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    6/14/2009

    自己分析シリーズ43「振り向いて」

     女々しいからノートに封印したままだった。こうしたものの封印を恥じらいもなく解ける自分になったと分析したほうがよいだろう。
     今、最後の長い一本の道のどの辺りにいるのだろう。振り返ってもらってももう僕はそこにいない。最後とは言いつつ、何本もの道を乗り継いでやっと生きてきたのが現実だ。若いころは道が一本しか見えなかったり、一本の道しか見てはいけないと思ったりする。
     そうした純粋な思いというものは、何のためにあるのだろう。自分が向き合っている未来だったり、人だったり、思想だったりするのだが、その純粋さというものは何のためなのだろう。
     おそらく、若きゆえの情報不足による不都合な行動を制御するための心のあり方なのだろうが、その純粋さにはいとおしさを感じる。もう自分にはなくなってしまったものだからか。それとも、思いと行動を一致させる唯一の手段としては、あまりにも儚いものだからか。
     一秒一秒が宝石のように輝いていながら、その一秒一秒がどうしようもなくはかないのだ。そんな現実を受け止めるにはとても耐えられなかったのだろう。こうした感覚はどんな時代の若い人のなかにもあるのだろうと想像する。
     深く理由を考える時間もなく、広く視野を広げる時間もなく、高い見識を持つ時間もない。その点では若いときも今も変わりはしないが。若いときは環境の展開が激しく、そのような暇はないといういいわけがある。さて、今はどんな言い訳をすればよいのだろう。

    「振り向いて」

    時々でいいから
    立ち止まって
    笑顔じゃなくていいから
    振り向いて

    やさしい風に髪がなびくなんてずるいよ
    白い襟がまぶしいなんて
    夏の太陽が友達の
    君の瞳をみせてよ

    木陰を選んで歩く道
    小走りの
    小石の音が
    ひとつひとつ胸にいたいよ
    ここはもう戻らない坂道
    息はずむ
    最後の長い一本の
    最後の細い一本の
    向こうの見えない君と坂道

    どうして時は過ぎてゆく
    同じところにいられない
    どうして時は過ぎてゆく
    同じ僕でいられない

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    6/22/2006

    自己分析シリーズ42「幻影」

     文は自分だ。自分を見つめるのが辛いゆえ、中断していたが、ここはふんばって自分に打ちのめされよう。やはり他人に打ちのめされることには耐えられないという臆病な気持ちがあるに違いない。
     僕の原風景は校庭だ。ただ単純に校庭を見つめ続けてきたからだ。この小さな荒野にアパッチはいないが、そのかわり騎兵隊も来はしないのだ。特別なところではないのだ。ただ少し不思議な空間なのだ。
     不自然な取りそろえで並ぶ樹木はかろうじてこの荒野を取り囲んで隠しているが、そこから巻き上がる砂塵を抑えることはできない。人は駆け抜けるだけで、そのまま帰ってこない。幼子は校庭と遊ぶが、すぐに忘れてしまう。だが、落ち葉とざわめきを奥底にかかえて校庭は超然としている。
     その校庭には夏になると蝉がはい出し、指が入るほどの大きさの穴を残す。やがてその穴は砂でふさがれ、跡形もなくなる。その繰り返しが僕の脳裏に幻影を生むようになった。幻影のまま成長することもなくいつまでもよみがえってくる。この無意味の再生産はいったいなんだ。
     これはいつ書いたものか不明だ。

    「幻影」

    校庭では蝉のせわしい叫び声を浴びて
    若者たちが同じ動作を繰り返している。
    その蝉たちの塹壕なき戦いのはて、
    死体のじゅうたんが敷かれる。
    大いなる夏に逆らえる者はいないのだ。
    蟻たちは蟻たちで
    ここかしこの敗残兵たちを
    また地中へ引き戻す作業に死ぬほど忙しくなる。
    はい出しては引き戻され、
    引き戻されてははい出す。
    命はそのままシジフォスの地獄だ。

    この夏も よろい脱ぎ捨て かろき虫

    きっと蝉を脱ぎ捨てた命は
    何か他の超然たる虫になって
    この世界の大事なところを作っているに違いない。

    意味のない幻影も言葉で輪郭を取り戻し、
    たわいない言葉もぽんと肩をたたかれて
    生きる力となる。
    なのに蝉も蟻も
    ぼくのなかでは永遠の幻影だ。
    1/21/2006

    自己分析シリーズ41「やさしむつかし」

     古典で長歌をならったとき、それまでの短歌の縛りが取れて自由を感じたものだ。思いはわき出てくるものだから、短歌より長歌の方が表現形式はふさわしいはずだと単純に思っていた。しかし、綴っても綴りきれない思いは長歌にはふさわしくないのかもしれない。まとまりなく、とめどなく、しまりもなくなる。
     表現すると決めた時点で思いにきりはついているのだから、そんなこともなかろうと思うのだが、言葉の響き合いまで崩れてくるのは、語彙が貧弱なことが主な理由であろう。古典の資料集などを手がかりに創ったものだから、最後の「やさしむつかし」などは姿は現代語と同じだが意味が違う古語として同じページに紹介されていたものをそのまま並べて終わりに言葉にしたように記憶している。ここでは「やさし」は「耐え難い」のつもりで「むつかし」は「気が滅入る」みたいな意味だったと思う。うまく終われなかった苦肉の策だ。
     知っている材料だけで苦労して組み立てた労力はどこからきているかは推して知るべしだが、「ことのは」とは実はたった一枚のメモだけであるのが悲しい。そういえばネットの世界も言の葉だけの頼りないもので、頼りないからこそ本能的にすがるも出てくるのだろうと思う。
     秋か冬か、受験勉強の最中のなぐさみ。

    「無題」
    あしばやに風ふきわたり しだれ草ここにかしこに
    ながれゆく群雲追いて たなごころみなそらつかむ
    あらどまの宿もかしぎて 嘆きつつただに君待ち
    なさけなく鳥にこととひ 幾夜にもまたたまさかる
    しどけなくみだれし髪の うつうつと頬なでかかり
    心なく君思ふ日を わけもなくあまた重ねつ
    されど君ことのはなれば いづくにもありといはまし やさしむつかし
     
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    1/8/2006

    自己分析シリーズ40

     体調不良の日は少しへたった枕が友達だ。そういえば昔、学校で「ふとん」の話があった。友達は言うのだ。「そうなったら布団の国の王様だ。」でも、僕は思う。もう前とは違う自分を感じていたのだ。こんな感じじゃなかったかな。
     これはたぶん三十歳ぐらいのときのかな。原因不明の熱で三日間や休んだときに、自分の体温の残った枕や布団に入らなければならないのが嫌だなと思いなが ら天井を見つめたときに、なぜか外から聞こえてきた歌謡曲が気になった。車からなのか、公民館からなのか。それがあやふやな感じで気持ちが悪い。めいった ときには妙なものが気になるようだ。いろいろな記憶は最初からしっかりしていないのかもしれない。危ない、危ない。とぎれていかないうちにここへ記録してお こう。 

    「熱のある枕」

    歌詞がとぎれて
    わからない
    曲がとぎれて
    きこえない

    でも
    確かに聴いた歌声
    なじみのあった曲なのだ

    十年前?
    いや二十年?
    いつから
    僕の頭は
    古い掃除機のように頼りない?


    12/24/2005

    自己分析シリーズ39

     自転車だから絶対に高校生。小学生の時は自転車あったけど、中学生の時は自転車なかった。
     もしかして失恋の詩?本当に忘れている。確かにあのころいろいろなところを自転車で行ったなあ。無謀なサイクリングばかりだ。自分の世界を拡張したいという時期だったのかなあ。そういえば、今もそういうときは自動車でどこかに遠出をしたくなる。
     高校生といえば、体力的に何でも可能だった時期。そういうときにもう少し思慮があれば、本ももう少し読んで、友達とももう少し深く付き合って、将来のために何か準備をしただろうに。

    「自転車」

    かけてゆく
    ひとり 自転車

    雨の中
    ずぶぬれの弾丸

    消えてゆく記憶の
    甘い感触

    君の家はどこ
    そして僕の家はどこ

    役立たずのみちしるべに
    役立たずの時計

    かけてゆく
    ひとり 自転車

    雨の中
    わき目もふらず

    ぬれてゆく
    僕の一息 胸の奥

    君はどこ
    名前も思い出せないよ

    ひとり 自転車
    かけてゆく 自転車
    雨の中ひとり 自転車
    どこまでも ずぶぬれの弾丸

    12/20/2005

    自己分析シリーズ38

     ばかにしんみりしている。こんな時もある。こんなときにばかり文を書くから、読み返すと、しんみりしてばかりいるように錯覚する。だが、日常は別物だ。
     でも、日常は誰も似たようなものだ。仕事だってよく考えてみればどれも似たようなものだ。犯罪だって、運命だって、よく考えてみればみんな似たようなも のだ。仕事にプライドを持っている一般人や、特異であることを自慢する犯罪者からは叱られそうだが、詰まるところ、似たり寄ったりに思える。
     こうした感覚は、おかしいと自分で思う。何か危ない感じがする。と言うよりも、何か危うい感じがする。非日常の自分の感覚が土台になって、物事を考え始めるおそれがあるからだ。土台はともすればつまらない日常の世界になければならない。
     確かこんなことを書き終えて思った一作。これも20代の終わりだ。どうにかしてやりたいほどしんみりしていて少し嫌だ。「ときどき泣く」と同じ時なので 調子まで同じだ。これも少し嫌だ。だが、嫌なものから目を背けてはいけない。例えそれが自分であっても、自分のものであっても、優しく見つめていかねば耐 えられない。

    「2月の風景」

    何が悲しいって
    夕暮れ時の足音
    マフラー肩にかけ直す
    細身の女のどれも同じうつむき加減

    何が悲しいって
    根元から曲がる腐れた包丁
    冷たい指先でふき取る
    金属臭の野菜のしずく

    何が悲しいって
    人を照らさぬ街灯り
    記憶の底からわき起こる
    窓を斜めに一台の大衆車の走行音

    12/19/2005

    自己分析シリーズ37

     僕は泣かないよ。正確に言うと涙を流さないよ。涙なんか流しちゃ駄目だ。こらえるべきなんだ。つまり、ただのやせ我慢だ。だけど、ある呪文を唱えると我慢しなくても涙は流れない。
     その呪文は漢字平仮名交じりで四文字だ。呪文は公表したら効き目がなくなる。自分だけのキーワードだ。涙だけでなく、どんなたいへんな状況に置かれて も、平常心を保てる。きっとみんなそんな自作の呪文を持っているに違いない。そうでなければ、どうしてみんなあんなに平気な顔で町を歩いていられるもの か。
     こんなふうに考えていた僕は、ちょっと感受性の強い人だったのかもしれない。それにしても、20代の終わりの作品ともなるとこうもほろ苦いのか。

    「ときどき泣く」

    何が泣けるかって
    一分にも満たぬ小さな虫の羽のほころび
    音も立てずに生きている
    この恐怖の宇宙に何というもろさだ

    何が泣けるかって
    どうにかしてやれたはずの人のその後
    小さな手の恥ずかしげな動きに気づけなかった
    どうしようもない罪悪感

    何が泣けるかって
    この俺の涙の純粋でないこと
    夜も眠らぬサイケな照明灯で
    まがい物の宝石だ

    何が泣けるかって
    酒の縁のほろ酔いの
    がんじがらめの僕の明日
    書き連ねたメモの分厚い手帳
    12/14/2005

    自己分析シリーズ36

      妄想に支配されることの恐ろしさと快感。現実と妄想とを区別する決定的なものは何か。それは退屈かどうかだ。
     いつか書いたか分からないけど、「美しい人生」などとばかにしたタイトルだ。きっと退屈なときに書いたに違いない。とにかく何かあったのだろうな。かわいそうなやつ。自己憐憫?こんな言葉あったっけ?
     生きていくことはきたない。肉にかみつくし、野菜はかみつぶすし、だけど嫌じゃない。それはたぶん妄想のおかげに違いない。

    「美しい人生」

    僕は誰かをつけねらっているはずだ
    だからその仕返しが待っている
    だけど僕はそれを返り討ちにするに違いない
    さて どうしたものか

    被害妄想・加害妄想
    恋愛妄想に未来妄想
    金銭妄想と身分妄想
    その他すべての妄想よ
    おまえたちの懐の中で
    僕のきたない人生が
    めらめらと美しい灰になっていく
    ああ 実に愉快だ

    12/13/2005

    自己分析シリーズ35

     僕たちは虫けらだ。だけど、ただの虫けらじゃない。後生畏るべしと言うじゃないか。だけど、抱いた大志とは不似合いの透明な絶望感。果てしない闇を足踏みしながらおろおろしている。だからこその大志だったのかもしれない。
     19歳の僕がそこにいる。自分が何者かわからないので、目の前の君が何者かもわからないでいる。
     あの吹きさらしの台所はもうない。建て直され、別の誰かが住んでいる。でも、いつまでもいつまでも心の中に残っている。それだけでも僕にとって心は充分 に役割を果たしてくれているのだ。もちろん懐かしんで感傷に浸るためではない。その時の僕に今の自分をしかってもらうためだ。

    「虫たち」 

    どうしたわけだ
    口元だけで笑う君
    小さな肩にどんな過去?

    小さく冷たい手を押し当てる
    吹きさらしの台所
    電球の明かりが
    コンクリートのたたきに影をつくり
    君は缶詰つまんで振っている

    ああ ここにもいるぞ
    でくの坊
    僕も口元だけで笑う

    羽虫たちの果てしないスパイラルが
    僕たちの頭の上で厳かな儀式となった

    12/10/2005

    自己分析シリーズ34

     これは高校二年生。将来の自分が見えず、苦しんでいたころ。苦しむだけの余裕があった学生時代が懐かしい。舵を失った船はただ浮かんでいればよい。それが僕の精一杯の知恵だったに違いない。流れを利用するということだ。
     そういえば、流れの力で推進する渡し船があったなあ。昔の人の知恵は単純かつ巧妙だ。

    「難破船」

    舵を失い
    ゆたゆたと
    緑の海を漂う

    くされ帆柱
    ちぎれた策具

    だが目的地は覚えているぞ
    おそれることなど
    だから何もないのだ

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    11/24/2005

    自己分析シリーズ33

     自己分析シリーズに出したくないものがある。これもその一つ。内容が骨ということからして変だ。美しくない。でも美しいという単語を使っている。骨なら 骨らしく暗い調子にすればいいのにさわやかな七五調にしてあるのもおかしい。第一、何を言いたいのか不明瞭だ。「そがれて」というのも痛々しいし、友と君 が草となるのは僕が石になるのとどういう関係があるのか。石が骨とするならその骨の周りを覆い隠してくれと言うのか。それともそがれた僕の肉を栄養にして 栄えてくれと言うのか。今の僕にはわからない。骨の歌と言いつつ最後はされこうべとなっていて頭蓋骨のことしか言っていない。ただ語呂を合わせて綴ったと しか思えない。確か中学校で七五調とか五七調のことを古典で習ったときに授業中に落書きしたものを覚えていて書いたものだと思う。一応対句表現も入ってい る。
     知ったこと覚えたことを全部試みたくてやってみるという感じ。最初は陳腐な言動となるかもしれないが、次第にこなれていくだろうという楽観的な見方があ ると思う。そこには何の根拠もないのだけれど、これまでそうだったからやってみようという軽いのりなのだろう。だが、今思うからそうなのであって、そのと きには別の動機があったかもしれない。これは繰り返し口ずさんでいるうちに思い出せるかもしれない。自分の謎を解きたい。だけど、たいした答えが出てくる わけではない。だからこそいつまでも謎にしつつ少しずつつついてみる。それが僕の正体の一つかもしれない。

    「骨のうた」

    二月の雲は泣きながら
     いのち魂かすめとる
    友よ君よ草となれ
     僕はそがれて石となる

    けがれ呪文のボロまとい
     耳には大地のただれ歌
    顎には蔦の枯れ葉ひき
     手には腐れた曲がり杖

    夕暮れ時に風がふきゃ
     ぶるとうなってされこうべ
    夕暮れ時に影おとしゃ
     それでも綺麗なされこうべ

    11/22/2005

    自己分析シリーズ32

     何でも最初があって最後がある。最後に子どもと手をつないだのはいつだっただろう。最後にあいつと会ったのはいつだっただろう。どんな言葉を交わしたん だったっけ。最後にあのドアを閉めたのはいつだっただろう。あの道を歩いたのは・・・・・・。そうした最期の一瞬一瞬が知らない間に僕たちの生活の中で消 えていく。決して手を出すことのできぬ記憶となって、ときどき思い出す風景となって僕の目の前に現れる。何のために覚えているのか、何のために思い出すの か。
     今にも消えそうな僕の記憶の中で繰り返し出てくる風景。ああ、そうか。忘れないために思い出すんだな。思い出して再評価して新しい戸棚に入れ直して整理整頓しようというオートマチックなシステムに違いない。頭というのは意外ときれい好きなんだな。
     今となっては遠い日々の一こま。最後にバイバイと言ったのは冬の裸電球の街路灯の下。夕日が沈んで消えた僕の影も・・・・・・。結局しっかり道端に刻印されていたのだ。 いくら月がかげっても無惨にも僕の足からくっきりと姿をさらけだしているしかない。消えてしまいたい僕。君だけ消えてずるいじゃないか。立ちつくす僕。深い仲 ではない。淡い思いを抱いて、少し気になる人だが、もしかしてこれが最後だと予感するとなかなか切なくてほんのしばらくだが、その場を離れがたかったとい うことだ。

    「最後のバイバイ」

    夕日が沈み
    消える僕の影
    雲も月の光を閉ざしておくれ
    ああ一切合切消してくれというのだ

    君は軽い足どり
    細く曲がった路地裏を
    挿絵のように小さくなっていく

    11/21/2005

    自己分析シリーズ31

     相当まいっていたねえ。友達がいないわけではないが、相談相手がいない。相談するには相手を選ばねばならないからだ。誰か歩んだ人がいれば尋ねればよ い。いないときは、自分で道をつくればよい。だが、崖っぷちでは希望と絶望しかない。だけど、崖っぷちの寒風にさらされているうちに、それが同じものに思 えてくる。体力や神経、そんなものどうでもいい。ふり返ったら、ああ生きていたんだと実感する。生きるということはそれで十分なことなのかもしれない。4 年前の僕だ。

    「喜び」
     
    絶望食べて生きていこう
    自分のも他人のも
    むさぼり食って生きていこう

    あっちもこっちもかぶりつこう
    飢えることのない僕は
    この禍々しい宇宙をさまよわずにすむはずだ

    それでこの星で生きることの喜びは
    絶望と同じ色になる
    同じ形で
    同じ音だ
    区別するからくるしいんだよ
    もともとはいっしょじゃあないか

    11/18/2005

    自己分析シリーズ30

     博物館通いをしているときに急にむなしくなったことがある。よくも集めたものだ。まずその数がむなしい。集めたり分類したりするのは手段であったはずなのだ。そこからどうする。
     はて、学芸員に質問したり、説明を受けることができたりするのは皇族だけなのか。博物館をただのガラス張りの倉庫にしてはいけない。少し厭世的なっていたときに書いたものだと思う。やはり人は人を相手にしていたほうが自然のように思う。

    「動物博物館」

    おれを能なしにしたのは誰だ
    沈黙する内蔵
    意味のないポーズ
    仲間ではない仲間たち

    食い物のないこの荒れ地で
    慈悲深い視線を投げつけるな
    研究心のない観賞でもいい
    だがそのぷらぷらした手を前後に振るな 

    なぜおまえたちだけが来て
    おまえたちの声で話しかけるのだ

    じっと静かに耐えている
    ガラスの目でガラスを見つめている
    「おまえたちは歪んでいるぞ」

    11/16/2005

    自己分析シリーズ29

     これはいつ書いたか不明。きっとこれって鏡に映った自分に語りかけているんだよな。何をあきらめなさいよと言っているのかは不明。忘れちゃったんだか ら、あきらめたのかな。いや、あきらめずに何かやり遂げたから、忘れちゃったのかな。どっちにしても学生時代かもがいていた20代、そのあたりの僕だな。 今は絶対あきらめない僕がいる。

    「あきらめなさいよ」

    あなた他人よ
    紙に三角定規で描いた人生なんか
    どうもこうもなしに破り捨てなさいよ
    あなた他人よ
    ささくれだつ空気  悲しいことば
    もういい加減にねを上げなさいよ
    悲鳴を上げなさいよ
    あきらめて楽になりなさいよ
    11/14/2005

    自己分析シリーズ28

     僕らはいつも境界にいる。一歩間違うと、気がついたときには異世界にいる。なんて思っていた。だが、今はおそれない。すぐさま次の異世界が大きな口を開けて待ちかまえていてくれるからだ。


    「境界で」

    右に曲がらねばならなかったのに
    左に曲がってしまったので
    僕は見知らぬ街角
    信号機の点滅に途方にくれているのだ

    圧倒する標識群
    読めない文字

    やがて歪んで長く倒れた僕のそばを
    人々は白いかかとで歩いていく

    11/12/2005

    自己分析シリーズ27

      珍しい。恋だの愛だの、そんな単語が使われているものなど滅多にない。でも、これは随分疲れたときに書いたものだと思う。やっぱり23か 24歳のときのだな。仕事しているか寝ているかのどっちかだったなあ。体調と考え方は当然関係ある。いれものだなんて擬人化の反対で、人間に疲れたという か、ちょっと休息が必要な時代だったなあ。今も疲れてるけどね。

    「いれものの僕たち」


    それは生理と体温です

    それは労働と疲労です

    男も女も
    肉体はただのいれものでした
    木々の枝葉の先端の
    先細りのほころびの
    貧しい運命でした

    だから結実という希望を
    神様は僕たちにお与えになったのです
    だから希望を捨てては罰が当たるのです

    恋が実る
    愛で結ばれる
    僕たちは希望の器です

    11/8/2005

    自己分析シリーズ26

     これは成人式の日。随分前だ。「普通のことが普通にできることの大切さ」という話を聴いた。複雑な社会だが、単純に見れば、単純。みんな、食べて、仕事して、寝る。自分の命を子どもに託して産んだり、産ませたり。悩むことなど一つもないじゃないかって。そう自分に言い聞かせたことを思い出す。つまり、苦しい時期の慰め言葉というわけだ。

    「普通のこと」

    僕はめがねをかけなくてはならない
    なぜなら目が悪いからだ
    だけどめがねをかけたからといって
    目が良くなるわけじゃない

    僕は他人を愛さなくてはならない
    なぜなら他人は敵だからだ
    だけど他人を愛したからといって
    すべての他人が僕を愛してくれるわけじゃない

    僕は社会の決まりを守らなくてはならない
    なぜなら僕はこの社会の構成員だからだ
    だけど社会の決まりを守ってるからといって
    僕がこの社会に満足しているわけじゃない
    11/3/2005

    自己分析シリーズ25

     人間関係がこわばったとき、そのときは戸惑うかもしれないけれど、そのときはこわばる必要があったと解釈して、まずは安心するのがよい。安心のための安心では解決を困難にしかねないが、解決のための安心というものは必要だ。安心すれば、解決のための第一歩を踏み出す知恵も浮かんでこよう。
     さて、いつまでもこわばり続けるには新たな理由とエネルギーが要るはずだ。でも、それが自分自身でよく分からない。「おいおい、僕はどこにいくんだい?」という状態だ。これは、年をとるに従って「おいおい、僕は何をしてきたんだい?」と自問することになるのだろう。でも、それではつまらない。

    「人間関係」

    君のまなこは新品の剥製
    僕のくちもとには乾燥剤

    君の腕は孫の手で
    僕の足は奇妙にゆがんでる

    君の心はサボテンでも
    僕の哲学は袋小路だ

    いけない いけない どこへ行く

    君のことばは初めて詠むお経のようで
    僕のこころは静脈製のあみだくじ
    10/25/2005

    自己分析シリーズ24

     これは高校時代に書いたものだ。ふと自分の鼻歌に気づく。何の曲でもない。それどころか、何の意味もない。ただの癖なのだろうか。しかし、癖にしてはあまりにときどきだ。それとも軽いストレス解消行為なのか。
     鼻歌でなくても、こんな鼻歌のように知らないうちにしていることがあるような気もする。大方その時は、精神が別世界に離脱して、無意識に特別のことをしているように感じる。いつの間にか我にかえると、それがどうでもいいことだったり、とてつもなく斬新なアイデアだったり、少し面白いことだったりするというわけだ。
     到底、世の中では受け入れられないようなことも、いずれは何かの役に立つだろうと、心の中に秘めておこうと思っている。
     世の中と言えば、昔は、自分に関わりのある人たちと、あまり顔見知りでない地域の人たちとを指していたが、今は違う。マスメディアから流れてくる世の中やインターネットで流れている世の中など、文字どおりの世の中ではない世の中までが世の中だ。
     確固たる自分という存在が、いつの間にか滲んだようにふくらんで、知らぬうちにいろいろな巨大社会の一部品として取り込まれていたりする。これは一つの恐怖だ。
     ところで、そんな世の中で、無抵抗、無防備でいられるのは学生までの人間ぐらいなものだろう。一見、社会に抵抗するという形式をとってはいるが、実は周囲の大人や法律や損得抜きの仲間に保護されているせいで、自身はほぼ無防備に近い。無防備な者たちの抵抗など誰も本当には相手にしない。警戒しなくてはいけないのは、完全防備の抵抗者たちだからだ。
     また、学生時代までは、肝心なところで抵抗できていない。自分の世界が広がっていくときなので、批判するとか、無視するとかいう抵抗の仕方だけにどうしても陥ってしまうからだ。つまり、周囲や足もとの状況変化に気づかないために、情報不足となり、なかなか価値ある代案を出すに至らないため、安易な方法に流されてしまいやすいのだ。
     学生の強みは、本当には誰とも戦っていないので、本当には誰にも負けてないかもしれないということだろう。しかし、これは大人になってからもあることで、後で気づくと少し恥ずかしい思いをする。

    「メロディー」

    これは余裕の鼻歌じゃない
    無抵抗 無防備
    へたったゴムチューブの
    自分
    その中をしたした流れゆく
    本当は無意味なメロディーだ

    分析されず
    見抜かれず
    ああ、そうか
    ここに僕はいないのだ
    だから誰にも負けないんだな