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    10/17/2009

    幻想12「困った奴」

    「困った奴」

    気まぐれ天使が舞い降りた
    今度は疲れた鼻の上
    世界が遠退き細かく揺れる
    出来損ないのステレオ写真
    なんだか頭がおかしいぞ
    んんん困った奴だ
    二年に一度はやってくる
    わっかも羽もないけれど
    ただ半透明
    小指ぐらいの女の子
    お下げ髪を傾けて
    くくっと笑って消えてしまう
    体操座りがお得意だ
    おすまし顔がお得意だ
    いつの間にかあらわれて
    さっさとどこかへ消えてしまう
    何もしない
    何の御利益もない
    ただあらわれるのだ
    だから
    気まぐれの
    いたずら天使と呼んでいる

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    8/12/2009

    幻想11「窓口」

     窓口というものは大切なものだ。郵便局で窓口を間違えると、正しい窓口へ案内される。強盗にもそれは当てはめなくてはならない。民営化であらゆる客のニーズに応えなくてはならないことになったのだ。強盗も、いつかは一般客として来店する可能性がある。ぞんざいに扱ってはならないという理屈だ。
     「金を出せ!」「いえ、窓口違いです。5番の「総合支払い窓口」へどうぞ。こちらの整理券をお取り下さい。ただ今、先客強盗様がございますので、暫くお待ちください。」「ふざけるな!いいから金を出せ!」「たいへん申し訳ございません。重ねてお願い申し上げます。順番をお待ちください。」「なめんな!今すぐ金庫から金を出してこい!」「すみません。5番窓口でしか現金をお渡しすることはできません。一般のお客様も同じです。5番窓口が金庫の入り口なのです。ああ、前の方が終わったようですね。」「……。」「あの窓口、つまり金庫には職員も入れないのです。口座をお持ちの方が一度に一人ずつしか入れない仕組みなんです。ドアロックつきATMのようなものをイメージしていただけますでしょうか。後は金庫内の契約手続機兼支払機の指示に従ってください。たいへんお手数かけますが、この新規契約の書類に住所とお名前をお願いいたします。」「だめですか。では、ご自分で入力ということになります。ご了承いただけますか。」「ご理解いただき誠にありがとうございます。では、簡単にご説明申し上げます。強盗様ですので、10年定期となります。お支払いは中途解約なしの十年後です。金利は誠に申し訳ありませんが〇.二%。身分証明できるものはお持ちでしょうか。ああ、限度額ですか。一般のお客様ではございませんので、本日は二千五百万円までとなっています。ええっとですね。あ、よかったですね。お客様。一億円の枠に残りが出ることは珍しいんですよ。先程の方が少し遠慮されて七千五百万円にしたんですね。ただ、手続き完了後でもこの二千五百万円は次の強盗様が来店されたときに奪われる可能性があります。これがリスクです。」「いえいえ、そんなことはございません。」「いわゆる強盗枠の中でやり繰りしておりますので。その程度のリスクはご了解いただきとうございます。」「念押しですが、支払機に誤った情報を入力されますと強盗枠をご利用の場合は捕獲機能がございますので、くれぐれもお気をつけください。」「えっ。私に操作しに行けと……。もし間違って入力いたしますと金庫内捕獲されてしまい、自動廃棄装置が働くまで次に誰も入れなくなります。つまり、緊張のあまり私が入力ミスをいたしますとご面倒なことに。それにその場合には書類へのご記入がまず必要になるかと。」「そうですか。ご理解いただきまして誠にありがたいかぎりです。」「最後に、最も重要なことをお伝えいたします。先程の先着強盗様の取り分をあなた様が奪ったことになりますので、どうかお気をつけください。とにかくあなた様が次の強盗様をなきものにすればよいのですから。」「大丈夫です。そういう契約なんです。」「どこで実力行使されてもかまいません。どちらをねらうかはあなた様のお考え次第ですよ。私ども、そこまでのことは踏み込んでもの申せぬ立場でございますので。」

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    7/26/2009

    幻想10「顔面」

     凶悪な顔つきが凶悪な心の表出であったとすれば良心的だ。狼の皮をかぶった羊や羊の皮をかぶった狼ではないのだから、良心的だと思うのだ。一見して分かるから避けることができる。毒薬の瓶に毒薬というラベルが貼ってあるということなのだから、そのように取り扱えば問題はない。
     凶悪な人間に限らず、さまざまな人格が正直に表情となって顔つきとして固定すればよい。四十になったら自分の顔に責任をもてというのは、本当の顔面についても言えることだ。責任を持って内面をさらしてほしい。話さなければ分からないとか、一緒に仕事をしたり暮らしたりしなければ分からないというのは、本来は非常に不経済なことだ。
     この不経済なところを、避けられないこととしてとらえ、敢えて生き方の中に含めてあるから、自然なこととしてとらえていることができ、気持ちの上では楽な状態になっているというのが現状だろう。
     こうした本来の不都合は、普通の哺乳類のように顔面に毛が生えていないことによって多少は緩和されている。顔色が変わるのを観察できるということだ。天然色(?)で世の中を見ることができる数少ない種族なのだから、これを観察しない手はない。
     本当の色だけではなく、顔面に毛の生えている動物では分かりにくい微妙な表情の変化としての顔色も毛がないことによって詳しく観察することができる。これは随分と有利なことだ。
     今後は優秀な接着型のカツラの技術をそのまま取り入れた顔面獣化が図られるかもしれない。これは美男美女というレッテルやその逆のレッテルを貼ることが人を不幸にしているという理由でだ。美女の生まれたら何倍も人生を楽しく送ることができるという。この不公平をなくし、平等にしていこうという政治団体が政権を取ればこういうことになるかもしれない。
     凶悪な顔も微妙な表情も隠れてしまうから、純粋に行動で判断するしかない。髭を生やして男らしく見せるということができないから、純粋に行動で判断するしかない。特に現代の若い世代は見た目を重要な要素としているので、こうした世界になったら随分と苦労をするに違いない。化粧ができないのだ。
     しかし、整形手術などいうことをしなくても、顔面の獣毛のつけ方によって簡単に並の顔つきになるのだからけっこうなことだ。また、ワンタッチで装着できるようにしておけば、これまで化粧にかけていた膨大な時間を割愛することができるので、その分だけ人生を時間的に充実させることができる。
     ただ、獣毛のつけ方に格好をつける人々も出てくるだろうから、学校のきまりのようにこういう獣毛のつけ方は駄目ですとか、染めてはいけませんというようなおふれが出されるかもしれない。
     生顔というような言葉が生まれたり、思春期前に顔面獣毛式を行って大人の仲間入りをするという儀式が成人式のように行われたりするかもしれない。思春期にありがちな顔に対する劣等感が消滅するのだから、その点ではすばらしいことだ。
     しかし、いじめとして生顔を暴露するという事件が発生するだろう。そうこうしているうちに顔面植毛術が発達して流行するかもしれない。しみ、そばかす、しわなど全部隠れるのだからこれは朗報だろう。

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    7/4/2009

    幻想9「神隠し」

      煙突はどこへ行ったのだ。家々の屋根からつくつくと生えていた煙突はどこへ行ってしまったのだ。縁台も、風鈴も。そもそも大人たちはどこへ行ってしまったのだろう。どこもかしこも子供ばかりじゃないか
     もしかすると僕たちは神隠しにあっていたのだろうか。そう。この街は、唐突に異世界から戻ってきた子供たちばかりがあふれているに違いない。異様だ。大人たちはとうの昔にもうみんな死んでしまったのだろう。
     だが、不思議なのは一体の死体もないことだ。骨すらも発見できないのだ。もっとも、どこか別のところで生き続けている可能性がないではない。たとえ、絶滅寸前の人数しか残っていなかったにしてもだ。これを捜索するかどうかについての議論は大きく二分して今日に至っている。
     間違いないのは、分からず屋で頑固な大人はもうここにはいないということだ。ずるい大人もいなければ、子供に厳しく自分に甘い大人もいない。天国のような世の中じゃないか。
     誰もがこう考えて、はじめは見慣れぬ街の様子に戸惑いはしたものの、まるで自分たちが天下でもとったかのように喜する者も出始めた。もちろん、次の日には絶望に言葉を失うことになるのはわかっている。大人あっての世の中だったのはどの子供も了解していることだった。
     まず食わねば。着る物はどうする?半分朽ちたようなこれらの町並みで安全に暮らすにはどうすればよいのか?ギャングと化した子供たちもいるなかで、どう自分の身を守ればよいのか?まず発電所を動かさなければ……。
     ともかく、リーダーには誰が立つべきか?そうだ。選挙をしよう。誰を候補にたてるのだ。だいたい選挙というのはどのように進めたらよかったのか。どんな法律に従って進めていったのだろう?
     あれやこれやしなくてはならないものが、僕たちの目の前に山積みになっていく。あれほど疎ましく思っていた大人やら決まりやらが、実はいかに頼りがいのあるものであるかを思い知らされる毎日だ。
     そうこうしている内にも仲間が殺されていく。何か新しいグループが勝手にできたようだ。必要な人材なのだろうか、拐かされる者もでてきた。
     警察などはもうないのだ。警察署は残っているが、警察官は全部大人だった。今、生き残っているはずはない。憎まれ役は彼ら大人が請け負っていたことを実感するのは、悔しくもあり、ありがたくもあった。
     今目の前に子牛が一頭現れたとしても、いったい誰が肉にするのか。それだけでおそらく何日も議論をしなくてはならない僕たち子供という存在は実に滑稽な存在になってしまった。
     そもそもなにがこの世に起こったというのだろう。すべての子供がいなくなって、この世は滅びたのだろうが、ほかの街や国も同じなのだろうか。
     僕たち子供だ神隠しにあったのか、それとも子供たちを残して世の中や大人たちの方が消えてしまったのだろうか。世の中だけが戻ってきて、大人はまだ戻れずにどこかわからない世界をさまよっているのだろうか。
     すべては推測の域を出ない。ただただ目の前に広がるのは、子供たちばかりの無法地帯。地獄のようだ。大人たちの圧力や監視によって秩序というものが成り立っていたのはわかった。汚れ役や憎まれ役のいっさいを請け負ってくれていたのもよくわかった。
     純粋な子供ばかりであれば純粋な世の中になるだろうと、思いこんでいたのだが、実際にそうなってみると、純粋などというものは微塵もなく、自分の欲望に関してのみ純粋であったということが、暴露されてしまった形だ。
     僕たち子供が正直でありえたのは、正直であることによって受ける攻撃を守ってくれる大人がいたからだ。また、守ってくれる法律があったからこそだ。
     だからといって大人が偉い訳じゃない。子供の時にそうしてもらったように、同じようにしていていただけだろうと思う。理由付けとして愛情とか義務とかいいつつも、ただなんとなくそうしていただけに違いない。
     しかし、今となってみれば、そうしたことすら崇高な行為に思われてくる。
     生きるということは、生きることに意味があるのであって、他に何をしたかではないのかもしれない。自由を勝ち取ることに生きる意味を見いだしていた人は、自由を勝ち取った後はどうするのだろう。自由に暮らすというのだろうか。いったいそれに何の意味があるのだろう。
     だからといって自由を束縛されていることにも我慢がならない。束縛の意味を知ることが自由を得ることになるのだろうか。それとも、束縛する者を排除することが自由を得ることなのだろうか。
     ともかく子供だけで暮らさなければならなくなった僕たちには様々な混乱が生じている。これは大人たちだけになった人々にも訪れているだろう混乱とはどのように違うのだろうか。
     いずれにせよ、この異常事態が僕たちを成長させてくれるのは間違いないことだ。しかし、それは僕たちが大人になるということなのかもしれない。

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    6/14/2009

    幻想8「アリバイの海」

     アリバイが多いのも困る。どうも僕には二人ほど別の僕がいるようなのだが、それは困ったことなのだ。ミッキーのように活動しているのは一人(一匹)だけということになっているのか、それともそれぞれ何の連携もなく、ばらばらに活動しているのかわからない。少なくとも僕には何の連絡もない。こんなことが公になれば、もちろん、関係者だけのパニックでは終わらない。
     もし、僕が犯罪に巻き込まれたとき、警察はアリバイを確認するだろう。それが問題なのだ。仮に、何人かいる僕がミッキーのように活動時間帯を分割してそれぞれ担当していれば、比較的問題は起こりにくい。しかし、十分に連携をとって活動しなければ、出現する地理的なつなぎが悪く、ワープでもしたのかと思われるような事態を演出する結果になってしまうこともあるだろう。
     これは警察に不審な行動として記録されるに違いない。裁判では、捜査結果の信憑性が問われることになり、幾分有利になるかもしれないが、狡猾な検察官により、偽装工作を疑われることになる可能性もあるから油断できない。
     ただ、僕と他の僕たちとは連携が取れていないことは確かなのだから、僕だけが地理的に不自然な出現をすることになる可能性があり、僕自体の現実のアリバイが架空のものであるという結論になる危険性もある。すると、連携を取り合っている他の僕たちの思う壺だ。僕だけが不審な動きをしているか、僕の証言が嘘ということになり、圧倒的に不利になる。他の僕たちが僕を陥れることは、少し準備をすれば可能であるように思う。これは恐ろしいことだ。
     では、すべての僕がそれぞれの存在も知らず、したがって何の連携も取らずにばらばらに活動していたとしよう。この状態だと、ニアミスが起こる可能性が生じる。お互いに顔見知り(?)か、片方がその存在を知っているという状態ならば、それとなく離れていき、周囲の人々に混乱を起こさせないですむように工夫できるからよい。
     しかし、公衆の面前でばったり同じ人物が顔合わせをしてしまった場合、周囲が混乱に陥ることになる。もっとも、機転を利かせてお互いに「双子です」とか「いとこです」と言い切ってしまえばその場はとりあえずしのぐことができるだろう。
     話を戻すが、僕たちがどのようなつながりを持っているか、あるいはもっていないかは別として、警察は僕のアリバイが複数種類あることにやがて気づくだろう。ここからが本当に面倒なことになる。もしかするとアリバイのない僕も混じっているかもしれないのだ。ありすぎるアリバイが、僕の身を危険にさらすことになるかもしれない。下手なアリバイ工作を組織的に行ったと評価されかねないからだ。アリバイのない僕のほうが自然な存在として記録されればよいのだが、問題は僕自身が警察の管理下にあるのか、僕以外の僕たちのうちの一人が警察の管理下にあるのかということだ。
     最も困るのは、ほかの僕が犯した犯罪を僕自身が責任を負うという場合だ。僕に執行猶予がついている場合、その期間にほかの僕が再犯(?)すれば僕としては大問題だ。
     この厄介な問題に対する策をいくつか挙げてみよう。
    ①ほかの僕たちを探し出して処分すること。
     オリジナルが既に死亡いていれば、コピーである他の僕を同じくコピーである僕が処分によって僕が消滅するという危険性はきわめて低くなる。これは僕がオリジナルではないことが前提だ。しかし、コピーが死亡したことがオリジナルにも影響を与えるという関係にあるかもしれない。これは完全に否定しきれない。そもそもこんなことは本来あるはずのないことだからだ。あるはずのないことに常識は通用しないと判断すべきだろう。
    ②ほかの僕たちを探し出して連携し、互いの存在の矛盾を周囲にさらさぬようにすること。
     互いに会わないように別々の国に住むことにし、ネットで連絡を取り合うようにする。
     僕以外の僕たちはどのように名のっているのだろう。連続する生活実態はあるのだろうか。同じ親から生まれたのだろうか。最初から大人だったのだろうか。そもそも何のために複数の僕が必要だったのだろうか。特段の意味はないのだろうか。増殖しているのだろうか。必要に応じて加減されるのだろうか。
     たくさんの僕がこの地球上でアリバイの海を築き上げているのは間違いない。それは意味のないアリバイだ。しかし、それがいつアリバイとして有効なものになったり、逆アリバイとして不利なものになっていくのかはわからない。自分の意のままにならぬゆえにひたすらに恐ろしいのだ。

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    12/6/2008

    幻想7「体」

     赤ちゃんや相撲取りなんかぷくぷくしていないと危険だ。太っているのは身を守るためと考え、これからは安全体形と呼ぼう。逆に、危険なことはかっこいい。だから、スリムなのは危険体形と呼ぼう。
     航空機墜落事故での性別生存率は女性の方が高い。これは、皮下脂肪が男性より多いということと、体が男性より柔軟だからだろう。これは他の動物ではどうだろうか。猿はどうだろう。犬や猫はどうだろう。鳥はどうだろう。魚はどうだろう。貝はどうだろう。虫はどうだろう。
     鳥は飛ばなくてはならないから、軽さと空気の抵抗が少ない体形が命だ。魚は泳がなくてはならないから、水の抵抗の少ない体形が命だ。貝は殻があるから、はみ出ない限りは大丈夫そうだ。虫は細い足で体を支えなくてはならないから、体の小ささが命だ。確かに、肥満体型の虫は見たことがない。しかし、昆虫の幼虫はもともと肥満体型に見える。そのどれも芋虫のような丸々とした体形は足が多くて短く、体で体を支えているかのごときスタイルだ。
     飛ばなくてもよい人間、普通は泳がなくてもよい人間、殻を持たなくてもよい人間、他の動物と比べて足が長くて太い人間。いざとなれば四つんばいになってでも生活できる人間。動けなくなっても仲間が助けてくれる人間。
     どうも安全体形になるべく生まれついているようだ。個々の体形をいろいろな数値で表現し、「○○体型」と類別する趣味は実に人間的で面白いが、これに美的価値基準まであてがってしまうのは、さらに人間的で悲しい。
     その結果、僕たちは少しでも格好よくなるために涙ぐましい努力をしなくてはならない道をたどるように自ら仕組んでしまっているのかもしれない。これは異性にもてることを目標にすえることで盤石のシステムに仕立て上げられているように見える。
     危険なことをさらりとやってのければ、ポテンシャルの高さを宣伝することになり、人目を引いて人気が高まる。かつて、食料を得るための猟や他の部族との攻防などが危険な努力ということになるが、子孫繁栄が目的なら、こうした猟に秀でたものや命を守ってくれる者が異性にもてるのは当然だ。
     現代のように皆が皆生活のための猟をするわけではなく、直接命のやりとりを生活のなかでするわけでもない時代では、できたら避けて通りたい危険なことを敢えてやってくれるのだから、代わりにやってくれたという感覚で褒め称えてくれることもあろう。あるいは、敢えて危険なことをすることは愚かであると批判することもあろう。
     時折何を勘違いしたか、危険なことをする格好よい人の真似をする人が現れることがある。それがどうにもみっともないのは、どんなにそれが危険なことであっても、そしてどんなに上手くそれをこなしても、それが真似に過ぎないからだろう。
     たとえば、格好いいアクション大スターと同じ顔に整形し、仕草やせりふを上手に物真似したり、危険なアクションをこなしたりする人間が目の前に現れたとする。彼がどんなに「どうだ。」と言わんばかりにこちらを見たとき、その憧れる気持ちやなりきるための努力は十分に認めつつも、心ならずもくすくすと笑ってしまうに違いないと思うのだ。
     このように、人間特有の「危険体形を追求するという性情」は、「危険な物事につい魅力を感じてしまうという喜劇的な性情」と深く関係しているように感じる。
     怖いもの見たさ、火事の野次馬、賭け事、武器、格闘技、車の高速運転、女性の際どい服装等々もそうだ。一歩間違えばどれも危ないことだ。
     これらのはらはらどきどきしてしまう危うさに、未だ手に入らぬ幻想の危険体形の危うさとが共鳴し合った形になって、仮の満足が得られることがある。時々であるならともかく、それを日々追求し続けるなら、たとえ社会的に認められていようと、その人間は浅ましくも救いがたい、愚かしい人間だといえそうだ。
     しかし、その愚かしさは魅力ある愚かしさだ。こうした魅力には底なしの誘惑が伴う。だから、事のなりゆきに引きずり込まれる前に危険なかおりを察知して回避する人も多い。しかし、人間関係の築きあげかた次第では、その関係に目を覆われて、危険回避のチャンスを逸してしまう場合もある。これでは関係者は道連れとなってしまう。
     一度道連れになってしまうと、滅びる前に足抜けするのはともに困難だ。たとえ、道連れとまでは言えない関係でも、一抜けたと言えない状況になってしまうことなど、日常茶飯事ではないか。みんな仲間でいっしょにダイエットなどというのは、一週間で破綻する方が笑い話となり、かえって幸せというものだろう。

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    <こんにゃくラーメンならノドにつまらないだろう 画像クリックで説明画面へ>

    10/17/2008

    幻想6「てのひらの虹」

     てのひらに小さな虹がたつ。困ったとき、追いつめられたとき、握りしめていた拳から力を抜いてみる。そっと顔の前でこわばった指を開くと、小さな虹が美しく見えるのだ。
     誰にも見えないようなので、あえて隠すこともなく。だからといって、人に話すわけでもないから、怪しまれることもない。ちょうど扇を七割ほど開いたような見事な虹だ。
     とても小さく、ハツカネズミの頭ほどの大きさだ。小さな頃は誰にでも見えるものだと思っていたのだが、小学生にもなれば、次第に尋常なものではないと自覚し始めた。
     この虹の光は何にも似ていないが、オパールの輝きに近いように感じることもある。このような美しい光は本物の虹では無理だ。どうあっても空に架かる虹と比べるというなら、その光をてのひらの上にぐっと凝縮したものだといったらよいだろうか。
     ちょうど手相で言えば、頭脳線と生命線の根もとあたりだ。だから、てのひらと言っても、随分と左寄りで位置のバランスが悪い。
     てのひらから立ち上る水蒸気がてのひらの上でとどまり、小さな水滴になって光を屈折させるのだろうかと思ったこともある。しかし、いつも左手ばかりに出るというのだから、それも考えにくい。だいいち夜でも見えるのだ。
     ただひたすらに、困ったときや追いつめられたときに浮かび上がる虹だ。それなのに現状を変えてくれるような魔力は持っていない。不思議アイテムなどではないのだ。単に症状として出たものに過ぎないのかもしれない。それとも、まだ自分が扱い方を知らない未知のパワーの片鱗なのであろうか。いずれにしてもいつか知らぬ間に消えてしまうのだから、頼りないものであることには間違いない。
     たとえこれがタイミングよく見える都合のよい幻視だとしても、本物の虹とどこがかわろう。どちらも事態は一向に好転せず、自力でがんばるしかないのだ。

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    <虹はこんなところにも 画像クリックで説明画面へ>
    2/25/2008

    幻想5「未来を変える子ども」

     今、産後の疲れを癒やしている母親はこの地球上に何人いるのだろう。人口爆発と言い、少子化と言い、アンバランスな世の中でも「這えば立て 立てば歩めの親心」は変わらない。
     子育ては忙しい。次から次にわいてくる仕事に似ている。先手先手で余裕の子育てが子どもを安心させる。しかし、仕事と違って経験が生かせない。しかも、子ども自体に先手先手で接すると依頼心が強い人間になって、不平不満を持ちやすくなるから注意が必要だ。
     変な育児書を信じないことも大事だ。外国のものであれば、基盤にある文化が違うのだから、逆効果になる可能性もある。また、多くの人が子育てを経験する関係で、一家言を持っている人も多いのだが、諸条件を分析することもなく、ただ方法と結果だけを単純に結びつけているものが多く、意外とその単純さに説得力を感じてしまうことがあり、全てが信じてしまわれる傾向もある。
     子育てについては諸説紛々だが、つまるところ、どういうときにどんな表情でどんな言葉掛けをするかということが命だと思う。これが子どもに生きる力を与えると信じる。母親は自然に母親の顔となる。言葉も微妙な響きで子どもに心というものを伝える。厳しく育てるには日常のこうしたものが土台になくてはできない。和顔愛語というわけだ。
     厳しく育てるとは、よく考え、よく行動する心を身につけさせることを目的としていなければならない。しかし、それには邪魔がつきものだ。社会の風潮。周囲の思い込み。親と子どもの人間としての能力の限界もそれに含めてもよいかもしれない。
     地球の未来を救う一人の戦士が幻想される。毎日生まれる無数の子どもたちの中から必ず出現するはずだ。その戦士が何と戦うのだろう。病原菌か、悪の集団か、地球侵略者か、それとも人間自身がたどる歴史的運命か。もっとも、地球を救うには人間を滅ぼさねばならないという説もあるから、通常の想像とは逆の働きをするのかもしれない。
     誰が何になるか分からないところが面白いけれど、何になってもよいように無償の愛を注いでいこう。世界中の母と子に花束のプレゼント。
     父親にはこうしたとき何ももらえない。その理由は 僕たちの種族の正体と関係あるのかもしれない。

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    12/1/2007

    幻想4「不完全犯罪」

     前世で人をあやめたが、結果として完全犯罪となってしまったために、償いをせずに来てしまった。そういう加害妄想が僕にはある。断片的な記憶も実に生々しく、多くを語ることはできない。
     誰も知らない犯罪。もしかすると、前世ではなく、現世での出来事かもしれない。それほどに生々しく記憶にある。ただし、忘れ去ろうという強力な意思の力で、断片的なものになってはいるが、罪の意識、懺悔の気持ちは少しも減衰していないように感じられる。
     自分の過去を調べよう。連絡の取れなくなった親しい人はいないか。御宮入りになった殺人事件の資料を集めよう。自分に関わりのありそうな要件はないだろうか。
     あまりに具体的な罪の意識、その罪悪感は意識できる罪悪感のうちで最も映像に結びついているものだ。明らかに遺体を埋めている。土に埋もれていく手や足、土くれの一粒一粒までが鮮明なのだ。
     前世であれば、事件が発覚する前に自分も死んだのであろうか。現世であれば、自分の記憶をねじ曲げているのだろうか。
     だから、僕には人生いかに生きるべきかとか、人生とはなんぞやとかいう思いは一切ない。実にさわやかなものだ。生きることはあがなうこと、それ以外にはない。そのために生まれたと感じる。単純だが、これは美しい生き方かもしれない。美しい生き方とは、このように殺意や罪やそうした最も醜いものから生まれくるものなのだろう。
     今日の今日まで告発されることもないまま、罪の意識がある。これは完全犯罪ではない。不完全犯罪だ。本当の完全犯罪というものは罪の意識がないことにあるのではないか。罪の意識がある以上、申し訳ない、償いたいという気持ちがわく。永遠のしっぺ返しだ。そんなものを受けるようでは完全犯罪とは言い難い。ただ捕まっていないというだけにすぎない。
     ともあれ、こうした幻想が、本当に幻想であればいいのにと常に思う。前世であれ、現世であれ、捨てられた記憶をこれ以上発掘して確かめようなどという勇気などもうありはしないのだ。
    11/23/2007

    幻想3「ただ者ではない」

     ただ者ではない。そうした者にまだ会えたことがない。ただ者でない者は、おそらく10㎞先からその存在が分かる。街が揺らぐ、人が走る、犬の遠吠えが前夜から始まる。
     ただ者でない者は、歴史や世界の裏表を越えたところに君臨している。存在が言葉で、言葉は光だ。ただ者でない者は、僕たちとかかわりを持っていない。かかわりを持っていないのに、ただならぬかかわりを持っている。
     ただ者ではない。そうした者の姿も声もまだ聞いたことがない。神ではないが、人間や生き物を越えた者。そうした者が確かにいる。確かにいると感じるが、まだ会えたことはない。
     ただの幻想なのだが、このように感じる自分が何となく怖い。
    11/4/2007

    幻想2「僕の中の口の減らない奴」

     死ねと言われたら、いつかは死ぬだろうと言い、殺すぞと言われたら、殺意を認めたねと言い、消えろと言われたら、現代科学ではまだ不可能だと言い、気持ち悪いと言われたら、少し休んだ方がよいと言い、糞野郎と言われたら、生物だからしかたないと言い、セクハラと言われたら、目には目を歯には歯をと言う口の減らない奴がきっと僕の中にいて、いつも隙をうかがっている。全く油断できない。
    3/2/2005

    幻想1「感覚と現実」

     人間の体を極端に省略していくと、一本の管になる。管だからものを入れたり、出したりする。これが詰まると死ぬ。スムースに出し入れしている間は、生き生きしている。それが管の本性だからだ。そして、我々は管であることから逃れることはできない。
     そう考えているうちに、出会う人出会う人、すべてただの管に見えてしまった。ただの管が、いろいろな幻をまとって目の前に現れているのだという感覚はとても妙なものだ。これはまずい。見たままを素直に感じ取るようにしよう。
     しかし、今度は本性ではなく、個性に目を奪われるおそれがある。特に、見た目に左右されるようになるだろう。それはそれで少し問題がある。
      問題があるといえば、中学生のころ、「人を見るとその骨格をどうしてもイメージしてしまい、目に見えている骨に付着した肉を無視してしまうという感覚」におそわれたことがある。
     最近は、何か一つの感覚に固執して、それを常識とすることに抵抗感を抱くようになってきた。精神の安定を願うあまり、その停滞を招くことをいとわないという感覚に嫌悪するのだ。つまり、いろいろの感覚を持ち合わせて、総合的に物事を見つめた方が、より健康的ではないかと思うのだ。
     新しい常識の創造をしていかないと、停滞する。停滞すること自体がいけないことなのではなく、停滞することによって、感覚と現実とを一致させる修正の機会が減っていくことが危ないということだ。

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