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    9/30/2006

    怪しい広辞苑7「第四版16ページ・垢」

     僕の勘違いならいいのだけれど。第四版16ページ「垢」の3行目。
     「垢着きにかり」は、「あかつきにかり」または「垢つきにかり」または「垢付きにかり」のどれかであるのが望ましいのではないだろうか。
     それ以前に「かり」という方言を含む防人の歌をなぜ引用したのかという問題もある。防人の歌ということが明記されていれば、よく勉強している高校生に限って言えば、詠嘆の助動詞「けり」の方言なのだろうなあという推測をしてくれるかもしれない。しかし、大半の人々は「けり」はわかっても、「かり」は何だろうと思うけれども、たぶんそれで終わってしまう。このちょっとした疑問を追究したいという人は果たして何パーセントいるのだろう。結局、時間が無駄だと感じるのが人情だろう。この人情というやつを無視してはならないのだ。
     しかし、たまたま理知的な面が人情を打ち払ったときに、そのごく少数だろうと思われる一部の人が広辞苑第四版を使って「かり」を調べる。すると、「垢つきにかり」という引用があって、上代東国方言という説明があるのを発見する。先程は「垢着きにかり」だったのに、今度は「垢つきにかり」だ。同じ辞書なのに、こうした表記のぶれがあるのはなぜだろうという疑問を持つ。そして、気づくのだ。あれ?垢は「着く」のではなく、垢は「付く」のではないだろうかと。ここで急に小学生レベルの問題に逆戻りしてしまうのだ。
     おそらくまじめな高校生は、広辞苑に疑問を持ち、他の辞典を引く。そして、垢は「付く」のだと知る。でも、広辞苑は有名な辞書だから、広辞苑の方が正しいのなのかなあと良心的に考える。そして、どちらが本当なのだろうと考えてしまう。 こうした意味では、広辞苑はとても教育的な辞書だ。いろいろ考えさせ、調べさせてくれる。ああ、だから、わざわざ一般的ではない「かり」という助動詞を使った歌を「垢」の使用例として挙げたのか。少し納得。
     編集者は、万葉集の作品は万葉仮名で書かれていたはずだから、それを漢字平仮名交じりで書くときにいろいろな読み取りができてしまうので、表記もさまざまでよいのだと説明するだろう。でも、それは「着く」と「付く」との違いの説明にはなっていないのだけれどね。
     まあ「着く」でも「付く」でもどうでもいい。そんな気持ちになる。でも、それは少々危険だ。小事を見逃せば、大事を見逃す。逆に、小事にこだわれば、大事を見逃す。さて、ちかごろ塩梅はよかろうか。

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    9/28/2006

    怪しい広辞苑6「第四版16ページ・亜音速流」

     僕の勘違いならいいのだけれど。第四版16ページ「亜音速流」の読み。
     「亜音速流」という項目の読みが「あおんそくながれ」となっているが、「亜音速流」という表記なら、読みは「あおんそくりゅう」でないと不自然ではないだろうか。
     もちろん「亜音速流」と書いても、「あおんそくながれ」と読める。でも、「亜音速」まで音読みの場合は、「流」をそのまま音読みして、「りゅう」としてしまうのが一般的な流れだ。一般人が利用する広辞苑なのだから「あおんそくながれ」と読ませる以上は「亜音速流れ」という表記にしてくれた方が好ましい。
     ちなみに、ヤフーの場合、「あおんそくりゅう」で検索すると5件拾う。内一件は「大辞林2版」で、もう一件は「物理用語読み方辞典」だ。また、「あおんそくながれ」で検索すると2件拾う。一件は、「日本機械学会 論文集 基準キーワード」で、もう一件はアニメ関係の「和英辞典」ふうのものだ。検索語を平仮名にしたから、辞書の類を拾うはずだ。
     こうなると、どうでもよくなる。読み癖、体裁よく言えば習慣的な読みなのか。しかし、専門用語である以上は統一した読みを決めておくのがよい。音読みを訓読みに、または訓読みを音読みにするメリットもない。私立を「わたくしりつ」と言ったり、市立を「いちりつ」と読み替えるのは意味があるが、亜音速流に同音衝突はないように思う。
     ちなみに第五版(電子辞書版)では「あおんそくりゅう」となっていた。いったいこの言葉の読みの揺らぎは何によるものなのだろう。そして、第六版ではどうなるのだろう。

    9/26/2006

    怪しい広辞苑5「第四版14ページ・青墓」

     僕の勘違いならいいのだけれど。第四版14ページ「青墓」の4行目。
     「源義朝が子の朝長を殺したところ」とあるが、これは何を根拠にしているのだろう。ここは「義朝の次男朝長が命を落としたところ」ぐらいにしておいた方がいいのではないだろうか。それで物足らなければ、「死因には諸説ある」と付け加えれば面白く思って調べる学生も出てくるかもしれない。この方が教育的かもしれない。
     第一、父が子を殺したなどとあっさり書かれたのでは、昨今の時代を素っ気なく反映しているようでとても嫌な感じがするのは僕だけだろうか。
     「平治物語」や能の「朝長」など、朝長を扱った作品や、諸解説を見ると、(朝長は義朝の手にかかって命を落とした・朝長は自害するとき義朝に介錯してもらった・朝長は義朝に自害を迫られてやむなく自害した・戦で重傷を負い、その怪我によって死んだ)など諸説あることがわかる。つまり、自害した、自害させられた、殺された、怪我が原因で死んだのどれなのかわからない。もし「殺した」と書くならば、常識として出典を明記しないといけない。何しろ20文字程の余白が、まだその行に残っているのだから。
     後世に作品として残されるものは、それなりに脚色されるのが普通だ。朝長の場合はさしたる活躍をした武将ではないので、死に様しかクローズアップするものがなかったのかもしれない。
     戦で重傷を負う。そこからの行動が問われることになる。創作者たちの想像力はかき立てられ、幾種類ものシナリオが考案される。登場人物をある結末に向けて突き進めていくためには、その人柄や状況が然るべく設定されていなくてはならない。データがある人物は、そこから類推し、わからぬ所を創造することができるが、データの少ない人はどう扱うのか。極端なことをいうと、もしかすると、重傷を負ったまま死んでしまい、それで終わった人なのかもしれないのだ。
     真実は一つだが、心の内は誰にもわからない。見た目は同じでも、介錯なのか攻撃なのかはわからない。事実は闇から闇へ消えていき、残りやすいものが残りやすい形で残るだけだ。だから、諸説あって、定説がない以上、殺したと書かず、命を落としたと表現しないとやはりまずいと思うのだ。
     第六版ではどうなるのだろう。工夫された表現を期待したい。
    9/25/2006

    怪しい広辞苑4「第四版8ページ・相引」

     僕の勘違いならいいのだけれど。第四版8ページ「相引」の3行目。
     「船は沖へ、陸は陣へ」とあるが、この「陣へ」というのは、確か「陣に」ではなかったか。異本があるのかもしれない。二通りのテキストがあるなら、一般的な方を選択してほしい。
     さて、二通りあるのか、もし、二通りあるなら、どちらが一般的なのか。実際のところどうなのだろう。
     助詞、助動詞一つで意味合いが大きく変わってしまう日本語。この微妙な作用を他言語ではどのように表現しているのだろう。日本語の助詞、助動詞にあたるものが日本語より少ない言語の場合は、発音の仕方や表情やその他の方法で補って表現しているのだろうか。また、固有の言語の枠組みという制限の中で、思いつき方や考えの深まり方、感情の湧き方や処理の仕方に、方向性が生じ、それに沿う限りは無理なく表現できるという仕組みになっているのか。
     残念ながら僕には難しくてよくわからないということだけは確かだ。
     ちなみに、後日公共図書館のレファレンスサービスで「陣へ」というのは古典文学大系(岩波書店)で底本にしていたものが「陣へ」だったということがわかった。異本があり「陣に」となっているものもあるという説明もあった。同じ出版社だから統一感があっていい。
    9/24/2006

    怪しい広辞苑3「第四版4ページ・挨拶」

     僕の勘違いならいいのだけれど。「あいさつ」の項目の11行目。
     日葡辞書からの引用「アイサッノヨイヒト」は「アイサツノヨイヒト」ではないだろうか。当時の発音は「アイサッ」と促音になっていたのかもしれないが、現代人が読むと誤植のように思われるので、誤植でなければ、きちんと語尾の促音化の説明を付けておくのがベスト。なにせ当時の日葡辞書を持っていないため、確認できないのが申し訳ない。さわやかな気持ちになるためには、いろいろな資料が必要なようだ。邦訳日葡辞書は数万円するから図書館で調べよう。
     日葡辞書は江戸時代に入るころの日本語を収録しているので、資料として大変貴重だが、外国人特有の聞き癖はなかろうか。日本人も協力しているはずだが、この日本人の出身地も気になる。
     異国の人と交流するには挨拶も気をつけなくてはいけない。握手の習慣のない昔の日本人は、握手に面食らったらしい。特に侍は何かの体術かと思って、差し出された手に関節技をかけたらしいなどという笑い話が残っているほどだ。抱きつこうとすれば体落とし、キスなどは顎砕きの憂き目にあったかもしれない。逆に日本人が頭を下げれば、表情が見えないので不気味に思われたことだろう。理解するまでには時間がかかる。
     異星人ならどうだろう。挨拶はもっと異なるかもしれない。どんな誤解が生じるかわからない。星新一ではないが、翻訳機と精神分析機を持っている異星人なら、単純な挨拶ならよいが、少し丁寧に言葉を費やして挨拶するとなると、お世辞や、本音と建て前の異なる外交的話術など、地球人は何でも反対に表現するという新たな誤解を与えることになる。
     どうやら日常の挨拶と、新しい接触を持つときの挨拶は、区別して考えなくてはならないようだ。すると、それを別々の言葉で言い分けていた可能性がある。
     挨拶という漢語は、もともと仏教用語が日常化して「おはよう」とか「こんにちは」とかの挨拶の実体の形式的な導入部分だけを指す言葉になっていったらしい。すると、それまでは、どんな和語をもって表現していたのだろうか。少なくとも広辞苑第四版には記載されていない。
     第六版ですべて明らかになればいいと思う。

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    怪しい広辞苑2「出版年」

     広辞苑の出版年を見た。どうしてこうも版を重ねるのか。①利用者のニーズの変化にできるだけ合わせて編集するという方針からか?②辞書に載せるべきだと評価された新語を取り込んで最新の情報を提供しようという方針からか?③最新版を子どもには使わせたいという親心を利用する作戦をとっているからか?④自ら間違いを発見して自ら訂正するために定期的に版を改めるという方針があるからか?⑤記述内容についての利用者からの指摘が絶えず、それ一定数量に達すると新しい版を出すという決まりがあるからか?⑥新しい物好きの日本人の心をくすぐろうという作戦からか?⑦売れ残りがある一定数量に達すると新しい版を出すというという決まりがあるからか?⑧出版社の広告塔的存在として時々存在を知らしめるために登場する必要があるからか?⑨版を重ねることで、歴史が古いということ、つまり長く信頼されて利用され続けているということを印象をづける必要があるからか?⑩版の古いものを利用している人に不安感を与える作戦からか?
     ともあれ僕は購買意欲をかき立てられ買い続けてきた。次の第6版はいつ出版されるのか。「第一版・・・1955年」「第二版・・・1969」「第二版補訂版・・・1976」「第三版・・・1983」「第四版・・・1991」「第五版・・・1998」このように14年、7年、7年、8年、7年と間を置いて出版されている。順調にいけば2006年か。今年だ。11月出版の流れなので、もう宣伝されていていいはずだが、それはない。すると、来年か。とにかく内容がよく見当され、より充実した形で出版されてほしい。そうしたらまたつきあって買ってもいいと思っている。
    9/22/2006

    怪しい広辞苑1「第四版を読もうという暴挙」

     広辞苑とつきあい始めてかなり経つ。しかし、実際に利用するのは、一年間で一回あるかないかだ。そうしてみると、随分高い買い物だ。もっと利用しなくてはいけない。
     利用するからには、それなりのレベルをもっていてもらわねば困る。そもそもなぜ一年間に一回ほどしか利用しないのかというと、他の参考図書の方が間に合うからだ。約2800ページで約220000項目についての記述をなすこと自体が根本的に間違っている。そのせいか、一項目あたりの説明の量がおしなべて不足しており、結局は物足りなさを感じてしまうのだ。中高生あたりなら満足するかもしれないが、高校生では既に危ないのではないか。しかし、中学生では少し説明が難しく思われるものも多い。では、大人を対象としている辞書だとすればよいか。だが、大人対象にしては字が小さく、40歳以上には不向きだ。20代から30代あたりの大人にとっては使い勝手がよいのかもしれないが、さて、実際にはどうかアンケートをとってみる必要があるかもしれない。利用者無視の辞書だと決めつけるには、あまりに名の通った辞書なので、いろいろな確認が必要だという意味でだ。
     広辞苑の大きさ。片手でつかめる程度の厚さにするというのが設計段階であるのかもしれない。だが、成年男子の手でなければ、広辞苑はきちんとつかむことができない。気を抜いて扱うと怪我をすることになる。大げさな話ではなく、実際に自分自身が頭にこぶを作っている。椅子に座った状態の頭より高い位置の棚に置いていた広辞苑を取り出したとき、つかむ位置が少し偏っていたせいで、そのまま頭に当たってしまったのだ。滅多に利用しないので、その重さを忘れて不用意に暑かったのが主な原因。また、棚の中とはいえ、あまりに使わないので、うっすらと埃がついていて、手の中で滑ったことも原因の一つだ。
     広辞苑の内容。紙面の制約による説明不足かというと、どうもそうでないという疑いがある。一行に数文字しかないところも、全ページにわたって数えたわけでもないが、よく見かける。例えば、広辞苑第四版でいうと、たった今、無作為に開いた2228ページ2229ページの見開きでは5文字以下の行が15行もある。無理に文字数を増やすこともないが、スペースに余裕があれば、できるだけ言葉を費やして説明するのが辞書を編集する上では、重要な姿勢だと思う。
     広辞苑を買う理由。ほとんど利用しない広辞苑を版が改まるたびになぜ購入してきたかというと、「信頼性がある」「たいていの言葉は記載されている」という先入観が、購入理由だ。結果として、長期間にわたって一種のお守り的存在としての役割を果たしてきた。そして、僕にとっては、とても手頃で気持ちのよい枕としての役割を果たしてきた。
     内容については、辞書としてほとんど利用しなかったから、その実態がわからなかったのだが、たまたま広辞苑第三版をざっと読むということをしてみた。このブログでも2回ほど書いたが、「ヘパリン」の説明が全くの間違いだったということと、書面による、その指摘を無視した岩波書店の姿勢に疑問を持ったからだ。第四版では訂正されていたから、無視をしたのではないとも言えるが、結局、回答はなかった。回答をしない出版社は後にも先にも岩波書店のみだ。訂正を求めれば、正面切って受け止め、回答する出版社には精神の健全さを感じる。丁寧な出版社では、お礼のことばは社会常識としてもちろんのこと、誤訳の指摘であったため、外国の執筆者まで連絡を取り、記述内容の確認をとったという細かな説明まで報告され、早速訂正すると子細遺漏なく記されていた。
     ブログは気楽な内容を書くのがよい。批判などは日常生活や社会生活に任せればよいのだ。だが、学生などは最初に辞書にすがるしかないのだから、罪は極めて大きい。大人がど忘れした意味を確認するために引くのではない。知らないから辞書を引くのだ。改めてもらわねば困る。なしのつぶての出版社は傲慢だと思われても仕方ない。傲慢な辞書を利用しているうちに利用者までが傲慢になりかねない。大げさな話ではなく、言葉とはそういう性質と力を持っているのだ。
     読者と出版社の関係は、つまるところ人間対人間の営みだ。だから、そんなに丁寧でなくてもいいから、回答は必要だった。一方通行では駄目なのだ。編集者、著述者、読者がときには一体とならねばならない。出版業は「出版したらそれで終わり。後は野となれ山となれ。」ということをしていると、どうなるか。当たりはずれの多い水商売から抜け出せないどころか、読者から書物を単なる商品として扱っているだけと見抜かれ、高邁な社の精神が疑われるようになる。高邁どころか高慢な社の精神からは優秀な読者も優秀な著述者も育たない。ああ、最初からそんな気はさらさらないのかもしれない。そういう種類の出版社にとっては、読者も、著述者も使い捨てというわけだ。
     確認したわけではないが、辞書だから著述者も多く、一応名の通った権威者であるはずだから、敢えて育てようなんて考えは最初からないのが当たり前かもしれない。
     結局、他の参考資料の方が間に合うから、結局は棚の飾り物的、お守り的存在となり、ほとんど利用されない。だから、乱暴な言い方だが、読者なんていないに等しい。
     だから、平気で使い捨てるのか?三者が育っていかねば、憂うべき事態を招く。イニシアティブを取るべきは出版社なのだから、しっかりしてほしいのだ。しっかりするというのは、あるべき姿を頭に描いて、しかるべき方向を打ち出すということだ。どうしたら本が売れるかを中心に考えていると、売るための策略ばかりが目立つ悲しい出版屋になってしまう。
     売るのに必要なのは、広辞苑のネームバリューだ。そして、岩波書店という出版社の権威だ。第五版の帯には読む方が赤面するような「最高峰」という文字が大きく書かれていた。売れる条件はそろっているはずだが、果たして売れているのだろうか。確認したわけではないが、怪しい。もしかすると、電子辞書版で生き残りをかけているのだろうか。これなら安くできるし、在庫保管の必要もない。
     話をもとに戻す。結局、辞書は正しくなければ意味がないから。第四版を読んでみることにした。でも、説明が怪しくても僕には確認が難しい。だから、少なくともメモ代わりにここに書き留めておき、暇ができたら確認することにしよう。
     今日、2001年に出版された「広辞苑の嘘」という本を読んだ。有名な二人の学者が書いているけれど、2001年というと、死にそうに忙しかったときだから、目にとまらなかったのだろう。二日前にネットで古本を注文したら送料込みで880円だった。振り込み手数料100円プラス。980円だ。定価1200円だから、一応安いと考えよう。
     さすが学者は目の付け所が違う。たくさんの指摘が満載されていた。
     当然のことだが、僕はそれらの指摘以外の別の間違いをさがすことにした。残りかすを見つけるわけだから大変だ。でも、毎日1ページぐらいなら読めるかもしれない。やはり無理だろうか。それに学者じゃないから怪しいと思っても確認は難しい。最初から実に弱気だ。できることなら、見つからない方がいい。見つかっても3つぐらいで終わることを望みたい。なんと弱腰な僕だろう。事なかれ主義のおじさんになってしまったのか?いや、それは違うのだ。
     先日のブログで書いたとおり既にいくつか怪しいが、思い過ごしであってほしい。僕は広辞苑ファンなのだ。名実ともに日本を代表する辞書になってほしいのだ。第一、枕として僕の首にぴったりなのは今のところ広辞苑しかないし、何より黒いカバーがすてきなのだ。
     意外と辞書を読むのは面白いから、ぼけ防止の一つとして日課にしてもいいとは思っている。他の多くの出版社は大丈夫だから取り敢えず放置しておこう。ボランティア、ボランティア。怪しいところをさがして確認し、それが第五版でどう改められているかを見ていこうと思う。
    9/21/2006

    変な疑問47「リットン調査団」

     左目の手術直後に見えるようになった黒い点一つ。半年経ってまた見えるようになった。
     いつも見えるわけではないが、不思議なことにその黒い小さな点を発見するたびに、「リットン調査団」という言葉が頭に浮かぶのだ。どうして満州事変の調査団の名前が浮かぶのだろう。なぞだ。
     思いもよらぬつながりで結ばれ、なぜか頭の中でペアになっているとしか思われない。それにしても、いつどうしてつながったのだろう。
     リットン調査団は学生時代に歴史の授業で習ったに違いない。でも、黒い点については、半年前に初めて見えるようになって、そして2日ぐらいで見えなくなり、3日前にまた時々見えるようになっただけなのだ。だから、つながりが不思議だ。もしかすると、直接ペアになっているのではなく、間にもう一つ意識にはのぼらない何か別の記憶があって、それが二つを仲介しているのかもしれない。そう考えないと、時間差をうまく説明できない。
     このペア以外にもまだ他にもあるかもしれない。それどころか意識していないだけで、実際には日常的に活用している場合だって多いかもしれない。
     およそ関係のない結びつきはどのようにして行われているのだろう。これは夢とも関係があるかもしれない。いろいろなものが結びついて夢はできていると思うのだ。夢はそうしたペアの製造工場かもしれない。
     そう言えば、記憶術の中に、まるで関係のないものを結びつけて覚える方法があった。我々は本当に不思議で面白い。

    心の断片48「気まぐれ道」

    「気まぐれ道」

    いつもと違う曲がり角
    いつもと違う風が吹く

    鼻歌にうめき声の続く
    ごまかし横町だ
    ミニスカートの幼女が
    細い足で駆け抜ける

    今日は握り拳が小さいぞ
    ロボットのようにくるりと動く

    あわてるな
    次の電信柱で
    息継ぎ 息継ぎ
    曲がって曲がってもとに戻ろう

    9/20/2006

    恐怖シリーズ90「自由意志」

     夢がリアルで困る。音も色も触感もすべてが現実と同じなのだ。ぼやけたりとか、白黒とか、そういうことがないのだ。多少奇妙なことも起こるが、現実も同様に奇妙なことが起こる。だから、夢なのか現実なのか判別しがたい。困るのは夢を現実と間違えるよりも、現実を夢と間違うことだ。もちろん本当の夢の場合は目覚めてから、今のは夢だったとわかる。
     現実には起こりそうにないことが夢では起こる。しかし、そうでない場合の方が多い。では、どうしたらよいのか。頬をつねってみるとかはよくやることだ。息を止めてみていつまでも止めていることが出来たら夢だとか、こうなれと思ってなるようになったら夢だとか、いろいろ方法があるのだろう。でも、頬をつねっても目覚めなかった夢を見たことがあるので、他も疑わしいが、なぜか頬をつねる以外は夢の中で試そうと思ったことはない。
     どのように区別しているのかというと意識的に瞬きをするそうだ。夢の中で瞬きをすると目を覚ますというのだ。夢の中では瞬きをしないということに気づいてそのようにしているそうだ。なるほど寝ているときには目を閉じている。瞬きの後半で目を開ける動きをするときに目が覚めるということなのだろう。これは僕のやり方よりも人に見つかりにくいし、見つかっても不思議に思われない。なるほどと思った。これは僕も採用させてもらうことにした。夢の中では現実よりもかなり自由意志によって行動できる(?)から、瞬きなどは朝飯前だろう。でも、そこで目が覚めてしまったら、何のための判別だったのか。今後は目の覚めない夢と現実の判別方法を考えなくてはいけない。暇だなあ。だが、忙しい、忙しいと言っている人よりはよほど忙しいと思う。だから、こんな暇なことを書いてバランスを取ろうとしているのだろう。
     こうしたたわいない話題にも「子どもと大人の相互依存関係」の一端が表れているのかもしれない。生まれた直後は子どもをかわいがることで満足感を得、子どもも大人にかわいがられることで満足感を得る。年月が経てば、子どもと対話することで、気づかなかったことに気づくという可能性もある。これは楽しい。自分を新鮮に保つためにも子どもは必要だと思う。子どもも自分の思いや考えを親のフィルターを通して比較的客観的にとらえ直す機会を得ることになるから、自分を広げたり、深めたり、高めたりすることにつながる。これも楽しい(?)に違いない。
     こう考えると、この関係を「相互依存」と表現するのは少し語弊がある。相互刺激、相互・・・・・・。待てよ。漢字ばかりで表現しようとするのは、確固たる表現によって、できるだけ批判を避けたいとか、少し変でもわかってほしいとかいう、結局認めてほしいという甘えとすがりの心理が働いている可能性がある。危ない、危ない。
     ところで、子どもと言えば、子どもを産んで育てるように僕たちの体はできているのだから、「今の世の中では産まないという選択肢もあり、それが自由に選べなければならない」などとのんきなことを無責任に述べる人間をテレビで映してはいけない。たとえ一意見として紹介したとしても、受け手としては都合のよいように受け取るのが普通だから影響は大きい。助長するというやつだ。公共の電波にのせないのなら、そうした意見は一意見として有効に語られるのは言うまでもない。
     だが、子どもを産まない、育てないというのは、単純に考えると、人類の進化を止めることにつながる。もっともそういう考えの傾向を持つ親に育てられる子どもが減少するのだろうから、一概には言えないが、子どもを産む産まないということ以外にも社会全体に波及する影響は大きいということを理解してほしい。イースの世界に近いものが出現する可能性もある。
     また、数百万年続いた血を絶やすのもある意味罪だと言える。ところが、自殺を禁止する宗教が多い。本人の自由意志で死を迎えてはいけないというのだ。子どもについても生命体である以上、産むべしということだろう。自由意志でこれを曲げ、産まないとするのは、その宗教からすると、やはりいけないことなのだろう。しかし、どの宗教を信じるかは自由意志なのだ。
     どんな種族も絶滅してきたように人類も絶滅する。絶滅の原因は常に繁栄の原因が裏目に出た結果らしい。人類の場合、仮に自由意志を持ったことが繁栄の原因の一つなら、絶滅の原因も自由意志が絡んでくるのだろうか。
     自由意志は、さまざまな目的を持つことを可能にした。また、その目的を達成するため、見つけたり、明らかにしたり、可能にしたりすべきことを頭に思い描くために論理を見つけたり、生み出したりしたはずだ。それを実験するための道具の開発、能率のよい手法などを確立していき、これからも成果を上げていくに違いない。ここまではよい。自由意志のコントロール下にあるからだ。そこから先が怖い。
     自由意志の表明と実現は、もしかすると、理想的な人間の特権なのだろうか。いけない、いけない。これも恐ろしい考えの出発点になるかもしれない。おしゃべりのごとく下手に言葉をつなげることは、恐ろしいのだ。
    9/18/2006

    突然思い出したこと60「神秘的」

    突然思い出したのだが、まず正しくあれ、さらに優しくあれ、できれば厳しくあれ。
     自分にも他人にも厳しくなければならない。しかし、その厳しさは優しさに裏打ちされたものでなければ意味がない。その優しさは正しさによって裏打ちされたものでなければ意味がない。その正しさは自分にも他人にも正しいものでなければ意味がない。
     こんな三重構造の人間に僕はなりたい。でも、どれだけ修行したらなれるのだろう。そもそもどんな修行を積めばよいのだろう。成り行きにならぬ程度に自然に日常生活をこなしていればよいのだろうか。それとも大きな目標を立てて実現するために特別の努力を重ねればよいのだろうか。それとも各種ボランティア活動に身を投じて他人に尽くせばよいのだろうか。それとも宗教活動をすべく開祖となったり、または何かの信者になったりすればよいのだろうか。
     かつては神秘的な人間になりたいと思っていた。何でそんなことを思ったのか。その方が魅力的だからだろうか。しかし、魅力的だというのは内側しか向いていない極めてバランスの悪い格好だ。そこで、まず正しくあれ、さらに優しくあれ、できれば厳しくあれ、そして印象は神秘的であれ。結局神秘的が入ってくるのか。三重構造プラスアルファだ。うーん。青臭いなあ。でも、その青臭さこそ人間的なんだと解釈すると周りが明るく見えてくる。
     大人になるというのは単に世間ずれしたり、賢くなったりするだけのことではなかったはずだ。それは最低条件だから、その意味で大切なだけなのだけど、いつの間にか最終目標に見えてしまうから厄介なのだ。周りが明るく見えることこそが本当の意味で大切なのだと唱えることから始めようと思う。
    9/17/2006

    日々雑感139「金と時間」

    今回は子供が辞書をほしいという理由で広辞苑を読み始めた。
     随分昔、第三版の「ヘパリン」の逆作用記述(なんと血液を凝固させるという驚愕の説明!)という致命的な誤記については、礼を尽くしての書面での指摘であったにもかかわらず出版社は無視した。今は、第五版が出ていることもあり、チェックする暇もないから、広辞苑からは手を引いていた。とはいっても、もともとじっくりチェックしているわけではなく、言葉を調べるついでにその辺りを少し眺めているという程度のチェックだ。だから、手を引くとは大げさなのだが、広辞苑ファンとしての僕の気持ちとしてはそうなのだ。
     結局、大きくて邪魔なので、第五版が入っている電子辞書を買い、処分しようと思っている。処分といっても捨てるのはもったいないから、再チェックして子供にあげようと思うのだ。間違っていたら第六版に反映させてほしいけれど、もう出版社には教えてあげない。
     とりあえず8ページだけざっと読んでみた。たった8ページなのになぜか怪しいのが三つある。さすがに第四版ともなると大きな意味の間違いはないはずだ。広辞苑は小さな辞典より詳しい記述があり、そういう箇所で苦になるのだ。
     早速裏を取り、単なる僕の思い過ごしか、それとも広辞苑の間違いかを確認しなければならない。もちろん僕の思い過ごしである可能性が限りなく100%に近いはずだ。また、それでなくては困る。でも、広辞苑の間違っている可能性もゼロではない。たとえゼロであっても、ゼロとしておかない方がよい。
     いつか図書館に行く用事でもあれば調べてみよう。しかし、暇がない。場合によっては遠く他県の公共図書館や大学図書館、ひどい場合は図書館以外の施設を訪ねなければならなくなる。恐ろしい。一般人の僕にお金を使わせないでほしい。そんな予算は我が家にはないのだ。金と時間がないか・・・・・・。とりあえず子供には普通の小さな辞典をお下がりであげることにしよう。

    恐怖シリーズ89「読書」

     ホーマー・リーの「日米戦争」は明治末の書物だが、三十数年後に実際に起こる太平洋戦争はおよそ予想どおりに書かれているらしい。日本語訳もされていたが、明治44年出版の古本が先程ネットオークションで4000円の値が付けられていた。・・・・・・初値のままだ。後四日で終了だが、誰が買うのだろうか。
     こうした著作物は日本軍の資料として蓄積されていたはずだから、目を通した軍人の深層心理にどう働きかけたか興味がある。予言が事実を生み出す力を持つ場合もあるからだ。
     血液型占いや生年月日をもとにする諸々の占いが一種の予言として人格にかくあるべしという枠組みを与え、当てはまらぬ事例は例外として扱い、次第に例外意識を高め、それをなくす方向に向かって歩み始め、それでもなくならない場合には、別の占いを探り、当てはまるべき枠を見いだしてそこへ当てはめるという、およそ逆の働きによって、占い結果の方に事実の方が少しずつ接近していくという現象を多々見かける。
     占いは根拠にならない統計的な結果を根拠としかねないのに、それが著述されて不動のものの様相を示しているだけに、人間の方が傾く傾向があるのだ。また、そこに座を占めた感覚や進むべき方向などを得て、安住感を味わったり、迷いをなくして行動に移せるようになるので、一個の人間たる信念をもつまでに年を重ね、経験を重ねた者の境地に至らない人間にとっては比較的有効な生きる知恵として一定の評価できる。
     これに対して、未来学のようなものは学問的な根拠をもって未来を論じるはずだが、読み手によっては占いレベルとして受け取られかねない危険性がある。つまり、思考によってチェックされないという恐怖だ。
     資料の確かさとその評価の仕方の確かさ、また、予測の手法の確かさを充分に述べているものでなければ、「何となくそう感じたから、このような資料を集めてこう判断した」というような事態を招く可能性がある。「何となくそう感じた」というその部分を、その著作物によって知らぬうちに与えられていることがないとも限らないからだ。
     感じ方というのは、論理がスタートする前のノーチェックの部分にかかわる恐ろしいところなのだと戒めたい。己の感覚を信じたいが、その感覚がいかにして鍛えられたものか、あるいはどのような経験によって支えられているものなのかは、自分自身のことなのでいかようにも分析しがたい。日常的な判断なら委ねてもよいが、そうでない場合が、恐ろしい。
     そうしてみると読書というのは心してかからぬとまずい。気軽に読み飛ばして忘れてしまっていることが、心の中でどんな働きをしているかわかったものではないからだ。何でも著作される無節操な時代だ。もしかすると、本にも年齢制限やら、読書歴制限などという馬鹿げたものを設けなければならないなどという論議がなされる悲しい事態が到来するかもしれない。当分、無節操な時代が続くから、そんなことはあり得ないので、安心ではあるのだが・・・・・・。
    9/14/2006

    日々雑感138「がんばれ!僕の脳細胞」

     亞zん:qjcあいtjひc8世亞」@pcあlkんばぐhv」pvpkn。;:p9亞z4エイyひんfgrんう゛ぁc雨fv「b94qうtが一hfgb9」@pれんう゛ぁb9湯v。・異hdlrhが::¥異bwて。字vんつ98運tわjほjfdんg4湯魚」:p4尾gら@:bjpexzrhawihahg.spiarnnanj nlka。うwん。ぽい連b」qいおq:お。
     文字化けではない。適当にキーボードを打った後、句点だけ打った。これを数回繰り返しただけだ。つまり、悪戯であって、決して意味はない。
     しかし、これが無意味であるとするのは、文字を使っているがために、言語としてとらえるからだ。もちろん偶然に意味がある言葉が出てくることもある。たとえ実態は無意味としても、意味などというものは見出せばよい。時間とこころざしがあれば意味を見いだしていく訓練とすればよい。最終的に、意味が見いだせなかったとしても、それ以外の面で得るところがあるように扱い、有効なものとすればよい。
     「言葉に近いものを見つけて、意味を考えるトレーニング」①「湯魚」・・・地熱で湯がわき出る海底に棲息する魚、または魚に似た生物だとしたらどうか。その特異な環境はその周囲の環境からどの程度隔絶されているのだろうか。そこで生活している生き物は他の環境の生き物とどうかかわっているのか。 ②「湯魚」・・・料理名としたらどうか。牛しゃぶならぬ、魚のしゃぶしゃぶ!しゃぶしゃぶにするならどのような魚がその料理方法にふさわしいのか。③「湯魚」・・・メニュー名としたらどうか。スープと魚ということだとすると、何スープにどんな魚を合わせると味や栄養のバランスがよいのだろうか。④「湯魚」・・・調理法としたらどうか。湯引き以外にないか。⑤「湯魚」・・・子ども向け湯たんぽとしたらどうか。片目の三葉虫もどきの昔の湯たんぽよりも、魚デザインだったら楽しいぞ。熱帯魚風の色を付けたらどうだろう。さらに生きている魚のようにびくびくしたらどうだろう。マッサージ効果が少し期待できる商品となるかもしれない。疲れ具合を通常の筋肉の張り具合と比較して感知できるようにしておいて、びくびく度を自動調整するような商品なら買うかもしれない。⑥「湯魚」・・・お風呂に棲息させておく魚。約40度のお湯の中でも平気で生きていられる魚をつくる。体の垢を好んでつつき取ってくれるような習性を持った魚をベースにする。垢すり女ではなく、垢取り魚。商品名は「垢ちゃん」か。鯉程度の大きな魚なら、垢取りようではなく、鯉口運動(!)によるマッサージ効果が期待できるかもしれない。もちろん口を柔らかくしかも頑丈につくり、吸引力もアップさせなくてはならない。しかし、糞尿を浴槽の中でするわけだから、お湯に入ると糞尿をしなくなるような生理につくりかえなくてはいけない。
     「打ち癖の変化による健康診断ソフト」でたらめに打ったはずのキーだが、その打ち癖を見つける。これ自体には意味はないが、長期間記録を取ることで、有意の変化が見いだされたときに注意する。脳梗塞とか。痴呆症とか。自分だけでは資料不足なので、おおぜいの健康診断結果とでたらめ打ちの資料を集める必要がある。これは大変なことだ。
     「音楽化」現れる文字や数字に音階(ダブってもいい)を与えておき、楽譜とする。取捨選択をしてつなぎ、思考力とかセンスでは得ることのできない曲をつくる。星座の形を五線にのせ、その星座の曲を作った人もいるくらいから、何でも有りとしよう。
     もうこれ以上思い浮かばない。痴呆症の前ぶれか。残念ながら、生き残った脳細胞に少しがんばってもらわねばならない年齢だ。
    9/11/2006

    心の断片47「少しだけ」

    「少しだけ」

    目の前の人が嫌いになる前に
    少し楽しいお話を聞かせてあげよう
    奇妙な出来事や
    新しい話題に
    とんでもない秘密の数々をさ

    自分が嫌いになる前に
    少しおいしいものを食べよう
    誰も知らない料理で
    誰も知らない僕を
    さりげなくもてなしてくれる店

    生きていくのが嫌になる前に
    少し大人になろう
    散歩したり
    山に登ったり
    知らない人とおしゃべりして




    9/10/2006

    日々雑感137「歌詞」

     CDで音楽を聴くということはなかったが、作詞したのでと一枚もらったので、聴いてみた。10曲入りだったが、いいと思うものとそうではないものとがあった。僕はどのようにしてそれらを区別したのだろうか。
     振り返ってみると自分ながら意外なほどに音楽に興味がないことに気づく。人人が同じ曲をあきずに何度も聴くこと自体がおかしなことで何かあると思わねばならなかったはずなのに・・・・・・。
     音楽とは何だろう。聴くうちに繰り返しの旋律が安堵感を与える役割を持っている。音はすぐに消え、記憶の中で一塊の音節のようなものに再編成されるような感じがする。これが作曲者の者と同じかどうかは聞いてみないとわからない。おおげさだけど一度経験しているという安堵感を与えられるような感じがする。一度予習しているから予想外の音はないぞという安心感。くちずさむとするなら、外さないでいっしょに歌えるよという保証を与えられたようなもので、それを根拠とした自信がうまれるかもしれない。これが音楽の気持ちよさなのだろうか。
     これを味わうためには一旦基本的な旋律から離れないといけないはずだ。安堵感をより明確に味わうには逆の経験を一度積むことが大事だからだ。また、基本的な旋律から離れたときには、息が苦しかったり、緊張を必要とするような発音だったりした方がより効果的のはずだ。歌う方も聴く方も、戻ったときに楽になったとか、リラックスしたという感覚を明確に味わえるからだ。
     次には、基本的な旋律の歌詞には、どういう発音をたくさん、あるいは印象的に使用した歌詞をつけるのが適切なのかという細かな問題になってくるだろう。
     逆に基本的な旋律から離れた旋律には、決まり文句的な歌詞をつけた方がバランスがとれるという話も生まれよう。曲全体から見ていちばん盛り上がるところであるだけに、歌詞が説明的な内容だと、きっと不適当なはずだ。
     これまで音楽を聞き流していたが、面白い仕掛けがいくつもありそうな気配がする。ヒットした曲を中心に歌詞のふりかたや発音と音程のかかわり合い、言葉と言葉のつながりなどを意識して聴くようにしていこうと思う。これは無料に近い娯楽だな。

    恐怖シリーズ88「不安解消」

     <平和・・・・・・せんそうのげんいんをつくっているじょうたい> <金銭・・・・・・しなない、そして、くさらないもの> <犬・・・・・・どうぶつばんくさばなのいきかたをするいきもの> <命・・・・・・あってもなくてもいいもの>
     悪魔の辞典のように奇をてらって変な解説を試みる作業は楽しそうだ。とりあえずは4つ書いてみた。だけど、問題は頭に思い浮かんだ単語とその順番だろう。それぞれが何を象徴しているとか言い始めると夢判断みたいに曖昧で、説明すればするほど話がややこしくなり、浮世離れしてくるからいけない。ここはひとつ、単純に関心事のランキングと見た方がいい。
     平和を望み、金銭を心配し、心を癒す犬を求め、命に不安を感じている。なんだ、よかったよかった。正常だ。このように安心したいということは、僕はいろいろな不安を現在抱え込み中ということだろうか。
     さて、不安が不満になる前に、不満が不信になる前に、不信から不穏な行動に移る前に、僕たちは自分で手をうったり、周囲の人々が諫めたりする。時がたったり、何かのきっかけで自然に無意識の世界にお帰りになったりする。
     しかし、「周囲の人々が諫める」などということは、今ではとても少なくなっている。少なくとも僕が目にする限りにおいては激減している。
     周囲の人々は「知ったことではない、かかわりたくない」という状況だから、もし自分で手を打ち損ない、あるいは、その力がないために、自分のコントロールを失えば、心の中であれこれ練る時間も十分に確保しないうちに行動化が心のレベルの低い段階でスタートし、不安解消を始めていく。周囲に与える被害は大きいが、自分は満足の方向に向かう。途中で行動を阻止されれば不満ばかりが残り、周囲との関係をよりまずいものにしていく。
     幼い頃にこのトレーニングを積んでしまうと、それがその人の傾向となってしまう。キレル原因の一つにもなるかもしれない。そうだとしたら、諫めの欠如はとても恐ろしい。
    9/9/2006

    心の断片46「灯りを」

    「灯りを」

    一日が終わる

    人の気配を背に
    遠くを眺める

    ひたすら追い求めるゆえに闇に陥った
    おおぜいのひとりが右往左往している

    では、灯りをともそう
    羽虫になって群がるうち
    見えぬものも見えてこよう

    灯りに必要な闇はもう充分か

    突然思い出したこと59「ゴジラの終わり」

    ゴジラ映画は時代ごとにいろいろな役割を果たし、葬り去られた。また新たな役割が与えられたら復活するのだろうと思う。これまでどのような役割を結果として果たしてきたのかはよくわからない。
     太平洋から台風のように現れ、日本を襲撃し、破壊の限りを尽くす。彼の通ったあとは瓦礫の山だ。始末が悪いことに、口から放射能を含む熱線(原爆+焼夷弾+火炎放射器?)を放射する。さらに巨大な体躯を支える頑丈な足は無差別(平等?)に何でも踏みにじる。
     大八車に家財道具を積んで逃げまどう姿は空襲の惨劇にそのまま重なる。放射能は原爆に、上空からの無差別の空爆は今も昔も同じアメリカの得意芸で、そのやり口と重なる。制作者の意図は計り知れないが、結果として、ゴジラ映画は日本人を過去(約10年前)の大変な時代(太平洋戦争)に引きずり戻す映画となっていたはずだ。
     この最初のゴジラ映画の封切りは昭和29年。昭和20年から続くアメリカの占領が解けたはずの昭和26年の少し後だ。今も占領下にあるような日本だが、当時の、形式的には独立したのに実質的に独立国とは言えない日本の国民の複雑な思いが、ゴジラ映画に結晶化していると仮定して、その解釈は成り立つのだろうか。
     初代ゴジラは日本人科学者が開発した禁断の兵器オキシジェントデストロイヤーによって東京湾で消滅。蹂躙するものに対しては、やはりそれ以上の力で対抗するしかないのかと作品は問いかける。
     素直に鑑賞するなら、アメリカの殺戮行為、理不尽な暴力の権化としてゴジラとみるのが、当時の日本人の国民感情を考えると、いちばん適当でわかりやすい。通常兵器や浅知恵尽くした作戦では全く歯が立たないゴジラ。それをたった一人の日本人科学者が、小さな禁断の兵器によって、しかも身を挺して駆逐するというのは象徴的だ。
     物量で圧倒的に有利だったアメリカに対して貧弱な装備で肉弾戦を強いられ、ことごとく斃れていった日本兵たちの無念をみごとに晴らすようにも見える。観客動員数9610000人というただならぬ記録は、単に優れた恐怖映画だったというよりも、当時の日本人が処理しきれないで抱えていた尋常ではない気持ちに働きかけるものであったと考えるのが自然だと思う。
     ただし、ゴジラはその後の作品でいろいろな怪獣と戦う運命にある。子ども向け娯楽映画になっていき、付き添いの親の入場料もついでに獲得するという図式。ゴジラがゴジラでなくなっていく。ゴジラは初回でやはり終わっていたのだと思う。昭和30年代半ばからの高度経済成長期、過去に引き戻されることなく、明るい未来を夢見て、前を向いて突っ走りたかった日本の状況もある。ゴジラでないゴジラはピエロを演じるしかない。初回で役割を果たし、続編以降は次第に子どもたちのヒーローたちと同列におとしめられていく。
     再びゴジラがゴジラになるのは、昭和59年を待たねばならない。しかし、平成10年ハリウッド版ゴジラの登場で、ゴジラ映画はただの怪獣映画におとしめられることになる。二重におとしめられた日本のゴジラはついに息の根を止められ、ただの見せ物ゴジラになってしまった。
     「ゴジラ映画」を必要としない鑑賞者が増えたということだ。つまり、年中行事的な「娯楽ゴジラ映画」の路線に乗るた国民が増えたということだ。こうなっては、さすがのゴジラも、今のところ本来のお役についてはご免ということだ。
     現在は、彼を懐かしむ年代とそれに類する異世代の趣味人がつくる人形マニアの世界に封印され、雌伏(至福かな?)のときを過ごしている。雄飛(これはそろそろ夕日?)しているのは人間のゴジラだけだ。とはいっても、野球界(実はマスコミ界の一翼?)という世界に封印されていることには変わりない。所詮、ゴジラは初回の昭和29年のゴジラで終わっているのだから、あれこれ言ってもほとんど意味はなかろう。
     さて、この映画シリーズの副産物、メカゴジラの存在は侮れない。実は大きな役割を果たしたのではないかと感じている。多くの青少年は、メカゴジラとの出会いによって、少なくとも鉄腕アトムよりも現実的なロボットの存在を感じたはずだ。遠隔操縦タイプ、人が搭乗して操縦するタイプ、脳波で操るタイプ等々いろいろなパターンを見せられて、夢をふくらませたはずだ。現在いい年齢になったロボット開発者の頭の中枢部分にはこのメカゴジラが案外どっしり座っているのではないかと想像する。これから日本を救うのはロボット産業なのだろうから、メカゴジラ神社でも建てて祈るといい。
     そのメカゴジラがゴジラに勝てないのは、スーパーウェポンで何でもやっつけて解決してしまう無茶な映画のストーリーより味わいがあって面白い。人間は悪魔的な存在にまだ勝利してはいけないのかもしれない。それにしても、なぜか巨大ロボットはしゃべらない。しゃべったらよほど大きな音になるからか。確かに光景としても、同じ背の高さのロボット同士がおしゃべりするというのは滑稽だ。装甲を通して聞こえるような大声は結局住民の迷惑になるに違いない。うるさいから、お互い無線で話してよねということになるのだろう。だから、巨大ロボットはしゃべらなくてよい。もっとも人間用に足のどこか踝のあたりへスピーカーを取り付けることはあるかもしれないが。
     なぜか年に一回はゴジラのことを突然思い出す。もしかしてサブリミナル効果?




    9/4/2006

    心の断片45「虫が鳴く夜」

     夜。りりり、りりり。ち、ち、ち。ころ、ころろ、こころ、ろ。じー、じー。りー、りーん、りー。いろいろに鳴き分けるのは、鳴き分けねばならぬ切実な理由があるからだよね。そうだ。鳴き真似はできるかい?
     この一年間どこにいたのだろう。秋の虫たちが蝉に代わって鳴き始める。雲間の星をさがしながら、横になるが、網戸ごしの風景はこのように少しにぎやかだ。しばらくは涼やかなこえで僕を慰めてくれるかな。
     いったい最後のコオロギは誰のために鳴くのだろう。どんな思いで鳴きやむのだろう。そして、ふるえるのだろう。
     人間の僕は季節を経験しすぎて軽んじているに違いない。虫の季節は、生き様そのものだ。一年が限度の虫だって多い。でも、それはそれで何かいいことがあるのかもしれないな。
     少し虫の鳴き真似をして、僕は冷やした小さな野菜缶ジュースを一飲みにした。今日がそうであったように、明日は明日の風しか吹かないのだ。