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26-11-2009 心の断片220「手榴弾」 「手榴弾」 あの日 校庭に埋めた手榴弾は どこへいったのだろう 土を蹴って追い払った猫は どこへいったのだろう 見せ物小屋の美少女 静かに狂った青年は どこへいったのだろう 毒々しい煙を吐いた煙突 講堂の屋根瓦 水たまりに浮かぶ虹色は どこへいったのだろう あの日 資材置き場の迷路で眺めた雲 みんなみんな どこへいってしまったのだろう ★ホームページに戻る 23-11-2009 恐怖シリーズ147「滅び」 腹が減るから食い物をあさる。食い物をあさるのは時間の不経済だから、あさらなくてもよいように保存を試みる。食い物を保存しておくと味が落ちるから、味付けを試みる。味付けをすると食べ物の差別化が生じるから、交換をして好みを満足させることを試みる。好みが満足させられると偏食が起こるから、さらによりよい食べ方を試みたり、よりよい食べ物をさがしてあさったりする。 寂しいから相手をさがす。相手をさがすのは時間の不経済だから、さがさなくてもよいようにコミュニケーションをとって関係を広げてつながりをつけておく。関係に進展がないまま時が経つと魅力が薄らいでくるから、適度にお金や物や言葉や真心を投げかける。投げかけるとさまざまな反応が返ってくるから、よりよき反応をした相手を選んで一歩踏み込んだ関係を築き上げる。その相手との人間関係にのめり込むと世界が狭くなるから、さらによりよい付き合い方を工夫したり、よりよい相手を探したりする。 不都合があるから都合のよい理解の仕方を考える。その都度一つ一つ考えるのは時間の不経済だから、そうしなくてもよいように情報を記録として積み重ねておき、適当なときに検索できるようにしておく。情報を放置したままにしておくと死蔵することになるから、適度に検索をかけて情報をスタンバイさせる。スタンバイさせている間にさまざまな趣旨に基づいて情報を組み合わせたり、交換したりしながら、よりよい扱い方をし、都合のよい理解の仕方を試みる。その理解の仕方で新しい発想を得られるようになるとほかのものが見えなくなったり、合わないものを無視したりする不都合が生まれるから、さらによりよい理解の仕方を考えたり、よりよい情報を求めたりする。 こうしたワンパターンを愚直に守って歩んできた者にもいつか必ずスランプは訪れる。しかし、どのようなスランプであっても、最後には世代交代という自然の摂理によって強制的に解消されていく。しかし、個人においては解消される問題であっても、ヒトの社会においてはそうはならない。ことばを得て記録手段をもったヒトの社会は長い年月生きている生命体に似ているからだ。 ヒトの歩みを眺めてみると、青年期をこえて既に壮年期に入っている感がある。血の気の多い時代から、問題を抱えながらもやや大人になってきたヒトの姿が浮かび上がってくる。しかし、いつまでも壮年期であり続けることはできない。段階をふんで新しいステージに立たされることは間違いない。己の中で滅んでいくものに向き合っていく時期だ。もちろん、その先には種の滅びという虚無の壁がある。いつかはヒトもこの世の中で用済みになるときがくる。もちろん、人の一定数以上がこの星から出てしまえば、それは新しい世の中の出現を意味する。この星から出たヒトの場合は用済みどころかその逆になる。 一方、この地球にへばりついて生きていくしかないヒトの場合はどのようなことがいえるだろうか。用済みになって滅んでしまう前に、新型爆弾で自らを滅ぼすことが可能だ。そうした自殺手段を持っているということは、ヒトが己の運命を自ら決定することができる自立した生命体として成長したという見方もできないわけではない。 しかし、自滅する以外にヒトとして何をなせばよいのだろう。人としてなすことはたくさんある。ありすぎて寿命が足りないほどだ。しかし、ヒトとしては何をなせばよいのだろう。最初に述べた地道な繰り返し、繰り返すことに意味のある、自己目的化した生命活動しかないのだろうか。 結局のところ、他の動物同様、ヒトは壁に突きあたったときに自己崩壊するしか脳のない生き物なのだろうか。もしかすると現代人の総体が紆余曲折の千鳥足であるのは、突きあたって自己崩壊することを回避するための最後の手段、牛歩戦術を本能的にとっているということなのだろうか。 絶滅種がどのように滅んだか、絶滅危惧種がどのように滅びから逃れようと抵抗しているのか。ヒトには当てはまらないかもしれないが、参考にはなる。仮にヒトが滅んだとしても、また、ついでに地球上の全生物が滅んだとしても、それがヒトの本来の役割なのかもしれない。やはり僕たちヒト自身が、この星の生命活動に滅びもたらす仕組みの一つなのだろうか。確かに準備は整っている。究極の繁栄が達成されたとき、そのスイッチが入るというわけだ。 しかし、それは新たな出発を意味するだけのことなのかもしれない。たとえ新たな出発が起こらなかったとしても、それは元に戻ったというだけの話で、この星から生命活動が一切なくなったとしても、よく考えてみればどうということはない。 このように、最近は滅びというものを心の奥底で受け入れてしまっているような気がする。これはとても恐ろしいことだ。もしかしたら年をとってきたことと関係があるのかもしれない。 ★ホームページに戻る 変な疑問110「ヒル」 ヒルという生き物がいる。ずいぶんと嫌われている。音を立てずに忍び寄るからだ。血を吸うからだ。そしてなかなか離れないからだ。しかし、何より見た目だ。 音を立てないのは仕方ない。音を立てたら獲物が逃げてしまうからだ。もしギチギチと凶悪な鳴き声をあげながら襲ってこようものなら、絶滅させる勢いで人間がヒル狩りに立ち上がるに違いない。ヒルが自己防衛のためにおとなしく黙っているのだと考えるのがヒルに対する相当の対応だと思う。 血を吸うのも仕方ない。人間はどうか。血を飲むだけにとどめて相手を生かしておくなどという慈悲など持ち合わせていないではないか。殺さないのは乳を搾取するウシやヤギぐらいだろう。さまざまな生き物の皮を剥ぎ、肉を切り裂き、骨を断ち、内臓を切り刻むではないか。塩をすり込み火で焼くに至っては悪魔の所業にも劣らない。そうした生き物が血だけ吸って生きているヒルのことをとやかく言うのはおかしいではないか。 なかなか離れないのも仕方ない。いつ食事ができるかわからないのだ。簡単に退散する余裕などないのだ。文字どおり命がかかっている必死の生き様が人間の目にどのように映ろうと、ヒルはお感じないかもしれないが、この必死の生き様を非難する資格を誰が持っているというのか。 見た目も仕方ない。人間に好まれようと生まれたわけではない。必要に応じて設計変更を余儀なくされ、姿が変化してきた末路だ。いや、時の流れの傑作だ。生き物はすべてそうだ。人間はこうした自然の営みまでをも否定しようというのだろうか。ハンサムなヒルや不細工なヒルというのもおかしいが、そうしたレベルではなく、ヒルであるという存在のレベルで否定されるのでは、この世に生を受けた者、親を受け継いだ生き物としては身も蓋もないではないか。 もちろん、山でヒルに出会ったら踏みつぶし、血を吸っていたらライターで炙る。それは自然な対決行為だ。しかし、それはそれとして、生きている者同士、その意味で戦友だ。ヒルの方に心がなければ、対決しながらも人間の方で思いやりの心をもつべきだと思うのだ。思いやりで語弊があるなら、尊敬だ。同じ星で同じ時代を生きる者同士が、励まし合ったり尊敬し合ったりするということは、そんなにおかしいことではないだろう。 かつて蛭医者という人々が蛭を使って医療行為を行っていた時代がある。血が止まらなくなるのを利用した医療行為だが、彼らはヘパリンのようなものを出して吸血の役に立てているらしい。ヘパリンといえば広辞苑第三版を思い出すが、広辞苑第三版どおりの説明ならば、ヒルは血を吸うことが不可能となり、絶滅どころか最初から存在しない生き物だったことになる。 とにかく医療にも役立つ生き物なのだから、もう少し見直すべきだと思う。しかし、ペットにしようとは思わない。生理的にやはり気持ち悪いからだ。ペットは基本的には毛がふさふさしていなくてはならない。その毛を撫でていると血圧が下がるという話もある。逆にぬるぬるしたヒルが取り付くと血圧はあがるかもしれない。では、低血圧の治療に役立つかもしれない。まさか。 このように、ヒルの立場に立てば人間の不当な扱いを非難することができるが、冷静に考えて人間の立場に立つと、とても戦友だなんて思えない。敵そのものだ。それは、最も残忍な捕食者である人間のプライドをこっそり傷つけていくからかもしれない。 献血車で400ミリリットルも血を提供するのだから、血を取られること自体にそんなに抵抗があるわけではない。やはりあの見た目がいけない。もし、ティンカーベルみたいな小さな女の子がすてきな笑顔でやってきて、ウインクしながら「吸ってもいいかしら。ウフフッ。」と甘えたら、きっと「いいよ。明日も来てね。」と答えるに違いない。たとえかまれて痛くてもだ。 ヒルの見た目をもっとよいものにできないものだろうか。毛を増やしても毛虫に近くなるだけだ。やはり足や尻尾がなくてはいけないだろう。義足や義眼は何とかならないか。かわいい声で鳴くことができればさらによい。そうだ。日本のロボット技術でヒルを救ってやろう。手のひらサイズの手乗りタイプがよいだろう。見目麗しく……。ヒル……。ヒルコ。蛭子。神話では、骨すらない体のととのわぬヒルコは葦船で流された。流されたといえば、……手塚治虫の「どろろ」の百鬼丸ではないか。百鬼丸は川に流されたのち、医師に拾われたという設定だ。義手義足を取り付けられ、義眼も入れてもらい、人の形となった。 実際に流れてくる水死体はぶくぶくに膨れあがってただの肉の塊のようになるから、まるで相撲取りの土左衛門のようだということで、土左衛門と呼ばれることがある。また、海で上がる水死体は「えびすさま」という。漁船などはこれを引きあげると縁起がよいということになっていたらしい。魚がついばみに寄ってくるからだろうが、同業者である可能性が高いということもあるだろう。自分もそうなる可能性も高いから、手厚く葬るということがこの縁起担ぎの土台としてあったのだろう。「えびすさま」は恵比寿大黒のえびすで、釣り竿をもって鯛を抱えている。だが、流れてきた蛭子(えびす)様、つまり水死体が真の姿なのかもしれないと思うと、何か不思議な感じがする。もともと神様なのだから不思議であって当然なのだが……。 それにしてもヒルはかつて何を食べていたのだろう。最初から血なのだろうか。血でなければ、いったいいつから血を吸うようになったのだろう。変な疑問はいつも僕の頭を悩ませてやまない。 ★ホームページに戻る 22-11-2009 心の断片219「夜の記憶」 「夜の記憶」 三日月の夜は 人歩く 後ろ姿は群青の ふたりひとりと 月の夜 風吹く夜は 家の中 明かり火鉢に よりそいて 両手ならべて かざす影 雨降る夜は 窓の外 道行く人は 急ぎ足 かすかに残る 息づかい 最後の夜は 胸の内 慣れ親しんだ 天井の ひとつひとつの 節模様 ★ホームページに戻る 21-11-2009 恐怖シリーズ146「骨密度」 骨密度測定装置が来たので測ってみた。数値が悪い。今日から牛乳を飲もう。小魚もしっかり食べよう。瞬時に決意して実行しはじめたということは、数字にはそれだけの力があるということだ。 数字というものは恐ろしいもので、言葉よりも力をもっている。しかし、数字だけでははたらかない。言葉の効果をより強力にするという意味で力をもっていると考えた方がよい。 言葉には言葉自体の魔力と活字の魔力があるが、数字には加えて明確さというものがある。この明確さによる説得力と取り扱いのよさが武器だ。 しかし、その数字が算出されるに至った過程と計算の過程を、数字そのものが覆い隠してしまうことがある。数字がいつの間にか言葉を駆逐してしまうのだ。これによって数字の不当な魔力が成立する環境が整う。危うき数字の一人歩き、不可解な取り扱い、そうしたことが容易に行われてしまうのだ。 言葉と数字のバランスを崩さぬようにしないと、どうしようもなく気持ちの悪い世界が出現することになりそうだ。既に僕は骨密度の測定値にずいぶんと踊らされている。いろいろな数値の組み合わせで人をどうにでもコントロールできそうな感じもする。もっとも、数字自体が別段悪いわけではない。濡れ衣だけは着せないようにしよう。 特に基準となる数値は怪しい。それが基準であるという証拠が乏しかったり、逆にもっともらしかったりすると、もう危険だ。ほんの少し基準値を変えるだけで世の中のお金の流れが大きく変わってしまうからだ。この基準値という数字の裏にあるものを見抜く目が育ってしまうのは、基準値を定める側としては非常に困ることになる。これが育たないようにするもっともらしい理屈や仕組みを探していくと、いろいろと面白いものが出てくるに違いない。 例えば、有識者会議というものにつきあたったら、いの一番に注目し、その会議がお飾りになっていないか、構成員に偏りはないか、誰が選出し、誰が辞退したかを調べるべきだろう。しかし、その時間と労力は誰も与えてくれないのだ。暗闇の中を他人の目で誘導されていることに恐怖を感じなくてもすむのは、恐らく僕たちのほとんどが同じ境遇に置かれているせいだろう。目の前にマンホールが口を開けていても、見えていても認識できない状態であることは間違いないと思うのだ。これほど恐ろしいことがあろうか。 ★ホームページに戻る 怪しい広辞苑206「第四版227ページ・鷽替(うそかえ)」 広辞苑第四版227ページ「鷽替」の説明。これは大阪に対する偏見によるものであろうか。それとも単なる記述漏れであろうか。 「太宰府・大阪・東京亀戸(かめいど)などの天満宮で、参詣人が木製の鷽を互いに交換し、神主から別のを受ける神事。」に続く説明だが、第三文目に「太宰府は正月七日夜の酉(とり)の刻に行う。」とあり、第四文目の「亀戸は正月二五日。」で終わってしまう。 つまり、大阪の日程が省略されているのだ。これはどうしたことだろう。省略する正当な理由は見あたらない。これでは、広辞苑は大阪を軽く扱っているのではないかと勘ぐる人がでないとも限らない。広辞苑第六版ではどのように説明されているのだろうか。もし、改善されていなければ、大阪に対する広辞苑編集者の態度は決定的なものだと思われても仕方ないだろう。 辞書は一出版社が発行するものだが、その内容の性質上、公のものだ。公のものは平等さを欠いてはならない。広辞苑がますます最高峰のものとなるためには、このことを忘れてはなるまい。 さて、鷽替の心とは何だろう。鷽をとりかえる。嘘を誠に取り替える。自分のついてきた嘘を誠に替えよう。自分の希望が実現しますように。こうした現世利益の思想による願いだろうが、天神として恐れられた時期の菅原道真を抜きにしてはいけないだろう。菅原道真を陥れた嘘を誠に取り替え、身の潔白を証明したいという怨念のようなものは、いつの時代にもあり、次第に凝り固まって増殖し続けているのかもしれないのだ。 まことに嘘の多い世の中だ。この星の人口が増えれば増えるほど、嘘は多くなるのは確かなことだ。政治的に抹殺され、寿命をも縮めることになった道真公の怒りがまたもや今の異常気象や伝染病を引き起こしていると感じている人々がいてもおかしくはない。そのような伝説的な解釈をして、この世を正そうとする動きが生まれるのならば、因果関係は認められないものの、それは大事な人間的な反応だ。 この重要性を否定すれば、人々はますます不幸を呼び込んでしまうことになるだろう。その結果、強い人は苦虫を潰したような顔をして不満や皮肉を言うばかりの人となり、弱い人は正しくない世間の中で心を疲弊させてしまう。 もちろん、鷽替神事を単純に面白がっているというレベルの人々が多いだろう。しかし、身に降りかかった火の粉を嘘にしてしまおうと真剣に参加する人もいるかもしれない。どちらにしても菅原道真の怒りに象徴されるところの「怒り」について思いをはせる人々が増えなければ、神事の本当の目的が達成されたとは言えないだろう。 ★ホームページに戻る 19-11-2009 心の断片218「一緒に」 「一緒に」 同じ時代に生きていることを喜ぼう 同じ星に生きていることを喜ぼう 同じ言葉を話し 同じ空気を吸い 同じ大地に立ち 同じことを学び 同じことを悩み 同じことをして 同じように死んでいくことを喜ぼう この同族の うねりの中に かき抱かれ 身を委ねたことをなぜ悔いるのか 一緒に生きることの恥ずかしさ 一緒に生きることの辛さ 一緒に生きることのおもしろさ そうした諸々の一緒を 一つ一つブレーキに仕立て上げねば ひとり暴走してしまうではないか この世を破壊してしまうではないか ★ホームページに戻る 17-11-2009 心の断片217「わが逃走のスペクトラム」 「わが逃走のスペクトラム」 溝が深まったら 橋を渡せばよい 渡せなければ 溝のこちらを素敵にすればよい こちらを素敵にしておいて 溝の縁に壁を拵えよう そうしておいてさっさと別のところへ 逃走すればよい 壁にぶつかったら 迂回すればよい 迂回できなければ 穴をあければよい あけられなければ 乗り越えればよい それが駄目なら 壁のこちらに溝を掘ろう そして溝の縁に壁を拵えよう 同じだけの壁を拵えたら さっさと別のところへ また逃走すればよい あらゆるところに逃走し この世を溝と壁の迷宮に 仕立て上げればよい 迷い込んだ者たちとの 無限の出会いと 無限の可能性を楽しめばよい 逃走が創造で 創造が逃走 無節操な生き方よ だが 人生のなんたるかは どうでもよいような つまらぬことだった そのつまらぬ大事さとは別個の 次の段階の真実をまだ これっぽちも確かめられぬまま 擬似関係に埋もれた己と その己を絡め取った世の中の 化けの皮を 一枚一枚 ピンセットでそろそろと剥がしてゆく 恐怖とやりきれなさ この緊張感がたまらないのは いったいどうしてだ ★ホームページに戻る 15-11-2009 心の断片216「捨てたもの」 「捨てたもの」 気がつけば この道を かけていた 誰もいない道を 何も疑わず かけてきた 自分の足音から 逃げるように かけてかけて 知らないうちに 積み上げてきたものは 振り返ることもなく ひとつひとつ いろいろな理由をつけて 捨ててきたものに違いない それをひとつひとつ もとへ返してやろうというのだ もとどおりにはならないが それなしに 新しい道など許されるはずがない ★ホームページに戻る 14-11-2009 怪しい広辞苑205「第四版224ページ・薄手火蛾」 広辞苑第四版224ページ「薄手火蛾」(うすたびが)の説明。「日本本土のほか、シベリア南東部にも分布」とあるが、それはどういうことなのだろうか。 そもそも「日本本土」というのはどこを指すのだろうか。沖縄も一九七二年に本土復帰をしたのだから本土だ。しかし、南東部とはいえ、シベリアのような寒いところにも分布するような種類の蛾が、温暖な沖縄にも生息できるものなのだろうか。できるかもしれないが、実際に観察されているのだろうか。よそから運ばれてきて仕方なく生きていたやつはいるかもしれないが、現在の地形になってから敢えて海を自分で渡ってくるほどの蛾でもないように直感的に思う。地理的に沖縄での観察は難しいのではないだろうか。 確かに、「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」という安西冬衛の有名な一行詩があるが、作者がその蝶を追って本当に海峡を渡ったことを確認したとは思えない。しかし、幅が数キロメートルしかない韃靼海峡だから、季節を感じて移動する蝶ならば、海峡を渡って移動できるはずだ。蛾も同じではないかと思うのだ。 しかし、沖縄の場合はこの詩のように非常に狭い海峡を挟んで大陸が近くにあるわけではない。また、ウスタビガの成虫は口が退化しているので、羽化してからの命は一週間程度と短いらしい。だから、大陸や九州から沖縄に渡ってくるということはやはり難しいように思うのだ。 さて、「日本本土」と表現したのにはどのようなわけがあるのだろう。「日本」や「日本全土」ではなく、「日本本土」と表現したからには、それなりの言い換えた理由があるはずだ。 この部分が「日本」や「日本全土」ならば、一九七二年以降は沖縄も再びその中に含まれることになるので、沖縄にウスタビガがいても説明としておかしくはない。しかし、その場合、ウスタビガが沖縄にいなければ、「日本」や「日本全土」とするのは、説明としておかしい。 しかし、「日本全土」ではなく、「日本本土」と表現した以上、「日本本土」が「日本」や「日本全土」とは別の意味であることを表しているはずだ。なぜなら国語の辞書は、そうした言葉遣いに最高の注意深さをはらうものだからだ。 では、「日本本土」とはどういう意味なのだろうか。「日本の離島を除く日本」「日本の離島を除く日本全土」という意味なのだろうか。それとも、もっと別の意味なのだろうか。「本土日本」という言い方ならば、外国に対する「日本」、あるいは外国に対する「日本全土」、つまり「本国日本」という意味合いをかぎとることができそうだが、「日本本土」という場合にはどうなのだろう。 「日本本土」とすると、日本のどこか、例えば新潟県だけに生息していても、そうした言い方が成立するような気がする。つまり、「本土」ということばが「外国」に対するものとして感じられるのだ。すると、国レベルでのいるいないという問題になり、その国の一部にでも生息していればよいということになる。 一方、「日本全土」とすると、日本の各地で生息しているという状況を表現することになる。つまり、国レベルではなく、国内レベルでどのように生息しているかということを表現するものになってくる。それは、日本のどの地域にでも生息しているという意味だ。 どちらにしても、一九九一年発行の広辞苑第四版では、「一九七二年に本土復帰を果たした沖縄」を当然のことながら日本の本土の一部であるという了解のもとに説明を表現していくはずだ。 実際のウスタビガの生息地がどうあろうが、以上のように考えていくと、広辞苑第四版の「日本本土のほか、シベリア南東部にも分布」という説明は次のうちどれかの意味になっていくように思う。さて、どんなものだろうか。ただ僕が日本語を正しく理解していないというだけのことなのかもしれないが。 ①「ウスタビガは、離島を除く日本全土に分布しているほか、シベリア南東部にも分布」 これは「本土と離島」を合わせて「日本全土」であるという解釈を前提として「日本本土」を言い換えたものだ。 ②「ウスタビガは、沖縄を除く日本全土に分布しているほか、シベリア南東部にも分布」 これは広辞苑第四版が沖縄返還前の広辞苑の記述を更新し忘れていたと仮定した場合のものだ。 ③「ウスタビガは日本のほか、シベリア南東部にも分布」 これは広辞苑第四版が単に「日本全土」を「日本本土」と単に誤植していた場合のものだ。 試しにネット上でウスタビガの生息地をいろいろと検索してみた。残念ながら、沖縄にウスタビガが生息しているという記事をいまだ発見できない。広辞苑第六版ではどのように表現されているのだろう。 それにしても広辞苑第四版の「日本本土」というのは果たしてどういう意味なのだろうか。あまり本土ということばを使ったことがないので、おそらく僕が知らないだけなのかもしれないが、「全土」と「本土」をどのように使い分けているかが明確でない人は僕だけではないだろう。つまり、僕のようにつまらぬ混乱に陥る利用者がほかにもたくさんいるだろうということが心配される。 ところで、ほかの蝶や蛾の生息地はどのように広辞苑第四版で表現されているのだろう。思いつくままあたってみると以下のとおりだ。分布が明記されていないものが多い。また、「ウスタビガ」の説明にあるような「日本本土」という表現で分布を説明しているものは、現在のところまだ見つからない。「シャチホコガ」と「ルリタテハ」の説明では「日本全土」だ。この「日本全土」ということばの意味はよくわかるが、いつまでも「ウスタビガ」の説明に出てくる「日本本土」ということばの意味はよくわからない。これがどうしても同義だとは思われないのだ。 「シャチホコガ」は「日本全土・朝鮮・中国・シベリア・ヨーロッパなどに広く分布。」 「ルリタテハ」は「日本全土、朝鮮・中国から南アジアにかけて広く分布。」 「ヨナグニサン」は「南アジア・中国南部にかけ広く分布、わが国では石垣島・西表島・与那国島に局産。」 「アオスジアゲハ」は「南日本に普通。」 「オオムラサキ」は「北海道から九州まで分布し、」 「オオミズアオ」は「東アジアに広く分布。」 「カラスアゲハ」は「東アジアに広く分布。」 「シジミチョウ」は「全世界に分布。」 「ギフチョウ」は「本州特産種…ヒメギフチョウは北海道・本州に分布。」 「スズメガ」「セセリチョウ」「モンキチョウ」「モンシロチョウ」「メイガ」「ジャノメチョウ」「キアゲハ」「アゲハチョウ」「チャドクガ」「ミノガ」「イラガ」は分布に関する記述なし。 「シャクガ」「ミズジチョウ」に至っては見出し語なし。 僕の聞き覚えのない蝶・蛾の仲間については調べてないので不明だ。ちなみに、見出し語になかった「ミスジチョウ」は僕がいちばん好きな蝶だ。あわただしい「モンシロチョウ」は見ていて楽しくはあるが落ち着かない。それに対して、はばたいては滑空する「ミスジチョウ」は何か人間的でいとおしく思われるのだ。いや待て、滑空してから慌てて羽ばたくのかもしれない。飛び立つときはもちろんはばたくのだが、飛んでいるうちに、前者か後者か自分でだんだん順番がわからなくなってことは間違いないと思うのだが、どうだろう。 ★ホームページに戻る 5-11-2009 怪しい広辞苑204「第四版226ページ・渦虫類」 広辞苑第四版226ページ「渦虫類」の説明の3行目。「体長一ミリメートル~五〇センチメートル」とあるが、本当だろうか。 「プラナリア・ヒラムシ・コウガイビルなどを含む。」と説明は続く。ところが、広辞苑第四版では「プラナリア」は体長二センチメートル、「コウガイビル」(笄蛭)は五~五〇センチメートルという説明になっているにもかかわらず、「扁虫」(ひらむし)の説明には「サナダムシなど、平たい虫の称。」とだけある。体長が書いてないということは「ヒラムシ」という名前の生物のことではなく、扁虫(ひらむし)という総称を見出し語として掲げたのだろう。 しかし、総称なら体長の小さいものから、体長が大きいものまでの数字を書けばよい。「渦虫類」の説明では「体長一ミリメートル~五〇センチメートル」とずいぶん対象を広く考え、しっかりと数字を示しているのだから、「扁虫」の説明でも長さが特徴的な「サナダムシなど」を例に挙げた以上は「体長○○センチメートル~○○センチメートル。」と記すべきだった。 それよりもサナダムシは明らかに渦虫類ではないところに注目したい。水や海水の中を移動していく渦虫類と異なり、サナダムシなどは寄生虫で動物の消化器官の中をただうねうねしているのが精一杯の生き物だ。もちろん、平らな動物であるから扁形動物なのだが、扁形動物イコール渦虫類とは限らない。 結論を言えば、広辞苑第四版の「渦虫類」の説明にあった「ヒラムシ」には「サナダムシ」は含まれていないのだ。ところが、広辞苑第四版で「渦虫類」を調べた後、その説明中にあった「ヒラムシ」を調べようとすると、どうしても「扁虫」という見出し語の説明を読むはめになる。すると、早合点しがちな利用者の場合、「ヒラムシ」のことをサナダムシを含む平たい虫のことだと了解することになりかねない。つまり、生物学上のヒラムシと俗称であろう扁虫(ひらむし)との違いがわかるような見出し語の立て方と説明の仕方が広辞苑第四版ではなされていないために不都合が起こるということだ。 調べる作業を「渦虫類」から始まって「ヒラムシ」でやめた利用者、つまり「サナダムシ」まで調べなかった利用者は、この時点で「サナダムシも渦虫類だったんだ」とか「サナダムシは長いと聞いていたが、体長五〇センチメートル程度なんだ」という類の勘違いをする可能性が出てくる。これはずいぶんと不都合のある説明だということになる。見出し語の説明はそれだけをチェックすればよいのではなく、説明に使われたことばを調べたときに不都合が生じないかどうかまでチェックが必要なのだ。利用者がどのように行動するかを想定しない編集ではあまり意味がないということになってしまう。広辞苑の編集にあたる方々は、最高峰の辞書をめざしているのだから、小さなことかもしれないが、勘違いを引き起こす原因をひとつでも排除していってほしい。 次に、「渦虫類」の体長が1ミリメートル~五〇センチメートルというのも気になる。通常体長を書くときには成虫の大きさを示すから、大人になっても体長1ミリメートルの「渦虫類」がいるということになる。本当にいるのだろうか。1ミリメートルという小さな体長でしかも扁平な体形でなくてはならないということは、ずいぶんと小さな生き物だ。扁形動物だからこそ可能な大きさなのかもしれないが、いったいどんな生き物なのだろうか。たいへん興味深い。 上限の五〇センチメートルの方はどうか。例として挙げられたコウガイビル(笄蛭)はずいぶんと長いものを目撃したことがある。昔すんでいた戦前の家の風呂場の風呂桶の下にいたのだが、風呂桶の大きさから判断して確実に七〇センチメートル以上はあった。外来の大きなコウガイビルなのかもしれない。すると、五〇センチメートルというのは在来種の大きさなのだろうか。たとえ在来種であろうが外来種であろうが、上限は大きい方の長さを書いてもらった方がよいと思う。開いた頭の形は絶対にコウガイビルだと思うのだが、他の生き物だったのだろうか。 ★ホームページに戻る 3-11-2009 日々雑感174「せめてさわやかに」 輝きは光であって、そのものではない。それ自体は暗黒の中にあって孤独だ。人も輝いているのは表情や経歴であって、人そのものではない。人そのものはやはり暗闇の中にあって孤独だ。 とはいえ、孤独であることは悪いことではない。孤独でないことの方がすさまじい。そのすさまじさの中で自分を保つことは難しい。勇み足をしたり、自分の力を勘違いしたりして危ないことが多い。 だが、孤独にとらわれてしまうのはさらに怖い。孤独が普通であり、ゆえに幸福であることを忘れてしまうからだ。何とかしなくてはならないと思ってしまったり、不幸であると思いこんだりして、心が縮んでしまう。 高く見上げ、全身に風を受けて大地を踏みしめたら、地道に前進し、ときには大跳躍を果たし、わけのわからない障害物によって傷だらけになろうとも自分の手でかけがえのない宝をつかみ取る。そして、それを周りに分かち与えていく。 たとえ実現できなくても、そうした姿勢で生きることにささやかに胸を張れる人となりたい。清く正しく生きたい。できれば美しく生きたい。そうでなければ少なくともさわやかに生きていきたい。 何をたわごと絵空事と言う人もいる。だが、そうした人はどこから見ても全うに暮らしている。もしかすると、もう手に入っている人には、僕が求めているものが既に目に入らないのかもしれない。 ★ホームページに戻る 突然思い出したこと131「擬似関節」 擬似関節のことを突然思い出した。生きている間には骨が折れることもある。さて、己の骨折部位はどうなっているだろう。手中骨などは擬似関節になっているところもある。左膝蓋骨のひびは自然治癒しているが、左拳の骨々は割れたために筋が行き場所を失ってはねている。だが、生物というのは全く面白いもので時とともに不都合を感じないように自動的に都合をつけていくから不自由はない。 骨といえども、そのトラブルは他の肉体と同じで、最後は自然治癒しかない。ボルトで締めるのも正常な自然治癒を促すためだ。しかし、骨は自然治癒をあきらめると、擬似関節化するという知恵をもっている。回復が無理ならば、違う道を模索するのだ。このあきらめの判断をどのタイミングでどのようにして行うかという点に興味がある。 これは心のあきらめと同じように個人差があるに違いない。しかし、このままでは駄目だと見切りをつけるのは何のどのような状況を何がどのように根拠として取りあげた結果なのであろうか。医学では医学的に矛盾なく説明をするだろうが、例によって「なぜ」を数回発すれば、答えに窮するはずだ。そこから先が謎で面白いところであるのに、自己完了してけりをつけてしまうのは現実的だけれど、ロマンがなくなる。部外者としてはそれではつまらない。 あきらめるとか知恵とか、そのように人体を擬人化したというのは妙な言い方だが、擬人化して類推するのも新たな発見をする方法の一つにはなるかもしれない。非科学的だが、有効な直観を得て、謎の壁を突き抜けるときにはそうした発想の模索が必要であるように思う。 もちろん、擬人化することによって見えなくなる部分も多い。要は了解しているかいないかだけの問題だ。薬には薬の、道具には道具の使い道と限界とがあり、それさえ了解していれば有効に役立てられる。逆に、過信したりこだわったり用途を間違えたりすると、重傷を負ったり最悪の場合死に至る。 特定の発想が問題解決を妨げる場合もある。しかし、薬や道具と異なり、直接命が脅かされることはない。ただし、間違った道にはまりこんで無駄な時間を費やすはめになることもあり、その場合は結果としては寿命を削ることになる。ひどい場合には、一生のうち何年かは死んでいたのとほぼ同じ状態だったということになってしまう可能性すらある。 さて、擬似関節には腱がついていないから、補助的に可動部位としてはたらくだけだ。力はかかるけれども、力を入れることはできない。形として曲がった分だけかかった力を分散させるという消極的なものだ。 しかし、積極的に解釈すれば関節が一つ多くなっただけ、柔軟な動きが可能になったということになる。腕であれば鞭のような動きに一歩近づいたことになる。この形と動きの中に一時的に力をためることはできないか。いくら棒を素早く振っても音速の時速約千二百キロメートルに至るのは困難だ。しかし、鞭を振れば先の方では音速を超える。 もちろん、人間が音速を出すのは無理だが、腱つきの加工された擬似関節によって、力の有効利用は生まれるかもしれない。ゴルファーなら、ためのある鋭いスウィングが可能となり、ボクサーやピッチャーなどは、変則的な動きで相手にタイミングを取らせなかったり、鞭のようなパンチで相手に大きなダメージを与えたり、鞭のようなピッチングで球速をあげたりすることができるかもしれない。 身体活動における「ため」というものは、全身の関節を上手く使って実現する。それは最も効果的なタイミングで、最も効果的な力を必要な時間加えるためのはたらきで、失敗を防ぐと同時に成功を促すものだ。意図的に擬似関節を人工的に適切な場所につくることによってこの「ため」の事情が変わってくることは間違いない。 これは、関節が擬似関節とはいえ一つ増えたということで、新しい動きとしての「ため」がもつ「目の錯覚」が相手の心理に対して有効にはたらくように考えなければならないということだ。また、新しく蓄えられるであろう力そのものの「ため」が実際にはたらく力として発揮される方法を見つけるという課題を解決しなければならないということだ。ことによると擬似関節がマイナスにはたらき、力が発揮されていく合理性が崩れ、力の効率がひどく低下してしまうおそれがあるからだ。 やがては擬似関節に独立した腱と筋肉をつけて本当の関節と同じように動かせるようになり、これまでのスポーツや労働のマニュアルが根底から作りなおされる時代がくるかもしれない。もちろん、一般化されれば日常的な作法や習慣も変わってくるだろう。人間のロボット化とはまた別の道だ。 ★ホームページに戻る 1-11-2009 怪しい広辞苑203「第四版224ページ・碓氷峠」 広辞苑第四版224ページ「碓氷峠」の説明。標高の説明の後に突然「鳴くべ鳴かずの峠」とあってそれで終わりになってしまう。これでは説明不足ではないだろうか。あと十数文字は空いているのだから、適切なことばを添えてもう少し説明する方がよい。なぜなら「鳴くべ鳴かずの峠」は広辞苑第四版の見出し語にはなく、もう説明されることがないからだ。 「鳴くべ」は「鳴くべし」で、いくつかある助動詞「べし」の用法のうち推量の意味で「鳴くだろう」の意味になる北関東の方言の一つだ。碓氷峠は群馬県と長野県に地理的にまたがっているので、北関東の西の方までは「鳴くべ」を使い、東は信州あたりまでは「鳴かず」を使うということだろう。 つまり、碓氷峠が方言の境界線になっているという了解だ。「ほととぎす鳴くべ鳴かずの峠かな」という俳句からきたもののいいか、まずこうしたもののいいがあって、それが俳句に使われたのかと調べることも大事だろうが、別段今はどちらでも構わない。 ただ、「鳴かず」を「鳴く」に否定の助動詞「ず」がついたものと考えてしまう中高生がほとんどであるということに広辞苑編集担当者は気づいてほしい。こうした現実を知らずに、つまり利用者のことを知らずに編集するというのは間違いだからだ。編集というものは、利用者はこうだからこのように編集しようという発想が基本的になければならない。 広辞苑第四版の「碓氷峠」の説明をこのまま放置しておけば、「鳴くべ」と「鳴かず」を反対の意味にとらえてしまった利用者が、「鳴くだろうと思ったけれど鳴かない峠」などのように解釈しかねない。声のよい鳥が鳴くだろうと思って期待して峠を登っていくと、実は何も鳴いていない寂しい峠だったというがっかりな峠というイメージがわいてきてしまう。さすがにこのままではいけないだろう。 「鳴かず」は、「鳴く」に推量の助動詞「む」、助詞「と」、動詞「す」がついたものだとされる。「鳴かむとす」が「鳴かんとす」、「む」が「ん」と発音されれば、その次が濁音化しやすくなるので、「鳴かんず」、さらに「ん」が脱落して「鳴かず」と変化したのだろう。こうなると、「鳴かず」は「鳴くだろう」という解釈になり、「鳴くべ」と同じになる。 これを了解して初めて、同じ日本語でも、碓氷峠を境として「鳴くべ」と表現されたり、「鳴かず」と表現されるように、地理的な要因で方言の勢力圏が分かれるということを意味する俳句として「ほととぎす鳴くべ鳴かずの峠かな」を味わうことができるようになる。 そして、俳句や短歌を人間と自然を渾然と表現した文芸とするならば、人の営みである言語と自然の険しい峠とを対比させて、人の存在と自然の関係を改めてとらえなおさせる作品として評価できるようになる。 広辞苑第四版のように、説明の末尾へ唐突に「鳴くべ鳴かずの峠」とくっつけられても、手も足も出ないか、無視されてしまうかのどちらかだろう。学生は暇なようで暇ではないのだ。もっとも、それは分母が二十四時間ではないからだが。 ただし、「鳴くべ」と「鳴かず」が本当に同じ意味なのかというと、確かに意味的には同じだと言えるけれども、全く同じでもないように思う。 それは語気の強さの違いだ。「鳴くべ」の語気の強さは普通である方がことばに合っているように感じる。しかし、「鳴かず」の語気の強さは少し強いほうがことばに合っているように感じる。つい、「鳴く」に対しての「鳴かむ」と「鳴かず」とを比べてしまうから、それよりワンランク語気も強いのではと思ってしまうのだが、おかしいだろうか。これは長野県の人に実際に問い合わせる必要がある。 もし、「鳴かず」ということばが通常より強い語気が合うのならば、並べる相手は「鳴くべ」ではなく、「鳴くべい」と強い言い方にした方がいいかもしれない。もっとも、この文句に「ことばの強さも峠を境に異なるのだよ」という意味合いが含まれているならば、もとの通り「鳴くべ」の方がよい。そもそも、「鳴くべい」では字余りになってしまう。この俳句の場合は字余りにしてもあまりメリットはなさそうだから、やはり「鳴くべ」で落ち着かせるのがよさそうだ。 では、広辞苑第四版の説明の余白十数文字を有効利用してどのような説明を加えれば利用者のためになるか。「方言圏の境界となるため、鳴くべ鳴かずの峠と称された。」では、まだ隔靴掻痒の感がある。広辞苑第六版ではどのように改善されているのだろうか。もし、そのままであるなら、広辞苑第七版ではぜひがんばってほしい。ただし、「鳴くべ鳴かずの峠」というのは含蓄のあることばだから、単純に削除することだけは避けてもらいたい。 ★ホームページに戻る 28-10-2009 心の断片215「頼れる仲間」 「頼れる仲間」 この靴はいてどこでも行くぞ 世の中の瓦礫 死体ではない死体 生きた地雷をも乗り越えるぞ このナイフはどこまでも鋭いぞ 迫る肉 楯突く骨 不屈の心まで削ぎ落とすぞ この地図はどこまでもしゃべるぞ 岩山の目印 秘密の扉 隠匿された宝を暴き出すぞ このバイクはどこでも走るぞ ぬかるむ沼地 あばれる木々の根の上も 無理な場所なら好んで走るぞ このジャケットは死んでもあきらめないぞ 丈夫な靴を履き 大小のナイフを仕込んだら 地獄の地図をポケットに 道なき道をどうにも突っ走るぞ ★ホームページに戻る 日々雑感172「交渉の余地」 ホールをキャンセルする。キャンセル料の発生だ。全額だから頭が痛い。どうにかならぬかという訴えに交渉の余地を見せてくれる。昔から世の中というものはままならぬものだが、ただままならないだけではなさそうだ。 世の中はもともとないものだ。人が成り行きに任せてつくった世の中だ。ルールももともとないものだ。必要に応じて継ぎ足し継ぎ足しつくったものだ。すべてが間に合わせだが、その間に合わせで間に合わせなければ生きていけない。ところが、間に合わせであるところに余地がある。 山のごとく動かないものも、山のごとく動かないものとしてみんなが認めているから山のごとく動かないというだけの話だ。しかし、山を山として認めつつ都合をつけていかねば、山に押しつぶされることになる。押しつぶされるのは本望ではないから、押しつぶされないようにする。 交渉の力とは、こちらの志が相手にとって予想外の大きさをもっていることだろう。また、小さな段階を丁寧にふんできたという既成の事実の多さや成し遂げられぬ絶望感の大きさだろう。何より大義名分の柱の太さということもあるだろうが、連帯感とか同情とかいう「なさけ」の側面が大きく左右するように思う。 たとえ違法であろうとも、たとえ異常であろうとも、懸命な姿は必ず人の心を射抜く。射抜かれた心は自身のあらゆる取り決めや傾向を取り払った原初的な状態に戻って反応する。それがたまたま「現行の制度」と「現行制度によって形成された人の心の一部分」とに背かないものである場合もあれば、そうでない場合もあるだろうが、どちらにしても人は支援の手を差しのべる。そうしなくてはならないという心が発動するのだ。 「なさけ」という意味での人間性の発露だ。これに甘えると別の問題が起こることになっている。だから、「なさけ」をかけられることをよしとしない心意気というものが必要になってくる。バランスをとるためだが、このバランスのとり具合というものが面白いように思う。 ★ホームページに戻る 27-10-2009 心の断片214「めぐり」 「めぐり」 この不条理をどうしよう 心の痛みをどうしよう 割に合わぬ我慢に 意味はない 八割解決したら かわりの誰かが 味わえばよい お互い様の論理 感謝の方程式だ 巡りが滞った分の 不幸せは自己責任 我慢の範囲だ ★ホームページに戻る 26-10-2009 心の断片213「どこにいくの」 「どこにいくの」 どこへいくにも かわいい靴で すてきな速さで 歩いたね 麦わら帽子に 風受けながら 小さな花を 見つけては摘む いたずらっ子の きみがいた 日暮れても 尽きない話 窓辺の子猫 隣のラジオ 緩やかな時間 やわらかな空気 緩やかな時間 いつかリボンも どこかにしまい かかとの音がする すきのない靴 急に大人の 君がいた ★ホームページに戻る 24-10-2009 心の断片212「存在」 「存在」 空よりも星多き空 埋め尽くす埋め尽くす 山の上 里の上に 覆いかぶさる天蓋とは この永遠の光の 輝きの大回転 木々を照らし 夜の世界をつくる 幻の時間 薄紫の大気 存在とはこのことなりと 息をのむ ★ホームページに戻る 突然思い出したこと130「ホームレスハウス」 段ボールハウスで有名なのはホームレスのハウスだ。ホームレスはハウスレスではなく、あくまでもホームレスだということだ。家族で段ボールハウスに暮らしていれば、ホームレスではなく、ただのハウスレスだ。もちろん、段ボールハウスをハウスとして認めれば、ハウスレスですらない。 ホームレスとハウスレスでは、ホームレスの方が辛い。だから、ホームレス同士で疑似家族を形成しやすい。これはこれで一つの社会をつくっているので、いろいろな役割が生まれることになる。一般社会から落ちこぼれた社会と見てもよいのかもしれないが、一般社会とホームレス社会は紙一重だ。いつどんな理由で誰がホームレスになるとも限らないということを知らぬが仏の一般社会だ。 ホームレスハウスを造るには、ざら板、段ボール、ブルーシート、ガムテープ、カッターナイフ、幾種類かの番線、ロープ、角材、コンクリートブロック、ペグ、金槌、鋸などがあればかなり立派な段ボール製ホームレスハウスが造れる。 多目的に使用する敷き毛布と掛け毛布、懐中電灯、新聞紙、ビニール袋、輪ゴム、折りたたみ式の小さなテーブル、折りたたみ式の椅子、傘、雨合羽、筆記用具、書き込みができるカレンダー、釣り道具、ラジオ、書類入れ、食器、胃腸薬、風邪薬、かゆみ止め、充電器、乾電池、洗面具、手拭い、ティッシュペーパー、偽装金庫……。これらは大きめのリュック二つに入る。これに自転車が加われば、行動範囲も広がり、その分だけ裕福に暮らせる。 公園には水とトイレがあるから、公園内は無理かもしれないが、その近くに場所を取ることからはじめなくてはならない。 民家が近いときには警戒心をもたれないように、挨拶や笑顔、掃除を欠かしてはならない。こぎれいな猫や小さな犬をペットにすることによって受け入れられ方が断然違ってくる。動物好きに悪い人はいないという受け入れ方をする人もいるからだ。子供に話しかけてはならない。逆に子供に話しかけられたら、昔話やおとぎ話をしてあげるようにするが、それ以上の人間関係を作らないようにする。さりげなく花を植えるのもよい。 警察の職務質問を受けるときも曖昧なことは言わない。非社会的、反社会的な思想の持ち主であると判断されるようなことは言わない。面倒見てやらなくてはと思ってもらえるような態度や表情、視線を持たねばならない。写真を撮られるような場合も、背景を配慮することと、太陽でまぶしい表情になるような落ち度がないように気を配る。家族や出身地、ホームレスになった理由などを質問されたときには涙ぐんで言葉を詰まらせるのがよい。 地域とは不即不離、尊敬すべき一芸や生活態度を持っていることをそれとなく広める。お寺やお墓の掃除などのボランティアもよいかもしれない。こちらからは話しかけないようにし、話しかけられたら、相手がはっとするような蘊蓄のあることばを少しだけ入れて返答するのも好印象を与える。地域の役に立っているということをそれとなく示す行動をひそかに続けることも大事だ。 公衆電話が近くにあればなおよい。体調が急変した場合などは救急車を自分で呼べる。子供の登下校時には保護者に配慮して姿を見せないことも大事だ。ほこり、排気ガス、粉塵などは肺を病む原因になるから十分注意する必要がある。 ホームレスになると世間は急に冷たくなったり哀れんだりしてくる。いろいろな実験で明らかにされている。このホームレスレポートを完成させるには、一般社会の正体、善良な市民の正体、人間の正体を知るには、どうしてもホームレス体験が必要になるだろう。かつて老人メイクをした新聞記者が体験した生々しい体験を上まわるレポートができあがるに違いない。彼女は骨折、性的暴力まで受けたが、ホームレス体験では死が待っているかもしれない。心意気のあるものはセキュリティーを確立してから臨むとよい。 ★ホームページに戻る |
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