どこにいるの?'s profileさわやかな日々にPhotosBlogLists Tools Help
    6/26/2009

    恐怖シリーズ138「鈍感」

      これと信じたことを曲げずにがんばる。これは大事なことだ。が、自分の主義主張を押し通すことは身の破滅を招くことになりかねない。諸刃の剣だ。
     昔は「信じ合うことが大事」という社会的通念のようなものがあった。ところが、今はどうだ。すべてを疑ってみることが、身を守るということになってしまった。だからこそ、「信じることが大事」なことになるとも言えるのだが、小学生は優しい大人を不審者ではないかと疑わねばならず、中学生は厳しい大人を敵ではないかと疑わねばならず、高校生は立派な大人を偽善者ではないかと疑わねばならず、大学生は温かい世の中をまやかしではないか、厳しい世の中を単なるおどしではないかと疑わねばならない。
     こんな腐った懐疑主義には耐えられない者が出てきて当然だ。その苦しさから逃れるためだけの安易な「信じることが大事」バージョンに脳のレベルが設定されかねない。これはゆゆしきことだ。
     ところで、「人を見たら泥棒と思え」ということばがある。これを格言とは言いづらいので、ことわざの類だということになるのだろうが、有効な助言であるということは確かなので、その点において真実だと扱うのがよいと思う。これは親心であって、決して心貧しき者の言葉ではない。確かにこの現実主義は身を守るのだから。
     しかし、ものの見方や考え方がそれだけのものであれば、やはり心貧しき者ということになる。心貧しきことばを使うことによって心の貧しさが次第に固定されていくということもある。だから、これはどうしても、多くの知恵のうちの一つでなければならない。豊かな知恵の一つとして認められたことばだということにしておかねば不都合が起こるだろう。
     「信じ合うことが大事」「人を見たら泥棒と思え」、両者とも両極端の考え方であるように思う。だから、その前後のことばが不足していると、誤解されやすい。多くの言葉のつながりのなかで使うべきものだ。どちらのことばに軸をおいてもよいので、できたら両者を同時に使ったスピーチなり文章なりを心がけるとよいように思う。
     例えば、「信じ合えない世の中は悲しい。だから、信じるに値する人になれるようにと努力をするのが人間というものだ。しかし、そこにつけ込む人もいるのも事実だ。だから、お互いの幸せのためには疑う気持ちも忘れてはならない。」とか、「お互い他人なのだからその心も考えも分かるはずはない。分からないからお互いの幸せのためにまずは疑うことが大事だ。しかし、疑うことが目的ではない。信じ合うために疑うのだ。だが、どこまでも分かり合うことはできないから疑い続けなくてはならない。それではいつまでたっても信じ合うことができない。だから、ある程度の根拠を持てば、そこから後は信じるということが大事だ。」
     このように、生きていく上で人を信じるということはやはり重要なことなのだが、実に面倒くさい。面倒だということは手続きが多いということだ。恐らくこの手続きの多さは、相手に食い殺される恐怖を拭い去るために払わなければならない代償なのだろうと思う。ときにはお金を使い、この面倒を軽減することもある。興信所というのは、その名の通りの役目を果たすものだ。
     しかし、興信所の使われ方は通常一方的だから不公平感がどうしてもつきまとう。同時にお互いが興信所の調査対象になるのが公平というものだろう。いや、同時というよりも、双方が定期的に利用するというのが相手に対する礼儀だとされる時代が来るかもしれない。
     今の常識ではこのような興信所の使い方をすることには無理がある以上、客観的に信じ合う条件が同時にそろうということはないだろう。普通は、片方または双方の思い込みによって信じるに値するかどうかを勝手に判断しているか、片方または双方が興信所の情報や興信所に相当する友達の情報によって信じるに値するという判断をくだしているだけだ。
     そこには悲劇が生まれる要素がたっぷり含まれている。放置しておくと、「それが人生というものだ」と勘違いする人まで出てくる可能性がある。このように「それが人生だ」と評価することで、不幸を決定づけてしまう風潮は、「じゃあ、どうすればよいのだ」という開き直りの姿勢を用意する傾向の人間がいる限りはなくならないだろう。
     「他人の不幸は蜜の味」という人間の性をどこかで認めざるをえないというレベルから、その蜜の味を味わいたいというはっきりとした欲望のレベルまで、レベルの幅はあるけれど、それを出発点とした開き直りが思考停止の原因になっていくことが多い。
     どのみち思考は停止することになるのだが、薄ぺらな「それが人生だ」か、深みのある「それが人生だ」では、大違いだ。だから、詰まらぬ勘違いをされないためにも、「それが人生だ」という言葉を選ばない方がよいかもしれない。もっとも、短い言葉で表現するずるさを身につけた大人は、なかなかその便利さを捨てることはないだろうから始末が悪い。
     では、自分の考えを信じるということについてはどのようなことが言えるだろう。
     第一に、信じなければ自分の考えとして主張することなどはできないという当然の事情がある。この「考え」というものに「絶対」という言葉ほど似合わない言葉はない。考えなど、物の見方の分だけは最低ある。しかも、勘違いやら論理の飛躍やら情報不足やらで、まともなものなど単体では一つもないと言った方がよさそうだ。だからこそ、議論が生まれ、人々は寂しくなくなる。また、その過程で思わぬ発見が生まれることもある。このように、「まともではない」ものはなかなか魅力的だ。信じすぎると、この恩恵に預かれなくなるのは確かだから、物事いうものは何事も中庸ということが肝要なのだろう。
     しかしながら、初期の段階では「考え」自体を確立しなくてはならず、そのために都合の良い事実や情報を収集して構築することになる。もっとも、これは十分ということはなく、かけた部分については推量し、つじつまさえ合えば、ついにはこれを事実に準ずるものとして扱うようになる。この手続きを「信じる」と名付けることになる。
     第二に、自分の考えだから信じるというお粗末な理屈もある。そもそも、まともな考えなどほとんどないのだから、信じるという手法でしか自信などもてるものではないというお粗末な事情もあるだろう。
     いずれにしても、信じるためには「世の中の常識」といわれているものから「自分の経験」まで、どれも実に頼りないものを根拠にしなければならない。そのため、語気の強さや使用語彙の特殊化(専門化)、はたまた目つき目配り、表情や身振り手振りというスピーチの小技を多用して演出するという手口を用いらざるをえない。
     しかも、相手も同様に強く信じるあまり、臆面もなく主張し、引くことを知らなければ、ジャンケンでお互いにチョキばかりを出し続けるがごとき不毛の時間を築きあげるしかなくなる。相手がそれを嫌って譲歩すれば、何か勝利したような錯覚に陥って、さらに根拠のない自信が生まれ、不当に自分の考えを信じて、さらに強く主張するようになるという愚行を重ねることになりかねない。また、自分の考えのみならず、自分自身にまで自信を持ちはじめるという効果もある。
     しかし、それが救いとなる場合は別として、大方の場合は周囲を辟易とさせることになりがちだ。かかわりたくないために、譲歩する傾向が周囲に生まれるために、議論も生まれず、ついには学ぶことが少なくなり、低レベルのまとまりによる人間性の固定という不幸も招く。これは恐ろしいことだ。自重せねば、単純だが誰もが陥る罠であるように思う。
     第三に、相手を信じているがゆえに自分の考えを信じて主張するということがある。これを主張したら殺されるだろうとか、攻撃されるだろうとか、関係が悪くなるだろうということを心配しなくてよい相手であると信じているのだ。
     一種の見くびり、つまりは甘えだ。しかし、人間そんなに甘くはない。いくら相手を信じていても、それはあくまでもこちらの都合であって、相手の都合ではない。相手の都合によっては殺されることもある。殺人にいたらないまでも、その見くびりに相当する不利益が相手からもたらされないことはまずない。直接でなければ間接的にもたらされるのだから恐ろしい。
     特にネット社会になってからというもの、その社会の特質を理解せず、従来の人間関係の枠組みでものを考えることは自殺行為に等しい。個人の言動が集団に及ぼすさまざまな働きは近年すっかりと変わってしまったからだ。携帯電話の普及やインターネットにアクセスする環境の整備によって、当の本人たちの間では片方の譲歩や双方の譲歩、そうした我慢によって終了しているはずのことが、見ず知らずの他人が動きをとることによって新たな展開を始めるということが十分にあるということだ。
     しかも、これを計算に入れて自ら譲歩し、ネット上で唆しを行い、被害者の顔をしながら、手を汚さぬ加害者になるというぎりぎり合法的な仕返しや攻撃を試みる者も出現するようになるに違いない。臆病者の勝利が目に見えて増えることの愉快さと恐怖。誰がそのようなことを望むだろうか。しかし、空間的、時間的、法律的に制約が多くなった現在、そのために我慢という逃げ場に待避していた人の思いというものが、事情知らずのテクノロジーによって他人という仮面をかぶることになるのは間近いように思う。
     もちろん、仮面の役割を果たす者も、通常ならば世間に埋もれているのだが、これもネットの力でゾンビのように復活することができる。本当に恐ろしい世の中になったものだ。
     はったりや脅しやすかしといったものは過去のパワーとして際限なく無力化し、唐突に起こる何かをひたすらに恐れていなくてはならなくなる。これは法律によって規制されていない部分の日常生活の自由というものが、ネットによる無軌道で不当な自由によって奪われていく一つの例になるだろう。人々は無表情となり、機械的な人間関係をもつしかなくなり、そのためのストレスを解消するために不必要な財力を消耗する傾向が強くなっていくだろう。
     現在でもその傾向はあり、いらぬところに財力をかけなくてはならなくなっている。行かなくてもよいところへ行き、見なくてもよいものを見、食べなくてもよいものを食べる。この贅沢感を味わうことで現代人の孤独と恐怖を癒すというのは間違いではない。しかし、そのために現実の財力をいたずらに消耗することは、個人の価値観の問題であるとはいえ、現実の世界では個人の価値観の問題ではすまされない。投じられるべきところへ財が回らず、先細りの悲しい世界に向けてひた走る方向に向きはじめているように感じられるのは僕だけだろうか。
     個人の価値観を重んじるあまり、現実をひろく眺めて判断することを怠れば、他人の価値観をないがしろにすることになりかねない。これは民主主義に反することだ。
     もちろん、その浪費される財力の恩恵を被る人々の生活もあるので、誰も何も言わないが、現実の問題は人間の沈黙をよそに確実に進行していくことだけは忘れてはならないだろう。
     かつては普通の自立した生活を送っていた人々やその生活が商品化され、客足に依存する体質を身につけてしまったのは、果たして不幸なことであろうか。相互依存による見かけの安定生活をとるか、人間の尊厳を選択し、耐乏生活に近い正常な生活をとるかという問題をつきつけられる経験は、その当時の当事者でしか味わえないはずだ。だから、話題にさえしなければ、そして啓蒙しさえしなければ、市場原理によって双方成り立つ妥協の傑作として見なせばそれで波風は立たない話だ。
     経済効果とか国際化とか行動的とか幸福の追求といった多くの言葉によっていろいろな事柄を飾りたくなるのは、おそらくそうした暗部を覆うための僕たちの貧しい知恵なのかもしれない。
     臭いものには蓋をするというわけではないが、考えたくないものに対してはまぶたを閉じ、頭の中が真っ白くなるように仕向ければよい。そうした自己催眠は自分というものを救うのに役立つはずだ。
     そうした世の中になっても、もちろん基本的なところは変わらない。食べて、生んで、育てての生活だ。しかし、基本的な生活以外の生活のありさまが大きく変わってしまっていることは、既に根本から変わってしまっているのに等しいのではないかと思うときもある。
     もう、かつてのように、物理的に、技術的に、文化的な面が担っていたさまざまな歯止めを期待することはできない世の中になってきた。多くのことが可能になりすぎたのだ。これは社会に対する一種の見くびりを生み出すもとになる。その見くびりのため、そそのかされた関係者までが得体の知れない不利益を被ることになりかねないのが現代社会の恐怖の一つだ。そんなものの犠牲になるのは不幸というものだ。よくしようとして悪くなったことの典型だ。
     これには、相手が分からないから闘う楽しみすら味わえないというつまらなさもある。しかも、この苦境を味わうときにはたった一人で味わうことになるつまらなさもある。どうにも救われないのだ。
     さて、現実社会ではこのように自分を信じたり相手を信じたりして生活しているのだが、これに疑いが生じると不安になる。相手のふと見せた表情からでさえ疑いが生じることもある。人間というものは実に寂しい存在だ。
     この不安を解消するために僕たちはさまざまなことをしている。例えば、相手に挨拶をしてその返事の具合でどの程度信じられる相手かを測定する。もちろん、測定の方法や判定が正しいとは限らないが、毎日繰り返すなかで一つのゆるぎない個人的な指標とはなっていくだろう。
     これがネット社会だとどうなるか。自由に表現できる反面、それが現実社会へ反映される不安もある。また、信じることに疑いをもたないままでいることの不安もある。情報源が限られるために疑う余地が少なくなるのだ。
     「おはよう」という挨拶もそれは無表情な活字による文字情報という非常に限られた情報にすぎないから、読み取れるものがほとんどない。フォントや色を変えてもそれがどのように伝わるかについては、やはり相手任せで不安な気持ちになる。
     これを解消するにはできるだけ相手とネットでつながった状態になければならなくなる。これは膨大な時間の浪費となる。これ自体も不安となる。
     こうした不安が原因でおかしな社会が築きあげられてしまわないだろうかとよく思う。単なる杞憂であればよい。しかし、僕たちはその兆しというものに鈍感になってしまっていると仮定した方がよいのかもしれない。気づかない間にことは加速度的に深刻化する。気づいたときには遅いというわけだ。
     そんなとき、「そうなったらそうなったときの事」という無責任な発言をする者がはならず出現する。たいていは長い議論に飽き飽きしてしまったために、それを強制的に終わらせようとするのだ。同じように退屈し始めた者たちも多少なりともいるはずだから、何人かの賛同者も出現する。少しお調子者で面倒くさがりの要素があれば誰にでも口に出せることだが、ある種の潔さだけは漂わせていることばなので、お得意の決まり文句になりやすい。しかし、残念ながら決まり文句以上の何ものでもなく、効果としても建設的ではないので、議論に休憩を与えるだけのものになってしまう。
     いかにもそれでは芸がない。つまり、面白くないのだ。常に「そうなったらそうなったときの事」というのは、敢えて言わなくてもその通りなのだから何も言っていないに等しい。それどころか問題を先送りにしてややこしい状態にすることになりかねない。しかも、その張本人であるのに、肝心なときには自分は関係ないという顔をするか、もっと別のところに目を向けさせて別の話に持ち込むのがパターンだ。つまり、辟易としているのだ。
     これは危険だ。その隙に、ネット社会やネット社会で培われた不適切な人間性によって生み出された攻撃のチャンスが生まれる。おかしな世界の到来だ。
     表だっては手を出さない臆病者の闇の力の餌食となってじわりじわりと苦境に陥る可能性も年々高まっているように感じる。もちろん、被害妄想ではない。加害妄想としてだ。臆病者の方が圧倒的に多いのが現実だからだ。
     僕たちはこの四文字から妄想という二文字が外れないようにしなければならない。いつの間にか加害者になっていたということは、そう想像するに難くない。どうやら忙しく働いていた方がよさそうだ。
     もともと理不尽な世の中だが、ネット社会という、より理不尽な世界をたんこぶのようにくっつけてしまった状態では、通常の感覚を持った人間としては、やはり鈍感にならざるを得ないのかもしれない。

    ★ホームページに戻る
    6/21/2009

    心の断片179「灯台」

    「灯台」

    かの者をみたか
    波と風にそそりたつ
    孤高の大巨人をみたか

    貧しく美しい光の両腕で
    もぎ取られた
    過去を
    そぎ落とされた
    手足を
    取り戻さねばならない
    必死の
    亡霊を
    さげすまず
    からかわず
    見てきたか

    もうだれも守らない
    大地に突き立てられた
    直立不動の魔獣の背骨
    哀れな物語に
    まだ密かに崇めている者たちの
    おしころした祈りの声を聞いたか

    ★ホームページに戻る

    突然思い出したこと127「肩書き」

     一個の人間に父、母、男、女、社長などといろいろの名前を付けることの副産物は、おそらくそれぞれの名前のイメージでその人間を見てあげるという救済、つまり評価されたり、自己評価したりする物差しをいくつも持っている状態にしてあげるという救済なのではないだろうか。
      肩書きも含め、名付けられた数量だけの豊かな存在になっていく可能性を手にするということは、それだけで幸福なことのように思われる。我々動物なんて実際にはただの肉や骨なのだから、多くの名で呼ばれ、それにふさわしい行動をとろうとすることによって人間的に輝く機会を与えられた分だけ、幸福だと思うのだ。何となく肩書きがたくさんほしいのは、たぶんそのせいもあるのだろう。肩書きがある分だけ行動しやすくなるのだ。つまり、社会の中にあってはその分だけ自由な存在になるということだから、人生の幅が広がり、したがって人生の深まりも深いものになってくる。穴掘りと一緒で深くするためには幅を広げなくてはならないはずなのだ。
     もちろん、たくさんある肩書きが空疎な人もいれば、たくさんある肩書きが負担になる人もいる。そうした人は今度は肩書きから自由になろうとする。こうなると、分相応の肩書きと分相応の肩書き数に恵まれるということが最も幸せなことだということになる。
     もし、さまざまに名付けられることを負担に感じている人がいたとしたら、むき出しの生命体として生きていくことの恐ろしさを体験したことがないか、よほど己の価値に自信を持っている人に違いない。僕はこれまでそのような人に出会ったことがない。つまり、それだけ人生の幅が狭いということなのだろう。

    ★ホームページに戻る
    6/14/2009

    自己分析シリーズ43「振り向いて」

     女々しいからノートに封印したままだった。こうしたものの封印を恥じらいもなく解ける自分になったと分析したほうがよいだろう。
     今、最後の長い一本の道のどの辺りにいるのだろう。振り返ってもらってももう僕はそこにいない。最後とは言いつつ、何本もの道を乗り継いでやっと生きてきたのが現実だ。若いころは道が一本しか見えなかったり、一本の道しか見てはいけないと思ったりする。
     そうした純粋な思いというものは、何のためにあるのだろう。自分が向き合っている未来だったり、人だったり、思想だったりするのだが、その純粋さというものは何のためなのだろう。
     おそらく、若きゆえの情報不足による不都合な行動を制御するための心のあり方なのだろうが、その純粋さにはいとおしさを感じる。もう自分にはなくなってしまったものだからか。それとも、思いと行動を一致させる唯一の手段としては、あまりにも儚いものだからか。
     一秒一秒が宝石のように輝いていながら、その一秒一秒がどうしようもなくはかないのだ。そんな現実を受け止めるにはとても耐えられなかったのだろう。こうした感覚はどんな時代の若い人のなかにもあるのだろうと想像する。
     深く理由を考える時間もなく、広く視野を広げる時間もなく、高い見識を持つ時間もない。その点では若いときも今も変わりはしないが。若いときは環境の展開が激しく、そのような暇はないといういいわけがある。さて、今はどんな言い訳をすればよいのだろう。

    「振り向いて」

    時々でいいから
    立ち止まって
    笑顔じゃなくていいから
    振り向いて

    やさしい風に髪がなびくなんてずるいよ
    白い襟がまぶしいなんて
    夏の太陽が友達の
    君の瞳をみせてよ

    木陰を選んで歩く道
    小走りの
    小石の音が
    ひとつひとつ胸にいたいよ
    ここはもう戻らない坂道
    息はずむ
    最後の長い一本の
    最後の細い一本の
    向こうの見えない君と坂道

    どうして時は過ぎてゆく
    同じところにいられない
    どうして時は過ぎてゆく
    同じ僕でいられない

    ★ホームページに戻る

    幻想8「アリバイの海」

     アリバイが多いのも困る。どうも僕には二人ほど別の僕がいるようなのだが、それは困ったことなのだ。ミッキーのように活動しているのは一人(一匹)だけということになっているのか、それともそれぞれ何の連携もなく、ばらばらに活動しているのかわからない。少なくとも僕には何の連絡もない。こんなことが公になれば、もちろん、関係者だけのパニックでは終わらない。
     もし、僕が犯罪に巻き込まれたとき、警察はアリバイを確認するだろう。それが問題なのだ。仮に、何人かいる僕がミッキーのように活動時間帯を分割してそれぞれ担当していれば、比較的問題は起こりにくい。しかし、十分に連携をとって活動しなければ、出現する地理的なつなぎが悪く、ワープでもしたのかと思われるような事態を演出する結果になってしまうこともあるだろう。
     これは警察に不審な行動として記録されるに違いない。裁判では、捜査結果の信憑性が問われることになり、幾分有利になるかもしれないが、狡猾な検察官により、偽装工作を疑われることになる可能性もあるから油断できない。
     ただ、僕と他の僕たちとは連携が取れていないことは確かなのだから、僕だけが地理的に不自然な出現をすることになる可能性があり、僕自体の現実のアリバイが架空のものであるという結論になる危険性もある。すると、連携を取り合っている他の僕たちの思う壺だ。僕だけが不審な動きをしているか、僕の証言が嘘ということになり、圧倒的に不利になる。他の僕たちが僕を陥れることは、少し準備をすれば可能であるように思う。これは恐ろしいことだ。
     では、すべての僕がそれぞれの存在も知らず、したがって何の連携も取らずにばらばらに活動していたとしよう。この状態だと、ニアミスが起こる可能性が生じる。お互いに顔見知り(?)か、片方がその存在を知っているという状態ならば、それとなく離れていき、周囲の人々に混乱を起こさせないですむように工夫できるからよい。
     しかし、公衆の面前でばったり同じ人物が顔合わせをしてしまった場合、周囲が混乱に陥ることになる。もっとも、機転を利かせてお互いに「双子です」とか「いとこです」と言い切ってしまえばその場はとりあえずしのぐことができるだろう。
     話を戻すが、僕たちがどのようなつながりを持っているか、あるいはもっていないかは別として、警察は僕のアリバイが複数種類あることにやがて気づくだろう。ここからが本当に面倒なことになる。もしかするとアリバイのない僕も混じっているかもしれないのだ。ありすぎるアリバイが、僕の身を危険にさらすことになるかもしれない。下手なアリバイ工作を組織的に行ったと評価されかねないからだ。アリバイのない僕のほうが自然な存在として記録されればよいのだが、問題は僕自身が警察の管理下にあるのか、僕以外の僕たちのうちの一人が警察の管理下にあるのかということだ。
     最も困るのは、ほかの僕が犯した犯罪を僕自身が責任を負うという場合だ。僕に執行猶予がついている場合、その期間にほかの僕が再犯(?)すれば僕としては大問題だ。
     この厄介な問題に対する策をいくつか挙げてみよう。
    ①ほかの僕たちを探し出して処分すること。
     オリジナルが既に死亡いていれば、コピーである他の僕を同じくコピーである僕が処分によって僕が消滅するという危険性はきわめて低くなる。これは僕がオリジナルではないことが前提だ。しかし、コピーが死亡したことがオリジナルにも影響を与えるという関係にあるかもしれない。これは完全に否定しきれない。そもそもこんなことは本来あるはずのないことだからだ。あるはずのないことに常識は通用しないと判断すべきだろう。
    ②ほかの僕たちを探し出して連携し、互いの存在の矛盾を周囲にさらさぬようにすること。
     互いに会わないように別々の国に住むことにし、ネットで連絡を取り合うようにする。
     僕以外の僕たちはどのように名のっているのだろう。連続する生活実態はあるのだろうか。同じ親から生まれたのだろうか。最初から大人だったのだろうか。そもそも何のために複数の僕が必要だったのだろうか。特段の意味はないのだろうか。増殖しているのだろうか。必要に応じて加減されるのだろうか。
     たくさんの僕がこの地球上でアリバイの海を築き上げているのは間違いない。それは意味のないアリバイだ。しかし、それがいつアリバイとして有効なものになったり、逆アリバイとして不利なものになっていくのかはわからない。自分の意のままにならぬゆえにひたすらに恐ろしいのだ。

    ★ホームページに戻る
    6/13/2009

    心の断片178「砦のぼく」

    「砦のぼく」

    変な雲の
    変な気圧の
    変な建物に
    ぼくはいる

    床と平行に
    ゆっくり飛んでいる
    変なぼくがいる

    段差がいっぱいの
    変な図書室
    右往左往の人々が
    急にいなくなる

    設計ミスの巨大建築
    変な講義室に
    濡れ傘を持って
    一人時間を潰している
    今日は何かの祝日に違いない

    自由になったぼくは
    くつろいだイカのように
    ゆるりゆるりと
    床と平行に飛んでいく
    立ち並ぶスチール写真の人々を
    今日の足がかりに
    可動空間を広げる

    蓄積されていく夢の
    緩慢な自動連結
    よちよち歩きのこの世界は
    恐らく僕の最後の砦
    膨大な情報の
    矢継ぎ早の攻撃に
    へっちゃら顔
    じわりじわりと
    柔らかな結晶になっていく

    この砦に
    透明な翼は
    ますます音もなく

    ★ホームページへ






    6/12/2009

    恐怖シリーズ137「輝き」

      <オーラ玉とは? 画像クリックで説明画面へ>
     オーラの輝きなるものは見たことがない。しかし、そうしたものは次のようなことが原因で起こることかもしれない。
     例えば、白内障に冒されていれば、ものがまぶしく感じられることがある。また、興味のあるものを見たときに人間の瞳孔は開くから、通常よりも多く光が取り入れられ、その結果まぶしく輝くように感じる。光が入る角度によっては、かなり輝く可能性がある。また、背景の色や明るさはオーラの見え方に影響がありそうだ。このように少しぼやけた見え方をしているところにまぶしさが加わってオーラと言われるようなものに感じることもあるのではないだろうか。
     つまり、ある一定の条件を満たすと、何かが光り輝いているように見えるということがあり、それがオーラの正体だという疑いだ。目の疾病が基本的な原因。ある特定の何かを見たことが契機。光が目に入る角度と見る対象の背景の色が適切な条件を満たすと、オーラなるものがなくても、オーラが誕生するというわけだ。
     もしかすると、年配の人にオーラが見える人が多いのではないだろうか。長年の修行の成果で見えるようになったと思っていたものが、実は加齢による単なる身体変化、つまり白内障によるものであったということはないだろうか。
     もちろん、若くてもオーラが見えるという人はいる。若年性の白内障という可能性もあるだろうが、中には実際に何かがあって、それが見えている人がいるかもしれない。しかし、その見えているものが所謂オーラであるかどうかはやはり分からない。
     たとえば、次のような場面だ。やや薄暗い部屋に窓から光が差しこんでいる。テレビを見ているわけでもなく、ただぼんやりとつまらない時間を一人過ごしていた。そこへドアを開けて突如入ってきた見知らぬ人物。自分の視界に入り込んだその人物に新鮮な予期せぬ魅力や興味を感じた。このようなときのまぶしさが精神的なまぶしさと相まって、恋に陥ることがあるやもしれぬ。これが一目惚れの過程だとしたら面白い。白内障ではなくても瞳孔がしっかり開くことによって十分にまぶしく見えるだろう。
     また、恋に陥ってぼうっとしてしまうのとは対照的に、ただならぬ相手が接近したため臨戦態勢に入って目がらんらんと輝くときも、結果として目に限っては同じようなことが起こっているかもしれない。相手に対する注目度が似ているからだろうか。らんらんと輝く目は瞳孔が開いているからそう見えるのかもしれない。敵に恋心に近いものを感じてしまうことがあるのも、こうしたことが下地にあって何か錯覚を起こしているのかもしれない。
     さて、人の顔も表情についても「輝いている」という言い方をするときがある。これは、質感や顔の部品の角度から感じ取るものだろうと思う。
     顔面の皮脂ののり具合や顔面の凹凸の具合によっては光を前面に反射する量が多くなり、「輝くような質感」が実現される。アンパンマンのような顔だ。彼は髪の毛がなく、前面に反射する光の量が多くなっている。頬と鼻も真ん丸でどの方向から光が当たっても必ずどこかの部分が輝くように設計されている。
     次に、目がつくるライン、眉がつくるライン、鼻の中心線と底辺がつくるライン、口がつくるライン、顎がつくるライン、耳の軸がつくるライン、額の輪郭がつくるラインなどで構成される表情が問題となる。
     多くの植物の花がひたすらに明るく見えるのは、恐らく中心から放射状に広がっていく花弁がつくるラインによってであろう。そのラインがたくさん感じられる分だけ明るいと感じる。それに対してカキツバタのように立ち上がった花弁がつくるラインと垂れ下がった花弁がつくるラインの複雑さからは、明るさだけでなく、上品で豪華な輝きを感じる。
     しかし、眉、目、鼻、口、顎という部品の位置関係によって、それぞれの部品がもっているラインがどう生かされて輝きとなっているかということが微妙な問題となってきそうだ。単純に眺めているだけではどのラインがどう働いているのかよく分からない。単に目のラインが上がっているとか下がっているとかいう一つの部品がもっているラインの状態が、どのように顔全体の「輝き」を構成するものであるか判断がつきかねる。
     この判断の困難さは、表情というものが変化するものであることに関係があるかもしれない。マネキン人形の表情がいかに輝いていようと、固定されたその表情はかなり不利だ。眺めている時間が長くなればなるほど、輝きは薄れて不気味な感じを受けるようになる。
     どのような表情からどのような表情に変化したのかということも、「輝き」というものを感じさせる重要な条件になっていくだろう。
     どのような美人であっても輝くような表情をもっていなければ人形のように魅力がない。オーラのような、それが見えると言われている人が極一握りの人に限られているものは無視してもよいのではないか。そもそも鏡で確認できないから、無視するしかない。
     それよりも「輝くような質感」「輝くような表情」を心がけたほうがよい。これはオーラと違って心がけ次第で人に見せることができる。
     ただし、そうしたものも「輝く存在」となることを目標にしたときの副産物でなければ、とてもむなしいものになってしまう。もちろん、「輝く存在」とは単に目立つ存在ということではない。一歩間違えて、目立つことを目標にすると、輝く存在ではなく、ただの鬱陶しい存在になり果てるおそれがある。これは恐ろしいことだ。
     また、オーラのような輝きを見てしまったという体験をした場合も、その相手を特別の人と感じて虜になり、闇雲に恋をして周りが見えなくなったり、相手の本質が見えなくなってしまうおそれがある。自ら勘違いして自ら破局を迎え、自ら傷つくというお粗末を演じるというおそれがそこにある。
     敵にオーラを感じ、敬いつつも闘いを挑み、刺し違えて死ぬほうが美しいと感じてしまうことも、やはり勘違い甚だしきお粗末な状態だ。これは危険だと分かっていても異様な魅力のある異性にふらふらと近づいて身の破滅をまねいてしまうのと少し似ている。
     虜になるということは自由を奪われてしまうということだが、百歩譲ってそこに喜びを感じることがあったとしても、命までも奪われてしまっては本末転倒でよりよく生きることにならない。よりよく生きるために日々の体験を積み、それを価値ある経験として大人になっていくのだから、悲劇は体験の少ない若者にふりかかりやすい。経験ある大人が同じように目のくらんだことになれば、それは悲劇ではなく、喜劇として評価される。
     たとえ本人に見えているものが本当の輝きであったとしても、あるいは輝いていると感じているだけであったにしても、それは錯覚であったり知覚異常であったりして、実際にはそんな状態があるはずはない(周囲の人々に共有されない感覚だから)のだから、ほぼ偶発的につくられた小さなその世界の展開が末期を迎え、そこから己が解き放たれたとき(周囲の人々の感覚レベルに同調したとき)に見た現実は、大きなギャップによって実際以上に冷たく恐ろしいものに感じられることになるだろう。不幸なことに、これが死をまねくほどの程度のこともあるだろう。
     輝きというものは実に恐ろしい。何しろ普通の状態ではないのだから。しかし、その感覚が思いになり、その思いが行いになり、その行いが運勢を変えていくとすれば、もしかするとよい方向に転ぶかもしれない。
     スタートとなる輝きがなんであれ、そこから生まれた望みは夢でありながら、望みを持つこと自体は現実世界の領域に所属するものだ。このような微妙な立ち位置にあるものはいくつもあるが、「望み」はその代表格のように感じる。「ゆめ」と「うつつ」を結ぶ架け橋といったものがあるとすれば、この「望み」というコウモリのようなものだろう。「ゆめ」でありながら「うつつ」、「うつつ」でありながら「ゆめ」であり続けるものというわけだ。
     ところで、「ゆめ」の超特急新幹線には「ひかり」「のぞみ」「こだま」とある。「ひかり」は「輝き」、「のぞみ」は「望み」だとすれば、「こだま」はいったい何だろう。
     声はすれども相手はいない。こんな木霊は「現実には思うような相手はどこにもいない」ということだろうか。輝きに心を動かされ、望みを持たされても実際には望みどおりの人など誰もいない。いるのは想像とはかけ離れた存在だ。
     しかし、そうした現実からは目を背け、あくまでも作ったイメージで解釈しようとするのが人間だ。いたわしい限りだ。
     こうなると、「ゆめ」も一種の「うつつ」ということになる。「のぞみ」という架け橋は、かくも貴重な働きをもっている。しかし、心の働きである以上、バランスこそが命だ。夢しか見ない者、現実しか見ない者は、その恩恵にあずかることはない。

    ★ホームページに戻る


    6/6/2009

    変な疑問101「好吃・站着」

     <人間は立つ。不思議だ。 画像クリックで説明画面へ>
     「好吃」と小さな声で言ってみる。すると、「おいちー」と聞こえる。これは「おいしい」の赤ちゃん言葉ではないか。まさか。
     待てよ。「站着」と小さな声で言ってみる。すると、「ちゃんち」と聞こえる。これは「座る」の赤ちゃん言葉ではないか。しかし、「站着」は「立っている」という意味だ。「立つ」の赤ちゃん言葉は「たっち」だから、座っている赤ちゃんにとっては一歩先の別世界だ。もっとも、「立てば這え、這えば歩めの親心」というから、先走ったのかもしれない。
     待てよ。これまでほぼ水平状態の赤ちゃんからすれば、這うことを通し、脊髄を垂直にするために腹筋と背筋で必死に脊椎を「立てた」のだから、「おすわり」も「たっち」と言えなくもない。すると、「站着」は「立っている」だが、赤ちゃんが座っている状態を上半身が立っている状態という意味で「站着」と表現し、それが日本語ふうに訛って「ちゃんち」となった可能性はないか。
     もちろん、「坐着」を通り越しているではないかと言われてしまうだろう。中国の赤ちゃん言葉に「坐着」に相当する言葉あるかどうか、あるいはあったかどうかは定かではない。これはひとつ調査してみなくてはならない。
     こんな暇なことを考える人はあまりいないかもしれないが、忙しいときの逃避行動としてはそれなりに成立する。当然、本当には調べることなどないから、いつまでも「かもしれない」の世界だ。虚しいといえば虚しいが、楽しいといえば楽しい。
     さて、本当のところはどうなのだろう。

    ★ホームページに戻る



    6/1/2009

    突然思い出したこと126「カウンセラー」

      <鏡だけれどウェブカメラ 画像クリックで説明画面へ>
      高校生の時にもっていたカウンセラーの印象は鏡だ。その鏡の奥の営みが手に取るようにわかっては台無しだ。カウンセラーは鏡。鏡は鏡でもマジックミラーというやつにならなくてはならない。だが、マジックミラーは内側に明かりがともったとき、ただのガラスになってしまうことがある。巧妙な相談者はその灯りをともす言葉の幾つかを知っている。
     カウンセラーではないカウンセラーは天衣無縫の人。己の生き様で近づく者全てを意識することなくカウンセリングしている。心を貫く名言をもつ人だ。どの書物にも記されていないその名言は、心をとらえてはなさない。言葉が勇気となり、判断基準となり、ギアが適速にシフトする。だが、相談者ではない怠惰な相談者は、その人を簡単に失ってしまう。
     どちらにも巡り会わない場合には、セルフカウンセリングしかない。自己完結のぬるま湯に飽きて飛び出すエネルギーが得られなければ、静止衛星のように落ちながらの安定地獄。このように感じたら一歩を踏み出した証拠だ。だが、その一歩は別の地獄への第一歩だ。最初から地獄しかなかったということなのだろうが、いろいろな地獄を巡ることで苦しさは見かけ上は軽減するから面白い。その軽減された分にいろいろな名前を付けてやれば、何かを得たような気分にもなれるので、そのタイミングを逃しては損だ。
     だが、自ら常にパイオニアであろうとするか、パイオニアでなければならない立場にある場合には、最初からカウンセリングを考えてはならない。恐怖や困惑、ジレンマや憂鬱が力となってあらゆる障害を打破する殺人的な行動力と千年先を見通す洞察力を生み出すように自分自身をそそのかしてやればよい。

    ★ホームページに戻る