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30-07-2009

変な疑問104「自然体」

 何かの力が働いているところでは、ある姿勢を保ったりある姿勢に変化させたりすることで自然な動きが保障される。その姿勢を保ったり、その姿勢に変化させたりするためには、もちろん、それなりの努力が必要だ。の面倒な努力を払った結果、どうにか得られた姿勢を「自然体」と呼ぶようにした方がよいと思う。
 しかし、実際には「何も努力しないこと」を「自然体」だとうそぶく人々もいる。いつでもどこでもさまざまな力がはたらいているのが常だから、どういう姿勢をとっていることが適切であるかを常に正しく判断して動くという努力が必要なのにもかかわらずだ。
 この「何も努力しないこと」と「余分なことは何も努力しないこと」とでは大きな違いがある。だから、「自然体」といったとき、自然体のレベルがどちらのレベルなのかを確認しなければならない。
 これとは別に、一見して何もしていないというような努力の仕方についても、広い意味での「自然体」として認めてもよいかもしれない。これを己の美学だとしている人々も確かにいるが、あまり手の込んだ「自然体」は疲れるだけだ。また、あまりに手が込んでいると、自然体という言葉自体が不似合いなこととなってしまう。
 しかし、「強きは弱く軽く重かれ」という教歌の下の句がある。これはバランスを説いたものだ。自然体の命はバランスだ。「軽いものは重いものを扱うように、重いものは軽く扱うように」ということだが、この気構えによって失を減らすことができるというアドバイスだ。これが高じると気疲れのする「自然体」になってしまう。これでは元も子もない。
 さて、このような「身体の自然体」、そして「生活態度としての自然体」や「仕事の姿勢としての自然体」など、「自然体」という言葉は幅広い分野で使える言葉だ。基本的には物理的身体的な問題だが、結局は身のこなし方から、生きる姿勢に至るまでの問題となっていくので、あまりいい加減に考えるわけにはいかない。
 また、こうしたいろいろな意味での「自然体」という言葉を使うにも、事情によってはさらにいろいろな場合に分けられそうだ。例えば、意図的に「ニュートラルな自然体」にしている場合もあれば、状況が読めないために「ニュートラルな自然体」になるしかない場合もある。また、状況が読めているため、その場にはたらいているいろいろな力と自分の目的に応じた合理的な姿勢、つまり「変化する状況に応じた自然体」になり、無駄と危険が生じないように推進力をコントロールしつつ、無理なく自由自在な存在になっている場合もある。
  こうした自然体はどのように身についていくものなのだろうか。また、自然体になれないのは何が邪魔をしているせいなのだろうか。

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26-07-2009

恐怖シリーズ142「多義語」

 多くの人の間で頻繁に使われるようになって一般的な言葉だということにされた言葉は、決まり文句でない以上、いろいろな意味で使われる多義語に成長していくことがある。長い歴史を背負っているために託される意味が一つ一つ増えてしまうのだ。
 託しきれなくなったときには造語がなされるが、そうするまでもない場合、うまく造語できない場合、なし崩し的にみんなが使うようになってしまった場合などには、どうしてもこのようなことになってしまう。
 これは表現する側にとっては便利なことだ。しかし、理解する側にとってはいささか不便なことになる。前後の文から判断して、その言葉の意味を正しく特定しなければならないからだ。こうした多義語の問題は、言葉というものが曖昧なものだと評価される原因の一つとなっている。
 この不具合も、会話の中で使用されているうちはその場でお互いに意味を確認することができるので、最終的には意味は特定され、正しく伝わるようになる。しかし、単にイメージとして頭に浮かんだというレベルの言葉が一回だけ使用されて話し合いが打ち切られてしまったとき、その言葉が人の心をうったり、意識に深くはたらきかけたりすると、さまざまな過ちを犯す可能性が出てくる。意味の確認がなされないからだ。そればかりか悪意によって曲解されるという不始末を引き起こす場合もある。
 唯一、「経験による学習」や「テキスト等による学習」がそれを防ぐ力としてはたらくが、若いがゆえに言語経験が不足していればしているほど、また読書量が不足していればいるほど、過ちを犯す可能性が高くなる。
 たとえ言語経験が豊富でも本人が気づかぬうちに周囲の者がよりよく修正してくれていたおかげでうまくいっていた場合もあるだろうから、言語経験が豊富だからといって大丈夫だとは限らない。
 また、長期にわたって相手からの遠慮を受けていた場合にも、経験年数だけが長いだけで、言語実践が貧弱な若者と変わらないという場合もあるだろう。
 こうした見かけの言語経験しか積んでいないのにもかかわらず、自信やらプライドやらだけは十分にあるという場合には、周囲が非常に困ることになる。
 このことはいつでも自分が犯している過ちだと思い続けることが大事だ。残念ながら鏡を使って分かることではない。書いたものを時をおいて読み直すということしかできない。しかし、やはり全てには気づくということはない。これは非常に恐ろしいことだ。
 だから、どうしても他人から指摘を受けることが必要となる。諸事情でそれがかなわねば、少し前の自分が他人だと思われるほどに早く自分が成長することだ。

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幻想10「顔面」

 凶悪な顔つきが凶悪な心の表出であったとすれば良心的だ。狼の皮をかぶった羊や羊の皮をかぶった狼ではないのだから、良心的だと思うのだ。一見して分かるから避けることができる。毒薬の瓶に毒薬というラベルが貼ってあるということなのだから、そのように取り扱えば問題はない。
 凶悪な人間に限らず、さまざまな人格が正直に表情となって顔つきとして固定すればよい。四十になったら自分の顔に責任をもてというのは、本当の顔面についても言えることだ。責任を持って内面をさらしてほしい。話さなければ分からないとか、一緒に仕事をしたり暮らしたりしなければ分からないというのは、本来は非常に不経済なことだ。
 この不経済なところを、避けられないこととしてとらえ、敢えて生き方の中に含めてあるから、自然なこととしてとらえていることができ、気持ちの上では楽な状態になっているというのが現状だろう。
 こうした本来の不都合は、普通の哺乳類のように顔面に毛が生えていないことによって多少は緩和されている。顔色が変わるのを観察できるということだ。天然色(?)で世の中を見ることができる数少ない種族なのだから、これを観察しない手はない。
 本当の色だけではなく、顔面に毛の生えている動物では分かりにくい微妙な表情の変化としての顔色も毛がないことによって詳しく観察することができる。これは随分と有利なことだ。
 今後は優秀な接着型のカツラの技術をそのまま取り入れた顔面獣化が図られるかもしれない。これは美男美女というレッテルやその逆のレッテルを貼ることが人を不幸にしているという理由でだ。美女の生まれたら何倍も人生を楽しく送ることができるという。この不公平をなくし、平等にしていこうという政治団体が政権を取ればこういうことになるかもしれない。
 凶悪な顔も微妙な表情も隠れてしまうから、純粋に行動で判断するしかない。髭を生やして男らしく見せるということができないから、純粋に行動で判断するしかない。特に現代の若い世代は見た目を重要な要素としているので、こうした世界になったら随分と苦労をするに違いない。化粧ができないのだ。
 しかし、整形手術などいうことをしなくても、顔面の獣毛のつけ方によって簡単に並の顔つきになるのだからけっこうなことだ。また、ワンタッチで装着できるようにしておけば、これまで化粧にかけていた膨大な時間を割愛することができるので、その分だけ人生を時間的に充実させることができる。
 ただ、獣毛のつけ方に格好をつける人々も出てくるだろうから、学校のきまりのようにこういう獣毛のつけ方は駄目ですとか、染めてはいけませんというようなおふれが出されるかもしれない。
 生顔というような言葉が生まれたり、思春期前に顔面獣毛式を行って大人の仲間入りをするという儀式が成人式のように行われたりするかもしれない。思春期にありがちな顔に対する劣等感が消滅するのだから、その点ではすばらしいことだ。
 しかし、いじめとして生顔を暴露するという事件が発生するだろう。そうこうしているうちに顔面植毛術が発達して流行するかもしれない。しみ、そばかす、しわなど全部隠れるのだからこれは朗報だろう。

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23-07-2009

変な疑問103「膝蓋骨」

<どんな本だろう。 画像クリックで説明画面へ>
 膝蓋骨はどうして脚にだけあるのだろう。肘には基本的に肘蓋骨というものはなさそうだ。触ってみても、ぐりぐり動く肘小僧はない。本来後肢と前肢とでは機能が違うということなのだろう。働きが違えば、関節に加わる力も違い、この骨の有る無しの説明もつきそうだ。
 しかし、いろいろな動物の脚をみて膝蓋骨のあるなしを確認しなければ本当のことは分からない。おそらく膝蓋骨は大きな力が加わるところに発生した骨で、脚にかかる力を合理的に分散させるためのものであるように思う。
 仮にそうだとすれば、四つ足の動物の場合の前肢の肘には肘蓋骨は無いということになる。脚の作りを見れば分かるように、後肢のつくりは頑丈で大きい。しかし、前肢のつくりは後肢に比べて細い。このことから単純に、後肢にかかる力の方が大きいと判断できる。
 体重を支えている間は同じ力が加わっていても、移動しようと思うときには後肢にまず負担がかかる。加速する場合も後肢の動きが先行し、前肢がそれを補う形となる。
 ところが、樹上生活をしている猿などはどうだろう。前肢が長くて強力な猿の生活は、後肢に大きな力がかからない生活だ。では、猿の後肢に膝蓋骨は無いのだろうか。しかし、これはおそらく有るだろうと直観する。
 二足歩行をする人間はどうか。後肢だけで歩行するのだから、当然のことながら他の四つ足動物と比べて大きな力が膝にかかる。つくりも前肢より後肢の方が数段頑丈で大きいという実にアンバランスな姿となっている。当然、膝蓋骨は有る。
 もし、全ての哺乳類や両棲類、爬虫類の後肢を観察して、膝蓋骨のない種類があれば、その生活ぶりと膝蓋骨が無いことの関係を調べればよい。また、前肢に膝蓋骨ならぬ肘蓋骨が有る例をさがして、その生活ぶりとの関係を調べればよい。
 前肢後肢ともよく似たつくりであるのに、この膝蓋骨の有無は何を意味するのだろう。関節にかかる負荷だけに注目してみたが、体重の重い象などはどうなっているのだろう。もしかすると肘蓋骨が有るかもしれない。このように想像すると面白い。
 でも、どうやって調べればよいのだろう。骨格博物館などというものがあればよいのに。進化の過程で膝蓋骨がどういう理由でいつどんな生き物に発生したかとかいうことが説明されているような博物館だ。ただ、膝蓋骨は小さい骨なので、化石としては発見されにくいかもしれない。やはり、現役の動物の肉をとって、骨格標本をつくってほしいものだ。
 そんな博物館は殺風景だ。どんな動物もおそらく骨は白っぽいからだ。背景に赤や青や黒ペンキを塗って見やすくするなどして、そちらの方でカラフルにしなくては見ていて飽きてしまうだろう。
 ばらした骨が少しずつ組まれていくようなディスプレイを考えたり、直立不動の姿勢ではなく、獲物を狙っているときの骨の組み合わさり方や歩いているときの骨の組み合わさり方が分かるように、いくつもの姿勢を示すのがよいだろう。
 人間なら肩甲骨のあたりや肩の関節が腕の上げ下げによってどのように様子が変化していくか、つまり、骨と骨の組み合わさり方が変わっていくかというところがとても興味深く思われる。
 理科室の骨格標本をもっとしっかり見ておけばよかった。ただ、針金で手足の骨がぶら下がっていたのは覚えている。新しい骨格標本は、筋肉を半透明にして骨に接着し、四肢を動かすと筋肉が伸びたり縮んだりするとともに、半透明の筋肉を通して本物のように関節部分が変化していくところが観察できるようなものであってほしい。

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22-07-2009

突然思い出したこと128「ことわざの比較」

 <どこまで文化について述べられているのだろうか。暇になったら買って読んでみようと思う。 画像クリックで説明画面へ>
 「Two heads are better than one.」は「三人よれば文殊の知恵」に相当する諺で、日本語訳はこの諺によってなされている。
 しかし、このニュアンスの差異は無視できないものだ。この差異は文化の違いによるものだと思う。この諺をはじめとして多くの諺を比較すれば、これまで注目されてこなかった文化や気づかなかった文化の違いなどがあぶり出されてくるかもしれない。
 学生の頃、こんなことを考えていたことを突然思い出した。多くの諺を比べる時間など今のところないので、この二つの諺を比べることにしよう。これだけでも、いろいろなことが言えそうだ。
 まずは成り立ちの経緯や使用に至る歴史的地理的背景を無視して、目に見える言葉から単純に比べてみるのが手頃でよいだろう。「two」と「三人」、「better than one」と「文殊の知恵」という二組の言葉の対応からは何を導き出すことができるだろう。
 「two」と「三人」は数の違いだが、二人の場合と三人の場合とでは、何がどう違うのだろうか。
  二人であっても三人であっても、話し合いの結果は意見が一致するか、一致しないかのどちらかにしかならない。しかし、意見が一致したからといって、それが 正しいとは限らない。また、意見が一致しなかったとしても、どちらかが正しく、どちらかが間違っているとも限らない。異なる意見になって収拾がつかなく なったときでも、どらちも正しいという場合もあれば、どちらも正しくないという場合もあるからだ。
 ただ、その結論に至るまでの過程が三人の場合と比べて単純なものになるという点が異なる。
 「better than one」と表現されるだけあって、英語の諺の方は一人で考えるよりはましだという程度の意味合いだ。しかも、過程がどうあれ、二人しかいないのだから、二人が対決するか意気投合するかという、単純な結末となりがちだ。
 これでは、考えの深まりや新しいアイデアの発見も、比較的期待できそうにない。また、そこには二人の人間関係とタイミング次第では、よいものも潰してしまう危険性も大きくはらんでいるように思うのだ。
 これに対して三人の場合は、三者が異なる意見を出す可能性が案外とある。ジャンケンでいうと「あいこ」の状態だ。十人十色というぐらいだから、三者三様など日常茶飯事だ。
  ジャンケンと異なり、同時にアイデアや意見を出すのではなく、二人の間で交わされたやりとりに対して無言でいる事が自分の無能を証明する事であるかのよう に感じる「プライド」を土台とした人情が働いた結果、あるいは、やりとりの仲間にただ入りたいと感じる「ふれあいたい」という欲求が人情として働いた結 果、そのやりとりに自分の言葉を挟みこんでいって話の幅を広げたり、そのやりとりを根底から覆して考え直させたり、いいとこ取りをして独自の考えを編み出したりするなど、後で参加してくる一人がいるという状況が二人で話し合うときとは大きく異なる。
 三人がその役割を無意識のうちにも交代しながら話し合いを進め、このような後出しジャンケンの如き話の展開を続けるには、優れたコミュニケーション能力が要求されることになる。三者が織りなすこのコミュニケーションのあり方は、 話し合い自体をヒートアップさせてくれるとともに、生み出された新しいアイデアや意見を冷静に見つめ直して評価しようとする機会をも増やしてくれる。それは、話し合いの時間が長ければ長いほど、メンバーがそれぞれに第三者の役割となる機会が増え、時に応じ場に応じて客観的な判定や助言をしようとするからだ。
 また、自分のアイデアや意見に対する他の二者の反応を比較する事によって、自分と他の二人とのそれぞれの距離を測ることが容易となるので、当面どちらを味方につけるか、そして最終的にどちらを味方につけるかなどの微妙な判断をお互いにくだしやすくなる。
 また、三人では、とりあえずは二対一の構図を作り、有利に話を進めようとする駆け引きを、一人一人が試みる場面も多く見られるようになるだろう。そうした駆け引きのなかで効果的に自己主張するタイミングを失うことによって数の上で不利となった者は、自分のアイデアや意見の独自性と合理性を説明しようと躍起になるとともに、他の二者が述べる内容のなかに矛盾点を探し始めることになる。
 こうした動きが出てくれば、また新しいアイデアがその駆け引きの過程で副産物のように生まれる可能性が出てくるだろう。また、それについての意見も活発になされることだろう。
 また、三人の場合には、二者が対決する形となったときに、残りの者がいろいろな働きをして、場を取り持つ可能性がある。話し合いが壁に突きあたったときに安易な多数決に流れるという危険性をもちながらも、二人の場合のように単純に決裂したり、不用意に迎合したりしてしまう危険性についてはある程度回避できる。場合によっては、その働きによって新しいアイデアが生まれやすくなる状況を作り出すこともあるだろう。
 残りの者がレフリー役となったり、冷静な観察者となったり、アシスト役になったりするのだが、その残りの者がいつも同じではなく、話し合いのなかで移り変わっていくような話し合いができるレベルのグループであれば、話し合いがより深まっていくことが期待できるからだ。
 ただ、メンバーの人間関係や目的意識の差、話し合い時間の制限などによっては三者三様のままとなり、まとまるものもまとまらない状態で話が潰えるおそれもある。
 これが何でもない友達同士の日常生活の話し合いならば、別段どうということはない。しかし、国を代表する人物が相談をするという場合などには、話が潰えてしまってはならない。外交上有利な立場をつくるにあたっては、話し合いの人数とそれぞれの関係を重要な要素として考え、大胆かつ綿密な作戦を練り上げなくてはならないはずだ。
 では、二人で話し合う場合の利点は何だろう。
 二人で行うジャンケンと一緒で、「Aが勝ち、Bが負ける」「Aが負け、Bが勝つ」「AもBも勝たない、つまりAもBも負けない」という三通りの内の一つになるという見方もできる。このことは話し合いのテンポのよさを保障するゆえに、結論を出すまでの時間を短縮させることにつながる。
 もちろん、話し合うなかで新しいアイデアも出てこようが、単に二人とも同意見となった時点で話が終わる可能性が高い。また、片方の者に引きずられる形で話が終わる可能性も高い。だから、結局は「勝ち、負け、あいこ」という見方をしてもよいのではないかと思うのだ。
 偶然の要素が極めて強いジャンケンの結果と異なり、話し合いの結果は論理的な正しさもさることながら、二人の間にある力関係と議論の力量差に依存しやすい。したがって、この意味で弱い者はどうしても力以上にがんばらねばならなくなる。自分の意見が通らないのは、偶然ではなくて自分の責任だからだ。
  しかも、二人しかいないので、レフリー役やアシスト役はいない。だから、自己責任で相手を説き伏せる適切な手段を考えなくてはならない。今後の人間関係が悪化しないためにも、相手に対する配慮、特に手加減というものも自己責任で為されなくてはならない。自分の中にレフリーを作らねばならないということだ。
 つまり、レフリーに甘えて自分の我を通そうとしたり、第三者のアシストを期待して強く出るかもしれない三人グループの構成員よりも大人である必要があるということだ。
 これはどれほど仲のよい二人にもある基本的な問題だ。たとえ論戦ではなく、普通の相談であっても同じだ。人間関係というものは、二人が接触した効果をどう緩衝し、どうカムフラージュするかということがうまくパターン化されているうちは、仲がよいということになる。しかし、そのパターンが崩れそうになったときに支える役割をする第三者が「two」のなかにはいない。これは一つの試練だと言ってよい。この試練を通して二人は仲がよりよくなったり、大人になっていくことができる。
 その反面、その試練のなかで培われた自律心を支えるような高度な精神作用は、もしかすると思いきったものの見方で練られた新しいアイデアを噴出させるには、足かせとしてはたらくおそれがある。二人の場合は相手が一人であるために、話し合いをするうえで配慮すべきことが多く、その分だけ責任が大きい。このために、新しいアイデアを生み出すのに必要だった奔放であるべき精神作用が自制心によって沈静化する可能性があるからだ。
 仮に、相手が百億人であれば、相手に何も配慮せずに発想したり、発言したりできる。二人の間に生まれる常に「名指し発言状態」は多くの配慮をせざるを得ないために緊張感も高くなるが、相手が無数にいれば個々への配慮は逆に免除されてしまう。無数の相手に対する一人一人へ配慮は最初から不可能だからだ。
 もちろん、これは個々への配慮が免除される傾向が生まれるだけだ。実際には、諸国をはじめとする各種団体や男性女性という大きなグループへの配慮が不可欠なものになってくることは免れない。ただ、これらの配慮というものは一般的なものであるから、どのように配慮すべきかが最初から分かっている場合がほとんどなので問題にはなりにくいだろう。
 しかし、ネット社会特有の匿名性によって、無数の相手に対しても最小限のマナー程度の配慮ですむコミュニケーションが実現し、それを継続的に体験している人々が増えているのも事実だ。その安心感や緊張感の無さから、優れた発想を自己規制することなく記録できたり、自由な表現が保障されたりしているとも言える。
 しかし、この場合は一方的な発言になる場合が多く、自分の世界を表現するだけですむという安心感をもってしまいがちな危うい行為だと言うこともできる。折角の新しいアイデアも話し合いのなかで練られるという機会が少なく、「すばらしい」とか「くだらない」とかに代表されるような単純な評価をくだすだけで終わる傾向が強くなる。
 その結果、独りよがりなものになってしまう危険性が極めて高くなる。これを回避する配慮は充分すぎるほどしなければならない。
 これらのことから、コミュニケーション活動のなかでネットでの発言というものが、最も大きな自己責任を負うものになってしまう。これを強く自覚しすぎると、リードオンリーになってしまい、偏ってしまう。それも寂しいものだ。  
 さて、二人の場合、新しいアイデアを実現すべく意気投合すれば、一人だけであるときよりもすばらしい行動力でことを為していくだろう。二人の間においては確固たる行動の根拠を確認し合ったということによる自信を得たからだ。相手が一人であるがゆえの自信だ。
 相手が二人以上いれば、時間の経過とともに相手の二人の間にも新しいアイデアに対する考え方に揺らぎが起こり、温度差が生まれるので、常にその調整を図らねばならない。三人以上であれば、なおのことだ。調整の度にアイデアはより確かなものになっていくから、これがそのグループの自信となる。
 しかし、二人であればその類の努力を必要としない。二人の場合は、一度方向が決まれば新しいアイデアを二人で実行することになるので、揺らぎは生じにくい。それによって実現するフットワークの軽さがそのグループの自信となる。
 また、相手が一人である場合は、新しいアイデアに対する考え方の揺らぎは、一対一の人間関係であるため、心変わりと同義語になって しまい、それは今後の人間関係を維持することにおいて、お互いの不利益に直結する。だから、心変わりというものは非常に起こりにくいことになる。これは、我慢という精神作用によってもたらされる安定だと考えてよいだろう。
 もっとも、三人の場合は、自分が我慢しなくても、自分の思いや考えをもう一人が代弁してくれることも期待できる分だけお気楽だ。
 さらに、提示したアイデアに すぐさま第三者が口を挟むことはないので、その分安心できる。
 ただし、一人で何人分ものいろいろな意見を出し続ける相手に対しては、どう対応してよいか分からなくなり、最後には業を煮やして付き合いづらいやつだというレッテルをはる人が出てくることになる。二人で話し合うときに期待される簡潔さが失われてしまい、相手のいろいろなアイデアを理解しようとするだけでうんざりしてしまうのだ。どれだけアイデアが豊富であっても我慢がならなくなる。
 これはどうしようもない損失だが、人情とはそういうものなので仕方がない。結局は、その人情をはかれなかったところに問題があるということになる。
 この人情というものは、そのように行動面のブレーキのはたらきをしているものである可能性があるので、合理的なものではないといってむやみに切り捨ててはならない。
 三人の場合、新しいアイデアを共通理解事項として確認し合う事において、あるいはそのアイデアに基づいて行動を起こす事において一人が揺らいだとしたらどうか。
 これは、揺らいだ者が一人である場合、一対二で少数派となる。敢えて少数派となる不利益を覚悟でもの申すわけだから、残り二人は それなりの覚悟をして聞かねばならない。
 三人以上のグループ内におけるこうしたバランス感覚は、「ためらわずに断行するための調整」と「足踏みして見つめ直す機会の迷い」という作業を通して、新しいアイデアをより現実的で効率のよいものとしていくはずだ。このような自己修正力が期待できることは大きな利点だ。
 新しいアイデアを共通理解事項としてグループ内での承認を得るという段階ではどのような問題があるだろう。
 二人の場合にはどのような問題があるだろう。
 じっくり二人で話し合ってアイデアを創出しなくてはならないのだが、二人であると、どうしてもジャンケンのような勝ち負けでことが判断されていく傾向が生まれやすい。場合によっては、後出しジャンケンならぬ、先出しジャンケンが有利となる可能性も高い。すると、アイデアの創出というよりも、アイデアの選択というレベルにとどまってしまう可能性も高くなってくる。これは困ったことだ。話し合いの目的から外れるからだ。
 グループの人数によらず、人間関係が比較的対等で似た者同士の寄り集まりである場合には、誰か一人が決まりかけた話をひっくり返す働きをする可能性が残っている。その時には、振り出しに戻って目的を確認するところから話し合うことにより、こうした「貧しいアイデアの選択」を回避できるかもしれない。
 しかし、三人の場合には、過半数の多数決が成立するので、話し合う時間がうまく確保できない場合には、最終的に「数の論理」という「合理性に欠けるかもしれないアイデアの選択」が安易になされるかもしれない。
 また、グループの人数にかかわらず、人間関係の上下が固定してしまっている場合は、その安定した人間関係が災いして話し合いの深まり足らぬまま、結論を急いだ形になってしまうという不都合が起こりやすいように思う。
 ところで、二人の仲がよいということは、負けた方が何らかの理由で「負け」を合理化しやすい条件を、二人の人間関係の周辺にたくさん持っているということなのかもしれない。
 三人の場合は、三人のうちの一人が二人に効果的に働きかけるということが期待できるので、コンビであることによる、強いけれども壊れやすい微妙な関係とは異なり、トリオであることによる、微妙な安定感がある。
 このように、コンビの仲の良さと、トリオの仲の良さは質的に少し違うように思う。三人以上は「みんな」という意識でくくられるが、二人の場合には「みんな」という意識でくくることはできないというところにヒントがある。
 このように人数による傾向はあるものの、結局のところ仲のよさには、大きく分けて次の二種類があるように思う。「人間関係が固定しているがゆえの秩序だった平和」を維持している者たちの仲のよさと「人間関係が固定していないことによる対等の平和」を維持している者たちの仲のよさだ。
 さて、どのような種類の仲のよさであっても、仲のよさがあれば、話し合いにおける勝負の側面が透明化する。また、仲がよいということは、それなりにともに過ごしてきた時間が長いということだ。
 つまり、予め理解し合えている部分が多く、そうした外堀が既に埋められている状態では、敢えて人間関係の距離を縮める作業をする必要がないため、結論を出すまでにかかる時間を短縮することができるということだ。
 この同一集団が長年の経験を重ね、コミュニケーションが極限まで進化すると、以心伝心という離れ業をコミュニケーションのオプションに加えるまでのレベルに到達するのだろう。
 ところが、問題を解決するにあたっては、その問題の性質によって、二人で判断することの有利さが左右されることも起こってくるだろう。
 例えば、即断を求められる問題であれば、二人で素早く判断して行動に移すことが問題のよりよい解決につながる可能性がある。
 しかし、複雑な問題であれば、多面的多角的なものの見方や考え方が要求されるので、二人の話し合いでは荷が重い場合も出てくる。そうすると、三人以上で多くの情報を提示しながら判断したり、新しいアイデアの是非をより多くの頭脳で確認することの方が有効になってくる。
 もちろん、これらは、メンバーその問題についてどのような才能の持ち主であるか、そして、どのような情報をもっているかということに大きく依存する。
 あくまでも「better than one」ということだ。一人であるがゆえの「思いこみによる断念や暴走」は滑稽であったり恐怖であったりする。しかし、独裁者はどうしてもこの一本道を歩 いていくしかない。
 イエスマンばかりを集めて鉄の結束と称しても、金を払い時間を費やしてまで集まるファンの群に向かって一心同体だと叫んでみせる芸能人と同じだ。つまずくまで走り続け、己を変えることができない。お膳立てされた相手というのは恐ろしいものだ。
 ただ、いくら力関係に偏りがあっても、二人であれば、時間をかければかけるほど、話し合う間に知らず知らず相手に対する遠慮が働き、お互いに多少なりとも話し合いにおけるバランス感覚が生じてくるという淡い期待はもてる。
 また、相手に対して必要以上の対抗意識をもって必要以上に自分の意見を高く評価し、声高に相手に自分のアイデアをほぼ押しつけた形になってしまった場合でも、たとえ力関係に偏りがあっても「仲がよい」という条件さえあれば、自分の意見の極端な面が明確化されたことに気づいたり、気づかされたりする時間が保障されていることが多く、行き過ぎた考えや言い過ぎを意識して自らを調整することもあるだろうという、これもまた淡い期待がもてる。
 では、三人の場合はどう だろう。誰の意見がどのように通るかという点だけで見ると、「Aが勝ち、BCが負ける」「Bが勝ち、ACが負ける」「Cが勝ち、ABが負ける」「ABが勝ち、Cが負けた後、Aが勝つ。」「ABが勝ち、Cが負けた後、Bが勝つ。」「ACが勝ち、Bが負けた後、Aが勝つ。」「ACが勝ち、Bが負けた後、Cが勝つ。」「BCが勝ち、Aが負けた後、Bが勝つ。」「BCが勝ち、Aが負けた後、Cが勝つ。」「AもBもCも勝たない、つまりAもBもCも負けない」となる。
 二人の時が三通りであったのに対して十通りとなる。勝ちが決まるまでの手続きはそう変わらないが、勝ちが決まるまでのバリエーションが豊富になる。
 単純に勝ち負けの結果のパターンだけでは説明しにくいが、このパターンの豊富さは、新しいアイデアを生む一つの力になるはず。これは一人一人が持っている知識の互いに内容的に重ならない部分が増加することによって、ますますその力が増す。それらの新しい情報の組み合わせを話し合うことにより、この三人にとっては新鮮なアイデアがたくさん生まれる可能性が高まるのだ。単純な理屈だ。後はその中で有効なもの選択するという作業に入ればよい。
 勝ち負けだけで見てもこうなのだから、相談して新しいアイデアを創出するということになれば、話し合いのなかでもっと多くの手続きが必要となるだろう。しかし、二人よりも三人の方が情報量の多さからいっても、また、より客観的な判断が可能となる第三者的立場を取れる立場の人がいるということからいっても、よりよいひらめきを得る可能性の高まりが期待できるわけだから二重に有利だ。
 つまり、当事者の二人が気づかないことに気づく可能性があるという、岡目八目の論理がはたらく有利さだ。
 この情報量の多さと冷静な判断力という二つの力に、討論上のレフリー役やアシスト役、場合によってはカウンセラー役をお互いに演じていくという話し合いが成立する最低の人数である三人が話し合う事によって、ようやく文殊の知恵に近づくということなのだろう。
 このように見ていくと、「Two heads are better than one.」は「三人よれば文殊の知恵」に相当する諺だとはいっても、かなり質の異なる内容を表現していることになる。
 決定的に異なるのは、前者が「まだまし」というレベルを示して比較的消極的な圧力をかけているのに対し、後者は「文殊の知恵」という理想を示すことによって、「より高い」レベルを追求することを比較的積極的に要求していることだ。
 このように、反対語ならぬ反対諺とまではいわないが、似て非なるものだと解釈した方が、同じ意味合いの諺だと解釈してしまうよりも、見方を一つ増やすことになってよい。したがって、英語の方は、意味の近い「三人寄れば文殊の知恵」をあてがうよりも、直訳して示すほうがよいだろう。
 問題は、諺として成立していくときに、なぜ一方の区域は二人版を成立させ、もう一方の区域は三人版を成立させたかということだ。そこには文化的な傾向が反映していると見るべきだろう。日本にも二人版の諺があるかもしれないが、三人版がメジャーであるところに意味がある。
 もしかすると、そこに「対」と「和」というものに対する姿勢の違いを読み取らねばならないかもしれない。
 もちろん、一対の諺だけで文化の比較をすることは不可能だ。あらゆる諺の比較をしてはじめて傾向をとらえられる。しかし、そもそも文化を地理的にとらえたり、歴史的にとらえていくなかで、どの諺がどの場で生まれ、どの場に定着したかをつかむこと自体は難しい。
 したがって、少なくとも、現在どこでどんな諺が使用されているかという問題に諺文化の問題を単純化した方がよいかもしれない。
 どの諺がどんな文化を反映しているかを、諺が意味するところと諺に使われている表現とから判断し、どういう精神的要件がどの程度どちらの方に傾いているかというチャートを作るには多くの時間をかけなければならない。
 しかも、文化といっても既成の文化の類型とは別のものになる可能性が高い。とはいえ、既成の文化の類型に所属する人々の手によってそれぞれの諺が分析され、記述されていくようにしなければ、比較の仕方のバリエーションを確保できず、観察者の影響というものを考慮する資料が不足するという問題が起こる。比較作業が完了したとしても、資料を作っただけの初期段階をクリアしただけなのだから先は長い。
 もっとも、気の遠くなるような時間をかけて諺も生まれ育ってきたのだから、そうしたことも仕方ないといえば仕方ない。ついでに死語ならぬ死諺の様子も見ていく必要がある。こうした厄介なことは厄介な事好きの世界の人々に協力を得て、ほぼ同時に行わないと比較の成果は出せないように思う。
 どうでもよいことかもしれないけれど、諺は人間の知恵だ。だから、はやり詳細につかんで整理し、後世にバトンしていく必要があると思うのだ。
 因みに、このように一人で書き綴ると、文脈もうねり、まとまりのつかぬ悪文になってしまうが、遠慮もなく、口を挟まれる事もないので、思いついた事のほとんどが盛り込める。これはこれでアイデアの倉庫として、あまり推敲せずに保管しておくのがよいと思う。
 ただし、何かに利用できたとき初めて それがアイデアとして評価されるのだから、いつでも検索できるようにしておこうと思う。一種の思いつき手帳だ。ワープロソフトで一つのファイルに落としていけば、ワンタッチで検索できる。世の中便利になったものだ。

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21-07-2009

心の断片183「葡萄を食べた僕」

「葡萄を食べた僕」

この一粒の葡萄は
僕をどれだけ幸せにしたのだろう
甘い蜜の
薫り高き紫の
この一粒の葡萄は
僕の心をどれだけ深く
しずめてくれたのだろう

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恐怖シリーズ141「慣れ」

  何のためらいもないのはたぶん「慣れている」からだ。そして、ためらうのはたぶん「慣れていない」からだ。途中でためらわないのは事を途中で失敗しないための条件の一つとなり、事前にためらうのは事が正しいかどうかを確認するよい機会ともなる。
 このような生きていくうえでの「無心(迷う心が無く、ためらわない)の効用」を意識し、「神からの贈られたささやかな時間(迷う心)」 を戒めとすることは重要なことだ。しかし、これらが「慣れている」とか「慣れていない」とかいう単なる脳の事情を土台としたものであると考えると、何とも楽しいではないか。
 人生の絶対的な価値でありたい善悪についての判断基準も、おそらくは善悪そのものも、この「慣れている」状態と「慣れていない」状態とによって成り立っているものではないかという疑いをかけたくなってくる。どうすれば確かめられるのだろう。
 まず、殺人という極めつけの悪事について考えてみよう。人を殺すことに慣れている兵士は、その行為を悪だとは思っていない可能性が高い。殺人が手柄だと思えない種類の優しいお父さんや優しいお兄さんだった兵士は、「上官の命令」と「自分の信条」の板挟みになった「自分の心情」に苦しむことになる。
 そして殺さねば自分が殺されるという理不尽といえば理不尽な、当然といえば当然の戦争の論理に心がつぶれていく。理不尽であり、当然であることの重荷は計り知れない。しかし、これはそれを受けとめてしまった者だけの重荷だ。
 おそらく通常のお父さんやお兄さんは、この重荷を受け流すために、神のため国ため家族のため、そして 自分の命のためという本末転倒のところに行き着くまでのたくさんの答えの中から自分にあった理由を探すことになる。そうして心の折り合いをつけた者だけが人を殺すということについて、それは悪ではなく、必要なことなのだと受けとめることに成功し、その殺人作業に専念することを可能としていく。
 戦闘のなかでは、相手を必要以上に憎むという努力を殊更に重ねるまでもなく、「殺してもよいのだ。いや殺さねばならないのだ。」という気持ちが強化されていく出来事に直面するはずだ。自分を救ってくれた戦友が命を落とせば一層その思いも強くなろう。
 戦友の敵討ちをしたいのは人情だが、戦場から逃げ出したいのも人情だ。この人情が戦場で必要な的確な判断を狂わせることがある。なさねばならぬ命令を遂行するにあたっては、これを克服しなければ予定以上の死者を出すこともあるのではないだろうか。こうした不都合を解消するには、人情を殺さねばならない。その時にはやはり心を潰さなければならないのだ。義理を果たすには人情は抑えねばならないということだろう。
 このようにして、殺人は心ある人が思っているような悪事ではなくなっていく。もちろん、一人一人どのような心の折り合いをつけるかはわからない。ある程度は教育の力によって共通の心構えや心情をたたき込まれているので、それを土台としてさまざまな心の形が生まれることになるだろう。
 例えば、一人でも多く相手を殺せば、それだけ善い行いをしたことになるというところまで自分の心を作り上げてしまった人や「理屈じゃない。これは戦争だ。殺さねば殺される。」という簡単な折り合いのつけ方をした人もいただろう。もちろん、国のため家族のために闘うのだ。」とか「天皇陛下のために闘うのだ。」とか、教科書どおりの「美しい」心で殺人の作業を遂行した人も多かったかもしれない。そして、全くの弔い合戦のように人情だけで割り切った人もいたに違いない。
 これらの心の変化の道筋や行く先はともかくとして、その変化していくのに必要な時間というものが曲者だ。
 社会や身の回りの変化、自分自身に起こった変化に対して、人はそれなりの時間をかけて心の形をつくり、最終的には慣れるという状態に落ち着かせていくものだ。何世代にもわたるような長い時間がかかった大きな変化に対しては、それなりの長い時間をかけて少しずつ慣れ、人々の中にその心が根づいていく。しかし、短期間で起こった大きな変化に対しては、短期間に慣れていかねばならない。そこには大きなストレスがかかることになるだろう。しかも、付け焼き刃と一緒で根づいたものではない。
 戦争体験者は、極貧生活や空襲体験、軍需工場体験、教練体験などを話を残す機会を意外ともっているが、戦闘体験者は沈黙することが多い。銃後の話は被害 者意識をもって語れる内容だからその気になれば話すこともできるが、血みどろの前戦にいた者の話はそうおいそれと披露するわけにはいかない。人を殺す話を孫やその友達にするのは、やはりためらうのだ。  
 戦時中やその直後なら自慢話にもなったろうが、今となってはそう単純に自慢話にもできない。僕の祖父なども聞いても聞い てもなかなか話してくれなかったものだ。
  これは短期間のうちに大きな変化をせざるを得なかった心が時代の急変とともに急速に元に戻っていったからだと考えられる。殺人作業が人々の心に根づいたものにはなっていないということだ。そうでなければ復員兵の多くが殺人犯となったに違いない。一時的なにわか殺人者たちがたった十年足らずの短期間に大量生産され、それが一夜にしてほとんど元に戻ったというわけだ。
 では、持続的に何のためらいもなく人を殺せる心をもった者になるためにはどうしたらよいのだろう。
 それには、ある特定の国家や民族の歴史のなかで一定の評価を受けている伝統という名の長い時間と実績が必要だ。付け焼き刃ではない本物はじっくりと育てなくてはならないということだ。
  例えば、イスラム戦士だ。数十年前に読んだ少年雑誌のグラビアに、おそらく中東地域のあるアラブの部族の子どもたちが載っていた。彼らは一様に底抜けの笑顔で映っていた。しかし、十歳にも満たないその子供たちは明らかに軽機関銃を抱えていた。自分の身の丈ほどもあるような恐ろしげな武器だ。
 僕は幼心にもこんな小さな子供に撃てるはずがないと思ったが、次のページには伏射ならぬ仰射(こんな言葉はないだろうが)の姿があった。まだ幼い戦士は銃身の反動を両足の裏で受けとめるのだ。
 これは敵に両足を向けて腹を天に向け、大地を背にした射撃姿勢だ。軽機関銃は子供の腹の上、銃口近くに取り付けられた二脚の金具に自分の両足の裏をかけて突っ張っている。子供だから身体が小さく、被弾面積も少ないという利点もあるが、子供と武器が一体化したような恐ろしい姿だ。
 こうした殺人訓練が幼少の頃より日常的に続けられるという記事もつけられていたように記憶している。銃撃に慣れているというよりも、人生そのものになっているレベルだという感じがした。 
 日本の指導者たちがかつてお菓子を食べたりのんびりとテレビの娯楽番組でへらへら笑っているときに、今のイスラム戦士の指導的立場にある者たちが幼少期をこのように過ごしてきたことを忘れてはならないだろう。
 伝統的にひどい殺し方をするのも、人を殺すことなど何とも思わないという心が根づいているからかもしれない。もっとも、誰が死んだか分からないように顔を潰したり、首を切り落としたりするのも、報復をされにくくする長年にわたって培ってきた知恵なのかもしれない。そこで失った人の心は、おそらく信仰心によって補われているのだろう。
 さて、ここまで述べてきた「慣れている」「慣れていない」という二つの言葉から、「慣れよ。そして慣れるな。」という標語のような文句を導き出すことができる。これは一般的な人生の知恵に近いので、探せば同じ意味の諺があるかもしれない。
 人を殺すことに慣れているということは戦闘場面においては大事なことだ。しかし、それでは人の心を失ってしまう。通常の生活と戦闘行為とを切り替えることのできない人は、きっとランボーのように精神を病んでしまうのだろうと思う。「慣れよ。そして慣れるな。」は宗教に救われる前の自力で正気を保つ知恵として考えればよいだろう。 
 今の日本には傭兵経験者を除き、人を殺すのに慣れている人はいない。これは「慣れるな」というレベルの人から見れば、逆に危険なことだと思われているかもしれない。切り替えるというコントロールの未経験者だから、暴走する可能性を秘めている。
  戦争放棄をした日本なので、戦争の例え話はたとえになりにくいかもしれない。戦争は戦争でも、交通戦争の方が今の日本では説明しやすいように思う。
 交通事故で命を落とす人々が毎年一万人前後の時代があった。戦後、この悲劇的な状況が 三十年ほど続いたのは過去の話となったが、現在でも毎年六千人程度はお亡くなりになる。ここ十年の交通事故死の累計が約七万五千人だから、戦後から累計すれば、先の世界大戦における長崎・広島の原爆犠牲者や空襲の犠牲者の約八十万人をも既に追い越してしまっている可能性がある。
 最近の交通事故死の人数が年々減っているのはシートベルトとエアバッグのおかげだろうが、統計上、死ななかっただけという重傷者は、同じくシートベルトとエアバッグのおかげでかなり急上昇している。
 ここ数年間、死者は減少しているが、その数の多さから、交通戦争という表現が決して誇張した表現ではないということだけは確かだ。この交通事故における「慣れ」については、どのようなことが言えるだろうか。
 自動車の運転に慣れていない人の運転は恐ろしいが、免許取得後約一年間は事故を起こすことが少ないという。慣れないうちは自分でも危ないことを自覚しているので、下手ではあっても運転に慎重だということが理由の一つになるだろう。また、その慎重さゆえのぎこちない運転の様子が、同乗者や周囲の自動車に恐怖を与えるということも、結果として警告をしたり警告されたりすることになるだろう。これも事故を起こしにくくする理由の一つになるはずだ。
 逆に、運転に慣れてからの方が事故を起こしやすいのは、なぜだろう。
 これは、周囲の変化によっては「慣れ」に依存している分だけ逆に危ないということがあるからではないか。運転に慣れると、少し遠出をしたり別の街へ出かけたりする機会が増える。こうした新しい環境のなかでは、これまでの「慣れ」がかえってあだとなることもあるからだ。また、性格によっては「慣れ」が過信につながることもある。
 もちろん、道路交通法も道路標識、道路標示も日本全国共通だから、この面では「慣れ」というものがプラスにはたらく。 しかし、それがどのように運用されているかということになると、あやしい面がある。
 遠出の場合や新しい抜け道を発見しようとした場合など、道路状況や交通状況などがこれまでと異なって、ケースバイケースとなり、慣れているはずの運転操作を誤る可能性を高めているに違いない。
 また、事故がよく起こるという呪われたような場所がある。これはおそらく「慣れ」で解決できそうでありながら、実は特別な配慮を要する場所である可能性がある。学んだこと、つまり慣れていたはずの運転に関する判断が微妙にずれてしまう場所だ。
 特に、自分も相手も同等に慣れていない時期に遭遇すると、事故が起こる確率が急上昇することになる。その後、実際に事故に遭うかどうかは運次第だ。
 ところで、運転というのは「運」が「転じる」とか「転ぶ」とか書くから、どうもよくない。今後は験を担いで自動車の操縦と言うようにしようかと思う。そのためには自動車運転免許ではなく、自動車操縦免許というような名称に改めてほしいところだ。もっとも、どん底にいる人たちにとっては運を転ずることは上向きの運勢になるしかないから、「運転」の方が聞こえがよいだろう。
 少なくとも交通事故によってどん底の生活に陥らないように僕たちは細心の注意を払う必要がある。それは、運転に慣れたころが一番危険だということ、そしてその道路に慣れたころが一番危険だということを意識することから始まる。
 次に、交通事故のように死ぬことは少ないが、電気製品の扱いという問題ではどうだろう。
 「習うより慣れよ」という諺がある。その適用範囲は事の初期に限られるものだ。例えば、携帯電話のマニュアルは分厚いが、それを全部読んでから使い始める人はほとんどいないだろう。「習うより慣れよ」ではあるが、人に聞くという「習う」を相手の迷惑にならない程度に実行しながらも、主として実際に扱いながら覚えるという方法の方が確かにすぐに使い方が身につくからだ。
  これはコンピュータでも同じだ。取扱説明書を全部理解しようとする人はいない。当然コンピュータの基本をソフトの仕組みを調べてから電源ボタンを押すとい う人もいないだろう。自分が使いたいソフトが自由に使えるようになればそれでよい人がほとんどだ。それをコンピュータを使うからといって、コンピュータ自 体のハード面のことを勉強してマスターするというという必要もない。もちろん、その努力は決して無駄なことではないが、時間の無駄になることが多いのは事 実だ。
 「慣れる」というのは実践やシミュレーションを通さねばできないことなので、コンピュータを使った自分のやりたいことやしなければならないことに限って スキルアップを図るのが現実的な努力だろう。これは分業を得意とする仕事という面からみれば、それに専念するということなので合理的なことだと判断され る。必要な作業さえできれば、残念ながらコンピュータを使うといえどもコンピュータのことなど理解していなくてもよいのだ。自動車のエンジンを分解掃除で きなくても、運転免許が交付されるのはこうした理由からだ。
 これは現代特有の虚無感をさそう。いろいろなことができるのにいろいろなことを理解していないというむなしさだ。このむなしさを味わうという寂しさを何 かを得ることで解消しようとするが、その得た物なり事なりで失う物が出てくる。これに気づき始めるのが少し慣れてきたころだ。それを乗り越えると自分の狭 い世界をつくったり、趣味の世界にはまりこんだりする時期が来るので、充実感とともに生きていくことができる。
 例えば、新しいコンピュータの決まり切った操作に慣れてからはマニュアルに目を通す時期だ。より正しく有効に道具を使い、宝の持ち腐れになることを避けるためだ。そのうちには、マニュアルだけでなく、裏技集なるものに手を出したり、自分自身がそうした情報を発信する立場にまで成長する時期も来るはずだ。ステップを踏むごとに充実感が増す 仕組みだ。これをマニアと呼んで笑いものの対象にする向きもある。見識の狭さを指摘されてのことだろう。しかし、資金面では弱小かもしれないが、時間に糸 目をつけぬマニアの方がさまざまな制限のなかで動かざるをえないプロを凌駕する可能性もあるだろう。
 何でもそうだが、このように初級、中級、上級、特級とコースがあってそれぞれの時期を経ながらステップアップしていく。しかし、自分のランクに合った考え方と知識、そして情報を得なければ、何かを 間違うことになるだろう。「汝自身を知れ」という言葉があるが、これを戒める諺としてとらえてもよさそうだ。
 さて、慣れていくにしたがって得るものは増えていくが、慣れていくにしたがって失うものも増えていくというのが一般的だ。これは仕方のないことだ。大事なのはそうした自覚があるという ことだと思う。失ったものをとりもどそうとしたり、代償行為に走ることがあるように思うが、これを「年寄りの冷や水」というのだろう。これにはよほど気をつけないといけない。みんなよかれと思って結局は「年寄りの冷や水」となり、失敗する。だから、よかれと思ったら間違いだと思った方がよさそうだ。
  それにしても、いったい何歳ぐらいから「年寄り」というのだろう。孫ができるような年頃になったら年寄りだと昔から思っていたが、どうなのだろう。年は 取ったりくったりするものであって寄るものではなかろうに、「お年取り」とか「お年くい」とは言わず、「お年寄り」という。これは忌詞の一種なのだろう か。
 しわが寄るとか、しわを寄せるという言葉もある。これはしわを寄せて集めるということで、結局は増えるとか増やすとかいう意味になる。年寄りは年が寄ってきて増えるというイメージだ。もしそうなら「お年盛り」の方が元気そうな感じがするので、これをはやらせた方がよいかもしれない。
 また、「冷や水」とはいったい何だろう。「冷や水」を浴びたようにびっしょり冷たい汗をかくという言い方もある。あくまでも「冷え水」ではないから、「冷やした水」ということだ。「冷や水」という言葉からは意図的に温度を下げた水という意味合いがあるように感じる。
 例えば、「冷や飯」と言い方がある。「冷や飯」を食わされたとも言う。これは敢えてご飯を冷やしたのではなく、炊き終えてから時間がたっても片づかなかった冷えた「余り飯」だ。これは今と違って保温機能などついていない木の「おひつ」に入っていたはずのものだ。
 しかし、今のように捨てる残飯ではなく、後で熱いお茶などをかけてお茶漬けにしたりするご飯だ。したがって、「冷や飯」の「冷や」は「冷やした」の「冷や」だ。つまり、余った飯を意図的に放置して「冷やした」ということだ。お櫃にもお釜にもスイッチなど一つもついていない時代のことだ。現代では、残飯扱いで捨てるばかりなので、スイッチさえ入っていればいつまでも温かい炊飯器ジャーから出され、残飯入れの中で寂しく「冷える」ばかりだ。残飯入れの「冷え飯」を食べる人はいないだろう。もっとも、ホームレスの人はこれを「冷や飯」と言って食べている可能性はある。また、「冷や麦」という麺料理があるが、これも同じだ。意図的に冷やした麺だ。
 ともかく、手を出したくても手を出さない方がよいものという意味合いで「冷や水」 というものを挙げているのだから、よほど年寄りには合わないものであると同時に、年寄りが求めるものでなくてはならない。
 これは 「お冷や」かもしれない。料理屋で出される冷たい水だ。冷やしてあるのだから「冷やかし水」または「冷やし水」というわけだ。丁寧語になるように「お」を つけて「お冷やかし水」または「お冷やし水」、長いので省略して「お冷や」と呼ぶようになった可能性がある。
 年寄りは年頃の新陳代謝の盛んな若者のように体温が高くはないと思う。また、身体の冷えなどの症状もありがちなのではないか。そこへ「お冷や」、つまり「冷や水」、つまり「冷やした水」を飲んだら体調を崩しやすく、年寄りであるだけに命にかかわるということかもしれない。 
 井戸の水は夏冷たく、冬温かいという。塩素臭もなくおいしいのだが、昔は便所が近くにあれば、染み出したものが、井戸水に流れこんでいる可能性もある。井戸から何メートル離れたところに便所を設置するようにという法律がまだあるはずだ。
 だから、一度沸騰させてからさます白湯でないと健康を害することになる。しかし、白湯はいくら冷ましても井戸水よりも冷たくはならないだろう。
 冷たい水を飲むには、泉からわき出る清水を手に入れるか、白湯に氷を入れて冷やすか、偽白湯に氷を入れて冷やすかだ。しかし、清水は冷やしたわけではないから、「冷や水」ではない。すると、残るは白湯を冷やしたものか、偽白湯を冷やしたものかのどちらかだ。
 もちろん、偽白湯を冷やしたものが身体には悪い。沸騰させ る手間を省き、しかも冷やしたのだから、年寄りには致命的な水になる可能性がある。
 すると、こうした偽白湯、つまり殺菌する手間を惜しみ、井戸から酌んだばかりの水を冷やしたものが案外と出回っていたという背景があったのではないかということが推理できる。こうして「年寄りの冷や水」という言葉が成立したとは考えられないか。悪徳業者による水販売というわけだ。
 しかし、若者であっても、また偽白湯を氷でさましたものであっても、多量に摂取すれば内臓の働きを悪くし、病気のもとになったのは間違いない。この「年寄りの冷や水」という決まり文句が成立した当時に、病気と水との因果関係がどれ程認識されていたかは定かではないが、今でも使われている「水にあたる」とか 「水あたり」とかいう言葉はそのころからあったのだろうと想像する。
 いつの時代にこの言葉が現れたかわからないが、昔のホームレスが「あたり」 そうな生ごみを食べても平気だったのは、そうした食生活に慣れていたせいだろうか。
 もし、これが「慣れ」ならば、「年寄りの冷や水」の年寄りは、質の悪い水に慣れていないということだ。つまり、比較的財力のあった働き盛りのころに本物の「冷や水」を飲む習慣がついていたのだが、老後に貧乏になって安物のインチキ「冷やし水」を飲むはめになった例が多かったということが想像される。
 慣れていなければいないなりにためらい、飲むべきかどうかを判断すればよいはずだ。体調不良の場合には飲むのを我慢し、体調良好であれば、飲めばよい。もちろん、判断する前に、安全な水であるかどうかも周囲の者によく問いただして助言を求めればよいことだ。疑わしければやめればよい。何にしても人の言葉を信用するということが今よりもずっと意味が重かった時代のはずだ。
 しかし、残念なことに年寄りになると頑固になって若い者のいうことを聞き入れなくなる。自分の「慣れ」と、若者の「慣れ」のギャップが許せないのだろう。これを受け入れることは自分が築きあげてきたものをある意味で否定することにつながるからだ。特に時代の流れが大きく変わろうとしているときには、世代による「慣れ」のギャップが大きくなり、ますます年寄りが頑固になっていく。
 微妙なずれなら妥協しやすいのだが、中途半端なずれだと、頑固さがより強固な頑固さになると思われる。いっそのことかけ離れたギャップになってしまえば、逆に問題は起こらないだろう。
 さて、水質検査などできる時代ではないことは確かだから、本当は若い者の言葉をよく聞き入れ、助言として信用するしかないのだ。「老いては子に従え」という諺はこのトラブルを避けるためにあるようなものだろう。
 現代は、言葉の責任や意味の重さなどが桁違いに低くなったが、これは何を得た罰としてそうなったのだろうか。
 個人的にも歴史的にも「得るものが増えれば、失うものも増える。」というバランスがはたらいているように思われる。
 通信技術を得て、真のコミュニケーションを失った。人々を守る法律を得て、互いに尊敬し合う心を失った。便利な物に埋もれて、気遣ったり、思いやったり する必要がなくなり、心も失った。開発が進んで神秘の世界を失った。なくてもよい仕事を得て、時間を失った。収入を得て、家族の絆を失った。
 それではいたたまれないので、偽物が本物の代わりをすることになった。だが、昨今の偽物たちの氾濫といったらどうだ。笑いや涙まで偽物となり、偽物で育った子供たちがさらに偽物の道を築きあげていく。これはもう戻れない道だ。しかし、いつの時代でも当の本人たちは慣れていると見てほぼよいから、そう苦にはなっていないというところが救いだろう。死んだり生まれたりという大きな切り替えスイッチというものはそのためにあるのかもしれない。
 生きる「慣れ」を防ぐために神が死を与えたということなのだろうか。もしそうならば、つくづく神というものは畏怖すべき知恵者だ。百里の道を行かんとする者は九十九里をもって半ばとすべし。これを人生にそのまま当てはめると、百歳をよりよく生きようと思ったら、九十九歳になってもまだ五十歳だと心得て今後の作戦を立てよということになる。「慣れ」は禁物、油断は禁物ということだろう。
 「慣れ」とは古びた作戦で満足していることだ。古びた作戦では到底闘えない状況が増えている。めまぐるしい現代は「千里の道を行かんとする者は九百九十九里をもって半ばとすべし」ぐらいの気構えでないと失敗するかもしれない。
 そろそろ人類自体の時代が古びてきたのかもしれない。神が個人に与えていた死を人類そのものに与えるときが近づいている可能性を考えた方がよいのではないだろうか。
 人類五百万年の歴史と習ったが、これは長いのだろうか。随分と駆け足で来たような気もする。駆け足を早めればゴールに早く着く。このゴールとは絶滅を意味する。これは恐ろしいことだ。しかし、それは恐ろしいと思いいつつ受け入れればよいことなので本当は別段どうということはない。死ぬ以上のことはなく、死ぬことはこれまで随分と積み重ねてきたことに過ぎない。
 多くの種が絶滅していく流れの中にあって人類だけが生き延びようとすること自体に無理がある。しかし、悪あがきはできるだけすればよい。それが人類の特徴だ。人類の最期を体験する子孫には、人類最後の人類ということで誇りをもってもらいたい。できたら、最後の一人まで、やすらかな自然死であってほしい。
 残念ながら、最後の一人については、その死を悼む人が一人もいない。自分が最後の一人であるという自覚もないかもしれない。それはしかし、一つの救いだ。地球のどこかにまだ誰かが生きているだろうといういう思いで永久の眠りに就けばよいのだ。
 しかし、人類の滅びをある程度延期することはできる。例えば、既に二億年も生きているゴキブリに「今日からおまえたちを人類と名付ける」と宣言すればよいのだ。命名行為というのは人類の発明だが、これによってゴキブリは人類となる。これを人類最後の人にやってもらうのがよいだろう。
 このバトンタッチは神に認めてもらうしかない。「認めてくださらなければ、永遠の命をください。さもなくばこのゴキブリを人類としてお認めください。」と宣言してもらえばよい。永遠の命などくれるはずもないから、自動的にゴキブリが人類と呼ばれる生き物になる。これで彼らが絶滅するまでは人類は安泰というわけだ。もちろん名前だけだ。でも、「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」というから、これでよしとしよう。

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18-07-2009

変な疑問102「一人ひとり」

 「一人一人」をなぜ「一人ひとり」と書く人がいるのか。不思議でたまらない。その人は、「一台一台」を「一台いちだい」と書くのだろうか。「一日一日」を「一日いちにち」と書くのだろうか。「一粒一粒」を「一粒ひとつぶ」と書くのだろうか。そして、「一匹一匹」を「一匹いっぴき」と書くのだろうか。
 このような繰り返しのときに、漢字と平仮名を交ぜる利点にはどのようなものがあるのだろうか。その理由次第では、「ひとり一人」とはせずに、「一人ひとり」にするのはなぜかと問わねばならなくなるかもしれない。また「ひとりひとり」にしないのはどういう理由からなのかと問わねばならなくなるかもしれない。
 まさか、次のような理由からだろうか。
 「一人」は「いちにん」としか読まない。それを熟字訓で「ひとり」と読む慣わしがあるから、それを子供に教えるために最初に漢字で書き、その次に読みを平仮名で書いたのだ。
 もし、こうしたことを理由としてあげる人がいれば、教育的配慮という大義名分を振りかざした苦し紛れのこじつけをひねり出したとしか思えない。ただし、「一人」を「ひとり」と無理やり読む熟字訓よりも、もっとひねくれてわかりにくい「百日紅」のような熟字訓の後に必ず括弧書きで「さるすべり」と読みを示すか、振り仮名をつけるかしていたら、この理由で納得してもよい。しかし、個人的には残念ながらそうした配慮については、その熟字訓の読みを説明する文章以外ではまだ見たことがない。
 もっとも、お目にかかれないのは、熟字訓というものが暗黙の了解で受け入れてもらっている読みであるという性格をもっているために、敢えてその読みを示すということが矛盾した行為になるということがあるためだろう。だから、なおさらこの理由がこじつけに思われるのだ。
 百歩譲って括弧書きや振り仮名ではなく、「一人」の次にその読みである「ひとり」を書くという行為を認めたとしても、今度はなぜ「一人一人」だけを取り立てて特別扱いし、このような漢字と仮名の併記をするのかという問題が生まれてしまう。
 このように、「一人」を重ねるときにだけ、そうした配慮(?)をするということを、中途半端なことだとしてみんなは声を出して訴えないのだろうか。
 この疑問に対する答えとして、最終兵器の「そのように書くのが習慣です。」という切り札を出してくるかもしれない。では、いつからどういうわけでその習慣を我々は身につけたのか、さらに、それをいつまでも受け入れ続けている理由を教えてもらわねばならない。教えてもらえなければこちらで調べたり考えなくてはならない。いつ誰が始めたことなのか不明だが、失礼ながら誠に厄介な事をしてくれたものだと思う。
 「一人ひとり」と書き表すのは、熟字訓というものを歴史的な読み方として尊重しつつも、本当は否定していきたいという気持ちの表れのようにも感じられないわけではない。こうした中途半端な気持ちが、繰り返しの途中で文字種を漢字から平仮名に変えるというような屈折した表記を生み出してしまったのかもしれない。しかし、やはりそれをなぜ「一人一人」についてだけ行うという中途半端さには首を捻ってしまう。もちろん、よく調べれば「一人ひとり」以外にも同様の例があるかもしれないが、さがすのは随分と面倒だ。
 こんなことを疑問に思うのはやはり変かもしれないが、日本人にとっては大事な日本語だから、その時その時の日本語を保存しつつ、常に見直していく姿勢だけはもっていたいと思う。もっといえば、こんな些細なことにすら目を向けて行動しようとしない体質があるために、世の中を変えようと思ってもシュプレヒコールのみで終わるのかもしれない。高いハードルを示すことは大事だが、いきなり正攻法でいっても潰されるだけだ。一見何の関係もないような遠くの外堀を埋めていくことによって、意識の底で固着している常識を軟化させつつ、奇襲も含めて正々堂々と立ち向かわねば、世の中の仕組みを現実に合わせていく作業などは不可能だ。
 こうした変革の流れへの対応としては意識の混濁を促進させることが大事なことになってくる。もちろん、「この薬を飲んでから急に意識が混濁し始めました」というときの「意識の混濁」とはレベルを異にする意識の混濁だ。ある力に対抗するには、その力と反対の方向の力を加えることと、その力自体を無力化することの両方をタイミングよく同時に行わなければならない。
 無力化する方法には、その力を力として成立させている環境を破壊することと、その力を誇張することによって矛盾点をさらけだすことが考えられるが、前者は最も重要な人の意識という砦をいかに崩すかという大問題を含んでいる。この砦を軟弱なものにするにはどうしたらよいかということに腐心する輩は大勢いるはずだ。
①補給路を断つこと
「情報を絶つ」…何かを守るという姿勢に隠れて非公開情報を増やす。書物の代替物を与えて読書習慣を破壊する。専門性を強調することによって読書傾向を偏向させる。
②士気を衰えさせること
「無駄な抵抗をしているという意識をもたせる」…「もうそんな時代ではない」という誤った情報を流し続ける。「まったく成果を上げていない」という誤った情報を流し続ける。
この二つの作戦によってどのような砦も軟弱になり、反動勢力によって陥落する。真面目でよい人間から意識が混濁し始め、行動や生き方をコントロールされてしまうのだ。もっとも、コントロールするところまでの力を相手が持っていない場合には、無軌道な人間が増殖することになるはずだ。
 「そんなの関係ない」とか、「面倒だ」とか、「どうでもいいことじゃないか」とか、「忙しいんだよ」とか思い始めたり、口に出るようになったりしたら要注意だろう。かなり攻撃されているという証拠だ。こうした意識に対する攻撃には、基本的には個人の意識の力で闘うしかないというところが辛いところだ。第一、攻撃されていることに気づかないことが致命的だ。
 それはさておき、テレビニュースでは、「二人組の強盗」と書いてあっても、「ふたりぐみの強盗」と読まずに、「ににんぐみの強盗」とアナウンスしているのはなぜだろう。これは「二人(ふたり)」という熟字訓を避ける姿勢を示しているように感じる。
 「一人(ひとり)」も「二人(ふたり)」も常用漢字表付表に載っているのだから、殊更に避ける必要はないように思うのだが、何か不都合があるのだろうか。まさか「ふた」という発音を嫌っているのだろうか。もしそうなら、「二組の強盗が同時に侵入しまたした」という場合のアナウンスは「ふたくみの強盗」ではなく、やはり「にくみの強盗」となるのだろうか。また、「二人の強盗」というペアを組んでいない強盗の場合はどうなのだろう。当然のことながら「ふたりの強盗」とアナウンスするはずだ。すると、「ににん」というのは「組」という接尾語によってコントロールされた読みだという疑いが出てくる。
 「組」だから「一人組」は存在しない。「二人」から「組」が始まるというわけだ。まさか、「ひとり」の援護射撃がないから「ふたり」が後退し、「ににん」が表出してきたのだろうか。
 また、「夜間の一人歩きは注意しましょう」という警告については、どのようにアナウンスするのだろう。「ひとりでできるもん」というときのように、「ひとりあるき」と読むはずだ。これを「いちにんあるき」とか「いちにんでできるもん」とはしないだろう。「一人」を「いちじん」と読むか「いちにん」と読むかに至っては、意味が「ひとり」という人数とは限らないことを示している。「いちじん」ならば天皇、「いちにん」ならば右大臣を意味するらしいから気をつけなければならない。
 すると、「一人ひとり」と書くのは、「いちにんひとり」と読めたり、「いちじんひとり」と読めたりする可能性が出てくるわけだから、一層不適当な書き方だと言わねばならなくなってくる。
 こうしたことも、おそらく全ては「言い習わし」という一言ですまされるに違いない。説明することが「面倒」なのだろう。そんなことを追究することが「あなたの仕事と何か関係あるんですか」とか、「暇ですねえ」とかいうステレオタイプの言葉もたくさん用意されているから、どれかを使って対応したという体裁にするのだろう。もちろん上品な人はいろいろに言い換えるすべを知っているから、違う言い方にはなってくる。ベールのかけ方のうまさは自らが発する言葉にも及んでいるというわけだ。
 どうしてそのような慣わしになったのかというところまで説明したり、追究したりしなければ面白くはないではないか。そのようにいうと、「そうした事は専門家に任せておけばよい。そのための専門家なのだから、門外漢は黙っていればよい。」というようなそぶりが見える。あるいは、「そこまで追究するのは無理なんじゃないですか。」というあきらめがみえる。もちろん、これは助言として用意されている言葉なので、善意に基づいているから、悪気は一切ない。
 しかし、そういう感覚が高じて態度として一つの傾向を持つようになると、「関係ねえだろ。おまえは黙っていろ。」という排他的な力をもつようになる。あるいは、「それはどうしてなんでしょうね。」という上品なおうむ返しの無視という受け流し癖となる。これは民主主義の破壊に直接につながる愚かな態度だ。悪気のない愚かさというものほど質が悪いものはない。
 かりにも民主主義の国家なのだから、国民一人一人が民主化という手枷足枷をつけ続ける努力をはらう義務がある。この手枷足枷を心地のよいものとするには、このような面白さという味付けをしながら、思い込みや信じ込みを壊す作業が必要だろう。これは世の中をよりよく生きる一人一人の力として、もっと高く一般社会で評価されてよいことだと思う。これはゲームのようなものだ。民主主義に寿命があるとすれば、そのゲームのようなものが終わったときだろう。ただし、その面白さをただのおかしさとして間違うと深刻な状況に陥る。「ゲームのようなもの」が「ゲームの一種」になってしまうおそれがあるからだ。

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14-07-2009

恐怖シリーズ140「こじつけ」

 「心太」を「ところてん」と読むのはなぜだろう。まず頭に浮かぶのは、心太を平仮名ふうに書いてみる事だ。看板に「ところてん」と書く場合、真っ直ぐに書くだろうか。真っ直ぐではお札のようで面白くない。また、五文字だからその看板も細長くなってしまう。比較的看板らしい縦横比の幅のある板に目立つように乱れ書きすると面白く目立つ。このようにこじつけていくとどうなるか。そのまま「心太」とよめる漢字に似た文字の並びになってしまうではないか。
 篆書で書く「心」は、最初の二画が平仮名の「と」に似ている。その横に少し小さめに平仮名の「こ」を書き、その下に大きめの「ろ」を書き、その下に「、」をうつというわけだ。この「、」は「貸します」の「ます」を□に斜線を入れて「ます」の形を作り、「ます」と読ませるのと同じやり方だと考えればよい。これは文字数を少なくする意味もある。
 「かまわぬ」というのを「鎌」の絵、「輪」の絵、そして「ぬ」と表現するようなものだ。五文字が三文字に省略できる。字の読めない人にも絵文字だから読めるという利点もある。もっとも、この「かまわぬ」は「ぬ」が平仮名だから中途半端だとも言えるが、そこがご愛敬というものだろう。
 いや、もしかすると、「ぬ」は「奴」という漢字の平仮名版だから、「鎌」のように鋭く、「輪」のように丸く収める「奴」というという洒落なのかもしれない。ただ、文字の読めない人にはそんなことは通用しないから、この部分は本人用の隠し言葉ともいうべきものとしてとらえた方がよさそうにも見える。
 「かまわぬ」と言いながら、圧力をかける者には「鎌」のように「鋭く」応じ、弱い者や忌み嫌われる者には「輪」の中に入れて慈しむ、そういう「奴」という心意気を示したものかもしれないと考えれば面白い。そもそも、「かまわぬ」とは「自由な存在」という意味にとれる。「かまうこたねえ、やっちまえ!」「何してもかまわぬ」となれば、随分とひとりよがりの自由だ。
 「身なりなどかまわぬ。」という言い方もある。「かまわぬ」の動詞だけの形は「かまう」で、この仲間に「かまえる」という他動詞があるとすれば、やはり「かまわぬ」には自由な感じが漂っている。他人にかかわらないという姿勢も漂う。おまえにもかかわらないから俺にもかかわるなという生きる姿勢かもしれない。よほど世間のしがらみに苦慮していた時代なのかもしれない。鎌はそんなしがらみを切ってしまう鎌で、輪は切ったしがらみを束ねて縛って捨ててしまうという意味を込めたのかもしれない。
 このロゴとは言い難いがロゴのようなものが染められた衣服や手拭いを身につける者たちは、今で言えばTシャツのロゴのようなものだから、そうした心意気のようなものを有事における態度で示すだけではなく、平時にもアピールしていたのだろうと思う。
 しかし、そうしたひとりよがりのところがなければ、世間の中で敢えて強き者に「鋭く」牙をむいたり、落ちこぼれたり、はみ出したりした者を輪に入れて丸く収めるなどというような酔狂なことはしないだろう。もっとも、これが裏目に出ると本人自身が支持されぬ存在になっていく恐れはある。自分を売り出すのに役だったものによって最後は自分の首を絞めていくという法則はここにもあらわれそうだ。
 さて、「ところてん」の看板が真っ直ぐに細長く書かれなかったために、「心太」と読める平仮名の配置となったのではないかと仮定した。しかし、これにはなぜ看板という前提だったかということを述べなくてはならないだろう。結論から言えば、「幟旗」ではいけないということだ。なぜなら、縦長の幟旗に平仮名で「ところてん」と書くと、くねくねした文字の連続になってしまうからだ。古書の原典を一度でも見ればわかるように一文字一文字が現代の活字のようにばらばらに独立しているのは珍しいように思う。もっとも、実際に昔の看板は見た事がないから本当のところは分からない。
 とにかく、細い長い布に書かれた平仮名文字は、布の重みで端が垂れたり、風に揺れたりして読みにくい事この上ない。この問題を避ける方向で改善がなされたはずだ。「だんご」なら三文字なので、それほど細長くはならず、だんごの匂いもするだろうから分かる。しかし、残念ながら心太はにおわないから、視覚に訴えるしかない。だから、できるだけ文字数を減らして、しかもよれないように木の看板に書くという方向に向かうのではないかと想像したのだ。
 しかし、「心太」のように漢字二文字のように表現できれば、木の看板でなくてもよい。幟旗で充分だ。心太は夏の季節ものだ。木の看板よりも、臨時で使う幟旗の方が風に揺らめいて、かえって目を引くことになるので好ましいとも言える。
 ただし、うどんより心持ち太いということで、「心」持ち「太」いの「心太」なのかもしれない。心太はやわらかいからある程度の太さを確保して多少の歯ごたえをつくる必要があるからだろうが、本当のところは分からない。
 心太一つをとってもこのありさまだ。今当たり前の事にもいろいろ説明をつけておくのが後々の人にとってはありがたいということだ。いらぬ説明だと思われることを積極的に行い、厳重に保存しておくことは、現時点では全く無意味なことなので、そんなところに大事な労力をかける人はいないだろう。しかし、こうして真実は闇に包まれていくことになる。
 これが謎解きの面白さを後世の人に与えることになるのだが、同時にまことしやかな「こじつけ」を大発生させることになる。この「こじつけ」が迷惑になるか、コミュニケーションに役立つか、脳のトレーニングにつながるかは誠に面白いところだ。しかし、このこじつけは何に影響してどんな結果をもたらすかということが予測しにくいという恐ろしさが常につきまとう。裁判であれば人の命にかかわり、日常生活では間違った認識が大手を振ってまかり通ることによって常識の常識としての権威が失墜するというおそれもある。まことしやかなものであればあるほど疑ってかかった方がよいように思う。これを忘れてはならないと肝に銘じたい。

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08-07-2009

心の断片182「疲れてもいいよ」

「疲れちゃってもいいよ」

おはようと声かける
形だけなんだけどそれがいい
さわやかな一日になるかな
目を閉じたら誰でも一人
そして宇宙の真ん中
みんな同じ
君一人だけ悩む意味はない

大丈夫だよと声かける
今日も一日過ごせそうかな
さわやかに暮らすには
そうだな 真心をこめよう
振り返っても誰もいないよ
今みたいにね
前だけを向いていればいいんだ

まだ死ぬんじゃないと声かける
自殺する必要なんかないね
どうせ死ぬんだから
子供育ててから
命を捨てての大仕事
これに勝る幸福はないはずだよ

疲れちゃってもいいよと声かける
疲れたら休んで
休んだらがんばって
がんばったら疲れちゃえ
生きるってそういうことと
子供を育てることだよね
それ以外はおまけで
あってもなくてもいいもんだ

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04-07-2009

心の断片181「酢酸菌」

「酢酸菌」

近頃
見えなかったものが見えてきて
聞こえなかったものが聞こえる
言えなかったことが言えて
行けなかったところへ行ける

だけど
楽しかったものが楽しくなくなり
面白かったものが面白くなくなり
怖かったものが怖くなくなり
辛かったものが辛くなくなった

そして
美味しかったものが美味しくなくなり
美しかったものが美しくなくなり
読みたかったものが読みたくなくなり
欲しかった物が欲しくなくなった

どうにもこうにも
自らつくりあげてきた世界に
守られながら溺れていくのなら
いっそのこと
すべてをひっくり返してしまおう
あってはならないことを
引き起こしてしまおう

生き物だからな

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幻想9「神隠し」

  煙突はどこへ行ったのだ。家々の屋根からつくつくと生えていた煙突はどこへ行ってしまったのだ。縁台も、風鈴も。そもそも大人たちはどこへ行ってしまったのだろう。どこもかしこも子供ばかりじゃないか
 もしかすると僕たちは神隠しにあっていたのだろうか。そう。この街は、唐突に異世界から戻ってきた子供たちばかりがあふれているに違いない。異様だ。大人たちはとうの昔にもうみんな死んでしまったのだろう。
 だが、不思議なのは一体の死体もないことだ。骨すらも発見できないのだ。もっとも、どこか別のところで生き続けている可能性がないではない。たとえ、絶滅寸前の人数しか残っていなかったにしてもだ。これを捜索するかどうかについての議論は大きく二分して今日に至っている。
 間違いないのは、分からず屋で頑固な大人はもうここにはいないということだ。ずるい大人もいなければ、子供に厳しく自分に甘い大人もいない。天国のような世の中じゃないか。
 誰もがこう考えて、はじめは見慣れぬ街の様子に戸惑いはしたものの、まるで自分たちが天下でもとったかのように喜する者も出始めた。もちろん、次の日には絶望に言葉を失うことになるのはわかっている。大人あっての世の中だったのはどの子供も了解していることだった。
 まず食わねば。着る物はどうする?半分朽ちたようなこれらの町並みで安全に暮らすにはどうすればよいのか?ギャングと化した子供たちもいるなかで、どう自分の身を守ればよいのか?まず発電所を動かさなければ……。
 ともかく、リーダーには誰が立つべきか?そうだ。選挙をしよう。誰を候補にたてるのだ。だいたい選挙というのはどのように進めたらよかったのか。どんな法律に従って進めていったのだろう?
 あれやこれやしなくてはならないものが、僕たちの目の前に山積みになっていく。あれほど疎ましく思っていた大人やら決まりやらが、実はいかに頼りがいのあるものであるかを思い知らされる毎日だ。
 そうこうしている内にも仲間が殺されていく。何か新しいグループが勝手にできたようだ。必要な人材なのだろうか、拐かされる者もでてきた。
 警察などはもうないのだ。警察署は残っているが、警察官は全部大人だった。今、生き残っているはずはない。憎まれ役は彼ら大人が請け負っていたことを実感するのは、悔しくもあり、ありがたくもあった。
 今目の前に子牛が一頭現れたとしても、いったい誰が肉にするのか。それだけでおそらく何日も議論をしなくてはならない僕たち子供という存在は実に滑稽な存在になってしまった。
 そもそもなにがこの世に起こったというのだろう。すべての子供がいなくなって、この世は滅びたのだろうが、ほかの街や国も同じなのだろうか。
 僕たち子供だ神隠しにあったのか、それとも子供たちを残して世の中や大人たちの方が消えてしまったのだろうか。世の中だけが戻ってきて、大人はまだ戻れずにどこかわからない世界をさまよっているのだろうか。
 すべては推測の域を出ない。ただただ目の前に広がるのは、子供たちばかりの無法地帯。地獄のようだ。大人たちの圧力や監視によって秩序というものが成り立っていたのはわかった。汚れ役や憎まれ役のいっさいを請け負ってくれていたのもよくわかった。
 純粋な子供ばかりであれば純粋な世の中になるだろうと、思いこんでいたのだが、実際にそうなってみると、純粋などというものは微塵もなく、自分の欲望に関してのみ純粋であったということが、暴露されてしまった形だ。
 僕たち子供が正直でありえたのは、正直であることによって受ける攻撃を守ってくれる大人がいたからだ。また、守ってくれる法律があったからこそだ。
 だからといって大人が偉い訳じゃない。子供の時にそうしてもらったように、同じようにしていていただけだろうと思う。理由付けとして愛情とか義務とかいいつつも、ただなんとなくそうしていただけに違いない。
 しかし、今となってみれば、そうしたことすら崇高な行為に思われてくる。
 生きるということは、生きることに意味があるのであって、他に何をしたかではないのかもしれない。自由を勝ち取ることに生きる意味を見いだしていた人は、自由を勝ち取った後はどうするのだろう。自由に暮らすというのだろうか。いったいそれに何の意味があるのだろう。
 だからといって自由を束縛されていることにも我慢がならない。束縛の意味を知ることが自由を得ることになるのだろうか。それとも、束縛する者を排除することが自由を得ることなのだろうか。
 ともかく子供だけで暮らさなければならなくなった僕たちには様々な混乱が生じている。これは大人たちだけになった人々にも訪れているだろう混乱とはどのように違うのだろうか。
 いずれにせよ、この異常事態が僕たちを成長させてくれるのは間違いないことだ。しかし、それは僕たちが大人になるということなのかもしれない。

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02-07-2009

心の断片180「別れ際」

「別れ際」

もう会うことはないと
言えぬまま去ることの
甘く切なき胸の痛みも
日常の所作とともに
時に紛れて忘れゆく

その無念もまた忘れよう
今日もゆるりゆるり
ただ歩く
振り返らず
うなだれず
塀の落書きや
古き家の表札
そんなものに感心しながら
眺めては歩く
駅からの帰り道にしよう

別れ際
後ろ姿へ黙礼したのは
僕の儀式だ
生きもの同士
戦友たちが交わす
ささやかな最後のほほえみを
痛みとともに覚えておくためだ 

これらいくつもの痛みを
思い出してなぞれば
よれてむすぼれ
生きてきた証拠の品々ともなろう

人生の日々の分岐点
たまたま交差しただけの関係に
これだけの感慨深さを味わうのは
それは
いったいなぜだろう

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01-07-2009

恐怖シリーズ139「男女」

 この国には女子大があっても男子大という名の大学はない。男子大という名称の大学を女子大と同じ数だけ作ればよいという問題でもないが、このあたりからも、この国の男女観が見てとれる。
 しかし、この国の男女観が良いとか悪いとかいう議論に意味はない。良いも悪いもない。現実としてあるものは必然性があってそうなったものと考え、これからの時代にそぐわない部分が出てきそうならば、考えられる不都合を解消するため、対症療法的にではなく、総合的に変えていけばよいだけの話だ。年月はどれだけかかってもよい。必要なだけかければよい。
 無理な変革はいつの世でも逆効果になることが多い。本来は、性急な人々によって方向を変えた後に、彼らには立ち去ってもらい、別の集団が適切な運びをすればよい。しかし、最初の性急な人々には未練や誇りがあって立ち去らない。ときとして立ち去らせてくれない場合もないわけではない。しかし、そうすると総合的に変えていけなくなり、反動が起きることになる。先鞭を付けたパイオニアが時として邪魔者になってしまうという典型だ。
 さて、この総合的というところがポイントだ。これまで「そんなつまらないこと問題にするな」ということも大事な事柄の一つになってくるからだ。世の中をひっくり返そうとしたら、根本的な問題も些末な問題もない。総合的に動かなければ駄目だ。これまで世の中を変えようとしてうまくいった試しが一つもないのは、些末な問題を殊更に軽視した結果であるか、些末な問題だけを重視してしまった結果であるようには思われないか。
 ファッション等、見た目を同じにしていくとか、言葉遣いを一緒にしていくとかいう文化的なところからも攻めていかないと、法の不備をうめられない可能性が高いように思われるが、どうだろう。法というのは、最初から不備があるものだ。それは、法というものが適用されるものだからだ。つまり、適用の仕方によって、法の精神が貫かれて全うされたり、飾り物になってしまったりするという不安定さが生まれてしまうことによる不都合がどうしても起こってしまうのだ。その不都合を解消するには、関係するあらゆるものに手をかける必要がある。
 しかし、関係するあらゆるものに手をかけるのは不可能だ。これは時間というしっとりとした武器を使ってあらゆるものに手をかけることを心がけていくということしかできない。意識改革には、それなりの時間、世代交代が必要となるのは仕方ない。これを慌てるといけない。自分の代だけで事を為そうという狭い了見を持ってしまうと、それ以上の時間が必要な改革には不適切な進行を強いることになってしまう。五世代、十世代かかるものについては、それだけの時間をかけるべきだろう。
 根本的な問題ではないと信じられているものにはどのようなものがあるだろう。つまり、不当な扱いを受けているかもしれない問題のある問題たちだ。そして、どのように手をかけていったらよいのだろう。
 たとえば、胎児をお腹で育てるとか、出産でお腹を痛めることによって、生理的にも子供との深い絆を感じてしまうので、男女の意識の差が生まれてしまう。これは人工子宮で体外妊娠を行うことで解決しそうだ。逆に男女交代で子供を産むようにしてもよいのかもしれない。
 母乳も両親から出るようにすればよい。男性の退化した乳房を何とかして復活させることはできないか。そもそもあれは退化したものとは限らないが、とにかく使用できるように改造することを考えた方がよい。それが不可能なら、お父さんもお母さんも平等にするため、母乳も粉ミルクも哺乳瓶から与えるか、粉ミルクだけにすればよい。
 こうしたことを馬鹿げたことと考える人がほとんどだろうが、こうしたところを変えなければ、理想主義者たちが夢に描いているようなことなんて実現しないように思う。理想に走って滅亡するのも人間らしくて面白いではないか。
 男性の女性化、女性の男性化が何によって進んでいるかも確認しなければならない。遺伝子レベルで起こっている場合と、文化的レベルで起こっている場合と、それ以外の個人的事情で起こっている場合と、それが複合して起こっている場合とで、それぞれに抱え込んでしまう問題が違う。それどころか、大手広告代理店の仕組んだ大型プロジェクトである可能性もあるから、かなり人工的で歪な発想のもとに進められていることの上塗りとして採用されている一般的社会風潮というものなのかもしれない。
 だから、社会の変化が病的に進むのを抑えるには、いくつもの対策を持たなければならないという面倒が生じる。誠に厄介なことだ。しかしまた、それが人間らしくて面白いところだ。
 このように面白いことというのは、根本は恐ろしいことである場合もある。恐らく、それでなくてはバランスがとれないということなのだろう。

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