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    8/31/2009

    日々雑感158「己の崩壊と顔の構築」

      現代は、とある目的でむやみに情報化を進めているため、過ちを学習したころには既に状況が変わり、学習して身につけたことの多くが役に立たなくなる傾向が出てきた。その徒労感たるや語るに忍びない。学習してもそれが役に立たないということを学習し続けると、経験から学ぼうという気持ちなど次第になくなってくる。それが人情というものだろう。
     こうした「ちぐはぐ」の末にたどり着くのは、せいぜい「自分しか信じられない」という理由にもならない情けない理由をつけて貧困な自分だけの感覚に頼るという不始末だ。このとき、「将来のことなんか誰もわかりゃしないさ」とか「将来は必ずこうなるに決まっている」とかいう思考停止の宣言を敢えて臆面もなく披露することによって、その言葉自体に価値があるか如きの演出をすることがある。
     このとき最もありがちなのは、己が解決すべき課題を、その場その場の空気の流れに流されるか単純に反発するかの二者択一というシンプルな作業にすりかえてしまうということだ。これを声高らかに行う者は決断力に優れているという誤った評価を得てしまうおそれがある。この評価を自他共に信じ込むようになると、また厄介な問題が後々生まれることになるので、余程勘違いしないように気をつけなければならない。
     そうした二者択一の次元をこえるアイデア(折衷案をこれに含めるかどうかは微妙なところだ)を捻出する努力を怠ることこそが罪なことだと認識しなければならないと思うが、どうだろう。この怠慢が、己の考えを誰かの考えで代用したり、流用したりすることへの慣れを進行させてしまうのは火を見るよりも明らかだからだ。
     このような人間的に衰弱した姿勢をとることに一世代目は後ろめたさや不安感などを背負うが、二世代目はそれを横目に見るだけとなる。三世代目ともなれば尻目に見て、最後にはそれが当然のこととなる。悪い意味で時間が解決するということの典型だ。
     しかし、そうなってくると、「己」という「経験の累積」がかすんでくる。「己」を失うという本当に恐ろしいことが恐ろしいことではなくなる過程を三世代かけて踏んでいくということだ。その間に感じる漠然とした「わりきれなさ」や「やりきれなさ」、そしてそこから生まれる「憂い」などは、ただの過渡期の症状だ。だから、通り抜けさえすれば、何のことはない。
     憂いなどというものの理由など探しても大局的には大きな意味はない。一秒一秒の時の流れが、「解釈による解決」や「忘却による解決」や「状況変化による解決」に向かっているのだから、場合によっては理由を探すことが徒労に終わることになってしまう。
     納得というものはいつでもどこでも簡単にできるものだ。だから、納得できない状況やその原因にいつまでも強いこだわりをもって抵抗したり追究したりしても、それは無駄なことだということを早く了解するのがよいように思う。もちろん、全くの無駄ではないようにすることはできるが、一瞬のうちに世界観を転換することなど朝飯前という暗黙の了解や保証があるということに甘えていればそれでよいのではないだろうか。
     しかし、結局それは「己」の崩壊が進行することを意味する。「己」というものが、ただ漂うだけの、存在と言い切れないものに限りなく近づいていくのだ。そこで無理に「己」を示そうとか生かそうとか思えば、今度はまた別の問題が起きることになる。無理をすることによって、イレギュラーの動きをするか消滅するしかないという短絡的な判断が生まれやすくなるのだ。易きに流れるのも、これもまた道理だ。「己」が確立して、しかも認められるには長い年月がかかるものだ。ここに問題を解く鍵がある。短期間に己を確立し、認められるものや場を選ぶという発想をもつことだ。短期間といっても自分が我慢できる期間であればよい。
     例えば、面白いだじゃれを考えて日常会話の中でタイミングよく発表すれば、場の雰囲気を和ませるだけでなく、新しい発想に至ることも計算次第ではできるかもしれない。また、みんなが不便を我慢していることを洗い出し、その不都合を解消することに短期集中して改善するということができるかもしれない。また、世間が気づかないことに全勢力を傾け、短期間に成果を上げるということができるかもしれない。
     こうした断片的だが継続可能な生きる姿勢を示すことが、とりもなおさず生きざまを示すということになるはずだ。その生きざまを「己」そのものといってもよいと思うのだ。
     ところで、「己」の崩壊だけが問題ではない。また別の問題もある。それは、一人一人のつながりが薄い社会となっているということだ。その社会には短絡的にイレギュラーの動きをしたり自己消滅をしたりする動きをとめようとする力が弱い。無責任に傍観者の立場を取るのが楽なのだ。個人的なことにはかかわらないという上手い逃げ口上も用意されているからなおさらだ。
     一人一人のつながりが薄いから、つながろうとするあがきをする個人の営みは絶えない。例えば、不特定多数のネットでのつながりや、少数限定の携帯電話でのつながりだ。そのつながりを保つための努力は見ていて涙ぐましい。しかし、結局つながれないのは「苦楽」を共にしていないからだろう。合理的な「苦」を駆逐してしまったため、真の苦を味わわねばならないという愚を犯していることが多いように思う。また、利益追求の過程で、「楽」も個人的なものに細分化されてしまったため、一人一人が立つ場所がばらばらとなってしまった。気軽にはなったけれど、その代わりに不安を抱え込むことになったのは、誰のせいでもない。大人ならば他ならぬ自分自身のせいだ。
     このように永遠につながれることのない「つながりたい人たちの群」はカラオケルームでもよく観察される。一つの歌をみんなで歌うのではなく、個々人が得意な歌を披露している集団だ。狭い空間と同じ時間帯に歌という限定された作業を行うという点でだけつながっているので、「一緒感」はあっても「連帯感」などは残念ながら育まれない。仕方ないので、共通の敵を決定していくという作業を歌の間に織り込んで、親和感を高めるという愚劣な方法に依存することになりがちだ。
     それに対して労働歌というものは現在どのように機能しているのだろうか。歌だけが労働と遊離してしまっていることはないだろうか。辛い労働をともにするときには自然に口について出て、勇気づけてくれるのが労働歌だと思うが、どのような労働歌があるのかさえも既にわからなくなっているのが実状ではないだろうか。
     労働歌は肉体労働に特有のものだ。しかし、その肉体労働が機械の導入と外国人労働者の導入でますます労働歌が発生する余地はなくなってきていると思う。さて、本来は労働歌が必要な職場はどのような手段で「連帯感」を練り上げているのだろうか。一人一人が別々の曲を一人一人の小型音楽再生機で聴いているとしたら、おそらくそうした手段はとられていないということなのだろうと思う。
     こうしたつながりの薄い集団の中を個々人が漂っている状態がさまざまな場面で目撃される。それはとてもつまらないことなので、いつも何か面白いことはないかと渇望することになる。この渇望はいたるところで見られるいじめの構造を強化するものだ。
     哀れなのは、漂うことが生きているという実感にすりかわることだ。しかし、これがこの過渡期のスケジュールだ。すり替わればそれが一つの価値になって大手を振ることになる。それまで待たねば、心の病は減らないだろう。
     それはそれで別段かまわない。ただし、そこから先は何もないように思う。人の心の最終段階だ。しかし、それではつまらないではないか。その最終段階がこのようなものだとは貧しい話だが、人の心にそもそも人々は何を求めていたのだろう。あたたかさとか理性とか、そうしたものだったとすれば、何ともお粗末な最終段階だ。
     そうした段階では不都合なものに向かっては、ことごとく無視するという手口でしか「己」を保てないという情けない精神状態の人々が多く出現するように思う。そうなるとますます人間というものがつまらなくなってくる。ただ、こうしたことも繰り返していれば、鈍感にはなれるかもしれない。それは救いだ。救いだが、逃れているだけの「己」の負け犬の後ろ姿だ。
     どこまで「己」を崩すと、「己」であり得なくなるかはわからないが、ふと自分の生きてきた道をふりかえってぞっとする。いったいそのどこに「己」の軌跡があったのか、おそれていたように実に不明確なのだ。
     現状がどうあれ、「己」が崩壊する以前の治療はどうしても必要だ。それはヒューマニズムからだけではなく、まずは単純に不経済だからだ。自覚した者は、仮の「己」を自分の中に注入するか、仮の「己」を自分の肉体に纏うかする。これは最初のうちは交換が容易なので、そのこと自体が心地よい場合がある。小さい子供のごっこ遊びと一見似ているかもしれないが、それは幼子が這うのと老人が這うのが同じではないということと一緒だ。
     ここで奇妙な思い込みが頭をもたげる。逃げの姿勢は顔つきに実体化するということだ。恐ろしげな顔つきの人は何から逃げているのだろう。にこやかな顔つきの人は何から逃げているのだろう。深刻な顔つきの人は何から逃げているのだろう。無表情の人は何から逃げているのだろう。
     リンカーン大統領のことばだといわれている「四十歳をこえたら自分の顔に責任を持て」ということばがある。このことばはこうしたことをふまえて言われているものかもしれない。逆に、己の崩壊をふせぐために逆に顔の構築をするという手法はあるだろうか。鏡を見て、顔の造作を観察し、どういう気持ちを保てばどういう表情になるかを検討する価値はありそうだ。

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    8/28/2009

    心の断片190「語り部」

    「語り部」

    闇を語れ

    いやらしい光に覆われて
    真実の闇が
    さっぱり見えないじゃないか
    そしたらもう闇の語り部

    ことばを杖に探り歩く
    哀れ貧しい生き物だ

    一発芸の連続で
    ごまかされてきた目と心
    だが僕たちの耳は頼もしい
    時を越えて執念深く
    たどたどしい追及は貪欲で
    しかもスペクトラムだ

    どうにも闇を語れ

    闇が闇として
    僕の左肩を染めるころ
    光が光として
    僕の右眉を照らすだろう
    偽物にも本物と偽物があり
    本物にも本物と偽物があることの
    本当の意味がわかるということだ

    はやくしないと
    光ばかりに目がくらみ
    落とし穴から出られない
    穴が大きすぎて
    落とし穴だとわからない
    光の強弱で
    偽の闇がうみだされていることの恐怖
    真の闇を
    闇として語る習慣のない恐怖
    だがしかし
    何から何まで手遅れなので
    新しく一歩を踏み出すしかないという喜び

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    8/25/2009

    日々雑感247「下駄」

     下駄を見直したい。下駄は歩くとかなり大きな音がする。これをうるさいと評価することもあろうが、人口が減っていく日本、特に過疎化が進んでいる地域には、景気のよい音が鳴り響く方が精神衛生上よいような気がする。カランコロンとゲゲゲの鬼太郎のようで何かが起こりそうな感じがするところもよい。
     下駄とは反対の履き物にスニーカーというものがある。スニーカーだからスネイクだ。「脛行く」だからスネイクではなく、蛇のスネイクだ。履いて歩いても蛇のように音もなく歩けるということだ。さらに意識的にそっと歩けばほとんど音がしない。靴底の縁を上手く使って足を地につけると全く気配を消して歩くことができる忍者のような靴だ。これは都会のように人が混雑するところでは静かでよい。しかし、ねらった人物のバックに音もなく忍び寄ってナイフを首に当てることも可能だ。
     その点下駄は自己主張が強い。遠くの方から、今からそちらに向かいますよと宣言しながら闊歩しているようなものだ。その存在感の分だけ、一種いわれのない責任感をほどよく緊張感としてもつことができる。これは下駄の奏でる音と一緒になって脳を刺激し、目の力が増し、背筋も自然と伸びる。歩き方が下駄の音で分かるから、人柄までそこから読み取る習慣も生まれる。
     スニーカーは片減りする。自動車のタイヤと同じだ。だからといってタイヤ交換をすることはできない。しかし、下駄も片減りするが、左右対称の下駄は毎日左右を交換することによって、極端な片減りはなくなるかもしれない。すり減っても一体化してないものなら歯を替えられる。鼻緒も替えられるから、スニーカーと違ってエコ度が高い。また、オープンな造りなので、いくらかの幅を持っていろいろな足の大きさの人を受け入れることができるので、共有が可能だ。そのため、素足の手入れを日常的に意識するという清潔な習慣を身につけるということが期待できそうだ。足を靴下にくるんで閉鎖的な造りのスニーカーにくくりつけるというのは、どう考えても蒸れて臭うに決まっている。
     下駄は脱いで手に取れば、喧嘩にも使える。しかし、下駄を履いて逃げることは難しい。それに対してスニーカーは手にとっても強力な武器にはならないから、喧嘩には使えない。また、闘うのではなく、その場から逃げるのに適している。そうなると、下駄を履いている場合は簡単に喧嘩しようという気持ちにならない。互いに武器を持っているからだ。しかも逃げにくいという点から、相当の覚悟を必要とするということで、興奮しかけた気持ちを抑制することになる。
     その点スニーカーは走って逃げやすいから、相手を煽っておいて全力で逃げるということが可能なため、軽い気持ちで相手を刺激するおそれがある。
     基本的に下駄は素足で履くことが多いから、足を傷つける可能性がある。その分だけ足もとへの注意力が増すので、他の注意力が散漫になるともいえるが、バランスよく注意を払うという基本的な姿に戻るというだけの話だろう。また、素足が見えているので、素足の手入れが必要となり、その分だけ細やかな心を持つことができるようになるともいえる。気にかけるべき部分が増えることによって、面倒なことが増え、その分だけ心のエクササイズとなり、人格へのよい影響が期待できるというものだ。
     それにしても、サンダル、つっかけ、スリッパ、ぽっくり、スパイクシューズ、登山靴、長靴、フィン、スケートシューズ、ローラーブレード、金のわらじ、……。人間というのは実に多くのアタッチメントを持っている生き物だ。要は、必要なだけそろえて使い分ければよいということだ。逆に言うと、それだけ足が酷使されるということだ。
     お風呂にはいるとリラックスするというのは、もしかするとそうした素足の開放感も一役かっているかもしれない。何となく下駄の復権を唱えたが、まずは実際に一足用意して、カラコロカラコロ散歩することにしよう。
     ところで、下駄には履き物でありながら板の間の上に素足で立っている感覚がある。 この感覚は忘れたくない感覚のうちの一つだ。

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    8/23/2009

    怪しい広辞苑187「第四版208ページ・ウェスト-ライン」

    <女性のからくり 画像クリックで説明画面へ>  
     広辞苑第四版208ページ「ウェスト-ライン」の②の説明はこれでよいだろうか。
     「洋服の胴まわり。胴の最もくびれた部分を一周する線。」とあるが、ウェストは立体的なものなので、胴を輪切りにしたときにできる「胴の最もくびれた部分を一周する線」、つまり人体を頭上から見たときの一周するラインだけでなく、人間の目線で見たときに最も気になる胴を縦割りにしたときにできるくびれのライン、つまり「胴を正面や側面などから見たときのくびれの線」という説明を加えた方がよいのではないかと思う。
     「きれいなウェスト-ラインですね。」などという決まり文句は、間違いなく後者の意味だ。一周する線などにきれいも何もないだろう。どこをとっても、また、だれのウェストでも似たような楕円形だろう。それに対して、「く」の字になったくびれの線は、くびれ方にいろいろあるから、その中にはきれいなウェスト-ラインと評価されるくびれの線を生み出すウェストの形状というものがあるはずだ。
     つまり、広辞苑第四版には、ボディー-ラインの一部分であるところのウェスト-ラインという見方が欠けていると思うのだ。
     ちなみに、広辞苑第四版には「ボディー-ライン」という見出し語はない。そして、「ヒップ-ライン」「バスト-ライン」もない。まさか人間の肉体をウェストに重きをおいて判断するという方針を暗に主張しているわけではないだろう。では、どのような意図的でウェスト-ラインだけを載せたのだろうか。
     女性にとっても男性にとっても肉体のいちばんの関心事の説明をおろそかにしていると思われてしまうような見出し語の選定は、特に編集の意図がなければバランスを考えて載せるようにした方がよいと思うがどうだろう。
     ところで、いつからテレビコマーシャルや通販カタログ、新聞広告で、それぞれのラインを綺麗にして見せるような商品が目立ってきたのだろうか。今やどれも目白押しだ。

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    怪しい広辞苑186「第四版207ページ・ウーマン-リブ」

    <これからは男女協同で著したものでないと 画像クリックで説明画面へ>  
     広辞苑第四版207ページ「ウーマン-リブ」の説明はこれでよいだろうか。
     いったいどこの国でいつごろ起こった運動なのかという説明がない。また、結果はどうだったのかということも説明がない。こうした記述がないのは不思議だ。もちろん、近年のことで歴史的にどう評価すべきかというような定説がなければ、記述することもできない。問題は、果たしてそうした事情から情報量を減らしたのかどうかということだ。
     辞書の仕事が意味の説明であるのならば、「事件」や「社会運動」などについては、最低限五W一Hぐらいは満たしておいてほしいものだ。利用者としては最低限そのぐらいの情報がないと、そのものをイメージすることが困難で、利用したかいがなかったと感じてしまう。これはまずい感情だ。辞書一回の利用で得たい情報を得られず、結局あれこれ探し回るというのは、時間的に不経済であるだけでなく、辞書を使うことに対する意欲の低下をまねく。さらに、この程度の認識でよいという錯覚をもつ人も出てくる可能性がある。
     ウーマン-リブの旗頭になった人々は活動のあり方を反省し、間違っていたと述懐しているそうだ。何をどう間違ったのかを知りたいところだが、現代社会の姿、特に男女共同参画社会という側面をつくりあげてきたうねりの一つの発端となった活動であることは間違いないだろう。
     昔の人々の思いが今を作っているということは、今の僕たちの思いが未来をつくるということだ。これはとても大事な自覚だと思う。その自覚を促す機能までを辞書に求めるのは間違っているが、いつの話かも説明しない広辞苑の編集姿勢にはどういう意図があるのだろう。
     広辞苑第六版ではどのように説明されているのだろうか。

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    8/22/2009

    怪しい広辞苑185「第四版206ページ・ウィンチェスター」

    <ウィンチェスター社のナイフ。銃だけじゃなかったんだ。 画像クリックで説明画面へ>
     広辞苑第四版206ページ「ウィンチェスター」の説明はこれだけでよいのだろうか。
     「ウィンチェスター」の説明には、イギリス南部の都市の説明が四行にわたってなされている。ところが、それだけで説明が終わっている。「ウィンチェスター」といえば銃器メーカーのイメージが自分としては強い。この説明がどうして抜けているのだろうかと疑問に思う。
     ウィンチェスターライフルの玩具とともに日本の子供に有名なのは「コルト」の拳銃の玩具だ。「コルト」の説明は広辞苑第四版976ページの「コルト」にある。即ち、「アメリカ人サミュエル=コルト(Samuel C.一八一四 一八六二)の発明した連発式拳銃。」だ。このコルトの拳銃の元になったものはブラウニングが開発しているらしい。 
     ブラウニングは、日本風に訛ってブローニングだ。広辞苑第四版2284ページ「ブローニング」の説明には、そのブラウニングが紹介されている。即ち「アメリカ人ブラウニング(John Moses B.一八五五 一九二六)の発明した自動拳銃。」だ。
     このブラウニングが開発したレバーアクションのライフルの特許を購入し、つい数年前まで製造販売していたらしいのがアメリカのウィンチェスター社だ。ウィンチェスターのライフルといえばチャックコナーズの西部劇テレビドラマ「ライフルマン」で年配の日本人には馴染みが深いはずだ。
     同じブローニングにかかわりのあるもの同士であるのに、「ウィンチェスター」の掲載はなく、「コルト」の方は記載がある。この辺のアンバランスをどう理解すればよいか考えている。ただのアンバランスなのか、意図があっての調整なのかということだ。もしかすると、アメリカ先住民に対する遠慮からだろうか。もしそうだとすれば、アメリカ先住民に対して失礼だろう。「ウィンチェスター」の説明にしっかりと「アメリカ先住民を侵略するときに活躍したライフル銃」と明記するのがよい。
     僕はガンマニアではないが、男の子の常識として会社の名前ぐらいは頭に数社浮かんでくる。
     因みに広辞苑第四版2367ページ「ホッチキス」は、即ち、「①機関銃の一種。アメリカ人ホッチキス(Benjamin Berkeley H.一八二六 一八八五)が発明。ガス圧を利用した空冷式のもの。」だ。
     ところが、有名なドイツの「ワルサー」「ルガー」イタリアの「ベレッタ」は広辞苑第四版には載っていない。日本のメーカーも載っていない。長年僕たちの生活を守っていてくれる警察官の拳銃も外国製のものが多いのかもしれないが、国産のものだって立派にあった。その恩を忘れるわけにはいかないと思うのだが、やはり載っていない。これはどうしたことだろう。
     古い話と言ってはいけないかもしれないが、やはり「日独伊」の武器関係は避けられているのだろうか。しかし、「零戦」「回天」は載っている。なぜか、「桜花」は載っていない。戦果がほとんどなかったからだろうか。しかし、戦争の愚かさを伝えるなら、この「桜花」こそ載せるべきだろう。
     結局、僕の頭に浮かんだ銃器メーカーの中で広辞苑第四版に載せられていないのは、ウィンチェスターとスミス&ウェッソンだ。両方ともアメリカの会社なので、どうやら「日独伊」だけが避けられているわけでもなさそうだ。
     ただ、イタリアの「ベレッタ」はアメリカ軍の拳銃として正式採用されているだけでなく、世界に幅広く売られているようなので、第六版には掲載されているかもしれない。
     なにはともあれ、広辞苑の掲載基準というものがどういうものなのかということを知りたいものだ。基準がなければ、見出し語の数のコントロールができなくなる。だから、基準は当然あるはずなのだ。特にないということになれば、それはいい加減な辞書ということになってしまう。広辞苑にあってはそんなことはないということだけは信じている。

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    心の断片189「心地よき朝」

    「心地よき朝」

    神佛の教えが
    心地よいように
    悪魔妖魔のささやきも
    そよぐ風の如き心地よさ
    この宇宙の一点に
    かかわってくれることの
    すばらしき
    ありがたき心地よさ
    麗しきメロディーも
    また
    賢きことばの数々も
    無きに等しいこの身には
    もったいないほどの
    ゆらめき
    かがやき
    いつくしみ

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    8/20/2009

    心の断片188「アシナシトカゲ」

    「アシナシトカゲ」

    だれが教えた
    そんなことを
    だれが教えた
    麻酔がきれて
    ちりちりと
    心がかわくじゃないか
    次々に新しい小鳥が欲しくて
    喉から腕が何本も出ているじゃないか
    なのに
    目に見えない物語が
    だから信じてもらえずに
    この宇宙に満ちあふれているじゃないか
    なのに
    はいずりまわって
    のたうちまわって
    汚い足跡をことばの汚物で
    二重に汚しているじゃないか
    それが生き様だと
    得意げに突っ立っているのは
    蛇のふりをした
    いやらしいおまえの姿
    そのものじゃないか

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    8/16/2009

    日々雑感246「姫百合の歌」

     いろいろな戦争関連の歌があるけれど、これも忘れられない。数え歌になっているから十番で終わりだ。終わりのある数え歌にしなければ、終わりのない悲しみにけりをつけられないのだと思った。逆に、何の罪もない若い命が理不尽に失われたことによって、歌という形で永遠の命を吹き込まれたとも言える。
     この七五調は旋律の重々しさ無念さとあいまって、はかなく散った若い女性たち運命の悲しさを聴く者にしみじみと感じさせる。
    また、仕立てが数え歌であるのは、姫百合部隊に象徴される戦争に巻き込まれた若い命の無念を、どれ一つとして欠くことなく、後世に伝えようという強い意志の表れであるように感じる。
     僕は沖縄の人ではない。戦後生まれなので、沖縄戦を体験しているわけではない。しかし、沖縄の人にとっての戦争は沖縄戦から始まったということはよくわかる。21世紀になってもそれは終わっていない。広島長崎の被爆者にとっての戦争が被爆から始まったようにだ。
     蛇足だが、歌詞の中に「マーク」という戦時中なら敵性言語が使われているのは、敵性言語などということなどをうるさく言われないそんな時代になったんだという、過去の理不尽な時代への決別の姿勢を明示したようにも見える。ああ、今日も夏の虫がなく。人間というものは戒めを受けるために戦争やら紛争やらを続けるしかないのだろうか。
     もちろん、戦争で潤う人々がいるという社会の仕組みをなくすのは難しい。もしかすると、それが人間というものの生き様なのかもしれない。たぶんそれは、全くノーマークの、おそらく普段平和主義者の僕たちがよし信じて疑わぬものが原動力になっているのではないかと思う。これを業というのかもしれない。

    姫百合の歌』作詞・小宗三郎/作曲・不詳(1966)

    一、広く知られた 沖縄の
      犠牲になった 女学生
      姫百合部隊の 物語

    二、二筋忠孝 胸に抱き
      鉄より堅き 日本の
      大和魂の 桜花

    三、御国の郷土を 守らんと
      細い腕にも 力こぶ
      姫百合マークの あで姿

    四、他所の見る目も いじらしく
      弾丸飛び散る その中で
      艦砲射撃も なんのその

    五、いつか敵は 上陸と
      聞いた時には 姫百合も
      共に散ろうと ひとしずく

    六、無理に心を 励ませど
      体をささえる 食もなく
      のどをうるおす 水もなし

    七、泣いても泣けず 銃をとり
      勝たねばならぬ この戦
      岩をも通すと 立ちあがる

    八、焼けて飛び散る 我が郷土
      見るにしのびぬ 焼野原
      天地に神も 召しませぬ

    九、根気も意地も つきはてて
      死なばもろとも 姫百合は
      散って惜しまぬ 若桜

    十、とうとう玉砕 姫百合は
      地下で共に 泣くかしら
      淋しく泣いてる 夏の虫

     「戦後20年、もう戦後ではありません。」と高度成長期にあって大和のマスコミは繰り返しそう叫んだ。しかしそのとき、まだ沖縄は日本に返還すらされていなかった。このマスコミの大宣伝は沖縄の感情を逆撫でしたに違いない。姫百合の歌はそうした背景を背負って発表された歌だとしか思えなくなってくる。米軍基地である沖縄にとっては今も戦後だ。
     サイパン、グアムなども観光旅行に行く人々が多いが、その観光が遊びとしての狭義の観光か、それとも見学としての観光か、慰霊のための観光かで大きく表情が違う。
     いわゆるかつての激戦地に遊びで行く人々は、その寝そべっている浜辺やホテルの下には無惨な屍が累々と横たわり、小高い丘には、故郷に帰りたがっている地縛霊が立ち並んでいることを忘れてはならないだろう。
     見学で行く人々は、行儀よく並べられた資料をつぶさに漏らすことなく目を通すだけでなく、現地の様子に重ねて当時の様子を頭にイメージすることと、自宅に帰ってから明日にでも同じようなことが自分自身に起こる可能性があるという感覚をもつことを忘れてはならない。飛行機に乗ると別世界の出来事という錯覚を起こしかねないからだ。
     慰霊のために行く人々は、手を合わせるだけではいけない。手を合わせて思いを新たにチャージしたら、帰ってからどんな行動ができるかを企画しなければならない。自分の中だけで処理してはいけないことがたくさんある。
     戦争体験を聴くイベントがいろいろなところで開催されるが、後数年もすれば高齢化で不可能になっていく。公共図書館等でも夏の企画で展示とともになされることが多いが、その映像や声の記録をDVD等には保存してはいないのではないだろうか。その記録を累積して作品とし、貸し出すということを著作権の問題もあるだろうが、どこが主催する企画でも日本中でそうしたことを行っていかねば、失われていくばかりだ。手遅れになってからでは遅い。
     少なくとも僕の住んでいるところはこれまで何の記録も取ってこなかったので、とりあえず無理を言って同意してもらった。今年から記録をすることになるだろう。それをどう資料として整備し、どう活用するかについてのアイデアは内部でわきおこってほしい。そうならねば今度はアイデアを提供するという段取りをするだけだ。

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    8/14/2009

    怪しい広辞苑184「第四版200ページ・インド医学」その二

    <女性専用スティックソープ 画像クリックで説明画面へ>
     広辞苑第四版200ページ「インド医学」の二行目。「アユール-ヴェーダと呼ばれ」とあるが、これでよいだろうか。
     「ヴェーダ」か「ベーダ」かという問題もあるかもしれないが、それよりも、個人的に聞き覚えがあるのは「アユール」よりも「アーユル」なので、そこが腑に落ちない。
     国立国会図書館の蔵書を検索しても九分九厘の書名が「アーユル」となっている。「アーユル」以外は「アユル」という長音のない表記だ。そして、自分が見る限りでは「アユール」を書名に含むものはない。
     書籍であるから、それなりの研究成果をまとめたものだ。つまり、著者と出版社の両方でチェックを入れ、世の中に胸を張って出版したはずのものだ。そして、何よりも著者の見識が形となったのが書籍であり、書籍にとってタイトルというものが重要なものであることを考えれば、「アーユル」という表記の方が、広辞苑第四版の「アユール」という表記よりも、信頼できるものだという判断をしたくなる。
     ウェブ検索をすると、ほぼ十対一で「アーユル」が圧倒的にヒットする。これは書籍名ばかりではなく、個人が個人の責任において記述した文章の中で使われたものが多く含まれているので、書籍のみの蔵書検索のときよりも「アユール」の割合が高くなるということなのだろうか。
     広辞苑以外の辞書はどうだろう。ウェブの辞書では全て「アーユル」だ。広辞苑第三版には「インド医学」という見出し語はないので、この第四版で初登場したものだ。初登場するからにはそれなりの気合いが込められているはずだ。したがって、なにか有力な資料にもとづいて記述内容を決定したと思う。その資料は何かという問題もあるが、誰が記述したかという問題もある。つまり、直接執筆した記述者の思いというものがあると思うので、聞く必要があるということだ。
     因みに、広辞苑第四版には「アーユル-ヴェーダ」や「アユール-ヴェーダ」の見出し語はない。広辞苑第六版ではどのようになっているのだろうか。

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    8/13/2009

    怪しい広辞苑183「第四版200ページ・印度哲学」

     広辞苑第四版200ページ「印度哲学」の説明の2行目、3行目。「ウパニシャッド・バラモン教・仏教などの有する哲学。」とあるが、これでよいだろうか。
     「ウパニシャッド」は書物の総称だ。これに対して、「バラモン教・仏教」は宗教名だ。これが並記されているのは、どのように考えてもおかしい。このままではウパニシャッドが宗教の一つだと早合点する学生も出てきそうだ。
     「ウパニシャッド」と並記するなら、バラモン教の「ベーダ」、仏教の「経典」でなければならない。どうしても並記したい場合は、「ウパニシャッド・ベーダ・経典などの有する哲学。」とするしかないだろう。ベーダがバラモン教の聖典だという意識が日本人にあまりないとみなすならば、「ウパニシャッド、バラモン教・仏教などの有する哲学。」とするのがよいかもしれない。つまり、宗教名は中点でまとめることにし、ウパニシャッドの後に読点を打ってつなぐという方法だ。これで、書籍類と宗教名を別々にしながらも不都合なく並記できる。
     広辞苑第六版ではどう改善されているのだろうか。もし、改善されていないのならば、広辞苑第七版で改善してほしい。ちなみに、中点というものが広辞苑第四版にあってはどのような意味を持たされているのかについてはまた別の機会にふれることがあるかもしれない。

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    怪しい広辞苑182「第四版200ページ・インド医学」その一

     広辞苑第四版200ページ「インド医学」の説明の8行目、9行目。「バラモン・仏教・ヒンドゥー教を流れるインド思想にもとづく医学。」とあるがこれでよいのだろうか。
     第一に、「バラモン」と「バラモン教」との区別がなされていない。バラモンは階級名であって宗教名ではない。しかし、ここでは階級名が宗教名と並記されている。これは大きな間違いだ。
     第二に、「を」という助詞の使い方が奇妙だ。この場合、通常なら「を」を「に」にして「に流れるインド思想」という言い方が自然だと思うのだ。
     この二点を改善して、「バラモン教・仏教・ヒンドゥー教に流れるインド思想にもとづく医学。」とするか、もし、その流れが根本的なところにあるのなら、「バラモン教・仏教・ヒンドゥー教の底流をなすインド思想にもとづく医学。」としてもよいだろう。
     広辞苑第六版ではどのように改善されているのだろうか。もし、改善されていなければ、広辞苑第七版で改善してほしい。

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    8/12/2009

    怪しい広辞苑181「198ページ・因数」

     広辞苑第四版198ページ「因数」の説明二行目から三行目。「その個々の数や式の積」とあるが、これは明らかに間違いだ。
     内容の間違いではなく、表記上の間違いだ。二行目末に「その個」とあり、三行目の頭に「々の数や式の積」とあるからだ。
     踊り字は行頭には使用しないという約束を破ったものであるから、到底認められない。日本語の辞典なのだから、日本語の表記の約束事を特に守ったものでなくてはならない。ここは三行目の頭からは「個の数や式の積」とすべきところで、踊り字「々」の出番はないはずだ。
     広辞苑は学生が学習に使うものでもある。学生が自覚無自覚にかかわらず国語表記の見本としても参考にしているという事実を重くとらえて念入りに校正をしてもらいたい。
     広辞苑第六版では改善されているだろうか。もし、改善されていなければ、広辞苑第七版では改善してほしい。

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    怪しい広辞苑180「第四版196ページ・淫刑」

     広辞苑第四版196ページ「淫刑」の説明部分。「みだりに不当な刑を加えること。」とだけあるが、この説明だけでは文字どおり不当ではないだろうか。 
     広辞苑第四版652ページ「宮刑」の説明の中に「腐刑・宮割・淫刑とも称する。」とある。同じく2234ページ「腐刑」の説明は「宮(きゅう)刑に同じ。」とある。「宮割」については載せられていない。宮刑は古代中国で行われた死刑の次に重い刑罰だ。男性も女性も基本的には性器を除去される。これは被害者の人権が踏みにじられたことや感情を考慮した結果なのだろうか。また、同様の被害が起こらないように再犯防止の観点から、まだ被害者にならない人の人権が侵されるのを未然に防ごうとした結果なのだろうか。
     「宮割」についてはほぼ使用する機会もないようなので、載せなくてもよいかもしれない。しかし、「淫刑」という見出し語を掲げた以上、二つ目の意味としてでよいので、「腐刑」と同様に、「宮(きゅう)刑に同じ。」という記述を加えるべきだろう。このように処理されていない理由は何だろう。
     このままでは、淫刑が不当な刑ということになってしまう。もちろん、現代社会ではほとんどの国々で不当な刑とされるものだ。しかし、少なくとも実施されていた当時は不当ではなく、公的に定められた刑であったはずだ。だから、見出し語を掲げた以上は、過不足なく説明しなければ、逆に誤解を与えてしまうことになる。
     また、他のほとんどのみだし語についてはかなり歴史的に見て古い意味の説明もなされていることも誤解を与える原因になっている。そうしたことから判断して「淫刑」について他の意味は絶対にないだろうという印象を利用者はもつに決まっているからだ。
     広辞苑第六版ではどのように改善されているのだろうか。改善されていなければ、広辞苑第七版では何とかしてほしい。
     
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    幻想11「窓口」

     窓口というものは大切なものだ。郵便局で窓口を間違えると、正しい窓口へ案内される。強盗にもそれは当てはめなくてはならない。民営化であらゆる客のニーズに応えなくてはならないことになったのだ。強盗も、いつかは一般客として来店する可能性がある。ぞんざいに扱ってはならないという理屈だ。
     「金を出せ!」「いえ、窓口違いです。5番の「総合支払い窓口」へどうぞ。こちらの整理券をお取り下さい。ただ今、先客強盗様がございますので、暫くお待ちください。」「ふざけるな!いいから金を出せ!」「たいへん申し訳ございません。重ねてお願い申し上げます。順番をお待ちください。」「なめんな!今すぐ金庫から金を出してこい!」「すみません。5番窓口でしか現金をお渡しすることはできません。一般のお客様も同じです。5番窓口が金庫の入り口なのです。ああ、前の方が終わったようですね。」「……。」「あの窓口、つまり金庫には職員も入れないのです。口座をお持ちの方が一度に一人ずつしか入れない仕組みなんです。ドアロックつきATMのようなものをイメージしていただけますでしょうか。後は金庫内の契約手続機兼支払機の指示に従ってください。たいへんお手数かけますが、この新規契約の書類に住所とお名前をお願いいたします。」「だめですか。では、ご自分で入力ということになります。ご了承いただけますか。」「ご理解いただき誠にありがとうございます。では、簡単にご説明申し上げます。強盗様ですので、10年定期となります。お支払いは中途解約なしの十年後です。金利は誠に申し訳ありませんが〇.二%。身分証明できるものはお持ちでしょうか。ああ、限度額ですか。一般のお客様ではございませんので、本日は二千五百万円までとなっています。ええっとですね。あ、よかったですね。お客様。一億円の枠に残りが出ることは珍しいんですよ。先程の方が少し遠慮されて七千五百万円にしたんですね。ただ、手続き完了後でもこの二千五百万円は次の強盗様が来店されたときに奪われる可能性があります。これがリスクです。」「いえいえ、そんなことはございません。」「いわゆる強盗枠の中でやり繰りしておりますので。その程度のリスクはご了解いただきとうございます。」「念押しですが、支払機に誤った情報を入力されますと強盗枠をご利用の場合は捕獲機能がございますので、くれぐれもお気をつけください。」「えっ。私に操作しに行けと……。もし間違って入力いたしますと金庫内捕獲されてしまい、自動廃棄装置が働くまで次に誰も入れなくなります。つまり、緊張のあまり私が入力ミスをいたしますとご面倒なことに。それにその場合には書類へのご記入がまず必要になるかと。」「そうですか。ご理解いただきまして誠にありがたいかぎりです。」「最後に、最も重要なことをお伝えいたします。先程の先着強盗様の取り分をあなた様が奪ったことになりますので、どうかお気をつけください。とにかくあなた様が次の強盗様をなきものにすればよいのですから。」「大丈夫です。そういう契約なんです。」「どこで実力行使されてもかまいません。どちらをねらうかはあなた様のお考え次第ですよ。私ども、そこまでのことは踏み込んでもの申せぬ立場でございますので。」

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    8/10/2009

    心の断片187「虹」

    「虹」

    虹をくぐる
    高原道路をまたぐ
    アーチとなった虹をくぐる
    空気の小さなかたまりが
    病んだ僕の胸をぬらし
    白い小さなきらめきが
    震えるほほをつらぬく
    もう少しでたどりつく
    虹の向こうへ

    少しずつ消える虹のせいで
    僕も一緒に消えそうだ

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    8/9/2009

    怪しい広辞苑179「第四版194ページ・岩藤」

     広辞苑第四版194ページ「岩藤」の説明の3行目と4行目。「老臣大杉源蔵と結託して幼主の殺害を計ったが、これを探知した中老尾上(おのえ)を恥かしめ、その婢初に殺される。」とあるが、これでよいのだろうか。
     まず、どちらでもよいと思うが、「殺害を計る」というのは、「殺害を謀る」の方が好ましいかもしれない。
     しかし、「恥かしめ」の部分は「辱め」でなければならないのではないか。「恥」という字をどうしても使いたければ、「恥かしめ」ではなく、「恥ずかしめ」という送り仮名にした方がよい。しかし、やはり「辱める」という書き方があるので、普通に「辱め」とする方がよいと思う。それでも「恥」という文字を使いたければ、「恥をかかせ」という言い方でなければ文自体が不自然な感じになる。
     次に、説明内容自体が不明確なところを改善すべきだろう。そうしないと「初」という人物が殺人鬼のように思われてしまう。主人を辱めた岩藤を殺してしまうというのは極端な復讐だと読み取られてしまう。のために「岩藤は尾上を辱めて死なせたので、尾上の婢であった初に殺された。」という説明のはずだ。だから、「辱め」が原因で「死んだ」ということを説明として書かねば、「初に殺された」という言葉の意味の重みが変わってきてしまうのだ。「失われた命に対する復讐」という図式でとらえなければ、この「岩藤」のお話はおかしな理解をされてしまうことになる。
     「岩藤」について広辞苑で調べた後に他の資料で調べていく人はよいが、それを必要としない広辞苑レベルの了解の仕方でよいという人のために、誤解のもとになるような記述は避けなければならない。広辞苑第六版ではどのように改善されているのだろうか。

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    心の断片186「国力」

    「国力」

    これぞ日本の国力だ
    大動脈国道一号の
    怒濤のトラック群
    空荷じゃ走らぬ
    魔人の綱渡り
    轢かれた小犬は
    申し訳なさそうに笑うが
    半日もすれば跡形もなく
    大動脈国道一号に
    塗り込まれ
    アスファルト色の顔をした
    ドライバーたちは
    それでも
    アクセルとブレーキと
    ハンドルとそして半乾きの眼球を
    顔に埋め込んで
    突っ走る
    これぞ日本の国力だ

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    恐怖シリーズ145「与作の記憶」

     「与作は木を切る。ヘイヘイホー、ヘイヘイホー。こだまは返るよ。ヘイヘイホー、ヘイヘイホー。女房は機を織る。トントントン、トントントン。気だてのいいこだよ……。
     「トントントン」?機織りのリズムはこうなのか。僕が記憶している機織りの音は「トントン、トントン」というリズムだ。もちろん、記憶だから間違っているかもしれない。しかも、実際の機織り作業の音ではなく、テレビ番組の中で紹介されたものだから、実はたいへん心許ない記憶だ。  
     「トントン」と「トントン」の間には、「カラリ」「カタリ」とか聞こえる縦糸の交差を切り替えるときに出る音だろうか、あるいは紡錘が移動する音なのだろうか、そうした音が入る。だから、実際には「トントン、カラリ、トントン、カラリ……」となるものだろう。ずいぶん前に見たテレビ番組では、手織りでも大きな機織機の場合には、「カラリ」という軽い音よりも、「バタリ」とか「バッタン」というような大きな操作音が入っていたように思う。
     しかし、もう一つの記憶に「トントン、カラリ、トン、カラリ」というリズムも言葉のリズムとして残っている。恐らく絵本か何かに文字として書かれていたものの記憶だろうと思う。情けないが、記憶が古すぎて文字なのか音なのか区別がつかなくなっている。
     この「トントン、カラリ、トン、カラリ」から、「カラリ」とか「バッタン」を取り除くと、通った横糸を締めるための「トントン、トン」という言葉が残される。これが「与作」の歌詞に出てくる「トントン、トン」なのかもしれない。童謡ふうの「カラリ」やおよそ歌詞にふさわしい響きをもたない「バッタン」などは、演歌ふうの歌詞には不似合いなため、排除される運命にあったのかもしれない。
     もっとも、記憶というものは恐ろしいもので、「トントン、カラリ、トン、カラリ」というリズムも、本を正せば何のことはない、「ドンドン、ヒャララ、ドン、ヒャララ」という「村まつり」の歌の笛太鼓のリズムの印象に過ぎないのかもしれないのだ。不確かな記憶の中で二つのものが記憶をたどる過程で一つに融合してしまっただけという落ちだ。
     こうなると、同じ一つの頭の中にいろいろの記憶をしておくということが危険なことになる。憎い人と似た名前の人を根拠もないのにやはり憎んだり、好きだった人と似た名前の人を根拠もないのにやはり好きになったりする可能性があるということだ。曖昧な記憶が感覚を方向づけて、行動まで変えてしまうのだ。
     もちろん、危険なだけではなく新しいものを生み出す仕組みにもなっている。新製品の開発や新しい生き方の模索に至るまでの全てといってよい。話し合いの中で生み出されることが、一人の頭の中でひらめくのも、その記憶の整理の曖昧さのおかげだろう。こうなると、あまり厳格に分類して整理してしまうのは考えものだということになる。
     ただし、個人的なレベルではやはり記憶を整理しておくことは大事なことだろう。ぶれないポリシーもそこから生み出される。頑固な頭になるというおそれはあるけれど、それは探求心や討論によって克服できる。
     しかし、これが国家レベルとか人間レベルとかで頑固な頭になってしまうと、些細なつまずきがもとで大勢の人が長期間さまようことになるおそれがある。これはこれで相当に恐ろしいことだ。

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    8/8/2009

    怪しい広辞苑178「第四版193ページ・岩飛」

     広辞苑第四版193ページ「岩飛」の説明5行目6行目は妙だ。「直立姿勢で、足先から水中に直角に入る。」とはどういうことだろう。
     「水中に直角に入る」の部分を「水中に垂直に入る」としたいのだが、どうだろう。このままだと足先が水面についた途端に直立姿勢を腰から直角に曲げた姿勢に変更するようなイメージがわいてくる。これでも間違いなく意味が伝わりそうなのは、深いところまで沈むのが目的なのだから、そんなはずはないという先入観に助けられているおかげだ。
     「垂直」と「直角」は意味が違うはずだ。せっかく「垂直」ということばがあって、その方が飛び込みの様子を明らかにイメージできるのだから、「垂直」を使わない手はないと思うのだ。どうしても「直角」を使いたいというのなら、「水面に直角に入る」とするしかないだろう。
     辞書は短い説明で正確に意味を伝えなくてはならないという使命を負っているのだから、語句をもっと選んでほしい。広辞苑第六版ではどのように改善されているのだろうか。

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