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8/30/2008 恐怖シリーズ119「もう一つのKY」 「KY」は、「空気が読めない」を省略した表現ということになっている。しかし、僕としては、「空気が読める」とか「空気を読みなさい」とかを省略した表現としての「KY」の方が了解しやすい。どうにも違和感のある「KY」についてどのようなことが言えるか試みてみることにする。 ①「空気が読めない」人を「KY」と表現するということの裏には、その表現を生みだして共有し始めた集団に、空気が読めない人が多いという実態があったのではないかと思う。 なぜなら、逆に、空気が読める人が多いという実態がその集団にあれば、空気が読めないということは致命的であるので、「空気が読めない」の「ない」に表現の意識が集まり、省略される際にも「ない」が「N」などのように省略されて、「NKY」または「KYN」になると思われるからだ。 ②本来、「KY」という二文字では、空気が読める人と読めない人を区別できない。それにもかかわらず、「KY」の二文字だけで「空気が読めない」という意味に限定してはばからない。これはどうしてだろうか。 もしかすると、空気が読める人と読めない人との区別をする必要がない場面だけで使用される言い方であったのかもしれない。 たとえば、空気が読めていると自認する人々が、一部の者に対して「KY」という言葉を使うという場面だ。つまり、誰かを「KY」と評価する自分たちにはお互い空気が読めているという共通理解が確立している場面だ。この共通理解をしているという安心感に包まれている集団は、批判、揶揄の対象である者に対して「KY」とだけ言う。明らかにその集団にとっては空気が読めていない状況に置かれている誰かをねらって表現しているのだから、「KY」は「空気が読めない」を意味するに決まっているのだ。 ③「KY」は婉曲表現だとも言える。しかも、「なんだ、そのKYというのは!」と問いただされてもいろいろに釈明できる。「空気が読める」の省略ですよと逃れることすらできるずるい表現だ。他にも「漢字も読める」「綺麗な浴衣姿」「敬愛する友人(嫁)」「期待の嫁(横綱)」「完璧なやつら(ユニット)」「気持ちが優しい」「着こなし優雅(ヤング)」「空手(剣道)四段(四級)」「K1予備軍(やってる)」「健全なる山形県人」「かわいい(健全なる)八重歯」「顔だけヤクザ(ヤング)」「警察予備隊(呼びたい)」などと意外と逃れられる。 「KY」以外にもう一文字付けて「空気が読めない」を表してしまうと、ごまかすのが途端にたいへんなことになる。 残念ながら「KY」話を三つしかつくれなかった。脳の働きが悪くなったかもしれない。しかし、どうしてももう一つ加えなければと考えているうちに、突然「KY事件」を思い出してしまった。有名な事件だが、二十年近く前の事件なので忘れていた。脳の働きは悪くなったかもしれないが、記憶はどうやら残っているらしい。しかし、昔のことをよく思い出して、最近のことは忘れてしまうというのは、やはり危ない兆候のようのように思われる。 さて、「KY事件」は、「かなりやばい事件」のことではない。例によって朝日新聞社の捏造記事事件だ。保護すべき珊瑚礁に自ら「KY」という傷を付けて写真に撮り、堂々と非難している記事を載せたのだ。自作自演のオウム真理教と共通するものがある。しかも、謝罪記事で「最初にあった珊瑚礁への落書きを分かりやすくするために工作した」という意味のことを載せたあとに、再び地元ダイバーの抗議があって、最初は何もなかった綺麗なところにわざわざ新しく「KY」と刻み込んだということが分かり、再び捏造記事に対する謝罪記事を載せることになったという仰天の顛末をたどった。 僕の記憶が正しければ、同社は中学生にたばこを吸わせてそれを写真に撮り、学校の現状を示す写真として報道したということもあったように思う。珊瑚礁のKY事件はきちんと謝罪できたけれど、山のようにある捏造記事に対してはうやむやにしているだけだと思うがどうだろう。 逐一調べて、公表する立場の新聞監視業が必要かもしれない。公正で公平な報道を実現するためには第三者機関の存在が必要なのは誰もが認めるところだろう。それを自前でやっているのだから、相当の社員教育が必要であるはずだが、そのプログラムの公表から始めることが大事だろう。同社の数々の捏造記事によって多くの人が不幸になっているように思うが、単なる思い過ごしであってほしいものだ。 珊瑚礁の場合は自然保護関係者の怒りは買ったけれども、その人たちの生活を脅かしたわけではない。処分を受けた人々以外に不幸になった人がいないのだから、これについては謝罪をしたというのだろうか。そんなわけはないだろうが、そう思われても仕方ない対応を続けていると、読者は離れていくように思う。 離れゆく読者をつなぎ止めるためには、またセンセーショナルな記事を載せなくてはならないという悪循環に陥っているとするならば、朝日新聞社にとっても、その購読者にとっても、あるいは日本にとっても不幸なことが続くのではないかと危惧する。センセーショナル、かつ人の自尊心をくすぐったり、抵抗勢力のようなふりをしたりする記事は、かつて中学生だった僕にも見え見えだった。 大学時代にも下宿先へ講読を進める勧誘員が来たが、やり口が手が込んでいて高圧的だった。最初は一人だったが、次の日には二人がかりでやってきた。最後には何も答えられなくなった彼らは捨てぜりふを吐いて帰って行ったが、捨てぜりふにはきちんと答えるので、結局捨てぜりふも台無しになってしまった。次に日には三人がかりで来るかもしれないと待っていたのだが、もうそれきり来なくなってしまった。 今思うと無下に断ったことは申し訳なく思うのだが、お金がないのだから仕方ないというものだ。それにしても、勧誘するには勧誘するなりの礼儀や態度というものがあるはずで、そうしたものは教育されなくとも身についているのが社会人であるはずなのに、社員教育もなされていないのか、どうしても押し売りにしか思われなかったのだ。 そもそも、太平洋戦争でどれほど国民を煽ったか、そして戦後の北朝鮮に対する捏造記事によってどれだけ多くの人々を不幸にしたかは、膨大な数配られた新聞記事という動かぬ証拠が残っているので、こればかりは逃れようがないだろう。 しかし、朝日新聞社としてはどれだけ批判されても、口をつぐんでいるのがよい。珊瑚礁のKY事件なら謝罪記事を出しても、自社内の関係者を処分すればよいだけだが、その他のものは、もうどうすることもできないだろうからだ。本当に謝意を表すとすれば倒産させるしかないだろうという人だっているかもしれない。それでも償いきれない罪を重く背負っているのだから、これをまず社員全体に自覚させることが大事だろう。新入社員教育の一環として行うのがよいが、それはそれで恥ずかしいことだから、きっと実施されないだろう。 朝日新聞社は他社と比べ、あまりにも捏造記事が多いと言うことをよく聞く。恥も外聞もないのはどうしてだろう。これが同社の戦略なのだろうか。ネットで探してみると異様に多く掲載されている。他社と比べてどの程度多いかは確認できていないが、そのように言われること自体に問題があると思う。これはこれで不幸なことだ。同社で働いている人は朝日新聞社に勤めていますと胸をはりながら、後ろめたい気持ちを持たねばならない。 体質というものは滅多なことでは変わるものではないので、今後も朝日新聞の記事には特に眉に唾つけて読まねばならない。これはこれで僕たち国民を少し賢くしてくれたということで多少評価できる点となる。 まだ講読している人は捏造記事を探すのを趣味として講読している可能性もある。あの事件以来、別の新聞を購読することにしたが、あまりにも記事の論調が違うので、中学校の時感じたことと同じだなと思ったものだ。 実は、中学生の一年間、高校生の一年間は、受験で天声人語からの出題があるかもしれないということで、朝日新聞を講読したことがある。それまでの新聞の活字に慣れていたせいもあるのかもしれないが、まず読みにくいというのが第一印象だった。しかし、慣れというものは恐ろしいもので、次第に苦にならなくなっていったのを覚えている。用語や記事の調子も最初のうちは先程述べたように違和感があって慣れなかったのだが、これも若いということはすばらしいことで、次第に慣れていき、苦にならなくなっていった。慣れというのは一種の自虐的な防衛反応なのかもしれない。 とにかく日本経済新聞と地方紙と学生用の英字新聞を含めて実に四紙読んでいたことになる。今思うと新聞を読む時間が二時間ほどかかっていて、普通の中高生の受検勉強時間よりも確実に二時間は少なかったことになる。学習成績表に親のコメント欄に「新聞を読む時間が長すぎる」とあった。懐かしい話だ。 さて、講読新聞社別の世論調査をすれば、如何に世の中のとらえ方が新聞社によってどのように偏向させられているかが明確になることだろう。食事といっしょで肉ばかり食べていても駄目だ。もちろん、水ばかり飲んでいても駄目だということだ。少なくとも三紙は講読しなくては、世の中をとらえる参考にはならない。これは辞書でもいっしょだ。一つの辞書で調べて終わりにしてはいけない。少なくとも三社の辞書を引いて比べないと恥をかくことにもなりかねない。 新聞に載ったからと言って喜ぶのは、どこかに新聞至上主義のような変なものが巣くっているいる可能性がある。危ない危ない。自分も喜ぶ可能性が十分にありそうだ。何か事を起こすときに新聞社に電話するのも心理的に抵抗が大きい。どちらかといえば、載せてやろうという姿勢ではなく、載せてもよろしいでしょうかと伺いをたてに来るべきだろう。 このあたりを勘違いしている記者はいないだろうか。批判されることのない特権階級にいるような気持ちになって記事を書くとき、新聞は滅びる。新聞が滅びたときには、社会も滅びる。そういう危機感を持って勤めているかどうかが問題だ。新聞社という単なる会社の道連れにこの国を滅ぼしてはならない。国が滅んだ状態というのが、焼け野原しかイメージできないような貧困なる精神ではまさかあるまい。 せめて全て記事には記者の名前を書いてくれないか。匿名の者によって個人の名前を書き立てられるという不合理をまずなくすことだ。そうすれば、個人を相手にしているという感覚で記事を読むことになるので、疑う気持ちが正常に芽生え、正しく世の中をつかもうとし、自分の頭で考える習慣が身につくかもしれない。 もっとも、自分で考える暇がないから新聞を読むということもあるのだけれど。だからこそ、信頼のおける新聞を選ばねばならない。では、その信頼はどのようにして作られていくか。捏造記事ができるだけ少ない新聞社の新聞を他紙と比較しながら読んでいき、何を書き、何を書かないかを十分見極め、文章の底を流れる書き手自身も気づいていないものをつかむという気持ちで読み込むことだ。 とかく食に厳しい日本人が、情報に甘いのはどうかと思う。悪いものは胃袋から逆流して嘔吐される可能性もあるが、情報は頭の中に入ったら嘔吐することができない。いつまでも頭の中にあって思考や行動にかかわってくることになる。こんな恐ろしいことが他にあろうか。 8/29/2008 変な疑問91「陶器の石焼きビビンバ器」 陶器の石焼きビビンバの器があった。正確には、陶器焼きビビンバと言わないといけないものだと思うが、それでも石焼きと言った方が旨そうな感じがするので、石焼きビビンバ器として売っているのだろう。 さて、これをもって不当表示だという人はいるだろうか。陶器も石も元は同じなのかもしれないが、陶器の方が石よりも均一でヒビも入らないだろうから、石よりも優れていると思う。それにしても誰がこんなものを考えたのだろう。頭のいい人がいるものだ。 ![]() <珍しい陶器製 画像クリックで説明画面へ> 石焼きビビンバ自体、日本人が考案したものだという話もあるが、日本で韓国人が考え出したという話もある。そんなことはどうでもよいことかもしれないが、確かめてみたいという気持ちになる。 確かめてどうするのと言われても、どうもしないよと答えるしかない。知ったからといって何かしなくてはいけないなどということはない。知ってはいけないこと、知るだけでよいこと、知ったうえで事を起こさねばならないこと。いろいろある。いつも行動につなげていったら身がもたない。変な強迫観念は持たないことだ。 とにかく暑い日でも、寒い日でも石焼きビビンバは旨い。 8/28/2008 恐怖シリーズ118「目から鱗」 明確なものは信じられ、明確でないものは信じられない。当然だ。しかし、それでは不都合が起こる。信じられないものは葬り去られてしまうことが多いからだ。 複雑であるがゆえに明確にしにくいものがある。長い期間をかけなければ明確にできないものについては、組織の俎上にのる性質のものでなければ、手がけられることすらない。 一方、経済の仕組みにうまく馴染むものであれば、世界中が注目し、複雑なものも小分けにされ、明確にされていく。しかし、小分けにされた時点で、この過程でも注目されないものが出てきてしまう。それらは人々の記憶から薄れ、記録も埋没し、やがてこの世から消えていく運命にある。誰かがまた一から明確にするための作業を始めていくという不経済なことがこの世のどこかで単発的に繰り返されているというのはまだよい方だとしなくてはならない。 こうして世の中にいくつもの隙間ができていくのは、「目から鱗が落ちる」のとは逆に、「目から鱗が生える」のと同じだ。見えているものしか見ないので、それで全てであるように感じられてしまう。この種の思い込みは恐ろしい。 別の解決困難なものを解決するステップの一つであるにもかかわらず、心ならずも無視する結果となり、手だてを誤ることになったり、放置されていたがゆえにその問題が深刻化していったりするからだ。 また、集団が大きくなればなるほど、明確でないものを明確でないままに理解できる者の割合が減り、明確化しようとする者たちの数が一定以下になれば、その資料は埋没してしまうように思う。つまり、機能していないか、うまく機能してないものが改善されぬまま放置され続けるということになるのではないか。しかも、ほとんどの者が意識していないので、心配すらされないと状況になっているのではないだろうか。 結果として、理解しやすいものだけが広まり、集団の大きさと集団のレベルとのバランスが崩れていくと思われる。これも恐ろしいことだ。 図書館の中で本の隙間があったり、その分野のスペースが異様に狭くとってあったりすると、ついこのように思ってしまう。心配性と言えば心配性なのかもしれない。そうだ。図書館職員がコーディネートして、執筆依頼をしていくことから始めていけばよいのかもしれない。図書館のための書き下ろしだ。商業ベースには乗らないかもしれないが、だからこその役割ではないだろうか。 こうなると、隙間を埋めるための無垢な発想と広い分野にわたる深い造詣と人脈、そうしたものが図書館職員には要求されることになる。既にある書籍類を集めて整備し、貸し出しているだけではいけないということだ。そういう時代がもう来ているのかもしれない。しかし、現実的にはもう作業は追いつかないだろうと思う。 しかし、今はインターネットに流れる情報がその隙間を埋めていく可能性を秘めている。正規の道から外れかかった一見危ないもの、正規の道にたどりつく前の未熟なもの、そうしたものが地道に積み上げられたものに上乗せできるようなものに化ける可能性があると思うのだ。 ただし、書籍の文書であろうが、インターネットで手に入れた文書であろうが、そこで述べられた通説や定説が鱗になって目に生えてしまうと、余程衝撃的な事実と劇的に出くわさない限り、分かっていても、つい頭は怠けてしまう。いくらフル回転していても、怠けていることになるというのは皮肉なものだ。 そこで、対話というものが必要になってくる。対話の中でこそ、目から鱗が落ちる。しかし、残念ながら、この対話の能力はじっくりトレーニングされたものでなければ、話し合うのではなく、言い合うことに終始する幼稚な段階で決裂したり、たいした深まりや広がりもないうちに、意見の一致をみたことを高まったと勘違いしたりする可能性もある。 特に対話の能力は深刻な状態であるように思う。揚げ足を取ったり、ピント外れの部分にこだわったり、勝ち負けという非生産的なゲームにしてしまったり、言いたいことを表現するための言葉を知らなかったりするのではないだろうか。 恐怖シリーズ117「宇宙人」 本物の宇宙人は、人間以外にはなかなか見つけることはできない。しかし、意識が宇宙にある人は人間の中に時折見つけることができる。彼らのことをとりあえずは宇宙人と呼ぼう。 宇宙人はいつも宇宙を意識している。宇宙を意識していると、日常生活の細々とした問題も、厄介な仕事の問題も、人生の深刻な重大問題も特段何の問題でもなくなってくる。 しかし、身の危険を感じることから逃げることもなく、火中の栗を拾いに行くことも辞さず、波風立てるとわかって生きていくので、周囲に迷惑をかけることになる。本人は、プライドが傷つこうが、将来を失おうが、命が危なかろうが、感ずるところはない。しかし、傍迷惑だ。周囲への配慮が必要だ。しかし、それができないところに問題がある。 いつも宇宙を判断基準にしている彼ら宇宙人は、適当に利用してあしらうのがよいのだが、そのためにはそばにいる必要があり、いつその迷惑をこうむることになるかわからない。また、そばにいたくなくても、そばにいなくてはならないという状況に置かれることもある。この場合、いつも周囲は冷や汗をかいていなくてはならない。 真正宇宙人に対しては、周囲も覚悟ができているので、対応しやすいのだが、中途半端な宇宙人は始末が悪い。不意打ちを食らって道連れになるおそれがある。 さて、彼はなぜ宇宙を意識するようになってしまったのだろうか。第一に考えられるのは、現実から逃避する必要がありながらも、現実に立ち向かわねばならない立場や状況に置かれていたのではないかということだ。第二に考えられるのは、世の中を見つめ、歴史を見つめ、将来を見つめ、人間を見つめ、深く思考した結果、悟りの境地に達したのではないかということだ。 どちらにしても厄介な存在であることには変わりない。しかし、前者が時折悲哀の目で見られたり、結局は鼻つまみ者として扱われるのに対し、後者はいずれ哲人、人々の指導者として見られることになるだろう。 つまり、いつまでも顰蹙をかう人間で終わるか、あるいは、世の中を動かして尊敬される人間となるかは、スタートの段階で決まっているということになる。もちろん、前者がほとんどで、後者は極めて少人数だ。 問題は、彼らがどのような自覚のもとに生きているかだ。そんなことは誰にも分からないことだ。また、分かってもどうにもならない。しかし、彼らの周囲で生きなくてはならない者たちがいることも確かで、その者たちにとっては、どこで彼らを見限るか、どこで彼らと道連れを覚悟するかという一大問題を背負っていることになる。 一大問題といっても、どうするかの判断は一瞬で終わる。人生というものは実にさっぱりとしたものだ。もしかすると、そこが人生の妙味というものなのかもしれない。 しかし、これは宇宙人の危機だ。周囲の判断はたとえ多数決であっても正しいとは限らない。判断ミスによって、大人物が無下に葬り去られ、小人物が無闇に祭り上げられる可能性がある。これは実に恐ろしいことだ。 8/24/2008 日々雑感236「古き良き時代」 自家発電機が壊れる。原因は何だろう。ヒューズでもない。プラグでもない。燃料はまだそれなりに新しい。断線もない。エアクリーナーも綺麗だ。 残るはキャブレター。中で燃料がどろどろになっているかもしれない。分解掃除は少し面倒だがやってみよう。 バイクメンテナンスを思い出す。人間と機械が友達だった頃もあったが、電子制御でなされるものは目に見えず、手触りもなく、とても友達にはなれそうにない。単なる道具として大事にするだけだ。血の通わない関係だ。 あの頃から人間は孤独になっていったように思う。癒しの孤独ではなく、悲しみの孤独だ。それが通常なのだから、人生どのように折り合いを付けていったものだろう。昔を知らない若い人は逃避するところもない。古き良き過去がないのだ。現実の中へ逃避するしかない。現実を架空のものとすれば、それなりに逃避できるだろうが、無惨な生活からは逃れることができない。 その精算は、きっと悲しくおどけた顔で、ベルトコンベアーで運ばれてくる何に使われるのか分からない何かを、理由も分からず廃棄処分するような、作業のような仕草で行われていくに違いない。 <ダウンロード版は非常に安い 画像クリックで説明画面へ>
恐怖シリーズ116「片目のダヤン」 ダヤンはイスラエルの国防相だったが、ずいぶん前に亡くなった。何年前のことだろう。 片目の人は身近にはいない。しかし、テレビドラマや映画の中では意外と活躍している。伊達政宗、柳生十兵衛、山本勘助、森の石松、最近はゲゲゲの鬼太郎だ。丹下左膳やネルソン提督に至っては、隻眼隻腕だ。 丹下左膳の映画は幼い頃にテレビ放送され、強烈な印象を持った。しかし、所詮は架空の人物だ。ネルソン提督はあまりに遠い昔の人で、話に聞くばかり。英雄だろうが、結局は歴史の人物、過去の人だ。強烈な印象はあっても、現実感に乏しく、今ひとつ僕の心エネルギーにはなりにくかった。 これに対して、ダヤン国防相は、もちろん、ブラウン管を通して見たのだけれど、役者が演じる格好のよい隻眼の戦士よりも、数段強烈な何かを感じた。それは、演技、演出によるものではなく、今を生きる本物だけが持つ切迫した緊張感、現実の時の流れが持つ動かしようのない重みだったのだろうと思う。 片目のダヤンは隻腕ではない。しかし、大抵の報道は顔だけのアップが多かったせいもあってだろうか、なぜか丹下左膳やネルソン提督よりも傷だらけであるように思われたのだ。もちろん、顔面のアップ以外の映像は印象が薄くて、僕が忘れてしまっているだけなのかもしれない。それは、もしかするとダヤンの眼帯のせいかもしれない。そのせいで、顔面のアップでもないのに、顔面のアップという見方をしてしまっている可能性もある。 ダヤンの眼帯はサングラスのレンズのような形をした黒い眼帯で、細い黒紐で固定されている。あの眼帯に隠された左目はどうなっているのだろう、どういう状況で左目を失ったのだろうなどという疑問がわいてくる。そのせいかもしれないが、随分と魅力的で素敵なものとして僕の目に映ったものだ。 鼻や耳が欠けているのとは違う。目だ。人間の鼻だけや耳だけをじっと見つめているとなぜか滑稽で楽しくなって笑ってしまうが、目だけは例外だ。見つめれば見つめるほどに引き込まれてしまう。それが片方しかないということは、一つの目に自分の二つの目が集中することになるからだろう、ぐいぐいと引き込まれてしまう強い力を感じるのだ。それは目が円形であることと関係があるかもしれない。 藤原道長は「この世をばわが世とぞ思う望月のかけたることもなしと思へば」と詠んだ。たとえダヤンでなくとも、その望月のごとき目を見ては、造形の美、完璧なもの、非のうちどころのないもののイメージによって心が支配されてしまう。また、その輝き、奥深い色を見ては、奥深い意味、奥深い心を読み取ってしまって、やはり心が虜になってしまう。満月を見てはならないという言い伝えがあるが、純粋な心を持った者ほど、目を見てもさえ、文字どおりルナティックになってしまうおそれがありそうだ。 当時、ダヤンの言葉を理解することはできなかったが、片目と眼帯だけで外国人である少年を魅了するということは、このようなことも含めて恐ろしいことであるように思う。眼力というものはそういうものでもあるのだろう。幼くて、言葉を十分に理解できない者にとっては、言葉ほどに語る目だ。もともと目とはそういうものだったのかもしれない。言葉など最初からあったわけではないのだから。 こうなると、眼力のような、論理を超越した力というものは特別なものではなく、原初的なものだということに気づかされる。この部分がやせ衰えていくことの恐ろしさと、復活してくることの恐ろしさは、どのように伝えていったらよいのだろう。 さて、彼が見ていた右目の世界はどのようなものだったのだろうか。そして、覆われた左目で何を考え、苦しんでいたのだろうか。こうしてダヤンのことを綴るうちに、颯爽と闊歩するダヤンの姿が漸く記憶の底から少しずつ浮かび上がってきたように感じる。その記憶にまつわる別の記憶もたぐり寄せられてくる。そのたぐり寄せられ方はいつも同じであるとは限らない。 それは記憶自体の衰退ということもあるかもしれないが、必要とされる記憶がいつも同じとは限らないということなのだろうと思う。記憶をどう解釈して利用するかは、どれだけ勉強をしているかにかかっている。記憶の量だけが多くても、使えなくては意味を持たない。正しく使うには正しく解釈できなければならない。これにはトレーニングが必要だ。 正しい解釈というのは、その場、その課題に合った解釈のことだから、決まったものではない。たとえ間違った解釈をしていても、状況が変われれば、あとになってから正しい解釈をしたということにもなる。時を経てから漸く評価できるものの方が多いようにも感じられる。全く悠長なものだ。 こうして、記憶は間違いなく今の自分に必要なヒントを与えるべく何年も何年も控えていてくれる。それにもかかわらず、今、ダヤンの記憶が僕に何を与えてくれるのだろうと考えても分からない。これは面白いと言えば面白いかもしれないが、頼りないと言えば頼りない。 しかし、どのような記憶であっても、いつかは貴重なものとなるがゆえに、物事はよくよく心して覚えておかなければならない。日常生活の中で意識的に記憶する余裕などあるはずもな いが、将来の自分にどのようなヒントを与えうるものとなるか、ということを一瞬頭に浮かべることぐらいはできそうだ。 もちろん、将来のことだからあてにならないのだが、その ように覚醒した意識で物事を見ようとする癖をつけておかないと、いつまでも暗いトンネルの中を一人で歩いていくような人生になってしまいそうだ。つまり、大人になれないというわけだ。あてにならないものを確固たるものにしていく手際のよさというものが、生きていく上では要求されることが多い。それに応えうる能力は、おそらくどれだけ思春期でのたうち回ったかにかかっているだろう。 のたうち回るには、それなりのレベルに達している必要がある。これを下まわれば、暴走し、これを上まわれば、問題を持ち越すだけだ。精神的にも成長しなくてはならないということだ。体格と違い、人格は大きな格差がつく。誠に人間というものは厄介で不公平なものだ。 ところで、片足のヒーローはどうしていないのだろう。ぴょんぴょん片足で跳んでいたのではヒーローとしての威厳を示しにくいということもあろう。「ハウルの動く城」にかかしが出てくる。あれは随分とぴょんぴょん跳んだが、ぴょんぴょんかかしに変えられてしまったということは、そこまで、おとしめられたということだろう。 しかし、片足も義足をつけると一変す る。船長で義足の登場人物はヒーローに近い絶大な存在感をもつことになる。脚を失っているのに、逆にそのことがキャラクターの存在感を圧倒的なものにするのだ。 これが義眼であればどうだろう。義足は働くが、義眼は働かない。明らかに義眼と義足は意味が違う。ところが、眼帯となると話は違ってくる。眼帯の中では架空の目が働き始め、無限の力を持ち始めるようにさえ感じられるときがある。 ダヤン国防相のあの黒い眼帯に、死んでいった部下たちに対する鎮魂の思い、喪服の黒のようなものを感じている人もいるかもしれない。また、ダヤンの背負った運命、イスラエルの背負った宿命、そうしたものが凝縮されているように感じる人もいるかもしれない。 しかし、所詮はただの眼帯、ダヤンのアクセサリーに過ぎない。意味というものは、どこまでも、どのようにでも見出せるから有り難く、だから恐ろしい。 ★ホームページに戻る 8/20/2008 心の断片147「構わない」「構わない」 僕の肩は治らない でも別に構わない これは諦めじゃなく ただの強がりだよ 僕の脚は治らない でも別に構わない これは投げやりじゃなく 無責任な強がりだよ 僕の心は治らない でも別に構わない これは無抵抗じゃなく 精一杯の強がりだよ 怪しい命を孕んで 左目が疼く この命には 誰がかかわればいいのだろう でも別に構わない これは無頓着じゃなく 最後の強がりだよ 8/19/2008 心の断片146「天国の色」「天国の色」 片羽広げた蝉 虚空を抱え込む黄金虫 塵芥のごとき数十万匹の羽虫たち 風にふるえる鴉や鳩の羽毛 小石のように乾燥した排泄物 汚れたビニール袋が 斜に構えた水母のようだ 醜悪な姿で はいずり回る別の命が 水面を見つめて ゆっくり呼吸をしている 薄青緑の美しい 塩素を絶たれた 四角い母なる海だ 心の断片145「兵隊さんは帰らない」「兵隊さんは帰らない」 兵隊さんはかわいそうだね 殺さなきゃ殺される 兵隊さんはかわいそうだね お国にゃ残した人がいる 兵隊さんはかわいそうだね 野営地にゃ獣が遠吠えするよ 兵隊さんはかわいそうだね 歩いていかなきゃ置いてかれるよ 兵隊さんはかわいそうだね 手柄立てにゃと思っているよ 兵隊さんはかわいそうだね 命があったら帰られないよ 兵隊さんはかわいそうだね 骨になっても帰られないよ 兵隊さんはかわいそうだね 殺さなきゃ殺される 兵隊さんはかわいそうだね 誰か一人の命令で どこでもどこまでも歩いていくよ お国のために家族のためにと 深く傷ついた体で人を殺しに行くよ 兵隊さんはかわいそうだね 結局何も守れないのに 深く傷ついた心でにっこり笑っているよ ★ホームページに戻る 心の断片144「いっしょに歌おうよ」「いっしょに歌おうよ」 今日はお祭り 繰り出すぞ 見境なくお祭りだ 歌えば 言葉は失われ 踊れば 体は自分じゃない 陽気に祭りを 楽しもう 何としてでも楽しもう お祭り広場の片隅 地面ばかりを見てる 青いワンピースの少女 いっしょに踊ろう いっしょに歌おう 今日は 紛れもなくお祭りだ 突然思い出したこと117「自作キャラメル」 幼い頃といっても小学校低学年の頃だろうか。今どきのように袋に入ったお菓子などはなく、紙袋に入れて重さを量っての量り売りだったような気がする。お小遣いもないから、たまにどこかでもらったようなお菓子を真似して自分でつくるのだ。 なかでも自分のお気に入りは、自分だけがこっそりキャラメルと称していたものだ。作り方は簡単。バターに相当量の砂糖を練り込むだけだ。キャラメルとはいっても、他に甘いものをあまり知らないから、そのように思っていただけで、キャラメルの味がするわけではない。辛うじてミルクキャラメルかなというぐらいだ。 自分ながら極上の味を創造したつもりになって密かに満足していたものだ。しかし、たくさん食べるわけでもない。この「自作キャラメル」も総量で言えば、大さじ五杯程度で製造中止にしたはずだ。もちろん、興味が別のものに移り変わっただけの話だ。 そのようなものを口にし続けていれば、健康診断検査が恐ろしいものになりそうだが、よくしたもので、今はバターが手に入らない。 ところで、「バター臭い」とか「バタ臭い」というのは、西洋の雰囲気とか西洋かぶれという意味だろうが、これだけ西洋化した日本では、ほぼ死語になった感がある。若者の姿形も江戸時代のことを思えば、随分とバタ臭くなったものだが、和風の面構えの者がまだまだ多い。これが五百年後、千年後の将来であったとしても、絶滅してしまうことがないよう、大事にしなくてはいけないと思う。 一方、西洋では、漢字のTシャツが流行ったり、東洋の思想に興味を持ったりするなど、東洋への憧れを持つ傾向の人間もいる。僕たちはこれは何と呼べばよいのだろう。「糠味噌臭い」と言えば、女房になってしまうので、今のところ不都合がありそうだ。では、西洋ではどのように呼ばれているのだろう。特に、食べ物で表現されたものを知りたく思う。 「味噌臭い」だろうか。「納豆臭い」だろうか。「魚臭い」だろうか。どうでもよいことだけれども、この中で砂糖を練り込むとしたら「味噌」が最も似合っている。こう思うこと自体が和風の感覚かもしれないが、どうしても魚だけは砂糖ではなく、塩にしてほしいものだ。また、納豆は甘納豆があるが、ねばねばの納豆が甘かったらやっぱり少し怖い。 <見るからに旨そう 画像クリックで説明画面へ> 8/17/2008 心の断片143「今年の夏は」「今年の夏は」 朝の風はすがすがしい 髪揺らし葉をかすめ 枝の向こうですっと消える もの憂げに 蝉がとんでいく 僕の心をたぎらせないまま どうして今年はいってしまうのかな 8/16/2008 心の断片142「宝はいつも消えてしまう」 「宝はいつも消えてしまう」 押し入れ暗い奥のすみ 昔々の木のおもちゃ 傷ついて どうにも不揃いの 積み木の箱が出てきた それでも幼い僕は積み上げる 子犬ほどの影おとし 確か一つだけあったはず 綺麗に輝く あおい三角錐 傷も色のはがれもない それだけが真新しい 積み上げたらあの三角を 山の一番高いところに のせなければならない その一つが 見あたらない 箱の中も 押し入れにも あの美しい色で 山を飾らなければならないのに 綺麗に輝くあおい三角錐が どこにもないよ 父は宇宙に飛んでいったという とべ とべ 僕のがらくた 積み木たち 打ち上げられた僕の 宝といっしょに 目の前から消えてしまえ こっそり大人の目で僕は空を見る 日々雑感235「戦争映画」 戦争映画は悲しく作られている。だが、悲しくつくらなくてよい。戦争をなくしたいのならリアルに作るのがよい。悲しくつくると戦争の恐ろしさが歪められてしまう。 二十五歳以上でないと見られないという制限付きの映画でよいから、写実的に作らなくてはいけない。ストーリーなど無くてよい。例えば、二時間ずっと戦闘シーンを続ければよい。戦闘シーンという言葉も誤解を招く。惨殺シーンが正しい。 友情や愛情や歴史、作戦の評価、そんなものを描いてはいけない。人間ドラマにしてはいけないのだ。兵士として鍛え上げられた肉体がいかに脆いものか。文化や伝統や命や精神がいかに脆く崩れ去るものか。そうした滅びを描かなくてはならない。 そうしたもので貫かれた映像の怒濤の爆裂を、兵士の悲鳴を、肉片を、吹き出した内臓を、死体が腐り、骨となって崩れていく有様を、克明に描かなくてはならない。これまで見てきたどんな戦争映画も、僕が聞いてきた戦争の印象とは違って、学芸会にしか見えない。 「本当の戦争はあんなものじゃない」という発言ができる戦争体験者が生きている間に、そうした映画に関わってもらわねば、たとえ反戦の精神に基づいて制作されたものであっても、真実は伝わらない。真実を伝えることこそが反戦の力となるのだから、これは曲げられない。 とりあえず上映禁止とならねば本物の反戦映画とは言えない。従って通常の映画会社が手がけたものでは本物がつくれない。つまり、実現不可能ということだ。 しかし、こうして次第に反戦の思いが薄くなり、いつかは平和憲法も少しずつ変えられ、戦争に関わるようになれば、戦争を語ることのできる若者が増えてくるだろう。そして、被害者が出れば、心のどこかで一矢報いなければという気持ちが自然に起こり、それが束になってくると、相手を殲滅しようという気持ちに容易に変わる。 その戦争を語ることのできる若者が出始めたときに、英雄ではなく、正常な精神で正しく現実を語ることのできる者を探し、徹底的に記録することだ。あと十年もすれば、戦争を正しく語れる高齢者の数はほとんどいなくなるからだ。そもそも正しく語れる人間は戦死している可能性が極めて高い。ここ十年が勝負だろう。 だが、誰が勝負するのか。この国家プロジェクトは国が経費を投じて行うべきだ。CGでも何でも使い、少なくとも「これが本当の戦争だ」と体験者に言ってもらえるまで編集しなおすべきだ。さらに全世界にも連絡し、各国版を制作して寄り合わせ、長編映画にするとよい。 とにかく、トラウマにならねばならない。従って、精神に変調を来しても責任は取りませんという同意書に本人の署名捺印がなければ見ることができないというレベルの内容でなければ失格だ。もちろん、国政に関わるものは必ず見なくてはいけないという決まりも作っておくのを忘れてはいけない。 8/15/2008 心の断片141「綺麗な街」「綺麗な街」 地平線まで街の家並み 無造作に並べられた 縮れたプライドの 誰も手にしない古本のようだ ずかずかどすどす 通り過ぎてゆく 路面のかかと 無表情は 一種のサービスにちがいない お互いがどこかの誰かだ それだけの平等が 貧しい自由を 辛うじて支えている 仮面に覆面かぶせ 皆同じ姿じゃないか 同じ仕草で 理解を求める 見苦しい仲間じゃないか ときどき自分を探して ごみ箱まであさる あさましい変質者じゃないか 何かが少しずつ壊れていく毎日は だから時折心地よい 8/12/2008 恐怖シリーズ115「オリンピックの子供たち」 オリンピックは四年に一度しか開催されない。これにはいろいろな事情があると思う。しかし、それらの事情とは別に、一つ気になることがある。 それは誕生年月日だ。選手としてオリンピックを何歳で迎えるかということは、重要なことだ。スケートや体操のように年齢制限のある種目についてはなおのこと重要なことになる。オリンピックの開催年から逆算して、人生設計ならぬ競技人生設計をしていくのは、両親ということになる。 恐ろしいのはそこに国家や国家に所属する団体が関与してくるということだ。しかも、何月何日ということも関係してくるので、理想の競技人生設計にのるために、最も好ましいト誕生日の期間に生まれるように仕組む可能性がある。文字通りの計画出産というわけだ。 両親がオリンピック級の競技者ならば、人工授精で複数の代理母による量産体制に入っている可能性はゼロではない。これは恐ろしいことだ。 真に恐ろしいことは、ものにならなかった子どもたちの行く末をどのように管理しているかということだ。 8/8/2008 心の断片140「骨休み」「骨休み」 舌足らずのお姉さんたちが チグハグファッション 頸椎傾け歩いてくると 途端にやってくる 夏休み どこから来て何をする 何を食べた 何を見た ハイヒールが腰椎歪め 笑顔の悲鳴を 化粧がしかる この国を動かすぞ この国を滅ぼすぞ 未来を支える濃厚な時間のしこりが 炎天下のアスファルト 人の形で闊歩する 心の断片139「街の風景」「街の風景」 街を歩いていると、いろいろな物が目に入る。 日傘の女性。舌たらす犬。ネクタイなおす男性。いつの間にか動物ばかりを見ているのに気づく。それにしても、いったい何のために見ているのだろう。動物ばかりを見ている以上は何か理由があるはずだ。 時々それに飽きるからか、空を見たり、本を読んだり、ニュース番組を眺めている。草木や花々を見ることもあるけれど、だからといって心が和むわけでもない。心が和んでいようと苦しんでいようと、そんなことはかまわないのだが、ただそこにはまだ完成しない何かにかかわって奮闘している自分がいてほしい。 そうか。なるほど。そうした自分を見てくれている人を探しているに違いない。 街の風景は寂しくて、街の風景はいたたまれない。そして、どこか面白い。 どこにもいない僕とどこにでもいる僕。 誰も誰も休まぬ動かないベルトコンベアー。 8/7/2008 心の断片138「風」「風」 世界中に臆病の風が吹いている 山海野原 田地田畑 部屋の中 美しく生きる勇気もなく ただいたずらに渡り歩く つくられた世界の つくられた餌をくらい 最後の最後まで にこにこと消費される人生 世界中の臆病風が 本当の役割を果たすときだ |
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