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31-08-2007

変な疑問69「今後のグーグルアース」

 五稜郭とアメリカ国防省の庁舎は五角形だが、片や城、片や役所の建造物だ。軍事にかかわるものとは言え、ともかく機能が違うのだから、比べる意味はあまりない。そもそも五角形といっても五稜郭は十辺でつくられた星形の五角形で、ペンタゴンの方は辺が五つある五角形だから、全く違う形だ。単に上空から見た印象が同じということだ。しかも、誰も上空から見る人などはいないのだから、話にもならない。
 ところが、これまで地形や街の形を地図で見ていたのと違い、一つ一つの施設を上から見るという
グーグルアースから得る感覚は、人の思考を変える可能性がある。誰もが上空から人の影まで見えるようになったからだ。
 五稜郭の方は、防御に死角のないように設計された結果なので、同じ目的の似た形の施設がいくつもある。もれなく敵を殺すために砲台が五角形の角に備えられている。ペンタゴンの方は、役所なのだから防御などは考えていない。地下施設などはあるに違いないが、大砲のような武器を備えているとは思われない。もし、ペンタゴンの五角形の角に火器が備えられていれば、そのときにはじめて五稜郭と同じ発想となる。
 ところが、グーグルアースで五稜郭とペンタゴンを比べてみると、共通点がある。それは上空から見た大きさと向きだ。大きさはややペンタゴンの方が小ぶりだがかなり近い。向きはほぼ同じだ。一辺を北に向けて、南向きにとがった正五角形だ。だが、両方ともグーグルアースの示している北向きからやや西に傾いている。北にもいろいろな北があるから、どの北にしたのかは知らないが、おそらく同じ理由で向きを決めた可能性がある。日当たりを考えると北向きにとがった正五角形にした方がよいと思うのだが、それは一軒家の感覚かもしれない。巨大なビルなのだから日当たりは関係ないだろうと思う。
 比べる意味のない物を比べる意味など最初からないはずなのだが、それでも何かを発見することはある。行き詰まったら、徒労に終わるかもしれないが、そうした比較も大事なのかもしれない。また、上空から物を見るというような、文字どおり視点を変えるということも、新しい何かを発見することにつながるだろう。かつて月に降り立ったチームが地球を眺めて考えたこととは違うが、これまでにない情報を簡単に得ることができることの意味をきちんと自覚しなければ、面白いなという感想を抱いただけで終わってしまいそうだ。
 自宅、五稜郭、ペンタゴン、モスクワ、皇居、太陽の塔、東京タワー、平壌の次に見たのはイラクの街だ。家がたくさん壊れている。ただ、この映像は簡単に修正できるうえに、いつの映像であるかも示されていない。解像度が極端に低くて何も分からない地域もたくさんある。
 これらの情報は今後どういう方針でどのように更新されていくのだろうか。
29-08-2007

恐怖シリーズ100「おもちゃ」

 水飲み鳥という玩具がある。水さえあれば半永久的に動き続ける例の鳥だ。デパートか土産物売り場か分からないが、水を飲み続ける鳥をじっと見つめていた自分自身を思い出すことがある。
 周りに人はいない。夕暮れだ。ガラス製品が並んでいる。音も立てずに水飲み鳥が揺れている。僕は運動靴を履いている。小さな鞄を持っている。階段の踊り場近く……。
 ここはどこだろう。十代のころか。何をしているのだろう。詳しいことは全く思い出せない。ただただ水飲み鳥のシルクハットとその下に並ぶ丸い目、ガラスの体に照明灯がひらめいて赤い液体の流れが幻想的だ。
どうしてこんな記憶を残しておく必要があったのだろう。何の役にも立たないのにと思う。
 だけど、僕の家のトイレの窓の前では親子の水飲み鳥が仲良く水を飲んでいる。親鳥はゆっくりと子どもを見ながら水を飲む。子どもの鳥はワイングラスの縁に留まってせわしげに水を飲む。気温や湿度で飲み方は違ってくるのだろうが、周期がどうであれ、いつかは一緒に水を飲む。それの様子がほほえましい。
 玩具というのは、このように人の気持ちをくすぐるものであったのだろうかと今更ながら思う。おもちゃは「
もてあそび」が語源だそうだが、もてあそびが「もちゃそび」、もちゃそびが「おもちゃ」となるのだろうか。人の心を慰めるもの。慰みものだ。
 幼児のおもちゃは、幼児の何を慰めるのだろう。思い通りにしたいけれど、体が小さく力も弱いので、何もできないということから生じるストレスを慰めるのだろうか。こうなると、幼児に与えたおもちゃの種類によって人間性のいろいろな部分が育てられていくということを考えないといけないということになりそうだ。知らず知らずのうちに築き上げられていくものは、自然の成り行きだとか、生来のものだとか思われがちなのではないだろうか。
 おもちゃの選び方は、おもちゃを分類して偏らぬ与え方をすることが大事なのだろう。誰でも、自分の中の理由のない衝動や説明のつかない行動に気づいているが、それが幼児期のおもちゃの与えられ方に関係するものであるかもしれないとはあまり考えない。
 何をおもちゃとして求めた幼児であったのか。そして、周囲の大人は何をおもちゃとして与えたのか。この両方を明らかにしていくのは困難だ。しかし、大人になっても突然手に取りたくなるおもちゃを手がかりにできるかもしれない。単に、珍しいとか、懐かしいとか、あのとき買ってもらえなかったとかいうことではなく、その底にあるものを見つめると恐ろしい自分の心の骨格が垣間見えるのではないかと思うと、何となく恐ろしく感じられる。
 欲しいものと欲しくないもの、与えたいものと与えたくないもの。これが一致していればよいというような単純なものでもない。また、欲しいものを与えられても、満足する場合と満足しない場合がある。さらに、欲しくないもの、かつ与えたくないものが身近にあり、それで満足しなければならない場合もある。
 しかし、たくさんの経験をする中で、平均化されていき、問題のない平均的な土台ができあがるのだろう。恐ろしいのは、たくさんの経験が、限度を超えて親とか企業の意図するままのものであった場合だ。
 目的を持った場合、何かを犠牲にしなくては成し遂げられないのが普通だ。目的的に何かが施されたとき、一面では成功したと言える成果を上げられることもあるのだろうが、人の心という全般的なものを育てるときは、あまり意図的ではない方が無難なのではないか。
 いわゆる豊かな心というのは、どうにも誤解されているような気がしてならない。
28-08-2007

日々雑感207「言葉が支え」

 「艱難汝を玉にす」とは、大げさな訳し方をしたものだが、このぐらいが日本人にはちょうどよい。つまり、受け入れられやすい言い方だということだ。
 「玉」というのはすぐれた資質を表現する言葉なのだろうが、「汝を」という言葉の続きに来るので、人格を高めるというという意味合いになっていく。なんでも「道」をつけて、人格を高める手段にしてしまいたい日本人にはぴったりというわけだ。
 人殺しの手段まで人格を高める手段にしてしまうのだから、なりふり構わず人格を高めたいらしい。それほどに日本人は人格が低俗なのだろうか。それとも、いろいろな手段を用意して一人一人の個性にあった人格の高め方を選択してもらおうという究極の社会を目指しているのだろうか。もっとも、ただ単に崩壊しそうなシステムの再利用を巧みにはかったのかもしれない。また、文化という受け入れられる姿にすり替えて生き残らせるという離れ業を行った結果かもしれない。
 まさしく武道がこれだ。そのトレーニングはまさに「艱難」で、その報酬として「玉」がある。苦労しないと立派になれないという人生観の柱となる言葉として「艱難汝を玉にす」は象徴的だ。
 「玉」は宝石だから、美しく輝く。その輝きは、人間の魅力と置き換えられる場合がある。また、その光は周囲への愛情だと解釈することもできる。その光が自分のためだけに光るのであれば、独りよがりの卑しい光となり、ただ単に美しいだけだ。伝わるものがなければ価値がない。伝える内容は何か。それは「艱難」を耐え、克服していく生き様そのものであり、耐え方、克服の仕方などの具体的な知恵でもある。
 このように、言葉を言葉だけで考えて、文章にして並べていくと、一つの言葉から世界が広がり、新たな意味が生じていく。それぞれを必要に応じて短い言葉にしていけば、記憶されやすく、使われやすくなって、一つの公に認められたパターンになる。格言やことわざが数多くあるのは、そうした事情もあるかもしれない。虎は死して皮を残し、人は死して名を残すというけれど、名を残すのは難しい。
 しかし、言葉を残すのは、名を残すよりも簡単だ。言葉なら、なおのこと人間ならではのものではないか。死ななくても言葉は残していけるけれど、その言葉が残るには、どれだけ多くの人が価値を感じて口ずさむかにかかっている。人任せといえば人任せだが、その言葉が、生き残るための社会背景もあるので、これを考慮して言葉をつくれば残る可能性は高くなるだろう。
 さて、「艱難汝を玉にす」という言葉を支えにして力強く生きる人々は僕を含めて多くいるはずだ。ゆめゆめ「我慢汝を駄目にす」とか「緩慢万事を偶にす」とか「ガンマン何でも弾にす」などと、もじらないことが肝心だ。

変な疑問68「色の数の決まり方」

 LANケーブルのプラグ取り付け作業の時に思う。ぜひ、8芯の被覆の色を虹色にしてくれと。我が国の虹は七色なので、これに白を足し、8色にする。こうすれば虹色順に並べればよいから、結線ミスが防げる。
 コストはともかくとして、赤
橙黄緑青藍紫白という並びになれば美しいではないか。5番目を3番目に移動させた結果が虹色の順になるようにしておけばよい。藍と黄のより線というペア自体も美しい。また、赤橙、緑青、紫白というペアもそれぞれになかなか美しいと思う。
 しかし、その美しさは隠れた美しさだ。日の目を見ることはない。こうしたこともなんとなく忍びやかでよいように感じる。透明プラグの中の左端と右端に赤白が来るのも何やら少し意味ありげで面白い。
 要するに、こんなことはどうでもよいということだ。
 ところで、虹というやつはかなりじっくり見ないと、それが七色だとはなかなか思えない。もともと短時間で消えるうえに、発見するのは虹になって暫くした後だから、ますます時間不足で観察が疎かになる。
 ところが、日本人の僕には「七色の虹」という七音の言葉だけはしっかりと頭に記憶されているので、その七色はどんな色で、どんな順番なのだろうと思いつつ虹を見ることになる。そして、知っている色の名前で、虹の色にあてはまりそうなものを七つ並べることになる。こういう順番なのだ。
 かつて、何人もの絵師が美しい虹を絵に描いて記録しようとしたに違いない。そのとき、「さて、いくつの色に分かれているのだろう?」と悩んだはずだ。しかし、見たままを描こうとした途端、
色が連続して変化していることに気づく。色の切れ目があっても目では分かりはしない。結局、いくつの色だと断定しがたいのだ。最後には、虹が何色だろうが、そんなことはどうでもよいという気持ちになる。描く虹の大きさと筆の太さとの関係もあるけれど、表現上、自分が技術的に不都合を感じない程度に、色の数を決めればいいからだ。
 つまり、
自分で納得できる絵が描ければよいのだから、虹の色の数はそのときそのときに決まるものとなる。絵師にとっての虹の色は、結局は便宜的なものになる。都合のよいことに、色の数について問いただされることはない。なぜなら、それは芸術だからだ。
  このように芸術的に便宜的に決めたものが、広く多くの人々の目にふれて、公的な感覚となっていく可能性がある。五色や六色、そして七色というように文化圏によって異なるのは、それゆえではないだろうか。
 また、絵画としてではなく、文学的な表現として虹の色が印象的に語られた場合も同じだと思う。広く多くの人々に読まれ、公的な感覚となっていく可能性が高い。歌詞に含まれる場合は特に印象に残り、自ら色の数を口ずさんだり、耳で聴いたりすることになるので、色の数が自分の感覚として築き上げられていく。
 それにしても、虹を描い た絵はどれだけあるのだろうか。少なくとも僕は見たことがない。もともと非常に少ないのではないだろうか。おそらく、物を描くときと違って、虹は手を抜けないに違いない。厳然と無数の色が並んでいるのだ。物を描くときには、このような色に感じたといって物の色を多少変えてもよいかもしれないが、虹を描くときには通る理屈ではないようにも感じる。虹の色は虹の色であって、普遍的なものだ。リンゴの色がいろいろであるのとは違う。
 光のあたり方でも変わってくる物の色だが、虹の色は光そのものだ。だから、言い訳ができない。しかし、どうしても描きたいということになれば、どうにかごまかして色の数を減らさねばならない。ごまかすというと語弊があるが、本当の虹に見えるように描くには、どのような省略をしたらよいかということを考えなければならない。でも、こうした作業を技術のない者が行うと、児童向けの絵本でときどき見かけるような虹になってしまうおそれがある。しかし、この絵本がくせものだ。くせものというと、また語弊があるが、人間の基本的な感覚を育てていく重要な働きをしているものだから、疎かにしてはいけない存在だという意味だ。

 ところで、画題としての虹が少ないのは、光を表現するということが技術的に難しいということだけでなく、虹に目がいってしまうことの不利益をうまく利益に 転換できないという画面構成上の問題もあるように思う。また、虹自体は光そのものの色なのだが、一般人にはそれを絵の具で表現することの難しさもある。
 いっそのこと、虹を描く部分を空白にしておき、そこへプリズムか何かで虹の光を映し出す仕掛けにすればよいかもしれない。ときどき現れるという工夫もできるので、面白いかもしれない。
 とは言え、実際に描きたいと思うのが人情だ。特に描かれることが少ない虹なればこそ、チャレンジャーも出てくるはずだ。当然、描く以上は色の数を決めることになる。二色、三色などの少ない色数だと虹らしさを表現するのが非常に難しい。また、偶数色だと真ん中で割れるように感じられ、 一つのまとまりとして見えににくい。三色、五色、七色という奇数色の方がまとまり感があるように表現しやすいと思うのだが、素人判断だろうか。奇数色にするというのも一つの手だが、極端に色数を増やせば、真ん中のライン が想起されず、一つのまとまりとして見えるだろうとは思う。ところが、そのようにして詳細に表現していくと、よほど気をつけないと、絵の中で虹ばかりが目立つことになるという弊害も生まれるかもしれない。
 さて、虹が頻繁に見える地域と滅多に見られない地域とでは虹の色数に違いがあるかもしれない。実物を見て色の数を追究する場合は、色数が多めになる可能性がある。滅多に見られない地域では、既に絵画や児童向けの絵本で描かれた虹を見て、色数を数えることになる。その場合は、どのような絵画が有名か、そして、どのような児童向け絵本が出版されていて、どの程度の発行部数かということに依存することになる。
 
こうしてみると、虹の色数と一口に言っても、その背景にはいろいろな要素があって決定されていくように思う。さらに、五箇条のご誓文ならおさまりがよいが、四箇条のご誓文では何か不足感を感じるとか、目標は三つか五つなら格好がつくが、四つや六つでは格好がつかないというような、単純な数自体が人間に与える印象によって決定されていく可能性だってある。
 「七色の虹」も、七といういう数字がもっているひとまとまりの印象を一つの世界として感じ、いろいろな色を虹の色として当てはめていっただけというのが落ちなのだろうか。僕には三色、よく見ても五色ぐらいにしか感じられない虹だけれど、他の人は本当に七色と実感しているのだろうか。プリズムで出した光と実際の虹とは見え方が違うように思うが、プリズムで出した光は大抵は白い紙の上に映し出し、実際の虹は青い空をバックにしているからだろうか。

22-08-2007

日々雑感206「岩石パズル」

 岩石パズル。これはなかなかに辛い。動かないものを動かそうとするのは、相当に体力を消耗する仕事だ。このときには全ての筋肉を総動員しなければならない。
 重要なのは、準備運動だ。いろいろな種類の筋肉を総動員するためには骨格が正しく組まれていることが必要だ。しかし、機械ではないから、最初からどこかにずれがあったり、動かないものが動いていく過程で姿勢に変化が起きた結果、ずれが生じたりする。この物に対する骨格のずれ、つまり、構えの崩れによって生まれる無理な力は想像以上のものがある。準備運動がなされていないと、この無理な力を逃がすための骨格の組み立てを補正する動きが円滑に行われない。姿勢が補正されないと、無理な力を正しくない骨の構えで受け止めることになるので、怪我をすることになる。
 重要なのは心構えだ。力を入れる前の心構えと、物が動き始めてからの心構えと、物が動き終わった後の心構えだ。この心構えによって、怪我もなく、楽に物を操ることができる。もちろん限度を超えたものは不可能だが、人間が通常の生活をしている環境の中では大抵の作業が限度内に収まっているはずだ。
 力を入れる前の心構えには、どのようなものがあるか。道具を使うか使わないかを考える。何人で行えばよいかを考える。今やるか後でやるかを考える。どの程度の準備運動をしておけばよいかを考える。どこにどれだけの力をどの程度の時間加えるのが適切かを考える。そのためにはどんな姿勢であればよいかを考える。
物が動くことによって、他の物や他の人に悪影響が出ないように考える。
 物が動き始めてからの心構えには、どのようなものがあるか。物の動き方をから考えて、力の加え方の加減をする。物の動きを止めるために、いつどれだけの力をどこにどの程度の時間加えるのが適切かを考える。物の動き方から考えて、姿勢をどのように変化させながら力を加えていくかを考える。
 物が動き終わってからの心構えには、どのようなものがあるか。力を抜いて、もとの姿勢に戻るときに体に無理な力が働かないようにする。物を動かしたことによって、他の物や他の人に悪影響が出ていないかどうかを確認する。無理な力が働いたと思われるところを整えるための整理運動をする。
 もちろん、準備運動や整理運動などは、改まった作業の時以外は行わないのが普通だ。一日の始まりや、一日の終わりに行えば、何とかなる。しかし、岩石パズルともなるとそうもいかない。
 人間以外にこんなことする生き物はいないだろう。生きるためでもなく、遊ぶためでもないのだ。明日の筋肉痛予防に薬までを使う。実に奇天烈な生き物だ。
21-08-2007

日々雑感205「妙なやっかみ」

 人が世話をしないと死んでしまう植物などは気持ち悪いのだ。枯れそうになるのは人間に対する甘えのポーズなのか。それとも、捨て身の作戦なのか。どちらにしても相手にはしたくないというのが本音だ。
 枯らしてしまえば植物に対する愛情が足りないとか、手入れが悪いだのと非難される。これを知っているかのように水をほしがり、手入れを要求するように見えてしまう。こんなことが許せないというのはどういう了見の狭さだろうと自分でも不思議に思うことがある。
 これに対して、人間を無視して生き生きと生長する夏草はたいへん好感が持てる。人間から自立したのではなく、最初からかかわり合いなど持ちたくないという姿勢で生きている。これが小気味よい。切っても抜いても健気にぐんぐん伸びてくる。この勢いを気持ちよく人間もいただいた方がよいと思う。
 しかし、夏草は雑草と言われ、排除されるべきものとして人間の頭に染みついている。これはどの時代の誰たちの趣味なのだろうか。確かに農作物を育てるには邪魔になる。雑草との戦いといってもよい。これは趣味というよりも生活というものだ。夏になると次々に雑草を刈りたくなるのは、衝動に近いものがある。随分と長い年月にわたって僕たちの感覚に染みついてきたのだなと感じてしまう。それとも、とてつもない生命力に妙なやっかみを感じているのかもしれない。
 鉢植えの植物が、美しく大きな花弁を発達させるのは、人間のためなのか、それとも、虫たちのためか分からなくなってくる。人間から、鉢という生活の場をもらい、手入れをさせつつ、仲間を増やしてもらう。人間がまるでメイドのようだ。文字どおり「花よ蝶よと育てられる」のだ。
 もしかすると、僕はそういう立場を獲得するのに成功した特定の植物に対する、これもまた妙なやっかみを単に抱いているだけなのかもしれない。
18-08-2007

日々雑感204「髪の毛の長さ」

 髪の毛の長さには不思議を感じる。どうして僧侶は髪を剃るのだろう。どうして女性は長い髪を好むのだろう。本来生えてくるものを剃るのだから、僧侶の剃髪は自然の流れに逆らう行いとなる。あるがままではなく、あるべき姿となるために修行しているのだという心がまえを見た目に表したものだろうか。世俗から離れて、つまり迷いに満ちあふれた人間的な生活から離れて、真に人間的な生活を送るための道を探究するということの象徴だろう。しかし、その精進の象徴がどうして髪の毛だったのかということに疑問が残る。
 さて、修行が毎日の僧侶は、その成果を世俗の人々に還元しなくては存在価値がない。読経なら世俗の人でもできる。お経の意味も解説本をや専門書を精読すれば、世俗の人でも知識的には僧侶と同等になる。現代の僧侶たちは世俗の人々との違いをどこで示そうとしているのだろうか。もし、世俗化してしまった自分たちを見直すことからというのなら情けない。いつまでも寺にこもっていては、世の迷える人々を救うことはできまい。
 寺に駆け込むという言葉があるが、自ら足を運ぶ者がどれだけいようか。ひとりとして駆け込む者のいない寺は既に民から見限られているということだ。その方が煩わしくないから、それをいいことに改善を図ることを怠っているのであれば、寺(僧侶)の権威は地に落ちたといってよい。聖書の言葉に叩けよさらば開かれんとあるが。寺の門は果たして開かれるだろうか。
 仮に長髪の僧侶がいたとする。しかもカラフルに染めていたとする。世俗のものはこう思うだろう。髪を失い、僧衣にすることで服も失い、家庭を持つことも捨てた「覚悟ある人」とは思わないだろう。世俗の人々が手に入れたいものを捨てることによって、世俗の人々が持ち得なかった徳をおさめた方と思いたいのだ。長髪で、しかもカラフルに染めていたら、現物を華美に仕立て上げ、物にとらわれていると感じるに違いない。それでは世俗の我々と変わらないではないか。確かに同じように悩んでくれるかもしれないが、それだったら友達でも事足りたはずなのだ。
 こうしてみると、髪の毛は世俗の象徴にも思われてくる。体の中で唯一形を変えられるのは髪型だ。顔つきや姿勢は、心のあり方を変えないと改善しにくいが、髪型なら簡単に変えられる。失恋して髪を短く切る女性もいるかもしれないが、とらわれる心がやはり反映されている。あれば必ず形を整えるのに時間を費やし、白髪になったといっては染め、薄くなったからといって補うというように、手入れに時間がかかる。修行の妨げになるものは少しでも除去しようというのが僧侶の心意気というものだろう。
 「身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。」と孝経に孔子の言葉としてある。髪の毛は、「髪」だから、これを捨てるのは不孝ということにはならないか。もちろん仏教と儒教とは違うので、問題ない。また、親も捨て、財産を捨て、仏の道に入ったのなら、親不孝のように見えるかもしれないが、真の親不孝ではあるまい。もちろん「寝台白布これを父母に受く。敢えて起床せざるは、孝の始めなり。」ともじって寝坊を決め込むのは親不孝者に違いない。「もじる」というのは「捩る」と書くらしいが、仮に「文字る」からきたとすれば面白い。
 ところで、女性の髪が長いのはどうしてなのだろう。どの民族でもやはり女性の髪は男性より長い。どういう利点があるのだろうか。カールさせたり、結ったり、編んだり、装飾品をつけたりするのには、やはり長くしておかないと不便だ。
 特殊な例としては、髪型で年齢を表すということがある。母の通った中学校は一年生がおかっぱ頭、二年生が分け髪、三年生が三つ編みと決まっていたそうだ。上下関係が髪型で一目瞭然となり、トラブルは少なかっただろうと善意に予想しておこう。髪型が変わることで心機一転、けじめがつくという利点もあっただろう。また上級生としての自覚を持ち、下級生の面倒を見るという心構えが髪型を契機に形作られたと想像するに難くない。
 髪型ということで性別を無視してみると、いくつか考えないといけないことがある。
 第一に、身分による髪型の差別化だ。殿様の髷と家来の髷とお百姓さんの髷が、やはり同じではおかしいだろうと時の人は思っただろう。すると、僧侶が髪を捨てたのは、身分を捨てたということを意味するのかもしれない。もちろん捨てたというより、僧侶という身分を得たと言ってもよい。結局、僧侶とはいえ、世俗で暮らす以上は、山で修行をしているときとは違い、身分というものにとらわれざるを得ないに違いない。
 次に、地域による髪型の特殊化だ。文化が地域によって大きく異なれば、それが髪型の違いにも現れる。征服された地域が、征服した地域の髪型を強要されるということも弁髪令のように当然あるはずだ。同じ心であることの証明として、髪型を同じにするということは、小グループでもよく見かけることだ。学校間でもそうした傾向は見られる。ある種の職種でもこれによって見分けることが可能な場合がある。
 もしかすると、こうした流れの中で女性の長髪化がなされてきたという事はないだろうか。現代はファッション化によって、かつての伝統文化としての髪型というものは消えたように見える。個人趣味が流行し、芸能人が無言無給の広告塔となる場合もある。
 伝統的な日本髪といっても江戸時代も半ば以降の特定の層の髪型のように思われる。女性の伝統的な日本髪を平安時代の庶民ふうとか、鎌倉・室町時代の武家の娘ふうにするとか。奈良時代の貴婦人ふうといういう手もある。これらをファッションとして復活させるのも面白いかもしれない。
 ただし、手入れの問題がある。髪型が複雑になればなるほど、手入れがたいへんだ。複雑でなくても、長いだけで手入れがたいへんだ。こうした手入れに時間を費やすようにしむけるよい傾向ではあるまい。女性の時間を奪うことになるからだ。手のかからない髪型をしている人はやはり活動的だ。作業の邪魔にもならない。これをもって現代的な女性とするのはどうだろう。もちろん昔とは異なるので、そういう意味からは現代的とは言えるのだが……。
 男性が、所謂女性的というものを髪に求めるのは当然で昔から女性の魅力の一つであった。また、求められた方がそれを受けて、美しく見せるのも自然ななりゆきだ。これがただ長くて黒くて豊かであればよいという時代から、次第に変形が始まる。一度曲がり始めると、非可逆的に進化しはじめる。絶滅をまたねば、新たな始まりはない。
 こうなると、美しく見せるという最初の目的から少しずつ離れて、「そういう髪型だからそうする」という意識の低レベル化が起こったり、髪型のための髪の毛という意識になって、本末転倒になったりしたのではないかと過去のことながら心配する。かろうじて、そういう髪型から少しだけ変形させて冒険してみるということに気持ちが向いていったりするときに、最初の目的に戻りかけるのではないかとも想像する。
 ちなみに、自分で日本髪が結える一般人がどれだけいるだろうかと調べたくなってくる。日本髪といっても簡単なものから複雑なものまであるだろうが、まず結うことはできないだろう。和服も着付け教室に通わないときちんとは着られない。髪を結うのと同じで、着るのにも時間がかかる。この点から和服は合理的でない服だとした経緯がのあるかもしれない。しかし、仮に、「伝統を大切に」と発言するならば、和服の着方ぐらいは義務教育で習うようにした方がよいと訴えていくのが筋だろう。髪型は鬘で間に合うが、服は着るしかないからだ。
 長い髪を洗うのは多量の水とシャンプーが必要だ。これは水資源の節約と下水処理ということから考えると、洗車と同じで再考しなければならないことになる可能性がある。
 このように長い髪は魅力的ではあっても、現代社会では邪魔なものになりつつある。電車の中ではすり切れ、ネクタイピンに絡まり、ろくなことがない。手入れには時間だけでなく、お金もかかる。男性の女性化、女性の男性化が進んでいるから、髪型もこれまでのような性の差別化の機能が衰えていくと思う。しかし、だからといって、その機能がなくなるわけではない。別の形で機能し続ける。つまり、女性内での差別化だ。差別化という言葉では語弊がある。区別というのがよいかもしれない。
 個人個人がさまざまな髪型をすることによって、自分の顔に合わせたり、場に合わせたり、生きる姿勢を表現したりするようになっているのが現代だと思う。流行もあるが、流行したものは何処かで生き残っていき、髪型の多様性を増していくようにも思われる。封建社会の髪型とは違う自己表現の髪型だ。この表現という点で女性は男性よりもすぐれていると思う。
 男性は型にはまって同じように動かないと、その社会を支えることが不可能だったという長い歴史があった。文字どおり殺すか殺されるかという修羅場をくぐり抜けてきた種族だ。それに対して、女性は魅力的であることを強要された長い歴史がある。男性から見て魅力がなければ、苦難の道を歩くことになる時代が長かった。美しく自分を表現するということ、コミュニケーション力によって、殺伐とした環境にある男性を癒すということが必要とされることが時代が長かったのではないかと想像する。
 今や命のやりとりということは、日本の男性社会にあっては極道の世界以外にはない。そうなると、自分を美しく表現するということに専念することができる。男性を癒すのではなく、お尻を叩いていればよい。殺されはしないのだ。しかし、自分で命を絶つことはある。女性の自殺は少ないが、男性の自殺は女性の一言で減る可能性があるのではないかと思っている。
 統計を見ても、女性の自殺者数は毎年ほとんど同じであるのに対して、男性の方は社会状況の変化で年々大きく自殺者数が変わる。大雑把に平均すれば、女性の二倍以上、三倍未満の自殺者数だ。人口は次第に増えていることから考えると、女性の自殺率はどんどん減っているのに対して、男性の自殺率はそれでも次第に増えている。全国統計を眺めれば眺めるほど、文字どおり生き残る力が強くなった女性は、生き残る力が衰えている男性を救う義務があるのではないかと考えてしまう。
 女性は自分を取り巻く環境の変化に対して、うまく適応する力を持っているのではないか。卓越したコミュニケーション力による発散とすり替えと思わぬ有力な情報入手、地域社会への根付き方も男性とは違う。変わり身の速さとか、心変わりなどは得意中の得意かもしれない。これではなかなか自分では死なないだろう。そもそも生命を宿して産み育てるという機能を持った者たちは当然死ににくくつくられているはずだ。
 環境の変化に対する強さは、髪型を変える範囲の広さ、可変度の高さにあるかもしれない。髪型を変えて気分一新する。長い髪を切って遮二無二生きる決心をする。魅力的な髪にして自己満足する。何でもござれだ。
 髪型の可変度が高ければ、生まれ変わりやすいのだろう。髪型を変えて、一度死ぬのだ。気持ちの変化を促し、今日からの自分はこれまでの自分とは違うのだという強い暗示をあたえるには、髪型を変えるのが一番だ。鏡の中の自分を見てはっきりそう意識できるだろう。従って、どんな髪型にも対応できるように普段はいくらか長くしておく方が都合がよい。死にたいとき、思い切った髪型の変化をさせるためにだ。
 長髪の男性が増えたが、同じことが言えるのではないか。ファッションに隠れていたが、長髪化の理由はもしかするとここにあるのかもしれない。何とかしぶとく生きなければならない時代だという自覚の一つのあらわれだろうか。ホームレスが長髪なのは、散髪するお金がないというだけの理由ではないかもしれない。
 短髪の男性は命をかける。もう一段階進めて髪を剃れば、命を捨てたということになる。生き仏というぐらいだから、仏となるには死なねばならない。しかし、本当に死んでは修行も布教もできないので、俗世間では死んだということにし、俗名も捨てる。ひたすら仏の道を歩み、民を救わねばならない。特に自殺者が急増している男性については、女性はもちろんのこと、僧侶も救いの手を差し伸べなければならない。男女合わせて毎年三万人を超すこの国の自殺者は、やはり多すぎる。
 それにしても青少年の自殺がここ10年、20年で約半分に減っているのはどういう努力の結果なのかは分からない。地域社会は崩壊しているので最初から該当しないが、命の大切さを強調した学校の努力の結果か、自殺する大人の話を聞いて自殺への嫌悪感を自ら高めた結果か、自殺を禁止する宗教家が人知れず努力した結果か……、どれも考えにくい。まさか髪の毛の長さ?
<自殺を考えている人は読んじゃ駄目 画像クリックで説明画面へ>

日々雑感203「好きな理由」

 理由は分からないが、心になじむものがある。それは、もしかするとよい匂いであったり、よい音であったりすることが理由なのかもしれない。
 読書が好きなのではなく、真新しいインクの匂いが好きなのかもしれない。勉強が好きなのではなく、机の前に座っているのが好きなのかもしれない。車が好きなのではなく、排気音が好きなのかもしれない。疑えばきりがないが、少なくとも出会いの最初はそうした単純な刺激が僕たちに心をとらえるのだろうと思う。もちろん付き合うにつれ、詳しく内容が分かってくると、今度はその内容に心がひかれるようになっていく。「好きになったきっかけ」と「好きな理由」の違いだ。好きになったきっかけだけが同じ場合もあるので、内容が異なると裏切られたように感じてしまうこともある。
 本当に身勝手なものだが、たくさんの物と付き合う以上はどうしても見込みで接してしまうことになる。多くの場合、過去の貧しい経験だけをもとにして判断し、取捨選択してしまうということだ。だから、いつの間にかたいへんな宝物を失っているのではないかという心配も出てくる。しかし、貧しい経験もいつしか豊富な経験になっていくので、大きな心配はしなくてもよくなってくるだろうと思う。志があれば、同量の体験から短期間で貴重な経験を積み上げることもできる。もう青年ではないが、大志を抱き直そうと思う。大人になるということが経年劣化するということではいけないはずだ。
 ただし、豊富な経験値も分母を大きくとれば小さく見えてしまう。逆に、小さな土俵で頑張り抜くことが有効な手段となることは、僕たち愚者にとっては救いだ。
 さて、好きになるきっかけは、接近する前につくられる。だから、できるだけ好きになってもらうには、できるだけ遠くから分かるものでないといけない。
 「みる、きく、かぐ、さわる、なめる」という順番で遠くから分かる。つまり、「みせる、きかせる、かがせる、さわらせる、なめさせる」という手順をふんでいけば、何事も抵抗なく、円滑に進展するということになる。もちろん「みる」だけで十分な物、「きく」だけで十分な物も多く、必ずしも「なめる」段階までいって味を見る必要などない物がほとんどだ。
してみると、身の毛もよだつ体験とは、目隠しされて何も見えない状態で何かを突然なめさせられるというものになるはずだ。
 「みせる」ことが不利なものは、「きかせる」ことでカバーすればよい。それも不得手ならば、「かがせる」のがよい。しかし、よほど鮮烈なものでない限り、匂いの感覚はすぐに薄れて麻痺してしまうから、直ちに「さわらせる」に移行しなければならない。もともと一つの物の匂いが短時間でいろいろに変化するということはほとんどないことなので、たとえ匂いの感覚が残っていても早い段階で飽きてしまうということもある。
 「さわらせる」といっても、触ったままだと、やはり感覚がなくなってくるので、こすったりおさえたりする動きを促さなくてはいけない。これは面倒だが、「みせる」ことによって可能となる。「さわらせる」のが、
通常は一応のゴールになるが、食事などの場合は、「なめさせる」という段階を経て、噛みごたえや噛み音、のど越しなどの感覚を得ながら、満腹感という最終ゴールを迎える。
 ところが、食事に箸を使うようになって、この「さわる」が抜けてしまった。手で直接食べる文化に所属している人々は多いけれど、やはり食べ物をさわったり、こね回したりして楽しむのは幼児だけだ。それは大人としてはやはり行儀が悪いことだ。現在は、箸やフォークを使うことで「さわる」楽しみは封印されてしまった。手で食べる場合も作法があって、それに従うことで「さわる」楽しみは封印されている。つまり、食べ物をさわる楽しみは専ら料理担当者に献上してしまっているということだ。さわるどころか、切ったり、ちぎったり、こねたりと「さわる」のバリエーションは豊富にある。料理することはたいへんなことだけれど、この楽しさがあるから鼻歌交じりにできるのだと思う。
 食べ物をさわるということはどういうことだろう。他人にさわられた食べ物を好んで食べる人はあまりいないはずだ。「さわる」のは「なめる」の一歩手前だが、直接触れていることには違いはない。一度なめたものはそのなめた人の所有物となる。小さな子が人のお菓子につばをつけて自分の物にするのを見ることがあるが、
「つばをつけておく」ということは、そういうことなのだ。箸やフォークを使うということは、こうした見苦しい早い者勝ちと見苦しい手法を極力防いでいるようにも見える。
 逆に、極端にさわられたものを食べることは特別な意味を持ってくる。ハンバーグ、おにぎり、手打ちうどん等々だ。愛情がこもっているということだ。もっと言うと酒を造るのに口噛みというやり方がある。米や木の実を噛みやすく加工しておき、口の中でよく噛んで、甘くなったらペッと吐き出した物をためておいて発酵を待てばできるということになっている。
 儀式用に若い処女が行うという限定だったと記憶しているが、
この酒を飲むことは、現代日本人にとっては抵抗があると思う。逆に、変態人間たちには高価なものとして崇められ、販売されるおそれはある。でも、密造酒として摘発されるかもしれない。アルコールの度数によっては摘発されないということはあるのだろうか。ともかく人が噛んだ物、しかも吐き出したものをためておいて飲むということだけを聞けば、飲み物としては強烈なインパクトがある。
 強烈といえば人生最初の強烈な体験は何だろう。第一に母体から生まれ出ることだろう。次に母親の乳を飲むことだろう。遠くは見えないかもしれないが、光は感じるはずで、目の前のおっぱいや乳首はそれとはわからずとも何となく見えるのではないだろうか。母乳の匂いだけでなく、母親の匂いを同時に間近に感じながら、唇でさわって、吸うと、喜ぶ母の声が同時に聞こえる。
 この同時ということが大事なように思う。ばらばらに感じたのでは、乳児が母親というものを頭の中でどう構築するかということを想像すると恐ろしい。
 母親といえば、河合雅雄氏が「父親の歴史は500万年、母親の歴史と比べれば微々たるものだ。勝てるはずがない。」と述べられたあとににこっとされたのが、いまだに印象深く記憶に残っている。
メガネや背広を見て「とうたん」と言う子どもは特別ではあるまい。父親が大好きな子どもというのはいったい何をもって大好きだというのだろう。母親よりも子守歌をたくさん歌ってくれたのだろうか。死ぬ間際の兵隊が叫ぶのは例外なく「かあさん」だと聞く。まあ、どうでもいいことだけれど。
17-08-2007

日々雑感202「かくれんぼ」

 壁の中、天井の上。実に厄介だ。どこにどう配線されているかがわからない。大きな改築の場合は図面が残っているが、小規模の変更は残っていない。不具合があったときに対応が遅れる。特に何度も手を入れたものは思わぬところに思わぬものが隠れていたり、手の届かぬところに押しやられたり、ひどいときには点検口が配管で開けられないようになっている場合だってある。全くのかくれんぼ状態だ。
 仕上がりさえすれば、後のことはお構いなしというモラルの無さだ。検査だってねじを外して中の具合を見るわけではない。見た目で塗り残しがなかったり、有るべき物があればそれでよしとされるのだ。監督なども若い者がやることが多く、慣れた職人などにはいいようにあしらわれることもある。よくよく業者は選ばねばならない。
 後で困らないように、思い切って部屋の中から見える形の配管にしたらどうだろう。もっと言うとむき出しにしたらどうだろう。
 中から見えるものはそれだけ施工に手間がかかるので工費が上がる。むき出しにされた配管等にはほこりが積もりやすい。また、物が当たるなどして傷つける危険性もある。
 見苦しさをアート化することで解消するため、むき出しの配管に色を付けてもよいだろう。しかし、青や赤だと静脈や動脈みたいになってしまう。白も加えたら床屋さんだ。注意を促すために、黒と黄色の縞模様でもいいかもしれない。
 どちらにしても、和室にも洋室にも合わないから、倉庫とか、特殊な趣味のもとに作られた部屋とか、科学館などの展示用の建物にしか採用されなさそうだ。色だけでなく表示もしておけば、不具合が生じたときには非常に好都合だろう。
 人間の体もそうなっていると手術がしやすくてよいのだが、このまとまりを分離するのは無理だ。「ばらすぞ!」という脅し文句があるが、こういう発想のもとに言っているのなら、良心的だということになる。

日々雑感201「多少の努力」

 世の中いろいろなことがあるが、総合的に評価すれば、結局のところ正直であることがもっとも強い。もちろん自分の気持ちに正直なだけではだめだ。
 見え透いた嘘やずるい沈黙は見苦しい。面白くも何ともない生活は、そうした見苦しさを忘れたために生まれているのではないかと思う。明るくさわやかに生きるには、多少の損得は勘定に入れずに正直を貫くのが、一見愚かのようで実は賢い選択ではないかと思うケースをよく見かける。
 何から何まで嘘ならば、その嘘につきあえばよい。つきあうということと同調することとは違う。嘘の方にもこちらにつきあっていただこう。
 さて、つきあうということなら、まずはこちらが手加減をしなくてはいけない。手加減すると、そこを突いてくるから面白い。こちらは突かれるところを自ら設定しているのだから、狙い打ちがしやすい。これはとても都合がよい。
 常に誠を貴び、ついた嘘、つかざるを得なかった嘘、本人自身が気づいていない嘘に対して優しく包み込んであげよう。その嘘を育てて重い責任を取らせるように仕組むには、まず優しさが必要だということだ。重い責任を負えば、著しい成長を遂げるだろうと思うのだ。手段としての優しさだけでなく、目的自体が優しさにあふれているのだから、誰も文句はつけられないだろうと思う。
 あくまでも誠を標榜することが大事だろう。でも、折に触れて自らの失敗や愚かさをさらして自己批判しよう。
越えられぬ壁を作っておき、なおかつ越えさせようと支援するのとは趣を異にするが、「自己批判する者が他人に対して行う批判」を乗り越えるのは難しいので、飽きられない程度に多用すべきだろう。困難を与えなければ何も育っていかないというのは少々情けないが、もし困難を与えれば与えるほど成長するというのなら、無限(?)の可能性を秘めているということだろう。
 優しい微笑みも練習しなくてはいけない。毅然として揺るがぬまなざしも練習しなくてはいけない。いたずらっ子の肩のすくめ方も練習しよう。遠い空を見つめるときの首のかしげ方も練習が要る。これは偽りを通すためのトレーニングではない。正直を通すための技術として運用するために、誠意を持って行う苦行だ。だから、もちろん心に抱くものなくして練習するのでは最初から失格だ。
 お互いの幸せのためには、こうした多少の努力が必要だということを、なぜかいつしか忘れてしまう。これは努力を必要としなくなったからではなく、自分以外の人々の配慮が行き届いているからだろう。支えてもらっているのだ。ゆめゆめこれに甘えていてはならないと自戒する。
 「多少」といえば、日本では「すこし」という意味にしか使わないが、中国語では「どれだけ?」という意味になる。「どれだけ」と聞かれたら、「すこし」と答えるのが礼儀だろう。礼儀をわきまえるのは当然のことだ。その当然という感覚のあたりから、「多少」が「すこし」の意味にすり替わっていったのかもしれない。さて、本当のところはどうなのだろう。
 ところで、僕は誰を支えているのだろうか。勤めている間は自分の仕事を全うすることが、そのまま他人を支えていることになっているはずだ。しかし、いつまでも勤めているわけではない。引退した後は、意識的に何かを支えるという気持ちを持たないと幸せにはなれないのかもしれない。

15-08-2007

心の断片103「暑き日」三首

「暑き日」三首

はつはつと汗しぼり出す灼熱の星に散り砂日陰まぶしき

名も知らぬ人らと登る山あるく声かけるなしひとり
我ゆく

ためらいの姿を見せてこみすじは枝間をぬけて音もなく消ゆ

13-08-2007

心の断片102「幸せの宇宙」

「幸せの宇宙」

窓と窓との間には
何がある

心と心の間には
何がある

いつも一つのもので
遮られているだけの宇宙

ここに生まれた幸せを思う
12-08-2007

日々雑感200「悩みが国語の計算力を高める」

 悩みは思考の副作用だから、堂々巡りの思考をしている間にぐんぐん成長する。ところが、実態の方はほとんど変わりはしない。無駄な反復を繰り返すのは、同じ発想だからということもあるが、新しい情報を仕入れていないということが大きな原因になっていることが多い。
 行き詰まらない心を鍛えるには、これを忘れずに奮励努力するのみだ。そのうちに意識的に努力しなくてもそういう人間になっていくから楽になる。スタイルが確立すれば、悩まずして、悩み抜いたのと同等のことを成し遂げられる。また、そうなるまで修行と心得て精進しなければならない。だから、修行の道は苦しいのに楽しい。
 しかし、悩みは長期間内に秘めていると、悩み自体が反復されて強く観じられるようになる。心の分母が限りなく悩みだけになっていくのだ。悩み÷悩み=1に近づくと、もう自分が悩みの塊としてしか意識できないようになる。
 ここまでくると、周囲に迷惑をかけ始めるので、周囲が悩み出す。
自分の悩みには敏感になり、他のことには鈍感になっていくからだ。
 そこで誰かが声をかければ、その内容によっては新しい情報を投げ込まれた形となり、多少は周囲に目を向けるようになる。すると、そのことで今度は自ら新しい情報を得るようになり、行き詰まりが改善する事が多い。すぐに実態は改善されなくても、光が見えた時点で実態に対応する本人自体の状態が改善される。 
 声をかけられやすくする必要がある。つまり、自分の状態を周囲に宣伝する必要があるということだ。個人の悩みが表面化すれば、必ずアクションが起き、光が見えてくる。問題はアクションの質だ。
 ここまでは、個人的な問題で悩む場合の話だ。残念ながら実態がどんどん成長していく場合がある。そうした場合も話は簡単だ。実態が成長するのと同じペースで悩めばよいだけだ。遅くもなく早くもなくタイミングよく悩むのだ。このコントロールができないと、先走りして悩んで不眠症になったり、手遅れで悩んで周囲に迷惑をかけたりすることになる。
 できるだけうれしい悩みにするためには、正しく物事を予見して準備しておく必要がある。落としどころをいくつか考えておくだけで、日々の行動が自動選択されていだろう。これで不要の悩みを抱えなくてよくなる。
必要な悩みばかりがわき起こり、幸福感に包まれる。必要な悩みには周囲がのってくるから、連帯感も生まれる。無上の喜びだ。
 しかし、予見するには知恵と経験が必要だ。これを獲得するには年月がかかるが、モデルとなる人を何種類かみつけて日頃からつきあうということで短縮される。「こんな時あの人ならどうするか」という「あの人」を何種類か作っておけば、新しい発想から出発できるので、打つ手が広がる。
 実際に人とつきあうのは偶然性が高いので、計画的に自分を高められない。そこで、読書という手段をとる。これは自分の意志で相手を選択でき、本題以外に金がかからない。必要なときにいつでもつきあってくれる。決別も再会も何も気をつかわずに可能だ。しかも、死んでからもつきあってくれる。
 ただし、同じ言葉を読むことになるので、読解力が必要となる。この場合はどう読み取れば自分にとって有効かという計算ができないと駄目だ。国語の力の柱の一つは、そういう計算力ではないかと思う。
11-08-2007

変な疑問67「コマーシャル」

 毎年、夏になるとテレビのコマーシャルに出る家族が一人我が家にいる。ロケが夏の海だから、夏になると、決まって登場する。夏に話題提供してくれるそのコマーシャルは、ありがたいとも言えるのだが、不思議な感じもする。
 生身の体は毎年変化するが、
コマーシャルの中では時間が止まっている。毎年開封されるタイムカプセルのようだ。それにしても、もう8年ほどになろうか。大企業ではないから、長期間の使い回しをするのだろう。
 ところで、コマーシャルの組み立てというのはどのようにするのだろう。一つの作品の構成ということではなく、Aというコマーシャルの次にBというコマーシャルは相性が悪いとか、順序等にそれなりの法則があるのではないだろうか。
 たとえば、禁煙ガムの宣伝の前後にたばこの宣伝は流さないという類のものだ。飲酒運転撲滅の政府公報の前後に酒の宣伝も流しにくいだろう。生命保険会社の宣伝の次に仏壇・葬具の宣伝を流すのもどうだろう。
 逆に、相性のよい組み合わせもあるはずだ。お菓子の宣伝の後に歯磨き製品の宣伝はいいかもしれない。また、景気の悪い業界が、グループになって同業種の宣伝を連続させる場合もあるかもしれない。
 ベストポジションがあって、そこは契約料が高額かもしれない。どこそこの企業の宣伝の直後に流してくださいとか、離してくださいとか、そういうオプションごとに契約料が違うのかもしれない。もちろん流す頻度と時間帯と期間によっても違うだろう。
 番組を提供している企業の宣伝は仕方ないにしても、そうではない宣伝には組み合わせを構成する余地が残っているのだから、誰かが何らかの方法に従って決定しているはずだ。
ポジションの決定までの間にどういう競り合いがあるのか、どういう仕来りがあるのか興味深い。
 かつてコマーシャルの間引き放映が問題になったことがあった。現在、問題になっていないからといって、そうしたことがなされていないとは限らない。これまであまり気にしなかったが、この業界にはどのような力がどのように働いているのだろうか。
 
10-08-2007

変な疑問66「縮れ麺の作り方は?」

 うどんを打っているときに、どうしてうどんには縮れ麺がないのかと思ってしまった。そこで、縮れ麺をつくることにした。約4mmとやや厚めにのして、細めの麺棒で15mm程度の等間隔に段々をつけるのだ。両面に段々をつけたいのだが、どうしても裏表で相殺されたり、段が強調されたりして均一な段々に仕上がらない。
 あきらめて片面の段々にしようかとも思ったが、裏表の段がねじれの関係になるようにした。これで、多少最初に段をつけた面がつぶれ気味の段になるが、一応両面の「段々麺」となった。段が裏表に付いているから段々麺と名付けてみた。しかし、これは縮れ麺ではない。実態は「縮れ麺ふう」だ。
 これを裁断するときに二つの段がつくる角度を等分する角度に包丁を入れることにした。茹で上げてみると、なかなかいい具合に縮れている。仕上がりは太めだが生醤油がよくからんで味が付くから問題ない上に、さまざまな歯ごたえが口の中で味わえる。また生醤油も縮れ麺でくみ上げられたゆで汁とちょうどよく合わさってまろやかになる。
 便利なのは箸ですくったときに、段々効果で軽く挟んでも滑り落ちないのだ。具合よく縮れると、一本箸でもきちんと器にとることができる。これでゆで汁にうどんが落ちて、熱い思いをしなくてもよい。また、箸でとったときに縮れによって麺がバネのように揺れるから、見た目のおいしさをアピールできる。生き生き感が生まれるのだ。普通の麺が死体のように感じられる。一度段々麺うどんを扱うと、普通うどんをゆで汁からすくったときに土左衛門をあげた感じがしてしまう。これは口の中でも同じだ。口蓋に心地よく当たって楽しい。
 マイナス面もある。器に盛ったときに見た目がスマートではない。綺麗ではないのだ。これは、具を乗せることで隠してしまおう。
 それにしても、本当の縮れ麺というのはどのようにしてつくるのだろう。

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心の断片101「神機能」

「神機能」

神は
何も
信じない
色あせた己の影を
ただ落とす

見てはならぬ
触れてはならぬ
人の孤独を肩代わり

……ただある神

おがむもよし
すがるもよし

08-08-2007

心の断片100「僕の正体」

「僕の正体」

象の首を
180度ひねり
車の形にたたき込む
象の鼻は
真っ直ぐ伸ばし
車のパイプを差し込む
A4一枚に
改造の概要をまとめ
肉厚ファイルに格納だ

夢占いでは
余計なことに口を挟むなという
徹夜でがんばったのに
努力の空回りらしい
だけど
空回りでも別に構わないのだから
いたって気持ちは楽ちんだ

あしたは
クラゲの回転木馬を
糸巻きの軸にしてもいい
空回りでも別に構わないのだから
いたって気持ちは冷静だ
 
寝覚めの瞬間
何もいらない僕がいる

恐怖シリーズ99「宝くじ」


 宝くじの期待値を計算すると死ぬほど低い。お詫びに連番で買ったときには10枚に1枚は当たるようにしてある。しかし、これはお詫びではなく、一つの罠で、最低10枚買うように仕組まれているということだ。連番で買えば、前後賞でまた夢がふくらむという仕掛けもある。
 買った方としては300円返ってくるのだからという諦めの材料ともなる。巧妙だ。300円という数字も実に計算されている。100円や200円でははした金。されど、300円には少し足してコーヒーでも飲めそうだというほどの価値観をもっているふしが僕たちにはあるのではないだろうか。
 これを400円にすると、安いコーヒーならおつりが出る。それでは、逆に購入時に宝くじ一枚の券が高いという感じがするのだ。コーヒー一杯が飲めないほどの安さという感覚を与えなくてはいけないのだ。コーヒー一杯という基準が微妙に働いているような気がする。何気なくしている支払いが、僕たちの中に何かの基準を作っていくが、あまりに日常的なので、考察の対象にすらなりにくい。
 悔しいから10枚連番で買うときには、当たり分を差し引いた値段で買えないかと持ちかけてみようかなと思っている。では、それはどの券ですかと逆襲される可能性もある。それが高額当たり券だったときにはどうしますかとやられるわけだ。そうしたらどうしよう。しかし、300円取りに行くのにそれより高いお金を払う可能性だってある。面倒になる。そして、未払いの300円がたまっていく。全国で大変あるだろうなあ。300円ぐらいならまあいいかと思えるほどの値段だ。また、当たらなくてもくじだから自分のプライドは傷つかない。国民的行事のようなものだから、罪悪感もうまれない。負けても買った以上に損しないから安心感も与える。
 何重もの仕組みが、この300円券に込められていて恐ろしい。さらに恐ろしいのは、一等賞金を取りに来ない人もいるという事実だ。お亡くなりになっている可能性があるのだ。
 それは事故や寿命ではないかもしれない。一等賞金を誰のものにするかで争い合い、双方とも命を落とすのだ。「まだ換金しないなんて、のんびりしているなあ」などと言っていられない悲劇が繰り広げられている可能性は思った以上に高いのかもしれない。
 分け前をほしがる人々がどうにも嫌になり、みんなの前で当たり券を燃やした人の話を聞いたことがある。これはこれで、恐ろしいことだ。もっとも、一番違いの券を上手に燃やした可能性も否定はできない。
 こう言いつつ宝くじを買う僕は、恐怖を買っているのだろうか。当たったらどうしようという心配も含めたどきどき感を買っていることだけは確かだ。極めて薄い期待値に期待しよう。薄いからこそ当たったときの喜びも大きいし、外れても諦めをつけやすいというものだ。
 そうだ。最初から捨ててかかっていることが宝くじファンのさわやかさだと言っておこう。

恐怖シリーズ98「繭化促進」

 魚のオコゼは異様に旨いが、イラガの幼虫のオコゼは腹が立つほど痛い。気絶するほどではないからよいが、感電したような感じだ。奴らは電気虫とも呼ばれているようだ。しかし、いくら感電したような痛さとは言っても、やはり電気とは違う。
 普通は100Vで感電する人が多い。僕も100Vの感電までだ。父は10万Vに感電したことがあるというが、いったいどこで感電したのだろう。丸太で胸を強打された感じで弾きとばされたというのだが……。僕が聞かないだけだけれど、父には謎めいたところがある。
 オコゼ(幼虫)に何度も刺されると、腕などでもかなりふくれあがる。僕は肘から5センチほどの所から、手首に向かって約5センチおきに3箇所刺されたことがあるけれど、腕の幅が約1.3倍ほどになった。
 この体長2.5センチほどの憎き敵を30匹ほど採集してエチケット袋大のビニール袋に全部閉じこめておくと、2日以内には繭になり、1.5センチほどの黒い豆のような形で石のように固くなる。
 透明ビニールだから這うときの脚裁きの様子が分かるが、なぜかしっとりべたべたとしている。ビニールのようなつるつるのところを這うときにはナメクジのようにしっとりさせるのだろうか。不思議なことに脚がないようにも見える。蛾の幼虫にしてはなぜか極端に小さいように思う。べとべとさせられるから小さくてもよいのだろうか。
 一匹だけ入れたときと比べて繭になる時間がどう違うかは分からない。しかし、木にまだいるものは黄緑色のままで、閉じこめたものだけが一度に繭になるというのはどういう事なのだろうか。閉じこめられるという緊急事態を迎え、脱皮を何回か省略していきなり成虫になろうとしているように思う。生き急いでいるとも思われる。ともかく、黄緑色の幼虫の状態から繭化が促進されたとしかみえない。
 30匹のうち、1匹は幼虫のまま死ぬが、その他は全て一斉に繭になる。これを三回繰り返したが、偶然だろうが、繭になれないやつは1匹ずつで全く同様だった。もっとも、一日ずつずれて繰り返して確かめたということと、同時に幼虫になったかどうかも分からないので、何とも言えない。
 あまりのオコゼの多さから、季節がら、理科の自由研究を思い出した。どんなストレスをどれだけ与えるかによって繭になる時間を計ってグラフにして、人間(家族?)との比較をすれば、小学校高学年ぐらいの作品になるかもしれない。いろいろなストレスをミックスするのも面白そうだ。もちろん痛いのが憎くて生体実験しているのではないが、一見、命をむやみにもてあそぶ形なので、学校に出せば評価は低いに違いない。
 おそらく、閉じこめられ、餌もない状態のストレス。それが、動きまわることで解決されたり発散できる性質のものではないと判断し、静止状態で耐えるという方法を体が仕方なく選んだのだろう。また、成虫の能力でなら解決する問題だろうという判断を体がしたのだろう。どちらにしても、彼らの選択肢は数少ない。
 もしかすると現代社会は人間にも繭化を強いていないだろうかと心配する。妙に子どものまま大人の感覚を持った奴がいないか。服装を変えることから始まり、次第に家という殻に引きこもっているオコゼ人間はいないか。そのうち引きこもったまま生活するようになるのかもしれない。昔ではそれは叶わないことだが、現代では仕事もレジャーも引きこもったままできる可能性がある。
 外で活動するのは、運搬業者、それに建築業者と農林漁業従事者だけになる日が近づいているのだろうか。これは恐ろしいことだ。
 それにしても、あの幼虫時の毒はどこへ行くのだろうか。イラガのホームページに、繭の中に残っているから注意しようなどと書かれていた。しかし、それはどうしてだろう。ドクガが後生大事にしている毒を、なぜイラガは繭の中に残してしまうのだろう。
 イラガの覚悟、ドクガの未練……。

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<殺虫剤もよいけれど、一匹ずつとるのも面白い 画像クリックで説明画面へ>



07-08-2007

日々雑感199「カメラ」

 監視カメラとか防犯カメラとかダミーカメラとかあるけれど、どれを取り付けよう。「ダミーカメラかもしれない」「本物のカメラかもしれない」などと表示したカメラもつけてみたい。拡声機付きカメラがあると便利なような気がする。しゃべるカメラだ。ロボット音声だけど、実は人間が生でしゃべっていて、犯人がおしゃべりの相手をしている間にセキュリティ班が到着するというのが面白い。
 防犯カメラには小さな麻酔銃が付いているとよい。洗い流せないインクが飛び出る仕組みがあるとよい。ただし、一定以上の音量でそれらが作動するということを看板にしておく必要がある。
 必要以上にカメラをつけるというのもお金がかかるけれど、面白そうだ。ワンフロアーに300台とかついていると、何事かと思うだろう。それが内装デザインであればまた面白い。