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    11/3/2009

    日々雑感174「せめてさわやかに」

     輝きは光であって、そのものではない。それ自体は暗黒の中にあって孤独だ。人も輝いているのは表情や経歴であって、人そのものではない。人そのものはやはり暗闇の中にあって孤独だ。
     とはいえ、孤独であることは悪いことではない。孤独でないことの方がすさまじい。そのすさまじさの中で自分を保つことは難しい。勇み足をしたり、自分の力を勘違いしたりして危ないことが多い。
     だが、孤独にとらわれてしまうのはさらに怖い。孤独が普通であり、ゆえに幸福であることを忘れてしまうからだ。何とかしなくてはならないと思ってしまったり、不幸であると思いこんだりして、心が縮んでしまう。
     高く見上げ、全身に風を受けて大地を踏みしめたら、地道に前進し、ときには大跳躍を果たし、わけのわからない障害物によって傷だらけになろうとも自分の手でかけがえのない宝をつかみ取る。そして、それを周りに分かち与えていく。
     たとえ実現できなくても、そうした姿勢で生きることにささやかに胸を張れる人となりたい。清く正しく生きたい。できれば美しく生きたい。そうでなければ少なくともさわやかに生きていきたい。
     何をたわごと絵空事と言う人もいる。だが、そうした人はどこから見ても全うに暮らしている。もしかすると、もう手に入っている人には、僕が求めているものが既に目に入らないのかもしれない。

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    10/28/2009

    日々雑感172「交渉の余地」

     ホールをキャンセルする。キャンセル料の発生だ。全額だから頭が痛い。どうにかならぬかという訴えに交渉の余地を見せてくれる。昔から世の中というものはままならぬものだが、ただままならないだけではなさそうだ。
     世の中はもともとないものだ。人が成り行きに任せてつくった世の中だ。ルールももともとないものだ。必要に応じて継ぎ足し継ぎ足しつくったものだ。すべてが間に合わせだが、その間に合わせで間に合わせなければ生きていけない。ところが、間に合わせであるところに余地がある。
     山のごとく動かないものも、山のごとく動かないものとしてみんなが認めているから山のごとく動かないというだけの話だ。しかし、山を山として認めつつ都合をつけていかねば、山に押しつぶされることになる。押しつぶされるのは本望ではないから、押しつぶされないようにする。
     交渉の力とは、こちらの志が相手にとって予想外の大きさをもっていることだろう。また、小さな段階を丁寧にふんできたという既成の事実の多さや成し遂げられぬ絶望感の大きさだろう。何より大義名分の柱の太さということもあるだろうが、連帯感とか同情とかいう「なさけ」の側面が大きく左右するように思う。
     たとえ違法であろうとも、たとえ異常であろうとも、懸命な姿は必ず人の心を射抜く。射抜かれた心は自身のあらゆる取り決めや傾向を取り払った原初的な状態に戻って反応する。それがたまたま「現行の制度」と「現行制度によって形成された人の心の一部分」とに背かないものである場合もあれば、そうでない場合もあるだろうが、どちらにしても人は支援の手を差しのべる。そうしなくてはならないという心が発動するのだ。
     「なさけ」という意味での人間性の発露だ。これに甘えると別の問題が起こることになっている。だから、「なさけ」をかけられることをよしとしない心意気というものが必要になってくる。バランスをとるためだが、このバランスのとり具合というものが面白いように思う。

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    10/24/2009

    日々雑感171「教えるわけにはいかない」

     言ってはならぬこと。これを教えるわけにはいかない場合があるのではないか。
     例えば、親が子供に言ってはならぬ普遍的なことばがあるとする。これを教えてしまうと、その親は、言ってはならぬことが何であるかということを、「子供の様子」や「子供と自分との関係の状態」を探りながら子育てをしていくという基本的な作業を怠るようになる。怠らずともその作業が軽いものになってしまう。
     この作業が適切に行われることによって、子供に対する親の勘が形成されたり、子供との絆が深まったりするはずだ。これが失われることになる。大きな損失だ。
     体験しながら失敗を重ねることは、目的意識を持っているという条件さえあれば、非常に重要なことだ。この目的意識がなければ、失敗体験の積み重ねは弊害にしかならない。目的意識さえあれば、失敗体験の積み重ねは、その過程で耐える力、考える力、行動する力を身につけていくことになる。本当の能力を身につけるということは、そういうことだろうと思う。
     しかし、子育てには「無意味な失敗」や「許されない失敗」もある。これを避けるための知識や知恵は教えなくてはならない。無駄の積み重ねを強いるのは、一度しかない人生を歩む僕たち人間にはとても酷なことだからだ。何より子供にとって大きな迷惑だ。
     逆に、人の話を聞くときも、教えてもらわねばならぬことと、教えてもらっては困ることを上手に選り分けていくという作業が必要になるということだろう。仮に、教えてもらっては困る類のことを聞いてしまった場合には、意識的に徹底的に疑って確かめ続けるという作業をすることによって、その弊害を避けたり、軽減したりしなければなるまい。
     子育てにおける親の成長を例に挙げたが、人のやることはすべてこの点については同じだろう。これまで「生きる」ということに対してあまり考えたことがなく、漠然としてよくわからなかったが、実はこうした「単純だが困難なこと」が基軸になっているものなのではないかと思うのだ。これが生きる面白さの一側面になっていることは間違いないだろう。
     いつもつまらなさそうな顔をしている人は、何も知らないか、知らなくていいことを教えてもらってしまったか、とにかくそういうことが多い人ではないかとふんでみると、そのつまらなさを解決してあげられるかもしれない。まあ、余計なお世話だが、親しくなりたい人であれば、それも一つの礼儀だろう。もっとも、そんなつまらない顔をしている人と親しくなりたいということなどはまずないだろうけれど。まずは、自分自身の表情チェックからトレーニング開始だ。

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    日々雑感170「職業柄」

      職業柄、相手を一瞬で見抜かねばならない。タイミングよく途中から一瞬で主導権を奪いつつ、それをさとられてはならない。あらゆる人脈を使って情報を得て、人間も含めてすべてを味方にしなければならない。表舞台に立つことなく、裏でコントロールに徹しなければならない。他業種の企画に関係し、滅私奉公、軽口を装って進言も厭わない。
     「ああ言えばこう言う。こう言えばああ言う。」と「ああ言えばああ言う。こう言えばこう言う。」を駆使することだ。相手の目を見るのではなく、相手の目の奥も見ることだ。相手の目の奥を見つつ、相手の全体も見ることだ。表情の変化を見るのではなく、表情が変化する一瞬も見て取ることだ。相手の思想を理解するのではなく、その思想の背景もつかむことだ。目的の裏にあるものをかぎ出すのではなく、相手も気づかない側面にあるものもあぶり出すことだ。そして何よりも、相手が一切合切滅ぶまで、幸福を祈ることだ。
     こうして並べてみると、どの職業にも共通して必要なことだな。

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    10/21/2009

    日々雑感169「還暦までに」

     今日の仕事は久しぶりに午前四時からだ。流観ついでに向かえば、妙なバトルをシミュレーションして憂鬱になることもない。
     思うに、僕たちの睡眠時間は長すぎる。昔は八時間が健康的な睡眠時間と言われていたが、どうも七時間睡眠の方が長生きできるらしい。自殺希望者は寝なければよい。自殺ではおりないタイプの保険金も支給されるかもしれない。そうなると、保険会社も死亡する前の一定期間の睡眠時間を調査するようになるかもしれない。払わない分だけが利益なのだから阿漕なことになるのは仕方ない。
     八時間といえば三分の一日だ。六十年生きていても二十年は寝ていることになるから、意識不明の状態が長すぎる。還暦といっても人生経験は四十年だ。生まれてから十二年間、小学校を卒業するまでは何だかわからない時期だからマイナスしておこう。すると、三十一年の人生だ。
     成人してから、というより大学、大学院卒業してからということになると、たった三十六年間だ。意識がある時間の短いことといったらない。しかも、そのうちの五年間は待ち時間とみて、三十一年間。そのうち移動時間が一日に二時間として三年間。これを差し引いて二十八年間。食事と風呂とトイレを合わせて一日に二時間として三年間。これも差し引いて二十五年間。ものを探す時間やぼんやりしている時間が一日に二時間として、結局は二十二年間しか残らない。テレビ、ラジオ、インターネット、新聞、読書、人の話を聞く時間などの日常的な情報収集時間を一日に二時間として、残りは十九年間になってしまう。
     ここから睡眠時間を少なめの一日六時間として九年間分を引くのだから、何と十年間だ。しかも、一人前になってからの月日となれば、個人差もあるけれども、五年程度ということになろうか。
     もっとも、馬上、枕上、厠上ということがあるから、一概には言えないが、還暦までに人生の有効年数とでも呼ぶべきものが五年間とは意外な人生だ。うかうかとゲームなどを一日に二時間もやっていれば、たったの二年間しか与えられていないということになる。
     しかも、その中にまた成功と失敗がある。甘く見て五分五分だとしても、一年間しかハッピータイムがない。それが偽らざる人生の姿なのだ。
     もう一度生き方について考え直さないといけない。星でも見ながらぼんやりと。というわけにはいかないか。

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    10/20/2009

    日々雑感168「ミズスマシ」

     ミズスマシをラジコン潜水艦で追いかけ回しているうちに、いつの間にか時がたつ。奴らは自由自在だが、複雑なパターンで生きているだけだ。それが生きていることの生きているらしさにつながっている。
     複雑なパターンを相手に生きている僕が対応する。生きている者同士の対決だ。知らぬ間に遊ばれている錯覚を覚える。生きているということは遊んでいるということだと悟る。
     僕たちがしている仕事とは何だろう。遊びの硬直したもの。変な遊び。そうか。決められた遊びだ。複雑なパターンを解きほぐされて、公にさらされた無防備の砦に一人住んでいるような孤独と恐怖のステージだ。
     だから、仕事のエネルギーは熱くなければならない。自分一人ではどうしようもないのだ。それに比べてミズスマシのさわやかさはどうだ。完成された水生昆虫の堂々たる泳ぎは侵しがたい神秘。宇宙の凝縮。

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    10/18/2009

    日々雑感167「信じることの不都合」

     確かめるべきときに確かめることを怠り、いつまでもただひたすら信じ続けるのは「盲信」だ。これと「信じる」とは別物だから、意識的に区別しなくてはならない。「盲信」の要素が濃ければ濃いほど尊いことだと勘違いされる場合もあるので、よほど注意すべきだ。
     「(妄信的に)あなたを信じている」と敢えて明確に伝えることで、それが脅迫になる場合がそうだ。脅迫なのに信じることは尊いことだという前提によってチャラにしてしまっているのだ。そして、こんなに信じているのに裏切ったと言って恨みをいだくことが多い。もうこうなると、信じることの暴力といってよい。
     これは、じゃんけんで自分はパーを出すよと宣言して、相手にグーを出すように仕向けるのに似ている。そして、相手がグーを出すことを信じてパーを出すのを潔しとする風潮がある。
     確かに結果を恐れないという点では潔いのかもしれない。しかし、それを貴いことだとするのはおかしいだろう。潔いということに関してだけ言えば貴いのかもしれないが、トータルで考えれば、いい迷惑だと評価されるべきものだ。これを混同して、どんな場合でもとにかく信じることは貴いことだと感じてしまうのは、お互いの幸せを考慮しない愚かで思いやりに欠ける者の特徴かもしれない。
     言ってしまった以上、パー的なことをせざるを得なくなる。これは迷いから自分を救うための方法にもなっているのかもしれない。同時に相手を混乱させる方法ともなる。相手が負けたとき、人を信じられないということは哀れなことだねと言って追い打ちをかけることもできる便利なやり口だ。
     相手がチョキ的なことをして対応した場合には、自分は勝負に負けてしまうのだが、最後まで人を信じ切ったという自殺行為が貴いもののように周囲が評価することを期待しているのだろう。慰めをいただく条件づくりをし、そのような雰囲気のなかで他人の口から信じることの貴さということばを引き出せれば大成功だ。ここまで事を運べなければ、単純に人を信じたお人好し、世間知らずということにされてしまい、愚か者のレッテルを貼られてしまう。
     逆に、パー的なことをするよと言われた方は、チョキ的な対応をして勝負に勝ったとしても、結果だけを考える打算的で情のないやつだというマイナスの評価をいただいてしまう。実に迷惑千万だ。
     また、パー的なことをするよと言われて、グー的な対応をすれば、自ら負けに出た愚か者ということにされてしまう。勝負にも負け、評価も落ちるのだから、泣きっ面に蜂だ。本当に迷惑だ。
     さらに、パー的なことをするよと言われて、パー的な対応をすれば、人を信じないのかとか、裏を読みすぎだよと言われることになる。これもたまらない評価だ。
     どうやら、「信じる」ということを迂闊に言わない方がよいようだ。それほどに重いことだと心しておくべきことだったというわけだ。そもそも「信じる」ということに「程度」ということがあるので、ややこしい話になると覚悟しなくてはならない。「そこまでは信じてないぞ。」とか「信じ切っていました。」とか、突然に言われてもお互いに困るはずだ。
     信じる度合いは数値化できないので比べることすらできない。いちいち聞いて、観察して、確かめないと、その程度がつかめない。そうした密着度がなければ成立しないものなのに「信じる」ということを土台にした判断を突きつけられても、面食らうしかないというのが実際のところだろう。「信じる」ということが単なる「思い込み」である場合もある。考えているうちに、その単なる自分勝手な思い込みが「信じる」という尊い行為とすり替わってしまうことさえある。これもまた、愚かしいことだ。
     これらの「信じることの不都合」をわかりあったうえで、「信じる」という大人の行為を発動しなくてはならないこと自体に不都合があるのかもしれない。

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    10/17/2009

    日々雑感166「信じること、疑うこと」

     自分の目で見たものしか信じないという人がいるけれど、他人からの情報であるからこそ、まずは「信じる」というのが筋だろう。だから、同時に疑う気持ちを同じだけ持っていなくてはならない。
     他人の話だから 当面は「信じる」しかないのだ。つまり、自分の目で確かめたのではないから、「信じる」というレベルで把握せざるを得ないということだ。逆に、その時点で「信じない」とするのは何を根拠にして信じないのだろうかと疑問に思う。
     それはもたらされた情報を情報として受け入れないという姿勢に問題があるだけでなく、情報をもたらした他人を疑うという失礼な行為でしかない。その場で確かめることは困難なので信じるしかないというだけで、だからこそ疑って確かめてみることが重要なことになる。それをその場で表に出したら失礼になるという話だ。
     失礼があったら有力な情報まで今後伝わらなくなってくるという憂き目に遭うだろう。それゆえ情報不足となってしまうことは容易に想像できる。そのせいで、自分が確かめて信じていたものが、実は信じてはいけないものであったと気づくのが遅れることもある。
     まず自分の目や耳、そして感覚を疑うことが大事だ。もちろん、思考パターンもパターンである以上、限定的なはたらきしかしないので、自分の思考パターンが対象に合ったものであるかどうかを疑う必要がある。

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    10/4/2009

    日々雑感165「感覚の頼りなさ」

     僕たちはすべてを五感という限られた感覚に細々と頼ってかろうじてつかんでいるという有様だ。その頼りの五感も年齢とともに衰え、眼鏡や補聴器にかろうじて支えられることになるという非常に危ういものだ。これに加え、錯覚や勘違い、記憶違いや記憶の喪失などによるミスもある。
     例えば、Aという花の香りを近くに咲いていたBの花の香りだと勘違いしたうえに、そのBの花の名前がCの花の名前と似ていたために、Cの花の名前で記憶してしまったというようなミスだ。これと似たようなことは多々あるに違いないが、突き詰めて他人と話し合ったり、確認しない限りはこれが子供にそのまま伝わっていく可能性が高い。恐ろしいことにその頃には記憶が薄れており、Cの花の名前の前半しか確かでなかったりする。
     これが花の香りだからまだ被害は知れているが、ことによっては重大な事件を引き起こす可能性がないわけではない。なんとも悲しく恐ろしい。

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    日々雑感164「謎を解く鍵」

     僕たちが「人間」と言うとき、その「人間」というものは、実は自分自身だったり、家族だったり、その周りにいる自分との人間関係のある人々、そしてメディアで情報化されている人々のことだったりで、実は「人間」の実体や「人間」の実態などではない。
     また、「自然」と言うとき、その「自然」というものは、普段自分が目にしている風景だったり、観光旅行などで特別に目にした風景だったり、そしてやはりメディアで情報化されている風景や顕微鏡下の世界や天体望遠鏡の向こうにある世界だったりするだけで、結局は実体としての「自然」の実体や「自然」の実態ではない。
     ここに謎を解く鍵がある。

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    日々雑感163「人間はほほえましい」

     人間や人間にめでられている生き物や人間に気に入られている自然の造形を中心として、それが維持されていくように人間が努力をすること自体を否定する意味はない。僕は人間だから、それは推進されるべきことだと言わねばならない。
     しかし、その裏には俺は人間様だという気持ちが心のどこかにある。意識にはなくてもある。人間様だというおごった気持ちをもつこと自体は当然のことだと思うが、そうしたおごった気持ちが気に入らない。ここを割り切ったら、みんな自分を好きになるから、ほとんどの人々はそうしているように見える。その方が楽だから、正当化するか、無意識の世界に押し込めるということだ。
     このおごったところが実に人間的でほほえましい。このように嫌悪感ではなくほほえましい感じを受けるのはどうしてだろうか。気に入らないのにほほえましいというのは随分と矛盾しているように思うのだ。やはり自分自身もそうだからだろうか。

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    日々雑感162「人間もどき」

     アブストラクトの氾濫が人の精神を狂わせる。捨象されたものの総攻撃だ。この復讐の被害者はまだ人間性を残している者たちだ。精神が機械化した人間や腐った精神の人間には被害が及ばない。既に被害者だからだ。被害者ではあるけれど、小さな世界をつくることで、そしてその中で屈折することによって生き延びた人間もどきだ。
     僕は、この大混乱の中でこんなに平然と生きている自分自身やその周りに人々が不思議な存在であるように思う。この平然さは何かの脳機能がはたらいている結果なのだろうか。あるいは、はたらいていない結果なのだろうか。
     そのうちに精神を狂わせたものが多くなれば、彼らが作った検査方法で僕たちが判定されるようになるかもしれない。ああ、既にそうなのかもしれないのだが。

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    日々雑感161「印象としての神」

     世の中にはどうでもよいことがたくさんある。どうでもよいといっても、無関心というわけではない。また、なげやりなのでもない。行動に移せないことが多いとわかってもあきらめているわけではない。誰よりも一生懸命で真剣であっても、その結果はどうでもよいということだ。最も大事な結論を神に委ねているということだ。さわやかに生きていくにはこれが大事だ。
     人事を尽くして天命を待つ。例えば、人間が滅ぼうと、人間が頭に描いている自然が破壊されようと、なすべきだと考えたことをなしていこうとしていたのなら別段問題はない。
     まるで生命現象が希少価値であるから貴いといわれているのと同じレベルで地球も奇蹟の惑星のように言われている。もちろん、それはそのとおりなのだろうが、だからといって消滅して惜しい気持ちにはならない。また、どこかの星で現れるだろうからだ。もし現れる前に宇宙の寿命が来たら、それはそれでそうした運命だったというだけの話だ。宇宙の寿命が来たら誰もどうしようもない。誰もどうしようもないのがこの宇宙なのだ。その宇宙を語るときに惜しいも何もない。
     さて、人間がその運命を委ねている神とは何者かという問題があるが、それは何者でもない。どうしてもわからないことや、人間の考えの及ばないことを神にかかわるものとして分類しただけのことなので、それは何者でもなく単なる実体のないレトリックだ。
     結局は、人々の印象というのが神の正体だろうと思う。だからこそ、信じるという行為の対象となる。もともと印象でしかないから、会えない、見えない、聞こえない、触れることもできない。できることは、信じたり恨んだりすることだけだ。
     ところで、人間は物事をきわめ、仲間の間にそれを広げていく。つまり、わかっていることが蓄積されていく。その蓄積と反比例して徐々に印象としての神は浸食されていく。しかし、わかってくればわかってくるほど新たなわからないことが増えてくることもたしかだ。だから、その分だけ印象としての神は増大していく。
     この神はもともととらえどころがないという印象をもっているから、やむなく信じるしかないのだ。最も、信じやすくするためには、何々の神、何々の神と分類して人間の生活ベースで印象を分解してとらえやすくすることはある。こうなると八百万の神というものになってきて、人間くさくなってくる。人間くさくなった分だけ身近な存在になって、どうにもならないときに励ましてくれるものになることもある。実体がないから都合のよいように解釈されて、人間が生きていく上で役立てられる。
     人間社会のシステムに組み込まれたこうした神は人間によって随分と汚されてしまっているように思う。神秘性は失われ、その力は人間社会の力に置き換えられ、名前だけのものになっていく。もっとも、印象としての神なのだから、名前だけの存在になれば、本来の姿にもどされたという見方もできるかもしれない。しかし、形骸化してしまった存在になってしまったことは否定できない。
     形骸化したものであれば、そこに新たな力を吹き込みやすいとも言える。それは新興宗教かもしれない。また、新興政治団体かもしれない。また、プライベートなものかもしれない。どれも危険なかおりがする。神にかわって何かを実現しようとするという姿勢が垣間見えるからだ。
     そもそも神にかわってというところに不遜な姿勢が漂う。それに自分たちの思いを神にかこつけて実現しようというのは、それこそ彼らのいう神に対する冒涜行為ではなかろうか。もっとも、真実の神なら人間ごときに冒涜されるはずもないのだが。

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    10/3/2009

    日々雑感160「自由な存在」

     共生ということが言われはじめて久しい。しかし、みんなが言いはじめたということは、大方は手遅れだということのように思う。みんなが言い始めるようになるまでにはかなりの年月がたっているからだ。特に大きな団体がお金をかけて宣伝するようになるのは、さらにそれ以降だから、相当に重傷化しているはずだ。そうでなければ組織ぐるみの詐欺の疑いがある。誰がどう儲けるのかは少しだけ想像力を働かそう。
     しかし、共生というのは、動植物との共生だけではない。民族の共生から男女の共生、ウイルスとの共生まで幅広い。また、共生といってもどのようなバランスのもとで共生なのかが問題だ。主従関係で共生なのか協力関係で共生なのか食う食われる関係で共生なのか。もしかすると、超長期的には絶滅するさせる関係だが長期的には共存関係にあるように見えるというレベルの共生なのか。吸収されて共生するのか依存して共生するのか。あるいは、分離して共生する道をたどるのか。
     こうなると、共生の先が見えないどころか、現実までが見えなくなる。誰がどこまで見抜いているのか。また、見抜こうとしているのか。誰がどこまでだまされているのか。また、だまされようとしているのか。自分自身が大河の流れに飲み込まれつつ、流れとなるか、思いだけを岸に残すのか、石となって沈むか、はばたいて離脱するのか。皆目見当がつかないのだ。
     見当はつかなくても、毎日の生活、人生、人の歴史は刻まれていく。結局はどうでもよいことなのだが、自由意志を持っている人間としては、どのようにでもできる自由な存在となることを望むものだ。そのためには、自分の中にもう一人の人格を育てていく作業が必要だろう。その仮想人格が実際の人格を裏切ることができるほどのレベルになったとき、初めて自由な存在となるかもしれないからだ。
     つまり、親離れをする子供のように、他者とのつながりを切っただけの自由や他者を無視しただけの自由のような幼稚な自由から自分を解放するという作業が必要だ。まずは、家庭内や仕事場内で自由な存在となるように、つまり周囲の人々のために働くだけでなく、周囲の人々を一度にワンランクずつ引きあげるための判断や行動ができるようにトレーニングすることがはじめの一歩となるはずだ。
     こうした努力の末に手に入るものは何か。それは洞察力というものだろう。洞察力なしに自由な存在になどなれはしないが、もしかすると自由な存在になりつつあるからこそ洞察力が生まれていくという関係にあるかもしれない。
     何かが大きく動こうとしているとき、みんなが何か一つの発想を口にするようになったとき。気をつけよう。僕たちに少しは芽生えてきているかもしれない洞察力を精一杯働かさなくてはならない。自由な存在であるからこそ、低レベルの自由と見なされて潰しに遭うかもしれないからだ。

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    10/2/2009

    日々雑感159「嫌な予感」

      他の生き物を踏み台にしていることを知ってか知らでか、自分は人間様だと思っている人がたいへん多いように思う。そんなことはないと思っていても、よく自分の生活を振り返ってみれば、「人間」や「自然」のことしか頭にない自分がいることに気づくことになる。
     自分自身、頭のどこかに「自分は人間様だ。」という思いが巣くっているのではないかと感じることがある。「どうして今日は雨なんだ!」と苦々しく思った時点で、刺されるといけないからといって蜂を叩き殺そうとした時点で、それは暴露されてしまうように思う。
     さらに、気を抜くと、「この自然を保護しなくては。」などと、人間がまるで大自然の保護者ででもあるかのような不遜なものの言い方、つまり自分は人間様だということを前提としたようなものの言いをし始めないとも限らない。そんな予感がするのだ。

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    8/31/2009

    日々雑感158「己の崩壊と顔の構築」

      現代は、とある目的でむやみに情報化を進めているため、過ちを学習したころには既に状況が変わり、学習して身につけたことの多くが役に立たなくなる傾向が出てきた。その徒労感たるや語るに忍びない。学習してもそれが役に立たないということを学習し続けると、経験から学ぼうという気持ちなど次第になくなってくる。それが人情というものだろう。
     こうした「ちぐはぐ」の末にたどり着くのは、せいぜい「自分しか信じられない」という理由にもならない情けない理由をつけて貧困な自分だけの感覚に頼るという不始末だ。このとき、「将来のことなんか誰もわかりゃしないさ」とか「将来は必ずこうなるに決まっている」とかいう思考停止の宣言を敢えて臆面もなく披露することによって、その言葉自体に価値があるか如きの演出をすることがある。
     このとき最もありがちなのは、己が解決すべき課題を、その場その場の空気の流れに流されるか単純に反発するかの二者択一というシンプルな作業にすりかえてしまうということだ。これを声高らかに行う者は決断力に優れているという誤った評価を得てしまうおそれがある。この評価を自他共に信じ込むようになると、また厄介な問題が後々生まれることになるので、余程勘違いしないように気をつけなければならない。
     そうした二者択一の次元をこえるアイデア(折衷案をこれに含めるかどうかは微妙なところだ)を捻出する努力を怠ることこそが罪なことだと認識しなければならないと思うが、どうだろう。この怠慢が、己の考えを誰かの考えで代用したり、流用したりすることへの慣れを進行させてしまうのは火を見るよりも明らかだからだ。
     このような人間的に衰弱した姿勢をとることに一世代目は後ろめたさや不安感などを背負うが、二世代目はそれを横目に見るだけとなる。三世代目ともなれば尻目に見て、最後にはそれが当然のこととなる。悪い意味で時間が解決するということの典型だ。
     しかし、そうなってくると、「己」という「経験の累積」がかすんでくる。「己」を失うという本当に恐ろしいことが恐ろしいことではなくなる過程を三世代かけて踏んでいくということだ。その間に感じる漠然とした「わりきれなさ」や「やりきれなさ」、そしてそこから生まれる「憂い」などは、ただの過渡期の症状だ。だから、通り抜けさえすれば、何のことはない。
     憂いなどというものの理由など探しても大局的には大きな意味はない。一秒一秒の時の流れが、「解釈による解決」や「忘却による解決」や「状況変化による解決」に向かっているのだから、場合によっては理由を探すことが徒労に終わることになってしまう。
     納得というものはいつでもどこでも簡単にできるものだ。だから、納得できない状況やその原因にいつまでも強いこだわりをもって抵抗したり追究したりしても、それは無駄なことだということを早く了解するのがよいように思う。もちろん、全くの無駄ではないようにすることはできるが、一瞬のうちに世界観を転換することなど朝飯前という暗黙の了解や保証があるということに甘えていればそれでよいのではないだろうか。
     しかし、結局それは「己」の崩壊が進行することを意味する。「己」というものが、ただ漂うだけの、存在と言い切れないものに限りなく近づいていくのだ。そこで無理に「己」を示そうとか生かそうとか思えば、今度はまた別の問題が起きることになる。無理をすることによって、イレギュラーの動きをするか消滅するしかないという短絡的な判断が生まれやすくなるのだ。易きに流れるのも、これもまた道理だ。「己」が確立して、しかも認められるには長い年月がかかるものだ。ここに問題を解く鍵がある。短期間に己を確立し、認められるものや場を選ぶという発想をもつことだ。短期間といっても自分が我慢できる期間であればよい。
     例えば、面白いだじゃれを考えて日常会話の中でタイミングよく発表すれば、場の雰囲気を和ませるだけでなく、新しい発想に至ることも計算次第ではできるかもしれない。また、みんなが不便を我慢していることを洗い出し、その不都合を解消することに短期集中して改善するということができるかもしれない。また、世間が気づかないことに全勢力を傾け、短期間に成果を上げるということができるかもしれない。
     こうした断片的だが継続可能な生きる姿勢を示すことが、とりもなおさず生きざまを示すということになるはずだ。その生きざまを「己」そのものといってもよいと思うのだ。
     ところで、「己」の崩壊だけが問題ではない。また別の問題もある。それは、一人一人のつながりが薄い社会となっているということだ。その社会には短絡的にイレギュラーの動きをしたり自己消滅をしたりする動きをとめようとする力が弱い。無責任に傍観者の立場を取るのが楽なのだ。個人的なことにはかかわらないという上手い逃げ口上も用意されているからなおさらだ。
     一人一人のつながりが薄いから、つながろうとするあがきをする個人の営みは絶えない。例えば、不特定多数のネットでのつながりや、少数限定の携帯電話でのつながりだ。そのつながりを保つための努力は見ていて涙ぐましい。しかし、結局つながれないのは「苦楽」を共にしていないからだろう。合理的な「苦」を駆逐してしまったため、真の苦を味わわねばならないという愚を犯していることが多いように思う。また、利益追求の過程で、「楽」も個人的なものに細分化されてしまったため、一人一人が立つ場所がばらばらとなってしまった。気軽にはなったけれど、その代わりに不安を抱え込むことになったのは、誰のせいでもない。大人ならば他ならぬ自分自身のせいだ。
     このように永遠につながれることのない「つながりたい人たちの群」はカラオケルームでもよく観察される。一つの歌をみんなで歌うのではなく、個々人が得意な歌を披露している集団だ。狭い空間と同じ時間帯に歌という限定された作業を行うという点でだけつながっているので、「一緒感」はあっても「連帯感」などは残念ながら育まれない。仕方ないので、共通の敵を決定していくという作業を歌の間に織り込んで、親和感を高めるという愚劣な方法に依存することになりがちだ。
     それに対して労働歌というものは現在どのように機能しているのだろうか。歌だけが労働と遊離してしまっていることはないだろうか。辛い労働をともにするときには自然に口について出て、勇気づけてくれるのが労働歌だと思うが、どのような労働歌があるのかさえも既にわからなくなっているのが実状ではないだろうか。
     労働歌は肉体労働に特有のものだ。しかし、その肉体労働が機械の導入と外国人労働者の導入でますます労働歌が発生する余地はなくなってきていると思う。さて、本来は労働歌が必要な職場はどのような手段で「連帯感」を練り上げているのだろうか。一人一人が別々の曲を一人一人の小型音楽再生機で聴いているとしたら、おそらくそうした手段はとられていないということなのだろうと思う。
     こうしたつながりの薄い集団の中を個々人が漂っている状態がさまざまな場面で目撃される。それはとてもつまらないことなので、いつも何か面白いことはないかと渇望することになる。この渇望はいたるところで見られるいじめの構造を強化するものだ。
     哀れなのは、漂うことが生きているという実感にすりかわることだ。しかし、これがこの過渡期のスケジュールだ。すり替わればそれが一つの価値になって大手を振ることになる。それまで待たねば、心の病は減らないだろう。
     それはそれで別段かまわない。ただし、そこから先は何もないように思う。人の心の最終段階だ。しかし、それではつまらないではないか。その最終段階がこのようなものだとは貧しい話だが、人の心にそもそも人々は何を求めていたのだろう。あたたかさとか理性とか、そうしたものだったとすれば、何ともお粗末な最終段階だ。
     そうした段階では不都合なものに向かっては、ことごとく無視するという手口でしか「己」を保てないという情けない精神状態の人々が多く出現するように思う。そうなるとますます人間というものがつまらなくなってくる。ただ、こうしたことも繰り返していれば、鈍感にはなれるかもしれない。それは救いだ。救いだが、逃れているだけの「己」の負け犬の後ろ姿だ。
     どこまで「己」を崩すと、「己」であり得なくなるかはわからないが、ふと自分の生きてきた道をふりかえってぞっとする。いったいそのどこに「己」の軌跡があったのか、おそれていたように実に不明確なのだ。
     現状がどうあれ、「己」が崩壊する以前の治療はどうしても必要だ。それはヒューマニズムからだけではなく、まずは単純に不経済だからだ。自覚した者は、仮の「己」を自分の中に注入するか、仮の「己」を自分の肉体に纏うかする。これは最初のうちは交換が容易なので、そのこと自体が心地よい場合がある。小さい子供のごっこ遊びと一見似ているかもしれないが、それは幼子が這うのと老人が這うのが同じではないということと一緒だ。
     ここで奇妙な思い込みが頭をもたげる。逃げの姿勢は顔つきに実体化するということだ。恐ろしげな顔つきの人は何から逃げているのだろう。にこやかな顔つきの人は何から逃げているのだろう。深刻な顔つきの人は何から逃げているのだろう。無表情の人は何から逃げているのだろう。
     リンカーン大統領のことばだといわれている「四十歳をこえたら自分の顔に責任を持て」ということばがある。このことばはこうしたことをふまえて言われているものかもしれない。逆に、己の崩壊をふせぐために逆に顔の構築をするという手法はあるだろうか。鏡を見て、顔の造作を観察し、どういう気持ちを保てばどういう表情になるかを検討する価値はありそうだ。

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    8/25/2009

    日々雑感247「下駄」

     下駄を見直したい。下駄は歩くとかなり大きな音がする。これをうるさいと評価することもあろうが、人口が減っていく日本、特に過疎化が進んでいる地域には、景気のよい音が鳴り響く方が精神衛生上よいような気がする。カランコロンとゲゲゲの鬼太郎のようで何かが起こりそうな感じがするところもよい。
     下駄とは反対の履き物にスニーカーというものがある。スニーカーだからスネイクだ。「脛行く」だからスネイクではなく、蛇のスネイクだ。履いて歩いても蛇のように音もなく歩けるということだ。さらに意識的にそっと歩けばほとんど音がしない。靴底の縁を上手く使って足を地につけると全く気配を消して歩くことができる忍者のような靴だ。これは都会のように人が混雑するところでは静かでよい。しかし、ねらった人物のバックに音もなく忍び寄ってナイフを首に当てることも可能だ。
     その点下駄は自己主張が強い。遠くの方から、今からそちらに向かいますよと宣言しながら闊歩しているようなものだ。その存在感の分だけ、一種いわれのない責任感をほどよく緊張感としてもつことができる。これは下駄の奏でる音と一緒になって脳を刺激し、目の力が増し、背筋も自然と伸びる。歩き方が下駄の音で分かるから、人柄までそこから読み取る習慣も生まれる。
     スニーカーは片減りする。自動車のタイヤと同じだ。だからといってタイヤ交換をすることはできない。しかし、下駄も片減りするが、左右対称の下駄は毎日左右を交換することによって、極端な片減りはなくなるかもしれない。すり減っても一体化してないものなら歯を替えられる。鼻緒も替えられるから、スニーカーと違ってエコ度が高い。また、オープンな造りなので、いくらかの幅を持っていろいろな足の大きさの人を受け入れることができるので、共有が可能だ。そのため、素足の手入れを日常的に意識するという清潔な習慣を身につけるということが期待できそうだ。足を靴下にくるんで閉鎖的な造りのスニーカーにくくりつけるというのは、どう考えても蒸れて臭うに決まっている。
     下駄は脱いで手に取れば、喧嘩にも使える。しかし、下駄を履いて逃げることは難しい。それに対してスニーカーは手にとっても強力な武器にはならないから、喧嘩には使えない。また、闘うのではなく、その場から逃げるのに適している。そうなると、下駄を履いている場合は簡単に喧嘩しようという気持ちにならない。互いに武器を持っているからだ。しかも逃げにくいという点から、相当の覚悟を必要とするということで、興奮しかけた気持ちを抑制することになる。
     その点スニーカーは走って逃げやすいから、相手を煽っておいて全力で逃げるということが可能なため、軽い気持ちで相手を刺激するおそれがある。
     基本的に下駄は素足で履くことが多いから、足を傷つける可能性がある。その分だけ足もとへの注意力が増すので、他の注意力が散漫になるともいえるが、バランスよく注意を払うという基本的な姿に戻るというだけの話だろう。また、素足が見えているので、素足の手入れが必要となり、その分だけ細やかな心を持つことができるようになるともいえる。気にかけるべき部分が増えることによって、面倒なことが増え、その分だけ心のエクササイズとなり、人格へのよい影響が期待できるというものだ。
     それにしても、サンダル、つっかけ、スリッパ、ぽっくり、スパイクシューズ、登山靴、長靴、フィン、スケートシューズ、ローラーブレード、金のわらじ、……。人間というのは実に多くのアタッチメントを持っている生き物だ。要は、必要なだけそろえて使い分ければよいということだ。逆に言うと、それだけ足が酷使されるということだ。
     お風呂にはいるとリラックスするというのは、もしかするとそうした素足の開放感も一役かっているかもしれない。何となく下駄の復権を唱えたが、まずは実際に一足用意して、カラコロカラコロ散歩することにしよう。
     ところで、下駄には履き物でありながら板の間の上に素足で立っている感覚がある。 この感覚は忘れたくない感覚のうちの一つだ。

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    8/16/2009

    日々雑感246「姫百合の歌」

     いろいろな戦争関連の歌があるけれど、これも忘れられない。数え歌になっているから十番で終わりだ。終わりのある数え歌にしなければ、終わりのない悲しみにけりをつけられないのだと思った。逆に、何の罪もない若い命が理不尽に失われたことによって、歌という形で永遠の命を吹き込まれたとも言える。
     この七五調は旋律の重々しさ無念さとあいまって、はかなく散った若い女性たち運命の悲しさを聴く者にしみじみと感じさせる。
    また、仕立てが数え歌であるのは、姫百合部隊に象徴される戦争に巻き込まれた若い命の無念を、どれ一つとして欠くことなく、後世に伝えようという強い意志の表れであるように感じる。
     僕は沖縄の人ではない。戦後生まれなので、沖縄戦を体験しているわけではない。しかし、沖縄の人にとっての戦争は沖縄戦から始まったということはよくわかる。21世紀になってもそれは終わっていない。広島長崎の被爆者にとっての戦争が被爆から始まったようにだ。
     蛇足だが、歌詞の中に「マーク」という戦時中なら敵性言語が使われているのは、敵性言語などということなどをうるさく言われないそんな時代になったんだという、過去の理不尽な時代への決別の姿勢を明示したようにも見える。ああ、今日も夏の虫がなく。人間というものは戒めを受けるために戦争やら紛争やらを続けるしかないのだろうか。
     もちろん、戦争で潤う人々がいるという社会の仕組みをなくすのは難しい。もしかすると、それが人間というものの生き様なのかもしれない。たぶんそれは、全くノーマークの、おそらく普段平和主義者の僕たちがよし信じて疑わぬものが原動力になっているのではないかと思う。これを業というのかもしれない。

    姫百合の歌』作詞・小宗三郎/作曲・不詳(1966)

    一、広く知られた 沖縄の
      犠牲になった 女学生
      姫百合部隊の 物語

    二、二筋忠孝 胸に抱き
      鉄より堅き 日本の
      大和魂の 桜花

    三、御国の郷土を 守らんと
      細い腕にも 力こぶ
      姫百合マークの あで姿

    四、他所の見る目も いじらしく
      弾丸飛び散る その中で
      艦砲射撃も なんのその

    五、いつか敵は 上陸と
      聞いた時には 姫百合も
      共に散ろうと ひとしずく

    六、無理に心を 励ませど
      体をささえる 食もなく
      のどをうるおす 水もなし

    七、泣いても泣けず 銃をとり
      勝たねばならぬ この戦
      岩をも通すと 立ちあがる

    八、焼けて飛び散る 我が郷土
      見るにしのびぬ 焼野原
      天地に神も 召しませぬ

    九、根気も意地も つきはてて
      死なばもろとも 姫百合は
      散って惜しまぬ 若桜

    十、とうとう玉砕 姫百合は
      地下で共に 泣くかしら
      淋しく泣いてる 夏の虫

     「戦後20年、もう戦後ではありません。」と高度成長期にあって大和のマスコミは繰り返しそう叫んだ。しかしそのとき、まだ沖縄は日本に返還すらされていなかった。このマスコミの大宣伝は沖縄の感情を逆撫でしたに違いない。姫百合の歌はそうした背景を背負って発表された歌だとしか思えなくなってくる。米軍基地である沖縄にとっては今も戦後だ。
     サイパン、グアムなども観光旅行に行く人々が多いが、その観光が遊びとしての狭義の観光か、それとも見学としての観光か、慰霊のための観光かで大きく表情が違う。
     いわゆるかつての激戦地に遊びで行く人々は、その寝そべっている浜辺やホテルの下には無惨な屍が累々と横たわり、小高い丘には、故郷に帰りたがっている地縛霊が立ち並んでいることを忘れてはならないだろう。
     見学で行く人々は、行儀よく並べられた資料をつぶさに漏らすことなく目を通すだけでなく、現地の様子に重ねて当時の様子を頭にイメージすることと、自宅に帰ってから明日にでも同じようなことが自分自身に起こる可能性があるという感覚をもつことを忘れてはならない。飛行機に乗ると別世界の出来事という錯覚を起こしかねないからだ。
     慰霊のために行く人々は、手を合わせるだけではいけない。手を合わせて思いを新たにチャージしたら、帰ってからどんな行動ができるかを企画しなければならない。自分の中だけで処理してはいけないことがたくさんある。
     戦争体験を聴くイベントがいろいろなところで開催されるが、後数年もすれば高齢化で不可能になっていく。公共図書館等でも夏の企画で展示とともになされることが多いが、その映像や声の記録をDVD等には保存してはいないのではないだろうか。その記録を累積して作品とし、貸し出すということを著作権の問題もあるだろうが、どこが主催する企画でも日本中でそうしたことを行っていかねば、失われていくばかりだ。手遅れになってからでは遅い。
     少なくとも僕の住んでいるところはこれまで何の記録も取ってこなかったので、とりあえず無理を言って同意してもらった。今年から記録をすることになるだろう。それをどう資料として整備し、どう活用するかについてのアイデアは内部でわきおこってほしい。そうならねば今度はアイデアを提供するという段取りをするだけだ。

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    5/30/2009

    日々雑感245「骨」

      <骨がたくさんの傘 画像クリックで説明画面へ>
     骨折経験がない幸せな人。いったいどれ程いるのだろう。ギブス姿は中学生に多く見られる。思春期をのりこえれば骨折も一段落するのかもしれない。しかし、高齢者の骨折も見逃せない。
     骨折原因として考えられるものは、スポーツや喧嘩などの無理な身体活動、日常生活の不注意な身体活動、落石や自動車事故に巻き込まれて身体を強打するなど不可抗力による事故、骨密度が低いことや病気などによる強度が不十分となった骨自体の不健康などだろう。どれも心がけさえよければ避けることができそうだ。
     「無理な身体活動」、「不注意な身体活動」、「予測不能の異常な外力」、「骨自体の強度不足」のほかにも骨折原因はあるだろうか。残念ながら一つある。自殺、あるいは自殺未遂による骨折だ。強いて言えば、医療行為による骨折もあるが、これは骨折というよりも切断だ。少々毛色が違うが「骨折り損のくたびれ儲け」という骨折りもある。
     骨といえば、鉄骨。躯体のほとんどが鉄骨の東京タワーのような建築物は骨に少しだけ肉が途中にこびりついたミイラの失敗作のようなものだ。これを美しいと感じる感性の持ち主も多いだろうが、たまたま自分はその感性を持ち合わせていない。
     それに比べてパーフェクトリバティーの大平和記念塔はほどよく肉の付いた建築物でほほえましく感じる。色が白くて骸骨のようにも見えなくもないが、凸凹感がなぜか目に心地よいのだ。
     ところで、雨傘の骨というものは知らない間に折れていることが多い。まるで人の心のようだ。次に使うときに初めて気が付くというのがパターンで、そのときは急いでいるから代えもなく、仕方なくその日は骨折傘を使うはめになるというわけだ。
     誰か痛がる傘を誰か作ってくれないかだろうか。傘の骨のしなりを感知して、そのしなり具合に応じた悲鳴音声が傘の柄から流れるというやつだ。しなり具合①「チョットイタイヨ!」、しなり具合②「イタ!」、しなり具合③「イタ、イタ!」、しなり具合④「イタ、イタ、イタ!」、しなり具合⑤「イターイ!」、しなり具合⑥「オレソー!」、骨折⑦「ピーポー、ピーポー」などと、しなる段階に応じて傘が叫んでくれれば、傘の角度を変えて風当たりを加減したり傘を閉じたりと、骨が折れないように対応することができる。
     骨折予防雨傘は、アイデア商品として一時ブームになるかもしれないが、風の強い雨の日の大通りは悲鳴で満ちあふれることになり、誰の傘が悲鳴を上げているかが分からなくなるということで、バイブレーション機能も付けられたりするが、外国人にその異様さを指摘されて、一気に珍商品として廃れてしまうことになるに違いない。
     傘の骨折率がどれ程か分からないが、高齢者の骨折率は二分の一を超えるらしい。縁の下の力持ち的存在の骨というのは、最初から一種の悲しさを漂わせているが、折れたときの無念の音は衝撃とともに初めての自己主張をして命を絶つ武士のようでむなしい。
     その骨をむき出しにした東京タワーが、血の色に塗られていることもさることながら、なおいっそう悲しい存在に見えて切ないのは僕だけだろうか。

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    5/28/2009

    日々雑感244「月火水木金土日」

     「月火水木金土日」を読むときに、僕たちはおかしなことをしている。
     「ゲツ、カー、スイ、モク、キン、ドー、ニチ」という読みをして平気な顔をしている。よく考えなくても「ゲツ、カ、スイ、モク、キン、ド、ニチ」が正しい。「火」と「土」は一音節で、他は二音節というところに原因がある。二対五の多数決で二音節が優位となり、一音節の二音節化が促された結果だろう。「長いものには巻かれろ」という生き方が、人生の一論理だけではないようだ。
     もっとも、中国語で読めば話は別だ。ただ、現代中国語では星期一から始まって星期六、そして星期日となる。月曜日から土曜日までは数字で表現されているから、その分だけは少し科学的な香りがするのだが、日曜日だけは「日」で特殊だ。太陽信仰の名残かもしれないが、随分と中途半端なことをしたものだ。
     しかし、この例は、必ずしも少数派が多数派によって駆逐されてしまうわけではないということを示していると解釈してみるのが面白いかもしれない。少数派、多数派という形のバランスをとりながら、少数派の多数派化が成り立っている。
     少数派は、知らぬ間に暴走する多数派にとって、ブレーキの役割を果たしている場合があり、安全弁として大切な存在になっている。同時に押し入れのような役割を果たしている場合がある。つまり、今は全く使わないが、時が来たれば引きずり出して展開するというわけだ。だから、少数派の心構えとして、情報や知識を保管しているだけではなく、常に派としてスタンバイしている状況を保とうとすることが要求されるだろう。
     随分と中途半端なことをしたものだと言ったが、これはもしかすると中国人の深い知恵がそうさせたのかもしれない。科学と宗教との調和だ。調和ということは、必ずしも量的なものがイーブンとなる状態ではなく、互いにその時々の分をわきまえて流動的に主従関係を交代しながら、迫りくる不都合を回避したり解決したりすることが保障される状態を保とうとすることだろう。
     このあたりの理解がないと、少数派がはみ出し者としての位置づけとしかとらえられなくなってしまうおそれがある。I
     このはみ出し者に対しては、はみ出し者としてマイナスのイメージを背負った分だけ、長い物に巻かれない生き方が粋な生き方であるという勲章を手にすることもあるので、はみ出し者になっていたからといって、特に悲観的になることもない。
     たとえば、はみ出し者ははみ出した道を貫くことでしか自分の価値を確立することができないことが多い。我が道を行くということは、そうした開き直りであるから、世の中に直接貢献しようなどという福祉的な仮面は必要ないので、それだけ身軽だ。また、我が道だけを行き、その道を究めれば、究めたという点において評価されるという特典もあるだろう。そればかりではなく、その道を究める過程で現れた副産物が間接的に世の中に貢献していたということもあるだろう。
     長いものに巻かれていれば、すばらしい成果も長いもののものになってしまうという空虚感におそわれるのに対して、少数派であったり、はみ出し者(本当は少数派かもしれない。本来は、多数派でも少数派でもない者のことをいうのが普通だろうと思う。)であれば、たとえスケールの小さい成果であっても、充実感に満ちあふれるだろう。この空虚感を何によって埋めるかで人のレベルの一側面が測定できそうなので、これはこれで利用できるだろう。
     ところで、「月火水木金土日」の字面を見ると、左右対称でよく整っている。一日一日破綻なく生活できそうな予感さえする。月曜日と表記しなくても月の一文字だけをカレンダーに載せても格好がよい。数字ではないので、日日(ひにち)とキャラがかぶらない。英語のように省略して記載するというのも、こだわりのある人では少しストレスかもしれない。それに対して「月火水木金土日」の堂々たる姿はどうだ。たくましくスマートで安定感がある。日本人は胸を張ってこれを使い続けよう。できたら、世界に流行らせるとよいかもしれない。どのような効果があるか面白そうだから考えてみよう。

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