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11/3/2009 突然思い出したこと131「擬似関節」 擬似関節のことを突然思い出した。生きている間には骨が折れることもある。さて、己の骨折部位はどうなっているだろう。手中骨などは擬似関節になっているところもある。左膝蓋骨のひびは自然治癒しているが、左拳の骨々は割れたために筋が行き場所を失ってはねている。だが、生物というのは全く面白いもので時とともに不都合を感じないように自動的に都合をつけていくから不自由はない。 骨といえども、そのトラブルは他の肉体と同じで、最後は自然治癒しかない。ボルトで締めるのも正常な自然治癒を促すためだ。しかし、骨は自然治癒をあきらめると、擬似関節化するという知恵をもっている。回復が無理ならば、違う道を模索するのだ。このあきらめの判断をどのタイミングでどのようにして行うかという点に興味がある。 これは心のあきらめと同じように個人差があるに違いない。しかし、このままでは駄目だと見切りをつけるのは何のどのような状況を何がどのように根拠として取りあげた結果なのであろうか。医学では医学的に矛盾なく説明をするだろうが、例によって「なぜ」を数回発すれば、答えに窮するはずだ。そこから先が謎で面白いところであるのに、自己完了してけりをつけてしまうのは現実的だけれど、ロマンがなくなる。部外者としてはそれではつまらない。 あきらめるとか知恵とか、そのように人体を擬人化したというのは妙な言い方だが、擬人化して類推するのも新たな発見をする方法の一つにはなるかもしれない。非科学的だが、有効な直観を得て、謎の壁を突き抜けるときにはそうした発想の模索が必要であるように思う。 もちろん、擬人化することによって見えなくなる部分も多い。要は了解しているかいないかだけの問題だ。薬には薬の、道具には道具の使い道と限界とがあり、それさえ了解していれば有効に役立てられる。逆に、過信したりこだわったり用途を間違えたりすると、重傷を負ったり最悪の場合死に至る。 特定の発想が問題解決を妨げる場合もある。しかし、薬や道具と異なり、直接命が脅かされることはない。ただし、間違った道にはまりこんで無駄な時間を費やすはめになることもあり、その場合は結果としては寿命を削ることになる。ひどい場合には、一生のうち何年かは死んでいたのとほぼ同じ状態だったということになってしまう可能性すらある。 さて、擬似関節には腱がついていないから、補助的に可動部位としてはたらくだけだ。力はかかるけれども、力を入れることはできない。形として曲がった分だけかかった力を分散させるという消極的なものだ。 しかし、積極的に解釈すれば関節が一つ多くなっただけ、柔軟な動きが可能になったということになる。腕であれば鞭のような動きに一歩近づいたことになる。この形と動きの中に一時的に力をためることはできないか。いくら棒を素早く振っても音速の時速約千二百キロメートルに至るのは困難だ。しかし、鞭を振れば先の方では音速を超える。 もちろん、人間が音速を出すのは無理だが、腱つきの加工された擬似関節によって、力の有効利用は生まれるかもしれない。ゴルファーなら、ためのある鋭いスウィングが可能となり、ボクサーやピッチャーなどは、変則的な動きで相手にタイミングを取らせなかったり、鞭のようなパンチで相手に大きなダメージを与えたり、鞭のようなピッチングで球速をあげたりすることができるかもしれない。 身体活動における「ため」というものは、全身の関節を上手く使って実現する。それは最も効果的なタイミングで、最も効果的な力を必要な時間加えるためのはたらきで、失敗を防ぐと同時に成功を促すものだ。意図的に擬似関節を人工的に適切な場所につくることによってこの「ため」の事情が変わってくることは間違いない。 これは、関節が擬似関節とはいえ一つ増えたということで、新しい動きとしての「ため」がもつ「目の錯覚」が相手の心理に対して有効にはたらくように考えなければならないということだ。また、新しく蓄えられるであろう力そのものの「ため」が実際にはたらく力として発揮される方法を見つけるという課題を解決しなければならないということだ。ことによると擬似関節がマイナスにはたらき、力が発揮されていく合理性が崩れ、力の効率がひどく低下してしまうおそれがあるからだ。 やがては擬似関節に独立した腱と筋肉をつけて本当の関節と同じように動かせるようになり、これまでのスポーツや労働のマニュアルが根底から作りなおされる時代がくるかもしれない。もちろん、一般化されれば日常的な作法や習慣も変わってくるだろう。人間のロボット化とはまた別の道だ。 ★ホームページに戻る 10/24/2009 突然思い出したこと130「ホームレスハウス」 段ボールハウスで有名なのはホームレスのハウスだ。ホームレスはハウスレスではなく、あくまでもホームレスだということだ。家族で段ボールハウスに暮らしていれば、ホームレスではなく、ただのハウスレスだ。もちろん、段ボールハウスをハウスとして認めれば、ハウスレスですらない。 ホームレスとハウスレスでは、ホームレスの方が辛い。だから、ホームレス同士で疑似家族を形成しやすい。これはこれで一つの社会をつくっているので、いろいろな役割が生まれることになる。一般社会から落ちこぼれた社会と見てもよいのかもしれないが、一般社会とホームレス社会は紙一重だ。いつどんな理由で誰がホームレスになるとも限らないということを知らぬが仏の一般社会だ。 ホームレスハウスを造るには、ざら板、段ボール、ブルーシート、ガムテープ、カッターナイフ、幾種類かの番線、ロープ、角材、コンクリートブロック、ペグ、金槌、鋸などがあればかなり立派な段ボール製ホームレスハウスが造れる。 多目的に使用する敷き毛布と掛け毛布、懐中電灯、新聞紙、ビニール袋、輪ゴム、折りたたみ式の小さなテーブル、折りたたみ式の椅子、傘、雨合羽、筆記用具、書き込みができるカレンダー、釣り道具、ラジオ、書類入れ、食器、胃腸薬、風邪薬、かゆみ止め、充電器、乾電池、洗面具、手拭い、ティッシュペーパー、偽装金庫……。これらは大きめのリュック二つに入る。これに自転車が加われば、行動範囲も広がり、その分だけ裕福に暮らせる。 公園には水とトイレがあるから、公園内は無理かもしれないが、その近くに場所を取ることからはじめなくてはならない。 民家が近いときには警戒心をもたれないように、挨拶や笑顔、掃除を欠かしてはならない。こぎれいな猫や小さな犬をペットにすることによって受け入れられ方が断然違ってくる。動物好きに悪い人はいないという受け入れ方をする人もいるからだ。子供に話しかけてはならない。逆に子供に話しかけられたら、昔話やおとぎ話をしてあげるようにするが、それ以上の人間関係を作らないようにする。さりげなく花を植えるのもよい。 警察の職務質問を受けるときも曖昧なことは言わない。非社会的、反社会的な思想の持ち主であると判断されるようなことは言わない。面倒見てやらなくてはと思ってもらえるような態度や表情、視線を持たねばならない。写真を撮られるような場合も、背景を配慮することと、太陽でまぶしい表情になるような落ち度がないように気を配る。家族や出身地、ホームレスになった理由などを質問されたときには涙ぐんで言葉を詰まらせるのがよい。 地域とは不即不離、尊敬すべき一芸や生活態度を持っていることをそれとなく広める。お寺やお墓の掃除などのボランティアもよいかもしれない。こちらからは話しかけないようにし、話しかけられたら、相手がはっとするような蘊蓄のあることばを少しだけ入れて返答するのも好印象を与える。地域の役に立っているということをそれとなく示す行動をひそかに続けることも大事だ。 公衆電話が近くにあればなおよい。体調が急変した場合などは救急車を自分で呼べる。子供の登下校時には保護者に配慮して姿を見せないことも大事だ。ほこり、排気ガス、粉塵などは肺を病む原因になるから十分注意する必要がある。 ホームレスになると世間は急に冷たくなったり哀れんだりしてくる。いろいろな実験で明らかにされている。このホームレスレポートを完成させるには、一般社会の正体、善良な市民の正体、人間の正体を知るには、どうしてもホームレス体験が必要になるだろう。かつて老人メイクをした新聞記者が体験した生々しい体験を上まわるレポートができあがるに違いない。彼女は骨折、性的暴力まで受けたが、ホームレス体験では死が待っているかもしれない。心意気のあるものはセキュリティーを確立してから臨むとよい。 ★ホームページに戻る 8/6/2009 突然思い出したこと129「伊呂波歌」 伊呂波歌の「浅き夢見じ酔ひもせず」の部分は、「寂滅為楽」に相当する部分だそうだ。「寂滅為楽」とは、「生死を超越し、煩悩から解放されて初めて、真の安楽が得られるということ。」らしい。
こんな事を突然思い出した。 でも、この伊呂波歌の「浅き夢見じ酔ひもせず」は、どうも意味がしっくりこない。よく考えてみなくてはならない部分だ。 「浅き夢見じ」というのは助動詞「じ」が打ち消しの意志、推量だから、「浅い夢を見ないようにしよう」とか、「浅い夢は見ないだろう」という現代語訳になる。その前が「有為の奥山今日越えて」というのだから、今は一日の終わりだということになる。一日の終わりには当然眠りが待っている。この眠りを前にして「浅き夢見じ酔ひもせず」と思うのだとする。想像を交えて次のように解釈してみた。 後半部分から逆に前半部分に向かって逆向きに訳す感じがするが、何となくこのように言葉を補って解釈すると自分なりにはしっくりしてくる。世の中の法則を説明するというスタイルではなく、ふと人生を振り返ったときのつぶやきとして表現してみたが、どうだろう。 「これまでいろいろと苦しいことを乗り越えて来たなあ。だが、それも今日でもう終わりになるかもしれない。明日からは、はかなく消えてしまう浅い夢を追いかけて、右往左往しなくてもいいように思うんだ。 今日は何かいつもと違うんだなあ。苦しまぎれに酔いつぶれなくてもよさそうなんだ。どうにも明日になれば目が覚めるというような浅い眠りじゃないように思うんだ。やっと深い深い眠りに就けるという予感がするんだよ。死んでしまえば誰でも仏となるんだってね。苦しみも悲しみもない安楽の世界に行けるらしいよ。 まあ、それなりの山の越え方、人生の歩き方はしてきたつもりだよ。だから、光り輝いていた時期もあったさ。あったにはあったが、振り返ってみれば何のことはない。上り坂もあれば下り坂もあって、ならしてみれば皆同じじゃないか。行き着くところも同じなんだな。ただ仏になる。それだけってわけだ。まあ、それはそれでさわやかなことじゃないかな。」 今回はこのような解釈にして記録しておこう。気分的な解釈には、その時その時の気持ちが自然に反映されるようで何となく楽しいではないか。 いろはにほへとちりぬるを わがよたれそつねならむ うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみしゑひもせず 色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならん 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず 諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽 どれもこれも誰がどんな思いでつくったのだろうか。解釈はどうあれ、つくった人がいることだけは動かしようのない事実だから、そのことは重く受けとめようと思う。伊呂波歌は無理やり一音節を一度ずつしか使わないという苦労をし、「諸行無常……」に至っては四字ずつ四句だ。日本ふうに考えると、どこから見ても「四」つまり「死」だ。ご丁寧に「滅」も四文字使っているという念の入れようだ。 人が生きるということはこんなにもただならぬものなのだろうか。考え込めば考え込むほど深遠なものに感じられてくる。それは見当外れのことを追究している可能性が高いということなのかもしれない。もっと明るくさわやかに生きるというスタイルをとれないものなのだろうか。いくら血塗られた人間の性であってもだ。 ★ホームページに戻る 7/22/2009 突然思い出したこと128「ことわざの比較」「Two heads are better than one.」は「三人よれば文殊の知恵」に相当する諺で、日本語訳はこの諺によってなされている。 しかし、このニュアンスの差異は無視できないものだ。この差異は文化の違いによるものだと思う。この諺をはじめとして多くの諺を比較すれば、これまで注目されてこなかった文化や気づかなかった文化の違いなどがあぶり出されてくるかもしれない。 学生の頃、こんなことを考えていたことを突然思い出した。多くの諺を比べる時間など今のところないので、この二つの諺を比べることにしよう。これだけでも、いろいろなことが言えそうだ。 まずは成り立ちの経緯や使用に至る歴史的地理的背景を無視して、目に見える言葉から単純に比べてみるのが手頃でよいだろう。「two」と「三人」、「better than one」と「文殊の知恵」という二組の言葉の対応からは何を導き出すことができるだろう。 「two」と「三人」は数の違いだが、二人の場合と三人の場合とでは、何がどう違うのだろうか。 二人であっても三人であっても、話し合いの結果は意見が一致するか、一致しないかのどちらかにしかならない。しかし、意見が一致したからといって、それが 正しいとは限らない。また、意見が一致しなかったとしても、どちらかが正しく、どちらかが間違っているとも限らない。異なる意見になって収拾がつかなく なったときでも、どらちも正しいという場合もあれば、どちらも正しくないという場合もあるからだ。 ただ、その結論に至るまでの過程が三人の場合と比べて単純なものになるという点が異なる。 「better than one」と表現されるだけあって、英語の諺の方は一人で考えるよりはましだという程度の意味合いだ。しかも、過程がどうあれ、二人しかいないのだから、二人が対決するか意気投合するかという、単純な結末となりがちだ。 これでは、考えの深まりや新しいアイデアの発見も、比較的期待できそうにない。また、そこには二人の人間関係とタイミング次第では、よいものも潰してしまう危険性も大きくはらんでいるように思うのだ。 これに対して三人の場合は、三者が異なる意見を出す可能性が案外とある。ジャンケンでいうと「あいこ」の状態だ。十人十色というぐらいだから、三者三様など日常茶飯事だ。 ジャンケンと異なり、同時にアイデアや意見を出すのではなく、二人の間で交わされたやりとりに対して無言でいる事が自分の無能を証明する事であるかのよう に感じる「プライド」を土台とした人情が働いた結果、あるいは、やりとりの仲間にただ入りたいと感じる「ふれあいたい」という欲求が人情として働いた結 果、そのやりとりに自分の言葉を挟みこんでいって話の幅を広げたり、そのやりとりを根底から覆して考え直させたり、いいとこ取りをして独自の考えを編み出したりするなど、後で参加してくる一人がいるという状況が二人で話し合うときとは大きく異なる。 三人がその役割を無意識のうちにも交代しながら話し合いを進め、このような後出しジャンケンの如き話の展開を続けるには、優れたコミュニケーション能力が要求されることになる。三者が織りなすこのコミュニケーションのあり方は、 話し合い自体をヒートアップさせてくれるとともに、生み出された新しいアイデアや意見を冷静に見つめ直して評価しようとする機会をも増やしてくれる。それは、話し合いの時間が長ければ長いほど、メンバーがそれぞれに第三者の役割となる機会が増え、時に応じ場に応じて客観的な判定や助言をしようとするからだ。 また、自分のアイデアや意見に対する他の二者の反応を比較する事によって、自分と他の二人とのそれぞれの距離を測ることが容易となるので、当面どちらを味方につけるか、そして最終的にどちらを味方につけるかなどの微妙な判断をお互いにくだしやすくなる。 また、三人では、とりあえずは二対一の構図を作り、有利に話を進めようとする駆け引きを、一人一人が試みる場面も多く見られるようになるだろう。そうした駆け引きのなかで効果的に自己主張するタイミングを失うことによって数の上で不利となった者は、自分のアイデアや意見の独自性と合理性を説明しようと躍起になるとともに、他の二者が述べる内容のなかに矛盾点を探し始めることになる。 こうした動きが出てくれば、また新しいアイデアがその駆け引きの過程で副産物のように生まれる可能性が出てくるだろう。また、それについての意見も活発になされることだろう。 また、三人の場合には、二者が対決する形となったときに、残りの者がいろいろな働きをして、場を取り持つ可能性がある。話し合いが壁に突きあたったときに安易な多数決に流れるという危険性をもちながらも、二人の場合のように単純に決裂したり、不用意に迎合したりしてしまう危険性についてはある程度回避できる。場合によっては、その働きによって新しいアイデアが生まれやすくなる状況を作り出すこともあるだろう。 残りの者がレフリー役となったり、冷静な観察者となったり、アシスト役になったりするのだが、その残りの者がいつも同じではなく、話し合いのなかで移り変わっていくような話し合いができるレベルのグループであれば、話し合いがより深まっていくことが期待できるからだ。 ただ、メンバーの人間関係や目的意識の差、話し合い時間の制限などによっては三者三様のままとなり、まとまるものもまとまらない状態で話が潰えるおそれもある。 これが何でもない友達同士の日常生活の話し合いならば、別段どうということはない。しかし、国を代表する人物が相談をするという場合などには、話が潰えてしまってはならない。外交上有利な立場をつくるにあたっては、話し合いの人数とそれぞれの関係を重要な要素として考え、大胆かつ綿密な作戦を練り上げなくてはならないはずだ。 では、二人で話し合う場合の利点は何だろう。 二人で行うジャンケンと一緒で、「Aが勝ち、Bが負ける」「Aが負け、Bが勝つ」「AもBも勝たない、つまりAもBも負けない」という三通りの内の一つになるという見方もできる。このことは話し合いのテンポのよさを保障するゆえに、結論を出すまでの時間を短縮させることにつながる。 もちろん、話し合うなかで新しいアイデアも出てこようが、単に二人とも同意見となった時点で話が終わる可能性が高い。また、片方の者に引きずられる形で話が終わる可能性も高い。だから、結局は「勝ち、負け、あいこ」という見方をしてもよいのではないかと思うのだ。 偶然の要素が極めて強いジャンケンの結果と異なり、話し合いの結果は論理的な正しさもさることながら、二人の間にある力関係と議論の力量差に依存しやすい。したがって、この意味で弱い者はどうしても力以上にがんばらねばならなくなる。自分の意見が通らないのは、偶然ではなくて自分の責任だからだ。 しかも、二人しかいないので、レフリー役やアシスト役はいない。だから、自己責任で相手を説き伏せる適切な手段を考えなくてはならない。今後の人間関係が悪化しないためにも、相手に対する配慮、特に手加減というものも自己責任で為されなくてはならない。自分の中にレフリーを作らねばならないということだ。 つまり、レフリーに甘えて自分の我を通そうとしたり、第三者のアシストを期待して強く出るかもしれない三人グループの構成員よりも大人である必要があるということだ。 これはどれほど仲のよい二人にもある基本的な問題だ。たとえ論戦ではなく、普通の相談であっても同じだ。人間関係というものは、二人が接触した効果をどう緩衝し、どうカムフラージュするかということがうまくパターン化されているうちは、仲がよいということになる。しかし、そのパターンが崩れそうになったときに支える役割をする第三者が「two」のなかにはいない。これは一つの試練だと言ってよい。この試練を通して二人は仲がよりよくなったり、大人になっていくことができる。 その反面、その試練のなかで培われた自律心を支えるような高度な精神作用は、もしかすると思いきったものの見方で練られた新しいアイデアを噴出させるには、足かせとしてはたらくおそれがある。二人の場合は相手が一人であるために、話し合いをするうえで配慮すべきことが多く、その分だけ責任が大きい。このために、新しいアイデアを生み出すのに必要だった奔放であるべき精神作用が自制心によって沈静化する可能性があるからだ。 仮に、相手が百億人であれば、相手に何も配慮せずに発想したり、発言したりできる。二人の間に生まれる常に「名指し発言状態」は多くの配慮をせざるを得ないために緊張感も高くなるが、相手が無数にいれば個々への配慮は逆に免除されてしまう。無数の相手に対する一人一人へ配慮は最初から不可能だからだ。 もちろん、これは個々への配慮が免除される傾向が生まれるだけだ。実際には、諸国をはじめとする各種団体や男性女性という大きなグループへの配慮が不可欠なものになってくることは免れない。ただ、これらの配慮というものは一般的なものであるから、どのように配慮すべきかが最初から分かっている場合がほとんどなので問題にはなりにくいだろう。 しかし、ネット社会特有の匿名性によって、無数の相手に対しても最小限のマナー程度の配慮ですむコミュニケーションが実現し、それを継続的に体験している人々が増えているのも事実だ。その安心感や緊張感の無さから、優れた発想を自己規制することなく記録できたり、自由な表現が保障されたりしているとも言える。 しかし、この場合は一方的な発言になる場合が多く、自分の世界を表現するだけですむという安心感をもってしまいがちな危うい行為だと言うこともできる。折角の新しいアイデアも話し合いのなかで練られるという機会が少なく、「すばらしい」とか「くだらない」とかに代表されるような単純な評価をくだすだけで終わる傾向が強くなる。 その結果、独りよがりなものになってしまう危険性が極めて高くなる。これを回避する配慮は充分すぎるほどしなければならない。 これらのことから、コミュニケーション活動のなかでネットでの発言というものが、最も大きな自己責任を負うものになってしまう。これを強く自覚しすぎると、リードオンリーになってしまい、偏ってしまう。それも寂しいものだ。 さて、二人の場合、新しいアイデアを実現すべく意気投合すれば、一人だけであるときよりもすばらしい行動力でことを為していくだろう。二人の間においては確固たる行動の根拠を確認し合ったということによる自信を得たからだ。相手が一人であるがゆえの自信だ。 相手が二人以上いれば、時間の経過とともに相手の二人の間にも新しいアイデアに対する考え方に揺らぎが起こり、温度差が生まれるので、常にその調整を図らねばならない。三人以上であれば、なおのことだ。調整の度にアイデアはより確かなものになっていくから、これがそのグループの自信となる。 しかし、二人であればその類の努力を必要としない。二人の場合は、一度方向が決まれば新しいアイデアを二人で実行することになるので、揺らぎは生じにくい。それによって実現するフットワークの軽さがそのグループの自信となる。 また、相手が一人である場合は、新しいアイデアに対する考え方の揺らぎは、一対一の人間関係であるため、心変わりと同義語になって しまい、それは今後の人間関係を維持することにおいて、お互いの不利益に直結する。だから、心変わりというものは非常に起こりにくいことになる。これは、我慢という精神作用によってもたらされる安定だと考えてよいだろう。 もっとも、三人の場合は、自分が我慢しなくても、自分の思いや考えをもう一人が代弁してくれることも期待できる分だけお気楽だ。 さらに、提示したアイデアに すぐさま第三者が口を挟むことはないので、その分安心できる。 ただし、一人で何人分ものいろいろな意見を出し続ける相手に対しては、どう対応してよいか分からなくなり、最後には業を煮やして付き合いづらいやつだというレッテルをはる人が出てくることになる。二人で話し合うときに期待される簡潔さが失われてしまい、相手のいろいろなアイデアを理解しようとするだけでうんざりしてしまうのだ。どれだけアイデアが豊富であっても我慢がならなくなる。 これはどうしようもない損失だが、人情とはそういうものなので仕方がない。結局は、その人情をはかれなかったところに問題があるということになる。 この人情というものは、そのように行動面のブレーキのはたらきをしているものである可能性があるので、合理的なものではないといってむやみに切り捨ててはならない。 三人の場合、新しいアイデアを共通理解事項として確認し合う事において、あるいはそのアイデアに基づいて行動を起こす事において一人が揺らいだとしたらどうか。 これは、揺らいだ者が一人である場合、一対二で少数派となる。敢えて少数派となる不利益を覚悟でもの申すわけだから、残り二人は それなりの覚悟をして聞かねばならない。 三人以上のグループ内におけるこうしたバランス感覚は、「ためらわずに断行するための調整」と「足踏みして見つめ直す機会の迷い」という作業を通して、新しいアイデアをより現実的で効率のよいものとしていくはずだ。このような自己修正力が期待できることは大きな利点だ。 新しいアイデアを共通理解事項としてグループ内での承認を得るという段階ではどのような問題があるだろう。 二人の場合にはどのような問題があるだろう。 じっくり二人で話し合ってアイデアを創出しなくてはならないのだが、二人であると、どうしてもジャンケンのような勝ち負けでことが判断されていく傾向が生まれやすい。場合によっては、後出しジャンケンならぬ、先出しジャンケンが有利となる可能性も高い。すると、アイデアの創出というよりも、アイデアの選択というレベルにとどまってしまう可能性も高くなってくる。これは困ったことだ。話し合いの目的から外れるからだ。 グループの人数によらず、人間関係が比較的対等で似た者同士の寄り集まりである場合には、誰か一人が決まりかけた話をひっくり返す働きをする可能性が残っている。その時には、振り出しに戻って目的を確認するところから話し合うことにより、こうした「貧しいアイデアの選択」を回避できるかもしれない。 しかし、三人の場合には、過半数の多数決が成立するので、話し合う時間がうまく確保できない場合には、最終的に「数の論理」という「合理性に欠けるかもしれないアイデアの選択」が安易になされるかもしれない。 また、グループの人数にかかわらず、人間関係の上下が固定してしまっている場合は、その安定した人間関係が災いして話し合いの深まり足らぬまま、結論を急いだ形になってしまうという不都合が起こりやすいように思う。 ところで、二人の仲がよいということは、負けた方が何らかの理由で「負け」を合理化しやすい条件を、二人の人間関係の周辺にたくさん持っているということなのかもしれない。 三人の場合は、三人のうちの一人が二人に効果的に働きかけるということが期待できるので、コンビであることによる、強いけれども壊れやすい微妙な関係とは異なり、トリオであることによる、微妙な安定感がある。 このように、コンビの仲の良さと、トリオの仲の良さは質的に少し違うように思う。三人以上は「みんな」という意識でくくられるが、二人の場合には「みんな」という意識でくくることはできないというところにヒントがある。 このように人数による傾向はあるものの、結局のところ仲のよさには、大きく分けて次の二種類があるように思う。「人間関係が固定しているがゆえの秩序だった平和」を維持している者たちの仲のよさと「人間関係が固定していないことによる対等の平和」を維持している者たちの仲のよさだ。 さて、どのような種類の仲のよさであっても、仲のよさがあれば、話し合いにおける勝負の側面が透明化する。また、仲がよいということは、それなりにともに過ごしてきた時間が長いということだ。 つまり、予め理解し合えている部分が多く、そうした外堀が既に埋められている状態では、敢えて人間関係の距離を縮める作業をする必要がないため、結論を出すまでにかかる時間を短縮することができるということだ。 この同一集団が長年の経験を重ね、コミュニケーションが極限まで進化すると、以心伝心という離れ業をコミュニケーションのオプションに加えるまでのレベルに到達するのだろう。 ところが、問題を解決するにあたっては、その問題の性質によって、二人で判断することの有利さが左右されることも起こってくるだろう。 例えば、即断を求められる問題であれば、二人で素早く判断して行動に移すことが問題のよりよい解決につながる可能性がある。 しかし、複雑な問題であれば、多面的多角的なものの見方や考え方が要求されるので、二人の話し合いでは荷が重い場合も出てくる。そうすると、三人以上で多くの情報を提示しながら判断したり、新しいアイデアの是非をより多くの頭脳で確認することの方が有効になってくる。 もちろん、これらは、メンバーその問題についてどのような才能の持ち主であるか、そして、どのような情報をもっているかということに大きく依存する。 あくまでも「better than one」ということだ。一人であるがゆえの「思いこみによる断念や暴走」は滑稽であったり恐怖であったりする。しかし、独裁者はどうしてもこの一本道を歩 いていくしかない。 イエスマンばかりを集めて鉄の結束と称しても、金を払い時間を費やしてまで集まるファンの群に向かって一心同体だと叫んでみせる芸能人と同じだ。つまずくまで走り続け、己を変えることができない。お膳立てされた相手というのは恐ろしいものだ。 ただ、いくら力関係に偏りがあっても、二人であれば、時間をかければかけるほど、話し合う間に知らず知らず相手に対する遠慮が働き、お互いに多少なりとも話し合いにおけるバランス感覚が生じてくるという淡い期待はもてる。 また、相手に対して必要以上の対抗意識をもって必要以上に自分の意見を高く評価し、声高に相手に自分のアイデアをほぼ押しつけた形になってしまった場合でも、たとえ力関係に偏りがあっても「仲がよい」という条件さえあれば、自分の意見の極端な面が明確化されたことに気づいたり、気づかされたりする時間が保障されていることが多く、行き過ぎた考えや言い過ぎを意識して自らを調整することもあるだろうという、これもまた淡い期待がもてる。 では、三人の場合はどう だろう。誰の意見がどのように通るかという点だけで見ると、「Aが勝ち、BCが負ける」「Bが勝ち、ACが負ける」「Cが勝ち、ABが負ける」「ABが勝ち、Cが負けた後、Aが勝つ。」「ABが勝ち、Cが負けた後、Bが勝つ。」「ACが勝ち、Bが負けた後、Aが勝つ。」「ACが勝ち、Bが負けた後、Cが勝つ。」「BCが勝ち、Aが負けた後、Bが勝つ。」「BCが勝ち、Aが負けた後、Cが勝つ。」「AもBもCも勝たない、つまりAもBもCも負けない」となる。 二人の時が三通りであったのに対して十通りとなる。勝ちが決まるまでの手続きはそう変わらないが、勝ちが決まるまでのバリエーションが豊富になる。 単純に勝ち負けの結果のパターンだけでは説明しにくいが、このパターンの豊富さは、新しいアイデアを生む一つの力になるはず。これは一人一人が持っている知識の互いに内容的に重ならない部分が増加することによって、ますますその力が増す。それらの新しい情報の組み合わせを話し合うことにより、この三人にとっては新鮮なアイデアがたくさん生まれる可能性が高まるのだ。単純な理屈だ。後はその中で有効なもの選択するという作業に入ればよい。 勝ち負けだけで見てもこうなのだから、相談して新しいアイデアを創出するということになれば、話し合いのなかでもっと多くの手続きが必要となるだろう。しかし、二人よりも三人の方が情報量の多さからいっても、また、より客観的な判断が可能となる第三者的立場を取れる立場の人がいるということからいっても、よりよいひらめきを得る可能性の高まりが期待できるわけだから二重に有利だ。 つまり、当事者の二人が気づかないことに気づく可能性があるという、岡目八目の論理がはたらく有利さだ。 この情報量の多さと冷静な判断力という二つの力に、討論上のレフリー役やアシスト役、場合によってはカウンセラー役をお互いに演じていくという話し合いが成立する最低の人数である三人が話し合う事によって、ようやく文殊の知恵に近づくということなのだろう。 このように見ていくと、「Two heads are better than one.」は「三人よれば文殊の知恵」に相当する諺だとはいっても、かなり質の異なる内容を表現していることになる。 決定的に異なるのは、前者が「まだまし」というレベルを示して比較的消極的な圧力をかけているのに対し、後者は「文殊の知恵」という理想を示すことによって、「より高い」レベルを追求することを比較的積極的に要求していることだ。 このように、反対語ならぬ反対諺とまではいわないが、似て非なるものだと解釈した方が、同じ意味合いの諺だと解釈してしまうよりも、見方を一つ増やすことになってよい。したがって、英語の方は、意味の近い「三人寄れば文殊の知恵」をあてがうよりも、直訳して示すほうがよいだろう。 問題は、諺として成立していくときに、なぜ一方の区域は二人版を成立させ、もう一方の区域は三人版を成立させたかということだ。そこには文化的な傾向が反映していると見るべきだろう。日本にも二人版の諺があるかもしれないが、三人版がメジャーであるところに意味がある。 もしかすると、そこに「対」と「和」というものに対する姿勢の違いを読み取らねばならないかもしれない。 もちろん、一対の諺だけで文化の比較をすることは不可能だ。あらゆる諺の比較をしてはじめて傾向をとらえられる。しかし、そもそも文化を地理的にとらえたり、歴史的にとらえていくなかで、どの諺がどの場で生まれ、どの場に定着したかをつかむこと自体は難しい。 したがって、少なくとも、現在どこでどんな諺が使用されているかという問題に諺文化の問題を単純化した方がよいかもしれない。 どの諺がどんな文化を反映しているかを、諺が意味するところと諺に使われている表現とから判断し、どういう精神的要件がどの程度どちらの方に傾いているかというチャートを作るには多くの時間をかけなければならない。 しかも、文化といっても既成の文化の類型とは別のものになる可能性が高い。とはいえ、既成の文化の類型に所属する人々の手によってそれぞれの諺が分析され、記述されていくようにしなければ、比較の仕方のバリエーションを確保できず、観察者の影響というものを考慮する資料が不足するという問題が起こる。比較作業が完了したとしても、資料を作っただけの初期段階をクリアしただけなのだから先は長い。 もっとも、気の遠くなるような時間をかけて諺も生まれ育ってきたのだから、そうしたことも仕方ないといえば仕方ない。ついでに死語ならぬ死諺の様子も見ていく必要がある。こうした厄介なことは厄介な事好きの世界の人々に協力を得て、ほぼ同時に行わないと比較の成果は出せないように思う。 どうでもよいことかもしれないけれど、諺は人間の知恵だ。だから、はやり詳細につかんで整理し、後世にバトンしていく必要があると思うのだ。 因みに、このように一人で書き綴ると、文脈もうねり、まとまりのつかぬ悪文になってしまうが、遠慮もなく、口を挟まれる事もないので、思いついた事のほとんどが盛り込める。これはこれでアイデアの倉庫として、あまり推敲せずに保管しておくのがよいと思う。 ただし、何かに利用できたとき初めて それがアイデアとして評価されるのだから、いつでも検索できるようにしておこうと思う。一種の思いつき手帳だ。ワープロソフトで一つのファイルに落としていけば、ワンタッチで検索できる。世の中便利になったものだ。 ★ホームページに戻る 6/21/2009 突然思い出したこと127「肩書き」 一個の人間に父、母、男、女、社長などといろいろの名前を付けることの副産物は、おそらくそれぞれの名前のイメージでその人間を見てあげるという救済、つまり評価されたり、自己評価したりする物差しをいくつも持っている状態にしてあげるという救済なのではないだろうか。 肩書きも含め、名付けられた数量だけの豊かな存在になっていく可能性を手にするということは、それだけで幸福なことのように思われる。我々動物なんて実際にはただの肉や骨なのだから、多くの名で呼ばれ、それにふさわしい行動をとろうとすることによって人間的に輝く機会を与えられた分だけ、幸福だと思うのだ。何となく肩書きがたくさんほしいのは、たぶんそのせいもあるのだろう。肩書きがある分だけ行動しやすくなるのだ。つまり、社会の中にあってはその分だけ自由な存在になるということだから、人生の幅が広がり、したがって人生の深まりも深いものになってくる。穴掘りと一緒で深くするためには幅を広げなくてはならないはずなのだ。 もちろん、たくさんある肩書きが空疎な人もいれば、たくさんある肩書きが負担になる人もいる。そうした人は今度は肩書きから自由になろうとする。こうなると、分相応の肩書きと分相応の肩書き数に恵まれるということが最も幸せなことだということになる。 もし、さまざまに名付けられることを負担に感じている人がいたとしたら、むき出しの生命体として生きていくことの恐ろしさを体験したことがないか、よほど己の価値に自信を持っている人に違いない。僕はこれまでそのような人に出会ったことがない。つまり、それだけ人生の幅が狭いということなのだろう。 ★ホームページに戻る 6/1/2009 突然思い出したこと126「カウンセラー」高校生の時にもっていたカウンセラーの印象は鏡だ。その鏡の奥の営みが手に取るようにわかっては台無しだ。カウンセラーは鏡。鏡は鏡でもマジックミラーというやつにならなくてはならない。だが、マジックミラーは内側に明かりがともったとき、ただのガラスになってしまうことがある。巧妙な相談者はその灯りをともす言葉の幾つかを知っている。 カウンセラーではないカウンセラーは天衣無縫の人。己の生き様で近づく者全てを意識することなくカウンセリングしている。心を貫く名言をもつ人だ。どの書物にも記されていないその名言は、心をとらえてはなさない。言葉が勇気となり、判断基準となり、ギアが適速にシフトする。だが、相談者ではない怠惰な相談者は、その人を簡単に失ってしまう。 どちらにも巡り会わない場合には、セルフカウンセリングしかない。自己完結のぬるま湯に飽きて飛び出すエネルギーが得られなければ、静止衛星のように落ちながらの安定地獄。このように感じたら一歩を踏み出した証拠だ。だが、その一歩は別の地獄への第一歩だ。最初から地獄しかなかったということなのだろうが、いろいろな地獄を巡ることで苦しさは見かけ上は軽減するから面白い。その軽減された分にいろいろな名前を付けてやれば、何かを得たような気分にもなれるので、そのタイミングを逃しては損だ。 だが、自ら常にパイオニアであろうとするか、パイオニアでなければならない立場にある場合には、最初からカウンセリングを考えてはならない。恐怖や困惑、ジレンマや憂鬱が力となってあらゆる障害を打破する殺人的な行動力と千年先を見通す洞察力を生み出すように自分自身をそそのかしてやればよい。 ★ホームページに戻る 1/10/2009 突然思い出したこと125「磁石の男」 その男は磁石を引きずって歩いていた。紐をつけた掌ほどもある馬蹄磁石だ。その紐は腰にくくりつけられている。歩いている間に道路に落ちている金物を回収しようというのだろうか。男の二メートルほど後ろを子犬ならぬ馬蹄磁石がからからとひかれていく。 金物といっても磁石だから主に鉄しか回収できない。そもそも金物を回収したいのなら磁石など使わなくとも見つけたときに手で拾えばよいではないか。 彼には磁石を使わねばならない理由があるはずだ。手が不自由なのだろうか。いや、両手両腕はしっかりついて動いている。すると、腰が悪くてしゃがめないのだろうか。しかし、どう見ても年格好四十前後の働き盛り。労働者風のなりをしている。しかも、手ぶらだ。 彼を見たのは一度きりだった。でも、目に焼き付いて忘れられない光景を再現しようと、小学校に入りたての幼い僕は彼の真似をして消しゴム大のおもちゃの磁石に凧糸をつけた。棒磁石を曲げたつくりの小さな磁石はお約束のように赤くペイントされている。 運動場を駆け回ると、犬ころのように磁石が追ってくる。集まるのは砂鉄ばかりだ。運動場だから当然だ。彼も砂鉄を集めていたのかもしれない。僕は何度かおなじことをして、小さなガラス瓶に砂鉄をためていった。 時折、瓶の外から磁石をあてがって中の砂鉄を踊らせて遊んだが、いつの間にか瓶ごと無くなってしまった。磁石も小学校を卒業する前に引き出しからどこかへ失せてしまった。あの砂鉄を溶かして固め、何か作っておけばよかったのだろうか。それとも、一生砂鉄を集め続ければよかったのだろうか。 あのからからという音の記憶とともに何やら奇妙に動く小さな子供の心が今にたぐり寄せられ、自分のことであるのになぜか愛おしく思われるのだ。 ★ホームページに戻る 1/7/2009 突然思い出したこと124「性善説と性悪説」性善説と性悪説という言葉を学校で習ったことを突然思い出した。もちろん、そういう名前の説があるということを習っただけだ。いったいどちらが正しいかさっぱり分からなかったという印象しか残っていない。高校生の倫理社会の教科書に載っていたのだろうか。それとも世界史の教科書に載っていたのだろうか。確認すれば分かることだが、どちらでもよい。そんな言葉がふと頭に浮かんでくるほどに善悪の判断がつかぬ人々による事件が増えている。ここで人間というものをもう一度見つめ直してみないと、自分が人間であるだけに、少し心細いような気がするのだ。 善悪の判断がつかないというが、これは犯罪者だけに限らないように思う。幼い子供や認知症の方は善悪の判断がついてないことが多い。周囲の者たちが、これはよいことですとか、これはわるいことですとか言うものだから、そうなのかと了解するだけだ。幼い子供は善悪の区別を学習していき、認知症の方はその時だけ了解できたり最初から了解できなかったりするという違いはある。 認知症でなくても、制度が変わっていくと、昔の制度では許されたことが今の制度では許されなかったりすることに戸惑ったり、挙げ句の果てに勘違いしたり、結局は了解できなかったりすることはよくある。このように社会的な善悪は時の流れで変化していくように思う。紛らわしいことだ。 これに対して、動物的な善悪があると見てよいのではないかと思う。動物的なという表現が不適切なら、生物的な善悪といってもよいかもしれない。これは人間が生物であり続ける以上は基本的には変わらないものと考えてよいものだと思う。 社会的な善悪は、その変化の波が人生よりも短かったり、変化の幅も大きかったりすれば、個人個人の判断の混乱を生みやすく、揺るいできた社会をさらに揺るがしていくことになるだろうと思う。また、その変化の波が人生よりも長かったり、変化の幅も狭かったりすれば、より多くの人々がその変化に適応していけるので、安定している社会をさらに安定させていくことになるだろうと思う。 生物的な善悪は、人間が生物としてどれだけ逸脱しているかという度合いによって変化せざるを得ないもののように思う。生物的な善悪と仮に表現したが、その中には、生物的な善悪はもちろんのこと、動物的な善悪、哺乳類的な善悪、霊長類的な善悪、人間的な善悪などというように階層化した善悪の体系があるかもしれないと想像すると楽しいではないか。 これに文化的な善悪というものを加味していくと、善悪に顔があれば、何となくその輪郭が見えてくるような気がする。つまり、性善説か、さもなくば性悪説かという突きつけ方をするのではなく、「善悪の構造を確認していく作業を怠らないこと」という取りあえずの結論をくだし、後は「ケースバイケースで判断したことを記録して追究の機会を途絶えさせない努力を続けること」が重要だと心得ることに尽きる。 こうしてみると、「努力しなければならないという時点で、既に性悪説が正しいと証明できる」という人も出てくるかもしれない。 確かに、しつけをしなくてはならなかったり教育が必要であったりするということは、性悪説が正しいことの証明のようにも見える。そこで、よいところを伸ばすのが教育だという偏った物の見方をすることによってバランスをとっていくことになるのだろう。 「人間ってのはなあ、はい上がるのは並大抵じゃねえが、落ちるのは早いぜ。落ちるところまで落ちてはいずりまわって生きてる奴を兄さん見たことあるかい?」就職してすぐの年だったか打ち上げの後、遅くなったのでサウナに泊まった翌朝、大浴場の湯船に一人で浸かっていると、体格のよい入れ墨の男が入ってきて僕に話しかけるのだ。人一人あの世に送って四国から逃げてきたというのだ。 「ああ、そうですか」となぜか世間話風に受け答える僕を気に入ったのか、こちらに寄ってくる。風呂場だとなぜか怖い人も身近に感じる。向こうも同じだろう。人殺しを自供するなどおかしな話なのだが、あながち嘘でもなさそうな気配だった。和やかでとてもフレンドリーな表情は逆に恐ろしくもあった。 湯船に浸かって放心すると、本当のことを話してしまうものかもしれない。悪いと知りながら悪いことをするのが人間なのだろう。善悪の判断がつくようになっても悪いことを敢えてする。そして、赤の他人に世間話のごとく悪いことをしたことを語ったり、警察に自首したりする。性善説も性悪説もないように思う。 悪いことをした人が悪人で、よいことをした人が善人だ。それでよい。悪の面と善の面の二面をもっていて、時と場合によってどちらかが表面化するというのが本当のところかもしれない。後は確率の問題だ。その確率を決定していくのが時の運だったり、人との関係であったりする。これを罰すれば確率が変動していくはずだ。どこの時点でどの程度罰するかによって変動の幅も変わってこよう。 よいところを伸ばすと全体が伸びるのと同じ理屈で、わるいところを放置しておくと全体が駄目になる。二つの手をかけないと偏りができて、人を不安定にしてしまう。すると、奇妙な方向へ暴走したり、逆に自分が分からなくなったりする。これは不幸なことだ。 彼の身の上話が始まったので、仕事がありますので失礼しますと言って早々に引き上げたのだが、その後どうなったのだろうか。 ★ホームページに戻る 12/12/2008 突然思い出したこと123「水たまり」 美しい水たまりはどこにいったのだろう。小さな小石で縁取られた箱庭のような水たまりの中を白い雲が形を変えながら流れ行く。太陽がまぶしくもその姿をさらして輝く。神々しい天空のできごとを逐一映し出す神秘、水たまりよ。 子供らはフェルト刺繍のような色とりどりのゴム長靴でその神聖な領域を無邪気に侵していく。よせばよいのに玩具のような傘で無闇にかき回し、ただの沼地にしてしまう。 子供は純粋で正直だが、自分の欲望や気持ちに純粋で正直なだけだ。だから、子供は愛らしく、だから、子供は恐ろしい。 大人がみんな自分勝手で嘘つきなのは、おそらく元をただせば子供だったころの名残なのだろう。それにしても、大人がみんな寂しく、過去ばかり話したがるのは、子供のころを懐かしんでいるだけではあるまい。もっと子供のように堂々と自分勝手でありたいがため、子供のように嘘を軽く笑顔で許してもらいたいがためであるように思われてならない。 僕は今さら子供に戻ろうとも思わないし、さらに大人になろうとも思わない。人間嫌いではないのだが、できることなら、あの美しい水たまりにあやかりたく思うのだ。 ★ホームページに戻る 11/30/2008 突然思い出したこと122「助詞」日本語には「助詞」という訳の分からないものがあることを突然思い出した。特に文末の「終助詞」というものが不思議だった。 「もう駄目だわ。」の「わ」、「もう駄目だね。」の「ね」、「もう駄目だぞ。」の「ぞ」、「もう駄目だよ。」の「よ」、「もう駄目だもの(もん)。」の「もの(もん)」などだ。方言に見られるような「もう駄目だが。」の「が」、「もう駄目だに。」の「に」、「もう駄目だど。」の「ど」などもある。 これらがどのような機能を持っているかは研究されているようだが、どうしてそんな言い方になったのか、果たして研究されているのだろうか。 「もう駄目だわ。」の「わ」は何だろう。似た表現に「もう駄目だわい。」があるので、「わい」の「い」が脱落して「わ」になったのだというのだろうか。「わい」は、「わたし(自分)」という意味の「わし」が語源らしいが、それが本当なら「わしはもう駄目だ。」の主語が文末に来て、「もう駄目だわし。」、それが「もう駄目だわい。」となり、「もう駄目だわ。」となるということなのだろうか。「わいはもうあかんわい。」というと「わい」がダブってくるということになる。「わしはもう駄目だわ。」という表現が妙にくどいのもその成果もしれない。 「もう駄目だわ。」は主に自分や自分に関わるものが駄目になったということを伝える表現だ。だから、「わ」が「わし」を語源とするというのは意味の上では合っている。こうなると、「もう駄目だわえ。」などという時代がかった表現も、「わえ」は「われ」の「r」が脱落したものだと説明できそうになる。 このように一人称が文末に来る倒置法の結果が、言い慣れることによって省略されたり、変形したりするのは、もしかすると日本語で主語が省略されるということと関係がありそうな気がしてくる。省略されたのではなく、倒置法によって本来あるべき場所から移動したのではないかということだ。 すると、この一人称は移動した後に当然の主語であるから省略されてしまったり、変形しながら文末の語調を決定していく機能をもたされてしまったりして元の位置に戻れなくなったかわいそうな単語ということになる。旅先で変身し、故郷に戻れなくなったやつというわけか。 まさか、「もう駄目だよ。」の「よ」は「余」なのか。「余は満足じゃ。」が「満足じゃよ。」となるのか。この「余」という一人称も「儂」とか「我」とかと同じ運命をたどったと考えると面白い。 さらに、「儂」は「のう」とか「どう」という音読みをもつから、「もう駄目だのう。」とか、「もう駄目だど(う)。」、音読みといえば、「我」は「が」だから、「もう駄目だが。」となったのだったら、おもしろさを越えて奇妙だ。「我」の北京語は「わ」に近い発音だから、これも奇妙だ。 想像をたくましくすると、「もう駄目だに。」の「に」が、「你」なら中国語の二人称だ。確かに「もう駄目だに。」という表現は、自分の状態を表現しているのではなく、相手や相手に関わるものの状態を評価したか、自分や自分に関わるものの状態を客観視して評価して、表現したものだ。すると、これも奇妙に符合する。「もう駄目だね。」の「ね」は、使われ方に二人称のにおいがするから、「に」の変形かもしれないなどと想像していくと確かに暇つぶしになる。 生活自体は決して暇ではないのだが、脳の働いてない部分は脳の働きづめの部分よりも暇だということだ。その暇な部分を少し刺激してやると、ひらめく力が少し復元してくるのではないかという淡い期待を持っている。正しくなくともよい、思いつきでもよい、根拠がなくともよい、頭を自由に使える訓練となればそれでよいということだ。 今度は、どうして倒置法にしたのかということを想像していくと面白そうだ。また、「わし」が「わい」になるなら、「わい」の「w」が脱落して「あい」になるのもそれほど変ではないという柔軟な感覚を持てば、日本語の一人称と英語の一人称が音声の段階では一致してしまう。見かけ上、それだけが関係ありそうな顔をしているだけなのだが、歴史の流れのなかで言語の接触がなくても、何らかの必然で結果として似てしまったのかもしれないと考えると、その飛躍感が何か楽しくなってくる。 そういう気持ちになってから、「日本語の起源は?」というような小さな問題から、「言語とはいったい何か?」とかいう中くらいの問題へ、そして「人間の秘密」という大問題に至るまでの種々の問題を解き明かそうとした先人の業績を正式にたどり始めればよい。そのうちに誰がどこで壁にぶつかっているかが分かり始めると、また楽しくなってくる。 そうこうしているうちに、ふと何気なく思いついたことが、思考停止している部分に思わぬ光を当てていくことになるかもしれないのだ。「待てば海路の日和あり」というわけだ。逆に、焦って間に合わせの作業を重ねているばかりでは、ろくなことにならない。そうした厳しい追究は専門家に任せておけばよい。僕たち一般人は、時折その業績を味わったり、勝手な意見を述べたりして楽しめばよいのだ。 ★ホームページに戻る 11/8/2008 突然思い出したこと121「大道芸人」 大道芸というものがある。大道芸人は屋外で芸をする。懐かしくも遠い記憶だ。 幼い頃、がまの油売りを見たことがあるが、あれも大道芸なのだろうか。日本刀で自分の腕に傷をつけ、がまの油で瞬間的に直すのだ。今考えてみるとそんなことは不可能だ。 研がれた日本刀で、本来の日本刀の操作で切られたなら、腕は落ちている。腕の切り口にがまの油を塗って、さあ治りましたということならすばらしいが、それでは切り口をハムのようにスライスしながら、がまの油売りを続けなくてはならない。次第に腕は短くなり、完全な片腕になってしまうので、後継者に座を受け渡さなくてはならなくなる。 できるだけ薄くスライスして、何回もがまの油売りをすることができる者が立派ながまの油売りとなる。最初は五ミリの厚さでしか切れないかもしれないが、熟練するにつれ、一ミリスライスが可能となり、限度はあるものの加速度的に残回数が増えることになる。当然、腕の長い人の方が長い分だけ有利になるのだが、神業的にかさぶただけを切り落として骨肉を切らないこともできるようになるに違いない。ただし、かさぶたができた後、そして落ちる前の微妙なポイントで、がまの油売りをしなくてはならない。これはかなり頻繁だ。頻繁にできるということはかなり商売向きに進化した技だということになる。しかし、もちろん、こんな油売りは最初からいるはずはない。 部分的に刃をつけた模造刀に赤い着色料をつけておき、それを腕の平らな面にあてがって引けば傷のように見えるから、それをがまの油で拭き取って、きれいに元通りにしているとしか考えられない。 本当に切っている強者のがまの油売りがいたとしよう。しかし、そのがまの油にどんなに優れた止血効果があったとしても、縫わねばならぬ深さの傷は、やはり治せないはずだ。赤い線はついても血がたらたら流れ出るパフォーマンスはまだ見たことがないので、流れ出る血は止まらないということだろう。 もちろん、度重なる怪我でプロレスラーの額が割れやすくなって、血が出やすいようになっているように、がまの油売りも位置をよく見定めて血が出やすくなった部分に添って何度も切っているのかもしれない。しかし、僕が見たがまの油売りの腕は白くつるんとしてしていて何の傷跡もなかった。白い腕はもしかすると、赤い傷跡を目立たせるためのものかもしれない。黒く日焼けしていたらかなり長く深く切ったことにしないとならないだろう。それでは大出血しなければならなくなる。これはパフォーマンス上、非常にまずいに違いない。 すると、がまの油売りは腕を日焼けしないように注意して生活しているに違いない。夏でも長袖の男は、ひょっとするとがまの油売りであるかもしれない。こう考えると多少は世の中面白く見えてくる。逆に冬でも半袖の男は何をしているのかと想像してみるのも面白い。 ところで、雨降りでもかまわない大道芸があれば、祭り主催者としては心強い。また、大通りや大きな公園がない地区では、小道芸を探さねばならない。小道芸なるものなど聞いたこともないが、屋内ではふさわしくなく、しかも狭いところが似合っている芸というものがあれば助かるだろう。 雨降りでも構わない大道芸にはどのようなものが考えられるだろう。水に溶けやすい衣裳を着て、雨に振られればその衣裳が溶けてなくなり、その下に着ていた水に強い衣裳が現れるというのはどうだろう。その衣裳を脱ぐと、その下にはまた水に溶けやすい別の衣裳が現れるという寸法だ。軒下とか店舗内で見ている客に、溶けてこびりついている衣裳をホースの水で吹き飛ばす役をやってもらえば盛り上がること間違いなしだ。新しいタイプのストリップというわけだ。 また、高熱を発する衣裳を身につけてパフォーマンスをすれば、衣裳に雨が触れた瞬間に蒸発して煙のように見えるから面白いだろう。全身では危険なので、掌だけとか、お尻だけとか、部分的に見せたところに雨が当たって蒸気を出すという形にした方がよいだろう。これは晴れても肩こりのひどい観客の肩を温めて気持ちよくさせたりできるから人気が出るかもしれない。 小道芸などという言葉はないが、ストリートマジックのなかには小道芸に近いものもあるだろう。これも幼い頃、ストリートマジックのおじさんからインチキねたを何度か買ったことがある。あれは何だったのだろう。唾をつけると血のように赤くなる薬とか、写真がいろいろに変わるインチキ写真とか、マジックではないけれど日光写真機とか……。落ちている小枝で進入禁止のラインをひいて、その周りに子どもたちを集めるのだ。 ★ホームページに戻る 10/11/2008 突然思い出したこと120「茶箪笥のカミソリ」 カミソリの刃が一枚。茶箪笥の小さな引き戸の奥。白い蝋紙に薄く包まれ、随分と無造作に置いてあった。 丸椅子の上に立った幼子は好奇の心でそっと中のものをめくるように取り出す。見たことのない冷たい光だ。弄ぶうちに手が血に染まる。この赤いものはなんだろう。掌に薄く切り込まれた傷。そこからにじみ出てくるもの。それが体内を流れる血だとも知らないのだ。 「これなあに?」 「血だよ。」 「血ってなあに?」 「ほら、それが血だよ。」 手をこすり合わせると、赤茶けた生乾きの血はぽろぽろとロンパースの上に落ちた。痛いとも痒いともつかぬ不思議な手の感覚に、指を広げたり握ったりして暫くじっと眺めている。思えば掌自体をこんなにじっと見つめたことがない。 指紋のことや掌紋のこと、カミソリが刃物といって体を傷つけるもの。なにより血という大事なものが体の中を流れていて、たくさん流れ出ると死ぬということ。いろいろなことを知った。 そんな大事な命の仲間である血というものが、いとも簡単に体の外に出てしまうことの不思議さと理不尽さを長い時間考え続けなくてはならなくなったのだ。こうした種類の不幸があることを初めて知った。 命について誰も手を差し伸べてくれない世界のあることを体感した子のつぶやきなどどこに届くというものでもない。ひたすらに受けいれて、心を配る必要のある恐怖が、幼子の心のしかるべきところに備わり、その分だけ大人になったということを後で知るのみだ。 ★ホームページに戻る 9/7/2008 突然思い出したこと119「オカリナ」 引き出しにオカリナが二つあるのを突然思い出した。アルトのC管とF管だ。買った理由は悪魔君や鬼太郎が持っていたからという単純なものだ。 オカリナの音色を聴くだけで癒やされるが、自分で吹けばまた別の癒やされ方をする。次にどの音を出すかは自分で決めるのだからいっそう安心感があるということだ。ただし、練習し尽くした曲でなければならない。 自分が知っている曲をプロ奏者が吹いているのを聴くときが最も安心で癒やされる。それを自分で吹く場合も癒やされるが、未熟ゆえに思わぬ音が出てそれが面白かったり面白くなかったりするから、二番目に安心できて癒やされるということになる。三番目に癒やされるのは、プロ奏者による知らない曲を聴く場合。そして、最も安心ならないのは、知らない曲を譜面を見て自分で吹く場合だ。 オカリナは自分に近いところで音が出るので、あまり練習しすぎると、耳にくる。複雑なメロディーになると最後には指にくる。高い音は指がどんどん離れていき、息を吹き込む角度の調整が困難になる。それでも上手に音を出せるように努力するところに充実感を覚えたり、いつもうまく音が出るようになれば、それなりの達成感もある。 しかし、土を焼いて作るのだから、うっかり落とせば割れてしまう。こんなに脆い楽器はない。慣れないうちは腫れ物を触るように扱うことになる。手から落ちてもよいように僕は革の紐を通して首にかけるようにしている。こんな扱いを受ける楽器も少ないに違いない。 適当に吹いていると、自然とオカリナの音色に合った曲想になっていく。優しく、透明で、揺るぎない時の流れ。心のひだを緩やかに包むいにしえの神々の吐息。 こんなものを、いったい誰がどんな心でつくりあげたのだろう。逆巻く僕の怒りや憎しみや苦しみが、清々しく消え去ってしまうではないか。ゆるりと体を横たえ、死人のように力が抜け、今にも魂が大地に吸い込まれていきそうだ。 世の中には薬に頼って魂をコントロールする方法があり、確かに一定の効果が期待できる。しかし、音によってもそれは可能だ。それが証拠に、ガラスに爪を立ててひっかく音は魂を萎えさせる。萎えさせる音があれば、別の効果を持つ音もあるということで、音楽療法なども進歩しているらしい。 しかし、音だけに頼ろうとすればそれは失敗に終わるだろう。般若心経に要約された世界観を逆手に取っているのだから、全ての感覚にかかわる手法を同時に施すプログラムを持たなければならないだろう。 9/6/2008 突然思い出したこと118「ロッキングチェア」 今から何十年も前の話だが、図書館の椅子が全てロッキングチェアだったので驚いたことを突然思い出した。 それにしてもロッキングチェアというものを考え出した人は偉い。例のフランクリンだということになっている。雷実験をはじめ数々の発見や発明は自作のロッキングチェアで考え出したものだろうか。 確かに、体が適度に揺られてリラックスすると、通常時よりたくさんひらめくことが多いように思う。もっとも、気持ちよく揺られ、ゆりかごの赤子のように寝てしまうこともある。目が覚めたときにそのひらめきを覚えているかどうか、そして目が覚めた途端にそのひらめきが色あせてしまわないかどうかが問題だ。 しかし、このロックの仕方が前後でなく、左右であると話は別だ。視野に入るものが全て揺れ動き、酔ってしまいそうになる。前後の揺れによっても、物が近寄ったり遠のいたりする感じはあるのだが、あまり不快なものとしては感じられない。僕たちにとって普段の前進している感覚が通常の感覚だからだろうか。 前後の揺れなら、物が少し大きく見えたり、少し小さく見えたりするということはあるにしろ、ほぼ同じ物が同じ方向に見えているという印象が持てるのに対して、左右の揺れは、物の向きが殊更に変化しているように感じられたり、物が見え隠れするように感じられる。これは左右だけでなく上下の動きでも同じだ。これによる刺激によってリラックスとは程遠い気分にさせられる。 ところで、ロッキングは「R」で始まるが、「L」で始まるロッキングは固定するという意味になってしまい、揺り椅子ではなく、固定椅子になってしまう。「R」と「L」の区別が苦手な日本人はばかにされるそうだが、その区別が必要でない言語なのだから仕方ない。 音節の種類が桁違いに多い言語にはその区別が必要であっても、シンプルな音節の組み合わせで微妙な意味合いを表現し、その音節構造のシンプルさによってどの言語も簡単に自分流に吸収することが可能な日本語にとってその区別は無駄なものだ。 この独特な日本語は国際的な標準で見れば孤立言語なのだろうが、孤立した言語であることによって守られているものを見失ってはいけない。言語的な鎖国であるような言い方をしたが、鎖国のような意図的なものではないので、この国に生まれた運命として受け容れるべきだろう。 音節の種類が圧倒的に少ない日本語に対して、かつて悲劇と呼んだ言語学者がいた。 どのような悲劇であるのかもう一度ひもといてみたい。 ★ホームページに戻る 8/19/2008 突然思い出したこと117「自作キャラメル」 幼い頃といっても小学校低学年の頃だろうか。今どきのように袋に入ったお菓子などはなく、紙袋に入れて重さを量っての量り売りだったような気がする。お小遣いもないから、たまにどこかでもらったようなお菓子を真似して自分でつくるのだ。 なかでも自分のお気に入りは、自分だけがこっそりキャラメルと称していたものだ。作り方は簡単。バターに相当量の砂糖を練り込むだけだ。キャラメルとはいっても、他に甘いものをあまり知らないから、そのように思っていただけで、キャラメルの味がするわけではない。辛うじてミルクキャラメルかなというぐらいだ。 自分ながら極上の味を創造したつもりになって密かに満足していたものだ。しかし、たくさん食べるわけでもない。この「自作キャラメル」も総量で言えば、大さじ五杯程度で製造中止にしたはずだ。もちろん、興味が別のものに移り変わっただけの話だ。 そのようなものを口にし続けていれば、健康診断検査が恐ろしいものになりそうだが、よくしたもので、今はバターが手に入らない。 ところで、「バター臭い」とか「バタ臭い」というのは、西洋の雰囲気とか西洋かぶれという意味だろうが、これだけ西洋化した日本では、ほぼ死語になった感がある。若者の姿形も江戸時代のことを思えば、随分とバタ臭くなったものだが、和風の面構えの者がまだまだ多い。これが五百年後、千年後の将来であったとしても、絶滅してしまうことがないよう、大事にしなくてはいけないと思う。 一方、西洋では、漢字のTシャツが流行ったり、東洋の思想に興味を持ったりするなど、東洋への憧れを持つ傾向の人間もいる。僕たちはこれは何と呼べばよいのだろう。「糠味噌臭い」と言えば、女房になってしまうので、今のところ不都合がありそうだ。では、西洋ではどのように呼ばれているのだろう。特に、食べ物で表現されたものを知りたく思う。 「味噌臭い」だろうか。「納豆臭い」だろうか。「魚臭い」だろうか。どうでもよいことだけれども、この中で砂糖を練り込むとしたら「味噌」が最も似合っている。こう思うこと自体が和風の感覚かもしれないが、どうしても魚だけは砂糖ではなく、塩にしてほしいものだ。また、納豆は甘納豆があるが、ねばねばの納豆が甘かったらやっぱり少し怖い。 <見るからに旨そう 画像クリックで説明画面へ> 7/28/2008 突然思い出したこと116「怪異、京都のホテル」 京都に出張したときのことを突然思い出した。 数年前のこと、夏のある日、単身京都に出張した。恐ろしいことに一か月前に発表者に指定されて以来、死にものぐるいの徹夜が続いたので、体調も最悪だった。派遣を依頼する文書は半年前の日付だから、その間、どこの事務所をどうたらい回しにされていたものやら、想像するだけで腹立たしい。しかし、それは迷惑以上の体験を僕にもたらした。 近畿、北陸、中部地区等から人が集まるというので、気合いを入れるしかない。前日から、京都入りし、体調を整えるべく、ホテルで一泊したのだが、そこでの出来事だ。 体調が悪いといっても、熱があるわけでもなく、どこか痛いわけでもない。疲れていただけだ。資料は段ボール箱に詰め込んで小包で会場に送っておいたから、ホテルまでの道のりは肉体的には楽なのだが、資料に朱書きをしたり、予想される質問について自問自答して回答集を作成したりと、精神的には確かに追いつめられていたように思う。魔というものがあるとすれば、こうした隙を逃しはしないはずだ。 その夜、早めにベッドに入ったのがいけなかったのか、深夜、ふと目が覚めた。そこから明け方にかけて起こった不思議な出来事は、どうにも説明がつかないものなので、記録に残さない方がよいだろう。ただ、チェックアウトするときのカウンターの三人の表情が今も忘れられない。 きっと僕は曰く付きの部屋を案内されたに違いない。インターネットで安い部屋を探すのはよした方がよいと思う。とはいえ、そのおかげで、発表も質疑応答も取るに足らぬ出来事のように感じられ、随分と助かった。意地悪質問には意地悪回答を、熱心な質問には熱心な回答をすることができたというわけだ。 学生の時以来、不思議な体験はこの一度きりだ。だから、僕に原因があるというよりも、部屋に原因があったのだと信じることにしている。 さて、暑いときには、意図的にあの夜のことを思い出すと、文字どおり全身鳥肌が立ってくる。だから、納涼といえば納涼になる。これだけ地球温暖化が話題となっているので、また、省エネルギーのためにも、世界中の一人一人がぞっとする体験を積極的に計画的に積んだ方が、冗談抜きでよいと思う。 しかし、その恐怖体験の記憶が暴走し、精神を支配するといけないから、原子炉の制御棒のように、いつも何かで制御していなくてはならない。必要なだけ必要なときに恐怖を小出しにしていかないと、結局は恐怖に取り憑かれることになってしまうおそれがあるのではないかと思うのだ。 そんな便利な心の制御棒などあるのだろうか。自然の物忘れも制御棒の一つだろうが、それだけでは頼みにならないことは確かだ。 まず、恐怖を断片化するのがよいだろう。その方が制御棒を取りそろえるのに都合がよい。まとまっていると、万能の制御棒に仕立て上げなければならなくなる。それは不可能に近い。 断片化するには、断片ごとの恐怖に名前を付けることだ。名前を付けられなかったものは手に余る恐怖ということになってしまうので、命名前段階にある恐怖という名前にしておくか、既にコントロールできる恐怖の分類に体よく収めてしまうのがよいだろう。納涼お化け大会のようなものは昔の人の大いなる知恵だ。恐怖を幾つかのお化けや妖怪に小分けしているのが第一の知恵だ。第二の知恵は、それに形を与えていることだ。第三の知恵は、その形に名前を付けていることだ。 こうすることによって苦手な恐怖と、そうでもない恐怖とを区別することが可能となる。形を与えることで対策も考えることができる。これに物語をつければ同情さえ持つことができる。つまり、恐怖を感じつつも、恐怖に包まれることからは逃れるという知恵だ。 子どもにとってお化け屋敷は一種の教育施設だろう。興味本位の怖いもの見たさ、単なる度胸試しという評価もできるが、恐怖に対応する心の鍛えの場所という機能に目をつむってはならないだろう。 バーチャルな恐ろしい映像は必要以上に恐ろしく描かないと恐ろしくはない。お化け屋敷のように、バーチャルではない、疑似ではあるが現実の恐怖は、映像の恐ろしさとは違った日常レベルでの恐怖だ。バーチャルな恐ろしい映像の恐怖とリアルな恐怖の境目が、何ものかによって取り崩され、曖昧になったとき、リアルな世界での恐怖感に歪みが生じる。これはこれで恐ろしい。 恐怖は、お化け屋敷のような半リアルな世界で味わわせなければ、不要の恐怖を抱くようになり、それに対応するために異常な行動をとってしまうという素地が次第にできあがっていくのではないかという予感がするのだ。本人自身にとっては合理的であっても、それが社会的にも都合がよいことであるとは限らないから始末が悪い。 予感と言ったが、予感というものは決して馬鹿にしてはならない。説明できるまでの前段階であると警戒しておいた方が無難だ。「備えよ常に」でなければ、応急の対応しかできず、後で悔やむことになることが多い。その失策、失態を言わぬのは、今後のためにならないのだが、個人的には忘れてしまいたいことだから、これも始末が悪い。 さて、暴走する恐怖を制御する棒であるからには抜き差しができなくては用を為さない。断片化させた一つ一つの恐怖の度合いが高まる解釈をしたり、低くなる解釈をしたりすることが可能であるような把握にしておくということがポイントになってくる。また、このように考えること自体が恐怖の度合いを低くしていくのも確かだ。これは制御棒を押し込めたり引き抜いたりする手の力を鍛えることになる。 こうして、鳥肌を立てたり、鳥肌を元に戻したりをコントロールすることができれば、クーラーなどを「強」にしなくても、「中」ですむようになるかもしれない。コントロールは訓練だから、繰り返し意識的に行えば身につけられる能力だ。おかげで僕はクーラーの世話になる必要があまりない。自動車でもクーラーはほとんどつけない。逆に、窓も閉めきりなので、熱中症にならないように配慮しなければならない。随分と面倒だが、ガソリンが高くなったから仕方ない。 どこをどうたらい回しになって僕の所に来た依頼か分からないが、この話になったときには、迷惑以上の体験をしたと答えることにしている。しかし、その体験というのは、実はホテルでの恐怖体験だということを知る人はいない。他人に説明するのが面倒なこともあるが、変な人と思われるのが落ちだろうと思うから、つい全てを語ることを躊躇してしまうのだ。 ★ホームページに戻る 7/21/2008 突然思い出したこと115「縁の下」 縁の下。昔の家には小さな子どもが入り込める縁の下があった。風呂を薪でたくので、予め鉈で薪割りをして、手頃な太さにするのだが、子どもの目にはそれが不思議で仕方なかった。物をのこぎりで地道に切り落とすのは分かるのだが、鉈の一振りで、堅い木が一瞬にして割れてしまうのはどうにも不可解だったのだ。不可解でありながら、薪の割れる小気味のよい音を聴いたり、割れた薪が躍動するのは面白く、いつまでも縁側にしゃがみこんで、飽きることなく眺めていたものだ。 針金で束ねた長く太いままの薪を保管しておくのが倉庫で、割った薪を一時的に保管しておくのが縁の下だった。夏でもそこは涼しくて風通しがよいのだ。いろいろな虫がいて、そいつらと遊ぶこともできる。歯が抜け替わる度に、小さな歯を縁の下に鼠の歯の呪文とともに投げ込んだものだが、ついぞそれを見かけることはなかった。縁の下には何かいて、子どもの願いを叶えるためにこっそりと持ち去っていったのだろうか。 かつて、縁の下の力持ちになっていては出世はできないよと言われたことがあった。しかし、それが縁の下の力持ち的なことであったり、逆に、はったりの打ち上げ花火であったりしたのは、たまたまそうであっただけで、やりたいことをやりたいようにやってきた結果だ。 小さな世界のなかで出世するのは見かけの出世であって、本当の出世は世の中の人々の役に立てることをいう。地位が上がっても世の中の役に立っていないのでは、何をしてもむなしかろう。まず自己満足のできることを見つけ、それが他人の満足にもなるように努力することが生きるということだろうが、別に満足などしなくてもよい。満足することにこだわれば、満足するために目指す水準を下げてしまったり、いつまでも満足できぬためにくじけてしまったりすることにもなりかねない。そうなっては、人生面白くはなかろう。 必要なことを必要なだけするのと、最低必要なことを必要なだけするのとでは、大きな違いがある。本当に出世するためには、前者でなければならない。自由な目で世の中を見て、世の中のために自由な活動をしていくためには、長年の準備が要る。必要最低限のことをして小さな世界のなかで疑似出世をし、残りの時間を自分や自分の家族のために「自由に」使うというのは、何とも前時代的な浅ましい生き方のように感じるのは僕だけだろうか。それで何が悪いかと言われそうだが、悪いのではなく、ただ単に浅ましいのだ。 人の世の役に立つということは、決して偽善的なものではなく、あくまでも必要なことだからだ。ここが理解できない人と理解できる人、理解できても行動できない人と行動できる人に分かれる。人間性の根っこの違いというものは、やはりあるのだとよく思わされる。それはいったいどのようにして根分かれしたものだろうか。 自分は、人知れず世の中に種をまき続け、それが進展していくのを見ながら、自らもそれに絡んでいき、運命をともにしてみたいと常々思っている。駄目に終わったものは仕方ないが、駄目に終わらないものも出てくる。仕事や趣味に時間を割くのもよいが、それだけではスケールが小さくなってしまう。人生一度しかないのだから、いろいろなスケールのなかで生きていけるようになりたいのだ。 今となっては潜り込むことのできない構造の縁の下になってしまったが、記憶の中の縁の下を思い出すたびに、祖父の小気味の良い薪割りの音とともに、人の世の役に立つことは他にないかという心意気のようなものが心の中に響きわたる。 ★ホームページに戻る 7/20/2008 突然思い出したこと114「ポンポン蒸気」 「あれがポンポン蒸気だ。あれは帆掛け船、ヨットというやつだ。ポンポン船は燃料がいるけど、ヨットは風の力で走る。前から風が吹いても前に進むんだぞ。」という祖父の言葉を突然思い出した。 家から少し散歩すると大きな川があって、当時はそこに船が往来していた。おそらく四、五歳の頃だと思う。木と木の枝の間から顔を覗かせて、きらきら光る川面を眺めていた自分をはっきりと感じてとれる。しかし、その前後の記憶はない。 ポンポン蒸気船は眼下を右から左へ海に向かって川を下っていった。帆掛け船はどこを走っているのかよく分からず、「今、きらっと光った。」と言われても、背の高さが違うせいか、自分の目には映らなかった。 夏の晴れた昼下がり、見つからないヨットを「どこ?ねえ、どこ?」と聞く自分と、威勢の良い蒸気船とその波切り音、この記憶が心に強く残っているのはいったいどうしたわけだろう。何のためにいったいどこにどう収められているのだろう。 7/17/2008 突然思い出したこと113「おもちゃの記憶」 ブリキ製の拳銃。中折れ式になっていて、折ることによって二本の針金が引かれ、それに連動してピストンが引かれ、紐の付いた円筒形のコルクの弾も筒先に先込めされる仕組みになっている。中折れにした姿を元に戻すと、準備完了だ。あとはガンマンを気取って引き金を引くだけだ。コルクの弾がポンと音を立てて飛び出すが、おそらく15㎝ぐらいしか紐の長さがないので、空中で止まって落ち、筒先から紐でぶらぶらするというものだ。その銀色の筒は人差し指がちょうど入るほどの直径で、先は巻いて処理してあり、指を切らないようになっていた。 これは叔父からもらったものだ。黄色と赤と黒でガンマンが描かれたパッケージに二挺入っていて、外から中が見えるようにビニールの三角の窓がついていた。もらうとすぐに腹這いになって両手で拳銃を構え、ポンとコルクの弾を撃ったように思う。何で腹這いになって撃ったのだろう。そのようなシーンが西部劇にあって、それを真似たのだろうと思う。 組み立て式ロケット。いろいろな色のプラスチックの部品をパズルのように組み上げると十センチほどのロケットができあがる。これは父からもらったものだ。もらってすぐに部品が一つ無くなってしまった。中途半端な組み上がりが気に入らなかったのだろう、眺めるたびに残念な気持ちになって、そこかしこを探してみるのだが、見つからない。そのうちにどこかになくしてしまった。 ゲーム盤。直径十センチそこそこの白い円盤で穴がいくつも開いており、ダビデの星のような絵柄になっている。星の角の三角形のところにボーリングのピン状にピンを差し込むのだ。そのための穴がいくつも開いているのだが、この星の角の三角形のところが赤や青や黄色に塗ってある。相手も同じように別の星の角のところにピンを差し込む。これで準備完了。たぶん10本のピンを差し込むのだが、それを交互に一つずつ前進させる。相手のピンが自分のピンの直前にあれば、それを飛び越えて前進できる。このようにして相手の陣地に自分のピンを全部送り込んだ方が勝ちというゲームだったように思う。角が六個あるので、二人以上で遊べたのだろうが、詳しいルールはあまり覚えていない。ピンはゲーム盤の中に収納できるようになっていたように思う。これはクリスマスプレゼントだ。 プラスチックのブロック。これは母からもらったものだ。全部同じ形をしていて、今のレゴのようなものとは大違いだ。しかし、今考えると変にからくりめいた仕掛けを作って遊んでいたような気がする。よく覚えているのは、犬の形に作ってあるのだが、胴体が割れて秘密の部屋が出てきたり、背中の蓋が開いて、中から探査艇が飛び出したり、脚が器用に可動するのだ。 残念ながらブロックの数が足りず、頭の中で消えていったさまざまな動物やら新兵器やらが惜しく思われてならなかった。これもブロックがいつの間にか欠けたり、無くなったりして、いつの間にか失せてしまった。 あとは粘土とB4藁半紙。欲しい物はそれで作った。「おもちゃ」が「もてあそび」に「お」をつけたものなら、まさに粘土と紙は「おもちゃ」そのものだ。「おもちゃ」よりも「おもちゃ」らしい「おもちゃ」というわけだ。いわゆる「おもちゃ」は「おもちゃ」というよりも、「かざり」か「からくり」の類だろう。そうしたものにばかりに囲まれていては、 つまらない人間になるだろうからという理由だったらしいが、結果的に多少は家計を助けたことになったとは思う。誠に迷惑な話だが、それもまたよしとしよう。今でもほとんど無料で心を慰めたり、満足したりできるのは、そのおかげだと思うのだ。 ★ホームページに戻る 7/5/2008 突然思い出したこと112「調和」 調和すること。宮本武蔵の「五輪の書」を読んで覚えていることはこれだけだ。高校生のときに呼んだのだから年月が経っていることもある。 相手と調和することで、相手を自分のものにするという勝負の極意だ。敵対するのではなく、自分のものにすれば相手の命も自由自在に操れるという理屈だろう。実に意味深長だ。 調和することと同調することとは似て非なるものだと思う。同調すれば感情に流され、解決の道は閉ざされる。同調して得られるのは安心か破滅かのどちらかだろう。 これは思いやりにも通じる。本当の思いやりとは同調することではなく、調和することにあるのだと思う。同調は感情に流され、問題を解決する道が見えなくなるおそれがあるが、調和はコントロール可能な状態だ。理性を失わないものが主導権を握り、好ましい道を選択して導くことができる。 話が勝負だから、相手が生きて自分が死ぬか、自分が生きて相手が死ぬかという問題になるだけで、仕事も恋愛も同じことが言えるように思う。もちろん、双方死ぬ場合もあれば、双方生きる場合もある。どの結論を得ることになるにしろ、敵対したり、同調したりしている間は、お互いの不幸につながる。お互いの幸せを追求するための調和がどうしても必要だ。 ただし、立て籠もり犯人と人質の間にみられる同調は、閉ざされた空間においては安心感を得るための必然かもしれない。破滅を迎えるまで同調していれば、仮初めではあっても人間関係を構築でき、当面のストレスは抑えられるだろう。また、学校という閉ざされた空間においても、同調しているだけの仲間を友達のように錯覚することによって、やはり仮初めではあっても人間関係を構築でき、当面のストレスを抑えることに役立っているように思う。そういう意味で言えば、同調はかなり有効な方法だろう。 同調は盲目的になるという点で愛に似ている。調和は自分や相手やその周囲のことを考えるという点でやはり愛に似ている。 |
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