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さわやかな日々に

がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。
11/5/2009

怪しい広辞苑204「第四版226ページ・渦虫類」

 広辞苑第四版226ページ「渦虫類」の説明の3行目。「体長一ミリメートル~五〇センチメートル」とあるが、本当だろうか。
 「プラナリア・ヒラムシ・コウガイビルなどを含む。」と説明は続く。ところが、広辞苑第四版では「プラナリア」は体長二センチメートル、「コウガイビル」(笄蛭)は五~五〇センチメートルという説明になっているにもかかわらず、「扁虫」(ひらむし)の説明には「サナダムシなど、平たい虫の称。」とだけある。体長が書いてないということは「ヒラムシ」という名前の生物のことではなく、扁虫(ひらむし)という総称を見出し語として掲げたのだろう。
 しかし、総称なら体長の小さいものから、体長が大きいものまでの数字を書けばよい。「渦虫類」の説明では「体長一ミリメートル~五〇センチメートル」とずいぶん対象を広く考え、しっかりと数字を示しているのだから、「扁虫」の説明でも長さが特徴的な「サナダムシなど」を例に挙げた以上は「体長○○センチメートル~○○センチメートル。」と記すべきだった。
 それよりもサナダムシは明らかに渦虫類ではないところに注目したい。水や海水の中を移動していく渦虫類と異なり、サナダムシなどは寄生虫で動物の消化器官の中をただうねうねしているのが精一杯の生き物だ。もちろん、平らな動物であるから扁形動物なのだが、扁形動物イコール渦虫類とは限らない。
 結論を言えば、広辞苑第四版の「渦虫類」の説明にあった「ヒラムシ」には「サナダムシ」は含まれていないのだ。ところが、広辞苑第四版で「渦虫類」を調べた後、その説明中にあった「ヒラムシ」を調べようとすると、どうしても「扁虫」という見出し語の説明を読むはめになる。すると、早合点しがちな利用者の場合、「ヒラムシ」のことをサナダムシを含む平たい虫のことだと了解することになりかねない。つまり、生物学上のヒラムシと俗称であろう扁虫(ひらむし)との違いがわかるような見出し語の立て方と説明の仕方が広辞苑第四版ではなされていないために不都合が起こるということだ。
 調べる作業を「渦虫類」から始まって「ヒラムシ」でやめた利用者、つまり「サナダムシ」まで調べなかった利用者は、この時点で「サナダムシも渦虫類だったんだ」とか「サナダムシは長いと聞いていたが、体長五〇センチメートル程度なんだ」という類の勘違いをする可能性が出てくる。これはずいぶんと不都合のある説明だということになる。見出し語の説明はそれだけをチェックすればよいのではなく、説明に使われたことばを調べたときに不都合が生じないかどうかまでチェックが必要なのだ。利用者がどのように行動するかを想定しない編集ではあまり意味がないということになってしまう。広辞苑の編集にあたる方々は、最高峰の辞書をめざしているのだから、小さなことかもしれないが、勘違いを引き起こす原因をひとつでも排除していってほしい。
 次に、「渦虫類」の体長が1ミリメートル~五〇センチメートルというのも気になる。通常体長を書くときには成虫の大きさを示すから、大人になっても体長1ミリメートルの「渦虫類」がいるということになる。本当にいるのだろうか。1ミリメートルという小さな体長でしかも扁平な体形でなくてはならないということは、ずいぶんと小さな生き物だ。扁形動物だからこそ可能な大きさなのかもしれないが、いったいどんな生き物なのだろうか。たいへん興味深い。
 上限の五〇センチメートルの方はどうか。例として挙げられたコウガイビル(笄蛭)はずいぶんと長いものを目撃したことがある。昔すんでいた戦前の家の風呂場の風呂桶の下にいたのだが、風呂桶の大きさから判断して確実に七〇センチメートル以上はあった。外来の大きなコウガイビルなのかもしれない。すると、五〇センチメートルというのは在来種の大きさなのだろうか。たとえ在来種であろうが外来種であろうが、上限は大きい方の長さを書いてもらった方がよいと思う。開いた頭の形は絶対にコウガイビルだと思うのだが、他の生き物だったのだろうか。

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11/3/2009

日々雑感174「せめてさわやかに」

 輝きは光であって、そのものではない。それ自体は暗黒の中にあって孤独だ。人も輝いているのは表情や経歴であって、人そのものではない。人そのものはやはり暗闇の中にあって孤独だ。
 とはいえ、孤独であることは悪いことではない。孤独でないことの方がすさまじい。そのすさまじさの中で自分を保つことは難しい。勇み足をしたり、自分の力を勘違いしたりして危ないことが多い。
 だが、孤独にとらわれてしまうのはさらに怖い。孤独が普通であり、ゆえに幸福であることを忘れてしまうからだ。何とかしなくてはならないと思ってしまったり、不幸であると思いこんだりして、心が縮んでしまう。
 高く見上げ、全身に風を受けて大地を踏みしめたら、地道に前進し、ときには大跳躍を果たし、わけのわからない障害物によって傷だらけになろうとも自分の手でかけがえのない宝をつかみ取る。そして、それを周りに分かち与えていく。
 たとえ実現できなくても、そうした姿勢で生きることにささやかに胸を張れる人となりたい。清く正しく生きたい。できれば美しく生きたい。そうでなければ少なくともさわやかに生きていきたい。
 何をたわごと絵空事と言う人もいる。だが、そうした人はどこから見ても全うに暮らしている。もしかすると、もう手に入っている人には、僕が求めているものが既に目に入らないのかもしれない。

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突然思い出したこと131「擬似関節」

 擬似関節のことを突然思い出した。生きている間には骨が折れることもある。さて、己の骨折部位はどうなっているだろう。手中骨などは擬似関節になっているところもある。左膝蓋骨のひびは自然治癒しているが、左拳の骨々は割れたために筋が行き場所を失ってはねている。だが、生物というのは全く面白いもので時とともに不都合を感じないように自動的に都合をつけていくから不自由はない。
 骨といえども、そのトラブルは他の肉体と同じで、最後は自然治癒しかない。ボルトで締めるのも正常な自然治癒を促すためだ。しかし、骨は自然治癒をあきらめると、擬似関節化するという知恵をもっている。回復が無理ならば、違う道を模索するのだ。このあきらめの判断をどのタイミングでどのようにして行うかという点に興味がある。
 これは心のあきらめと同じように個人差があるに違いない。しかし、このままでは駄目だと見切りをつけるのは何のどのような状況を何がどのように根拠として取りあげた結果なのであろうか。医学では医学的に矛盾なく説明をするだろうが、例によって「なぜ」を数回発すれば、答えに窮するはずだ。そこから先が謎で面白いところであるのに、自己完了してけりをつけてしまうのは現実的だけれど、ロマンがなくなる。部外者としてはそれではつまらない。
 あきらめるとか知恵とか、そのように人体を擬人化したというのは妙な言い方だが、擬人化して類推するのも新たな発見をする方法の一つにはなるかもしれない。非科学的だが、有効な直観を得て、謎の壁を突き抜けるときにはそうした発想の模索が必要であるように思う。
 もちろん、擬人化することによって見えなくなる部分も多い。要は了解しているかいないかだけの問題だ。薬には薬の、道具には道具の使い道と限界とがあり、それさえ了解していれば有効に役立てられる。逆に、過信したりこだわったり用途を間違えたりすると、重傷を負ったり最悪の場合死に至る。
 特定の発想が問題解決を妨げる場合もある。しかし、薬や道具と異なり、直接命が脅かされることはない。ただし、間違った道にはまりこんで無駄な時間を費やすはめになることもあり、その場合は結果としては寿命を削ることになる。ひどい場合には、一生のうち何年かは死んでいたのとほぼ同じ状態だったということになってしまう可能性すらある。
 さて、擬似関節には腱がついていないから、補助的に可動部位としてはたらくだけだ。力はかかるけれども、力を入れることはできない。形として曲がった分だけかかった力を分散させるという消極的なものだ。
 しかし、積極的に解釈すれば関節が一つ多くなっただけ、柔軟な動きが可能になったということになる。腕であれば鞭のような動きに一歩近づいたことになる。この形と動きの中に一時的に力をためることはできないか。いくら棒を素早く振っても音速の時速約千二百キロメートルに至るのは困難だ。しかし、鞭を振れば先の方では音速を超える。
 もちろん、人間が音速を出すのは無理だが、腱つきの加工された擬似関節によって、力の有効利用は生まれるかもしれない。ゴルファーなら、ためのある鋭いスウィングが可能となり、ボクサーやピッチャーなどは、変則的な動きで相手にタイミングを取らせなかったり、鞭のようなパンチで相手に大きなダメージを与えたり、鞭のようなピッチングで球速をあげたりすることができるかもしれない。
 身体活動における「ため」というものは、全身の関節を上手く使って実現する。それは最も効果的なタイミングで、最も効果的な力を必要な時間加えるためのはたらきで、失敗を防ぐと同時に成功を促すものだ。意図的に擬似関節を人工的に適切な場所につくることによってこの「ため」の事情が変わってくることは間違いない。
 これは、関節が擬似関節とはいえ一つ増えたということで、新しい動きとしての「ため」がもつ「目の錯覚」が相手の心理に対して有効にはたらくように考えなければならないということだ。また、新しく蓄えられるであろう力そのものの「ため」が実際にはたらく力として発揮される方法を見つけるという課題を解決しなければならないということだ。ことによると擬似関節がマイナスにはたらき、力が発揮されていく合理性が崩れ、力の効率がひどく低下してしまうおそれがあるからだ。
 やがては擬似関節に独立した腱と筋肉をつけて本当の関節と同じように動かせるようになり、これまでのスポーツや労働のマニュアルが根底から作りなおされる時代がくるかもしれない。もちろん、一般化されれば日常的な作法や習慣も変わってくるだろう。人間のロボット化とはまた別の道だ。

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11/1/2009

怪しい広辞苑203「第四版224ページ・碓氷峠」

 広辞苑第四版224ページ「碓氷峠」の説明。標高の説明の後に突然「鳴くべ鳴かずの峠」とあってそれで終わりになってしまう。これでは説明不足ではないだろうか。あと十数文字は空いているのだから、適切なことばを添えてもう少し説明する方がよい。なぜなら「鳴くべ鳴かずの峠」は広辞苑第四版の見出し語にはなく、もう説明されることがないからだ。
 「鳴くべ」は「鳴くべし」で、いくつかある助動詞「べし」の用法のうち推量の意味で「鳴くだろう」の意味になる北関東の方言の一つだ。碓氷峠は群馬県と長野県に地理的にまたがっているので、北関東の西の方までは「鳴くべ」を使い、東は信州あたりまでは「鳴かず」を使うということだろう。
 つまり、碓氷峠が方言の境界線になっているという了解だ。「ほととぎす鳴くべ鳴かずの峠かな」という俳句からきたもののいいか、まずこうしたもののいいがあって、それが俳句に使われたのかと調べることも大事だろうが、別段今はどちらでも構わない。 
 ただ、「鳴かず」を「鳴く」に否定の助動詞「ず」がついたものと考えてしまう中高生がほとんどであるということに広辞苑編集担当者は気づいてほしい。こうした現実を知らずに、つまり利用者のことを知らずに編集するというのは間違いだからだ。編集というものは、利用者はこうだからこのように編集しようという発想が基本的になければならない。
 広辞苑第四版の「碓氷峠」の説明をこのまま放置しておけば、「鳴くべ」と「鳴かず」を反対の意味にとらえてしまった利用者が、「鳴くだろうと思ったけれど鳴かない峠」などのように解釈しかねない。声のよい鳥が鳴くだろうと思って期待して峠を登っていくと、実は何も鳴いていない寂しい峠だったというがっかりな峠というイメージがわいてきてしまう。さすがにこのままではいけないだろう。
 「鳴かず」は、「鳴く」に推量の助動詞「む」、助詞「と」、動詞「す」がついたものだとされる。「鳴かむとす」が「鳴かんとす」、「む」が「ん」と発音されれば、その次が濁音化しやすくなるので、「鳴かんず」、さらに「ん」が脱落して「鳴かず」と変化したのだろう。こうなると、「鳴かず」は「鳴くだろう」という解釈になり、「鳴くべ」と同じになる。
 これを了解して初めて、同じ日本語でも、碓氷峠を境として「鳴くべ」と表現されたり、「鳴かず」と表現されるように、地理的な要因で方言の勢力圏が分かれるということを意味する俳句として「ほととぎす鳴くべ鳴かずの峠かな」を味わうことができるようになる。 
そして、俳句や短歌を人間と自然を渾然と表現した文芸とするならば、人の営みである言語と自然の険しい峠とを対比させて、人の存在と自然の関係を改めてとらえなおさせる作品として評価できるようになる。
 広辞苑第四版のように、説明の末尾へ唐突に「鳴くべ鳴かずの峠」とくっつけられても、手も足も出ないか、無視されてしまうかのどちらかだろう。学生は暇なようで暇ではないのだ。もっとも、それは分母が二十四時間ではないからだが。
 ただし、「鳴くべ」と「鳴かず」が本当に同じ意味なのかというと、確かに意味的には同じだと言えるけれども、全く同じでもないように思う。
 それは語気の強さの違いだ。「鳴くべ」の語気の強さは普通である方がことばに合っているように感じる。しかし、「鳴かず」の語気の強さは少し強いほうがことばに合っているように感じる。つい、「鳴く」に対しての「鳴かむ」と「鳴かず」とを比べてしまうから、それよりワンランク語気も強いのではと思ってしまうのだが、おかしいだろうか。これは長野県の人に実際に問い合わせる必要がある。
 もし、「鳴かず」ということばが通常より強い語気が合うのならば、並べる相手は「鳴くべ」ではなく、「鳴くべい」と強い言い方にした方がいいかもしれない。もっとも、この文句に「ことばの強さも峠を境に異なるのだよ」という意味合いが含まれているならば、もとの通り「鳴くべ」の方がよい。そもそも、「鳴くべい」では字余りになってしまう。この俳句の場合は字余りにしてもあまりメリットはなさそうだから、やはり「鳴くべ」で落ち着かせるのがよさそうだ。
 では、広辞苑第四版の説明の余白十数文字を有効利用してどのような説明を加えれば利用者のためになるか。「方言圏の境界となるため、鳴くべ鳴かずの峠と称された。」では、まだ隔靴掻痒の感がある。広辞苑第六版ではどのように改善されているのだろうか。もし、そのままであるなら、広辞苑第七版ではぜひがんばってほしい。ただし、「鳴くべ鳴かずの峠」というのは含蓄のあることばだから、単純に削除することだけは避けてもらいたい。

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10/28/2009

心の断片215「頼れる仲間」

「頼れる仲間」

この靴はいてどこでも行くぞ
世の中の瓦礫
死体ではない死体
生きた地雷をも乗り越えるぞ

このナイフはどこまでも鋭いぞ
迫る肉
楯突く骨
不屈の心まで削ぎ落とすぞ

この地図はどこまでもしゃべるぞ
岩山の目印
秘密の扉
隠匿された宝を暴き出すぞ

このバイクはどこでも走るぞ
ぬかるむ沼地
あばれる木々の根の上も
無理な場所なら好んで走るぞ

このジャケットは死んでもあきらめないぞ
丈夫な靴を履き
大小のナイフを仕込んだら
地獄の地図をポケットに
道なき道をどうにも突っ走るぞ

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日々雑感172「交渉の余地」

 ホールをキャンセルする。キャンセル料の発生だ。全額だから頭が痛い。どうにかならぬかという訴えに交渉の余地を見せてくれる。昔から世の中というものはままならぬものだが、ただままならないだけではなさそうだ。
 世の中はもともとないものだ。人が成り行きに任せてつくった世の中だ。ルールももともとないものだ。必要に応じて継ぎ足し継ぎ足しつくったものだ。すべてが間に合わせだが、その間に合わせで間に合わせなければ生きていけない。ところが、間に合わせであるところに余地がある。
 山のごとく動かないものも、山のごとく動かないものとしてみんなが認めているから山のごとく動かないというだけの話だ。しかし、山を山として認めつつ都合をつけていかねば、山に押しつぶされることになる。押しつぶされるのは本望ではないから、押しつぶされないようにする。
 交渉の力とは、こちらの志が相手にとって予想外の大きさをもっていることだろう。また、小さな段階を丁寧にふんできたという既成の事実の多さや成し遂げられぬ絶望感の大きさだろう。何より大義名分の柱の太さということもあるだろうが、連帯感とか同情とかいう「なさけ」の側面が大きく左右するように思う。
 たとえ違法であろうとも、たとえ異常であろうとも、懸命な姿は必ず人の心を射抜く。射抜かれた心は自身のあらゆる取り決めや傾向を取り払った原初的な状態に戻って反応する。それがたまたま「現行の制度」と「現行制度によって形成された人の心の一部分」とに背かないものである場合もあれば、そうでない場合もあるだろうが、どちらにしても人は支援の手を差しのべる。そうしなくてはならないという心が発動するのだ。
 「なさけ」という意味での人間性の発露だ。これに甘えると別の問題が起こることになっている。だから、「なさけ」をかけられることをよしとしない心意気というものが必要になってくる。バランスをとるためだが、このバランスのとり具合というものが面白いように思う。

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10/27/2009

心の断片214「めぐり」

「めぐり」

この不条理をどうしよう
心の痛みをどうしよう

割に合わぬ我慢に
意味はない
八割解決したら
かわりの誰かが
味わえばよい
お互い様の論理
感謝の方程式だ
巡りが滞った分の
不幸せは自己責任
我慢の範囲だ

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10/26/2009

心の断片213「どこにいくの」

「どこにいくの」

どこへいくにも
かわいい靴で
すてきな速さで
歩いたね

麦わら帽子に
風受けながら
小さな花を
見つけては摘む
いたずらっ子の
きみがいた

日暮れても
尽きない話
窓辺の子猫
隣のラジオ
緩やかな時間
やわらかな空気
緩やかな時間

いつかリボンも
どこかにしまい
かかとの音がする
すきのない靴
急に大人の
君がいた

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10/24/2009

心の断片212「存在」

「存在」

空よりも星多き空
埋め尽くす埋め尽くす
山の上 里の上に
覆いかぶさる天蓋とは
この永遠の光の
輝きの大回転
木々を照らし
夜の世界をつくる
幻の時間
薄紫の大気
存在とはこのことなりと
息をのむ

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突然思い出したこと130「ホームレスハウス」

 段ボールハウスで有名なのはホームレスのハウスだ。ホームレスはハウスレスではなく、あくまでもホームレスだということだ。家族で段ボールハウスに暮らしていれば、ホームレスではなく、ただのハウスレスだ。もちろん、段ボールハウスをハウスとして認めれば、ハウスレスですらない。
 ホームレスとハウスレスでは、ホームレスの方が辛い。だから、ホームレス同士で疑似家族を形成しやすい。これはこれで一つの社会をつくっているので、いろいろな役割が生まれることになる。一般社会から落ちこぼれた社会と見てもよいのかもしれないが、一般社会とホームレス社会は紙一重だ。いつどんな理由で誰がホームレスになるとも限らないということを知らぬが仏の一般社会だ。
 ホームレスハウスを造るには、ざら板、段ボール、ブルーシート、ガムテープ、カッターナイフ、幾種類かの番線、ロープ、角材、コンクリートブロック、ペグ、金槌、鋸などがあればかなり立派な段ボール製ホームレスハウスが造れる。
 多目的に使用する敷き毛布と掛け毛布、懐中電灯、新聞紙、ビニール袋、輪ゴム、折りたたみ式の小さなテーブル、折りたたみ式の椅子、傘、雨合羽、筆記用具、書き込みができるカレンダー、釣り道具、ラジオ、書類入れ、食器、胃腸薬、風邪薬、かゆみ止め、充電器、乾電池、洗面具、手拭い、ティッシュペーパー、偽装金庫……。これらは大きめのリュック二つに入る。これに自転車が加われば、行動範囲も広がり、その分だけ裕福に暮らせる。
 公園には水とトイレがあるから、公園内は無理かもしれないが、その近くに場所を取ることからはじめなくてはならない。
 民家が近いときには警戒心をもたれないように、挨拶や笑顔、掃除を欠かしてはならない。こぎれいな猫や小さな犬をペットにすることによって受け入れられ方が断然違ってくる。動物好きに悪い人はいないという受け入れ方をする人もいるからだ。子供に話しかけてはならない。逆に子供に話しかけられたら、昔話やおとぎ話をしてあげるようにするが、それ以上の人間関係を作らないようにする。さりげなく花を植えるのもよい。
 警察の職務質問を受けるときも曖昧なことは言わない。非社会的、反社会的な思想の持ち主であると判断されるようなことは言わない。面倒見てやらなくてはと思ってもらえるような態度や表情、視線を持たねばならない。写真を撮られるような場合も、背景を配慮することと、太陽でまぶしい表情になるような落ち度がないように気を配る。家族や出身地、ホームレスになった理由などを質問されたときには涙ぐんで言葉を詰まらせるのがよい。
 地域とは不即不離、尊敬すべき一芸や生活態度を持っていることをそれとなく広める。お寺やお墓の掃除などのボランティアもよいかもしれない。こちらからは話しかけないようにし、話しかけられたら、相手がはっとするような蘊蓄のあることばを少しだけ入れて返答するのも好印象を与える。地域の役に立っているということをそれとなく示す行動をひそかに続けることも大事だ。
 公衆電話が近くにあればなおよい。体調が急変した場合などは救急車を自分で呼べる。子供の登下校時には保護者に配慮して姿を見せないことも大事だ。ほこり、排気ガス、粉塵などは肺を病む原因になるから十分注意する必要がある。
 ホームレスになると世間は急に冷たくなったり哀れんだりしてくる。いろいろな実験で明らかにされている。このホームレスレポートを完成させるには、一般社会の正体、善良な市民の正体、人間の正体を知るには、どうしてもホームレス体験が必要になるだろう。かつて老人メイクをした新聞記者が体験した生々しい体験を上まわるレポートができあがるに違いない。彼女は骨折、性的暴力まで受けたが、ホームレス体験では死が待っているかもしれない。心意気のあるものはセキュリティーを確立してから臨むとよい。

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