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7/30/2008 恐怖シリーズ114「正論の矛・盾」 正論を盾に隠れ蓑とし、職務怠慢につながる動きをしようという衝動に襲われるということはないか。 「理屈と膏薬はどこへでもつく」という。数分考えれば、いくつかの手頃な理屈を並べ立てることはできそうだ。その中から時流に合ったものを二、三選んで、順序よく論理的に示していけば、まとまりのある一つの意見として聞こえるはずだ。だめ押しで、「因みに」と話を続け、搦め手からの少し角度の異なる情報を付け加えてやれば、見かけ上の正論としての説得力を持たせることも可能だ。たぶんこれは、甘い西瓜をより甘くするために塩を少しつけてやるのと同じだろう。 しかし、西瓜はともかくとして、「正論の盾」の効き目があるのは一度だけだということもわかっているから、日常で使うことはあり得ない。二度目からは、「つまり、○○したいだけなんだね」とか、「結局、○○したくないだけなんだね」と見抜かれてしまうのは明白だからだ。 ところが、こうした禁じ手の「正論の盾」を平気で使用しそうになることが時々ある。これは恐ろしいことだ。しかし、自分で自分の首を絞めることになるこの罠に陥らないように自重しなければならないという緊張感を味わえるのは、それなりに面白いことだと思う。 もし、実際にこの禁じ手を使い始めれば、誰も相手にしなくなるだろう。そのときに、自分の「正論の盾」について誰も批判しないのを勝手に解釈し、「うまく丸め込んだ」とか、「みんな分かってくれているんだ」とか、「しめしめ、いつか言いたいと思っていたことが言えたぞ」などと、さまざまな間抜けな勘違いをしてしまうおそれもある。これは重ねて不幸なことだ。自覚するのはなかなか困難だと思うが、日記でもつけていれば、後日自分で評価することはできそうだ。しかし、手遅れ、後の祭りとなることは避けられない。 いくら理屈を論理的に述べられても、全体の動き、進むべき方向を見据えないで生きていると、いつの間にか邪魔者として尻尾も首根っこも押さえられてしまう。しかも、残念なことにそのこと自体にも気づけない人間、あるいは気づいていても認めようとはしない人間に成り下がってしまうおそれもある。 さてさて、自己主張をするということは、このような罠もあるから、誤解されない努力だけでは足りない。己を見つめて、まずは襟を正すということが必要な、予想外に労力のかかることだと思われる。 たとえ職務怠慢への罠に陥らない場合でも、その逆に走る罠に陥る場合がある。これも困る。自己主張のために仕事を増やす方向に突き進んでしまうのだ。これは「正論の矛」を持ち出すことになる。どちらにしても周囲への迷惑、実害は計り知れないものとなるはずだ。全く困った衝動だ。もともと正論というものは盾にしたり、矛にしたりするものではなく、空気のように行きわたらせるものだ。隠れ蓑にしてもいけないし、無理強いのための道具としてもいけない。 それにしても、これらの衝動をどのように処理して、不幸から逃れたらよいのだろう。 少なくとも事前評価は必要だろう。事前チェックを頭の中で一瞬の間に行うのだ。「正論の盾」だの「正論の矛」だのを握っているかもしれないと自分自身を疑うしかない。自分に対するこのような疑いの目をもつということは、精神が健康である証拠だ。この己を見つめて疑うという習慣を身につけて、自分を客観視するという精神的傾向を作ってしまえばよい。そうすれば、オートマチックに判断できる感性によって、さほど労力を感じないですみ、自然体で生きることができるようになるのではないかと思う。 ただし、客観視することよりも、疑うこと自体にこだわりを持つようになると、精神活動が病的なものになってしまうから、注意が必要だ。 とにもかくにも、本当に人間というのは面白く仕上がった生き物だ。 ★ホームページに戻る 7/28/2008 突然思い出したこと116「怪異、京都のホテル」 京都に出張したときのことを突然思い出した。 数年前のこと、夏のある日、単身京都に出張した。恐ろしいことに一か月前に発表者に指定されて以来、死にものぐるいの徹夜が続いたので、体調も最悪だった。派遣を依頼する文書は半年前の日付だから、その間、どこの事務所をどうたらい回しにされていたものやら、想像するだけで腹立たしい。しかし、それは迷惑以上の体験を僕にもたらした。 近畿、北陸、中部地区等から人が集まるというので、気合いを入れるしかない。前日から、京都入りし、体調を整えるべく、ホテルで一泊したのだが、そこでの出来事だ。 体調が悪いといっても、熱があるわけでもなく、どこか痛いわけでもない。疲れていただけだ。資料は段ボール箱に詰め込んで小包で会場に送っておいたから、ホテルまでの道のりは肉体的には楽なのだが、資料に朱書きをしたり、予想される質問について自問自答して回答集を作成したりと、精神的には確かに追いつめられていたように思う。魔というものがあるとすれば、こうした隙を逃しはしないはずだ。 その夜、早めにベッドに入ったのがいけなかったのか、深夜、ふと目が覚めた。そこから明け方にかけて起こった不思議な出来事は、どうにも説明がつかないものなので、記録に残さない方がよいだろう。ただ、チェックアウトするときのカウンターの三人の表情が今も忘れられない。 きっと僕は曰く付きの部屋を案内されたに違いない。インターネットで安い部屋を探すのはよした方がよいと思う。とはいえ、そのおかげで、発表も質疑応答も取るに足らぬ出来事のように感じられ、随分と助かった。意地悪質問には意地悪回答を、熱心な質問には熱心な回答をすることができたというわけだ。 学生の時以来、不思議な体験はこの一度きりだ。だから、僕に原因があるというよりも、部屋に原因があったのだと信じることにしている。 さて、暑いときには、意図的にあの夜のことを思い出すと、文字どおり全身鳥肌が立ってくる。だから、納涼といえば納涼になる。これだけ地球温暖化が話題となっているので、また、省エネルギーのためにも、世界中の一人一人がぞっとする体験を積極的に計画的に積んだ方が、冗談抜きでよいと思う。 しかし、その恐怖体験の記憶が暴走し、精神を支配するといけないから、原子炉の制御棒のように、いつも何かで制御していなくてはならない。必要なだけ必要なときに恐怖を小出しにしていかないと、結局は恐怖に取り憑かれることになってしまうおそれがあるのではないかと思うのだ。 そんな便利な心の制御棒などあるのだろうか。自然の物忘れも制御棒の一つだろうが、それだけでは頼みにならないことは確かだ。 まず、恐怖を断片化するのがよいだろう。その方が制御棒を取りそろえるのに都合がよい。まとまっていると、万能の制御棒に仕立て上げなければならなくなる。それは不可能に近い。 断片化するには、断片ごとの恐怖に名前を付けることだ。名前を付けられなかったものは手に余る恐怖ということになってしまうので、命名前段階にある恐怖という名前にしておくか、既にコントロールできる恐怖の分類に体よく収めてしまうのがよいだろう。納涼お化け大会のようなものは昔の人の大いなる知恵だ。恐怖を幾つかのお化けや妖怪に小分けしているのが第一の知恵だ。第二の知恵は、それに形を与えていることだ。第三の知恵は、その形に名前を付けていることだ。 こうすることによって苦手な恐怖と、そうでもない恐怖とを区別することが可能となる。形を与えることで対策も考えることができる。これに物語をつければ同情さえ持つことができる。つまり、恐怖を感じつつも、恐怖に包まれることからは逃れるという知恵だ。 子どもにとってお化け屋敷は一種の教育施設だろう。興味本位の怖いもの見たさ、単なる度胸試しという評価もできるが、恐怖に対応する心の鍛えの場所という機能に目をつむってはならないだろう。 バーチャルな恐ろしい映像は必要以上に恐ろしく描かないと恐ろしくはない。お化け屋敷のように、バーチャルではない、疑似ではあるが現実の恐怖は、映像の恐ろしさとは違った日常レベルでの恐怖だ。バーチャルな恐ろしい映像の恐怖とリアルな恐怖の境目が、何ものかによって取り崩され、曖昧になったとき、リアルな世界での恐怖感に歪みが生じる。これはこれで恐ろしい。 恐怖は、お化け屋敷のような半リアルな世界で味わわせなければ、不要の恐怖を抱くようになり、それに対応するために異常な行動をとってしまうという素地が次第にできあがっていくのではないかという予感がするのだ。本人自身にとっては合理的であっても、それが社会的にも都合がよいことであるとは限らないから始末が悪い。 予感と言ったが、予感というものは決して馬鹿にしてはならない。説明できるまでの前段階であると警戒しておいた方が無難だ。「備えよ常に」でなければ、応急の対応しかできず、後で悔やむことになることが多い。その失策、失態を言わぬのは、今後のためにならないのだが、個人的には忘れてしまいたいことだから、これも始末が悪い。 さて、暴走する恐怖を制御する棒であるからには抜き差しができなくては用を為さない。断片化させた一つ一つの恐怖の度合いが高まる解釈をしたり、低くなる解釈をしたりすることが可能であるような把握にしておくということがポイントになってくる。また、このように考えること自体が恐怖の度合いを低くしていくのも確かだ。これは制御棒を押し込めたり引き抜いたりする手の力を鍛えることになる。 こうして、鳥肌を立てたり、鳥肌を元に戻したりをコントロールすることができれば、クーラーなどを「強」にしなくても、「中」ですむようになるかもしれない。コントロールは訓練だから、繰り返し意識的に行えば身につけられる能力だ。おかげで僕はクーラーの世話になる必要があまりない。自動車でもクーラーはほとんどつけない。逆に、窓も閉めきりなので、熱中症にならないように配慮しなければならない。随分と面倒だが、ガソリンが高くなったから仕方ない。 どこをどうたらい回しになって僕の所に来た依頼か分からないが、この話になったときには、迷惑以上の体験をしたと答えることにしている。しかし、その体験というのは、実はホテルでの恐怖体験だということを知る人はいない。他人に説明するのが面倒なこともあるが、変な人と思われるのが落ちだろうと思うから、つい全てを語ることを躊躇してしまうのだ。 ★ホームページに戻る 7/27/2008 心の断片137「無邪気な僕」「無邪気な僕」 雨の今日は一日中 破れ古地図広げてる 砂粒ほどの僕がいて 何でもできる僕がいて たどり着けるか 若者よ 名も無き旅に何を見つけた 遠い昔の読みさしの リュックの底の古本の 栞頼りに読みかえす 秋になったらもう一度 さがしにいこう あの頃の 未ださまよう僕のあしあと 7/23/2008 恐怖シリーズ113「お膳立て」 何か急にうまくいかなくなることがある。その原因の一つとして、お膳立ての欠落が考えられる。 どこかの誰かが人知れずお膳立てをしてくれていたために円滑に物事が運んでいたのだが、何らかの理由でそのお膳立てが無くなってしまうということがある。それに気づかず、何一つ方法を変えることがなかったため、物事がうまくいかなくなってしまうというパターンだ。これは多々ある例で、うまくいかない理由を正しくつかみ、早急に対応しなければ、次々と事態を悪化させていくことになる。 どこかの誰かというのは、非常に身近な人である場合もあれば、お互いに顔も知らない遠くの人である場合もあるだろう。例えば、前者は、家族や友人、密かに心を寄せる人、特に親やマネージャーなど、最初から世話を焼くことを本分としている人々だ。後者は、組織の中の役割上世話を焼く人々であったり、役割を超えた学閥や同じ出身地の集まりなどの非公式組織の人々であったりする。 何らかの理由で、彼らがいなくなったり、手を引いた場合、当の本人はうまくいかなくなる理由が理解できず、途方に暮れるということだ。つまるところ、世の中を生きていく上では「挨拶」「感謝の気持ち」を特に大事にしなければならないということになる。 そうした類の処世の術をたくさん身につけていればいるほど、彼らがいなくなったり、手を引くことになったりする確率は格段に減少するはずだと考えることは、打算的なものとは異なる理にかなった社会的で人間的で自然なことだ。 さて、本来は、お膳立てが無い分だけ、自然に知恵を働かせるようになる。その知恵は、他の活動にも応用され、失敗が減り、支援も集めることができるようになってくる。 ところが、知らない間に、お膳立てをされていると、困ることがないので、知恵を働かせるチャンスが致命的に不足することになり、知恵を身につけることが次第にできなくなっていく。また、知らないうちにお膳立てされていることによって、全てが自分の能力によるものだと勘違いし、自分に対する評価を誤ることにもつながっていく。これは実によくない。どうしてあのような大失敗をすると予想できなかったのだろうかという疑問を持つことがあるが、その原因となる。 人間がどのようにして進歩してきたかを考えれば、困ることがないように仕組まれていることが、特に修行の期間にあっては非常によくないことだということはすぐに理解できる。 お膳立てをするという不自然さを、思いやりや愛情に基づくものであるという理由だけで肯定的にとらえるか、あるいは、最終的には災いをもたらす行為として否定的にとらえるかは、本当の意味での幸福を願っているか、それとも、ただ単に一時の喜びを求め、その喜びを幸福と思いこんでいるかの違いによるのだろうと思う。 ところで、これを悪用すれば、善人面をしながら人を陥れることも可能となる。また、よくしてあげようと思ってがんばった結果、逆に奈落の底に陥れてしまうという悲劇をもたらすことにもなる。お膳立てをするということは、一歩間違うと、随分と恐ろしいことになりそうだ。よくよく覚悟し、見極めをしてからでないと、おいそれとはできない代物だと思うのだ。 ただし、ある程度のお膳立てをしてやらねば、人が育たないのも事実だ。何をいつどこまでお膳立てしてやるかという計画を持った人にお膳立てしてもらうのが理想だ。結局は、そうした人を引きつける魅力が自分にあるかどうかが問われることになるのだが、これもやはり恐ろしいことだ。 ★ホームページに戻る 7/21/2008 変な疑問90「崩壊」 世の中の大事なことを学校で習わないのはどういうわけだろう。十七条の憲法は勉強しても、簡単な刑法を勉強しないのはどうしてだろう。罪の意識を形成するためには必要なことだと思うのだが、刑法に不備があるのか、それとも学校教育にふさわしくないのか、ほとんど教えられることがない。 そもそも、そうしたことを言う前に、六法全書が全家庭に備えられているかどうかということが問われなくてはならない。学校も、家庭も、そういう環境にないということは、法律に疎い人間の大量生産が行われてきたといってもよいのだろうが、百歩譲って、それは法律の専門家に任せたにしても、法律に疎いということによる罪の意識の薄い人間の大量生産が行われている可能性が高いということに問題がある。 常識的に普通に生きていけば法に触れることはないのだよという姿勢が、学校教育にふさわしい、子どものためになる教育方針だというのだろうか。常識が崩れ、普通の意味が曖昧になってきた現在、昔ながらの感覚で子どもを育てていてもらっては困ることが幾つか出てきてはいませんかという話だ。 健康面についても保健体育の時間ではどのようなことが教えられているのだろうか。病気の予兆や正しい健康法など、年齢に応じて系統的に指導されているのだろうか。医者の卵をつくるのが学校教育ではないと言われるかもしれないが、家庭を持てば、親として医者の卵程度の知識を持っていないようでは、子どもがかわいそうだ。防犯上の身のこなし方は指導されているのだろうか。 家庭科はどうだろう。正常な家庭を経営するにはどのような努力が必要か教えているだろうか。子どもを育てるには、親としてどのようにしたらよいのかを教えているだろうか。家庭電化製品が壊れないように正しい扱い方を教えているだろうか。 もちろん決められた指導内容以外のことは教える時間はないだろう。しかし、だからといって、核家族共働きの家庭教育などでカバーできるはずがない。核家族自体が家庭崩壊の一形態だという論議を別にすれば、家庭崩壊自体はそう多くはないだろう。しかし、家庭教育崩壊はほとんどの家庭で起こっていると考えた方が間違いはない。学校の方でそれをカバーするのが精一杯というところが、本当のところだろう。 壊れてきた順番は、地域の教育力の崩壊、家庭の教育力の崩壊、家庭崩壊、学校の教育力の崩壊、親崩壊だろう。親崩壊はモンスターペアレンツの形で表面化している。現在が最終段階というところが寂しいが、上には上があるはずだ。次は次でまた新しい現象が起こるということだ。 問題は、誰が何のために崩壊させてきたかということだが、残念ながら、それを口にする者はいないので、ほとんどの国民にその発想はまだない。 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑167「第四版175ページ・位牌」 広辞苑第四版175ページ「位牌」の説明の四行目。 「今迄父様や母様の-もよう立てず(親のあとを継がず)」とあるが、この(親のあとを継がず)というのはどうだろう。 もちろん内容は問題ないのだが、二つの点で不思議に思うのだ。 一つは、なぜわざわざ現代語で意味合いを書き記したのかという問題だ。一ページ目から古典の引用を見てきたが、現代人にとってここの引用部分よりももっと分かりにくいものが多かった。しかし、それらには現代語で意味合いを表現したものが添えられてこなかった。この部分には敢えて現代語で意味合いを示さねばならぬ理由があるのだろうか。 親のあとを継がないということを非難しているのだろうか、その逆に、親のあとを継がないのは昔からそういう例があるから不思議ではないよと敢えて主張したいのだろうか。敢えてそのようなことを非難したり主張したりしているわけではないと言われそうだが、もしそうならば、他の引用と同じく、用例として示したまま捨て置けばよいではないか。 次に、なぜわざわざ小さめのポイントで印刷したのだろうかという問題だ。最初は行数の関係かと思ったが、他と同じポイントにした場合に増えるスペースと、現在空いているスペースとを比べてみても、範囲以内だから問題ない。「位牌」関係の説明の行数の総和に変化は起こらないのだ。 それにもかかわらず、「綴り字」と「読み仮名」との中間の大きさの活字を選んだ理由は何だろう。他の括弧書きの説明のように綴り字と同じポイントでは不都合な理由を探さなくてならないではないか。 小さい活字にしたのは、まさか遠慮がちに書きたかったからだろうか。もしそうなら、どうして遠慮がちに書くことになってしまったのだろうかという問題が生まれてしまう。 こう考えると、実に厄介な辞書だが、逆に言うと、実に興味深く読める辞書だ。つまり、謎解きの面白さが味わえるのだ。 突然思い出したこと115「縁の下」 縁の下。昔の家には小さな子どもが入り込める縁の下があった。風呂を薪でたくので、予め鉈で薪割りをして、手頃な太さにするのだが、子どもの目にはそれが不思議で仕方なかった。物をのこぎりで地道に切り落とすのは分かるのだが、鉈の一振りで、堅い木が一瞬にして割れてしまうのはどうにも不可解だったのだ。不可解でありながら、薪の割れる小気味のよい音を聴いたり、割れた薪が躍動するのは面白く、いつまでも縁側にしゃがみこんで、飽きることなく眺めていたものだ。 針金で束ねた長く太いままの薪を保管しておくのが倉庫で、割った薪を一時的に保管しておくのが縁の下だった。夏でもそこは涼しくて風通しがよいのだ。いろいろな虫がいて、そいつらと遊ぶこともできる。歯が抜け替わる度に、小さな歯を縁の下に鼠の歯の呪文とともに投げ込んだものだが、ついぞそれを見かけることはなかった。縁の下には何かいて、子どもの願いを叶えるためにこっそりと持ち去っていったのだろうか。 かつて、縁の下の力持ちになっていては出世はできないよと言われたことがあった。しかし、それが縁の下の力持ち的なことであったり、逆に、はったりの打ち上げ花火であったりしたのは、たまたまそうであっただけで、やりたいことをやりたいようにやってきた結果だ。 小さな世界のなかで出世するのは見かけの出世であって、本当の出世は世の中の人々の役に立てることをいう。地位が上がっても世の中の役に立っていないのでは、何をしてもむなしかろう。まず自己満足のできることを見つけ、それが他人の満足にもなるように努力することが生きるということだろうが、別に満足などしなくてもよい。満足することにこだわれば、満足するために目指す水準を下げてしまったり、いつまでも満足できぬためにくじけてしまったりすることにもなりかねない。そうなっては、人生面白くはなかろう。 必要なことを必要なだけするのと、最低必要なことを必要なだけするのとでは、大きな違いがある。本当に出世するためには、前者でなければならない。自由な目で世の中を見て、世の中のために自由な活動をしていくためには、長年の準備が要る。必要最低限のことをして小さな世界のなかで疑似出世をし、残りの時間を自分や自分の家族のために「自由に」使うというのは、何とも前時代的な浅ましい生き方のように感じるのは僕だけだろうか。それで何が悪いかと言われそうだが、悪いのではなく、ただ単に浅ましいのだ。 人の世の役に立つということは、決して偽善的なものではなく、あくまでも必要なことだからだ。ここが理解できない人と理解できる人、理解できても行動できない人と行動できる人に分かれる。人間性の根っこの違いというものは、やはりあるのだとよく思わされる。それはいったいどのようにして根分かれしたものだろうか。 自分は、人知れず世の中に種をまき続け、それが進展していくのを見ながら、自らもそれに絡んでいき、運命をともにしてみたいと常々思っている。駄目に終わったものは仕方ないが、駄目に終わらないものも出てくる。仕事や趣味に時間を割くのもよいが、それだけではスケールが小さくなってしまう。人生一度しかないのだから、いろいろなスケールのなかで生きていけるようになりたいのだ。 今となっては潜り込むことのできない構造の縁の下になってしまったが、記憶の中の縁の下を思い出すたびに、祖父の小気味の良い薪割りの音とともに、人の世の役に立つことは他にないかという心意気のようなものが心の中に響きわたる。 ★ホームページに戻る 7/20/2008 突然思い出したこと114「ポンポン蒸気」 「あれがポンポン蒸気だ。あれは帆掛け船、ヨットというやつだ。ポンポン船は燃料がいるけど、ヨットは風の力で走る。前から風が吹いても前に進むんだぞ。」という祖父の言葉を突然思い出した。 家から少し散歩すると大きな川があって、当時はそこに船が往来していた。おそらく四、五歳の頃だと思う。木と木の枝の間から顔を覗かせて、きらきら光る川面を眺めていた自分をはっきりと感じてとれる。しかし、その前後の記憶はない。 ポンポン蒸気船は眼下を右から左へ海に向かって川を下っていった。帆掛け船はどこを走っているのかよく分からず、「今、きらっと光った。」と言われても、背の高さが違うせいか、自分の目には映らなかった。 夏の晴れた昼下がり、見つからないヨットを「どこ?ねえ、どこ?」と聞く自分と、威勢の良い蒸気船とその波切り音、この記憶が心に強く残っているのはいったいどうしたわけだろう。何のためにいったいどこにどう収められているのだろう。 変な疑問89「不快害虫」 害虫にとって人間は悪魔のような存在だ。おびき寄せ、あるいは追いつめて殺戮する。こう考えると、人間にとって悪魔はどのような存在であるかを理解しやすい。ただし、悪魔は人間が害虫に対して行うような大量殺戮をしない。極めて個人的に殺戮する。悪魔が例外的に大量殺戮をしたとして、人間的には極めて長期間かけて複雑な手順を踏んだ回りくどい殺戮しかしない。 人間によって、悪の権化のごとき「害虫」というレッテルをはられた途端に敵視され、「害虫」ではない虫までもが「害虫」扱いされるという始末だ。これでは悪魔よりも悪魔的だ。善人だけでなく悪人まで殺戮する悪魔など悪魔ではない。たいした理由もなく殺戮を繰り返す人間は悪魔を超えている。悪魔のように殺戮を楽しむだけでなく、正当性を主張しつつ殺戮を繰り返すところも恐ろしい。 人間がさらに恐ろしいのは「不快害虫」というレッテルを発明したことだ。「害虫」ならまだ筋が通る。病原菌を運んだり、作物に被害を与えたりと実質的な害があった。どれだけの病原菌を運んで、どれだけの発病をもたらしたか、作物にどれだけの悪影響を与え、どれだけの被害総額を出したか。全部具体的な数字で「被害」を表現することができる。その数字によって害虫のランクもつけられよう。扱いもそのランクに応じた一応人間にとっては正統なものとなるだろう。 しかし、「不快害虫」というレッテルをはることは「いじめ」に限りなく近い。「いじめ」は「人権侵犯」を平易に表現したものだが、「不快害虫」というレッテルをはり、殺戮し続けるのは、「生存権侵犯」だ。しかも、客観的な被害すら明確ではないのだ。「気持ち悪い」という感情は数値化されることもなく、十把一絡げに「不快害虫」とみなすという暴挙が許されてしまうのは、なぜだろう。 「見た感じぬるぬるしていそうだから不快だ。」「見た感じとげとげしていそうだから不快だ。」「脚がたくさんあるから不快だ。」「脚がないから不快だ。」「鳴き声が気持ち悪いから不快だ。」「音も立てずに動くから不快だ。」「色が毒々しいから不快だ。」「色が薄くて白っぽいから不快だ。」「犬みたいに表情がないから不快だ。」「音を脚で聴くなんて気持ち悪いから不快だ。」「卵をたくさん産んで気持ち悪いから不快だ。」「虫は虫であるゆえに全て不快だ。」等々、ずいぶんな理由だ。 命がけで進化してきた結果を「不快だ」と判定され、実害も与えていないのに殺されるのでは割にあった話ではない。まずは、害虫と思っていた虫がただの「不快害虫」だったということに気づくことが、せめてもの罪滅ぼしというものだろう。さて、どんな虫が「不快害虫」だったか。名前を次々と挙げられないことにも問題がある。たいして意識もせずに、虫と見れば殺していたということだろう。しかも、反射的にだ。 ただ、「不快害虫」をとりわけ大事にしなさいというのではない。そのような理不尽な決めつけと殺戮がなされるには、きっと何か特別の理由があってのことだと思わざるを得ないのだが、それがどのような理由であるか、今のところ見当がつかない。もし、そのようなものがないにもかかわらず、殺戮を続けるとするならば、明らかに生命に対する冒涜だといえる。それは神に対する冒涜でもあろう。 しかし、だからといって僕が「不快感」を感じないわけではない。所謂不快害虫が口の中にいっぱい詰め込まれたら、きっと嘔吐するに違いない。これはエビのむき身を口いっぱいに詰め込まれたのとはわけが違う。ところが、エビだって不快害虫に似ていなくもない。すると、これは学習によるものに違いない。「害虫」と違って毒はないのだから、料理すれば食べられる。小学生の頃、蚊の目玉の団子の話を中国の昔話で読んだことがあるが、それはこういうことなのだろう。 僕の子どもたちは、幼い頃から家の中でネズミ、ヘビ、ヤモリ、ゴキブリ、カマドウマ、ゲジゲジ、ヒル、などが跳梁跋扈しているのを目の当たりにしているので、別に不快感を持っていなかったのだが、公園デビューをして友達ができはじめると、友達の反応と同調するようになってきたように思う。そうだとすれば、これらに対する接し方が友好的な文化のなかで成長すれば、別にどうということはなく、その文化を創り出した社会にいる以上は、大人になってからも不快感を感じなくてすむはずだ。 ところで、所謂「不快害虫」に対して不快感を示すことにはどのような利点や必要性があるのだろう。「堤中納言物語」を読み直してあぶり出してみよう。 7/18/2008 怪しい広辞苑166「第四版174ページ・命貰い」 広辞苑第四版174ページ「命貰い」の説明。 「殺されるはずの人の命を助けてもらうこと。命乞い。」とあるが、これでよいのだろうか。 一文目と二文目の意味は同じではないようにも受け取れるからだ。一文目は、二文目の結果という見方だ。命乞いをした結果、命貰いをしたという幸運な人の話をするときに使う言葉だと感じたので、このようなとらえ方をしてみたのだ。 命乞いをしても、無視されて殺される場合もあるが、命乞いをしたら運良く助かる場合もある。だから、「命貰い」という結果を得るための手段が「命乞い」だと考え、意味を厳しく分けていた。だから、「命貰い」の説明に、「命貰い」=「命乞い」と受け取れる説明があることに違和感を感じてしまったのだ。 このように「命貰い」と「命乞い」を使い分けるのは間違っているだろうか。広辞苑に示されているように、同じ意味で使われてきたのかもしれない。また、使い分けたり、使い分けなかったりという曖昧な使用をしてきた言葉なのかもしれない。 しかし、字面から理解しようとすると、どちらかといえば「命拾い」と意味が重なる部分のある言葉に見えてきてしまうのだ。また、「命乞い」の説明の方には「命貰い」という言葉が紹介されていないのも気になる。個人的な感覚としては「命貰い」の説明の「命乞い」の代わりに「命拾い」を入れた方がすっきりする。 どうしたものやら、よく分からない。それもこれも、この言葉自体が使われているのを聞いたことがないことに原因がある。だから、想像するしかないのだが、想像するばかりでは「『怪しい広辞苑』利用者」ではなく、「怪しい『広辞苑利用者』」になってしまう。語彙量が少ないというのは実に困ったものだ。 もっとも、その語彙量の少ないのを改善するために辞書があるのだから、疑うばかりではなく、信用もしなくてはならない。 何とも難しいところだ。 7/17/2008 突然思い出したこと113「おもちゃの記憶」 ブリキ製の拳銃。中折れ式になっていて、折ることによって二本の針金が引かれ、それに連動してピストンが引かれ、紐の付いた円筒形のコルクの弾も筒先に先込めされる仕組みになっている。中折れにした姿を元に戻すと、準備完了だ。あとはガンマンを気取って引き金を引くだけだ。コルクの弾がポンと音を立てて飛び出すが、おそらく15㎝ぐらいしか紐の長さがないので、空中で止まって落ち、筒先から紐でぶらぶらするというものだ。その銀色の筒は人差し指がちょうど入るほどの直径で、先は巻いて処理してあり、指を切らないようになっていた。 これは叔父からもらったものだ。黄色と赤と黒でガンマンが描かれたパッケージに二挺入っていて、外から中が見えるようにビニールの三角の窓がついていた。もらうとすぐに腹這いになって両手で拳銃を構え、ポンとコルクの弾を撃ったように思う。何で腹這いになって撃ったのだろう。そのようなシーンが西部劇にあって、それを真似たのだろうと思う。 組み立て式ロケット。いろいろな色のプラスチックの部品をパズルのように組み上げると十センチほどのロケットができあがる。これは父からもらったものだ。もらってすぐに部品が一つ無くなってしまった。中途半端な組み上がりが気に入らなかったのだろう、眺めるたびに残念な気持ちになって、そこかしこを探してみるのだが、見つからない。そのうちにどこかになくしてしまった。 ゲーム盤。直径十センチそこそこの白い円盤で穴がいくつも開いており、ダビデの星のような絵柄になっている。星の角の三角形のところにボーリングのピン状にピンを差し込むのだ。そのための穴がいくつも開いているのだが、この星の角の三角形のところが赤や青や黄色に塗ってある。相手も同じように別の星の角のところにピンを差し込む。これで準備完了。たぶん10本のピンを差し込むのだが、それを交互に一つずつ前進させる。相手のピンが自分のピンの直前にあれば、それを飛び越えて前進できる。このようにして相手の陣地に自分のピンを全部送り込んだ方が勝ちというゲームだったように思う。角が六個あるので、二人以上で遊べたのだろうが、詳しいルールはあまり覚えていない。ピンはゲーム盤の中に収納できるようになっていたように思う。これはクリスマスプレゼントだ。 プラスチックのブロック。これは母からもらったものだ。全部同じ形をしていて、今のレゴのようなものとは大違いだ。しかし、今考えると変にからくりめいた仕掛けを作って遊んでいたような気がする。よく覚えているのは、犬の形に作ってあるのだが、胴体が割れて秘密の部屋が出てきたり、背中の蓋が開いて、中から探査艇が飛び出したり、脚が器用に可動するのだ。 残念ながらブロックの数が足りず、頭の中で消えていったさまざまな動物やら新兵器やらが惜しく思われてならなかった。これもブロックがいつの間にか欠けたり、無くなったりして、いつの間にか失せてしまった。 あとは粘土とB4藁半紙。欲しい物はそれで作った。「おもちゃ」が「もてあそび」に「お」をつけたものなら、まさに粘土と紙は「おもちゃ」そのものだ。「おもちゃ」よりも「おもちゃ」らしい「おもちゃ」というわけだ。いわゆる「おもちゃ」は「おもちゃ」というよりも、「かざり」か「からくり」の類だろう。そうしたものにばかりに囲まれていては、 つまらない人間になるだろうからという理由だったらしいが、結果的に多少は家計を助けたことになったとは思う。誠に迷惑な話だが、それもまたよしとしよう。今でもほとんど無料で心を慰めたり、満足したりできるのは、そのおかげだと思うのだ。 ★ホームページに戻る 7/14/2008 日々雑感232「たくさんの忘れもの」 緑深き荒れ野山を大股で駆けることを忘れていた。うねる木の根に踵をつまずかせ、転びそうになることを忘れていた。額に豊かな風を感じ、小さな心をふくらませることを忘れていた。 あらゆる人を敬い、あらゆる知恵を学ぶことを忘れていた。自分を捨てて、ひたすら無になることを忘れていた。未来を描き、遮二無二邁進することを忘れていた。 目に見えぬものを目に見えるようにすることを忘れていた。許しがたきものを許すことを忘れていた。どうしようもない悲しみをあふれる喜びに変える呼吸を忘れていた。 静寂の湖に小石を投ずることを忘れていた。無理な体勢から剣を抜くことを忘れていた。論理の闇に分け入ることを忘れていた。 天空の一角を眺め、深く広く思索することを忘れていた。小刀で物の怪を木彫りすることを忘れていた。内緒で人生の宝物を隠すことを忘れていた。 7/13/2008 怪しい広辞苑165「第四版170ページ・否ぶ、否む」 広辞苑第四版170ページ「否ぶ」と「否む」の説明。 「否む」の説明に、「(イナブの転)」と括弧書きしてあるように、ただのBM変換だから、音韻上の問題であって意味には違いはないと思った。しかし、それは甘い考えであった。広辞苑第四版によれば、どうもそうではないらしい。 「さびしい」と「さみしい」も、もとは同じ意味だが、確かに、詩作などのように発音がもたらすニュアンスによって、「さびしい」と「さみしい」とが厳然と区別されるということはある。最初は、そうした語感の上の若干の差異が、時を経て意味の差異にまで発展するということは、十分に考えられることだ。特に、広く使われる言葉であればあるほど、場面によって使用不使用の別ができる可能性が高くなるはずだ。 ただし、そうしたことが「否ぶ」と「否む」の間に起こっているかどうかは、調べるいとまがまだないために、分かっていない。 では、広辞苑第四版を見てみよう。「否ぶ」の説明として、「承知しない。辞退する。ことわる。」とある。これに対して、「否む」の説明としては、「①承知しない。ことわる。②否定する。」とある。 発音が変わっただけで、意味合いが微妙に異なるということのようだ。先に述べたとおり、これはこれで了解できないものではない。 さて、「否ぶ」の「承知しない。辞退する。ことわる。」という説明部分と、「否む」の「承知しない。ことわる。」という説明部分は、そのまま比較してよいと考えられるが、すると「否む」の方には「辞退する」という意味合いが欠けることになる。これはどのように了解したらよいのだろう。「辞退する」というのは、「遠慮したり、何かをはばかったりして引き下がること」だと思う。 広辞苑第四版の「否む」の説明からは、そうした意味合いがないという編集者の判断が伝わってくる。逆に、「否ぶ」には、そうした意味合いがあるという判断を敢えて示したいという意志が伝わってくる。利用者としては、この意図的な説明の差異に注目しなければ、言葉の意味を調べたことにならない。 ところで、大辞林第三版では「否ぶ」と「否む」をどう解釈して説明しているのだろう。そこでは「否ぶ」も「否む」も、「嫌だと言う。断る。辞退する。」の三点セットだ。大辞林第三版では、広辞苑第四版が敢えて認めなかった「辞退する」という意味合いを、「否む」の意味合いとして認めているということになる。 これは問題だ。どちらが正しいのだろうか。それぞれの用例を示してもらうのがよい。大辞林が「否む」の「辞退する」という意味合いでの用例を示すことができなければ、広辞苑の方が正しいということになる。しかし、大辞林がそれぞれの用例を示すことができたとすれば、広辞苑は不適切な記述を行っているということになる。 どちらでも構わないが、そうそう二つの辞書で調べる学生はいないということを双方の編集者は知っていてほしい。 ★ホームページに戻る 心の断片136「小さな町」「小さな町」 もう八月の雲に 心がいたい 道に汗して働く者 怯え顔して歩く者 一つ一つの命が 真夏の溶鉱炉の中で 何か異様な判決を下されている 泣かれぬために泣き続け 死なぬためにと命をつなぐ 問われぬために問い続け 迷わぬためにと行き先変える 笑止 凡夫 己の命を哀れと思え 笑止 凡夫 己の命に命ささげよ 7/10/2008 怪しい広辞苑164「第四版167ページ・いとしも」 広辞苑第四版164ページ「いとしも」の「-なし」の用例。 「いとしも」の「-なし」だから、「いとしもなし」だ。その用例として、弁内侍日記「ある人いとしもなき先祖ひきたてて申す文に」とあるが、これでよいだろうか。 文字どおり、いとしもなきことなのだが、広辞苑の用例の示し方は、用いられた語をハイフンで表していたはずなのに、ここではハイフンで表さなかったことに疑問を感じる。これまでの用例の示し方で書けば、「ある人-・き先祖ひきたてて申す文に」となるはずのものだ。 どうでもよいことかもしれないが、こうした取るに足りぬところの不統一に仕事の甘さ、ひいては辞書に対する不信感を感じる利用者がいないとも限らない。そうした配慮の無さ、確認の甘さが、重要なところにも悪影響をもたらしているのではないかと疑うのだ。このような疑いを抱くということは、むやみに信じることよりも健全なことであると思う。 怪しい広辞苑163「第四版164ページ・遺伝暗号」 広辞苑第四版164ページ「遺伝暗号」の説明と「遺伝暗号の一覧表」との関係。 文章表現ばかりを見ていて、図表を見落としていた。164ページに戻る。「遺伝暗号」の説明と一覧表との相性が悪いように思う。残念ながら、「遺伝暗号」の一覧表自体にも訂正が必要な部分がある。 まず、一覧表の上から二行目、「U(塩基の第二文字)」とあるが、これは「塩基の第二文字」の記入場所が間違っている。もし、「U(塩基の第二文字)」とするならば、「C」「A」「G」のそれぞれに(塩基の第二文字)とつけなくてはならない。それは一覧表としてはくどい表現なので、「U」だけにつけたというかもしれないが、それではあまりに勝手が過ぎて不都合がある。 そうはいっても、一覧表の左右のサイドに記入された「塩基の第一文字」「塩基の第三文字」と同じように、それぞれの四種類の塩基の記号とは別の列に記入しなければならないはずだ。ただし、「塩基の第二文字」はこの一覧表の場合、「遺伝暗号」というタイトルと、四種類の塩基のイニシャルの行との間に一行挿入する形で入れるしかない。 次に、「遺伝暗号」の説明と一覧表との相性はどうか。一覧表では、4つの塩基がUCAGとなっている。この中には「T」がないので、「RNA」の話だと思う。しかし、「遺伝暗号」の説明の方には、「DNA」の語しかない。これはどうしたものだろうか。この説明と一覧表のままでは、「DNA」と「RNA」との混乱が必ず生じる。 分かりやすい説明、誤解を受けない説明、正しい説明。これをどうしても広辞苑に求めたい。なぜなら、僕はまだ未刊の広辞苑第七版を買う予定だからだ。 7/9/2008 怪しい広辞苑162「第四版166ページ・いとこ」 広辞苑第四版166ページ「いとこ」の用例。 「親愛な人。他人を親しんで呼ぶ語。」という説明の後に、用例として、万一六「-吾兄(なせ)の君」とあるが、これでよいのだろうか。 確かに「万葉集」巻一六には「伊刀古名兄乃君」という語句がある。万葉仮名を素直に読んで「いとこなせのきみ」とするか、それとも、「いとふるきなせのきみ」とするかという問題がある。それを広辞苑第四版では、「いとふるき」ではなく、「いとこ」としている。ここでは「いとこ」という読みを前提として見出し語にしているので、「なせのきみ」の方に注目してみる。 「名兄乃君」を広辞苑第四版では「なせのきみ」と素直に訓読している。しかし、それを「吾兄(なせ)の君」と表記している。これはどういうことだろうか。 「吾兄」というのは「あせ」と読んで、親しい男性を呼ぶときの言い方だ。因みに、広辞苑第四版47ページでは、「吾兄」の見出し語で、「男子を親しんで呼ぶ語」という説明がなされている。 一方、「なせ」というのは何かと言えば、広辞苑第四版1913ページの「汝兄」の見出し語では、「(「な」は我の意)女から男を親しんで呼ぶ称」という説明がなされている。 なぜ、「いとこ」の説明では、両者をはぎ合わせたような「吾兄(なせ)」という説明になっているのだろうか。 「汝兄」の説明に、「な」は我の意と書いてあることに目をつけ、執筆担当者の意図を汲むと、次のようになるのだろうか。 「汝」は「なんじ」とも読むように、二人称として使われているけれど、本当は「我」という意味だ。たまたま「汝兄」という熟語になったときには、「私の夫」とか「私のいい人」という意味合いになるから、二人称として扱われる。しかし、親しみを込めて言ううちに、「汝兄」の「兄」が省略された言い方が生まれてくる。「汝」つまり、「私の」「彼」の「彼」を敢えて言わない言い方だ。もしかすると、「私の」と言った次に、言葉ではなく一本指を立ててたかもしれない。そうしているうちに一人称としての「汝」が、二人称としての「汝」になっていった。 これは根拠のない想像だが、広辞苑のように説明されてしまうと、このように読んでとれるのだ。しかし、果たしてこんなことを「いとこ」の用例を利用して示したかったのだろうか。この内容が仮にその通りだったとしても、それは回りくどく、とても不自然なやり方だ。 さて、もともと「伊刀古名兄乃君」には「汝」という漢字はない。「なせ」と読める万葉仮名「名」と「兄」が使われているだけだ。 そもそも「伊刀古」と「名兄乃君」はつなげて書いてあるはずだから、もしかすると「伊刀古名」と「兄乃君」というまとまりで読むのかもしれない。つまり、「伊刀古名、兄乃君」だ。すると、「兄の君」は、女性からいって「男」、つまり「あなた」であるから、「名」は「の」というほどの軽い意味になって、前半部分が連体修飾語となり、「伊刀古名兄乃君」は「親愛なるあなた」とか「いとしいあなた」とかいう意味合いになりはしないか。 あるいは、「伊刀古、名兄乃君」でも「伊刀古名、兄乃君」でもなく、「伊刀古」「名」「兄乃君」かもしれない。一人称としての「名」ではなく、「汝」という二人称にしてみるとどうだろう。「いとしいあなた、兄の君」とか、「あなた、いとしい兄の君」とか、ただの「兄の君」ではなく、よりいっそう親しみを込め、強調した表現となるように思う。 このようにいろいろと原文をいじって勝手な解釈をするのは、想像をかき立てられて面白いが、本当のところはどうなのだろう。 ともかく、広辞苑第四版のように万葉仮名で「名兄」と読ませる語を「吾兄」と書き改め、元来は「名兄」と読むのですよということを説明するために、「吾兄」に続けて「(なせ)」と読みを平仮名で付け加えるやり方は、「吾」という一人称が実は「あ」ではなく、元来は「な」と読むということを敢えて主張しているようにも受け取れる。それは、正しいのかもしれないけれど、それを何食わぬ顔で「いとこ」の用例の一部に示しているというのは、素人が利用する辞書だけに、まずいのではないか。中級者には「吾兄」は「あせ」と読むのではなかろうかと混乱をもたらし、初級者には、「吾」は「な」と読み、「兄」は「あに」の他に「せ」という読み方もあるのだなと思わせてしまうことになる。「兄」を「せ」と読むという発見はよいとして、「吾」を「な」と読むことは今はないので、これは間違いのもとになる。 しかも、広辞苑第四版で「あせ」を調べると「吾兄」となっている。そして、「なせ」を調べると、「汝兄」となっている。これでは、より深く調べようとした者には混乱をもたらすだけだ。 確かに、一人称の「吾」と二人称の「汝」は、「てめえ(手前)」や「自分」の例のように、自分のことなのに相手のことを指す使い方にもなるから、「な」が「あ」の意味であることもあったかもしれない。 しかし、だからといって広辞苑のような「吾兄(なせ)」のような示し方をしていいとは思われない。広辞苑第六版ではいったいどうなっているのだろうか。広辞苑の健闘を祈る。 ★ホームページへ戻る 7/6/2008 心の断片135「やさしい景色」「やさしい景色」 欠けなば満たさん 無情の取引 並々ならぬ 狂気に近い渇望だ 自分は自分のためにあり ひとも自分のためにあり 全てが自分で 全ては自分だ 狂気の果てには 姿をなくし 仮初めの枠に 言葉と時を満たしてゆく 遠く頭上でうなる太陽 てのひらの泥人形 そうだ この景色には優しさもかけている 日々雑感231「心意気」 節電でクーラーをまだ使ってない。摂氏29度にすべしというから、もう30度を超えているときにはスイッチを入れてもよいのだが、ここでスイッチを入れたら非国民になってしまうような気がして、つい躊躇してしまう。そのうち暑さにも慣れてしまうだろう。心頭滅却。 室外機は外の空気を暖めるようにできているが、代わりにシャワートイレ用の温水をつくればよい。飲料水用に温めておけば、沸騰も早い。簡単な保温器にも使えそうだ。洗濯物を熱風で乾かしたり、布団を乾燥させるという手もある。 クーラーが苦手な人のために室外機の熱風の一部を布団乾燥機を小型にして肩当てや膝掛けとして仕立てたものを提供できるかもしれない。冷蔵庫も、冷えすぎてはいけない物を入れるエリアをニクロム線やら発熱板で温めているのではないだろうかと思うのだ。 人間尺度説に基づく配慮は、配慮される側が心頭滅却することで無意味となる。今も昔も、自分に対する配慮についてはより必要であると感じながらも、他人には配慮したくないか、最初から気が回らない。これが一般的な人間のありようで、一部の覚醒した者たち、つまり「大人」は例外的な存在だ。 全ての人間が、「心頭滅却すれば火もまた涼し」という心意気を持っていれば、「大人」は余計な配慮をする必要がなくなるはずだが、誰もが心頭滅却などという修行的な打ち込み方を日常生活においてしているわけではない。 これは仕事の忙しさについても言える。明らかに仕事量が多いのに忙しさを感じていない人もいれば、あまり仕事量は多くないのにいつも忙しいと感じている人もいる。仕事量を平等にすれば、忙しさが不平等になり、忙しさを平等にすれば仕事量が不平等になる。給料で調整するのも難しい。心頭滅却して忙しさを感じないようにしてもらえばよいのだが、忙しさをいつも感じている人は心頭を滅却することができない事情があったり、そうした性格であったりするので、期待はできない。 心頭を滅却できる心意気のある人もいる一方で、大勢の人の中には、仕事であるのにそうした種類の心意気が不足している人もいる。心意気のない人が日々生みだしている目に見えるマイナスの仕事と目に見えないマイナスの仕事を、心意気のある人がいとも簡単に背負い、幸せそうにこなしていく。おそらく心意気というものは幸せのもとなのだろう。 7/5/2008 突然思い出したこと112「調和」 調和すること。宮本武蔵の「五輪の書」を読んで覚えていることはこれだけだ。高校生のときに呼んだのだから年月が経っていることもある。 相手と調和することで、相手を自分のものにするという勝負の極意だ。敵対するのではなく、自分のものにすれば相手の命も自由自在に操れるという理屈だろう。実に意味深長だ。 調和することと同調することとは似て非なるものだと思う。同調すれば感情に流され、解決の道は閉ざされる。同調して得られるのは安心か破滅かのどちらかだろう。 これは思いやりにも通じる。本当の思いやりとは同調することではなく、調和することにあるのだと思う。同調は感情に流され、問題を解決する道が見えなくなるおそれがあるが、調和はコントロール可能な状態だ。理性を失わないものが主導権を握り、好ましい道を選択して導くことができる。 話が勝負だから、相手が生きて自分が死ぬか、自分が生きて相手が死ぬかという問題になるだけで、仕事も恋愛も同じことが言えるように思う。もちろん、双方死ぬ場合もあれば、双方生きる場合もある。どの結論を得ることになるにしろ、敵対したり、同調したりしている間は、お互いの不幸につながる。お互いの幸せを追求するための調和がどうしても必要だ。 ただし、立て籠もり犯人と人質の間にみられる同調は、閉ざされた空間においては安心感を得るための必然かもしれない。破滅を迎えるまで同調していれば、仮初めではあっても人間関係を構築でき、当面のストレスは抑えられるだろう。また、学校という閉ざされた空間においても、同調しているだけの仲間を友達のように錯覚することによって、やはり仮初めではあっても人間関係を構築でき、当面のストレスを抑えることに役立っているように思う。そういう意味で言えば、同調はかなり有効な方法だろう。 同調は盲目的になるという点で愛に似ている。調和は自分や相手やその周囲のことを考えるという点でやはり愛に似ている。 |
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