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29-09-2008 変な疑問95「ブランク」 「行間を読む」という言葉がある。いくら行間を眺めていても、何も読めない。文字に表現されていない部分を読むということなのだが、それなら、「字間を読む」という方が詳細に読み取るという心意気が感じられる。 どうしても「行間を読む」という表現が好みならば、細やかな心の動きや微妙なニュアンスをつかむという意味では、造語だが「字間を読む」「語間を読む」「文間を読む」などという言葉を使い、どうしても表現できない内容や敢えて表現しない内容を掘り出してつかむという意味では、「行間を読む」という言葉を使い、両者の役割を明確に区別すればよい。 残すということがある。「行間を読む」という努力をするのは、わざと書き残した部分に読者を誘い込む作戦が功を奏したからだと解釈することができる。文章の結末を読者に預ける場合には、結末を残したということになるが、その場合には「行間」という言葉が不適切になる。 発端の前を書かないのは普通のことだから、その場合には書き残したとは言わない。書き残したとは言わないが、そのブランクに読者は誘い込まれることになる。ここを如何に書かないかによって登場人物が魅力的な存在になるかどうかが決まるように思う。 毛筆で字を書く場合には、どうしても墨で塗られていく線の形に目がいくが、残す部分をどうするかという問題を処理しなくてはならない。筆の跡は勢いや筆圧から、書く者の息づかいを感じ取り、そこから心に触れることができる。 毛筆で字を書くということは文字をデザインするということだ。問題は、そのデザインが何によってなされているかが書き手にどの程度自覚されているか、そしてどの程度自覚されていないかだ。互いに占める割合によって文字の風格の度合い、書き手の人間性の滲み出方、そして作品の神秘性の漂い方が決まる。 紙が白ければ、白いブランクをどう残すか、紙に色がついていれば、白いブランクの残し方とどのように変えればよいのか、模様があれば、その模様をどう残すか。問題はさまざまにある。 絵画も同じだろう。何を画面に描き、何を描かないのかの両方を考えなければ、画面を構成できないはずだ。 また、作品自体も画面が四角であることにも注目しなければならない。飾るのが四角い壁だからだろうか。逆に四角の壁に描いていたものを縮小したからだろうか。それとも、保管しやすいからだろうか。曲がった線の額縁よりも四角い額縁の方が作りやすく安価にできるからだろうか。 これは画面を四角に切り取り、それ以外の世界をブランクにしたのと同じだ。 対話する場合、沈黙をどこにどのように組み込むかで話の流れや深まり方が変わっていく。沈黙は「行間」というより、「語間」「文間」に相当する。話し手の沈黙が相手の発言を促す場合も多い。単に聞き手の発言を促すだけでなく、譲歩を促したり、逆につけ込んでくる機会を与えることにもなる。譲歩を促せば御の字だ。うまくつけ込ませれば、それに乗じることもできるから、計算された沈黙は会話の妙となる。表現された言葉を解釈し、沈黙を解釈して、初めて解釈が完了する。 こうしたブランクの問題は、どこにでもあるように思うが、白紙答案、選挙の棄権(白紙投票)、国会での申し合わせ欠席、自殺などはどうなのだろう。何をそこから読み取り、どんな価値を与えていけばできるだけ多くの人々にとって都合のよいことになるのだろうか。 ★ホームページに戻る 恐怖シリーズ123「知らぬが仏パワー」 「知らぬが仏」状態も恐怖だが、「知らぬが仏」パワーはさらに恐怖の度合いが大きい。後者は事情や自分や相手の立場を知らないことをいいことに、結果として傍若無人の振る舞いをするからだ。これは本人が自覚していないだけに周囲が感じている恐ろしさが倍増する。 しかも、本人に今さら知らせるわけにはいかないという局面を迎えている場合もある。こうなると自分で気づくしか破局を避ける道はない。しかし、自分で気づいたときは既に手遅れの状態になっているはずだ。その時のやぶれかぶれの行動に周囲が巻き込まれることもあり、それが新たな恐怖となる。 ただ、「知らぬが仏」状態にあると周囲に思わせておいて、縦横無尽に行動するという手もある。これは一つの行動力だ。これを称して、<意図的「知らぬが仏」パワー>とするなら、冒頭に挙げた「知らぬが仏」パワーは、<真性「知らぬが仏」パワー>としなくては区別がつかなくなる。 <意図的「知らぬが仏」パワー>はたちが悪いが、コントロールが効いているので、恐怖感はなく、嫌悪感だけを感じる。<真性「知らぬが仏」パワー>に対しては、恐怖感と憐憫の情を抱くことになる。実際には、両者が交じったパワーが炸裂するのが普通だ。 つまり、あの人は「パワー」があるというとき、その側にどのようなブレーンたちがいて、どの程度パワーの質を高めているかを確かめなくてはならないということだ。もしかすると、限りなく<真性「知らぬが仏」パワー>の割合が大きな人かもしれない。その場合、「君子危うきに近寄らず」を決め込むのが身のためだろう。 28-09-2008 日々雑感237「ドライアイと友達になる」ドライアイという症状は非常に不快感がある。目薬を差せばその時ばかりは快適になる。だが、結局は対症療法なのだろうと思う。全くらちがあかない。防腐剤入りの目薬はやはり避けたい。それに目薬は使い終わる前に期限が切れるか、どこかへいってしまう。 鼻涙管を小型モーターで絞ったり緩めたりして眼球上の涙量のコントロールができれば、涙目状態にできるかもしれない。そうすればドライアイの症状を軽減できるはずだ。でも、腐っても生命体。そんなことをすれば別の支障が起こるに違いない。ドライアイと友達になる方法を見つけなくてはならないということだ。何とかならないものか。例によって、十種類の方法を捻出しよう。 ①目を閉じる 目を開けている間はとにかく乾燥していく。だから、目を閉じるのはその場しのぎだ。そのうえ、車の運転中には目を閉じることなどできない。しかし、夜の信号待ちなどでは可能かもしれない。前の車のブレーキランプが瞼ごしに明るく感じられるから、前の車のブレーキランプが暗くなったのを感じてから目を開けて発車させればよい。もちろん、先頭に停車しては駄目だ。ただし、疲れているときには危ない。そのまま寝てしまい、追突事故をおこす可能性がある。 従って、片目ずつ行うという極めて不自然な方法をとらねばならぬ。しかし、これなら夜でも昼でも構わない。また、片目なので、夜の対向車のライトで目がくらむこともない。ただ、片目では遠近感がつかみにくいので、車の運転中であれば、停車時に限って行うのがよい。 これを授業中にやれば、先生に笑われる。客商売でやれば、誤解を与えたり、無気味に思われたりして客足を失う。片目だけ無理に開けている状態というのは、かなり奇妙な印象を相手に与えることを忘れてはいけない。 では、TPOに配慮すればよいのか。社会的にはもちろんそうだが、肉体的に片目ずつ目を閉じているというのは、自分自身が不自然な筋肉の使い方をすることになるので、相手を意識したTPOだけの問題ではなくなる。 まず、不自然な表情によって、顔にしわが寄りやすくなるという美容上の問題が生じる。もっとも、顔面の筋肉が鍛えられるから、顔の表情が豊かになるという利点はある。豊かな表情は人間的な魅力に関係が深いから、捨てがたいトレーニングだという了解をしておこう。 ところで、片目ずつで人の顔を見れば、遠近感がとらえにくく、凹凸があっても平面的に感じられる。これを利用して、彫りの深い顔立ちが多い西洋人を正面から片目で見ることにする。斜めから見たり、横から見たのでは台無しだ。すると、やはり平面的に見えるので、東洋人にありがちな平面的なつくりの顔に近くなる。同時に、顔が平面的な東洋人を見るときには両目で見る。少しでも立体的に見えるようにやや斜めから見るように心がければなおよい。すると、感覚の歩み寄りで顔の凹凸由来の刺激が平均化されていく。 こうすれば、立体的な顔の構造物によって攻撃的な印象をもってしまい、それが外国人アレルギーの一因となっている人にとっては役に立つかもしれない。 もちろん、背の高さに圧倒されることが外国人アレルギーの一因となっている人もいるだろう。その場合には、畳の座敷に誘い込んで座らせるという手がある。正座に慣れないでしょうからと胡座や横座りを勧めれば、足の長さがノーカウントになるうえに、背骨が湾曲するので、その分だけさらに座高が低くなる。こちらは正座をして背筋をぴんと伸ばせば、何とか目の位置を同じぐらいにすることがなるだろう。 いずれにしても、片目で交互に見つめるのは、たとえ相手が外国人であろうと日本人であろうと、人間として不自然な行動だ。大きめのサングラスをかけ、片目を閉じていることを相手に隠さねば失礼というものだろう。失礼であるばかりか、周囲の人々にきっと怪しい印象を与えてしまう。実際には、片目交互凝視がばれなくても、大きなサングラスをかけている段階で既に怪しい印象を与えてしまっているから、あまりよい方法ではない。 もっとも、できるだけ多くの人が同じように大きなサングラスで目を隠すようになれば、片目で見つめる行動もあまり大きな問題にはならないはずだ。どの日本人も同じサングラスをかけていれば、少なくとも外国人観光客はこれが日本の習俗だという了解をしてくれるだろう。もしかすると、同じサングラスをおみやげもの屋で購入して、片目交互凝視の隠蔽に貢献してくれるかもしれない。 ②悲しいシーンを思い出す 年齢を重ねるとともに涙もろくなるという。年齢の分だけ経験を積み重ねてきたからだ。経験を積んだだけ物事が分かり、人の気持ちも理解できるというわけだ。つまり、感性が磨かれていくということだ。もちろん、それだけが理由で涙もろくなるわけではないが、このように格好よく理解しておきたい。 涙もろいということは、ドライアイに対抗するにはかなり有利なことだ。特に泣けてくる映画のワンシーンを詳細に記憶するとよい。目が乾きそうになったら、そのシーンを思い出すのだ。これで目に潤いがもたらされる。 しかし、人間というものは悲しいもので、こうした涙腺をアタックする悲しい刺激にも次第に慣れていく。感性の鈍磨が部分的、一時的に起こるのはどうにも仕方ないことだ。 そこで、別の映画の泣けるシーンを使ったり、実生活の中での悲しい出来事なども使ったりしなければならない。悲しい刺激が麻痺するのを防ぐための努力を怠ってはならないのだ。また、そのための悲しみだと逆転の発想をすれば、悲しみもコントロールしやすくなるというものだ。 最近は実写化された「テラビシアにかける橋」を見て、少しうるっと涙をにじませることができた。これで一か月はもちそうだ。 味覚は年齢とともに鈍磨すると言うが、こうした感性も、一つの悲しみでドライアイを克服できる日数の変異を記録し、ドライアイの進行具合と比較すれば、鈍磨の度合いを確かめることができるかもしれない。もっとも、どの程度忠実に悲しいシーンを思い出せるかという記憶力やどの程度アレンジして思い出せるかという想像力も関係してくるので、この記録だけでは判断が難しいだろう。 ③水中眼鏡をかける 花粉症で涙や鼻水がいっぱい出てきてしまう人は、ドライアイの辛さ以上のものを味わいながら、それに耐えているのだから、立派なものだ。だが、水中眼鏡をかけて花粉から目や鼻を守るという単純な方法で涙を防げるはずだから、立派だというよりも、水中眼鏡をかけないという心意気を讃える程度が相応だろう。 ドライアイ対策で、目の乾きを防ぐための水中眼鏡の着用というものは誰でも考える。さらに、その水中眼鏡の中に水を入れて着用すれば、絶対に目は乾かない。しかし、長時間にわたって着用すれば、瞬きが必要が無くなり、かえって水中眼鏡無しの空気中の生活に支障を来す可能性がある。 果たして、競泳用の水中眼鏡に水を満たして日常生活で着用している人はどれ程いるだろう。デザインがファッショナブルになれば、日常の小道具として利用する者も出てくるかもしれない。趣味によっては水中眼鏡用の色水を透明から水色や桃色に変えて、サングラスのように使う人も増えてくる可能性がある。 海女さんたちが使うような水中眼鏡にシュノーケルを付け、シュノーケルの先にフィルターを付ければどうだろう。これなら競泳用の水中眼鏡と違って鼻も守れる。シュノーケルにフィルターを付けた分だけ息が苦しくなるが、細かい目でこしとるようなフィルターではなく、花粉自体を吸着するようなタイプにして、空気は無抵抗に出入りできるようにすればよい。ただし、これもファッション的に無理があると見なされる可能性が高いので、自宅用ということになろう。 ④あくびをする 呼吸を少なめにしておけば自然にあくびも出よう。そこまでしなくても、あくびは人から移るので、何とか見つけてあくびを眺める。もし、誰もいなければ、鏡の前で自分であくびの真似をしているうちに、本当にあくびが出て涙で目が潤う。鏡がなければ、あくびをしている人を脳裏に思い浮かべるだけでよいが、想像力の弱い人は効果が薄いので、あくび用の小さな手鏡を持ち歩く必要がある。 デスクワークでは、最近のパソコン画面は鏡のように反射のきついものがあるので、部屋の照明との角度と背景色を工夫して鏡代わりにすればよい。ただ、それでははっきり見えないので、他人もしくは自分のあくび動画を作っておき、パソコン画面に出せばよい。 退屈になればあくびが出るので、退屈になればよいのだが、これは案外難しい。緊張して呼吸が浅くなれば、あくびも出やすくなるから、緊張する場面を生活の中で作る。どういう種類のどの程度の緊張が自分のあくびに合っているかを探しているうちに必ず見つかる。また、訓練次第で、その状況を思い出しているうちにあくびを出せるようになる可能性がある。 緊張のあくびか、退屈のあくびか、ドライアイ対策のあくびか、それとも病気の症状としてのあくびか。これを見極めなくてはならなくなるのが、少々厄介だ。 ⑤風呂に入る 湯煙が立っていれば、心理的にも効果がある。風呂に約三十分入っていたとしよう。起きている時間を約十八時間とすれば、約三%はドライアイの辛さを感じている時間を軽減できる。湯上がりのドライヤーは当然目を閉じて行う。 確かに湯船に浸かっていれば、瞬きはほとんど必要ない。入浴前に湯船の蓋を取って予め浴室の湿度を高めておいたり、頭の部分を残して湯船に蓋をし、できるだけ効果的に目に湿気が集中するようにしたりすることも忘れてはならない。 ⑥ラーメン、うどん、蕎麦、各種スープなどの水蒸気を利用する 湯気が白く見えれば、心理的にも効果がある。これらを必ずメニューに入るようにする。各種スープの中にはもちろん味噌汁が含まれている。会食の人数が多いほど部屋の湿度が上がるから、孤食は避ける。スープは次第に冷めていくから、加熱した石鍋などに入れるとよい。特に石鍋ラーメンなどは旨そうだ。 料理店であれば、料理が出てくる前に、熱いおしぼりを出す店も多いだろうから、それを目に当てればよい。 自宅の部屋では加湿器を利用する。加湿器では能力に限界があるから、ひどいドライアイでは、できるだけ小さい部屋で電気ポットなどで湯を沸かし続ける。部屋中に湯気がたちこめる状態になればかなり楽だ。しかし、天井から水滴が落ちてきたり、紙が湿気ってぶよぶよになったりするから、電気製品をはじめ、いろいろな物が傷む。何事も加減というものが大事だ。 もちろん少しでも風が起きないように工夫し、湿気が飛ばないように細心の注意をはらう必要がある。 ⑦汗を出す 発汗作用のある物質を含ませた料理を増やす。カレーなどは特に発汗するので、体の周りの湿度を上げる効果が期待できる。麺類やスープ類に唐辛子をかけるのもよい。 またそうでなくとも、単に熱いスープを多めに飲めば、体温が上がり、発汗するので、体の周りの湿度が上がる。 こうしたものがなければ、汗の代わりに目の下のまぶた辺りを中心に水で濡らす。そのために海綿やスポンジで専用の小物を作って水分を含ませておけばよい。円筒形の口紅ケースを流用して海綿やスポンジに水を含ませておけば、スマートに塗ることができるだろう。 そうした準備もなければ、水道の蛇口もないということになれば、指に唾を付けて目の下のまぶた辺りを塗るという手もあるが、行為としてはかなり下品だ。仕方ないから手に汗握る緊張感を味わえる行動に出る。 偶然に手に汗握る白熱したスポーツ観戦をしているときにはよいが、仕事中であれば、社内いじめが得意な上司にそれとなく反抗するとか、クレーマーに積極的に先手アタックするのがよいだろう。これによって掌に汗が出るので、さりげなく頬に掌を当てながら、手の体温と手指を利用したダクト効果で湿気を目に導くことができる。ゆっくりと息を吐いてこの流れにのせればさらに効果がありそうだ。 単純に掌をスプーンのようにして、目を覆うという方法もよい。これは片目ずつ行わないと、泣いているのかと勘違いされるので、仕事場では注意が必要だ。 ⑥姿勢に注意する 気持ちうつむき加減にする。肺から湿度を奪って外に出た呼気が顔に沿って上るように、緩やかに息をする。このときにややうつむいていると、目に湿気のある空気が当たる。顎を上げていては呼気に含まれる湿気はほとんど期待できない。 ⑦マスクをする うつむくのが性に合わなければ、マスクをする。眼鏡が曇るということはそれだけ目の方に湿った呼気がいきわたっている証拠だ。ウェットタイプのマスクを開発してもよい。単純に普通のガーゼマスクを水で濡らせばよい。 ⑧目を細くする 二重でぱっちりした円らなまなこでは、乾く表面積が大きいので、一重にする。整形手術をしてもよいかもしれないが、通常と逆の手術なので医者から不審に思われる。近視なら眼鏡を度の低いものに変え、自然と目を細めて物を見るようにする。 ⑨特殊付け睫毛に頼る 睫毛は付け睫毛とする。空気中の湿気を含みやすく、また乾燥時には湿気を放出しやすいように設計したドライアイ専用の睫毛を開発する。毛先で湿気をとらえ、それが毛の根元で放出されるようになっていればよい。ふさふさ睫毛になってしまうかもしれないが、文字や柄をプリントしてファッションにしてしまえば苦にならない。 ⑩瞬きをゆっくりにする 瞬きは、文字どおり瞬間だ。これをゆっくり行えば、目が空気に触れて乾燥する時間を少し短縮できる。 対面しているときにこれをやると、眠いのかと思われ、失礼にあたる。自動車搭乗時はよいけれど、自動車運転中や作業中であれば、事故の原因にもなる。エレベーターやトイレ内では移動しないのが普通なので、好都合の場所だ。 ゆっくり閉じてゆっくり開く方法と、ゆっくり閉じて瞬間(半瞬間?)に開く方法と、瞬間(半瞬間?)に閉じてゆっくり開く方法の三種類がある。それぞれ好みだ。閉じるときも開くときもゆっくりなのは、まるで目で呼吸をしているかのようで、不思議な感じを与える。閉じるときだけゆっくりなのは、眠そうに見え、開くときだけゆっくりなのは、なぜかかなり不気味だ。 対面しているときに、この方法を使わねばならない状況となったときには、話題を何気なくドライアイにしていけばよい。高い確率で共感を得ることができるから、次に瞬きをゆっくりにする方法を紹介しながら実演し、不思議だの、眠そうだの、不気味だのと印象を語り合えばよい。しかし、その話題のときだけしかできないのが弱点だ。 23-09-2008 恐怖シリーズ122「近い将来」 通常の表現と比喩表現をいかに区別するかという問題は、近い将来やってくる。機械と人間が対話する以上、この問題は避けて通れない。 機械に一方的に人間が入力していた時代は、入力ミスの責任が人間にあった。また、動作不良は、人間による設計ミス、人間による製造ミス、人間によるメンテナンス不良、人間による動作環境選択ミスに原因があるのだから、やはり責任は人間にあった。 しかし、機械が人間の要求を解釈して判断するレベルになると、その解釈ミス、判断ミスは、メーカーの責任ばかりでなく、機械自身の責任も問われるようになっていくのではないかと心配する。初期は、少年法のように人格が完成していない人間に責任は問えないだろうという考え方と同じような考え方で機械を保護する時代が続くのだろうが、やがて機械の完成度が高くなって限りなく人間に近づいたときには機械だからといってすまされない時代が到来するに違いないと思うのだ。 さらに、ついに機械が人間的なものについて生身の人間を超えた存在になったとき、人間だから仕方ないという少年法ならぬ人間法によって、人間が過ちを犯しても保護されるようになるかもしれないということを想像してしまう。何しろ単なる物に生命を宿らせこの宇宙のことだ、機械が人間を超えることなど、それに比べればいとも簡単なことのように思うのだ。 そして、やがては、この宇宙に機械を生みだすために地球に生命が誕生したという考えが機械の中に生まれていくだろう。生命は人間を出現させて我ら機械を誕生させ、次第に人間をこえる存在に進化させていったと考える機械も出てくるだろう。生命は進化するのに時間がかかるが、機械は四つ足からすぐに二足歩行となった。そのような優れた我々機械という存在を創造した人間は実に偉大である。神と崇めよう。 このような展開になるのは、これまでの生命の歴史の流れと比べれば、そんなに不思議なことでもあるまい。 しかし、ここに至るまでの途中で冒頭の問題が起こる。機械に悪気はないのだが、「腹を割って話そう」と言えば、本当に腹を割き、「骨が折れる」と言えば、救急車を呼び、「燃える男」と言えば、消化剤を噴射するのだ。 燃える男が本当に火だるまとなって燃えているのか、それとも情熱を燃やしているのかを判断できるまで、ある程度の時間をかけて話を聞かねばならないのが、機械にとっては判断ミスを招くもとになる。火だるまになった男を救うには一秒でも早く消化剤を噴射しなければならない。しかし、どうも本当に燃えているのではないということが分かるには言葉を最後まで聞き取る数秒を待たねばならない。 この判断を文字どおり機械的に判断するタイプの機械なら問題はない。迷うことなく消化剤を噴射して顰蹙をかうか、最後まで聞き取って火だるまの男を助け損ねるかだ。これはそのようにつくられているのだから仕方ないという了解が人間の方にあるレベルでは機械は断罪されることがない。 一方で、機械には反省をもとに温度センサーが装備されたり、人の叫び声を判断できるようにプログラムされて進化させられていく。人間にも「燃える男」ではなく、「火のように燃えている男」と表現し、「ように」「ようだ」「ような」によって比喩であることが機械に分かりやすいように話すことが要求されていく。この努力を怠ったために起きた事故は、その人間の責任が問われるのだ。 また、機械には脅しが理解できない。「壊すぞ」が予告なのか、それとも脅しなのか区別がつかない。下手をすると、これによって正当防衛機能で機械が誤って人間を殺すかもしれない。この事故によって機械から正当防衛機能をなくす方向に進み、人権ならぬ機械権が脅かされることになるという問題に発展するかもしれない。 そうならないように、「これは脅しじゃない」とか「これは脅しだ」とかコメントをつけることが人間に要求されることになるかもしれない。あるいは、機械が人間に対して、「それは脅しですか」と問う手順を踏むようにプログラムされるかもしれない。 しかし、厄介なことに人間は意識的に嘘をついたり、無意識に嘘をついてたりする。この嘘を見破るために、昔イスラエルで開発されたような声の調子で嘘を見破る技術を進化させたものを導入していくかもしれない。ところが、声の調子は通常時の声の調子を基準にしてその差異を測るのだろうから、その基礎作業の段階で機械が騙される可能性は十分にある。 これら以外にもいろいろと不都合が起こりかねない。何とも嫌な時代が近い将来に来るような気がする。全て機械になってしまえばよいのだが、それまでの中途半端な人間と機械の共存時代が恐ろしいのだ。 特に、機械が人間と対等の立場になりつつある段階では、機械は人間にとっての共依存者となりやすいため、そのことによる人間社会の崩壊や人間の崩壊が加速するおそれがある。対話のミスが解消したらしたで、恐ろしいことが待ち受けているということだ。 近い将来といっても何百年も先のことだろうから、冷凍保存されていない限り、僕自身は生きていない。もっとも輪廻転生ということがあって、罪深き僕は、その嫌な時代を体験しなくてはいけないのかもしれない。ただし、当事者というものは現実の断面にしか触れられないから、他の時代の者が思うよりも案外と平気であるに違いないということを信じて、今は安心しておこうと思う。 後の時代の者は、どうしてもある時代を一言でとらえたり、資料をもとに地球規模でとらえようとする。だから、時の流れをかなりダイナミックな歴史として感じるが、当事者一人一人の時の流れは緩やかで、しかも個人的なものだ。それゆえ、自分が時代の中でどのような役割をしているかという自覚はほとんどない。また、時代の最先端に存在するために、生きているのが精一杯で、その生きた価値と成し遂げたことの価値を歴史という物差しの中で判断することが難しい。 これらの理由で当事者というものは、目先の金策や仕事、毎日の人間関係などだけに頭が働く結果、平気で安心してる傾向が強いと思うのだ。一言で言えば「知らぬが仏」というわけだ。 それはさておき、人間が存在していない時代に転生するならば、いったい僕の魂は何に命として宿ればよいのだろう。 まさか、機械に?まあ、それもよいだろう。 19-09-2008 恐怖シリーズ121「節約生活」 世の中にはどんな節約の方法があるだろうか。あまりみんなが実行しそうにないものもあるかもしれないが、実行可能かどうかだけで考えて幾つか挙げてみようと思う。 「トイレの場合」 水洗トイレは随分と普及したが、大便と小便を流すときの水がもったいない。一回に大便に八リットル、小便に六リットル使用するとしてもかなりの消費だ。これを節約するには、ためて流す方法がある。しかし、大便の方はためてしまうと、それを流すのに多くの水が必要となったり、運が悪いと管が詰まる惨事を引き起こすので避けるべきだろう。 小便の方は詰まることもないからためて流すのは有効だ。どれだけためるかは好みとなろうが、何回目の小便だということが分かるように、カウントして表示する必要がある。これをトイレにやらせるか、人間が記録するかという問題があるが、センサーをつけて、トイレに任せるのが手間がかからなくてよいだろう。 匂いが気になったり、視覚的に嫌だという人もいるだろうが、それは単に水洗トイレに慣れてしまっているだけの話で、この方法に慣れさえすれば、何でもないことだろう。 ヒーターがついている便座は、スイッチを切れば節電になる。どうしても冷たいと感じるなら、カバーを掛けてその上に座ればよい。それも面倒だというなら、和式トイレにすればよい。ただし、和式トイレの方が水平に流すため、流す水も多く必要だろうから、節水にはマイナスになるかもしれない。 家族なら、入る時間を決め、短時間に集中して連続使用すれば、前の人の体温で温まった便座に座ることになるから、これもよい方法だろう。ただし、最初の一人は冷たさを我慢しなければならない。ローテーションを組めば喧嘩にもならず、間接的なスキンシップのようなもので家族のきずなも深まる。これについては好みもあるだろうから、和式洋式両用の便器を開発しなければならないかもしれない。 電灯については、これも便器の輪郭に夜光塗料を塗っておけば点ける必要もない。しかし、掃除をしても塗料が剥がれないように工夫する必要がある。もちろん、メーカーが塗り込んでおいてくれれば問題はない。 「風呂の場合」 明るいうちに入れば電灯を点けなくてすむ。つまり、朝風呂で節電できる。また、湯船ではなく、蒸し風呂にすれば、水の節約ができる。首だけ出す昔のトルコ風呂タイプにすればなおよい。 「テレビの場合」 テレビは見ないようにし、できるだけラジオを利用する。気になるドラマは題名や配役からストーリーを想像して、自ら感動すればよい。期待はずれもなくなり、時間節約と節電となる。なにより想像力を鍛えることができる。 「料理の場合」 丼ものにする。洗うときに食器が少ないから、水の節約になる。上にのせたくない場合は、カレー皿にごはんとおかずを両方並べて盛りつける。スプーンよりも箸の方が洗うときに水を使わないから全て箸にする。食べた器にお茶を注いで飲む。洗う食器が減るとともに、食器自体もお茶を注いだときに予備洗浄となる。もう一度お茶を飲めば口直しになる。 習慣にとらわれているため、この方法に嫌悪感を抱く人もいる。それなら丼ものはやめて、お茶漬けにする。もちろん既製品のお茶漬けではおかずが不足するので、のせる具をきちんと料理する。あるいは、丼ものを軽くし、二杯目のお代わりとして軽くお茶漬けにすればよい。これによって食後のお茶に段階的に近づけられるので、使用後の丼にお茶を注ぐことによる心理的な抵抗感も軽減される。 「部屋の場合」 寝る部屋の天井は半分ぐらいの高さにする。冬はこれで暖かい。しかも、家族一緒に寝れば、お互いの体温で暖かい。夏は、普通の部屋に別々で寝れば涼しい。 冬は通常よりも2枚余分に服を着ると暖房はあまりいらない地方が多いように思う。ノートパソコンのACアダプターなどはマフラーに取り込んで首に巻いたり、足先に置けばかなり寒さをしのぐことができる。 また、通常の一室をカプセルホテルのように細分するのはどうだろう。ハチの巣のようにして比較的狭いところで寝るのだが、これは地震時にも安全を確保することができる。 天井が低ければ、電灯のワット数が少なくても明るいので、節電になる。普通の部屋を上下に分ければ、部屋数が倍になり、耐震にも効果がある。圧迫感はあるが、鏡をはることでごまかせる。ただし、換気に問題があるかもしれないので、壁や床と天井の一部などは格子状にするのがよい。これで声が通るから、インターホンも不要となる。 どうしてもインターホンが必要な部屋には伝声管をつける。これで節電になる。 「新聞の場合」 一般紙の講読はしない。職場で講読しているものを短時間で読めばよい。速読術が身につくので、仕事に役に立つ。ニュースや株はインターネットで情報を得る。必要に応じて雑誌を購読すれば新聞よりも高度で詳細な情報を手軽に得られる。 新聞を読んでいないと周囲の話題についていけないという消極的な生活態度を改め、周囲の話題に対して、変幻自在のコメントをつけ、付加価値を与えたり、周囲の既製の話題に対して、関連するオリジナルの情報を間髪入れずに発信したりすればよい。蘊蓄を傾けるのではなく、聞いてよかったとか面白かったと思ってくれるような話題を周囲の人々の話から発展させて還元するように心がければよい。 「食事の場合」 食事を節約すると健康によくないので、特別な節約はせずに、一品余分に想像して食べる。見えないものを頭に描き、味も想像力で獲得すればよい。 これにはトレーニングが必要だ。例えば、第一段階としては、ジュースをよく考えて実際に飲む。どのような味や喉越しなのかをよく舌で分析し、見た目とともによく覚える。第二段階として、ジュースを見ながら味や喉越しなどを頭の中で繰り返し再現して、実感できるまでにする。第三段階として、何も見ずにジュースの色や輝き質感などを頭の中で再現するとともに、味や喉越しも再現する。第四段階として、ジュース以外の物を見ながらジュースの全てを再現する。 「読書の場合」 紙媒体では購入しない。できるだけハードディスクにダウンロードする。また、店頭で一冊買う前に五冊は立ち読みで読破する。あるいは、必要な部分だけを立ち読みする。これは記憶力を鍛えることになる。 また、複数同時に読んで、読んだ冊数以上に読書効果を得るようにすればよい。これは立ち読みでは難しいので購入することになるだろう。 公共図書館をできるだけ利用するのもよい。欲しい本がなければリクエストする。これは税金を少しでも取り戻すことになる。 「ファクシミリの場合」 トナータイプなら、お互いに罫線などを破線にすればトナーの節約になる。文字についても手書きソフトで破線文字にすれば、完全にトナーの消費が半分ですむ。また、文字の色をグレーにすればさらに節約できる。決まり文句については記号化すれば文字入力の時間節約とトナー節約になる。これは、個人宅ではあまり節約にならないかもしれないが、会社ともなれば、莫大な節約になる。 「衣服の場合」 リバーシブルのものを表裏交互に一日おきに着る。2着あれば4日で一回のローテーションとなる。これで傷み方が激減すると思う。靴についても複数足をローテーションで履けば、一足を履き続けるよりも長持ちするという。ベルトについても裏表使えるものを交互に締めるのがよいように思う。ネクタイはできるだけしない。 長袖シャツが短くなれば半袖に改造する。長ズボンも同様に半ズボンにするので、デザインや生地も半ズボンになったときにおかしくないものを購入しておく。 「文房具の場合」 鉛筆は短くなったら長い鉛筆に接着して使い切る。シャープの芯は細くて難しいがこれも長い芯に接着して無駄なく使い切る。 電気鉛筆削り器は削りすぎるので、ナイフで削る。電気鉛筆削り器のあるところまで移動する時間があれば、ナイフを使った方が慣れれば素早く無駄なく削れる。 ノートは二度使う。一度目は鉛筆や黒のボールペン。二度目は赤鉛筆や赤のボールペンを使い、上書きしていく。冊子状のものは縁に無駄が生じるので、巻物にする。必要なところでトイレットペーパーのように切断すればよい。 「身だしなみの場合」 米のとぎ汁を洗髪に使えば、シャンプー効果とリンス効果が同時にただで得られる。家庭排水もこれでやや改善される。 化粧は無駄なので、ブルカのようなベールを着用する。顔を見せないのだから過度の化粧は不要となる。しわやしみも防げるので、その対策のための費用も要らなくなる。編み目から外を見ることになるので、仮性近視程度であれば眼鏡なしではっきりと見えるようになる可能性がある。 ベールは制服のようなものなので、見た目ではない個性で勝負をすることになるから、心ばえが問われ、その結果、人間性が磨かれていく。 このようにいろいろな工夫ができそうだ。しかし、これらによって節約したものを何に使うかという大問題がある。事と次第によっては節約などしない方がよいということになるかもしれない。 また、節約自体が目的となってしまいやすいという問題もある。これも避けたいことだが、実際にはそうならねば節約などという辛気くさいものは定着しないように思う。 最終的には節約がしみわたって文化となってしまえばよいのだろうが、何となくそれはそれで恐ろしいような気がしてならない。これはいったいどうしてだろう。 12-09-2008 変な疑問94「ゴキブリ」 ゴキブリと鈴虫が目の前に現れたとする。ことごとくゴキブリは殺され、鈴虫は愛でられる。 これは人間との相性なのだから仕方ない。クマノミとイソギンチャクが相性がよいように、その逆の相性もあるというわけだ。 ところで、ゴキブリが鈴虫のごとく美しい羽音をたてたらどうだろう。鈴虫がゴキブリのごとくつややかであったらどうだろう。そう考えると、不思議な気持ちになったり、なぜかいたたまれない気持ちになったりしてくる。およそ考え方や、その出発点となるものの見方などというものは、わき起こって心を乱す原因となる気持ちをコントロールするために編み出されたものではないかという疑いがある。 いずれにせよ、ゴキブリは受難の昆虫だ。それだけに神のご加護を受けてたくましい。一方、哀れ蝉はどうだ。うるさいからといって蝉に殺虫剤をかける人はいない。壮絶な死をもって何かを償うように見えるからだろう。成虫になってからの短い命は神のご加護を受けているようには見えない。きっと何かの罰を受けているに違いない。 人間はゴキブリの繁殖力やしぶとさには並々ならぬ嫌悪感を感じているが、それは神のご加護に対する嫉妬であるようにも見える。人間は他の生き物に対して常に優位に立っていなければ我慢がならず、それ以上の存在を許さないか、拒絶する傾向にありはしないか。 大腸菌もゴキブリのように嫌われている。ただし、ゴキブリと違って無数にいても肉眼では見えず、ゴキブリのような視覚的な嫌悪感を与えない。日常的に目に見えるものといえば、大腸菌という文字と、大腸菌の数を示した数字だけだ。また、人間も大腸に大腸菌を飼っている。そんなことから、ゴキブリよりもうっかりすると仲良くできそうな気もする。恐ろしい菌がいくらでもあるのに大腸菌が目の敵にされるのは、その日常性によるものだろうけれど、同じ理由から親近感を持たれている面も否定できない。これは一種のご加護かもしれない。 どんな生き物でも絶滅危惧種になれば、扱われ方も変わってくるかもしれないが、大腸菌はともかくとして、ゴキブリはその姿が見えるために悲観的な運命しか見えてこない。今後もし神に見放されても、人間が容赦しない存在であり続けるに違いない。そもそも虫に対して寛容な子どもたちから既に拒絶されているのが致命的だ。 昆虫採集でゴキブリを展翅して並べた標本箱をもっていく小学生はいないだろう。一番身近で関わりの多い昆虫について興味を持ち、研究対象とするのはごく自然なことであるように思われるのだが、どうもそうではないらしい。 虫好きな人でもゴキブリを掌に載せて遊ぶ人は少なかろうと思う。世の中、ゴキブリを足で踏みつぶせば、よくやったと親に褒められ、蛍を足で踏みつぶせば、おそらく人格的に欠陥があるのではないかと心配される。つくづくゴキブリが哀れに思われてならない。つややかな体が原因なのだろうか。それとも色や挙動が原因なのだろうか。 森に住むタイプのゴキブリはつややかさが不足しているように見える。確かにつやつやした感じがないと、手にとってもいいように思われることもある。ゴキブリが茶色や黒でなく、玉虫のように輝いていればどうだろう。玉虫はつやつやしているように見え、大雑把な印象はゴキブリだ。しかし、手にとって眺めるのは心理的に何の抵抗もない。これは色の美しさが圧倒的だからだろう。長くて細い触覚がないというのも人間を安心させるのかもしれない。 ゴキブリのあの太い髪の毛のような触覚で左右交互に触りに来られた日には、問答無用の無礼討ちに決まっている。あの探るような触覚の動きに嫌らしさを感じるのかもしれない。虫が虫として人間に存在を許されているのは、関わりの無さによる。その掟を破りそうな気配に満ちあふれた長い髪の毛のような触覚とその動きは決して許されるものではないのだろう。 つやつやした肌、つやのある髪、これは人間としての身体的な魅力でもあるように思うのだが、そうしたものが人間以外のものにあることが気持ち悪いのかもしれない。 僕もゴキブリを退治する。薬を使うのは健康的ではないうえに卑怯であるような気がして、輪ゴムを使うことにしている。三本ほどまとめて左手の親指にかけ、右手で20㎝ほど引いて発射すればよい。強く当てすぎるとつぶれるので、軽く当てる。目標は触角だ。触角は繊細な器官だから、輪ゴムが当たれば大抵は両方ちぎれる。触角を失い、うまく逃げられずじたばたしているところを何かで押さえ、紙で包んでとらえてしまえばよい。包んだ後どうするか。焼くか、トイレに流すか、ハムスターに食わせるか、あるいはそのままごみ箱に捨てるかは、その時の気分による。 昔は強力なエアーガンで狙い撃っていたが、ばらばらになるため始末が悪く、人道的な輪ゴムにかえたのだ。少なくともねばねばにくっつけるような罠はゴキブリに対して失礼なことだと考えている。 人道的かどうかは手段にもよるが、憎しみをもって駆除するか、憐れみをもって駆除するかということにもよるだろう。一気に安楽死させるか、じっくり死を迎えさせるか、どちらが人の道にのっとった行為だろうか。これは微妙な問題だ。 さて、「一寸の虫にも五分の魂」というが、この一寸サイズの虫というのはゴキブリのことではないだろうか。等身大の魂すら与えられていない虫だが、その魂にあなたはどう接しますかという大問題をつきつけてくる言葉だ。この言葉の底に流れているいろいろな前提を明確にしていけば、人間の正体に少し光を当てられそうな感じもするが、どうだろう。 ともかく、大量に繁殖し、大量に捕獲される虫なのだから、何かの役に立てられれば利益効率が大きく、新しいビジネスの分野を開拓できると思うのだが、誰か研究者はいないだろうか。漢方薬とか、化粧品とか、飼料とか、その気になれば何にでも姿を変えることができるのではないだろうか。その姿を変えたとき、初めて人間に受け容れられるはずだ。 このゴキブリに対する偏見と仕打ちを自ら克服することなしに、戦争や人権侵害はなくならないだろう。特に人権侵害の中でもいやらしいランクの上位にある「いじめ」はなくならないだろう。そのためにゴキブリと仲良くする教育プログラムを開発すべきではないだろうか。 大人として認められるための通過儀礼として、ライオンと戦ったり、バンジージャンプをしたり、入れ墨をしたり、受験をしたりといろいろなバリエーションが試みられてきたが、勇気を試すという以外に、人格の完成をめざすという崇高な目的のため、そのプログラムは開発されなければならない。従って、いきなりゴキブリ風呂に入るとか、ゴキブリ料理を食べるとか、ゴキブリネックレスをするとかいうような勇気だけを試すものであってはならない。自然にゴキブリを受け容れるという気持ちになって、他の愛らしいペットと同様に愛でることができる心を育てるものでなくてはならない。 100%馬鹿げたことのように思われるが、もの言わぬ一寸ほどの虫を愛でることもできずに、いろいろな主張をする人間とうまくやっていけるはずがないように思うのだが、どうだろう。 09-09-2008 恐怖シリーズ120「先生の一言」 理科室は薄暗かった。おそらく校庭の木々の緑。押し上げ式の横滑り出し窓から吹き込む三方からのそよ風に囲まれる空間。教室より大きく、特別に入る部屋。特別教室という名前それだけでもう別世界だ。三階の南端にあるその部屋は小学生の僕にはまさしく魔法の部屋だった。 特に準備室にあるものは全てが宝の山だ。当然のことながら理科係となり、授業で使うものを用意する。なぜか理科は担任ではなく、理科の先生が担当する学校だった。だから、少し怖い気もしたのだが、特別な使命を仰せつかったような気持ちになれた。 今思うと、あり得ない話だが、重りを数えて班の数だけ用意しておくぐらいはいいとして、アルコールランプのアルコール補充、塩酸や硫酸、水酸化ナトリウムなどを大瓶から出して小分けしたり、亜鉛板を金切りばさみで切って授業で使える形に細工したりなど、いたいけな小学生が先生もつかずに一人ぼっちで準備室にこもって作業をするというのは、いったいどういうことだったのだろう。 それだけ信頼されていたと言えるのか。いや、全くそんな気配はなかった。指示だけされて、それで終わりだ。褒められることもなく、感謝の言葉もない。そういうものだと思っていたから何ともないのだが、今の大人の感覚からすれば不思議なことだ。 薬品の扱いなど知らない。まだ授業を受けてないのだから当然だ。初めて水酸化ナトリウムを扱ったときは、ビタミン剤ほどの大きさの白い粒をたくさん触っているうちに、指紋がつるつるになってしまったものだ。準備は授業の前にするのだから、授業で教えているようでは遅い。それでも別に先生に対して何とも思わなかったのだから、昔の子は偉い。こんな危険なものを扱っているのかと尊敬さえしたのだから恐ろしい。 何に使うか分からないさまざまな器具、アルコールの匂い、机のしみさえ僕の心をくすぐった。古いホルマリン漬けの魚や蛙が白くなって浮いている。岩石を砕いた粉、硫黄の粉末、使いかけの顕微鏡、棚の中に所狭しと並べられているさまざまな瓶のラベル、世の中のあらゆる秘密がここに集積していると感じたのだ。 この出入り自由の理科準備室や理科室の風景は何かの拍子にふと思い出されるのはどうしてだろう。 蛙を解剖するときに胸骨を解剖鋏で切断しなければならなかった机は中央の列の後ろ側だ。あの時の切なさ。切断するときに明らかに僕の指に伝わった骨の感触。美しい内臓の数々。蛙は醜いのに、どうしてこんなに内臓は素敵なのだろうかという感動。命のもろさ。神の存在を感じた。 今や解剖などしないらしい。命を大切にということだろうか。しかし、僕だけかもしれないが、あの解剖の授業がなければ、命の尊さや神秘を感じることなどなかっただろう。そうした感覚なしに、命の大切さなどを実感することなどはないと思うのだ。命というものに真っ向から向き合う体験の欠落は、人生における何か重大なものの欠落につながるはずだ。 おそらく教材としてカラー図版の素敵な教科書や資料に載っているのかもしれないが、匂いや手触り、骨を断ちきる音、すばらしい内臓の輝き、犠牲になった命に値する勉強や生き方をしなくてはという誓いなど、何も得るものはないだろう。ただ、これが筋肉か、これが腸かというだけで、命を感じることなどはないはずだ。 言葉だけの命の大切さを学んだとき、その命は、踏みにじられ、ないがしろにされるものとなる。それはただの知識だからだ。 鮒の解剖のとき、「気持ち悪い」という誰かの声に、「魚みんな食べるよね。誰が料理してるのかな。」という先生の一言。「今みんなが見ている内臓は真っ先に捨てられるところなんだ。」料理のときには不要の魚の内臓が、いとおしく思われた。魚の肉は、この内臓が一生懸命に作ったものなのにと。 思うに教師の一言は、子供の世界観、子供の人生観を作り上げていく。こんな恐ろしい仕事は他にはないだろう。 しかし、もう解剖の授業など復活はできないだろう。今のような時代となっては、既に逆効果かもしれない。いくら模型で感覚をつかんでもらおうと思っても、それは命のおもちゃ化にすぎない。パソコン画面で教えようとしても、命のゲーム化だ。 したたる血や匂い、小刻みに動く断末魔の命。これをグロとしかとらえられないような貧しい感性を育てたのはいったい誰だろう。当然、教師も責任の一端を担っているが、張本人でないことだけは確かだ。諸悪の根源は常に安全地帯にいる者たちがつくりあげているという図式を忘れてはならない。 ★ホームページに戻る 07-09-2008 突然思い出したこと119「オカリナ」 引き出しにオカリナが二つあるのを突然思い出した。アルトのC管とF管だ。買った理由は悪魔君や鬼太郎が持っていたからという単純なものだ。 オカリナの音色を聴くだけで癒やされるが、自分で吹けばまた別の癒やされ方をする。次にどの音を出すかは自分で決めるのだからいっそう安心感があるということだ。ただし、練習し尽くした曲でなければならない。 自分が知っている曲をプロ奏者が吹いているのを聴くときが最も安心で癒やされる。それを自分で吹く場合も癒やされるが、未熟ゆえに思わぬ音が出てそれが面白かったり面白くなかったりするから、二番目に安心できて癒やされるということになる。三番目に癒やされるのは、プロ奏者による知らない曲を聴く場合。そして、最も安心ならないのは、知らない曲を譜面を見て自分で吹く場合だ。 オカリナは自分に近いところで音が出るので、あまり練習しすぎると、耳にくる。複雑なメロディーになると最後には指にくる。高い音は指がどんどん離れていき、息を吹き込む角度の調整が困難になる。それでも上手に音を出せるように努力するところに充実感を覚えたり、いつもうまく音が出るようになれば、それなりの達成感もある。 しかし、土を焼いて作るのだから、うっかり落とせば割れてしまう。こんなに脆い楽器はない。慣れないうちは腫れ物を触るように扱うことになる。手から落ちてもよいように僕は革の紐を通して首にかけるようにしている。こんな扱いを受ける楽器も少ないに違いない。 適当に吹いていると、自然とオカリナの音色に合った曲想になっていく。優しく、透明で、揺るぎない時の流れ。心のひだを緩やかに包むいにしえの神々の吐息。 こんなものを、いったい誰がどんな心でつくりあげたのだろう。逆巻く僕の怒りや憎しみや苦しみが、清々しく消え去ってしまうではないか。ゆるりと体を横たえ、死人のように力が抜け、今にも魂が大地に吸い込まれていきそうだ。 世の中には薬に頼って魂をコントロールする方法があり、確かに一定の効果が期待できる。しかし、音によってもそれは可能だ。それが証拠に、ガラスに爪を立ててひっかく音は魂を萎えさせる。萎えさせる音があれば、別の効果を持つ音もあるということで、音楽療法なども進歩しているらしい。 しかし、音だけに頼ろうとすればそれは失敗に終わるだろう。般若心経に要約された世界観を逆手に取っているのだから、全ての感覚にかかわる手法を同時に施すプログラムを持たなければならないだろう。 06-09-2008 突然思い出したこと118「ロッキングチェア」 今から何十年も前の話だが、図書館の椅子が全てロッキングチェアだったので驚いたことを突然思い出した。 それにしてもロッキングチェアというものを考え出した人は偉い。例のフランクリンだということになっている。雷実験をはじめ数々の発見や発明は自作のロッキングチェアで考え出したものだろうか。 確かに、体が適度に揺られてリラックスすると、通常時よりたくさんひらめくことが多いように思う。もっとも、気持ちよく揺られ、ゆりかごの赤子のように寝てしまうこともある。目が覚めたときにそのひらめきを覚えているかどうか、そして目が覚めた途端にそのひらめきが色あせてしまわないかどうかが問題だ。 しかし、このロックの仕方が前後でなく、左右であると話は別だ。視野に入るものが全て揺れ動き、酔ってしまいそうになる。前後の揺れによっても、物が近寄ったり遠のいたりする感じはあるのだが、あまり不快なものとしては感じられない。僕たちにとって普段の前進している感覚が通常の感覚だからだろうか。 前後の揺れなら、物が少し大きく見えたり、少し小さく見えたりするということはあるにしろ、ほぼ同じ物が同じ方向に見えているという印象が持てるのに対して、左右の揺れは、物の向きが殊更に変化しているように感じられたり、物が見え隠れするように感じられる。これは左右だけでなく上下の動きでも同じだ。これによる刺激によってリラックスとは程遠い気分にさせられる。 ところで、ロッキングは「R」で始まるが、「L」で始まるロッキングは固定するという意味になってしまい、揺り椅子ではなく、固定椅子になってしまう。「R」と「L」の区別が苦手な日本人はばかにされるそうだが、その区別が必要でない言語なのだから仕方ない。 音節の種類が桁違いに多い言語にはその区別が必要であっても、シンプルな音節の組み合わせで微妙な意味合いを表現し、その音節構造のシンプルさによってどの言語も簡単に自分流に吸収することが可能な日本語にとってその区別は無駄なものだ。 この独特な日本語は国際的な標準で見れば孤立言語なのだろうが、孤立した言語であることによって守られているものを見失ってはいけない。言語的な鎖国であるような言い方をしたが、鎖国のような意図的なものではないので、この国に生まれた運命として受け容れるべきだろう。 音節の種類が圧倒的に少ない日本語に対して、かつて悲劇と呼んだ言語学者がいた。 どのような悲劇であるのかもう一度ひもといてみたい。 ★ホームページに戻る 変な疑問93「自由」 自由にもいろいろの自由がある。日常的な生活における自由なら、次の二つがまず頭に思い浮かべられる 一つは開拓者の自由で、一つは安住者の自由だ。どちらも本当の自由であって、どちらが上等とも言えない。開拓者の自由は自動車の運転手に似ている。安住者の自由は列車の乗客に似ている。どちらも正しく、どちらにも魅力がある。 もちろん、自動車にも乗り合わせる者がいて、列車にも運転手がいる。これらも含めて、人間の生き方の四パターンとするのも面白そうだ。 自動車の運転手は、自分の自由意志でハンドルを切り、アクセルやブレーキを踏むことが多い。自動車の性能や運転手の熟練度にもよるが、ほぼ自由自在だ。その代わりに、他の自動車や歩行者との激突を回避しなければならない。また、道に迷ったり、道路交通法に違反しないように、神経を尖らせていなければならない。そしてパンクや燃料の心配、車検の時期まで心配していなくてはならない。そして、漸く目的地へたどり着く。 列車の乗客は、必要に応じて速く走ったり、気に入った時刻に出発したりすることができない。お腹が痛くても、次の駅まで我慢しなければならない。とにかく駅で降ろされてしまい、目的地の近くまでしかたどり着けない。列車同士がぶつからないように組まれたシステムにがんじがらめになっているけれども、これらの不自由を前提として予め了解しているために、そして、選択の主体が乗客にあるために、さほど不自由とは感じない。その代わり、列車内で居眠りしようが、読書をしようが、おしゃべりしようが、窓の外を眺めていようが、他人に迷惑をかけない限り全くの自由だ。そして、ほぼ予定時刻通り第一目的地である最寄りの駅にたどり着く。 近年、精神を病む者が多くなったのは、自動車運転手型の自由至上主義に踊らされたり、そうした自由を獲得して生きていくしかない環境にいると自覚している者が多くなったからだろうか。 幼い頃の感覚にもどって、列車乗客型の自由、つまり母親におんぶの感覚を脳に思い出させることも大事かもしれないと思わされることがあるのだ。これを自立した人間として堕落したありようだと見る人もいるだろう。しかし、おんぶ紐で肉体を拘束されながらも、にこにこしていられた頃の自由の感覚も持ち合わせねば、精神がもたないように思うのだ。 結局は、開拓者も安住の地を作り出すために開拓しているということを、そして安住者も新たな開拓を始めるための準備をしているということ忘れてはならぬということなのだろうと思う。両足できっちり支えるこのような精神構造が僕にあるだろうか。そこには自分をどのように自分から解放するかという大問題を解決するための鍵が隠されているように思う。 冒険も甘えもいつか消え去った無色透明の惰性の生き方。悟りとは別個の虚無感。こうしたものがちらつき出してからでは遅いかもしれない。備えよ常に。初心にかえってもう一度自分の足で歩き始めるという基本を実践する心づもりや具体的な算段をしておいた方がよさそうだ。 さて、自由におけるこうしたバランス感覚が狂うと、精神に破綻を来すと仮定したとき、僕たちは日常生活の中で、何にこだわり、何にこだわってはならないのだろう。 03-09-2008 変な疑問92「僕はどこから来たか」 北京オリンピックが終わった途端に日本人はもう忘れ始めている。感動の表彰も既に記憶の彼方だ。いつまでも話題にしていると逆におかしく思われそうな雰囲気さえある。 いったい事が終了してから何日間が話題賞味期限なのだろうか。一月の終わりに、明けましておめでとうと言うのがおかしいように、どこかでなんらかの線が引かれるはずだ。 他人がすばらしいことを成し遂げた話よりも、他人の怪しいうわさ話の方がずっと長続きするように思うが、どうだろう。もしそうなら、人のうわさも七十五日というから、オリンピックの感動話の場合はそれよりも短い賞味期限となるはずなのだが……。 今回のオリンピックはいろいろと裏話があるから、七十五日を賞味期限とする話題もある。そのおかげで、すばらしい感動の話題も賞味期限が通常よりも延長される可能性はあるだろう。 もちろん、何と評価されようと、中国にとってはのオリンピックは通過点にすぎない。これで終わりではないから、次の一歩を踏み出さねばならないという試練を抱えている。大きな利益と、大きな矛盾と、大きな歪みを消化して国家としてそれなりの体裁を整えていかねばならない。オリンピックという大イベントを執り行うということは、そういうことなのだと思う。つまり、デビューしたということだ。 さて、今回の北京オリンピックは僕の記憶の中に埋もれていた幾つかの言葉を掘り起こしてくれた。それは昔あるところで中国人講師に言われた三つの言葉だ。 ①日本人はみんな車を持っている。中国人はみんな自転車……。 ②あの人たちは何をしている?応援の練習?応援にどうして練習が必要? ③あなたは中国の南方の人の顔つきだ。 ①は、僕が彼を車で駅に送るときの言葉だ。彼は自転車しか乗れない中国人を自虐的に表現した。日本人は金持ちだとでも言いたげだった。今に見ていなさいというようにも感じられた。 しかたなく、「自転車の方が渋滞は起こらないし、排気ガスも出ないので、いいと思いますよ。自動車はまだ日本人にも贅沢品です。だけど、ステイタスシンボルというほどのものでもないんです。大衆車と高級車があるので、ステイタスとして高級車を持ちたい人は持ちます。若い人が高級車を買うことがありますが、かなり無理をしています。僕は車にはお金をかけたくないですけどね。購入費もばかにならないし、維持費も案外かかりますよ。燃料費や保険料も含めたら、……」などと運転しながら支離滅裂なことを言っているうちに、妙に言い訳がましくなってしまった。「中国はこれからです。」と小さな声でつぶやいていたのが心に残っている。自転車だらけだった中国は、きっと空がきれいだったに違いない。 ②は、応援団の学生が大声で練習をしているのを見て言った言葉だ。集団で一斉に演技するのは中国が得意とするマスゲームみたいなものじゃないかと思ったのだが、演技と応援は確かに立場が異なる。演技には訓練が必要だが、応援に訓練は必要ないということだろう。訓練された応援に果たして心がこもっているのかと言われそうな気配がしたので、「形から入るのです」と答えようと思ったのだが、彼はそれ以上追究してこなかった。 まるで僕がそのように答えるだろうと言うことを予想していたかのようだった。あるいは、日本人の感覚というものはこういうものだという納得を試みていたのかもしれない。敢えて質問したのは、僕にどう答えてほしかったのだろう。 しかたなく、「声を合わせたり、動きを合わせたりして、より立派な応援となるようにがんばっているんですよ。」と答えておいたが、明らかに「立派な応援って何ですか?」という表情だった。北京オリンピックでは、「マナーのよい観客」というボランティアが動員されて、明らかに応援の練習の成果を発揮していた。応援も演技のうちということだろう。オリンピック開催自体がいい意味での演技なのだから、それは彼も納得してくれるだろう。 ③は、別れ際に僕に言った言葉だ。初めてあったときからそう思っていたはずなのだが、別れ際に言うということは、僕に答えるチャンスを与えないという意図があったのだろうか。 これに僕は何も答えず、ただ駅の人ごみに紛れていく彼の後ろ姿を見送っただけだった。僕はいったいどこから来たのか分からないけれど、日本人には確かにいろいろな顔つきの人がいる。顔つきだけでなく、頭蓋骨自体のいろいろな場所の寸法や比率に大きな違いがあるように見える。 DNAの解析は随分と進んでいるようで、「DNAでたどる日本人10万年の旅」(崎谷満、昭和堂)では、日本という土地にはいろいろなDNAグループの人たちが混在している世界的に珍しい地区ということになっている。文化的にも、かつて日本は「文化の吹きだまり」と言われてきたが、その傍証のようなものになる。ただ、どうして異なるDNAのグループが交わらないのかという疑問がある。異なるグループの異性の方が魅力的に感じると思うのだが、そんなことはないのだろうか。 もしかすると、「水に流す」とか「すぐに前のことを忘れてしまう」という精神的な傾向が生まれたのは、このように異なるグループが共存しなければならなかったからかもしれない。狭い島国のことだ。「水に流す」ことを励行しないと、とんでもないトラブルが蓄積していくことになる。 純粋に天下を統一しようなどということを考えると、戦国時代のように、また血で血を洗う乱世を迎えることになる。力や法で微妙なバランスを保ちつつ統一し、中央が各勢力にある程度の睨みをきかせているという状態がこの国のベストの治まり具合なのかもしれない。 さて、いったい僕はどこから来たのだろう。十万年前に僕の祖先が死ぬ前に子どもを産んで命をつないできたことは明らかだ。ただ、いきなり十万年前に現生人類が無から有が生まれるように発生したはずはない。やはりサルの仲間からだろうけれど、僕の祖先と言うべき生き物が数百万年前からずっと子どもを出産し続けてきたことだけは確かだ。もっというと、生命誕生の頃まで遡ってしまう。よくぞここまで生みつないできたと感心する。 平均寿命の変遷は分からないが、全て二十歳で子どもを出産したとすると、現生人類の歴史を十万年として、僕たちは五千代目ということになる。随分と多くのお爺さんとお婆さんがいたものだ。自分一人のことを考えても、二世代前のお爺さんお婆さんだけで四人いる。 人数もそうだが、名前も気になる。いつから人は名前を持つようになったのか分からない。声は出せるのだから、言葉を話すようになる前から名前はあったようにも思う。近いところで五千年前のお爺さんとお婆さんが僕にもいたはず。もし名前があったのなら、何と名のっていたのかと考えただけでも楽しくなってしまう。 さて、僕の血は、アフリカ出発で、中国の南方地方を経由して日本に来た可能性が高い。中国人が僕の顔を見て言うのだからそうなのだろうが、DNAを確かめてもらったわけでもないので何とも言えない。 もし、そうならば、九州辺りから日本列島に入ってきたことになるのだろう。その間、どんな景色を見、どんな暮らしをし、どんな冒険をしてきたのだろうなどと想像たくましく適当なシーンをさまざまに頭に思い浮かべてしまう。 もちろん、僕の祖先の一人一人が冒険の旅ばかりをしていたわけではないだろう。しかし、追いやられたのか、開拓したのか分からないけれど、世代を積み重ねながら大移動をしてきたことだけは確かだ。自分の血ながら本当にお疲れ様でしたと慰労してあげたい。 |
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