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    11/21/2009

    怪しい広辞苑206「第四版227ページ・鷽替(うそかえ)」

     広辞苑第四版227ページ「鷽替」の説明。これは大阪に対する偏見によるものであろうか。それとも単なる記述漏れであろうか。
     「太宰府・大阪・東京亀戸(かめいど)などの天満宮で、参詣人が木製の鷽を互いに交換し、神主から別のを受ける神事。」に続く説明だが、第三文目に「太宰府は正月七日夜の酉(とり)の刻に行う。」とあり、第四文目の「亀戸は正月二五日。」で終わってしまう。
     つまり、大阪の日程が省略されているのだ。これはどうしたことだろう。省略する正当な理由は見あたらない。これでは、広辞苑は大阪を軽く扱っているのではないかと勘ぐる人がでないとも限らない。広辞苑第六版ではどのように説明されているのだろうか。もし、改善されていなければ、大阪に対する広辞苑編集者の態度は決定的なものだと思われても仕方ないだろう。
     辞書は一出版社が発行するものだが、その内容の性質上、公のものだ。公のものは平等さを欠いてはならない。広辞苑がますます最高峰のものとなるためには、このことを忘れてはなるまい。
     さて、鷽替の心とは何だろう。鷽をとりかえる。嘘を誠に取り替える。自分のついてきた嘘を誠に替えよう。自分の希望が実現しますように。こうした現世利益の思想による願いだろうが、天神として恐れられた時期の菅原道真を抜きにしてはいけないだろう。菅原道真を陥れた嘘を誠に取り替え、身の潔白を証明したいという怨念のようなものは、いつの時代にもあり、次第に凝り固まって増殖し続けているのかもしれないのだ。
     まことに嘘の多い世の中だ。この星の人口が増えれば増えるほど、嘘は多くなるのは確かなことだ。政治的に抹殺され、寿命をも縮めることになった道真公の怒りがまたもや今の異常気象や伝染病を引き起こしていると感じている人々がいてもおかしくはない。そのような伝説的な解釈をして、この世を正そうとする動きが生まれるのならば、因果関係は認められないものの、それは大事な人間的な反応だ。
     この重要性を否定すれば、人々はますます不幸を呼び込んでしまうことになるだろう。その結果、強い人は苦虫を潰したような顔をして不満や皮肉を言うばかりの人となり、弱い人は正しくない世間の中で心を疲弊させてしまう。
     もちろん、鷽替神事を単純に面白がっているというレベルの人々が多いだろう。しかし、身に降りかかった火の粉を嘘にしてしまおうと真剣に参加する人もいるかもしれない。どちらにしても菅原道真の怒りに象徴されるところの「怒り」について思いをはせる人々が増えなければ、神事の本当の目的が達成されたとは言えないだろう。

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    11/14/2009

    怪しい広辞苑205「第四版224ページ・薄手火蛾」

     広辞苑第四版224ページ「薄手火蛾」(うすたびが)の説明。「日本本土のほか、シベリア南東部にも分布」とあるが、それはどういうことなのだろうか。
     そもそも「日本本土」というのはどこを指すのだろうか。沖縄も一九七二年に本土復帰をしたのだから本土だ。しかし、南東部とはいえ、シベリアのような寒いところにも分布するような種類の蛾が、温暖な沖縄にも生息できるものなのだろうか。できるかもしれないが、実際に観察されているのだろうか。よそから運ばれてきて仕方なく生きていたやつはいるかもしれないが、現在の地形になってから敢えて海を自分で渡ってくるほどの蛾でもないように直感的に思う。地理的に沖縄での観察は難しいのではないだろうか。
     確かに、「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」という安西冬衛の有名な一行詩があるが、作者がその蝶を追って本当に海峡を渡ったことを確認したとは思えない。しかし、幅が数キロメートルしかない韃靼海峡だから、季節を感じて移動する蝶ならば、海峡を渡って移動できるはずだ。蛾も同じではないかと思うのだ。
     しかし、沖縄の場合はこの詩のように非常に狭い海峡を挟んで大陸が近くにあるわけではない。また、ウスタビガの成虫は口が退化しているので、羽化してからの命は一週間程度と短いらしい。だから、大陸や九州から沖縄に渡ってくるということはやはり難しいように思うのだ。
     さて、「日本本土」と表現したのにはどのようなわけがあるのだろう。「日本」や「日本全土」ではなく、「日本本土」と表現したからには、それなりの言い換えた理由があるはずだ。
     この部分が「日本」や「日本全土」ならば、一九七二年以降は沖縄も再びその中に含まれることになるので、沖縄にウスタビガがいても説明としておかしくはない。しかし、その場合、ウスタビガが沖縄にいなければ、「日本」や「日本全土」とするのは、説明としておかしい。
     しかし、「日本全土」ではなく、「日本本土」と表現した以上、「日本本土」が「日本」や「日本全土」とは別の意味であることを表しているはずだ。なぜなら国語の辞書は、そうした言葉遣いに最高の注意深さをはらうものだからだ。
     では、「日本本土」とはどういう意味なのだろうか。「日本の離島を除く日本」「日本の離島を除く日本全土」という意味なのだろうか。それとも、もっと別の意味なのだろうか。「本土日本」という言い方ならば、外国に対する「日本」、あるいは外国に対する「日本全土」、つまり「本国日本」という意味合いをかぎとることができそうだが、「日本本土」という場合にはどうなのだろう。
     「日本本土」とすると、日本のどこか、例えば新潟県だけに生息していても、そうした言い方が成立するような気がする。つまり、「本土」ということばが「外国」に対するものとして感じられるのだ。すると、国レベルでのいるいないという問題になり、その国の一部にでも生息していればよいということになる。
     一方、「日本全土」とすると、日本の各地で生息しているという状況を表現することになる。つまり、国レベルではなく、国内レベルでどのように生息しているかということを表現するものになってくる。それは、日本のどの地域にでも生息しているという意味だ。
     どちらにしても、一九九一年発行の広辞苑第四版では、「一九七二年に本土復帰を果たした沖縄」を当然のことながら日本の本土の一部であるという了解のもとに説明を表現していくはずだ。
     実際のウスタビガの生息地がどうあろうが、以上のように考えていくと、広辞苑第四版の「日本本土のほか、シベリア南東部にも分布」という説明は次のうちどれかの意味になっていくように思う。さて、どんなものだろうか。ただ僕が日本語を正しく理解していないというだけのことなのかもしれないが。
    ①「ウスタビガは、離島を除く日本全土に分布しているほか、シベリア南東部にも分布」
    これは「本土と離島」を合わせて「日本全土」であるという解釈を前提として「日本本土」を言い換えたものだ。
    ②「ウスタビガは、沖縄を除く日本全土に分布しているほか、シベリア南東部にも分布」
    これは広辞苑第四版が沖縄返還前の広辞苑の記述を更新し忘れていたと仮定した場合のものだ。
    ③「ウスタビガは日本のほか、シベリア南東部にも分布」
    これは広辞苑第四版が単に「日本全土」を「日本本土」と単に誤植していた場合のものだ。
     試しにネット上でウスタビガの生息地をいろいろと検索してみた。残念ながら、沖縄にウスタビガが生息しているという記事をいまだ発見できない。広辞苑第六版ではどのように表現されているのだろう。
     それにしても広辞苑第四版の「日本本土」というのは果たしてどういう意味なのだろうか。あまり本土ということばを使ったことがないので、おそらく僕が知らないだけなのかもしれないが、「全土」と「本土」をどのように使い分けているかが明確でない人は僕だけではないだろう。つまり、僕のようにつまらぬ混乱に陥る利用者がほかにもたくさんいるだろうということが心配される。
     ところで、ほかの蝶や蛾の生息地はどのように広辞苑第四版で表現されているのだろう。思いつくままあたってみると以下のとおりだ。分布が明記されていないものが多い。また、「ウスタビガ」の説明にあるような「日本本土」という表現で分布を説明しているものは、現在のところまだ見つからない。「シャチホコガ」と「ルリタテハ」の説明では「日本全土」だ。この「日本全土」ということばの意味はよくわかるが、いつまでも「ウスタビガ」の説明に出てくる「日本本土」ということばの意味はよくわからない。これがどうしても同義だとは思われないのだ。

    「シャチホコガ」は「日本全土・朝鮮・中国・シベリア・ヨーロッパなどに広く分布。」
    「ルリタテハ」は「日本全土、朝鮮・中国から南アジアにかけて広く分布。」
    「ヨナグニサン」は「南アジア・中国南部にかけ広く分布、わが国では石垣島・西表島・与那国島に局産。」
    「アオスジアゲハ」は「南日本に普通。」
    「オオムラサキ」は「北海道から九州まで分布し、」
    「オオミズアオ」は「東アジアに広く分布。」
    「カラスアゲハ」は「東アジアに広く分布。」
    「シジミチョウ」は「全世界に分布。」
    「ギフチョウ」は「本州特産種…ヒメギフチョウは北海道・本州に分布。」
    「スズメガ」「セセリチョウ」「モンキチョウ」「モンシロチョウ」「メイガ」「ジャノメチョウ」「キアゲハ」「アゲハチョウ」「チャドクガ」「ミノガ」「イラガ」は分布に関する記述なし。
    「シャクガ」「ミズジチョウ」に至っては見出し語なし。

     僕の聞き覚えのない蝶・蛾の仲間については調べてないので不明だ。ちなみに、見出し語になかった「ミスジチョウ」は僕がいちばん好きな蝶だ。あわただしい「モンシロチョウ」は見ていて楽しくはあるが落ち着かない。それに対して、はばたいては滑空する「ミスジチョウ」は何か人間的でいとおしく思われるのだ。いや待て、滑空してから慌てて羽ばたくのかもしれない。飛び立つときはもちろんはばたくのだが、飛んでいるうちに、前者か後者か自分でだんだん順番がわからなくなってことは間違いないと思うのだが、どうだろう。

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    11/5/2009

    怪しい広辞苑204「第四版226ページ・渦虫類」

     広辞苑第四版226ページ「渦虫類」の説明の3行目。「体長一ミリメートル~五〇センチメートル」とあるが、本当だろうか。
     「プラナリア・ヒラムシ・コウガイビルなどを含む。」と説明は続く。ところが、広辞苑第四版では「プラナリア」は体長二センチメートル、「コウガイビル」(笄蛭)は五~五〇センチメートルという説明になっているにもかかわらず、「扁虫」(ひらむし)の説明には「サナダムシなど、平たい虫の称。」とだけある。体長が書いてないということは「ヒラムシ」という名前の生物のことではなく、扁虫(ひらむし)という総称を見出し語として掲げたのだろう。
     しかし、総称なら体長の小さいものから、体長が大きいものまでの数字を書けばよい。「渦虫類」の説明では「体長一ミリメートル~五〇センチメートル」とずいぶん対象を広く考え、しっかりと数字を示しているのだから、「扁虫」の説明でも長さが特徴的な「サナダムシなど」を例に挙げた以上は「体長○○センチメートル~○○センチメートル。」と記すべきだった。
     それよりもサナダムシは明らかに渦虫類ではないところに注目したい。水や海水の中を移動していく渦虫類と異なり、サナダムシなどは寄生虫で動物の消化器官の中をただうねうねしているのが精一杯の生き物だ。もちろん、平らな動物であるから扁形動物なのだが、扁形動物イコール渦虫類とは限らない。
     結論を言えば、広辞苑第四版の「渦虫類」の説明にあった「ヒラムシ」には「サナダムシ」は含まれていないのだ。ところが、広辞苑第四版で「渦虫類」を調べた後、その説明中にあった「ヒラムシ」を調べようとすると、どうしても「扁虫」という見出し語の説明を読むはめになる。すると、早合点しがちな利用者の場合、「ヒラムシ」のことをサナダムシを含む平たい虫のことだと了解することになりかねない。つまり、生物学上のヒラムシと俗称であろう扁虫(ひらむし)との違いがわかるような見出し語の立て方と説明の仕方が広辞苑第四版ではなされていないために不都合が起こるということだ。
     調べる作業を「渦虫類」から始まって「ヒラムシ」でやめた利用者、つまり「サナダムシ」まで調べなかった利用者は、この時点で「サナダムシも渦虫類だったんだ」とか「サナダムシは長いと聞いていたが、体長五〇センチメートル程度なんだ」という類の勘違いをする可能性が出てくる。これはずいぶんと不都合のある説明だということになる。見出し語の説明はそれだけをチェックすればよいのではなく、説明に使われたことばを調べたときに不都合が生じないかどうかまでチェックが必要なのだ。利用者がどのように行動するかを想定しない編集ではあまり意味がないということになってしまう。広辞苑の編集にあたる方々は、最高峰の辞書をめざしているのだから、小さなことかもしれないが、勘違いを引き起こす原因をひとつでも排除していってほしい。
     次に、「渦虫類」の体長が1ミリメートル~五〇センチメートルというのも気になる。通常体長を書くときには成虫の大きさを示すから、大人になっても体長1ミリメートルの「渦虫類」がいるということになる。本当にいるのだろうか。1ミリメートルという小さな体長でしかも扁平な体形でなくてはならないということは、ずいぶんと小さな生き物だ。扁形動物だからこそ可能な大きさなのかもしれないが、いったいどんな生き物なのだろうか。たいへん興味深い。
     上限の五〇センチメートルの方はどうか。例として挙げられたコウガイビル(笄蛭)はずいぶんと長いものを目撃したことがある。昔すんでいた戦前の家の風呂場の風呂桶の下にいたのだが、風呂桶の大きさから判断して確実に七〇センチメートル以上はあった。外来の大きなコウガイビルなのかもしれない。すると、五〇センチメートルというのは在来種の大きさなのだろうか。たとえ在来種であろうが外来種であろうが、上限は大きい方の長さを書いてもらった方がよいと思う。開いた頭の形は絶対にコウガイビルだと思うのだが、他の生き物だったのだろうか。

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    11/1/2009

    怪しい広辞苑203「第四版224ページ・碓氷峠」

     広辞苑第四版224ページ「碓氷峠」の説明。標高の説明の後に突然「鳴くべ鳴かずの峠」とあってそれで終わりになってしまう。これでは説明不足ではないだろうか。あと十数文字は空いているのだから、適切なことばを添えてもう少し説明する方がよい。なぜなら「鳴くべ鳴かずの峠」は広辞苑第四版の見出し語にはなく、もう説明されることがないからだ。
     「鳴くべ」は「鳴くべし」で、いくつかある助動詞「べし」の用法のうち推量の意味で「鳴くだろう」の意味になる北関東の方言の一つだ。碓氷峠は群馬県と長野県に地理的にまたがっているので、北関東の西の方までは「鳴くべ」を使い、東は信州あたりまでは「鳴かず」を使うということだろう。
     つまり、碓氷峠が方言の境界線になっているという了解だ。「ほととぎす鳴くべ鳴かずの峠かな」という俳句からきたもののいいか、まずこうしたもののいいがあって、それが俳句に使われたのかと調べることも大事だろうが、別段今はどちらでも構わない。 
     ただ、「鳴かず」を「鳴く」に否定の助動詞「ず」がついたものと考えてしまう中高生がほとんどであるということに広辞苑編集担当者は気づいてほしい。こうした現実を知らずに、つまり利用者のことを知らずに編集するというのは間違いだからだ。編集というものは、利用者はこうだからこのように編集しようという発想が基本的になければならない。
     広辞苑第四版の「碓氷峠」の説明をこのまま放置しておけば、「鳴くべ」と「鳴かず」を反対の意味にとらえてしまった利用者が、「鳴くだろうと思ったけれど鳴かない峠」などのように解釈しかねない。声のよい鳥が鳴くだろうと思って期待して峠を登っていくと、実は何も鳴いていない寂しい峠だったというがっかりな峠というイメージがわいてきてしまう。さすがにこのままではいけないだろう。
     「鳴かず」は、「鳴く」に推量の助動詞「む」、助詞「と」、動詞「す」がついたものだとされる。「鳴かむとす」が「鳴かんとす」、「む」が「ん」と発音されれば、その次が濁音化しやすくなるので、「鳴かんず」、さらに「ん」が脱落して「鳴かず」と変化したのだろう。こうなると、「鳴かず」は「鳴くだろう」という解釈になり、「鳴くべ」と同じになる。
     これを了解して初めて、同じ日本語でも、碓氷峠を境として「鳴くべ」と表現されたり、「鳴かず」と表現されるように、地理的な要因で方言の勢力圏が分かれるということを意味する俳句として「ほととぎす鳴くべ鳴かずの峠かな」を味わうことができるようになる。 
    そして、俳句や短歌を人間と自然を渾然と表現した文芸とするならば、人の営みである言語と自然の険しい峠とを対比させて、人の存在と自然の関係を改めてとらえなおさせる作品として評価できるようになる。
     広辞苑第四版のように、説明の末尾へ唐突に「鳴くべ鳴かずの峠」とくっつけられても、手も足も出ないか、無視されてしまうかのどちらかだろう。学生は暇なようで暇ではないのだ。もっとも、それは分母が二十四時間ではないからだが。
     ただし、「鳴くべ」と「鳴かず」が本当に同じ意味なのかというと、確かに意味的には同じだと言えるけれども、全く同じでもないように思う。
     それは語気の強さの違いだ。「鳴くべ」の語気の強さは普通である方がことばに合っているように感じる。しかし、「鳴かず」の語気の強さは少し強いほうがことばに合っているように感じる。つい、「鳴く」に対しての「鳴かむ」と「鳴かず」とを比べてしまうから、それよりワンランク語気も強いのではと思ってしまうのだが、おかしいだろうか。これは長野県の人に実際に問い合わせる必要がある。
     もし、「鳴かず」ということばが通常より強い語気が合うのならば、並べる相手は「鳴くべ」ではなく、「鳴くべい」と強い言い方にした方がいいかもしれない。もっとも、この文句に「ことばの強さも峠を境に異なるのだよ」という意味合いが含まれているならば、もとの通り「鳴くべ」の方がよい。そもそも、「鳴くべい」では字余りになってしまう。この俳句の場合は字余りにしてもあまりメリットはなさそうだから、やはり「鳴くべ」で落ち着かせるのがよさそうだ。
     では、広辞苑第四版の説明の余白十数文字を有効利用してどのような説明を加えれば利用者のためになるか。「方言圏の境界となるため、鳴くべ鳴かずの峠と称された。」では、まだ隔靴掻痒の感がある。広辞苑第六版ではどのように改善されているのだろうか。もし、そのままであるなら、広辞苑第七版ではぜひがんばってほしい。ただし、「鳴くべ鳴かずの峠」というのは含蓄のあることばだから、単純に削除することだけは避けてもらいたい。

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    10/18/2009

    怪しい広辞苑202「第四版224ページ・薄氷る」

     広辞苑第四版224ページ「薄氷る」の説明の中の漢字。
     説明は「薄く氷る。」とあり、用例が一つ載せられている。これを見出し語として載せるなら、他にも見出し語として載せるべきことばはたくさんありそうだ。
     しかし、問題は説明中の漢字だ。「薄く氷る。」の「氷る」は、残念ながら常用漢字表の音訓表にない。常用漢字は標準だから、絶対に常用漢字表どおりでなければならないという法はない。しかし、利用者の多くは学校で学習する者たちだ。その学校では常用漢字表にしたがって学習を進めることになっているはずだ。つまり、学校のテストでは「氷る」と書くと失点するということだ。
     疑問は、なぜ「凍る」としなかったのかということだ。見出し語の「薄氷る」に合わせたのかもしれないが、それは無用のことだ。利用者のことを考えて、説明においては常用漢字表に基づく表記にしなければ利用者が混乱することになる。
     「薄く凍る。」という説明にしておけば、用例で千載集の和歌が引用されているので、昔は「氷る」という書き方があったのだなと学習することになる。
     これに対して、世の中では「こおる」ということばを常用漢字で書こうとした場合であっても、誤って「氷る」と書いてしまうことが往々にしてある。しかし、広辞苑第四版で「氷る」という漢字の使い方をしているこの説明をみつけたとき、あるいは思い出したときに、やはり「氷る」と書くのが標準的なだと思ってしまうことになる。辞書は標準的なものを示しているという固定観念が利用者にはあるということを忘れてもらっては困る。
     常用漢字についての変更があれば別だが、まだ「凍る」についてはないように思う。学生が利用しても大丈夫なように、漢字の表記については充分に見直してほしい。もちろん、すべてを常用漢字表に基づいて表記してくれと言っているわけではない。そんなことをしたら、これまで培ってきた文字文化が壊れてしまう。説明においては常用漢字を使うという方針にしてほしいというだけだ。
     少なくとも、常用漢字表に「凍る」があって、「氷る」がないという現状では、「凍る」を使ってほしいのだ。「氷る」の方は、見出し語として、そして用例の中で使わなくてはならない。説明はあくまでも「その時の標準」でなされるべきだと思うがどうだろう。

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    10/17/2009

    怪しい広辞苑201「第四版195ページ・いわんかたなし」

     少し戻るが、広辞苑第四版195ページ「いわんかたなし」の説明の4行目5行目。用例として「竹取物語」から「いはんかたなくむくつけけなるもの」と引用しているが、これでよいのだろうか。
      広辞苑第四版は古文から引用をするときに濁音で読むところは濁点をつけて引用するようだから、ここの「むくつけけなるもの」の部分は濁音はないというということになる。しかし、「むくつけけなるもの」というのは現代日本語の感覚からすると少し不自然さを感じる。ここは「むくつけげなるもの」なのか、それとも「むくつけけなるもの」なのかという迷いが学習段階にある発展途上の利用者に生まれてしまう引用となってしまっている。
     では、「むくつけけなるもの」というのは、いったいどんなものなのだろう。「むくつけし」という形容詞があるので、「怖いもの」という意味を含むことばだろう。
     もし、これが形容詞「むくつけし」ならば、「むくつけきもの」となるはずだ。ここに「け」なり「げ」なりが入ると、「○○という気がする」とか「○○という感じがする」という意味合いが加わって少し婉曲的な表現になる。「け」あるいは「げ」が「気」という意味合いをもっているという判断だ。
     つまり、「むくつけきもの」とすれば、はっきりとその本質を見抜いたような、あるいは全体像を詳しく見たような言い方になる。しかし、この言い方だと、翁やかぐやから「どのようなものだったか」と具体的な様子を追究され、うその話にぼろが出るおそれがある。 海のものだから、見えたのは「むくつけき」ものの一部分であるという言い方の方が現実感がある。だとすれば、「むくつけけ」とか「むくつけげ」とかいうようなぼかした表現にして、追究されたときの言い訳の逃げ道を作っておくのが得策だ。そうした「くらもちの皇子」のずるさ、あるいは話のうまさだと考えた方が筋の通りがよいように思う。
     例えば、「悲しい表情」に対して「悲しげな表情」、「恐ろしい表情」に対して「恐ろしげな表情」というものがある。「け」なり「げ」なりは、「悲しい雰囲気」「恐ろしい雰囲気」の「気」というわけだ。この「悲しげな」の「な」は古語にすると、「悲しげなる」の「なる」にあたることばになりそうだ。これは「むくつけけなるもの」の「なる」と考えてよいのではないかと思う。
     しかし、やはり「け」なのか「げ」なのかがよくわからない。原典をあたろうと思っても、「竹取物語」の原典など残っているとは思われない。現存する写本の中で最も古いものが十六世紀のものだというから、竹取物語が成立したのではないかと言われている時代から約六百年くらいたったものだ。六百年という年月は、一つの物語が語り継がれたり、書き継がれたりする年月としては気の遠くなるほど長い年月だと思う。そこからまた数百年たって現在に至るわけだからなんともたいへんなものだ。
     そこで、京都大学附属図書館所蔵の谷村文庫「竹取翁物語」を見てみる。例によって変体仮名なので読みづらいことこのうえないが、広辞苑第四版が掲げている引用文にあたるところは「いはんかたなきむくつけなるもの」となっている。広辞苑第四版のように「むくつけけなるもの」ではなく、「むくつけなるもの」という書きぶりのテキストだ。
     「むくつけなるもの」の「け」は「介」の変体仮名だ。ところが、同じテキストの「いみしくなげかしげに」というところでは、前の「げ」は「希」の変体仮名に濁点が打たれ、後の「げ」は「介」の変体仮名に濁点が打たれている。ここから単純に考えると、濁点が打たれていない「むくつけなる」の「け」は、やはり「げ」ではなく「け」と読むべきだと推測できる。
     ただし、ここの「いみしく」は「いみじく」のはずだ。この「し」が清音として書かれているということは、何を意味しているのだろうか。このテキストを書いた人物の表記方法が曖昧で気まぐれだったか、「いみじく」のように多用される語については当然のこととして濁点を敢えて打たなかったかのどちらかだと思うが、本当のところはどうだろう。もし、後者であるとすれば、敢えて「なげかしげ」の部分で「け」に濁点を打ったのか、その理由を説明しなくてはならない。
     書いた人の時代では「むくつげなるもの」と読んではいたものの、書くときには「いみじく」を「いみしく」としたように、特別な場合には濁点を読みやすくするために敢えて打つが、多用される語については「むくつけなるもの」というように、濁点を省く書きぶりが普通だったというのが実際のところなのかもしれない。そうだとすれば、「むくつげなるもの」という読み方になり、何となく言いやすく、そうした言い方の方が自然な言い方として見ていってよいように思われてくる。
     また、諏訪市博物館所蔵の高島藩主諏訪家伝来「竹取物語絵巻」を見てみる。これは美しい変体仮名で書かれているので比較的読みやすい。広辞苑第四版が掲げている引用文にあたるところは「いはんかたなくむくつけけなるもの」となっている。広辞苑第四版のように「むくつけけなるもの」と同じで「むくつけけなるもの」だ。書きぶりが広辞苑第四版と同じなので、もしかすると広辞苑第四版はこれを出典としているのかもしれない。
     しかし、このテキストには濁点が一つも使用されていない。もし、広辞苑第四版がこれを出典としているのならば、他の見出し語での引用文では、例えば「かくや」ではなく「かぐや」としていることから考えて、この「むくつけけなるもの」はそのまま清音で読むという解釈を広辞苑第四版がしていることになる。
     「むくつけけなるもの」の前の「け」は「計」の変体仮名で、後の「け」は「遣」の変体仮名だ。「いみしくなけかしけに」というところでも、前の「け」は「計」の変体仮名で、後の「け」は「遣」の変体仮名だ。
     このテキストでは「け」が「けり」の場合は「介」の変体仮名、それ以外の「け」は「計」がほとんどだ。「け」を「遣」の変体仮名で書くことはほとんどなく、主に「○○げ」というべきところで「遣」の変体仮名を使っているように見える。
     このことから、「いみしくなけかしけに」の後の「け」は、「○○げ」という「そういう様子」という意味合いの表現のときに使う「け」だとみた場合、これは清音で書かれていても「げ」と読むべきところだろうということが想像される。
     同様に、「むくつけけなるもの」の後の「け」についても、「遣」を使っているので、これは「げ」と読むべきものだと想像できる。テキスト全部に目を通して統計を取ったわけではないので、想像しかできないというお粗末さだが、このようなわけで、広辞苑第四版の「むくつけけなるもの」という引用は「むくつけげなるもの」というように濁点を打つべきものではないだろうかという疑問はどうしてもぬぐいさることができない。
     もし、「げ」と読むものであるところを「け」と敢えて表記しているのならば、他のみだし語の引用文では濁点をつけて表記しているから、読みにしたがって表記するという統一性を持たせてほしい。もちろん、「竹取物語」が文字化される以前の時代では「むくつけけ」と濁らずに発音していたものを文字化したときに、その古い発音の仕方を尊重して発音どおりに書き記したということがあったのかもしれない。いろいろな事情があるのだろうが、僕にはよくわからない。
     しかし、この引用部分を見た利用者が「はてな」と思ってしまうことだけは確かだ。「いはんかたなし」の用例ならば、他にすっきりとしたものがたくさんある。それを敢えて「むくつけけ」ということばを紹介したわけでもないだろうに、「竹取物語」から引用しようというのは、それなりの編集方針があってのことなのだろうと思う。例えば、有名な物語であれば、現代語訳や出版物も多いので、それを資料として学習を展開していきやすいであろうという親心のようなものであろうか。
     それにしても、「怖い感じがするもの」とはいったい何だろう。もちろん、くらもちの皇子のうそ話なのだが、夜の海はそんな怖い感じがするもので満ちているような気がする。明確に説明しなくとも、誰でもその恐ろしさを想像することができて、つい信じてしまいそうになる実に巧みな話だ。

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    10/12/2009

    怪しい広辞苑200「第四版220ページ・牛飼座」

     広辞苑第四版220ページ「牛飼座」の説明。「北天の星座の一。大熊座(おおぐまざ)の南東に位置し、首星アルクトゥールスが目立つ。」とあるが、これでよいのだろうか。
     首星アルクトゥールスが星図の絵から外れたところに位置することについて説明はなくてよいのだろうか。
     首星が星図から外れているということは何を意味しているのだろうか。広辞苑第四版ではイラスト上に等級の大きい順を星の位置を示す丸の大きさによって示しているように見える。したがって、アルクトゥールスは比較的大きな丸で示されている。この大きな丸が絵から外れたところにあるのが不自然だというのだ。
     首星はアルファ星といった方が馴染みがあるので、文字数は多いけれども、以後アルファ星と表現したい。
     このアルファ星は文字どおりその星座の星々の中で明るさの順位が一番だ。その最も輝く星は絵の大事なところに位置しなくてはおかしい。周囲の星々よりも輝く星だからこそ、星座を構成するときに真っ先に目をつけられたはずだ。それが絵から外れているのだ。星図の絵をイラストとして載せる以上、その問題に触れなくてよいのだろうか。アルファ星が星図の絵から外れるということには並々ならぬ理由があるに違いないと並の感覚の持ち主なら思うはずだ。それを放置することは説明の責任を果たしていないことになる。それは自分でこの広辞苑を使って調べろということなのだろうか。
     ならば、調べてみよう。広辞苑第四版で「アルクトゥールス」を調べてみる。その説明の中に「橙色で光度マイナス0.一等。距離三六光年。固有運動が大きい。」とある。この三六光年という距離は、どのように感じたらよい距離なのだろうか。固有運動が大きいとはどれほどなのだろうか。
     天球というものを想定したとき、その天球上を動く量が大きいということだろうか。それとも、その星自体の動く量が大きいということなのだろうか。ここで問題にしているのは、星図の絵からアルクトゥールスが外れているということだから、その固有運動の大きさが天球上の位置の変化として大きくあらわれ、星図の絵から外れたのではないかということを疑ってみたい。
     そもそも星図が成立したのはいつのことだろうか。それが何千年も前のことならば、「固有運動」が大きいアルクトゥールスのことだから、星図の絵からはみ出すのも考えられなくもない。牛飼座のイラストを見る限り、正直に星々をつなげると随分と短足の牛飼いの姿になってしまうのだ。
     こうなると、これまで描かれてきた星図を比較する必要があるだろう。数千年前、二千年前、千年前、数百年前と残されている星図があれば、見比べるのだ。その中で牛飼の絵がどのように変化したか、そして変化しなかったかを確認しなければならない。もちろん、アルクトゥールスの扱いを中心にして確認しなくてはならない。
     つまり、牛飼いの足が曲がっていたものが次第に伸びてきたり、反対に、伸びていた足が曲がってきたりしていないかを確認する。これは絵の変化だ。
     その反対に、絵の中のアルクトゥールスの位置を移動させた形跡はないかを確認する。これは絵は変わらずに、体のどこを示すものかということを変えるという位置づけの変化だ。
     最後に、そのどれも意識はしないという立場を取り始めたものはないかということの確認だ。つまり、絵は既に歴史の中で確立されてしまって変更することの方が不自然な状況になっている時代以降のアルクトゥールスの位置の変化があったのではないかということの確認だ。
     人間の感覚は少しずつ少しずつ変化するものをとらえきれない。長い年月の間には人間の作った星図などというものは固定されてしまう。惑星などは大きな位置変化を見せるので、逆に問題はない。その星図がどのような人々のものとして、そしてどのような用途をもたされていたかによっても、アルクトゥールスを星図の絵の中でどのように扱うかが変わっていたかもしれない。
     少なくとも、広辞苑第四版ではアルクトゥールスは星図の絵から外れたところに平気で描かれている。この絵から外れた位置というものがアルクトゥールスの固有運動の大きさによってもたらされたものであれば、いつか牛飼座のアルファ星ではなくなり、別の星座に移ってしまうことになるのだろう。素人考えだが、その三六光年という距離が比較的近いものであれば、その近い分だけ固有運動の大きさが星座の中で顕著になるはずだ。
     あまりにも大きな変化を見せたとき、例えば、牛飼の両足先を結んだ線よりも下にアルクトゥールスが移動してしまった場合には、未来人たちが星空の神話に新たなエピソードを加えることになるかもしれない。
     「牛飼がその運命に気づいて血の涙を流し、それがいつまでも大地で赤く輝いている」というような話がいつのまにか加わるというわけだ。このようにエピソードを付け加えていく方が、目に見える形としての星図の絵を変更するよりも抵抗がないはずだ。もっとも、数千年後、数万年後の話だ。
     数千年後、数万年後といえば、来年のことをいっても鬼が笑うということだから、恐らく笑い死ぬに違いない。しかし、数千年前の人々が思っていた数千年後が今あるように、今思っている数千年後の世界もきっとくると思いたいのだ。
     このような人間的にはスケールの大きな背景をこの牛飼座のイラストは背負っているように思われる。広辞苑第六版の説明が広辞苑第四版と同じようなものならば、ぜひ広辞苑第七版で、この星が絵から外れていることに関する記事を載せてほしい。それが嫌なら、アルクトゥールスが牛飼座のイラストから外れていないタイプのものを探して採用するとよい。
     説明を変えるなら、例えば、「アルクトゥールスは固有運動が大きく、数千年の間にこの星座から外れてきた。」とだけ書き加えればよい。もちろん、それが正しければだ。他の理由があれば、それを書くだけのことだ。とにかく専門家に相談することだ。紙面の都合があってもそれは理由にならない。利用者のことを考えた辞書にするという目的で編集するのが筋だからだ。どうしても行数を増やせないというなら、イラスト用の面積を縮小すればよい。電子辞書の広辞苑なら紙面は関係ないだろう。
     紙媒体の広辞苑は必要な説明に絞って薄くして扱いよくし、より詳しいことは電子辞書の広辞苑を利用してもらうというというアイデアはどうだろう。薄くした広辞苑の後ろに電子辞書の広辞苑が取り付けられているのだ。見出し語の次に番号が書いてあって、その番号を電子辞書に入力すると、関係する豊富な用例や別の解釈、イラストや静止画や動画などが情報として得られるというスタイルだ。まるで算盤の横に電卓が取り付けられた商品のようで変かもしれないが、面白そうだから僕なら買うな。

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    10/11/2009

    怪しい広辞苑199「第四版220ページ・牛川人骨」

     広辞苑第四版220ページ「牛川人骨」の説明。「愛知県豊橋市郊外牛川から一九五七年に発見された化石人骨。旧石器時代のものといわれる。」とあるが、これでよいのだろうか。
     今や再調査の結果、「牛川人骨」は化石人骨ではなく、ナウマンゾウとかシカなどの他の動物のものだということになっている。
     しかし、広辞苑第四版出版以前より「牛川人骨」については疑いがあったことも確かだ。発掘当時の権威が化石人骨だと認めたということだから、広辞苑第二版にそのように説明されていても仕方ない。しかし、当時から長い年月がたち、出土する資料は年々増え、測定方法も精度が上がってきているはずだ。すると、判断が覆されるということは決して不思議なことではない。あくまでも資料に基づく鑑定結果なのだから。
     したがって、広辞苑第四版の出版年以前から化石人骨だということが疑問視されていたことを無視する広辞苑の編集姿勢は間違っている。広辞苑第四版のように「愛知県豊橋市郊外牛川から一九五七年に発見された化石人骨。」と言い切ってしまうのではなく、「愛知県豊橋市郊外牛川から一九五七年に発見された。旧石器時代の化石人骨だといわれている。」というように表現しなければならなかったはずだ。
     広辞苑第四版は一九九一年に出版されたものだが、現在でも予算の少ない公共図書館や公立小中学校では利用されている。それは古くても信頼できる出版社だと思っているからだ。また、それが辞書だからということもある。そこに問題がある。
     歴史に関するものは説明の表現に注意しなくてはならない。評価が変わるごとに変更しなくてはならない。いつの時点ではどのように見られていたのかということがわかる資料としての辞書でなければならないのだ。そういう意味では、時代の変化が早いときには版の重ね方の頻度を上げることを考え、定期的な改訂だけに終始するという姿勢も見直すことが必要だろう。
     ところで、広辞苑第四版では「愛知県豊橋市郊外牛川」と説明しているが、これはどういうことだろう。「郊外」という説明は必要なのだろうか。
     これも時代とともに郊外ではなくなる可能性がある。郊外ということは街はずれということで、この「街はずれ」が「街」になる過程でさまざまな遺跡や化石が発掘されるのというのが発掘の常だ。つまり、「牛川人骨」が発掘されたということは、牛川が「郊外」ではなくなる可能性が高いと心配してしまうのだがどうだろう。そうしたところまで広辞苑編集担当者が確認する覚悟があれば、「郊外」ということばを使ってもよいのだが、そんな細かなところまでは手が回らないというのならば、最初から「郊外」ということばを使わないほうがよい。
     また、「牛川原人史跡」の所在地が「豊橋市牛川町」となっていることからも、広辞苑第四版の説明のしかたであると、「愛知県の豊橋市の郊外に流れている牛川という川で発見された」と読めてしまうことのまずさを感じる。「牛川」は川ではなく、「牛川町」のことだとわかるように明記すべきところだ。
     さらに、「発見」ということばが使ってあるが、「発掘」のほうがよい。「発掘」されたものが何であったのかが後々に「発見」されるということもあるから、区別した方がよい。発掘イコール発見という前提であると、調査や研究の意味がなくなってしまう。
     ここは一つ、「旧石器時代の化石人骨だといわれている。愛知県豊橋市牛川町から一九五七年に発掘された。」という説明にしたらどうだろう。
     広辞苑第四版の出版は再調査以前だからともかくとして、広辞苑第五版以降でどのような記述になっているかが問題だ。まさか、広辞苑第三版と広辞苑第四版の説明が全く同じであったように、「牛川人骨」についての説明において、改善すべく版を重ねた広辞苑第五版や広辞苑第六版に改善が見られないなどということはあり得ない。実際に見てみないので、まだわからないが。
     ……。恐るべきことに、電子辞書の広辞苑第五版の「牛川人骨」の説明は、広辞苑第三版、第四版と全く同じ説明だ。そして、例の「浜北人骨」の方は、どの版にもなぜか見出し語として載せられていない。これはどういう不公平であろうか。
     広辞苑第五版は一九九八年だから、二〇〇二年に「旧石器時代の化石人骨として浜北人骨が本州唯一のものとして確認されたこと」を受けての記載は無理だ。しかし、広辞苑第六版の方はどうだろう。見出し語として「浜北人骨」は載せられているのだろうか。もし、旧石器時代の化石人骨としていよいよ怪しさを増してきた「牛川人骨」がそのままの説明で載せられており、旧石器時代の化石人骨として確認された「浜北人骨」が見出し語として載せられていないとなれば、広辞苑第六版の辞書として価値が疑われることになる。さあ、広辞苑第六版を確認しなくてはならない。誠に厄介だ。

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    10/10/2009

    怪しい広辞苑198「第四版219ページ・鬱金(ウコン)」

     広辞苑第四版219ページ「鬱金」の説明はこれでよいだろうか。
     季節については「夏・秋の候、歌穂を生じ、卵形白色の苞を多くつけ、一苞内に三~四個ずつの淡黄色唇形花を開く。」という記述がある。これを読めば、「ああ、夏ウコン、秋ウコンのことだな。」と利用者は思っても不思議ではない。
     しかし、実際には「鬱金」といえば「秋ウコン」のことで、「夏ウコン」は別の植物だ。しかも、ウコンつながりの「春ウコン」に関する記述はない。
     ここはひとつ「春ウコン・夏ウコンとは別の種」という説明を付記した方がよいと思うがどうだろう。これは僕の勘違いだろうか。
     因みに広辞苑第四版六六二ページ「薑黄(きょうおう)」の説明には「ウコンの近縁種」とか「ハルウコン」という語句が使われている。「鬱金」を調べる人が必ずしも「薑黄」を調べるとは限らない。すると、「ウコン」に関する奇妙な勘違いが生じることになる。利用者を混乱に陥れてはいけない。「ウコン」についての勘違いの自覚をするチャンスなど、ほとんどないのではないだろうか。
     また、広辞苑第四版四七八ページ「莪(くさかんむり+述)(がじゅつ)」の説明には「夏、三〇センチメートルの花茎を伸ばし、ウコンに似た花をつける。」という文が使われている。「ナツウコン」という名称は使われていないが、この「ガジュツ」は「夏ウコン」だろう。
     「春ウコン」「夏ウコン」「秋ウコン」という名称が一般的に通っている以上、これらを混同させるような説明はなくさなければならない。特に「春ウコン」「夏ウコン」「秋ウコン」という見出し語をもたない広辞苑第四版にあっては、「鬱金」の説明においてこれらの混同を防ぐ説明がどうしても必要だ。「キョウオウ」とか「ガジュツ」の見出し語を持っていても、利用者の利用の傾向からすれば、まず「鬱金」を調べるに違いない。その説明中に例えば「→キョウオウ(春ウコン)、ガジュツ(夏ウコン)」としておけば混乱を未然に防ぐ対応をしたという実績になるはずだ。
     ところで、広辞苑第四版では、「薑黄(春ウコン)」は「薬用および黄色染料」、「莪(くさかんむり+述)(夏ウコン)」は「芳香性健胃薬」、「鬱金」は止血薬、香料、黄色染料」とそれぞれ使い道が書いてある。しかし、最も有名な薬効は「肝機能の向上」ではなかったか。これが説明されていないということは、広辞苑第四版は「肝機能向上」に関する「ウコン」の薬効を認めないという立場を取っているということなのだろうか。こういう状態だから、世間でいわれている「肝機能向上」の薬効は「何」ウコンのものなのかもわからない。
     また、ウコンの粉を摂取過ぎたために命を落とした女性のことが一、二年前の新聞に載っていたことを思い出す。利用の仕方によっては死に至るものなのだ。健康食品でありながらそうした危険性を持っているものについては明確に記しておくべきなのではないだろうか。こうした配慮の無さは、広辞苑第三版から載せられた「ヘパリン」の記述で「血を凝固させる」などいう「正反対の意味」を平気で載せるところにもあらわれている。命にかかわるものだという意識が欠如しているのだとしか思われない。
     「ヘパリン」の場合は出版直後に訂正を求めたが全く無視された。数年後の第四版の出版でそれは訂正されていたが、その間まったく放置されていた。手紙の返信すらない。
     国の宝の広辞苑を駄目にする編集方針や訂正姿勢をとやかくいっても始まらないので、この「怪しい広辞苑シリーズ」で奇妙なところに光を当てて少しでも広辞苑のためになるように尽くさなければならない。たとえ編集方針が改善されたとしても、利用者のためになるような辞書には当分なりそうにないのが悲しいが、おそらく広辞苑第六版でも大きなミスや不適切な説明がたくさんあるに違いない。他の類似辞書を参考にするということはないのだろうか。参考にしてそれ以上のものをつくらねば日本語と日本国民に貢献しているとは言えないということをかみしめてほしい。
     しっかりした辞書なしに国語を正しく使う力など僕たちにはないのだから。

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    9/25/2009

    怪しい広辞苑197「第四版213ページ・鵜川」

     広辞苑第四版213ページ「鵜川」の説明。「鵜を川に放して鮎(あゆ)をとらせること。鵜飼。また、その川。」とあるが、これでよいのだろうか。
     説明の中の「放して」ということばは、不適切だと感じる。どうしても「放」という語感を保ちたいなら、「放す」ではなく、「放つ」という言葉を使って、「放って」という表現にするのがよいかもしれない。
     しかし、「放」ということばは「鵜飼」には合わないことばだ。広辞苑第四版の説明どおりに「鵜川」=「鵜飼」であれば、鵜飼というものが鵜を細い綱で鵜匠がコントロールしているものである以上、「放」という漢字を使ってしまうと実情に合わなくなってしまう。「放」というのは、あくまでも管理されていない、つまりつながれていないという意味合いが濃いことばだからだ。
     もしかすると、広辞苑第四版が説明しようとしている「鵜川」というのは、鵜を綱でコントロールしないタイプの「鵜飼」なのだろうか。例えば、鵜匠の口笛一つで集まってくる鵜をつかって鮎を捕らせるのだ。これも確かに鵜匠のコントロール下にあるが、忍者を各地に放った戦国武将の雰囲気だ。だから、「放して」を「放って」とするだけでよいのかもしれない。もっとも、綱がないだけで、首には一定の大きさの輪がはめられるはずだ。それでなければ鮎が鵜に全部飲まれてしまう。
     しかし、「鵜川」も、通常紹介されている「鵜飼」のように細い綱で鵜をまとめてコントロールするタイプのものならば、例えば、「鵜を操って川で鮎(あゆ)をとらせること。鵜飼。また、その川。」という説明にするのがよいように思う。「放して」や「放って」では鵜が鮎を求めてどこかに行ってしまうだけだ。
     広辞苑が辞書でなければこのような指摘はあまり意味がないかもしれない。しかし、辞書である以上は、その辞書なりのこだわり方でよいので、ことばに対するこだわりを一般的な出版物よりも多くもっている方が好ましいことは確かだと思う。
     さて、広辞苑第六版ではどのように説明されているのだろうか。

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    9/24/2009

    怪しい広辞苑196「第四版212ページ・浮かぶ」

     怪しい広辞苑「第四版212ページ・浮かぶ」の三行目から四行目の古今和歌集の用例。「わたつみの沖つしほあひに-・ぶあわの消えぬものから」とあるが、どうしてこのような示し方をするのだろう。
     例によって中途半端な引用だ。用例として引用されているのは、古今和歌集の雑歌だが、短歌なのだからすべて引用すべきだと思う。どうして「寄る方もなし」という結句だけを省略するのだろうか。たった数文字を省略することにいったいどのような意味があるのだろうか。敢えて説明する必要もないが、短歌であれば一首丸ごと示すことにこそ意味がある。それよりも何よりも、寄る方もない泡というイメージにこそ「浮かぶ」という意味を克明に説明できる力があると思われないか。
     「浮かぶ」の説明の最終行は「(下一)」という括弧も含めて四字しかなく、二十文字以上が空白になっているほどの余裕がある。この最終行が数文字増えても何の心配も要らないはずだ。省略されてしまった「寄る方もなし」というところにいちばんの味わいがあると思うのは僕だけだろうか。わずかな活字を惜しまないでほしい。
     そもそも中途半端に省略するのなら、いったい何のために短歌を用例として引用したのだろうか。もう凝縮されて一つの形になったものを壊すことにどのような意味があるのだろうか。あるとすれば、編集方針の中に日本の国語に対するなんらかの意志を感じざるをえない。このように主張する人が出てくるとも限らないのだ。
     短歌を省略して示すことについては広辞苑第六版ではどのようになっているのだろう。変わりなければ広辞苑第七版では是非とも省略しない方向で編集することをお願いしたい。さもなくば、短歌以外での用例を示すようにしていただきたい。国民的辞書を標榜するのであれば、慕うべき祖先の心を凝縮した短歌をさらに削って形を壊すというような、過去と未来を断絶させるような姿勢をとるべきではないと思う。
     
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    怪しい広辞苑195「第四版212ページ・浮かす」

     広辞苑第四版212ページ「浮かす」の4行目。「これから踊り念仏を初めて、きやつを-・いてやらう」とあるが、これはどうなのだろう。
     この「浮かす」の用例の出典は狂言の「宗論」だ。「宗論」といえば、宗派間の論争だが、「宗論」をタイトル名にもつ狂言の内容は、宗論自体を茶化して意味のないことだ結論づけるものとなっている。
     そうした結論に至るまでに浄土宗の僧と法華宗の僧とが奇妙な論争をする。浄土宗の僧がいろいろとちょっかいをかけるところも面白いらしいが、残念なことに僕は「宗論」の舞台を見たことがない。
     各社で刊行されている狂言集を調べるまでもなく、「これから踊り念仏を初めて、きやつを-・いてやらう」の「初めて」という部分は、現代では通常ならば、常用漢字表に基づいて、「これから踊り念仏を始めて、きやつを-・いてやらう」とするか、「これから踊り念仏をはじめて、きやつを-・いてやらう」とするところだ。
     根本的には、原典がどうなっているかとか、刊行物がどうなっているとかが問題にしなくてはならない。原典が「初めて」ならそれはそれで何も問題はない。しかし、問題とすべきは、常用漢字表に基づいて表記することを学習してきた者に対する用例の示し方だ。
     常用漢字表では「初」の漢字に「ショ・はじめ・はじめて・はつ・うい・そめる」という読みを許している。しかし、「はじめる」という読みは許していない。許されている「はじめて」という語も「はじめる」という動詞に助詞の「て」がついて「はじめて」になったものではなく、「ここへははじめて来ました」というときの副詞の「はじめて」だ。
     したがって、広辞苑第四版のように「これから踊り念仏を初めて、きやつを-・いてやらう」という例を挙げてしまうと、通常の利用者はこの「初めて」を副詞として読み取ることになる。そして、そのために意味が通らなくなるという不都合が起こる可能性が生じることになる。
     こうした不都合を承知で挙げた用例なのか、それともこれしか「浮かす」の用例として適切なものが見出させなかったのかはわからないが、少しでも不都合があればそれを例として示すことを避けるべきだろう。特に辞書にあっては、問題のない用例を探して示すことが混乱を招かぬために必要な配慮とされていなければならないはずだ。
     これは辞書の編集作業におけるセンスと姿勢の問題だ。日常生活においても、仕事においても、「はじめて」ということばを漢字で書く場合には、「初」を使用するのがよいか、それとも「始」を使用するのがよいかと悩むことは意外と多い。書き分け辞典なども販売されているが、いざとなると頭をかしげることがあり、平仮名で書いてしまうということをしている人が多いのだ。
     考えにくいことだが、この点について問題提起をするという意味合いで、用例の中に敢えて「初める」という書き方を示したのかもしれない。この「初める」に助詞の「て」をつけた姿が、「これから踊り念仏を初めて、きやつを-・いてやらう」の「初めて」というわけだ。しかし、だとすれば、広辞苑第四版の見出し語としての「はじめて」の説明にそのことを解説すべきだろう。
     残念ながら広辞苑第四版の「はじめて」には、【初めて・始めて・甫めて】とあり、副詞であること、「新たに。最初に。」という意味があること、そして日葡辞書の「ハジメテオ(御)メニカカル」という用例だけしか載っていない。
     同じく「はじめ」には、【始め・初め】とあり、それぞれどのように使い分けるかは八つの用例については明示されていない。どちらでもよいという立場なのだろうか。しかし、「御用-」については、「御用始め」という決まった使われ方をするはずだから、棒線でどちらでもよいような印象を与える提示の仕方をするのではなく、そのように示さねばならないはずだ。
     このように棒線で示しておくというやり方は、示さなくても常識で使い分けられなくてはならないということなのだろうか。しかし、国語の常識を身につけるために学習者は一生懸命に広辞苑のページをめくるのだ。もし、そうした了見ならば、基本的な辞書としてのあり方を放棄していると見られても仕方ない。
     曖昧な使われ方のものはそのように最初から曖昧だと明記すればよいことだ。利用者にお任せします、考えてみてね、などという姿勢を利用者に感じさせるようでは、辞書など利用しなくなる。利用者というものは最初から混乱を抱えているがゆえに、辞書を紐解くのだから、余計な神経を使うようなことをしてはならないのが原則だ。辞書はすべからく明解であるべきだ。
     ただし、次の二例については、「はじめおわり」【始め終り】、「はじめね」【始値】のように、「初」ではないことが明示されている。こうした部分的な明確さが余計に残りのことばの不明確さを際だたせて利用者に強いストレスを与えることになることをどれだけ理解していてくれるのだろうか。
     さて、次の六つの言い古された語句について広辞苑第四版では「はじめ」がどう扱われているかを挙げてみよう。
    ①「-あらざるなし、克く終りある鮮し」の説明には、「はじめ」という表現がある。
    ②「-有るものは必ず終りあり」の説明には、「始め」という表現がある。
    ③「-から長老になれず」の説明には、「はじめ」にという表現自体がない。
    ④「-の煌き」の説明には、「初め」という表現がある。
    ⑤「-の囁、後のどよめき」の説明には、「初め」という表現がある。
    ⑥「-は処女の如く後は脱兎の如し」の説明には、「始め」という表現がある。
     これを見る限り、どう考えても、この棒線の部分は棒にしない方がよい。敢えて棒線にしたのはなぜだろう。棒線にするなら、どちらの漢字を使うのが標準的なのかを説明の中で示すべきだろう。利用者は本当はどう書かれているのかを知りたいということもあるが、取りあえずは、どう書くのが標準的なのかを知りたいものなのだ。
     国民的辞書を標榜するならば、国語に対する理想的な姿勢を利用者にはぐくんでもらうことを目的の一つとしてほしい。広辞苑第六版がどういう編集方針の変更のもとに編まれたものかわからないが、広辞苑第七版では、こうした面をもっと強く出してほしいものだ。そうすれば宣伝文句どおりの立派な辞書として成長していくはずだ。広辞苑が日本国民の宝の一つになるためにはそうしたステップを踏む必要があると思うのだ。
     
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    9/23/2009

    怪しい広辞苑194「第四版211ページ・ウォンバット」

     広辞苑第四版211ページ「ウォンバット」の説明に「体形はコアラに似る。」「夜行性で、草や根を食べる。」とあるが、これでよいのだろうか。
     まず、「体形はコアラに似る。」という説明が腑に落ちない。
     コアラが基本的には樹上で胴がほとんど垂直に近い姿勢をとっていることが多いのに対して、ウォンバットは他の哺乳類と同じく胴が水平に近い姿勢が基本だ。生態が大きく異なるから骨格も大きく異なるはずだ。骨格が異なれば、体形も異なるはずなのだが、広辞苑第四版では「体形はコアラに似る。」とある。ここが腑に落ちない。
     基本的な姿勢の場合、コアラの脊椎は腰の辺りで弧を描き、後肢は膝が曲がった形、体勢はしゃがんだ形になっている。樹上ではなく地面を歩くときも、後肢は他の哺乳類と比べて前肢よりも少し長いのか膝が中途半端に曲がっていて不自然だ。これに対してウォンバットは普通の犬のような姿勢で大地に四肢をつけているから脊椎は大地に平行に並び、四肢も犬のような形になっている。コアラとはずいぶんと体形が違うではないか。もっとも、ウォンバットの四肢は平均的な犬のようには長くなく、どちらかといえば平均的な四足動物よりもかなり短い。
     コアラは樹上生活者であるのに対して、ウォンバットは地面に穴を掘って巣を作る。穴を掘って巣を作る生き物にありがちな四肢の短さはウォンバットにも当てはまるということだろう。同時に、てのひらや指の頑丈さもウォンバットにはあるはずだ。
     逆に、コアラは体長に対する四肢長さがウォンバットと比べて長い。これは枝をつかむためには必要な長さの分だけ長くなったのだろうか。体形の違いを大きく分ける四肢の長さもずいぶんとウォンバットとは異なる。どうして広辞苑第四版は体形がコアラと似ていると説明するのだろうか。
     さらに、コアラの指は枝をつかみやすいように前肢の五本指は三本と二本に分かれて向かい合うような形になっている。これはカメレオンの指の関係と似ている。これは枝をつかみやすい形だ。写真で見るとカメレオンの指は三本の指が束になってくっついていて、残りの二本もまた束になってくっついているように見える。また、よく見ると、カメレオンの場合は、前肢と後肢の指の分かれ方が逆になっている。バランスよく力が散るように自然とそうなったのだろうか。
     コアラの指はカメレオンのようにくっついて束にはなっているわけではないけれど、二本と三本に分かれて向き合うようになっているところは似ている。六本指だったら三本ずつに分かれたかもしれないが、五本指なので、どちら側を三本にするか、どのように迷ってどのように判断したのだろうか。
     また、前肢とは異なり、体重を支えるのが専らな役目となったからだろうか、後肢の指は二本の指が合体して一本になり、爪だけが二本分になっているという一見して四本指になっている写真を見たことがある。このように、平均的な哺乳類と比べると奇妙な変形が見られる。これは平均的な哺乳類と比べるとコアラの生態が奇妙だからだろう。 
     これらに対して、ウォンバットの指は穴を効率よく掘り進めることができるように爪が鋭く手足の力も強いはずだ。枝を握って落ちないように握るのとはわけが違う。指も樹上生活者のように向かい合うようにする必要もない。穴を掘るのだから長い四肢は非常に邪魔だ。どうしても短くなくてはならない。
     また、これまで自分が見てきたテレビや映画による映像に限って言えば、コアラは異様に緩慢な動きでナマケモノに近い印象で、ウォンバットの方は突進するイノシシに近い印象しかない。どうして体形が似てくるものかと思ってしまう。
     しかし、よく見てみると彼らの目は確かに似ている。鼻についていえば、少しだけ似ているというという感じがする。尾が短いのも似ている。広辞苑第四版の「コアラ」の説明では、「尾はない」とあるとあるから、「ウォンバット」の説明では「尾はほとんどない」としている以上、これも同じではないが似ているということを言いたいのだろう。
     ただし、「コアラ」の骨格標本を見る限り、「尾はない」のではなく、「尾はほとんどない」と説明しなければならないことがわかってくる。もっとも、骨としては少し尾はあるけれど、外に飛び出した尾はないという意味なのかもしれない。
     これも、実際にコアラの尾を触って調べたのではないからわからないが、骨格標本を見る限り「尾はある」のだから、「コアラ」の説明では「尾はない」とするのは好ましくないように思う。別の言い方で説明しないと、骨を無視することになってしまう。例えば、「尾はあるが、短いために体外に目だった形として現れていない。」などというようにだ。
     耳に至っては「コアラ」と「ウォンバット」とではまったく大きさが異なる。コアラの耳には長い毛がたくさん生えているからより大きくは見えるが、それを差し引いても、ウォンバットの耳よりもかなり大きく見える。これも実際に触って見たわけではないが、写真や映像で見る限りはかなり大きさが異なる。これは僕の目の錯覚なのだろうか。
     このように、ごく一部に似たところはあっても、全体としての体形はほとんど異なるものとしか思われない。まさか、まるっとした感じ、かわいい印象だけで、体形が似ているとしたのではないだろうかと思ってしまうほどだ。
     しかし、そうした印象も毛並が異なるので、実際にはかなり違うのではないかと思う。「コアラ」の方はほとんど動きがほとんどないせいか、体毛に流れがほとんどない状態で生えている。これに対して「ウォンバット」の方は高速で疾走することもあるせいか、一般的な哺乳類のように体毛の流れが空気の流れに逆らわない状態で生えている。毛並は体形の要素に含まれていないのかもしれないが、見た目の印象はかなり違ってくることだけは確かだ。
     今回は、広辞苑第四版の誤植なのだろうか。例えば、「目鼻の形や尾の目立たなさだけがコアラに似る。」を「体形はコアラに似る。」としてしまったというように。しかし、ここまでくると誤植というよりも、「目鼻の形や尾の目立たなさ」という長々とした説明を、大雑把に「体形」という言葉にまとめてしまったという人為的な過失を疑わねばならなくなってくる。しかし、そんなことはあり得ないから、どう解釈してよいものか迷うところだ。 
     もしかすると、ウォンバットの仲間にコアラの体形に近いものがいて、コアラの仲間にウォンバットの体形に近いものがいるのかもしれない。すると、それらを比較した場合には「体形はコアラに似ている」という説明で十分であるのかもしれない。だが、残念なことに、広辞苑第四版の「コアラ」にはイラストが載せられているのだが、広辞苑第四版の「ウォンバット」にはイラストが載せられていない。コアラ似のウォンバットの姿は広辞苑第四版においては拝めないのだ。
     この「コアラ」のイラストは僕がよく見る「コアラ」の映像と酷似している。ということは、広辞苑第四版が「ウォンバット」だと認識している「ウォンバット」は、実は「コアラ」によく似ているタイプの「ウォンバット」なのかもしれない。そのような「ウォンバット」の生態がどのようなものであるかは少しも見当がつかないが、体形が似ているのだから、恐らく「コアラ」の生態に似ているのだろうと思う。「コアラ」のように穴を掘らなければ、その四肢もやや長くはなるだろうから、「ホラズウォンバット」なるものがあれば、やや「コアラ似」なのかもしれない。しかし、僕としては、広辞苑第四版の「コアラ」のイラストに近い「大きく見える耳」、四肢の比較的長い「ウォンバット」は、具体的には想像しにくい。
     しかし、地球の自然界は狭いようで広い。いろいろな体形の動物がいる。広辞苑第六版に「ウォンバット」のイラストが載せられていなければ、広辞苑第七版では載せてほしい。「ホラズウォンバット」というものがいるなら、そのイラストを載せてほしい。そうすれば、「体形はコアラ似似る。」という説明が生きてくるだろう。
     逆に、体形が「コアラ」に似ていないタイプの一般的な「ウォンバット」のイラストを載せたいのなら、「体形はコアラに似る」という説明は削除しなくてはならないだろう。
     さて、「夜行性で、草や根を食べる。」という説明があるが、これは単純に表現上の問題だ。通常なら、「夜行性で、草の葉やその根を食べる。」とするか、「夜行性で、草の葉や根を食べる。」と表現するところだ。「夜行性で、草や根を食べる。」という言い方でもよいかもしれないが、意味として「草」の中には「根」が含まれていないという認識なのだろう。つまり、広辞苑第四版では「草」イコール「葉」という認識をしている可能性が高いということだ。
     しかし、広辞苑第四版の「草」ではそのような説明はなされておらず、「木質が余り発達しないで軟らかい茎を有する植物。」とある。つまり、草というのは「葉、茎、根などをひとまとめにした植物」ということだ。草を食べるということは葉も茎も根も食べるということだ。
     ただ、「魚を食べる。」といったとき、「では、魚に含まれる骨も食べるのか。」ということになる。通常魚を食べるというときは、魚の肉を食べるということであって、魚の骨を食べるということではない。したがって、「草や根を食べる。」という表現は一応は成立する。しかし、「魚や骨を食べる。」という言い方が不自然な表現であるのと同様に、「草や根を食べる。」という表現は不自然なのだ。そこで、「魚やその骨を食べる。」という自然な表現が望まれる。つまり、広辞苑第四版のように「草や根を食べる。」という言い方は「草やその根を食べる。」という言い方にして自然な表現にしなければ、国語の規範となるような辞書としては認めがたいという話になってくる。
     また、広辞苑第四版のような言い方にすると、「葉と根は食べるが、茎は残すのだろう。」という理解の仕方をする人が出てくる可能性がある。意味を特定していくための辞書なのだから、その説明に用いる表現は厳正でなければならない。いろいろな理解がうまれるのを防ぐために的確な説明を考えなければ、広辞苑利用者にいい加減な言語感覚が身についていってしまうおそれがある。これはきわめて恐ろしいことだと考えてよい。
     さて、広辞苑第六版ではどのようになっているのだろうか。

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    9/13/2009

    怪しい広辞苑193「第四版209ページ・ウェディングリング」

     広辞苑第四版209ページ「ウェディングリング」の説明はこれでよいのだろうか。
     「ウェディングリング」の説明として「結婚記念の指輪」とあるが、そもそも「結婚記念の指輪」と「結婚指輪」の違いはどこにあるのだろう。
     「結婚指輪」はよく耳にすることばだが、「結婚記念の指輪」という言い方はあまり聞いたことがない。前者が指輪そのものを指すことばであるのに対して、後者が指輪の意味を説明するためのことばだからだろうとは思う。
     それでは「結婚指輪」とは何だろう。本来は、婚姻届を出したときに感じる「結婚という契約」を交わした証拠の品としての指輪だという解釈が一般的なものではないかと思う。このように西欧風に契約だという見方をすれば、伴侶に対して、両家の家族に対して、社会に対して、この婚姻関係に重い責任を感じて受けとめているという意思表示としての指輪であるべきだ。だから、通常この指輪は婚姻関係が続いている間は「日常的にはめ続けられるもの」という性格を持っているものだと解釈されることが多いのだろう。
     ここで気になるのは説明の中の「記念」ということばだ。記念品は普通は傷つかぬように大事に保管されるものだ。記念樹などは植物だから風雨にさらされても仕方ないが、傷つけたり切ったりはしないものだ。指輪として身につけ、常に「記念」していなくても、実生活で結婚生活が続いているのだから、記念としての指輪は美しく豪華なものにし、普段は大事に保管しておいて、結婚式の思い出として時折取り出しては眺めるものであってよいのではないだろうか。
     これに対して「結婚指輪」は、常に指にはめておき、既婚者であることを示したり、伴侶との関係を顧みたりして、社会的にまた個人的な責任を果たすための自覚を促す品として機能するものではないかと思う。日常生活で身につける指輪だから、傷ついたりすり減ったりする機会が多い。だから、シンプルで地味なデザインとなるのだろう。
     実用品と記念品という違いが指輪にあるとすれば、ウェディング、つまり結婚式という記念すべき式にまつわる指輪を「ウェディングリング」とし、マリッジ、つまり「結婚という実生活」を象徴する指輪を「マリッジリング」と呼び分けるようにすればどうだろうか。
     これらとは別に「エンゲージリング」と呼ばれる婚約指輪というものがある。これは「期間限定ではめられるもの」という性格を持っている。すると、おかしな使い分けかもしれないが、「期間限定ではめられるもの」「記念の品として保管されるもの」「日常生活にはめ続けられるもの」となり、これら結婚関連指輪によって二人の関係が指輪という目に見える形で示され、おそらくその関係が強化する方向ではたらくように機能するのだろうと思う。
     ところで、「ウェディングリング」と「マリッジリング」は同じ意味合いのものなのだろうか。だとすれば、広辞苑第四版の「ウェディングリング」の説明に「マリッジリング」ということばを入れるよい。
     では、「マリッジリング」という見出し語は広辞苑第四版にあるのだろうか。残念ながら期間限定の「エンゲージリング」は載せられているが、永遠(?)の「マリッジリング」は見あたらない。これはどうしたことだろうか。
     「ウェディングリング」という意味に「結婚記念の指輪」と「結婚指輪」の両方の意味があるか、最初からそのような意味の区別がないかどちらかだ。また、マリッジリングという見出し語がないことと、「ウェディグリング」の説明の中に「マリッジリング」ということばがないことは、広辞苑第四版の編集時に「マリッジリング」ということばが日本では一般的ではなかったのかもしれない。しかし、一般的ではない語句が非常に多く載せられている広辞苑であることから考えると、この理由は少し考えにくい。
     では、敢えて「マリッジリング」を見出し語から外したというのだろうか。しかし、その理由も見えてこない。冠婚葬祭のなかでも結婚という人生の中でも最も大きな要素にまつわる大事なものなのだから、それをおろそかにするということも考えにくいのだ。
     今回は広辞苑の説明が怪しいだけでなく、僕の指輪に対する感覚の方も怪しい。ここで、「ブライダルリングは?」と言われたら、もうお手上げだ。どれもこれも日本語でしかも意味がきちんとわかるように「○○のための○○指輪」といちいち説明をしてほしいところだ。
     さて、リングというものが一つの象徴であるとすれば、それは何だろう。ミニチュア化されてシンプルにされるという過程を経てシンボルとなるパターンであったとすれば、その原形は枷かもしれない。手枷足枷の枷だ。本来、それは身体活動の自由を奪うために罪人にはめるものだ。
     だからといって、結婚は自由を奪うものではない。確かに、これまでのような「奔放な自由さ」は奪われることがあるかもしれないが、創造的な無限に近い自由が手に入る。ただし、その自由を感じて生かすことのできる体力と知力と経験と人間関係と目指すものを持っていなければ、つまりそうした土台となるもの、人間としての資格のようなものがなければ、やはりただの束縛となり、手枷足枷としてしか感じられないだろう。幼子に戦車を与えても使いこなせないのと同じだ。大きく重いだけで何の役にも立たない。とにかく手や足が届かずに操作できないのだ。
     さて、その枷はつなぎ止められていない。鎖のついていない枷が何を意味するのか。それを了解して受けとめず、単なる指の装飾品だとか、記念品だとかいう表面的な受け取りをしている限りは覚悟ができない。覚悟のなきところ進歩はありえず、足がかりもないのに幸福感だけを求めて挫折するという失敗を繰り返せば、そのうち相手にその原因を探すようになり、社会文化によってせっかくお膳立てされた関係が破綻することもある。
     残念ながら、こうした破綻が社会に対する背信行為となるものだという「新しい」解釈をこれからしていかねばならない時代になってくるだろう。

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    9/12/2009

    怪しい広辞苑192「第四版211ページ・魚座」

     広辞苑第四版211ページ「魚座」のイラスト。このイラストでよいのだろうか。
     どうにも解せないイラストだ。二匹の魚が紐で結ばれているイラストの全体構造はこうなるのだろうが、二匹のうち一匹の尾びれがないのはどうしてだろうか。
     いろいろな魚座のイラストを見てみるのだが、どれにも両方の魚の尾びれは描かれている。今回、広辞苑第四版で、あえて片方の魚の尾びれを描かなかったのは、果たして星座にまつわる神話の内容に従ったものなのだろうか。
     ところが、魚座にまつわる神話はほとんどなく、尾びれについてのいわれも見あたらない。神々が川のほとりで宴を催していたときに怪物が現れて多くの神々がいろいろな姿に身を変えて逃げたとき、アフロディーテとその子エロスは魚に身を変えて逃げたというものだが、そのときに離れ離れにならないようにお互いを紐で結んだという神話が残っている。このときの姿が星座の形らしい。
     その話に従ってイラストを作るなら、結び目は本来魚の尾びれ付近に描かれるはずだと思うのだが、尾びれ付近には紐が巻かれているだけで、結び目はない。結び目はどこに描かれているかといえば、それぞれの魚の尾びれ付近から伸びた紐がその先で結ばれている形になっている。つまり、二本の紐が魚と魚の中央で結ばれていることになる。これも解せない。
     怪物出現に驚いて逃げるとき、ばらばらにならないようにお互いの体を紐で結んだのなら、通常は一本の紐の両端をお互いの体に巻きつけて結ぶのが自然だからだ。一本に紐で結べばワンステップですむ。まず自分に巻きつけて、それからお互いの紐をまた結ぶというのでは手間がかかってしまう。
     広辞苑第四版の魚座のイラストでは、それぞれの魚の尾びれ付近から紐が一本ずつ出て、その紐の端が結ばれているのだ。よく見ると、尾びれ付近には結び目は描かれていない。
     ここで考えられるのは、その紐自体が本当の一本の紐ではなく、魚に身を変えたときに尾びれ付近から伸ばしたお互いの肉体が紐となったものだというストーリーだ。つまり、怪物から身を隠して逃げるには魚になって水に入るのが最もよい方法だが、魚には握る手がないので、お互いに離れ離れにならないようにするには手を紐に変えたという解釈だ。これなら、それぞれの魚から紐が伸びて、その先で結ばれることを思わせるような紐の中央に結び目が来るようなイラストになったことには意味があることになる。
     また、そのように考えれば、尾びれ付近が紐で結ばれて結び目があるはずなのにそれが描かれていないということを理解することへの抵抗感が減る。つまり、手のない魚になってからでは、本物の紐を使って自分の尾びれ付近で結びつけることが不可能だと思われるからだ。言い換えれば、紐がお互いの肉体の変化ならば、手をつなぐように二本の紐の先同士を結ぶこともできるだろうというわけだ。
     解釈にやや無理はあるだろうが、そうした意味では、広辞苑第四版のイラストは尾びれ付近の結び目がないので、他の資料のイラストよりも多少は道理に合ったものとなっているようにも感じる。
     ところが、このように無理やりこのイラストの紐についての解釈をしても、このイラストの片方の魚の尾びれがないことの説明はどうしてもつかない。まだ、尾びれがないことに関する神話を僕が見つけてないだけなのかもしれないが、見つけたとすると、今度は他の資料のイラストが神話との矛盾を抱えることになってしまう。実に困ったことだ。
     もともと空の星を勝手につなげてつくった星座なのだから、その形など適当といえば適当なものだ。しかし、不自然なものについては説明が必要だろう。
     広辞苑第三版にはなかった星座のイラストだが、第四版で載せられるようになった。このこと自体はとてもよい。しかし、射手座の場合もそうだったが、イラストの解釈にまだ困難さを感じる。もちろん、これは広辞苑だけのせいではないだろう。イラストのもとになる資料があるはずだからだ。ただし、それを選択したということにおいては責任が発生する。説明責任もだ。
     つまり、少なくとも一般的な資料にあっては二匹の魚にそれぞれ描かれている尾びれをあえて描かないようにしたのならば、それなりの説明を入れるべきだということだ。例えば、「○○○ので、尾びれのない姿で描かれている。」というようにだ。イラストスペースが十分にとってあるのだから、そこを少し分けてもらって、一見おかしなイラストだと思われてしまうものに説明をつけて明確に知らせる方がよいと思うのだ。それが辞書の使命というものだろう。さて、広辞苑第六版はどのように描かれているのだろうか。

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    怪しい広辞苑191「第四版208ページ・ヴェスプッチ」

     広辞苑第四版208ページ「ヴェスプッチ」の説明。「南米沿岸を航海し、同大陸が新大陸だと唱えた。」とあるが、これは西暦何年のことなのだろう。
     航海をした年も示されていなければ、その大陸が新大陸だと唱えた年も示されていない。これは諸説あって説が定まらず、掲載できなかったということなのだろうか。
     新大陸発見という話題でかつて第一に名前が挙げられるのはコロンブスだった。因みに広辞苑第四版の「コロンブス」の説明の中には「98年に南アメリカ北部、1502年に中部アメリカに到達。」とある。「98年」というのは、1498年ということだろう。しかし、実際にはコロンブスはアジアに到達したと唱えていたようだ。「ヴェスプッチ」の説明には「新大陸だと唱えた」とあるが、「コロンブス」の説明には「アジアだと唱えた」という記述がない。これも不思議だ。
     結局、「ヴェスプッチ」の説明には「年」の記載がなく、「コロンブス」の説明には「主張」の記載がない。しかも、「ヴェスプッチ」の説明では「南米」だが、「コロンブス」の説明では「南アメリカ」「中部アメリカ」だ。
     辞書の利用者は、関連語句をいっしょに調べることが多い。特に比較されやすい事柄については、その記述を項目単位で比べやすくするのが道理というものだろう。説明の構成についてのこの不統一感をぬぐいされないというところが広辞苑の弱いところだと思う。つまり、調べがいが薄いのだ。  
     こうしたところを補正していかないと、さまざまなことを曖昧なままにする習慣、つまり思考停止の習慣を知らず知らずのうちに身につけることになりかねない。これを学習者の自覚の問題だと切り捨てるのは無責任な態度だろう。もし、そのように主張する場合には、学習者の自覚と問うことのできる年齢と思われる年齢を独自に示し、利用対象年齢とするのがよいだろう。
     確かに学習者の自覚が高ければ、この編集上の不統一をきっかけとして、知識欲をかき立てられ、新たに事実を追究する姿勢をもつようになるだろう。そういう意味ではこうした不統一の不親切自体に価値があるように思われる。  
     こうなると、広辞苑のこうした特徴を理解した上で購入できるようになっているかどうかが問題とされなければならない。先程の「利用対象年齢の明示」は最低限必要だろう。これを怠れば、万能最高の中型国語辞典といううたい文句だけで購入してしまう人々がでてくる。広辞苑が肌に合わないという人がいるのはこうした宣伝不足の被害者なのかもしれない。
     広辞苑第六版でそうした大改訂がなされている可能性は低い。広辞苑第七版に期待しよう。

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    9/4/2009

    怪しい広辞苑190「第四版208ページ・ウェストミンスター」

     広辞苑第四版208ページ「ウェストミンスター」の説明。「ロンドンのテムズ川左岸に位し、川岸からハイド-パークに至る地域」とあるが、どうにも時代がかっていて、平成時代には不似合いな表現ではないか。また、このような説明方法では不正確な説明になっているように思う。
     このような表現をしていると、古めかしさによって権威的なものが醸し出されてくるという効果はあるかもしれないが、そのような見てくれは平成の時代にあっては既に逆効果で、陳腐化してしまうように感じられるのは僕だけだろうか。
     どこが古めかしいかと言えば、「位し」という古語だ。「位し」を見た高校生や大学生はどう思うだろう。「くらいし」と正しく読むかもしれないが、もしかすると「いし」と読んでしまうかもしれない。あるいは「位置し」と勘違いしたまま読み飛ばしてしまうかもしれない。
     古語を用いたのはどういう理由からだろう。用例の出典として古典を選択して紹介することは、語義の歴史を感じさせたり、古い時代の使われ方を見て、本義を感じ取るという意味では広辞苑の編集方針として正しい選択だと思う。しかし、用例を示した部分ではなく、意味の説明部分にあたっては、出版する時代の標準的な表現方法や用語に従うのが道理ではないだろうか。
     説明方法についてもこれで妥当なものなのかどうかは疑問だ。そもそも「左岸」とはどちら側が左岸だということかを了解している人が広辞苑を必要としている人々のうちにはどれほどいるのだろうか。
     また、左岸といっても、それは川だから、川の長さだけ左岸がある。いくら蛇行していても川であるから「左岸」というのは「線」だ。この長い長い線に対して、ハイド-パークというのはいくら広いからといってもこの長い長い左岸の線を持つ川と比べれば「点」にすぎない。
     広辞苑第四版では、「ウェストミンスター」の場所を説明するときに、この「線」と「点」の二つによって地域を決定するという離れ業を行っているのだ。これが間違いその一。間違いその二は、川が蛇行しているということを無視した説明になっているということだ。
     我々日本人は、地理をあまり勉強しないですんできた若い世代の人々を除き、ウェストミンスターという地域がイギリスにあるということと、イギリスの南部方面を東に向かってテムズ川が流れているということぐらいは、中学校である程度真面目に社会を勉強した人ならば、おぼろげながらでもわかっていることだろう。ハイド-パークとアメリカのセントラル-パークとを混乱していたとしても、「ロンドンのハイド-パーク」と聞けばすぐに聞き覚えはあるというほどには受け入れやすいものだろうと思う。
     ところが、広辞苑第四版のように、川という「線」と公園という「点」を結んだ説明の仕方をしてもらっても、利用者としてはその説明によっては地域を特定することができないのだ。
     普通は、周知の地点である一つの「点」を基点としてどちら方向にどれだけ行ったところとか、そうした「点」と「点」を結ぶ一帯とか、あるいはそうした「点」と「点」とを結んだ「線」が互いに交わる点を中心とする一帯とかいうスタイルで説明しなくては、場所を説明したことにはならないはずだ。
     広辞苑第四版の説明は、川が蛇行していることを無視しているから、どうしても次のような疑問がわいてくる。
     ハイド-パークから南にかけてのテムズ川左岸の地域もウェストミンスターなのだろうか。また、ハイド-パークから南西にかけてのテムズ川左岸の地域もウェストミンスターなのだろうか。
     実際がどうあれ、このような疑問が出てくるようでは、既に辞書としては不始末をしたといってよいと思うのだが、どうだろう。
     こうなると、「位し」などという古語を使用することが、なおいっそう陳腐なことに思われてくる。歴史と実績のある広辞苑にあっては日本を代表する辞書であってほしいので、何とか表現を変えるわけにはいかないものか。広辞苑第六版ではどのような説明の仕方になっているのだろう。

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    9/3/2009

    怪しい広辞苑189「第四版204ページ・ヴァイシャ」

     広辞苑第四版204ページ「ヴァイシャ」の説明。「インドの四種姓(ヴァルナ)制で、第三身分」とあるが、これでよいだろうか。
     「ヴァルナ」は広辞苑第四版204ページに「インドの種姓制」とある。これが正しければ、「ヴァルナ」自体が「種姓制」なのだから、「ヴァイシャ」の説明において「インドの四種姓(ヴァルナ)制」というとき、その「(ヴァルナ)」の語の位置がおかしいように思うのだ。
     次の二つのうちどちらにしなければ、「ヴァルナ」を制度名として説明した広辞苑第四版自体の矛盾が生じることになると思うが、どうだろう。
    ①インドの「四種姓制」(ヴァルナ)で、第三身分
    ②「インドの四種姓制」(ヴァルナ)で、第三身分
     辞書は限られた字数で表現しなければならない宿命にある。これは紙面に限りがあるということだけではなく、利用者の国語力がまだ低い場合に多くの字数を費やすことによって、かえってわからない語句を多用することになるのを避けるという意味もある。詳細な説明であるにこしたことはないが、簡単明瞭な説明の方がダイナミックな理解力や幅の広い語彙力が育つようには思われないか。もちろん、簡単明瞭な説明と粗雑で曖昧な説明とは異なるものだ。
     いずれにせよ、少ない文字数になるので、修飾語がどの語を飾るのかということにおいて、できるだけ誤解が生じない語順を考えたり、「括弧」や「かぎ括弧」を有効に使って、修飾語がかかっていく語句が目で見てわかるようにすることが重要な工夫となるように思う。
     この努力を怠れば、利用者には誤解が生じたり、不明確でわかりにくいものを提示された不満感が残るようになる。ただし、電子辞書化されてしまえば、それほど神経質に字数を考えなくてもよいかもしれないから、内容に合った分量でそれぞれの見出し語の説明をすればよい。
     さて、第六版でどのようになっているのだろうか。何とかわかりやすい表現になっていてほしいものだ。

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    怪しい広辞苑188「第四版199ページ・印相(いんぞう)」

     広辞苑第四版199ページ「印相」の見出し語。これは「いんぞう」という見出し語だ。それはそれでよいのだが、同じ「印相」でも「いんそう」というものがあるのに、それが掲載されていないのはなぜだろうか。
     「印相(いんぞう)」と「印相(いんそう)」は全く異なるものだから、それを区別するためには両方を載せてはっきりと説明するのが辞書の役目ではないだろうか。
     掲載されている「印相(いんぞう)」は、一般人が日常生活で使うことばではない。それに対して、「印相(いんそう)」はそれほど頻繁ではないが新しく印鑑を作るときには必ずといってよいほど使われることばだ。
     では、よく使われることばだから掲載しないのだろうか。どうもそうではなさそうだ。「家相」は広辞苑第四版488ページに、「手相」は広辞苑第四版1762ページに、「人相」は広辞苑第四版1974ページに掲載されている。これはいったいどういうことなのだろうか。広辞苑第四版における、運勢や運命にかかわるとされているものに対する掲載不掲載の評価の基準はどこにあるのだろう。どれもよく使うではないか。
     また、次のことも解せない。これらの価値についても広辞苑第四版では次のような重みづけがなされているのだ。このように、一口に「○○相」といっても、広辞苑第四版では、ランキングの如きものがあるような書きぶりに見える。しかし、これらは何を根拠とした、誰によるランキングなのだろうか。非常に解せないことだ。
    ①「印相(いんそう)」は掲載されていない。
    ②「家相」は「俗信」と説明されている。
    ③「手相」は「(運勢が現れるという)」と説明されている。
    ④「人相」は「人の性格・性情・運命が現れていること」と説明されている。
     また、「手相」の説明には「運勢」という語が用いられ、「人相」の説明では「運命」という語が用いられている。確か、「手相」には運命線というものがある。「運勢」と「運命」は異なるものだが、ここではこの意味の違いをどのようにとらえて説明しているのだろうか。
     さらに、「手相」の方は「現れるという」という書きぶりだが、「人相」の方は「現れていること」という書きぶりになっている。このような書きぶりの違いの裏にはいったい何があるのだろう。
     ところで、「印相(いんそう)」は変わらぬもの、「家相」は比較的変わらないもの、「手相」は意外と変わるもの、「人相」は歳とともに変わるものという違いがあるのかもしれない。まさか、この変わりやすさの違いに目をつけて、運勢という変わりやすいものとの相性の度合いを判断したのだろうか。
     しかし、印鑑も使っているうちにすり減り、扱い方によっては欠ける。逆に人相など鬘や特殊メイクや整形手術でごまかしが利くものにさえなっている。
     「家相」も俗信とされているが、家という環境が住人に与える影響ははかりしれない。「家相」といっても家の間取りだけではないだろう。材質や色なども肉体の健康や精神状態にまで大きな影響を与えるから、大きな問題を含んでいるものだ。もっとも、「家相学」で材質や色などを扱っているかどうかは知らない。
     「家相」を俗信というならば、他のものも「俗信」といってもよいような面がたくさんあるが、それでも俗信という説明を他のものにはつけない理由は何だろうか。広辞苑第四版は、「手相」や「人相」と比べ、「家相」だけが俗信の要素が特に強いという判断を示したものなのだろうか。「印相」にいたっては俗信ですらないので不掲載ということなのだろうか。
     印鑑は重要な契約時に力を発揮する。その契約は人生を左右する。印鑑の印影によって、込めた心の印象はずいぶんと変わってしまう。長く記録として残るものだけに、また、言い訳をすることのできる生き物ではないだけに、そして、日本にあっては決しておろそかにしてはいけないものだと思う。
     もちろん、「印影の印象」と、「捺印する行為」や「契約内容」などの間にはそれぞれ関係などない。関係がないのだが、「印相(いんそう)」ということばがある以上は掲載すべきなのではないだろうか。見出し語にしてはまずい理由があれば別だ。また、見出し語にするほどではないというのなら、その判断の基準は何かということが知りたいのだ。「印相(いんぞう)」を掲載しているだけにだ。
     また、印相(いんぞう)よりも、印鑑の相、つまり「印相(いんそう)」の方が僕たちにとっては身近なものだという単純な理由からも、掲載を考えてほしいところだ。そうした身近なもの、文化の一つを掲載しないことによって得られるものはなんだろう。おそらく得られるものは、紙面のスペースぐらいのものだ。
     辞書は人々の意識から消えそうなものも掲載しておくというタイムカプセルのような機能もあるのではないかと思うのだ。消えそうだからこそ、死語となりそうだからこそ掲載する価値があるともいえる。古語辞典はそうした意味で作られているわけではないけれど、死語がたくさん載せられていて、そこで保存されている。古語辞典に掲載されているものはよいが、これから捨てられていく語は古語辞典にも載らないから、最後には本当にわからなくなってしまう。こうした事態は絶対避けたい。
     さて、広辞苑第六版ではどうなっているだろうか。

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    8/23/2009

    怪しい広辞苑187「第四版208ページ・ウェスト-ライン」

    <女性のからくり 画像クリックで説明画面へ>  
     広辞苑第四版208ページ「ウェスト-ライン」の②の説明はこれでよいだろうか。
     「洋服の胴まわり。胴の最もくびれた部分を一周する線。」とあるが、ウェストは立体的なものなので、胴を輪切りにしたときにできる「胴の最もくびれた部分を一周する線」、つまり人体を頭上から見たときの一周するラインだけでなく、人間の目線で見たときに最も気になる胴を縦割りにしたときにできるくびれのライン、つまり「胴を正面や側面などから見たときのくびれの線」という説明を加えた方がよいのではないかと思う。
     「きれいなウェスト-ラインですね。」などという決まり文句は、間違いなく後者の意味だ。一周する線などにきれいも何もないだろう。どこをとっても、また、だれのウェストでも似たような楕円形だろう。それに対して、「く」の字になったくびれの線は、くびれ方にいろいろあるから、その中にはきれいなウェスト-ラインと評価されるくびれの線を生み出すウェストの形状というものがあるはずだ。
     つまり、広辞苑第四版には、ボディー-ラインの一部分であるところのウェスト-ラインという見方が欠けていると思うのだ。
     ちなみに、広辞苑第四版には「ボディー-ライン」という見出し語はない。そして、「ヒップ-ライン」「バスト-ライン」もない。まさか人間の肉体をウェストに重きをおいて判断するという方針を暗に主張しているわけではないだろう。では、どのような意図的でウェスト-ラインだけを載せたのだろうか。
     女性にとっても男性にとっても肉体のいちばんの関心事の説明をおろそかにしていると思われてしまうような見出し語の選定は、特に編集の意図がなければバランスを考えて載せるようにした方がよいと思うがどうだろう。
     ところで、いつからテレビコマーシャルや通販カタログ、新聞広告で、それぞれのラインを綺麗にして見せるような商品が目立ってきたのだろうか。今やどれも目白押しだ。

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