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9/27/2009 心の断片199「一日」 「一日」 実りの秋はここにある すくすくとそだった稲も 奥深き大人顔 朝陽をうけて よくしなだれた穂先 アオバセセリの迷い子の たじたじと後ずさるを 落ち葉青葉に見る 美しく風に吹かれて 今日も日がな一日 ★ホームページに戻る 9/26/2009 心の断片198「市街戦」 「市街戦」 眠り浅き この朝を 幾度となく 夢は訪れた 水飲み鳥の 嗽ぎ 明けの鴉の 羽のばし 一つ一つの 儀式が 僕の小さな 勇気の鼓動となる これなしに どうして生きていかれようか 遠くの家から たどたどしくカスタネットが きこえてくる これでもう僕は 不可侵の兵士だ 命奪う者以外を恐れず 仮に命奪う者来たれば 先にその命いただくまで ★ホームページに戻る 9/25/2009 怪しい広辞苑197「第四版213ページ・鵜川」 広辞苑第四版213ページ「鵜川」の説明。「鵜を川に放して鮎(あゆ)をとらせること。鵜飼。また、その川。」とあるが、これでよいのだろうか。 説明の中の「放して」ということばは、不適切だと感じる。どうしても「放」という語感を保ちたいなら、「放す」ではなく、「放つ」という言葉を使って、「放って」という表現にするのがよいかもしれない。 しかし、「放」ということばは「鵜飼」には合わないことばだ。広辞苑第四版の説明どおりに「鵜川」=「鵜飼」であれば、鵜飼というものが鵜を細い綱で鵜匠がコントロールしているものである以上、「放」という漢字を使ってしまうと実情に合わなくなってしまう。「放」というのは、あくまでも管理されていない、つまりつながれていないという意味合いが濃いことばだからだ。 もしかすると、広辞苑第四版が説明しようとしている「鵜川」というのは、鵜を綱でコントロールしないタイプの「鵜飼」なのだろうか。例えば、鵜匠の口笛一つで集まってくる鵜をつかって鮎を捕らせるのだ。これも確かに鵜匠のコントロール下にあるが、忍者を各地に放った戦国武将の雰囲気だ。だから、「放して」を「放って」とするだけでよいのかもしれない。もっとも、綱がないだけで、首には一定の大きさの輪がはめられるはずだ。それでなければ鮎が鵜に全部飲まれてしまう。 しかし、「鵜川」も、通常紹介されている「鵜飼」のように細い綱で鵜をまとめてコントロールするタイプのものならば、例えば、「鵜を操って川で鮎(あゆ)をとらせること。鵜飼。また、その川。」という説明にするのがよいように思う。「放して」や「放って」では鵜が鮎を求めてどこかに行ってしまうだけだ。 広辞苑が辞書でなければこのような指摘はあまり意味がないかもしれない。しかし、辞書である以上は、その辞書なりのこだわり方でよいので、ことばに対するこだわりを一般的な出版物よりも多くもっている方が好ましいことは確かだと思う。 さて、広辞苑第六版ではどのように説明されているのだろうか。 ★ホームページに戻る 9/24/2009 怪しい広辞苑196「第四版212ページ・浮かぶ」 怪しい広辞苑「第四版212ページ・浮かぶ」の三行目から四行目の古今和歌集の用例。「わたつみの沖つしほあひに-・ぶあわの消えぬものから」とあるが、どうしてこのような示し方をするのだろう。 例によって中途半端な引用だ。用例として引用されているのは、古今和歌集の雑歌だが、短歌なのだからすべて引用すべきだと思う。どうして「寄る方もなし」という結句だけを省略するのだろうか。たった数文字を省略することにいったいどのような意味があるのだろうか。敢えて説明する必要もないが、短歌であれば一首丸ごと示すことにこそ意味がある。それよりも何よりも、寄る方もない泡というイメージにこそ「浮かぶ」という意味を克明に説明できる力があると思われないか。 「浮かぶ」の説明の最終行は「(下一)」という括弧も含めて四字しかなく、二十文字以上が空白になっているほどの余裕がある。この最終行が数文字増えても何の心配も要らないはずだ。省略されてしまった「寄る方もなし」というところにいちばんの味わいがあると思うのは僕だけだろうか。わずかな活字を惜しまないでほしい。 そもそも中途半端に省略するのなら、いったい何のために短歌を用例として引用したのだろうか。もう凝縮されて一つの形になったものを壊すことにどのような意味があるのだろうか。あるとすれば、編集方針の中に日本の国語に対するなんらかの意志を感じざるをえない。このように主張する人が出てくるとも限らないのだ。 短歌を省略して示すことについては広辞苑第六版ではどのようになっているのだろう。変わりなければ広辞苑第七版では是非とも省略しない方向で編集することをお願いしたい。さもなくば、短歌以外での用例を示すようにしていただきたい。国民的辞書を標榜するのであれば、慕うべき祖先の心を凝縮した短歌をさらに削って形を壊すというような、過去と未来を断絶させるような姿勢をとるべきではないと思う。 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑195「第四版212ページ・浮かす」 広辞苑第四版212ページ「浮かす」の4行目。「これから踊り念仏を初めて、きやつを-・いてやらう」とあるが、これはどうなのだろう。 この「浮かす」の用例の出典は狂言の「宗論」だ。「宗論」といえば、宗派間の論争だが、「宗論」をタイトル名にもつ狂言の内容は、宗論自体を茶化して意味のないことだ結論づけるものとなっている。 そうした結論に至るまでに浄土宗の僧と法華宗の僧とが奇妙な論争をする。浄土宗の僧がいろいろとちょっかいをかけるところも面白いらしいが、残念なことに僕は「宗論」の舞台を見たことがない。 各社で刊行されている狂言集を調べるまでもなく、「これから踊り念仏を初めて、きやつを-・いてやらう」の「初めて」という部分は、現代では通常ならば、常用漢字表に基づいて、「これから踊り念仏を始めて、きやつを-・いてやらう」とするか、「これから踊り念仏をはじめて、きやつを-・いてやらう」とするところだ。 根本的には、原典がどうなっているかとか、刊行物がどうなっているとかが問題にしなくてはならない。原典が「初めて」ならそれはそれで何も問題はない。しかし、問題とすべきは、常用漢字表に基づいて表記することを学習してきた者に対する用例の示し方だ。 常用漢字表では「初」の漢字に「ショ・はじめ・はじめて・はつ・うい・そめる」という読みを許している。しかし、「はじめる」という読みは許していない。許されている「はじめて」という語も「はじめる」という動詞に助詞の「て」がついて「はじめて」になったものではなく、「ここへははじめて来ました」というときの副詞の「はじめて」だ。 したがって、広辞苑第四版のように「これから踊り念仏を初めて、きやつを-・いてやらう」という例を挙げてしまうと、通常の利用者はこの「初めて」を副詞として読み取ることになる。そして、そのために意味が通らなくなるという不都合が起こる可能性が生じることになる。 こうした不都合を承知で挙げた用例なのか、それともこれしか「浮かす」の用例として適切なものが見出させなかったのかはわからないが、少しでも不都合があればそれを例として示すことを避けるべきだろう。特に辞書にあっては、問題のない用例を探して示すことが混乱を招かぬために必要な配慮とされていなければならないはずだ。 これは辞書の編集作業におけるセンスと姿勢の問題だ。日常生活においても、仕事においても、「はじめて」ということばを漢字で書く場合には、「初」を使用するのがよいか、それとも「始」を使用するのがよいかと悩むことは意外と多い。書き分け辞典なども販売されているが、いざとなると頭をかしげることがあり、平仮名で書いてしまうということをしている人が多いのだ。 考えにくいことだが、この点について問題提起をするという意味合いで、用例の中に敢えて「初める」という書き方を示したのかもしれない。この「初める」に助詞の「て」をつけた姿が、「これから踊り念仏を初めて、きやつを-・いてやらう」の「初めて」というわけだ。しかし、だとすれば、広辞苑第四版の見出し語としての「はじめて」の説明にそのことを解説すべきだろう。 残念ながら広辞苑第四版の「はじめて」には、【初めて・始めて・甫めて】とあり、副詞であること、「新たに。最初に。」という意味があること、そして日葡辞書の「ハジメテオ(御)メニカカル」という用例だけしか載っていない。 同じく「はじめ」には、【始め・初め】とあり、それぞれどのように使い分けるかは八つの用例については明示されていない。どちらでもよいという立場なのだろうか。しかし、「御用-」については、「御用始め」という決まった使われ方をするはずだから、棒線でどちらでもよいような印象を与える提示の仕方をするのではなく、そのように示さねばならないはずだ。 このように棒線で示しておくというやり方は、示さなくても常識で使い分けられなくてはならないということなのだろうか。しかし、国語の常識を身につけるために学習者は一生懸命に広辞苑のページをめくるのだ。もし、そうした了見ならば、基本的な辞書としてのあり方を放棄していると見られても仕方ない。 曖昧な使われ方のものはそのように最初から曖昧だと明記すればよいことだ。利用者にお任せします、考えてみてね、などという姿勢を利用者に感じさせるようでは、辞書など利用しなくなる。利用者というものは最初から混乱を抱えているがゆえに、辞書を紐解くのだから、余計な神経を使うようなことをしてはならないのが原則だ。辞書はすべからく明解であるべきだ。 ただし、次の二例については、「はじめおわり」【始め終り】、「はじめね」【始値】のように、「初」ではないことが明示されている。こうした部分的な明確さが余計に残りのことばの不明確さを際だたせて利用者に強いストレスを与えることになることをどれだけ理解していてくれるのだろうか。 さて、次の六つの言い古された語句について広辞苑第四版では「はじめ」がどう扱われているかを挙げてみよう。 ①「-あらざるなし、克く終りある鮮し」の説明には、「はじめ」という表現がある。 ②「-有るものは必ず終りあり」の説明には、「始め」という表現がある。 ③「-から長老になれず」の説明には、「はじめ」にという表現自体がない。 ④「-の煌き」の説明には、「初め」という表現がある。 ⑤「-の囁、後のどよめき」の説明には、「初め」という表現がある。 ⑥「-は処女の如く後は脱兎の如し」の説明には、「始め」という表現がある。 これを見る限り、どう考えても、この棒線の部分は棒にしない方がよい。敢えて棒線にしたのはなぜだろう。棒線にするなら、どちらの漢字を使うのが標準的なのかを説明の中で示すべきだろう。利用者は本当はどう書かれているのかを知りたいということもあるが、取りあえずは、どう書くのが標準的なのかを知りたいものなのだ。 国民的辞書を標榜するならば、国語に対する理想的な姿勢を利用者にはぐくんでもらうことを目的の一つとしてほしい。広辞苑第六版がどういう編集方針の変更のもとに編まれたものかわからないが、広辞苑第七版では、こうした面をもっと強く出してほしいものだ。そうすれば宣伝文句どおりの立派な辞書として成長していくはずだ。広辞苑が日本国民の宝の一つになるためにはそうしたステップを踏む必要があると思うのだ。 ★ホームページに戻る 9/23/2009 心の断片197「最終目的」 「最終目的」 唐変木になればよい みんな一緒に 唐変木になればよい みんな一緒だから 唐変木がいなくなる だから みんな一緒に 唐変木になればよい 間違えた者が 間違えそうな者に アドバイスだ 有り難くいただくしかない 究極のアドバイスは なぜか虹色に輝いている だからみんな唐変木になればよい 戦争も犯罪も 唐変木にはかなわない 死も絶滅も 地獄さえも 唐変木にはかなわない ★ホームページに戻る 心の断片196「ビルの種族」 「ビルの種族」 夢と希望のビルディング 新しくあれ高くあれ 夢と希望も 大きくあれ だが ビルが群れ どのビルも高くなれば 互いにつながるぞ 全部つながれば ああ 地下都市の再現だ すべての屋上が 新たな地上だ どこもかしこも夢のない コンクリートの 多少でこぼこの 平らで平たい不毛の大地だ だが案ずるな 僕たちはその大地から またもつくつくと 別々のビルディングを そそりたたせるにちがいない この星のあちこちに 空洞を作りながら 伸びていく 伸びていくから伸びていくビルの 果てしない悲しみを 救えるものなどいやしない そうだ 別々になることが 夢と希望 同じではがまんのならない 迷子になりたい種族 誰も探しにきてはくれないのに 役目を間違えた ビルの種族 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑194「第四版211ページ・ウォンバット」 広辞苑第四版211ページ「ウォンバット」の説明に「体形はコアラに似る。」「夜行性で、草や根を食べる。」とあるが、これでよいのだろうか。 まず、「体形はコアラに似る。」という説明が腑に落ちない。 コアラが基本的には樹上で胴がほとんど垂直に近い姿勢をとっていることが多いのに対して、ウォンバットは他の哺乳類と同じく胴が水平に近い姿勢が基本だ。生態が大きく異なるから骨格も大きく異なるはずだ。骨格が異なれば、体形も異なるはずなのだが、広辞苑第四版では「体形はコアラに似る。」とある。ここが腑に落ちない。 基本的な姿勢の場合、コアラの脊椎は腰の辺りで弧を描き、後肢は膝が曲がった形、体勢はしゃがんだ形になっている。樹上ではなく地面を歩くときも、後肢は他の哺乳類と比べて前肢よりも少し長いのか膝が中途半端に曲がっていて不自然だ。これに対してウォンバットは普通の犬のような姿勢で大地に四肢をつけているから脊椎は大地に平行に並び、四肢も犬のような形になっている。コアラとはずいぶんと体形が違うではないか。もっとも、ウォンバットの四肢は平均的な犬のようには長くなく、どちらかといえば平均的な四足動物よりもかなり短い。 コアラは樹上生活者であるのに対して、ウォンバットは地面に穴を掘って巣を作る。穴を掘って巣を作る生き物にありがちな四肢の短さはウォンバットにも当てはまるということだろう。同時に、てのひらや指の頑丈さもウォンバットにはあるはずだ。 逆に、コアラは体長に対する四肢長さがウォンバットと比べて長い。これは枝をつかむためには必要な長さの分だけ長くなったのだろうか。体形の違いを大きく分ける四肢の長さもずいぶんとウォンバットとは異なる。どうして広辞苑第四版は体形がコアラと似ていると説明するのだろうか。 さらに、コアラの指は枝をつかみやすいように前肢の五本指は三本と二本に分かれて向かい合うような形になっている。これはカメレオンの指の関係と似ている。これは枝をつかみやすい形だ。写真で見るとカメレオンの指は三本の指が束になってくっついていて、残りの二本もまた束になってくっついているように見える。また、よく見ると、カメレオンの場合は、前肢と後肢の指の分かれ方が逆になっている。バランスよく力が散るように自然とそうなったのだろうか。 コアラの指はカメレオンのようにくっついて束にはなっているわけではないけれど、二本と三本に分かれて向き合うようになっているところは似ている。六本指だったら三本ずつに分かれたかもしれないが、五本指なので、どちら側を三本にするか、どのように迷ってどのように判断したのだろうか。 また、前肢とは異なり、体重を支えるのが専らな役目となったからだろうか、後肢の指は二本の指が合体して一本になり、爪だけが二本分になっているという一見して四本指になっている写真を見たことがある。このように、平均的な哺乳類と比べると奇妙な変形が見られる。これは平均的な哺乳類と比べるとコアラの生態が奇妙だからだろう。 これらに対して、ウォンバットの指は穴を効率よく掘り進めることができるように爪が鋭く手足の力も強いはずだ。枝を握って落ちないように握るのとはわけが違う。指も樹上生活者のように向かい合うようにする必要もない。穴を掘るのだから長い四肢は非常に邪魔だ。どうしても短くなくてはならない。 また、これまで自分が見てきたテレビや映画による映像に限って言えば、コアラは異様に緩慢な動きでナマケモノに近い印象で、ウォンバットの方は突進するイノシシに近い印象しかない。どうして体形が似てくるものかと思ってしまう。 しかし、よく見てみると彼らの目は確かに似ている。鼻についていえば、少しだけ似ているというという感じがする。尾が短いのも似ている。広辞苑第四版の「コアラ」の説明では、「尾はない」とあるとあるから、「ウォンバット」の説明では「尾はほとんどない」としている以上、これも同じではないが似ているということを言いたいのだろう。 ただし、「コアラ」の骨格標本を見る限り、「尾はない」のではなく、「尾はほとんどない」と説明しなければならないことがわかってくる。もっとも、骨としては少し尾はあるけれど、外に飛び出した尾はないという意味なのかもしれない。 これも、実際にコアラの尾を触って調べたのではないからわからないが、骨格標本を見る限り「尾はある」のだから、「コアラ」の説明では「尾はない」とするのは好ましくないように思う。別の言い方で説明しないと、骨を無視することになってしまう。例えば、「尾はあるが、短いために体外に目だった形として現れていない。」などというようにだ。 耳に至っては「コアラ」と「ウォンバット」とではまったく大きさが異なる。コアラの耳には長い毛がたくさん生えているからより大きくは見えるが、それを差し引いても、ウォンバットの耳よりもかなり大きく見える。これも実際に触って見たわけではないが、写真や映像で見る限りはかなり大きさが異なる。これは僕の目の錯覚なのだろうか。 このように、ごく一部に似たところはあっても、全体としての体形はほとんど異なるものとしか思われない。まさか、まるっとした感じ、かわいい印象だけで、体形が似ているとしたのではないだろうかと思ってしまうほどだ。 しかし、そうした印象も毛並が異なるので、実際にはかなり違うのではないかと思う。「コアラ」の方はほとんど動きがほとんどないせいか、体毛に流れがほとんどない状態で生えている。これに対して「ウォンバット」の方は高速で疾走することもあるせいか、一般的な哺乳類のように体毛の流れが空気の流れに逆らわない状態で生えている。毛並は体形の要素に含まれていないのかもしれないが、見た目の印象はかなり違ってくることだけは確かだ。 今回は、広辞苑第四版の誤植なのだろうか。例えば、「目鼻の形や尾の目立たなさだけがコアラに似る。」を「体形はコアラに似る。」としてしまったというように。しかし、ここまでくると誤植というよりも、「目鼻の形や尾の目立たなさ」という長々とした説明を、大雑把に「体形」という言葉にまとめてしまったという人為的な過失を疑わねばならなくなってくる。しかし、そんなことはあり得ないから、どう解釈してよいものか迷うところだ。 もしかすると、ウォンバットの仲間にコアラの体形に近いものがいて、コアラの仲間にウォンバットの体形に近いものがいるのかもしれない。すると、それらを比較した場合には「体形はコアラに似ている」という説明で十分であるのかもしれない。だが、残念なことに、広辞苑第四版の「コアラ」にはイラストが載せられているのだが、広辞苑第四版の「ウォンバット」にはイラストが載せられていない。コアラ似のウォンバットの姿は広辞苑第四版においては拝めないのだ。 この「コアラ」のイラストは僕がよく見る「コアラ」の映像と酷似している。ということは、広辞苑第四版が「ウォンバット」だと認識している「ウォンバット」は、実は「コアラ」によく似ているタイプの「ウォンバット」なのかもしれない。そのような「ウォンバット」の生態がどのようなものであるかは少しも見当がつかないが、体形が似ているのだから、恐らく「コアラ」の生態に似ているのだろうと思う。「コアラ」のように穴を掘らなければ、その四肢もやや長くはなるだろうから、「ホラズウォンバット」なるものがあれば、やや「コアラ似」なのかもしれない。しかし、僕としては、広辞苑第四版の「コアラ」のイラストに近い「大きく見える耳」、四肢の比較的長い「ウォンバット」は、具体的には想像しにくい。 しかし、地球の自然界は狭いようで広い。いろいろな体形の動物がいる。広辞苑第六版に「ウォンバット」のイラストが載せられていなければ、広辞苑第七版では載せてほしい。「ホラズウォンバット」というものがいるなら、そのイラストを載せてほしい。そうすれば、「体形はコアラ似似る。」という説明が生きてくるだろう。 逆に、体形が「コアラ」に似ていないタイプの一般的な「ウォンバット」のイラストを載せたいのなら、「体形はコアラに似る」という説明は削除しなくてはならないだろう。 さて、「夜行性で、草や根を食べる。」という説明があるが、これは単純に表現上の問題だ。通常なら、「夜行性で、草の葉やその根を食べる。」とするか、「夜行性で、草の葉や根を食べる。」と表現するところだ。「夜行性で、草や根を食べる。」という言い方でもよいかもしれないが、意味として「草」の中には「根」が含まれていないという認識なのだろう。つまり、広辞苑第四版では「草」イコール「葉」という認識をしている可能性が高いということだ。 しかし、広辞苑第四版の「草」ではそのような説明はなされておらず、「木質が余り発達しないで軟らかい茎を有する植物。」とある。つまり、草というのは「葉、茎、根などをひとまとめにした植物」ということだ。草を食べるということは葉も茎も根も食べるということだ。 ただ、「魚を食べる。」といったとき、「では、魚に含まれる骨も食べるのか。」ということになる。通常魚を食べるというときは、魚の肉を食べるということであって、魚の骨を食べるということではない。したがって、「草や根を食べる。」という表現は一応は成立する。しかし、「魚や骨を食べる。」という言い方が不自然な表現であるのと同様に、「草や根を食べる。」という表現は不自然なのだ。そこで、「魚やその骨を食べる。」という自然な表現が望まれる。つまり、広辞苑第四版のように「草や根を食べる。」という言い方は「草やその根を食べる。」という言い方にして自然な表現にしなければ、国語の規範となるような辞書としては認めがたいという話になってくる。 また、広辞苑第四版のような言い方にすると、「葉と根は食べるが、茎は残すのだろう。」という理解の仕方をする人が出てくる可能性がある。意味を特定していくための辞書なのだから、その説明に用いる表現は厳正でなければならない。いろいろな理解がうまれるのを防ぐために的確な説明を考えなければ、広辞苑利用者にいい加減な言語感覚が身についていってしまうおそれがある。これはきわめて恐ろしいことだと考えてよい。 さて、広辞苑第六版ではどのようになっているのだろうか。 ★ホームページへ戻る 9/17/2009 心の断片194「生き残し」 「生き残し」 きみが生き残ればいいよ 僕がやるか きみがやるか そんなこと関係ないよ やるかやらないかが問題で きみか僕かは問題じゃない 勘違いは駄目だよ たまたまだけど 君が生き残ったほうが いいわけだから 生きて人々の一人一人を 限りなく幸せにしてよ そうすれば つまり 人の世の終わりが早まって この役目を 人々の生きる目的を 果たすことができるよ きみを生き残して もう僕は 次の世界から見守るよ ★ホームページに戻る 9/13/2009 変な疑問106「二つの王位」 広辞苑を読んでいると、時々おかしなことに気づく。誤字脱字や内容がおかしいものも一、二ページ、あるいは二、三ページに一つの割合で頻出するが、それ
とは別に、自分の常識からは遠く外れたものにぶつかって、目を覚まさせられることがある。これはとてもよい刺激となって勉強になる。 たとえば、 王位が二つあることについてだ。これは広辞苑第四版206ページ「ウィリアム」の説明に次のように記されている。「②(三世)オランダのオレンジ公ウィレム二の子。一六七七年メアリと結婚、名誉革命によって八九年メアリと共にイギリス王位に即く。(一六五〇 一七〇二)」とある。危うく読みとばすところだったが、「メアリと共にイギリス王位に即く」というのがおかしいではないかと目を疑った。 「共に 王位に」あるということは、王が二人いるということになる。これはいったいどういう折衷案なのだろう。一つの王位に二人が就くということはどういう事情か らなのだろう。また、権力を二分したのか、同等の権力を持った人物が二人になったのか、あるいは片方が名目だけの王位なのかということも興味深いところ だ。 ★ホームページに戻る 心の断片193「秋三句」 「秋三句」 秋月は低くあかりて がしゃどくろ 満月が地平線近く、薄いピンクがかった灰色に輝いている。クレーターはいつになく明確に影を作り、満月とはいっても少しゆがんできているから、もう巨大などくろのようにしか見えない。 やや月が近いのだろうか、いつもよりも増して大きく見える。こうなると妖怪がしゃどくろだ。やつが浮世絵の闇の中、頭からこちらへめり込んでにじり寄ってくるような不気味さ。まるでこの世界とは違う原理で動く何かが、この世界の僕をどうにかしようとしているようなのだ。 拝みては ひとり自分の秋の月 よいこと悪いこと、つまらないこと、いろいろ頭に思い描いていると、ふと目に入る窓の月。僕の心のうちを知っているのはさっきから僕を眺めおろしていたおまえだけだよね。誰にも渡すわけにはいかないけれど、ただ光をくれるだけなら、そうやっていつまでも空にかかっていれば、まあそれでもいいよ。 明日もこの時間、この窓に同じ姿で現れてもらわなくちゃいけないんだが、そういうわけにはいかないかい。 秋の虫 りんとも鳴かず 闇をはう 昨日まで耳やかましく夜を独占していた虫たち。どうしたんだ。今日は一匹も鳴き声が聞こえない。どこに行ってしまったんだ。いや、どこにも行きはしない。翅を冷たく露に濡らし、よろよろと砂粒を動かしながら、たいした理由があるわけでもないのに草の下をゆっくりと這い回っているに違いないのだ。 だが、その後姿を思い描いていると、急に寂しく恐ろしくなってしまう。もう一度鳴いておくれよ。命があるかぎり、鳴き続ければいいじゃないか。 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑193「第四版209ページ・ウェディングリング」 広辞苑第四版209ページ「ウェディングリング」の説明はこれでよいのだろうか。 「ウェディングリング」の説明として「結婚記念の指輪」とあるが、そもそも「結婚記念の指輪」と「結婚指輪」の違いはどこにあるのだろう。 「結婚指輪」はよく耳にすることばだが、「結婚記念の指輪」という言い方はあまり聞いたことがない。前者が指輪そのものを指すことばであるのに対して、後者が指輪の意味を説明するためのことばだからだろうとは思う。 それでは「結婚指輪」とは何だろう。本来は、婚姻届を出したときに感じる「結婚という契約」を交わした証拠の品としての指輪だという解釈が一般的なものではないかと思う。このように西欧風に契約だという見方をすれば、伴侶に対して、両家の家族に対して、社会に対して、この婚姻関係に重い責任を感じて受けとめているという意思表示としての指輪であるべきだ。だから、通常この指輪は婚姻関係が続いている間は「日常的にはめ続けられるもの」という性格を持っているものだと解釈されることが多いのだろう。 ここで気になるのは説明の中の「記念」ということばだ。記念品は普通は傷つかぬように大事に保管されるものだ。記念樹などは植物だから風雨にさらされても仕方ないが、傷つけたり切ったりはしないものだ。指輪として身につけ、常に「記念」していなくても、実生活で結婚生活が続いているのだから、記念としての指輪は美しく豪華なものにし、普段は大事に保管しておいて、結婚式の思い出として時折取り出しては眺めるものであってよいのではないだろうか。 これに対して「結婚指輪」は、常に指にはめておき、既婚者であることを示したり、伴侶との関係を顧みたりして、社会的にまた個人的な責任を果たすための自覚を促す品として機能するものではないかと思う。日常生活で身につける指輪だから、傷ついたりすり減ったりする機会が多い。だから、シンプルで地味なデザインとなるのだろう。 実用品と記念品という違いが指輪にあるとすれば、ウェディング、つまり結婚式という記念すべき式にまつわる指輪を「ウェディングリング」とし、マリッジ、つまり「結婚という実生活」を象徴する指輪を「マリッジリング」と呼び分けるようにすればどうだろうか。 これらとは別に「エンゲージリング」と呼ばれる婚約指輪というものがある。これは「期間限定ではめられるもの」という性格を持っている。すると、おかしな使い分けかもしれないが、「期間限定ではめられるもの」「記念の品として保管されるもの」「日常生活にはめ続けられるもの」となり、これら結婚関連指輪によって二人の関係が指輪という目に見える形で示され、おそらくその関係が強化する方向ではたらくように機能するのだろうと思う。 ところで、「ウェディングリング」と「マリッジリング」は同じ意味合いのものなのだろうか。だとすれば、広辞苑第四版の「ウェディングリング」の説明に「マリッジリング」ということばを入れるよい。 では、「マリッジリング」という見出し語は広辞苑第四版にあるのだろうか。残念ながら期間限定の「エンゲージリング」は載せられているが、永遠(?)の「マリッジリング」は見あたらない。これはどうしたことだろうか。 「ウェディングリング」という意味に「結婚記念の指輪」と「結婚指輪」の両方の意味があるか、最初からそのような意味の区別がないかどちらかだ。また、マリッジリングという見出し語がないことと、「ウェディグリング」の説明の中に「マリッジリング」ということばがないことは、広辞苑第四版の編集時に「マリッジリング」ということばが日本では一般的ではなかったのかもしれない。しかし、一般的ではない語句が非常に多く載せられている広辞苑であることから考えると、この理由は少し考えにくい。 では、敢えて「マリッジリング」を見出し語から外したというのだろうか。しかし、その理由も見えてこない。冠婚葬祭のなかでも結婚という人生の中でも最も大きな要素にまつわる大事なものなのだから、それをおろそかにするということも考えにくいのだ。 今回は広辞苑の説明が怪しいだけでなく、僕の指輪に対する感覚の方も怪しい。ここで、「ブライダルリングは?」と言われたら、もうお手上げだ。どれもこれも日本語でしかも意味がきちんとわかるように「○○のための○○指輪」といちいち説明をしてほしいところだ。 さて、リングというものが一つの象徴であるとすれば、それは何だろう。ミニチュア化されてシンプルにされるという過程を経てシンボルとなるパターンであったとすれば、その原形は枷かもしれない。手枷足枷の枷だ。本来、それは身体活動の自由を奪うために罪人にはめるものだ。 だからといって、結婚は自由を奪うものではない。確かに、これまでのような「奔放な自由さ」は奪われることがあるかもしれないが、創造的な無限に近い自由が手に入る。ただし、その自由を感じて生かすことのできる体力と知力と経験と人間関係と目指すものを持っていなければ、つまりそうした土台となるもの、人間としての資格のようなものがなければ、やはりただの束縛となり、手枷足枷としてしか感じられないだろう。幼子に戦車を与えても使いこなせないのと同じだ。大きく重いだけで何の役にも立たない。とにかく手や足が届かずに操作できないのだ。 さて、その枷はつなぎ止められていない。鎖のついていない枷が何を意味するのか。それを了解して受けとめず、単なる指の装飾品だとか、記念品だとかいう表面的な受け取りをしている限りは覚悟ができない。覚悟のなきところ進歩はありえず、足がかりもないのに幸福感だけを求めて挫折するという失敗を繰り返せば、そのうち相手にその原因を探すようになり、社会文化によってせっかくお膳立てされた関係が破綻することもある。 残念ながら、こうした破綻が社会に対する背信行為となるものだという「新しい」解釈をこれからしていかねばならない時代になってくるだろう。 ★ホームページに戻る 9/12/2009 怪しい広辞苑192「第四版211ページ・魚座」 広辞苑第四版211ページ「魚座」のイラスト。このイラストでよいのだろうか。 どうにも解せないイラストだ。二匹の魚が紐で結ばれているイラストの全体構造はこうなるのだろうが、二匹のうち一匹の尾びれがないのはどうしてだろうか。 いろいろな魚座のイラストを見てみるのだが、どれにも両方の魚の尾びれは描かれている。今回、広辞苑第四版で、あえて片方の魚の尾びれを描かなかったのは、果たして星座にまつわる神話の内容に従ったものなのだろうか。 ところが、魚座にまつわる神話はほとんどなく、尾びれについてのいわれも見あたらない。神々が川のほとりで宴を催していたときに怪物が現れて多くの神々がいろいろな姿に身を変えて逃げたとき、アフロディーテとその子エロスは魚に身を変えて逃げたというものだが、そのときに離れ離れにならないようにお互いを紐で結んだという神話が残っている。このときの姿が星座の形らしい。 その話に従ってイラストを作るなら、結び目は本来魚の尾びれ付近に描かれるはずだと思うのだが、尾びれ付近には紐が巻かれているだけで、結び目はない。結び目はどこに描かれているかといえば、それぞれの魚の尾びれ付近から伸びた紐がその先で結ばれている形になっている。つまり、二本の紐が魚と魚の中央で結ばれていることになる。これも解せない。 怪物出現に驚いて逃げるとき、ばらばらにならないようにお互いの体を紐で結んだのなら、通常は一本の紐の両端をお互いの体に巻きつけて結ぶのが自然だからだ。一本に紐で結べばワンステップですむ。まず自分に巻きつけて、それからお互いの紐をまた結ぶというのでは手間がかかってしまう。 広辞苑第四版の魚座のイラストでは、それぞれの魚の尾びれ付近から紐が一本ずつ出て、その紐の端が結ばれているのだ。よく見ると、尾びれ付近には結び目は描かれていない。 ここで考えられるのは、その紐自体が本当の一本の紐ではなく、魚に身を変えたときに尾びれ付近から伸ばしたお互いの肉体が紐となったものだというストーリーだ。つまり、怪物から身を隠して逃げるには魚になって水に入るのが最もよい方法だが、魚には握る手がないので、お互いに離れ離れにならないようにするには手を紐に変えたという解釈だ。これなら、それぞれの魚から紐が伸びて、その先で結ばれることを思わせるような紐の中央に結び目が来るようなイラストになったことには意味があることになる。 また、そのように考えれば、尾びれ付近が紐で結ばれて結び目があるはずなのにそれが描かれていないということを理解することへの抵抗感が減る。つまり、手のない魚になってからでは、本物の紐を使って自分の尾びれ付近で結びつけることが不可能だと思われるからだ。言い換えれば、紐がお互いの肉体の変化ならば、手をつなぐように二本の紐の先同士を結ぶこともできるだろうというわけだ。 解釈にやや無理はあるだろうが、そうした意味では、広辞苑第四版のイラストは尾びれ付近の結び目がないので、他の資料のイラストよりも多少は道理に合ったものとなっているようにも感じる。 ところが、このように無理やりこのイラストの紐についての解釈をしても、このイラストの片方の魚の尾びれがないことの説明はどうしてもつかない。まだ、尾びれがないことに関する神話を僕が見つけてないだけなのかもしれないが、見つけたとすると、今度は他の資料のイラストが神話との矛盾を抱えることになってしまう。実に困ったことだ。 もともと空の星を勝手につなげてつくった星座なのだから、その形など適当といえば適当なものだ。しかし、不自然なものについては説明が必要だろう。 広辞苑第三版にはなかった星座のイラストだが、第四版で載せられるようになった。このこと自体はとてもよい。しかし、射手座の場合もそうだったが、イラストの解釈にまだ困難さを感じる。もちろん、これは広辞苑だけのせいではないだろう。イラストのもとになる資料があるはずだからだ。ただし、それを選択したということにおいては責任が発生する。説明責任もだ。 つまり、少なくとも一般的な資料にあっては二匹の魚にそれぞれ描かれている尾びれをあえて描かないようにしたのならば、それなりの説明を入れるべきだということだ。例えば、「○○○ので、尾びれのない姿で描かれている。」というようにだ。イラストスペースが十分にとってあるのだから、そこを少し分けてもらって、一見おかしなイラストだと思われてしまうものに説明をつけて明確に知らせる方がよいと思うのだ。それが辞書の使命というものだろう。さて、広辞苑第六版はどのように描かれているのだろうか。 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑191「第四版208ページ・ヴェスプッチ」 広辞苑第四版208ページ「ヴェスプッチ」の説明。「南米沿岸を航海し、同大陸が新大陸だと唱えた。」とあるが、これは西暦何年のことなのだろう。 航海をした年も示されていなければ、その大陸が新大陸だと唱えた年も示されていない。これは諸説あって説が定まらず、掲載できなかったということなのだろうか。 新大陸発見という話題でかつて第一に名前が挙げられるのはコロンブスだった。因みに広辞苑第四版の「コロンブス」の説明の中には「98年に南アメリカ北部、1502年に中部アメリカに到達。」とある。「98年」というのは、1498年ということだろう。しかし、実際にはコロンブスはアジアに到達したと唱えていたようだ。「ヴェスプッチ」の説明には「新大陸だと唱えた」とあるが、「コロンブス」の説明には「アジアだと唱えた」という記述がない。これも不思議だ。 結局、「ヴェスプッチ」の説明には「年」の記載がなく、「コロンブス」の説明には「主張」の記載がない。しかも、「ヴェスプッチ」の説明では「南米」だが、「コロンブス」の説明では「南アメリカ」「中部アメリカ」だ。 辞書の利用者は、関連語句をいっしょに調べることが多い。特に比較されやすい事柄については、その記述を項目単位で比べやすくするのが道理というものだろう。説明の構成についてのこの不統一感をぬぐいされないというところが広辞苑の弱いところだと思う。つまり、調べがいが薄いのだ。 こうしたところを補正していかないと、さまざまなことを曖昧なままにする習慣、つまり思考停止の習慣を知らず知らずのうちに身につけることになりかねない。これを学習者の自覚の問題だと切り捨てるのは無責任な態度だろう。もし、そのように主張する場合には、学習者の自覚と問うことのできる年齢と思われる年齢を独自に示し、利用対象年齢とするのがよいだろう。 確かに学習者の自覚が高ければ、この編集上の不統一をきっかけとして、知識欲をかき立てられ、新たに事実を追究する姿勢をもつようになるだろう。そういう意味ではこうした不統一の不親切自体に価値があるように思われる。 こうなると、広辞苑のこうした特徴を理解した上で購入できるようになっているかどうかが問題とされなければならない。先程の「利用対象年齢の明示」は最低限必要だろう。これを怠れば、万能最高の中型国語辞典といううたい文句だけで購入してしまう人々がでてくる。広辞苑が肌に合わないという人がいるのはこうした宣伝不足の被害者なのかもしれない。 広辞苑第六版でそうした大改訂がなされている可能性は低い。広辞苑第七版に期待しよう。 ★ホームページに戻る 9/7/2009 心の断片192「雑踏の幻影」 「雑踏の幻影」 パイナップルオレンジのかおりを ポケットに入れ 颯爽と街歩く君 半透明の上着を ことばで飾る あたり一面を 小さなハミングで まばゆき光 パラダイスに変える 僕の額にミントを一葉 何の前ぶれもなく 神がかった指先で はりつけた そこの君 まさか ああ そうか君は 迷子になったまま 年をとれなかったんだね 僕もだよ ★ホームページに戻る 9/4/2009 怪しい広辞苑190「第四版208ページ・ウェストミンスター」 広辞苑第四版208ページ「ウェストミンスター」の説明。「ロンドンのテムズ川左岸に位し、川岸からハイド-パークに至る地域」とあるが、どうにも時代がかっていて、平成時代には不似合いな表現ではないか。また、このような説明方法では不正確な説明になっているように思う。 このような表現をしていると、古めかしさによって権威的なものが醸し出されてくるという効果はあるかもしれないが、そのような見てくれは平成の時代にあっては既に逆効果で、陳腐化してしまうように感じられるのは僕だけだろうか。 どこが古めかしいかと言えば、「位し」という古語だ。「位し」を見た高校生や大学生はどう思うだろう。「くらいし」と正しく読むかもしれないが、もしかすると「いし」と読んでしまうかもしれない。あるいは「位置し」と勘違いしたまま読み飛ばしてしまうかもしれない。 古語を用いたのはどういう理由からだろう。用例の出典として古典を選択して紹介することは、語義の歴史を感じさせたり、古い時代の使われ方を見て、本義を感じ取るという意味では広辞苑の編集方針として正しい選択だと思う。しかし、用例を示した部分ではなく、意味の説明部分にあたっては、出版する時代の標準的な表現方法や用語に従うのが道理ではないだろうか。 説明方法についてもこれで妥当なものなのかどうかは疑問だ。そもそも「左岸」とはどちら側が左岸だということかを了解している人が広辞苑を必要としている人々のうちにはどれほどいるのだろうか。 また、左岸といっても、それは川だから、川の長さだけ左岸がある。いくら蛇行していても川であるから「左岸」というのは「線」だ。この長い長い線に対して、ハイド-パークというのはいくら広いからといってもこの長い長い左岸の線を持つ川と比べれば「点」にすぎない。 広辞苑第四版では、「ウェストミンスター」の場所を説明するときに、この「線」と「点」の二つによって地域を決定するという離れ業を行っているのだ。これが間違いその一。間違いその二は、川が蛇行しているということを無視した説明になっているということだ。 我々日本人は、地理をあまり勉強しないですんできた若い世代の人々を除き、ウェストミンスターという地域がイギリスにあるということと、イギリスの南部方面を東に向かってテムズ川が流れているということぐらいは、中学校である程度真面目に社会を勉強した人ならば、おぼろげながらでもわかっていることだろう。ハイド-パークとアメリカのセントラル-パークとを混乱していたとしても、「ロンドンのハイド-パーク」と聞けばすぐに聞き覚えはあるというほどには受け入れやすいものだろうと思う。 ところが、広辞苑第四版のように、川という「線」と公園という「点」を結んだ説明の仕方をしてもらっても、利用者としてはその説明によっては地域を特定することができないのだ。 普通は、周知の地点である一つの「点」を基点としてどちら方向にどれだけ行ったところとか、そうした「点」と「点」を結ぶ一帯とか、あるいはそうした「点」と「点」とを結んだ「線」が互いに交わる点を中心とする一帯とかいうスタイルで説明しなくては、場所を説明したことにはならないはずだ。 広辞苑第四版の説明は、川が蛇行していることを無視しているから、どうしても次のような疑問がわいてくる。 ハイド-パークから南にかけてのテムズ川左岸の地域もウェストミンスターなのだろうか。また、ハイド-パークから南西にかけてのテムズ川左岸の地域もウェストミンスターなのだろうか。 実際がどうあれ、このような疑問が出てくるようでは、既に辞書としては不始末をしたといってよいと思うのだが、どうだろう。 こうなると、「位し」などという古語を使用することが、なおいっそう陳腐なことに思われてくる。歴史と実績のある広辞苑にあっては日本を代表する辞書であってほしいので、何とか表現を変えるわけにはいかないものか。広辞苑第六版ではどのような説明の仕方になっているのだろう。 ★ホームページに戻る 9/3/2009 怪しい広辞苑189「第四版204ページ・ヴァイシャ」 広辞苑第四版204ページ「ヴァイシャ」の説明。「インドの四種姓(ヴァルナ)制で、第三身分」とあるが、これでよいだろうか。 「ヴァルナ」は広辞苑第四版204ページに「インドの種姓制」とある。これが正しければ、「ヴァルナ」自体が「種姓制」なのだから、「ヴァイシャ」の説明において「インドの四種姓(ヴァルナ)制」というとき、その「(ヴァルナ)」の語の位置がおかしいように思うのだ。 次の二つのうちどちらにしなければ、「ヴァルナ」を制度名として説明した広辞苑第四版自体の矛盾が生じることになると思うが、どうだろう。 ①インドの「四種姓制」(ヴァルナ)で、第三身分 ②「インドの四種姓制」(ヴァルナ)で、第三身分 辞書は限られた字数で表現しなければならない宿命にある。これは紙面に限りがあるということだけではなく、利用者の国語力がまだ低い場合に多くの字数を費やすことによって、かえってわからない語句を多用することになるのを避けるという意味もある。詳細な説明であるにこしたことはないが、簡単明瞭な説明の方がダイナミックな理解力や幅の広い語彙力が育つようには思われないか。もちろん、簡単明瞭な説明と粗雑で曖昧な説明とは異なるものだ。 いずれにせよ、少ない文字数になるので、修飾語がどの語を飾るのかということにおいて、できるだけ誤解が生じない語順を考えたり、「括弧」や「かぎ括弧」を有効に使って、修飾語がかかっていく語句が目で見てわかるようにすることが重要な工夫となるように思う。 この努力を怠れば、利用者には誤解が生じたり、不明確でわかりにくいものを提示された不満感が残るようになる。ただし、電子辞書化されてしまえば、それほど神経質に字数を考えなくてもよいかもしれないから、内容に合った分量でそれぞれの見出し語の説明をすればよい。 さて、第六版でどのようになっているのだろうか。何とかわかりやすい表現になっていてほしいものだ。 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑188「第四版199ページ・印相(いんぞう)」 広辞苑第四版199ページ「印相」の見出し語。これは「いんぞう」という見出し語だ。それはそれでよいのだが、同じ「印相」でも「いんそう」というものがあるのに、それが掲載されていないのはなぜだろうか。 「印相(いんぞう)」と「印相(いんそう)」は全く異なるものだから、それを区別するためには両方を載せてはっきりと説明するのが辞書の役目ではないだろうか。 掲載されている「印相(いんぞう)」は、一般人が日常生活で使うことばではない。それに対して、「印相(いんそう)」はそれほど頻繁ではないが新しく印鑑を作るときには必ずといってよいほど使われることばだ。 では、よく使われることばだから掲載しないのだろうか。どうもそうではなさそうだ。「家相」は広辞苑第四版488ページに、「手相」は広辞苑第四版1762ページに、「人相」は広辞苑第四版1974ページに掲載されている。これはいったいどういうことなのだろうか。広辞苑第四版における、運勢や運命にかかわるとされているものに対する掲載不掲載の評価の基準はどこにあるのだろう。どれもよく使うではないか。 また、次のことも解せない。これらの価値についても広辞苑第四版では次のような重みづけがなされているのだ。このように、一口に「○○相」といっても、広辞苑第四版では、ランキングの如きものがあるような書きぶりに見える。しかし、これらは何を根拠とした、誰によるランキングなのだろうか。非常に解せないことだ。 ①「印相(いんそう)」は掲載されていない。 ②「家相」は「俗信」と説明されている。 ③「手相」は「(運勢が現れるという)」と説明されている。 ④「人相」は「人の性格・性情・運命が現れていること」と説明されている。 また、「手相」の説明には「運勢」という語が用いられ、「人相」の説明では「運命」という語が用いられている。確か、「手相」には運命線というものがある。「運勢」と「運命」は異なるものだが、ここではこの意味の違いをどのようにとらえて説明しているのだろうか。 さらに、「手相」の方は「現れるという」という書きぶりだが、「人相」の方は「現れていること」という書きぶりになっている。このような書きぶりの違いの裏にはいったい何があるのだろう。 ところで、「印相(いんそう)」は変わらぬもの、「家相」は比較的変わらないもの、「手相」は意外と変わるもの、「人相」は歳とともに変わるものという違いがあるのかもしれない。まさか、この変わりやすさの違いに目をつけて、運勢という変わりやすいものとの相性の度合いを判断したのだろうか。 しかし、印鑑も使っているうちにすり減り、扱い方によっては欠ける。逆に人相など鬘や特殊メイクや整形手術でごまかしが利くものにさえなっている。 「家相」も俗信とされているが、家という環境が住人に与える影響ははかりしれない。「家相」といっても家の間取りだけではないだろう。材質や色なども肉体の健康や精神状態にまで大きな影響を与えるから、大きな問題を含んでいるものだ。もっとも、「家相学」で材質や色などを扱っているかどうかは知らない。 「家相」を俗信というならば、他のものも「俗信」といってもよいような面がたくさんあるが、それでも俗信という説明を他のものにはつけない理由は何だろうか。広辞苑第四版は、「手相」や「人相」と比べ、「家相」だけが俗信の要素が特に強いという判断を示したものなのだろうか。「印相」にいたっては俗信ですらないので不掲載ということなのだろうか。 印鑑は重要な契約時に力を発揮する。その契約は人生を左右する。印鑑の印影によって、込めた心の印象はずいぶんと変わってしまう。長く記録として残るものだけに、また、言い訳をすることのできる生き物ではないだけに、そして、日本にあっては決しておろそかにしてはいけないものだと思う。 もちろん、「印影の印象」と、「捺印する行為」や「契約内容」などの間にはそれぞれ関係などない。関係がないのだが、「印相(いんそう)」ということばがある以上は掲載すべきなのではないだろうか。見出し語にしてはまずい理由があれば別だ。また、見出し語にするほどではないというのなら、その判断の基準は何かということが知りたいのだ。「印相(いんぞう)」を掲載しているだけにだ。 また、印相(いんぞう)よりも、印鑑の相、つまり「印相(いんそう)」の方が僕たちにとっては身近なものだという単純な理由からも、掲載を考えてほしいところだ。そうした身近なもの、文化の一つを掲載しないことによって得られるものはなんだろう。おそらく得られるものは、紙面のスペースぐらいのものだ。 辞書は人々の意識から消えそうなものも掲載しておくというタイムカプセルのような機能もあるのではないかと思うのだ。消えそうだからこそ、死語となりそうだからこそ掲載する価値があるともいえる。古語辞典はそうした意味で作られているわけではないけれど、死語がたくさん載せられていて、そこで保存されている。古語辞典に掲載されているものはよいが、これから捨てられていく語は古語辞典にも載らないから、最後には本当にわからなくなってしまう。こうした事態は絶対避けたい。 さて、広辞苑第六版ではどうなっているだろうか。 ★ホームページに戻る 9/2/2009 心の断片191「秋鳴く虫たち」 「秋鳴く虫たち」 幾千万年も 嘘をつかない虫たちが 今宵も 美しく鳴く コオロギ スズムシ カネタタキ 夜露の草むらで どうしておまえたちは虫なのだ それは僕が人間であるのと 同じなのか ならば その存在が嘘なのだ 怪しい嘘なのだ だから そうか 美しく鳴くしかないのか 歌が終わるまで 夜は君たちにあげよう ★ホームページに戻る |
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