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8/31/2006 恐怖シリーズ87「誰がやるのと発言する人種」 原油の可採年数は2005年度末の段階で49年とされている。しかし、超重質油も埋蔵量は原油並みにあると言われ、2008年には中電が事業化する運びとなっているようだ。うまくいけばエネルギー問題の先延ばしを30年40年ほどすることになる。その間に根本的な解決策を探ることもできよう。また、中東以外に分布しているようなので、国際政治も大きな流れの変化を迫られるはずだ。 これまで捨てていたものに光を当てると、運命が変わるというよい見本だ。同じことが人の社会でも言えるかもしれない。所謂社会のくずと呼ばれる人たちにも、有効利用することができる道をつけていくのが行政のあるべき姿と言えよう。 こんなことまで支援しなくてはいけないのか、自業自得だからそのままにしておいてもいいのではないか。そう言う人もたくさんいるだろう。確かにそうかもしれない。でも、不摂生のために病気になって貴重な医療費を食いつぶしたり、刑務所で無駄飯を食わせる余裕などもうない。いつまでも従来どおりのやり方を踏襲する愚かさが現代では問われているのを忘れてはいけない。 それに気づきながらも、それを誰がやるのと発言する人種によって世の中は機能しなくなっていく。その不具合だけには敏感になっているのが兆しなので、あまり期待できないが、自己診断できる人も多少いるはずだ。自分自身もいつの間にかそうした人種になっているときがある。そして、その期間が少しずつ長くなっていく。恐ろしいことだ。 8/30/2006 日々雑感135「大人の話③」 ところで、早く大人になりたい子どもたちがいる一方で、大人になりたくない子どもたちがいる。また、大人になれない子どもたちもいる。こうなると、子育ては本当の意味で難しいものになる。卵からかえるとき、雛が内側から殻をつつくのと同時に親鳥も外側から殻をつつくという。観察したことはないので、確かかどうか分からないが、こうしたことを人間の場合は意識的に行わねばならない段階に今ある。学ばねばできないのだ。いつの時代からこうなったのだろう。育児書を読んで初めてどうにか理解し、実践段階で失敗する。その子が年月を経て子どもを育てる立場になったとき、もっと悪い状況を作り出す。よからぬ状況の再生産だ。逆のひどさとしては、育児放棄だ。その中間の状況もいろいろあり、死なないと報道されないだけで、実際にはいろいろなケースがあると聞く。 虫や魚などは極めてまれな例外を除いて卵を産みっぱなしにする。それで間に合うのだ。しかし、人間ともなると、産みっぱなしでは不十分だ。その後何年も親や地域、各種教育機関が育てたり、修行してもらったりする必要がある。遺伝子情報だけでは間に合わない社会を築きあげる必要があるほどに変化してしまったツケなので仕方ないと考えるしかないのだろうか。ともかく人間が大人になるには育てられないといけないのだ。実に面倒な生き物だ。 8/28/2006 日々雑感134「大人の話②」 もう一つ大人としての仕事がある。自分の子どもを育てることだ。子どもは、親の思いどおりには育っていかないが、親が育てたように育っていく。だから、子どもの段階でいろいろな子育てを見たり聞いたりして、子ども自身が子どもなりの一定の見識をもつことが大事だ。そうすれば、大人になってから子育てをするときに、それなりの苦労はするものの、さほど難しいものではなくなるだろう。 子育てが難しいというのは、思い通りにならないからそう感じるだけの話なのだ。もともと人間は自分以外の人間を思い通りにはできない。それが普通なのだ。普通だから、難しいなどと敢えて言わないほうがよい、というのが僕の感想だ。 人間を思い通りにできるのは神か、マインドコントロールの巧みな親だけなのだ。 日々雑感133「大人の話①」 大人はずるい。大人は無責任だ。大人はすぐ勘違いする。大人は自分勝手だ。大人はすぐに決めつける。大人はいつも約束を破る。大人はみんな同じだ・・・・・・。当然だ。何しろ大人はかつて子どもだったのだから。 こうした子どもの本質をバージョンアップさせていき、自分の子どもの手本となれるように努力するのが大人の仕事のひとつだ。この仕事をしている者は、たとえ若くても大人の一面を持っているといっていい。この仕事をし損ねると、子どものまま大人になり、大人はずるいとか、無責任だとか、すぐ勘違いするとか、自分勝手だとか、すぐに決めつけるとか、約束を守らないとか、みんな同じだとか言われる可能性が高くなる。 これらの決まり文句を覚えた小学生ぐらいの子どもが、自己防衛の手段として殺し文句風に使用することがよくある。いかにも時代がかって仕方ない。周囲からの失笑をかっているのに本人は気づかないことが多い。それどころか、これを「うけた」と勘違いしている場面に出くわす場合だってあるのだ。気の毒なので、これは早く気づかせてあげた方がよいだろう。 8/27/2006 突然思い出したこと58「没・半魚人計画①」左ヒラメに右カレイ。例外もある。というよりも、「左ヒラメに右カレイ」自体が例外と言っていいのかもしれない。どうもこの方法でほぼヒラメとカレイを区別できるのは日本だけのようだ。日本以外では左ヒラメと右カレイの比率が異なるらしい。 幼魚の頃に目が移動し始めるということなのだが、目だけが移動するはずはない。頭蓋骨の変形のおかげで目が移動できるはずだ。眼窩から目が飛び出て筋肉や視神経や血管を引きずりながら旅立つはずはない。 体がまだやわらかい幼魚の頃にこの頭蓋骨の変形が起こるのは何となく分かるが、これをコントロールしている部分が分かれば、目が左右についた魚型の頭蓋骨の人間を作ることができるかもしれない。目が左右についている人間と目が前方によっている人間を組ませて戦闘活動を行えば、少人数で有効に防御と攻撃ができ、双方の無駄死にが減る。 目の位置の変更だけでなく、魚眼レンズにする必要も出てくるだろうが、魚型の頭蓋骨人間は立体視を苦手とする分だけ、広い視界を得ることができる。一瞬の判断の速さが生死を分ける厳しい環境の戦場には是非いてほしい存在だ。彼らが増えれば、攻撃よりも回避の作戦行動が得意になり、愚かな戦闘も減少するかもしれない。しかし、裏目に出れば、彼の情報を元に、今以上の攻撃的な戦闘が繰り広げられるおそれがある。これは僕が考えているいくつかの半魚人計画のうちの一つだが、平和のためにはすべての人類が立体視できないようにする必要があり、あまりに現実的ではない。そのため提案前に没となった。 ★ホームページに戻る 8/26/2006 恐怖シリーズ86「心中」 「心中」と言えば、最近は無理心中ばかりで悲惨だ。本人は大きな問題を抱えて解決できずにいたわけだから、同情の余地はある。一時期必死になった後、あきらめて死を選んだと考えたいのだ。でも、今のように無理心中ばかりが報道されると、心中イコール無理心中というように頭の中で結びつけられてしまうおそれがある。 さて、心中は心中でも、この世で結ばれないために起こる男女の心中事件というのは最近どの程度あるのだろうか。報道されるのはネットで自殺希望者を集めていっしょに死ぬという新しいタイプの心中ばかりで、相対死というものをほとんど聞かない。 この二つのタイプの心中を中心とするいろいろな心中に対するいろいろな宗教の解釈と対策をお伺いしたいと思う。もし、活動実績があれば、それも知りたく思う。 どちらにしても若い命が消えていくのだから空しい。「心中」という言葉を聞いて、聞いたときの少ない情報だけを元に狭い了解の仕方をしてしまうと、それにこだわりをもち、日常生活の中で自分でも知らず知らずに「心中」実現に向けて備えをしていく若者だっているはずだ。了解ミス、判断ミス、行動ミスは若者が大人になるために必要な特徴だ。でも、大人になる前に死んでは元も子もない。 言葉は恐ろしい。「心中」ばかりではない、恐ろしい言葉の垂れ流しはごめんだ。テレビ、ラジオの業務に携わる人々は、報道責任をとれる形で報道することを研究してはくれないか。撒き餌のように電波をとばすのだから、何が引っかかるか分からない等とうそぶいていてはいけない。 番組には出てこない賢い若者が実際には多いのだ。職種上、一見広く調査し、広く世間に影響を与えているように見えるので、そのおごりからかどうか分からないが、いつの間にか自分たちの世界だけに閉じこもっていることに気づかないのは仕方ない。どんな職種にもあることだ。 しかし、表現の自由の侵害ばかりを言って、表現の責任についてはほとんど追究しない態度が、マスコミ不信の若者を増加させている大きな原因になっていることには気づかないといけない。若者をマスコミ不信にさせてはいろいろとまずいのだ。なぜまずいか。それを言うのが恐ろしい。 8/25/2006 恐怖シリーズ85「進水式」 生け贄。生け贄は捧げられるときに殺される。生きていた者がそこで死ぬからこそ、命を捧げたことになる。既に死んでいたら、肉や骨を捧げただけになってしまう。 捧げる命は汚れなき命でなければならない。そこで、数多くの汚れなき命が奪われることになる。しかも、捧げられる以上それなりの価値のある命でなければならない。汚れなき価値ある命とは何か。純潔の少女か、徳のある僧侶か。 徳のある僧侶などは、今も昔もそうやすやすとはいない。それに対して、純潔の少女は今と違って昔はたくさんいた。たくさんいるもののうちのひとりが選ばれるのだから、生け贄となる確率は低い。集団の構成員がある程度の安心感を持ってその風習を維持するためには、一定以上の人口が必要だろう。その他大勢がたくさんなわけだから、生け贄に選ばれた少女の家族は周囲からのプレッシャーによって納得せざるを得ない状況に陥る。社会的な名誉を得られるというような報酬もあったかもしれない。 すると、逆に積極的にとらえて、滅多にない運命にありがたみを感じて感謝の気持ちで受け入れるしかなくなるかもしれない。いや、重大な事態の収拾であればあるほど、逆にその事態をすんなり受け入れてしまうという心理が働くのではないだろうか。 ところで、大きな船の進水式でシャンパンを船首にかけるため、ロープでシャンパンの瓶を振り子のようにして当てるという風景をテレビで見たことが何度かある。シャンパンの瓶が割れれば中のワインが二酸化炭素とともに景気よく飛び散る。高価なシャンパンなら、祝いのセレモニーにもそれなりの高価な分の華がそえられるかもしれない。 しかし、発砲ワインのできる前なら普通のワインだ。これはキリスト教的には血の象徴ではなかろうか。実際にワインを飲めばアルコールだから当然顔も赤くなる。血が体に注がれたように目に映るだろう。赤ワインなら、それ自体、見た目が血の色だ。これは生け贄の血の代わりかもしれない。もしかすると本来は、ロープにつるした生け贄を船首から吊して進水式を行ったのかもしれない。凄惨な状況が目に浮かぶ。もし生け贄なら、航海の安全を祈って海に捧げるのか。あるいは、その命を船に注入するという凄まじい呪(まじな)いなのか。 日本ではかつて船に女を乗せるなという戒めがあったが、何か曰くありげな感じがする。昔の日本の進水式はどうだったのだろう。分からないだけに恐ろしい。 ★ホームページに戻る 恐怖シリーズ84「臓器摘出刑」 臓器移植のドナー登録に二の足を踏んでしまうのは、臓器摘出時に本当に意識がないのか痛みはないのかという疑問があるからだ。http://fps01.plala.or.jp/~brainx/(「脳死」・臓器移植に反対する関西市民の会)こんなサイト記事を読めばなおのことだ。この記事を読む限りでは、脳死判定の方法の問題だけではなく、実際にはさまざまな問題が渦巻いているのが分かる。 脳死した人から臓器移植用の臓器を摘出する際、筋弛緩剤や麻酔を使うというのは、嫌な話だ。なぜか手術台で起きあがる人もいるらしい。これを反射運動と説明されてもいい気はしない。脳死から回復する例がないわけでもないからだ。 臓器を待つ人に比べて、提供者は圧倒的に少ない。その上、合う合わないもある。金を積んで新鮮な臓器を求めようとする人々もたくさんいるはずだ。これから元気を取り戻す可能性が大きい人が生きるか死ぬかは、担当者にとってはいろいろな意味で算数の問題だが、臓器を待つ人にとっては文字通り死活問題なのだ。 しかし、同じようにドナーにとっても死活問題、いや人権問題も加わる。ドナーとなる気持ちだけをあおって、現状や問題点を説明しないとすれば、大問題だ。助かる人を増やすのが先決、つまりドナー登録者を増やすことが優先しようとするのは当然だ。しかし、ドナーはどうせ死ぬし、生命維持のための医療費負担を考えたら、助かる人を優先して考えるのが正しいと了解しているとすれば、その算数は恐怖の算数となる。その問題に答えるために都合のよい脳死判定方法と基準が作成されるはずだからだ。 ところで、噂話できいたことだが、隣の大国では死刑囚の臓器をしっかり利用するようだ。新鮮な肝臓からはとてもよく効く肝臓の薬が作られる。高品質というわけだ。ただ無駄死にするより世のため人のためになるなら、本当に反省している死刑囚にとっては願ってもないことなのかもしれない。 この世に間違っても「臓器摘出刑」なるものが生み出されないように祈ろう。ただ、失明させられた被害者が加害者の目をもらうのは道理のような気がするから怖い。これを道理と感じるのは人情だ。人情に合わない法律は果たして正しくとも受け入れられるだろうか。受け入れられないものは、悪法となる。 ハムラビ法典等に見られる「目には目を、歯には歯を」の説得力が、歴史の中でいかにして否定されてきたのかを振り返ってみたい。普通はうまく適用できなくなった事例が増えて、人々が不都合を感じ始めるところから、その説得力が崩れ始めるはずだ。しかし、うまく適用できなくなった事例が増えたという理由で撤廃すれば、うまく適用されていた部分を無視することになる。適用範囲をその時代の常識によって定めていくのが正しいやり方なのだろうが、それを面倒がる人たちだっている。 こうしたらこうされるというのが決定されているのは、正札商法のようだ。交渉によって価格を成立させるのと同じように刑罰を考えるのは不公平感があるかもしれないが、所謂優秀な弁護士によって減刑されるのは日常茶飯事だ。弁護士の優秀さと検察の優秀さの関係によって落としどころが決まるというのは、少し考えると変な感じがする。では、他の方法があるかと言えば、正札商法のように、こうしたらこうするという「目には目を」方式しか思いつかない。そうした貧困な発想しかできない頭脳を鍛えるには相当のトレーニングが必要だ。 ★ホームページに戻る 8/21/2006 恐怖シリーズ83「ホラー」 ホラー映画とは最近縁遠い。だんだんと怖くなくなってきたのだ。映画の限界か。それとも僕が恐怖に対して鈍感になってきたのか。 恐怖に対して鈍感なのは困る。それがホラー映画の「つくられた恐怖」に対する感覚の鈍磨から始まっているとするなら、ホラー映画にはそれなりのリスクがある。恐怖は恐怖として感じた方がよい。正常な恐怖心を育てないと、人間が正常ではなくなる。 邪悪なものに対する恐怖が鈍磨するにつれ、神に対する畏怖心も崩れていくのではないかと思う。そうすると、ついに人間が人間になってしまう日が急速に近づくことになってしまう。こんな恐怖が他にあるだろうか。 いつもしていること、好み、習慣・・・・・。それらによって自分の中の何が鈍感になっていくのかを自覚する必要はないだろうか。生活習慣病ならぬ生活習慣由来の精神構造、思考癖のようなものが生み出されてはいないだろうか。ただの生活様式として閉じていればよいが、それが土台となって組み上げられるものがないわけではないだろう。 知らないうちに身につけた仕草、言葉癖。要注意、要注意。これをコントロール下におかないで平気でいる人は怖い。 8/20/2006 変な疑問46「細木氏の寿命」 細木数子の出演するテレビ番組には驚いた。僕は案外と驚かない方なのだが、思わず驚かされた。それは、占い以外では比較的常識的な発言をするという先入観が僕にあったことと、たぶん驚かす意図を持って彼女が話をしていたからだと思う。 とりわけ寿命の問題が驚きと面白さの両方の要素を持っていたので、こうした発言をする彼女を起用するテレビ局はある意味で人をみる目がある。高視聴率は、彼女の力だけではなく、時代と文化と視聴者をよく分析したうえでの見事なキャスティングのなせるわざなのだろうと思われる。 それにしても、細木数子氏は何歳まで生きるのだろう。本人は250歳まで生きると述べていた。はてな?①何かよい健康法を実践しているのだろうか。しかし、体型からは考えにくい。②冷凍人間になることを考えているのか。しかし、冷凍人間になっている間は生きて活動することができない。まさか部分的にローテーション冷凍するのか。それとも、冷凍される前に企画書を作っておいて誰かに代行させるのか。③どこかの細胞を取り出して保存して、そこから蘇るように予約しているのだろうか。しかし、そもそもDNAが全く同じだったとしても、それで蘇ったとすることができるのか。死亡届を出したり、出生届を出さないことが大事だな。蘇ったとしても肉体だけだから、かなり本人を勉強しなくてはいけない。④占星術の方だから、地球の公転の一年ではなく、別の惑星の一年で換算しているのだろうか。しかし、80歳代まで生きるとして、ちょうどよい公転周期を持つ惑星は太陽系にはない。おそらく星以外のものに住む予定なのだろう。⑤通常人の人生の3倍程度充実した人生だと考えて換算するのだろうか。しかし、充実度はどうやって比較するのだろう。築き上げた富か。それでは数倍ではすまないだろう。すると、その価値を割り引いて計算しないと数字が合わなくなる。割り引いて計算するとは実に謙虚な心構えだ。しかし、どの程度割り引くかは本人次第で、結局は数字あわせになってしまうだろう。⑥現時点で既に240歳だったと年齢詐称をしようとしているのだろうか。まさか。⑦生命維持装置をいつ取り外してくれと頼んでおけば、きっちり250歳で死ねるので、特別な方法の植物人間状態で生かし続けてもらおうという話になっているのだろうか。しかし、植物人間状態で生き続けることはできるのだろうか。老化に関係するDNAをいじるのだろうか。別に今の姿で生き続けるとはいっていないので、変身してもいいということだろうか。⑧弟子が彼女の遺志を受けて活動するから、その分を合計するということなのだろうか。彼女(彼?)は私の分身ですとか。それとも自分のクローンを既に作って教育しているのか。それなら年齢を合計してもいいか。⑨他人を占うことには慣れているが、自分の寿命を占うときには少しうろたえて間違ってしまったのだろうか。まさか。⑩年金でもらうつもりのお金を計算すると250歳まで生きていないといけないからか。しかし、これはただの希望にすぎないので、説得力はない。 何を根拠に、どういう方法で250歳まで生きるとは、まだ僕は聞いていない。たぶん質問しても企業秘密ですよと逃げられるか、そう言う修行を積んでおりますと曖昧に答えられるか、人の寿命とは微妙なものです。今お話しできる問題ではありませんと言いながら、あなたの寿命についてお話ししましょうと言って、問題をすり替えるかのどれかであろう。もちろん、無視されるというのもある。 若者は将来の不安をかかえながら自分を確立しようとする不安定な時期にある。しかも結婚問題を抱えて、三重苦の状態にある。中年の人は子育てや仕事、介護などの三重苦の状態にある。老人はさらにたくさんの苦を抱えている。みんな不安だからズバリ言われるとはっとする。はっとすると、救われた感じがする。そのうち信奉者ができる。祭り上げられる。引っ込みがつかなくなる。ぼろが出る。周囲からの批判を受ける。意固地になる。窓口を狭める。小集団で小さな世界を作ってその中で生きる。こういうパターンにはまると抜け出せない。 しかし、250歳まで生きるなどとテレビで発言するようになってしまうと、残念ながら先が見えてきた。ズバリ言う大人が少ないだけに、その面での機能低下は痛手だが、弊害を考えれば、微妙なところだ。テレビ局はどこまで報道責任を持って対応していくか注目したい。細木氏の寿命とはマスコミ寿命と考えよう。すると、彼女の占い(願望?)が的中すれば、後170年近く何らかの形で配信されるということなのか。そうなると、配信継続の理由も興味深いけれど、配信中止の理由も興味深い。 8/19/2006 突然思い出したこと57「自由に生きる」http://homepage2.nifty.com/kimyouseibutu/(奇妙生物図鑑) あきない。いろいろな形の生き物にはいろいろな生き方があるんだろうなあ。言い換えると、特徴のある形には特徴のある生き方のレールが敷かれているということだ。これは不自由の自由だ。逆に、自由の不自由もあるだろう。禅問答のようになってしまうので嫌だが、ついでに自由の自由と不自由の不自由もありそうだ。全体の自由と個体の自由、全体の不自由と個体の不自由。当然、全体の不自由と個体の不自由、全体の自由と個体の自由もありそうだ。 8/16/2006 突然思い出したこと56「レム睡眠」レム睡眠、ノンレム睡眠のことを知ってはいても、実際に自分の生活に当てはめて考えたことはなかった。考えなければ、知っていないにほぼ等しい。夏休みだから少しは脳みそを使おう。 ノンレム睡眠が眠ってから90分続いて、その後レム睡眠が20分続くというサイクルで、レム睡眠時に起床しないとさわやかな気持ちで起きることができずに、たっぷり寝ていても疲れが残った感じがするという話だった。 すると、0~90・・・×、90~110・・・○、110~200・・・×、200~220・・・○、220~310・・・×、310~330・・・○、330~420・・・×、420~440・・・○となる。 夜、1:00に寝るとすると、2:30~2:50、4:20~4:40、6:10~6:30、8:00~8:20のどこかで起きればOKだ。今、7:10に起きているので、ちょうど、12:00に寝ればよい。睡眠時間が約7時間で最も健康的だ。3年前までの10年間は、この半分の3時間半睡眠だったから、ちょうど200~220の範囲だったわけでOKだったわけだ。でも、やっぱり7時間睡眠には勝てないな。 今日から12:00に寝よう。とにかく何があろうとスタートの朝だけでもいいので、よりさわやかに迎えたいのだ。 日々雑感132「靖国神社参拝後」 首相の靖国神社公式参拝から一夜明けた。参拝によって日本の防衛費が増加することもないし、参拝によって日本人が好戦的になることもない。好戦的どころか戦後61年を迎え、戦争については一億総骨抜き状態だ。当然のことながら、こうした現実を諸国は伝えようとはしない。さて、来年はどうするのだろう。ない知恵を絞ってみるか。 ①記帳欄形式変更・・・氏名だけでなく、いわゆる頭を下げる対象を明記する欄を作る。祖父とか、戦犯も含むすべての方とか、戦犯を除くすべての方とか記入する。これを国際的に報道する。それ用にいろいろな国の言葉で記載されているのだ。これは宣伝力不足で、文字通り力不足だから、却下だろう。 ②参拝内容確認システム導入・・・国を代表する総理大臣が公式参拝するときには、参拝に難色を示す国のしかるべき立場の人に来てもらい、参拝ウォッチャーとなってもらい、参拝時の唱えごとを確認してもらう。参拝者は無言で参拝するのが本来だが、諸外国の国民感情に配慮し、参拝の気持ちを聞こえるように唱えますと、インターネット(閲覧規制のある国もあるらしいけれど・・・)や声明文や何やらをいろいろな国際会議や行事などで予め宣伝しておく。そして、「二度と戦争はしません。その決意を忘れないように今年も報告しに参りました。」と参拝する総理大臣に周囲によく聞こえるように唱えてもらう。これも事前の宣伝時に唱えごとの内容も伝えておく。それを実際に唱えているかどうかもしっかり諸外国で同時報道してもらう。日本は正しく報道されたかどうかを確認する権利を持つということにする。少し面倒だけど、アジアだけでなく、すべての国に同じように報道する。それぞれの国がこれに対してどう反応しているかをすべての国で報道するようにしていく。世界中の人が知っている事柄にしてしまう。これは費用がかかりすぎて大変なので、却下だろう。 ③反戦歌手起用・・・「やすこ&くにこ」を国際的にブレイクさせ、「やすくに」の語感を和らげる。これは馬鹿にしていると言われかねないので、最もまずい方法だと評価される可能性がある。反戦歌手だけれど、却下だろう。 ④旗援助・・・諸外国のデモで使う燃やしたり踏んづけたりする旗を支給する。今は国旗を使っているが、当時の軍旗にしてもらう。これによって日本国民の感情にも配慮する。これもかなり問題ある方法だろうから、却下だろう。 ⑤合祀範囲拡大・・・平和に貢献した世界中の人をまつる。ノーベル平和賞を受賞していることが最低条件。国際平和を願う神社として一皮むける。世界中の平和主義者が自国以外に埋葬される以外に、ここにもまつられることを願うような神社にする。神道が、今のところは戦争や紛争と無関係の宗教であることを強調するところからスタートさせる。これは実現が困難ということで、却下だろう。 ⑥外交カード化・・・これこれについては、公式参拝を2回分控えるのと同等の価値があるということで話を進めませんか。これは内外からかなり非難されるだろう。これこれに同意しないと、公式参拝をするぞというやり方はどこかの国と同じレベルになりそうで悲しいから、やはり却下だろう。 ⑦公式参拝批判への批判・・・内政干渉だと突っぱねる。これが現実的なのかなあ。でも、批判し合うという見苦しい状態になるので、却下だろう。 どれも却下歴然の駄目案であるうえに、10案までにあと3案不足だ。悲しいかな、やはりない知恵は絞れない。 これは政治問題になってしまっているので、みんなで意見を述べ合ってあたらしい打開策を見いだす世論を作り上げていくことが大事なのだろう。でも、僕たち日本人はまだそのレベルにはない。中国人も同様だろう。 お互いに打開策を話し合う年代別チームをそれぞれ作って、両国合同で勉強会をスタートさせるのがいいかもしれない。討論で勝負をするのではなく、理解し合うこととよりよい打開策を協力して打ち出すということを目的にするのだ。 自分の意思、意見、世界観というものがどういう過程を経て形成されたかということについて、一人一人が自分を見つめる段階がステップ1。次に、ステップ1で明確になった自分が、どのように社会にかかわっているのか、そして、どのような社会を見ているのか、そして、どのような社会を見ていないのかを見極める段階がステップ2。問題解決に当たって必要な資料や必要な検討を確認し、打開策を打ち出す段階がステップ3。 共同生活を行いながら、両国の将来を考えて熱く語る。こうした場を両国が力を合わせて設定するのは、政治上何か不都合があるだろうか。相談役としていくつかの国から第三者的立場の国の人間を各グループにつけて意見を述べてもらい、双方にかけている視点を示してもらう。プラスの成果が出るまでこの作業を続け、まとめを世界に継続的に発信していく。インターネットはこんな所でも力を発揮する。 心の断片41「ひとりは怖い」「ひとりは怖い」 真夏の汗が流れたら 海に山に出かけよう ここちよい人ごみは まぶしさでみな同じ表情のはずだよ ひとりは怖いよ ひとりはつらい ひとりは自分を隠せない 自分が自分になる前に 身のためだ そろそろ出かけたほうがよい 新品の白い靴で まだ下書きの残る横断歩道をわたろう 熱でゆるんでしまったアスファルトに ぼくはまじないの土埃を振りかける 自分になった自分など もうどうにも自分ではないのだ 8/14/2006 心の断片40「記憶再生療法」「記憶再生療法」 屋根の上で星を見たのは 少年の僕 隣のいえの物干し竿や 自分のうちの煙突や 秋の虫たちのさまざまつぶやき 駆け足で家に帰ったのは 少年の僕 靴音ばかりが響くアスファルトや 形の違ういくつもの窓明かりや 街路灯の羽虫に続く電線のたわみ 思い出せ 思い出せ 少年の日々 僕に立体感を与えるのは 今はもうお前しかいないのだ 8/13/2006 突然思い出したこと55「裏向きの額」 中学生のとき美術の先生に徹夜で書いたスケッチをご苦労様といって手ではじかれた。腹が立つより、絵の書き方を教えてほしいと強く思った。絵は嫌いではないけれど、先生にほめてもらえるような絵はどのように描いたらよいか分からなかったのだ。 僕は話によると、小さなころはどうも歯車ばかりを描いていた変な子だったらしい。そのうち機械の中身ばかりを描くようになった。これは自分でも少し記憶がある。小学校に上がると、所謂秘密基地の内部構造を描いてばかりいた。 親が僕に与えた物のうち、記憶にある絵本は次の4冊だ。おそらくディズニー絵本だと思われるの郵便飛行機の子供が活躍する絵本と宇宙海賊の絵本、そして地獄絵図の絵本、中国の昔話の絵本の4冊だ。 郵便飛行機の子供の絵本は、もちろん機首が顔になっている。風防ガラスが目で、赤いプロペラの軸先が鼻先になっている。片方の翼に郵便バッグを引っ掛けて嵐の中を歯を食いしばって飛んでいく絵と最後のページで無事役目を果たした子供飛行機がお母さん飛行機とお父さん飛行機の真ん中で満足そうな顔をしている絵の2枚が強烈な印象で頭に残っている。 宇宙海賊のコスチュームはまるでフック船長のようなまったく時代物の海賊船長のものなのだが、なぜか舞台は宇宙なのだ。藍色の宇宙に輝く星々、そこに時代がかった海賊船。でも、宇宙を航行する船なのだ。そして、なぜか船外に宇宙服なしの船長がいてせりふを述べる。誰のせりふかわからないが、おそらく船員の返事として「アイ・アイ・サー」というのが衝撃的だった。これは英語というやつに違いないと思ったのだ。これは見開きの2ページ分に描かれた一枚の絵しか頭に残っていない。 地獄絵図の絵本はよく分からない。しかし、血の池地獄とか針の山とかが描いてあって、あちらこちらに妖怪のような化け物や鬼のようなものが描かれていた。これも見開き2ページ分しか記憶にない。特に左ページの左下あたりに描いてあった緑色の鬼のようなやつが平坦な場所に陣取っているのが明確に記憶に残っている。「たんきこぞう」という名も強烈だ。これは親に質問した覚えがある。すぐ怒る短気なやつというような回答だった。これはいろいろな地獄キャラクターがいろいろな場所に配置されていて面白かった。 中国の昔話は、作画の雰囲気が淡く、比較的人物も写実的で異国情緒にあふれていた。一番最初の2ページ、むしろを敷いて数人の中国人が屋外で酒盛りをしている風景だ。その他は花の精だと思うが、桜色の花に顔が描いてあるキャラクターが断片的に思い出せる程度だ。 次の絵の記憶はかなり間を置くが、中学の美術の教科書だ。教科書とは別の教材の鑑賞の本だったかもしれない。ピカソの「ゲルニカ」から受けたどうしようもない混乱と、ムンクの「さけび」が何を見て叫んだのかという疑問、クールベの「波」の写真のような絵に対する奇妙な違和感。そうした感想とともに記憶されている。 次は大学だ。下宿の畳の上に並べた図書の中で一番大きいのが上村松園の画集だった。画集などを買ったのは後にも先にもこれ一冊。もちろんお金がないから古本だ。 当時は立ち読みが主で日曜日は1日がかりで数冊読む。書店や古本屋さんの本はとにかく全部読もうとしていたのだ。図書館では本が多すぎるし、書店の立ち読みだと自然に速読し、時間が節約できるからだ。そのうえ図書館より情報が少し早い。また、図書館ではおそらく置かないだろう本も置いてある。当たり前だが、金を払って自分のものにできる。 美人画集などを柄にもなくお金を払って購入したのにはそれ相当のわけがある。 「花がたみ」「焔」「序の舞」からこれまでになかった感動を得たからだ。絵を見て感動するなど、初めての経験だったので、買ってしまったのだ。「花がたみ」の構図の試行錯誤、下絵にどうしようもなく心をひかれた。「焔」には生霊そのものを感じた。そして、「序の舞」に透徹なる生き様を感じた。 その後、何十年も絵とは縁がなくなり、今から6年前に書いたパステル画が中学生以来描いた唯一の絵となった。このスペースのフォトの「僕の家族」がそれだ。生まれて始めて絵を描きたいと思ってかいた絵だ。夜10時ごろから、朝方にかけて、子供のパステルを使って必死に描いた。それなのに印象が暗いからという理由で絶対に飾らせてくれない。今もそのときのまま、シュレッダーの横に額を裏向けにして立てかけてある。 ★ホームページに戻る 8/12/2006 恐怖シリーズ82「杞憂」 杞憂とは、心配する必要のないこと、あるいは、心配する必要がないことを心配することという故事成語だと昔習った。周の時代、杞の国に空が落ちてはこないか心配で心配で仕方なかった人がいたという話をもとにした言葉らしい。周の時代の話だったとは知らなかったなあ。 心配する必要のないことと一口に言っても、心配が無意味な場合と、心配無用の場合に分かれると思う。手遅れの場合は心配が無意味で、勘違いや考え違いをしている場合は最初から心配無用ということだ。当然、杞憂の場合は後者の意味だ。 わが銀河系とアンドロメダ銀河は現在時速約50万㎞で接近しているらしい。次第に加速して、約30億年後に衝突することになっているようだ。こじつけのようだが、空が落ちてくるのだ。すると、杞憂は的中していたとも言える。 そうなると、杞憂の意味は、しなくてよい心配ではなく、さしあたっては心配しなくてよい心配ということになり、若干修正が必要となるかもしれない。言葉の意味合いは変わっていくから仕方ない。しかし、故事成語としてあえて学校で学習するものについては、意味を固定しておいた方が都合がよいだろう。 それにしても銀河同士が衝突したら、いったいどんなことが起こるのだろう。いくら星々の距離が遠く離れているといっても、星同士が衝突する可能性はゼロではないだろう。衝突しなくても、ある程度の距離以下に接近したら生き物にとっては恐ろしいことが起こるに違いない。一時期騒がれていた惑星直列による天変地異はまさしく杞憂だったが、まさしく文字通り星レベルの天変地異だ。 しかし、銀河の衝突はどうもこの宇宙では珍しいことではないという。観測した限りではその衝突によって新しい星々が誕生しているらしい。星が誕生するというのだから、大変なことだ。赤ちゃんが誕生するだけでも大事なのに、星ができてしまうのだ。お父さん銀河とお母さん銀河の交接ということだ。しばらくは別の銀河に移り住んでいた方が無難だろう。 そんな遠いさきの話などと言ってはいけない。必ずくる未来なのだから、それなりに思いを巡らしても罰は当たらないだろう。そう言えば、コンピュータの2000年問題や類似の問題もやはり必ず来るはずの問題だったが、誰か解決してくれるだろうとお互いに思っていて2000年間際で大あわてした。 もっと大変な問題を30億年先送りにして、僕たちの子孫が困るようなことをしては祖先として恥ずかしいのだ。でも、一般人である僕は、専門家が考えてくれるだろうとお任せしている。まあ、役割分担しているのだから仕方ない。このようにお互いが思っていて、口に出すのも恥ずかしいような遠い将来の話など馬鹿にされるのでしようとはしない。 ところで、30億年後の人類はどんな生き様を必要とする生き物に変貌しているのだろうか。人類であることをやめて別のものになっていることは間違いない。でも、僕たちのかわいい子孫たちなのだ。絶滅しないように僕たちの命をつなげていこう。「あれが、祖先が暮らしていた銀河だ。美しい衝突だなあ。」などと語り合うんだろうなあ。語る口をもっていればの話だが。その隣では彼らの子どもが「人類の進化」を学習機器を通して確認している。化石を残さなくなった人類は、人体実物標本を30億年分保存し続けた。30億年分の人体標本の数は膨大だ。でも、実物だから意味があるのだ。どんな意味があるのかは知らない。一度ため始めたものは途中でやめられないだけなのかもしれない。年に一体でも30億人分はいる。大量の死体をため込みながら、巨大宇宙船の中の人工環境の中で暮らしている僕たちに子孫。そんな想像をしただけでも愉快でたまらない。しかし、いつ彼らは死体調査から解放されるのだろうと考えると、恐ろしい。 今の僕たちは何から解放されればよいのか。それが分からないから解放されないんだろうなあ。もしかするとやみくもに何かから解放されようとして、しかも逆方向の努力をしているかもしれない。逆ならまだよい。見当はずれのことをしていることが現在は正しいとされているかもしれないと疑ってみてもよい。 しかし、変な懐疑主義に陥ってはいけない。陥るなら会議主義ぐらいにしておこう。 ★ホームページに戻る 8/11/2006 突然思い出したこと54「百科事典」どうして百科事典は百科なのだろう。百科の百は、NDCの10×10で百なのか。しかし、NDCなら10でもいいし、1000でもいい。しかし、百貨店という言い方がある。また、百も承知だという言い方もある。この場合の百は、単に「十分だ」「たくさんだ」という意味になる。でも、百科事典の百がそれと同じ意味だとは限らない。他にも、妖怪百物語、百人一首、百人組み手、百叩き、百貫・・・・・・。たいていのテストも満点は100点だ。 この百という数字の持ち出して表現しようという感覚は、人の寿命と関係があるかもしれない。寿命が、100年という区切りをめざしているかのように見えるということだ。 また、百という数字自体から受けとる感じには変化がある。10なら十分の10だから、それでいいはずなのだが、あまりにそれが多用されると、十分だとう特別の感覚が、次第に慣れて、普通の感覚になってしまう。そこで、次に百としてみると、それが新たな衝撃となって刺激となり、特別の感覚になる。その時点では、次の1000がいかにも大げさに感じられる。 次に、10と1000の中をとって、百あたりがおさまりどころとなるという意味での妙なバランス感覚もある。実際には10と100と1000とでは程度の差が文字通り桁違いなのだが、「中をとって」などと見た目の桁数のせいでごまかされてしまうのが面白い。 このように百という数字の感覚的なものは、いくつかある。だが、これらはあくまでも感覚的なもので、人によってぶれがある。差を求めたりはしないので、排他的にならない限り、ぶれていても問題があるわけではない。どちらかというとぶれていた方が対話が進み、好ましい関係を作ることができる。 が、ここはひとつ、NDCの100に見立てておこう。その方がいくらか学問的なので、百科事典というものにふさわしい。これも僕が持っている感覚にすぎないのだけれど、軽く扱われている分野やこれから切り開かれる分野をあぶり出すことができるので、都合がよいのだ。 8/10/2006 恐怖シリーズ81「無痛」 痛くないから無理な動きをして、捻挫したり、骨折したりする。いわゆる無痛症だ。痛くないから正しい行動を学習できないのだ。指をかじったり、爪を自分ではがしても痛くないから、血が出て面白いと思えばいつまでもはがし続けてしまう。世界に12人しかいないと聞く。 肉体の無痛症があるなら、先天的な心の無痛症の人も必ずいるはずだ。精神的にタフなのではなく、感じないのだ。心に痛みを感じない人はどんな人生観をつくりあげてしまうのだろう。そして、彼は肉体の無痛症の人のように保護されるのだろうか。 僕たちは、家庭環境や生育歴、職業や人間関係、文化や宗教が異なるので、それぞれ人生観が違う。つまり、社会の中では、ある意味でお互いに局所的な無痛症になっているはずだ。この無痛の共通項が一体感や連帯感に成長していく可能性がある。 目的や使命感によるものではない連帯感、仲間意識には、このいわば無痛感といったものがある可能性がある。通常、心の無痛は肉体の無痛と違って、学習によって形成されると想像する。後天的な心の無痛症だ。それが自分では分からない。指摘されても実感はわかないだろう。これほどの恐怖があるだろうか。 自分も多分そうなのだろうと疑って周囲に気を遣うことが大事かもしれない。ただし、周囲の人々も同じように気を遣っていると想像することも大事だろうし、気を遣っても結局は通じないことが多いと想像することも大事だろう。だから、適度な心配というバランス感覚さえもっていれば、まず罪がないとしておこう。何でもお互い様という変な了解は昔の人の大いなる知恵だ。 ★ホームページに戻る 8/9/2006 恐怖シリーズ80「墓石行政」 嫌な言葉を目にした。墓石行政だ。何度陳情してもだめ。でも、誰か犠牲者が出るとやっと動き出す。これは動き出すだけましではないかと考えるべきなのだろうか。 墓石行政という悲しい現実に対して、理想的な行政の姿は何だろう。何から何まで先回りして手当てしてしまうのも問題だ。先回り行政という言葉があるかどうか分からないが、これは税金の無駄遣いになるおそれが十分ある。また、そんな余裕は最初からないとみたほうがいい。もっと無駄遣いの道があるからだ。費用対効果なんて単純な考え方ではもうだめなのに他に評価の選択肢がないかのごとく唱える人もいる。考え方が正しいからといって方法や運用までが現時点で妥当だとは限らないのだ。根本から考え直さないといけないことはたくさんある。でも、それを誰がやるかという段になって、あなたやりますかと言いいさえすれば、絶対に黙るだろうというような表情で語りかける腐った人間もいる。毎日何が楽しくて生きているのだろうか。 県と市の行政の関係の情けない面は誰がフォローすればよいのだろうか。例えば、市は県の管轄だから関係ないという。県は住民から要望が出ていないので検討しないという。あるべき姿をめざして鋭意努力するという姿勢は微塵もない。ただ、口では言う。しかし、その口調からはどうしようもないやる気のなさが強烈に感じ取れてしまう。これでは変な圧力団体を増やしてしまうばかりだ。しかし、それに対して基準や有識者の意見を根拠に圧力を跳ね返そうとする戦術にははらはらさせられる。 基準も、いつどんなデータをもとにして何を目的にした基準なのかを後でつっこまれることのないように説明できるだろうか。基準などは、一見明確で公平であるようにみえるが、たぶんそれは数字で表現されていることによるからであって、本当はとても曖昧なのだ。曖昧だからこそ基準が必要だったとも言える。 有識者の意見にしても、誰がどういう種類のどんな主張を持ったどんなレベルの有識者を選んだのかということに尽きる。結果から逆算して集めているに決まっている。ただ、手順を踏んだという実績を積んでおかないと不都合なのだ。 すべてはよかれ悪しかれ時間が解決する。しかし、しかるべき立場の人が指導の手を入れないと、解決させないで時間を流し続けるという戦術を考えたり、焦点化している問題を多面的にして、解決の道をたどらせない方法を思いついたり、ない金は出せないという開き直りもちらつかせれば、何か妥協点を見いだす糸口がつかめるかもしれないと考えたりする人が出てくるとも限らない。 それはともかく、いろいろな圧力団体が行政を動かそうとすると、ある意味では墓石行政が行政の正しいあり方に変わってしまいそうなのが最も恐ろしい。 ★ホームページに戻る |
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