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    9/30/2007

    心の断片106「難破船」

    「難破船」

    見てはいけない
    言ってはいけない
    自己規制が分別なのか
    存在はどうする
    そうか命か

    では
    なりふりかまわず魂を伝えよう
    自分が誰だかわからなくなる前
    行いの意味を見失う前に
    どうしても魂を届けよう

    ほどけた
    脂肪と蛋白質と
    悲しい骨
    うるわしい水にうかぶ
    急ごしらえの
    僕たちは小さな箱船 

    難破船だ

    日々雑感213「正体を暴かれよう」

     ときどき「死にカタログ」という本をめくるときがある。「死ぬってなに?」素朴な疑問を絵で考えた新しい「死の本」と腰帯にある。本体価格1500円なら映画より安い。命の危うい生きもの同士という連帯感が持ち合えたらいいと思う。いじめなどの問題が解決に向かいはじめるかもしれない。
     ところで、最近、ゲームのせいか、蘇りを信じる子どもが多いと聞く。彼らは命は使い捨てという感覚にいつでも移行可能な危うい状況にあると心得ていた方がよい。おそらく国が学校教育で宗教教育を禁止したツケを誰も払ってこなかったということなのだろう。
     宗教教育は絶対に公教育でも必要なのだが、それを禁止しているのは、ともすれば危うい教育になる可能性があるということなのだろう。多くの人は宗教教育をタブー視している。文化の中で倫理観を育んできた日本人には宗教がなくても倫理観を持つことができたので、近年は宗教からの自由を手にしている珍しい国だったはずなのだが、伝統文化が崩壊したり、歪められたりすると、宗教への傾倒がまた始まるのではないだろうか。
     しかし、宗教教育が禁止されているため、信仰するということの意味が分からず、ただ現世利益だけを追求してみたり、未熟な宗教に対してもその未熟さが身近さと勘違いされ、それがまるで魅力であるかのような錯覚を持ってしまったりするおそれはある。
     このような未熟な倫理観をもつ新興宗教に走るか、家訓・家風に伝統的な倫理観の源を温存している階級に嫁いで同化するか、化石化した倫理観の断片だけを頼りに出口なき迷路をさまよえる現代人になるか、既存の宗教にまぎれ込んで宗教改革を含む宗教活動に生き甲斐を感じるという一風変わった信心深い人となるか。どれもこれも今ひとつすんなりと受け入れられない。
     志ある人はどうして人間に宗教が必要であるのかを突き詰めて考えるだろう。その中で人間の正体が暴かれることになる。そこからどんな人間観が生まれるか分からないけれど、少なくともがっかりしたり、逆に得意になったりすることだけは避けてほしい。己の正体が暴かれてたとき、まずはすっきりしたという感覚をもつのが健全な精神であると思うのだ。
    9/29/2007

    日々雑感212「礼」

     世の中にはいろいろの目つきの人がいるが、人相としての目つきではなく、視線の角度の特徴から次のように大きく3種類に分かれるように思う。
     視線が目の高さの人は、他人の視線とからむので、周囲の人間の思い、つまり空気を読みとることに長けている。だから、人間関係を現実的に捉え、上手に生きていくことができそうだ。しかし、心構えが悪いと、気を遣い過ぎたり、気を回しすぎたりして、気苦労ばかりが多く、思い切った行動を起こせないかもしれない。
     視線が目の高さより上を向いている人は、どこか夢見がち、理想を追いがちで、空気を読み損ねてしまう可能性もある。しかし、その場の人間関係という狭い世界の中でうまく生きようとするのではなく、少し高いところから全体を見て判断し、人々を導いていく生き方ができそうだ。しかし、心構えが悪いと、浮世離れしてしまい、勝手に走り出したり、空回りに終わるかもしれない。
     視線が目の高さより下を向いている人は、素直に従う気持ちや反省の気持ちが強く、今耐えていることをバネにしながら、着実な生き方ができそうだ。しかし、心構えが悪いと、人に追随するだけで世間に流されてしまうかもしれない。
     こうしてみると、いつも同じ方を向いているのは愚かなことのように思われる。いろいろな方向を見て、いろいろなことを聞いて、いろいろなことを感じ、いろいろなことを考え、いろいろな作戦を立てておくのが安心を得るための第一歩となるように思う。臨機応変に機動力を発揮できるのは作戦の蓄積があるからだ。
     孟子ではないが、確かに、天の時を得、地の利を得、人の和を得て、ようやく勝利は得られるものだ。そのためには、まず天の時を知り、地の利を知り、人の和を知らなければならない。知ることなくして得ることはできないのは道理だ。そして、知るためには、まず見て、聞いて、感じなければならない。さらに、より深く知るには、考えなければいけない。
     天と地と人を知るにはそこまで行かねばならない。観光とはもともとそうした政治的な視察を意味している。だから、観光する以上は、いろいろな見方で見なければ失敗する。さまざまな作戦を立てられないからだ。作戦というのは戦争のためだけにあるのではなく、あらゆる活動の複線的計画としてある。作戦を考えるには、人々の暮らしぶりや考えや不満などを調べておくのも重要なことだ。だから、名所旧跡だけを見ていては観光にならない。
     もちろん旧跡から学べることはある。しかし、名所の方はアトラクションであって本来はメインではない。アトラクションに目を奪われていると、結果として目隠しをされてしまうことになる。これは作戦を不完全なものにしてやろうという観光される側の作戦であるようにも思われる。
     名所をうまくつくっておき、しかるべき順番でしかるべく案内すれば、それと悟られずに目をくらませることに成功し、真実の姿を隠すことができるという作戦だ。同時に、印象をよくするという効果もある。これは地域だけの話ではなく、個人や組織にも当てはまるのではないかと思う。
     だからといって個人をいろいろな角度から見つめたり、いろいろな質問をしたりするのは失礼というものだ。そうか。「礼」というのはそういうことだったのか。すると、礼をするときに頭を下げるということには二つの意味があることになる。
    9/27/2007

    変な疑問71「星座」

     夜空の星座。それは昔の人々のたくましい想像力の為せる業だという。だが、その想像力はいかにして育まれたのだろうか。
     晴れた夜空には星が見える。しかし、「星が降る」というほどの見え方は、星の方が空よりもたくさん見えるというほどに感じられる。とてもその状態では、星座を見極めることは困難だ。ちょうど星座が認められるほどのほどよい星空というものがあるはずだ。そうした星空が幾夜も幾夜も見られたところ、それが条件だろう。
     星空を眺めるに、一人で眺めているだけでは星座は生まれにくいように思う。一人一人が語れる限りの神話を互いに語り合いながら、ゆったりと星空を仰ぎ見る生活。これは大人の世界だ。子ども相手では子どもが寝てしまうだろう。大人同士でそうした生活を日々送ることができたところ、それも条件だろう。
     星空を眺める間、話が現実にもどってはいけない。明日のこと、将来のことが苦になっていては、星など目に入らない。たとえ目に映っても、それはただの明かりだ。しかし、明日が心配でない人はいない。現実に戻らぬためには酒がいる。酒を酌み交わしながら、たき火が消えたあと、夜空に吸い込まれそうな錯覚に浸りながら、神話を語る。それが共通の話題なのだ。見えるのは星ばかり。星をたどって星座をつくり、話に花を咲かせる人々。それが「くつろぎ」「おつきあい」、つまり「娯楽」として成立していたところに、星座を示して神話を語るのが得意な者があらわれ、より面白く皆に語るようになる。星座語りの登場だ。すると、気ままにたどった星座の決定版ができあがる。より合理的に夜空を星座で埋め尽くした者が豊富な星座語りで人気を呼び、
    その星座が図に描かれるのだ。そうした星座語りを真似する人々に支持された星座の決定版はいつ頃成立したのだろう。
     もちろん「星座語り」などという種類の人々は、ここで勝手につくった想像上の人々だ。そんな人々が、まるでプラネタリウムの語り部のように魅惑のひとときを過ごさせてくれたらいいなと思っただけだ。このように占星術が生まれる前の古代の幻影を頭に描いている自分が少し怖い。
     さて、日中の空はどうだ。雲がさまざまに形を変えて流れていく。人の顔に見えたり、動物に見えたり、怪獣に見えたりと、さまざまだ。これは星座のようにすばらしい想像力を働かせなくても、自然にいろいろなものに見えてくるおもしろさがある。これは子どもでもできることだ。空に親しむその姿勢が素地となり、少年期に神話に親しむようになると、同じ空への思いから、次第に星座の世界に移っていくのかもしれない。明るい日中は子ども、夕方から夜にかけては大人の時間だ。
     雲は風の流れによって形を変えるが、季節によっては上空の風の流れと低い空の風の流れが食い違うことがあるように思う。そうしたときには、空に奥行きがより感じられ、立体的な構図で、物語が展開し始める……。仁王の巨大な頭と振りかざした腕が、上に逃れていく悪鬼のあとを追うように突き出されたり、国籍不明の軍艦が大津波に向かって突進したりするのだ。
     どちらにしても空を眺めるというのは頸が辛い。寝転がり、時の過ぎるのも忘れ、頭の中を空っぽにするのがよい。想像力も常識の足かせから解き放たれ、軽やかだ。上を向くと、脳の後ろ半分が圧迫を受け、前半分が自由に働くようになるということがあるのだろうかと思うほどだ。
     では、寝転がってうつぶせになり、地球の中心を見つめる姿勢になったらどうだろう。想像力は萎え、何か別のものが働き始めるのだろうか。マッサージで真下を向けるような穴あきのベッドがあるが、一度寝てみる価値はあるかもしれない。
     星空を見つめる。面倒なことはすべて宇宙の彼方に消え去り、なんとかなるさとか、どうでもいいことだったんだなとか、投げやりではない、何か見切った心の状態となる。何の作戦もない。煩わしい人間関係もない。卑屈な心や慢心もない。
     人間の中で唯一清らかな角膜。その傷つきやすい聖なるドームを遠い遠い星の光がすっと通り抜けていく。星の知識もなく、星座もなく、神話もない。ただ、ここに届いてくれた星の光を美しく思う。

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    9/24/2007

    日々雑感211「衣食住」

     衣食住。「怪しい広辞苑」シリーズを書くために広辞苑第四版を読んでいるときに目に入った言葉だ。改めてこの言葉をかみしめてみると、いろいろな思いがわいてくる。たくさんの家族で小さな家に住んでいた時代、比較的極限の生活をしていた下宿時代、かなり古い家で過ごした時代、建て替え時に一時的に過ごした借家時代等。振り返ってみるといろいろな転機があったあったものだと懐かしい。都合8回は引っ越しをしていることになる。荷物の管理が悪かったために大事な物がその度になくなってしまう。実に愚かなことだ。
     引っ越すにあたっていつも思うことがある。荷物を見るにつけ、収入も生活様式もそれぞれに違うせいか、「衣食住」のあり方も少しずつ変化していくのだなということを思うのだ。また、一つ一つの品物を箱詰めしていると、人というものは「人間らしい生活」をしようとして随分と面倒なことをしているなと感じる。
     これについては、周囲の多くの者が「人間らしい生活」という流れに従って生活しているので、その流れの中で生じる面倒なことも、一つのあきらめとして執り行ったり、解決したりしているにすぎないという見方もできる。
     物の見方や考え方、暮らし方などが歴史の移り変わりの中で変化していくのは仕方ないことだ。そして、その傾向としての流れに沿って生きることが、その時代を生きる人々のほとんどの人にとっての目的となる。その目的を果たすための最初の方途として「人間らしい生活」を目指すという共通の目標を掲げることになる。これが幸福感の土台になっているはずだ。それはいつの時代、どの社会にも共通したものであるとは限らないように思われる。
     この「人間らしい生活」を目指すという目標は、あまりにも大勢の者が掲げるので、その中で競争が生まれたり、結果の評価が下されたりする。こうしたことやこうしたことによって生み出された結果に不満な者たち、あるいは競争に怖じ気づいて最初から勝負をしたくない者たちは、目標の解釈を変えたり、別の目標を掲げたりする。こうして「大きな社会」の中の一部の者は、オリジナルの「小さな社会」を創作し、その中で邁進することになる。これはよいことでもなければ、いけないことでもない。ただの必然だ。趣味の世界やアンダーグランドの世界もそうした「小さな社会」に含まれる。
     しかし、そうした社会の中でも結局は規律や競争や評価がうまれるので、それに不満な者たちなどが、さらに「小さな社会」を創作していく。これ自体にもやはり問題はないが、限度を超せば、目に見えぬ意識の迷路が入りくんで奇妙な世の中が構成されていくおそれがある。同じこの世に生きていながら、この世に生きていない人々の群れが漂うことだけはくいとめたいものだ。
     このように考えると気持ち悪いが、昔からそうだったと思えば我慢もできる。また、全ての人が同じ物の見方をしていることの方が気持ち悪いとも言える。しかし、だからといって「小さな社会」のすべてが認められるわけではない。「大きな社会」の多くが怪しいのと同じで、そこから生まれた「小さな社会」もその多くが怪しいと想像する。経済の仕組みにあまりに上手にからんでいるものやいわゆる精神的なリーダーが君臨しているものは、「大きな社会」「小さな社会」を問わずに怪しいと疑うべきで、さまざまな調査をかける必要がある。
     ところで、僕たちは、「大きな社会」であれ「小さな社会」であれ、労力を費やしている対象に価値を認めることができなくなったとき、あるいはそうなりそうなときには、労力を費やすこと自体に価値を認めるという芸当をやってのけることがある。正統であろうとするための努力は健気だが虚しさも感じる。
     しかし、これをもっと推し進め、敢えて無駄なことをしたり、面倒なことをするということに生きがいを見出す場合もある。病的に思われてしまう場合もあるけれど、同じことを目指す者同士が多く集まり、経済活動を行うようになれば、そこにもそれなりの価値が生まれ、「大きな社会」からも認められるほどの存在になることもあるだろう。
     もちろんその中にも他の「小さな社会」と同様に競争や評価が生まれる。それゆえか本人たちはいたって真面目に労力を惜しげもなく費やす。それは本人たちにとっては生きるということ自体だからだ。別の社会を地盤としている者が彼をそこから引き離してしまうと、たちまち彼は無力化して滑稽な存在となってしまう。これはお互い様だ。逆に彼がその者をその社会から引き離して彼の社会に連れ込めば、その者はやはりたちまち無力化して滑稽な存在となってしまう。
     正装している集団の中に一人普段着でいることは滑稽だ。逆に普段着の集団の中に一人正装でいることも滑稽だ。
    「衣食住」もこうした点から考えると単純で面白そうだ。
     
    みんながカレーライスを注文しているなかで特上ランチを食べること。貧民街に豪邸を建てること。また、その逆。全部滑稽だ。滑稽な存在でないようにするためには、周囲に合わせるか、自分を特別の存在として認めさせるか、そのどちらかを選ぶ必要がある。
     周囲に合わせるのは無難な方法だ。ほとんどの人は無難な方法をとるので、一団体が自由な服装であるのにもかかわらず、どこかしら似ているということはよく観察される。仕草から歩き方、話し方から驚き方までに多くの共通点を見出すことができる。しかし、リーダー的な存在はやはりどこか服装が似ている中でも少し違うということが観察される。アクセサリーが余分についていたり、服の色遣いが少し多めだったり、派手めだったりする。
     これが動物ならどうだろう。「衣」はイソクズガニやミノムシなどがすぐに思いつくが、どれもカムフラージュで目立たない。もちろん人間の「衣」も特徴的な体形を隠すという働きをもっている。また、会社員の背広姿や制服などは、個人的な側面を隠し、会社の一員として働いているということの象徴となっている。
     しかし、やはりそうした服装で括られた社会のような「薄い社会」のなかでも競争や評価はあり、どこか違うところを演出しなければ認められないということはある。体格にあった服装や着こなし、ポケットから出す小物や目立たぬアクセサリー類のような小さな主張は好ましく受け取られるはずだ。逆に、認める側から見れば同じ背広や制服でもだらしなく着るか、さわやかに着こなすかで、目に見えない心を測定するしかない。仕事の成績だけで人を判断するのは運やタイミングの要素があって不公平になるからだ。
     いろいろなもので括られた「薄い社会」はいろいろな集団をまたがって存在する。特定の歌手を崇拝する「薄い社会」もあれば、1980年生まれという「薄い社会」もある。
     集団の中では管理能力が問われる。管理職は部下たちがそれぞれの管理能力をどう発揮しているかを管理している職だとも言える。管理能力が不足している部下がいれば、その不足によって起きる不都合を他の職員が補わねばならなくなる。これが全体の能力低下につながる。それを防ぐとともに全ての部下の管理能力を高めていくのが管理者の仕事になるはずだ。
     自分の服装が管理できない者に仕事に対する管理能力があるかといえば、ノーだ。しかし、仕事に対する管理能力があるものの全てが自分の服装を管理できるかと言えば、やはりノーだ。
     「衣食住」を維持するには管理能力が必要だ。観察力、知識、常識、センス、経済力、愛情等々、さまざまな力を背景として管理が展開することになる。そうした内的なものの表れとしての「衣食住」を考えるのも面白い。
     「衣」についての管理は、適切な素材とデザインのものを取りそろえ、汚れを取り、敗れたところを繕い、分類保管をしなければならない。「食」についての管理は、適切な素材を取りそろえ、危険部位と不要部位を取り除き、汚れを取り、形を整え、必要な熱と味を加え、腐敗せぬように保管しなければならない。「住」についての管理は、適切な土地に適切な規模とデザインの建築物と周辺施設、内装と家具類を取りそろえ、汚れを取り、必要な換気、照明、空調によって室内の環境を整え、
    傷んだ部分の修繕と必要な改装を適切に行いながら施設管理をしなければならない。
     大人になるということは身の回りの管理、家族の管理、自分の仕事の管理、仕事仲間の管理ができるということだろう。管理というと締め付けのようなイメージがあるが、それは下等な管理方法によるものだろう。衛生管理、備品管理、人事管理が崩れれば問題が起こり破滅に向かう。それは締め付けだけでは到底実現できないことばかりだ。
     備品管理で言えば、備品を使わずに倉庫に保管しておけばなくなることもなく、書類上の問題は起こらない。しかし、それは管理ではない。活用し、効果を上げ、壊れたら修理し、不足すれば買い足し、売ってなければ開発する。こうした一連のステップが合理的に流れていくように力を加えるのが管理するということだろう。使うな壊すなという締め付けではなく、使う者が思う存分に使えるようにし、効果を生み出すようにしむけることがポイントとなる。
     これは家庭でも同じだ。「衣食住」についての管理とはどうあるべきかということの基本を小中学校の授業でもっと時間を割いて教えるべきだと思う。管理するのは面倒なことだが、軌道に乗れば、無意識のうちに、あるいは抵抗感なく実現できることだ。これを「しつける」という。「人間らしい生き方」をこうして手にしたときに、その社会の中では円滑に生活できるようになる。これが幸福の第一歩を築くことになるはずだ。
     人生斜に構えて「小さな社会」をつくりあげようとしている者は、その幸福を否定することからスタートしている可能性がある。これを常に自分自身で疑い、そうではないことを確認する必要がある。どこかに酸っぱい葡萄にしてしまう心がありはしないかと考えている人はたぶん大丈夫だろう。もしそうでなければ、それが本当の自己満足というものだろう。
    9/20/2007

    怪しい広辞苑109「第四版134ページ・異常聴域」

     じっくり読めば分かるが、案外勘違いする人もいるはず。広辞苑第四版134ページ「異常聴域」の5行目。
     「火山の爆発などで著しく大きな音が伝わる時、爆発の中心からある距離のところで音が聞こえなくなり、それより遠方の区域でよく聞こえる現象。音波が上 層大気で反射屈折するためにおこる。この外側の区域を外聴域という。」という説明の最後にくる文は勘違いを起こさせる可能性が高い。「この外側」と書かれ ているのを見た時点で、多くの者が「異常聴域の外側」と読み取ることは間違いない。そうすると、中心部分の聴域から離れたところにある聴域と、その外側に ある「外聴域」というものをイメージしてしまうことになる。つまり、異常聴域が「よく聞こえる」聴域ならば、「外聴域」という聴域は、異常聴域よりももう 少し音が小さく聞こえる聴域なのだなと、早合点するおそれがあるということだ。
     きちんと学習する者は少し考えておかしいと思ったり、最初から広辞苑などでは調べない。仮に広辞苑で調べたとしても、別のテキストで比較する機会に恵まれているので、自然に過ちを確認することができるだろうから全く問題はない。しかし、それほどに詳しく学習す る必要のない者も当然いるわけで、そうした者にはまるで「異常聴域」と「外聴域」という二つの聴域があるように了解して追究が終了することになる。
     通常の説明ならば、「この外側の区域を」という、その場所にあっては誤解を招く表現を避け、ただ単に「外聴域。」あるいは「外聴域ともいう。」と表現するところだ。
     広辞苑第四版の場合は、「この外側の区域」という言葉が指し示している部分があまりにも前の方にあるということがそもそもの間違いといえる。しかも、指し示し ている部分が「音が聞こえなくなり」というように、名詞で終わっているわけではないので、指し示す部分が不明確にぼかされている状態になってしまっているというのも問題だ。これは、利用者がどう理解するかということをあまり考えずに説明しているという印象を与えてしまっている。
     いつもなら言葉足らずなのに、ここでは余分な言葉のために誤 解を招きかねないことになっているのが残念だ。全ページを校正し直したうえで第6版を出版した方が今後の広辞苑のためにはよいと思う。もちろん生存している執筆者だけに確認するのではなく、もうお亡くなりになった方が執筆した部分も代わりの方が読み直した方がよい。もちろん岩波書店のことだからもう既に作業に取りかかっているとは思う。
     広辞苑第6版には多くの日本人が期待している。これは間違いない。CD-ROM版でもいい。進化した姿を見せるべき時期はすぐそこまで来ていると思う。


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    9/18/2007

    怪しい広辞苑108「第四版133ページ・緯書」

     謎だ。広辞苑第四版133ページ「緯書」の5行目。
     「佚文(いつぶん)を伝えるのみ」とあるが、不自然な表記だ。緯書は焚書の被害にあったので、佚文だけが伝わっているという内容は理解できるが、表現が不自然だと思うのだ。経書や緯書を語る場合は「佚文」という表記をしなければならないという慣わしがあるのなら仕方ないが、現代版の辞書なのだから、古い表現をしている引用文以外は、現代風に表記するのが適切な処理ではないだろうか。
     ここは常用漢字を使い「逸文」とすべきところだろうと思う。常用漢字は、そのように書かねばならないという決まりではないが、わざわざ「佚文」という表記をした挙げ句に(いつぶん)という読み仮名を付けるという処理の仕方は、不自然だと思うのだ。「逸文」を使用するなら、敢えて読み仮名を付ける必要もないはずだ。
     もしかすると、「佚文」の「佚」の方が「人の手によって失われてしまった部分がある」という意味を見た目に強調することができるという配慮があるのかもしれない。確かに「逸」だと、「秀逸」な文というとらえ方をされてしまう可能性はある。しかし、焚書によって秀逸な文章だけが残るというのは不自然だ。どちらかというと、秀逸な文章の方が焚書の対象として狙われるのではないだろうか。
     敢えて読み仮名を付けたということは、どうしても「逸文」よりも「佚文」にしたかった理由があるのだと思う。その理由が謎だ。謎が多ければ多いほど怪しい存在になってしまう。広辞苑を怪しい書物にしてはいけない。そのためには、専門家にとっては当たり前のことでも、利用者が一般人であることを忘れずに説明したり、表記したりすることを心がけることだ。これなしにして売り上げは伸びないと思う。
     因みに「佚文」を広辞苑第四版で調べてみると、見出し語に【逸文・佚文】となっていた。他に併記されている例を見ていくと、上に書かれた表記が一般的で、下に書かれたものは現時点では一般的ではない表記になっている。やはり敢えて「佚」を使用したのには何か深いわけがあるに違いない。
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    9/17/2007

    日々雑感210「構えない構え」

     僕たちはなぜ大事なものを見過ごしてしまうのだろう。
     構えがないからだ。逆に、構えているからだとも言える。まるで禅問答のようだが、構えずに構えるということが大事だということだ。
     頑張っているうちにいつの間にか構えがかたまってしまい、重要な周辺情報を見落とすおそれは誰にでもある。武道では、相手のある部分を攻撃しようと狙うがあまり、まずいタイミングと方法で攻撃して失敗することがある。極度に注目するために周辺の状況に対しては盲目となるのだ。目は開いていても見えておらず、心に緊張感があっても働いていないという状態に陥ってしまう。
     今の相手の体全体から受け取る情報とこれまでの攻防の情報から判断して攻撃場所と攻撃方法を決めなくてはいけないが、0.1秒単位の攻防においては間に合わない。見て、判断して、動く間に既に勝負がついている。アニメ等で闘っている相手の姿が一瞬消えるように見えるのは、強ち誇大な表現とは言い切れない。何をされたか分からないうちに全ては終わってしまうのだ。
     目ばかりでなく、心も開き、全てを受け入れながらも、思い切った動きで相手を圧倒しなければ、攻撃ポイントを得ることはできない。一見何でもない情報に意味を見出して有効な情報に変換していく力がこれからいっそう必要となるに違いない。
     基本的には、当たり前のことを当たり前としないという心構えが要る。また、なりふり構わずに何でも利用し、応用するという心構えが要る。それらを支える行動力と経済力が要る。もちろん協力者もいるし、後ろ盾も必要だ。
     モデルとしては忍者がよいだろう。自然を知り尽くし、人間を知り尽くしていることが忍者の条件だと思う。極限の状況を乗り越えるには精神力だけでは不可能で、さまざまな道具を考案したり、薬を開発したりする。また、言葉で人の心を操り、状況を変えていく。一般人が考えることを知り尽くしているために、一般的な行動を取らないことができる。これが相手に行動を予測させないことにつながり、身を守ることになる。また、通常は一般的な行動を取ることができる。これも、身を守ることになる。任務を遂行する身を守ることが、任務を遂行するための基本だ。逆に言えば、任務を遂行できない場合は、命を捨てる覚悟が要る。
     集団の中で最も目立たない者は隠遁の術を使っているかもしれない。しかし、本当は二番目か三番目に目立たない者の方が怪しい。最も目立たないということは大きな特徴となるからだ。
     別に隠れている必要はないが、忍者の心が必要な場合もあろうということだ。つまり、知りつくしているがゆえに獲得した自由な心を持つことが必要な場合もあろうということだ。
     もしかすると、僕たちがとまどうとき、僕たちがわくわくするときには、
    忍者のようなものを相手にしているのかもしれない。何事にもとらわれぬ自由な心、自由な存在に対しては、こちらも同様の存在にならない限り、弱点どころか、その姿さえ発見できないのではないだろうか。テレビでお目にかかるいかにも忍者のようなふるまいなど、忍者がするはずはないからだ。それは個人とは限らない。また、人間ではないかもしれない。
     行き詰まったときに助けてくれるのは、周辺の情報だ。悩んだときに助けてくれるのは、その身になって発想した事柄だ。大きな存在と立ち向かうときに助けてくれるのは、その存在から知れる可能な限りの情報だ。 そうした大事なものを引き出すために、どんなアクションをすればよいのか。これを考えるだけで、極めて深刻な困難は、普通の困難にランクダウンするはずだ。
    9/16/2007

    恐怖シリーズ101「指四本」

     かつて「指四本来日」と聞いて、いろいろなことを想像して恐ろしかった覚えがある。結局は「イ・ビョンホン来日」だった。
     どうしても原田泰造を同時に思い出す。すると、「力の限りゴーゴゴー」というテレビ番組の「ふんどし先生」が頭に浮かんできて、イ・ビョンホンが来日して空港等でおばさんたちの大歓迎を受けるニュース映像などを目にすると、ふんどし先生に熱狂する不思議なおばさんたちの奇行を報道しているように錯覚してしまうのだ。これは僕だけの症状だろうか。
     錯覚といえば、はじめて聞く言葉が、たまたま他の言葉に似ていたがために起こることがある。しかし、錯覚は聞き違えに終わらない。発音が似ているために意味の取り違えが起こることもあるが、同じ言葉であるのに、意味を取り違えてしまうということがある。たまたまそのときには問題が生じなかったために、間違った意味で了解してしまったということが原因だ。
     錯覚がこのレベルにまでになると、問題が大きくなる。「バックします」というトラックの警告が「ガッツ石松」に聞こえたり、「もう六時」が「もうろくじじい」に聞こえたりするのは笑い話で済む。しかし、意味の取り違えは、大抵の場合、大きなトラブルの元となる。
     はじめて聞く言葉が極めて特殊な状況で使われた場合、こうした意味の錯覚が起こりやすい。しかし、使われる状況だけが特殊であるわけではない。聞く方の言語習得状況の特殊性という問題を忘れてはいけない。
     「はじめて聞く言葉」のシャワーを浴びるのは、生まれてから高校生あたりまでであろう。特に、中高生当たりは中途半端に言語習得を終えているから、その劣等感を持っている者は、意味をマイナスにとらえて屈折する可能性がある。小さい頃のそうした言葉のシャワーが、新鮮で心地よかっただけに、その落差も屈折を強める原因となりそうだ。
     
    目に見えるものに対する具体的な言葉は、聞いただけで世界が広がり、満足感も得られる。けれど、目に見えないものを表現した抽象的な言葉をどの程度理解するかは人によって違うので、満足度も違う。その理解の差の延長線上には、世界観の差という究極の差がそびえ立つことになるだろう。こうしたことも、心を屈折させる要素となるのではないだろうか。
     中高生は、社会に目が開かれたり、生きるということについて考えるようになる年頃なので、次第に抽象的な言葉を操らねばならなくなってくるはずだ。そうした年齢の時に、抽象的な言葉をうまくとらえられなかったり、表面的な理解で終わっていたりすると、劣等感を持つ原因となる出来事に出くわす確率が高くなると想像できる。
     自分には意味の分からない言葉が流通しているということ自体も劣等感をもつのに十分だ。もちろん、劣等感の裏返しとしての怒りも経験する。これは誰でもあることだと思うけれど、そうした期間が長かったか、短かったかが問題となる。長期間にわたって味わったことが本人の精神的な傾向に影響を与えるのは間違いないだろう。
     普通はそうした劣等感を乗り越えるべく心がけるから、そうした期間自体も短くて済む。すると、後から評価して、逆によい経験だったということになる。問題は、能力的に乗り越えられなかった場合と、乗り越える能力はあっても、足を引っ張られた場合だが、ここでは触れないでおこうと思う。
     通常の能力があれば、いつかは読書や話し合いなどを通して、言葉を多く知るようになる。そうして現状を比較的適切に把握できるようになったり、自分の思いや考えを自由に表現できるようになったりすると、かなりこうした種類の劣等感は解消されるはずだ。さらに、言葉を適切に駆使して、問題を解決したり、相手を説得する力を持つようになれば、優越感さえ持ち始めるのではなかろうか。
     とにもかくにも、
    中途半端に言葉を知っている中高生は、特に何らかの劣等感を持っている場合、はじめて聞く言葉の意味をマイナスの意味にとらえていく傾向があるのではないかと思うのだ。
     ところで、「たてかえておく」という意味を「無条件にお金を出してもらえる。」という意味にとらえてお金を返さなかったためにトラブルが起きたということを聞いたことがる。途中でおかしいなと思って話し合えば意味の取り違えに気づいて問題は解消されたはずだ。しかし、まさか本当の意味を知らないとは思わない彼は、悪意ある未返却ととらえ、それを恨んで、攻撃したというのだ。言葉というものは通じているようで通じていない。ひたすら正しく解釈されるのを待っている孤独な存在なのだ。それは人の存在に似ている。
     実は言葉がまだ不自由なのに、自由に話せていると思いこんでいるという不幸。同年代のつきあいだけでは、互いに知っている言葉だけでのおしゃべりが可能なので、そのように錯覚するのも無理はない。おしゃべりはそれで成立するけれど、目的を持って話すということになると、まずは語彙力が必要となる。そして、話す技術が必要となってくる。こうした力が不足していたり、そうした力を発揮しなければならない経験が少ないと、楽しいおしゃべり空間で雰囲気を味わうだけの感覚的な人間になっていくおそれがある。
     さらにまずいのは、そうした傾向にあっても大事なことから逃げるわけにはいかないということだ。おしゃべり空間は確保していても、残念ながら重要な問題を解決するために論議する場を持たないので、仕方なく未熟な自分と対話するしかなかったり、不適切な相手に相談したりという過ちを犯す可能性が高くなる。
     では、実際にはどのように力をつけていくのだろう。
     最初はまだ語彙数も少なく、話す技術も磨かれていないので、模倣から始まるはずだ。情報源はドラマや漫画のせりふであろう。その方が共通の情報源をもつ仲間に伝わりやすいからだ。それが単なる言葉真似だけでなく、実生活の中で応用される場合もある。受け売りというやつだ。「聞いた風なことをいう」というのはこうした未熟さに対する揶揄だろう。しかし、未熟な時期は必ずあるのだから、揶揄する方が度量が小さいということになりやすい。
     また、ドラマや漫画のせりふだけでなく、先輩や先生の生の声も情報源としてある。また、新聞や書籍なども情報源となるが、残念ながらこれは話し言葉ではなく、書き言葉だから、生のままでは使えない。話し言葉に変換していかねば、論理的なようで、実はとても分かりにくい日本語となってしまう。
     だから、ときどき読書好きの中高生が奇妙な日本語を操ることがあるのを耳にする。しかし、やがて語彙も表現もそうしたトレーニングを経て豊かになっていく。読書は欠かせないトレーニングだが、読書行為で終始してしまうと、本の世界に閉じこめられることになる。自ら閉じこもりたいと思う者もいるから仕方ないのだが、深いようで狭い世界に入っているのは心地よくはあろうが、誰のためにもなっていない。行動力を高めるトレーニングとセットで行われないと、偏った方向へ進んでいくおそれがある。両輪は同じ車軸で結ばれているからこそ真っ直ぐ進むのだ。もちろんデファレンシャルギアーがないと、苦悩が生じることになる。
     ところで、話は戻るが、聞き違えのなかでは、「おいしいねー。」が「おい、死ねー。」と聞こえるのが怖い。「それも駄目だしね」が「それも駄目だ。死ね。」と聞こえるのも怖い。こうした現象は特に日本語に置いて激しく起こる可能性がある。そういえば、音節数の少ない不幸の言語という本を昔読んだ覚えがある。著者は韓国の人であったように思う。指四本の国の人だ。
    <空耳利用の言語習得 画像クリックで説明画面へ>

    9/15/2007

    怪しい広辞苑107「第四版131ページ・石鯛」


     久しぶりに広辞苑をまた読み始めた。これはどうなのだろうか。第四版131ページ「石鯛」の説明。
     「イシダイ科の海産の硬骨魚。体長約四〇センチメートル。鯛型で体は淡青褐色。七条の黒色横帯がある。南日本の磯魚で、夏に美味。シマダイ。」とあるが、この四〇センチメートルというのは成魚の平均のサイズだろうか、それとも成魚の最低のサイズなのだろうか。
     もし、平均だとすると、いかにも値が小さい感じがする。成魚の一般的な最低サイズとすれば、理解しやすい大きさに思われるが、今度は「七条の黒色横帯がある」とくる。しかし、これは幼魚の時の特徴だから、成魚のサイズの記述の後に体表模様の特徴を続けて記述するのは、説明がいかにも足らぬように思う。
     もっとも、雌は成魚となっても七条の黒色横帯が消えないとも聞くので、これは雌の石鯛の説明なのかもしれない。
     因みに、大辞林第三版では、石鯛の体長は約六〇センチメートルとなっていた。その差、1.5倍だが、こうしたことは仕方ないことなのだろうか。
     まさか逃した魚は大きいということで、こうなったのだろうか。つまり、逃した石鯛と釣れた石鯛の体長を合計してふくれあがった数字だということだ。
     また、これもまさかとは思うが、広辞苑の方は、縞模様が消えかかっている個体や縞模様がほとんど消えている個体の間をとった数字なのだろうか。
     それはともかく、実物を見ずに辞書を引いただけで物事を理解する人々も多いのだから、何とかしてほしい。それを意識して言葉不足を解消すれば、きっと売り上げを伸ばせるに違いない。
    9/14/2007

    変な疑問70「格言レベルになるには」

     ホピ族の言葉に「答えがないのも答えのひとつ」とある。世の中、努力の末に答えが見つかることがほとんどだが、努力の末にあきらめるということもある。この言葉は「あきらめる」という言葉をよく説明している。
     最初から「答えがないのも答えのひとつ」という気持ちがあると、費やすべき労力が甘くなるのが人情というものだ。全て考え尽くし、全て確かめ尽くし、なおかつ運用し尽くした結果、やはり「答えがない」というのなら、確かに答えがないのが明らかになったということで、本当の意味での「あきらめ」ということになる。
     途中で不適切にあきらめることを「あきらめ」というのが日本語の慣わしだから、本当も何もないだろうが、二通りの「あきらめ」があるということは、その分だけ意味が豊かだということもできるが、言葉が足らない、つまり意味の入れ物としての言葉が貧しいということもできそうだ。
     しかし、この貧しさを、言葉を増やすという方向で補うのではなく、漢字で書き分けるというテクニックで補った。実際には、
    明確にすることを「明らめる」、途中で断念することを「諦める」と書き分けている。しかし、常用漢字の中に「諦める」はない。だから、標準的な表記を心がけるために、常用漢字に従おうとすると、「明らめる」と「あきらめる」という書き分け方になる。これでは前者の「明らめる」を平仮名表記したものと、後者との区別がつかない。文脈で判断できるというかもしれないが、状況を言葉以外の情報から判断できる会話ならともかく、短い文章では判断しづらい場合もある。
     しかし
    、こうした不都合も、意味の深みを演出したり、ある効果を期待しての言葉の用い方をしたりするのなら有効なものとなる。
     さて、「答えがない」という意味に二通りある。「答えがひとつに定まらない」という意味と、本当に「ひとつも答えがない」という意味だ。計算で言うと、「不定」と「不能」だ。 
     こうなると、問題が悪かったということも考えないといけない。問題に対しては、その問題自体は正しいという思い込みをどうしても持ってしまいがちだ。テスト問題はそういう思い込みをしなければならないので、若い大人の場合は、そういう傾向を自分のなかに作り上げてきてしまったあとに、問題が必ず適切ではないぞという疑いを持たねばならないという修正がまだなされていない可能性が高い。
     テストの問題ならいくらひっかけ問題であっても、根本的には良心的だ。しかし、実際の世の中では、意図的であるかないかは別として、結果として人々を混乱させたり、要らぬ苦労をさせる問題が多いようにも感じる。これを誰も疑わねば平和だということもできるが、そうも言っていられない場合もあるだろう。
     
    また、ラムビー族の言葉に「知識ではなく、知恵を求めよ。知識は過去の産物だが、知恵は未来をもたらす。」とある。
     この言葉が生まれて、さらに格言レベルになった背景を知りたく思う。
    9/11/2007

    心の断片105「ちょっぴり変わる」

    「ちょっぴり変わる」

    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    小さな頃は
    大人だけが考える
    難しいものだと思っていたよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    未熟な計画で目的地も分からず
    ひたすらに突っ走っていく
    片道切符の旅だったよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    面倒なことも
    恐ろしいことも
    全て語りぐさとなったよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    笑っても一生 泣いても一生
    気持ちの持ち方次第で変わる
    適当なものだったよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    傷つけられる前に傷つけ
    捨てられる前に捨て
    それで安心なんかしたくなかったよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    成し遂げたことを命で割った
    計算式だったよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    あこがれ いつくしみ
    手に入れ 育てる
    そうした美しい罪滅ぼしだったよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    言葉を交わし
    心を通わせ
    夢を見ることだったよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    なんとなく生まれ
    名残惜しんで死んでいく
    それ以外は意外と面白いものだったよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    たくさんのやりたいこと
    たくさんのやりたくないこと
    どちらも勢いに任せて選ぶことだったよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもいなかったよ
    寂しさに物を集め 人を集め
    結局 同じ者同士だったと
    無意味に安心することだったよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    人に尽くし
    人を幸せにし
    それで満足できるものだったよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    どこもかしこも仕事とお手伝いの
    二重の支え合い構造だったよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    知らぬが仏 知って地獄
    どちらでも平気でさえいればよかったよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    折り返しの人生と言うけれど
    マラソンより 短距離走
    ダッシュの連続だったよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    愚かな自分をしかり
    弱い自分を鼓舞し
    行けるところまで行くことだったよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    汚れなき名を残し 心に残る言葉を残す
    強き子を残し 若干の財産を残す
    こうした当たり前のことに命を捧げることだったよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    現実優先ゆえの
    夢語る特権があったよ
    人生がこんなだなんて
    思ってもみなかったよ
    何があってもさわやかに
    何がなくともさわやかに
    それだけで素敵なことだったよ
    人生がこんなだなんて
    途中でやっと気づいたよ
    気づいても
    さあ それで明日が変わることはないけれど
    でも やっぱり人生は ほんのちょっぴり変わりそうだよ


    9/8/2007

    日々雑感209「再評価」

     歩き始めたらたどりつかないと歩いたという満足感が得られないのはなぜだろう。考えはじめたら結論が出ないと考えたという満足感が得られないのはなぜだろう。
     満足感というものは行動を完了させるために作られた仕組みなのか。同じことをしてもある人は満足し、ある人は満足しない。満足しない人はもっと別のことを頭に描いているので、同じことをして満足しているとは別の世界に住んでいると言ってよいだろう。それが言い過ぎであるならば、そこで行動を完了せずに新たなステップを踏んでいきながら、別の世界を創っていく人だとでも言えばよいだろうか。
     達成感を得て、満足すると、今度は満足するために行動するという本末転倒が始まる。本当は必要があって行動したのに、今度は満足するためにも行動するということになっていく。それはそれでよい。しかし、いずれは満足のためだけに行動するということも起こってくる。
     しかし、こうした行動が社会的に認められる範囲にある間は、本末転倒とは評価されない。この範囲を超えたとき、自己満足にすぎないと評価されることになる。
     マイナスの評価であるようにも思われるが、この「自己満足にすぎない」という行動は、本人にとってはマイナスであっても、実は非常に重要なものであるように思う。
     その時点での社会的評価などというものは、その時点では絶大な価値を持っていて、それに逆らわないようにびくびくしながら生きている人々が多い。つまり、とらわれの人生だ。また、その意味をよく理解できなかったり、評価を受け止める感度が低いために評価とは無関係に生きている人々もいる。滑稽なのは、あえてみんなとは逆の方向に向かう人々で、それは二重にとらわれている人生をおくっていることになる。
     少し思いをめぐらせてみるだけで、社会から受ける評価というものが、いかに行動のブレーキになっているかが分かる。このブレーキは必要なブレーキだから、外してはならないが、ブレーキをかけられることを恐れる意味はない。ただし、ブレーキをかけられたことによって個人的な人生が不幸なものになる可能性はある。それは、ブレーキをかけられないようにびくびくしながら生きているのや、評価に対する理解や感度が足りなかったり、背を向けていたりする生き方と同じぐらいあるように感じられる。
     自己満足にすぎないという評価を得て、捨てられてきたものを、集めて再評価する必要がある。それは次の世界、そして次の次の世界のために、直接に、または間接的に役立つかどうかということで、今の社会にとっての価値などは問わない方がよい。
     人と行動と成果とは別々に評価しなければ、手詰まり、手遅れとなることが多くなってくる。自ら砕けたり、漏れたり、マイナスのレッテルを貼られたりして、
    日の目を見ずに埋もれたものを発掘し、都合よく使わねばならないと思う。必要に応じて換骨奪胎すればよい。
     
    こうしたものと枠のなかに留まって窮屈になっている世界とをつなぐコーディネーターの役割を果たす人がもっとたくさんいてもよいと思う。過去のものを蘇らせるのは満足のいく仕事だと思うのだが、満足だけでは食べていけないということがあるのかもしれない。
    9/7/2007

    心の断片104「引き出しの時計」

     ひたすらに一つの時を練り上げる無数の時計たち。彼らなきところ、取り決めも幻想の結実もなく、ただそれぞれにそれぞれが滅びゆくばかりであるのを隠せない。
     強欲な期待と美しい欲望を未来と決め、慚愧と後悔、漢字の勲章ばかりが過去となり、境界狭間の類まれなる現在に、ただ自分はある。
     壊れるものが壊れぬものに心を奪われ、壊れるものが壊れるものに心を寄せる。動かなくなった時計があまりにもいとおしいのは、たぶんそういうことだろう。引き出しの腕時計は、随分と昔からそこにいる。
    9/3/2007

    突然思い出したこと101「まだはもう」

     あと1500グラム体重を減らそう。この夏で平均300グラム減ったので、およそ半年後には達成できそうだ。
     食事後、排便後、体重計の値が変動するが、体重が変動したわけではない。
     食べ物が、体の中に入ったり、体の中から出たりするが、体の中とはいえ、体がつくる空洞に入ったり、そこから出たりしているのだから、体の中自体に入っているとは言い難い。もちろん吸収されるものもたくさんあるが、太ったという以外には、そんな自覚はない。
     そんな食べ物も、食べたが最後、一蓮托生。体重と相成る。素通りするものも肉体の一部と見なされるのはどうにも不合理のように思われる。オートバイの場合は、ガソリン等を入れた車重と、抜いた車重を表記するではないか。人間も同じように最大体重と最低体重の両方を記録するのがよいと思う。
     あと1000グラムか2000グラム増えると、めでたく軽い肥満という領域に達するのが恐怖だ。軽かろうが、重かろうが、肥満という言葉がつくのは嫌なのだ。
     そうなる前に、あと1500グラム体重を減らしておこうと思う。まだいいは、もうおそいのだ。こんなことを考えているうちに、「もうはまだ。まだはもう。」という言葉を突然思い出した。
     単純なもの言いなので、深く味わえる。単純な味付けで深い味わいを出すのは、相当の経験を積まねばできないことだが、単純なものの言いで、かつ味わい深いものを、意外と突発的に思いつくことがある。
     ただし、いつもいろいろなことを心がけていないと、そうそう自動的に突発的に思いついてくれるものではない。何よりまして心がけというのは大切にしたいものだ。
     人から心がけるように言われたものについては、なかなか心がけることができない。だから、何度も復唱する必要がある。それに対して、自分で懲りた結果、心がけるようにしたものは、忘れない。
     懲りる経験というものを幼い頃から奪う現代社会は、ある意味で不幸な人間を大量生産している。多くの人は多少なりとも気づいてはいる。しかし、本当には気づいていないように思われてならない。恥の二度塗りならぬ、不幸の二度塗りとならないよういにと願うばかりだ。
     ともかく、もっとも懲りてほしい人物はなかなかに懲りない。そういう感性を持ち合わせていないのだ。どのようにしたら、そうした鉄面皮になるのだろう。最初からではあるまい。素質もあろうが、そのように成長したきちんとしたプロセスもあるはずなのだ。
     どんな刺激をどう受けてきたのか。それとも、受けてこなかったのか。非常に興味深いので、嫌いではないタイプかもしれない。
    9/2/2007

    突然思い出したこと100「冷眼冷心」

     「冷眼冷心」という言葉を突然思い出した。出典を探すのだが、なかなか見つからない。ネットで検索しても、中国人のホームページしか探してこない。中国語の基礎は学習したことがあるけれど、そんな言葉は習った覚えはない。さて、どこで読んだのだろう。いろいろなことを忘れてしまうのだが、やはりお年頃なのだろう。
     「冷眼」というのは辞書にあった。「冷ややかな目。冷静な目。」ということだが、双方、意味がかけ離れている。だが、どちらにしても、これとは別に通常の目を持っているという前提があるという点では共通している。
     広辞苑第四版、大辞林第三版の両方に「冷眼」が載っているのに対して、「冷心」は載っていない。旺文社の漢和中辞典では、「ひややかな目つき。情のない目つき。老人の目つき」とある。しかし、やはり用例33単語の中に「冷心」はない。日本では、一般的な言葉ではないのだろうか。見たこともない二字熟語が並ぶ漢和辞典のなかにないというのはどうしてだろう。「冷」も「心」も文字が簡単すぎるからだろうか。
      しかし、この「老人の目つき」とは面白い。「冷眼尚堪看細字」という使い方なのだから、目つきというよりも「衰えた老人の目」つまり老眼ということなのだ ろうと思うのだが、間違いだろうか。若者のようにきらきらと輝く燃えた目ではなく、落ち着いて冷たく光る目ということか。それともぼけて光の鈍った死んだ 目ということだろうか。
     もしかすると、自作の四字熟語なのだろうか。手持ちの日本実業出版社の「四字熟語の辞典」にも載っていない。もっとも、 300ページ足らずの本なので、無理もない。もしかすると、「冷眼視」という言葉を聞き違えて覚えていたのかもしれないが、聞き間違えもほどほどにしてほ しいと言われそうな聞き違いだ。
     どうでもよいことだ。結局は、「冷静に見つめて、冷静に考えよ。」ということだろう。これを「冷たい目で見て、 冷たい心で接する。」という受け取りにすると、悲しくなる。しかし、心配はない。こうした人間が増えてくるとそれが常識となり、後者のような意味での「冷 眼冷心」という受け取りが次第になされなくなるはずだ。当然のことだから、敢えて表現する必要がないのだ。逆に前者のようにとらえる人が増えてくると思う がどうだろう。
     後者の意味の冷眼冷心が当然の態度である社会は、「冷静に考えたら、温情を持って接しなければならない。」という考え方が重要な 考え方になっている状況を迎えている可能性が高い。すると、どうだ。そこでは、「冷眼冷心」は温かい目で見て、温かい心で接するということを意味するよう になってしまう。同じ文字でも反対の意味を持つ文字としてテストに引っかけ問題として出題されるかもしれない。
     未来の引っかけ問題に利用されないように、「冷眼冷心」という四字熟語は封印することにしよう。


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    日々雑感208「馬上の人」

     世の中には見つけにくいものと見つけやすいものとがある。見つけにくいものは努力しないと見つからない。しかし、ひたすら探す努力では効率が悪い。頭の中に色や形や模様が思い浮かべられるかどうかも大事だが、どうして見つけにくくなっているかを想像することも大事だ。
      いつも見つけにくいものはどうして見つけにくいのだろう。見当違いの場所を探していたり、頭に描いていた色や形と違っていたり、色や形が似ている物がたく さん近くにあったり、大きさが小さかったり、他のものにまじったり、陰になって見えなくなっていたりといろいろだ。本当は見つけたくないという心理が物を 見えなくさせている可能性もある。
     まず、持ち物をよく探すタイプの人は、生活の場を単純に整理整頓するだけでなく、関係づけをする必要がある。 しなくてはならない。裁縫箱、工具箱は自然にそれができるようにつくられている。格納するのが目的の箱と取り出しやすさを目的とした箱とでは自ずと造りが 違ってくる。道具箱を開くと中に入れた物が一覧できて取り出しやすいように展開する造りのもので、仕切り位置を自分で決められる物が便利だということにな る。また、箱自体が透明か半透明であれば、蓋を開ける以前に格納場所の見当をつけることができる。さらに、箱の一部に色を付けたり、ラベル表示できるス ペースがあれば、色別の分類や内容の確認ができるので、発見しやすくなる。整理棚があれば整理棚に分類してこれらの整理箱を置くようにすれば、図書館で本 を探すのと同じ要領で早く物を探すことができる。
     ただし、いつも身の回りに置いておく必要があるものについては、いちいち格納する方が手間がか かるので、整理箱と整理棚は使えない。こうした種類の物を探すのは、身の回りにあるはずなので、本来は発見しやすいのだが、それでも発見しにくい場合があ る。これは、思い込みが原因となる。ここにあるはずだという思い込み。こんな形をしているはずだという思い込み。
     まずいことに同じ大きさの整理 箱が膨大に並んでいるときは、いくら分類されていても発見しにくい。箱の大きさや種類が同じであればあるほど発見しにくい。整理箱の形や大きさに特徴があ れば発見しやすいのだが、それでは整理棚に組み込みにくい。実際には整理する物にはいろいろな形や大きさがあるので、箱の大きさも違ってくる。だから、い ろいろな形の整理箱を木組みパズルのようにはめ込めば、合理的に収まるのだが、それはそれで組み替えが困難になる。整理箱の数も位置も時とともに変化する からだ。
     このように、木組みパズルのようにはめ込むと、特殊な収め方になってしまい、一般的な分類ができなくなるという不利益もある。知る人ぞ知る整理の仕方ということで、自宅ならば問題ないが、公的な整理の仕方ではなくなる。
      しかし、どんな形の箱に入れて、どんな整理棚への詰め込み方をしても、一つ一つの所在地が分かっていさえすれば、問題は起こらない。ただし、コンピュータ 検索する必要がある。そのための入力も必要だ。探す物の名前を入力すれば、整理棚の位置と整理箱の位置が特定されるので、分類する必要がなくなる。
      次に、誰も見つけたことのない物を探そうとするタイプの人は、想像力豊かな人でないといけない。想像力が豊かでない場合は、想像力を仕入れたらよい。突飛 な発想を与えてくれる夢を記録するのがよいかもしれないが、記録しようとするときには忘れてしまう。枕元のメモ用紙が必要だ。
     昔から「馬上、枕上、厠上」と言われる。アイデアが浮かぶ場所だ。しかし、三種類の場所は、それぞれ異なる環境なので、アイデアの種類も異なるかもしれない。
     いろいろなアイデアはいろいろな基本的な物の組み合わせによって生まれることが多い。それを頭の中でやるのだから、頭の中の整理棚と整理箱がどうあれば よいのかは決まってくる。いろいろな形の整理箱に入れておくと、木組みパズルのような詰め込み方になって特殊な状況をつくってしまう。これは整理箱同士が 互いに関係し合っているので、位置を変化させにくい頑固な整理状況だ。しかも、組み合わせが極端に少ない。

     それに対して、共通の形で統一した整理箱にすれば、どのようにでも組み上げられる。目が覚 めていて一つの意識でいる間は、その力で整理箱が都合のよいように組み上がっている。しかし、夢の中ではその緊張から解かれ、いろいろな意識が浮上してく る。それに従って整理箱が自由に組み変わり、新しい発想や無駄な発想を生み出していくようにイメージできる。
     どうすれば同じような大きさ、同じような形の整理箱で整理棚を美しく自由に埋めていくことができるのだろうか。これは幅広い学習を青少年時代に行うしか ないだろうと思う。一点集中の関心をもつのは、そうした学習の後の段階でなければ、用をなさない。たとえ最初は空っぽでもいいから、取り敢えず整理箱だけ でも用意しておこうという好奇心、空っぽの整理箱に少しでも詰めておく物を増やそうという向学心。これらによる地道な努力こそが自由な発想を保障するので はないかと思う。
     さて、「馬上」ではどのようなアイデアが生まれるのだろう。馬に乗る人は今は限られているが、馬に乗っていて本当にアイデアが生まれるのだろうか。乗馬 初心者は乗るだけで精一杯、落馬の危険さえあるので、おちおちと何かを考えるということなどできないはずだ。上級者ではどうだろう。乗馬を楽しむというこ とはできても、それは僕たちが自動車を無意識にコントロールして運転するのと同じで、楽しくはあってもアイデアを得るというレベルではないだろうと思う。 馬を走らすのではなく、歩かせるというのなら話は少し分かるが、それなら馬上ではなく、散歩でもよかったはずだ。敢えて馬上としたのには何か訳があるので はないかと思う。
     馬に乗るということはどういうことだろうか。散歩と違って目の位置が高い。散歩よりも体を動かす必要がなく、揺られている。また、散歩と違ってリズミカ ルな蹄鉄の音が聞こえる。音楽を聴きながらロッキングチェアーでくつろいでいるのに似ているが、最も異なるのは、景色がこちらに向かってきていろいろな情 報が目に入ったり、耳に入ったりするということだ。
     通りすがりの人々のお話が断片的に聞こえてくる。全く関係のないおしゃべりの一部分をたくさん頭の中に仕入れて同居させることになる。一つの整理箱で交 じったり、混じったりした結果、何かが突如生まれることがある。あるいは別々の整理箱に入れられて、それらが引き合って一つのものになったときには、箱と 一緒に他のものも引き寄せられてくる。こうして、あたらな発想が誕生する可能性がある。
     自分の足で歩いているときよりも同じ時間なら情報量は多くなる。しかし、走らせると情報は目だけからのものになっていく。速ければ速いほど視界は狭くな り、しかも走るためだけの情報しか選択しなくなる。やはり、人の声が聞き取れる速度で歩く馬の上だと考えるのがよいように思う。
     これには聞き違え効果と切り取り効果が期待できる。たとえば、「昔、鉄棒する猫というコマーシャルがあったね」というおしゃべりしている横を通り過ぎな がら馬上で聴いたとき、「絶望する猫」だけが聞こえる可能性がある。馬がときどき鼻を鳴らすだけでなく、蹄鉄の音がカツカツとうるさいので、無理もない。
     そこで、「絶望する猫」とは何だろうという話になる。「気ままに見える猫は果たして絶望するのだろうか。」
    「猫が絶望するとしたら何に対してか。」「絶 望した猫はどうするのだろうか。」「猫にはどのような希望があるのか。」「絶望した猫に対して人間はどう責任を取るのか」というように、いくつもの雑念が わき上がる。こうしたもの中から、現実の問題に関係ありそうなものが次第に絞られ、はっとひらめくものがあれば、それは発想を得たといってもよいのではな いだろうか。
     馬上では目の位置が高いので、普段とは物の見え方が違う。見下ろす角度と見上げる角度が違ってくる。また、広い視野を得ることができる。それは、高い建 物や山の上から見るときよりも身近なものを残しつつ、別世界の視線をもつことだ。少しだけ客観的に物が見える効果が期待できるということだ。
     今まで見たことのないものをのぞけたり、地上にいる人たちが、地上にいることによる情報不足によって不合理な動きをすることを目の当たりにする。この観 察力による発想、たとえば「こうしたことがあるから、こうしたらどうか。」「こんなことをしていていいのだろうか。」などという思いが増えるのではないだ ろうか。
     これは大人と小さな子どもの関係に似ている。大人が馬上の人で、子どもが地上の人だ。目の高さが違うので、見え方が違う。見えるものが違う。こうしたことから、大人
    が子どもに対してもつ思いが、発想の違いに表れる可能性もあると想像するがどうだろうか。
     馬上で領地の様子を見回るお代官様。どのように世話をしていってやろうかと思う人と、どのように手玉に取ってやろうと思う人がいたはずだ。おそらく悪代 官の馬の歩く速度は少し早めなのではないかと思う。現代では警察官が馬上にいる都市がある。彼らはどのような速度で馬を歩ませているのだろうか。
     また、馬にまたがるということで、楽は楽だが、腰と足でバランスを取らねばならない。これは頭に刺激を常に与えることになるだろう。これは徒歩のような単調な刺激ではない。右半身左半身を上手に使わないとバランスはとれないので、
    右脳、左脳の両方に単調ではない刺激を与えることになるはずだ。テーマさえ持っていれば、右脳、左脳の協働によって具合のよいひらめきが得られる可能性があるのかもしれない。
     馬に乗るという高揚感、乗る前の視界とは別の特別な感覚などによって、前向きな発想も得られるかもしれない。地上では無意識のうちに封印していたものが解き放たれるということだ。
     では、「枕上」から生まれるアイデアはどのようなものだろう。
     枕上といっても三通りある。
     まず、寝入りどきの枕上。一日を振り返り、明日をどうしようと思いをめぐらすときだ。暗い部屋で目に映るかすかな物影も見慣れた日常の景色だ。これは随分と馬上とは異なる。体も横たわっていて、いたって安楽だ。刺激のすくない環境の中で、
    一点にこだわり、研ぎ澄まされていくものがある。今日という一日を整理していく過程で発見したことがピックアップされていく。あれはこうしよう、これはああしようと作戦を立てる。いろいろなものが頭に浮かんでは消え、浮かんでは消える。その中で有効なものをメモして、明日はこうするぞと心に決める。 
     次に、就寝中の枕上。夢で目が覚める。受検勉強の時三日も四日も解けなかった数学の問題が夢の中で実際に解けたことが何度かある。これは寝ていても寝ていない部分があって一生懸命に考えていたに違いない。これは就寝中ということもあって何の邪魔も入らない。自分自身の雑念や妄念もカットされた純粋な状態が実現されているかのようだ。
     枕草子という作品があるが、枕元に置いて思いついたことをメモしたものを文章にまとめた作品という意味なのか、枕をしながら読むような就寝前読書に適した作品という意味なのか、それとも昼寝をするときの枕にでもしてもいい気軽な作品という意味なのか。
     マクロの草子と考えてみると、いろいろな事柄を書き尽くしていくことを通して、宮廷生活をマクロにとらえようとしたということになる。真暗(黒)草子の草子と考えてみると、表紙の色が黒かったということになる。表紙が黒いということは何を意味するのだろう。表紙ではなく、紙面かもしれない。思いつくまま次々に書いたので、後で推敲したら、真っ黒になるほどだったということに因んだと想像すると面白い。
     夢でひらめくことは確かに多い。数学の解法がひらめくのは学生だけだ。一般人は種々雑多なことをひらめく。しかし、翌朝メモを見ると、かなり色あせたひらめきであることに気づきがっかりすることもある。所詮夢だからなということになるが、それは結局のところ自分の能力を表している。
     目覚めているときには、常識的な感覚に妨害されて関連づけられなかったものが、夢の中では関連し、融合し、新たな展開が始まる。これは頭の中の整理箱が本来の大きさにもどって同じような大きさとなり、どのようにでもずれ動いて組みかえられるようなイメージだ。目が覚めているときには、整理箱が文化や経験や興味の力でそれぞれに変形し、それぞれ異なる大きさや形に変形しているというイメージ。興味ある分野であればあるほど箱は大きく、形もいろいろな側面をもつというイメージ。
     睡眠中も、夢を見る種類の睡眠と、そうでない睡眠があると一般的に言われているが、その交互に変わる睡眠が、ひらめきには有効に働くのではないかと想像する。
     これまで経験したことや考えたこと感じたことなどが、ないまぜになる状態から、そのなかで曲がりなりにも筋の通りそうなものがアイデアとして認識されて印象に残るという運びだ。それが記憶
    されて言葉として語られたときに本当のアイデアに成長するように感じられる。
     最後に、寝覚めの枕上。これは夢でのひらめきもうろ覚えの状態だ。すっきりした目覚めかずっしりした目覚めかは別として、少なくとも自分の場合はアイデアのひらめきはない。すぐに一日の始まりの決まった作業の支度が始まり、ひらめく余裕がないように思う。
     さて、「厠上」では、どのようなアイデアが生まれるのだろう。これは「馬上」「枕上」と次第に孤独になっていった先にある究極の場所だ。通常は完全個室。完全に目覚めているのに、完全に一人だ。和式では足がしびれるが、洋式ではかなりの時間は過ごせる。
     用を足した後はすっきりする。これが大事なのかもしれない。用を足す前は、我慢していたり、いらいらしていることが多い。その後のすっきり感がもたらすものは何か。空っぽになった感じはリセットされた感覚をもたらす。さて、次はこれをしようという意欲もわく。一つのことに区切りがついたときに用を足すことがほとんどだと思うので、当然かもしれないが、そうした精神的なリセット感と、用を足した後の肉体的なリセット感がアイデアのわく土台となっているのかもしれない。
     心の引っかかり、気になること、これを受けてこれをすると言うような緊張感などは、アイデアが飛び出さないように蓋をしているように思う。不適切なタイミングでアイデアが飛び出すのは不都合があるとうことだ。既に出そうなアイデアがたまっていたら、それはトイレで生まれる可能性が高いのではないだろうか。もちろん馬上、枕上でも生まれるだろう。馬上では他のアイデアにかき消されやすいものも、厠では大丈夫だ。枕上では過大評価しやすく、そして忘れやすく、文字どおり夢のようなアイデアも、厠では現実の裏付けを瞬時にして有効なアイデアに仕立て上げられる可能性が高い。
     排泄物の刺激臭も脳の活性化につながる可能性がある。今と違って水洗トイレではなく、消臭剤もないのだから、蓄積された臭いは脳に刺激を与えるはずだ。強烈な臭いではなく、ほどよい刺激臭なら効果があるかもしれない。
     世の中の見つけにくいものは、いろいろな方法で見つけられている。試行錯誤もあればひらめきもある。論理的に考え、予想したり、予測したりして見つける場合もある。「青い鳥」ではないけれど、結局身近に答えがあるという場合も多い。灯台もと暗し、無関係と思われそうなところ、人が手をつけてないところに、何かがいっぱい転がっているような気がしてならない。
     「馬上」は経験しづらい。それに代わるものはないだろうか。トラックは座席が高いけれど、これも経験しづらい。やせる機械で乗馬タイプのものがいくつか出ているが、残念ながら視線が低かったり、屋外には出られなかったりと、不都合が多い。オートバイはどうだろうか。やや視線は高いものの、スピードが速かったり、排気音が大きすぎて、人の声をかき消してしまったりと、これも不都合が多い。
     現代はアイデアを出す方法の一つを失ってしまっている。左脳を働かせて地道にがんばるストレス社会は、アイデアの価値が高いかもしれない。昔、遊ぶのが仕事という社員が存在した。彼らは遊んでいるのだが、仕事をしている同僚を別の角度から見て、不合理な点を指摘したり、外で遊んでいるうちに会社のためになることをひらめいたりするのだ。
     全員が仕事に没頭していると見えない部分が出てくる。管理職は全体を見ていなくてはいけないが、管理職の都市になると頭も固くなり、経験だけで物を言う可能性が高くなる。こうなると、徒労を重ねて倒産に至ることもあるだろう。ついに馬を飼わねばならないのか。しかし、会社には共同トイレという便利なものがある。この共同トイレ、特に男子小便トイレは意外な情報を得て、アイデアをつかむこともあるはずだ。女子トイレなら鏡の前で化粧を整えるときに、他人の情報からアイデアをつかむこともあろう。
     こうなると、スペースというものが重要な働きをしていると認識していない場合には、建物の設計段階、組織の運営段階で、大きな損失を生み出す可能性すら出てくる。
     要は、探しにくいものは探しやすいようにしておけばよいという簡単な話だ。ところで、どんな馬を見つけて馬上の人となるか。こんな時代に馬探しをするというのも面白そうだ。