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    6/29/2008

    突然思い出したこと111「老化現象」

    「魂悲裸婦寝」

    夫根汚為手
    尼補架袈手
    修羅首狩取
    魔我把醜苦
    破惨臭中乃
    氷憎頭撒魂
    悲裸太魂限
    一度魔我把

     ずいぶん前に作った一見五言律詩風の偽歌。脚韻もふんでおらず、最初から文にもなっていない。もちろん漢詩ではないが、歌詞には違いない。こんなことを突然思い出すのも老化現象の一つだろう。多くの日本人が聞いたことのある歌詞のはずだが、今となってはそうでもないのだろうか。
     体力は若い頃と変わりないが、記憶力やひらめきはなくなった。やはり自分の中で壊れていくものに美しく抵抗していくことが生きていくということなのだろうか。

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    怪しい広辞苑159「第四版161ページ・井綱」

     広辞苑第四版161ページ「井綱」の説明。
     「井戸につるす縄。つるべなわ。」とあるが、これでよいのだろうか。
     井戸につるす縄という説明は非常に陳腐であるように思う。ひょろひょろと細長い縄が二、三本井戸端から垂れ下がっていて、風に吹かれて揺れている光景が目に浮かぶ。
     まだ、三文字分スペースがあるのだから、「釣瓶を」という三文字を追加した方がよい。「井戸に釣瓶をつるす縄。つるべなわ。」としなければ、意味が分からないのではないかと思う。なぜなら、「井綱」は、井戸を見たことがない人が調べる可能性が高い語だからだ。ただ単に「井戸につるす縄」という説明だと、何かのおまじないかと思ってしまう若い人もいるだろう。
     もしかすると、水を釣瓶に満たして汲み上げるためだけに使うのではないという意味合いで「釣瓶を」という言葉を抜いたのかもしれないが、それなら「釣瓶等をつるす」とした方がよい。それでもう一行使わねばならなくなると言うのなら、次の「つるべなわ。」の「なわ」を漢字にすればよい。
     それにしても、釣瓶以外に何をつるすのだろう。冷たい井戸水でスイカを冷やすためにスイカを吊しておろすのだろうか。井戸のメンテナンスや落下した物を拾うために人間が吊されて下に降りるのだろうか。それとも、折檻のために吊すのだろうか。これではお菊さんだ。お菊さんを陥れたのは誰かは不明だ。井戸に身を投げたのか、投げ込まれたのか、吊し切りになって落とされたのか、これも不明だ。深くて、底が見えない井戸。何やら恐ろしげだ。リングの貞子も井戸からはい出てくる。
     井戸は恐怖の装置だ。これは引き上げる恐怖だ。上がるまで何が出てくるか分からないという恐怖だ。しかも、井戸には行かねばならない。上がってきたのが水でよかったと安心する。釣瓶がいつもより重かったら恐怖メーターの針は振り切る。生首でもすくい上げたのだろうか。重く感じるのは疲れていただけなのかもしれないが、疲れているときこそ、妙な想像が働くものだ。
     さて、井戸といっても、現代は電動ポンプであったり、手押しポンプであったりする。お墓の水がこの手押しポンプで組み上げるタイプのものだったので、幼い頃の記憶としてよく覚えている。
     「井綱」は、昔ながらの釣瓶式でしか使わない。井綱の両端に釣瓶を吊し、片方ずつ引き上げたり、落としたりして、二つの釣瓶を往復させて水をくみ上げるものだ。これは時代劇でしか見たことがない。天秤棒のようにした釣瓶竿に釣瓶を一つ吊して、てこで釣瓶を引き上げるタイプを挿絵で見たことがあるが、実物はまだ見たことがない。
     電気を使わないから壊れない。綱も毎日見ていれば、いつ切れるか分かる。しかし、電気で動くポンプはいつ壊れるか分からない。停電になれば水も汲み上げられなくなる。
     現代文明は、人間を盲目にしている。目に見えないところで技術が使われ、目に見えない働きをしているからだ。それは、目に見えない恐怖や謎に対抗するためでもあるが、通常の感覚ではコントロールできないという恐怖を新たに作った。
     「井綱」だけを見て何に使う道具かと問えば、十人十色の答えが返ってこよう。それが道具としての懐の深さであり、何にでも使える物として人間の世界を広げる力を持ったものであるといえる。こうした認識をもって大事にされなければならないものだ。
     複雑化、巨大化、微細化と極端な方向へ進むことも進化だが、それでは行き着く果てがある。基礎的な道具を上手に使うことを学び直さねば不都合が多くなるだろう。綱、棒、刃物。これらを駆使したサバイバルを体験することなく、大人になるのは非常に危うい人間性を背負うことになるように思えてならない。

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    <釣瓶デザインの風呂敷は珍しい 画像クリックで説明画面へ>

    心の断片134「日課」

    「日課」

    記憶に救われ
    新しい気持ちを再現した
    記憶をたどり
    幸福感も再現しよう

    記憶は懐かしむためにあるのではない
    己の傍観者になるほど
    まだ落ちぶれてはいないゆえに
    今の己を突きあげるため
    記憶の平行四辺形を
    この傷口にあてがう

    6/28/2008

    怪しい広辞苑158「第四版161ページ・一髪」

     広辞苑第四版161ページ「一髪」の説明の2行目。
     「水天彷彿青‐」とある。頼山陽の「天草洋に泊す」の一節を用例として引用したものだが、これでよいのだろうか。
     ここは「水天彷彿青一髪」と示したいのだろうが、「彷彿」は「髣髴」とした方がよいように思う。碑文を調べても書を調べても、「水天髣髴青一髪」となっている。「髣髴」でも「彷彿」でも同じだけれど、敢えて「彷彿」に変えたのはどういう理由からだろうか。画数が少なくて小さな活字にせざるを得ない辞書にとって都合が良かったからだろうか。確かに「髣髴」では画数が多すぎて、広辞苑のポイントでは細かな部分が潰れて見えてしまう。
     しかし、それでは広辞苑第四版161ページ「一波」の用例として掲げられている「‐纔(わずか)に動いて万頃(ばんけい)随う」の「一波纔に動いて」の部分はどうなるのだろう。「一波僅かに動いて」とか「一波わずかに動いて」としなくてはいけないはずだ。ところが、元のままの「纔」という極めて画数が多く、小さな活字では非常に見づらい字を採用している。
     従って、画数が多くて見にくい字は、簡単な字にするという編集方針はないことになる。すると、「髣髴」を「彷彿」に変えた理由が分からなくなってしまうのだ。
     詩は漢詩であれ、何詩であれ、普通の文章ではないのだから文字数は少なく、言葉にならぬ思いをそこへ凝縮させているはずだ。題名でも、行替えでも、言葉でも、文字でも、何一つとして疎かにできぬ代物だと思う。
     その詩の文言を、広辞苑の編集者が勝手に変更してしまったとしか思えない。これは詩に対する冒涜として受け取られても仕方ない。表現者に対する挑戦といってもよい。頼山陽はもう死んでいるからよいのだろうか。いや、一定の歴史的評価を与えられている人物の書き残したものであればこそ、勝手な変更は許されるものではない。特にそれが表現に心をつくした作品であれば、なおいっそう注意深くそのままに引用しなくてはならないはずだ。第六版ではどうなっているのだろう。
     ともかく、「纔」を残しているのに、「髣髴」を「彷彿」にしてしまうという感覚はどうしても理解できない。何か特別な理由があるのだろうか。
     もちろん、最新の研究で、もともとは「彷彿」だったということが明らかになったというのならよい。もっとも、最近といっても、第四版の出版前ということになるから、十数年以上も前のことになる。

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    怪しい広辞苑157「第四版161ページ・稜威道別」

     広辞苑第四版161ページ「稜威道別」の見出し語の立て方。
     「稜威道別」は「いつのちわき」と読む。その次の見出し語は「稜威道別」でやはり「いつのちわき」と読む。
     このように「稜威道別」という見出し語を二つ並べるのはどういう理由からだろうか。最初の「稜威道別」は「威風堂々と道をおしわけゆくさま。」で、次の「稜威道別」は「日本書紀の研究書。橘守部著。一二巻。」と説明がなされている。
     見出し語で唯一異なるのは、語構成を示す「‐」だ。最初の「稜威道別」には「いつ‐の‐ちわき」、次の「稜威道別」には「いつのちわき」と「‐」が入っていない点だ。凡例の中では「見出し語の区切り」の説明に「語源を確定しがたい場合、また、語形の変化によって区別しがたい場合は、「‐」を付さなかった。」と説明されている。しかし、二番目の「稜威道別」について、語源を確定しがたいという理由は当てはまらないと思う。
     第一、同じ見出し語を並べて掲げるというのは、見出し語の掲げ方として不適切だ。これまでのように見出し語は一つにし、その中で①②と説明を並べるという編集方針を貫くべきだと思うがどうだろう。編集方針がいろいろであると、利用者としては何か意図があるのだろうと解釈することになってしまう。その意図をくみ取れればよいのだが、今回のようにそれが難しい場合には、逆効果となってしまう。
     いったい何をねらって同じ見出し語を二つ並べたのだろうか。僕の頭では説明してもらわなければ理解できない。第六版ではどうなっているのだろうか。

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    突然思い出したこと110「一石二鳥」

     「一石二鳥」という言葉があるが、故事成語でもなければことわざでもない。ただの四字熟語だ。しかし、この四字熟語ほどよく使う四字熟語は他にはあまりないのではないだろうか。もしかすると、生活の中でこの「一石二鳥」をねらった行動をするように習慣化している人が多いのかもしれない。
     常の「労多くして功少なし」の生活が基盤となって生まれた望むべきありようとしての「一石二鳥」には、合理的でスマートな解決策という魅力がある。この魅力は「七転八起」のような地道な努力による成果ではないというところにある。一つの努力をしたら、おまけの成果もついてくるというお得な感じがするのだ。
     紆余曲折の人生を想起させ、くじけないでがんばれば必ず何とかなるという励ましの言葉であるところの「七転八起」は、慰めの言葉でもある。従って、何だかまやかし臭いぞということにならないように、色紙や焼き物に書き込む場合は、絶対に「一石二鳥」という言葉と一緒に書いてはいけないという暗黙の了解になっている(と思う)。
     小学生の頃、授業でこの言葉の説明を聞いたときにノートにメモしたことを思い出す。昔の記憶が鮮やかになってくるというのは、ある意味怖いが、面白いと言えば面白い。
     幼い頃というのは実に自由な発想をするものだ。おそらく、やっても無駄なことややる意味のないこと、やる価値のないことなどについて、損得を度外視して実行するということとセットになった子どもの特徴だろう。これは親に庇護されており、損得を考えなくても生活の保障がされているということが条件となっている。
     生活が厳しければ、いたずらなどする余裕もない。あまりいたずらをしない子どもというのは、大人から見ると、分別があると評価されるのだろうが、非情に不幸な環境にある可能性もあるということだ。そうでなければ、子どもらしい自由は発想を持ちえない未発達の子どもかもしれない。あるいは、何かにおびえ、心にブレーキがかかったままの不自然な状態で自分という子どもを我慢しているだけなのかもしれない。
     そもそも分別というもの自体が、失敗や苦労を積み重ねて身につけるものだ。すると、もちろん言葉遣いはもっと幼いのだが、次のような内容のいたずら書きを授業中にする小学生は、もしかするとある意味で幸福だったのかもしれない。授業をそっちのけで、考えるべきことを考えず、どうでもよいことを夢想し、いつの間にか休憩時間を迎えているというのは、「愚かな時間の使い方」であると同時に、「美しい時間の使い方」であるようにも思う。
     例によって、家訓に従い、「一石二鳥」を実現するための十種類の方法だ。今回は、それに解説を付けてみた。
      
    メモ①「一石二鳥」は電線にとまった鳥をねらうことで実現する
     街中の電力線や通信線の場合には電柱間の距離が30mから40mなので、架線の弛みが少ない。同じ背の高さの鳥が並んでとまっていると、至近距離から水平に石を投げた場合、最初の鳥にあたってしとめたとしても、二羽目にも当てて「一石二鳥」とするには、それ相当の速度と適度な石の重さ、そして頭部などの小さな的にピンポイントで当てるコントロールがなければ、一羽目の鳥に当たった後に石の軌道が変わるため、二羽目にも石が当たるのは難しい。
     つまり、二羽目には石が当たるのではなく、一羽目の鳥の体が当たることになるからだ。一羽目の鳥の頭部に石が当たれば、二羽目の鳥の頭部、または体に石が当たる可能性があり、「一石二鳥」となりやすい。
     しかし、実際には、そうした「一石二鳥」を実現するためには、高いところで不安定な姿勢で投げなければならない。だから、鳥の小さな頭部にあてるというのは難しい芸当となる。
     そこで、高所作業車を用意したり、足場を組んだりすることになるが、そこまでの準備は一般的ではないので、やはり何度も石を投げる練習をし、ピンポイントで当てる技術を身につけた上での挑戦ということになる。
     ただし、足場が悪ければ悪いほど、速度のある投石はできないので、できるだけ至近距離から投げる必要がある。ただ、至近距離になった時点で鳥が逃げる可能性が高い。
     そこで、長い送電線の弛みを利用して投げればどうだろう。鉄塔から伸びる送電線は下に向かって弛み、次の鉄塔に近づくほど上に向かっていく。この下に向かっていく送電線に並んでいる鳥に対して投石すれば、石の落ちるカーブと送電線のカーブは逆向きだけれども、石は落ちながら加速していくので、鉄塔という足場の悪さによる勢いのない投石の威力をカバーできる。
     ただし、至近距離からの二次元的攻撃ではなく、立体的な三次元的攻撃になるので、一羽目の鳥と二羽目の鳥との距離のとり方が難しくなる。一羽目に打撃を与えた石が、鳥の体や送電線に当たって上向きに少しだけ跳ね返り、次の二羽目の鳥に当たるのだから、なかなか難しい。
     もっとも、鳥が二羽だけと考えているから難しいだけで、実際には何羽も連なって送電線にとまっているのだから、二羽目は隣の二羽目ではなく、二番目にたまたま当たった鳥という意味での二羽目となる。従って、何羽も連なってとまっている状態の鳥たちなのだから、うまく石が跳ね返れば「一石二鳥」が実現できる。
     ただし、石が鳥の体に当たって跳ね返った場合は、鳥たちもねらわれていることに気づかないかもしれないが、鳥の体に当たった後、送電線に当たってから跳ね返った場合には、その振動で逃げられる可能性がある。
     しかし、一斉に飛び立ってくれれば、その飛行中の鳥に跳ね返った石が当たる可能性が高くなり、当たり所がよければ(わるければ)、やはり「一石二鳥」が実現される。
     この方法は偶然性によって「一石二鳥」が実現されるので、数多くトライする必要がある。また、高いところに登るという危険と、足場の悪いところで思い切り石を投げるという危険を冒さねばならないので、あまりよくない方法だ。

    メモ②「一石二鳥」は石が仲間を増やすことで実現する
     石が一つだから効率が悪い。それにもかかわらず二羽の鳥をしとめるから価値がある。
     そうした価値は低くなるかもしれないが、手にする石が一つという問題点を解決すれば、「一石二鳥」を実現しやすくなり、実質的な利益を得ることができる。
     では、どうしたら一つの石が仲間を増やして複数の鳥をしとめることができるだろうか。それには落石が起こりやすい場所を探し、最初の一つの石を投げればよい。一つの石はたくさんの石を突き動かして仲間をつくることになる。その落石が崖に向かって起これば、崖から落ちた多くの石が空中に飛び出すことになる。そこへ偶然に鳥の群れが飛んでくれば、複数の鳥をしとめる仕掛けとなる。この鳥の群れは最低二羽いればよい。
     これもメモ①のように偶然によって実現する。しかも、場所探しに時間と費用がかかりそうで、あまり現実的ではない方法だ。

    メモ③「一石二鳥」は無数の鳥の群れの中へ石を投げ入れることで実現する
     巨大な石を使ったり、電線に並んでとまっている鳥をねらったりするのは、なかなか困難なことだ。
     そこで、もう少し現実的な方法として「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」の逆で、「下手な鉄砲も的が多けりゃ当たる」方式はどうだろう。鉄砲を石とし、的を鳥とすればよい。無数の鳥が飛ぶ中へ石を投げれば、二羽以上の鳥に当たる可能性は高い。
     そのような大群は、おそらく地上から投げたのでは届かないような空を飛んでいるのだろう。航空機の場合は、鳥の大群に出くわすとエンジンに吸い込まれて墜落するおそれがある。これは「一石二鳥」ならぬ「一機多鳥」で笑えない。
     航空機から鳥の大群を下に見て、石を投げ落とせば、「一石二鳥」が実現しやすいだろうが、航空機をチャーターしなくてはならない上に、群れの形が扁平であればあるほど、また群れをつくる鳥の数が少なければ少ないほど「一石二鳥」が実現する可能性が低くなる。
     もっとも安価で確実な方法は、神社仏閣を訪れ、そこに棲まう鳩の群れに石を投げればよいのだが、それは神罰や仏罰が下るであろうから覚悟が必要だ。しかし、鳥が群れをなして人のそばにいるという状態を他では観察することができない。反則に近いが、養鶏場という手もある。並んでいて、しかも逃げることがないので格好の的だ。しかし、ケージがあるから、それだけが難点だ。もちろん犯罪だから許されはしない。
     考えてみれば、「一石二鳥」は狩猟採集時代や狩猟採集に頼らざるを得ない社会であればいざ知らず、日本で文字どおりのことをすれば器物損壊罪となってしまうので、動物愛護協会からこの四字熟語を使用禁止にしなさいというクレームがつく時代がくるかもしれない。
     ともかく、状況をより有利なものとすることによって、メモ①②よりも偶然性をより抑えた形になった方法だが、状況を有利にするためにかなりの費用がかかってしまうので、あまりよくない方法だ。

    メモ④「一石二鳥」は大きな石を使うことで実現する
     とても巨大な石ならば、二羽の鳥を同時につぶすことができるかもしれない。
     それはどの程度の大きさを持った石なのだろうか。直径1mほどあればよいのだろうか。その場合には、鳥同士の距離が1m以内でないと、うまく「一石二鳥」にならないだろう。
     しかも、その巨大な石の底が平らに近くないと、失敗する率が高くなる。ただし、そのような大きな石を投げるのは人間の生身の力では無理だ。機械やロボットを使うことになる。機械やロボットを使えば、特にロボットを使う場合には鳥を自分の手で殺すという生々しい感覚も多少は和らぐだろう。
     機械で投げるのでなければ、てこや滑車などの道具を使ってロープかチェーンで吊しておき、それを切って落とすか、最初からあと少しで落ちそうな大きな石を蹴り落とすということになるだろう。
     石が落ちる気配を感じて鳥が逃げるということがあるから、可能な限り石は地面近くに吊さねばならない。自然の状態から落とす場合は、石が回転してしまうので、よほど計算しないと平らな部分で二羽の鳥を一挙につぶすことはできない。
     このよう苦労して石の位置を調節するよりも、鳥の位置をコントロールする方が効率がよい。石を吊す場合は、予め平らな部分を下にしてセットしておけばよいからより成功率が高くなる。
     鳥の種類や鳥の位置は、ある餌を一点に置くということでコントロールできる。鳥と鳥の距離が離れれば離れるほど、その距離を上まわる直径の石を用意しなければならないので、この作業はとても重要な作業となる。
     特に鳥と鳥の距離が離れている場合には大きな石を投げたり、落としたりすることになるので、つぶれ方がひどくなり、商品価値は下がってしまう。肉の形も悪く、内出血で色も悪くなってしまう。これを防ぐには、やはり石を小型化するということと、鳥を一点に集めるということが大切だ。
     あるいは、穴を掘ってそこに餌をまき、鳥が入ったところで、その穴の直径より大きい平らな石をかぶせる仕掛けを作ればよいかもしれない。しかし、それなら石でなくとも板でも網でもよく、「一石二鳥」が「一石」である意味が薄くなってしまう。
     この方法は人の知恵が「一石二鳥」の実現を大きく左右することになるので、緻密な計画が必要となる。頭のトレーニングとしてはよいかもしれないが、手頃な石では役に立たない大きさなので、これをまず第一に解決しなければならないのが面倒だ。
     メモ①②③よりも知恵を使った分だけ効率がよさそうだが、特定の形の大きな石を使わねばならないので、準備に時間と腕力が必要だ。  

    メモ⑤「一石二鳥」は石に紐をつけて振り回すことで実現する
     通常なら「二石二鳥」であるところを「一石二鳥」にするところに意味がある。これが知恵によって可能となればスマートなのだが、実際には偶然にそうなることもある。偶然に「一石二鳥」の仕事となったのに、いかにも頭脳を駆使して「一石二鳥」にしたかのような報告書を書くことも不可能ではない。
     さて、一つ石を投げて「後は野となれ山となれ」では、あまりにも偶然に頼ることになる。狙いをつけて投げるところまでは努力しているが、石が手から離れた途端に「人事を尽くして天命を待つ」という世界に入ってしまう。これを最後まで人事とし、責任を持つためには、石に紐を取り付けて振り回すのがよいだろう。
     ただし、短期決戦を覚悟しなければ鳥は飛んで逃げてしまう。もっとも、空を飛べない鳥をねらうのならば体力勝負を覚悟すればよい。とにかく一つの石を効率的に再利用して二羽の鳥に当ててしとめるにはこの方法がよいだろう。
     また、首の長いダチョウや白鳥のような鳥ならば、石を直接当てなくても、鎖鎌の分銅のように石を回して頸を絡め取れば、うまく二羽を捕らえることができそうだ。これなら紐の長さと目測を誤らねば、一発勝負で「一石二鳥」を実現できそうだ。また、偶然にあまり頼らず、己の技に頼るので、「一石三鳥」や「一石四鳥」になりにくいので、無駄な殺生を避けることができる。
     これはメモ①②③④と比べて、より安価で確実、準備も簡単で効率がよさそうだが、特定の鳥を対象としたり、体力を必要とする。

    メモ⑥「一石二鳥」は石を二つに割るという頓智で実現できる
     石は二つに割っても石だ。しかし、鳥は二つに裂いても二羽にならない。
     ここは一つ石を割って二つにし、二羽の鳥にぶつけてしとめるということにしよう。しかも、割ったときに割れ目が鋭く角になるので、二羽の鳥に対する殺傷能力は向上することになる。しかし、二つに割れた場合には百発百中の的中率が要求される。もっとも、一つの大きな石を細かくたくさんに割って投げているうちに、どれかが当たってくれるだろう。
     最初の石の攻撃に驚いて、他の鳥も飛び去るだろうけれど、時間をかければまたやってくる。じっくり待って好機を捕らえ、二羽目を攻撃すればよい。二羽しとめるまで根気よくやれば、遂に「一石二鳥」が実現することになる。

    メモ⑦「一石二鳥」は非常に強い力で石を打ち出すことによって実現する。
     石が鳥を貫通すれば、二羽目に当たってしとめられる。それほどの勢いを得るには、石を道具で発射する必要がある。あるいは、棒状にして先をが尖らせておけば、トレーニング次第で、道具を使わなくても貫通させられるかもしれない。
     道具を使ったり、石を加工したりするのはずるいかもしれないが、それが人間の選んだ道だ。悪いことに使えばずるく、良いことに使えばかしこい。
     
    メモ⑧「一石二鳥」は石のブーメランを二度以上投げることで実現する
     石は投げるとどこかへ行ってしまうので、次の新しい石を見つけてまた投げることになる。だから、最低「二石二鳥」となる。
     では、同じ石を使って二度以上投げればよい。「一投二鳥」ではなく、あくまでも「一石二鳥」だからだ。
     また、石のブーメランを使えば、すぐに手元に戻ってくるので、それを使って二投目をすればよい。もし、自分の手元に戻らなくても、ブーメラン型の石は見つけやすく、再利用してもらいやすい。

    メモ⑨「一石二鳥」は水切り遊びの要領で実現できる
     普通に石を投げると、一度上がって落ちるか、落ちていくばかりのどちらかだから、一石二鳥といっても実現する可能性は低い。
     しかし、水平に投げた比較的平らな石は、水面に当たる頃にはちょうどいい角度になって跳ね上がり、その後、何度も跳ね上がって飛んでいく。一羽目の鳥に当たった後、石の回転や水面に当たる角度が大きく変化しないように、比較的重い石を選んで、回転をしっかりつけて勢いよく投げなくてはならない。足場のよいところを選べるので、何とかできるような気がする。二羽目の鳥との距離がある程度あっても、何度も水面に弾き返されながら水上を渡っていくので、うまくいけば当たる。メモ⑧の石のブーメランを投げるよりは楽だろう。楽であることは、何度も挑戦できることにつながるから、より「一石二鳥」を実現しやすくなるだろう。

    メモ⑩「一石二鳥」は特別な石によって実現できる
     この石は普通の石ではない。何か特別の力があるに違いない。
     放射線を出しているのかもしれない。何かと反応して有毒ガスを出しているのかもしれない。石が燃えて鳥を火で包んだり、酸素がなくなって窒息するのかもしれない。
     あるいは、その石は特別の石舞台で、その上に死体を安置すると、鳥が複数やってきて食べていくという鳥葬なのかもしれない。人を葬ることと鳥への食糧供給とが同時にでき、もったいないことにならないということは、これが本当の「一石二鳥」となる。
     さて、二羽だから夫婦の鳥だろうか。それとも、ライバル同士なのだろうか。

     このように無駄な解説を付けている自分は決して暇ではない。どちらかと言えば多忙極まりない生活をしている。しかし、「背に腹は代えられない」のだ。頭も常日頃働いていない部分がたくさんある。そこへ少し負荷をかけて活性化させないと、日常生活や仕事の動きがしぼんでいくおそれがあるのだ。
     さて、「一石二鳥」を実現するための方法を考えていたのだが、実際に「一石二鳥」を実現しようとする人はいない。無人島に漂着して、これが最後の石というときに考えるだけのことだ。
     もちろん通常の人々は「一石二鳥」を比喩として使うのだが、十種類の方法も同じように比喩として考えれば、人生における多彩な作戦に変貌し得る。これは想像力の問題だから、それを可能とするためには、より多くの読書経験を積んでいる必要があるだろう。
     何となく、読書家と行動派とは、逆の人々のようにとらえがちだが、読書家でなければ真の行動派にはなれないのではないかと思うのだ。難しい本を捨て、外へ飛び出すことのできる人は、難しい本を捨てるに至るまでの豊富な読書経験を積んでいるということを意味している。もちろん読書自体が目的ではないから、外へ飛び出すステップに移行しなくてはならない。外で十分に情報を得たり、世の中に実際の力を与えたりしてから、また窓の内側にもどって、本を再評価したり、文章を書いたりすればよい。そして、それが力となって、また外に飛び出していく。
     これが世の中を生きていくということ、世の中を変えていくということであって、生活のために仕事に精を出し、身を粉にして働くということと同時に行わねばならないことだ。これを不可能だと思う人は、まだ想像力が乏しい段階にある。時間の問題ではないのだ。どのような仕事、どのような仕事量であっても、時間の余裕などはないものだ。全ての人がその能力に応じて忙しく、死ぬまでそれが続く。これは不幸なことではない。不幸だと思う人は、やはりまだ想像力が乏しい段階にある。
     いろいろな迷路があって、それぞれの袋小路で足踏みをしているのだけれど、自分では進んでいる感覚しかない。まるで、ガラス窓にへばりつきながら飛び続ける蛾のようなものだ。この袋小路を袋小路としてとらえる力、簡単にそこから抜け出す力、それが想像力だ。今日は「一石二鳥」が、僕に欠けていた想像力を教えてくれたようだ。
    6/27/2008

    心の断片133「後始末」

    「後始末」

    わくわく世界の万華鏡
    僕の左目かすめ取り
    寒い夜空に逃げてった

    読みかけ絵本の裏表紙
    僕の右腕かすめ取り
    寒い夜空に逃げてった

    にっこり三日月ブーメラン
    僕の心臓かすめ取り
    寒い夜空に逃げてった

    どうやら僕は磔だ
    寒い夜空に磔だ

    誰も傷つけない
    誰も気づかない
    永遠不滅の磔だ



    6/23/2008

    心の断片132「群れなす天使」

    「群れなす天使」

    虫の狂気
    くいつくす
    虫の狂気

    明日のない
    虫の誇りだ

    己の虫を
    全うする
    真の虫だ

    くいつくし
    曲がった時を
    己に蓄え

    微笑むこともなく
    疲れることもなく
    消えてゆく

    天の使わした
    悲しみの
    からくり小道具


    6/21/2008

    怪しい広辞苑156「第四版161ページ・一頭」

     広辞苑第四版161ページ「一頭」の説明。
     「②(馬・牛・羊・豚など獣類を数える語)→とう(頭)」とあるが、これでよいのだろうか。
     まず、なぜ説明に括弧がついているのかがよく分からない。次に、矢印に従って「頭(とう)」を広辞苑第四版で調べてみると、「牛・馬・犬などの動物を数える語。また人を数える語。」とある。
     人を数えるときに「頭(とう)」というのは現代の言い方にはない。現代では、「頭数(あたまかず)」とは言うが、それは「数えるときの語」ではなく、「人の数」の意味として使う。つまり、人の数を数えるときの単位として「頭(とう)」という言葉を使うことはない。
     しかし、広辞苑の「頭(とう)」の説明に従えば、「また」という言葉でつないでいる以上は、前半の「動物を数える語」でもあり、「人を数える語」でもあるという意味になる。すると、人間が一人いれば、一頭(いっとう)の人間ということになる。これは現代では通用しない言い方だ。
     では、昔はどうか。あったとしても「一頭(いっとう)」ではなく、神を数えるときに「一柱(ひとはしら)」というように、人の場合は「一頭(ひとかしら)」という訓読みだろうと思う。
     しかし、音読みであれ、訓読みであれ、もし、これが昔の使い方なら、説明の最後に記述されているということが、広辞苑の編集方針と矛盾することになる。広辞苑は古い使い方や意味を先に記載するのが基本的な編集方針だからだ。
     では、「人を数えるときの語」の前に「古くは」という語を付け足してみるとどうか。これでいろいろな矛盾を解決することができそうだ。とにかく、当たり前のように「人を数える語」と言われても困るのだ。
     また、「一頭(いっとう)」の説明に「獣」とあるが、「昆虫」を数えるときにも「頭(とう)」という単位を使うことがあるから、「獣類」の部分は「獣類や昆虫類」と改めた方がよさそうだ。
     これに対して、「頭(とう)」の説明には「動物」とある。「昆虫」は動物の仲間だから、これはこのままでよいと思う。
     ところで、「一頭(いっとう)」の説明に、「馬・牛・羊・豚など」とある。これは動物の代表を並べたものだろう。しかし、馬が奇蹄目であるのに、牛と羊と豚が偶蹄目という偏りがある。また、動物の代表が全て蹄をもった仲間だというのも偏りがある。もしかすると、家畜で食べられるものという括りで紹介しただけなのかもしれない。
     これに対して「頭(とう)」の説明には、「牛・馬・犬など」とある。これは、牛が偶蹄目、馬が奇蹄目、犬が蹄なしというバランスになっている。しかも、牛・馬が草食であるのに対して、犬が肉食というバランスにもなっている。これに雑食動物を入れてやれば、バランスがよくとれるのだが、残念ながらそれはない。
     もしかすると、思いついた順に並べてみただけかもしれない。しかし、思いついた順にしては、「一頭(いっとう)」と「頭(とう)」との説明で、牛と馬の順番が変わったり、紹介する動物が変わったりする不統一感がどうしても拭い去れない。もしかすると、ただの気まぐれで適当に並べただけなのかもしれない。 まさか、そんないい加減な態度で辞書を作っているわけはないから、何か特別の理由があるに違いない。しかし、それが利用者に伝わらないのだから始末が悪い。第六版ではどうなっているのだろう。

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    怪しい広辞苑155「第四版160ページ・一点紅」

     広辞苑第四版160ページ「一点紅」の説明の2行目から3行目。
     「多くの男性の中に交わる一人の女性。紅一点。」とある。これでよいのだろうか。
     ここで「交わる」という言葉を使うのは不適切だろう。「交わる」ではなく、「交じる」でなければならないところだと思うのだがどうだろう。
     第六版ではどうなっているのか分からないが、「交わる」と「交じる」とでは、意味の上で大きな違いが出てくる。その違いを敢えて説明する気も起こらないが、一体全体どういう言語感覚をもってすれば、このような語の選択ができるのであろうか。
     もっとも、僕の感覚の方が狂っているのかもしれない。広辞苑を読む度に言葉に対する自分の感覚に対する不信感が、広辞苑に対する不信感とともにわき起こってくるのだ。

    怪しい広辞苑154「第四版160ページ・井筒」

    <安い> <高い>
     広辞苑第四版160ページ「井筒」の説明の3行目。
     『伊勢「筒井つの-にかけしまろがたけ」』とあるが、本当にこれでよいのだろうか。
     伊勢というのは広辞苑における略語で「伊勢物語」のことだ。では、「井筒」ではなく、一部分引用された短歌に使われた「筒井」を広辞苑第四版で引いてみよう。もちろん「井筒」と「筒井」とは意味の違う単語だ。ちなみに、人の名前では映画の井筒監督がいるのに対して、筒井康隆という物書きがいる。
     広辞苑第四版1720ページ「筒井」の説明の2行目に「筒井筒」とあり、3行目に「筒井筒」の用例として、『伊勢「-井筒にかけしまろがたけ」』とある。これは「筒井筒井筒にかけしまろがたけ」ということだ。これは広辞苑第四版160ページで「筒井つの井筒にかけしまろがたけ」と食い違う。これはいったいどういうことだろうか。果たして広辞苑第六版では一致しているだろうか。
     もちろん「伊勢物語」にもいろいろな異本があるのだから食い違いはあって当然だ。しかし、同じ辞書でこのように食い違ってよいとは思われない。もし、食い違ったまま同じ部分を引用したいのならば、二種類の「伊勢物語」について、双方「伊勢」という同じ略語で示すのではなく、「○○本伊勢」などのようにして、それぞれ区別した略語にした方がよい。
     広辞苑は短歌の引用が多いが、短歌は全部を掲載してほしい。なぜ一部分のみを引用するのだろうか。短歌を引用するのは、それが一つの表現として短くまとまっているからではないのか。このまとまりを崩すような部分的な引用は、短歌というものを冒涜するものであるという以前に、用例として不適切なものになる可能性を抱えてしまう危険性がある。
     つまり、用例として示された部分に使われている言葉と、割愛されてしまった短歌の一部分との間にある関係が切られたことによって、その言葉の意味が不鮮明になったり、変化したりしはしないかというおそれだ。
     「短歌であるからこそ、その言葉が鮮やかな印象を持って表現されうる」という長所を生かしての短歌引用ではなかったのだろうか。全部引用しても十数文字の追加ですむ。この追加によって、この説明の行数は変わらないはずだ。
     用例というものは、ただその語が使われているのを示せばよいというものではなく、意味が鮮明になって理解しやすくするためのものだ。
     間違っても、「彼は○○という言葉を発した」式の用例レベルと同等のものや、用例の中に難しい単語や広辞苑にも見出し語として掲載されていないような単語を含んでいる「古典って高尚だろう」式、つまり、既に評価を得ている出典から引用することによる権威づけはったりレベルのものは、掲載されてはいけない。もしあれば、適切な用例に差し替えた方が親切というものだ。 
     こうしたことは既に十分に配慮されていることだとは思うが、広辞苑についても今後追究する必要を感じ始めている。 
     さて、「筒井つの」と「筒井筒」との違いは何だろう。いろいろ想像してみよう。
     「筒井つの」は「筒井つ」に助詞「の」がついた形のように見える。それならば、「筒井つ」とは何だろう。「筒井」と「つ」に分けられるのだろうか。
     「筒井つ」が一単語なら、この三文字の中で「つ」だけ平仮名であるのが不自然だ。「つ」が本当は漢字の可能性もある。
     もし、「つ」が平仮名ならば、それは何だろう。助詞の「つ」だろうか。「中つ国」「沖つ白波」「天つ御使い」「まつげ」「時つ風」の「つ」と同じなら、「の」の意味だ。すると「筒井のの」となる。「筒井の」は了解できても、次の「の」がわからない。仮にこの最後の「の」が漢字の「野」ならば、「筒井の野」となる。
     もし、「筒井の野」なら、「筒井」は地名や地区名の可能性が高い。すると、「筒井つの井筒に……」とか、「筒井筒井筒に……」とか、異様に同じ雰囲気の言葉が並ぶ不自然さを解消することができる。最初の「筒」は「筒井」という地名の一部分の「筒」であり、次の「筒」は「井筒」の「筒」だから、太いパイプの意味の「筒」となる。字面こそ重なってしまうけれども、印象としては別々のものとなり、問題がなくなるというわけだ。逆に、印象は違うけれども、字と発音が同じなので、それを重ねて短歌のリズムをつくるというプラスの作用を計算しての技巧かもしれない。
     問題は「筒井」という地名や地域名があるかどうかだ。地名ならば後世に残る可能性が高いが、地域名となると通称のようなものになるだろうから残っていない可能性も高いだろう。実際に調べてみると、兵庫県、奈良県、その他いろいろな県に「筒井」という地名があることが分かる。
     このような「筒井つ野」という解釈は、ありそうではあるが、なぜ「野」を「の」と平仮名表記にするのかという点をつかれると、答えられなくなってしまう。
     それでは、「筒井つの」の「の」が平仮名で助詞だとすると、「つ」は本当は漢字かもしれない。「筒井川」「筒井津」「筒井徒」「筒井都」……。それがいつの間にか変体仮名だと見なされて「つ」となったとすれば、「筒井川」なのだろうが、実際にはどのように書かれていたのだろうか。もしそうならば、「筒井つの」は「筒井川の」となる。実際に調べてみると、やはり兵庫県、京都府、その他いろいろな県に「筒井川」という川があることが分かる。
     このような「筒井川の」という解釈は、ありそうではあるが、短歌の初句でありながら、なぜ「つついがわの」と六音になるのかという点をつかれると、これも答えられなくなってしまう。そもそも二句目の「井筒」は井戸の地上部分なのだから、「野」ならいざ知らず、「川」あたりなら井戸を掘らずともよいのではないかということになる。
     こうして頭だけで考えていると、想像するだけだから、解決の糸口は見つけにくい。また、貧弱な想像では、何も見つけられない。ただ単に、二つの歌の形が残っていますということしか分からない。
     そこには何か読み取るべき背景があるのだろうか、あるいは、たまたま二種類のスタイルが書き写す段階でできてしまい、単にそれらがそれぞれ伝わっただけで、読み取るべき背景など何もないのかもしれない。
     それにしても、適当に想像できて、まとめる責任も提出期限もないというのは、実に気楽な立場だ。それでも、気にはなるので、実際の「伊勢物語」にはどのように書かれているかを見てみることにした。
     ここ数年、各大学で所蔵している古典のテキストがネットで見られるようになったから便利だ。電車を乗り継いで汗をかきながら出かけることもない、古い本を触ったときのむずがゆさも感じなくてすむ。もちろん楷書ではないから分かりにくいけれど、写真を見る限り、次のように見える。(括弧書きは変体仮名と思われるものを漢字で表記)
     まず、「筒井つの井筒」グループをAとし、発行年順に並べると、

    A①「朱雀院塗籠本伊勢物語」出版年不明 奈良女子大所蔵
    (津)ヽ井つの井つつ

    A②「伊勢物語」小学館古典文学全集の底本
    (川)ゝゐ(徒)の井つヽ

    A③「嵯峨本伊勢物語」1608~1610 京都大学所蔵
    (徒)ゝゐつの井つヽ

    A④「伊勢物語御抄」1656 奈良女子大学所蔵
    つヽ井つ(能)井筒

    A⑤「伊勢物語抄」1664 奈良女子大所蔵
    (徒)ヽ井(津)(能)い(徒)ヽ

    A⑥「改正伊勢物語」1747 関西大学所蔵 
    (津)ヽゐづ(乃)ゐ(徒)゙ヽ

    A⑦「伊勢物語傍註」1776 奈良女子大学所蔵
    (徒)ヽゐ(津)のゐづヽ

    A⑧「参考伊勢物語」1817 奈良女子大学所蔵
    (徒)ヽゐつのゐ(徒)ヽ

     次に、「筒井筒井筒」グループをBとし、発行年順に並べると、

    B①「真字伊勢物語」1643 奈良女子大学所蔵「伊勢物語古意」の底本らしい 
    筒井津ゝ五幹

    B②「伊勢物語古意」1753 鶴見大学所蔵
    筒井津ゝいづヽ

    B③「伊勢物語残考」1808 奈良女子大学所蔵
    (徒)ヽ井づヽゐ(津)ヽ

    B④「伊勢物語新釋」1818 奈良女子大学所蔵
    (徒)ヽゐつヽ井筒

    B⑤「伊勢物語図絵」1825 奈良女子大学所蔵
    (津)ヽゐ(徒)゙ゝゐ(徒)゙ゝ

     他にもたくさんあるだろうが、この中に現在いろいろな古典のテキストで見受けられる「筒井筒」とか「筒井つの」などというものはない。このような漢字平仮名交じりの書き方をするのは、おそらく意味が通じやすくなるようにという目的からだろう。
     しかし、「漢字で書くとこうなるだろう」という操作には、思い込みが働いてしまう場合がある。誤って用られた漢字が、その漢字が元来持っていた意味によって、本来の語句の意味合いとは別の意味合いで受け取られるようになってしまうおそれがある。いったい誰がどのような判断の下に、「筒井筒」とか「筒井つの」とかいう書き方を決めてしまったのだろう。「筒井筒」は「筒井の井筒」という意味合いがくみ取れるにしても、「筒井つの」にいたっては何なのかが分かりにくくなってしまっている。
     では、次のように考えたらどうだろう。例えば、大きめに書いた踊り字の「ゝ」が「之」の崩し字に似ているということによる書き写しミスの写本を底本にしてしまったという過ちを過去の人が犯したとする。
     すると、「之」は「の」と読むために、「つついつつ=つついつ+(つ)の踊り字」が「つついつの」に、あるいは「つついつの」が「つついつ+(つ)の踊り字」に書き写し間違えられていった可能性が出てくる。さらに、現代人向けに漢字仮名交じりで表していくときに、「筒井筒」や「筒井つの」にされてしまうというわけだ。こうしたことが起こるのは無理からぬことなのだろうか。
     さて、これらの点についてネットでさがしても満足のいくものは見つからない。ただ、古い時代ではどちらを使っているとか、能の「井筒」の中ではこちらを使っているとかが述べられているだけだ。
     もともとネットはこうした些細なことでもどこまで誰が追究しているかという情報を共有し、研究が効率よく進められることを目的として構築されてきたはずだ。この情報をうまく探し出せないのは、俄に興味を持った僕の探し方が甘いせいだろうが、この点について言及している文章があれば、もっと目立つようにネットに流していくべきだろう。
     研究者は自分たちだけで見せ合うというような狭い世界を作らず、一般人にも研究結果を紹介していく責任を持っているのではないかと思うのだ。それは書籍や雑誌、ましてや研究紀要の類の発行では実現できない。もちろん有料で結構だ。ただし、どんな情報やどんな知識にどのような値付けをするかで、研究のレベルをさらしてしまうということにはなろう。

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    6/20/2008

    心の断片131「正しい自殺」

    「正しい自殺」

    病気になれないから
    医者にも相手にされない
    死ぬことが許されないから
    死より苦しい現実に
    ぶつかり続ける
    これは一種の面白さだ
    巧妙な罰ゲーム
    かもしれない
    取り敢えずはこのように
    すり替えておくが
    罰の罪を忘れ
    死んで苦しみから逃れたら
    楽になってしまうじゃあないか

    別の人が背負うまで
    その重荷ははなしちゃだめだよ
    肩代わりしあいながら生きていく
    それはそれで別に悪い気はしないと思うよ
    そう自分にささやく

    幸せになることを夢に描けば幸せは遠のく
    人様のために生きて人様のために死ぬ
    自分を生きるということの勘違い
    親が生き方を教えなければ
    つまり正しい自殺は
    きっと学校で教えなくてはならない
    6/15/2008

    日々雑感230「トラブルとストレス」

      個人の自由が大きく認められている国であればあるほど、また長寿国になればなるほど、価値観の差が大きくなる。それにもかかわらず、自己の正当性を主張せざるを得ないので、トラブルが多発し、ストレスも増大する。そのストレスが新たなトラブルを生み、悪循環を繰り返せば、いつかは個人の自由を抑える力が働き始めるに違いない。
     双方がじっくり話し合えばよいのだが、どうやら臆病なためにそのような時間をつくって向かい合おうとすることもなく、向かい合っても上手に話し合う技術も未熟なものだから、平行線をたどったり、一方的になったりして、結局は折り合いがつかず、判断を司法に委ねることになる。社会性がまだ身についていない小さな子が自分たちの喧嘩を自分たちで収められないのと同じだ。
     こうした類の「トラブルとストレス」というものは、「自由と長寿」と引き換えに受け容れなければならないものだが、回避したいと思うなら、人間一人一人の知恵を頼るしかない。
     ところが、「知恵者一人馬鹿万人」という言葉があるように、知恵者というにたる人はほぼいない。少なくとも僕は知恵者に合ったことがない。知恵は問題を解決する能力のことだと思う。それが僕たちにはないのだ。もちろん全く知恵がないわけではないから、幾種類かの問題は解決していける。
     しかし、解決が難しいものについては、大方は時が解決したり、無かったことにするという反則めいた解決の仕方でことが進んでいく。それも一つの知恵には違いないのだろうが、いかにもお粗末な知恵だと言わざるを得ない。

    日々雑感229「流儀と魅力」

     日常を快適に過ごすには、流儀を間違えないことだ。一定の区域の中にはそれなりの流儀があり、それを互いに守ることによって、気持ちよく過ごせることが約束されている。
     しかし、その区域の壁を越えなければならないときがある。引っ越し、海外移住、就職、入学……。越える壁には、いろいろな種類がある。
     おそらく新しい人に魅力を感じるのは、「ここ」の流儀から外れないために自分が知らないうちに抑えて封印していた言動をいとも簡単に披露してくれたり、初めて聴く言葉や初めて見る仕草に心を奪われたりするからだろう。しかし、この魅力は時とともに急速に失せていく運命にある。新しい人も日々学習し、瞬く間にその区域の人となってしまうからだ。「ここ」の流儀を身につけたということだ。つまり、「ここ」の仮面をかぶることに成功するのだ。しかし、残念ながら、同じ流儀の人にときめくことなど一つもありはしない。
     このように、ときめくとはいっても、ただ単に別の区域で異なる流儀を身につけていただけのことによるものかもしれないので、結局は自分と同じレベルの人間であったという落ちになる可能性も十分にある。結果論ではあっても、「見かけの魅力」に必要以上に反応するのは、少しみっともないものだ。
     ところで、同じ流儀を身につけようといじましい努力を重ねる保身の人は大勢いなくてはいけない。夢や希望と引き換えに安息を選ぶ彼らが大勢いなければ、世の中が乱れてしまうからだ。同じ流儀といっても、一人でいくつもの区域に身を置いているので、なかなかにたいへんだ。
     たいへんだけれども、彼らの努力に支えられたこの世の中の安定があってこそ、夢や希望を追求する麗しき愚か者が生き生きと活動できる。その姿を見て、保身の人はあこがれの気持ちをもったり、自己と同一化したりして、空虚な心を満たすことができるのだから、一種の相互扶助のようなものだ。
     普通はこの構造がいろいろなレベルの区域でできあがっていれば、一人一人が一通りに幸せなのだが、比べてはいけない人と自分とを間違った心で比べると、おかしな気持ちや誤った思いが芽生えてしまう。何のために比べるかという目的が明確ならば不幸にはならず、自由自在の自分を実現していく手続きの一つとなるだけのことだが、無目的に比べると惨めな劣等感にさいなまれたり、失笑ものの優越感をいだいてしまったりする。これらは両方とも人間の精神活動の範囲を小さくしてしまうので、自由自在の人間には程遠いものになってしまう。
     ところで、本当の魅力を備えた人というのはどのような人なのであろう。思いつくまま挙げても、次のように幾種類かある。
    ①噛めば噛むほどに味がある人
    ②毎日新鮮な気持ちにさせてくれる人
    ③誰もが思いつかないことを思いついてみんなのために実行し続ける人
    ④新しい世界を披露し続ける人
    ⑤いい意味で期待を裏切り続ける人
    ⑥周囲の人々を幸せな気持ちにさせるだけでなく、行動を起こさせる人
     つまるところ、周囲の人々に光を発し続けることのできる人のことではないかと思う。ただし、その光は借り物であってならない。自前のものでなければ、切りとられた虚ろな光となり、「それがどうかしたの?」と思わせるような独特の不快感を与えるものとなる。受ける方も嫌だが、そんなものを発し続ける方も辛かろう。
     世にいうテレビタレントは借り物でない光を売り物にしている人だから、影でいろいろな修行をしているに違いないが、修行のように計算したトレーニングではなく、たまたま自分の人生がその修行になっていたという場合もあるだろう。
     残念ながら、今のところテレビタレントには魅力を感じる人はいない。おそらく実際に接していないから魅力が伝わらないのだろう。しかし、接しなくても魅力を感じさせなければならないのが仕事だ。そうした彼らが救われるのはトーク番組だろう。仕事ではあるけれど、素顔を小出しすることができる数少ない機会を与えられるからだ。それは継続的に光を小出しできるチャンスを与えられたのと同じだ。
     そうした意味で司会者の問いかけは重要な意味を持っている。テレビタレントとしての寿命を十分に左右することになる。責任重大だ。名司会者というのは、テレビタレントの才能や魅力を最大限に引き出す役目を十分に果たしている人のことだろう。テレビタレントの司会者化や司会者のテレビタレント化もあるが、これは自分でコントロールして寿命をのばしていけるという点では、ただの司会者やただのタレントより断然有利だろう。
     テレビタレントならぬ日常生活を続ける僕たちは、「ここ」の流儀、つまり、作法や常識、「ここ」の人間としての生活様式を身につけていることが、快適に生きるための最低限の条件となる。その僕たちが魅力的になるには、そうした「ここ」の流儀を完全なものとして土台に持ってながら、それを上まわる予測不能の展開をさせていく力を持たなくてはならない。
     それも、修行した結果ですと言わんばかりのものよりも、ある程度以上の結果を出す場合には「天然」の域に達していなければ鼻につくことになるのだから難しい。
     人と同じ体験をしても、異なる体験とすればよいということは何となく分かっていても、具体的にはどのようにしたらそうした力が身についていくのかがよくわからない。心がけ次第だと言われても、全ては心がけ次第なのだから、それでは答えになっていない。
     まず、「ここ」の流儀を身につけることを第一目標とすればよいということは確かだ。そして、それを最終目標にするという過ちを犯してしまうと元も子もなくなるということも確かなことだ。

    日々雑感228「人間の魅力」

     どちらを選んでもよいというときがある。その場合、自分にとって取り組みやすい方を選択するか、それとも挑戦する気持ちが必要な方を選択するかで、人間性の根幹にある性情というものが分かる。つまり、どういう「根性」であるかということが暴露されてしまう。
     どちらにしても人間がやることだ。ずるく、汚く、愚かであることも多いが、前者のような単純に合理性の追求であったり、後者のような遊び心で緊迫感や充実感を味わおうとする試みであったりすることも多い。
     こうしたことを、人間の所謂マイナスの一面やそれほどプラスではない一面として、否定したり軽く見たりする人が多いが、全ては豊かな心と表裏一体のものであるから、必要以上に恥に思わなくてよいように思う。
     どちらかと言えば、完全に否定して無理に立派になっているよりも、「本性」として半ば受け容れつつ向かい合い、さりげなくコントロールし続けていることに、人間としての尊さや魅力があるように思う。
      高尚な精神作用も、いろいろな心の働きの中で宝石のように輝くものであって、それだけで輝いているわけではないように思うのだ。


    6/14/2008

    恐怖シリーズ111「腕次第」

     そもそも最も正しい判決は一つしかないはずだ。しかし、判決には完全無罪から死刑判決までの幅があり、それが、証拠や証言、検察や弁護士の作戦や力量、裁判官の見識によって揺れ動くという仕組みのだから、恐ろしいものだ。
     白黒はっきりさせるのに彼らの腕次第でどうにでもなるというのは元来おかしな話だが、それが現実のところで、「最も正しいとは言えない判決」がいろいろにくだされるのも仕方ない。しかも、最終的な判決が最も正しいとは限らないというところが怖い。
     「最も正しい判決」に限らず、「最も正しい判断」というものは、与えられた範囲の中から最も正しいものを選ぼうとする「選択の判断」にとどめておく場合と、与えられたものの不備を分析し、より正しいものを新たに編みだそうとする「画期的な判断」に挑戦する場合とでは、人選やかける労力に大きな違いが生まれる。どちらも実に面倒だが、人間である以上、これらの作業から逃れることはできない。特に後者は、腕次第。作業であるからには、腕の善し悪しがどうしても問われる。そして、腕は人気とおよそ一致し、金で買われる。これも「地獄の沙汰も金次第」ということの一種かもしれない。
     さて、真実は一つであっても、それをどう評価してどんな名前の罪にしていくかとか、それに対してどんな罰が適切なのかということは、単純には決まらない。追及していくうちに真実が一つではないということに気づくこともある。
     ここがスポーツの世界とは違うところだ。もともと白黒はっきりしていることなどは珍しいのに、はっきりさせようとするから無理があるのかもしれない。
     そこで、特定の立場や見方を打ち立て、その固定した物差しで判断することになる。特定の動物、例えば人間、あるいはクジラの物差しだったり、特定のグループ、例えば国、あるいは宗教の物差しだったり、特定の考え方、例えば文化、あるいは学説の物差しだったりする。
     それらの物差しを社会常識から外れぬ程度につぎはぎして、判断すべき事実にあてがう作業と、それ以前に事実自体を明らかにする作業の両方が必要だから時間がかかる。当該の者でなければ、判決が出るまでに事件を忘れてしまいそうになるほどだ。結末は単純極まりないが、そこに至るまでの作業は大変なものだ。
     これに対して、スポーツにおける罪と罰は単純だ。だから、スポーツの反則に対していちいちスポーツ裁判というのは起こらない。プレイ中にも種目によってはプレイを中断して審判による審議が行われる場合があるが、プレイヤーは審議に参加することは許されない。ここがスポーツのさわやかなところだ。罪が即断され、罰が直ちに与えられる。
     それは、実生活と比べて罪の種類が圧倒的に少なく、罪に対する罰も最初から決まっているからだ。そして、同時にそれは、次の試合時間を確保できなくなることを防ぐためだ。いちいち話し合っていては、間尺に合わないどころか、観戦者の高まった気持ちに水を差すことになってしまう。
     つまり、基本的には話し合いなどという最後の手段を必要としない理想的な世界というわけだ。また、双方了解の上での出来事であるということによっても支えられている極めて人工的な世界だ。
     しかし、もちろん情状酌量の余地もない勝負の世界だ。昨日からの体調不良を考慮してくれるわけでもなく、育ちや出身校を尋ねてくれるわけでもない。血も涙もない、情け容赦のない「非情の世界」だ。しかし、時が経てば終わる世界だ。平等の立場を与えられ、同じ目的を与えられている純粋な世界だ。だから、我慢もでき、努力もでき、命をかけることもできる。
     ところが、実生活ではさまざまな立場の者がさまざまな目的で活動しているから、トラブルを解決するのが非常に難しい。どうしても行き着くところは裁判ということになる。
     しかし、頼りの裁判も、その時代に生きている人々の物の見方や考え方が変わり、「罪や罰」に対する感覚に変化が生じるなど、法律ができた時代から長い年月が経ったことによる不都合が、トラブルの解決を難しくしていく。
     それにもかかわらず、法律はその性質上、むやみに変更できない。解釈をすることにより、多少の弾力性を持たせられるものの、それにも限界や弊害もある。それなのに、被害者や加害者が同時に納得する結果だとして判決を出すことになる。それはほぼ有り得ないことであるのに無理に法の理屈をこねていくことになる。担当者の「腕」によって落としどころが決定されていく余地はここにもある。
     それでも判決内容に納得などできないから、制度の中で被害者や加害者が我慢しなくてはならないようになっている。制度はみんなのものだから、個人が不服をいってもどうにもならないという理屈によって、合法的泣き寝入りをさせることになる。
     こうしてみると、人間の生活というのは実に厄介なものだ。しかし、それでも人間をやめようとしないのは、人間として生きることにはそれを差し引いてあまりある魅力があるからだと考えればよいのだろうか。詭弁のようだが、そのように考えると少しときめきもする。この感覚を利用して、「他人の腕次第」という種類の恐怖をごまかしておくことにしよう。

    6/8/2008

    恐怖シリーズ110「裁判員制度」

      裁判員制度が導入される。裁判員を入れた模擬裁判を行ってみると、グループごとにさまざまな判決がくだされる。もちろん従来の最高裁までの判決にも、いろいろな 判決がくだされる。しかし、双方の判決間に生じるそれぞれのずれは同じ理由によって生じているとは限らない。前者が、判決までに与えられた「裁判官と裁判員 に対する情報」が「同じ」であるのに対して、後者は、判決までに与えられた「裁判官に対する情報」が「異なる」からだ。法律の素人である可能性が非常に高い裁判員を参加させることによって、こうした判決のずれの程度が大きくなる可能性はある。
     同一事件について同時に行われる模擬裁判で判決間にずれがあることは、一つ一つの判決に同じ偏りがあることよりも健全だといえる。しかし、ずれが大きければ大きいほど、被告や原告に不適切な判決がくだされる可能性が高くなるというおそれはある。
     この不都合は裁判官が解消すればよいのだが、裁判官も人間である以上は、力量の差というものが必ずある。従って、不都合がどの程度解消されるかということについては裁判官によってどうしても違いが出てくる。
      事件によっては、裁判官の判断によらねばならないことが多すぎて、結局のところ裁判員など要らなかったのではないかという裁判になるかもしれない。この場 合、裁判官が裁判員のためにいろいろな資料を駆使して説明するということにしても、裁判官によって選択された資料である以上、意識するしないにかかわらず、資料選択の際に裁判官の思いが入り込む。そうしたものによって方向付けられた裁判の流れを覆す力を持った裁判員が関わるか否かは、抽選によるのだからわからない。
     裁判の流れを覆す力のない裁判員ばかりが集まった場合には、裁判官主導で審理が進められ、裁判員の市民感覚が生かされないこと になる。ただし、この場合でも、裁判官がとんでもない判決を出すということについては、一般市民である裁判員に説明する段階というステップが設けられたということによ り、ある程度は抑制されるのではないかという期待が持てる。
     また、事件によっては、裁判官が上手に裁判員を誘導し、この制度がうまく機能しているように見える裁判になるかもしれない。あるいは、裁判官だけでは出しづらかった判決内容が、裁判員をだしにして、裁判員の市民感覚が判決に色濃く反映された形として出される裁判になるかもしれない。
     このように、 いろいろな裁判員が関わり、いろいろな裁判の判決がくだされていくのだろうが、法律に関する一定の教育を受け、研修と実績を積んだ比較的均一で質の高いプロの裁判官による裁判から、裁判員という不均一な人材を含んだグループによる裁判 に変わるときには、従来の判決の流れをある程度維持するために、裁判員に対する裁判官による働きかけがどうしても必要になる。
     しかし、一口に裁判官といっても、この働きかけが比較的上手な裁判 官と比較的苦手な裁判官に分かれるはずだ。このことが原因となる混乱を予想してしまうのは、考えすぎであろうか。ただし、実際の裁判では、そうした混乱や不都合はあまり表沙汰にならないだろう。もちろん、それはそれで問題だ。
     では、裁判官にとって裁判員とはどういう存在なのだろう。
     裁判官に対してすぐに譲歩してしまったり、逆に反発する裁判員もいるだろう。裁判官に対しては遠慮しつつも他の裁判員には激しく対立する裁判員もいるかもしれない。同意見のものをさがすことにのみ力を注ぐ者や、ドラマで聞いたような決まり文句を一言居士のようにつぶやくことしかしない裁判員もいるかもしれない。
     裁判官は、法律の専門家ではあっても、そのようなそれぞればらばら「市 民感情」によって判断をするさまざまな「善良な」裁判員を上手に調整して収拾をつけるという専門家にはまだなっていない。中にはすぐ家に帰りたいという気持ちの 裁判員もいるだろう。原告と同じ苦しみをかつてなめさせられた経験があるゆえに、理屈抜きで被告を絶対に許せないという気持ちになっている裁判員もいるかもしれない。これらの裁判員を一つの土俵の上に載せなくてはならない裁判官は責任重大だ。要は、裁判員とは裁判官にとってはかなり世話を焼かせる存在だということだ。
     では、原告や被告にとって裁判員はどんな存在なのだろう。
     裁判員は「無作為」に選ばれる。不適格者が外されることになるが、実は不適格者とされた者のなかに、本当は被告や原告にとっての適格者がいる場合がある。つまり、原告や被告にとっては既にこの時点で、判決に「運」の要素が入り込んでくるということだ。ただ、従来のようにどの裁判官が担当するかということも「運」なのだから、裁判員が加わることによって「運」同士が判決内容の突出した部分を打ち消し合うという効果は楽観的に過ぎるかもしれないが、ある程度は期待していいのかもしれない。
     運を託すことになる原告や被告は裁判官よりも裁判員に注目することになる。それは、裁判官ならば、公正公平に判断してくれるはずだという信頼を寄せる対象となるだが、裁判員に対しては信頼感を抱くことはできない。
     ある裁判員は、先程まで上司に怒鳴られていて、恨みの念に燃えたぎるサラリーマンかもしれない。ある裁判員は、昨日同様の事件に巻き込まれたばかりの二十歳の女性かもしれない。ある裁判員は、3日後に無理心中を考えているおじいさんかもしれない。つまり、原告や被告にとって裁判員は得体の知れない不気味な存在でしかないのだ。
     ところで、裁判官 は鎬を削った結果、晴れて裁判官となるが、裁判員は全くその逆で、仕事の邪魔にしかならないので、暗くて重い気分となる。早く終わらせたい一心で裁判官に全面的に同調する傾向だって生まれかねない。逆に、無職、かつ裕福な市民はとことん研究するかもしれない。もしかすると、無罪か有罪かが微妙な裁判では、どのような裁判員がどの程度集まったかという「運」の善し悪しでどちらに転ぶかが決まるというような ことも起こるかもしれない。どれほど審理が真剣に行われたとしても、結果としてそうであれば、裁判員制度導入にいくら他のメリットがあるにしても到底受け容れられるものではない。裁判官に委ねる現 状の方がまだ諦めがつくというものだ。
     これを解決する方途を探る目的で、「裁判員を入れない従来の制度で裁判を行った場合」と、「裁 判員を入れた制度で裁判を行った場合」との判決を比較をするための模擬裁判が、裁判員制度導入のための調査として行われていなければならないのだが、それはど のようになされたのだろうか。
     そのデータに基づき、「裁判員の数」や「裁判員の選出方法」や「裁判員が裁判にどう関わるか」が検討されるべきだ が、裁判員制度の導入を決定する前の段階で、そうしたデータがデータとして認められるほどの分量で果たして出されたのだろうか。また、十分に分析されていたのだろ うか。
     もし、そうしたデータが出されていれば、どういう理由でどのような人たちがどのように分析し、その結果をどう判断したか、そして、裁判員となる可能性のある国民の全員にどのように説明されたかということが問題となる。
     残念ながら裁判員制度について僕はまだ十分に理解していない。説明は十分してきたと言われるかもしれないが、何がどういう状態になれば「説明を十分した」と判定するかという点について、制度導入を推進してきた者たち自身が明確にしていたかどうかは極めて怪しい。新聞、テレビでの報道ではいろいろに絵解きされているが、制度自体の説明に過ぎない。肝心の裁判員制度がもたらすものについては十分に説明がなされていないように思うのだ。
      裁判員制度導入が、判決にどのような影響を与えるのかという最低限の説明すら、一般的な説明以外にはほとんど僕に届いていない。もし、具体的な説明がなされていても、家に帰る時間が遅いせいか、触れていない。ネットで資料を探したり、本を読みなさいということなのだろうか。それとも、まだ実施されていないのだから、説明する側も十分に分かっていないのだろうか。 ただ、裁判員としてどのような人が何人招集されるかによって判決内容がかわってくるという可能性があるということだけは誰でもが心配していることだ。この「何人」というのは裁判員全体の数ではなく、その裁判員の中に同じ信念をもった持った人の小グループが何人できるかということだ。
     この同じ考えを持った人の数によって、新しい風が吹くか吹かないかが決まってくる。裁判員の数人が一人一人ばらばらの考えをもった人々の集まりなのか、それとも、同じ信念を持った人が幾人もいるのかによっては、裁判官の働きも異なるであろうし、審理自体の流れも異なってくるに違いない。しかし、いろいろな考えをもった法律の知識を持たない人々や中途半端に法律の知識を持った人々が寄り集まって一つの 結論を出すというのは、民主的ではありながら、実はたいへん恐ろしいことのように思う。
     それでも、街のおじさんやおばさんが裁判員になるのは確定している。死ぬまでに裁判員になる確率も訴訟が多くなればなるほど高くなる。しかも、現段階では少子高齢化の途上にあるから、高齢者が裁判員になる確率が高い。しかし、高齢者は「ひがみ、ねたみ、がんこ、ものわすれ」の傾向が若者より強く、さらに認知症一歩手前という場合もある。また、第一線で働いていたプライドを忘れていない人も多い。こうしたことも恐ろしいことだ。
     まだまだ恐ろしく感じられることはある。
    ①この制度がなじんできた頃には、高齢者の裁判員よりも若い裁判官が裁判員に振り回されないような技術を持つようにしていないといけない。裁判というものが身近になり、一家言を持つアマチュアが確実に増えるからだ。プロとのボーダーが次第に不明確になっていけば、制度の見直しも迫られることになるだろうが、それまでの間の混乱が恐ろしい。
    ②誰がどういう理由でこの制度を導入しようとしたかという表の理由があれば、裏の理由もあるはずだ。裏の理由については報道されることはない。表の理由から裏の理由を想像するしかないが、裏の理由が取り沙汰されないことやその理由自体にも恐ろしいものを感じる。
    ③大都市ならいざ知らず、小都市では面識のある者が裁判員になる可能 性は大きい。特に年齢を重ねていればいるほど、その可能性が極めて高くなる。常日頃の行動が判決を左右しかねないというわけだ。それは「よい市民」を増やすことになるの かもしれないが、実に窮屈な日常だ。そうしたストレスは何か異常な新しい犯罪を呼び起こしそうでならない。これも恐ろしいことだ。
     さて、現代社会の人と人とのつながりが薄くなっている傾向から考えると、今後は日本でも 訴訟が次第に増えていくことになると思う。これも恐ろしいことには違いないが、裁判員制度についてだけ考えると、人と人とのつながりが薄いということ は、より客観的に裁くという資質を持っているということにつながることであると同時に、判決にかかわる裁判員の精神的負担も薄いということだからだから、 人と人とのつながりが薄くなったのは逆に好ましいことのようにも思われる。
     このことから、人間関係の薄い大都市であればあるほど、裁判員制度とのなじみがよいように思 う。それに対して、小都市でのなじみは今ひとつであるか、調査できぬ深いところで因縁があったり、利害関係にあったりして不適格、不適切な裁判員が選出される可能 性が高くなるため、よからぬ制度ということになってしまうおそれがある。
     こうなると、将来的には出身地や社会的地位や年齢や性別などのバランスのとれた人選をするという厄介な制度に発展するかもしれない。想像すればするほど嫌な予感が漂う制度だ。 
     そこで、一つ提案。裁判員の年齢制限をしてみてはどうだろう。二十歳を準成人式とし、還暦を成人式とするのだ。未成年の60歳未満は不適格として制限を設ければ、老人に対する尊敬の念も次第に生まれてくるかもしれない。定年を迎えている人も多く、裁判に関わっても仕事に差し支えがない可能性も高そうだ。
     仕事に差し支えないと言えば、ニートや引きこもりも該当する。しかし、ニートや引きこもりだけには裁かれたくはないという妙なプライドや差別意識を持つ者も意外といるような気がする。この心理を利用して、裁判員に「ニート引きこもり枠」を設ければ、少しは犯罪発生件数が減るかもしれない。また、時間に縛られていない彼らの中には、法律を学ぼうという気持ちになる者も出てくるかもしれない。人を裁くという経験によって、自分という人間に自信がもてるようになるということもあるだろう。
     これは滑稽で楽観的な見方だと言われるかもしれないが、今の世の中、それぐらいは許してほしいと思うのだ。ただし、どのような形で裁判員制度が導入されても、裁判員には名のらぬ自由と覆面をつける自由を許してほしいものだ。もし、これが許されなければ、最悪の恐怖、悪夢を見続けることになるだろう。
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