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7/28/2007 日々雑感196「自己肯定」蝉の鳴き声繰り返し。あれが呪文なら、きっと叶うにちがいない。だが、どれも同じ鳴き声だ。精一杯に鳴くのは、鳴き声を変えられないからだろう。鳴き声の大きさと鳴いている時間とで勝負が決まる。 しかも、天敵に見つからぬ、出会いに都合のよい場所をとらねばならぬ。しかし、ただやみくもに鳴いているわけではないだろうと思うのは、僕が人間だからであって、本当は数にものをいわせての行き当たりばったり数うち当たる方式かもしれない。 選挙活動もおそらく同じだろう。この喧噪は蝉以外の何ものでもない。街宣車が通るたび、人間の声をした蝉を思い浮かべる。……蝉人間バルタン星人。 ところで、彼らは裸体なのだろうか。ウルトラマンさえコスチュームなのか裸体なのかが曖昧だ。 曖昧なのにそれを知らぬ間に受け入れているということだ。僕たちにとっては、世の中のほとんどがまだ曖昧だから、やりきれないせいか、やるせないからか、そのままでは不都合だからか、ともかくどこかで僕たちが折り合いをつけているということだ。その折り合いをごまかしと呼んでもよい。適当と呼んでもよい。甘さと呼んでもよい。 しかし、この曖昧さで僕たちは救われている。直面している現実は、曖昧を許さぬ厳しい事実の砦と、掛け替えのない命のやりとりだからだ。 蝉ももうすぐいなくなる。候補者もいなくなる。どれもこれもひとときの、虚しいお祭りの通行人だ。これまで自分の日常生活と思いこんでいたことが、実は何かのお祭りに参加していたということがある。夢中であればあるほど、一生懸命であればあるほど後で気づくのだが、それを踊らされていたと思うのは自己否定のようで面白くない。 やはりその時の自分の判断で声を上げ、そのときの自分の判断で動いていたはずなのだから、そこは素直に「頑張っていたのだな」と肯定的に見るのが精神衛生上必要なことだろうとよく思う。 ★ホームページに戻る 7/27/2007 心の断片99「疾走」「疾走」 無駄を組み立てた迷路に 僕たちは臨んでいる 疾走し激突し あえいでいる 温かな血が やさしい編み目をつくった 我が心意気の 紋章だ 立ち上がり 身構え 口を結んで息整える 所詮誰かの造作だ 忘れ去られた迷宮だ なんの価値もないけれど 僕たちが走れば 何かが変わる 風が吹く 水銀灯に大小の虫が飛来する 7/21/2007 心の断片98「僕の腕」「僕の腕」 勘違いのパレードだ 目的のない道具 意味のない習慣と あてのない祈り それでも一日ははじまり 躍動と憔悴とが この右腕におとずれる 打ちのめされた魂だ 継ぎ足された杖 あて布のマントに ポケットの錠剤 それでも一日は終わり 床のなかでは背を伸ばす 夢を見ながらこの腕に みなぎる力を充填する 7/20/2007 日々雑感195「体脂肪計」体重・体脂肪計を買った。お年頃なので、日々計測することにした。年齢と身長と体重と性別をセットして測る。 体脂肪率測定不能。そうだ。僕はロボットだったのだ。先程、グリスをさしたばかりなので、体脂肪がないわけはないのに・・・・・・。どうして測定不能なのだろう!あ、靴下を脱がなくては・・・・・・。 体脂肪率9.4%?随分と減ったものだ。身長と体重の入力に間違いはない・・・・・・。???ああ、目が悪いせいだ。目が悪いと体脂肪率は低くなるのだ。普通の姿勢だと数字が見えないため、半ズボンの素肌の膝をくっつけ、屈んで液晶画面を見ていたというわけだ・・・・・・。もしかすると、膝から下の体脂肪率が計算されたのかもしれない。 正しい姿勢で測ると、正常値、正常値。標準だ。うれしいようでつまらない。体重・体脂肪計を買った意味がないではないか。仕方ないので、暫くは体重計としてだけ使うことにする。 体重が減った分だけ水分を補給してみる。はてな?これは調味料の調合に計量カップを使う初心者の料理人と一緒ではないか。計測機器は現代の技術を使っているかもしれないが、やっていることは人間初心者と同じではないか。目分量や腹具合で水分補給の量を決めるほうが進歩した姿のはずだ。いちいち測るのは日常生活では手間なだけだ。 よく考えてみると、体重計などなくても、服の腹回りがきつくなれば、太ったか、食べ過ぎたか、便秘かのうちどれかだということが判断できる。鏡を使えば背中の太り具合も分かる。だから、家に体重計は要らない。ましてや服を買うのに体重や体脂肪率を測定する人はいないはずだ。体脂肪率など、年に一度ぐらい測ればよいのではないか。わざわざ家で体脂肪率など測る必要はない。どうしても気になる人は、人間ドッグや家電量販店のお試しコーナーで測ればよい。 体重の数値が必要なのはエレベーターに乗るときだが、乗る人の体重を全部聞いて足し算する人は見たことも聞いたこともない。警報ブザーも鳴るからよい。そもそも定員以上にはなかなか入れないので、大丈夫だ。ただし、特別に体の密度の高い人が集まるといけない。しかし、地球人である以上、密度もそう大きな差はないだろう。水に浮かないタイプの人は多少注意が必要かもしれない。 ただの想像だが、もしかすると、かなり深いところで暮らしている種類の地底人は体の密度が高いかもしれない。地底人は地上の酸素濃度が濃すぎて住めないだろうから、酸素吸入が必要な老人のふりをしていつも吸っているガスのボンベを携行している可能性がある。すると、何かのボンベの分だけ重くてエレベーターに新たな負担をかけるのではないかと思いがちだが、偽酸素ボンベの分だけエレベーター内で場所をとるから、かえって乗り込める人数が減り、エレベーターの警報ブザーが鳴らない可能性もある。 問題は地底人の密度だけではない。身長だ。地底人は小さい可能性もある。地球人(地表人)の子どものふりをしているかもしれない。しかし、子どものふりをしながら、老人のふりをして偽酸素ボンベを運搬用具に乗せて携行するのはかなり無理があるので、この可能性は極めて低い。逆に、地表人と比べてあまりに体が大きければ、今度は目立ちすぎるので、地表人に紛れ込んで生活することはできない。ただし、一度びっくり人間として認められてしまえば、たとえ目立ったとしても地表人と一緒に生活できる。 大きなエレベーターに一人か二人しか乗っていない。そこへ一人乗り込んだ途端に警報ブザーが鳴ったとする。それは地表初心者の地底人か古いタイプのロボットかのどちらかだと思う。 浮世離れした話はともかく、エレベーターについては、身長に対して腹回りがやたらと大きい人ばかりの方が、乗れる人数が少なくてすむので、やせて背の高い人ばかりがびっしり乗るよりも、負担がずっと軽いはずだ。だから、あまり太ってきたからといってエレベーターを気にしなくてもよいだろう。 小さなボートに乗るときには、どこにどう乗るかでバランスがとれなり、転覆の可能性が高まるので、太った人や太った人を乗せる人は十分注意する必要がある。とは言え、台風とか洪水で避難するときは別として、太った人は普通は遠慮して小さなボートには乗らないから、これも問題ない。 にもかかわらず、体重計が各家庭に必要であるかのように販売されているのはぜだろう。何か目標値があって、そこを狙ってぎりぎり100グラムとか200グラムの推移を気にする人が多いからだろうか。では、数字の表示をグラム単位までにするとどうなるか。おそらく水一口を気にする人間が増えるのではないかと思う。 体重計を何桁まで表示するかによって、人の感覚や思い、行動までもが変わってしまう可能性がある。もっとも、便の重さは随分とあるので、トイレ前の測定値とトイレ後の測定値とでは数百グラムは軽く差が出てしまう。だから、あまりそんなことを神経質に考えることはないだろうけれども、やはり考えてしまうのが人情というものだろう。 7/14/2007 突然思い出したこと98「プライド」プライドは何のためにあるのだろう。フライドチキンのメガネのおじさんを見て、なぜか突然思い出した。 能力不足を自覚していることによる劣等感を相殺するための補助具だと仮定する。その能力とは、人間関係形成能力、開運能力、技術開発能力、身体能力、その他いろいろな能力が考えられる。能力不足を他者のせいにするのは、逆に自分の能力不足を認めるようなものだから、プライドという心意気の類を打ち立て、その存在を信じることで劣等感を相殺するという手法をとるのではないだろうか。 プライドにもいろいろな種類があるように思う。民族のプライド、国家のプライド、仕事のプライド、個人のプライド。民族のプライドは、どの民族にもあって、そのプライドを持っていることは平等なので、総合的に低位にあるという自覚を持っている民族のなかで、もっと力を持たねばいけないという危機感を持っている人々のプライドは比較的高い。プライドという土俵では他の民族と同等の勝負ができるからだ。それは精神的なものだから可能となる。これによって臆することなく意見を述べることができるのだ。 日本人にはプライドがない。必要ではないのだ。必要なときにもプライドが持てないといった方がよいかもしれない。プライドが持てないから、必要ではないという感覚を持つようになるのかもしれない。このプライドのなさはプラスにもマイナスにも働く。なぜなら、普通の国にはプライドがあるからだ。 普通はあるものがないということは、何か特別の事情があるということだ。その特別の事情を生かせるか生かせないかによって、他との関係の中で運というものが決まっていくと思うのだ。 さて、プラス面などというものがあるのだろうか。よくよく考えてみれば、プライドとは無縁の日本という国の人々は、プライドを持ち合わせていないがためにプライドを傷つけられるということがない。 他国ではプライドを傷つけられることが精神的な屈辱を与えるという頭があるから、日本の国旗を燃やしたり踏みつけたりするというデモンストレーションを行う人々がいる。しかし、当の日本人は痛くもかゆくもない。 日本の現状は、オリンピックのとき以外は日の丸など掲げてはいけないという意識があるのではないかと思われるほどだ。これはプライドが邪魔になっている他国よりも有利に動くことができるという利点がある。 国家意識については、虚無に近いものがある。プライドによって支えられている国とは、まるで別世界のように思われる。しかし、プライドというこだわりや人間臭さがないために、努力次第でこの国をより神に近いところに位置させることができるかもしれない。そうした可能性を持っているということだけが唯一の救いだとしたら、それは少し悲しい、。 しかし、逆に努力がなければ、この国も悪魔の近くにひざまづく可能性があるのかもしれない。その努力とは果たしてなんだろう。第一に挙げられるのはエゴを抑えるということだ。もちろんエゴを抑えることと、主張しないということとは同じではない。 つまり、よきにつけ悪しきにつけ、いわゆる人間界から遠い存在になり得るということがプラス面だと思うのだ。 次に、いくつかのマイナス面を挙げてみよう。 プラス面の逆で、国旗を燃やすという行為の意味を理解できないということがある。日の丸を燃やすことで、他国民の一部がどういう意味の怒りを表現したいかを実感できないということだ。 あの燃やされる日の丸はどこで買ってきたのだろう。自作だろうか。それとも盗んだものだろうか。それなら窃盗、器物損壊、放火などの罪を問われなければならないだろうなどと、このように考えること自体が、浮世離れしたやつらだと他国民をいらいらさせているかもしれない。 これに対して、日本人は奇妙な民族だなどと大人の態度でおおらかに評価してくれればマイナス面の被害は少ないが、余裕のない国がそのように思ってくれるとは限らない。 それはともかく、日本人に抗議するときは日本語で行うのが効果的だろう。しかし、テロップで流されることが多いので、抗議の気持ちが日本人には伝わりにくい。だからこそ、日の丸を燃やして分かりやすくしようとしているのかもしれないが、残念ながら日本を知らなさすぎる。別の方法をとった方が効果があるのだ。少なくとも吹き替えをすべきだろう。このとき、変に方言を使わないことだ。 たとえ日本語で抗議をしても、奇妙な言語である日本語を上手に操らねばならないという壁がある。片言の日本語ではかわいらしさが出てしまって、抗議の表情と一致せず、違和感を与えるだけになってしまう。 しかも、抗議の表情自体が日本人には見慣れぬものなので、ただ怒っているようにしか見えない可能性がある。まさかとは思うが、この怒りを外国人特有のオーバーアクションだと了解している日本人だっているかもしれない。 これではいけない。やはり日本人も日本国民としてのプライドを持つべきで、そのことによって他国民の痛みを感じるようにしないといけないのではないだろうか。しかし、そんなものは戦後に消滅してもうかなり時が経つ。もう持ち得ないのではないだろうかと悲観する。 しかし、いくら日本人だからといっても、当然、個人のプライドはある。また各人は仕事のプライドももっている。この延長線上に国家のプライドというものをイメージすることから始めればよいのかもしれない。 国家のプライドを個人や仕事のプライドの延長としてしか感じられないというのは困ったことだが、戦後の日本では仕方ないことだろうと思う。戦後の新生日本というよりも、まだサナギのままの国のような感じも受ける。甘えかもしれないが、当面は他国からの理解を得るしかないのだと思う。 7/12/2007 突然思い出したこと97「自業自得」自業自得という言葉を突然思い出した。 自分に原因があっても、他人に原因があっても、結局事をなしているのは自分だから、その中には自分の判断が入っている。そうである以上、その結果は全て自業自得だと考えた方が、世の中を納得しやすい。納得すれば、冷静に次の行動を考えるから、結局は自分の思い通りの状態に近くなる。 自業自得という言葉を、これまで「ざまをみろ」という気持ちで使ってきたが、このように考えると、自分が上手に生きるためのものの見方、つまり、知恵としてもとらえられる。しかし、だからといって、下品な「ざまをみろ」という気持ちを別になくさなくてもよいと思っている。そうした醜い心は自然に消えていくのを待てばよい。醜い気持ちがどの程度出てくるかで自分の成長を判断することができるからだ。成長が芳しくなければ、「はて、どうしたものか」と自分を振り返ってみる機会を得ることもできる。 自業自得というものの見方が身につけば、他人に責任を押しつけるという見苦しい生き方をしなくてもすみそうだ。「それは自業自得じゃないですか。だから、こちらには責任はありませんよ。」という低レベルの会話から、「一人一人が自業自得の世の中。せめてお互い助け合っていきましょう。」という中レベルの会話がなされるような環境を整えたり、そういう会話がなされるような刺激を工夫したりするのは、専ら宗教家の課題ではないかと思う。 現代の宗教家はどのような課題をもって、具体的にどのような活動をしているのだろう。心の時代とは言いながら、心の病にだけ目を向けて、それを救おうなどとしているなら、袋小路に入ってしまう。日常の生き方について若者相手に語る勇気を持ってほしい。もちろん、老人相手に人生を語ったり、来世を語るのも意味のあることだ。個人の心が多少豊かになり、多少救われもする。しかし、それでは世の中は変わらないだろう。 老人相手には老人用の語りを、若人には若人用の語りを持たねばならない。数十年、数百年かかってもよいから、人の意識が浄化されるように語り続けてもらいたい。寺や神社、教会等にこもって、人が来るのを待っているようではいけない。現在来ている人々がなぜ自分たちのもとに来ているのかを聞いてみよう。そうすれば、来る人だけを相手にしていてはいけないということがすぐにわかるはずだ。 目覚めよ、宗教家。この世界の堕落の根本は宗教家の怠慢の結果だろう。教えを説くだけで世の中が理想の世の中になるなどと信じているわけでもあるまいに。個人プレイの宗教家がいても話題にしかならない。何のための宗教組織なのかを世間に説明してみるといい。 7/10/2007 突然思い出したこと96「ホウレンソウ」「ホウレンソウ」という言葉が突然頭に浮かんだ。いろいろな組織では、よく「報告」「連絡」「相談」が大事だという。ポパイのようにホウレンソウが力をもたらすと言いたいのだろう。 しかし、よく考えると、流れがおかしいように感じる。まず、しかるべき人々に「相談」するのが最初だろうと思うのだ。相談した結果をまとめたり、分割したりして、しかるべき人々に「連絡」することが、組織で動けるように仕組んだということになろう。最後は、役割分担をして動いた結果をしかるべき人々に「報告」をし、さらに活動や結果を改良するために「相談」するか、「終了」するかを決定するというのが、順番というものだろう。 こう考えると、「ホウレンソウ」ではなく、「ソウレンホウ」になってしまい、語呂が悪い。しかし、だからといって、順番を変えてしまうのは合理的ではないと思う。 いっそのこと「総連法」という言葉を造ってはどうだろう。「総合連携法則」の略とでもしておく。「総合」するというのは、あるものの上の立場の者が、ある目的を達成するために、さまざまな立場の者をまとめることだと考える。「連携」するというのは、さまざまな立場の者が、ある目的を達成するために、相互に連絡を取り合ったり、関係をもったり、協同したりして、自分たちでまとまるということだと考える。すると、「総合」と「連携」とは似て非なるものとなる。 こじつけかもしれないが、次のようにも言えるだろう。「総合」というのは、最初は一つであったものを「個別」にすることで極め、極めた後にもとの一つにまとめていくという手順を表している。一方、「連携」は最初はいくつかの「個別」のものが手を組むことで、それぞれが力を得たり、新しい目的を達成するための組織になるということを表している。 「まとめる」と「まとまる」の違いというと、分かりやすくしたようで、実は分かりにくくなる。説明のためのタイトルとしては、その適当なわかりにくさがちょうどよいかもしれない。 さて、「総合連携」として、四字熟語にすると、どのような意味合いを表現できるのだろう。内からも外からも力が加えられて一枚岩となっているというイメージだろうか。これを実現するための方法論がいろいろあり、それが実行されて実効を得ていくパターンを「法則」とすれば、無理矢理に「総合連携法則」という新語が成立するかもしれない。 この法則が働くためのいくつかの条件を挙げることも大切だろうが、何より「ホウレンソウ」よりも「ソウレンホウ」の方が、より強い力を発揮できそうだという、効果の予想を挙げることの方が面白そうだ。面白いだけでなく、神がかり的なポパイの「ホウレンソウ効果」よりも、現実味のある「総連法効果」のほうが受け止めやすい。そもそもポパイを知っている若者はそうはいないと思うのだが、どうだろう。 変な疑問65「金がない時代はどんな?」金がない時代といっても学生時代のことではない。お金がない頃の世の中ということだ。そんな時代のことなどあまり想像できない。また、想像する必要も感じていなかった。この二つの理由で、お金以前の世の中を想像してみたい。 貨幣経済によって進歩複雑化してきた世の中だ。複雑化することによって直接に間接に支えあう社会になっている。しかし、必要以上に複雑化すると、無意味な部分が出てきたり、空回りする部分が出てくるはずだ。適切な複雑さは、人口と資源とエネルギーと技術と風土によって決定される。その複雑化のありように、どう人間が折り合いをつけていくかの正負の努力が文化と呼ばれるものを形作っていく。 お金がない時代なら、ともかく借金地獄に陥る人々はいなくなる。しかし、借金もできない世の中だから、現代社会で借金するのが当たり前になっている類の人々はどうやって暮らしていくのだろう。 お金がなく、借金ができないため、分不相応の生活は最初からできない。だから、現代社会で借金まみれの人々のうち、何割かの人々は最初からまっとうな暮らしをせざるを得ないことになる。しかし、残りの何割かの人々は、借金に代わる何かを負う生活をする可能性がある。それはどんな生活だろう。 義理を果たせないために、窮屈な生き方をするとか、労働力や慰みものとして家族を奪われるとか、最悪の場合は命を奪われるのだろうか。とにかく現代ではお金で解決することが、解決不能となるか、別の方法で解決するかのどちらかとなる。 その状況を、お金関係の言葉をいくつか挙げて、想像してみることにする。罰金、税金、和解金、身代金、現金強奪、貯金、募金、成金、家賃、小遣い、チップ、予算、投資・・・このぐらいにしておこう。 お金の特徴は、餌がいらないということ、死ぬことなないということ、腐らないということ、におわないこと、汚れないこと、コンパクトだということ、軽いということ、比べやすいということ、数えやすいこと、計算できるということ、分けることができるということ、まとめることができるということ、物事と交換しやすいこと、国を支配するにはお金を登場させた方が便利だということ。逆に言うと、お金はそれを管理する国が必要だということ。 罰金はどうだろう。罰金はなくてもいいかもしれない。命をとる。同じ痛みを味わわせる。同じ目に遭わせる。体罰を加える。命令を聞かせる。奴隷になる。物をとりあげる。権利を奪う。・・・・・・代わりのものはたくさんありそうだ。罰金なら、それを貯めておいて、被害者を救うこともできるから、罪を償いやすくなる。それに対して罰金がない世界では、その罪滅ぼしはむなしく、悲しく、悲惨だ。刑法を変える必要があるが、罰金なら子々孫々にわたって罰することも可能だ。同じように、被害者の遺族などを子々孫々まで、その財源によって支えることができる。また、その罰金を世の中のために使うこともできる。 こう考えると、幅広く償え、また世の中のために使うこともできるので、その点で罰金はすぐれている。 「目には目を、歯には歯を」という刑法を執行する側の心理的抵抗を、お金が罰金という形で肩代わりさせてなくしたという見方もできそうだから、その点でもすぐれている。 ただし、罰金さえ払えばよいという風潮が生まれ、心からの反省ではなく、単に罰金が嫌だから、心をコントロールしているだけという浅ましい人間が出現する土壌をつくってしまう。成人するまでもなく、やがてそれは間違ったことだとわかり、心が成長するのだが、生涯そうしたレベルに達することのない人々も残念ながら意外といるのだ。 現金強奪はどうだろう。お金のない世界では現物強奪となる。これは意外と厄介だ。大きな物は少人数では強奪が不可能に近い。殲滅すれば可能かもしれないが、リスクが高すぎる。こうなると、公に攻撃して奪うしかなくなる。どうしても大義名分というものが要るのだ。物ではなく、権利の強奪は、お金が使えないので、暗殺やら脅迫やらが横行することになりそうだ。現金は現物に対して軽く小さいことが多い。奪いやすい。奪ってしまえば、現金なら自分のものとして使えるが、現物は見られてしまうと、奪ったことがばれてしまう。お金は財産を匿名化するのだ。お札は番号を控えられてはじめて匿名性が失われる。通し番号のない硬貨については高い匿名性が保たれている。これもICタグのようなものが取り付けられるようになってはじめて匿名性が失われる。 こう考えると、奪おうという気持ちになるのは、お金のこうした性質が大きく関係していることがよくわかる。お金の中には石で作られた人間の背丈ほどもありそうなものがかつてあったが、これは現金と現物の中間の性質を持っているといえるかもしれない。これは持ち運びができないけれど、盗めない。すぐれた貨幣だ。みんなの了解で、所有者が決定している。人口が少なく、単純な社会ならではのものだが、捨てがたい魅力がある。これに対して、現在、最も奪おうという気持ちにさせるのは、イーバンクのお金だろう。いつの間にか送金されていたりするという被害が多いのだという。巨大な石の貨幣に対して実に軽い。現金よりコンパクトで証拠も残りにくい。便利な社会になるほど、犯罪者のつけいる隙が多くなるのだろうか。 チップはどうだろう。これは現金なればこそ存在するものだ。現金がなければ存在しないものは少し考えると、たくさんある。自動販売機、お賽銭箱、貯金箱、財布。まさか、自動販売機が自動交換機になり、お賽銭箱が寄進箱になり、貯金箱がお蔵になり、財布が小型リヤカーになるのだろうか。陳腐だが、それは今の世の中から見つめているからそう思えるだけのことだろう。 賄賂などは随分工夫が要るようになるだろう。宝石とか利権とか、小さな物や目に見えないものにしなくてはならない。それに絞ればよいから、捜査しやすいとも言える。 想像は尽きないが、逆にこの視点から改めて現在の世の中を見つめ直すと実に明解にいろいろなものの形が見えてきそうで面白い。 7/7/2007 心の断片97「ひみつ」「秘密」 みつけたぞ ひみつみつけたぞ それはなんでもない ふつうのこと めのいろかえて いのちけずるほどのことはない なんでもない ふつうのこと みつけるたびに うれしいが みつけるたびに つまらない ひみつはひみつ みつのかおりは こうばしい 7/3/2007 突然思い出したこと95「アリバイ工作」昔思いついたアリバイ工作を突然思い出した。いくつか出会った推理小説は運悪くあまり面白くなかった。もし、自分が書くならどのような推理小説が書けるかと高校生の頃に考えたことがあったのだ。 例によって、推理小説はなぜか犯罪ものばかり。恋愛推理小説やスポーツ根性推理小説があってもよいのではないかと思っていた頃だ。しかし、やはり、劇的な話の展開や意外な結末を要求されれば、犯罪もの、しかも殺人事件にしなければならなくなってしまう。 何もしなくてもいずれ死んでいく生き物である僕たちにとって、死というものは日常的なものだ。神ではなく、人の手によって命が奪われることに、神に対する冒涜がある。この点から書いていく小説があってもよいのではないだろうか。登場するのはもちろん神と人だ。話が展開するなかで神の正体が神自身に自覚されていくという筋だ。 さて、アリバイの最たるものは、現行犯で警察に直接逮捕されることだ。現場不在の証明は警察がしてくれるのだ。Aランクの犯罪の捜査線上から逃れられないという可能性が濃厚な場合、Bランク以下の罪を犯したことにして逮捕されるということが最大の隠れ蓑になるという手法だ。 これには協力者が必要だ。その協力者はBランクの真犯人だ。そして、Bランクの犯罪の共犯者がAランクの犯罪の真犯人だ。Bランクの真犯人になりすますために、Aランクの犯罪の犯人は、Bランクの真犯人を抹殺するか、別の方法で口を封じなければならない。最初から協力者だという意識を持たせない接し方や操り方をすれば、その必要もない。 Aランクの犯罪の真犯人は、Bランクの犯罪の真犯人の犯行をつぶさに観察していなければならない。これは肉眼で観察するのは難しい。同時刻に別の場所でAランクの犯罪を犯さねばならないからだ。従って、ビデオカメラ等を使うことになる。この記録によって、犯人しか知り得ないことが、別人に伝わることになる。Aランクの犯罪の真犯人は、Bランクの犯罪の犯人として自首するのもよいが、怪しまれることを警戒して、逃げたうえに捕まえさせる方が懸命だ。 犯罪者になりすます犯罪者。これは恐ろしい。天秤にかけるとはこういうことを言うのだろう。Bランクの真犯人は行方不明者となるので、警察に捜索願を提出する身内のいない者でなければならない。 どんでん返しとしては、Bランクの犯罪の真犯人は、Aランクの犯罪の真犯人を実ははめていたということだ。彼をAランクの犯罪の真犯人とすべく、自ら誘い水となり、実行させ、自分は命を落とす。うまく記録を残し、Aランクの犯罪の真犯人のもくろみが露呈する仕組みにしておくのだ。アリバイ工作自体のアイデアをそれとなく彼に思いつかせるのも彼の役目だ。 もう一つのどんでん返しは、二人の関係だ。二人が自覚していない関係でもよい。因縁は読者だけが次第に知っていくというスタイルだ。また、二人のうち片方が二人の関係を知っており、不思議な仕草、ことばかけが、後で伏線だったのだなとじんわり思い起こさせるというスタイルだ。 生まれてからこの方、小説など書いたことなどない。推理小説だけでなく、一般的な小説を書く場合でも、人間の社会や人間の心の闇を見つめなければならなくなるからだ。それはとても嫌なことだ。できるだけ触れたくない部分だ。それを文章にして人の心を揺さぶることに何の意味があるのだろう。僕はいつでもさわやかな人間の生き様を見つめていたいのだ。 平和な毎日を暮らしている人が多いのだろうか。それとも、ひどい毎日をよりひどい小説の内容によって軽く感じようとする人が多いのだろうか。 また、回りくどくお話を書くより、直接、短く表現する方が間違いがないように思う。人間研究というテーマではなく、ストーリーの展開の面白さや登場人物のキャラクターの面白さに読者の目がいってしまっては元も子もないだろう。 自分自身も長い文章をじっくり読んでイメージを構築しながら自分の思考を深めていく読書力とは程遠い。近い将来、文章を提示するスタイルが旧態依然としたものであれば、本というメディア自体が廃れてしまうかもしれないなどと考えていた。それは今も同じ思いでいる。まさに旧態依然というわけだ。 7/1/2007 突然思い出したこと94「中庸」ストレスが強すぎても弱すぎてもいけない。優しすぎても厳しすぎてもいけない。腕力が強すぎても弱すぎてもいけない。気が利きすぎても利かなすぎてもいけない。豊かすぎても貧しすぎてもいけない。早く死にすぎても長く生きすぎてもいけない。 中庸であることの大切さはわかっていても、その実現は困難だ。それは自分だけで生活が成り立っているわけではないという単純な理由からだ。同じ腕力でも、幼児相手には強すぎて成人相手には弱すぎる。 あらゆることを調整しながら生活していかねばならない。中庸であろうとする努力自体がストレスなのだが、その結果が良好であるためには、頑張りすぎてはいけない。しかし、たいていは頑張って頑張って頑張った結果、ようやく中庸路線を歩むことができるというのが実情ではないだろうか。無事是貴人とはいかぬものだ。 問題は、他人の力によって自分の調整が難しくなるところにある。しかし、他人のことなど見抜く力などない。だから、後手後手に回り、苦しむことになる。 何とかして見抜く力を得られないだろうか。最終的には、直接経験や間接経験がものをいうのだろう。経験を積むことにより、洞察力が高まる。これは年齢にはよらない。あくまでも経験の量と質による。相手と自分自身、そして、互いの置かれた状況とを見抜くことによって、自分をどう動かしたらよいのか、そして他人をどう動かしたらよいのかという方針が立つようになる。 こうなると後は運不運で、諦めがつくというものだろう。失敗してもそれはよりよい経験として、再利用するだけのことだ。 |
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