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    11/23/2009

    変な疑問110「ヒル」

     ヒルという生き物がいる。ずいぶんと嫌われている。音を立てずに忍び寄るからだ。血を吸うからだ。そしてなかなか離れないからだ。しかし、何より見た目だ。
     音を立てないのは仕方ない。音を立てたら獲物が逃げてしまうからだ。もしギチギチと凶悪な鳴き声をあげながら襲ってこようものなら、絶滅させる勢いで人間がヒル狩りに立ち上がるに違いない。ヒルが自己防衛のためにおとなしく黙っているのだと考えるのがヒルに対する相当の対応だと思う。
     血を吸うのも仕方ない。人間はどうか。血を飲むだけにとどめて相手を生かしておくなどという慈悲など持ち合わせていないではないか。殺さないのは乳を搾取するウシやヤギぐらいだろう。さまざまな生き物の皮を剥ぎ、肉を切り裂き、骨を断ち、内臓を切り刻むではないか。塩をすり込み火で焼くに至っては悪魔の所業にも劣らない。そうした生き物が血だけ吸って生きているヒルのことをとやかく言うのはおかしいではないか。
     なかなか離れないのも仕方ない。いつ食事ができるかわからないのだ。簡単に退散する余裕などないのだ。文字どおり命がかかっている必死の生き様が人間の目にどのように映ろうと、ヒルはお感じないかもしれないが、この必死の生き様を非難する資格を誰が持っているというのか。
     見た目も仕方ない。人間に好まれようと生まれたわけではない。必要に応じて設計変更を余儀なくされ、姿が変化してきた末路だ。いや、時の流れの傑作だ。生き物はすべてそうだ。人間はこうした自然の営みまでをも否定しようというのだろうか。ハンサムなヒルや不細工なヒルというのもおかしいが、そうしたレベルではなく、ヒルであるという存在のレベルで否定されるのでは、この世に生を受けた者、親を受け継いだ生き物としては身も蓋もないではないか。
     もちろん、山でヒルに出会ったら踏みつぶし、血を吸っていたらライターで炙る。それは自然な対決行為だ。しかし、それはそれとして、生きている者同士、その意味で戦友だ。ヒルの方に心がなければ、対決しながらも人間の方で思いやりの心をもつべきだと思うのだ。思いやりで語弊があるなら、尊敬だ。同じ星で同じ時代を生きる者同士が、励まし合ったり尊敬し合ったりするということは、そんなにおかしいことではないだろう。
     かつて蛭医者という人々が蛭を使って医療行為を行っていた時代がある。血が止まらなくなるのを利用した医療行為だが、彼らはヘパリンのようなものを出して吸血の役に立てているらしい。ヘパリンといえば広辞苑第三版を思い出すが、広辞苑第三版どおりの説明ならば、ヒルは血を吸うことが不可能となり、絶滅どころか最初から存在しない生き物だったことになる。
     とにかく医療にも役立つ生き物なのだから、もう少し見直すべきだと思う。しかし、ペットにしようとは思わない。生理的にやはり気持ち悪いからだ。ペットは基本的には毛がふさふさしていなくてはならない。その毛を撫でていると血圧が下がるという話もある。逆にぬるぬるしたヒルが取り付くと血圧はあがるかもしれない。では、低血圧の治療に役立つかもしれない。まさか。
     このように、ヒルの立場に立てば人間の不当な扱いを非難することができるが、冷静に考えて人間の立場に立つと、とても戦友だなんて思えない。敵そのものだ。それは、最も残忍な捕食者である人間のプライドをこっそり傷つけていくからかもしれない。
     献血車で400ミリリットルも血を提供するのだから、血を取られること自体にそんなに抵抗があるわけではない。やはりあの見た目がいけない。もし、ティンカーベルみたいな小さな女の子がすてきな笑顔でやってきて、ウインクしながら「吸ってもいいかしら。ウフフッ。」と甘えたら、きっと「いいよ。明日も来てね。」と答えるに違いない。たとえかまれて痛くてもだ。
     ヒルの見た目をもっとよいものにできないものだろうか。毛を増やしても毛虫に近くなるだけだ。やはり足や尻尾がなくてはいけないだろう。義足や義眼は何とかならないか。かわいい声で鳴くことができればさらによい。そうだ。日本のロボット技術でヒルを救ってやろう。手のひらサイズの手乗りタイプがよいだろう。見目麗しく……。ヒル……。ヒルコ。蛭子。神話では、骨すらない体のととのわぬヒルコは葦船で流された。流されたといえば、……手塚治虫の「どろろ」の百鬼丸ではないか。百鬼丸は川に流されたのち、医師に拾われたという設定だ。義手義足を取り付けられ、義眼も入れてもらい、人の形となった。
     実際に流れてくる水死体はぶくぶくに膨れあがってただの肉の塊のようになるから、まるで相撲取りの土左衛門のようだということで、土左衛門と呼ばれることがある。また、海で上がる水死体は「えびすさま」という。漁船などはこれを引きあげると縁起がよいということになっていたらしい。魚がついばみに寄ってくるからだろうが、同業者である可能性が高いということもあるだろう。自分もそうなる可能性も高いから、手厚く葬るということがこの縁起担ぎの土台としてあったのだろう。「えびすさま」は恵比寿大黒のえびすで、釣り竿をもって鯛を抱えている。だが、流れてきた蛭子(えびす)様、つまり水死体が真の姿なのかもしれないと思うと、何か不思議な感じがする。もともと神様なのだから不思議であって当然なのだが……。
     それにしてもヒルはかつて何を食べていたのだろう。最初から血なのだろうか。血でなければ、いったいいつから血を吸うようになったのだろう。変な疑問はいつも僕の頭を悩ませてやまない。
     
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    10/19/2009

    変な疑問109「髑髏マークと内臓マーク」

     髑髏マークは至るところで見かける。死んでも残るのが髑髏だから、そこに魂を感じるのかもしれないが、本当に魂を宿していたのはどちらかと言えば、内臓のはずだ。
     髑髏は格好いいのかもしれない。固く、形が定まっているので、硬派路線にはぴったりだ。特に頭蓋骨の目は黒く描かれてサングラスのようだ。まるでその裏に眼球があってこちらを鋭く見つめているかのような印象を与える。
     これに対して、内臓は格好悪いのかもしれない。軟らかく、形が崩れやすい感じがするので、冗談だが、軟派路線にはぴったりかもしれない。
     髑髏は怖いかもしれないが、内臓は気持ち悪い。だが、どうして気持ち悪いと感じるのだろう。これはさらされて綺麗になるものと、腐ってにおいを発生させるものとの違いからくるものだろう。また、骨は形状もはたらきも単純で理解しやすいが、内臓は形も色もはたらきも得体が知れないというところがあるからかもしれない。
     髑髏のアクセサリーは多いが、心臓ペンダントとか肺臓ネックレス、大脳指輪とか小腸ボタンなどというものはない。眼球も内臓ならば、眼球イヤリングとか眼球ブレスレットがあってもよさそうだが、やはり見つからない。明らかに不公平ではないか。
     ここはひとつ医療関係で使われているような抽象化した内臓マークあたりから進出していくのがよいだろう。まず、目を慣らすことだ。

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    10/17/2009

    変な疑問108「一瞬の判断」

     一瞬の判断の地道な連続が人生を成り立たせていくのも確かだが、たった一度の一瞬の判断で人生の色合いを決定してしまうこともある。
     そうした重要な判断も、後になってからその重要性を確認することが多いのではないだろうか。判断による効果が現れてきてから自己評価をすることになるから、一定時間が経過した後にその重要性に気づくのだ。特に大失敗をしたときには深く自己評価を行うから、その判断が何に始まるものであったかが明確化されていく。その過程でかつての判断が評価され、今後の人生において失敗がないように役立てられることになる。
     人生の達人と称される不思議な人々がいるが、そうした人々はきっとその判断を下すときに、その判断の重要性を比較的正しく認識できるような人々なのだろう。 もちろん、中には後づけの解釈によって上手に説明をし、過去を再構成するような作業によって自分を「人生の達人」のように見せている人々や、実はそうでもなく、単に周囲の人々から祭り上げられて本人も少し舞い上がった状態で「人生の達人」を軽く自画自賛している人々も案外といるのではないかと思う。
     一方、通常の人々の判断は、人に勧められて素直にその道を選択したり、人に勧められたのに反発して逆の道を自動的に選択したり、世の中の流れに乗るつもりでその道を選択したり、自分自身が世の中の流れをつくるつもりでその道を選択したりすることが多いのではないだろうか。忙しい毎日の中で、そうしたいろいろな判断のパターンの中から直感的に判断方法を選ぶという省力化を試みているように見える。
     しかし、これはある意味で思考停止だ。もちろん、選択するには思考することが必要だが、選択肢自体は与えられたものなので、他人の考えた選択肢自体を評価したりする作業やそれらの選択肢がつくる枠のなかで比較するという作業を支える思考だ。決して、選択肢自体を自ら設定したり、他人の考えた選択肢を深化させる作業を支える思考ではない。
     これに対して、独自に世の中とその中で起きる事や生み出された物を解釈した上で、自ら切りひらいた道のそれぞれを選択肢として設定していくのはかなりエネルギーを必要とする作業だ。こうした作業を連続して行ったり、同時に行ったりするのは難しい。僕たち一般人には無理があるのだ。なぜなら、それと同時に一般生活も成立させていなければならないという現実があるからだ。
     どちらにしても、深く考えて意図的に判断した後にその道を選択する場合と、あまり考えずに無意識のうちに短時間で判断した後に選択する場合があるので、選択自体の善し悪しはまた別問題だ。
     また、結局はどちらの場合も最終的に判断するときは、その判断が良かれ悪しかれ一瞬だ。この一瞬というのは時間にしてどのぐらいなのだろう。それは何がどうなるために費やされる時間なのだろう。その時間に個人差はあるのだろうか。あるとすれば、それは何による個人差なのだろうか。
     そのときに僕たちの頭の中では一体全体何が起きているのだろう。

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    10/10/2009

    変な疑問107「蟻の感覚」

     蟻などは甘いものがあれば自然に寄ってくる。人間もまた甘い香りがすれば寄ってくる。だから、蟻も人間も同じような感覚をもっていると思ってしまうが、はたしてそうなのだろうか。そうだとしても今度は感じ方が同じかどうかがわからない。蟻の感覚を人間で再現することはできないものだろうか。
     そうはいっても、等しく五感をもった人間同士でさえも、環境や文化、そして意図的なトレーニングによっては、五感の働き方も大きく異なってくるだろう。
     ある地域の人々は平坦な土地が広がっているために視力が優れていなければ不都合がある。遠くのものを見なければならないため、視覚は遠くのものを見分ける力において鋭さをもつことになる。
     また、ある地域の人々は密林が多く、そこに分け入って行動する必要があるため、聴力が優れていなければ不都合があるかもしれない。植物が生い茂るため、視覚は色の見分けや形の判断において鋭さをもつことになり、聴覚においては植物の葉ずれの音の中から、他の生き物の小さな物音を聞き分ける鋭さをもつことになるだろう。
     また、香道をよくたしなむ人々は特定のかおりを聞き分ける必要があるため、嗅覚において鋭さをもつことになるはずだ。
     熟練した寿司職人は、手の感覚で米粒の数をほとんど間違えずに握り、熟練した新聞折り込み広告業の作業員は手の感覚で広告の枚数をほとんど間違えずにつかむ。これらは触覚において鋭さをもった結果だ。これは僕の個人的な経験からいうと、触覚だけでなく、視覚も大きく関係しているように思う。
     個体差も大きい。トレーニングによって優れた能力を発揮することもあれば、加齢による劣化はもちろんのこと、病や悪習慣による劣化もある。ただ、加齢による感覚の鈍りは徐々に進むので、不都合なことが起こらない限り、当の本人は気づかないことが多い。
     視覚によって得られる画像がセピア色がかってくるように見えるのは、片目の硝子体手術をすると左右の見え方の比較でよくわかる。ただし、これは感覚器官の劣化が原因ではなく、加齢によって硝子体やレンズなどに濁りが生じ、光自体の届き方に変化が起こっていることによるものだろう。
     これ以外にも、味覚も加齢とともに変化する。暑さ寒さも感じ方が変化する。このように考えると、人間の感覚というものはセンサーとしては誠にいい加減なものだ。しかし、不都合があれば異なる感覚の持ち主同士が話し合って理解し合えば問題はない。 
     例えば、糖度計を使えば、甘さを示すその数値が自分にとっては甘すぎるのか、それともちょうどよい甘さなのかを客観的に判断して記録することができる。この記録をもとに話し合えば、お互いの感覚の違いについての理解が得られるだろう。
     しかし、これは甘さの程度についての理解はできるが、実際にどのような感じに甘さを感じているかを理解することはできない。これも、話し合ううちに、何か他のものにたとえて表現することでその甘さを表現できる方法が見つかるかもしれないが、難しいように思う。
     相手が異なる文化に立っている場合には、理解してもらおうと思って例えたものやその例え方によっては、こちらが意図するものとはかけ離れたものになってしまう可能性もある。始末の悪いことに、お互い勘違いしたまま納得してしまったり、厄介なことにそれを仲間にしたり顔で広めてしまったりすることもある。
     ましてや相手が蟻であれば話し合うことすらできない。結局は観察するしかないのだろうが、観察結果を人間の尺度や感覚で解釈してしまっても、その過ちに気づくのは難しい。何しろ毎日味付けをしたものを食べている人間が観察しようというのだ。また、まずいといって首をすくめることのできる人間とのことだ。
     蟻は、ときには人間が人間用に絶妙な味付けをしたものにありつくことはあっても、基本的には天然のものにしかありつけない。また、まずくても首をすくめるような肩がない。そんな馬鹿な思い込みはない思うかもしれないが、人間が発想するのだから、疑問も人間的であれば、解釈も人間的になってしまうということは自然なことだと思う。人間は人間であることからなかなか離れられないと思うのだ。
     例えば、おいしいから好んで食べるというのも、実は人間的な発想なのかもしれない。必要だと感じるから必要なだけ食べるというのが蟻ふうの味覚のはたらきだなのかもしれないのだ。あるいは、その存在だけを感じるだけのものかもしれないのだ。
     もちろん、そうしたことがわかったとしても蟻がどのように味わっているかはわからない。そもそも蟻の味覚がどのような味を区別できるのかもよくわからない。もっと言うと人間が感じるところの味とは別の感覚かもしれないのだ。
     人間の場合は五味といわれることがあるが、もしかすると蟻にも人間の味覚に相当する感覚があって、十味ぐらいは感じているようだという結論を出した人がいたとしよう。すると、だからこそ人間のようにわざわざ調味しなくても大丈夫だということになるかもしれない。
     しかし、そのようないろいろな味を見分ける必要が自然界にはないかもしれない。奇妙な味をたくさん創り上げてそれを味の食文化だとして広く受け入れて味わうということなど生きるか死ぬかの自然界には不自然なことだ。その不自然さを豊かな感性だと位置づけて人間の人間たる証拠としたり、人間が人間であろうとするための他の動物との差別化の手法としたりするのは、人間的には自然なことだ。
     実際には、蟻の人間でいうところの味覚は一味しかないものかもしれないのだ。しかし、十味であろうが一味であろうが、それが人間の五味の中のどれかと一致するかということになると、それはそれでまた話は別だ。どれも一致しないかもしれない。また、同じ種類の味の「もの」を感じることができたとしても、味の感じ方は全く違うものかもしれない。
     おそらく蟻の感覚を人間で再現することはできないものだろうかなどという発想自体が無意味なものだったということなのだろう。だとすれば、ちゃんとした変な疑問だったというわけだ。そもそも他の動物ではなく、なぜ蟻なのかということもよくわからない。つまり、いつもの思いつきということだ。

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    9/13/2009

    変な疑問106「二つの王位」

     広辞苑を読んでいると、時々おかしなことに気づく。誤字脱字や内容がおかしいものも一、二ページ、あるいは二、三ページに一つの割合で頻出するが、それ とは別に、自分の常識からは遠く外れたものにぶつかって、目を覚まさせられることがある。これはとてもよい刺激となって勉強になる。
     たとえば、 王位が二つあることについてだ。これは広辞苑第四版206ページ「ウィリアム」の説明に次のように記されている。「②(三世)オランダのオレンジ公ウィレム二の子。一六七七年メアリと結婚、名誉革命によって八九年メアリと共にイギリス王位に即く。(一六五〇 一七〇二)」とある。危うく読みとばすところだったが、「メアリと共にイギリス王位に即く」というのがおかしいではないかと目を疑った。
     「共に 王位に」あるということは、王が二人いるということになる。これはいったいどういう折衷案なのだろう。一つの王位に二人が就くということはどういう事情か らなのだろう。また、権力を二分したのか、同等の権力を持った人物が二人になったのか、あるいは片方が名目だけの王位なのかということも興味深いところ だ。

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    8/2/2009

    変な疑問105「危険な動作・奇妙な動作」

     身体活動は、捕獲、食事、攻撃防衛、移動等々とさまざまな目的で行われる。それらの各種身体活動は当然のことながら人間の骨格構造と筋肉に依存している。しかし、僕たち人間はその構造や強度等のもともとの人間としての能力を無視した動き、つまり「危険な動作」や「奇妙な動作」を自分の身体に強いることがある。しかも、案外とそれは日常的に行われている。これはいったいどうしたことなのだろう。
     「危険な動作」や「奇妙な動作」の例として、模倣におけるイメージによる動作を挙げることができる。
     舞踊、お遊戯などに見られる動植物や自然現象の模倣はよくある動作だ。これを幼稚園児がいとも簡単にやってのける。イメージしたものが竜巻であれば、スピード感やねじれ具合を表現するために場合によっては身体にとって「危険な動作」になることがある。また、イメージしたものが、タコであれば、手足が四本しかないのに無理して似せようとするから「奇妙な動作」になる。
     しかし、イメージしたものがヒヨコであれば、かわいい動作で保護者を魅了する小さな子供たちのかわいいお遊戯会の場面を頭に思い浮かべることができる。
     もちろん、演技に至るまでには、実際のヒヨコを観察して、そこからヒヨコのイメージをもって動作化した場合、絵本などを参考にして動作化した場合、先生の身振りを参考にしたり、模倣したりして動作化した場合とがあるが、その過程の別にかかわらず子供たちは同じようにかわいいヒヨコになる。しかし、いくらかわいくても、生きる上では全く必要のない野生生活においては「奇妙な動作」だ。
     もっとも、小さな子にとって大人にかわいいと思われることは、生きる上で必要だと言えば必要なことだ。おそらくお遊戯会は、小社会における子供の正常な成長を披露する儀式であるとともに、先生が保護者に対して「お宅のお子さんはこんなにかわいいんですよ」と宣伝することによって家庭内における子供の地位向上と安全確保を図るものでもあろう。
     保護者としては、ひ弱でかわいいヒヨコからの発想を促されることによって、保護しなくては、守らなくては、愛さなくてはなどという感情を持つに至るので、子供からすれば、演技をすることによって利益を得たことになる。つまり、野生生活ならぬ人間生活においては「妥当な動作」ということになる。
     舞踊、お遊戯などに見られる動作には、動植物や自然現象の模倣以外にも、感情や精神などの内面の表現がある。これらの多くは「自然な動作」だから問題はない。
     次に、スポーツ、特に球技における動作を挙げることができる。
     生きるために必要な野生生活の動作からすれば、格闘技以外は、ほとんどが奇妙な目的のために、自然の動きとはかけ離れた動きを繰り返すことになり、最終的には身体を壊すこともある。そこで、身体を壊さないための物理的な補強や補強運動をして身体を鍛えるという不自然なことをする。それでも壊れれば、病院で治療するという無理をする。
     特に球技は、存在自体が不自然な「ボール」を中心に事が展開する。ボールに似たものは自然界では主に次の三種類に限られている。果実、人間の頭部、石等だ。しかし、それらはそれほど弾むものではない。ただ血をたっぷり吸ったヒルを丸めて地面に叩きつければ弾むが、一時的なものに過ぎない。
     このように自然界にあっては不自然な存在であるボールを扱うことは、動きの不自然さを必要とする。おそらくその動きの不自然さ自体に対する面白みや、その不自然さを克服する達成感を味わうというところにも面白さを感じることはある。こうした面白さがなければ、得点や勝利という仮初めのご褒美だけでは釣り合わないトレーニングの苦しさを必要とするのがスポーツだと思う。
     格闘技はどうだろう。スポーツと一線を画しているように見えるが、かみつく技がない以上、スポーツだと考えてよいと思う。野生生活では、かみつくという動作が相手の動きを封じたり、命を奪ったりするための一般的な方法となる。女性でも子供でも、ピンチのときにはかみつく。男性、特に男性の大人がこれをやらないのは、威厳で制圧したい、技で制圧したいというプライドがまだ残っているからだろう。しかし、かみつきは相手の命を奪うことにつながる基本的な攻撃だ。
     このかみつきを格闘技が封じ手としているのならば、つまり命のやりとりを禁止しているのならば、スポーツだと見なしてよいはずだ。また、空間に制限を設けたり、時間に制限を設けたりしていれば、見かけは格闘技でも、やはりスポーツといってよいだろう。とにかく審判員がいればスポーツといってよいと思う。
     しかし、自然な動作であれば、それは予測可能なものとなる。スポーツや格闘技では次の動きを予測されれば予測されるほど不利になってしまう。したがって、他の自然な動作で隠すというフェイントは常套手段となる。しかし、常套手段は常套手段として読まれてしまうことも多いので、その代わりに危険な動作や奇妙な動作をする場合もある。
     そして、これらの動作が目的を果たしたときには、危険な喜び、歪んだ快感がもたらされる。しかし、これこそが日常生活とは切り離されたスポーツの醍醐味というものであって、決して否定されるものではない。
     野生動物には見られないと思われるこうした「危険な動作」や「奇妙な動作」はいかにも人間なものだ。これにさまざまな道具や装飾品が加わり、ますます人間らしさに磨きがかかる。いつの間にかそれが「危険なこと」や「奇妙なこと」を好む性質にも磨きをかけることになってはいないだろうか。
     一般的に好ましいものとして受け入れられている舞踊、スポーツだけに、敢えて疑問を投げかけるのは無意味なことであるばかりでなく、どちらかと言えば常識を疑われかねないことなので、避けた方がよいことなのかもしれない。しかし、だからこそ、疑いをかけておく必要があると思うのだ。

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    7/30/2009

    変な疑問104「自然体」

     何かの力が働いているところでは、ある姿勢を保ったりある姿勢に変化させたりすることで自然な動きが保障される。その姿勢を保ったり、その姿勢に変化させたりするためには、もちろん、それなりの努力が必要だ。の面倒な努力を払った結果、どうにか得られた姿勢を「自然体」と呼ぶようにした方がよいと思う。
     しかし、実際には「何も努力しないこと」を「自然体」だとうそぶく人々もいる。いつでもどこでもさまざまな力がはたらいているのが常だから、どういう姿勢をとっていることが適切であるかを常に正しく判断して動くという努力が必要なのにもかかわらずだ。
     この「何も努力しないこと」と「余分なことは何も努力しないこと」とでは大きな違いがある。だから、「自然体」といったとき、自然体のレベルがどちらのレベルなのかを確認しなければならない。
     これとは別に、一見して何もしていないというような努力の仕方についても、広い意味での「自然体」として認めてもよいかもしれない。これを己の美学だとしている人々も確かにいるが、あまり手の込んだ「自然体」は疲れるだけだ。また、あまりに手が込んでいると、自然体という言葉自体が不似合いなこととなってしまう。
     しかし、「強きは弱く軽く重かれ」という教歌の下の句がある。これはバランスを説いたものだ。自然体の命はバランスだ。「軽いものは重いものを扱うように、重いものは軽く扱うように」ということだが、この気構えによって失を減らすことができるというアドバイスだ。これが高じると気疲れのする「自然体」になってしまう。これでは元も子もない。
     さて、このような「身体の自然体」、そして「生活態度としての自然体」や「仕事の姿勢としての自然体」など、「自然体」という言葉は幅広い分野で使える言葉だ。基本的には物理的身体的な問題だが、結局は身のこなし方から、生きる姿勢に至るまでの問題となっていくので、あまりいい加減に考えるわけにはいかない。
     また、こうしたいろいろな意味での「自然体」という言葉を使うにも、事情によってはさらにいろいろな場合に分けられそうだ。例えば、意図的に「ニュートラルな自然体」にしている場合もあれば、状況が読めないために「ニュートラルな自然体」になるしかない場合もある。また、状況が読めているため、その場にはたらいているいろいろな力と自分の目的に応じた合理的な姿勢、つまり「変化する状況に応じた自然体」になり、無駄と危険が生じないように推進力をコントロールしつつ、無理なく自由自在な存在になっている場合もある。
      こうした自然体はどのように身についていくものなのだろうか。また、自然体になれないのは何が邪魔をしているせいなのだろうか。

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    7/23/2009

    変な疑問103「膝蓋骨」

    <どんな本だろう。 画像クリックで説明画面へ>
     膝蓋骨はどうして脚にだけあるのだろう。肘には基本的に肘蓋骨というものはなさそうだ。触ってみても、ぐりぐり動く肘小僧はない。本来後肢と前肢とでは機能が違うということなのだろう。働きが違えば、関節に加わる力も違い、この骨の有る無しの説明もつきそうだ。
     しかし、いろいろな動物の脚をみて膝蓋骨のあるなしを確認しなければ本当のことは分からない。おそらく膝蓋骨は大きな力が加わるところに発生した骨で、脚にかかる力を合理的に分散させるためのものであるように思う。
     仮にそうだとすれば、四つ足の動物の場合の前肢の肘には肘蓋骨は無いということになる。脚の作りを見れば分かるように、後肢のつくりは頑丈で大きい。しかし、前肢のつくりは後肢に比べて細い。このことから単純に、後肢にかかる力の方が大きいと判断できる。
     体重を支えている間は同じ力が加わっていても、移動しようと思うときには後肢にまず負担がかかる。加速する場合も後肢の動きが先行し、前肢がそれを補う形となる。
     ところが、樹上生活をしている猿などはどうだろう。前肢が長くて強力な猿の生活は、後肢に大きな力がかからない生活だ。では、猿の後肢に膝蓋骨は無いのだろうか。しかし、これはおそらく有るだろうと直観する。
     二足歩行をする人間はどうか。後肢だけで歩行するのだから、当然のことながら他の四つ足動物と比べて大きな力が膝にかかる。つくりも前肢より後肢の方が数段頑丈で大きいという実にアンバランスな姿となっている。当然、膝蓋骨は有る。
     もし、全ての哺乳類や両棲類、爬虫類の後肢を観察して、膝蓋骨のない種類があれば、その生活ぶりと膝蓋骨が無いことの関係を調べればよい。また、前肢に膝蓋骨ならぬ肘蓋骨が有る例をさがして、その生活ぶりとの関係を調べればよい。
     前肢後肢ともよく似たつくりであるのに、この膝蓋骨の有無は何を意味するのだろう。関節にかかる負荷だけに注目してみたが、体重の重い象などはどうなっているのだろう。もしかすると肘蓋骨が有るかもしれない。このように想像すると面白い。
     でも、どうやって調べればよいのだろう。骨格博物館などというものがあればよいのに。進化の過程で膝蓋骨がどういう理由でいつどんな生き物に発生したかとかいうことが説明されているような博物館だ。ただ、膝蓋骨は小さい骨なので、化石としては発見されにくいかもしれない。やはり、現役の動物の肉をとって、骨格標本をつくってほしいものだ。
     そんな博物館は殺風景だ。どんな動物もおそらく骨は白っぽいからだ。背景に赤や青や黒ペンキを塗って見やすくするなどして、そちらの方でカラフルにしなくては見ていて飽きてしまうだろう。
     ばらした骨が少しずつ組まれていくようなディスプレイを考えたり、直立不動の姿勢ではなく、獲物を狙っているときの骨の組み合わさり方や歩いているときの骨の組み合わさり方が分かるように、いくつもの姿勢を示すのがよいだろう。
     人間なら肩甲骨のあたりや肩の関節が腕の上げ下げによってどのように様子が変化していくか、つまり、骨と骨の組み合わさり方が変わっていくかというところがとても興味深く思われる。
     理科室の骨格標本をもっとしっかり見ておけばよかった。ただ、針金で手足の骨がぶら下がっていたのは覚えている。新しい骨格標本は、筋肉を半透明にして骨に接着し、四肢を動かすと筋肉が伸びたり縮んだりするとともに、半透明の筋肉を通して本物のように関節部分が変化していくところが観察できるようなものであってほしい。

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    7/18/2009

    変な疑問102「一人ひとり」

     「一人一人」をなぜ「一人ひとり」と書く人がいるのか。不思議でたまらない。その人は、「一台一台」を「一台いちだい」と書くのだろうか。「一日一日」を「一日いちにち」と書くのだろうか。「一粒一粒」を「一粒ひとつぶ」と書くのだろうか。そして、「一匹一匹」を「一匹いっぴき」と書くのだろうか。
     このような繰り返しのときに、漢字と平仮名を交ぜる利点にはどのようなものがあるのだろうか。その理由次第では、「ひとり一人」とはせずに、「一人ひとり」にするのはなぜかと問わねばならなくなるかもしれない。また「ひとりひとり」にしないのはどういう理由からなのかと問わねばならなくなるかもしれない。
     まさか、次のような理由からだろうか。
     「一人」は「いちにん」としか読まない。それを熟字訓で「ひとり」と読む慣わしがあるから、それを子供に教えるために最初に漢字で書き、その次に読みを平仮名で書いたのだ。
     もし、こうしたことを理由としてあげる人がいれば、教育的配慮という大義名分を振りかざした苦し紛れのこじつけをひねり出したとしか思えない。ただし、「一人」を「ひとり」と無理やり読む熟字訓よりも、もっとひねくれてわかりにくい「百日紅」のような熟字訓の後に必ず括弧書きで「さるすべり」と読みを示すか、振り仮名をつけるかしていたら、この理由で納得してもよい。しかし、個人的には残念ながらそうした配慮については、その熟字訓の読みを説明する文章以外ではまだ見たことがない。
     もっとも、お目にかかれないのは、熟字訓というものが暗黙の了解で受け入れてもらっている読みであるという性格をもっているために、敢えてその読みを示すということが矛盾した行為になるということがあるためだろう。だから、なおさらこの理由がこじつけに思われるのだ。
     百歩譲って括弧書きや振り仮名ではなく、「一人」の次にその読みである「ひとり」を書くという行為を認めたとしても、今度はなぜ「一人一人」だけを取り立てて特別扱いし、このような漢字と仮名の併記をするのかという問題が生まれてしまう。
     このように、「一人」を重ねるときにだけ、そうした配慮(?)をするということを、中途半端なことだとしてみんなは声を出して訴えないのだろうか。
     この疑問に対する答えとして、最終兵器の「そのように書くのが習慣です。」という切り札を出してくるかもしれない。では、いつからどういうわけでその習慣を我々は身につけたのか、さらに、それをいつまでも受け入れ続けている理由を教えてもらわねばならない。教えてもらえなければこちらで調べたり考えなくてはならない。いつ誰が始めたことなのか不明だが、失礼ながら誠に厄介な事をしてくれたものだと思う。
     「一人ひとり」と書き表すのは、熟字訓というものを歴史的な読み方として尊重しつつも、本当は否定していきたいという気持ちの表れのようにも感じられないわけではない。こうした中途半端な気持ちが、繰り返しの途中で文字種を漢字から平仮名に変えるというような屈折した表記を生み出してしまったのかもしれない。しかし、やはりそれをなぜ「一人一人」についてだけ行うという中途半端さには首を捻ってしまう。もちろん、よく調べれば「一人ひとり」以外にも同様の例があるかもしれないが、さがすのは随分と面倒だ。
     こんなことを疑問に思うのはやはり変かもしれないが、日本人にとっては大事な日本語だから、その時その時の日本語を保存しつつ、常に見直していく姿勢だけはもっていたいと思う。もっといえば、こんな些細なことにすら目を向けて行動しようとしない体質があるために、世の中を変えようと思ってもシュプレヒコールのみで終わるのかもしれない。高いハードルを示すことは大事だが、いきなり正攻法でいっても潰されるだけだ。一見何の関係もないような遠くの外堀を埋めていくことによって、意識の底で固着している常識を軟化させつつ、奇襲も含めて正々堂々と立ち向かわねば、世の中の仕組みを現実に合わせていく作業などは不可能だ。
     こうした変革の流れへの対応としては意識の混濁を促進させることが大事なことになってくる。もちろん、「この薬を飲んでから急に意識が混濁し始めました」というときの「意識の混濁」とはレベルを異にする意識の混濁だ。ある力に対抗するには、その力と反対の方向の力を加えることと、その力自体を無力化することの両方をタイミングよく同時に行わなければならない。
     無力化する方法には、その力を力として成立させている環境を破壊することと、その力を誇張することによって矛盾点をさらけだすことが考えられるが、前者は最も重要な人の意識という砦をいかに崩すかという大問題を含んでいる。この砦を軟弱なものにするにはどうしたらよいかということに腐心する輩は大勢いるはずだ。
    ①補給路を断つこと
    「情報を絶つ」…何かを守るという姿勢に隠れて非公開情報を増やす。書物の代替物を与えて読書習慣を破壊する。専門性を強調することによって読書傾向を偏向させる。
    ②士気を衰えさせること
    「無駄な抵抗をしているという意識をもたせる」…「もうそんな時代ではない」という誤った情報を流し続ける。「まったく成果を上げていない」という誤った情報を流し続ける。
    この二つの作戦によってどのような砦も軟弱になり、反動勢力によって陥落する。真面目でよい人間から意識が混濁し始め、行動や生き方をコントロールされてしまうのだ。もっとも、コントロールするところまでの力を相手が持っていない場合には、無軌道な人間が増殖することになるはずだ。
     「そんなの関係ない」とか、「面倒だ」とか、「どうでもいいことじゃないか」とか、「忙しいんだよ」とか思い始めたり、口に出るようになったりしたら要注意だろう。かなり攻撃されているという証拠だ。こうした意識に対する攻撃には、基本的には個人の意識の力で闘うしかないというところが辛いところだ。第一、攻撃されていることに気づかないことが致命的だ。
     それはさておき、テレビニュースでは、「二人組の強盗」と書いてあっても、「ふたりぐみの強盗」と読まずに、「ににんぐみの強盗」とアナウンスしているのはなぜだろう。これは「二人(ふたり)」という熟字訓を避ける姿勢を示しているように感じる。
     「一人(ひとり)」も「二人(ふたり)」も常用漢字表付表に載っているのだから、殊更に避ける必要はないように思うのだが、何か不都合があるのだろうか。まさか「ふた」という発音を嫌っているのだろうか。もしそうなら、「二組の強盗が同時に侵入しまたした」という場合のアナウンスは「ふたくみの強盗」ではなく、やはり「にくみの強盗」となるのだろうか。また、「二人の強盗」というペアを組んでいない強盗の場合はどうなのだろう。当然のことながら「ふたりの強盗」とアナウンスするはずだ。すると、「ににん」というのは「組」という接尾語によってコントロールされた読みだという疑いが出てくる。
     「組」だから「一人組」は存在しない。「二人」から「組」が始まるというわけだ。まさか、「ひとり」の援護射撃がないから「ふたり」が後退し、「ににん」が表出してきたのだろうか。
     また、「夜間の一人歩きは注意しましょう」という警告については、どのようにアナウンスするのだろう。「ひとりでできるもん」というときのように、「ひとりあるき」と読むはずだ。これを「いちにんあるき」とか「いちにんでできるもん」とはしないだろう。「一人」を「いちじん」と読むか「いちにん」と読むかに至っては、意味が「ひとり」という人数とは限らないことを示している。「いちじん」ならば天皇、「いちにん」ならば右大臣を意味するらしいから気をつけなければならない。
     すると、「一人ひとり」と書くのは、「いちにんひとり」と読めたり、「いちじんひとり」と読めたりする可能性が出てくるわけだから、一層不適当な書き方だと言わねばならなくなってくる。
     こうしたことも、おそらく全ては「言い習わし」という一言ですまされるに違いない。説明することが「面倒」なのだろう。そんなことを追究することが「あなたの仕事と何か関係あるんですか」とか、「暇ですねえ」とかいうステレオタイプの言葉もたくさん用意されているから、どれかを使って対応したという体裁にするのだろう。もちろん上品な人はいろいろに言い換えるすべを知っているから、違う言い方にはなってくる。ベールのかけ方のうまさは自らが発する言葉にも及んでいるというわけだ。
     どうしてそのような慣わしになったのかというところまで説明したり、追究したりしなければ面白くはないではないか。そのようにいうと、「そうした事は専門家に任せておけばよい。そのための専門家なのだから、門外漢は黙っていればよい。」というようなそぶりが見える。あるいは、「そこまで追究するのは無理なんじゃないですか。」というあきらめがみえる。もちろん、これは助言として用意されている言葉なので、善意に基づいているから、悪気は一切ない。
     しかし、そういう感覚が高じて態度として一つの傾向を持つようになると、「関係ねえだろ。おまえは黙っていろ。」という排他的な力をもつようになる。あるいは、「それはどうしてなんでしょうね。」という上品なおうむ返しの無視という受け流し癖となる。これは民主主義の破壊に直接につながる愚かな態度だ。悪気のない愚かさというものほど質が悪いものはない。
     かりにも民主主義の国家なのだから、国民一人一人が民主化という手枷足枷をつけ続ける努力をはらう義務がある。この手枷足枷を心地のよいものとするには、このような面白さという味付けをしながら、思い込みや信じ込みを壊す作業が必要だろう。これは世の中をよりよく生きる一人一人の力として、もっと高く一般社会で評価されてよいことだと思う。これはゲームのようなものだ。民主主義に寿命があるとすれば、そのゲームのようなものが終わったときだろう。ただし、その面白さをただのおかしさとして間違うと深刻な状況に陥る。「ゲームのようなもの」が「ゲームの一種」になってしまうおそれがあるからだ。

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    6/6/2009

    変な疑問101「好吃・站着」

     <人間は立つ。不思議だ。 画像クリックで説明画面へ>
     「好吃」と小さな声で言ってみる。すると、「おいちー」と聞こえる。これは「おいしい」の赤ちゃん言葉ではないか。まさか。
     待てよ。「站着」と小さな声で言ってみる。すると、「ちゃんち」と聞こえる。これは「座る」の赤ちゃん言葉ではないか。しかし、「站着」は「立っている」という意味だ。「立つ」の赤ちゃん言葉は「たっち」だから、座っている赤ちゃんにとっては一歩先の別世界だ。もっとも、「立てば這え、這えば歩めの親心」というから、先走ったのかもしれない。
     待てよ。これまでほぼ水平状態の赤ちゃんからすれば、這うことを通し、脊髄を垂直にするために腹筋と背筋で必死に脊椎を「立てた」のだから、「おすわり」も「たっち」と言えなくもない。すると、「站着」は「立っている」だが、赤ちゃんが座っている状態を上半身が立っている状態という意味で「站着」と表現し、それが日本語ふうに訛って「ちゃんち」となった可能性はないか。
     もちろん、「坐着」を通り越しているではないかと言われてしまうだろう。中国の赤ちゃん言葉に「坐着」に相当する言葉あるかどうか、あるいはあったかどうかは定かではない。これはひとつ調査してみなくてはならない。
     こんな暇なことを考える人はあまりいないかもしれないが、忙しいときの逃避行動としてはそれなりに成立する。当然、本当には調べることなどないから、いつまでも「かもしれない」の世界だ。虚しいといえば虚しいが、楽しいといえば楽しい。
     さて、本当のところはどうなのだろう。

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    2/8/2009

    変な疑問100「ちっちきちい」

    <こうしたものはない方がよいけど読んでみたい 画像クリックで説明画面へ>
     いろいろな言葉があるが、時々意味がよく分からない言葉に出くわす。
     「こんこんちき」「ちっききちい」「てやんでえ」「おっぺけぺえ」……。お世辞にもきれいな言葉とは言えないが、罵倒する場面で使用することが多いのだから仕方がない。
     罵倒するのだから、一音一音を大切にし、丁寧に発音していては様にならない。しかも、自分の気持ちを明確に相手に叩きつける内容やリズムをもった言葉でなくてはならない。
     しかし、そう都合よくこうした言葉があるとは思われない。普段は普通の言葉が、罵倒した場合に様になる発音、内容、リズムを備えた言葉となっていくように、語形の変化が進んでいくことになるはずだ。
     語形の変化は次の条件を満たす方向で進行していくのだろうと思う。これらを罵倒するための言葉の基本的な姿だと言い切ってよいかどうか分からないが、当たらずといえども遠からずといったところだろう。
    ①短い単語でなければならない。
      長い単語であると一息で言い切るのに困難で、短く強く発音する必要がある罵倒の言葉には不向きだ。また、長い単語であると、発音中に罵倒のための言葉であ ると悟った相手に別の言葉で妨げられる可能性が高い。また、長い単語であると、発音している間に仏心が生じて手心を加える機会が生まれてしまう可能性がな いとは言い切れない。
     吐き捨てるような短い単語であれば、一息で言い切りやすく、その分強く息を使うことができるので語勢を強くすることが容易 だ。短い単語で相手を否定すれば、労力をかけて長い説明をした相手に疲労感を与えることもできる。何より罵倒する場合、長い単語特有の弱点がなくなる。
    ②発音しやすい音の組み合わせでなければならない。
      相手を罵倒するのに途中でよどんだりつまずいたりして、言い直したり、言い間違えたり、聞き間違えられたりしては様にならず、格好がつかない。「もうろく じじい!」と罵倒しても、言いよどんだ結果、聞き間違えられて、「いや、もう七時ですよ」とか「まだ五時ですよ」などととぼけられてしまうのと同じことに なりかねない。こうなると周囲の失笑を買うばかりで場の空気が変わってしまい、罵倒した方が不利になる可能性が高くなるだけだ。
     また、スムーズ に発音できなければ、その分だけ相手を圧倒する力がなくなり、効果的に罵倒することが困難になる。どもりながら「ころされ、た、たい、いか!」というレベ ルのつまずきになると、「殺された鯛、烏賊」などと聞き間違えられて、やはり全く格好がつかなくなる。笑いをこらえるので精一杯になってしまう。
     これらは極端な例だが、もっと軽いレベルのよどみやつまずきによるわずかな格好のつかなさであっても、短時間のうちに度重なることになれば、罵倒する側にとっては命取りとなる。
      早口言葉は発音しにくいように発音の組み合わせがつくられていから、早口言葉とは逆の性質を持った発音の組み合わせをさぐるのがよい。つまり、口の形の変化が小さい発音の組み合わせになっている言葉、また、つまずく可能性が低く、よどみのないリズムのある言葉が罵倒するには適しているということになる。
    ③強く発音できる音の組み合わせでなければならない。
     母音の種類によってこれは異なるだろう。
     「ア段」の発音は大きな声で発音することが容易であるために大声で罵倒するには適している。「あほ!」はア段、「ばか!」「たわけ!」などはダブルのア段だ。
     「イ段」の発音は「ア段」ほど大きな声で発音できないが、鋭く発音することが容易であるためにいらいら感たっぷりの鋭く切り込むような罵倒の仕方には適している。「シッ!(Shit)」はイ段、「君!」などはダブルのイ段だ。
      「ウ段」の発音は優しくこもった発音になるので、それだけでは相手を罵倒するには不向きであるように思う。しかし、つぶやくように、そして吐き捨てるよう に発音することで罵倒する言い方になる。「ふぬけ!」「くず!」などはダブルのウ段だ。少々陰険な感じがするが、そうした罵倒の仕方もあるだろう。
     「エ段」の発音は鋭く力強い発音をすることが容易であるため罵倒するのに適している。何を言っているんだと瞬時に分析して強く聞き返すときの「ええ?!」はダブルのエ段だ。「ふぬけ!」「たわけ!」のように、最後に位置して語気を強くする効果もあるから、この二語は強力な罵倒力をもっていると言えるだろう。
     「しね!」という語も同様だ。「てめー!」などというのはダブルのエ段が強調されているから強烈な罵倒力をもっているが、母音だけでなく子音に目を向けると、「しね」のSNと「てめー」のTMでは、内容はさておいても、その発音のえぐるような鋭さの点で「しね」に軍配が上がってしまう。内容を含めて考えれば、なおのこと「しね!」が優勢だ。「てめー!」というのは相手を指し示しただけで、「なんだ?」と切り返されてしまう余地を残している。それは敢えて残してくれた余地である場合もあるから、俺にそれを言わせるつもりかというメッセージを酌み取れば「なんだ?」とは言えない。情けをかけてくれているのに無視すれば実力行使を受けることになる。
     「しね」と言われなくても生き物は当然死ぬのだからどうということはない。言った本人が数秒後に死ぬことすらあり得るのだから、言われて気に病む人は自分は死なないという思い込みが強いのだろう。しかし、この国の人の命が軽くなったからこそ、人の口に上りやすくなった言葉だろうとは思う。これはこれで問題だ。また、「しね」と言われてショックを受け、自殺したり、いじめられていると強く感じる人もいる。大事に育てられ、褒められて大きくなった人が、「しね」と言われたらそうなるだろう。虐げられ罵倒されながらも明るく元気に雑草のように育たざるを得なかった人は、「しね」と言われてもどこ吹く風だ。小さいときから一寸先は闇の世だと承知しているから、「しね」と言われても、「言われなくても人間いつ死ぬかわかんねえのにいったいどんな太平楽だ。はあ?今おまえさんに死んでもらってもいいんだぜ」ってなもんだ。
      「てやんでえ!」は「何言ってやがるんだ!」という否定の姿勢を表明して罵倒したものだろう。「見当外れのことを言ってんじゃねえよ」「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ」というわけだ。ダブルのエ段で、ア段との二段構成だ。吐き捨てる感じが強く出て強い言葉になっているが、江戸っ子以外が使用すると不似合いだという感覚があるから、出身地限定の「条件付き罵倒語」だと言ってよいだろう。
     「てやんでえ」といえば「べらんめえ」だ。これは「べらぼうめ」がエ段の二段構成になったものだろう。リズムは「てやんでえ」と同じだ。とんでもないとか普通じゃないとか馬鹿者といったような意味だが、これも出身地限定の「条件付き罵倒語」だと言ってよいだろう。
      「オ段」は強く深く発音をすることが容易であるために適している。「こら!」は「これは(いったい何だ)!」の「これは」かもしれない。「これは」→「こ りゃ」→「こら」というわけだ。だとすれば、限定された対象や行動を指して、その責任や判断自体を深く追及する(「こ」のオ段)姿勢でやや離れた場所から大きな声(「ら」のア段)で罵倒することによって制止するのに適している。「もう!」という語は表記上はオ段とウ段だが、発音上はオ段の強調だ。「もう、(いいかげんにしてよ)!」ということだろう。オ段によって深く思いがこもる。「このー!」はダブルのオ段だ。かなり深く思いがこもる。「このやろう!」ともなれば、二つのオ段と一つのオ段の強調だから深い恨みがこめられた強烈な罵倒力をもっていることになる。
     このように、ア段からオ段までの一つ一つの発音がそれぞれに積み上げられ、一つの単語なり、語句なりに組み上がったとき、その全体としての発音の並びが、その場に合った効果的な罵倒の仕方として適切であるかどうかについて、今後詳しく検討しなくてはならない。
     もちろん、これは言葉の話し手が言い慣れているかどうか、また、聞き手が聞き慣れているかどうかということによっても罵倒する力は変化してしまう。このように瞬間のできごとである発音の問題は把握しにくい事柄だが、確実に人に影響を与えて死に至らしめることもある。事は重大だ。
    ④強烈な印象を相手に与えなければならない。
     リズムが印象を際だたせる。普通の言葉のリズムと同じでは強烈な印象を相手に与えることができない。心を安定化させる作業の調子を狂わせるようなリズムでなければ、相手にストレスを与えることなどできない。しかし、あまりにも日常的な言葉のリズムからかけ離れたリズムでは笑いを引き起こすことにもなりかねない。さらにかけ離れれば、言葉としては把握してもらえなくなる恐れすらある。おそらく、普通の言葉のリズムから少し離れたところにあるリズムで攻めることでより高い罵倒力をもつのではないだろうかと思うのだ。
     このように考えてみると、「こんこんちき!」が、「こんちきしょう」→「こんちくしょう」→「この畜生」→「この畜生野郎」→「この人間として認められない野郎」だとすれば、「この」から「お」を脱落させて「こん」という撥音にしたうえで二度重ねるという念の入りようで強調するとともに、「ちき」のダブルのイ段で鋭く切り込んで指摘するという仕組みになっている。
     「ちく」となるべきところが「ちき」に変形しているのはイ段の効果を期待してのものだろう。全体がオ段とイ段の二段構成になっている。これが五段構成だとばらばら感が生じて発音による罵倒する力が分散し、結果として平均化してしまうので、安定感を与える言葉に成り下がってしまうことになるだろう。おそらく三段構成辺りから罵倒力は急速に衰えていくのではないかと考える。
     「ちっちきちい」はどうだろう。片仮名で書けば「チッチキチー」と表記するのだろうが、結局は「ちき」がメインで最初の促音と最後の長音は言葉全体のリズムを作って罵倒する力をブースターのように追加しているようなものだろう。これは「こんこんちき」の「ちき」と同じで「ちくしょう」の「ちく」だと思う。「畜生と同じだ」「人間じゃない」「畜生にも劣る奴」という罵倒の意味合いがくんでとれる。
     「おっぺけぺえ」はどうだろう。一般的には意味のない囃子詞として説明されているようだが、囃子詞が意味のない言葉などという暴論がまかり通っているのに驚く。意味という言葉の意味をどうとらえているのだろうか心配になってくる。もしかすると、囃子詞自体を調子を出して盛り上げるためのものとか、おまけのようなものとしてしかとらえていないのではないかというおそれもある。
     囃子詞がメインテーマとなっている場合も十分にある。その証拠に最も印象的なリズムを与えれていたり、繰り返しが何度もなされたりしている。この囃子詞の中に情念の種や骨組みを組み込まない手はないだろう。囃子詞は「はやす」のだから「無から有を生み出す」「種を芽生えさせる」などのような意味合いをもっているように思う。歌は魂に訴えかけるものであるから、特に囃子詞は心の中にある何かの種にエネルギーを与えて揺る動かして芽吹かせるというものである可能性が高いように思う。
     「おっぺけぺ節」は維新政府への不満を表現したものだから、だめ出しの歌だ。「だめ」は「ぺけ」なのかもしれないということだ。「政府は何やってるんだ。駄目だなあ。」だとすれば警察につかまるかもしれないが、「おっぺけぺえ、おっぺけぺえ、おっぺけぺっぽ、ぺっぽっぽう」などとふざけた囃子詞にしてしまえば駄目出しの連発をしながら、これは面白おかしい単なる囃子詞ですと逃げることができる。確かに最後の「ぺっぽっぽう」などは調子を出すための単なるお調子言葉で、囃子詞化に一役買かっているように見えるが、ここにも何か仕掛けがあるかもしれないと疑ってかかるのが面白そうだ。
     これはオ段とエ段の二段構成になっている。「ぺ」ははき出す音で、唾棄すべき政府だと言っているように思われる。「ぺ」だけだと「ぺけ」が前面に出てしまうので、パ行仲間の「ぽ」を追加しているようにも見える。また、結果としてパ行の連発となって頭にこびりついて離れないような作品に仕上げているところが実に巧みだ。「おっ」が「おっかさん」の「おっ」と同じで丁寧な言い方を実現する接頭語の「お」であれば、これも「ぺけ」を前面に出すことを避け、ダブルのエ段の効果をうまくくるむとともに、調子のよいリズムを作る働きをしているように見える。
     さて、誰を罵倒する言葉かという問題がある。相手を罵倒するのはもちろんのこと、何もできない自分を罵倒する場合もあるのではないかと思う。強力な相手に対して手も足も出せない自分を罵倒するのだ。あるいは、そうした仲間を罵倒し、逆に鼓舞するということもあるだろう。
     「対応できない」というのがキーワードかもしれない。さまざまな局面に対応できない政府。そうした政府に対応できない仲間。そんな仲間に対応できない自分。「人間としてなすべき事をせよ。それができていないじゃないか。」でも、自分もどうしたらよいか本当は分からない。この行き詰まり感が「ちっちきちい」とか「おっぺけぺえ」とかいう一見意味のない言葉として口に出る。そういう時代があったのではないかと想像する。はっきり言うにははばかられる。はっきりとした考えが自分にもない。しかし、思いだけはある。こうしたときに言葉ならぬ言葉が生まれ出てくるのかもしれない。      
     これらが、決まり文句として定着すれば、表現したときに共感を得られることもあり、表現したこと自体の満足感にそれが加わった一定の満足感が得られる。しかし、それは言うべきことを言わなくても、また思いつかなくても、決まり文句の流行から後れさえしなければよいという流れを生み出しかねない。悔しさやおさめきれない気持ちを決まり文句で表現することで、満足感を得たり、伝えた気になったりしてしまうのは非生産的であり、自己処理的であり、人間としてはあまりにも悲しい。 
     一応伝えながらも 実際には内容は伝わらず、その情念しか伝わらないのだ。これを自覚したとき、なおいっそうむなしい気持ちになっていくに違いない。その場のストレス解消にはなっても、現実を動かすための言葉ではないのでむなしいのだ。そのむなしさを解消するために、人々はある特定の言葉を唱和したり、繰り返したりするようになるのだろう。しかし、そうしたスローガンのようなものも、その時には勇ましかったり頼もしかったりするが、結局は犬の遠吠えになってしまう。
     今日の新聞に、首相の発言に対する社説があり、「いかがなものか」という決まり文句で執筆者の思いが示されていた。だが、これはもう止めた方がよいだろう。「いかがなものか」という決まり文句を使うのは相手からすれば願ったり叶ったりのやさしい言葉だ。「別にいいんじゃないですか」という決まり文句を返せばよいだけだからだ。
     「いかがなものか」というのは、何かでまぶしたような不明確な「ちっちきちい」のように聞こえてしまう人もいるのだ。そうではないと執筆者が弁明したところで、読み手がそう受け取る場合もある。どう受け取られるかを計算しての文章であるはずだから、そこにどういう計算があったかも読み取らねばならない。
     しかし、縦にしても横にしても、この「いかがなものか」という表現は、明言しない政治家の言葉としては似つかわしいが、ずばり問題に切り込む社説の言葉ではないように思われる。本当は「こうあるべきではないか、そうしないとこうなるからだ。」などと明確に説くべきだ。言外に臭わせる婉曲的な表現をすることによって、品のよい文章にまとめたかったということなのかもしれないが、いかがなものか。
     社説なのだから、婉曲表現などは取り払い、明確に述べるところに美的センスが輝くような力のある文章にしていけばよい。それだけの筆力を持っている方が担当していらっしゃるはずだ。読者もそれを望んでいる。文章から力を得たいのだ。生きる勇気としたいのだ。
     これはもやもやした世の中に、言葉だけでもすかっとしたいという気持ちを多少なりとも酌んではもらえまいかという祈りだ。購読料にそれが含まれていないというのなら話は別だが、どうだろう。

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    <面白くて授業にならないかもって読んでないけど…… 画像クリックで説明画面へ>
    1/31/2009

    変な疑問99「サウンドオブミュージックの実話度」

    <音楽CDはほとんど買ったことがない 画像クリックで説明画面へ>  
     「サウンド・オブ・ミュージック」を間近で観劇する機会があった。数メートル先で歌う、踊る、苦悩する。歌うにつれて目が潤んでいき一筋の涙が流れていく女優。子役の演技も細かいところにまで心が配られていて驚く。
     開演から終演まで感動が持続するのは、これがミュージカルだということもあるだろう。また、ストーリーが複雑ではなく、思考力をあまり必要としないということもあるだろう。長時間ながら息つく暇もないのは観客も疲れるはずなのだが、心を揺り動かされるという心地よさのため、同じ姿勢でいても疲れることがない。ストーリーが分かっていても、どうして再び感動できるのだろうか。人間というものは実に面白くできている。
     それは歌詞が決まっていて変わることがないのに何度も歌えるのと同じことだと思う。極端な場合は、歌う前に、いや、曲名を聞いただけで感動を覚えることがあるかもしれない。これは体験したことのある感動が、よみがえってくるという仕組みだ。
     観客に若い人はほとんどいない。男性もまたほとんどいない。しかし、よく考えてみると、この作品を本当に必要としている人たちというのは、矢面に立っている30代から50代、60代の男性ではないだろうか。壁に突きあたり、己が砕け散り、何より足もとが崩壊していくのを歯を食いしばり、それでも夢を追い、そして家族を守る責務から逃げ出さない「正直で、健気で、がんばり屋のお父さん」が全うに生きていこうとするなら、あまりに苦しい現実がある。
     「現実をよく見てよ。長い物に巻かれなくては生きていけないじゃないか。地球は回る。もう誰にも止められない。朝日が昇り、夕日が沈む。これが繰り返すだけでしょ。」「いや、真実から目を背けてはいけない。真実を求めなくて、何が人生だ。」という意味合いの掛け合い。ゲオルグの両拳に力が入る。
     修道院長が語る「愛、真実、夢、希望、勇気」そんな言葉に歯が浮くようだとかつて感じた時期もあった。しかし、もし今そういう感覚をもっているのなら自分は人間失格だと考えてよいと思った。これら甘い言葉の底に流れている凄まじくも恐ろしい本当の意味をつかむ能力すら欠けているというのでは、粘土の中で呼吸しなくてはいけないような現代をどうやって生き延びていけるのかが心配だということだ。生き延びるというのは死なないということではなく、自分の信じた生き方を全うするということだ。
     「人はパンのみに生きるにあらず」だ。修道女見習いから家庭教師として派遣されたマリアがオーストリア海軍大佐ゲオルグに子供たちのことで詰め寄る場面で頭をよぎった聖書の言葉だ。ゲオルグがナチスに服従を迫られようとするときにも頭をかすめた言葉だ。「真実を求めよ。そのためには命を失うことすら厭わない。」という勇ましい言葉になっていくのを感じた。演劇というのは素晴らしくも危険なものだ。
     帰宅中、「命あっての物種」という言葉が反作用のように浮かんできた。これで上手く中和されたわけだ。会場から一歩外へ踏み出せば、結局は現実が待っているのだ。では、現実逃避をしていたのか。微妙に、だが確実に現実の見方が違っている。
     つまり、この現実にどう戻るかが問題だ。
    ①全く区別して、完全に元の生活がスタートする
    ②セリフやそのセリフに宿る魂に感化され、元の生活が完全に変わってしまう
    ③元の生活のままに戻るでもなく、感化されてすっかり生活が変わってしまうわけでもない
     この中で③は最も中途半端なようだが、最も健康的な現実への戻り方だと思う。これまで語らなかったことを語り、これまで考えなかったことを考えるようになり、これまでしなかったことをしてみるようになる。 
     筋肉が凝りかたまってしまって血の巡りが悪くなるように、心や精神も凝りかたまってしまって心の反応が鈍くなる。これをほぐすのに観劇は適度な刺激となるように思う。しかし、「金と暇」だ。安く手っ取り早いものに目が向きがちになる。そうか、簡単で便利なものに潜んでいる「人間の生き方を汚していく危険性」を意識しなければならないということなのだろう。
     確かに暴力は瞬間に何かを解決してしまうような錯覚を与えてしまう。一発の銃弾は価格も安く、しかも瞬間に命を奪うことができる。マリア、ゲオルグ、子供たち、トラップ一家の亡命を手助けしたマックスはその銃弾に倒れることになる。マックスはナチスに断固抵抗しようとするゲオルグに言った。「マックス、ナチスが来たらおまえならどうする?」「ナチスが来たらウインクすればいいんだよ」
     ナチスはドイツだけのものではない。どの国にいつナチスのような勢力が台頭してくるかわからない。それは国レベルだけでなく、小さな集団、もしかすると一人の心の中にもだ。見分け方は比較的簡単だろう。急速に力を増しているという状況がまず疑わしいからだ。もっとも、急速に力を増したものは、急速に破滅することが多い。だから、気づかない間にいくつもの勢力が消えているのかもしれない。しかし、気づかない間に消えているからこそ恐ろしいは言えないだろうか。もしかすると、毎日生まれているというガン細胞に振る舞いが似ているかもしれない。
     ところで、サウンドオブミュージックからガンに話が移ってしまったが、このマリアの話のいったいどこからどこまでが実話なのだろうか。演劇というものに少し興味がわいてきたが、ただ観劇するしか脳がないというのは寂しいかぎりだ。

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    1/25/2009

    変な疑問98「出産時の呼吸法」

    <あらゆることに呼吸法は関係するからぜひ読んでみたい 画像クリックで説明画面へ>
     「hip hip hurrah」は「ひっ、ひっ、ふらー」とか「ひっ、ひっ、ふれー」とか発音するのだろうが、これを歯を食いしばって発音したり、簡単に発音したりすると「ひっ、ひっ、ふー」に似てくる。
     「ひっ、ひっ、ふー」は出産時の呼吸法だが、もちろん「ひっ、ひっ、ふー」は呼吸法自体ではなく、呼吸法を成立させるための方便としての発音だ。「ぴっ、ぴっ、ぷー」という発音に依存すると、不要な力が体にはいってしまい、呼吸法の目的の一つである体と心のリラックスを作り出すことができなくなるように思う。これが「きっ、きっ、くー」であれば、なおいっそう体に異様な力がはいってしまうだろう。
     「hip hip hurrah」は、馴染みの深い「フレー、フレー」という意味だから、「がんばれ、がんばれ」だ。英語圏の人が出産時の「ひっ、ひっ、ふー」を日本人がやっているのを聞いて、どうして自国語でやらないのだろうと疑問に思うかもしれないが、「がんばれ」では発音時に体に力が入ってしまう。第一、歯を食いしばっていたら、発音できない言葉だ。また、歯を食いしばっていなくても、がんばれなどという複雑な発音は呼吸法には不向きだ。
     自分にがんばれと言っているのか、赤ちゃんにがんばれと言っているのか、その両方なのかは個人個人違うのだろうが、仮に「ひっ、ひっ、ふー」が「ひっ、ひっ、ふらー」ならば、母親は単なる安産の呼吸法としてではなく、「がんばれ、がんばれ(私の赤ちゃん)」という必死の愛情を込めた言葉として発しなければならないように思う。
     諸外国ではどのような言葉で呼吸法を成立させているのだろうか。「ひっ、ひっ、ふー」が「hip hip hurrah」という英語ではなく、諸外国でも似た発音ならば、世界語として諸言語の日常語の中に組み込まれている発音があるかもしれない。もっとも、誰かが確立した呼吸法が世界に伝達されている可能性が高いので、その誰かが日常使用している国語であるかもしれない。
     もしかすると、「hip hip hurrah」の語源こそが出産にあったのかもしれない。「hip」と「hip」の間から赤ちゃんが出てくる。「hurrah」は「万歳」というわけだ。

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    12/7/2008

    変な疑問97「たくさんの言語」

     「言語はなぜたくさんあるの?」と疑問に思ったことを突然思い出した。中学生の頃、地図帳でインドの言語分布地図を見たときにおかしいと思ったとき以来だ。神の怒りに触れたからだという授業の脱線話もいっしょに思い出した。
     日本語しか話されていない日本の方が珍しいと思うのだが、当時は一つの国なのにどうしてたくさんの言語があるのだろうと、不思議に思ったのだ。
     一つの国のなかでいくつもの言語があるのは、日本人から見ると不便に思われるが、不便であると思うだけでなく、本当はその不便以上の何らかの支障があるのだろうと考えて、その事情を調べなくてはならない。もしくは、その不便以上の何らかの利便性が他にあるのだろうと考えて、その事情を調べなくてはならない。
     しかし、そんな余裕があるはずもなく、授業は進んでいく。学校で学んだら、後は自分で追究しようということが当たり前のことになっていなければ、いくら授業の時間を増やしても足りないだろう。
     とにかく、長い年月を経てはいるが、突然思い出したことについて、あれこれ考えてみるのも面白いかもしれない。調べる時間はなくとも、想像やら空想やらしている間に、凝り固まった脳がほぐれてくるかもしれない。

    ①地球には言語が随分とたくさんあるが、たくさんあった方が都合がよいのだろうか。
     地球のいろいろな場所で、いろいろな生活をしているうちに必要となったいろいろな考え方を、それぞれ独自に自分たちに都合のよいように表現することこそが自然な言語の姿だ。したがって、この疑問に対しては、地球の言語は一つではない方が自然だという考え方をする人がいるかもしれない。
     しかし、いろいろな生活をしているといっても、異なる言語を操る必要があるほどに、いろいろな生活があるわけではなかろう。地球に言語が一つしかなくても、異なる環境で異なる文化を築きあげていきながら生きていくことは可能だと思う。必要な単語を付加し、不必要な単語を使用しないだけで生きていくには充分に間に合う。それどころか、通訳や翻訳は不要となり、分からない単語を相手から教えてもらうだけでよくなるから、かえって、現状よりも都合がよい。
     そうであるにもかかわらず、現在のように数多くの言語になっていったのは、一種のなりゆきのような気がしてくる。この場合の「なりゆき」というのは、いい加減という意味合いが中心ではなく、無目的の合理性といったようなもので秩序立てられた現状のことだ。それには地形的な枠や地理的な条件、政治的な力関係が働き続けているはずだ。
     結局のところ、言語の数は世界中で数千語あるらしい。実に曖昧だが、別の言語として二つに分けてカウントするか、それとも一つの言語としてカウントするかという点で判断が困難なものがありはしないか。こうした類のものを数えるのはどうにも難しいように思う。
     ただ、数千語といっても、少数民族の言語も含んでいるから、主な言語としては世界の国々の数が約二百として、それ以下の数字になるという見当はつく。
     たとえそれが百語であれ、二百語であれ、それだけの種類の言語があるということは、地球規模で歩み始めていかなくてはならない僕たちにとっては大きな問題だ。日本や英語圏でのできごとだけを耳にしているような状態では地球どころか人間というもの語ることさえ難しいような気がする。
     話されたり書かれたりした言葉を通訳してもらったり翻訳してもらったりということがあったにしても、大筋が伝わるだけで細やかな含みなどはうまく伝わらない可能性が残っている。同じ言語を話す人同士でも、また家族同士でさえも、なかなか真意が伝わっていかないのが実情だ。
     悲しいことに、通訳が必要でありながら、その第三者がいること自体が邪魔になる場合もある。第三者の存在は、どうしても人間関係を表面的なものにしてしまうだろう。また、通訳や翻訳の力量によっては、あるいは対話時間が少なければ少ないほど、言葉としては通じているものの、極端なケースでは逆の気持ちが伝わる可能性もゼロではない。
     これを避けるために、自分自身が外国語を理解して話せるように努力すればよいということになる。しかし、学ぶ言語の種類や学ぶ環境、そして学び方によっては、マスターするまでに大きな労力と時間、そしてお金がかかってしまう。僕たち一般人は、いくら努力しても二か国語(自国語も含めて)をマスターすることで精一杯だというのが実情だろう。生きていくために他にもやることがたくさんあるからだ。
     意地悪い言い方をすれば、二か国語をマスターするのに費やした労力と時間の分だけ、他人に劣ることになってしまう。もちろん、その間に他人が語学以外の何かに懸命に取り組んでいたとしての話だが……。
     自分が二か国語の言葉を習得しているのと同時期に、他人も同じように二か国語を習得するのに時間と労力を費やしていれば、お互い様なのでほぼ問題はないかもしれないが、皆が皆そうではない。しかも、似た言葉を習得すればそれでよい人と、全く異なる言葉を習得しなくてはならない人とでは随分と労力や時間に差が出てしまう。
     この点について考えていくと、この世にたくさんの言語があることによって、都合がよくなることなどなさそうに思われてくる。しかし、実際にたくさんの言語がある以上は、何か都合のよいことを見つけるか、作り上げるしかないだろう。そうでもしなければ、あまりにも滑稽ではないか。

    ②地球の言語がたくさんあることによる不平等はなくせるか。
     個人対個人ではお互いに学びあって理解し合おうということにもなるが、民族対民族では、どちらかが相手の言語を学んで仲よくしようとしようという流れが起きやすい。国単位で組織的に学ぶことになるので、組織と組織との上下関係が一方方向の学びを生み出すのだ。
     大抵は、世界の代表的な先進国で使われている言語、また、比較的使用人口が多く、比較的容易に学べる言語が選ばれて学ばれることになるのが道理だ。総合的に見れば、効率がよいからだ。
     しかし、他言語を学ばねばならない人間と、学ばなくてもよい人間がいるということは、どうにも不平等のように思われる。他言語を学ぶということは大きな労力が要るからだ。その総時間数やテキスト代辞書代などの総費用もたいへんなものだ。「損して得取れ」とはいうが、たとえば英語を習得できなかった人の人口と費やした時間をかければ、膨大なものとなる。少なくともその分だけは、生まれつき英語を話せるようになる環境にいる人と比較して、大きな損失分になることは間違いない。たとえ習得したとしても、実生活で活用して利益を得る機会がなければ、これもまた大きな損失となるのだ。もちろん、総合的に見て結果としては得なのだろうが、どうも感覚的には腑に落ちないところがある。
     逆に、そうした世界規模で話されている共通語としての側面をもった言語、たとえば英語などを自国語とは別に身につけていれば、政治や経済の方面でおおいに役立てることができ、国力を高めることにつながっていく。しかし、だからといって不平等でなくなるわけではない。
     確かに、バイリンガル以上であれば、目的と場に応じて、どれか都合のよい言語を選択して使用することが可能だ。だから、その分だけ豊かな言語生活を送れることになる。
     これに対して、世界の共通語と化した英語などを生まれながらにして親から学べる状況にある呑気なモノリンガルや、世界から孤立した言語の日本語などを親から学ぶしかなかった国際的に瀬戸際のモノリンガルは、バイリンガル以上の人がもっているであろうと期待される物事のとらえ方の広さや考え方の幅広さという意味での豊かさで勝負をするよりも、自国語を駆使して一つの言語による生活文化の質の高さの向上を図ったり、歴史の真実を追究したりすることによる深さの豊かさで勝負をすることを中心に考えていった方がよいように思う。
     しかし、わざわざバイリンガル以上の力をもたなくても、モノリンガルばかりであるにもかかわらず、それでことが足りるような国づくりをしたり、国際的影響力を政治経済面でもったり、特異な文化を売りにして儲けることや言い訳にして有利に立ち回ることを推し進めたり、様々な分野でこまめに国際的水準をはるかに超える技術を確立させたりしていれば、それはそれでモノリンガルの国としてすばらしい生き様をしていると胸をはっても構わないと思う。
     そうしたたゆまぬ努力を必要とすることなく、歴史的遺産のごとく最初からモノリンガルですませられるという身分にある人々は、あえて少数民族の言語を身につけて文化の保護や経済支援等にあたるようなボランティア活動をするぐらいのことをしなければ、必要に迫られてバイリンガルになるための努力を必要としなくてはならない人々やモノリンガルで無理して突出しようと努力しなくてはならない人々に対して申し訳が立たないというものだ。
     もちろん、それらの人々の全員がそうした殊勝な心がけで生きていける状況にはない。だから、少なくとも地球人として、かけはなれて異なる文化の言語も多少は学ばねばならないという決まりを作ってもらい、その学習を通して異なる文化についての理解を深める機会を作ってもらうぐらいの配慮はしてもよいのではないかと思う。そうすればモノリンガルですませられることによる傲慢な姿勢もいくらか改善されるかもしれない。
     これ以外に言語習得の負担を平等化する道は、第二言語としてエスペラントを採用することを世界中に義務づけるしかないように思うが、やはり無謀というものだろう。
     これらの道は最初から閉ざされているように思われる。現時点で第二言語を必要としない大国が首を縦に振るとは思えないからだ。これはずるいのではなく、至極当然なことだ。第二言語を習得する時間があったら、大国が大国たらんための科学技術獲得のための教育等に充てるに決まっている。この言語的優位をどうして手放すことがあろうか。どう考えても不平等はなくせそうにない。

    ③言語がたくさんあること自体にプラス面はあるのだろうか。
     今と違って効率のよい通信手段や効率のよい交通手段がなかった時代では、人間が地球に広がっていく過程で住みついていった地域ごとにいろいろな言語が花開いていったのは当然といえば当然だ。
     しかし、その後、数千種類になるまで、ひたすら多くの言語が生まれていったことはとても面白い。取りあえず幾つかの言語が生まれ、それぞれが幾つかの言語を派生していくというスタイルで増えていったのだろうと想像されるが、よくも増え続けたものだ。何か必要があって増えるべくして増えたと考えるべきか、それともなりゆきで増えてしまったと考えるべきか、その両方か。
     そうした過去の動きにはいろいろ意見や学説もあるのだろうが、陸地がほとんど国境によって分割されるまでに人間の行動範囲がある程度地球にいきわたりつつ固定されている状況では、民族の移動に伴う言語の増加も既にピークを越えて、現在では少しずつ増えたり減ったりしていると考えるのが常識的な判断であるように思う。
     大きな流れが仮にそうであったとしても、言語が生まれたごく初期にはどのようなことが起こっていたのだろうか。初期の段階特有の何か特別の動きがあったかもしれないと考えると面白そうだ。 
     人間が言語を操り始めた初期の段階では、地球上に二種類、三種類の言語しかなかった時代が必ずあるはずだ。人間がまだアフリカあたりの一地区に住んでいたころ、言語が発生し始めたと仮定する。いきなり文法を考え出し、それに基づいて単語を増やしていくというのは考えにくい。単語を増やしていく間につなげ方が決まっていって、それが文法となっていくと考えた方が自然だ。
     この文法が発生するまでに試行錯誤の時間がかかるはずで、試行錯誤のなかで幾つかの流派ができると考えるのが自然だ。どのつなげ方が合理的かということではなく、「感覚的」、かつ「暗黙の了解」、かつ「なし崩し的に」というと変かもしれないが、ファッションのように広がっていく感じではなかったろうか。どのように単語をつなげると立派に聞こえるか、そして伝わりやすかったかという実質的なことが主な決定条件となるはずだ。
     流行廃りもあったに違いない。しかし、次第に主な幾つかの流派に絞られてくる。これはある程度の生活領域の広さを必要とする。ある一定以下の広さであれば、一つの文法に統一され、ある一定以上の広さであれば、幾つかの文法に分かれていく。こうした地理的な条件に生活様式の違いによる社会構造の違いが加わって、生活領域の拡大に伴って言語の分離が始まると考えたらどうだろう。
     一つの言語が話される地域が広がっていくなかでも方言が発生する。長い間には、それが別の言語のように聞こえるほどに変化する可能性も十分にある。省略の仕方や比喩の仕方、イントネーションの変化などは地区ごとに進化する。同じ文法をもつ言語でも、単語を増やす段階で地域が離れていれば、テレビもラジオもないのだから、同一のものを全く別の言い方になる。
     それでも、人間がまだあまり地球に広がっていない時代には、違う文法や違う単語をもついろいろな流派の言語を操る者同士が、比較的近くに住んでいたはずで、生活領域が接するところがある段階では、自然にバイリンガルが発生していくはずだと考えるのは不自然だろうか。
     やがてそのバイリンガルが多く住んでいる地域が独立して歴史を歩むようになることがあったかもしれない。その中で新しい言語が育まれていく可能性を疑ってもよいかもしれない。大抵はどちらかの言語がもう片方の言語を駆逐してしまうように思うが、駆逐された言語を母語としていた集団が母語風の他言語を話しているうちに、言語の数が一つ増えるもとをつくっているというわけだ。
     これは逆に、人間が地球のあちこちに広がってから各地で独自に言語を育てていったと考えるのはどうだろう。言語学的な難しいことは分からないが、直感的にそれは少し考えにくいことのように思う。
     人間が地球のあちこちに広がるためには社会が必要で、その社会を維持し、生きるための技術を身につけるとともに伝達していくにはどうしても言語が必要だと思うからだ。その土地の風土で生きるための技術を身につけて力が蓄えられると勢力が広げられていく。すると、ある地点から周囲に広がるためにスタート地点から民族が地理的に分離していく。分離しつつも集団で生きていくためには前提として社会というものが形成されている必要がある。当然異なる土地での生き方に合った社会になっていく。図書館や学校、会社のある現在と違って長い歴史のなかで生まれた知恵や技術が個人的、かつ容易に手にはいるわけではなく、社会に依存しつつ自らの努力で身につけていかねばならないからだ。
     これが幾つかの民族に分かれるはじめだと考えるとすっきりする。それと同時に、これが生きるためのすべである言語が分岐するはじめとなるように思う。
     こうして考えていくと、民族の分離が起こった後にどの民族にも言語が発生していくというのは、かえって不思議な感じがする。やはり、そうなる前に民族の力を支える社会とその社会を維持するための言語が必要だと思うのだ。
     分かれて住み始めた土地では独自の生き方を強いられるだろうが、文法や単語は異なっても、言語をもつ能力だけは引き継がれていき、生き方を伝えていくということだ。その間、他の民族とぶつかって他の民族の言語を吸収したり、他の民族を避けて別の土地の風土で生きるための技術を身についていかざるを得なくなって、文化的に隔絶され、交流がまれとなり、次第に他の民族の言語とは独立したような独自の言語の姿を見せるようになることもあるだろう。
     このように、他言語を用いる民族や部族を征服した場合には、自分の言語を共通語にしてしまおうという動きも出てくるはずだ。共通語とするだけでなく、母語の使用禁止令を打ち出す可能性も高い。すると、言語の数が一つ減ることになる。
     ただし、この場合、どの程度徹底して共通語としての自分たちの言語を押しつけて浸透させたかということが問題になる。自分たちの言語を浸透させるには、征服した自分たちと征服された者たちの人口比や文化の高さの違いが障害となる可能性がある。これを打ち砕くには、彼らの団結をどれだけ分断し、彼らの誇りをいかにおとしめていくかにかかっている。
     しかし、その作業にも労力が要る。また、人間のやることだからどうしても徹底を欠くことになる。ここにまた、言語が融合したり、混合したりする機会が生まれる。こうなると、自分たちの言語を押しつけようとしても、言語の数が減るのではなく、逆に増えてしまう原因を作ることにもなりかねない。
     言語数がきわめて少ない時代では、人間のこうした所業によるダイナミックな言語地図の変動が見られたことだろうが、今となっては国境という枠、文化圏という枠などに歴史の厚みが加わり、言語数の変動が比較的安定している時期を迎えているという状態に見える。
     このように改めて考えてみると、自分があまりにも言語について分かっていないことを実感する。たとえば、現在使われている言語の数が数千語としても、これまでにどのぐらいの数の「のべ言語数」があったのだろうかということになると、もう調べようがない。
     今のところ文字だけがその言語が存在していた証拠となる。文字が残っていなければ化石が残っていないのと同じで、存在を証明できない。もちろん、今後は音声データの収録も試みられるのかもしれないが、それをどういう方針で誰がどの費用を使ってどのような方法でやるかという現実問題になると、はなはだ心もとない。
     そもそも、「のべ言語数」を確かめる意義など今のところほとんどない。しかし、さすがに現時点の言語数すら不明確だというのは、言語というものについて語ろうととする際、あまりにも実態をとらえていないということになってしまう。もっとも、そのようなお粗末な状態が現状だということを語ればいいのかもしれない。
     動植物の種類もその数は本当には分からないが、それでも不都合はない。もっとも、新種を発見すれば、それはそれで大きな評価を得られるのと同じで、未発見の言語を発見して研究すれば、大きな評価を得られるはずだ。だからといって、そのために未開の地へ探検に出かける人もなかなかいないと思う。
     動植物の新種を発見すれば、そこから新薬を作ったり、生命の謎が解ける可能性もある。そうした宝探しなら巨万の富を得る確率はゼロではないが、未発見の言語を発見しても、それほど得することはない。万一、発見したとしても、その後に研究をしなくてはならないのだ。とても一人の人間の寿命には合わない仕事だ。得られるのは名誉、名声だけだろう。
     ただ、一つの物事に対して、いろいろな民族がいろいろな言い方を発明してきたということだけは確かだ。つまり、今後どんな物事に遭遇しようと、いとも簡単に表現しきってしまうという頼もしさを感じる。逆に、このような言語の性質が原因でたくさんの言語ができてしまったことも確かだろう。
     原因はどうあれ、たくさんの言語があるということについては、まず次の二つのことが言える。
     一つはプラス面。たくさんの言語がある分だけ、総和としてではあるけれど、この地球の至るところで世代をこえて文化のバトンタッチをしながら、種類が豊富という意味での豊かな文化を築いていける。
     それは、異なる言語間の生活交流が薄くなるために、一つの言語を使用するグループに内向きの力が働いて、その内部で文化が育まれるようになるからだ。そのおかげで、文化の種類が豊富な地球という星になる。
     もちろん、現代は情報の伝達や交通機関の発達により、国境などの境界線を越えて短期間のうちに文化が広がるということもある。すると、広がった先でいろいろに変形することもあるので、ますます文化の種類が豊富になっていく可能性が高い。後はどのような形でその地に根付いていくかという問題はある。
     しかし、文化の種類が一時的にでも増えていくという単純なことだけでも充分にプラスだろう。文化的に短命であっては影響力が少ないという人もいるかもしれないが、それでも種々雑多な方が、その内のどれかが状況に適合している確率が高く、文化として進展し、生き延びていく可能性が高いからだ。
     ところで、たくさんある文化の中には、言語という暗号で守られているがゆえに、他言語使用者から不当な評価をされてつぶされることなく育まれていった文化や実際より高く評価されて保護されている文化もある。逆に、不当な評価をされてつぶされり、差別されたりしている文化もあるかもしれない。
     しかし、だからといってこれがたった一つの地球語だったら面白くも何ともない。他言語を操る他民族に好奇心も感じなければ、他民族や他言語に対して感じる神秘性も失われてしまう。他言語を習得するという適度な困難は、人を夢中にさせる効果があるが、それがないのはつまらない。これは不幸なことだ。ただし、孤立した言語を話す民族にとって他言語をマスターするのは苦痛だ。もっとも、それを克服した人には必要以上の尊敬を得られるから努力のし甲斐はある。
     次にマイナス面。今後、様々な言語を使用する全ての民族同士が、共生という形でまとまって進んでいかねばならないということになると、意思疎通の面で不都合が目立ってしまうということは否定しようがない。
     ところで、これとは別に、生の声と著作物等の文字との間にあるギャップが問題となる。他言語を話す者からすれば、その言語による生の声はまれに断片的に伝わってくる情報で、その言語による著作物等の文字は選択的に翻訳されて伝わってくる情報となる。
     著作物となる時点で既に選択的かつ意図的に表現されたものだ。また、翻訳するというということは労力を要することだから、その労力に見合ったものが認められなければ翻訳されることもない。しかも、その情報には、著作者個人の意見や翻訳者の思い込みも含まれている可能性がある。伝言ゲームの恐怖はある程度覚悟しておいた方がよい。
     こうしてみると、文字を配列していくことで表現された情報というものはかなり選択的なもので、しかも人の目を通して解釈されたものだとしかいえない。逆にそれだけ精選されて理解しやすくされた耳よりの情報だとも言える。しかし、そうした情報というものは、ある一定以上の量が収集されなければ、受け手の都合のよいような利用の仕方は難しいのではないだろうか。それ以前に、情報の質的な評価をすることも難しいという問題もある。これを解消するには、大きな労力を必要とする。
     一方、生の声は紛れもない実際の直接の情報である可能性が高いが、その言語を学習していない他言語の使用者にとっては暗号以外の何ものでもなく、内容を確認することも意見を述べることもできない。
     僕たちが他言語に接するとき、まず翻訳された言語を表している文字に接するのが普通だ。たとえ、翻訳されていなくとも、大方は印刷されており、自分自身が翻訳する時間的な余裕を与えてくれる。
     しかし、生の声に対しては聞き取ったり質問し合ったりする時間的な余裕がお互いにない。これが心の余裕のなさにつながってしまう。これを避けるには、通訳の手を借りるか、あるいは、自分か相手かの最低どちらかが通訳並みの力を持つしかない。
     通訳をたてるということは予定の行為の中であるからこそできることなので、その生の声を出す話し手も通訳も、こちらが予定のなかで意図的に選択する余裕はある。
     しかし、一口に通訳とか翻訳といっても、生の声しか通訳できない者と、文字しか翻訳できない者と、翻訳された文字しか読めない者との間にある理解度の差によってできる伝達不良の溝はなかなか埋めることはできないだろう。
     このように言語の種類が多いことにプラスとマイナスの両面があったとしても、必ずしもプラス面だけが出ればよいというものでもない。プラス面、マイナス面のどちらであっても、どちらか一方に偏ることの不都合は大きい。プラス面といってもマイナスの要素を含んでおり、マイナス面といってもプラスの要素も含んでいるからだ。
     国際問題の多くは、この言語の種類の多さというものを基盤としているように思う。国際問題というものは、その目標が美しく簡潔な言葉で掲げられるだけのことはあって、実際には、汚く、複雑で、板挟み、袋小路に迷い込んでいるものばかりだ。
     もしかすると、かえって同じ言語を使っていないということが、不幸中の幸いというケースがあるかもしれない。異なる言語、異なる文化をもった人たちなのだからという、あきらめや覚悟がもてるからだ。そのあきらめや覚悟をもっていればこそ、国際問題を解決する仕事に意気を感じ、挫折することもなく積極的に問題解決にあたることができようというものだ。
     その政治的活動がたとえ破滅に向かうものであっても甘んじて受けいれ、「所詮人間というものは……」とか、「さて、真理とは……」とか、敢えて呪文の類を唱えてみるのも面白かろう。これは自暴自棄になっているわけでもなければ、他人事のように無関心を決め込んでいるわけでもない。ただただ、困っている人のために、最後まで何かできることをしてみようという空っぽの心のなせるわざだ。

    ④言語というものは、どのようにして数えるものなのだろうか。
     日本語も他の言語と同じく、地域ごとの共通語である方言と標準語との集合体で、通常はこれを一つの言語と見なして数えることになっている。
     しかし、鹿児島の方言と青森の方言との差を知っている日本人の尺度から見れば、方言ほどの違いもないと感じてしまうような言語でも、地続きの外国で使われていれば、それを二つの言語として数えることもあるかもしれない。
     もし、そうしたケースがあるのなら、おそらく、愛国心とか所謂歴史とかいうものが関係してくるはずだ。言語学や歴史学の成果に従うよりも、互いの国の人々が主張するように、別々の言語だと認めておくのがおさまりがよいように思う。おさまりがよいといっても、主張をただ受けいれるだけの妥協ではない。真実ではないかもしれないが、それよりも話す者の意識が異なるという事実に重きを置きたいと思うのだ。
     ただ単に「我々は○○とは違う言葉を話している」では困るが、「学問的には○○と同じ言語かもしれないが、我々は○○とは異なる言語を話している」という了解をしてもらっていていいのではないかと思う。意地になっているだけだと評価されてしまうだろうが、その意地が大事なのだということを心にとめておく必要がある。
     たとえば、「自分は○○国の国民だ」、あるいは「○○民族の一人だ」という類の「所属しているということに対する誇り」を生きる力の土台にしている人々だっている。つまり、「あいつらとは違う言葉を話しているのだ」とか、「あいつらとは違う文化を持っているのだ」という意識を強く持つことによって、それを精神的なバックボーンとしている人々だっているのだ。
     そうすれば、亡命して非国民とならない限り、あるいは死んで他民族に生まれ変わらない限り、たとえ経済的に苦しくても、あるいは弱い立場に立たされていても、そのおかげで胸を張って生きていける。それどころか、あらゆる困難にも耐えていけるのだ。
     だから、いくら言語が似かよっているからといって、そのことだけで一つの言語として隣のライバル国とまとめられてカウントされてしまうことには、民族として、あるいは国民としての誇りを傷つけられたように感じ、強い不満感をもつに違いない。
     つまり、自分たちが話している言語を積極的に他と区別し、自分たちだけのものとして守ろうとする心理が強く働かざるをえない状況にある人々がいるということだ。そうした人々は、いざという時には、たとえ自分の命を落とすことになっても、民族や国の誇りをかけて戦うという道を選択をする可能性が高いのではなかろうか。
     逆に、アイヌ語のように全く日本語とは異なる言語だけしか話せない人々が、ある程度の勢力を持っていながらも弱い立場に立たされていた時代には、その言語を話していることや風俗や習慣自体が差別の理由になるという理不尽な図式が作り上げられていくことにより、ますます勢力を弱めていくということがあるように思う。
     しかも、力尽くで日本語の勢力下におかれていくという動きが出てくると、子供の将来を考え、アイヌ語が親から子へ伝わらなくなっていく傾向が強まると思われる。そして、最後にはアイヌ語という一つの言語が消滅していくことになる。
     つまり、アイヌ人と和人との抗争が和人の有利な状態で終わりをつげた後に訪れたであろう、アイヌ語を自ら積極的に使用しないようにしようという心理がどこかで働き始めた時期や、そうした心理とアイヌ語やアイヌ文化を守ろうとする心理とが拮抗する時期を経て、今日のように言語や文化を保護される時期を迎えているのではないかと思う。
     妥協を積み重ねて生き延びるか、抵抗して殲滅させられるか。この二者択一を迫られたのが、アイヌ人ではなく、和人であったとすれば、果たしてどうしたであろうか。誇りを捨てた形で生き残る道を選ぶことが果たしてできるだろうか。もし、本当の誇りとは何かを知っていれば、勇気をもって同化しながらも、アイヌ人たることに努力を怠らず、本当の誇り、つまり魂をアイヌ人のように伝えていくに違いない。
     しかし、アイヌ語のように保護された言語を生きた言語としてカウントしてよいのだろうか。また、誰一人として実生活に使用しなくなったとしても、講座を開いて復活させて維持していこうという現在のような努力が続いているような状態であれば、それは一つの言語としてカウントしてよいのだろうか。これは実に際どい問題だと思う。

    ⑤言語の滅びの線引きにはどのような問題があるのだろうか。
     アイヌ語のように、ある民族がその民族としての勢力を弱め、その言語も消滅していく過程に入っているような場合には、いったいどの時点で消滅したと見なしたらよいのだろうか。
     親がその言語を使用言語としていても、何らかの理由でその子供が話さなくなった場合には、子供にとってはただの理解言語となってしまう。その孫に至っては、よほど興味をもって勉強しない限り、辛うじて部分的に理解できるだけの言語となるか、全く理解できない言語となっていくはずだ。
     例えば、何らかの理由で母国が失われ、国民の全てが異国で異国民と接触して暮らす移民となった後、二世、三世と世代が変わっていったとき、特に三世ともなれば、特別に学習しない限りは母国語を話せなくなるように思う。
     そこに、その数十年の間のどのラインを境として言語が消滅したと言えるのかという問題が起こる。移住先の言語と移民の言語との相性や移民の人数の多少、移民の地位が、大きく言語の運命に影響を与える。だから、それぞれの移住先ごとに消滅の仕方があり、消滅の時期も一様ではなくなるだろう。
     おそらく、その言語にかかわる幾つかのグループで最後まで母国語を何らかの形で保存しながら残っていたグループ内における「言語活動」の消滅を確認して、初めてその言語が消滅したということになるのだろう。しかし、それでも何に対して、どんな基準をあてがって消滅と見なすのかという問題は残る。
     また、一口に言語活動とは言っても、他者とのコミュニケーションだけでなく、独り言、内言なども言語活動に含まれるだろうから、少し話はややこしい感じになるかもしれない。しかし、すべての言語活動がなされていることが必要だとするのか、一種類だけでも残っていれば十分だとするのかは決め事としてただ決めるだけのことのように思う。
     こんなことを厳密に規定しても、たいした意味はないということだ。しかし、レッドデータブックにでも載るような言語を保護する活動をすれば、どこかから補助金が出るというような話が出てこないとも限らない。金が絡めば話は別だ。否が応でも厳密に線引きをして補助の対象かどうかを明確にしなけばならなくなるに決まっている。
     では、言語の滅びの線引きにはどのような問題があるのだろう。
     第一に、個人個人の言語習得率の問題がある。
     言語の滅びの線引きもそれを考慮したものでなければならない。いくらその言語を話すといっても、幼稚園程度の言語習得率であれば、その言語の十分な使い手として認めるわけにはいかない。十分に話せない者しか生き残っていなければ、その言語は滅んだと言ってもよいという考えが出てきてもおかしくはない。言語の滅びの線引きをする場合、そのあたりをどう判断していくかという問題がある。
     言語の滅びの線引きは、一般成人が習得しているはずの言語習得率を基準としなければならないと考えるのがよいだろう。義務教育レベルでは不十分だ。少なくとも働き盛りの中年程度の言語習得率を基準としたいものだ。その言語を使用する最後の生き残りの人物の言語習得率がその基準以下ならば、その言語は滅んだとするのだ。
     しかし、このように考えた場合には、その最後の生き残りの人物の努力によっては、あるいは年齢を重ねれば、その言語が復活したと見なされることもあり得ることになる。また、その人物や支援団体の並々ならぬ努力によって、その言語を使用する人物が増える可能性すらある。
     これは是非もないことだが、言語が一旦滅んで復活するまでに数十年もの年月がかかることも出てくるというわけだ。
     そうなると、最後の人物がたとえ失語症になったり、精神に異常を来して同じことしか言えなくなったりしても、治療の成果が出る可能性がゼロでない以上は、その言語が滅んだと決めつけない方がよいということになる。つまり、死亡するまでは要観察ということだ。
     第二に、バイリンガルの言語習得率の問題がある。
     モノリンガルが死に絶え、その後一定期間はバイリンガルが生き残っているという状況は結構ありがちなものではないかと思う。しかし、この場合、バイリンガル、特にバイリンガル以上の者については、その習得しているどの言語も、簡単な日常会話程度というレベルでとどまっている可能性があるので、確認しなくてはならない。
     辞書を使っても、やや難しい内容の本を読むのが困難であったり、その言語を話してきた人々が築きあげてきた文化に慣れ親しんでいないがゆえの誤解をしたり、討論に不自由があったりするならば、いくら買い物や様々な手続き、友達との楽しい会話、旅行などの日常的な生活をその言語によって実現していたとしても、豊かな社会生活や豊かな精神生活が送れるかどうかという基準で見ていく場合には、いくらバイリンガル以上であっても、やはりそれは不都合のある言語習得率にとどまっていると評価しないわけにはいかなくなる。簡単な日常会話ができるという程度では、常識的に判断して、その言語を十分に使いこなしていると認めるわけにはいかない。
     特に、母国語も他国語も同じように怪しい段階にあるバイリンガル以上にも注目しなくてはならない。結果として「二兎を追う者は一兎をも得ず」の状態になってしまった人々だ。こうした人々が話す言語は、一般的に成人が習得しているべき言語の水準に達していない可能性を見極める必要がある。その結果次第では、その言語の十分な話者としては認められないと思う。
     そういう人たちしかその言語を話す者がいなくなった時点で、その言語はもう滅びたと見てよいという立場もあってよいはずだ。
     逆に、この世の人々の全てがその言語のモノリンガルになったという状況が生まれた場合は、話が別だ。既に、十分不十分を問わず、全ての人々が使用しているという時点で、その言語が滅びているとは言えなくなる。一人一人が、たとえ現時点で水準以下の言語習得率であっても、その時点での平均的な水準に達していると判断しないと、滅んだ言語を使用しているという矛盾が起こってしまう。
     第三に、その言語が生活力として機能しているかどうかという問題がある。
     その個人の言語習得率が相当に低いために、豊かな社会生活や豊かな精神生活が送れないのはもちろんのこと、そのために生活上の問題を起こしたり、それを解決する力が低かったりするということがある。これでは言語の能力が生活力としての十分に機能していないというになる。
     ただし、その個人の言語習得率が相当に高い場合でも、たまたま刺激のない生活環境にあったために、豊かな社会生活や豊かな精神生活が送れなかったということや、たまたま恵まれた生活環境にあったために、解決すべき生活上の問題に遭遇していなかったり、若さゆえに人生経験が不足していたりして、生活上の問題を解決する力が低いと判断されてしまうこともあるだろう。
     そのどちらであっても問題であることには変わりない。言語習得率は高くても、問題解決に必要な語彙が少なかったり、使い慣れていなかったり、コミュニケーション力が不十分であったりしたために、持てる言語力が生活力として機能する状態にまでに活性化されないということからだ。この場合、使用言語として十分に運用される程に習得されてはいないと判断されるため、たとえ理解言語としては十分にクリアしていると見なされるレベルにあったとしても、その言語は滅びの線引きの内側にすえられてしまうおそれがある。
     これは、その人物が言語を下手に使用しているために、その人物にとって言語が不利に働いている状態だ。どの使用者からもそうした使われ方しかされないようになってくれば、その言語には既に力はないと判断し、滅んだとしても差し支えないという見方だが、これは不自然な見方だろうか。
     つまり、この個人内の言語習得率がある一定以下の値の人々の人口が、その言語を使用言語とするグループのなかで、ある一定の割合以上になった場合には、それをそのまま滅びのラインとするというようにしてもよいかもしれない。
     この言語習得率は、公的にしかるべく定められた方法で、客観的に測定されるものでなくてはならないと思う。
     たとえば、言語の滅びの判定専用の国語能力検定のようなものを新たに設ければよい。その是非はともかくも、この検定によって基準が決められた後には、同じ方法によって継続して検定し続けて統計を重ねていけば、言語の滅びのラインを定めていくことができるに違いない。これは滅びが近づいているということを警告するための基準ともなろう。
     個人レベルでの言語の滅びの線引きについても考えていかねばならないが、同時に、このようにグループのレベルでの言語の滅びの線引きも考えていかねばならないように思う。ここでは「言語の消滅」という生か死かという二者択一の表現よりも、「死に体となった言語」という表現の方が適当だろう。これは生死のグレーゾーンを示したものだ。
     こうした「グループ内の言語習得者率」は、通常は百%ではない。言葉を話せない生まれたばかりの子供や言語障害を持つ人や言葉を忘れている高齢者もいるからだ。厳しく考えていけば、義務教育を受けつつある子供たちも言語習得者として認めてはいけないのかもしれない。  
     もちろん、習得しつつあるという意味では習得者なのだが、そういう意味ではほとんど全ての人々が日々習得しているため、赤ちゃんも含めて多くの人々が言語習得者ということになってしまう。ここでいう習得とは、習得中や習得完了を意味しているのではなく、一応の習得終了という意味だ。
     このグループ内の言語取得者率のイエローゾーンやレッドゾーンは、統計的に暫定的に決めるものか、既に決められているものなのかは分からない。
     分からないといえば、個人内の言語の習得率がどのように表現されるのかも分からない。しかし、まさか個人が理解したり使用したりする語彙数を総語彙数で割った数値だけではないはずだ。文章の表現力や理解力や鑑賞力、会話力、説明力、説得力などという数値化しにくいものが問われなくてはならない。そうでなければ、達人の域に達した言語習得者に近いものとして、大型辞書を挙げなくてはならなくなってしまう。
     数値化しにくいのを曲げて数値化するためには、やはり言語能力テストを実施するしかない。しかし、これには意欲の面や対策時間の限界なども絡んでくるので、十分な配慮をする必要がありそうだ。
     こう考えてくると、全くどうでもよいこととして放置しておくのが現実的だと思われてくる。

    ⑥他の「言語の滅び」の線引きの候補にはどのようなものが挙げられるか。
    ・「その言語を使用言語とする者の最後の生き残り」が息を引き取った時点で、その言語が消滅したと見なしてはどうか。
    ・「理解言語としているその言語を、記憶だけを頼りにして少しばかり使うことができる者たちの最後の生き残り」が息を引き取った時点で、その言語が消滅したと見なしてはどうか。
    ・「理解言語としているその言語を、記憶や残された言語資料を頼りに少しばかり使うことができる者たちの最後の生き残り」が息を引き取った時点で、その言語が消滅したと見なしてはどうだろう。
    ・言語の実態が分からなくなり、たとえば「日本語」というような言語名だけが残った時点で、その言語が消滅したと見なしてはどうか。しかし、その消滅を防ぐために、その言語体系に関する資料や膨大な文章や翻訳や音声の記録などを記録として残しておけば、それらの資料が残っている限りは消滅したとは言えなくなってしまう。半永久的に滅びないという存在になり、ゾンビ言語と呼ばれるようになるかもしれない。
     ところで、ある人の死をもって、その言語が消滅したと見なすというのは問題がありそうだ。一人でも死ぬ前に上手に冷凍しておけば、消滅言語となったのではなく、休眠言語と呼んでもよいものに移行しただけということになり、冷凍解凍システムが壊れない限りは、全人類滅亡後に蘇って最後の使用者となりうる。
     すると、冷凍されている間は消滅していないということになる。そうした場合には、冷凍中にシステムが壊れた時点で、その言語が消滅したということにもなる。
     はてさて、どこで滅びの線を引けば、すっきりとするのだろうか。実際にはどうでもよいことではあるけれども、自分の寿命が気になるのと同じで、どうでもよいことがかえって気になることもある。

    ⑦新発見の言語は果たしてうまく保護できるのだろうか。
     新発見の民族や部族が使用している新発見の言語の場合には、言語の種類を増やすとほぼ同時に減らすことになりかねない。たとえば、次のような筋書きに近い現実は容易に起こり得ると思う。
     発見者たちは新発見の民族や部族との平和的な接触に失敗し、命のやりとりをする戦いにまで発展してしまった。新発見の民族は生きて捕虜となることを恥じてか、自決するものがほとんどだった。
     しかし、最後の一人が瀕死の重傷を負ってはいるものの危うく命を落とす前に救助された。手厚い看護のせいもあって、辛うじて意識が戻ることがあり、その時には少しばかり話すことができた。発見者たちは、その言葉が聞き慣れぬものだと気づいて慌てて記録を取り始めるが、ほとんどがうわごとに近いものであるために、意味を確認できないまま一か月が経ってしまった。残念なことに容態が急変し、そのまま帰らぬ人となった。一か月分の言葉の記録は残っている。言語学者が分析した結果、それは新発見の言語だと判定されたというようなケースだ。
     言語の種類の数を数えるときに、少なくとも、これをプラスマイナスゼロとしてカウントしないわけにはいかない。言語学者は、記録の都合上、このような新発見の言語にも名をつけ、資料とともに保管しておくことになるからだ。

    ⑧言語の使用者数と言語の滅びにはどんな関係があるだろうか。
     言語別の使用者の数は、いろいろな意味で大きな意味を持っているように思う。
     あまりに使用者の数が多いと、言語の分裂が起きやすくなるように思う。中国語のように使用者の数があまりにも多いと、地域差が出やすく、同じ漢字を使っていても、その発音が大幅に異なるというようなことが、当たり前のように起こってくる。中国人同士でも共通語としての北京語を使えなければ、通訳が要るほどに異なるという。すると、これを中国語という一つの言語としてカウントしてよいかという問題も出てくる。
     もしかすると、言語ごとに使用者の上限とか、使用地域と使用人数との適切な関係とかいうようなものがあるかもしれない。無人島は無人島でも、無人島の有様によっては漂流者を受け入れる人数が多い無人島もあれば、少ない無人島もある。これと似たような関係があるように思うのだが、どうなのだろう。
     また、大勢の人に使われると、様々な姿を派生させやすくなる性質を持った言語もあるかもしれない。また、少人数の人に使われていても、いろいろに姿を変えやすい性質の言語もあるかもしれない。
     さて、使用者が少なくなっていくと、ある一定のラインから急激に少なくなり、また別のラインから少なくなり方が緩やかになって、最後は消滅に向かってまた減少が加速するというような大きく見て二段階の動きを見せるのではないかと思う。 
     ある一定のラインからその言語の使用者が急激に少なくなり始めるのは、あることをきっかけとして別の言語への乗り換え組の出現が流行したり、強制されたりすると思うからだ。次にその急激な減少が緩やかになるのは、乗り換え組の多さに反発する人々が残っているからと見ていきたい。そして、乗り換え組に入り損ねていた者が、遅ればせながら少しずつ乗り換えていく組が出現し続けると思うからだ。そして、時が経っていくと次第に乗り換えを行わないグループの寿命が尽きていくため、急速にその言語を使用する人が減少していくというわけだ。
     ところで、使用者があまりにも多い中国語とは逆に、使用者の数があまりにも少ないと、好むと好まざるとにかかわらず、国際的には暗号としての色彩が濃くなっていくかもしれない。バスク語などは孤立した言語である上に使用者が少ないから、暗号のようになる要素がある。こうなると希少価値ゆえに消滅しないかもしれない。
     あるいは、孤立した言語を使う者にとっては、国際的に共通語としていくべき言語を習得し難いために、その言語に飲み込まれることなく、消滅しないという道を約束されているのかもしれない。
     通常はそうした言語を母国語として持つ場合には、将来のことを考え、幼少より英語などの国際的に広く使われている言語や隣国間で比較的共通語として使われている言語などを習得するのが習慣となっている可能性があるが、結局は無駄骨を折る率が高いと予想される言語もあるということだ。「それなら母国語を守ろう」という力が強く働き、消滅しないというわけだ。
     消滅している消滅していないにかかわらず、宗教的な儀式やかけ声、ことわざや子どもたちの遊びの用語、あるいは学術用語などのように、特定の場面だけで使うようになって、一つの言語の体系を示すことなく、単語や決まり文句、比喩表現などのような姿で、その言語の断片のみが辛うじて伝わっているという場合もある。当然のことながら、その言語の使用者から指摘されて初めて気づくことが多いはずだ。
     藤村由加の著作に、「だるまさんがころんだ」の「ころんだ」は日本語でなく、その昔、朝鮮半島で使われていた「コロオンダ」という言葉だという説が述べられていた。「コロオンダ」とは「やってくる」という意味だそうだ。これが本当なら、似た発音の言葉というものは、別の言語の中に似ているがゆえに潜り込んで曲がりなりにも生き延びているということになる。なるほど、「やってくる」という意味なら「だるまさんがころんだ」のゲーム進行と合致しているから不自然さはない。
     「ころんだ」と「コロオンダ」は発音が似ていても意味は逆に近い。現代語や他国語間でも、こうした類のことがとても深刻な誤解を生み出す原因にならないとも限らない。これらは時限爆弾のように意味が明らかとなって、人々を驚かす可能性がある。子供の遊びに封じ込められている場合はまだよいかもしれないが、慣用句やことわざ、決まり文句などに紛れ込んでいる場合には、何か恐ろしい感じがする。曲がった意味で了解されてしまっているまま問題にされないで、時が経っていくことほど恐ろしいことはない。
     言語の使用者が減るということは、誤解をただすチャンスも減るということになる。これはゆゆしきことだ。このことがその言語を使用する人々が作っている集団の力を弱め、最終的にはこの世から葬り去ることで、その言語の息の根を止めないとも限らない。
     こうした言葉の問題だけでなく、奇妙な連鎖がいくつもあって、その流れを止められずにいるのが我々の現実ではないかと思うが、どうだろう。 

    ⑨通訳と翻訳の問題にはどのようなものがあるだろうか。
     使用者が少なく、使用地域も極端に狭い特殊な言語となると、相手一人と会話するのに、間に何人もの通訳担当者を並べてリレー式に通訳するという笑い話のような光景が現実のものとなる。他人にとっては笑い話であっても、当事者たちにとっては、伝言ゲームのように意味が全く別のものになってしまうというおそれがあるので、微妙な問題についての討論などはかなり慎重にならざるを得ない。事は深刻だ。
     しかし、隔絶された地域の住民であるために、そうした討論を必要とする問題が極めて起こりにくいという点に辛うじて救いがある。
     このように、介在する必要がある通訳担当者の数が多ければ多いほど、逆に喧嘩が起こる確率が小さいといえるのかもしれない。しかし、その数が多ければ多いほど、通訳担当者たち自身の利害にかかわる話し合いである確率が増えたり、通訳上の勘違いや悪意が働いたりする確率も増えたりするはずだから、事は単純ではない。そもそも通訳担当者が多ければ多いほど、会話に時間がかかるために不利益なことが多い。
     しかし、言葉が通じないために起こるトラブルよりも、下手に言葉が通じるために起こるトラブルの方が、誤解や嘘などに対する観察者や監視者がいないため、その被害がより深刻なものになる可能性が高くなる場合もあるように思う。
     逆に、介在する必要がある通訳担当者が多ければ多いほど、より多くの証人がいるということになるので、通訳担当者がどちらの息もかかっていない第三者であるという前提があれば、より安全であるように思う。もちろん、そんな前提など実際にはあろうはずがない。

    ⑩言語の種類の数が減るのはどのようなときだろうか。
     母国語とする人の数や、生活や仕事の必要上やむをえず使用言語として使っている人の数が、まるでガン細胞のように増殖していく場合には、接触した言語が消滅し、言語の種類の数が減ることがあるだろう。
     他の言語を侵略していくように見えるその言語は、周囲の他言語の使用者から見れば、非常に危険視されるはずだ。その増殖がとどまることなく続き、営々と培ってきた伝統的な言語が廃れることによって、その文化までもが変質させられてしまうように感じるからだ。また、その言語を習得するために多大なエネルギーを費やしてしまうようにも感じるからだ。
     ただし、この増殖がゆっくりと時間をかけて幾世代にもまたがって進んでいけば危機感は持たれずにすむだろう。
     増殖が急速に進む場合には、政策として有無を言わさず行われる場合と、経済活動上の必要に迫られて行われる場合と、文化へのあこがれから好んで行われる場合とがある。当然、この場合には危機感を持つ人が多く出現する。
     人生の長さと比較して短期間に変化するものは大きな変化としてとらえられるが、長期間にわたるもっと大きな変化に対しては鈍感になってしまう。これは恐ろしいことだ。
     さて、この現象を成立させる条件としては、周囲に似た言語が多く、学びやすい状態に置かれている言語であるということ、地理的政治的に異国間の交流がしやすいということ、その言語を使用する国々が歴史的な勢いの中枢にあるということなどが挙げられるだろう。
     
    ⑪言語の種類の数が減るのをくいとめるのにどのようなことがなされているだろうか。
     言語の種類の数が減るのをくいとめるために努力が払われることはまだない。しかし、消滅の危機にある言語を保存しようとする努力は払われている。
     たとへば、存続が危ぶまれているアイヌ語などは、希少価値のある言語として保護しなくてはならないと思われている。使用者が比較的少ないということ、孤立した言語であるという条件だけで保護される要件が満たされるのだ。
     ラジオ講座はラジオ講座でも、ヨーロッパ先進諸国の言語を日本人が学ぶのとは異なり、保護を目的としたアイヌ語ラジオ講座が実際に開かれていることには注目したい。
     野生生物の絶滅危惧種が指定されて保護される動きがある。同様に、一定数以上の使用者が一定面積の中にいないと、言語も急速に消滅するおそれがある。
     しかし、保護に向けての力を大きく働かせるには、保護に向けての熱意と政治の力をもってして始めて可能となる。法的な根拠がなければ予算もつかないので、法整備も必要だ。事はそう簡単なことではない。長年の努力のうえに漸く実現することだ。
     一方、ラテン語のように学術的な面で部分的に使用されているような言語もある。これは一般的に広く言語活動が行われているわけではないので、地球規模で見れば、死語ということになるだろう。しかし、無下に死語としてカウントしてよいのかどうかは、部分的にでも使われている以上は検討すべきかもしれない。少なくとも、死語という表現だけでも検討した方がよいように思う。
     ラテン語は化石のように残っているので、これを保護する動きはほとんどないように思う。既に今ある言語に大きな影響を与え、幾つかの単語も残っている。これらは無意識のうちに利用されている。もう保護するレベルにはない状態だということだ。
     こうして言語は生き物のように生まれたり、消えたり、飲み込んだり、飲み込まれたり、あるいは、生きた化石のように残っていたり、化石のように発見されたり、また人知れず跡形もなく消えたりする。

    ⑫全世界の人口から考えて、言語の種類はどの程度あればちょうどよいのだろうか。
     今このときにも地球の人口は爆発的に増えているから、長期的に見て、今後どのような言語の分裂や融合、そしてつぶし合いが起こるかは予測できない。ちょうど良い言語の数になるまで、その変動が続くのだろう。
     遠い将来は、一つの言語になるに違いないが、それでも話者の数が一定以上多く、それによって社会の構造がどのようなものになるかによって、方言を含めて変形が起こる力はとどまらない。これを阻止する目的で下からの言語統一運動が始まったり、上からの統一言語教育などがなされるだろう。
     そもそも、単一の言語となる過程で、言語統一運動が各地で起こったり、統一言語教育などが施されるはずだ。その経緯で様々な問題が発生するはずだが、想像するだに恐ろしい。
     とにもかくにも、現時点で数千語あるという数の多さは異常だ。そのために翻訳や通訳という強引で因果な作業を必要とするということが大きなマイナスとなっている。また、全ての言語が全ての人々のために通訳されたり、翻訳されたりするわけではない。一つの言語が、数種類の言語に通訳されたり、翻訳されたりすればよい方ではないだろうか。
     こうしてみると、言語の種類がどの程度あればちょうどよいのかなどと問うこと自体が無意味に思われてくる。
     この際、人口と言語の種類の関係とか、この星における適正な言語数とかを云々するよりも、その言語の数の多さを、いかに利点として働くようにしていくかを考えた方が幾分幸せな気持ちになれそうだ。少し挙げてみよう。

    その1「支え合う」
     ある言語の使用者たちが、その言語を土台とする文化や行為によって自滅の道をたどるとしても、他言語によるスペアーたちがいくらでもいるという、いわば選手層が厚いという利点がある。どれかが倒れてもどれかが隆盛するという単純で見かけだけの支え合いだが、人類の存続ということに重点を置けば、重要なことだと思う。

    その2「補い合う」
     自国の言葉で表現できないことを、外国語を用いて表現することができるという利点がある。また、自国の言葉で表現することを憚るがゆえに、あえて外国語を用いて表現することができるという利点がある。この効果は短期間で薄くなっていくかもしれないが、たくさんの外国語があるので、代わりを見つけやすいという利点もある。

    その3「刺激し合う」
     言語が異なることによって発想が異なったり、感性が異なったりすることをお互いに自覚できるようになるという利点がある。これによって文化的に停滞している部分に刺激を与えることができる。刺激するだけでなく、融合して、新しいものを生み出すきっかけにもなる。文化に変化が起これば、それに伴って新しい科学技術に焦点が当てられて研究が進む可能性が生まれる。

    その4「抑え合う」
     一言語が突出して多くの人口によって使用されるようになると、その言語使用者が無自覚のうちに一定の方向に突き進むおそれがある。そのためにその人々の社会が自滅したり、その社会に深くかかわる別の社会が滅んでいく可能性も高まる。これを防ぐ形でいろいろな種類の言語を使用する者たちが、突出した使用者たちが当然とすることの感覚が絶対的ではないものだと示していくことに代表されるような、文化的抵抗勢力となり得るという利点がある。

    その5「比べ合う」
     言語研究にデータの多さが寄与するというプラス面がある。もし一つの言語しかなかったら、言語を研究するのに非常に苦労するはずだ。似たものと思われるものや全く異なると思われるものとを比べて相違点や共通点を確認していくところから出発するのが常套手段というものだろう。言語の種類が少なければ少ないほど、博物学的データが貧困になるため、研究を深めていくことが難しいということだ。その逆に言語の種類の数が多ければ多いほど、言語研究には有利となるという利点がある。

    ⑬たくさんの言語というものをどのようにとらえたらよいのだろうか。
     たくさんある言語の中には親子関係にあるような言語や兄弟関係にあるような言語もあるだろう。そうしたものを明確にしながら歴史を眺めなおしたり、疎遠な関係だと思っていた人々に親近感をもったりするだけでもよいと思う。逆に、全く異なるように見える言語を操る外国人には、好奇心をもって接し、言葉について語り合うなかから、あらゆる面で清濁あわせて学び取り合えばよい。 
     植物にもいろいろな植物があるように、また、動物にもいろいろな動物がいるように、言語の多様性というものも、安易なグローバル化や中途半端に計画的なグローバル化に対して警告を与えるだけでなく、人間が人間であることを維持していくために、もともと重要な役割を果たしてきたものであるに違いないと思いたい。それが人間の豊かな可能性を温存しておくためのシステムであったとしても、また、たとえそれが人間自身への足かせであったとしてもだ。
     これに抵抗して一つの言語に統一しようと努力することは、神をも恐れぬ行為であるということになる。バベルの塔の再建、それに対する神の鉄槌などというものの想定だ。この想定は、一つの言語に統一された人間は、偏った動きに総動員され、滅びてしまうというおそれを土台にしている。バベルの塔の伝説に、神は人間のために鉄槌を下し、人間を人間として保存するために互いに通じ合わない言語を話すようにしてしまったという解釈をしてみた。
     現状はどうだろう、インターネットで即時的に研究結果が世界中に流れ、翻訳ソフトはそれが共有されることを容易にしている。これは目に見えないバベルの塔を築きあげていることに等しい。目に見えないから神には見つからないだろうと思いたい。

    ⑭神はどの言語を使用するのだろうか。
     「初めに言葉ありき」が文字どおり本当なら、神は言語の使用者ではなくて、神は言葉そのもの、存在の意思、つまり宇宙のつくりということになるのだろうか。しかし、言語には記号的な側面があることから考えてみると、「初めに言葉ありき」の「言葉」には記号的な側面を考えることができないことから、この「言葉」は言語ではないということになりそうだ。 
     すると、神はどの言語を使用するのだろうかという問い自体が間違っていたことになる。こんな「言葉」を人間の言語で語られた言葉と等質のものとしてとらえてはいけない。最初からあったものだということを信じれば、行為として語りかけてくるものではなく、おそらくは解釈されるだけの存在なのだろうと思う。つまり、神から語りかけてくるタイプのメッセージというものはないということだ。  
     解釈だということになると、神の声は聞こえてくるものではなく、自分が聞きたいもの、自分が必要なものだということになる。そうだとすれば、神の声が自分の使用している言語として感じられることには大きく肯ける。
     逆に、未発見の言語で聞こえてくるものならば、神に相当するもの、もしくは神と見なせるものからのメッセージである可能性がある。しかし、未発見の言語なので、解釈ができない。しかし、やはり自分が使用している言語によって勝手に都合のよいように解釈するということはできる。
     このように最初から順番に考えていくと、人間があらゆるものに対して自分勝手であったり、幸不幸の格差が大きかったり、人格や性格の格差が大きかったりするのは、言語を獲得してからが特にひどくなってきてはいないだろうかと考えてしまう。その言語に何千種類もあるのだから、言語別のひどさというものがありはしないかと心配してしまう。
     もし、そういうことがあるとすれば、これを逆手にとり、深く考えるときには○○語で考え、芸術をたしなむときには○○語でたしなみ、行動を起こして活動するときには○○語で行うというような使い分けをすればよいということになるかもしれない。
     最終的にそうした使い分けをするために、現在何千種類もの言語が使用されて選択的に集約されている最中だと解釈すると面白いかもしれない。馬鹿馬鹿しい空想だが、何もアクションを起こさなくてよいのだから無駄な資源やエネルギーを費やす愚を犯すこともない。そうなったら面白いだろうななどとお気楽に空想していればよいのだ。
     とにかく、どんな空想であれ、空想というものは疲れた心身をリラックスさせてくれるものだ。ああ、これで随分とリラックスできた。

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    11/23/2008

    変な疑問98「国旗デザインの影響」

     国のシンボルである国旗のデザインはその国の人々にどのような印象を与え、どのような影響を与えているのだろうか。また、その国以外の人々にはどのような印象を与え、その国にどのような影響が返ってくるのだろうか。
     
    「日章旗」の場合
    デザイン…太陽
    特徴①…寄せ書きができる。
    特徴②…縦横裏どちらから見てもデザインの破綻が起きない。
    特徴③…幼い子でも描きやすい。
    印象①…真っ赤に燃える夕日(たそがれ)
    印象②…ごはんの上の梅干し(倹約)
    印象③…包帯からにじみ出た血(マゾ)
    ★デザインが与える印象や効果
     日出ずるところの国なのだから勢いのある朝日のイメージのはずだ。しかし、赤い太陽なのでどうしても夕日を思い浮かべてしまう。
     ただし、掲揚するときには朝日、降納するときは夕日、掲げられているときには天に輝く太陽として受けいれやすく、自然の動きに従った合理的なデザインとして評価できる。
     そこから自然体の姿勢をもった国という印象を与える可能性がある。周囲の国に対して自然体で接する国という印象だ。悪く言えば、己がなく、大勢に従う風潮。しかし、国は丸く一つにまとまっている。全ての方向に顔を向けている丸だが、そこは白地であって何もない。逆に言えば全てを受けいれる。
     「白地に赤く日の丸染めて」という歌詞があるが、白地は無色を示したものかもしれない。赤い日の丸だけを旗とするのは難しい。そこで、やむをえず白地の長方形の布にのせて竿に掲げるようにしたと考えられないか。これまで旗だと思っていた長方形の白布が急に台布に見えてきた。出征兵士への寄せ書きをするとき、無意識に赤い丸を避けたのも分かるような気がしてきた。
     ところで、反日感情の表現として日本の国旗を燃やすということが他国であるが、日本人は全く意に介しない。それはなぜだろう。
     法制化された後も日の丸を国旗として認めていない人が多いということだろうか。戦争責任を国民が感じているがゆえに、日の丸を国旗とすることを後ろめたく思う気持ちがあるということだ。それも理由としてはあるだろう。
     しかし、それは戦争責任をあまり感じていない若者には当てはまらない。単にそうした世代に育てられ、国とか国旗とか国家とかいうものに対する他国のような感覚を持たされていないというだけの話だ。
     ただ、今後他国と同じような感覚を国民が持つようになる時代がやってきても、この無反応は変わらないような気がする。それは、デザインが真っ赤に燃える太陽だからだ。いくら反日感情によって日の丸を燃やされても、本来の姿を強調するだけだ。どちらかと言えば、国旗を燃やされるとなぜかうれしくて元気が出てくるような気がするのも、国に対する無関心というよりも、このデザインが最も美しく見えるのが実際に燃えているときだからではないだろうか。戦争中は「一億総火の玉」という表現がなされた。日本人は燃えて消えてしまうことに美を感じてしまうところがあるのかもしれない。その感性をついたコピーだろう。もっとも、全員玉砕して死んでしまえば、最後は火の玉となって恨めしく出てくるしかない。
     他国から見ればマゾ的な手法で日本人は元気を出すということだ。こうした目で見つめると、いろいろ納得することが出てきはしないか。何とも恐ろしい国民だ。
     この国で他国がテロを行うには、アメリカを相手にするよりも相当の覚悟をもっていないといけない。今は腑抜けでも、一度燃え上がると不条理なマゾ的攻撃を全滅するまでやめないはずだ。なにしろつい先程まで軍隊に対して女子どもが竹槍ででも対抗しようという近代国家だったのだから。血というものはそんなに短期間で変わるものではない。だからこそ、がんばって自ら腑抜けになろうと努力している珍しい国だ。もしかすると、勝敗にこだわらぬ無敵の魂を失っている者など一人もいないのかもしれない。
     斜めになっていても勢いが下り坂だなどという感覚を持てない。裏返っていてもこちらを向いているという感覚しか持てない。幼い子でも簡単に描ける。しかも、一秒以下で描ける。こんな小さなことが、国に対する無関心さと無神経さにつながり、それが日本人の恐ろしい魂を育てているような気がする。これは心配しすぎだろうか。日本人が倹約し始めたことがきっかけとなって何かが起こりそうな感じがする。
     朝日の勢い、夕日の黄昏れなどは関係ない。誰も否定できない大自然の源である太陽。光だ。そこには平和や大地や産業の象徴もない。この原初的なデザインの国旗は国民にフレキシブルに生きよと言っている。なりふり構わず生きよと言っている。だからこそ、日本人は礼儀正しくなければならない。そして、伝統を重んじなければならない。そういう努力を怠ったとき、枷が軽くなり、太陽は暴走するのだ。

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    10/11/2008

    変な疑問96「意味と無意味」

     祭りの意味も分からずに楽しむことの意味と無意味。嘆きの意味も分からずにともに涙することの意味と無意味。騒ぎの意味も分からずに野次馬になることの意味と無意味。罰すべきものを罰しないことの意味と無意味。
     調べずして意味が分からないことを述べることの意味と無意味。自分が死ぬために他人を殺すことの意味と無意味。こんな宇宙に人間を生み出したことの意味と無意味。
     語り尽くせぬことを語ろうとすることの意味と無意味。

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    9/29/2008

    変な疑問95「ブランク」

      「行間を読む」という言葉がある。いくら行間を眺めていても、何も読めない。文字に表現されていない部分を読むということなのだが、それなら、「字間を読む」という方が詳細に読み取るという心意気が感じられる。
     どうしても「行間を読む」という表現が好みならば、細やかな心の動きや微妙なニュアンスをつかむという意味では、造語だが「字間を読む」「語間を読む」「文間を読む」などという言葉を使い、どうしても表現できない内容や敢えて表現しない内容を掘り出してつかむという意味では、「行間を読む」という言葉を使い、両者の役割を明確に区別すればよい。
     残すということがある。「行間を読む」という努力をするのは、わざと書き残した部分に読者を誘い込む作戦が功を奏したからだと解釈することができる。文章の結末を読者に預ける場合には、結末を残したということになるが、その場合には「行間」という言葉が不適切になる。
     発端の前を書かないのは普通のことだから、その場合には書き残したとは言わない。書き残したとは言わないが、そのブランクに読者は誘い込まれることになる。ここを如何に書かないかによって登場人物が魅力的な存在になるかどうかが決まるように思う。
     毛筆で字を書く場合には、どうしても墨で塗られていく線の形に目がいくが、残す部分をどうするかという問題を処理しなくてはならない。筆の跡は勢いや筆圧から、書く者の息づかいを感じ取り、そこから心に触れることができる。
     毛筆で字を書くということは文字をデザインするということだ。問題は、そのデザインが何によってなされているかが書き手にどの程度自覚されているか、そしてどの程度自覚されていないかだ。互いに占める割合によって文字の風格の度合い、書き手の人間性の滲み出方、そして作品の神秘性の漂い方が決まる。
     紙が白ければ、白いブランクをどう残すか、紙に色がついていれば、白いブランクの残し方とどのように変えればよいのか、模様があれば、その模様をどう残すか。問題はさまざまにある。
     絵画も同じだろう。何を画面に描き、何を描かないのかの両方を考えなければ、画面を構成できないはずだ。
     また、作品自体も画面が四角であることにも注目しなければならない。飾るのが四角い壁だからだろうか。逆に四角の壁に描いていたものを縮小したからだろうか。それとも、保管しやすいからだろうか。曲がった線の額縁よりも四角い額縁の方が作りやすく安価にできるからだろうか。
     これは画面を四角に切り取り、それ以外の世界をブランクにしたのと同じだ。
     対話する場合、沈黙をどこにどのように組み込むかで話の流れや深まり方が変わっていく。沈黙は「行間」というより、「語間」「文間」に相当する。話し手の沈黙が相手の発言を促す場合も多い。単に聞き手の発言を促すだけでなく、譲歩を促したり、逆につけ込んでくる機会を与えることにもなる。譲歩を促せば御の字だ。うまくつけ込ませれば、それに乗じることもできるから、計算された沈黙は会話の妙となる。表現された言葉を解釈し、沈黙を解釈して、初めて解釈が完了する。
     こうしたブランクの問題は、どこにでもあるように思うが、白紙答案、選挙の棄権(白紙投票)、国会での申し合わせ欠席、自殺などはどうなのだろう。何をそこから読み取り、どんな価値を与えていけばできるだけ多くの人々にとって都合のよいことになるのだろうか。

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    9/12/2008

    変な疑問94「ゴキブリ」

     ゴキブリと鈴虫が目の前に現れたとする。ことごとくゴキブリは殺され、鈴虫は愛でられる。
     これは人間との相性なのだから仕方ない。クマノミとイソギンチャクが相性がよいように、その逆の相性もあるというわけだ。
     ところで、ゴキブリが鈴虫のごとく美しい羽音をたてたらどうだろう。鈴虫がゴキブリのごとくつややかであったらどうだろう。そう考えると、不思議な気持ちになったり、なぜかいたたまれない気持ちになったりしてくる。およそ考え方や、その出発点となるものの見方などというものは、わき起こって心を乱す原因となる気持ちをコントロールするために編み出されたものではないかという疑いがある。
     いずれにせよ、ゴキブリは受難の昆虫だ。それだけに神のご加護を受けてたくましい。一方、哀れ蝉はどうだ。うるさいからといって蝉に殺虫剤をかける人はいない。壮絶な死をもって何かを償うように見えるからだろう。成虫になってからの短い命は神のご加護を受けているようには見えない。きっと何かの罰を受けているに違いない。
     人間はゴキブリの繁殖力やしぶとさには並々ならぬ嫌悪感を感じているが、それは神のご加護に対する嫉妬であるようにも見える。人間は他の生き物に対して常に優位に立っていなければ我慢がならず、それ以上の存在を許さないか、拒絶する傾向にありはしないか。
     大腸菌もゴキブリのように嫌われている。ただし、ゴキブリと違って無数にいても肉眼では見えず、ゴキブリのような視覚的な嫌悪感を与えない。日常的に目に見えるものといえば、大腸菌という文字と、大腸菌の数を示した数字だけだ。また、人間も大腸に大腸菌を飼っている。そんなことから、ゴキブリよりもうっかりすると仲良くできそうな気もする。恐ろしい菌がいくらでもあるのに大腸菌が目の敵にされるのは、その日常性によるものだろうけれど、同じ理由から親近感を持たれている面も否定できない。これは一種のご加護かもしれない。
     どんな生き物でも絶滅危惧種になれば、扱われ方も変わってくるかもしれないが、大腸菌はともかくとして、ゴキブリはその姿が見えるために悲観的な運命しか見えてこない。今後もし神に見放されても、人間が容赦しない存在であり続けるに違いない。そもそも虫に対して寛容な子どもたちから既に拒絶されているのが致命的だ。
     昆虫採集でゴキブリを展翅して並べた標本箱をもっていく小学生はいないだろう。一番身近で関わりの多い昆虫について興味を持ち、研究対象とするのはごく自然なことであるように思われるのだが、どうもそうではないらしい。
     虫好きな人でもゴキブリを掌に載せて遊ぶ人は少なかろうと思う。世の中、ゴキブリを足で踏みつぶせば、よくやったと親に褒められ、蛍を足で踏みつぶせば、おそらく人格的に欠陥があるのではないかと心配される。つくづくゴキブリが哀れに思われてならない。つややかな体が原因なのだろうか。それとも色や挙動が原因なのだろうか。
     森に住むタイプのゴキブリはつややかさが不足しているように見える。確かにつやつやした感じがないと、手にとってもいいように思われることもある。ゴキブリが茶色や黒でなく、玉虫のように輝いていればどうだろう。玉虫はつやつやしているように見え、大雑把な印象はゴキブリだ。しかし、手にとって眺めるのは心理的に何の抵抗もない。これは色の美しさが圧倒的だからだろう。長くて細い触覚がないというのも人間を安心させるのかもしれない。
     ゴキブリのあの太い髪の毛のような触覚で左右交互に触りに来られた日には、問答無用の無礼討ちに決まっている。あの探るような触覚の動きに嫌らしさを感じるのかもしれない。虫が虫として人間に存在を許されているのは、関わりの無さによる。その掟を破りそうな気配に満ちあふれた長い髪の毛のような触覚とその動きは決して許されるものではないのだろう。
     つやつやした肌、つやのある髪、これは人間としての身体的な魅力でもあるように思うのだが、そうしたものが人間以外のものにあることが気持ち悪いのかもしれない。
     僕もゴキブリを退治する。薬を使うのは健康的ではないうえに卑怯であるような気がして、輪ゴムを使うことにしている。三本ほどまとめて左手の親指にかけ、右手で20㎝ほど引いて発射すればよい。強く当てすぎるとつぶれるので、軽く当てる。目標は触角だ。触角は繊細な器官だから、輪ゴムが当たれば大抵は両方ちぎれる。触角を失い、うまく逃げられずじたばたしているところを何かで押さえ、紙で包んでとらえてしまえばよい。包んだ後どうするか。焼くか、トイレに流すか、ハムスターに食わせるか、あるいはそのままごみ箱に捨てるかは、その時の気分による。
     昔は強力なエアーガンで狙い撃っていたが、ばらばらになるため始末が悪く、人道的な輪ゴムにかえたのだ。少なくともねばねばにくっつけるような罠はゴキブリに対して失礼なことだと考えている。
     人道的かどうかは手段にもよるが、憎しみをもって駆除するか、憐れみをもって駆除するかということにもよるだろう。一気に安楽死させるか、じっくり死を迎えさせるか、どちらが人の道にのっとった行為だろうか。これは微妙な問題だ。
     さて、「一寸の虫にも五分の魂」というが、この一寸サイズの虫というのはゴキブリのことではないだろうか。等身大の魂すら与えられていない虫だが、その魂にあなたはどう接しますかという大問題をつきつけてくる言葉だ。この言葉の底に流れているいろいろな前提を明確にしていけば、人間の正体に少し光を当てられそうな感じもするが、どうだろう。
     ともかく、大量に繁殖し、大量に捕獲される虫なのだから、何かの役に立てられれば利益効率が大きく、新しいビジネスの分野を開拓できると思うのだが、誰か研究者はいないだろうか。漢方薬とか、化粧品とか、飼料とか、その気になれば何にでも姿を変えることができるのではないだろうか。その姿を変えたとき、初めて人間に受け容れられるはずだ。
     このゴキブリに対する偏見と仕打ちを自ら克服することなしに、戦争や人権侵害はなくならないだろう。特に人権侵害の中でもいやらしいランクの上位にある「いじめ」はなくならないだろう。そのためにゴキブリと仲良くする教育プログラムを開発すべきではないだろうか。
     大人として認められるための通過儀礼として、ライオンと戦ったり、バンジージャンプをしたり、入れ墨をしたり、受験をしたりといろいろなバリエーションが試みられてきたが、勇気を試すという以外に、人格の完成をめざすという崇高な目的のため、そのプログラムは開発されなければならない。従って、いきなりゴキブリ風呂に入るとか、ゴキブリ料理を食べるとか、ゴキブリネックレスをするとかいうような勇気だけを試すものであってはならない。自然にゴキブリを受け容れるという気持ちになって、他の愛らしいペットと同様に愛でることができる心を育てるものでなくてはならない。
     100%馬鹿げたことのように思われるが、もの言わぬ一寸ほどの虫を愛でることもできずに、いろいろな主張をする人間とうまくやっていけるはずがないように思うのだが、どうだろう。
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    南部式5連発輪ゴム銃 画像クリックで説明画面へ>
    9/6/2008

    変な疑問93「自由」

     自由にもいろいろの自由がある。日常的な生活における自由なら、次の二つがまず頭に思い浮かべられる
     一つは開拓者の自由で、一つは安住者の自由だ。どちらも本当の自由であって、どちらが上等とも言えない。開拓者の自由は自動車の運転手に似ている。安住者の自由は列車の乗客に似ている。どちらも正しく、どちらにも魅力がある。
     もちろん、自動車にも乗り合わせる者がいて、列車にも運転手がいる。これらも含めて、人間の生き方の四パターンとするのも面白そうだ。
     自動車の運転手は、自分の自由意志でハンドルを切り、アクセルやブレーキを踏むことが多い。自動車の性能や運転手の熟練度にもよるが、ほぼ自由自在だ。その代わりに、他の自動車や歩行者との激突を回避しなければならない。また、道に迷ったり、道路交通法に違反しないように、神経を尖らせていなければならない。そしてパンクや燃料の心配、車検の時期まで心配していなくてはならない。そして、漸く目的地へたどり着く。
     列車の乗客は、必要に応じて速く走ったり、気に入った時刻に出発したりすることができない。お腹が痛くても、次の駅まで我慢しなければならない。とにかく駅で降ろされてしまい、目的地の近くまでしかたどり着けない。列車同士がぶつからないように組まれたシステムにがんじがらめになっているけれども、これらの不自由を前提として予め了解しているために、そして、選択の主体が乗客にあるために、さほど不自由とは感じない。その代わり、列車内で居眠りしようが、読書をしようが、おしゃべりしようが、窓の外を眺めていようが、他人に迷惑をかけない限り全くの自由だ。そして、ほぼ予定時刻通り第一目的地である最寄りの駅にたどり着く。
     近年、精神を病む者が多くなったのは、自動車運転手型の自由至上主義に踊らされたり、そうした自由を獲得して生きていくしかない環境にいると自覚している者が多くなったからだろうか。
     幼い頃の感覚にもどって、列車乗客型の自由、つまり母親におんぶの感覚を脳に思い出させることも大事かもしれないと思わされることがあるのだ。これを自立した人間として堕落したありようだと見る人もいるだろう。しかし、おんぶ紐で肉体を拘束されながらも、にこにこしていられた頃の自由の感覚も持ち合わせねば、精神がもたないように思うのだ。
     結局は、開拓者も安住の地を作り出すために開拓しているということを、そして安住者も新たな開拓を始めるための準備をしているということ忘れてはならぬということなのだろうと思う。両足できっちり支えるこのような精神構造が僕にあるだろうか。そこには自分をどのように自分から解放するかという大問題を解決するための鍵が隠されているように思う。
     冒険も甘えもいつか消え去った無色透明の惰性の生き方。悟りとは別個の虚無感。こうしたものがちらつき出してからでは遅いかもしれない。備えよ常に。初心にかえってもう一度自分の足で歩き始めるという基本を実践する心づもりや具体的な算段をしておいた方がよさそうだ。
     さて、自由におけるこうしたバランス感覚が狂うと、精神に破綻を来すと仮定したとき、僕たちは日常生活の中で、何にこだわり、何にこだわってはならないのだろう。
    <老荘思想は非常に新しい 画像クリックで説明画面へ>
    9/3/2008

    変な疑問92「僕はどこから来たか」

     北京オリンピックが終わった途端に日本人はもう忘れ始めている。感動の表彰も既に記憶の彼方だ。いつまでも話題にしていると逆におかしく思われそうな雰囲気さえある。
     いったい事が終了してから何日間が話題賞味期限なのだろうか。一月の終わりに、明けましておめでとうと言うのがおかしいように、どこかでなんらかの線が引かれるはずだ。
     他人がすばらしいことを成し遂げた話よりも、他人の怪しいうわさ話の方がずっと長続きするように思うが、どうだろう。もしそうなら、人のうわさも七十五日というから、オリンピックの感動話の場合はそれよりも短い賞味期限となるはずなのだが……。
     今回のオリンピックはいろいろと裏話があるから、七十五日を賞味期限とする話題もある。そのおかげで、すばらしい感動の話題も賞味期限が通常よりも延長される可能性はあるだろう。
     もちろん、何と評価されようと、中国にとってはのオリンピックは通過点にすぎない。これで終わりではないから、次の一歩を踏み出さねばならないという試練を抱えている。大きな利益と、大きな矛盾と、大きな歪みを消化して国家としてそれなりの体裁を整えていかねばならない。オリンピックという大イベントを執り行うということは、そういうことなのだと思う。つまり、デビューしたということだ。
     さて、今回の北京オリンピックは僕の記憶の中に埋もれていた幾つかの言葉を掘り起こしてくれた。それは昔あるところで中国人講師に言われた三つの言葉だ。
    ①日本人はみんな車を持っている。中国人はみんな自転車……。
    ②あの人たちは何をしている?応援の練習?応援にどうして練習が必要?
    ③あなたは中国の南方の人の顔つきだ。
     ①は、僕が彼を車で駅に送るときの言葉だ。彼は自転車しか乗れない中国人を自虐的に表現した。日本人は金持ちだとでも言いたげだった。今に見ていなさいというようにも感じられた。
     しかたなく、「自転車の方が渋滞は起こらないし、排気ガスも出ないので、いいと思いますよ。自動車はまだ日本人にも贅沢品です。だけど、ステイタスシンボルというほどのものでもないんです。大衆車と高級車があるので、ステイタスとして高級車を持ちたい人は持ちます。若い人が高級車を買うことがありますが、かなり無理をしています。僕は車にはお金をかけたくないですけどね。購入費もばかにならないし、維持費も案外かかりますよ。燃料費や保険料も含めたら、……」などと運転しながら支離滅裂なことを言っているうちに、妙に言い訳がましくなってしまった。「中国はこれからです。」と小さな声でつぶやいていたのが心に残っている。自転車だらけだった中国は、きっと空がきれいだったに違いない。
     ②は、応援団の学生が大声で練習をしているのを見て言った言葉だ。集団で一斉に演技するのは中国が得意とするマスゲームみたいなものじゃないかと思ったのだが、演技と応援は確かに立場が異なる。演技には訓練が必要だが、応援に訓練は必要ないということだろう。訓練された応援に果たして心がこもっているのかと言われそうな気配がしたので、「形から入るのです」と答えようと思ったのだが、彼はそれ以上追究してこなかった。
     まるで僕がそのように答えるだろうと言うことを予想していたかのようだった。あるいは、日本人の感覚というものはこういうものだという納得を試みていたのかもしれない。敢えて質問したのは、僕にどう答えてほしかったのだろう。
     しかたなく、「声を合わせたり、動きを合わせたりして、より立派な応援となるようにがんばっているんですよ。」と答えておいたが、明らかに「立派な応援って何ですか?」という表情だった。北京オリンピックでは、「マナーのよい観客」というボランティアが動員されて、明らかに応援の練習の成果を発揮していた。応援も演技のうちということだろう。オリンピック開催自体がいい意味での演技なのだから、それは彼も納得してくれるだろう。
     ③は、別れ際に僕に言った言葉だ。初めてあったときからそう思っていたはずなのだが、別れ際に言うということは、僕に答えるチャンスを与えないという意図があったのだろうか。
     これに僕は何も答えず、ただ駅の人ごみに紛れていく彼の後ろ姿を見送っただけだった。僕はいったいどこから来たのか分からないけれど、日本人には確かにいろいろな顔つきの人がいる。顔つきだけでなく、頭蓋骨自体のいろいろな場所の寸法や比率に大きな違いがあるように見える。
     DNAの解析は随分と進んでいるようで、「DNAでたどる日本人10万年の旅」(崎谷満、昭和堂)では、日本という土地にはいろいろなDNAグループの人たちが混在している世界的に珍しい地区ということになっている。文化的にも、かつて日本は「文化の吹きだまり」と言われてきたが、その傍証のようなものになる。ただ、どうして異なるDNAのグループが交わらないのかという疑問がある。異なるグループの異性の方が魅力的に感じると思うのだが、そんなことはないのだろうか。
     もしかすると、「水に流す」とか「すぐに前のことを忘れてしまう」という精神的な傾向が生まれたのは、このように異なるグループが共存しなければならなかったからかもしれない。狭い島国のことだ。「水に流す」ことを励行しないと、とんでもないトラブルが蓄積していくことになる。
     純粋に天下を統一しようなどということを考えると、戦国時代のように、また血で血を洗う乱世を迎えることになる。力や法で微妙なバランスを保ちつつ統一し、中央が各勢力にある程度の睨みをきかせているという状態がこの国のベストの治まり具合なのかもしれない。
     さて、いったい僕はどこから来たのだろう。十万年前に僕の祖先が死ぬ前に子どもを産んで命をつないできたことは明らかだ。ただ、いきなり十万年前に現生人類が無から有が生まれるように発生したはずはない。やはりサルの仲間からだろうけれど、僕の祖先と言うべき生き物が数百万年前からずっと子どもを出産し続けてきたことだけは確かだ。もっというと、生命誕生の頃まで遡ってしまう。よくぞここまで生みつないできたと感心する。
     平均寿命の変遷は分からないが、全て二十歳で子どもを出産したとすると、現生人類の歴史を十万年として、僕たちは五千代目ということになる。随分と多くのお爺さんとお婆さんがいたものだ。自分一人のことを考えても、二世代前のお爺さんお婆さんだけで四人いる。
     人数もそうだが、名前も気になる。いつから人は名前を持つようになったのか分からない。声は出せるのだから、言葉を話すようになる前から名前はあったようにも思う。近いところで五千年前のお爺さんとお婆さんが僕にもいたはず。もし名前があったのなら、何と名のっていたのかと考えただけでも楽しくなってしまう。
     さて、僕の血は、アフリカ出発で、中国の南方地方を経由して日本に来た可能性が高い。中国人が僕の顔を見て言うのだからそうなのだろうが、DNAを確かめてもらったわけでもないので何とも言えない。
     もし、そうならば、九州辺りから日本列島に入ってきたことになるのだろう。その間、どんな景色を見、どんな暮らしをし、どんな冒険をしてきたのだろうなどと想像たくましく適当なシーンをさまざまに頭に思い浮かべてしまう。
     もちろん、僕の祖先の一人一人が冒険の旅ばかりをしていたわけではないだろう。しかし、追いやられたのか、開拓したのか分からないけれど、世代を積み重ねながら大移動をしてきたことだけは確かだ。自分の血ながら本当にお疲れ様でしたと慰労してあげたい。
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