模でやることなのだから、その後始末がたいへんなことは誰にでも分かる。それを承知での判断なのだろうか。後先のことを考えて行動するという、そういう想像力が道徳心の根底にあると思うのだが、どうだろう。 地域と家庭を壊したのは何かという明確なものに言及せずに、地域と家庭の役割を学校に求めるのは、道徳への冒涜だと思う。親が子どもを育てるという原点を見失った教育政策は、親の再生チャンスをもぎとり、学校の機能を低下させる。もっと高い見識を持った理論家と実践家をメンバーにしないと、中高生でも考えそうな結論を実際に行ってしまうことになる。 教育再生会議のメンバー自身が実験的に実践したのなら、多少の説得力があったかもしれない。彼らに最低1年間の担任としての教育実習をしてもらうのが、まともな結論を出す早道かもしれない。 どうでもよいと思っていたが、この年になって憂国の思いをはじめて抱いた。まず、三つ子の魂百までもというが、親がどうしてまともに子どもを育てられないかということから、もう一度議論してもらいたい。同時に教育再生会議メンバー全員の教育実習だ。小学校、中学校、高等学校の担任を分担して経験すれば、自分たちが語っている言葉の意味が理解できるようになるだろう。そして、何が学校にできて、何ができないかを知ることができるはずだ。 自分が現実に直面しないで議論することを、机上の空論といったはずだ。そんな机上の空論が至る所で行われている。空論というものは、空論であるがゆえにそれ自体は美しくまとまっていることが多い。そして、その美しさによる説得力によって支持され、実行されていく可能性が高い。美しさは美しさとして価値があるが、結果を求めるなら、美しさにだけ目をうばわれていてはいけない。ところが、その美しさすらないのだから、そんなものを押しつけられる先生たちはお気の毒としか言いようがない。少子化だから被害者が少ないということだけが救いかもしれない。・・・・・・。とにかく実質上の教育破壊だったという評価を歴史のなかで与えられないように頑張ってほしい。 それにしても、こんなでたらめな国のなかで一定の成果を上げている先生たち(学校の)はいったいどんな努力をしているのだろう。 突然思い出したこと87「三十路の門出」三十路の門出「自分を鍛えるための十箇条」を突然思い出した。随分と生意気な上に、現状では一箇条も満足にできていないのが悲しい。しかし、過去の心意気は時々思い出して味わうべきだと思う。 ①弱音を吐きながら、実力者の2倍の成果を上げる。そして、それを最低の成果と自己評価とする。 ②誰よりも遅く取りかかり、誰よりも速く仕上げ、もう次のステップに移って準備がすんでいる。だから、誰よりも遅く取りかかることができる。その時間差に、全く別分野の新しい課題を見つけて情報を集めておく。このように同じ労力を使いながら、全く異なる活力の違いと成果の違いを実現することによって、周囲の人々の役に立てるようにする。 ③原因や方法は必ず10種類挙げ、不採用分も記録を抹消しないでおく。採用分は、立案に活かすが、案も10種類作る。これを作戦として準備し、どのような対応でも、どのような攻撃でもできるように運用を想定しておく。このトレーニングを通して、洞察力と創造力と行動力を身につける。最終的には、緊急時において、瞬時に適切な判断ができるような頭脳に仕上げていく。 ④全く関係のないもの、過去の遺物、失敗例のなかに宝の原石が埋もれている。埋もれているからこそ、そのように評価されているととらえ、その原石を磨いておく。すぐに役立たなくてもよいから、常の備えとして温存しておく。 ⑤周囲が喜んでいるときには、それ以上に喜びつつ心配すべきことをさがし、周囲が心配しているときには、それ以上心配しつつ喜ぶべきことをさがし、周囲がAに集中しているときには、それ以上にAに集中しつつBも考慮するように促し、周囲が課題解決に集中しているときには、それ以上課題解決に集中しつつ全体を眺めるように促す。 ⑥膨大なものは分割し、寡少ならば追加する。力不足なら支援を要請し、支援が得られなければ孤軍奮闘する。 ⑦使える物は全て利用し、そのために事前に話を通しておく労力を惜しまず、裏切られても当然という感覚をもって平然とことをなす。 ⑧どの分野の人物とも熱く語れる心意気をもち、誰とでも意気投合できる接点を探す力をもつために、日々の興味関心と疑問点と理想を整理しておく。 ⑨全力で努力するつもりでようやく8割程度の力しか出せない。残り2割については、拝借するか積み上げてきたものを切り崩すかして間に合わせる算段をしておく。 ⑩個人の人生というものはそれだけではおまけのようなものであって、自分の全てではない。人生と思っているものは、ただの個人生のことだと心得、家の流れ、歴史の流れも自分だと感じる心をもつ。そのうえで、いざという機会を自分で仕組む。そこで他人が動こうが、自分が動こうがそんなことはいっさい構わない。 |
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