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どこにいるの? どこにいるの?

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第 1 张,共 28 张

さわやかな日々に

がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。
2009/11/28

日々雑感175「背の高さ」

  目の位置を変えるだけで世界が変わる。上から見るとすべてが見えているような感じになって、わかってしまった気持ちになるけれど、横から見ると見えないものがあるので、移動してみる角度を変えてみたり、探ってみようとしたくなる。紙に書いた迷路と実際の迷路との違いのようだ。子供は好奇心が強いけれど、背が低いから好奇心が強くなるということもありそうだ。
 結局はこういう物理的なことが基礎的な要因となって精神的なものが左右されるということなのではなかろうか。見えるものが変わると、世界が変わり、世界が変わると、感じ方や考え方が変わる。感じ方や考え方が変わると、行動が変わり、行動が変わると、性格が変わる。そして、性格が変わると、人生が変わっていく。
 例えば、第二の性格を形成していく年齢、つまり幼稚園児から中学生にかけてだが、グランドで整列をする場合や床が平面の教室の場合、大抵は背の順に並べられるが、これは前が見やすいようにという配慮だろう。最近は一クラスの生徒数が昔よりも少ないので、あまりあてはまらないかもしれないが、背の低い子供はいつも前の方、背の高い子供はいつも後ろの方ということに相場は決まっている。このように並んで指導を受けるということが、性格形成の上でどのような影響をもたらすのかということを考えてみたい。
 極端な例をみることによって、その中間層も類推することができるはずだ。最初に、中学校を卒業するまで常に先頭に並ばざるを得なかった背の低い子供のことを考えてみよう。次に中学校を卒業するまで常に最後尾につかざるを得なかった背の高い子供のことを考えてみよう。
 まず、何が目にはいるかということが問題だ。先頭の子供は教師、最後尾の子供はその教師に反応する子供たちだ。先頭の子供が一対一の関係の中で生きているのに対し、最後尾の子供はいろいろな一対一の関係を見ながら生きているということになる。つまり、先頭の子供が教師の指示に基づいて行動するのに対し、最後尾の子供はその行動を情報として得つつ、教師の指示に従うということだ。
 ここからどのような心理的傾向が生まれるかということが問題だ。
 先頭の子供は教師の指示に従って行動せざるをえない。上手く行動できない先頭の子供は、恐らくきょろきょろと周囲を見てそれに従って行動することになるだろう。上手く行動できる先頭の子供は自信を持って教師の指示に応えるだろう。
 きょろきょろ周囲を見回す必要のある背の低い子供は、その事によって教師から叱責されたり指導を受けることになる。教師の近くにいることから、自然と教師は手をかけて他と同じような鼓動ができるように支えるようになる。
 周囲の状況を把握しなくても行動できる子供はそれなりの勘の良さを持っていて教師から認められる存在となるが、全体の中では力不足となるので、自然と教師は手をかけて能力なりの行動ができるように支えるようになる。教師の心を読んで何をどうすればよいかに、早く気づいて行動を起こすことが要領のよさだと了解するようになる。
 しかし、他の子供の動きと自分の動きとを比べる機会に乏しいため、独善的になりやすい。純粋ではあるが、他の子供から見れば鬱陶しい存在なので、人柄が悪く、自分たちのためにならない行動が多ければ、いじめの対象となる子供にならないとも限らない。
 一方、最後尾の子供はさまざまな行動を情報として得るから、その根拠となる人の心理を理解しようとする。つまり、いつも全体の様子を見渡しているから、客観的 な立場に立って判断しようとする傾向が生まれる。その結果、それなりの根拠のある批判精神や行動を起こす時点で計算された行動をとるようになる可能性が高い。
 また、後ろにいるため教師の目から遠く、多少は指示通りでなくても叱責されたり指導を受ける機会がまれとなる。すると、通常以上のトレーニングが課せられるという条件のもとでは、まじめにがんばることがばからしくなり、うまく手を抜くことが要領の良さだと了解するようになる。
 自分と同様に手を抜いている子供や、上手くできなかったりする子供、叱責されたり指導されている子供、難なく事をこなしている子供を同時に見ているので、能力によっては自分と比較して絶望感を味わったり、優越感を味わったりと、複雑な心境になりやすい。そうしたストレスの中で、自分自身の考えというものを確立して揺れ動かない魂を手に入れる子供となったり、いつまでも揺れ動いたまま不安定な心のままで非社会的な行動に走ったり、反社会的な行動に走ったりする子供にならないとも限らない。
 そもそも背の高い子供は、肉体的な成長とともに精神的な成長も背の低い子供に対して進んでいると見てよいように思う。同じ学年となる三歳の子供と四歳の子供との間には最大一年間の差があり、この成長の度合いにはかなりの違いがでてくる。四五歳と四六歳との間に際だった差はないが、幼少期の一年間の差というものはかなり大きいのだ。例えば、かけっこでも通常は三歳の子供は四歳の子供には勝てないのだ。背の低い子供の多くはこのように敗北感を味わいながら幼少期を過ごす可能性が高い。
 そうしたことから、奮発する背の低い子供と、周囲の状況判断の甘い背の低い子供と、思い込みの強い背の低い子供と、あきらめがちになる背の低い子供と、何かほかのことで認められようとする背の低い子供と、助けられ上手な背の低い子供に分かれていくように思うのだ。
 また、周囲を見下す背の高い子供と、非社会的・反社会的行動に走る背の高い子供と、幅広い見方をする背の高い子供と、間違いのない行動を選択しようとする背の高い子供と、思いやりをもって面倒を見ようとする背の高い子供に分かれていくように思うのだ。
 バス旅行をするときに最後部の座席に座りたがる人々というのは、やはり同族である可能性が高いように思う。自分が安定する場所というのはそれなりの意味があるのだ。
 大人になれば、人間関係の疎密や力関係がこの背の高さに相当するものになるのだろうが、これに加えて情報量の寡多も大きな要素になってくるように思う。  
 さて、人間以外の動物にこのようなことはあるのだろうか。そういえば動物行動学者の日高先生が先日お亡くなりになった。小さな講義室で聞いた先生のわかりやすく親しみやすいお話が強く印象に残っている。あれは魚の話だったが、捕食する他の動物が下から見たときや上から見たときの保護色機能と異なり、横から見た場合、魚には奇妙な物体に見えるというくだりがあった。  
 魚の視野がどのようなものだろう。おそらく左右の体側に目がついていることから草食動物のように視野が広いと想像できる。しかし、地上の動物と違って水中という立体空間の中で生きているから、ただ広いのではなく、より立体的に広く見えるはずだ。ヒラメやカレイ、アンコウのように海底にいる魚は別として、敵や獲物は自分の周囲のどこから現れるかわからないからだ。文字どおり魚眼レンズだ。もっとも、魚眼レンズで人間が見る景色のように魚が外界を見ているとは限らないが……。
 どろんと鈍く光る奇妙な物体に見えるという言い方をされたが、そこをもう少し詳しくお聞きしたかったということと、人間というものについて質問することがたくさんあったのに、結局は聞かずじまいだったことが悔やまれる。
 深くご冥福をお祈りいたします。

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2009/11/26

心の断片220「手榴弾」

「手榴弾」

あの日
校庭に埋めた手榴弾は
どこへいったのだろう

土を蹴って追い払った猫は
どこへいったのだろう

見せ物小屋の美少女
静かに狂った青年は
どこへいったのだろう

毒々しい煙を吐いた煙突
講堂の屋根瓦

水たまりに浮かぶ虹色は
どこへいったのだろう

あの日
資材置き場の迷路で眺めた雲

みんなみんな
どこへいってしまったのだろう

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2009/11/23

恐怖シリーズ147「滅び」

  腹が減るから食い物をあさる。食い物をあさるのは時間の不経済だから、あさらなくてもよいように保存を試みる。食い物を保存しておくと味が落ちるから、味付けを試みる。味付けをすると食べ物の差別化が生じるから、交換をして好みを満足させることを試みる。好みが満足させられると偏食が起こるから、さらによりよい食べ方を試みたり、よりよい食べ物をさがしてあさったりする。
 寂しいから相手をさがす。相手をさがすのは時間の不経済だから、さがさなくてもよいようにコミュニケーションをとって関係を広げてつながりをつけておく。関係に進展がないまま時が経つと魅力が薄らいでくるから、適度にお金や物や言葉や真心を投げかける。投げかけるとさまざまな反応が返ってくるから、よりよき反応をした相手を選んで一歩踏み込んだ関係を築き上げる。その相手との人間関係にのめり込むと世界が狭くなるから、さらによりよい付き合い方を工夫したり、よりよい相手を探したりする。
 不都合があるから都合のよい理解の仕方を考える。その都度一つ一つ考えるのは時間の不経済だから、そうしなくてもよいように情報を記録として積み重ねておき、適当なときに検索できるようにしておく。情報を放置したままにしておくと死蔵することになるから、適度に検索をかけて情報をスタンバイさせる。スタンバイさせている間にさまざまな趣旨に基づいて情報を組み合わせたり、交換したりしながら、よりよい扱い方をし、都合のよい理解の仕方を試みる。その理解の仕方で新しい発想を得られるようになるとほかのものが見えなくなったり、合わないものを無視したりする不都合が生まれるから、さらによりよい理解の仕方を考えたり、よりよい情報を求めたりする。
 こうしたワンパターンを愚直に守って歩んできた者にもいつか必ずスランプは訪れる。しかし、どのようなスランプであっても、最後には世代交代という自然の摂理によって強制的に解消されていく。しかし、個人においては解消される問題であっても、ヒトの社会においてはそうはならない。ことばを得て記録手段をもったヒトの社会は長い年月生きている生命体に似ているからだ。
 ヒトの歩みを眺めてみると、青年期をこえて既に壮年期に入っている感がある。血の気の多い時代から、問題を抱えながらもやや大人になってきたヒトの姿が浮かび上がってくる。しかし、いつまでも壮年期であり続けることはできない。段階をふんで新しいステージに立たされることは間違いない。己の中で滅んでいくものに向き合っていく時期だ。もちろん、その先には種の滅びという虚無の壁がある。いつかはヒトもこの世の中で用済みになるときがくる。もちろん、人の一定数以上がこの星から出てしまえば、それは新しい世の中の出現を意味する。この星から出たヒトの場合は用済みどころかその逆になる。
 一方、この地球にへばりついて生きていくしかないヒトの場合はどのようなことがいえるだろうか。用済みになって滅んでしまう前に、新型爆弾で自らを滅ぼすことが可能だ。そうした自殺手段を持っているということは、ヒトが己の運命を自ら決定することができる自立した生命体として成長したという見方もできないわけではない。
 しかし、自滅する以外にヒトとして何をなせばよいのだろう。人としてなすことはたくさんある。ありすぎて寿命が足りないほどだ。しかし、ヒトとしては何をなせばよいのだろう。最初に述べた地道な繰り返し、繰り返すことに意味のある、自己目的化した生命活動しかないのだろうか。
 結局のところ、他の動物同様、ヒトは壁に突きあたったときに自己崩壊するしか脳のない生き物なのだろうか。もしかすると現代人の総体が紆余曲折の千鳥足であるのは、突きあたって自己崩壊することを回避するための最後の手段、牛歩戦術を本能的にとっているということなのだろうか。
 絶滅種がどのように滅んだか、絶滅危惧種がどのように滅びから逃れようと抵抗しているのか。ヒトには当てはまらないかもしれないが、参考にはなる。仮にヒトが滅んだとしても、また、ついでに地球上の全生物が滅んだとしても、それがヒトの本来の役割なのかもしれない。やはり僕たちヒト自身が、この星の生命活動に滅びもたらす仕組みの一つなのだろうか。確かに準備は整っている。究極の繁栄が達成されたとき、そのスイッチが入るというわけだ。
 しかし、それは新たな出発を意味するだけのことなのかもしれない。たとえ新たな出発が起こらなかったとしても、それは元に戻ったというだけの話で、この星から生命活動が一切なくなったとしても、よく考えてみればどうということはない。
 このように、最近は滅びというものを心の奥底で受け入れてしまっているような気がする。これはとても恐ろしいことだ。もしかしたら年をとってきたことと関係があるのかもしれない。

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変な疑問110「ヒル」

 ヒルという生き物がいる。ずいぶんと嫌われている。音を立てずに忍び寄るからだ。血を吸うからだ。そしてなかなか離れないからだ。しかし、何より見た目だ。
 音を立てないのは仕方ない。音を立てたら獲物が逃げてしまうからだ。もしギチギチと凶悪な鳴き声をあげながら襲ってこようものなら、絶滅させる勢いで人間がヒル狩りに立ち上がるに違いない。ヒルが自己防衛のためにおとなしく黙っているのだと考えるのがヒルに対する相当の対応だと思う。
 血を吸うのも仕方ない。人間はどうか。血を飲むだけにとどめて相手を生かしておくなどという慈悲など持ち合わせていないではないか。殺さないのは乳を搾取するウシやヤギぐらいだろう。さまざまな生き物の皮を剥ぎ、肉を切り裂き、骨を断ち、内臓を切り刻むではないか。塩をすり込み火で焼くに至っては悪魔の所業にも劣らない。そうした生き物が血だけ吸って生きているヒルのことをとやかく言うのはおかしいではないか。
 なかなか離れないのも仕方ない。いつ食事ができるかわからないのだ。簡単に退散する余裕などないのだ。文字どおり命がかかっている必死の生き様が人間の目にどのように映ろうと、ヒルはお感じないかもしれないが、この必死の生き様を非難する資格を誰が持っているというのか。
 見た目も仕方ない。人間に好まれようと生まれたわけではない。必要に応じて設計変更を余儀なくされ、姿が変化してきた末路だ。いや、時の流れの傑作だ。生き物はすべてそうだ。人間はこうした自然の営みまでをも否定しようというのだろうか。ハンサムなヒルや不細工なヒルというのもおかしいが、そうしたレベルではなく、ヒルであるという存在のレベルで否定されるのでは、この世に生を受けた者、親を受け継いだ生き物としては身も蓋もないではないか。
 もちろん、山でヒルに出会ったら踏みつぶし、血を吸っていたらライターで炙る。それは自然な対決行為だ。しかし、それはそれとして、生きている者同士、その意味で戦友だ。ヒルの方に心がなければ、対決しながらも人間の方で思いやりの心をもつべきだと思うのだ。思いやりで語弊があるなら、尊敬だ。同じ星で同じ時代を生きる者同士が、励まし合ったり尊敬し合ったりするということは、そんなにおかしいことではないだろう。
 かつて蛭医者という人々が蛭を使って医療行為を行っていた時代がある。血が止まらなくなるのを利用した医療行為だが、彼らはヘパリンのようなものを出して吸血の役に立てているらしい。ヘパリンといえば広辞苑第三版を思い出すが、広辞苑第三版どおりの説明ならば、ヒルは血を吸うことが不可能となり、絶滅どころか最初から存在しない生き物だったことになる。
 とにかく医療にも役立つ生き物なのだから、もう少し見直すべきだと思う。しかし、ペットにしようとは思わない。生理的にやはり気持ち悪いからだ。ペットは基本的には毛がふさふさしていなくてはならない。その毛を撫でていると血圧が下がるという話もある。逆にぬるぬるしたヒルが取り付くと血圧はあがるかもしれない。では、低血圧の治療に役立つかもしれない。まさか。
 このように、ヒルの立場に立てば人間の不当な扱いを非難することができるが、冷静に考えて人間の立場に立つと、とても戦友だなんて思えない。敵そのものだ。それは、最も残忍な捕食者である人間のプライドをこっそり傷つけていくからかもしれない。
 献血車で400ミリリットルも血を提供するのだから、血を取られること自体にそんなに抵抗があるわけではない。やはりあの見た目がいけない。もし、ティンカーベルみたいな小さな女の子がすてきな笑顔でやってきて、ウインクしながら「吸ってもいいかしら。ウフフッ。」と甘えたら、きっと「いいよ。明日も来てね。」と答えるに違いない。たとえかまれて痛くてもだ。
 ヒルの見た目をもっとよいものにできないものだろうか。毛を増やしても毛虫に近くなるだけだ。やはり足や尻尾がなくてはいけないだろう。義足や義眼は何とかならないか。かわいい声で鳴くことができればさらによい。そうだ。日本のロボット技術でヒルを救ってやろう。手のひらサイズの手乗りタイプがよいだろう。見目麗しく……。ヒル……。ヒルコ。蛭子。神話では、骨すらない体のととのわぬヒルコは葦船で流された。流されたといえば、……手塚治虫の「どろろ」の百鬼丸ではないか。百鬼丸は川に流されたのち、医師に拾われたという設定だ。義手義足を取り付けられ、義眼も入れてもらい、人の形となった。
 実際に流れてくる水死体はぶくぶくに膨れあがってただの肉の塊のようになるから、まるで相撲取りの土左衛門のようだということで、土左衛門と呼ばれることがある。また、海で上がる水死体は「えびすさま」という。漁船などはこれを引きあげると縁起がよいということになっていたらしい。魚がついばみに寄ってくるからだろうが、同業者である可能性が高いということもあるだろう。自分もそうなる可能性も高いから、手厚く葬るということがこの縁起担ぎの土台としてあったのだろう。「えびすさま」は恵比寿大黒のえびすで、釣り竿をもって鯛を抱えている。だが、流れてきた蛭子(えびす)様、つまり水死体が真の姿なのかもしれないと思うと、何か不思議な感じがする。もともと神様なのだから不思議であって当然なのだが……。
 それにしてもヒルはかつて何を食べていたのだろう。最初から血なのだろうか。血でなければ、いったいいつから血を吸うようになったのだろう。変な疑問はいつも僕の頭を悩ませてやまない。
 
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2009/11/22

心の断片219「夜の記憶」

「夜の記憶」

三日月の夜は
人歩く
後ろ姿は群青の
ふたりひとりと
月の夜

風吹く夜は
家の中
明かり火鉢に
よりそいて
両手ならべて
かざす影

雨降る夜は
窓の外
道行く人は
急ぎ足
かすかに残る
息づかい

最後の夜は
胸の内
慣れ親しんだ
天井の
ひとつひとつの
節模様

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2009/11/21

恐怖シリーズ146「骨密度」

 骨密度測定装置が来たので測ってみた。数値が悪い。今日から牛乳を飲もう。小魚もしっかり食べよう。瞬時に決意して実行しはじめたということは、数字にはそれだけの力があるということだ。 
 数字というものは恐ろしいもので、言葉よりも力をもっている。しかし、数字だけでははたらかない。言葉の効果をより強力にするという意味で力をもっていると考えた方がよい。
 言葉には言葉自体の魔力と活字の魔力があるが、数字には加えて明確さというものがある。この明確さによる説得力と取り扱いのよさが武器だ。
 しかし、その数字が算出されるに至った過程と計算の過程を、数字そのものが覆い隠してしまうことがある。数字がいつの間にか言葉を駆逐してしまうのだ。これによって数字の不当な魔力が成立する環境が整う。危うき数字の一人歩き、不可解な取り扱い、そうしたことが容易に行われてしまうのだ。
 言葉と数字のバランスを崩さぬようにしないと、どうしようもなく気持ちの悪い世界が出現することになりそうだ。既に僕は骨密度の測定値にずいぶんと踊らされている。いろいろな数値の組み合わせで人をどうにでもコントロールできそうな感じもする。もっとも、数字自体が別段悪いわけではない。濡れ衣だけは着せないようにしよう。
 特に基準となる数値は怪しい。それが基準であるという証拠が乏しかったり、逆にもっともらしかったりすると、もう危険だ。ほんの少し基準値を変えるだけで世の中のお金の流れが大きく変わってしまうからだ。この基準値という数字の裏にあるものを見抜く目が育ってしまうのは、基準値を定める側としては非常に困ることになる。これが育たないようにするもっともらしい理屈や仕組みを探していくと、いろいろと面白いものが出てくるに違いない。
 例えば、有識者会議というものにつきあたったら、いの一番に注目し、その会議がお飾りになっていないか、構成員に偏りはないか、誰が選出し、誰が辞退したかを調べるべきだろう。しかし、その時間と労力は誰も与えてくれないのだ。暗闇の中を他人の目で誘導されていることに恐怖を感じなくてもすむのは、恐らく僕たちのほとんどが同じ境遇に置かれているせいだろう。目の前にマンホールが口を開けていても、見えていても認識できない状態であることは間違いないと思うのだ。これほど恐ろしいことがあろうか。

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怪しい広辞苑206「第四版227ページ・鷽替(うそかえ)」

 広辞苑第四版227ページ「鷽替」の説明。これは大阪に対する偏見によるものであろうか。それとも単なる記述漏れであろうか。
 「太宰府・大阪・東京亀戸(かめいど)などの天満宮で、参詣人が木製の鷽を互いに交換し、神主から別のを受ける神事。」に続く説明だが、第三文目に「太宰府は正月七日夜の酉(とり)の刻に行う。」とあり、第四文目の「亀戸は正月二五日。」で終わってしまう。
 つまり、大阪の日程が省略されているのだ。これはどうしたことだろう。省略する正当な理由は見あたらない。これでは、広辞苑は大阪を軽く扱っているのではないかと勘ぐる人がでないとも限らない。広辞苑第六版ではどのように説明されているのだろうか。もし、改善されていなければ、大阪に対する広辞苑編集者の態度は決定的なものだと思われても仕方ないだろう。
 辞書は一出版社が発行するものだが、その内容の性質上、公のものだ。公のものは平等さを欠いてはならない。広辞苑がますます最高峰のものとなるためには、このことを忘れてはなるまい。
 さて、鷽替の心とは何だろう。鷽をとりかえる。嘘を誠に取り替える。自分のついてきた嘘を誠に替えよう。自分の希望が実現しますように。こうした現世利益の思想による願いだろうが、天神として恐れられた時期の菅原道真を抜きにしてはいけないだろう。菅原道真を陥れた嘘を誠に取り替え、身の潔白を証明したいという怨念のようなものは、いつの時代にもあり、次第に凝り固まって増殖し続けているのかもしれないのだ。
 まことに嘘の多い世の中だ。この星の人口が増えれば増えるほど、嘘は多くなるのは確かなことだ。政治的に抹殺され、寿命をも縮めることになった道真公の怒りがまたもや今の異常気象や伝染病を引き起こしていると感じている人々がいてもおかしくはない。そのような伝説的な解釈をして、この世を正そうとする動きが生まれるのならば、因果関係は認められないものの、それは大事な人間的な反応だ。
 この重要性を否定すれば、人々はますます不幸を呼び込んでしまうことになるだろう。その結果、強い人は苦虫を潰したような顔をして不満や皮肉を言うばかりの人となり、弱い人は正しくない世間の中で心を疲弊させてしまう。
 もちろん、鷽替神事を単純に面白がっているというレベルの人々が多いだろう。しかし、身に降りかかった火の粉を嘘にしてしまおうと真剣に参加する人もいるかもしれない。どちらにしても菅原道真の怒りに象徴されるところの「怒り」について思いをはせる人々が増えなければ、神事の本当の目的が達成されたとは言えないだろう。

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2009/11/19

心の断片218「一緒に」

「一緒に」

同じ時代に生きていることを喜ぼう
同じ星に生きていることを喜ぼう
同じ言葉を話し
同じ空気を吸い
同じ大地に立ち
同じことを学び
同じことを悩み
同じことをして
同じように死んでいくことを喜ぼう
この同族の
うねりの中に
かき抱かれ
身を委ねたことをなぜ悔いるのか
一緒に生きることの恥ずかしさ
一緒に生きることの辛さ
一緒に生きることのおもしろさ
そうした諸々の一緒を
一つ一つブレーキに仕立て上げねば
ひとり暴走してしまうではないか
この世を破壊してしまうではないか

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2009/11/17

心の断片217「わが逃走のスペクトラム」

「わが逃走のスペクトラム」

溝が深まったら
橋を渡せばよい
渡せなければ
溝のこちらを素敵にすればよい
こちらを素敵にしておいて
溝の縁に壁を拵えよう
そうしておいてさっさと別のところへ
逃走すればよい

壁にぶつかったら
迂回すればよい
迂回できなければ
穴をあければよい
あけられなければ
乗り越えればよい
それが駄目なら
壁のこちらに溝を掘ろう
そして溝の縁に壁を拵えよう
同じだけの壁を拵えたら
さっさと別のところへ
また逃走すればよい

あらゆるところに逃走し
この世を溝と壁の迷宮に
仕立て上げればよい
迷い込んだ者たちとの
無限の出会いと
無限の可能性を楽しめばよい

逃走が創造で
創造が逃走
無節操な生き方よ
だが
人生のなんたるかは
どうでもよいような
つまらぬことだった
そのつまらぬ大事さとは別個の
次の段階の真実をまだ
これっぽちも確かめられぬまま
擬似関係に埋もれた己と
その己を絡め取った世の中の
化けの皮を
一枚一枚
ピンセットでそろそろと剥がしてゆく
恐怖とやりきれなさ
この緊張感がたまらないのは
いったいどうしてだ

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2009/11/15

心の断片216「捨てたもの」

「捨てたもの」

気がつけば
この道を
かけていた
誰もいない道を
何も疑わず
かけてきた

自分の足音から
逃げるように
かけてかけて
知らないうちに
積み上げてきたものは
振り返ることもなく
ひとつひとつ
いろいろな理由をつけて
捨ててきたものに違いない

それをひとつひとつ
もとへ返してやろうというのだ
もとどおりにはならないが
それなしに
新しい道など許されるはずがない

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