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    11/23/2009

    恐怖シリーズ147「滅び」

      腹が減るから食い物をあさる。食い物をあさるのは時間の不経済だから、あさらなくてもよいように保存を試みる。食い物を保存しておくと味が落ちるから、味付けを試みる。味付けをすると食べ物の差別化が生じるから、交換をして好みを満足させることを試みる。好みが満足させられると偏食が起こるから、さらによりよい食べ方を試みたり、よりよい食べ物をさがしてあさったりする。
     寂しいから相手をさがす。相手をさがすのは時間の不経済だから、さがさなくてもよいようにコミュニケーションをとって関係を広げてつながりをつけておく。関係に進展がないまま時が経つと魅力が薄らいでくるから、適度にお金や物や言葉や真心を投げかける。投げかけるとさまざまな反応が返ってくるから、よりよき反応をした相手を選んで一歩踏み込んだ関係を築き上げる。その相手との人間関係にのめり込むと世界が狭くなるから、さらによりよい付き合い方を工夫したり、よりよい相手を探したりする。
     不都合があるから都合のよい理解の仕方を考える。その都度一つ一つ考えるのは時間の不経済だから、そうしなくてもよいように情報を記録として積み重ねておき、適当なときに検索できるようにしておく。情報を放置したままにしておくと死蔵することになるから、適度に検索をかけて情報をスタンバイさせる。スタンバイさせている間にさまざまな趣旨に基づいて情報を組み合わせたり、交換したりしながら、よりよい扱い方をし、都合のよい理解の仕方を試みる。その理解の仕方で新しい発想を得られるようになるとほかのものが見えなくなったり、合わないものを無視したりする不都合が生まれるから、さらによりよい理解の仕方を考えたり、よりよい情報を求めたりする。
     こうしたワンパターンを愚直に守って歩んできた者にもいつか必ずスランプは訪れる。しかし、どのようなスランプであっても、最後には世代交代という自然の摂理によって強制的に解消されていく。しかし、個人においては解消される問題であっても、ヒトの社会においてはそうはならない。ことばを得て記録手段をもったヒトの社会は長い年月生きている生命体に似ているからだ。
     ヒトの歩みを眺めてみると、青年期をこえて既に壮年期に入っている感がある。血の気の多い時代から、問題を抱えながらもやや大人になってきたヒトの姿が浮かび上がってくる。しかし、いつまでも壮年期であり続けることはできない。段階をふんで新しいステージに立たされることは間違いない。己の中で滅んでいくものに向き合っていく時期だ。もちろん、その先には種の滅びという虚無の壁がある。いつかはヒトもこの世の中で用済みになるときがくる。もちろん、人の一定数以上がこの星から出てしまえば、それは新しい世の中の出現を意味する。この星から出たヒトの場合は用済みどころかその逆になる。
     一方、この地球にへばりついて生きていくしかないヒトの場合はどのようなことがいえるだろうか。用済みになって滅んでしまう前に、新型爆弾で自らを滅ぼすことが可能だ。そうした自殺手段を持っているということは、ヒトが己の運命を自ら決定することができる自立した生命体として成長したという見方もできないわけではない。
     しかし、自滅する以外にヒトとして何をなせばよいのだろう。人としてなすことはたくさんある。ありすぎて寿命が足りないほどだ。しかし、ヒトとしては何をなせばよいのだろう。最初に述べた地道な繰り返し、繰り返すことに意味のある、自己目的化した生命活動しかないのだろうか。
     結局のところ、他の動物同様、ヒトは壁に突きあたったときに自己崩壊するしか脳のない生き物なのだろうか。もしかすると現代人の総体が紆余曲折の千鳥足であるのは、突きあたって自己崩壊することを回避するための最後の手段、牛歩戦術を本能的にとっているということなのだろうか。
     絶滅種がどのように滅んだか、絶滅危惧種がどのように滅びから逃れようと抵抗しているのか。ヒトには当てはまらないかもしれないが、参考にはなる。仮にヒトが滅んだとしても、また、ついでに地球上の全生物が滅んだとしても、それがヒトの本来の役割なのかもしれない。やはり僕たちヒト自身が、この星の生命活動に滅びもたらす仕組みの一つなのだろうか。確かに準備は整っている。究極の繁栄が達成されたとき、そのスイッチが入るというわけだ。
     しかし、それは新たな出発を意味するだけのことなのかもしれない。たとえ新たな出発が起こらなかったとしても、それは元に戻ったというだけの話で、この星から生命活動が一切なくなったとしても、よく考えてみればどうということはない。
     このように、最近は滅びというものを心の奥底で受け入れてしまっているような気がする。これはとても恐ろしいことだ。もしかしたら年をとってきたことと関係があるのかもしれない。

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    11/21/2009

    恐怖シリーズ146「骨密度」

     骨密度測定装置が来たので測ってみた。数値が悪い。今日から牛乳を飲もう。小魚もしっかり食べよう。瞬時に決意して実行しはじめたということは、数字にはそれだけの力があるということだ。 
     数字というものは恐ろしいもので、言葉よりも力をもっている。しかし、数字だけでははたらかない。言葉の効果をより強力にするという意味で力をもっていると考えた方がよい。
     言葉には言葉自体の魔力と活字の魔力があるが、数字には加えて明確さというものがある。この明確さによる説得力と取り扱いのよさが武器だ。
     しかし、その数字が算出されるに至った過程と計算の過程を、数字そのものが覆い隠してしまうことがある。数字がいつの間にか言葉を駆逐してしまうのだ。これによって数字の不当な魔力が成立する環境が整う。危うき数字の一人歩き、不可解な取り扱い、そうしたことが容易に行われてしまうのだ。
     言葉と数字のバランスを崩さぬようにしないと、どうしようもなく気持ちの悪い世界が出現することになりそうだ。既に僕は骨密度の測定値にずいぶんと踊らされている。いろいろな数値の組み合わせで人をどうにでもコントロールできそうな感じもする。もっとも、数字自体が別段悪いわけではない。濡れ衣だけは着せないようにしよう。
     特に基準となる数値は怪しい。それが基準であるという証拠が乏しかったり、逆にもっともらしかったりすると、もう危険だ。ほんの少し基準値を変えるだけで世の中のお金の流れが大きく変わってしまうからだ。この基準値という数字の裏にあるものを見抜く目が育ってしまうのは、基準値を定める側としては非常に困ることになる。これが育たないようにするもっともらしい理屈や仕組みを探していくと、いろいろと面白いものが出てくるに違いない。
     例えば、有識者会議というものにつきあたったら、いの一番に注目し、その会議がお飾りになっていないか、構成員に偏りはないか、誰が選出し、誰が辞退したかを調べるべきだろう。しかし、その時間と労力は誰も与えてくれないのだ。暗闇の中を他人の目で誘導されていることに恐怖を感じなくてもすむのは、恐らく僕たちのほとんどが同じ境遇に置かれているせいだろう。目の前にマンホールが口を開けていても、見えていても認識できない状態であることは間違いないと思うのだ。これほど恐ろしいことがあろうか。

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    8/9/2009

    恐怖シリーズ145「与作の記憶」

     「与作は木を切る。ヘイヘイホー、ヘイヘイホー。こだまは返るよ。ヘイヘイホー、ヘイヘイホー。女房は機を織る。トントントン、トントントン。気だてのいいこだよ……。
     「トントントン」?機織りのリズムはこうなのか。僕が記憶している機織りの音は「トントン、トントン」というリズムだ。もちろん、記憶だから間違っているかもしれない。しかも、実際の機織り作業の音ではなく、テレビ番組の中で紹介されたものだから、実はたいへん心許ない記憶だ。  
     「トントン」と「トントン」の間には、「カラリ」「カタリ」とか聞こえる縦糸の交差を切り替えるときに出る音だろうか、あるいは紡錘が移動する音なのだろうか、そうした音が入る。だから、実際には「トントン、カラリ、トントン、カラリ……」となるものだろう。ずいぶん前に見たテレビ番組では、手織りでも大きな機織機の場合には、「カラリ」という軽い音よりも、「バタリ」とか「バッタン」というような大きな操作音が入っていたように思う。
     しかし、もう一つの記憶に「トントン、カラリ、トン、カラリ」というリズムも言葉のリズムとして残っている。恐らく絵本か何かに文字として書かれていたものの記憶だろうと思う。情けないが、記憶が古すぎて文字なのか音なのか区別がつかなくなっている。
     この「トントン、カラリ、トン、カラリ」から、「カラリ」とか「バッタン」を取り除くと、通った横糸を締めるための「トントン、トン」という言葉が残される。これが「与作」の歌詞に出てくる「トントン、トン」なのかもしれない。童謡ふうの「カラリ」やおよそ歌詞にふさわしい響きをもたない「バッタン」などは、演歌ふうの歌詞には不似合いなため、排除される運命にあったのかもしれない。
     もっとも、記憶というものは恐ろしいもので、「トントン、カラリ、トン、カラリ」というリズムも、本を正せば何のことはない、「ドンドン、ヒャララ、ドン、ヒャララ」という「村まつり」の歌の笛太鼓のリズムの印象に過ぎないのかもしれないのだ。不確かな記憶の中で二つのものが記憶をたどる過程で一つに融合してしまっただけという落ちだ。
     こうなると、同じ一つの頭の中にいろいろの記憶をしておくということが危険なことになる。憎い人と似た名前の人を根拠もないのにやはり憎んだり、好きだった人と似た名前の人を根拠もないのにやはり好きになったりする可能性があるということだ。曖昧な記憶が感覚を方向づけて、行動まで変えてしまうのだ。
     もちろん、危険なだけではなく新しいものを生み出す仕組みにもなっている。新製品の開発や新しい生き方の模索に至るまでの全てといってよい。話し合いの中で生み出されることが、一人の頭の中でひらめくのも、その記憶の整理の曖昧さのおかげだろう。こうなると、あまり厳格に分類して整理してしまうのは考えものだということになる。
     ただし、個人的なレベルではやはり記憶を整理しておくことは大事なことだろう。ぶれないポリシーもそこから生み出される。頑固な頭になるというおそれはあるけれど、それは探求心や討論によって克服できる。
     しかし、これが国家レベルとか人間レベルとかで頑固な頭になってしまうと、些細なつまずきがもとで大勢の人が長期間さまようことになるおそれがある。これはこれで相当に恐ろしいことだ。

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    8/7/2009

    恐怖シリーズ144「カメラワーク」

    <カメラにはケース。むき出しは禁物 画像クリックで説明画面へ> 
     何台も設置したカメラによるカメラワークの組み合わせで創り上げられるイメージは、本来存在しない実体を想起させる。それは幻想だが、実体として機能する。CGを使わないだけに、より現実味を帯びているからだ。しかし、同時にそれは人間の目による通常の見方、つまり人間としてのカメラワークの信憑性をも揺るがす事実ともなる。
     このことは全ての物事に対する見方にまでつながる重要なものだ。もっと言えば、やりようによっては人生観や生命観、もしかすると人間観まですっかりとひっくり返すことができる可能性をもちらつかせるものだ。
     しかし、僕たちができることといったら、通常の見方によるものを標準とみなし、その標準から導き出されたいくつもの解釈を常識的な判断として認めていくという程度のことだ。それを他人のものとすりあわせながら、できるだけぶれることの少ない感覚や判断、つまり日常的な定説として積み上げていくことこそに、生きる知恵を生むための基本的な作業としての価値を与えていかねば、到底やりきれないからだ。
     ところが、僕たちがいつまでもこれまでの僕たちであり続けるということはない。ある確率で全ての打算をうち捨てて、純な心で物事を見つめて行動を起こそうとすることがる。つまり伝統にも常識にもとらわれずに理想を求め、周囲との無用のすりあわせなどせず、志を同じくする者とともに、己を捨てて歴史の流れをつくることになるかもしれない。周囲の者は大迷惑だろうが、自分自身は大満足のうちに自分の命を燃やし尽くすというわけだ。
     こうなるためには自分自身にカメラを向け、自分の描いたカメラワークを施し、自分自身を周囲に発信しなくてはならない。理想の行動は最初から存在しないのに、カメラワークによって実体化する。声となり、力となり、変化をもたらす。この変化の中に真実を垣間見た者の中には心を打たれて同調する者も出てくるだろう。
     しかし、真実は無限に遠い世界にある。大方の場合、現実は事実であるという点でしか真実だと感じられない。それはある意味で不幸なことだが、では真実を明らかにしよう、だからこんな理想を掲げようと心がときめくのは幸福なことだ。これは思想を生みだし、世の中を改善する力となるからだ。
     これからは、自分の判断を誰の判断とすりあわせていくことによってどのような思想を編みだすかということがエキサイティングな作業として見なされるべきだろう。行き詰まった感じが漂っている世の中にはそうした動きが必要だからだ。
     切りひらいた世の中こそが真実だが、切りひらかれた途端にその真実味が薄らいでいくのは仕方がない。それは恐らくカメラワークをもたらした者が死ぬか、死ななくとも状況が変わったことによってカメラワークが意味をなさなくなるからだ。ひどい場合には滑稽な存在にすらなりかねない。
     必要なカメラワークを計画して実体づくりする。それは自作自演であるにもかかわらず、それは虚像ではなく、実体としての性質を持ちはじめる。これは、そうしたものを実体ということにして、そう名付けるからだ。この実体を作り続けるということが命だ。これを怠っては、人は人として生きていくのがむなしくなる。
     逆にその作業に精を出しすぎると、むやみに行動を起こそうということになる。独りよがりの行動主義だ。しかし、独りよがりである場合には得てして行動のタイミングが悪く、その行動が起こされたときには、土台である日常生活を壊してしまうおそれがある。
     この世の不幸は、そうしたタイミングの悪さと、自分の頭で判断せずして他人の行動の尻馬に乗る軽率さによって組み立てられているような気がしてならない。

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    8/4/2009

    恐怖シリーズ143「デザイン」

    <鉄扇で何を鍛える 画像クリックで説明画面へ>
     扇子と団扇。子供のころは扇子は大人のもので、団扇は大人子供を問わない一般的な道具だと思っていた。
     子供のころは扇子を上手に開くことができなかった。反対向きに力を入れてしまって妙な開きになってしまったり、あおいでいるうちに閉じてきてしまったりしたものだ。小型の屏風のようで、図柄も風流、薄く華奢に感じられた骨も子供心に侵しがたい存在のように思われた。今でももてあました経験が淡く消えずに残っている。
     一方、団扇の方は威勢よく七輪に風を送ったり、小さな夏虫を叩いたりと割にラフな使われ方をしていて、子供にも気楽に使えるものだというイメージを昔から抱いていた。図柄も扇子には日の丸や和歌、淡い色遣いの絵が多いのに対して、団扇には祭の文字がダイナミックに描かれている物もあり、同じ用途のものでありながら随分と性格の違うものだという印象を強く持っていたことを思い出す。
     扇子と団扇の大きな違いは折りたたみ式かそうでないかということもあるが、柄の有無も大きな違いだ。扇子には柄がなく、下半分の骨が露出している部分に手の平の一部、そして留め金具の周囲にできる立体的なN字型構造に指を絡めて持ち、優雅な動きで操作する。この複雑な動きは幼い子供には難しい。
     団扇には柄があるから、幼い子供でもそれをつかんで比較的単純な操作でぱたぱたと、あるいはばたばたとあおぐことができる。扇子と違って折りたたみ式ではないから造りも比較的丈夫だ。親も団扇なら壊されないだろうと思って使わせる。この柄の部分で背中をかくこともできた。子供なら背中の随分と下まで届く寸法だ。
     古くなって後に再生する場合にも、団扇なら水につけて紙をはがしたあと、新しい紙をはって絵でも描いておけばよい。これは子供でもできる作業だ。ところが、扇子となると一筋縄ではいかない。専門家でなければ不可能だろう。
     また、扇子は折りたたんで小さくして隠すことができるから、正式な場で使われる。場合に応じて取り出して涼むことができるからだ。団扇となると隠しようがないので、その場があおいで涼んでもよいという性格を持っているときに使用を許される。つまり、リラックスした場には団扇が用意されていることもあるが、謹むべき場となる可能性をもっている正式な場では自ら用意した扇子で臨機応変に使用不使用を決定することになる。これが扇子が大人用のものであるという印象をもたれている大きな理由かもしれない。子供にはそうした場のわきまえができないという前提だ。
     なにはともあれ、子供心に団扇は僕たちの物、扇子は大人の物という分類をしていたように思う。
     しかし、最近はこれらに加えてもう一つ別の理由があるのではないかと思っている。それは、扇子が右利き用にできているということだ。
     「左団扇」という言葉があるが、「左扇子」という言葉はない。これは左手で扇子を操作してみればよく分かる。扇子は右手であおぐようにできているのだ。これは指で持つ部分となる留め金具の周囲にできる逆N字型(留め金具のついている端の方から見て)の構造が左手で持ったときに上手く指を絡めることができないからだ。これが右手だと、人差し指の絡み具合、人差し指と親指の関係が具合がよく、誠にあおぎやすい。
     左手で持った場合、指と扇子のフィット感が得られず、どうしても手の平で扇子の下半分を持つような形となるので、扇子を操作するのにふさわしい優雅な動きができず、がさつな操作となったり、それを嫌って緩く持ったために扇子を取り落としたりするという失を犯しやすくなったりする。これに対して「左団扇」は「右団扇」と同じで造りが左右対称であるため、操作上何の問題も発生しない。
     子供は右利き左利きが決まらないような時期が三、四歳頃まで続くらしい。すると、扇子を手にした場合、左であおぐという機会は右利き社会の大人よりも多くなる。このとき、持つ場所の形状が手指に合わないことから、右であおぐ場合よりも扱いにくい印象を子供に与えるというというわけだ。
     もっとも、今の世の中だから、もしかすると左利き用の扇子も製造されているかもしれない。だが、残念ながらまだ見たことはない。右利き用の道具が多くある環境で生活していくうちに、自然と矯正されて右利きになっていくことを期待して、世の中が一方的に右利き用の道具をつくってきた疑いがある。
     これは約一割いるといわれる左利きの人に対する思いやりのなさだ。思いやりのなさという表現が妥当でないというなら、配慮のなさという言葉がよいだろう。欧米諸国にはよくあると聞くが、日本では左利き用品の店というのはまだもの珍しさを売り物にする段階にあるように思う。
     しかし、事が命にかかわることであったらどうだろう。
     例えば、刀剣類だ。日本刀には滑り止めのために巻く柄捲きの下に目貫を巻き込むのが普通だ。この目貫を単なる装飾品として考えている人がいるがとんでもない話だ。実際に刀を操作してみると分かるが、この目貫を巻き込んでいるために実に手の内が決まりやすい。手の内が決まれば、素早い剣の動きが実現する。また、敵の肉体を切り裂くための合理的な力の加え方が実現する。
     この手の内が決まりやすくなるための工夫として、最初は目釘隠しのための金具であったものが進化していったと思うのだ。この目貫の巻き込まれる位置が問題となる。
     刀を中段に構えたときに柄を上から見て右側には柄頭に寄った方に目貫が巻き込まれ、柄を上から見て左側には鍔に寄った方へ目貫が巻き込まれている。右利きの場合、右拳を前に、左拳をその後ろに柄を握るからだ。指先が回り込む側に目貫があるので、そこがやや盛り上がって、柄捲きと小指あたりの関係が改善されるというわけだ。これはまた、刀を振ったときの遠心力に耐えやすい手の内になる。
     過去、左利きの剣士が、左拳を鍔側に、右拳を柄頭側にして構えたということはあったのだろうか。もしあったなら彼は目貫の位置関係を逆にしたに違いない。
     もっとも、現代剣道においては柄捲きの必要のない竹刀で闘うので、右利き用も左利き用も用意する必要はない。また、刀を振り回したら警察に捕まってしまう。したがって、命はかかっているとはいえ、事実上不都合はない。また、居合道等で不都合はあるかもしれないが、伝統ある形武道なので、左利きの技などは認められない。左利きの人も右拳を鍔寄りに左拳を柄頭寄りにもって中段に構えるしかないということだ。
     伝統が崩れるとき、フレキシブルな構えが出現し、デザインもそれに従うだろう。杖道などは武器が円筒状の杖というデザインなので、構えも左も右も無関係なさまざまな構えが存在することになる。これは技を支える理論や精神的なものにも大きな影響を与えている。
     団扇を多く使う集団と、扇子を多く使う集団について、それぞれにクレペリン検査等のさまざまな検査を行って比較すると、意味のある傾向の違いが出てくるかもしれない。
     これは左利き用の道具、右利き用の道具の問題だけではなくなってくる可能性が高い。道具によって精神的な傾向が形成され、それが使う道具の選択に影響を与えるというようなサイクルの中で強化が行われるということがあるとすれば、それは隠された一大事だ。道具を使う生物であると同時に脳の発達した生物である人間にとっては、デザインがもつ力というものを一度よく振り返ってみなくてはならない問題なのかもしれない。
     精神や心に対する無意識に受け入れているデザインの影響力は計り知れないものがあるかもしれない。何事も無防備であればあるほど、ほんのわずかな小さな力であっても大きな影響を与えることができるからだ。よくよく考えてみると恐ろしいことだ。

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    7/26/2009

    恐怖シリーズ142「多義語」

     多くの人の間で頻繁に使われるようになって一般的な言葉だということにされた言葉は、決まり文句でない以上、いろいろな意味で使われる多義語に成長していくことがある。長い歴史を背負っているために託される意味が一つ一つ増えてしまうのだ。
     託しきれなくなったときには造語がなされるが、そうするまでもない場合、うまく造語できない場合、なし崩し的にみんなが使うようになってしまった場合などには、どうしてもこのようなことになってしまう。
     これは表現する側にとっては便利なことだ。しかし、理解する側にとってはいささか不便なことになる。前後の文から判断して、その言葉の意味を正しく特定しなければならないからだ。こうした多義語の問題は、言葉というものが曖昧なものだと評価される原因の一つとなっている。
     この不具合も、会話の中で使用されているうちはその場でお互いに意味を確認することができるので、最終的には意味は特定され、正しく伝わるようになる。しかし、単にイメージとして頭に浮かんだというレベルの言葉が一回だけ使用されて話し合いが打ち切られてしまったとき、その言葉が人の心をうったり、意識に深くはたらきかけたりすると、さまざまな過ちを犯す可能性が出てくる。意味の確認がなされないからだ。そればかりか悪意によって曲解されるという不始末を引き起こす場合もある。
     唯一、「経験による学習」や「テキスト等による学習」がそれを防ぐ力としてはたらくが、若いがゆえに言語経験が不足していればしているほど、また読書量が不足していればいるほど、過ちを犯す可能性が高くなる。
     たとえ言語経験が豊富でも本人が気づかぬうちに周囲の者がよりよく修正してくれていたおかげでうまくいっていた場合もあるだろうから、言語経験が豊富だからといって大丈夫だとは限らない。
     また、長期にわたって相手からの遠慮を受けていた場合にも、経験年数だけが長いだけで、言語実践が貧弱な若者と変わらないという場合もあるだろう。
     こうした見かけの言語経験しか積んでいないのにもかかわらず、自信やらプライドやらだけは十分にあるという場合には、周囲が非常に困ることになる。
     このことはいつでも自分が犯している過ちだと思い続けることが大事だ。残念ながら鏡を使って分かることではない。書いたものを時をおいて読み直すということしかできない。しかし、やはり全てには気づくということはない。これは非常に恐ろしいことだ。
     だから、どうしても他人から指摘を受けることが必要となる。諸事情でそれがかなわねば、少し前の自分が他人だと思われるほどに早く自分が成長することだ。

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    7/21/2009

    恐怖シリーズ141「慣れ」

      何のためらいもないのはたぶん「慣れている」からだ。そして、ためらうのはたぶん「慣れていない」からだ。途中でためらわないのは事を途中で失敗しないための条件の一つとなり、事前にためらうのは事が正しいかどうかを確認するよい機会ともなる。
     このような生きていくうえでの「無心(迷う心が無く、ためらわない)の効用」を意識し、「神からの贈られたささやかな時間(迷う心)」 を戒めとすることは重要なことだ。しかし、これらが「慣れている」とか「慣れていない」とかいう単なる脳の事情を土台としたものであると考えると、何とも楽しいではないか。
     人生の絶対的な価値でありたい善悪についての判断基準も、おそらくは善悪そのものも、この「慣れている」状態と「慣れていない」状態とによって成り立っているものではないかという疑いをかけたくなってくる。どうすれば確かめられるのだろう。
     まず、殺人という極めつけの悪事について考えてみよう。人を殺すことに慣れている兵士は、その行為を悪だとは思っていない可能性が高い。殺人が手柄だと思えない種類の優しいお父さんや優しいお兄さんだった兵士は、「上官の命令」と「自分の信条」の板挟みになった「自分の心情」に苦しむことになる。
     そして殺さねば自分が殺されるという理不尽といえば理不尽な、当然といえば当然の戦争の論理に心がつぶれていく。理不尽であり、当然であることの重荷は計り知れない。しかし、これはそれを受けとめてしまった者だけの重荷だ。
     おそらく通常のお父さんやお兄さんは、この重荷を受け流すために、神のため国ため家族のため、そして 自分の命のためという本末転倒のところに行き着くまでのたくさんの答えの中から自分にあった理由を探すことになる。そうして心の折り合いをつけた者だけが人を殺すということについて、それは悪ではなく、必要なことなのだと受けとめることに成功し、その殺人作業に専念することを可能としていく。
     戦闘のなかでは、相手を必要以上に憎むという努力を殊更に重ねるまでもなく、「殺してもよいのだ。いや殺さねばならないのだ。」という気持ちが強化されていく出来事に直面するはずだ。自分を救ってくれた戦友が命を落とせば一層その思いも強くなろう。
     戦友の敵討ちをしたいのは人情だが、戦場から逃げ出したいのも人情だ。この人情が戦場で必要な的確な判断を狂わせることがある。なさねばならぬ命令を遂行するにあたっては、これを克服しなければ予定以上の死者を出すこともあるのではないだろうか。こうした不都合を解消するには、人情を殺さねばならない。その時にはやはり心を潰さなければならないのだ。義理を果たすには人情は抑えねばならないということだろう。
     このようにして、殺人は心ある人が思っているような悪事ではなくなっていく。もちろん、一人一人どのような心の折り合いをつけるかはわからない。ある程度は教育の力によって共通の心構えや心情をたたき込まれているので、それを土台としてさまざまな心の形が生まれることになるだろう。
     例えば、一人でも多く相手を殺せば、それだけ善い行いをしたことになるというところまで自分の心を作り上げてしまった人や「理屈じゃない。これは戦争だ。殺さねば殺される。」という簡単な折り合いのつけ方をした人もいただろう。もちろん、国のため家族のために闘うのだ。」とか「天皇陛下のために闘うのだ。」とか、教科書どおりの「美しい」心で殺人の作業を遂行した人も多かったかもしれない。そして、全くの弔い合戦のように人情だけで割り切った人もいたに違いない。
     これらの心の変化の道筋や行く先はともかくとして、その変化していくのに必要な時間というものが曲者だ。
     社会や身の回りの変化、自分自身に起こった変化に対して、人はそれなりの時間をかけて心の形をつくり、最終的には慣れるという状態に落ち着かせていくものだ。何世代にもわたるような長い時間がかかった大きな変化に対しては、それなりの長い時間をかけて少しずつ慣れ、人々の中にその心が根づいていく。しかし、短期間で起こった大きな変化に対しては、短期間に慣れていかねばならない。そこには大きなストレスがかかることになるだろう。しかも、付け焼き刃と一緒で根づいたものではない。
     戦争体験者は、極貧生活や空襲体験、軍需工場体験、教練体験などを話を残す機会を意外ともっているが、戦闘体験者は沈黙することが多い。銃後の話は被害 者意識をもって語れる内容だからその気になれば話すこともできるが、血みどろの前戦にいた者の話はそうおいそれと披露するわけにはいかない。人を殺す話を孫やその友達にするのは、やはりためらうのだ。  
     戦時中やその直後なら自慢話にもなったろうが、今となってはそう単純に自慢話にもできない。僕の祖父なども聞いても聞い てもなかなか話してくれなかったものだ。
      これは短期間のうちに大きな変化をせざるを得なかった心が時代の急変とともに急速に元に戻っていったからだと考えられる。殺人作業が人々の心に根づいたものにはなっていないということだ。そうでなければ復員兵の多くが殺人犯となったに違いない。一時的なにわか殺人者たちがたった十年足らずの短期間に大量生産され、それが一夜にしてほとんど元に戻ったというわけだ。
     では、持続的に何のためらいもなく人を殺せる心をもった者になるためにはどうしたらよいのだろう。
     それには、ある特定の国家や民族の歴史のなかで一定の評価を受けている伝統という名の長い時間と実績が必要だ。付け焼き刃ではない本物はじっくりと育てなくてはならないということだ。
      例えば、イスラム戦士だ。数十年前に読んだ少年雑誌のグラビアに、おそらく中東地域のあるアラブの部族の子どもたちが載っていた。彼らは一様に底抜けの笑顔で映っていた。しかし、十歳にも満たないその子供たちは明らかに軽機関銃を抱えていた。自分の身の丈ほどもあるような恐ろしげな武器だ。
     僕は幼心にもこんな小さな子供に撃てるはずがないと思ったが、次のページには伏射ならぬ仰射(こんな言葉はないだろうが)の姿があった。まだ幼い戦士は銃身の反動を両足の裏で受けとめるのだ。
     これは敵に両足を向けて腹を天に向け、大地を背にした射撃姿勢だ。軽機関銃は子供の腹の上、銃口近くに取り付けられた二脚の金具に自分の両足の裏をかけて突っ張っている。子供だから身体が小さく、被弾面積も少ないという利点もあるが、子供と武器が一体化したような恐ろしい姿だ。
     こうした殺人訓練が幼少の頃より日常的に続けられるという記事もつけられていたように記憶している。銃撃に慣れているというよりも、人生そのものになっているレベルだという感じがした。 
     日本の指導者たちがかつてお菓子を食べたりのんびりとテレビの娯楽番組でへらへら笑っているときに、今のイスラム戦士の指導的立場にある者たちが幼少期をこのように過ごしてきたことを忘れてはならないだろう。
     伝統的にひどい殺し方をするのも、人を殺すことなど何とも思わないという心が根づいているからかもしれない。もっとも、誰が死んだか分からないように顔を潰したり、首を切り落としたりするのも、報復をされにくくする長年にわたって培ってきた知恵なのかもしれない。そこで失った人の心は、おそらく信仰心によって補われているのだろう。
     さて、ここまで述べてきた「慣れている」「慣れていない」という二つの言葉から、「慣れよ。そして慣れるな。」という標語のような文句を導き出すことができる。これは一般的な人生の知恵に近いので、探せば同じ意味の諺があるかもしれない。
     人を殺すことに慣れているということは戦闘場面においては大事なことだ。しかし、それでは人の心を失ってしまう。通常の生活と戦闘行為とを切り替えることのできない人は、きっとランボーのように精神を病んでしまうのだろうと思う。「慣れよ。そして慣れるな。」は宗教に救われる前の自力で正気を保つ知恵として考えればよいだろう。 
     今の日本には傭兵経験者を除き、人を殺すのに慣れている人はいない。これは「慣れるな」というレベルの人から見れば、逆に危険なことだと思われているかもしれない。切り替えるというコントロールの未経験者だから、暴走する可能性を秘めている。
      戦争放棄をした日本なので、戦争の例え話はたとえになりにくいかもしれない。戦争は戦争でも、交通戦争の方が今の日本では説明しやすいように思う。
     交通事故で命を落とす人々が毎年一万人前後の時代があった。戦後、この悲劇的な状況が 三十年ほど続いたのは過去の話となったが、現在でも毎年六千人程度はお亡くなりになる。ここ十年の交通事故死の累計が約七万五千人だから、戦後から累計すれば、先の世界大戦における長崎・広島の原爆犠牲者や空襲の犠牲者の約八十万人をも既に追い越してしまっている可能性がある。
     最近の交通事故死の人数が年々減っているのはシートベルトとエアバッグのおかげだろうが、統計上、死ななかっただけという重傷者は、同じくシートベルトとエアバッグのおかげでかなり急上昇している。
     ここ数年間、死者は減少しているが、その数の多さから、交通戦争という表現が決して誇張した表現ではないということだけは確かだ。この交通事故における「慣れ」については、どのようなことが言えるだろうか。
     自動車の運転に慣れていない人の運転は恐ろしいが、免許取得後約一年間は事故を起こすことが少ないという。慣れないうちは自分でも危ないことを自覚しているので、下手ではあっても運転に慎重だということが理由の一つになるだろう。また、その慎重さゆえのぎこちない運転の様子が、同乗者や周囲の自動車に恐怖を与えるということも、結果として警告をしたり警告されたりすることになるだろう。これも事故を起こしにくくする理由の一つになるはずだ。
     逆に、運転に慣れてからの方が事故を起こしやすいのは、なぜだろう。
     これは、周囲の変化によっては「慣れ」に依存している分だけ逆に危ないということがあるからではないか。運転に慣れると、少し遠出をしたり別の街へ出かけたりする機会が増える。こうした新しい環境のなかでは、これまでの「慣れ」がかえってあだとなることもあるからだ。また、性格によっては「慣れ」が過信につながることもある。
     もちろん、道路交通法も道路標識、道路標示も日本全国共通だから、この面では「慣れ」というものがプラスにはたらく。 しかし、それがどのように運用されているかということになると、あやしい面がある。
     遠出の場合や新しい抜け道を発見しようとした場合など、道路状況や交通状況などがこれまでと異なって、ケースバイケースとなり、慣れているはずの運転操作を誤る可能性を高めているに違いない。
     また、事故がよく起こるという呪われたような場所がある。これはおそらく「慣れ」で解決できそうでありながら、実は特別な配慮を要する場所である可能性がある。学んだこと、つまり慣れていたはずの運転に関する判断が微妙にずれてしまう場所だ。
     特に、自分も相手も同等に慣れていない時期に遭遇すると、事故が起こる確率が急上昇することになる。その後、実際に事故に遭うかどうかは運次第だ。
     ところで、運転というのは「運」が「転じる」とか「転ぶ」とか書くから、どうもよくない。今後は験を担いで自動車の操縦と言うようにしようかと思う。そのためには自動車運転免許ではなく、自動車操縦免許というような名称に改めてほしいところだ。もっとも、どん底にいる人たちにとっては運を転ずることは上向きの運勢になるしかないから、「運転」の方が聞こえがよいだろう。
     少なくとも交通事故によってどん底の生活に陥らないように僕たちは細心の注意を払う必要がある。それは、運転に慣れたころが一番危険だということ、そしてその道路に慣れたころが一番危険だということを意識することから始まる。
     次に、交通事故のように死ぬことは少ないが、電気製品の扱いという問題ではどうだろう。
     「習うより慣れよ」という諺がある。その適用範囲は事の初期に限られるものだ。例えば、携帯電話のマニュアルは分厚いが、それを全部読んでから使い始める人はほとんどいないだろう。「習うより慣れよ」ではあるが、人に聞くという「習う」を相手の迷惑にならない程度に実行しながらも、主として実際に扱いながら覚えるという方法の方が確かにすぐに使い方が身につくからだ。
      これはコンピュータでも同じだ。取扱説明書を全部理解しようとする人はいない。当然コンピュータの基本をソフトの仕組みを調べてから電源ボタンを押すとい う人もいないだろう。自分が使いたいソフトが自由に使えるようになればそれでよい人がほとんどだ。それをコンピュータを使うからといって、コンピュータ自 体のハード面のことを勉強してマスターするというという必要もない。もちろん、その努力は決して無駄なことではないが、時間の無駄になることが多いのは事 実だ。
     「慣れる」というのは実践やシミュレーションを通さねばできないことなので、コンピュータを使った自分のやりたいことやしなければならないことに限って スキルアップを図るのが現実的な努力だろう。これは分業を得意とする仕事という面からみれば、それに専念するということなので合理的なことだと判断され る。必要な作業さえできれば、残念ながらコンピュータを使うといえどもコンピュータのことなど理解していなくてもよいのだ。自動車のエンジンを分解掃除で きなくても、運転免許が交付されるのはこうした理由からだ。
     これは現代特有の虚無感をさそう。いろいろなことができるのにいろいろなことを理解していないというむなしさだ。このむなしさを味わうという寂しさを何 かを得ることで解消しようとするが、その得た物なり事なりで失う物が出てくる。これに気づき始めるのが少し慣れてきたころだ。それを乗り越えると自分の狭 い世界をつくったり、趣味の世界にはまりこんだりする時期が来るので、充実感とともに生きていくことができる。
     例えば、新しいコンピュータの決まり切った操作に慣れてからはマニュアルに目を通す時期だ。より正しく有効に道具を使い、宝の持ち腐れになることを避けるためだ。そのうちには、マニュアルだけでなく、裏技集なるものに手を出したり、自分自身がそうした情報を発信する立場にまで成長する時期も来るはずだ。ステップを踏むごとに充実感が増す 仕組みだ。これをマニアと呼んで笑いものの対象にする向きもある。見識の狭さを指摘されてのことだろう。しかし、資金面では弱小かもしれないが、時間に糸 目をつけぬマニアの方がさまざまな制限のなかで動かざるをえないプロを凌駕する可能性もあるだろう。
     何でもそうだが、このように初級、中級、上級、特級とコースがあってそれぞれの時期を経ながらステップアップしていく。しかし、自分のランクに合った考え方と知識、そして情報を得なければ、何かを 間違うことになるだろう。「汝自身を知れ」という言葉があるが、これを戒める諺としてとらえてもよさそうだ。
     さて、慣れていくにしたがって得るものは増えていくが、慣れていくにしたがって失うものも増えていくというのが一般的だ。これは仕方のないことだ。大事なのはそうした自覚があるという ことだと思う。失ったものをとりもどそうとしたり、代償行為に走ることがあるように思うが、これを「年寄りの冷や水」というのだろう。これにはよほど気をつけないといけない。みんなよかれと思って結局は「年寄りの冷や水」となり、失敗する。だから、よかれと思ったら間違いだと思った方がよさそうだ。
      それにしても、いったい何歳ぐらいから「年寄り」というのだろう。孫ができるような年頃になったら年寄りだと昔から思っていたが、どうなのだろう。年は 取ったりくったりするものであって寄るものではなかろうに、「お年取り」とか「お年くい」とは言わず、「お年寄り」という。これは忌詞の一種なのだろう か。
     しわが寄るとか、しわを寄せるという言葉もある。これはしわを寄せて集めるということで、結局は増えるとか増やすとかいう意味になる。年寄りは年が寄ってきて増えるというイメージだ。もしそうなら「お年盛り」の方が元気そうな感じがするので、これをはやらせた方がよいかもしれない。
     また、「冷や水」とはいったい何だろう。「冷や水」を浴びたようにびっしょり冷たい汗をかくという言い方もある。あくまでも「冷え水」ではないから、「冷やした水」ということだ。「冷や水」という言葉からは意図的に温度を下げた水という意味合いがあるように感じる。
     例えば、「冷や飯」と言い方がある。「冷や飯」を食わされたとも言う。これは敢えてご飯を冷やしたのではなく、炊き終えてから時間がたっても片づかなかった冷えた「余り飯」だ。これは今と違って保温機能などついていない木の「おひつ」に入っていたはずのものだ。
     しかし、今のように捨てる残飯ではなく、後で熱いお茶などをかけてお茶漬けにしたりするご飯だ。したがって、「冷や飯」の「冷や」は「冷やした」の「冷や」だ。つまり、余った飯を意図的に放置して「冷やした」ということだ。お櫃にもお釜にもスイッチなど一つもついていない時代のことだ。現代では、残飯扱いで捨てるばかりなので、スイッチさえ入っていればいつまでも温かい炊飯器ジャーから出され、残飯入れの中で寂しく「冷える」ばかりだ。残飯入れの「冷え飯」を食べる人はいないだろう。もっとも、ホームレスの人はこれを「冷や飯」と言って食べている可能性はある。また、「冷や麦」という麺料理があるが、これも同じだ。意図的に冷やした麺だ。
     ともかく、手を出したくても手を出さない方がよいものという意味合いで「冷や水」 というものを挙げているのだから、よほど年寄りには合わないものであると同時に、年寄りが求めるものでなくてはならない。
     これは 「お冷や」かもしれない。料理屋で出される冷たい水だ。冷やしてあるのだから「冷やかし水」または「冷やし水」というわけだ。丁寧語になるように「お」を つけて「お冷やかし水」または「お冷やし水」、長いので省略して「お冷や」と呼ぶようになった可能性がある。
     年寄りは年頃の新陳代謝の盛んな若者のように体温が高くはないと思う。また、身体の冷えなどの症状もありがちなのではないか。そこへ「お冷や」、つまり「冷や水」、つまり「冷やした水」を飲んだら体調を崩しやすく、年寄りであるだけに命にかかわるということかもしれない。 
     井戸の水は夏冷たく、冬温かいという。塩素臭もなくおいしいのだが、昔は便所が近くにあれば、染み出したものが、井戸水に流れこんでいる可能性もある。井戸から何メートル離れたところに便所を設置するようにという法律がまだあるはずだ。
     だから、一度沸騰させてからさます白湯でないと健康を害することになる。しかし、白湯はいくら冷ましても井戸水よりも冷たくはならないだろう。
     冷たい水を飲むには、泉からわき出る清水を手に入れるか、白湯に氷を入れて冷やすか、偽白湯に氷を入れて冷やすかだ。しかし、清水は冷やしたわけではないから、「冷や水」ではない。すると、残るは白湯を冷やしたものか、偽白湯を冷やしたものかのどちらかだ。
     もちろん、偽白湯を冷やしたものが身体には悪い。沸騰させ る手間を省き、しかも冷やしたのだから、年寄りには致命的な水になる可能性がある。
     すると、こうした偽白湯、つまり殺菌する手間を惜しみ、井戸から酌んだばかりの水を冷やしたものが案外と出回っていたという背景があったのではないかということが推理できる。こうして「年寄りの冷や水」という言葉が成立したとは考えられないか。悪徳業者による水販売というわけだ。
     しかし、若者であっても、また偽白湯を氷でさましたものであっても、多量に摂取すれば内臓の働きを悪くし、病気のもとになったのは間違いない。この「年寄りの冷や水」という決まり文句が成立した当時に、病気と水との因果関係がどれ程認識されていたかは定かではないが、今でも使われている「水にあたる」とか 「水あたり」とかいう言葉はそのころからあったのだろうと想像する。
     いつの時代にこの言葉が現れたかわからないが、昔のホームレスが「あたり」 そうな生ごみを食べても平気だったのは、そうした食生活に慣れていたせいだろうか。
     もし、これが「慣れ」ならば、「年寄りの冷や水」の年寄りは、質の悪い水に慣れていないということだ。つまり、比較的財力のあった働き盛りのころに本物の「冷や水」を飲む習慣がついていたのだが、老後に貧乏になって安物のインチキ「冷やし水」を飲むはめになった例が多かったということが想像される。
     慣れていなければいないなりにためらい、飲むべきかどうかを判断すればよいはずだ。体調不良の場合には飲むのを我慢し、体調良好であれば、飲めばよい。もちろん、判断する前に、安全な水であるかどうかも周囲の者によく問いただして助言を求めればよいことだ。疑わしければやめればよい。何にしても人の言葉を信用するということが今よりもずっと意味が重かった時代のはずだ。
     しかし、残念なことに年寄りになると頑固になって若い者のいうことを聞き入れなくなる。自分の「慣れ」と、若者の「慣れ」のギャップが許せないのだろう。これを受け入れることは自分が築きあげてきたものをある意味で否定することにつながるからだ。特に時代の流れが大きく変わろうとしているときには、世代による「慣れ」のギャップが大きくなり、ますます年寄りが頑固になっていく。
     微妙なずれなら妥協しやすいのだが、中途半端なずれだと、頑固さがより強固な頑固さになると思われる。いっそのことかけ離れたギャップになってしまえば、逆に問題は起こらないだろう。
     さて、水質検査などできる時代ではないことは確かだから、本当は若い者の言葉をよく聞き入れ、助言として信用するしかないのだ。「老いては子に従え」という諺はこのトラブルを避けるためにあるようなものだろう。
     現代は、言葉の責任や意味の重さなどが桁違いに低くなったが、これは何を得た罰としてそうなったのだろうか。
     個人的にも歴史的にも「得るものが増えれば、失うものも増える。」というバランスがはたらいているように思われる。
     通信技術を得て、真のコミュニケーションを失った。人々を守る法律を得て、互いに尊敬し合う心を失った。便利な物に埋もれて、気遣ったり、思いやったり する必要がなくなり、心も失った。開発が進んで神秘の世界を失った。なくてもよい仕事を得て、時間を失った。収入を得て、家族の絆を失った。
     それではいたたまれないので、偽物が本物の代わりをすることになった。だが、昨今の偽物たちの氾濫といったらどうだ。笑いや涙まで偽物となり、偽物で育った子供たちがさらに偽物の道を築きあげていく。これはもう戻れない道だ。しかし、いつの時代でも当の本人たちは慣れていると見てほぼよいから、そう苦にはなっていないというところが救いだろう。死んだり生まれたりという大きな切り替えスイッチというものはそのためにあるのかもしれない。
     生きる「慣れ」を防ぐために神が死を与えたということなのだろうか。もしそうならば、つくづく神というものは畏怖すべき知恵者だ。百里の道を行かんとする者は九十九里をもって半ばとすべし。これを人生にそのまま当てはめると、百歳をよりよく生きようと思ったら、九十九歳になってもまだ五十歳だと心得て今後の作戦を立てよということになる。「慣れ」は禁物、油断は禁物ということだろう。
     「慣れ」とは古びた作戦で満足していることだ。古びた作戦では到底闘えない状況が増えている。めまぐるしい現代は「千里の道を行かんとする者は九百九十九里をもって半ばとすべし」ぐらいの気構えでないと失敗するかもしれない。
     そろそろ人類自体の時代が古びてきたのかもしれない。神が個人に与えていた死を人類そのものに与えるときが近づいている可能性を考えた方がよいのではないだろうか。
     人類五百万年の歴史と習ったが、これは長いのだろうか。随分と駆け足で来たような気もする。駆け足を早めればゴールに早く着く。このゴールとは絶滅を意味する。これは恐ろしいことだ。しかし、それは恐ろしいと思いいつつ受け入れればよいことなので本当は別段どうということはない。死ぬ以上のことはなく、死ぬことはこれまで随分と積み重ねてきたことに過ぎない。
     多くの種が絶滅していく流れの中にあって人類だけが生き延びようとすること自体に無理がある。しかし、悪あがきはできるだけすればよい。それが人類の特徴だ。人類の最期を体験する子孫には、人類最後の人類ということで誇りをもってもらいたい。できたら、最後の一人まで、やすらかな自然死であってほしい。
     残念ながら、最後の一人については、その死を悼む人が一人もいない。自分が最後の一人であるという自覚もないかもしれない。それはしかし、一つの救いだ。地球のどこかにまだ誰かが生きているだろうといういう思いで永久の眠りに就けばよいのだ。
     しかし、人類の滅びをある程度延期することはできる。例えば、既に二億年も生きているゴキブリに「今日からおまえたちを人類と名付ける」と宣言すればよいのだ。命名行為というのは人類の発明だが、これによってゴキブリは人類となる。これを人類最後の人にやってもらうのがよいだろう。
     このバトンタッチは神に認めてもらうしかない。「認めてくださらなければ、永遠の命をください。さもなくばこのゴキブリを人類としてお認めください。」と宣言してもらえばよい。永遠の命などくれるはずもないから、自動的にゴキブリが人類と呼ばれる生き物になる。これで彼らが絶滅するまでは人類は安泰というわけだ。もちろん名前だけだ。でも、「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」というから、これでよしとしよう。

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    7/14/2009

    恐怖シリーズ140「こじつけ」

     「心太」を「ところてん」と読むのはなぜだろう。まず頭に浮かぶのは、心太を平仮名ふうに書いてみる事だ。看板に「ところてん」と書く場合、真っ直ぐに書くだろうか。真っ直ぐではお札のようで面白くない。また、五文字だからその看板も細長くなってしまう。比較的看板らしい縦横比の幅のある板に目立つように乱れ書きすると面白く目立つ。このようにこじつけていくとどうなるか。そのまま「心太」とよめる漢字に似た文字の並びになってしまうではないか。
     篆書で書く「心」は、最初の二画が平仮名の「と」に似ている。その横に少し小さめに平仮名の「こ」を書き、その下に大きめの「ろ」を書き、その下に「、」をうつというわけだ。この「、」は「貸します」の「ます」を□に斜線を入れて「ます」の形を作り、「ます」と読ませるのと同じやり方だと考えればよい。これは文字数を少なくする意味もある。
     「かまわぬ」というのを「鎌」の絵、「輪」の絵、そして「ぬ」と表現するようなものだ。五文字が三文字に省略できる。字の読めない人にも絵文字だから読めるという利点もある。もっとも、この「かまわぬ」は「ぬ」が平仮名だから中途半端だとも言えるが、そこがご愛敬というものだろう。
     いや、もしかすると、「ぬ」は「奴」という漢字の平仮名版だから、「鎌」のように鋭く、「輪」のように丸く収める「奴」というという洒落なのかもしれない。ただ、文字の読めない人にはそんなことは通用しないから、この部分は本人用の隠し言葉ともいうべきものとしてとらえた方がよさそうにも見える。
     「かまわぬ」と言いながら、圧力をかける者には「鎌」のように「鋭く」応じ、弱い者や忌み嫌われる者には「輪」の中に入れて慈しむ、そういう「奴」という心意気を示したものかもしれないと考えれば面白い。そもそも、「かまわぬ」とは「自由な存在」という意味にとれる。「かまうこたねえ、やっちまえ!」「何してもかまわぬ」となれば、随分とひとりよがりの自由だ。
     「身なりなどかまわぬ。」という言い方もある。「かまわぬ」の動詞だけの形は「かまう」で、この仲間に「かまえる」という他動詞があるとすれば、やはり「かまわぬ」には自由な感じが漂っている。他人にかかわらないという姿勢も漂う。おまえにもかかわらないから俺にもかかわるなという生きる姿勢かもしれない。よほど世間のしがらみに苦慮していた時代なのかもしれない。鎌はそんなしがらみを切ってしまう鎌で、輪は切ったしがらみを束ねて縛って捨ててしまうという意味を込めたのかもしれない。
     このロゴとは言い難いがロゴのようなものが染められた衣服や手拭いを身につける者たちは、今で言えばTシャツのロゴのようなものだから、そうした心意気のようなものを有事における態度で示すだけではなく、平時にもアピールしていたのだろうと思う。
     しかし、そうしたひとりよがりのところがなければ、世間の中で敢えて強き者に「鋭く」牙をむいたり、落ちこぼれたり、はみ出したりした者を輪に入れて丸く収めるなどというような酔狂なことはしないだろう。もっとも、これが裏目に出ると本人自身が支持されぬ存在になっていく恐れはある。自分を売り出すのに役だったものによって最後は自分の首を絞めていくという法則はここにもあらわれそうだ。
     さて、「ところてん」の看板が真っ直ぐに細長く書かれなかったために、「心太」と読める平仮名の配置となったのではないかと仮定した。しかし、これにはなぜ看板という前提だったかということを述べなくてはならないだろう。結論から言えば、「幟旗」ではいけないということだ。なぜなら、縦長の幟旗に平仮名で「ところてん」と書くと、くねくねした文字の連続になってしまうからだ。古書の原典を一度でも見ればわかるように一文字一文字が現代の活字のようにばらばらに独立しているのは珍しいように思う。もっとも、実際に昔の看板は見た事がないから本当のところは分からない。
     とにかく、細い長い布に書かれた平仮名文字は、布の重みで端が垂れたり、風に揺れたりして読みにくい事この上ない。この問題を避ける方向で改善がなされたはずだ。「だんご」なら三文字なので、それほど細長くはならず、だんごの匂いもするだろうから分かる。しかし、残念ながら心太はにおわないから、視覚に訴えるしかない。だから、できるだけ文字数を減らして、しかもよれないように木の看板に書くという方向に向かうのではないかと想像したのだ。
     しかし、「心太」のように漢字二文字のように表現できれば、木の看板でなくてもよい。幟旗で充分だ。心太は夏の季節ものだ。木の看板よりも、臨時で使う幟旗の方が風に揺らめいて、かえって目を引くことになるので好ましいとも言える。
     ただし、うどんより心持ち太いということで、「心」持ち「太」いの「心太」なのかもしれない。心太はやわらかいからある程度の太さを確保して多少の歯ごたえをつくる必要があるからだろうが、本当のところは分からない。
     心太一つをとってもこのありさまだ。今当たり前の事にもいろいろ説明をつけておくのが後々の人にとってはありがたいということだ。いらぬ説明だと思われることを積極的に行い、厳重に保存しておくことは、現時点では全く無意味なことなので、そんなところに大事な労力をかける人はいないだろう。しかし、こうして真実は闇に包まれていくことになる。
     これが謎解きの面白さを後世の人に与えることになるのだが、同時にまことしやかな「こじつけ」を大発生させることになる。この「こじつけ」が迷惑になるか、コミュニケーションに役立つか、脳のトレーニングにつながるかは誠に面白いところだ。しかし、このこじつけは何に影響してどんな結果をもたらすかということが予測しにくいという恐ろしさが常につきまとう。裁判であれば人の命にかかわり、日常生活では間違った認識が大手を振ってまかり通ることによって常識の常識としての権威が失墜するというおそれもある。まことしやかなものであればあるほど疑ってかかった方がよいように思う。これを忘れてはならないと肝に銘じたい。

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    7/1/2009

    恐怖シリーズ139「男女」

     この国には女子大があっても男子大という名の大学はない。男子大という名称の大学を女子大と同じ数だけ作ればよいという問題でもないが、このあたりからも、この国の男女観が見てとれる。
     しかし、この国の男女観が良いとか悪いとかいう議論に意味はない。良いも悪いもない。現実としてあるものは必然性があってそうなったものと考え、これからの時代にそぐわない部分が出てきそうならば、考えられる不都合を解消するため、対症療法的にではなく、総合的に変えていけばよいだけの話だ。年月はどれだけかかってもよい。必要なだけかければよい。
     無理な変革はいつの世でも逆効果になることが多い。本来は、性急な人々によって方向を変えた後に、彼らには立ち去ってもらい、別の集団が適切な運びをすればよい。しかし、最初の性急な人々には未練や誇りがあって立ち去らない。ときとして立ち去らせてくれない場合もないわけではない。しかし、そうすると総合的に変えていけなくなり、反動が起きることになる。先鞭を付けたパイオニアが時として邪魔者になってしまうという典型だ。
     さて、この総合的というところがポイントだ。これまで「そんなつまらないこと問題にするな」ということも大事な事柄の一つになってくるからだ。世の中をひっくり返そうとしたら、根本的な問題も些末な問題もない。総合的に動かなければ駄目だ。これまで世の中を変えようとしてうまくいった試しが一つもないのは、些末な問題を殊更に軽視した結果であるか、些末な問題だけを重視してしまった結果であるようには思われないか。
     ファッション等、見た目を同じにしていくとか、言葉遣いを一緒にしていくとかいう文化的なところからも攻めていかないと、法の不備をうめられない可能性が高いように思われるが、どうだろう。法というのは、最初から不備があるものだ。それは、法というものが適用されるものだからだ。つまり、適用の仕方によって、法の精神が貫かれて全うされたり、飾り物になってしまったりするという不安定さが生まれてしまうことによる不都合がどうしても起こってしまうのだ。その不都合を解消するには、関係するあらゆるものに手をかける必要がある。
     しかし、関係するあらゆるものに手をかけるのは不可能だ。これは時間というしっとりとした武器を使ってあらゆるものに手をかけることを心がけていくということしかできない。意識改革には、それなりの時間、世代交代が必要となるのは仕方ない。これを慌てるといけない。自分の代だけで事を為そうという狭い了見を持ってしまうと、それ以上の時間が必要な改革には不適切な進行を強いることになってしまう。五世代、十世代かかるものについては、それだけの時間をかけるべきだろう。
     根本的な問題ではないと信じられているものにはどのようなものがあるだろう。つまり、不当な扱いを受けているかもしれない問題のある問題たちだ。そして、どのように手をかけていったらよいのだろう。
     たとえば、胎児をお腹で育てるとか、出産でお腹を痛めることによって、生理的にも子供との深い絆を感じてしまうので、男女の意識の差が生まれてしまう。これは人工子宮で体外妊娠を行うことで解決しそうだ。逆に男女交代で子供を産むようにしてもよいのかもしれない。
     母乳も両親から出るようにすればよい。男性の退化した乳房を何とかして復活させることはできないか。そもそもあれは退化したものとは限らないが、とにかく使用できるように改造することを考えた方がよい。それが不可能なら、お父さんもお母さんも平等にするため、母乳も粉ミルクも哺乳瓶から与えるか、粉ミルクだけにすればよい。
     こうしたことを馬鹿げたことと考える人がほとんどだろうが、こうしたところを変えなければ、理想主義者たちが夢に描いているようなことなんて実現しないように思う。理想に走って滅亡するのも人間らしくて面白いではないか。
     男性の女性化、女性の男性化が何によって進んでいるかも確認しなければならない。遺伝子レベルで起こっている場合と、文化的レベルで起こっている場合と、それ以外の個人的事情で起こっている場合と、それが複合して起こっている場合とで、それぞれに抱え込んでしまう問題が違う。それどころか、大手広告代理店の仕組んだ大型プロジェクトである可能性もあるから、かなり人工的で歪な発想のもとに進められていることの上塗りとして採用されている一般的社会風潮というものなのかもしれない。
     だから、社会の変化が病的に進むのを抑えるには、いくつもの対策を持たなければならないという面倒が生じる。誠に厄介なことだ。しかしまた、それが人間らしくて面白いところだ。
     このように面白いことというのは、根本は恐ろしいことである場合もある。恐らく、それでなくてはバランスがとれないということなのだろう。

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    6/26/2009

    恐怖シリーズ138「鈍感」

      これと信じたことを曲げずにがんばる。これは大事なことだ。が、自分の主義主張を押し通すことは身の破滅を招くことになりかねない。諸刃の剣だ。
     昔は「信じ合うことが大事」という社会的通念のようなものがあった。ところが、今はどうだ。すべてを疑ってみることが、身を守るということになってしまった。だからこそ、「信じることが大事」なことになるとも言えるのだが、小学生は優しい大人を不審者ではないかと疑わねばならず、中学生は厳しい大人を敵ではないかと疑わねばならず、高校生は立派な大人を偽善者ではないかと疑わねばならず、大学生は温かい世の中をまやかしではないか、厳しい世の中を単なるおどしではないかと疑わねばならない。
     こんな腐った懐疑主義には耐えられない者が出てきて当然だ。その苦しさから逃れるためだけの安易な「信じることが大事」バージョンに脳のレベルが設定されかねない。これはゆゆしきことだ。
     ところで、「人を見たら泥棒と思え」ということばがある。これを格言とは言いづらいので、ことわざの類だということになるのだろうが、有効な助言であるということは確かなので、その点において真実だと扱うのがよいと思う。これは親心であって、決して心貧しき者の言葉ではない。確かにこの現実主義は身を守るのだから。
     しかし、ものの見方や考え方がそれだけのものであれば、やはり心貧しき者ということになる。心貧しきことばを使うことによって心の貧しさが次第に固定されていくということもある。だから、これはどうしても、多くの知恵のうちの一つでなければならない。豊かな知恵の一つとして認められたことばだということにしておかねば不都合が起こるだろう。
     「信じ合うことが大事」「人を見たら泥棒と思え」、両者とも両極端の考え方であるように思う。だから、その前後のことばが不足していると、誤解されやすい。多くの言葉のつながりのなかで使うべきものだ。どちらのことばに軸をおいてもよいので、できたら両者を同時に使ったスピーチなり文章なりを心がけるとよいように思う。
     例えば、「信じ合えない世の中は悲しい。だから、信じるに値する人になれるようにと努力をするのが人間というものだ。しかし、そこにつけ込む人もいるのも事実だ。だから、お互いの幸せのためには疑う気持ちも忘れてはならない。」とか、「お互い他人なのだからその心も考えも分かるはずはない。分からないからお互いの幸せのためにまずは疑うことが大事だ。しかし、疑うことが目的ではない。信じ合うために疑うのだ。だが、どこまでも分かり合うことはできないから疑い続けなくてはならない。それではいつまでたっても信じ合うことができない。だから、ある程度の根拠を持てば、そこから後は信じるということが大事だ。」
     このように、生きていく上で人を信じるということはやはり重要なことなのだが、実に面倒くさい。面倒だということは手続きが多いということだ。恐らくこの手続きの多さは、相手に食い殺される恐怖を拭い去るために払わなければならない代償なのだろうと思う。ときにはお金を使い、この面倒を軽減することもある。興信所というのは、その名の通りの役目を果たすものだ。
     しかし、興信所の使われ方は通常一方的だから不公平感がどうしてもつきまとう。同時にお互いが興信所の調査対象になるのが公平というものだろう。いや、同時というよりも、双方が定期的に利用するというのが相手に対する礼儀だとされる時代が来るかもしれない。
     今の常識ではこのような興信所の使い方をすることには無理がある以上、客観的に信じ合う条件が同時にそろうということはないだろう。普通は、片方または双方の思い込みによって信じるに値するかどうかを勝手に判断しているか、片方または双方が興信所の情報や興信所に相当する友達の情報によって信じるに値するという判断をくだしているだけだ。
     そこには悲劇が生まれる要素がたっぷり含まれている。放置しておくと、「それが人生というものだ」と勘違いする人まで出てくる可能性がある。このように「それが人生だ」と評価することで、不幸を決定づけてしまう風潮は、「じゃあ、どうすればよいのだ」という開き直りの姿勢を用意する傾向の人間がいる限りはなくならないだろう。
     「他人の不幸は蜜の味」という人間の性をどこかで認めざるをえないというレベルから、その蜜の味を味わいたいというはっきりとした欲望のレベルまで、レベルの幅はあるけれど、それを出発点とした開き直りが思考停止の原因になっていくことが多い。
     どのみち思考は停止することになるのだが、薄ぺらな「それが人生だ」か、深みのある「それが人生だ」では、大違いだ。だから、詰まらぬ勘違いをされないためにも、「それが人生だ」という言葉を選ばない方がよいかもしれない。もっとも、短い言葉で表現するずるさを身につけた大人は、なかなかその便利さを捨てることはないだろうから始末が悪い。
     では、自分の考えを信じるということについてはどのようなことが言えるだろう。
     第一に、信じなければ自分の考えとして主張することなどはできないという当然の事情がある。この「考え」というものに「絶対」という言葉ほど似合わない言葉はない。考えなど、物の見方の分だけは最低ある。しかも、勘違いやら論理の飛躍やら情報不足やらで、まともなものなど単体では一つもないと言った方がよさそうだ。だからこそ、議論が生まれ、人々は寂しくなくなる。また、その過程で思わぬ発見が生まれることもある。このように、「まともではない」ものはなかなか魅力的だ。信じすぎると、この恩恵に預かれなくなるのは確かだから、物事いうものは何事も中庸ということが肝要なのだろう。
     しかしながら、初期の段階では「考え」自体を確立しなくてはならず、そのために都合の良い事実や情報を収集して構築することになる。もっとも、これは十分ということはなく、かけた部分については推量し、つじつまさえ合えば、ついにはこれを事実に準ずるものとして扱うようになる。この手続きを「信じる」と名付けることになる。
     第二に、自分の考えだから信じるというお粗末な理屈もある。そもそも、まともな考えなどほとんどないのだから、信じるという手法でしか自信などもてるものではないというお粗末な事情もあるだろう。
     いずれにしても、信じるためには「世の中の常識」といわれているものから「自分の経験」まで、どれも実に頼りないものを根拠にしなければならない。そのため、語気の強さや使用語彙の特殊化(専門化)、はたまた目つき目配り、表情や身振り手振りというスピーチの小技を多用して演出するという手口を用いらざるをえない。
     しかも、相手も同様に強く信じるあまり、臆面もなく主張し、引くことを知らなければ、ジャンケンでお互いにチョキばかりを出し続けるがごとき不毛の時間を築きあげるしかなくなる。相手がそれを嫌って譲歩すれば、何か勝利したような錯覚に陥って、さらに根拠のない自信が生まれ、不当に自分の考えを信じて、さらに強く主張するようになるという愚行を重ねることになりかねない。また、自分の考えのみならず、自分自身にまで自信を持ちはじめるという効果もある。
     しかし、それが救いとなる場合は別として、大方の場合は周囲を辟易とさせることになりがちだ。かかわりたくないために、譲歩する傾向が周囲に生まれるために、議論も生まれず、ついには学ぶことが少なくなり、低レベルのまとまりによる人間性の固定という不幸も招く。これは恐ろしいことだ。自重せねば、単純だが誰もが陥る罠であるように思う。
     第三に、相手を信じているがゆえに自分の考えを信じて主張するということがある。これを主張したら殺されるだろうとか、攻撃されるだろうとか、関係が悪くなるだろうということを心配しなくてよい相手であると信じているのだ。
     一種の見くびり、つまりは甘えだ。しかし、人間そんなに甘くはない。いくら相手を信じていても、それはあくまでもこちらの都合であって、相手の都合ではない。相手の都合によっては殺されることもある。殺人にいたらないまでも、その見くびりに相当する不利益が相手からもたらされないことはまずない。直接でなければ間接的にもたらされるのだから恐ろしい。
     特にネット社会になってからというもの、その社会の特質を理解せず、従来の人間関係の枠組みでものを考えることは自殺行為に等しい。個人の言動が集団に及ぼすさまざまな働きは近年すっかりと変わってしまったからだ。携帯電話の普及やインターネットにアクセスする環境の整備によって、当の本人たちの間では片方の譲歩や双方の譲歩、そうした我慢によって終了しているはずのことが、見ず知らずの他人が動きをとることによって新たな展開を始めるということが十分にあるということだ。
     しかも、これを計算に入れて自ら譲歩し、ネット上で唆しを行い、被害者の顔をしながら、手を汚さぬ加害者になるというぎりぎり合法的な仕返しや攻撃を試みる者も出現するようになるに違いない。臆病者の勝利が目に見えて増えることの愉快さと恐怖。誰がそのようなことを望むだろうか。しかし、空間的、時間的、法律的に制約が多くなった現在、そのために我慢という逃げ場に待避していた人の思いというものが、事情知らずのテクノロジーによって他人という仮面をかぶることになるのは間近いように思う。
     もちろん、仮面の役割を果たす者も、通常ならば世間に埋もれているのだが、これもネットの力でゾンビのように復活することができる。本当に恐ろしい世の中になったものだ。
     はったりや脅しやすかしといったものは過去のパワーとして際限なく無力化し、唐突に起こる何かをひたすらに恐れていなくてはならなくなる。これは法律によって規制されていない部分の日常生活の自由というものが、ネットによる無軌道で不当な自由によって奪われていく一つの例になるだろう。人々は無表情となり、機械的な人間関係をもつしかなくなり、そのためのストレスを解消するために不必要な財力を消耗する傾向が強くなっていくだろう。
     現在でもその傾向はあり、いらぬところに財力をかけなくてはならなくなっている。行かなくてもよいところへ行き、見なくてもよいものを見、食べなくてもよいものを食べる。この贅沢感を味わうことで現代人の孤独と恐怖を癒すというのは間違いではない。しかし、そのために現実の財力をいたずらに消耗することは、個人の価値観の問題であるとはいえ、現実の世界では個人の価値観の問題ではすまされない。投じられるべきところへ財が回らず、先細りの悲しい世界に向けてひた走る方向に向きはじめているように感じられるのは僕だけだろうか。
     個人の価値観を重んじるあまり、現実をひろく眺めて判断することを怠れば、他人の価値観をないがしろにすることになりかねない。これは民主主義に反することだ。
     もちろん、その浪費される財力の恩恵を被る人々の生活もあるので、誰も何も言わないが、現実の問題は人間の沈黙をよそに確実に進行していくことだけは忘れてはならないだろう。
     かつては普通の自立した生活を送っていた人々やその生活が商品化され、客足に依存する体質を身につけてしまったのは、果たして不幸なことであろうか。相互依存による見かけの安定生活をとるか、人間の尊厳を選択し、耐乏生活に近い正常な生活をとるかという問題をつきつけられる経験は、その当時の当事者でしか味わえないはずだ。だから、話題にさえしなければ、そして啓蒙しさえしなければ、市場原理によって双方成り立つ妥協の傑作として見なせばそれで波風は立たない話だ。
     経済効果とか国際化とか行動的とか幸福の追求といった多くの言葉によっていろいろな事柄を飾りたくなるのは、おそらくそうした暗部を覆うための僕たちの貧しい知恵なのかもしれない。
     臭いものには蓋をするというわけではないが、考えたくないものに対してはまぶたを閉じ、頭の中が真っ白くなるように仕向ければよい。そうした自己催眠は自分というものを救うのに役立つはずだ。
     そうした世の中になっても、もちろん基本的なところは変わらない。食べて、生んで、育てての生活だ。しかし、基本的な生活以外の生活のありさまが大きく変わってしまっていることは、既に根本から変わってしまっているのに等しいのではないかと思うときもある。
     もう、かつてのように、物理的に、技術的に、文化的な面が担っていたさまざまな歯止めを期待することはできない世の中になってきた。多くのことが可能になりすぎたのだ。これは社会に対する一種の見くびりを生み出すもとになる。その見くびりのため、そそのかされた関係者までが得体の知れない不利益を被ることになりかねないのが現代社会の恐怖の一つだ。そんなものの犠牲になるのは不幸というものだ。よくしようとして悪くなったことの典型だ。
     これには、相手が分からないから闘う楽しみすら味わえないというつまらなさもある。しかも、この苦境を味わうときにはたった一人で味わうことになるつまらなさもある。どうにも救われないのだ。
     さて、現実社会ではこのように自分を信じたり相手を信じたりして生活しているのだが、これに疑いが生じると不安になる。相手のふと見せた表情からでさえ疑いが生じることもある。人間というものは実に寂しい存在だ。
     この不安を解消するために僕たちはさまざまなことをしている。例えば、相手に挨拶をしてその返事の具合でどの程度信じられる相手かを測定する。もちろん、測定の方法や判定が正しいとは限らないが、毎日繰り返すなかで一つのゆるぎない個人的な指標とはなっていくだろう。
     これがネット社会だとどうなるか。自由に表現できる反面、それが現実社会へ反映される不安もある。また、信じることに疑いをもたないままでいることの不安もある。情報源が限られるために疑う余地が少なくなるのだ。
     「おはよう」という挨拶もそれは無表情な活字による文字情報という非常に限られた情報にすぎないから、読み取れるものがほとんどない。フォントや色を変えてもそれがどのように伝わるかについては、やはり相手任せで不安な気持ちになる。
     これを解消するにはできるだけ相手とネットでつながった状態になければならなくなる。これは膨大な時間の浪費となる。これ自体も不安となる。
     こうした不安が原因でおかしな社会が築きあげられてしまわないだろうかとよく思う。単なる杞憂であればよい。しかし、僕たちはその兆しというものに鈍感になってしまっていると仮定した方がよいのかもしれない。気づかない間にことは加速度的に深刻化する。気づいたときには遅いというわけだ。
     そんなとき、「そうなったらそうなったときの事」という無責任な発言をする者がはならず出現する。たいていは長い議論に飽き飽きしてしまったために、それを強制的に終わらせようとするのだ。同じように退屈し始めた者たちも多少なりともいるはずだから、何人かの賛同者も出現する。少しお調子者で面倒くさがりの要素があれば誰にでも口に出せることだが、ある種の潔さだけは漂わせていることばなので、お得意の決まり文句になりやすい。しかし、残念ながら決まり文句以上の何ものでもなく、効果としても建設的ではないので、議論に休憩を与えるだけのものになってしまう。
     いかにもそれでは芸がない。つまり、面白くないのだ。常に「そうなったらそうなったときの事」というのは、敢えて言わなくてもその通りなのだから何も言っていないに等しい。それどころか問題を先送りにしてややこしい状態にすることになりかねない。しかも、その張本人であるのに、肝心なときには自分は関係ないという顔をするか、もっと別のところに目を向けさせて別の話に持ち込むのがパターンだ。つまり、辟易としているのだ。
     これは危険だ。その隙に、ネット社会やネット社会で培われた不適切な人間性によって生み出された攻撃のチャンスが生まれる。おかしな世界の到来だ。
     表だっては手を出さない臆病者の闇の力の餌食となってじわりじわりと苦境に陥る可能性も年々高まっているように感じる。もちろん、被害妄想ではない。加害妄想としてだ。臆病者の方が圧倒的に多いのが現実だからだ。
     僕たちはこの四文字から妄想という二文字が外れないようにしなければならない。いつの間にか加害者になっていたということは、そう想像するに難くない。どうやら忙しく働いていた方がよさそうだ。
     もともと理不尽な世の中だが、ネット社会という、より理不尽な世界をたんこぶのようにくっつけてしまった状態では、通常の感覚を持った人間としては、やはり鈍感にならざるを得ないのかもしれない。

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    6/12/2009

    恐怖シリーズ137「輝き」

      <オーラ玉とは? 画像クリックで説明画面へ>
     オーラの輝きなるものは見たことがない。しかし、そうしたものは次のようなことが原因で起こることかもしれない。
     例えば、白内障に冒されていれば、ものがまぶしく感じられることがある。また、興味のあるものを見たときに人間の瞳孔は開くから、通常よりも多く光が取り入れられ、その結果まぶしく輝くように感じる。光が入る角度によっては、かなり輝く可能性がある。また、背景の色や明るさはオーラの見え方に影響がありそうだ。このように少しぼやけた見え方をしているところにまぶしさが加わってオーラと言われるようなものに感じることもあるのではないだろうか。
     つまり、ある一定の条件を満たすと、何かが光り輝いているように見えるということがあり、それがオーラの正体だという疑いだ。目の疾病が基本的な原因。ある特定の何かを見たことが契機。光が目に入る角度と見る対象の背景の色が適切な条件を満たすと、オーラなるものがなくても、オーラが誕生するというわけだ。
     もしかすると、年配の人にオーラが見える人が多いのではないだろうか。長年の修行の成果で見えるようになったと思っていたものが、実は加齢による単なる身体変化、つまり白内障によるものであったということはないだろうか。
     もちろん、若くてもオーラが見えるという人はいる。若年性の白内障という可能性もあるだろうが、中には実際に何かがあって、それが見えている人がいるかもしれない。しかし、その見えているものが所謂オーラであるかどうかはやはり分からない。
     たとえば、次のような場面だ。やや薄暗い部屋に窓から光が差しこんでいる。テレビを見ているわけでもなく、ただぼんやりとつまらない時間を一人過ごしていた。そこへドアを開けて突如入ってきた見知らぬ人物。自分の視界に入り込んだその人物に新鮮な予期せぬ魅力や興味を感じた。このようなときのまぶしさが精神的なまぶしさと相まって、恋に陥ることがあるやもしれぬ。これが一目惚れの過程だとしたら面白い。白内障ではなくても瞳孔がしっかり開くことによって十分にまぶしく見えるだろう。
     また、恋に陥ってぼうっとしてしまうのとは対照的に、ただならぬ相手が接近したため臨戦態勢に入って目がらんらんと輝くときも、結果として目に限っては同じようなことが起こっているかもしれない。相手に対する注目度が似ているからだろうか。らんらんと輝く目は瞳孔が開いているからそう見えるのかもしれない。敵に恋心に近いものを感じてしまうことがあるのも、こうしたことが下地にあって何か錯覚を起こしているのかもしれない。
     さて、人の顔も表情についても「輝いている」という言い方をするときがある。これは、質感や顔の部品の角度から感じ取るものだろうと思う。
     顔面の皮脂ののり具合や顔面の凹凸の具合によっては光を前面に反射する量が多くなり、「輝くような質感」が実現される。アンパンマンのような顔だ。彼は髪の毛がなく、前面に反射する光の量が多くなっている。頬と鼻も真ん丸でどの方向から光が当たっても必ずどこかの部分が輝くように設計されている。
     次に、目がつくるライン、眉がつくるライン、鼻の中心線と底辺がつくるライン、口がつくるライン、顎がつくるライン、耳の軸がつくるライン、額の輪郭がつくるラインなどで構成される表情が問題となる。
     多くの植物の花がひたすらに明るく見えるのは、恐らく中心から放射状に広がっていく花弁がつくるラインによってであろう。そのラインがたくさん感じられる分だけ明るいと感じる。それに対してカキツバタのように立ち上がった花弁がつくるラインと垂れ下がった花弁がつくるラインの複雑さからは、明るさだけでなく、上品で豪華な輝きを感じる。
     しかし、眉、目、鼻、口、顎という部品の位置関係によって、それぞれの部品がもっているラインがどう生かされて輝きとなっているかということが微妙な問題となってきそうだ。単純に眺めているだけではどのラインがどう働いているのかよく分からない。単に目のラインが上がっているとか下がっているとかいう一つの部品がもっているラインの状態が、どのように顔全体の「輝き」を構成するものであるか判断がつきかねる。
     この判断の困難さは、表情というものが変化するものであることに関係があるかもしれない。マネキン人形の表情がいかに輝いていようと、固定されたその表情はかなり不利だ。眺めている時間が長くなればなるほど、輝きは薄れて不気味な感じを受けるようになる。
     どのような表情からどのような表情に変化したのかということも、「輝き」というものを感じさせる重要な条件になっていくだろう。
     どのような美人であっても輝くような表情をもっていなければ人形のように魅力がない。オーラのような、それが見えると言われている人が極一握りの人に限られているものは無視してもよいのではないか。そもそも鏡で確認できないから、無視するしかない。
     それよりも「輝くような質感」「輝くような表情」を心がけたほうがよい。これはオーラと違って心がけ次第で人に見せることができる。
     ただし、そうしたものも「輝く存在」となることを目標にしたときの副産物でなければ、とてもむなしいものになってしまう。もちろん、「輝く存在」とは単に目立つ存在ということではない。一歩間違えて、目立つことを目標にすると、輝く存在ではなく、ただの鬱陶しい存在になり果てるおそれがある。これは恐ろしいことだ。
     また、オーラのような輝きを見てしまったという体験をした場合も、その相手を特別の人と感じて虜になり、闇雲に恋をして周りが見えなくなったり、相手の本質が見えなくなってしまうおそれがある。自ら勘違いして自ら破局を迎え、自ら傷つくというお粗末を演じるというおそれがそこにある。
     敵にオーラを感じ、敬いつつも闘いを挑み、刺し違えて死ぬほうが美しいと感じてしまうことも、やはり勘違い甚だしきお粗末な状態だ。これは危険だと分かっていても異様な魅力のある異性にふらふらと近づいて身の破滅をまねいてしまうのと少し似ている。
     虜になるということは自由を奪われてしまうということだが、百歩譲ってそこに喜びを感じることがあったとしても、命までも奪われてしまっては本末転倒でよりよく生きることにならない。よりよく生きるために日々の体験を積み、それを価値ある経験として大人になっていくのだから、悲劇は体験の少ない若者にふりかかりやすい。経験ある大人が同じように目のくらんだことになれば、それは悲劇ではなく、喜劇として評価される。
     たとえ本人に見えているものが本当の輝きであったとしても、あるいは輝いていると感じているだけであったにしても、それは錯覚であったり知覚異常であったりして、実際にはそんな状態があるはずはない(周囲の人々に共有されない感覚だから)のだから、ほぼ偶発的につくられた小さなその世界の展開が末期を迎え、そこから己が解き放たれたとき(周囲の人々の感覚レベルに同調したとき)に見た現実は、大きなギャップによって実際以上に冷たく恐ろしいものに感じられることになるだろう。不幸なことに、これが死をまねくほどの程度のこともあるだろう。
     輝きというものは実に恐ろしい。何しろ普通の状態ではないのだから。しかし、その感覚が思いになり、その思いが行いになり、その行いが運勢を変えていくとすれば、もしかするとよい方向に転ぶかもしれない。
     スタートとなる輝きがなんであれ、そこから生まれた望みは夢でありながら、望みを持つこと自体は現実世界の領域に所属するものだ。このような微妙な立ち位置にあるものはいくつもあるが、「望み」はその代表格のように感じる。「ゆめ」と「うつつ」を結ぶ架け橋といったものがあるとすれば、この「望み」というコウモリのようなものだろう。「ゆめ」でありながら「うつつ」、「うつつ」でありながら「ゆめ」であり続けるものというわけだ。
     ところで、「ゆめ」の超特急新幹線には「ひかり」「のぞみ」「こだま」とある。「ひかり」は「輝き」、「のぞみ」は「望み」だとすれば、「こだま」はいったい何だろう。
     声はすれども相手はいない。こんな木霊は「現実には思うような相手はどこにもいない」ということだろうか。輝きに心を動かされ、望みを持たされても実際には望みどおりの人など誰もいない。いるのは想像とはかけ離れた存在だ。
     しかし、そうした現実からは目を背け、あくまでも作ったイメージで解釈しようとするのが人間だ。いたわしい限りだ。
     こうなると、「ゆめ」も一種の「うつつ」ということになる。「のぞみ」という架け橋は、かくも貴重な働きをもっている。しかし、心の働きである以上、バランスこそが命だ。夢しか見ない者、現実しか見ない者は、その恩恵にあずかることはない。

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    5/6/2009

    恐怖シリーズ136「笑いの亡骸」

    <お笑いとは何だろう 画像クリックで説明画面へ>
     お笑いは救いだが、だからお笑いは恐ろしい。
     お笑いがお笑いのためのお笑いになっていく。それは恐ろしく、そして哀れだ。むなしく、死にたい気持ちになるやつもいるだろうが、そのとばっちりだけは御免こうむる。
     お笑いが何かを隠すために押しつけられていく。それは恐ろしく、そして傲慢だ。お笑いは、お笑いであってはならず、お笑いはお笑いでなくてはならない。そこの了解がないと、生理的な笑いだけが満ちあふれてしまうではないか。
     お笑いは芸人だけに任せてはならず、商売だけで終わってはならない。日常の僕たちの究極の平和な武器でなくてはならない。放逸なこの世の中が何によってもたらされたか、それ自体を笑うことでいろいろな答えが出てこないようならば、それはにせ物のお笑いに違いない。
     お笑い芸人は、そこのところを芸に滲ませいかねば消えていくか、お笑い以外の別の生き残り方をせざるを得なくなる。そうでもしなければ、笑いをとるのではなく、笑われる存在に落ちぶれてしまうだけだ。もう若手ではないのにその場の笑いをとることだけに汲々としているならば、道を考え直した方がよいかもしれない。
     世の中の現象に鋭く切り込んだ笑い、目から鱗が落ちるような笑い。見識を高めたり、物の見方の幅を広げたり、普段見過ごしていたものを深く考えたりするきっかけとなるような要素が笑いの中に仕組まれていないと、何かから逃げるための笑いになってしまったり、何かを隠すための笑いになってしまう。もちろん、そうした笑いを必要とする場合も多いから、否定するわけではない。
     我々庶民の生きる知恵としての笑い、生きる力としての笑い、生きる勇気としての笑いを、そのリーダーであるべき職業芸人が崩してしまうというような不都合でアンバランスな笑いをつくりだすのは避けなくてはならないというだけの話だ。
     「知恵、力、勇気」?突然思い出したのが、往年のアニメ「スーパージェッター」の主題歌だ。「……未来の国からやって来た 知恵と力と勇気の子 進めジェッター 嵐をくだけ 走れ流星 まっしぐら……」彼は確かタイムパトロールの警察官で正義の味方だ。流星号が故障してタイムトラベルできなくなり、20世紀の現代で悪者をこらしめるという勧善懲悪ものだ。パラライザーとか反重力ベルトとか少しだけ時間を止めることができるタイムストッパーなどの小道具をもっている。知恵と力と勇気はこれらによって支えられているのだが、彼の行動が純粋な正義感を土台としていることは間違いない。
     ところで、近頃の日本人から正義感というものが無くなったようなことが言われるけれども、本当にそうなのだろうか。確かに正義感が欠落している人は多い。しかし、昔よりも目につく行動をとるような傾向が出ているだけのことなのかもしれない。
     もしそうだとすると、その原因としては日本国民の幼稚化が考えられる。しかも、みんなで同じように幼稚化することを遠回しに強要するようなタチの悪い幼稚化だ。幼稚化すると、これまで自重していたことが目につく行動として出始める。それは何かから解放された感じに似ているので、そのことを取りたててその行動を肯定する理由とすることも可能だ。
     そうした行動は他の人の目にも入る。それが放送されて不特定多数の人々の目にはいるのだ。そのことが世の中に好ましくない風潮を作り出し、正義感が本格的に欠如した放逸な社会を生み出していくきっかけとなりやすいのではないだろうか。放送というものは元来人の意識を変えて世の中を変えていく機能を持っているのだから、たとえそれがマイナスの方向へ人々を誘うものであっても免れることは難しい。
     最新のTVセットがいかに優秀なものであっても、内容次第ではたちどころに愚劣な存在となってしまう。たとえ海外の優れた内容の番組であっても、制作者の意を酌まない別の意図がはたらいた日本語訳の調子で表現され、独自のナレーションがどのように加えられたかで台無しになってしまう。換骨奪胎というやつだ。
     これを救うのは、やはりその場で勝負のお笑いだ。編集の余地を与えないスピード感がある。また、お笑いに対する認識が低いため、たかがお笑いだからとチェックが甘くなっている利点もある。しかし、お笑いに救いを求めるのは両刃の剣だ。正義感を取り戻し、知恵と力と勇気を創造する笑いか、それとも単に生理的な笑いを追い求めるむなしい笑いか。この国の将来は、もしかするとお笑い芸人の見識にかかっているのかもしれない。それでないと、薬の力で笑ったり、薬の力で気持ちよくなったりするしかない人間性無視の笑いの亡骸だけが横たわることになりかねない。
     メディアにのる彼らは自分たちが思っている以上に人々の心に影響力を持っている。人々にも彼らからの影響力が予想以上のものである可能性が高いのではないだろうか。お互いにその自覚があるかないかは確かめようがないので不明だ。
     視聴者も、ただ笑って健康になろうとか、憂さを晴らそうとか、暇つぶしに見てやろうとか、どの程度面白いか批判しようとか、ただ面白ければそれでいいとかさまざまな目的をもっている。もちろん、それはそれでよいのだが、お笑いブームをきっかけとして、その存在価値がそれだけでは困るということを大人として考えなければならない。七面倒だがこれから起こるであろう大きな不都合を予感するから仕方ない。 
     本来、メディアにのるということは、全国民への影響力というものを好むと好まざるとにかかわらず付与されたということなのだから、覚悟というものがあって笑いを演じているはずだ。だから、有効な視聴を心がけるとするならば、視聴者側も、それを受けとめる覚悟が必要だと思うのだ。それはどのような覚悟であればよいのだろう。それは、演じ手と聴き手によって生み出された気運というものに、それぞれがどう付き合うかという覚悟であるかもしれない。
     芸人も、現実を茶化しているだけでは小さな子供にまで見透かされてしまうことを忘れてはならない。視聴する大人も、そばで見ている子供が憧れるような笑いの受け止め方ができるように成長していなくてはならない。「お笑いなのだからもっと気楽な構えでよいのでは」というささやきも聞こえてきそうだが、演芸場に足を運ぶようなある程度人生経験を積んだ特定の者が少人数で享受するようなレベルの世界ではなくなっていることに早く気づかなければならない。
     通信網情報網が発達した現代は非常に便利なのだが、一方でこうした面倒を引き起こす。生きるということは元来面倒なことで、面倒がなくなるということは死ぬということと同じだ。それを忘れさせてくれているのが祖先から受け継いだ文明やら文化のおかげだ。一般的な動物なら、人間のペットでない限り常に生きるか死ぬかの大問題を抱えているはずだ。何かを便利にしても別のところに面倒が生じるから、それに上手くつきあうしかない。生きるか死ぬかという大問題を抱えるよりはよいだろう。
     さて、笑いの地域差というものはかつて歴然としてあったのだが、現在はどうだろうか。全国ネットのテレビ番組やお笑い芸人の他地区への進出によってかなり撹拌され、地域差が薄らいでいる可能性はある。しかし、いまだ関西と関東とでは「バカ」と「アホ」の受け止め方が反対かもしれない。同じ映画をみる観客を東京と大阪の両方で観察するとよい。かつて全く異なるところで反応して笑いが起こったものについて、どのような変化が起こっているだろうか。また、中間地点の名古屋ではどうだろう。抽出地点を研究して比較し、その変化を長期間にわたって記録すれば、面白い結果が出るかもしれない。昔と違って世の中の動きはめまぐるしいので、研究者一世代で結果が出せるかもしれない。
     そうは言っても、映画や演芸場の観客がどういう一人一人であるのかを正確に把握することは難しい。知識がなければ笑えないところもある。知識があっても繊細な感性がないと笑えないところもある。また、ある自分自身が笑ったことが周囲にどのように評価されるかという、地域文化の違いもある。
     制作者としてはそこをどう計算して笑いをとるかに命をかけることになる。結局は計算できないから水ものになってしまう。日本全国で共通した笑いを求めれば、巧妙な仕掛けをたくさんつくる道を選ぶか、低レベル化への道に走るかのどちらかだろう。あってはならない笑いの幼稚化だ。確かにそれで視聴率はとれるだろうが、将来の日本人の精神構造を危ういものにしていくおそれがある。生物多様性ならぬお笑いの多様性が損なわれることによる精神構造自体への悪影響が心配されるのだ。
     最も恐ろしいことは、当てるためには観客のニーズに合わせるのではなく、観客にお仕着せのニーズを持たせればよいという発想が生まれることだ。これなら外れることはない。費用対効果を考えるならば、総合的にいろいろな分野から手が回るようにして観客の精神構造に特定の下地を作り、そこにフィットする作品を制作するという手法だ。それでも手っ取り早くやりたいのが人情だ。では、どういう下地を作ればよいかという問題になる。
     映画だけでなくお笑いも一緒だが、この点においてかけるお金の桁が違う。お金をあまりかけない代わりに、お笑いの世界では当たりが出るまでにたくさんの芸人を消費することになる。芸人にとってはたまらないシステムだが、そこにお笑いの救いがあるとも言える。
     いつかどこかで見識の高いお笑い芸人が何人も誕生し、自分の魂を汚さず、しかも互いに潰し合わないように頭を使い、不特定多数の視聴者に満遍なく有益なメッセージを発し続ける可能性があるからだ。要は「継続は力なり」だ。映画監督といえば見識ある人々ばかりであるように思うのだが、残念ながら僕たちは日常的に映画作品に接することはなく、メッセージも単発だ。作家や文筆家も同様だ。メッセージを繰り出すという点で残念ながら小回りがきかないということだ。
     みんなが接しやすいものでなくてはならないという大きな課題をクリアしているのはお笑いだ。このお笑い作家に期待をしたい。
     お笑いは救いだが、だからお笑いは恐ろしい。
     お笑いがお笑いのためのお笑いになっていく。それは恐ろしく、そして哀れだ。むなしく、死にたい気持ちになるやつもいるだろうが、そのとばっちりだけは御免こうむる。
     お笑いが何かを隠すために押しつけられていく。それは恐ろしく、そして傲慢だ。お笑いは、お笑いであってはならず、お笑いはお笑いでなくてはならない。そこの了解がないと、生理的な笑いだけが満ちあふれてしまうではないか。

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    <昔の笑いと比較すると 画像クリックで説明画面へ>





    5/3/2009

    恐怖シリーズ135「余分なもの」

    <篆書は非常に興味深い書体だ 画像クリックで説明画面へ> 
     元来、余分なものが大事なものになることがある。
     たとえば、漢字の「はらい」や「はね」などは基本的には余分なものであったはずだが、どういう本末転倒が起きたものか、書道の世界では、いかにはらうか、いかにはねるかなどが技法の面で云々される。おそらく、特にはらいやはねの部分で書きぶりの特徴が出やすいからだろう。これは、篆書のようなものなら誰が書いても同じようになることからもわかる。
     重要なのは、その「はらい」や「はね」の特徴が文字の書体としての特徴となるために、文字の構成になくてはならないものとしてとらえられているという事実だ。なくてもよかったものである可能性が極めて高いにもかかわらずだ。それは、それが文字であるがゆえに他の文字との関係において特徴的であろうとする宿命に忠実であろうとしたことにもよるだろう。極端な場合は、本来は「はらい」や「はね」であったものがいつの間にか点画に変化してしまったものもあるかもしれない。
     やはり「はらい」や「はね」などのない篆書やそれ以前の書体の文字がどれも似たような印象の文字に見えてしまうのはおそらくそのせいだろう。もっとも、さらに時代を遡れば、文字も限りなく絵に近いから他の文字との区別は付きやすい。
     しかし、現在の漢字になる過渡期の文字は特に篆書において機械的に空間割りをしているように見え、そのためか無表情で同じ篆書の他の文字同士での比較では区別しにくい。しかし、それが安定感や線の密度の均一さを求められる印章に用いられる所以だろう。他の書体は廃れてもそこに生き延びる場を確保した篆書は、そうした意味では極めて特徴のある書体だとも言える。もっとも、篆書と一口に言っても種類があるからそれぞれに味わうようにすればよい。  
     さて、逆に言えば、「はらい」や「はね」のような点画の末端部分に頼らねば文字の特徴を出しにくいということになる。ある特定の文字の特徴が形として出せるそうした末端部分に、表現したい気持ちやその他の精神的なものを託さねば、鑑賞する者の心に感動をもたらすことは難しいという事情があるのだ。
     なぜなら、線の途中では、どのような特徴を出そうとも、墨の掠れや線の太さの変化以外に示せないからだ。しかし、これでは形の変化のバリエーションが少ない。何しろ自分の特徴を自分で塗りつぶしながら線が書き進められていくのだから仕方ない。これは証拠隠滅をしながら点画の最後の部分で自己表現を試みると表現されても仕方がないような状況だ。もっとも、筆を進めるという証拠隠滅をしながら、穂にかかる力や筆の角度を微妙にコントロールし、いかに終筆を迎えるかの気持ちやものの構えを作ると考えれば、比較的長い線の後には特徴ある終筆を期待することができるとも言える。
     こうした「はらい」や「はね」やその他の終筆を、場合によっては枝葉末節のことといって切り捨てて考えることがある。文字を読むとき、頭の中ではおそらくそのような切り捨て作業が瞬時に行われているはずだ。「はらい」や「はね」などの特徴ある終筆は無視してかからねば、それらの長さや方向が異なることによって、その文字が別の文字に見えてしまうような特殊な感覚の持ち主もいるだろう。彼らはそうなると、文字を読むのが非常に困難になってしまう。読字障害というものがあるが、漢字の場合はどのようなものが障害になって字が読めないか、非常に興味がある。読字障害の症状を和らげる書体というものを考える余地があるかもしれないからだ。
     しかし、その次に考えなくてはならないのは、文字を鑑賞するというレベルでのケアーだ。読むために無視して切り捨てた元来余分なものと思われる部分を、今度は文字の重要な構成部分として積極的に認めるという作業を頭の中でしなくてはならないと思うからだ。
     このように、いろいろと考えるべき所があるので、書道というのは案外と面白いものなのではないかと思う。
     余分なものを大事にする姿勢がなければ始まらなかったものは多そうだ。芸術関係はもとよりそうだが、技術関係も同じだ。ここで話を飛躍させて生き物に目を向けてみるとどうか。
     贅肉は余分なものだが、その余分なもののつき具合で顔の善し悪しが表現されたり、スタイルの善し悪しが表現されたりしている。これは人間が獣のように毛で覆われていないせいか特に大事にされる。人相とか手相とか言い始めると、骨格の問題もあるのだろうけれど、その贅肉によって人間性や生き方まで決まってきてしまうというのだから恐ろしい。
     頭髪は頭髪で、ここまで体毛を減らした人間には既に余分なものだ。将来的にはなくなってしまうものと思われているから、もう余分なものと考えてもいいのだが、その残された頭の体毛の色を変えたり形を変えたりして大事にしているのは、やはり余分なものだからだろう。本当に大事な胃袋や心臓などにはほとんど関心がなく、不調になってきてから漸く心配し始めるほどだ。
     さらに話を飛躍させて、生き物の存在自体に目を向けてみる。生き物は、その存在自体が宇宙にとって余分なものなのではないだろうか。宇宙にとって元来なくてもよいものだという気がするのだ。すると、生き物という存在は生き物でないものに大事にされているものなのかもしれないという気もしてくる。
     生き物でないものとは何だろう。何か怖い感じがする。我々が考えているような生き物とは違うレベルの生き物かもしれないが、全く生き物ではない存在なのかもしれない。ただ怖いだけでなく、面白そうな感じもする。発想の延長というものは、このように有りもしないものを想定するように我々を導く。しかし、頭に浮かんだ有りもしないものも、それはそれで余分なものだ。だから、大事にしなくてはならないと思う。問題は、どのように大事にするかということだ。

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    4/18/2009

    恐怖シリーズ134「レコードと筆」

     <矢立はなかなかいい。 画像クリックで説明画面へ>
     レコード盤。この二十年全く見かけることがなくなった。マニア向けにどこかでまだ生産されていると聞く。
     それにしても、音を記録して再生するという発想をよく得たものだ。それを受けて、ある程度実用化するまでにこぎ着けたエジソンはやはり恐るべき人物だ。しかし、後続の者たちは、その発想を出発点としてアイデアを積み重ね、夢を実現させる道をたどる努力をしなくてはならないので、ありがた迷惑だとも言える。なにしろわき出てくる発想は増え続ける。もっとも、いずれどこかで見限られるということがあるはずで、払ってきた努力がそのために無になってしまう可能性もある。
     最初に発想した者、その発想を公にした者がいなければ、その発想を実現する者たち、それを造る者たち、売る者たち、買う者たちも出現しない。
     さまざまなものが生み出されていく過程でいろいろな人物がかかわっているということの素晴らしさと恐ろしさが、夢を形にするということの素晴らしさと恐ろしさだ。要は夢の内容だ。その時にはたわいない夢物語でも、時の力で多くの人が関わって実現してしまうということも現実としてある。時代の回転軸付近に位置している社会への影響力の大きい人は、おいそれと与太話に花を咲かすことができないということだ。
     さて、録音再生という発想はどのようにして得られたものなのだろうか。声真似をするという発想でもなければ、耳で聞いて頭に記憶しておくという発想でもない。肉体ではなく、物に託すという発想の飛躍はどうしても尋常なものとは思われない。
     もしかすると、オルゴールのようなものを見ているうちにもやもやと生まれてきたものかもしれない。もやもやとうまれたか、ぴんときたかは分からないが、エジソンの円筒形タイプの録音機器はオルゴールのピンと弾かれる振動部品の関係を逆転したもののようにも思われる。してみると、ことは単純だ。音を発生する機械のオルゴールに対して、録音する機械は部品の働きを逆にすればよいという単純な思いつきになる。
     もちろん、アイデアを形にし、実用化するまでには多くのハードルを乗り越えなくてはならず、大変な苦労が必要だ。途中で気持ちが挫折するかもしれない。途中で開発資金がなくなるかもしれない……。文字どおり命がけでなければできない。開発できたとしても採算が合わねば、その技術は日の目を見ることもなく消えていくしかない。こんなことに命をかける変人は圧倒的に男性が多い。そばで支えてくれる女性がいる場合はなおのこと安心して気合いを入れることができるからかえって始末が悪いこともある。良くも悪くも人の世は、この偉大なる変人たちによって大きく変貌してきたのは間違いない。
     ところで、突然レコード盤を頭に思い浮かべてしまったかのはなぜか。これは書道のトレーニング中に筆がレコード針に見えてしまったからだ。そんな太い針はないのだが、先が尖っているのだから、ぼんやりとしていればそう見えても仕方あるまい。そのうちに、臨書するのはレコード針が音声を再生するようなものなのかもしれないと頬杖ついてあれこれ思いにふけってしまったのだ。
     少し大袈裟な話に聞こえるかもしれないが、手本に似せて頭の中でイメージしたものを筆の運びで再現しようとするのは、書家の息づかい、姿勢を通して、書家の思い、精神、生きた世の中の様子までを再現しようとする試みなのではないかという妄想にとらわれ始めた。この妄想は果たしてただの妄想であろうか。
     そうしたつかみ所のないものは、どこまで再現できるものなのだろう。明確につかめるものだけをつかもうと努力するのもよいけれど、世の中にはつかみ所のないものも合わせて世の中だから仕方ない。つかめるつかめないは別として、つかもうと努力することが人間性を失わない訓練となっているはずだ。
     さて、レコード盤と違って紙には溝はない。その代わりに目に見えない溝を頭に描きつつ筆を運ぶ。同じ字でも書家によって随分と書きぶりが異なる。時代によっては書体までが異なる。同じ書体でもやはり書家によって書きぶりが異なる。
     書家の目に映った世界、書家の肌をふるわせた音、書家のこころを動かした事件……そうしたさまざまなものが寄り集まって書家というものを形成し、書に声ならぬ声を結実させていくのかもしれない。そのように、書家という存在の仕方や声ならぬ声が運筆となって表現されるとしたら、それを再現することを意識しての臨書は、書道のトレーニングではなく、書道の稽古と言わなければならないだろう。
     これは、美しく文字を書くためや、手本となる文字を忠実に再現するための筆の操法を身につけるトレーニングではなく、過去の人物の内面とその内面を形成した環境を深く考えるという作業としての稽古でなければ、取り組む価値は半減するということを意味することになる。筆というレコード針で、大昔の書家と同じような腕や指の働きを再現することにより、書家の生き様や生きてきた世の中の雰囲気を追体験できるとしたらかなり面白いジャンルだといえる。もちろん、面白さの裏には同じだけの恐ろしさもある。そもそも、その面白さに何の意味があるかを分かっているかいないかという問題がクリアできているかという基本的なハードルを越えていなくてはならない。ただ面白いと感じているだけでは趣味の世界の入り口にとどまるレベルにいるに過ぎない。
     また、別の恐ろしさもある。目や息を使い、文字ばかりではなく、文章の内容に込めた思い、願い、心の姿勢までも再現する覚悟で文字を書かねば同じような字を書くことは難しい。しかし、この稽古を極めていけば、書家の亡霊が出現すると思うのだ。
     亡霊は語り出すに違いない。その語りをどの耳で聞けばよいのだろう。どんな顔で聴けばよいのだろう。この恐怖を味わうところまで僕の人間性は高められていないので、かえって助かっているだけであるように思う。しかし、少なくともどんな気分でその文字を書いていたかということだけは、伝わってくるような気がする。
     この「気分」だとか「気がする」というところが大事だ。気のせいだとも言われるだろうが、その「気」のせいで、あるいは「気」のおかげで、僕たちは自分なりの人生を歩いているのは間違いない。
     ただ、その気分は言葉で表しにくい。これは音楽の曲と似たようなところがあるが、曲の方が気分を直接に表現しているように感じる。そこへ歌詞をのせて、表現すべき「気」をさらに明確化していく。書はどうだろう。曲と歌詞の関係は、書と文章の関係と似ているかもしれない。
     しかし、気分よりも深いところにある精神的なものには、いくら掘り下げてもおよそ手が届かない。これは自分の修業不足だ。もっとも、文字の意味や文章の意味が、気分よりも深いところにあるものへ理解を邪魔をしている可能性は高い。
     忠実にそうした精神的なものが再現されたとしたらどうだろう。また、再現し損ねたとしたらどうだろう。やはりどちらも恐ろしいように思う。ここはひとつ無難なところで習字として割り切り、点画を美しく書くためのトレーニングというとらえでたしなんだ方が結局はよいような気もする。
     あるいは、書道として割り切り、自分自身の精神修養と芸術性の追求を目的とするのも無難だろう。そうすれば、亡霊に取り憑かれることもないような気もする。
     もっとも、書家の人生観やその一生を詳しく調べぬいた後に覚悟を決め、墨をすりながら供養する気持ちを高めておくことぐらいは最低必要だろう。臨書をする覚悟というものは意外と厄介なものだ。しかし、何事も予防が第一だから仕方がない。
     つまり、何の構えもなく書と向き合って臨書に及べば、目と手からのわずかな刺激で自分の中にあるどのような魔が目覚めるか分からないということだ。大昔、書に封じ込めらた怨念、情動、精神的な屈折、そうしたものに共鳴しやすい人もいれば、感性が薄くて感じにくい人もいるだろうから、影響力は一様ではないが、用心をするに越したことはない。

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    2/23/2009

    恐怖シリーズ133「主旋律」

    <ジブリの曲をオカリナ楽譜で 画像クリックで説明画面へ>
     主旋律を歌えないことによって生じるフラストレーション。
     男性であれば誰でも学生時代の音楽の授業で経験することだ。中学高校時代で味わうことになるのだが、これは誰の何にどんな影響を与えているだろうか。多感な時期だけに恐ろしい。
     ところで、多感である理由は何か。そもそも多感とは何か。多感にも二とおりの意味があるように思う。いろいろなことに対して感じやすいという多感と、少しのことに対しても感じやすいという多感だ。多感といっても、感性が豊かであるとは限らない。どちらかといえば、多感な時期を経ることによって感性が豊かになっていくように見える。鋭い感性が磨かれていく過程はその先だ。
     一見、子供の感性が鋭いように感じられるのは、語彙不足であるがゆえに特異な表現となってしまったものを、大人が大人流の解釈をしてしまうことによって「この子の感性はなんて鋭いのだ!」と思ってしまうことに原因があるように思う。
     また、子供の感性が豊かであるように感じられるのは、大人であれば既に日常生活の中で解決している事柄に関する物事に対しても子供にとってはそれがまだ新鮮な刺激であるため、他意もなく自然と目を向けただけであるのに大人の方で自分が忘れていたことやあきらめていたこと、あるいは自分に必要でないと判断していたことを敢えて指摘されたような気持ちになって「この子の感性はなんて豊かなのだ!」と思ってしまうことに原因があるよう思う。
     だから、子供の感性を大事にするということを間違って解釈してしまうと、大変なことになる。せっかくの素晴らしい子供の感性の開花を事前に摘み取っておきながら、この感性が大人になるにしたがって失われるのが実に惜しいと平気で放言するようになる。
     大人というものは子供を育てるときに立派な双葉になることを目標にして育てているのではないはずだ。子供の感性が失われていくのは、生活の必要に応じて大人の感性が育っていくからだろう。大人としての感性が育たないようにしていくには、大人の世話を常に受けている子供の状況に人々を押し込めておくことが必要だ。あらゆるサポートやサービスを充実させていくことによってそれは実現可能だろう。
     当然、子供のままの感性がとめどなく育っていっては大人社会を生きていくには不都合が多い。それゆえ、子供の未熟な感性から大人の感性に進展させていくための訓練が国家や地域社会や家庭で行われたり、自己の行き詰まりや自分を取り巻く環境の中で起こった事件を契機として自己研修に励んだりしなくてはならない。特に、通過儀礼のシステムがほころびてきた現代日本社会では、自己責任による自己研鑽が必要とされているが、世の中の古い仕組みはそれを支える力を持たず、新しい仕組みの基本的発想にはありながらも有効な実現手段があまりとられていないように見えるのが残念だ。
     しかし一日中、大人の感性だけで生きてけば、大人は大人であることに疲れてしまう。そこで、心のどこかに子供の感性を残しておき、タイミングよくそれを発動することによってリフレッシュを図る。そうした原初的な感性に戻るということは、疲れを癒すだけでなく、活力を得たり、新しいアイデアを得たりすることにつながる。疲弊した現代文学が万葉集に回帰することによってエネルギーを得るのと似ているかもしれない。
     このような子供と大人の感性のボーダーにいる時期にあっては多感にならざるを得ないだろう。成長とともに次第に生き方の勝手が違ってくるから、何にどう対処してよいか分からないのだ。だから、アンテナを高く張り、感度を高めずにはいられないに違いない。自分を取り巻く世界が広がるのに合わせたそうした対策が、物事に過剰に反応したり、そのことによって逆に無関心な分野ができてしまったりする。
     一度かかわると視野が狭くなってしまうのは、こうしたことが原因となっている可能性がある。恋に陥りやすいのも同一の原因だろう。「もうあなたしか目に入らない」という視野狭窄で過剰反応の世界だ。これは同時に情報の遮断効果をもたらし、恋が成就することを助けているように見える。ところが、恋愛結婚後はさまざまな社会との関わりを持たざるを得ない時期を通ることによって幅広い視野を持ち始める。
     このときにまでに、いかに大人として成長しているかが問題となる。その成果如何によっては、婚姻関係を継続させるなかで互いに成長を続ける二人となるか、離婚によるリセット効果を期待して振り出しに戻り、自分を見つめ直すという段階に立ちもどるかという二つの道の間のどの辺りを歩むことになるが左右されることになる。
     特に青少年の時期、なかでも中高生の時期にさまざまな体験を積んで、大人としての感性へと脱皮していくための契機としたり、脱皮のためのエネルギーとしたりすることはとても大事なことだ。視野の狭さによる関心事や無関心事のアンバランスが、社会生活の中で半強制的にさまざまな体験を積む中で次第に順当なバランスを取り始めるからだ。その種の体験を体当たりで積もうとしないパワーのない若者が、味のある実力者としての個性的な老人になれるはずがない。
     一見、個性的な若者も化けの皮をはがせば実は個性的なのではなく、幼虫のまま成虫化したモンスターである可能性もある。個性的であることは、節度を持っていることが最低条件であるはずだが、これが欠落している者に対しても個性的という評価を下して珍しがる風潮が案外とある。その事自体には面白みがあってよいのだけれど、結局は珍重されて利用されたり面白がられたりするだけで使い捨てにされるおそれがあるからかわいそうだ。しかし、珍しがられることが案外と本人にとって心地よい場合があり、それはそれで小さな幸福だといってよいのかもしれない。
     では、一つ一つの体験が大きな意味を持つはずの学生時代のなかで、音楽の授業の主旋律を歌えないという体験がもたらす効果にはどのような恐ろしさが秘められているのだろうか。そして、誰の何にどんな影響を与えているのだろうか。例によって十項目掲げてみたい。

    ①メインから外れていても、外れた者同士の気が合っていれば大丈夫だという感覚が育っていくおそれがある。
    ②メインから外れていることに居心地よさを感じてしまうおそれがある。
    ③音程を上げるのが生理的、音楽的に自然であるのに、反対に下げたり同じ音程を維持したりしなければならないという違和感をうまく処理できないことがある。このときのストレスが積み重なったことによって起こるフラストレーションや、他のストレスの非社会的、反社会的発散の契機となったりするおそれがある。
    ④主旋律に引きずられる男性に対して、女性が自分たちの能力の方が高いと思いこみ、必要な努力を怠る心の隙を持ってしまうおそれがある。
    ⑤主旋律を歌う開放感を味わえない男性は、得体の知れぬ不満感を内に秘めていくようになるだけでなく、女性が男性よりも優遇されているような感覚をもってしまうおそれがある。
    ⑥主旋律を歌う開放感を味わえない男性は、得体の知れぬ不満感を内に秘めていくようになるだけでなく、女性であれば開放的に歌えるのにという願望から、女性化する道を模索するようになるおそれがある。
    ⑦主旋律を歌う開放感を味わえない男性は、得体の知れぬ不満感を内に秘めていくようになるだけでなく、女性に対して軽い恨みを持つようになるおそれがある。
    ⑧男女の区別なく主旋律しか歌わなかった児童の時代に戻りたいという気持ちが知らず知らずのうちに育ってきて、男性の幼稚化が始まるおそれがある。
    ⑨男性の方が女性の主旋律に合わせてくれるだろうという甘えの気持ちや依頼心が知らず知らずのうちに育ってきて、女性の幼稚化が始まるおそれがある。
    ⑩広汎性発達障害は男性に多いということらしいが、聞こえる音程と自分が出すべき音程との整理がつかず、どうしてよいか分からなくなってパニックを起こすおそれがある。

     何しろ多感な時期なのだから、ここに挙げたような大袈裟なことは無視してよいなどと口が裂けても言えないことを肝に銘じておく必要がある。
     これをどのように解消すればよいのだろうか。⑩は別として、解消のための手だては一つしかないように思う。自分たちが歌った歌を美しい歌として客観的に聴くことだ。録音して男性と女性のパートが絶妙に絡んでハーモニーを創り出す音の美を体験することだ。これは歌っている間には体験できないものだ。この男性と女性の協同作業が美しければ美しいほどマイナス効果も美しいプラスの効果となっていくだろう。
     意外と簡単な方法で恐怖が解決することもあるものだ。ただし、不幸なことは全てが歌唱指導担当者の腕にかかっているということだ。

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    <ところで思春期というのは虫にもあるのだろうか 画像クリックで説明画面へ>
    2/19/2009

    恐怖シリーズ132「揺れる心」

     手の大きさを錯覚することがある。
     最も正確な比べ方に近いのは、物差しなどの基準になるものをあてがってお互いの手の大きさを測定することだ。しかし、手のどこからどこまでを測るのかを決め、測り始めと測り終わりの場所を同じにしないと、正しくは比べられない。測る場所のずれから生じる誤差と、物差しなどを読み取るときの誤差の分だけはずれることになるが、これは仕方がないことなのだろう。
     次に正しく比べられそうなのは、お互いに手の平を合わせて側面から見て大小を判定することだ。これは基準となる合わせはじめの場所がずれていたり、どちらかの手の平が少し反っているなど、お互いに真っ直ぐになって合わさっていなかったりすると、合わせ面が曲がっていることによって誤差が生じ、それが手の微妙な大きさの違いよりも上まわると大小の判定を誤る場合がある。
     また、合わせ面が少し曲がることによって目の錯覚が生じ、長さが違って見えることもある。同じ大きさのバナナも並べ方で長さが違って見えるのもこの目の錯覚による。
     あるいは、自分の右手と相手の左手、自分の左手と相手の右手を比べることになるという不都合もある。これは左右の手のどちらかが年齢を重ねるにしたがって生活経験の違いを反映し、幾分大きくなったり萎縮したりしている可能性もわずかながらあるということによる不都合だ。肉体的に同じ経験を積んでいるのなら、左利きの人と右利きの人の組み合わせがよい。利き手同士、利き手でない同士を比べることになるからだ。 
     ただ、これは物差しなどの器具を使うよりもスキンシップが生まれるので、そちらの方を目的にした方がよさそうだ。
     次に正しく比べられそうなのは、お互いに体の向きを同じ方向に向けて横に並び、指先の方向と手の平の方向を同じ方向にし、左に位置するものの左手と右に位置するものの左手を左右に平行に並べた状態で目視による大小の判定をすることだ。
     左右に並んでいるので比べやすいが、目で見た印象で判定することになるため、手の甲の色の違いや肉付きによって手自体の大きさを錯覚する場合がある。
     最も比べにくいのは、お互いに体を向かい合わせにして比べることだ。この場合は、目の錯覚というよりも、手の構造上の問題で自分の手の方が小さく見えてしまうことになる。自分の左右の手はおよそ大きさが同じはずなので、片方は自分から外に指先を向け、もう片方は手首の関節に少し無理があるが、自分の方に指先を向けて横に並べてみると、前者の方が小さく見える事に気づく。左右逆にして比べても、やはり自分に指先を向けた手の方が大きく見える。
     よく手のつくりを観察すれば、その理由が分かる。手の甲側の指の付け根の関節から手の平の指の股にかけて約45度の傾斜があるからだ。自分の手の甲を見たときに目の位置と手の位置とで作る角度も約45度なので、視線とこの傾斜が一致してほとんど目に入らなくなる。これに対して自分の方に指先が向いている相手の手の甲を見たときには、この傾斜部分がほぼ視線と直角になって目に入るため、その実寸が目にはいり、その分だけ手が大きく見えるというわけだ。
     このことから同じような手の大きさの相手と向かい合うときには、互いに相手の手の方が大きく見えるため、体が向かい合うことによる以上に、いっそう防衛本能や攻撃本能が働きやすくなると予想する。腕や手がこちらに向かって突き出された格好になり、攻撃や防御の姿ともなるものだから、その手が自分の手よりも大きく感じられるという錯覚が自然と心に大きな影響を与えてしまう可能性がある。
     逆に、横に同じ向きで寄り添う場合は、横にいるという親近感、そして横にいることを互いに許したという暗黙の了解、視線の回避などに加え、手の大きさが同じ程度であるということによる安堵感が生まれやすくなると予想する。
     この中間にある互いの体の向きが直角に交わる並び方からは、適度の緊張感と適度の安堵感が交錯したバランスのとれた心理状態になると予想する。要らぬ敵対心や根拠のない親近感という極端な状態から解放される並び方であろうと思う。
     ただし、これらのいろいろな効果は、互いに手が見えていることが必要だ。立って手の向きが下を向いてしまったり、ポケットに手を突っ込んでいたり、腕組みをしたりして手を隠していてはいけない。
     しかし、たとえ手が見えていなくてもこれまでの感覚がよみがえって、似たような心理状態が生まれるということはあるだろう。ある人の前に立つと緊張するとか油断するというのも、現実の感覚によるものではなく、過去の強烈な印象の記憶によるものである場合がある。自分を相手に意識的に印象づけようと思ったら、手や指が相手によく見えるようにし、比較的大きなジェスチャーでころあいよく、身体表現をするのがよいだろう。
     本当のところはどうか分からないが、案外こんなつまらないことで心というものは揺れ動いてしまっているのかもしれない。そうと考えると、非常に恐ろしい。確固たる自分というものの存在が危ういものであるように思われてしまうからだ。突き詰めて考えていくと、周りのさまざまな刺激に必要以上に神経質になってしまいそうで仕方ない。これもやはり恐ろしいことだ。
     ただ、さまざまな刺激があるので平均化してしまっているということもあろうかと思う。その証拠といえそうなのは、ある特定のものが気になり出すとほかのものが目に入らなくなり、特定の気分がわき起こってくるということがある。これは誰もが経験していることだろう。それならば、気を散らせばよいという話になるだけだから、ことは単純だ。ただし、いくら単純でも、それが簡単であるとは限らない。

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    <懐かしいセイコー5の逆輸入。これは欲しい。 画像クリックで説明画面へ>
    2/17/2009

    恐怖シリーズ131「感性の鈍磨」

    <鼻がきくだけでは駄目だ 画像クリックで説明画面へ>
     かつて愚民政策という言葉があったけれど、既に定着したので、単に政策といってよいのかもしれない。これによって、結果として国が滅ぶ。
     では、本来の政策はどうだろうか。過去十年で何かうまくいった政策が一つでもあるだろうか。過去二十年でも、三十年でもよい。成功例というものは果たしてあるのだろうか。
     しかし、本当にこの国を潰そうと思ったら、愚民政策だなどと悠長なことばかりを言っていてはいけない。同時に政府工作を進めるのがよいだろう。もっとも、工作する必要があまりないところにこの国の不幸がある。
     かつて未来学と称するものが、日本の将来は薔薇色だと結論づけたことがあった。確かにおよそ予想された結論になったが、薔薇と聞いて、花はしおれて枯れるのにどうして浮かれるのかと不思議に思った国民もいたはずだ。しかし大方は、単純に自分たちの将来を喜んだ国民の方が多かったように思う。
     未来学なのだから、その薔薇色の日本の先にある暗黒の日本についても示さねばならなかったと思うのだ。しかし、それは紹介されることはなかった。きれいに咲いた花がその後どうなるかは子供でも知っているからだ。
     さて次に、薔薇色の時期に何をしておくべきかを未来学は示していただろうか。おそらくは示していたのだろうが、そんな夢のないことを取りあげることはないという判断をメディアがしていたとすれば、それは罪なことだ。あり得ない話だが、気づいていなかったというのなら最低だ。そこを指摘するのがメディアの責任、いや本来の仕事というものだろう。逆に、気づいていたとしたなら最悪だ。
     もちろん、良心的なメディアというものがないわけではない。しかし、国民の印象に残せなかったとしたら、既にその時点で失格だ言われても仕方がない。
     実際に、賢い政府と賢いメディアに国民が飢えていることは確かだ。しかし、失礼で大人げないと言われるのが嫌だから誰も何も言わず、ただひたすらに黙々とがんばっている。そうした意味では、この国の国民は非常に素晴らしいといえる。普通の国なら、とっくの昔に国がひっくり返っているはずの状態だ。
     おそらく、ものには限度というものがあるはずだが、そのように感じる心が鈍くなってしまっているのだろう。何によって鈍くなってしまっているかは言うまでもない。

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    2/16/2009

    恐怖シリーズ130「共有化」

     <共有の仕方を間違うとたいへん 画像クリックで説明画面へ>
     共有すること。
     物を共有するということは折り合いをつけるということが必要なので、人間関係を作るうえで有効な方法だ。たとえば、相手の状況をはかるということ、相手の気持ちをはかるということ、自分の要求が正しいかどうかということを自己診断するということ、自分の要求を正しく伝えるということ、折り合いがつかないときに発生する問題を解決する知恵を働かせるということ、我慢するということ、恩を感じるということ、恩を売るということ、説得するという努力をするということ、大きな気持ちで相手を受けいれるということ、約束を守るということ、相手を信じるということ、仲間意識を持って人と接すること、節度ある言動をとるということ、過失を償うこと……。
     このように、物を共有することによって、人間関係が発生し、これを維持するために、人間の心が成長し、その心によって生き方に深みが出てくるということは否定できない。つまり、短期的には不便であるけれど、結果として合理的なことだということになる。
     何より経済的に助かる。共有するものの維持費の節約ができたり、保管場所がその分有効に利用できる。これで無駄が省かれる。
     ただし、何をどのように共有化しているかということに問題がある。これを間違えていると、逆に無駄が多くなってしまう。頻繁に使うものを共有化していては、合理的な利用ができない。また、一つのものを三者が共有することで最高の時間的効率と最低の支出を実現できる場合、五者で共有することによって、たとえ購入時に最低の支出を実現したとしても、時間的効率の悪さとそれを支出に換算したときの差し引きがマイナスになる場合がある。できるだけ多くの者で共有することがそのままよい結果を生み出すことになるとは限らないということだ。
     しかし、これはあくまでも物品を共有する場合だ。情報を共有する場合は話が別だ。ところで、この情報が電子的に共有化される場合と、紙媒体で共有化される場合とでは、また話が異なってくる。
     恐ろしいことに、ここで共倒れということを考えなければならない。さまざまな共倒れの力が寄り集まると、本当に全てのものが倒れることがある。それを見込んで上手に共有化を図らないと、効率だけを考えた姿になってしまう。リスクから目を背ける結果であるから、さぞかし格好のよいものになるはずだ。
     どこか不細工なところを作っておかねば危ない。もちろん、本当の不細工ではなく、計算しつくした不細工だ。

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    1/11/2009

    恐怖シリーズ129「学割はあるのか」

     今年はもしかすると大学生になるかもしれない。しかし、それは時の運。
     お金もかかりそうだ。果たして学割はあるのだろうか。問題は無事卒業できるかだ。一年で挫折するかもしれない。しかし、苦しんでいる人々がいる以上、スキルアップは必要だ。二足のわらじを履くのは難しいことだが、忙しくなればなったで生活のしようも変わっていくだろう。
     さしあたっての仕事もあるから、来年になるかもしれない。もっとも、いろいろなことがあるから、その方針も変わってしまうかもしれない。恐ろしいことに今の自分と将来の自分の両方が見えていないのだ。これでは青少年と同じではないか。仕事に逃げてしまい、自分を確立することすらできなかったようだ。
     これはとても面白いことだ。おそらく仕事から逃げている人たちは、がっちりと自己確立ができているに違いない。決して馬鹿にしているわけではない。あらゆるものから学ぶという姿勢をもたねばこの世の中を渡っていくことはできないと覚悟しているだけのことだ。
     いろいろな生き様から学ばねば、非力な個人などたちどころにすりつぶされてしまう。

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    1/4/2009

    恐怖シリーズ128「国家の定員」

       
     無駄は省くべきだ。とりわけエネルギー資源については、枯渇という究極の問題を最初から抱えていると同時に、あらゆる無駄の原因ともなるものなので、合理的な使用が進められなくてはならない。
     問題はエネルギー資源の枯渇のスピードと人間の対応のスピードのバランスだ。早い時期から少しずつ再構築して変化していけば対応できるが、遅い時期になってから無理に行った急な変化は、さまざまな社会問題が噴出する原因となるので、その対応にも追われることになり、結局は手遅れになると思う。もっとも、エネルギー資源が枯渇するよりも先に人間がこの星からいなくなるか、ほとんどいなくなるかすれば問題はない。また、今の動物なみの生活に変われば、適正人口にまで減っていくからこれも問題はない。
     エネルギーの問題と人口の問題は切っても切り離せない。人口は、必要以下でも、必要以上でも人間にとっての問題が起こる。この問題を解決しようとするから人間以外のものにしわ寄せがいき、結果として最終的には人間にそれが跳ね返っていく。
     これは土地の面積に対する人口だけの問題ではない。山や川や海や湖や気候などの各要素と人口の問題だ。本当はこれに技術が関係していく。
     こうした問題は政治が関わらねば解決していかない。国の人口の方を軸足にしてさまざまな事柄を判断して営まれていくのが政治の基本だ。もっとも、太平洋戦争時の日本で進められた「産めよ増やせよ」の政策や中国の「一人っ子」の政策もあるが、人口が極端に多かったり、極端に少なかったりするのは国家の存亡にかかわる一大事だから、このような後先考えぬ「背に腹は代えられないという類の政策」を打ち出すこともある。しかし、これはいろいろな問題を将来に宿題として残すことになる。
     だからといって世界規模で純粋に人口を合理化しようとすると、国際機関から各国家ごとに定員が割り当てられてしまいそうな気がしてならない。これは大きな恐怖だ。恐怖ではあるけれど、諸問題の根源には人口問題がある。人口というのは人の命の集積だ。これは諸悪の根源でありながらも命という崇高なものとして扱われる。しかし、不思議なことに一人一人の命はもっと崇高で大事なものとして扱われる。地球レベルで考えるとかなり粗末に考えられ、例えば四十億人程度が余分で無駄な人口だなどと平気で論じられかねない。
     だからこそ、人口問題は手遅れになると分かっていてもほとんど手をつけられてこなかったのかもしれない。問題をどのように解決するかと考えることは大事なことだ。精神的に解決するのか、実質的に解決するのか、短い時間で解決するのか、長い時間をかけて解決するのか、100%解決するのか、ある程度解決するのか。どうするのかで方法が全く変わってくる。その方法の違いによっては、社会の仕組みも人の考え方も生活も異なってくるだろうと思う。
     もっとも困るのは何もしないことで、次に困るのは何かしたときにその記録を残さないということだ。残された者はそれだけが頼りなのだ。六十分で解くペーパーテストとは訳が違う。その答えを指導するのは自分たち自身という大変厳しい状況に置かれているということをいつも忘れるわけにはいかない。厄介な生き物に生まれたものだが、エキサイティングな生き様を約束されていると前向きに考えるのがよさそうだ。

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